Coolier - 新生・東方創想話

紫香花―散りに散るとて其の花盛り

2009/06/07 01:48:47
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「ねぇ、さくやー」
「どうなさいましたか? お嬢様」
「向日葵が見たい」
「向日葵を?」
「えぇ。出来ればさわりたい」
「向日葵に、ですか」
「うん。にっくき太陽を八つ裂きにしたいのよ」
「向日葵は太陽の花、といわれますからね」
「そう。だから向日葵を持って来て頂戴」
「……承知しました」


「ということがあったの」
 霧の湖の畔。紅い洋館の門前で、メイド姿の少女が門番に向けて、先日あった出来事を話していた。
 昨日まで降っていた雨はすっかり止み、青空が二人を見下ろしている。春も終わりに近づき、じきに夏が来るだろう。そうだ。時節としては向日葵の季節ではない。しかし、
「向日葵、ですか。――でも、今なら咲いてるんじゃないですか?」
 門番である美鈴は、不思議にもそう口にした。かといって、メイド姿の少女こと咲夜の方も驚いた様子はない。確かに日は暖かく、太陽は眩しい。今日のような陽気に、向日葵は映えるだろう。
「そう。と、いうことで、よろしく」
「へ?」
「いや、だから貴方が向日葵を採ってくるのよ」
「咲夜さんが行った方が早いですよ。それに、お嬢様直々のお願いなら――」
 咲夜は、少しだけ目を細めて美鈴を見つめる。
「っいえ、別に、面倒だからなんて、微塵も思っていないですよ!」
 美鈴が慌てて弁解を加える。口に出すことによって、かえって疑わしく見えることに、美鈴は気が付いていない。
「――ただ、ちょっと珍しいな、って思いまして……。だって咲夜さん、お嬢様のお願い事なら、私が手伝うって言っても聞かないじゃないですか」
「普段なら、そうしているわ。けれど、花のこととなれば貴方の方が詳しいし、それに……」
 咲夜はそこで言葉を止める。何か意味深な間の取り方だったが、美鈴はそれを気にしなかった。確かに、美鈴は紅魔館の中庭の管理をしている。紅魔館の住人の中では、植物に関する知識は最も豊富である。
「分かりました。お嬢様と咲夜さんのお願いですからね。これも、お仕事です」
「そうよ。昼寝は仕事の内に入らないんだから」
 にこやかに言う美鈴に、咲夜がすかさず釘を刺す。美鈴は苦笑しながら頬をかき、再び口を開く。
「それでは、今すぐにでも行きましょうか?」
「えぇ。準備したらすぐに行って頂戴」
「分かりました。それじゃ、門のことはお願いしますね」
「詰所から適当に引っ張ってくるわ。それと、夕方までに済ませればいいわよ」
「夕方? だいぶ時間を取るんですね」
「念の為、よ」
「そうですか。――それじゃ早速、失礼しますね」
 美鈴は悩みを吹き飛ばすかのような朗らかな笑みを咲夜に向けてから、館の方へと足早に歩いて行った。
 一人残された咲夜は、先程の言葉の続きを、頭に描く。
(花のこととなれば貴方の方が詳しいし、それに……貴方のことは、これでも信用しているんだから――)
 少し恥ずかしくもあったが、それより先に、本心が口をついた。
「だって、あのお花妖怪、物騒じゃない……」
 咲夜は太陽の畑に咲き誇る向日葵と、そこにいるであろう一人の妖怪のことを思い浮かべていた。下手に弾幕ごっこになったら、勝つにしても負けるにしても、説得するにしても買収するにしても、相当の時間が必要だろう。
 風見幽香は、そういう妖怪だ。

 ・

 宵時の博麗神社。幻想郷の東端に位置するこの神社は夜の静寂に包まれている。
 霊夢はいつものように布団を被って眠っている。眠っている、というよりは眠りに落ちるか落ちないか、というべきか。まどろみが心地良い、あるいは夢見心地というような状態。霊夢は長いことそうしているような気がしていた。
 夢と現とが交差している霊夢の頭の中にはすでに「本日の営業は終了しました」の看板が立てかけてある。――が、賽銭箱はこの限りではない――。
 しかし、霊夢はどうにも違和感を覚えていた。頭の中が、さっきからずっとこんな調子でいたからだ。中途半端に意識があったのだ。それもずっと。しかし、ぼんやりとした頭ではまともな思考は出来ない。気になるならば、頭の中の「本日の営業は終了しました」の看板を引っ込めて「営業中」の看板を出さなくてはならない。要するに、思考をまどろみという沼の中から引き上げる必要がある。――そうやって考えはじめてしまえば、それが最後。たちまちに霊夢の頭の中は覚醒していった。


「って、なんであんたがいるのよ?」
 霊夢が目を開くと、そこには見知った女性の姿があった。
 枕元に所謂お姉さん座りをして、優雅に扇子を仰いでいる姿は、月明かりに照らされてとても幻想的だった。
 その物鬱げな表情に息を飲んだ霊夢は、それ以上自ら言葉を紡ぎ出すことが出来なかった。彼女のそんな表情を、霊夢はあまり見たことが無い。霊夢は普段、不気味な笑みを絶やさず、人を小馬鹿にして、気丈な振舞いをする彼女の姿ばかりを目にしていたので、目の前の異様ともいえる光景に見入っていた。
 何拍かの間をおいて、少女八雲紫は霊夢に向きなおり、そこでようやく口を開く。
「あら? ようやく気が付いたのね」
 にこやかに話すその表情からは、先程霊夢が感じ取った愁いなどは見当たらない。
「ということは、あんたの仕業?」
 さっきのことが、それこそ夢であったかのように、目の前の紫はいつも通りだった。
「ちょっとあなたの夢と現の境界を弄ってみただけよ」
「……人の安眠を妨げてまでの差し迫った用事があるのよね? 当然」
「そんなにカッカしなくたっていいじゃない。まだ夜は始まったばかりよ」
「私の一日が終わったばかりよ」
 霊夢はうんざりといった様子で目をこする。毎度のことであったが、霊夢には紫が何を考えているか今一掴めない。といってもすでに、紫に分かりやすい言動を期待してはいなかった。呆れ、という意味ではなくて、特にそれを嫌に思ったことがなかったからだ。
 嫌なこと、として敢えて挙げるならば、縁側でお茶をしながら午睡を堪能している時に、いつの間にか茶請けをくすねていることや、玄関から家に入らないことや、こうやって人間にとって非常識な時間に訪ねてくること、くらいだろう。
 神出鬼没である。
「けれども、私の一日は始まったばかりだわ」
 そして夜行性である。
 紫が夜の博麗神社を訪ねてくること自体は、そう珍しくはない。このようにいつもと違(たが)わない問答を交わす。それでも霊夢は先程の紫の表情が頭の片隅にあり、どうにも落ち着かなかった。紫がそうしているのに倣って、霊夢も視線を夜空に向ける。檸檬のような形をした月の周りには、無数の星屑があった。雲の動きは早く、時折月の姿を隠しては、そそくさと視界の端に消えていった。
 月を見ていると先の永夜異変のことが思い出される。
 ――あの時もやはり、紫に振り回されたのだ。
 しかし、霊夢は紫がいると多少の迷惑こそすれども、退屈はしなかった。ひょっとしたら紫もまた、同じことを思っているのかもしれない。ましてや、彼女は霊夢よりもうんと長く生きているのだ。暇潰しには精通しているに違いない。
 紫の暇潰しに利用されるのは少し癪だったが、煌びやかで今にも降り注いできそうな星屑を見ていたら、そんなことはどうでもよくなった。
「……はぁ。酒は出ないわよ」
 そう言うと、霊夢は布団から抜け出し、そのまま奥の台所へと消えていった。
「残念ね。月見酒にはもってこいの日和だと思ったのだけれど」
「紫、あんたさっき一日が始まったばかりって言ってたじゃない。どこの呑兵衛よ。小鬼じゃないんだから」
 声だけが返ってきた。「それもそうね」と、微笑みながら紫が呟く。
 抜け殻になった布団に目を落とす。この前に紫が訪れた時よりも掛け布団が減っていた。少し乱雑に除けられた掛け布団が、少しだけ色っぽかった。寝室は殺風景だが、所々に乙女らしい置物や飾り物があって決して地味では無い。紫は立ち上がり、縁側へ向かう。部屋の中よりもずっと月明かりが眩しい。この様子なら明日は、今日までとは打って変わって、久しぶりに晴れるだろう。
 虫の音と、風が時々思い出したように木々を揺らす音以外は何も耳に入らない。そんな静寂が空気を包んでいる。
扇子をサッと畳む音さえも、紫にはいつもと違うように感じられた。そんな些細な違いを、ささやかに味わう――。
「ぬるいお茶を用意したわ」
 丁度そこに、霊夢の声が聞こえてきた。
 紫が振り向くと、お盆に急須と湯呑を二つ乗せ、ゆっくりとこちらへ歩み寄る霊夢がいた。
「あら、それはなにかの嫌がらせかしら?」
「こっちの台詞よ。仕方ないじゃない。ちゃんと振舞ってあげるんだから、感謝なさいよ」
「ふふふ、そんな、冗談よ。ありがとう。霊夢」
 霊夢はお盆を床に置くと、そのまま縁側に座り込んだ。
 紫もそれに合わせて霊夢の隣に座り、お盆に目を向ける。湯呑の中で揺れる水面に、月は映っていなかった。
 紫はなにも言わずに湯呑を掴むと、それを口に運ぶ。少しぬるかったが、それはいつも霊夢が振舞うお茶の味とは大差なかった。霊夢と紫は、そのまま無言で月夜を眺めている。霊夢には随分と経ったような気がしたその時、紫がようやく口を開いた。
「――月は惜しまれて入り、桜(はな)は散るをめでたしとする。……ほんとうにそうかしらね?」
「花が散ると境内の掃き掃除が大変だわ。それに、本物だろうと偽物だろうと、月だってあの時みたいにずっと沈まなかったら、困るわよ」
 空を見上げたまま、霊夢が返事をする。その表情は言葉の割には、柔らかい。
「それもそうね」
 紫はくすくすと笑みを浮かべながら言う。それっきり、また二人は無言でお茶をすすりながら、夜空を眺めていた。
 再び静寂が二人を包む。たまにはこうやってのんびりとするのも悪くない。霊夢はそう思った。
 静謐な月夜が終われば、賑やかな昼間がやってくる。
 時に月が沈むのを惜しみ、時には日が沈むのを惜しむ。
 それが世の常である。人間は概して昼間に生きるから、日が沈むのを惜しむ者は多い。そして、人間は概して夜は眠り耽ってしまうので、偶(たま)さかの月夜に深い感慨を感じ、そうして月が沈むのを惜しく思う。
 だから霊夢も今夜ばかりは、紫の奇行も悪くないなと考えることにした。程無くして静寂に耳が慣れてくると、今度は少しずつ色々な音が耳に入ってきた。夜は多くの動物や虫たちが闊歩する。幽かに聞こえる葉を揺らす音、枝を掻き分ける音は、何かがそこに生きている証拠。例え、それが目に見えなくとも。
 そんな目に見えない何かに思いを馳せていると、目に見える範囲が如何に小さかったかと理解出来る。人間にとって視覚から与えられる情報はとてつもなく多い。夜という視覚が不自由になる時だからこそ、こうやって様々な発見があるのかもしれない。
 仄暗い月の明かりは小難しいことを考えるのには丁度よかった。月夜にさらされて、酒も無しに少し酔った気がした霊夢だったが、ふと聞こえた紫の声で意識を引き戻された。
「……まさに、月の前の灯火ね。霊夢ったら月ばっかり見て。せっかく桜の花が、あと少しの命を咲き誇らせているというのに」
「私は昼間に、お腹がいっぱいになるくらい見ているからいいのよ」
「夜桜は昼の桜とは別物よ」
「そう? ……まぁでも、最近少しずつ落ちてくる花びらが増えてるな、とは思ってたわ」
「花が咲けば、いつかは散るわ」
 止まない雨が無いように、散らない花も無い。当然でありながら、霊夢にはその言葉に、もっと他の意味があるように思えた。しかし、それがなにか、霊夢には見当もつかない。
「……博識な紫さんは、今回のことってどう思う?」
「素敵な巫女さんが解決できないこと、よね」
「そういう意味じゃなくてさぁ……まぁいいわ。でも、あの 紫の桜の下で、紫の話してたことは聞いてなかったけど……今ここに来たのは、少しはそれに関係があるんでしょう?」
「それはほんの少しね」
「どちらにせよ、外の世界のことなんて分からないもの。考えても仕様がないじゃない」
 霊夢には紫の表情が少し緩んだように見えた。
 なにも、外の世界のことだけではないのに――紫はそう思う。六十年、六十年……。
「霊夢には、でしょう」
 本当に口にしたいことの代わりに、皮肉らしく言う。その様子だけは、いつもの紫だった。
「もう! 挙げ足とるわね。他の誰かのことなんて、どうでもいいのよ。どの道、信用ならない紫の言うことを確かめたりなんて、馬鹿馬鹿しいし」
「ふふ、ごめんなさい。ちょっと霊夢をからかいたくって」
 むすっとした顔を嬉しそうに見つめてくる紫を、霊夢はどうにも憎めなかった。紫はよく、子供っぽいと霊夢をからかうが、こうしてみると結局はどちらが子供っぽいのか分からなくなってしまう。霊夢がそっぽを向いてしまったのを、やれやれといった様子で眺めながら、紫が口を開いた。

「……そうね。明日は宴会よ。夜桜花見……」

「なによ。花見宴会なんてもう沢山やってるじゃない。しかも夜桜?」
 そっぽを向いたまま霊夢が返事をする。紫はこんなことを言うためにわざわざこんな時間に来たのか、寝込みを襲う算段でもあったんじゃないか、とうんざりする一方でそれを不思議にも思った。きっと紫なりに、なにかの考えがあってのことなのだろうが、それは霊夢には分からない。
「でも人が集まれば宴会になるのは此の世の常よ」
「紫一人が来ただけじゃ人が集まるとは言わないわ」
「それもそうね」
 霊夢は「はぁ」と溜息をつきながら夜空を仰ぎ見る。目が慣れて、さっきよりも気持ち明るくなった夜空には、それでも多くの星が瞬いていた。紫は依然、微笑みながら霊夢を見つめている。
「はぁ……。言い出したんだから責任持ってよね」
「あら? もう少し渋ると思っていたけれど、随分とあっさりしてるのね」
 霊夢は先程の紫の物鬱げな表情が思い出されて、紫の提案を無下に拒否することが出来なかった。
「……今日の用事はそれだけ?」
「そうね。もっと大事な用事は、こうしているだけで――」
「――なんのことだか。……ふぁぁあ、それにしても」
 霊夢は欠伸を噛み殺しながら愚痴をこぼす。いよいよ眠くなってきた。時折船を漕ぐ。確かに、いつもと少し違う紫の様子が気にかかったのだが、それよりも、
「宴会のあとは片付けが面倒よねぇ」
 なにより、それが気にかかる。
 とまぁ、そこまで口にした記憶はあるのだが、霊夢は気が付かない内に眠りに落ちていた。


「――でも、二人っきりの宴会なら、大変じゃないでしょう? ふふふ」
 私はそのつもりだから。呟いてから紫は、霊夢の寝顔を愛おしそうに見つめている。

 ・

 久方振りの麗らかな日和が、少しずつ去りゆく春を、少しずつ近づく夏の気配を教えている。穏やかな風はカラッとしていて、昨日までの雨の日々のそれとは、比べるまでもなく心地よい。雨は植物にとっての恵みである。しかし、時にそれは、花を散らせ葉を攫う。
 散る姿に、得もいえぬ潔さを孕む花々の如何に多きことか。とはいえ、散る花を見て真っ先に胸を突くのは寂寥の念。物の儚きは世の儚きか。だからこそ、雨露をしのげる術を人が得てもなお、雨は人を憂鬱にさせ、人に嫌われるのだろう。人にも自然にも潤いをもたらす賜物であり、即ち生きとし生けるものの命の源であるというのに、なんと不憫な。
 そんな由無し事を吹き飛ばすかのように、太陽は暖かな光りを降り注ぐ。まだ登り切らない太陽は、それでも惜しみのない恩恵をもたらしてくれる。手を加えずとも多くの植物は太陽の側へと向き、多くの者も陽の当たる場所に居を設ける。太陽を嫌う者は、そう多くはない。そして、妖精の多くも陽気を好む。妖精とは自然の権化である。この幻想郷では如何なる自然現象にも妖精が宿っている。気の早い開花を終えていた向日葵も、例外ではなかった。
 向日葵の精ともなれば陽気や暖気は大好物である。暖かな日の光は、今までのジメジメとした空気を忘れさせるのに丁度いい。少しずつ活発になり、これからの夏に期待を膨らませる。妖精たちはじゃれ合うように太陽の畑を飛び回っている。その間を、日傘を差した女性が通る。妖精たちはビクリとして道を空けると、その後はなにもなかったように、再び無邪気にじゃれ合っていた。


 彼女の緑色の髪は太陽の畑に溢れる向日葵の瑞々しい葉色よりも透き通っている。それでいて、周りの向日葵達の興を削ぐことのない慎ましやかさが滲み出ている様子からは、俗な人間味などは一切感じられない。琥珀色の瞳は、本物のそれよりも麗しく、曇りがなかった。
 さぁ、と吹き抜ける風は彼女のそのやや癖のある髪を、服を、日傘を揺らし畑を吹き抜けてゆく。それは、高嶺に咲く一輪の花が気持ちよさそうにそよ風を浴びている様子を彷彿させた。彼女は少し目を細めると、自分よりもすこし背の高い向日葵の花を見上げてから、歩み始める。
 もっと多くの太陽の花が住まうところへ。


「あなたたちはまだまだ元気ね。やっぱり向日葵は御天道様の花。もっともっと暖かくなって、もっともっと空が澄み渡って、そんな海原に入道雲がいるような、それがあなたたちの季節」
 風見幽香は少し季節はずれの向日葵たちに囲まれて、少し前のことを思い返していた。あの時は今以上に四季の花々がところせましとその姿を輝かせていた。しかし、今ではあの死神もある程度は仕事をこなしているようで、幻想郷はゆっくりと本来の季節を取り戻しつつある。
 最近の幻想郷の異変は、花と共に暮らす幽香にとって決して嫌な気のする出来事ではなかった。むしろ、それが終息に向かっていることに多少の惜しさを感じる。しかし、今はそれよりも、無縁塚での出来事が喉に残った小骨のように気にかかっていた。あの紫色の彼岸桜の下で交わした会話は、今でも克明に覚えている。
「本当に、巫山戯てるわ」
 掴みどころのない不安を振り払おうと愚痴をこぼす。誰にともなく、悪態が口をつく。口にしたらしたで、余計に寂しくなった。
 ――六十年、これにどれ程の意味があるのか。
 ――六十年、妖怪はどれ程に変わるのだろうか。
 それが分からない。六十年前の記憶が、鮮明では無かったから。それでも今咲いている花々は、その六十年が意味するもの。意味がないと分かっていても、頭を悩ますことを止められない。
「……散った花は、土に還って、また花を咲かせて」
 足元に目を落としてぽつり、ぽつりと彼女は呟く。紫の桜の様相が脳裏にはっきりと映し出される。
「花の終わりは花の始まり」
 長い時を生きてきた彼女にとっては、今回の出来事も取るに足らないものになるはずだった。やはり、六十年前にはこんな出来事があったはず、なのだから。色取り取り、季節感を全く無視した花々に囲まれるような日々。些細な好事をただのんびりと楽しめればいいと思っていた。
(でも、そうはいかないみたい……)
 閻魔に説教された、それだけなのに、こんなにもうじうじと考えているのは、馬鹿馬鹿しい。心ではそう思っていたのだが、頭ではそうはいかない。本来の彼女なら、逆上していたっておかしくない。けれども、納得いかないのに、納得してしまった。
 花を愛でることとは有限が紡ぎ出す永遠を嗜むことである。有限が永遠を産み出し得る。それは何も花に限ったことではない。長きを生きる妖怪にとっては人間の一生、花の盛りはあまりにも短すぎる。しかし、それは途切れることなく巡って行く。幽香はこのことを幻想郷に乱れ咲く季節の花々を見て、紫の桜を見て、閻魔に出会い、思いだした。六十年後に同じことを考えているとは限らない。それでも今は、六十年に一度繰り返される回帰の意味を、再び見つめようと思った。
 すると同時にスキマ妖怪の姿や、神社の巫女の姿が脳裏を過る。
「紫は、もし霊夢がいなくなったら、どうするのかしら……」
 ぼんやりと考える。紫のことだ。いつもの不気味な笑みを絶やさず、新たな獲物を探し出すのだろう。かけがえのない、獲物を。
 自分はどうか。それも分からなかった。幽香にとっての霊夢は、紫にとっての霊夢ほど、大きな存在ではない。だから紫と霊夢の関係は、幽香にとって少しだけ、羨ましくもあった。多くの妖怪や人間は話にならない。何か距離を感じる。それは力の問題では無しに、馬が合わない。それの僅かな例外が八雲紫や博麗霊夢であり、霧雨魔理沙であったが、彼女らはいってみれば腐れ縁だ。そこに何か、それ以上のモノは、求められない――。
 歩みを進めると、向日葵の葉や茎ばかりが目に入っていた視界がパッと開ける。それでいて、周りには先程よりも多くの向日葵が根を張っていた。太陽の畑の中程。幽香の秘密の場所。ここは太陽の光もほどよく遮られて、緩やかな傾斜が寝転がるには丁度いいように待ち構えていた。
 幽香はポケットからオレンジの水玉柄のハンカチを取り出して、それを地面に敷く。そして日傘を畳むと、そこにそっと腰を降ろす。
「ま、花が咲いているうちは、楽しむわよ」
 一際背の大きい向日葵の葉に、ひまわり妖精がちょこんと腰かけて居眠りしているのが見える。向日葵の花と同じ鮮やかな色のワンピースを身にまとい、肥沃な土を思わせる色彩のその髪はさらりと腰まで伸びている。背中に携えている羽は限りなく透明に近い緑色。ちょっとした風にもふわふわと揺れていた。そんなひまわり妖精の姿を、幽香は御伽噺に現れるどんな妖精よりも可憐だと思う。無防備に眠っているその姿は幽香の心を和ませ、胸の中の靄(もや)を少しだけ晴らしてくれた。ほっとすると、うとうとしてしまう。幽香はそのまま、ゆったりとした時間を過ごす。

 ・

「うーん、太陽の畑なんて場所があったのか。知ってるなら、やっぱり咲夜さんが行った方が良かったんじゃないかなぁ」
 咲夜に手渡された地図と睨めっこすること数十分。目的の場所へは、思いの外すぐに到着した。眩しい黄色がそこらじゅうにあって、皆が美鈴を見つめていた。
「こ、こんにちは……」
 向日葵が揃ってこちらを向いていたので、美鈴は思わず挨拶をしてしまう。眩い黄色だけでなく、辺りは賑やかな音に溢れていた。キャッキャという笑い声は妖精たちのものだろうか。美鈴は色々なことを考えながら、その景色を眺めていた。
「それにしても、しっかりと手入れされてる。勝手に持って行ったら怒られちゃいそうだ」
 美鈴は傍に咲いていた向日葵の葉にそっと触れながらそう口にする。
「すいませーん! 誰かいませんかー?」
 少しだけ声を張り上げて聞いてみる。が、やはり返事はない。しかし、誰かがこの畑の中にいることは、しっかりと分かっていた。
(ここには、なんだか凄い気が漂っている……)
 気の流れが異様だったのだ。美鈴は、やはり無断で向日葵を持っていかなくて正解だったな、と胸を撫で下ろす。どんな妖怪がいるのかは分からなかったが、それでも向日葵を手に入れなくてはいけない。少しばかり気が進まなかったが、美鈴は畑の中へと進んでみることにした。やはり黄色い花たちは美鈴を見下ろしている。美鈴はその中を、ビクビクしながら歩いて行くのだった。
 畑はそれなりの広さがあるが、美鈴は迷うこと無くこの畑の主がいるであろう場所を目指していた。次第に強まってくるその「気」がひりひりと心を刺激した。
 しばらく歩いて行くと、少し開けた場所に出た。沢山の向日葵と、沢山の向日葵の妖精がいた。けれども他の場所と大きく違ったのは、そこがとても静かだったこと。その空間に一歩踏み込んだだけなのに、シーンと静まり返っている。向日葵の妖精たちは昼寝をしているか、そうでなければ何やら読書をしていたり、とにかく妖精にしてはえらく静かであった。――そして、その妖怪の姿も、そこにあった。
「……ゴクリ」
 美鈴は思わず息を飲む。
 姿が見えずに怯えていた相手は、そこにいる。
 確かに、そこからは強烈な気が漂っていた。
 しかし美鈴の目には、その無防備にしゃがみ込んで眠っている姿が、この上なく美しく見えた。この、目を奪われる心地。美鈴はふと紅魔館の主であるレミリア・スカーレットのことを思い浮かべた。彼女との出会いも、似ていたかもしれない。けれども、レミリアは可憐ではあったが、綺麗とは少し違う。目の前の女性はもっと妖艶な雰囲気を醸し出しているし、レミリア以上の刺々しさも感じる。
 流れている気が、そう美鈴に語りかける。
 風が吹いて、その女性の緑の髪を揺らす。美鈴は一瞬ドキリとした。髪の間から見えたその容貌は、透き通る様に白かった。それがかえって向日葵を美しく見せ、そして向日葵に引き立てられているように思えた。
「――誰?」
 美鈴が呆然と眺めていることに気が付いたのか、女性はサッと顔を上げた。その手がすっ、と脇に置かれた日傘に伸びたのを見ると、やはり戦いには慣れている妖怪のようだ。
「あ、すいません。驚かせるつもりはなかったんです……」
「驚いてなんかないわよ。で、貴方は誰かしら?」
 女性は――風見幽香は――にこやかに言いながら立ち上がり、日傘を持ち直した。傍から見れば、上品な振る舞いだったかもしれない。しかし、波打つ気が、戦意をありありと伝えている。
「え、っと、私は紅美鈴といいます。湖の畔にある紅魔館の門番と、お花畑の管理をしている者です」
「紅魔館……あぁ、吸血鬼の」
 ほう、と納得の表情を浮かべたのを見ても、気は抜けない。
「はい。それで今日は、向日葵の花を分けてもらいたくて来たんです」
「向日葵の花を、ねぇ……」
 幽香は向日葵の花を眺めながら呟く。
 美鈴は口出しはせず、ただ幽香の返事を待った。美鈴には幽香の向日葵を見やるその瞳が、どこか自分のものと似ている気がした。
「どうして?」
「うーん……、お嬢様が御所望なんです」
「我儘ねぇ」
 幽香は口ではそう言いながらも、ふふっと笑みをこぼしていた。それは今までの無機質な微笑みとは少しだけ違う、暖かい笑み。我儘に振り回されている美鈴のことがおかしくなったのだろうか。美鈴は美鈴でそういうことには慣れていたから、固くなっていた表情を崩して同じ様に微笑みを返す。
「……」
 幽香は美鈴のその微笑みを黙って見つめ返していた。何か、その奥にある心を読もうとするかのように、食いつくように。
「……どうかしましたか?」
「いや、貴方、変わってるわね」
「え?」
「だって、貴方、気を読めるんじゃないの?」
 鋭い瞳は、美鈴の能力を看破していた。
「――えぇ。気を使う程度の能力、持っていますよ」
「警戒してる?」
「いえいえ。そんなことはないですよ」
「……それが変わってるのよ」
 幽香からしてみれば久しぶりに力のある妖怪に出会えたという心持であったのに、相手である美鈴はまるでそんな風には思っていないようだった。
(何よ。向日葵が欲しいなら、頼みなんかしなくても力づくで奪っていけばいいのに)
 そうすれば、こちらも手を出す理由が出来るから。幽香はそんなことを思っていた。
 確かに、美鈴は幽香の力を見切ることが出来ていた。しかし、だから戦意を持っていない、という訳ではない。それが何となく幽香には分かったから、不満だったのだ。美鈴からしてみれば、直々に頼み込んで譲ってもらう、というのが当り前のやり方なのだから仕様がない。
「――なんだか、今までに出会ったことのない妖怪、ね」
「そ、そうですか……?」
「なんだか肩すかしだったわ。てっきり、凄く強くて獰猛な妖怪かと思ったのに」
「……ははは、すいません」
 美鈴は何かピクリと動いて、何かをしようとしたが、結局はなにもなかったように謝るだけだった。
(凄く強くて獰猛、か……)
「あ、そうでした。ところで貴方の名前は?」
 美鈴はポンっと手を打ち、幽香に尋ねる。
「私は風見幽香。四季のフラワーマスター、風見幽香よ」
「おぉ……!」
「……いや、そこは笑っても良かったんだけど」
 普段なら、絶対に言わないようなことが口をついた。幽香のちょっとした冒険心に、美鈴は気が付かない。
「いえ、ということはお花については詳しいんですね? 今度、是非うちのお花畑に来て下さいよ! 私、色々工夫はしているんですけど、本以外に助言してくれるような人もいないですから……」
 それどころか、いたく感心していた。
「――なんというか……凄く純粋そうなのね。というか単純?」
「ははは、それは酷いですよ」
 そうは言いながらも、美鈴はにこにこしていた。
「ぷっ……貴方、美鈴だったかしら。良いわよ、向日葵持って行って」 
「……本当ですか。ありがとうございます。幽香さん」
「どの子でも良いわ。貴方が好きなのを、選びなさい」
 美鈴の朗らかな笑みに照らされて、幽香もだいぶ気前が良くなっていた。美鈴の笑顔は、向日葵と同じくらいに明るかった。
「いいんですか?」
「何だか、毒気も抜かれちゃったんですもの」
 幽香は、先程までの戦意なんてどこへやら、心底楽しそうに微笑んでいた。美鈴はここまで面白がられるとは思っていなかったので、少しばかり不思議だったのだが、それでも幽香の笑みを見ていたいと、そう思ってなにも言わないことにした。


「へぇ、ちゃんとした剪定鋏を使ってるのね」
「そう、ですか? これはずっと昔から使っているんです。それはもう幻想郷に来る前から……」
 美鈴は遠くに視線を流すようにしてそう言う。懐かしむだけではない、複雑な瞳だった。
「――そう。外の世界の向日葵って、どんなかしらね」
「幻想郷の向日葵と、そんなに変わらないですよ。寧ろ、ここの向日葵の方が綺麗ですから」
「それは私の向日葵ですもの、当たり前だわ。ふふっ」
「ふふ、えぇ。違いありません。……それにしても、この異変は放っておいても平気なものなんでしょうか?」
 紅魔館の花畑も、例外ではなしに花に溢れていた。美鈴ははじめこそ慌てたが、今ではそのうち元に戻るだろう、と楽観している。と言うのも、妖怪たちの多くは何もなかったかのように生活しているからだ。だから、敢えてなにか行動を起こそうとは思わない。それに何より、コスモスとパンジーが同時に咲くような、そんな不思議な光景が楽しかった。
 それでも、やはりこうして向日葵を手にしていると気になったのだ。なにか、触れてはいけなような理由があるのではないか――そんなこともちらりと考える。
「……六十年。これは六十年に一度、幻想郷に欠かせないこと、なのよ」
 幽香は美鈴の問いにゆっくりと答えた。その言葉は、重く、ゆったりと美鈴の元へ届いた。美鈴は、なにか幽香が掴み所のない思いをしていることに気が付く。その眼が、そう言っていた。美鈴は無言で頷き、知らない内に止まっていた手元を再び動かし始める。
 美鈴はいくつかの向日葵を選んで切り取ると、バッグからガーゼと水筒を取り出して、水筒の水で濡らしたガーゼを向日葵の切り取った茎に宛がう。丁寧に、控え目な六つの向日葵をまとめあげると、深い紅色の包装紙をで上手い具合に包みあげた。あっという間に、可愛らしくも鮮烈な花束が出来上がる。幽香もこの手際の良さには驚いたらしく、目を丸めて美鈴を見つめていた。
「よし、出来た。なんだかこれじゃ、お祝いに行く人みたいですね」
「ふふっ、本当ね」
 幽香は紅いドレスを見にまとった向日葵達を愛おしそうに眺める。こんな風にも、なれるんだ――大好きな向日葵に、少しだけ嫉妬した。
 そしてそれを見て、幽香は何故だか紅美鈴の存在が気になった。たった今さっき出会ったばかりの筈なのに。それでも美鈴への興味は、そんなことはお構いなしであった。
 だから、思い切って口にする。
「……ね、ねぇ、良かったら、もう少しお話ししていかない? その向日葵も、私が傍にいるうちは弱ったりしないから……」
「そう、ですね。思ったより時間はかからなかったし……。私も幽香さんともっとお話ししたいです。これでもお花のこと、知らないことが多いですから」
 てへへ、と頬をかきながら美鈴が言う。幽香はそれをホッとした面持ちで見とめると、少しの間を持ってから口を開く。
「ここ、秘密の場所なのよ。だから、滅多なことじゃ外部の人は来れないの。だから、変な奴だけど、美鈴はちょっと特別ね」
 随分と酷い言われようであったが、美鈴はなにも言わずに幽香の言葉に耳を傾けた。幽香に促されて、緩やかな傾斜に腰を掛ける。二人並んで座ると、僅かに美鈴の背が高かった。
「美鈴の所のお花畑ではどんなものを育てているの?」
「そうですねぇ、お嬢様の趣味もあって大半はバラの仲間です。派手なお花が好きみたいですから」
「へぇ。正確にはバラではないけれど、ヘレボルスみたいなお花は、ちょこんとしていて良いわね。派手じゃなく、お淑やか」
「クリスマスローズですか。ローズって名前に惹かれたのか、随分前にお嬢様に植えるよう指示されましたよ。想像と違ったのか、あまりお気に召さなかったみたいですが」
 美鈴は文句を言うではなく、楽しそうに笑う。
 紅魔館のお花畑が冬にも彩りを呈しているのはクリスマスローズのお陰だったから、美鈴はレミリアの我儘に感謝すらしていた。
「今は、お花畑はどんなになっているの?」
「それはもう、凄いことになってます。洗練された庭、理想とされるような庭の様子とは絶対に言えませんが、それでも不思議な美しさがあるんです」
「だって、一斉に咲いちゃってるんですものね。色彩音痴もいいところ」
 幽香はその様子を想像してみた。真っ赤な館に、絵具をばら撒いたような花畑。でも、その様子は意外にも愉快で、不思議だった。
「――でも、なんて言うんでしょう。その噛み合わなさが、メルヘンなのかもしれないです。ほら、不思議の国のアリスみたいな。奇妙で、歯車もネジも足りないような世界。それでもちょっと、憧れるじゃないですか」
 確かにそうかもしれないと、幽香は思う。
 あり得ない空間は毒々しくても、惹かれるものがある。そしてそれは美しい。しかし、この美鈴という女性がそんなことを言うのは少し可笑しく思えた。
「もう……笑わないで下さいよ。確かに私がそんなこと言うのは、ちょっと不釣り合いですけど」
 幽香は照れ笑いをする美鈴をちょっとだけ虐めたくなった。が、それを今は堪える。
 平凡な会話が、愛おしかったから。
「それでも、やっぱり季節には季節の花が綺麗よ」
「そうですね。すると、今はやっぱりヤマブキでしょうか」
「うーん、惜しいわね。今じゃなきゃ見られないものが、あるじゃない」
 幽香はふと脳裏をよぎった紫の桜に密かに悪態を吐く。
 それにすり替えて、あの桜並木を思い浮かべた。
「今じゃなきゃ、ですか……」
 美鈴はうんうんと唸りながら考えを巡らせていた。
「――分からないかしら?」
 勿論、正解というものはない。それは幽香の考えでしかないのだから。それでも美鈴には、幽香のその考えが気になる。 自分より長く幻想郷にいる幽香の考えは、きっと間違っていない。
 それに、それだって素敵なものなんだろうと、そう思う。
「んん、降参です」
 そして、幽香の言葉を待った。本当は自分からお願いしても良かったが、それはしなかった。なんとなく、幽香が自分に声をかけてくれると、そう思ったから。
「――それなら……ね。教えてあげる。だから、一緒に、行きましょうよ」
 幽香の言葉は、少しだけ歯切れが悪い。
「……はい!」
 幽香が立ち上がり差し伸べた手を、美鈴はしっかりと掴む。美鈴の位置からでは幽香の表情を捉えることが出来なかったが、少しだけ見えた首筋はほのかに紅に染まっていた。
 片手には日傘を、片手には美鈴の掌を。片手には幽香の掌を、片手には花束を。美鈴は幽香に手を引かれるようにして幽香の秘密の場所を後にした。

 ・

「んん~。もう朝か」
 霊夢は差し込んでくる朝日と鳥たちの鳴き声に目を覚ました。どうやら、昨晩は気が付かずに眠ってしまったようだ。布団で目を覚ましたということは、紫が運んでくれたのだろうか。――もしかして、重くはなかっただろうか――そんなことも考えて、恥ずかしくなる。紫には少し悪いことをしたと思ったが、ちゃっかりと霊夢の布団の横に、新たに布団を敷いて眠っている紫を見て、その考えも吹っ飛んでいった。
「でも、お茶の後片付けとかもしてくれたのね。意外と生活能力あるじゃない。紫」
 寝ている紫を起こさないように布団を抜け出し、いつもの紅白の巫女装束に着替える。そして台所へ向かい、朝食の準備をする。
「紫の分はどうしようかしら。今日、宴会するとか言ってたから、きっとこのままうちにいるつもりだろうし……」
 霊夢はうんうんと頷いてから、二人分の朝食を作りに取りかかった。


「ふあぁあ。……眠いわ」
 大きく欠伸をして、霊夢は手にした箒を再び動かし始める。まだ太陽は昇りきってはいないが、その熱は十分に空気に伝わっている。連日の雨は少なからず境内の桜の花びらを散らしていた。
「散るだけ散って、後片付けは私がやらなきゃいけないんだから、たまったもんじゃないわ。まぁ、だいぶ減ってるけど」
 昨日までジメっとした日和はどこへやら。境内の空気は硝子(がらす)のように透き通っていた。優しく吹き抜ける風はまた少しの花びらを宙に舞わせて通り過ぎてゆく。その花びらは少し迷うような動きを見せてから、霊夢の白い二の腕を掠めて、彼女の足元に舞い落ちた。
「紫ったら、なんだって急に押し掛けてくるのかしら。しかも夜よ、夜。人間は眠る時間よ」
 霊夢は昨晩を思い出し、紫のこと、桜の花のことを考えていた。紫の雰囲気がどことなく普段と違うよう思えたこと、少しずつ幻想郷の花々が元通りになりつつあること……。
 そして、紫の桜。
 しっかりと掃除をしてもキリがないので霊夢は手短に境内を掃き終えると、鳥居をくぐって石段の方へとやってきた。長く続くその階段の様相は、博麗神社のあまりにも冴えない神社としての機能と比べると豪華過ぎるようにも思える。賽銭箱だけでも階段の下に置いておくべきではないかと、少し真剣に考えてしまう。
ここにも境内と同様に多くの桜の花びらが散らばっていた。その多くは昨日までの雨に攫われたのだろうか。少しくすんでみすぼらしくなった花びらを眺めながら、霊夢は考える。新しく落ちてくる花びらは、まだ本来の瑞々しい桜色をしていた。
 霊夢はそれが踏まれたり、土に覆われたりして可憐さを失ってしまう前に拾ってやろうと、箒で掃いて塵取りに収める。
「もう結構な時間が経っちゃった気がするわ。のんびりしていた訳じゃないんだけど」
 霊夢は額にじわりと浮かんでくる汗を手の甲で拭いながら呟く。陽はさんさんと霊夢に降り注ぐ。いくらか時間が経ったとはいえ、部屋に帰っても紫はまだ眠っているだろうから、霊夢はそのまま石段を掃くことにした。紫の分の朝食は一応作って書き置きと共に台所へ置いておいたが、きっとそのままになっているだろう。
 ふと桜の木を見上げてみる。
 成程、紫の言うように昨日の夜縁側から眺めた桜の木とはまとう空気がまるで違うように感じる。それこそ、まるで別の植物であるかのように。それだって気の持ちよう一つで変わる些細な違いかも知れないが、夜の桜はどこか物悲しそうに世界を見下ろしていた。霊夢はそう思う。
 一方、今視界に映る桜はやはり花見花見という空気のせいか、華やかで絢爛であるとしか思えない。散る姿までもが、華々しい。昼間に散る桜、夜に散る桜。散る姿でさえも百八十度返した印象があった。
「明日ありと思う心の仇桜、かしらね。こんなにも元気そうな桜でも夜見ればあんなに寂しそうなんだもの」
 はっと気が付くと、そわそわと桜がざわめいている。それは風や小鳥の類のものではない。華やかな桜の様相はただでさえ賑やかだというのに、さらに騒がしくなる。霊夢は大体の予想が付いていた。彼女がやってくると、何故かこう花木植物が賑やかになる。
「――明日ありと思う心の仇桜、夜半に嵐の吹かぬものかは。とても人間らしい言葉よね。逆に言えば霊夢らしくはない、かも?」
 背中から思った通りの人物の声が聞こえた。
「ちょっと、失礼ね。……とは言っても私だって流石に九歳でそんなことを考えるような子供では無かったわ」
 振り返って石段の下の方を見下ろすと、そこには案の定の風見幽香、と予想外の門番がいた。
「そうでしょうね。安心したわ。霊夢の坊主姿なんて想像したくないし」
「って、珍しい組み合わせね」
 美鈴は霊夢の表情も気にせず、落ちてくる花びらを感心したように見つめていた。
「お花同盟よ」
「お花同盟? それはいいんだけどさ、何も手を繋いでくる必要は、ないわよね」
 霊夢はそれが恥ずかしいような、羨ましい様な気持ちで口を開く。しかし、その表情は努めて淡白にした。
(紫って突飛な事はするけれど、あんまりこういうところ、ないわよね……)
 その本心は、誰にも悟られないようにしまっておいた。
「――っ!」
 幽香は霊夢にいわれてはじめて思い出したという風に、スッと美鈴の手を離す。
「あれ、どうしました? 幽香さん。って……あ、ども」
 美鈴はそこでようやく霊夢の姿に気が付く。
「あんたは相変わらずのんきねぇ。花束なんて持っちゃって……式でも挙げるの?」
 うちではそういうことやってないわよ、と付け加えて言った霊夢の表情は、どこかよそよそしかった。
「何言ってるのよ……」
「今日は向日葵を分けてもらいに幽香さんのところへお邪魔したんですよ」
「向日葵を? ――あぁ、お嬢様の我儘、ってところでしょうね」
 霊夢はどうして咲夜ではなくて、美鈴がその任務を受け持ったのか少しだけ疑問に思ったが、特に詮索はしないことにする。
(……なんか、仲良さそうだし、どうせそういうことなんでしょ)
 そんな霊夢の心中も知らずに美鈴は答える。
「ははは……そんなところです」
(そんなところ、か、って、えー!?)
霊夢は心の中での呟きに返事をされたのかと驚いたが、その前に自分の口にした言葉を思い出してホッとする。
「そ、それならどうしてこんな所まで来たの? 早く帰らないと、レミリアがうるさいんじゃない?」
「あー、それはたぶん大丈夫です。どうしてだか、夕方までに済ませればいいみたいなので」
「ふーん。あのメイド長にしては緩いのね。……って、そうじゃなくて、どうして神社まできたのよ?」
「幽香さんが連れて来てくれたんですよ。ね?」
「え、えぇ……」
 美鈴から急に話を振られて幽香が僅かに戸惑う。霊夢には、らしくない、幽香が愉快だった。
 しかし、
(はぁ、デートなら余所でやってよ)
 とため息まじりに考える。
「お茶でもたかりにきた?」
「別にそういう訳じゃないですよ。幽香さんが今しかみれないものが、花があるって、それでここまで連れて来てくれたんです」
 霊夢は「……あぁ、散り桜」と納得する。ふと木々を見上げると、命を燃やすかのように花びらが舞っている。すると、舞い散る花びらが灰のようにも思えた。
(――灰、だったら枯れた後にまた咲いちゃうわね)
 花咲爺の話が本当なら、私も褒美が貰えるだろうに、と霊夢はすっからかんの賽銭箱を思い浮かべる。ともあれ、霊夢は、幽香も自分と同じようなことを考えていたのか、と少し不思議な気持ちになった。確かに、散り行く桜は今しか見れない。それももう少し。もう少しで見れなくなる。だからそれは儚くて、美しい。
「――だってこの季節、"この世"で一番綺麗な桜はここでしょう?」
 出し抜けに幽香が言う。
 幽香は霊夢をおだてるつもりはなかったし、霊夢もおだてられてのぼせた訳ではない。
けれど、心がどこか温かくなった気がして、
「……言うじゃない。立ち話もなんだから、上、行きましょ」
 二人を神社に招き入れた。

 ・

 すでに太陽は真上にあって、先程よりもさらにさんさんと陽を降り注ぐ。気が付けばもう正午にそう遠くない。しかし、昼食にはまだ早すぎる。霊夢は昨日と中身の変わらない賽銭箱を恨めしそうに見ながら、なにも言わずに境内の裏側の自宅へと歩いて行く。幽香と美鈴もそのまま霊夢の後を追う。手は繋がずに。
 暖かさはじきに暑さになり、そうして夏がやってくるだろう。日傘の下の幽香はそんな夏が待ち遠しいな、とそんなことを考えていた。太陽の畑が今以上に華やかに、賑やかになるのだろうから。でも賑やか過ぎるのも面倒なのよね、と思い起こす頃には、いつも霊夢がお茶を飲んでのんびりしている縁側が目に入ってきた。
 霊夢は二人に縁側で待つように言い、部屋の中へと入って行った。
「それにしても、綺麗ですね」
 縁側に腰掛け、桜並木を眺めながら美鈴が呟いた。呟きながら、その視線は境内にある大きな一本の桜に向かう。
「なんででしょうね。散って行くのに、綺麗なの――」
 幽香は畳んだ日傘を傍らに置きながら返事を返す。その表情は、少しだけ寂しげだった。美鈴はなにを言うでもなく、そっとそれを見つめていた。幽香の脳裏に焼きついた、紫の桜がほろほろと散る姿は確かに美しかった。しかし、それは凄く悲しかったようにも思う。目の前のほんのりとした桜色の桜の散る姿は、そこまでは哀しくない。無縁塚の紫の桜の散る様子は、むせび泣くようだった。白に、桃になりたかった紫の桜が泣いているようだった。思いだすと思考が止まらない。幽香が上の空で考えことをしているところに、霊夢が戻ってきた。
「はい、お茶。で、あんたたちはお昼食べていく?」
 霊夢が急須と湯呑の二つ乗ったお盆を置きながら言う。
「今日はやけに気前がいいのね」
「さぁ? で、どうするの」
「……それじゃ、ご相伴あずかりましょうか」
 幽香がわざとらしく言う。霊夢はやれやれといった調子でそれを眺めていた。
「美鈴はどうするの?」
 幽香は霊夢の様子など気にせず、美鈴に問いかける。少し考える素振りをしてから美鈴が口を開いた。
「そうですね……幽香さんがそう言うなら、折角なのでご一緒します。なにか手伝いましょうか?」
「ん……そうねぇ。うん、手伝ってもらうかな。あんた中華料理とか出来るんでしょ?」
「えぇ。それなりには出来ますよ」
「よし、決まり。それじゃ着いて来て」
 霊夢はそう言うと背を向けて、一足先に部屋の中へと戻って行った。
「律儀ねぇ」
「まぁ、ご馳走になるんですし、これくらいは。じゃ、幽香さん。また後で」
 飾らない笑顔でそう言われてしまうと、幽香は少しばかり罪悪感を感じてしまう。そうしているうちに、美鈴も霊夢を追って部屋の中へと消えて行った。
 幽香は思い出したように霊夢の用意してくれたお茶に口を付ける。ちょっとだけ、熱かった。
 縁側に一人、こうやって腰を落ち着けていると、少しずつ眠たくなってくる。が、その心地よい倦怠感は決して不快ではなかった。境内を通り抜けるそよ風は桜の香りをほのかにまとっているようで、今朝太陽の畑で幽香が感じたそよ風とは全く異質の雰囲気がした。陽の当たらない縁側の梁の根元では、ドクダミの真白な姿がちょこんと自己主張をしている。幽香は日陰に映える真白のその装いに、絵本の中にいるような天使を思い浮かべた。そんなことを考えていたら、聞き慣れた声がしてきた。
「ちょっと霊夢~? どこにいるのよ、もう……」
「……貴方、こんな所で迷子なの?」
「あら幽香」
「お久しぶりね、紫」
 紫は寝起きのようで少しばかり様子が緩かった。
「こんな時間にどうしたのよ」
「たまには早起きも、悪くないわよね」
「早起き、って……貴方からしたら夜昼逆転でしょうに」
 幽香の横に置いてある盆に二つの湯呑があるのを見とめて、紫は幽香の横に腰掛けた。すると幽香はふっと、自分と同じ様に日傘を手にした紫の姿に目を奪われる。この際、室内にも関わらず日傘を持っていることには突っ込まないことにした。帽子の下の黄金色のウェーブがかった髪の毛が背中まで流れている様は、夏の日差しを反射した小川の水面の流れのように、とても眩しい。そして絶やさぬ微笑みは美しいだけではなく、非常に胡散臭さかった。胡散臭くて、不気味だった。どうしてだか、そういった当然のことが、やけに新鮮だった。
 その感覚を得て、思いだした。
「――褒めたり貶めたり、大変ねぇ……」
 紫が呟く。
「何のことかしら?」
 口では適当なことを言いながらも、頭の中では思い出したピースが、パズルにしっかりとはまった。

 ――六十年、幻想郷が生まれ変わる周期。
 ――六十年、幻想郷に住まう者も、生まれ変わる。

 無邪気に咲き乱れる花には、紫の桜には、そんな六十年の意味がある。
考えがすっきりとしたと同時に、愕然とした。紫はもう片方の湯呑に――美鈴の分として用意された湯呑に――口を付けて、脈略のないことを切り出した。
「桜は散るわね」
「散らない花なんて美しさ半減よ」
「散ることは、終わりではないですものね」
 紫は視線の先を、境内の一際大きな桜に持って行った。その桜も、花びらを散らしている。紫にとって、桜の木は思い入れの深い木である。宴会のような華やかな印象を持つ反面で、桜の木は人の生死に深く関わる木だ。咲く花あれば散る花あり。散ることを知らぬ花と散る事を厭わぬ花と、果たしてどちらが美しいのだろうか。そんなことは、誰も知らない。
「――紫の桜」
 紫がポツリと言う。
「紫の桜、そうね。あれは散ることに意味がある。むせび泣くように、散ることに意味がある」
 紫もまた、紫色の桜を思い浮かべた。罪深い紫の桜は、今も散り続けているのだろう。
 ――そして幻想郷が、妖怪たちの記憶(いのち)が、生まれ変わる。重大な記憶(きおく)が消えることはない。しかし、些細な出来事――丁度今日のように霊夢の家に泊まり込んだり、幽香と他愛ない話をしたり――それが消えてゆくのが、切ない。ましてや、霊夢。彼女の記憶は、次の次の六十年後にはどうなっているだろうか。今の紫は、無性に心配でならなかった。それが意味のあることなのか? つまり霊夢との関係とは? それは紫にとっても分からない。しかし、散ることには意味がある。それは間違いない。
「何故、散るのかしら」
 幽香は、紫の心を見透かしたのか、それとも自らも同じことを考えていたのか、ポツリと呟く。紫は、少しばかり無理をして、いつもの調子で返事を返す。不気味な微笑みが、言葉を紡ぐ。
「……もう、幽香。貴方は分かっているでしょう」
 紫はそこで一度言葉を切った。
 そして、息をついてから、もう一度口を開く。
「――それは、"美しいから"」

 ・

「うーん……やっぱりこれは絶対多いわよね」
「ははは、でも三人分でしょう? 何とかなりますよ」
 霊夢はフライパンの上にこんもりと山になっている炒飯を見て呟く。食べきれないことはないだろうが、女性の三人前と考えると少し多いだろう。時折、誰かが昼食に訪れることはある。その時は特になにも考えずに食事を準備していたように思う。しかし、何故か今日は色々と考えてしまって料理の手があまり進まなかった。美鈴が手伝ってくれたおかげで、こうして形になったのだ。

 ――そういえば普段は何食べてるのかしら、紫。
 ――藍が作っているんだろうから、ちゃんとした物は食べてると思うけど。
 ――麻婆豆腐は……いや、嫌いってことは……。
 
 紆余曲折の結果、結局は美鈴の進言もあり、霊夢は普段はあまり作らない炒飯を作ることにしたのだ。とはいえ紫は朝食を食べた後、何処かへ行ってしまったようだった。布団を確認したが、誰もいない。だから紫の昼食は用意しないつもりだったのだが、何故か紫のことを考えてしまった。そのせいで、出来あがった炒飯が三人前、にしては多くなってしまったのかもしれないが――。
「なんとかなるか。とりあえず盛り付け盛り付け……」
「食器はこれでいいですね」
「ありがとう美鈴」
 美鈴に手渡された食器に、こなれた様子でその炒飯を乗せてゆく。和風の食器に盛り付けられた炒飯にはどことなく違和感があったが、静かに立ち上る湯気と形の整った米粒を見ていると、そんな些細なことなど気にもならず、作った本人である霊夢でさえ、その食欲を大いに煽られるのだった。 
 すると、ふと気になっていたことを思い出す。不躾かもしれないが、オブラートは持ち合わせていない。結局そのままで聞くことにする。
「……そういえば、あんたたち、どういう仲なの?」
「どういう仲、ってどういうことですか?」
 美鈴は三つの蓮華を手にしてほわわんと聞き返す。
「いやいや、白昼堂々手を繋ぐような仲のことよ」
 言われて思い出したのか、美鈴は少しだけ顔を赤くする。真紅の髪の毛が少しぼやけた気がした。
「あ、あぁ。あれはなんてことないですよ。勢いというか、成り行きというか……」
「そう。それにしても、意外ねぇ。幽香に、普通の妖怪の知り合いがいたことに」
「……確かに、幽香さんのあの気は、他人を寄せ付けない気ですね」
「だから、よっぽどの奴じゃないと、紫とか、そういうヘンテコな妖怪じゃないと関わり合ったりしないわよ? まぁ、あんたもヘンテコだけど」
 付け加えて霊夢は言う。
「あぁ、私は付き合い長いし、腐れ縁みたいなものだからそんなこと思わないけど」 
「なんだか気になる言い方ですね……。でも、幽香さんは悪い人じゃないですよ。もっとも、私は今日知り合ったばかりなんですが」
 美鈴は、はははと頭をかきながら言う。
「えぇ?!」
「ど、どうしました?」
 霊夢はビシッ、と美鈴の方を向き直って声を上げる。美鈴は驚いて少しばかりのけ反ってしまう。
(な、何よ……出会ってその日に、もう手繋いじゃってるの? しかも、それってデートじゃない……紫のいけず加減が、良く分かる気が……)
「さ、じゃあ持って行っちゃいますね。こっちの部屋でいいんですか?」
 美鈴は何事もなかったかのように、三つの皿を器用に扱って奥の和室へと向かって行った。
「え、えぇ……ありがとう……」
 霊夢は少し眉間を抑えるようにしてから、縁側にいるであろう幽香を呼びに行った。


「幽香ー。お昼御飯、用意出来たわよ」
 呼びかけながら縁側に向かっていく。しかし、縁側にはもう一人の背中があった。扇子をひらりひらりと揺らしている。紫だ。
「思ったより、早いのね」
 幽香が振り向きながら口を開く。それに続けて、紫も話しだす。
「――あぁ霊夢、どこにいたのよ。朝御飯、美味しかったわよ。ありがとう」
 紫はいつものようににこやかに言う。あんまり胡散臭くないな、と霊夢は思った。
「そ、それは私の台詞よ。どうしてたの? てっきり……帰っちゃったのかと」
「朝食を食べて、もう一眠りして、幽香とじゃれ合っていたのよ」
「じゃ、じゃれ合うって……?」
 霊夢は少し焦った様子で聞き返した。
「いや、ただ話をしていただけよ」
「ふふふ。ふかーい、ふかーいお話を、よね。幽香?」
 幽香は霊夢に向けて呆れた風に首をかしげて見せる。
 それを見て、安心すると同時に気が付いた。
「あ……ごめん。紫の分のお昼御飯、用意してないや」
「あら、いいのよ。さっき朝食食べたばかりですもの」
「……うん、ごめん」
 霊夢は珍しくしおらしい様子で言った。紫はすこし困ったような、楽しそうな眼で見つめている。
「――早くしないと冷めちゃいますよー」
 奥の方から美鈴の声がした。
「クスッ……先に行くわね」
 苦笑した幽香の声に促されて、三人は部屋へと戻って行った。残された縁側。梁の根元で小さなドクダミは、人影という遮りがなくなり、より一層の日差しを気持ちよさそうに浴びていた。ここ博麗神社では、ゆったりとした時間が漂っている。

 ・

「貴方は……隙間妖怪の八雲紫さんですか。もう一人前、必要でしたか?」
 美鈴は予想外の人物が部屋に入ってきたのを見届けて声を上げる。しかし、予想外、という割に美鈴は落ち着いていた。 後から来た三人が腰掛ける。
「私の分はいいわ。霊夢に食べさせてもらうから」
「な、何よ。……少しなら、まぁいいけど」
 少し多めによそってあるし、まぁ良いか、と結論付ける。
「へぇ、美味しそうじゃない」
「でしょ。美鈴のお陰で、少しばかり本格派よ」
 霊夢がちゃぶ台の向かいに座っている幽香に答える。幽香の隣には美鈴が、霊夢の隣には紫がいた。そう大きいちゃぶ台ではないので、それぞれが身を寄せ合うようになってしまう。お互いが、近い。
「いやぁ、私はあまり何もしなかったですけどね」
「でも居眠りしてるよりは、仕事をしてくれたわ」
「……それ、地味に胸に響きますね」
「それは置いておいて、それじゃ、いただきます」
 霊夢が言うのに皆も続ける。
「……うん。見た目通り、しっかり美味しいじゃない。これなら美鈴か霊夢、毎日でも御馳走になりたいわ」
 幽香が笑いながら言う。お世辞ではないのが、瞳で分かる。
「そう言ってもらえると嬉しいです。そのうち、機会があれば他の料理も御馳走しますよ――」
 美鈴と幽香がにこやかに会話しているのを聞くと、霊夢は心が少しばかりもやもやとするのが分かった。そんな霊夢を、紫はにこにこと見つめている。ジッと、霊夢の食べている様子を見つめていた。
「……ちょっと、あんまりじろじろ見ないでよ。食べにくいじゃない……」
「食事中って無防備になると、よく言うじゃない。だから、無防備な霊夢を見ていたいのよ」
 紫がふふふ、と笑いながら言う。
「そ、そんなんじゃ味も分からなくなっちゃうわよ!」
「それじゃ、私が味見してあげましょうか?」
「えっ……」
 紫が出し抜けに言った言葉が霊夢を奮い立たせる。
(今、蓮華はこれしかないわ。――じゃあ何、ひょっとしてあーん、とかしないといけない訳? そ、それに、それって、間接キス、じゃない……)
 みるみる内に顔が熱くなる。見た目では大して変わってはいなかったが、それでもそれは霊夢からしてみれば大きな変化に感じられた。
 美鈴と幽香も手を止めてそれを見ていた。唖然というか、呆然というか、何ともつかない心持である。 
「嫌? なら……私は、無理矢理でも、いいのよ?」
 紫はからかうように霊夢に顔を近づける。その瞳は心底楽しんでいた。僅かに開いた口が、次に起こそうとしている行動を予期させる。咄嗟に霊夢は口の中の物を一気に飲み込む。少し苦しかったが、口移しなんてありえないので仕方がない。
「わ、分かったわよ。ほら、一口だけよ」
 霊夢はそっぽを向いて、蓮華に炒飯を人すくいして、それを紫の目の前に差し出した。
「え~。…………もう一声」
 勿体ぶって紫が言う。
「何がよ」
「「――あーん……」」
 答えるように、美鈴と幽香がボソリと呟いた。霊夢はいよいよ見た目に表れるくらいに顔を赤くし、目をギュッと瞑る。
「も、もう! なんなのよ!! 嫌がらせ?! いいわよ。はい! 紫、あーん!!!!」
 もうやけっぱち、とばかりに霊夢は紫に蓮華を差し出した。 口調に似合わず、挙措は優しい。紫は相変わらずの微笑みを崩さずに、僅かに口を開いて蓮華をついばむ。
「……んっ……ん、んんっ……うんうん。――美味しい、霊夢の味がするわね」
「な、ななな何言ってんのよ!!」
 霊夢は依然顔を赤くしたままである。
(間接キスで、そ、そんなこと分かるの……? ちょ、ちょっと……じゃあ、ひょっとして、これで私が食べたら紫の味が……)
「霊夢の料理の味がする、って意味よ?」
 紫の一言を聞いて、霊夢はポカンとしてしまう。
「え、あぁ……なんて言うか、サイアク……。っていうか! あんたたちも見てるだけじゃなくてなんかしなさいよ! ましてや、最後に背中押したの、あんたたちじゃない!」
 取りとめのない怒りの矛先は、傍観者たちにまで及んだ。
「ちょっ! それは理不尽ですよ」
 いきなりすぎて面食らった美鈴は、思わず蓮華を落としてしまう。まさに不条理である。
「あんたなんて理不尽な扱いには慣れてるでしょ! やりなさいよ! あーんって、やりなさいよ!!」
「無茶苦茶すぎますって! 仮に、私が良くても幽香さんが」
 霊夢がニヤリ、と不気味な笑みを浮かべた。不気味、という点では紫を遥かに上回っていたかもしれない。
「美鈴……あんた今、良い、って言ったわね」
「いや、仮にですから」
 紫は愉快そうに、幽香は苦笑しながら事を見守っていた。
「――幽香、貴方、随分と他人事みたいな顔をしてるのね」
「……いや、色々と着いていけないわよ。これは」
「あらあら……」
「他人事なのは、寧ろ貴方よね」
「だって、もうしてもらっちゃたんですもの。ふふふ」
 霊夢と美鈴は未だ言い合っていた。
「――それは詭弁です!」
「何よ! 囃し立てるだけ囃し立てて――」
 紫は胡散臭そうな笑みを張り付けて言う。
「囃し立てる、っていっても、たった一言じゃない」
「確かに、あれを囃し立てる、とは言わないわね」
 幽香と紫は取り残された風に佇んでいた。幽香は自らの炒飯を食べ進み、紫は隙を縫って霊夢の炒飯を食べていた。
 霊夢の蓮華で。
「――あぁもう良いです!! そこまで言うならいくらだってやりますよ!! 私だってあーん、くらい慣れてますって。これでも沢山やってきましたから」
 いい加減討論が面倒になったのか、美鈴がついに声を上げた。
(慣れてるって……)
(案外とプレイボーイ?)
(ちょっと……いくらでも、ってなによ……)
 霊夢、紫、幽香が心の中でそれぞれ呟く。
 とんでもない発言のようにも聞こえたが、この場に居合わせた四人とも、それ程の衝撃は受けていなかった。ノリとは恐ろしい。美鈴は幽香に向きなおって蓮華に炒飯を乗せる。
「え? ちょっと待って。本気?」
「当り前じゃないですか。あそこまで虚仮にされたら黙ってはいられません。それとも、無理ですか? 幽香さん」
 美鈴の目が燃えていた。瞳には龍が宿っている、ようにすら見えた。先程と逆で、紫と霊夢が手を止めて、唖然と見守っていた。 
「え、え……え?」
 幽香は若干戸惑った様子で紫と霊夢を見渡す。
(――凄く、珍しい場面に出くわしてしまったわ)
(イメージと逆だわぁ……)
 紫も霊夢も、無言で考えを巡らせている。
「ほら、幽香さん。あぁーん」
 そんなことはお構いなしに、美鈴は幽香の顎に手を添え、僅かに顔を上げさせる。
「ちょ、ちょっと!」
 確かに、慣れた手つきである。抵抗する幽香に無理やり食べさせるのではなく相手が許容してくれるよう、上手く誘導する。美鈴の術に――要するに気を扱う延長線上の――まんまとはまったのか、或いは幽香もその気になったのか、幽香はそっと口を開いた。目をキュッと閉じて蓮華の到達を待っている。桜の花びらの様な薄紅色の唇に、真っ白の蓮華が触れる。そこには、耽美的な趣がある。
「――はい、幽香さん。あーん」
「…………ん、んぅ……ぁーん」
 そうして幽香も、口を徐々に開いて行く。
(ちょっとちょっと……幽香にあーん、って言わせたわよ……美鈴、恐ろしい子)
(――案外と、リバもありねぇ……)
 相変わらず、紫と霊夢は呆然と見つめている。幽香の控え目ながら形の良い唇が蓮華をついばみ、炒飯を咀嚼する。
「……んっ、ん……」
「どうです? 私の炒飯、美味しいですか?」
 美鈴もどこかノリノリで尋ねる。
「――えぇ。……えぇ。そりゃあ、美味しいわよ。さっきも、言ったじゃない。美味しいって、言ったじゃない……?」
「は、はいぃ……?」
 幽香は顔を伏せていたが、なにか様子が変だった。美鈴もそれを感じ取って、さっきまでのノリはどこかに消え去ってしまった。
(なんか、ヤバそうねぇ)
(こうなる気は、何となくしてたけど)
 流石の紫と霊夢も能力ではなしに、おぞましい気を感じた。
「美鈴……」
「な、何ですか……?」
 自然と後ずさりしていたようで、幽香と美鈴、二人の間には結構な距離が開いていた。
「ちょっとこっち、来なさい」
「――はぃ……」
 美鈴がしゅんとして幽香の方へと近寄る。
「――って、あ。炒飯無くなってる」
「霊夢がお取組み中だったから、私が頂いたわ。やっぱり、霊夢の味がしたわよ。うふふ」
「……はいはい。――食器下げてくるわ」
「それなら、私も着いて行くわ。あの二人、お楽しみみたいだから」
 霊夢と紫は連れ立って食卓を後にした。なにやら色々な物音が聞こえるが、きっとそれは実物が見えない分、想像が誇張表現をしているのだろう。二人はそう思うことにした。
「わっ、ご、ごめんなさい! つ、つい……」
「問答無用よ! あの二人の前で、恥かかせて……っうりうり」
「ちょ、そんな殺生な」
 声だけが聞こえる。霊夢と紫は、先程のことなどすっかりすっ飛んでしまった。なにかにギクシャクすることもない。
「……何か、凄い声がしてるわね」
「でも、美鈴は慣れてるんでしょ? ああいうの」
 二人はのんびりとそんな会話をしながら、食器を下げた後に、お茶請けと湯呑を手にして、縁側へと向かって行った。     


   ◇


「それでは、今日はありがとうございました」
「えぇ。向日葵、大切にしてあげてね」
 一悶着の後、私たちは博麗神社を後にした。紅魔館と向日葵の畑は反対方向と言っていいほど離れている。
 だから、美鈴とは神社の石段の下でお別れ。
 眺めていてつくづく思う。
 ほんっと、純粋そうな笑みをするのね。
 私や紫とは大違い。
 見ていて飽きない。それは、やっぱり、自分と違うから、なのかしら……。
「はい。お嬢様にもしっかり伝えておきます」
 美鈴の手に抱かれた真紅の花束。六輪の向日葵がこちらを見ている気がした。
 紅い服、向日葵……。
 なんだか、自分が彼女に抱かれているような錯覚がしてしまう。――はぁ、霊夢の春具合が、移ったのかしら。
 思わず日傘で顔を隠す。
「殊勝な心がけね。そうするように。――そういえば、ねぇ。さっき慣れてる、って言ってたじゃない? あれって……どういうこと?」
 このことはおそらく私だけでなく、霊夢と紫も気になっていたはずである。
「慣れてる……? あぁ、あーんのことですか。ははは、あれはお嬢様や妹様と、時々お食事をご一緒するんです。その時に、して差し上げるんですよ。お二人とも喜んで下さいますよ」
 相変わらず、にこにこ。
 吸血鬼って、そんな種族なのかしら?
 なんだか弱そうね。
 倒して、あの館貰っちゃおうかしら。
 というか、あそこって、あの場所って……。
 まぁ、考えても仕方ないわね。
「そう――でも、誰でも、喜ぶって訳じゃないのは、覚えておくことね」
「はい……」
 こうしてしおれた顔も、板についてる。
 これは間違いなく褒め言葉じゃないけれど。
 まぁやっぱり、美鈴、貴方には朗らかな笑みが似合うわよ?
「ふふふ、そんな沈んだ顔しないでよ。今度、私が貴方のところへ遊びに行くわ」
 そ、今日のお礼に、ね。
「はい! 是非来て下さい。楽しみに待っていますね」
「その頃には……花の様子もいつも通りで、桜も散り終えているんでしょうね」
「でも、今日のことは忘れそうにありませんから」
 ……どうかしら?
 六十年後、さらに六十年後。
 本当に覚えているのかしら。
 それよりも……。
「いや、忘れていていいわよ」
「あぅ……ごめんなさい」
「――でも」
 でも、ね。
「……なんですか?」
「なんでもないわ。それじゃ、またね」
 あんまり引きずっていてもあれだから、先に歩き始めてしまおう。
「はい。絶対に、来て下さいね!」
 ちらりと振り向くと、美鈴はブンブンと腕を振っていた。
 こら! 花束を振るな!
 でも、そんな姿が、かわいかった。


 気が付いたら、花の異変のことも、紫の桜のことも、すっかり頭の片隅。
 今日は久しぶりに賑やかに過ごしたわ。
 今朝、あんなに悩んでいたのが馬鹿みたい。
 結局は、時間が解決してくれるのかしら。
 しばらく歩いてから、振り返る。当然、美鈴の姿はない。
 あたりには、コスモスとパンジーが咲いている。
「色彩音痴、ねぇ」
 花は、私の言葉に首を傾げるように揺らめいた。
 ――メルヘンなのかもしれないです。ほら、不思議の国のアリスみたいな。
 全く、面白いこと、言うわよね。
 やっぱり変わった、ヘンテコな妖怪よ。貴方は。
「だから、私を見てくれる」
 ――誰でも、喜ぶって訳じゃないのは、覚えておくことね。
 けど……まぁ、私は嫌だなんて言っていないわよ?
 紫と霊夢に見られたのが、問題なんだから。


 今日のことは、忘れてしまうのだろうか。
 でしょうね。今から六十年前のことなんて、殆ど記憶にないわ。……それならまた作ればいいのよ。
 想い出を。
「――でも、二人きりでなら、別にいいわよ?」
 さっき言いかけた言葉を完成させてみる。
 媚びすぎだ。
 絶対口に出来ないわね。
 あの判断は正解だった。冷や汗ものよ……。
 でも、そう。私も貴方も、六十年後に記憶が薄れたのなら、また積み重ねればいいじゃない。


 散りに散るとて其の花盛り――


 花は散るから美しいのでしょう。だから、散って、散って行ってもそれは花の盛り。だから花が、紫の桜が散ることだって、恐るるに足らない。また新しい、素晴らしい記憶が積み重なるかもしれないもの。
 私と貴方、妖怪なんだから。
 私達の悠久の時間は、始まったばかりよね。


   ◇


「ただいま戻りました」
 まだ日は沈みそうにない。
 予定よりもだいぶ早い帰宅に咲夜さんはちょっとびっくりしていた。
「あら、お帰り、美鈴。随分と早いじゃない」
「えぇ。すんなりと渡してもらえました」
 花束を咲夜さんに手渡す。
 花束を目にして、咲夜さんの表情が少しだけ柔らかくなった気がする。
「綺麗ね。六輪なのは、何故?」
「なんとなく、ですよ。……でも、お嬢様、妹様、咲夜さん、パチュリー様、こあちゃん、私、で六輪かな、なんて」
 私は門番だから、年中太陽の下にいる。
 だけど、館の中の人たちはそうじゃない。
 だから、太陽のお裾分けをしたかった。のかな? 自分でもそこまでは考えていなかった。
「……ふふ。案外、気が利くじゃない」
「そんなこと無いですよ。よければ、私もお嬢様の所に行ってもいいですか?」
「うーん……まぁ、採ってきてくれた張本人ですものね。いいわよ。一緒に行きましょう」
 咲夜さんについて階段を登る。
 お嬢様の寝室の前に来て、ちょっと気になった。
(お嬢様、八つ裂きにしたい、って言ってたんだっけ……)
 どうにか説得しなきゃなぁ……。これは幽香さんと約束してある。約束の抱え落ち、なんて、ちょっと嫌だ……。
「失礼します、お嬢様。向日葵をご用意しました」
 考えてるうちに咲夜さんが部屋の中へと入って行った。
「失礼します」
「ホントに?! ――へぇ……」
 お嬢様、咲夜さんの手にかじり着くようにして向日葵を見つめています。普段なら寝ているような時間なのに……。待っていたのかな? お嬢様は噛み付きそうなくらい顔を近づけて向日葵を観察している。
「お、」
 お嬢様のにらめっこを見ていると、不安になって、思わず呼びかけようとしてしまう。 
「咲夜、これに挿して」
 それに被さる様にして、お嬢様が口を開いた。
 その手には、花瓶がある。
「あら? てっきり、八つ裂きになさるのかと」
「それは言葉のあやよ、あや。――六輪……差し詰め、人数分ってところかしら」
 お嬢様はクックックと楽しそうに笑っている。
 咲夜さんが花瓶に水を注ぎ、向日葵を二輪挿しにする。
 おそらく、お嬢様と妹様の向日葵だろう。
 なんだか、最初からこうなる"運命"だったのかもしれない。お嬢様は、やっぱり知っていたのだろうか。
 たった二輪だったけれど、太陽の畑にいた時以上に、その向日葵は眩しく見えた。
「ありがとう、美鈴」
 付け加えてお礼を頂いた。ちょっとばかり拍子抜けしてしまう。でも、良かった。
「いえ。お嬢様がお喜びなら、何よりです」
「私ね、考えたのよ。こうやって向日葵と触れ合っていれば、太陽を完全克服できるんじゃないかと。向日葵に慣れちゃえば、日傘無しで出歩けそうじゃない?」
 お嬢様はにこにこと、手渡された花瓶の向日葵を眺めている。理由が可愛らしくて――もちろん、秘密です――ちょっと微笑ましい。やっぱりお嬢様はお嬢様だった。
「美鈴」
「はい」
 咲夜さんに花束を渡される。
「私はもう少し、お嬢様の傍にいるから、パチュリー様と小悪魔には貴方が渡しにいって頂戴」
「分かりました。それでは、失礼します」
 部屋を後にする。
 再び花束を眺める。
 紅い包装紙、緑の葉っぱに黄色いお花……。
「……ふふ」
 なんだか、幽香さんを思い浮かべてしまう。
 でも、抱きかかえるなんて、ありえないよなぁ。
 ちょっと無謀。今は、かな?
 次に会える時には、桜は散ってしまっているんだろうか。
 ちょっと寂しいけど……。


 散りに散るとて其の花盛り
 後に太陽、緑の木々――


 散った後に残ったのが、太陽と花のない木だけだとしても。
 そこにも生命の息吹がある。
 太陽と、畑の緑の下で出会った貴方。
 それは偶然だったけれど、それはつまり、これからの必然を約束してくれた。
 次に会うのはきっと、本物の太陽が眩しい季節で、花のない木の下だけれど、貴方となら、きっと楽しめる。


   ◇


 陽が沈んで行く。
 のんびりと縁側で過ごす一日も、悪くないわね。
 さてさて、あとは予定通り、宴会よ。
 二人っきりの、ね。ふふふ。
「ちょっと紫、あんた一人ではじめないでよ」
「だって霊夢が遅いんですもの」
 お猪口を片手に、霊夢を迎える。
 桜の花びらは、散り止まない。
「はい、おつまみ」
「豪華ね」
「……二人きりだから」
 二人きりだから、ね。
 嬉しくなって、からかってみる。
「なにか言ったかしら? 霊夢」 
「知らないわよ」
 霊夢も慣れてしまった。
 何か新しいからかい方を考えなくてはねぇ。
「それにしても、綺麗よね」
「どうして、花が散るのが綺麗なのかしら……」
 どうして、どうして?
 どうしてかしら。
 そんな話、お昼にしたわね。
 これくらいのこと、覚えていないんだから、六十年前の記憶なんてあるわけないのよね。
「――生きると言うことが、美しいのと一緒よ」
「……意味深ね。でも何だか分かる。……けど……」
 いつになく神妙な面持ち。
 ふと思い浮かべるのは紫色の桜。
 きっとその話でしょう?
「けど?」
「けど……紫色の桜が散るところ。あれを見ていたら、なんだろう。凄く悲しかった」
 むせび泣くように、花びらを散らす。
 そうね。あれは美しく、悲しい。それは、生きると言うことが美しくて、悲しいことと一緒。
「それに……なんだか、紫とか、幽香とか、皆が遠くへ行っちゃう気がした」
 ……その言葉にハッとした。
 私は自分のことばかりを気にしていた。
 六十年後、覚えているか、いないか。
 けれど、万物は認知されることによって存在できる。
 それならば……。
 「覚えている」より大切なのは、「覚えられている」……?
 急に怖くなる。霊夢がいなくなったら、私のこと、誰が覚えていてくれるのだろう……?
「…………何をいっているのよ、霊夢。私は、ここにいるわ」
 そして、博麗霊夢。貴方のことを、しっかりと「覚えている」
 安心しなさい。
 貴方はしっかり「覚えられている」
「そ、そうよね……。なんか、変なこと考えてた」
 ふらりふらりとするのはお酒のせいかしら。
 月が昇る。いつもちょっと明るい気がする。


 散りに散るとて其の花盛り
 後は太陽、緑の木々
 されど月は昇りて――
 
 
 花が散っても、私は生きる。幻想郷と共に。
 太陽と緑の木が残ったのなら、それと共に、幻想郷と共に生きる。だって、また月は昇るんですもの。
 どうしてどうして、悲観する必要があるのかしら。
 ――六十年、巡りは美しい。
 ――六十年、命の巡りは美しい。
 ならば、生きることは美しいはずよ。
 何度も昇る月の様に、私は貴方を見守り続ける。何度でも。
 そう、幻想郷と、共に。
 貴方を、覚えている。
 だから貴方も、覚えていてね
「私のこと……覚えていてね」
 ずっと、ずっと……。 


  ◇


 真夜中、急に目が覚めた。
 理由なんてない。目が覚めたから覚めたんだ。
 今日は別に、紫のせいじゃない。
 証拠に、紫は隣で眠っている。
「覚えていてね、か……」
 どういう意味で、言ったんだろう。
「あんたみたいな奇妙な一属一種、忘れるほうが難しいわよ」 
 そうは言ってみても、ちょっと怖かった。
 だって、私が紫遠くへ行っちゃう気がしたんだから、紫だって私が遠くへ行っちゃう気がしてても、おかしくない。
 それは怖い。
 きっと、紫にも怖いこと。
 紫はひょっとして、何百年と、そういうことを感じて生きていたのかな。
 何百年、それは私たち人間には重すぎる。
 だから、想像はできない。
 ――そういえば、閻魔が六十年は生まれ変わりの年だと言っていた。
 生まれ変わる……幻想郷が。 
 そうだ。閻魔はこうも言っていた。
 ――六十年は記憶も一巡してしまうのです――
 これのせい? 
 紫が遠くへ行っちゃうって、そんな風に思った理由。
「……当たり、前……じゃない……」
 覚えていてね――?
 何言ってるのよ。当たり前よ。
 末代まで覚えていてやるわよ。
 だから……。
「もう六十年経っても、っぐ、もうもう六十年経っても……」
 私のこと……。


 どうしようもなく滲んだ視界の紫は、いつもよりずっと幼く見えた。か弱く見えた。たぶん今だけ。
 だから、今しかない。六十年後、よぼよぼの婆さんになって、こんなことしたくない。
 寝顔は安らかで、胡散臭くなんて、全然ない。
 でも、その微笑みは、綺麗。
 月明かりが妙に眩しかった。
 紫の顔がはっきり照らされている。
 紫の、人形の様に白い頬に触れる。乱暴にしたら、壊れてしまいそう。そっと、そっと触る。
 黒い髪が視界の邪魔をして紫の、綺麗な顔を隠してしまう。
 髪をかき上げるようにしてから、屈みこんで二人の距離をぐっと縮める。
「……昼間の、御返し」
 ゆっくりと、触れ合う。
 凄く、柔らかかった。
 紫の味が、した……。
 一瞬のことだったと思うけど、その感触は、唇にしっかりとこびりついている。
 これが証。
 今日という日の証。
 だから、紫も、忘れないでね。


 散りに散るとて其の花盛り
 後は太陽、緑の木々
 されど月は昇りて
 ――また花咲かす


 散っても散っても、また六十年後に飽きずに咲く花たちみたいに、私のこと……。
 何度でも……覚えていてよ――。


 了
 まずは一言、ここまで読んでいただきありがとうございます。
 随分と違う二組。
 人間にとっての記憶とは、あるいはその人にとっての命でしょうか。
 では、妖怪にとっての記憶とは……なんなんでしょう?
 生憎、私は生まれてこのかた妖怪だったためしがないので、憶測に過ぎません。
 彼女たちのそれが、美しくて、そして望むことは、ただ、幸せに。
 憶測でもそれは、違わないはずですから。
実里川果実
http://vivaemptiness.ushimairi.com/
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コメント



0.990簡易評価
1.100名前が無い程度の能力削除
これは…言葉に出来ない心地です。
ニヤニヤしたと思ったら…
しっとりと、いいお話でした。
2.100昌幸削除
自分も先ほど同様に花映塚ものをあげましたが……はっきり言って自分が恥ずかしくなります。
何という完成度……
4.100名前が無い程度の能力削除
幽香×美鈴……いい!でもゆかれいむも王道だなぁ。
これはよかったです。
5.90名前が無い程度の能力削除
霊夢と紫の間の空気がよかった
8.100名前が無い程度の能力削除
皆可愛すぎてどうにかなりそうでした
16.100名前が無い程度の能力削除
雰囲気と甘さが良かったです。幽香×美鈴がこれ程素晴らしいとは。
18.100名前が無い程度の能力削除
幽香かわいいのう
28.100名前が無い程度の能力削除
まさかこんな素晴らしい幽美ものに出会えるとは……!