私のご主人様であり、お母さんやお姉さんでもある藍様。
優しくて、時には厳しくて、美味しいご飯を作ってくれて、そして、ものすごく計算が得意なんです。
マヨイガの一室に寺子屋の教室を模した部屋があって、その黒板に沢山の数式が書いてあるのを以前見かけたんですが、藍様に尋ねてみたらやはり藍様の書いたものでした。
「ねぇ藍様、この方程式って何なんですか?」
「そうだねえ、橙は何だと思う?」
数式の記号そのものは、私にも理解できるものなのだけど、それらが複雑に組み合わさっていて、私にはそれが正しいのか間違っているのかも分かりません。
「う~ん、人の幻想の強さと、妖怪の強さの相関関係ですか」
「違う、それは三途の川幅を求めるものなのよ……。でもいい勘だね」
藍様は説明してくれましたが、やっぱり理解できません。
「ううむ、よくわかんない。立派な紫様の式になるには、これくらい理解できるようにならなきゃいけないんですか?」
「そうとも限らないが、できるに越した事は無いな、いずれは橙も理解できるようになるさ」
今の私には全然理解できないんだけど、きっと理解できたら楽しんだろうなあ。
『テストに出ます』と丸で囲まれた記号を見ながら、私はちょっと悔しく想うのでした。
藍様は超強い狐の妖怪だし、同時に紫様の式で、超高性能計算機械も兼ねています。
この前、一緒に里へ油揚げを買いに行った時も、藍様はその力をフルに発揮しました。
「おじさん、油揚げ三枚に、豆腐三丁下さい」
「まいど。****円ね」
私がお札で払おうとした時、藍様は私を止めて、少額のコインも何枚か一緒に出すように言ったのです。
「これで払ってごらん」
支払いは額の大きいお札一枚で済むはずなのに、どうしてこんな事を言うんだろう?
私が不思議に思いながらその通りにすると、お釣りがわずかな枚数のコインで済んでしまいました。
いつも私のお財布は少額のコインをじゃらじゃらさせていたのだけど、この方法を覚えてからはずいぶんお財布が軽くなりました。もっとも、こんな簡単な事に気づかない私がおバカなんだけれどね。
弾幕だって藍様は大得意、対戦者の実力に合わせて上手く弾幕の濃さを調節して、時には勝たせてあげたり、あるいは負かしたりして、スペルカードルールの枠内にそって戦い、人と人外との程良い緊張感を維持するのに活躍しています。殺し合う競争なんて嫌だし、かと言って慣れ合いも良くないと藍様はおっしゃっています。もちろん弾幕の美しさも言うまでもありません。私にとってまさに神様です。
「はぁはぁ、ギリギリで勝ったぜ」
「強くなったな、またおいで」
今日の対戦相手は魔理沙。藍様は彼女の力量を見抜いて、頑張ればギリギリ勝てるくらいの弾幕密度と回数のスペルカードで戦います。私が稽古をつけてもらう時も同じ。
こうするのが実力向上に一番なのだそうです。
そんな藍様も、猫をどうやったら手懐けられるのかは分からないそうです。でも藍様は知らないのではなく、知っているけどあえて教えず、私に見つけさせようとしているように思えるのです。これは藍様が私に与えた宿題なんでしょうね。きっとそうです、藍様に計算間違いなんてないのですから。
橙は私を慕ってくれている、各国の伝説に残る妖狐と信じている。
でもこの力も紫様の式のおかげ、この式が無くても、橙は、紫様は、私を必要としてくれるだろうか。
ところがある日の事です、藍様とふたりで、いつものお豆腐屋さんへ油揚げを買いに行きました。そこで藍様は計算を間違えてしまったのです。
お金を出した時、店のおじさんに足りないと言われた時、一瞬何が起こったのか分からないという表情をしていました。
「藍様、大丈夫ですか」
「大丈夫だ、ええと、この油揚げが3つと、絹ごし豆腐が3つで……そうそうこれでいい」
藍様でも、たまにそう言う事があるんだろう。私は当時そう思っていました。
その日の晩ご飯で、藍様は紫様に結界修復について何かの注意を受けていました。
「藍、あなたらしくないわ、気をつけなさい」
「はい、申し訳ありません紫様」
紫様の口調にはそれほど棘は無かったけれど、藍様は注意された事にショックを受けていたようです。
でも間違いは誰にだってある事、藍様もこれくらいで取り乱して欲しくないのにな。
最近、紫様が私に与えて下さった式、プログラムの負担を感じる。
このままこの式を使い続ければ、負担が増し、心身に支障をきたすかもしれない。
紫様にこれを外して頂くのは容易いだろう。でもそうすれば私は……。
何とかして、この式を使いこなす方法は無いものか。
しばらくの間、藍様は計算を間違う事はありませんでした。
しかし、弾幕ごっこの最中、私は藍様の弾幕に違和感を覚えるようになりました。
たしかに精密で強力なのですが、弾幕の模様に妙にばらつきがあるように感じます。
私はその事を指摘しようか迷っていると、藍様はそんな私の視線に気づいたのか、しきりに尋ねてきました。
「橙、どうかしたのか?」
「いいえ何でもありません、相変わらず藍様の弾幕はすごいな~って見とれていました」
藍様の目が少し吊り上がります。
「本当の事をいいなさい、弾幕に乱れを感じたんだろう」
「ごめんなさい。私の見間違いでしょうけど、なんとなくそんな気がしました。あっでも多分見当違いです」
そう答えると、急に藍様は視線を反らしました。
「いや、今日はその……風邪気味なんだ、だから調子が出なくって…….今日はもうここまでにしよう」
藍様、嘘をついてる。私にも分かります。
その日、藍様は夜遅くまで紫様と何かを話し合っていました。
以前私の誕生日が近づいた頃も、お二人はこうして夜遅くまで話す事がありましたが、きっと私へのプレゼントの相談だったのでしょう、声を潜めつつも楽しそうな会話だったのです。しかし、今夜はよく聞き取れないものの、深刻そうな口調が私の心をざわめかせるのでした。
それからというもの、藍様は私と一緒に行動するのを避けるようになりました。
ちょっと大事な用事があるから、とか、私が一緒にいると危険だとか、色々な理由で、一人で行動するようになったのです。
一度冗談を装って、私が嫌いになったんですか、と尋ねてみましたが、藍様はただ首を振り、私はお前が大好きだよ、と寂しそうに笑い、私の頭を撫でるのみでした。
強すぎる負担は確実に私を蝕んでいる。橙もいい加減気づいている。
思い切って紫様に相談してみたが、やはり計算能力の低い式への付け替えを勧められた。
でもそれでは結界修復ができず、私の存在意義が失われてしまうかも知れない。
教室を模した部屋の黒板には、私が書いた三途の川幅を求める方程式が残っている。
もちろんこれを書いた記憶はある、『テストに出ます』という文字も私が書いたものだ。
でも、でも、数式がもう分からない。
このまま紫様や、橙の事すら忘れてしまうのは怖い。
何とかして持ちこたえてくれ、私の魂よ。
ある日、意を決して、一人で行動する藍様をこっそり追いかけました。気配を消すのは動物時代からの得意技です。藍様は紫様にいつものお使いを頼まれたらしく、財布を持ってマヨイガから出掛けました。何気ない日常風景の一コマですが、いつもと違う点が二つ、普段は使わないそろばんを持って出かけた事と、そこに私が居ない事です。私はすぐにでも藍様に声をかけたい衝動を抑えつつ、尾行を続けました。
森を抜けて、人里へと続く道に出ます。右手の方に霧の湖が見え、チルノちゃんと藍様が出会いました。
「あっ藍さん、こんにちは」
「こんにちは」
「橙は今日一緒じゃないの?」
「うん、仕事の都合でね」
「ふ~ん、あっそうだ、新しいスペルカード開発したんだけど、見てくれない?」
「面白そうだけど、急いでいるんで、またの機会にしてくれないか」
「しょうがないなあ、結構自信作なんだよ」
「君は結構強いから、そのうち私より強くなれるよ」
「ええ! 本当に? だって藍さんは妖怪の賢者、紫お姉ちゃんの一番弟子みたいなもんでしょ。その藍さんをあたいが?」
「ああ、間違いない、じゃあまたね」
(相対的に、な……)
チルノちゃんには聞こえませんでしたが、藍様が確かにそうつぶやいたのを、私の敏感な猫耳は逃しませんでした。相対的に藍様より強くなる、どういう事?
そんな疑問を横に置き、とりあえず尾行を続けます。
藍様がたどり着いたのは、いつものお豆腐屋さんです、店のおじさんに挨拶して、ごく普通の買いもののようです。それならなぜ私を置いて行ったのでしょう?
「全部で****円になります」
「ちょっと待ってくれ」
藍様はそろばんを出して計算を始めました。でも時間がかかっているようです。
あの計算の天才であるはずの藍様が一体どうして?
藍様は何度も珠をセットし直し、遠目にも焦っているのが分かりました。
「あのう、なんでしたら私が代わりに……」
「待ってくれ」
「あの、大丈夫ですか」
「うるさいっ!」
苛立った藍様が大音響で叫び、店のおじさんとおかみさんはその場に凍りついてしまいました。
怒鳴った瞬間、藍様ははっとして我に返り、おじさんたちに急いで謝ります。
藍様自身、ご自身の感情の爆発が信じられないようでした。
「済まない、つい感情的になってしまった。今日は釣りはいい」
数枚の高額紙幣を強引におじさんに握らせ、お豆腐の入った買い物籠を持って足早に去っていきます。
身を隠すのも忘れ、茫然とその様子を眺めるだけだった私と目が合いました。
「らんさま……」
「橙、見ていたのか」
「藍様、もし調子が悪いのなら、無理しないで。お使いぐらい一人でできます」
「いや、いいんだ。今はっきりと分かった。私はもう何の役にも立てない、八雲を名乗る資格がないんだ」
「どうして?」
「橙、私は嘘をついていた。私は伝説の妖怪じゃない。妲妃でも、玉藻前でも、華陽夫人でもない、たかだか妖怪化して200年程度の妖怪狐に過ぎないんだ」
藍様の言っている事は信じられませんでした。でもその目は本気でした。
「人間達に退治されて、死にかけていた私を紫様が見つけて、強い式を与えて式神にしてくれた。そして、自分に伝説の白面金毛九尾だと名乗るように教えたのも紫様だった。嘘をつき続けている内に、自分でも本物の大妖怪だと思えるようになってきた、良い気分だったさ。でもそうじゃない。この式は高性能すぎて、所詮低級妖怪の私には負担が重すぎた、もう限界なんだ」
「で、でも藍様は私の大切なひとです」
顔を真っ赤にして涙を流し、自らを嘲笑する藍様、こんな顔の藍様見たくない。
「ハハハ嘘をつけ! 見たろう、買い物すらできないあの様を。あんな妖怪がお前の主人なんて耐えられるか? 恥ずかしいに決まっているだろう。騙していて悪かった、じゃあな」
藍様は買い物籠を私におしつけ、日の沈む方向へ飛び去りました。
「待って藍様、何があっても私は藍様を……」
「もっと良い主を探すんだ」
私も空を飛んで追いかけましたが、すぐに藍様の姿は見えなくなりました。
マヨイガに戻って紫様にその事を報告すると、紫様は辛そうに、
『今は藍の好きにさせておきなさい』とおっしゃるのみでした。
ああ、だめだ、だめだ、だめだ!
とうとう単純な買い物もできなくなってしまった。
橙にもこの姿を見られた。もうおしまいだ。
橙は何て思っているだろう? 主に幻滅を覚えたに違いない。
八雲を辞めさせてもらおう、紫様に式を外してもらい、低位の動物妖怪に戻ろう。
その方がみんなにとっ……。
その日の晩、私は今日あった事が何度も頭を巡り、いつまでも寝付けませんでした。
藍様は白面金毛九尾の狐じゃなかった、そんな事はどうだっていいんです。でも藍様が元気で無くなってしまい、二度と会えなくなるかも知れないのが不安でした。
一体いつから藍様は気付いていたんだろう。きっと藍様はいままで、恐怖と戦いながら副作用と戦ってきたに違いないのです。命だって危ないかもしれない、もし副作用でみっともない姿を見せたら、紫様の名誉が傷つくかもしれない、私に愛想を尽かされるかもしれない、などと。
藍様のバカ。私が藍様についてゆく理由はそんなんじゃないのに。
眠れない時を過ごし、こっそり夜の散歩にでも行こうかと思った頃。戸の開く音が聞こえたかと思うと、いきなり大きな音がして紫様が驚いた声を上げます。藍様は帰ってきてその場に倒れ込んでしまったのです。
「藍様、しっかりして」
私は飛び起きて玄関に向かいます。紫様は取り乱す私を落ち着かせた後、藍様を介抱し、私もできる限り手伝いました。
「橙、後は私が見ておくから、あなたはもう寝なさい」
「はい。あの、藍様が言っていた事、本当なんでしょうか?」
「ええ、この子ったら馬鹿ね、こんなになるまで我慢するなんて……意地を張って式を維持しようとするからよ」
「紫様、治りますよね?」
「ええ、今の式を外して、もっと負担の少ない式を憑ければ大丈夫」
「安心しました、それでは、藍様をお願いします」
私は再び布団に入りました。しばらくして藍様の声が聞こえます。私は耳を尖らせて、お二人の会話を盗み聞きしました。
「……紫様、失礼しました」
「藍。少しは気が晴れたかしら」 紫様は怒っていません。
「橙はもう寝たでしょうか」
「さあねえ」
「紫様、私はもう、あなたの計算機としての機能を果たせません、八雲の姓を返上します。式をはずして下さい」
「あなたは八雲家の一員よ、ずっと。式をもっと負担の少ないものに変えてあげるから、そうすれば日常生活には支障を来さ……」
「でも、それだと結界修復が困難になります」
「結界修復以外にも、八雲の務めはたくさんあります」
藍様の声が荒くなっていきます。私の不安も増大する一方です。
「正直に言って下さい、壊れた計算機に用は無いんでしょ」
「何故そう言う事を言うの? あなたはただの計算機じゃないわ」
「安っぽい同情は紫様らしくありません。どうせ使えない奴だと思っている。さっさと使える奴に交換したらどうです」
今度は紫様が怒りました。
「藍! そこまで壊れたとは予想外だったわ。なぜあなたを八雲に迎えたか分からないの?」
「壊れても取り換えがきく、手頃な妖怪だったからだろう」
「止めなさい、橙が怯えているわ。いい加減にしないと隙間に閉じ込めるわよ!」
枕で耳を塞いでも、お二人の怒鳴り合いが容赦なく心をえぐります。
こんな風に喧嘩して欲しくない、どうか以前のお二人に戻ってよ。
『にゃあ』
普段、絶対に言う事を聞かないはずの虎縞の猫が、私の布団に入ってきました。
その虎猫は頭を私の頬にこすりつけ、親愛の情を見せます。
「お前、私の事を心配してくれるの?」
『にゃ』
うなずいたように見えたのは、私の思いこみでしょうか。
それでもその虎猫を抱いて布団の中でうずくまると、不安な気持ちが和らいでいくようです。
気がつくと、隣の部屋の怒号はやんでいました。
ひとしきり叫んだ藍様は、急に消えいるような声で、本音を漏らしていました。
「紫様、怖いんです。紫様に捨てられて、橙にも愛想を尽かされるのが」
「馬鹿! この点に関しては妖精より馬鹿よ。ただの結界修復用の計算機が欲しいなら、意志のない無機物の式で十分。じゃあ聞くけど、正直橙の計算能力、式としての性能は、私はもちろん今の貴方にも劣ります、なら貴方はなんで橙を捨てないの?」
「当たり前でしょう、家族だからです」
「私も同じよ」
「紫様……」
そして紫様も、本音を吐露しました。
「本当の事を言うと、私はただ、家族が欲しかったのよ……」
結局、自分は不幸だと思い込んでいただけだった。
紫様の暖かさに比べれば、自分のプライドのなんとちっぽけな事か。
橙にも心配をかけた。また橙と一緒に出かけたい。
次の日、藍様は今まで通りの優しい顔で、私と紫様の三人で朝ごはんをいただきます。
「橙、私は新しい式に変えてもらう事にしたよ。計算能力は人間並みに落ちるが、負担はほとんど無いし、買い物程度なら十分過ぎる性能だそうだ」
「よかった、藍様が元気になってくれるだけでうれしいの、結界修復は私も手伝うから」
「もしかしたら、そのうち橙が貴方を超えて、それで貴方が『橙しゃまあああ』って甘えてきたりしてね」
「ふふふ、本当にそうなるかもしれませんね」
「私、もし藍様がそうなって、藍様をいじめる子がいたら、藍様がしてくれたように、今度は私が『らああああああん』って叫んで、その子を懲らしめてやりますよ」
「そうか……」
藍様は急にうつむいてしまいます。もしかして怒らせちゃった?
「あの、藍様、すいません、出すぎた事を言ってしましました」
「いや、違うんだよ橙、いいんだ、ちょっと嬉しくて」
紫様がそっと藍様の頭を撫でます。
藍様が伝説の大妖怪でなくても、計算能力が人並みでも、そんな事は関係ありません。
紫様と藍様のようなご主人たちに出会えて、私は幸せです。今までも、これからも。
優しくて、時には厳しくて、美味しいご飯を作ってくれて、そして、ものすごく計算が得意なんです。
マヨイガの一室に寺子屋の教室を模した部屋があって、その黒板に沢山の数式が書いてあるのを以前見かけたんですが、藍様に尋ねてみたらやはり藍様の書いたものでした。
「ねぇ藍様、この方程式って何なんですか?」
「そうだねえ、橙は何だと思う?」
数式の記号そのものは、私にも理解できるものなのだけど、それらが複雑に組み合わさっていて、私にはそれが正しいのか間違っているのかも分かりません。
「う~ん、人の幻想の強さと、妖怪の強さの相関関係ですか」
「違う、それは三途の川幅を求めるものなのよ……。でもいい勘だね」
藍様は説明してくれましたが、やっぱり理解できません。
「ううむ、よくわかんない。立派な紫様の式になるには、これくらい理解できるようにならなきゃいけないんですか?」
「そうとも限らないが、できるに越した事は無いな、いずれは橙も理解できるようになるさ」
今の私には全然理解できないんだけど、きっと理解できたら楽しんだろうなあ。
『テストに出ます』と丸で囲まれた記号を見ながら、私はちょっと悔しく想うのでした。
藍様は超強い狐の妖怪だし、同時に紫様の式で、超高性能計算機械も兼ねています。
この前、一緒に里へ油揚げを買いに行った時も、藍様はその力をフルに発揮しました。
「おじさん、油揚げ三枚に、豆腐三丁下さい」
「まいど。****円ね」
私がお札で払おうとした時、藍様は私を止めて、少額のコインも何枚か一緒に出すように言ったのです。
「これで払ってごらん」
支払いは額の大きいお札一枚で済むはずなのに、どうしてこんな事を言うんだろう?
私が不思議に思いながらその通りにすると、お釣りがわずかな枚数のコインで済んでしまいました。
いつも私のお財布は少額のコインをじゃらじゃらさせていたのだけど、この方法を覚えてからはずいぶんお財布が軽くなりました。もっとも、こんな簡単な事に気づかない私がおバカなんだけれどね。
弾幕だって藍様は大得意、対戦者の実力に合わせて上手く弾幕の濃さを調節して、時には勝たせてあげたり、あるいは負かしたりして、スペルカードルールの枠内にそって戦い、人と人外との程良い緊張感を維持するのに活躍しています。殺し合う競争なんて嫌だし、かと言って慣れ合いも良くないと藍様はおっしゃっています。もちろん弾幕の美しさも言うまでもありません。私にとってまさに神様です。
「はぁはぁ、ギリギリで勝ったぜ」
「強くなったな、またおいで」
今日の対戦相手は魔理沙。藍様は彼女の力量を見抜いて、頑張ればギリギリ勝てるくらいの弾幕密度と回数のスペルカードで戦います。私が稽古をつけてもらう時も同じ。
こうするのが実力向上に一番なのだそうです。
そんな藍様も、猫をどうやったら手懐けられるのかは分からないそうです。でも藍様は知らないのではなく、知っているけどあえて教えず、私に見つけさせようとしているように思えるのです。これは藍様が私に与えた宿題なんでしょうね。きっとそうです、藍様に計算間違いなんてないのですから。
橙は私を慕ってくれている、各国の伝説に残る妖狐と信じている。
でもこの力も紫様の式のおかげ、この式が無くても、橙は、紫様は、私を必要としてくれるだろうか。
ところがある日の事です、藍様とふたりで、いつものお豆腐屋さんへ油揚げを買いに行きました。そこで藍様は計算を間違えてしまったのです。
お金を出した時、店のおじさんに足りないと言われた時、一瞬何が起こったのか分からないという表情をしていました。
「藍様、大丈夫ですか」
「大丈夫だ、ええと、この油揚げが3つと、絹ごし豆腐が3つで……そうそうこれでいい」
藍様でも、たまにそう言う事があるんだろう。私は当時そう思っていました。
その日の晩ご飯で、藍様は紫様に結界修復について何かの注意を受けていました。
「藍、あなたらしくないわ、気をつけなさい」
「はい、申し訳ありません紫様」
紫様の口調にはそれほど棘は無かったけれど、藍様は注意された事にショックを受けていたようです。
でも間違いは誰にだってある事、藍様もこれくらいで取り乱して欲しくないのにな。
最近、紫様が私に与えて下さった式、プログラムの負担を感じる。
このままこの式を使い続ければ、負担が増し、心身に支障をきたすかもしれない。
紫様にこれを外して頂くのは容易いだろう。でもそうすれば私は……。
何とかして、この式を使いこなす方法は無いものか。
しばらくの間、藍様は計算を間違う事はありませんでした。
しかし、弾幕ごっこの最中、私は藍様の弾幕に違和感を覚えるようになりました。
たしかに精密で強力なのですが、弾幕の模様に妙にばらつきがあるように感じます。
私はその事を指摘しようか迷っていると、藍様はそんな私の視線に気づいたのか、しきりに尋ねてきました。
「橙、どうかしたのか?」
「いいえ何でもありません、相変わらず藍様の弾幕はすごいな~って見とれていました」
藍様の目が少し吊り上がります。
「本当の事をいいなさい、弾幕に乱れを感じたんだろう」
「ごめんなさい。私の見間違いでしょうけど、なんとなくそんな気がしました。あっでも多分見当違いです」
そう答えると、急に藍様は視線を反らしました。
「いや、今日はその……風邪気味なんだ、だから調子が出なくって…….今日はもうここまでにしよう」
藍様、嘘をついてる。私にも分かります。
その日、藍様は夜遅くまで紫様と何かを話し合っていました。
以前私の誕生日が近づいた頃も、お二人はこうして夜遅くまで話す事がありましたが、きっと私へのプレゼントの相談だったのでしょう、声を潜めつつも楽しそうな会話だったのです。しかし、今夜はよく聞き取れないものの、深刻そうな口調が私の心をざわめかせるのでした。
それからというもの、藍様は私と一緒に行動するのを避けるようになりました。
ちょっと大事な用事があるから、とか、私が一緒にいると危険だとか、色々な理由で、一人で行動するようになったのです。
一度冗談を装って、私が嫌いになったんですか、と尋ねてみましたが、藍様はただ首を振り、私はお前が大好きだよ、と寂しそうに笑い、私の頭を撫でるのみでした。
強すぎる負担は確実に私を蝕んでいる。橙もいい加減気づいている。
思い切って紫様に相談してみたが、やはり計算能力の低い式への付け替えを勧められた。
でもそれでは結界修復ができず、私の存在意義が失われてしまうかも知れない。
教室を模した部屋の黒板には、私が書いた三途の川幅を求める方程式が残っている。
もちろんこれを書いた記憶はある、『テストに出ます』という文字も私が書いたものだ。
でも、でも、数式がもう分からない。
このまま紫様や、橙の事すら忘れてしまうのは怖い。
何とかして持ちこたえてくれ、私の魂よ。
ある日、意を決して、一人で行動する藍様をこっそり追いかけました。気配を消すのは動物時代からの得意技です。藍様は紫様にいつものお使いを頼まれたらしく、財布を持ってマヨイガから出掛けました。何気ない日常風景の一コマですが、いつもと違う点が二つ、普段は使わないそろばんを持って出かけた事と、そこに私が居ない事です。私はすぐにでも藍様に声をかけたい衝動を抑えつつ、尾行を続けました。
森を抜けて、人里へと続く道に出ます。右手の方に霧の湖が見え、チルノちゃんと藍様が出会いました。
「あっ藍さん、こんにちは」
「こんにちは」
「橙は今日一緒じゃないの?」
「うん、仕事の都合でね」
「ふ~ん、あっそうだ、新しいスペルカード開発したんだけど、見てくれない?」
「面白そうだけど、急いでいるんで、またの機会にしてくれないか」
「しょうがないなあ、結構自信作なんだよ」
「君は結構強いから、そのうち私より強くなれるよ」
「ええ! 本当に? だって藍さんは妖怪の賢者、紫お姉ちゃんの一番弟子みたいなもんでしょ。その藍さんをあたいが?」
「ああ、間違いない、じゃあまたね」
(相対的に、な……)
チルノちゃんには聞こえませんでしたが、藍様が確かにそうつぶやいたのを、私の敏感な猫耳は逃しませんでした。相対的に藍様より強くなる、どういう事?
そんな疑問を横に置き、とりあえず尾行を続けます。
藍様がたどり着いたのは、いつものお豆腐屋さんです、店のおじさんに挨拶して、ごく普通の買いもののようです。それならなぜ私を置いて行ったのでしょう?
「全部で****円になります」
「ちょっと待ってくれ」
藍様はそろばんを出して計算を始めました。でも時間がかかっているようです。
あの計算の天才であるはずの藍様が一体どうして?
藍様は何度も珠をセットし直し、遠目にも焦っているのが分かりました。
「あのう、なんでしたら私が代わりに……」
「待ってくれ」
「あの、大丈夫ですか」
「うるさいっ!」
苛立った藍様が大音響で叫び、店のおじさんとおかみさんはその場に凍りついてしまいました。
怒鳴った瞬間、藍様ははっとして我に返り、おじさんたちに急いで謝ります。
藍様自身、ご自身の感情の爆発が信じられないようでした。
「済まない、つい感情的になってしまった。今日は釣りはいい」
数枚の高額紙幣を強引におじさんに握らせ、お豆腐の入った買い物籠を持って足早に去っていきます。
身を隠すのも忘れ、茫然とその様子を眺めるだけだった私と目が合いました。
「らんさま……」
「橙、見ていたのか」
「藍様、もし調子が悪いのなら、無理しないで。お使いぐらい一人でできます」
「いや、いいんだ。今はっきりと分かった。私はもう何の役にも立てない、八雲を名乗る資格がないんだ」
「どうして?」
「橙、私は嘘をついていた。私は伝説の妖怪じゃない。妲妃でも、玉藻前でも、華陽夫人でもない、たかだか妖怪化して200年程度の妖怪狐に過ぎないんだ」
藍様の言っている事は信じられませんでした。でもその目は本気でした。
「人間達に退治されて、死にかけていた私を紫様が見つけて、強い式を与えて式神にしてくれた。そして、自分に伝説の白面金毛九尾だと名乗るように教えたのも紫様だった。嘘をつき続けている内に、自分でも本物の大妖怪だと思えるようになってきた、良い気分だったさ。でもそうじゃない。この式は高性能すぎて、所詮低級妖怪の私には負担が重すぎた、もう限界なんだ」
「で、でも藍様は私の大切なひとです」
顔を真っ赤にして涙を流し、自らを嘲笑する藍様、こんな顔の藍様見たくない。
「ハハハ嘘をつけ! 見たろう、買い物すらできないあの様を。あんな妖怪がお前の主人なんて耐えられるか? 恥ずかしいに決まっているだろう。騙していて悪かった、じゃあな」
藍様は買い物籠を私におしつけ、日の沈む方向へ飛び去りました。
「待って藍様、何があっても私は藍様を……」
「もっと良い主を探すんだ」
私も空を飛んで追いかけましたが、すぐに藍様の姿は見えなくなりました。
マヨイガに戻って紫様にその事を報告すると、紫様は辛そうに、
『今は藍の好きにさせておきなさい』とおっしゃるのみでした。
ああ、だめだ、だめだ、だめだ!
とうとう単純な買い物もできなくなってしまった。
橙にもこの姿を見られた。もうおしまいだ。
橙は何て思っているだろう? 主に幻滅を覚えたに違いない。
八雲を辞めさせてもらおう、紫様に式を外してもらい、低位の動物妖怪に戻ろう。
その方がみんなにとっ……。
その日の晩、私は今日あった事が何度も頭を巡り、いつまでも寝付けませんでした。
藍様は白面金毛九尾の狐じゃなかった、そんな事はどうだっていいんです。でも藍様が元気で無くなってしまい、二度と会えなくなるかも知れないのが不安でした。
一体いつから藍様は気付いていたんだろう。きっと藍様はいままで、恐怖と戦いながら副作用と戦ってきたに違いないのです。命だって危ないかもしれない、もし副作用でみっともない姿を見せたら、紫様の名誉が傷つくかもしれない、私に愛想を尽かされるかもしれない、などと。
藍様のバカ。私が藍様についてゆく理由はそんなんじゃないのに。
眠れない時を過ごし、こっそり夜の散歩にでも行こうかと思った頃。戸の開く音が聞こえたかと思うと、いきなり大きな音がして紫様が驚いた声を上げます。藍様は帰ってきてその場に倒れ込んでしまったのです。
「藍様、しっかりして」
私は飛び起きて玄関に向かいます。紫様は取り乱す私を落ち着かせた後、藍様を介抱し、私もできる限り手伝いました。
「橙、後は私が見ておくから、あなたはもう寝なさい」
「はい。あの、藍様が言っていた事、本当なんでしょうか?」
「ええ、この子ったら馬鹿ね、こんなになるまで我慢するなんて……意地を張って式を維持しようとするからよ」
「紫様、治りますよね?」
「ええ、今の式を外して、もっと負担の少ない式を憑ければ大丈夫」
「安心しました、それでは、藍様をお願いします」
私は再び布団に入りました。しばらくして藍様の声が聞こえます。私は耳を尖らせて、お二人の会話を盗み聞きしました。
「……紫様、失礼しました」
「藍。少しは気が晴れたかしら」 紫様は怒っていません。
「橙はもう寝たでしょうか」
「さあねえ」
「紫様、私はもう、あなたの計算機としての機能を果たせません、八雲の姓を返上します。式をはずして下さい」
「あなたは八雲家の一員よ、ずっと。式をもっと負担の少ないものに変えてあげるから、そうすれば日常生活には支障を来さ……」
「でも、それだと結界修復が困難になります」
「結界修復以外にも、八雲の務めはたくさんあります」
藍様の声が荒くなっていきます。私の不安も増大する一方です。
「正直に言って下さい、壊れた計算機に用は無いんでしょ」
「何故そう言う事を言うの? あなたはただの計算機じゃないわ」
「安っぽい同情は紫様らしくありません。どうせ使えない奴だと思っている。さっさと使える奴に交換したらどうです」
今度は紫様が怒りました。
「藍! そこまで壊れたとは予想外だったわ。なぜあなたを八雲に迎えたか分からないの?」
「壊れても取り換えがきく、手頃な妖怪だったからだろう」
「止めなさい、橙が怯えているわ。いい加減にしないと隙間に閉じ込めるわよ!」
枕で耳を塞いでも、お二人の怒鳴り合いが容赦なく心をえぐります。
こんな風に喧嘩して欲しくない、どうか以前のお二人に戻ってよ。
『にゃあ』
普段、絶対に言う事を聞かないはずの虎縞の猫が、私の布団に入ってきました。
その虎猫は頭を私の頬にこすりつけ、親愛の情を見せます。
「お前、私の事を心配してくれるの?」
『にゃ』
うなずいたように見えたのは、私の思いこみでしょうか。
それでもその虎猫を抱いて布団の中でうずくまると、不安な気持ちが和らいでいくようです。
気がつくと、隣の部屋の怒号はやんでいました。
ひとしきり叫んだ藍様は、急に消えいるような声で、本音を漏らしていました。
「紫様、怖いんです。紫様に捨てられて、橙にも愛想を尽かされるのが」
「馬鹿! この点に関しては妖精より馬鹿よ。ただの結界修復用の計算機が欲しいなら、意志のない無機物の式で十分。じゃあ聞くけど、正直橙の計算能力、式としての性能は、私はもちろん今の貴方にも劣ります、なら貴方はなんで橙を捨てないの?」
「当たり前でしょう、家族だからです」
「私も同じよ」
「紫様……」
そして紫様も、本音を吐露しました。
「本当の事を言うと、私はただ、家族が欲しかったのよ……」
結局、自分は不幸だと思い込んでいただけだった。
紫様の暖かさに比べれば、自分のプライドのなんとちっぽけな事か。
橙にも心配をかけた。また橙と一緒に出かけたい。
次の日、藍様は今まで通りの優しい顔で、私と紫様の三人で朝ごはんをいただきます。
「橙、私は新しい式に変えてもらう事にしたよ。計算能力は人間並みに落ちるが、負担はほとんど無いし、買い物程度なら十分過ぎる性能だそうだ」
「よかった、藍様が元気になってくれるだけでうれしいの、結界修復は私も手伝うから」
「もしかしたら、そのうち橙が貴方を超えて、それで貴方が『橙しゃまあああ』って甘えてきたりしてね」
「ふふふ、本当にそうなるかもしれませんね」
「私、もし藍様がそうなって、藍様をいじめる子がいたら、藍様がしてくれたように、今度は私が『らああああああん』って叫んで、その子を懲らしめてやりますよ」
「そうか……」
藍様は急にうつむいてしまいます。もしかして怒らせちゃった?
「あの、藍様、すいません、出すぎた事を言ってしましました」
「いや、違うんだよ橙、いいんだ、ちょっと嬉しくて」
紫様がそっと藍様の頭を撫でます。
藍様が伝説の大妖怪でなくても、計算能力が人並みでも、そんな事は関係ありません。
紫様と藍様のようなご主人たちに出会えて、私は幸せです。今までも、これからも。
良いお話でした
しかしノイマンを超える能力を人並みとは言いませんww
そいつは人間じゃなくて火星人レベルだw
特に最後がほんわかしてて好きです
あれ、妖怪以上じゃね?
と思ったらオチのノイマンさんww
恐るべし幻想郷…!
まて、それは人を超越してるよwwww
人間じゃなくなるには電話帳の番号の総和を暗算で出して遊ぶくらいの逸話が必要です。
ぎゃっぷというものは素晴らしい
彼を超えちゃうのかw
しかし、傑作を読むと欲がでるもので、これは私の好みの問題なのかもしれないのだけれども、「もっともったいぶっって欲しかった」と感じました。
藍の苦しみ、紫の愛……
だらだらすればいいというものでもないでしょけど、こうストレートに言い過ぎるような気がしたのです。
そんな、生意気な感想ですが、間違いなく良いSSでした。
ご馳走様です。
私は鬱展開自体は好きですが、やっぱり最後はみんな笑って希望の未来へレディゴー
といったまとめ方が好きです。
ただ、53様がおっしゃるように、読み返してみて、確かに展開が急すぎた気がします。
最後の方で藍様の心情が早く変わりすぎ、わずかな会話ですぐ救われすぎな感じなので、次はもう少しもったいぶってみようかと思います。