※各種設定は原作に準拠しておりません。
※広げた風呂敷を畳むべく、後半を全面改訂しました。
〈あらすじ〉
パタリロ・ド=マリネール8世、華麗なる衣装遍歴。
「――うげっ」
きっかけは、顔なじみの白狼天狗が漏らしたうめき声だった。ごく小さな声ではあったが、射命丸文の鋭い耳は聞き逃さなかった。文が洗濯物を取り込んで片付けているところに訪ねてきた犬走椛は、洗濯物で両手が塞がっている先輩烏天狗に頼まれて隣室の襖を開けたのだった。背中を向けられているために文に椛の表情は伺えなかったが、声からして引きつっているのだろう
「なんですか椛、失礼ですね」
「あ、いえ、その」
「なにも妙なものは無いでしょう? 単なる衣装室なんですから」
「これ全部、文さまの服ですか……」
6畳ほどの板の間には、梁から何本もの紐が垂れ下がっており、物干し竿がいく棹も吊られていた。その物干し竿には何着もの服が所狭しとつり下げられていた。一人暮らしの衣装としては随分と多いようだが、その種類が問題だった。
「おんなじシャツばっかり、何枚揃えれば気が済むんですか?」
部屋の印象は、白かった。文のトレードマークとなっているワイシャツの色であるが、そのシャツの数が尋常ではない。ぎっちりみっちり並ぶ服の大半が、件のシャツなのである。9割が白いワイシャツ、9分がスカート、残りの1分がリボンタイといったところだろうか。椛ならずとも、のけぞってしまうだろう光景である。
「おんなじ……? やれやれ、あなたの目は節穴ですか。それでよく歩哨が務まりますね」
「いや、どう見たって同じでしょう。いくら文さまと言えど、烏を白とは呼ばせませんよ」
「そりゃ、白かったらお寺の鳩ですよ。確かに、これらのシャツは白であって黒ではないですがね。でも、色々と違っているんですよ。たとえば、ほらこれ」
文は抱えていた洗濯物を床に置き、手近のワイシャツを手に取った。
「こちらのシャツは、ステッチが黒で入っていて、衿がボタンダウンになっています。対するこちらは……ベルトループがシャツの外側に縫い付けられているんですよ。あ、こっちは左胸の螺鈿模様が細身になっていて、こちらは衿裏と前あわせの裏地にも螺鈿模様を入れた江戸の粋を表現しているんです。これはちょっと丈を短めにして、その分脇の切り込みを大きくした大胆なものです。こちらはボタン穴を斜めに――なんですか椛、説明しているんだからちゃんと聞きなさい」
説明を続けるほどに椛の表情は虚ろになっていき、文は必死になっていた。
「……文さま、どれも同じに見えます」
痛恨の一撃だった。文は手にしたシャツを取り落とし、その上に膝をついてしまった。
「ちくしょぉぉぉ! 椛まで私のセンスを否定しますか!? ちくしょぉぉぉぉぉっ!」
「センスも団扇もないでしょ。それより文さま?」
跪いて慰めつつ、椛はとどめの一槍を放った。
「この白いシャツって、仕事着ですよね? 普段着が見当たらないんですが」
「――――――――!」
声にならない慟哭で、衣装室のシャツ達がハンガーから吹き飛ばされ、家中の窓ガラスが粉と砕け散り、噴き飛ばされた椛が衝突した裏山で地滑りが発生した。音とは、空気の振動である。風を操る程度の能力を持つ射命丸文が、空気の振動すら操る程度の能力を開眼させた瞬間だった。
「落ち着きましたか?」
「……えぇ、あの時は本当にすいませんでした」
あれから数日後、永遠亭。文の家で発生した音響爆破で山の斜面に犬神家を決めた椛は、永遠亭へと運び込まれていた。なお、大部屋には白狼天狗の一個師団が仲良く枕を並べて入院している。哨戒任務に当たる彼らは、妖怪の山中で発生した爆発に緊急出動したのだが、錯乱状態にあった文が発する超音波に殲滅されてしまったのだ。文の自宅も超音波攻撃で倒壊し、ご自慢の白シャツ・コレクションも道連れとなった。
「まさか、シャツが原因で生死の境をさまようとは思っていませんでしたよ」
「ごめんなさいごめんなさいゴメンナサイ」
「閻魔様に、『白ワイシャツを冒涜するとは、許しがたい。どの地獄に落としてやりましょう』と憤怒の顔で説教されました。あの人も、仕事着ばかりで普段着にまで気が回らない性なんでしょうね」
「ホントゴメンナサイゴメンナサイ許シテオ願イ」
畳にゴシゴシと頭をすりつけ、文は必死に謝っていた。これ以上こすりつけたら、発火しそうである。
「本当に悪いと思っていますか」
「もちろんです。……なんなら、この場で誠意のほどを」
どこから取り出したのか、文は出刃包丁を逆手に持ち、腹切りを披露しようとした。
「ああ、これ以上永琳先生の仕事を増やさないで下さい。……反省しているのなら、私の頼みを聞いてくれますよね」
「お望みとあらば、脱ぐのも躊躇いませんよ」
「いや、そこまでせんでも」
今度は出刃包丁で服の前を切り裂こうとするのを、椛は困った人ですねと呟きながら制した。白狼天狗の精鋭部隊一個師団プラス1を一時面会謝絶の重症に追い込んだことで、文は妖怪の山の上層部に、それはそれはこってりと絞られたそうだ。その後遺症なのか、今日は椛の前だというのに、気弱なことこの上ない。包丁を逆手に持つ文の手にそっと自分の手を置き、椛は微笑んだ。
「なら、私が退院したら一緒に買い物に行きましょう。私が文さまの服を見立てますから、文さまは私の服を、ね」
「……それで許してくれるのですか?」
「ええ。それでおあいこですよ。ところで文さま、今日の格好はどうされたんです? まるで病院着ですが」
本日の文の衣装はと言うと、トレードマークである白いシャツとスカートではなく、淡い緑のストライプが入ったパジャマの上下だった。げっそりとやつれた目許といい、椛よりも病院が「似合って」いた。随分と長い沈黙を挟んで、答えがあった。ちなみに、未だ包丁は握ったまま、椛は手を重ねたままである。
「あの事件の後、天魔様にお仕置きされましてねぇ。昨日まで私も意識不明だったんですよ」
「……それはご愁傷様で」
「天魔様と香霖堂の主人が白褌姿で私の周りをぐるぐると踊り狂うのに、合いの手を強要され続けたんですよ」
「……それはそれはご愁傷様で……」
余談だが、この「お仕置き」に一昼夜耐えたことで、文は降格などのこれ以上の制裁を免除された。逆に見所があるとして宴会部長に特進したのだが、それはまた別のお話。
「あらあら、心中でもするのかしら?」
回診に訪れた永遠亭の薬師は、朗らかに物騒な事を言った。そういえば、先ほどから文は包丁を手にしたままであり、椛は文の手に自分の手を重ねたままだった。いやそんなつもりはないんです、と慌てふためく2人を、永琳はあらあらうふふと受け流した。
「気分はどうかしら?」
アワアワとパニックを起こした天狗コンビが、手を滑らせて包丁を永琳の背後に付き従う鈴仙の頭上ギリギリに投じてしまったのにも動じず、柔和な笑顔で永琳は訊ねた。もちろん、鈴仙の悲鳴なんてお構いなしである。
「ふむ……犬走さんは、順調に回復しているわね。これなら、今週中には退院できるわよ」
「本当ですか?」
「ええ。複雑骨折していた背骨と首の骨が、随分と良くなってきましたからね」
「ゴメンナサイゴメンナサイゴメンナサイ」
裏山の斜面へと犬神ロケットさせられたのだから、骨も砕けようというものである。サラッと言われた永琳の言葉に、またも文が土下座する。
「射命丸さんは、精神的なダメージですからね。意識を回復したなら、リハビリでトラウマを克服するのが良いでしょう」
「リハビリ、ですか?」
「ええ。何かに没頭する事が、良い癒やしになるでしょうね」
「それなら文さま、新聞をお書きになったらどうですか」
「それは良いわね。ただし、まだ退院しての取材は許可できません」
少なくともあと2日は詳細な経過観察が必要ですよと、永琳は付け加えた。その言葉に、取材もせずに記事は書けませんよと文は顔をしかめたが、この天才薬師に隙は無かった。
「なら、ウドンゲに取材をなさいな。良いわね?」
「えぇっ!? ちょっと師匠……」
師匠の突然の言葉に鈴仙は不満があるようだが、本人の意志は尊重されなかった。
「ふむ、鈴仙さんの独占インタビューですか。それはなかなかの特ダネですね。でしたら是非、永琳さん、それにてゐさんや輝夜さんにもよろしいですか?」
「私は構わないわ。てゐと姫には、それぞれあなたが許可を得てちょうだい」
「私は強制ですか……」
いつも以上に耳をへにょらせながら、鈴仙はぼやいた。そんな愛弟子の頭に手をやり、あらあらうふふと愛でる永琳も、なかなかのものである。
「それでは鈴仙さん、早速よろしいですか?」
「自分の部屋でお相手なさい。これも勉強よ」
「はーい……」
肩と耳を落としつつ、鈴仙は文を伴って病室を後にした。
「あの、良いんですか? 鈴仙さんは嫌がっているようでしたが」
油揚げを見つけたとんびよろしくルンルン気分で鈴仙と去って行く文を見送って、椛は恐る恐る訊いた。
「ええ、問題ないわ。私もどんな記事になるか楽しみだしね。特に巻頭写真が」
師匠に翻弄される鈴仙に、幸あれ。
「それで、どんな嘘記事を書くつもりなの?」
ところ変わって、永遠亭内の鈴仙の部屋。渋々といった感じで文を招き入れた鈴仙は、警戒感もあらわに腕組みをして切り出した。
嘘とは酷いですねと形ばかりぼやきつつ、文はしばし顎に手をやり考えた。
「今回は、鈴仙さんのファッション特集というのはどうでしょう?」
「へ? それでいいの?」
「ええ。リハビリですから、軽めの記事を書きたいので」
そう言って、文は入院中も被っていた頭巾から愛用の小型カメラを取り出した。そんなところに仕舞っていたんだ、と鈴仙は呟いた。
「それ位ならいいけど……でもこの前みたいに盗撮した下着写真の特集なんてしたら、今夜の夕食はトリカブトのお浸し毒人参添えだからね」
「おぉ怖い怖い」
ニヤニヤ笑って、文はうそぶいた。いつもの調子がだいぶん戻ってきたようである。
「夜討ち朝駆けで真実を暴くのが記者の本懐……とは言え、ご安心を。たぶん鈴仙さんは、私の側の人ですから」
「あなたの側? どういう意味なの」
「深入りして暴き立てるのは、自らの傷口を抉るも同じという事です」
「……ますます分からないんだけど。まぁいいわ。何をすればいいの?」
記事は検閲させて貰うからね、と鈴仙はしかめっ面で言い、とりあえず疑問は棚上げしたようだ。
「では、早速……鈴仙さんの格好というと、ブレザーにスカートというのが定番ですよね。お気に入りなんですか?」
「月にいた頃に着ていた軍服が、ブレザーだったのよ。今は階級章が無いだけで、基本的にその頃から変わっていないわ。長年着慣れているから、師匠も似合うと言ってくれているし」
「永遠亭で永琳さんの助手をされている時は、いつもその格好ですよね。お休みの日は、違う格好をされないんですか?」
「うーん……これが一番馴染んでいるからね。月にいた頃も、寝る時とお風呂の時以外は軍服か野戦服を強制されていたし」
カメラと一緒に頭巾から取り出したメモ帳に、文はペンを走らせた。
「野戦服というと、迷彩模様のあれですか?」
「場所が場所だから、サンドベージュ一色だったけどね。あ、この耳を隠す専用のキャップもあったのよ」
「それは是非見てみたいですねぇ。まだお持ちですか?」
「全部、月に置いてきてしまったわ。着の身着のままで地上に着て、師匠と姫に出会ってから、師匠が軍服を真似て仕立ててくれたのがこれなのよ」
「ほうほう。では、そこの洋服箪笥には、ブレザーがズラリと並んでいたり?」
文は万年筆で、壁際の箪笥を示した。
「何枚か仕舞ってあるけどね。そんなズラーッとは並んでないよ。同じものが一杯並んでいたら、不気味だし」
「ぐはっ!!」
何気ない一言に、文は轟沈した。
「ちょっと、大丈夫!? 師匠、ししょーっ! 誰か来てーっ!!」
唐突の事態に仰天して、鈴仙は障子戸を開けて大声で呼ばわった。流石は医療に携わる身というべきか、机に突っ伏してビクンビクンと痙攣している文を床に横たえて、気道の確保に務めた。
「どうしたのウドンゲ?」
「鈴仙さま、どうかしたの」
ほどなくして、永琳と医療鞄を携えたてゐが部屋へと走ってきた。
「……あらあら、トラウマが解放されたようね」
ふんどしがと呻きながら痙攣する様を見て、永琳は即座に事態を悟ったようだ。
「とりゃ」
「ふぬうほぉっ!?」
一片の躊躇いも見られない見事な突きが、文の脇腹に入れられた。その衝撃で痙攣運動を止めたところで今度は文を抱え起こし、永琳は自らの膝を文の背骨の中ほどに当て、海老ぞりに体をしならせた。しかも攻撃は1度では終わらず、背骨に沿って下から順に何度も膝が打ち込まれ、反り返りも右へ左へと変化を加えて繰り返し行われた。その度に響くゴキョッモキュッという音が、なんとも耳に心地悪かった。
「これで、よし。記者は机仕事も多いのかしら、背骨の歪みが結構担ぎ込まれた時から気になっていたのよねぇ」
最後にエクソシストも顔をしかめるような首のひねり技をかまして、整体治療は終わった。先ほどとは別種の痙攣をしつつ、文は畳へとくずおれた。
「容赦ないですね、師匠……」
「この間、紅魔館の美鈴さんに手ほどきを受けたのよ。実地込みで」
満面の笑顔で医者の不養生ですねーと言われつつ、全身の歪みを矯正されたのだった。今ではその矯正の痛みと比例する施術後の快楽、なにより関節の発する音の虜になっているのだが、それはまた別の話。
「ウドンゲ、あなたも随分と体が歪んでいるわね。あとで診てあげるわ」
「ひっ!? いいいイヤですご遠慮しますっ!」
「遠慮は要らないのよ。そういえば、てゐも左方向に歪んでいるわね」
「じゃ、私はこれで」
「待ちなさい。長生きの秘訣はまっすぐな背骨からよ」
「きゃぁぁぁ、助けて鈴仙さまぁあ!」
兎たちの受難が一段落した時、ようやっと文は意識を取り戻した。
「えーっと、ここは……」
「あら、お目覚めかしら。気分はどう?」
「はい、なんだかとても体が軽くて爽快に――鈴仙さん!? てゐさんもどうしましたかっ」
文の脇には、だらしなく口を半開きにした妖兎コンビが転がっていた。
「心配要らないわ。ほら、苦しそうじゃないでしょう?」
「確かに、何か新しい扉を開けてしまったかのような顔ですね」
頬を上気させたなんともインモラルな2人の表情をカメラに収めつつ、文は言った。永琳はというとそんな文を止めるでも無く、あらあらうふふと微笑んでいた。
「ところで、どんな内容の取材をしていたのかしら?」
「今回は永遠亭のファッション事情の特集を考えておりまして。鈴仙さんの服装についてうかがっていたんですよ」
「あぁ、この子の服装はバリエーション豊かなのよ」
「へ? いつも定番の格好だと仰っていましたが……」
カメラのシャッター16連写を終えた文が、いぶかしげに永琳を見た。
「甘いわね。確かに表面上は定番よ。でも――」
言いながら、永琳は箪笥の引き出しを引き開けた。ほんに、この師匠は弟子のプライバシーにお構いなしである。
「この八意永琳が、一番弟子に着た切り雀のような扱いをすると思う? ちゃんと変化を持たせているわ」
さらけ出された引き出しの中は、鮮やかなお花畑だった。赤白黄色、青に紫に光沢のある黒、フリルから紐のようなもの、そして定番の縞模様から大小様々なドット――誇張ではなく、文字通りの百花繚乱という光景が文の前に表れたのだった。
「こ、これは!」
「ウドンゲのぱんつは、全て私のコーディネートよ。一切の妥協を許さぬ、何処に出しても恥ずかしくない品揃え!」
「いや、何処に出しても恥ずかしいと思いますよ。ものがものですし」
自分の才能が怖いわ……と永琳は悦に入っているため、文のツッコミなぞ聞こえていない。
「それにこれは、私だけのためではないのよ。この子を慕うてゐ以下の兎達にとっては明日への活力となり、診療所に訪れる患者さんにとっては心のカンフル剤になっているわ」
色取り取りの布地を身につける月の兎は、永遠亭だけではなく幻想郷の健康バランスを担っているらしい。
「丸見えでは、はしたない。しかしガードが堅すぎてもいけない。それぞれのぱんつ、その日の湿度と風速に合わせ、スカートの丈も最適になるように私が厳しく管理をしているの」
豊かな胸を反らし、天才薬師は誇らしげに言った。本当に、この師匠は弟子にとって天災のようである。
「表面はいつも変わらず。しかし花園に咲く花は日々変わりゆく……これこそ、粋というものなのよ」
「はぁ……これは恐れ入りました」
「ちなみに今日は、淡いピンクのぱんつを穿かせたわ。ちょっと肌寒いから、これで皆の基礎体温を普段より高めにしているのよ」
鈴仙さん、強く生きて下さい。まだ意識を取り戻さぬ薬師の一番犠牲者に、文は心の中で声援を送った。
「で、では今度は輝夜さんに取材をしたいのですが……」
「じゃ、姫の部屋に案内するわ。あ、そうそう。先客がいるけれど、大丈夫よね?」
先に立って廊下へと出たところで、永琳が思い出したように言った。
「私は構いませんが。どなたがおいでなんです?」
「妹紅よ」
「……客なんですか?」
「姫にとっては、一番大切なお客様よ。今日は碁に興じておられたわ」
永遠という時を生きる者同士、幾度となく殺し合いを続けている内に目的と手段が入れ替わり、いつしか2人の死闘は娯楽となっていた。いびつな形とは言え娯楽を共有できるようになった事から、今では囲碁や将棋といった文化的な暇つぶしにも興じるようになったそうだ。
「もちろん、勝負の結果から殺し合いに発展するわ。でも随分とその頻度は減ったのよ」
「お二人とも成長した……という事ですか」
「いいえ。なかなか決着がつかないようにしたのよ」
失礼しますと声を掛け、永琳が障子戸を引き開けた。
「姫、新聞記者を連れて参りました」
「あら、いらっしゃい」
「よう」
輝夜はにこやかに、妹紅はぶっきらぼうに応じた。
「……なんですか、これは」
永琳に続いて入室した文は、浮かべていた営業スマイルを引き攣らせた。
「碁よ。見たことないかしら?」
「いや、私が知る碁とは随分違っているようですから」
月の姫と蓬莱人は対局の真っ最中だった。文が戸惑ったのは、その碁盤の大きさである。
不死人達の間にある碁盤を形容するならば、巨大、いや広大だった。碁盤の大きさは畳半畳ほどもあり、細かいマス目を見つめていた文は目が痛くなった。そんな広大な碁盤の上に妹紅は膝立ちになって身を乗り出し、パチリと音を立てて碁石を置いた。
「ま、あたし達が使っている碁盤は、ちょいと大きいがな」
「一体、何目あるんですか」
「これは38路盤よ。普通の倍ね。一局にかかる時間は、倍じゃきかないけれど」
「気の長い話ですねぇ……」
「時間なら、いくらでもあるからな。結果が互角だったら、更に碁盤を3つ足して耐久戦を続ける事もあるぞ」
妹紅が顎で示した先には、同じ大きさの碁盤が3つ並べられていた。
「ただでさえ普通の倍はある碁盤を、さらに拡張するんですか。1日では終わりませんよね」
「最高記録は、この碁盤を16連にした対局ですね。あの時は、不眠不休で5日目に相打ちになったんでした」
頬に手をやり、永琳が微笑ましそうに回想している。肉体ではなく精神を限界に追い詰めたからか、双方共にリザレクションには3日かかったそうだ。
「それでブン屋さん、今日は何のご用かしら。私たちの対局を取材に来たわけではないでしょう?」
「あー、はい。本日は永遠亭の皆さんのファッション取材に参りまして。よろしければ、妹紅さんにも取材をさせて頂きたいのですが」
「あたしもかい? 別にかまわないよ」
ちょうど打ち終えたところだからな、あたしに先に訊いてくれと言って、妹紅は文の方に向き直った。
「では、伺います。妹紅さんの服装はいつも同じようですが、こだわりがおありなんですか?」
妹紅と出会ってからかなり経つが、文は白いシャツにブレイシーズで吊した紅のもんぺという格好以外の妹紅を見たことがなかった。
「んー? こだわりってほどのものでもないけど……これが一番動きやすいからな。ファッションなんて興味無いし」
「元が悪くないんだから、もうちょっと気を使えば良いのよ」
袖で口元を隠して笑いながら、輝夜が茶々を入れる。うっさいなと、妹紅は渋面で腕組みをした。
「では妹紅さんの庵には、同じシャツともんぺが何着も?」
「いや、替えは用意していない」
「洗濯の時に苦労されそうですね」
「洗濯なんて必要ないさ。リザレクションする時に、服も新品になってくれるからな」
「……は? そ、そりゃどういう原理ですか」
無茶苦茶な話もあったものである。
「原理なんて知らないさ。ただ、生き返る時に服が新しくなるのは間違いない。たぶん長年着ているせいで、服もあたしと同化しちゃったのかもな」
洗濯の必要があれば、瀧に飛び込んだり崖から飛び降りれば済むのさと、カラカラ笑いながら付け加えた。
「は、はぁ……。輝夜さんの着物もリザレクションするんですか?」
「そうだったら苦労はないんだけどね」
ちらりと永琳を見て、輝夜は応えた。どうやら服にリザレクションの機能を付加するには、何百年と着た切り雀をせねばいけないようである。
「だから、私は妹紅と殺し合いをする度に新しい服が必要になるわ。でも、そうなると衣装代が嵩んでね」
言いながら、輝夜は足を崩さずに宙へと浮かび、優雅な手つきで碁盤の真ん中に石を置いた。盤上が広大過ぎて、座したままでは石を置けないのだろう。
「永琳、隣の部屋からあれを持ってきてちょうだい。あなたが接いでくれたあの着物を。それと、運動着も」
「承知しました」
一礼して、永琳が部屋を出て行く。それを見送り、輝夜は言葉を続けた。
「腹に据えかねたんでしょうね。ある日、いつものように妹紅との殺し合いから目覚めた私は、永琳お手製の着物を着せられていたのよ」
「――お待たせ致しました」
永琳が捧げ持ってきた盆には、彩り鮮やかな着物が乗せられていた。失礼しますねとそれを手にした文は、顔をしかめた。
「なんなんですか、この不思議な服地は」
「妹紅との殺し合いで焼け残った姫の着物の切れ端を集めて、継ぎ接ぎしたのよ」
その着物は、大きくても親指の爪ほどしかない細かい切れ端同士を無数に繋げた生地で作られていた。
「言葉で言っても馬耳東風だと思ったんでしょうね。永琳は行動で私に示したのよ」
「……永琳さん、これを作るのに何年かかりました?」
「十年ほどだったかしらね。千着以上の切れ端を使ったのよ」
戦闘で残った服の切れ端から、綺麗なものだけを選んで継ぎ接ぎしたのである。こんなものを作られては、どんなお説教よりも反省せざるを得ない。
「今は戦闘の時に何を着られるんですか?」
「これよ」
輝夜は、盆に着物と一緒に乗せられていた小豆色のジャージを手にした。
「動きやすいし、安価なのよ」
ジャージの大元が作業着であり、外の世界では運動選手が愛用しているのだから、動きやすさは折り紙付きである。
「威厳も優雅さも無いけれど、消耗品としては悪くないわ」
「いやー、似合ってるぞ? なんとも野暮ったくて」
にひひとにやついて、今度は妹紅が茶化した。
「なによ、このもんぺ!」
「うっさい、小豆色! やるかぁー!?」
「受けて立つわ! 着替えてから行くから、先に庭に出てなさい」
「おうよ。3分間待ってやる」
「40秒で支度してやるわ」
あれよあれよという間に輝夜は隣の部屋に、妹紅は廊下へと出て行ってしまった。なんだかんだ言って、良いコンビである。
「あやややや、始まっちゃいましたね」
「あらあら、お客様の前だというのにねぇ。後から、姫にはお仕置きが必要かしら」
相も変わらず柔和な表情で、永琳は言った。
永琳に促され、文は主のいなくなった部屋を後にした。
「ウドンゲと姫、それに妹紅への取材は終わったんだったわね。後はてゐと私かしら」
「ええ。是非とも」
「構わないわよ。そもそも取材を勧めたのは私なのだから。――そこのあなた、てゐが今どこにいるか知らないかしら?」
廊下ですれ違った妖兎に、永琳は問いかけた。
「てゐ様なら、湯浴みをなされています。私は、これからてゐ様のお着替えをお持ちするところでして」
そう言って、妖兎は手にしたピンクの服を目で示した。
「わかったわ。じゃあ、あなたの部屋で会いたいとてゐに伝えてちょうだいな。私たちは、中庭にいるわ」
かしこまりました、と妖兎は頷いて去って行った。
「てゐがお風呂から上がるまで、姫様と妹紅の戦闘でも見物していましょう。弾幕が綺麗だから」
「永琳さま、呼んだー?」
たーまやーと不死人共の弾幕ごっこを見物していた文達が声を掛けられたのは、あれから30分ほど後の事だった。
「あら、今日は随分と早かったのね。急かしてしまったかしら?」
「んー、永琳さまの整体のおかげか、今日は調子が良かったんで」
長風呂をしなくても十分に凝りがほぐれていたんでと、てゐは答えた。
「半時も入浴していて、それで早いとは……。長風呂がお好きですか」
「あんたは一瞬だろうね。烏の行水って言うくらいだから。で、御用は?」
軽口を交わして、てゐは切り出した。
「その行水の大家が、あなたに取材を申し込みたいそうよ」
「なんですか、行水の大家って。まあいいです。てゐさん、よろしいですか?」
「うーん……そうねぇ、取材を申し込むからには、それ相応の礼はあるんでしょうね」
う詐欺様は、本日も絶好調のようである。悪そうな笑顔を浮かべるてゐに、しかし文はちゃんと切り札を用意していた。
「今度の永遠亭特集号では、八意整体院の全面広告を掲載させて貰いましょう。もちろん、本紙契約記者の体験レポート付きで」
「なによそれ、そんなの――「大変結構だわ。てゐ、誠心誠意でお答えなさい」――ちょっ!?」
てゐが口をとがらせて文句を言おうとしたが、永琳先生は大変に乗り気だった。
「ファッション特集だったわね。なんだったら、てゐの着替えシーンの撮影も特別に許可するわよ」
「いや、流石にそれは」
「冗談じゃないよ! そういうイロモノは、鈴仙さまの担当でしょ!?」
鈴仙、頑張れ。君の前途は難しかないようだが。
「私のファッション、ねぇ。面白くないよ?」
自室に文を招じ入れたてゐは、箪笥の引き出しを開けながら言った。
「あやや、てゐさんも定番の服装を決めているんでしたね」
引き出しの中には、てゐのパーソナルカラーとも言うべき薄桜色ばかりだった。だが、その色合いは微妙に違うように見える。色の違いは素材の違いによるものらしい。
「色合いは同じですが……素材が異なっているんですか?」
「おっ、お目が高いね。そう、健康に最も良い服地を求めて、色んな生地を使っているのよ」
てゐの趣味といえば、悪戯と小銭稼ぎの他に健康と長寿の探求もある。その趣味が服地の素材にも反映されているようだ。
「各種素材で体への負荷がどれほど違うかを見るには、同じ色と同じデザインでないと比較できないからね。私の服は丈も幅も全部同じよ」
ほら、と何着かのワンピースが広げて重ねられたが、どれも寸分違わぬ大きさだった。
「ちなみに、これまでの探求からお勧めの服地はありますか?」
「んー、目の細かい木綿が一番優秀だったけど……綿花の質が落ちてきたのか、ここ数十年のはあまり良くないね」
何十年何百年と続けてきた理想の服地探求は、単純な素材選びに留まっていなかった。いつ、どこで、織り手の腕前、織られた時期にまで服地探しにこだわりを持っているのだった。
「服の素材を甘く見ちゃいけないよ」
「すいません、舐めてました」
えっへんと得意げな顔で言うてゐの言葉に、文は思わず謝ってしまった。
「最後に、永琳さんに取材をしたいのですが……」
「ん、私の取材が終わったら案内するように言われてるよ」
こっちだよと、てゐは先に立って廊下を歩きだした。永琳の診察室とは逆方向で、文がこれまで踏み入った事のない場所だ。という事は、診察室と永琳の私室は分けられているのだろう。
「実は、私も入った事がないんだよねー。永琳さまのお部屋って」
「おや、そうなんですか。何か秘密にされているんですかね?」
「いやー……普段は1階の診察室とか書斎で過ごしているからじゃないかな。なんか地下の部屋って、倉庫らしいよ」
長い長い廊下の行き止まりにあるドアを開け、これまた長い階段をどんどんと下っていく。途中にいくつもの踊り場を持つ階段は、とても一般家屋にあるものとは思えなかった。外の風景が見えないために見当がつかないが、地上なら10階分の高さに相当する深さがあるのではないだろうか。
「長いな……どこまで降りりゃいーんだか」
一本道なので迷う心配は無いのだが、こうも深く降りていくのは不安を煽られるものだ。そもそも、永琳は朝な夕なにこの階段を上り下りしているというのか。
やっと辿り着いた最深部は、文やてゐにとって大変に奇異な空間だった。ぽっかりと空いた空間には、柔らかな明かりが満ちていた。だがその光源である灯りが見当たらない。火の光ではない、かといって紅魔館で馴染みになっている魔道の燈とも違うようだ。それに壁に床、そして天井にも戸惑わされた。木材とも石材とも異なる、見たこともない建築資材。継ぎ目や角張った部分が見当たらず、まるで磨いたかのツルツルである。
「えーと……これ、なに?」
「私に訊かれても、なんともかんとも。地上の建築物とも思えませんね。月の技術でしょうか?」
どこから入ってよいか分からずにあちこちを撫でたり叩いたりしていると、シュッとかすかな音を立てて壁面の一部が滑り開いた。
「うわっ!? ――れ、鈴仙さんでしたか。驚かさないでください」
「ごめんごめん。でも、予告のしようが無いわよ。師匠がお待ちよ」
鈴仙によって開けられた扉は、エアー・ロック式だった。幻想郷の外の世界でもまだ一般的でないものだが、永遠亭の地下に据え付けられたものは、明らかにオーバーテクノロジー……つまり月世界の英知によるものだった。
エアー・ロックは外部からの空気の流入、あるいは外部への空気の流出を避けるために設置される。極めて危険なウィルスの研究施設、塵や埃が御法度の精密機器の製造工場に必要不可欠なものだ。エアー・ロックの内側、は不思議な紫がかった光に満ちた小部屋になっていた。
「しばらく待ってね。この光には滅菌効果があるのよ」
5秒ほどで光の色は乳白色に変わり、奥にある戸が開いた。その奥もまた小部屋になっており、今度は緑の光と服の裾がはためくほどの風が吹いていた。
「服や髪についた有害物質を除去する消毒よ」
その次の部屋には、上から下へと走る光線を浴びせられ、その次の部屋では赤い光を照射され、更に次の部屋では白い気体を頭から噴射され――いくつもの小部屋の洗礼を受け、ようやく3人は永琳と再会できた。文を驚かせた事に、椛も永琳の脇にある椅子に腰掛けていた。
「ごめんなさいね、手間取らせちゃって。でも、この部屋の環境を一定に保つためには、最低限の措置なのよ」
部屋の中はどのような想像を絶するハイテクノロジー空間かと思いきや、何も無い真っ白な空間だった。部屋の中央には真っ白な椅子があり、永琳が形の良い足を組んで座っている。理解できない空間を延々と移動させられて呆然としている文とてゐ達を、永琳は和やかな笑顔で出迎えた。
「これで最低限って……。師匠、軍の技研本部だってここまでやりませんよ」
呆れたように鈴仙が言った。月の民にすら、この部屋は異常らしい。
「ところで、椛はどうしてここに?」
先ほどから気になっていた事を、訊いてみた。こんなに怪しげな地下施設に、何を考えているのか掴みようのないマッド・ドクターと共にいるのだ。椛が人体実験の被験者にでもされていないかと文が警戒したのも、無理はないだろう。
「寝てばかりなのも退屈でしょうし、あなたもすぐに病室を出て行っちゃったでしょう? 気分転換になるんじゃないかと思って招待したのよ」
「永琳先生に『面白いものを見せてあげる』と誘われたんです」
どうやら何か体に埋め込まれたわけではないようなので、文は密かにホッとした。
「では早速だけど、見てみる?」
そう言って、永琳は手にした銀色の細い棒を軽く振った。すると白い壁が一瞬にして透明になり、壁の向こうに空間が出現した。
「……こ、これは……!!」
突如として出現した空間は、なんとも形容しがたいものだった。見上げれば見切れないほどに天井が高く、目をこらしても向こうの壁が見えない。永遠亭がすっぽり収まるのではないかと思える広い広い空間には――赤と青を組み合わせたお馴染みの永琳の衣装がズラリと何段もの高さに、そして何列もぎっしりと並べられていた。
文も椛もてゐも、そして永琳の一番弟子である鈴仙さえも言葉を失い、口をあんぐりと開けて眼前の光景に驚嘆した。
「永琳さん、これは一体……」
「ご覧の通り、ここは私の衣装室よ。私の服は、ここで最適な環境を保って厳重に保管されているの」
「これが全部……」
鈴仙が呟いた。これが全て永琳の服だとしたら、想像を絶する数である。文の白シャツコレクションなど、これに比べれば無も同然だろう。
「……何着あるのさ、これ」
てゐも、毒気を抜かれたように呟いた。
「こっちの保管庫には、1億着ね」
事も無げに、永琳が言葉の爆弾を放った。個人が所有する服のレベルなど、那由多の彼方に飛んで逝ってしまっている。
「反対側の保管庫には、この倍以上あるわ」
そう言って、手にした銀色の棒を反対の壁に向ける。同じように壁が開いた向こうの空間にも同じような服の連なりが見える。だが今度の空間は地下にも服の連なりが続いており、奈落の底がどこまで続いているのか肉眼では見極めようがなかった。
「これまでに袖を通した服は、洗浄してから全て仕舞ってあるわ」
銀の棒を、今度は肩越しに背面の壁へと向けた。またまた無限とも思える広さの服の小宇宙が表れた。
「……えー、それで……同じ服に見えますが、そうなん……でしょうか……?」
「そうよ。寸分違わぬ寸法、全く同一の素材、裁縫も共通――言わば服のクローンね。私が長年の研究の末に辿り着いた、究極の素材、製法、デザインによるものよ」
3億枚以上の、まったく同じ服。聞くだけでゲシュタルト崩壊を起こしそうな話だった。しかも、これまでに袖を通した分は含まれていないというのだから、天災以外には理解しようとする努力すら空しい話だった。
「これだけ用意しておけば、全ての服に袖を通し終えるまでに82万年超かかるわ。それからも、99.999999999%の服はほぼ無傷で洗浄して仕舞ってあるから、2巡目に入れるのわね。本当なら100万年のサイクルが出来るだけの服を用意したかったんだけれど、用意し終える前に地上に来てしまったのよ」
得意満面で永琳は話を続けていたが、今回も爆弾を投じてくれたのは椛だった。
「永琳先生、82万年ですか?」
「ええ、そうよ。そして繊維の耐久性からいって、少なく見積もってもこれらの服だけで800万年はやっていけるわ」
どうだ参ったかと言わんばかりに勝ち誇る永琳だったが、対する椛の表情は晴れない。
「失礼ですが、永琳先生って不死なんですよね?」
「ええ。それが?」
「では、800万年後は何を着るおつもりですか」
3億着に800万年というのは、確かに想像を絶する数字だ。椛や文、てゐに鈴仙にしてみれば無限にも等しい。だが、「不死」という言葉が文字通りのものであるのなら、限りある服の在庫が尽きた先も、まだまだ生きねばならないのだ。
だが、この薬師は天才だった。
「そう、あなたの言う通りね。随分と先の話のようだけれど、永劫の時からすれば800万年なんて瞬きをする間に過ぎてしまうわ」
「ねぇブン屋さん、姫の部屋で妹紅が言っていた事を覚えているかしら?」
「へ? え、えぇと……妹紅さんがリザレクションする時に、服も一緒に新しく蘇るという話ですか」
突如話を振られた文は、驚きながらも記憶を探って答えた。
「そう、妹紅が蘇る時に服も蘇るのよ。原理は解明されていないけれど、事実は揺るがないわ。元が月の民と地上の民という違いはあるものの、妹紅と私に共通するのは不死であるという点――。だから、私も妹紅を実践することにしたの。それによって、この完璧な私の服と私は真に一体の不死となれるのよ」
「妹紅さんの実践? どういう意味でしょうか」
メモを取る手を止めて、文が眉根を寄せた。
「そう難しい事では無いわ。同 じ 服 を 着 続 け る の よ 」
「……………」
「……………」
「……………」
文が、鈴仙が、そしててゐでさえ、黙り込んでしまった。思いついた言葉を口にする事は、何か悲劇を呼ぶに違いない――そう咄嗟に悟り、口をついて出ようとした言葉を留めたのだ。
「うげっ、汚っ」
事実は、時として人を傷つける。得意満面だった永琳の表情が、わずかに引き攣った。
「あら犬走さん、それはどういう意味かしら……」
まぶしい笑顔。だがそれは、嵐の前触れとなる強い風が雲を吹き飛ばした陽射しなのだ。
「いや、だってそうじゃないですか。同じ服をずっと着続けるって、医療従事者なのにどんだけ非衛生的なんですか」
人は生きていれば、汗もかけば体臭も放つ。それは月人だろうと蓬莱人だろうと同じ事だ。
「で、どれくらい着ておられるんですか?」
「えぇーと……3ヶ月くらい?」
「近寄らないで下さい」
椛が鼻を手で覆い、素早く後ずさった。白狼天狗の中でも群を抜く視力に恵まれた椛だが、種族的な要因から嗅覚も鋭敏だったのだ。
「ちょっ……そ、そんな言い方は無いんじゃないかしら!? ちゃんと毎日しっかりと入浴しているわよ!」
普段の冷静さの面影も無く、永琳は叫んだ。永琳は気づいていなかったが、てゐも「……えんがちょ」と呟いていた。
「服を着続けて入浴ですか? つまり、湯船で着衣のままで洗濯もしていた、と」
「それはそうよ、脱ぐわけにいかないんだから」
「あぁー、だからか」
納得がいったというように、鈴仙が手をポンと打った。
「ここ1月ほど、湯船の汚れが酷くて困ってたんですよね。入浴する度に、弱い兎達が皮膚炎を起こしていたんだけど、それはきっと師匠の服の汚れが――」
「――神脳『オモイカネブレイン』(Lunatic)っ!!」
一切の慈悲も手加減もない、全力全壊のゼロ距離スペル発動だった。しかし、ここは永琳に同情すべきだろう。女性に対して臭いだの風呂が汚れるだのといった事を言うのは――だがその原因は全て永琳に帰すのだから、同情の余地は無いのかもしれない。
幸……い? 室内にいた全員がスペルの発動によってピチューンしてしまったため、天才薬師の心の傷はこれ以上増えなかった。。張本人である永琳すら自爆してしまったのだから、彼女がいかに傷つきうろたえていたかが伺えよう。そしてこちらは確実に幸いなことだろうが、椛も昏倒してしまったため、更なるハートブレイク攻撃は行われなかった。おそらく彼女なら、無表情で訊いた事だろう。「兎たちは、全身水虫にでもなったんですか」と。
永遠亭のファッション取材から1週間後、やっと文と椛は退院できた。
椛はオモイカネブレインで吹き飛ばされた際に、ご丁寧にもまた頸椎を粉砕してしまったため、また生死の境を彷徨っていたのだった。文も文で、再びうなされつつ人事不省に陥っていたのだった。
「……やっと帰れますね、文さま」
「ええ、悪い夢でも見ていたような気分です」
医療従事者の鏡と言おうか、いたく自身を傷つけた文や椛に対しても、永琳は手を抜くこと無く治療に当たった。まぁ、点滴の中に「胡蝶夢丸リキッドタイプ」と書かれた薬液パックが混ざっていたが、当の本人達は気づかなかったのでいいのかもしれない。
「意識不明でいる間、また閻魔様にお説教されましたよ。『忙しくて着替える時間もゆっくりと湯浴みする余裕も洗濯する暇も無くて悪かったですね! 小町と一緒に地獄逝きぃぃぃっ!』と怒鳴り散らされましたよ」
「私は、天魔様と香霖堂のご主人が『しあーわせーの黄ばんだふんーどしー』と歌いながら踊るのに、延々とつきあわされる夢を……うぅっ」
隈取りでもしたのかと言わんばかりに、文の目の下は黒く鬱血して頬はこけ、鈴仙よりも目は赤く充血していた。
「……それで文様、新聞はどうされるおつもりですか」
「……永琳さんと、『お話し合い』をしましてね。他の方々については取材した通りに、永琳さんについては多忙のために話をうかがえなかったので、またの機会に取材を申し込みたい……とまとめる事になりましたよ」
しばしの沈黙を挟んで、またも椛は要らん事を言った。
「玉虫色で決着ですか」
「いやいや、なんでも自分で着ないでも着ているのと同じ状態にする研究というのを始めたそうですよ」
「なんですか、そりゃ?」
「私もよく分からないんですが、蓬莱の薬を混ぜた培養液の中に服を入れ、リザレクション能力を付与する研究……とかなんとか」
上手くいったら、研究成果の発表を兼ねて取材に応じてくれるそうですと、文は話を結んだ。
どうでも良いことだが、この「お話し合い」をするにあたり、永琳の手にはプランジャーを一杯に引いた、空の極太注射器があったらしい。白黒の魔法使いですら、快く頼みを引き受けたくなろうというものだ。
「今日は新聞の事を忘れましょう。さっさと懐かしの我が家に帰り――嗚呼、我が家は潰れたんでした」
文が開眼した空気の振動すら操る程度の能力によって、射命丸宅は倒壊したままであった。
「潰れたんでなく、潰したの間違いですよね? じゃ、建て直すまで私の家に来ませんか」
「えっ、いいんですか?」
「他に当てがあるなら、無理にお呼びしませんが。その、文さまのお宅が壊れた原因は私にもあるし、白狼天狗として上司を路上生活させるわけにもいきませんし……」
思いもよらなかった椛からの申し出に、文は目に生気を取り戻した。対する椛はというと、とってつけたような理由を並べて、横を向いてしまった。よっぽど恥ずかしかったのか、忙しなく尻尾が揺れている。それを見た文は、久方ぶりに笑顔を浮かべた。
「それじゃしばらくお世話になりますよ、椛」
「はい、よろしくお願いします!」
「それは私が言うべき言葉でしょう。さて、では妖怪の山に急ぎましょう。もう日暮れですからね」
「そうですね、行きましょう!」
〈了〉
修正後の物語、楽しませていただきました!
リザレクションにそんな秘密があったとは…
そしてなにより、ちょっといじらしい椛さんかわいい・・・!
射命丸さんを自宅に招き入れるという事は、所持する服もばれるというのに、これはのちの生活も楽しみですね