ヒマワリの花言葉『私はあなただけを見つめる』
私は人間が嫌いだ。
彼らは弱い。
あまりにも脆い。
私の腕の一振りで砕け散ってしまう。
大きな力を目にすると、途端に卑屈になる。
彼らは自分を見ると引きつった顔で、途端に作られた笑顔を浮かべた。
やめろ、そんな表情を浮かべるのを。
やめろ、そんなにも私は恐ろしいのか?
この力は生まれ持った力。
生まれつき備わってしまった力。
私が望んで得た力じゃない。
なのに。
なのに。
何時も思う。
何故妖怪の、自分が住む幻想郷に人間がいるのだ。
人間などいなければいいのに。
いなくなってしまえばいいのに。
風見幽香は静かに呟いた。
隙間から奴が私を覗き囁く。
「残念だけどここは幻想郷。外から排除されたモノたちが集う場所。あなたも社会不適合者とでも呼ばれるのかしら。ねぇ、お花の妖怪さん」
うるさい。コムヅカシイのは嫌いなんだ。
私は隙間から顔を出し、自分を見る金髪の少女めがけて、右腕を一閃させる。
普通なら、肉と血をぶちまけて相手は黙る。
だが、そこに獲物を捕らえた感触は無かった。
「おぉこわい。そんな貴女に予言しますよ。人間は弱く脆い。だけどそれ故に強い。それを貴女は身をもって知るでしょうね」
隙間は現れた時と同じ様に唐突に消える。
だが彼女が残した言葉が、私の心の何処かに妙に引っ掛かった。
初夏。
燦々たる太陽の下、向日葵の畑にて。
狂う様な蝉達の鳴き声の雨の中。
花畑の散歩中、幽香は人間の少年と出会った。
4歳くらいだろうか。
群青の、かすりの着物を着た男の子。
伸ばし放題の長い黒髪の為、その姿が一瞬女の子に見えた。
どこから迷い込んだのだろう。いや、ここまで人間の子供が一人で無事に来られるのはおかし過ぎる。
周囲には妖怪の住む森が点在する。本来なら肉の柔らかい子供など、とっくの昔に餌食にされていてもおかしくない。
最初、力を使わず言葉で追い帰そうとする幽香に対して、少年はキョトンとした顔をしていた。
まるで自分がどんな状況にいるのか解らない様だった。
お前の前にいるのは、恐ろしい妖怪なんだよ。
人間を食べる妖怪なんだよ。
今度は日傘から光の奔流を走らせる。天に向かい轟音と共に七色の光芒が走った。
だが彼はそれに怯える風も無く、逆にもっともっとと腕を上げ急き立てる。
この子供は馬鹿なのか。阿呆なのか。
そして幽香は気付いた。
彼は、耳が聴こえていないのではないかと。
私の罵声も、光の暴力の音も伝わっていないのではと。
彼は生まれつきの障害の為にここに捨てられたのだ。今まで育ててくれた両親に。
子捨てなど珍しい事では無い。
生活に困った人間がよくする事だ。
そして、妖怪が跋扈する場所に放置すれば、あとは綺麗に片づけられる。骨も肉も微塵と残らずに。
「うぅ~?」
不思議そうな目で少年は幽香を眺めた。もう終わりなの?などという感じの表情を浮かべながら。
彼は耳が聞こえない聴覚障害者である。
だから、こちらからどれだけ語りかけても会話が成立しない。
私の言葉は、彼に届いていないのだから。
「あぁうー、うー」
言葉にならない声を上げる少年。
少年は、幽香のタータンチェックのスカートを掴みニコニコしている。
その表情には恐怖など微塵も無かった。
彼女がどのような存在かも知らずに。
どれくらい恐ろしい存在かも知らずに。
「ふん、ペット代わりにでも置いてみようかしら」
そう呟き、幽香は自分を恐れない少年を家に連れて帰る事にした。
最初は興味本位だったのだ。
妖怪の自分が、人間と共に時間を過ごせるのかと。
人間と、どの位時を共にできるのかと。
暇つぶしに、幽香は少年に言葉を教える。
「ゆ」
砂の上に白い指で文字を描く。同時にその発音を唇で続ける
「うぅー、ゆ……、うゆっ!!」
少年のたどたどしい言葉が、音を紡ぐ。
彼の指を自分の紅い唇に当て、幽香はつぶやく。
「ゆ」
振動が指に伝わる。
「にゅぅ~、にゅゆぅ~」
「う」
口の開け方が目に伝わる。
「うぅ~」
「か」
声の出し方が、息を通して少年に伝わる。
「くぅあ~」
彼女はだんだん楽しくなってきた。
言葉を知らない人間の子供に、妖怪の自分がそれを教える。
なんだこれは、何の冗談だ。
私は妖怪。それが何をしているんだ。
彼女自身気が付かなかったが、それは母親が我が子に対してとる、慈しみの語りかけだった。
幽香の懸命な教育により、少年は少しずつ、本当に少しずつ言葉を覚えていく。
彼女が、いつか興味本位で人里からクレヨンを買ってきた時。
「ゆうか!!」
少年が幽香を呼ぶ声に不明瞭な発音は無かった。
彼女の名前を、彼は完璧に発音した。
それ以外の言葉はまだ、聞き取るのが難しかったが。
その紙には、少し歪みながらもヒマワリと大きな笑顔を浮かべる幽香が描かれていた。
彼女は少年に呟く。
「もう、私はこんな顔しないわ。もっとクールに描きなさい」
「うゆぅ~」
「うそうそ、あなたが書いてくれたものは全てが嬉しいわ」
笑顔を浮かべる幽香の手で、頭をグリグリと撫でられる少年は、とても嬉しそうだった。
柔らかな春が訪れる。
冬の間に溜まった、枯れた花達を幽香と少年は荼毘に灯す。燃えていく花達を見て、少年は手を合わせた。
この子は今、何を思っているのだろう。
少年の隣で、手を合わせながら彼女は思う。
身を焦がす夏。
太陽の様にその姿を誇るヒマワリ。その姿が少年を魅了する。
「この花は私の一番のお気に入りなのよ」
「これ、ゆうか、みたい」
思わずその言葉に微笑む彼女。
そうね。でも、あなたも同じ。
あなたも私を照らす太陽の様。
豊穣の秋。
「今はね、お花達が冬を越える為の一番大事な時なの。だから、たくさん栄養を取っているのよ」
「ぉうくも、おなかへったら、こまる」
「ふふっ、そうね。じゃぁ、おやつの時間にしましょうか」
「うん!!」
幽香はその言葉に微笑む。
しんしんとした冬を楽しむ。
「くぉれ、なに?」
「炬燵よ。さぁて~つかまえちゃうぞ~」
幽香は少年の体を抱きしめる。
彼女に笑いかける少年。
雪に包まれる花畑の中の一軒家で。
そこから聞こえるのは、妖怪と人間の楽しそうな笑い声だった。
妖怪と人間が、同じ屋根の下で時を過ごす。
今までの幽香には考えられない事だった。
ペット代わり。
最初の頃に思った、飽きたら捨てればいい。
そんな事は、既に幽香の頭の中には無かった。
彼女が少年に教えるのは、簡単な日常の言葉と花の名前だった。
向日葵の畑には、それ以外の花も咲く。
ある日、少年は小さいが太陽の様な花を見つけた。
幽香が少年の手を取り、手の平にその名前を教える。タンポポと。
「チャ、チャンポポ?」
嬉しそうな顔でその花の名前を口にする少年。
「タンポポ。花言葉は『真心の愛』。貴方には難しいかもね」
「うぉく、チャンポポになる」
その言葉と表情に、彼女は何かじんわりと胸が暖かくなるのを感じた。
「そぉね、期待してるわ」
自分が編んであげた、少年の三つ編みを優しく撫でながら幽香は思う。
これが、幸せなんだろうかと。
そして、あっという間に2年の月日がたった。
少年の背は少しづつ伸び、その言葉の語彙も増えてゆく。
やんわりとした会話もできるようになり、幽香と少年の、恐れられる妖怪とその贄になるべき人間の奇妙な生活は続いていた。
「まだあの人間を生かしていたのね」
隙間からまた奴が呟く。
「貴女が何を言おうが、私の勝手にさせてもらうわ」
「おぉ怖い怖い。でも、あなたは身をもって知るでしょうね。人間の弱さを、脆さを。貴女、あの子を『食べてみたい』とは思わないの?」
唇の端を歪めながら金髪の少女が呟く。
「人間なんて『食べて』しまえばいいのよ。そうすれば儚く消える人間を、何時までもこの体に共有できる。最後の時まで一緒にいられる。過去に私がしたように。さぁ、『食べて』しまいなさい」
整った顔が、ほんの少し表情を変えるだけで吐き気を催す様な、まるで以前の自分の様な、人外の面を現した。
「消えろ!!」
隙間は、私の爪の前で消え去った。
忘れる事の出来ない言葉を残して。
とある日の事だった。
人里へ、作った商品を売りに行った幽香の帰りが遅く、探すために闇の中へ少年は家を出る。
外は雨が降り始め、次第に雷も落ち始めた。
だが、少年の耳に自然が起こすその轟音は聞こえない。
彼は目をこらし探し続けた。
彼に微笑んでくれた彼女の姿を。言葉を教えてくれた彼女を。何物にも変え難い彼女を。
そして。
花畑の隅。たびたび注意されていた崖のそばで。
突然の崩れ落ちる土砂に押し潰され、少年は気絶した。
「これなら、あの子も色々言葉を覚えられるわね」
降り頻る雨の中、傘を差しながら幽香は呟く。
売れた商品のお金で、彼女は少年の為に木で出来た言葉遊びのパズルを買ってきた。
これを見たら、あの子はどんな顔を浮かべるだろう。
そして、里の人間とのやりとりを思い出し、幽香は小さく微笑んだ。
『はい、これが今回のお礼です。ところで……』
彼女が自分で作った、花の染め物を納めている小道具屋の女主人が言う。
『幽香さん、誰か良い人でも出来たんですか』
『えっ?』
女主人は態度を変える事無く、けれども笑いながら言葉を続けた。人里で、幽香を恐れない唯一人の人間でもあった。
『最近のあなたは、なんだか丸くなった。トゲトゲした物が無くなった。そんな気がします』
彼女は笑う。
『そうね、いるわよ。まだ六つくらいだけどね。きっと良い男になるわ』
その言葉が嬉しくて、寄り道が重なり帰るのが何時もより遅くなってしまった。
笑みを浮かべながら家のドアを開く。
「ただいまぁ~。ってあれ?」
何時もならば、こぼれる様な笑顔で自分を迎えてくれる彼がいない。
家の中、返事の無い少年を幽香は探す。
彼女の家に少年はいなかった。
荷物を置き、急いでドアをくぐる。
まさか、私を探してこの外に出たのでは。
雨の中、幽香は外に飛び出した。
「どこにいるのぉ~!!」
叫んでから気が付いた。
しまった、あの子は耳が聞こえない。
私がどんなに声を上げ呼ぼうとも、あの子には届かない。
頭では分かっていても彼女の口から自然と叫びが響く。
少年にこの声が聞こえるはずが無い。
それでも幽香は叫ぶのを止めなかった。
だが奇跡は起きた。
生まれてから一度も『音』を拾った事の無い少年の耳が、彼を呼ぶ幽香の声を『聴』いたのだ。
その叫びに呼応するかの様に、小さな声で少年は助けを呼ぶ。
幽香を呼ぶ魂の叫び。母を呼ぶ赤子の声。
幽香はそれを聞き逃さなかった。彼女の耳はそれを聞き逃すのを許さなかった。
幽香は走る。傘を捨て、その衣服を泥水で汚しながら寸秒も無駄に出来ないと彼女は走った。
そして。
崖の下で幽香は少年を見つけた。
雨水に大量の血を流し、少年は死にかけていた。
もはや彼を助ける事は不可能だった。
彼女は自責する。
最悪と、最凶と呼ばれる自分が、この消えゆく小さな命に何も出来ない。
幽香は泣く。
己の無力に泣いたのは初めてだった。
こんな小さな命すら救えず、何が最恐だ。
何も出来ない。何も出来ない。私は無力だ。ここで見ている事しか出来ない。
頭の奥で誰かが囁く。何かが呟く。隙間の声が響く。
『喰ってしまえ。そうすれば、何時までも一緒にいられるわよ』
瞬間、幽香はその咢を開いた。喰ってしまえ、食べてしまえ。そうすれば、少年の肉を体に取り込み『彼』は何時までも自分の中に残る。私の中で永遠に生きる。
しかし。
一瞬の思考。しかし無限に感じる思考。少年と共に過ごした月日が走馬灯のごとく幽香の頭を走る。
春の日が。
夏の日が。
秋の日が。
冬の日が。
彼と過ごした毎日が。
思い出の洪水の中で、彼が初めて自分の前に現れた日がスローモーションの様に再生される。
彼は彼女を見ても恐れなかった。
逃げなかった。
笑ってくれた。
それは何物にも代え難い真心からの笑顔。今まで自分でも気づかずに幽香が探し求めていた物。
私はやっと見つけたんだ。
『真心の愛』を。
幽香は狂った様な考えを追い払う事が出来た。無理やり閉じた咢の牙がきしむ。
こんな事はわたしの、私の自己満足でしかない。
彼は人間として生き、人間として尊厳を抱き死ぬのだ。去れ死神よ、彼の魂を決して冒涜させない。
少年と幽香の周囲に集まっていた死神達が、舌打ちをしながら去っていった。
涙を流し続ける幽香の頬に、少年は混濁した意識の中で手を伸ばす。
その手に触れるのは彼女が流す暖かい涙だった。
そして。
「ゆうかおかあさん。ねぇ、わらって」
今までに幽香が教えた言葉が、少年の口から自然とわきいでた。
こんなときに、こんな時に何を言ってるの。
雨水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも幽香は精一杯の笑顔を作る。
少年が過去に描いた絵の様に。
残りの命をふりしぼり、幽香の頬に手を添え、笑顔を浮かべながら少年は最後の言葉を贈った。
今までの感謝の言葉を。
「ありがとう」
冷たくなっていく少年の体をかき抱き、幽香は叫ぶ。
喉よ裂けろと、血を吐く様な悲しみの咆哮が花畑に響いた。
少年の亡骸は沢山の花に包まれ地中に眠る。
安らかに眠れと。
ここで眠れと。
あなたの事を決して忘れないから。
あれからどれだけの月日が流れただろうか。
四季を通じ、タンポポの花が咲く小さな花畑。
少年の亡骸が埋められた場所。
幽香は一日のうち、一回は必ずその場所を訪れる。
「私を泣かせた男は、あなたが初めてよ」
そよそよと流れる風が、タンポポの綿毛を空に吹き上げてゆく。
手をかざし、それを見ながら彼女は呟く。
「この風は、あなたの魂に届いているかしら」
かつて、自分を慕ってくれた者の為。
自分を愛してくれた人間の為。
あなたは、私の乾いた心を癒してくれた。
向日葵の畑にタンポポが咲く。
少年の魂は幽香を救ったのだろうか。
風見幽香は人間が嫌いだ。
だが、少し優しくなれる様な気がする。
彼女の部屋に張られた、クレヨンで少年が描いた満面の笑顔の幽香の絵。
それが、答えなのかもしれない。
「終わり」
私は人間が嫌いだ。
彼らは弱い。
あまりにも脆い。
私の腕の一振りで砕け散ってしまう。
大きな力を目にすると、途端に卑屈になる。
彼らは自分を見ると引きつった顔で、途端に作られた笑顔を浮かべた。
やめろ、そんな表情を浮かべるのを。
やめろ、そんなにも私は恐ろしいのか?
この力は生まれ持った力。
生まれつき備わってしまった力。
私が望んで得た力じゃない。
なのに。
なのに。
何時も思う。
何故妖怪の、自分が住む幻想郷に人間がいるのだ。
人間などいなければいいのに。
いなくなってしまえばいいのに。
風見幽香は静かに呟いた。
隙間から奴が私を覗き囁く。
「残念だけどここは幻想郷。外から排除されたモノたちが集う場所。あなたも社会不適合者とでも呼ばれるのかしら。ねぇ、お花の妖怪さん」
うるさい。コムヅカシイのは嫌いなんだ。
私は隙間から顔を出し、自分を見る金髪の少女めがけて、右腕を一閃させる。
普通なら、肉と血をぶちまけて相手は黙る。
だが、そこに獲物を捕らえた感触は無かった。
「おぉこわい。そんな貴女に予言しますよ。人間は弱く脆い。だけどそれ故に強い。それを貴女は身をもって知るでしょうね」
隙間は現れた時と同じ様に唐突に消える。
だが彼女が残した言葉が、私の心の何処かに妙に引っ掛かった。
初夏。
燦々たる太陽の下、向日葵の畑にて。
狂う様な蝉達の鳴き声の雨の中。
花畑の散歩中、幽香は人間の少年と出会った。
4歳くらいだろうか。
群青の、かすりの着物を着た男の子。
伸ばし放題の長い黒髪の為、その姿が一瞬女の子に見えた。
どこから迷い込んだのだろう。いや、ここまで人間の子供が一人で無事に来られるのはおかし過ぎる。
周囲には妖怪の住む森が点在する。本来なら肉の柔らかい子供など、とっくの昔に餌食にされていてもおかしくない。
最初、力を使わず言葉で追い帰そうとする幽香に対して、少年はキョトンとした顔をしていた。
まるで自分がどんな状況にいるのか解らない様だった。
お前の前にいるのは、恐ろしい妖怪なんだよ。
人間を食べる妖怪なんだよ。
今度は日傘から光の奔流を走らせる。天に向かい轟音と共に七色の光芒が走った。
だが彼はそれに怯える風も無く、逆にもっともっとと腕を上げ急き立てる。
この子供は馬鹿なのか。阿呆なのか。
そして幽香は気付いた。
彼は、耳が聴こえていないのではないかと。
私の罵声も、光の暴力の音も伝わっていないのではと。
彼は生まれつきの障害の為にここに捨てられたのだ。今まで育ててくれた両親に。
子捨てなど珍しい事では無い。
生活に困った人間がよくする事だ。
そして、妖怪が跋扈する場所に放置すれば、あとは綺麗に片づけられる。骨も肉も微塵と残らずに。
「うぅ~?」
不思議そうな目で少年は幽香を眺めた。もう終わりなの?などという感じの表情を浮かべながら。
彼は耳が聞こえない聴覚障害者である。
だから、こちらからどれだけ語りかけても会話が成立しない。
私の言葉は、彼に届いていないのだから。
「あぁうー、うー」
言葉にならない声を上げる少年。
少年は、幽香のタータンチェックのスカートを掴みニコニコしている。
その表情には恐怖など微塵も無かった。
彼女がどのような存在かも知らずに。
どれくらい恐ろしい存在かも知らずに。
「ふん、ペット代わりにでも置いてみようかしら」
そう呟き、幽香は自分を恐れない少年を家に連れて帰る事にした。
最初は興味本位だったのだ。
妖怪の自分が、人間と共に時間を過ごせるのかと。
人間と、どの位時を共にできるのかと。
暇つぶしに、幽香は少年に言葉を教える。
「ゆ」
砂の上に白い指で文字を描く。同時にその発音を唇で続ける
「うぅー、ゆ……、うゆっ!!」
少年のたどたどしい言葉が、音を紡ぐ。
彼の指を自分の紅い唇に当て、幽香はつぶやく。
「ゆ」
振動が指に伝わる。
「にゅぅ~、にゅゆぅ~」
「う」
口の開け方が目に伝わる。
「うぅ~」
「か」
声の出し方が、息を通して少年に伝わる。
「くぅあ~」
彼女はだんだん楽しくなってきた。
言葉を知らない人間の子供に、妖怪の自分がそれを教える。
なんだこれは、何の冗談だ。
私は妖怪。それが何をしているんだ。
彼女自身気が付かなかったが、それは母親が我が子に対してとる、慈しみの語りかけだった。
幽香の懸命な教育により、少年は少しずつ、本当に少しずつ言葉を覚えていく。
彼女が、いつか興味本位で人里からクレヨンを買ってきた時。
「ゆうか!!」
少年が幽香を呼ぶ声に不明瞭な発音は無かった。
彼女の名前を、彼は完璧に発音した。
それ以外の言葉はまだ、聞き取るのが難しかったが。
その紙には、少し歪みながらもヒマワリと大きな笑顔を浮かべる幽香が描かれていた。
彼女は少年に呟く。
「もう、私はこんな顔しないわ。もっとクールに描きなさい」
「うゆぅ~」
「うそうそ、あなたが書いてくれたものは全てが嬉しいわ」
笑顔を浮かべる幽香の手で、頭をグリグリと撫でられる少年は、とても嬉しそうだった。
柔らかな春が訪れる。
冬の間に溜まった、枯れた花達を幽香と少年は荼毘に灯す。燃えていく花達を見て、少年は手を合わせた。
この子は今、何を思っているのだろう。
少年の隣で、手を合わせながら彼女は思う。
身を焦がす夏。
太陽の様にその姿を誇るヒマワリ。その姿が少年を魅了する。
「この花は私の一番のお気に入りなのよ」
「これ、ゆうか、みたい」
思わずその言葉に微笑む彼女。
そうね。でも、あなたも同じ。
あなたも私を照らす太陽の様。
豊穣の秋。
「今はね、お花達が冬を越える為の一番大事な時なの。だから、たくさん栄養を取っているのよ」
「ぉうくも、おなかへったら、こまる」
「ふふっ、そうね。じゃぁ、おやつの時間にしましょうか」
「うん!!」
幽香はその言葉に微笑む。
しんしんとした冬を楽しむ。
「くぉれ、なに?」
「炬燵よ。さぁて~つかまえちゃうぞ~」
幽香は少年の体を抱きしめる。
彼女に笑いかける少年。
雪に包まれる花畑の中の一軒家で。
そこから聞こえるのは、妖怪と人間の楽しそうな笑い声だった。
妖怪と人間が、同じ屋根の下で時を過ごす。
今までの幽香には考えられない事だった。
ペット代わり。
最初の頃に思った、飽きたら捨てればいい。
そんな事は、既に幽香の頭の中には無かった。
彼女が少年に教えるのは、簡単な日常の言葉と花の名前だった。
向日葵の畑には、それ以外の花も咲く。
ある日、少年は小さいが太陽の様な花を見つけた。
幽香が少年の手を取り、手の平にその名前を教える。タンポポと。
「チャ、チャンポポ?」
嬉しそうな顔でその花の名前を口にする少年。
「タンポポ。花言葉は『真心の愛』。貴方には難しいかもね」
「うぉく、チャンポポになる」
その言葉と表情に、彼女は何かじんわりと胸が暖かくなるのを感じた。
「そぉね、期待してるわ」
自分が編んであげた、少年の三つ編みを優しく撫でながら幽香は思う。
これが、幸せなんだろうかと。
そして、あっという間に2年の月日がたった。
少年の背は少しづつ伸び、その言葉の語彙も増えてゆく。
やんわりとした会話もできるようになり、幽香と少年の、恐れられる妖怪とその贄になるべき人間の奇妙な生活は続いていた。
「まだあの人間を生かしていたのね」
隙間からまた奴が呟く。
「貴女が何を言おうが、私の勝手にさせてもらうわ」
「おぉ怖い怖い。でも、あなたは身をもって知るでしょうね。人間の弱さを、脆さを。貴女、あの子を『食べてみたい』とは思わないの?」
唇の端を歪めながら金髪の少女が呟く。
「人間なんて『食べて』しまえばいいのよ。そうすれば儚く消える人間を、何時までもこの体に共有できる。最後の時まで一緒にいられる。過去に私がしたように。さぁ、『食べて』しまいなさい」
整った顔が、ほんの少し表情を変えるだけで吐き気を催す様な、まるで以前の自分の様な、人外の面を現した。
「消えろ!!」
隙間は、私の爪の前で消え去った。
忘れる事の出来ない言葉を残して。
とある日の事だった。
人里へ、作った商品を売りに行った幽香の帰りが遅く、探すために闇の中へ少年は家を出る。
外は雨が降り始め、次第に雷も落ち始めた。
だが、少年の耳に自然が起こすその轟音は聞こえない。
彼は目をこらし探し続けた。
彼に微笑んでくれた彼女の姿を。言葉を教えてくれた彼女を。何物にも変え難い彼女を。
そして。
花畑の隅。たびたび注意されていた崖のそばで。
突然の崩れ落ちる土砂に押し潰され、少年は気絶した。
「これなら、あの子も色々言葉を覚えられるわね」
降り頻る雨の中、傘を差しながら幽香は呟く。
売れた商品のお金で、彼女は少年の為に木で出来た言葉遊びのパズルを買ってきた。
これを見たら、あの子はどんな顔を浮かべるだろう。
そして、里の人間とのやりとりを思い出し、幽香は小さく微笑んだ。
『はい、これが今回のお礼です。ところで……』
彼女が自分で作った、花の染め物を納めている小道具屋の女主人が言う。
『幽香さん、誰か良い人でも出来たんですか』
『えっ?』
女主人は態度を変える事無く、けれども笑いながら言葉を続けた。人里で、幽香を恐れない唯一人の人間でもあった。
『最近のあなたは、なんだか丸くなった。トゲトゲした物が無くなった。そんな気がします』
彼女は笑う。
『そうね、いるわよ。まだ六つくらいだけどね。きっと良い男になるわ』
その言葉が嬉しくて、寄り道が重なり帰るのが何時もより遅くなってしまった。
笑みを浮かべながら家のドアを開く。
「ただいまぁ~。ってあれ?」
何時もならば、こぼれる様な笑顔で自分を迎えてくれる彼がいない。
家の中、返事の無い少年を幽香は探す。
彼女の家に少年はいなかった。
荷物を置き、急いでドアをくぐる。
まさか、私を探してこの外に出たのでは。
雨の中、幽香は外に飛び出した。
「どこにいるのぉ~!!」
叫んでから気が付いた。
しまった、あの子は耳が聞こえない。
私がどんなに声を上げ呼ぼうとも、あの子には届かない。
頭では分かっていても彼女の口から自然と叫びが響く。
少年にこの声が聞こえるはずが無い。
それでも幽香は叫ぶのを止めなかった。
だが奇跡は起きた。
生まれてから一度も『音』を拾った事の無い少年の耳が、彼を呼ぶ幽香の声を『聴』いたのだ。
その叫びに呼応するかの様に、小さな声で少年は助けを呼ぶ。
幽香を呼ぶ魂の叫び。母を呼ぶ赤子の声。
幽香はそれを聞き逃さなかった。彼女の耳はそれを聞き逃すのを許さなかった。
幽香は走る。傘を捨て、その衣服を泥水で汚しながら寸秒も無駄に出来ないと彼女は走った。
そして。
崖の下で幽香は少年を見つけた。
雨水に大量の血を流し、少年は死にかけていた。
もはや彼を助ける事は不可能だった。
彼女は自責する。
最悪と、最凶と呼ばれる自分が、この消えゆく小さな命に何も出来ない。
幽香は泣く。
己の無力に泣いたのは初めてだった。
こんな小さな命すら救えず、何が最恐だ。
何も出来ない。何も出来ない。私は無力だ。ここで見ている事しか出来ない。
頭の奥で誰かが囁く。何かが呟く。隙間の声が響く。
『喰ってしまえ。そうすれば、何時までも一緒にいられるわよ』
瞬間、幽香はその咢を開いた。喰ってしまえ、食べてしまえ。そうすれば、少年の肉を体に取り込み『彼』は何時までも自分の中に残る。私の中で永遠に生きる。
しかし。
一瞬の思考。しかし無限に感じる思考。少年と共に過ごした月日が走馬灯のごとく幽香の頭を走る。
春の日が。
夏の日が。
秋の日が。
冬の日が。
彼と過ごした毎日が。
思い出の洪水の中で、彼が初めて自分の前に現れた日がスローモーションの様に再生される。
彼は彼女を見ても恐れなかった。
逃げなかった。
笑ってくれた。
それは何物にも代え難い真心からの笑顔。今まで自分でも気づかずに幽香が探し求めていた物。
私はやっと見つけたんだ。
『真心の愛』を。
幽香は狂った様な考えを追い払う事が出来た。無理やり閉じた咢の牙がきしむ。
こんな事はわたしの、私の自己満足でしかない。
彼は人間として生き、人間として尊厳を抱き死ぬのだ。去れ死神よ、彼の魂を決して冒涜させない。
少年と幽香の周囲に集まっていた死神達が、舌打ちをしながら去っていった。
涙を流し続ける幽香の頬に、少年は混濁した意識の中で手を伸ばす。
その手に触れるのは彼女が流す暖かい涙だった。
そして。
「ゆうかおかあさん。ねぇ、わらって」
今までに幽香が教えた言葉が、少年の口から自然とわきいでた。
こんなときに、こんな時に何を言ってるの。
雨水と涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、それでも幽香は精一杯の笑顔を作る。
少年が過去に描いた絵の様に。
残りの命をふりしぼり、幽香の頬に手を添え、笑顔を浮かべながら少年は最後の言葉を贈った。
今までの感謝の言葉を。
「ありがとう」
冷たくなっていく少年の体をかき抱き、幽香は叫ぶ。
喉よ裂けろと、血を吐く様な悲しみの咆哮が花畑に響いた。
少年の亡骸は沢山の花に包まれ地中に眠る。
安らかに眠れと。
ここで眠れと。
あなたの事を決して忘れないから。
あれからどれだけの月日が流れただろうか。
四季を通じ、タンポポの花が咲く小さな花畑。
少年の亡骸が埋められた場所。
幽香は一日のうち、一回は必ずその場所を訪れる。
「私を泣かせた男は、あなたが初めてよ」
そよそよと流れる風が、タンポポの綿毛を空に吹き上げてゆく。
手をかざし、それを見ながら彼女は呟く。
「この風は、あなたの魂に届いているかしら」
かつて、自分を慕ってくれた者の為。
自分を愛してくれた人間の為。
あなたは、私の乾いた心を癒してくれた。
向日葵の畑にタンポポが咲く。
少年の魂は幽香を救ったのだろうか。
風見幽香は人間が嫌いだ。
だが、少し優しくなれる様な気がする。
彼女の部屋に張られた、クレヨンで少年が描いた満面の笑顔の幽香の絵。
それが、答えなのかもしれない。
「終わり」
人の心を持たない者が、人と関わることで心が変化していく、悲しく切ない王道作品でしたね。
おそらく、ゆかりんも同じような経験をしていたのでしょうが、彼女の場合はどこか達観しているように見え、人間らしい涙を流したゆうかりんより怖く思えたりして。だからどういう理由でそういう言葉をかけたのか気になります。
自分が幻想郷の人間だったら、ゆかりんよりゆうかりんに賢者になって欲しい。と何度か読み返してそう思いました。
もう情湧いてるやんって感じがちょっと… 笑えましたけど
幽香が人間の子供に情が湧いてくる過程を重厚に描いてくれれば
名作になったんでは と惜しいです
優しい幽香も思わせぶりな紫もよかったです
床間たろひ氏がこれ読んだら、どう思うか。
そんな事を思う今日この頃。皆さんどうお過ごしですか。
最近釣りにハマってきたので、釣り針をたらすいやらしい沙門。