私は特になにを考えるということもなく前にある黒板を見ている。教授の刻む不規則なチョークの音がさらに私の頭の中の靄を濃くする。
「…であるからして、多くの書物にみられる桃源郷、天国といった記述。そう、たとえば遠野物語におけるマヨヒガもこの一種といえるでしょう。」
この講義の教鞭をとっているのは古明地教授。見た目少女にも見えるこの教授は心理学の観点から世界を「視る」というアプローチを打ち立てたことで有名なパイオニアだ。
始まってまだ30分ほどであるが、教室内の学生はみな眠りの世界に引き込まれかけている。教授の声はまるで子守唄のようだ。
春の陽気もそこそこに、早くも夏の兆しさえも感じるこの時期。眠気を誘うのも当たり前といえるだろう。
「…もう、これだけ教えている学生が無意識領域にあっては授業にならないわね。今日はここまでにしましょう。」
普通なら、激怒する教授もいるであろうが古明地教授は怒ることもなく授業の終了を宣言した。
私はマエリベリー・ハーン。京都のある大学に通っている学生である。大学の非公式サークル「秘封倶楽部」に所属している。
といっても、部員2人という弱小サークルであるが、まあ私たちの活動にはそれぐらいがちょうどいいのだ。
私は自分で言うのはなんだが不思議な子である。物の「境界」が視える「目」を持つ。万物には境界がある。それが輪郭となり物は「物」として認識されるのだ。
しかし、私はそのような境界ではなくこの世とどこか別世界の境界が視えるのだ。それは不意に現れ、消え、そして動く。
そして、今。講義が終了したことを宣言した教授の後ろに見えたのだ。「境界」が。
メリー@きゃんぱす
今、私は古明地教授の後ろをつけている。はたからみると怪しい人だが、えてしてこの大学は変な人が多いので気にする学生もいない…はずである。
つい最近改修工事が終わったばかりの食堂のある工学部の建物の横の道を通り、経済学部、法学部が立ち並ぶ方向へ曲がる。あぁ、もうどうしてこう自転車が多いのかしら。
リニアだって実用化されていて、月にも行きやすくなっている世の中なのに自転車の基本的な形は変わらない。そして京都は自転車が多い街なのだ。
「きゃぁ!」
「あ、ごめんなさい!」
案の定というか、自転車の人にぶつかった。奇抜なヘアスタイルをしている人だ。ざっくりとしたセミロングで黄色と黒の…メッシュ?
その人はわたわたしていたかと思うと、その場で自転車ごとこけてしまった。
「だ、大丈夫ですか?」
「どうも、大丈夫です。ありがとうございます。」
その人は慌てて去って行ったが、私はその場に立ちすくんでしまっていた。その人の後ろにも視えたのだ。「境界」が。
おかしい。こんなにも一日の間に「境界」を視ることは珍しい。サークルの相方、蓮子といわくつきのミステリースポットに行ったときぐらいにしかここまでたくさんの「境界」を視ることは無かった。
私としては毎日通う学校くらいは日常の世界であって欲しいのだが…。
そして、私は古明地教授も見失ってしまっていたのだった。
なんなのかしらあの生徒は。どうやら私たちが普通でないことが分かっているようね。後ろをつけてきているのは焦ったけど、白蓮のところの寅丸がうまいこと彼女の気を逸らしてくれたわ。
私は図書館の中から窓越しに私を追いかけてきていた生徒を見ている。
私は能力を開放し、彼女の心の中を視る。
…!彼女、「境界」が視えているのね。
八雲の大妖の能力で私の姿は普通の人間に見えているはずだが、彼女にはどうやら境界が付きまとって見えているらしい。
…これは、八雲紫に伝えなくては。
古明地さとりは、未だに着慣れない「先生」の恰好―白いブラウスの上に黒いスーツに短めの黒スカート(八雲コーディネート)―に身を包み、八雲紫にこの非常事態を伝えるために図書館を後にした。
「見失ってしまったものは仕方ないわね。」
ちなみに今日の私のとっている講義は先の古明地教授の心理学で終わりである。であるからにしてもう大学構内に用事はないのであるが、一連の出来事からもう少し大学にいようと思い学内のカフェに立ち寄った。
大学のほぼ中央に位置するカフェの一角に私は陣取り、エスプレッソを飲みながら人の体に境界がまとわりついている状況とはいかなることか考えていた。
私の解釈では、「境界」は別世界とのへだたりであろうと思っている。つまり、上手く境界をこえることができれば別世界に行けるというわけだ。
しかし、今回の場合はどうだろうか。そもそも別のものとの差異をつけるための境界が人に付きまとっている。これはただ別世界との境界という説明では無理があるかもしれない。もしそうなら古明地教授はそのままどこかに行ってしまうこととなるだろう。
つまり、あの境界は古明地教授に対するものであるということだ。…しかし、いったい何のために?
しかも、先ほどぶつかった人にも視えたのはどういうことなのであろう?
理解に苦しみ、ふと周りを見渡すとカフェに人がかなり多くなっていた。
…そろそろ帰ろうかしら。先ほどはもう少し学校にいようかと思っていたが、ただ考えるだけでは疲れるだけだ.
「…!」
視えた。
隣のテーブルの二人組の女の子。二人とも境界をまとっている。
「フン、やっぱり咲夜に淹れてもらうほうが美味しいわね。」
「まあまあ、せっかくの機会だからちゃんと堪能しようよ、お姉様!」
学内に女の子がいること自体は特に珍しくなく、大学といっても小学生の遠足などで様々な年齢層の人々がいるのだが、これはおかしい。
なんというか、「お姉様」と呼ばれた方の女の子はその容姿には似つかわしいカリスマのオーラを出しているのだ。そう、威圧感と優しさを共存させるとちょうどこんな感じなのだろう。
こちらの視線に気づいたのか、「お姉様」と呼ばれた方の女の子が話しかけてきた。
「なに人の方をジロジロ見てるのよ?何か顔についてるかしら?」
「いいえ、なんでもないです。」
反射的にそう答えてしまったが、あまりいい印象を与えられなかったなと反省した。しかし、せいぜい10歳くらいの女の子に何緊張してるのかしら、わたし。
おかしな人ねぇ、と隣の姉妹に笑われるのも居心地が悪かったのでその場を去ることにした。
去り際に、またも声をかけられた。
「あなた、面白い目を持っているのね。なかなか興味が湧いてきたわ。」
「!?」
「フン、図書館に行くと良いわ。あなたの運命はもう見えている。」
目について言及され驚く私を尻目に、その女の子は妹を連れてカフェを去って行った。
古明地さとりからの報告を受けて、カフェでスカーレット姉妹と接触している彼女をカジュアルな服装をした八雲紫は一番角の席から覗き見ていた。
外の世界を観光してみないかと幻想郷の面々に提案したのはついこの前の宴会でのことであった。結界を守るものとしてはあんまりいただけない企画であったが、ちょうど結界の機能向上のための術式、PCで言うアップデートを行っている間は一時的に結界の制限の変更ができるためそのような発案をしたのだ。
もともとその心理学の知識を学術発展のために利用しないのはもったいないとして外の世界に行くことを特例として認めている古明地さとりや、知識を求めて時々外の世界に本を読みに行きたいと懇願してくるパチュリー・ノーレッジなどは以前からこの大学には来ていたはずだが、どうして急にこの娘は私たちのことを認知できるようになったのだろうか?
ただ単にその時に彼女たちに会ってないだけかしら? いや、確かこの娘はさとりの講義に出席していたと言っていたわね。
それならば考えられるのは――そこまで思考したところで八雲紫は自らが映る窓ガラスを見て、全ての理解をした。
ほかにすることもなかった私は、あの女の子が言ったように図書館に来ていた。
いろいろなことがあって疲れたので、勉強などできる状態ではなかったがとりあえず机に座り、…そしていつの間にか眠りこけてしまった。
今日の授業も全て終わり、大学構内を歩いていた私―宇佐見蓮子は図書館に入っていく親友の姿を認め、後について行った。
階段を上り、二階の席に座ったメリーはすやすやと眠り始めてしまった。ニヤニヤ笑いながら近づき起こそうとしたが、その途中に座っていた女の子がノートに書きなぐっている数式を見て、衝撃を受けた。メリーには悪いが、それどころではなくなってしまうほどの。
バサバサした黒髪に緑色のリボンの女の子がノートに書いている式は記号の種類からしてエネルギー力学系のものであるようであるが、それのどれもが知らないものであったのだ。
眠り続ける親友はひとまず置いておき、物理学を専攻するものとして血が騒いだ私はその子に話しかけた。
「ねえ、あなた。その式、どこで習ったの?」
「うにゅ?」
なんだか隣が騒がしい。…ううん、人が寝てるのに。
「…なの?」
「だからここを…上手く…して…」
「ありえな…でしょ?」
「うにゅ?でも…だよ?」
「!!…そんな、まさか…。」
…この声!蓮子!
あわてて顔をあげて隣を見ると、たしかに私の親友、宇佐見蓮子が誰かと話している。
…物理学論議でもしているのかしら。理系はこうなると止まらないわよねえ。
にしても、こうなった蓮子の相手をするのも大変でしょうねえ。…と思ってその相手を見て、再び私は「境界」を視た。
「…!」
ふと周りを見ると、あたりの人皆に「境界」が視えている。えもいえぬ不安にかられて、私は蓮子の方を見た。
…蓮子には、「境界」は無いのね。
ほっとして、ようやく周りを見渡す余裕ができた。
…どういうわけか、ここにいるほぼすべての人に「境界」が視える。
前に座っている大きなヘッドホンをつけた金髪の少女は…法学部だろうか、法律関係の本を熱心に読み漁っている。
かと思えば、窓際に座っているポニーテールの少女は工学部だろうか。私には理解しにくいがロボット工学?の本を読んでいる。
私は、本を探しに行くふりをして、どこまでの人に「境界」が視えるのか確かめようとした。
蓮子はまだ論議しているし、まだ当分この調子だろう。
本棚の間を通り、…あ、この源氏物語の解釈本を読んでいる少女にも「境界」が。珍しい、緑色の瞳。
…睨まれた。誰だって自分の目をガン見されたら嫌よね。
開架図書のコーナーに入ったあたりで、正面から金髪のロングヘアの女性が歩いてきた。一瞬、鏡かと思うほど私と瓜二つ…そう認識したとき、私の意識は闇の中へと落ちていった。
思う存分論議を交わしたのち、私は隣にいたはずの親友がいなくなっていることに気付いた。
呆れられたのだろうか。…そんな推測を立てるも、まだメリーのカバンが席に置いてあるのを見つけまだいるとわかった。
トイレにでも行ってるのだろう。そう結論付けた私は、先ほどの論議をまとめるべくルーズリーフに数式を書き込んでいった。
あ、メリーが帰ってきた。声をかけようとし、そして…。
「ハーンさん、起きて。ほら、あなたも。」
目を覚ますと、図書館の机の上で突っ伏して寝ていたことがわかった。蓮子も隣で同じくだ。そして、私たちを起こしているのは…。
「こ、こ、古明地教授!?」
「どうしたの?こんなところで寝ちゃって。もう閉館時間よ。」
「す、すいません…。ほら、蓮子。起きて!」
気づけば、古明地教授に視えていた「境界」は無くなっていた。
図書館から出ていく二人を見て、ようやく八雲紫は安堵の様子となった。
「今日は迷惑かけたわね。さとり。」
「いえ、平気です。…それにしても、まだすごい能力を持つ人間もいるんですね。私たち幻想の存在にある常識と非常識の境界を視ることができるなんて。」
「やっぱり、あんな企画するものではなかったわね。普段ならその境界も私の能力で隠すことができていたけど、今回は多すぎて処理しきれなかったみたい。」
「でも、幻想郷の皆にはいい企画だったと思います。新鮮な世界ですもの。」
「そうね、また上手く対策できたらやってみてもいいかもしれません。」
そうして、私は「教授 古明地さとり」と書かれた教員証のIDで、八雲紫はスキマで図書館を出た。
「地霊殿まで送るわよ?」
「お願いします。あの子たちに今日の感想を聞かないと。」
八雲紫が開いたスキマは人通りのない大学の通路で、音もなく閉じた。
「ねえ、蓮子?」
「なに、メリー?」
「今日蓮子のうち泊まっていい?飲みたい気分なの。」
「…別にいいけど。じゃあ、コンビニ寄ろうか。」
「あれ、このノート…」
新体系核融合エネルギーの安全利用を可能にした女物理学者となり、教授として、宇佐見蓮子が再びこの大学に現れるのはそう遠くない未来の話であった。
私?私は相変わらず古明地教授のもとで研究生活である。心理学で准教授となって教鞭をとることも。
二人して先生になるなんてね。
「ハーンさん、ちょっといいかしら?」
「なんですか教授?」
「今度、宇佐見教授も連れて私と日帰り旅行に行かないかしら?」
「え、蓮子のスケジュール次第ですけど、どこに?」
「きっとあなたたちも気に入る、私だけしか知らないいいところよ。とっても「幻想」的なスポット。」
古明地教授の授業は実際に受けてみたい
もっと読みたい。
私も授業を受けてみたいな
こういう話を読みたかったんだよなあ
いやあ良い仕事をなさる
ちょうどいい具合の長さで、それも絶妙可。