プロローグ
図書館には似つかわしくない鮮やかな赤い絨毯が敷かれ、その上には巨大な木筒が据わっている。
すでにロケットは組み上がっていて、あとは明日飛び立つ前の最終調整を残すのみとなった。
設計から製作の指示まで、寝食を忘れて働いていたパチュリー・ノーレッジは愛用の椅子に深々と体を預けて休憩を取っていた。
慣れない重労働が堪えたのだろう。
小悪魔はパチュリーの様子を気にかけながら、咲夜が香霖堂で買ってきたという科学雑誌の一冊を捲っていた。
少しするとパチュリーは体を起こした。もそもそと資料の束に手を伸ばす。
「パチュリー様、少し横になられてはいかがです?」
「んー、いよいよ明日だと思うと何だか眠れないわねぇ」
「無理しないでくださいよ」
「大丈夫よ。喘息も出てないし」
パチュリーはそう言うが、ロケットに夢中になるあまり、自分の体の疲れに気付いていないだけではないかと思う。
「でしたら、私と少しお話しませんか」
パチュリーは手に持った資料と小悪魔の顔を見比べた。
「いいわよ。よく考えたら、今さら調べるようなこともないわ」
紙の束を机に戻し、小悪魔に向き合う。
「私、疑問があるんですけど」
小悪魔は雑誌の表紙をパチュリーに向けながら言った。
「そもそも、外の世界の人間たちはどうして月へ行きたいと思ったのでしょうか」
「地上に嫌気がさしたんじゃないの。煩わしいことに満ちた地上から抜け出すには月へ行くしかなかったんでしょう」
小悪魔は顎に手を当てて考え込む。パチュリーの言っていることがわからないわけではないのだが。
「でも、その割に人間が考えているのは帰りのことばかりなんですよ」
小悪魔が先程まで読んでいた雑誌にも「再突入軌道」や「耐空力加熱シールド」といった再び地上に戻ってくるための技術について多量のページが割かれていた。
「言われてみれば不思議ね」
今度はパチュリーが考え込む番だった。小悪魔は思索にふける時のパチュリーの表情が好きだ。
静かに眺めながら、彼女が答えを出すのを待つ。
「やっぱり地上に居場所があったから、じゃないかしら。あれだけ苦労して夢の月面着陸を果たしても帰りたい、帰らなきゃと思える場所が」
珍しくパチュリーは自信なさげだった。
「でも、中にはもう絶対帰らないぞって覚悟を決めていた乗組員もいたと思いますよ」
「人それぞれということかしら。けれども、実際のところ乗組員は全員帰ってきてるのよね。月の都も案外つまらない場所なのかもしれないわね」
一応、結論が出た。パチュリーは再び背もたれに体を預けると目を閉じる。
小悪魔には一つ気になることがあった。
「そういえば、パチュリー様。今回のロケットに、帰還するための機能ってありましたっけ?」
「ないわよ」
目を閉じたまま何でもないことのように言う。
「じゃあ、お嬢様はどうやって戻ってくるんですか?」
「さぁ、レミィのことだから何とかなるでしょ」
本当に良いのだろうか。さすがに心配になる。明日のロケット発射がレミリア、咲夜との最後の別れになるかもしれないのだ。
――まぁ、それはそれで、
「パチュリー様、明日から紅魔館で二人きり。静かに楽しく暮らしましょうね」
結構いいかも。この際、フランドールと美鈴のことは忘れる。
そういえば、霧雨魔理沙もロケットに搭乗するのだ。ここまでくると今回の月侵略計画は自分のためにあったのではないかとさえ思えてくる。
しかし、パチュリーから返事はなかった。規則正しい寝息だけが聞こえてくる。
パチュリーの反応を見たかったのだが。
「こんなところで寝ると風邪を引きますよ」
小悪魔は手のかかる主人を再びベッドへと促すのだった。
* * *
二週間後。
レミリアたちは当り前のように紅魔館に帰ってきた。
パチュリーの言う通りになったわけである。
魔理沙も無事に帰還したらしく、小悪魔の甘い夢はあっさり崩れ去った。
小悪魔にとってはどうでもよかった神社の巫女だけが、なぜか未だに帰ってきていないらしい。
1.緊急招集
バルコニーには冷たい風が吹き、そこに立つ少女の銀髪を揺らす。レミリア・スカーレットは夜空に浮かぶ月を眺めていた。
薄雲でかすむ光円はあまりに遠く儚くて、つい三日前まで自分があそこにいたことが信じられなくなりそうだった。
それでも、確かにレミリアは月面へと降り立ったのだ。
証拠なら妹のフランドールにあげたお土産の月の石が証明してくれるだろう。
今頃、フランドールの部屋――地下牢ともいう――に大切に飾ってあるに違いない。
月に向かって手を伸ばし、ゆっくりと握り締める。
レミリアはあの天に浮かぶ月にさえ降り立つことができた。できないことなど何もないのだ。
運命などに縛られない自分の無限の可能性を感じて胸が高鳴る。月の姫君に大敗したことも忘れて、レミリアは気分の良い夜を過ごしていた。
紅茶を持ってこさせよう。部屋に戻り、咲夜を呼ぼうとしたところでベッド横のチェストに視線がいった。
何か忘れている気がする。チェストの引き出しを開けたところで、
――まさか!
レミリアは心当たりに気付いた。自分の体をまさぐり、部屋中を引っ掻き回したがやはり見つからない。
レミリアは血の気が引いていくのを感じた。このまま貧血を起こしそうだ。月旅行中の血液補給が足りなかったかもしれない。
それでも、焦りがレミリアを突き動かした。部屋を飛び出して廊下を駆ける。廊下を歩いていた妖精メイドが顔を青ざめさせてレミリアを避けた。
向かった先は大図書館。静寂であるべき空間にレミリアの足音が響く。
そんな迷惑な来訪者にまるで気付いていないかのように、パチュリーは机に向かって読書を続けていた。
「パッチェー!」
レミリアはパチュリーの手から本を取り上げた。
「なにかしら?」
読書を邪魔されたパチュリーは不満そうに顔を上げる。レミリアを一瞥しただけで、机に積んである別の本に手を伸ばす。
「ちょっと! パチェ、話を聞いて。まずいことになったわ」
「まずいこと? フランが部屋の壁でも壊したのかしら」
「違う。とにかく緊急事態なの。みんなを集めて」
レミリアの必死な様子にやっとパチュリーは本から手を離した。
「ただし、集めるのは咲夜以外よ。咲夜には決して気付かれないようにね」
レミリアはきつい口調で言った。
* * *
大図書館の片隅に紅魔館の住人たちが集まっていた。
フランドール・スカーレットは落ち着きなく羽を動かしながら、不安げにレミリアの様子を伺っている。
姉の心情を敏感に察しているのかもしれない。
逆に緊張感を全く感じさせないのが門番の紅美鈴である。フランドールと目が合うと優しく笑いかけた。
他の者にもへらへらと能天気な笑顔を振りまいている。
いつもの椅子に収まって住人たちを待っていたパチュリーの膝の上には、相変わらず一冊の本がある。
さすがにこの場で読み始めることはなく、表紙に手を置いているだけだ。
パチュリーに寄り添うようにして立っているのが小悪魔。パチュリーの世話をしている使い魔だ。
いつもならレミリアの後ろにも咲夜が付き従っているのだが今はいない。
レミリアが緊急招集をかけたにも関わらず、すでに夜があけて昼間といっても差し支えないほど時間が経過していた。
レミリアはやきもきしながらこの時間まで耐えていたのである。
それでも、決してパチュリーの不手際ではない。「咲夜に気付かれてはいけない」という条件を満たすには仕方がなかったのだ。
メイド長である十六夜咲夜は紅魔館のことを隅々まで知り尽くしている。それは誇張ではない。
家具や備品の位置と状態は完璧に把握しているし、住人の詳細な行動パターンも頭に入っている。
だからこそあの正確な仕事と細やかな気配りが可能なのだ。
咲夜はほとんど紅魔館という空間を支配しているといってもよい。館主であるレミリア以上に。
要するに、たとえ真夜中とはいえ咲夜に気付かれずに集まるなどというのは不可能だった。
結局、咲夜が買い物に出て不在になるこの時間まで待つ他なかったのである。
「レミィ、詳しく話を聞かせてくれるかしら」
パチュリーが促す。
「ロケットのことは覚えているわね」
レミリアは各々を見渡しながら言った。
「お嬢様たちが月に行くときに使ったやつですよね」
美鈴が答える。
「私も連れてってほしかったな」
フランドールがいじけてみせるのに気付かないふりをして続ける。
「あのロケットは三段で構成されていて、下段と中段は経過を見て切り離す必要があった。だから、乗員の私たちは居住空間を下段から中段、中段から上段と移していったの」
「最後は狭い上段にみんな押し込まれて大変だったでしょう」
ロケットの設計を手伝っていた小悪魔は、構造もある程度理解しているようだ。
「そして悲劇は起こったの。中段アルニタクから上段ミンタカに移るときにね」
「そういえば、あの筒にはそんな名前が付いていたわね」
パチュリーが呟く。
「それで悲劇って?」
「忘れてきちゃったの。大切なもの……」
レミリアが俯く。よくわからないといった様子で首を傾げる面々の中でパチュリーだけが「なるほど」と頷いた。
「ようするに、大切なものとやらを中段に置いたまま、レミィたちは上段に移って中段を切り離してしまったということね」
「そうなの」
説明を終えたレミリアは、改めて自分の間抜けさを認識し落ち込んでしまった。
「かわいそうなお姉様……」
フランドールは肩を落とすレミリアを悲しげに見つめる。
どうしたものかと美鈴と小悪魔は顔を見合わせた。パチュリーだけは何かを考えている様子だった。
そして、重たい雰囲気を破るように口を開く。
「アルニタクの落下地点なら割り出せると思う」
「本当に!」
レミリアは顔を上げた。
「ただし、あれだけの高さから落ちたんだから中身の保障はできないわよ」
パチュリーが釘を刺す。確かにあの高さから落ちれば無事ではすまないだろう。
それでも、まだ希望はある。力が湧いてくるのを感じた。あれを失うという運命を受け入れるわけにはいかない。
「パチェ、落下地点はすぐにわかる?」
「三時間ほどもらえるかしら」
「一時間でやって」
レミリアは当然のように言った。強気の態度が戻っていた。パチュリーはそんなレミリアの様子を見て、笑みを浮かべる。
「いいわ。一時間でやりましょう」
「ありがと」
あとは探しに行く者を決めなければならない。レミリア自身で行ければよいのだが、もうすぐ咲夜が帰ってくるので難しい。
レミリアが外出すればもれなく咲夜が付いてきてしまう。
パチュリーは肉体労働には不向きだ。小悪魔は厳密にはパチュリーが雇い主でありレミリアの従者ではない。
だから、こんな私的な用件は頼みたくない。
もちろんフランドールはだめ。誘拐にでもあったら大変だ。誘拐犯の命が保証できない。
となると――、
「美鈴、捜索はあなたにお願いするわ」
「ふぇ。わたしですか?」
美鈴は驚きの声を上げた。少し頼りないが、この中では最も適任だろう。
「捜索はいいですけど、一体何を探せばいいんです。お嬢様の大切なものとは何ですか?」
「そ、それは……」
皆の視線が集まる。レミリアは言いよどんだ。
「秘密よ」
「それでは探しようがありませんよ」
もっともな指摘だった。
「私が同行するなら探せるでしょう。私の身体の一部だけどね」
そう言ってレミリアは左手をコウモリに変えた。
コウモリは美鈴の側まで羽ばたくと肩へと止まった。美鈴が小さく悲鳴を上げる。
「頼むわよ、美鈴」
レミリアではなくコウモリの方が言った。
2.ジョーカー
レミリアはリビングのソファに座って目を閉じていた。
「お疲れですか。お嬢様」
買い物から帰ってきた咲夜に声をかけられる。うたた寝をしていると思われたようだ。
実際はコウモリに変えた左手の方に意識を集中するために目を閉じていたのである。
「違うわよ。ちょっと考え事をしていたの」
「もう次の遊びを考えておられるのですか?」
「そうよ。幻想郷に海を作る計画をしてるわ」
この場を取り繕うための出任せだったが、口に出してみるとなかなか名案のように思えた。
「面白そうですわね」
咲夜が言うのでレミリアはますますその気になった。無事に探し物が見つかったら、本格的に計画しようか。
「そういえば門の前に美鈴の姿が見えないのですが。ご存知ありませんか?」
「美鈴なら急用ができたと言って出掛けたわ」
前もって用意しておいたとおりに答える。
「珍しいですね。あの子はサボっても門から離れることは滅多にないのに」
咲夜が首を傾げた。怪しんでいるのだろうか。
「いいのよ。私が許可したんだから」
「そうでしたね」
咲夜が追求を止めたのでレミリアは胸を撫で下ろした。
「それではお茶にしましょうか」
「ええ」
返事をしてからレミリアは大事なことを思い出した。今、レミリアは左の手首から先がない。ブランケットを掛けて隠している。
紅茶を飲む自分の姿を想像してみた。
大丈夫――右手だけでも問題ないはずだ。
咲夜がティーセットをテーブルに運んでくる。
その時、廊下からひょっこりと小悪魔が顔を出した。
「お嬢様、入ってもよろしいでしょうか」
緊張した面持ちでこちらを伺っている。
「構わないわよ」
レミリアが答えると、
「こちらへ座って。一緒にお茶はいかがかしら」
咲夜が優しく招き入れた。
「い、いえ。お構いなく」
ぎこちない動作でレミリアの向かいに座った。
「何を今さら遠慮しているの。長い付き合いじゃない」
レミリアは笑った。
「それはそうなんですが、こうして直接お嬢様とお話しする機会って、あまりなかったと思うんです」
「……そういえばそうね」
パチュリー抜きで小悪魔と会うこと自体が稀だった。
「私、もっとお嬢様と親しくなりたいんです!」
決意のこもった口調で言う。
「そ、そうなの」
悪い気はしないが何も今言うことではない。今まさにこの裏で進行している計画を忘れてしまったのだろうか。
「せっかく時間を作っていただいたんですもの。よろしければゲームをしませんか。お近づきになるきっかけにしたいんです」
「退屈しのぎに相手をしてあげてはどうです? お嬢様」
小悪魔の熱意に心を動かされたのか、咲夜も勧めてくる。
「まぁ、いいわよ」
「ありがとうございます!」
小悪魔が嬉しそうにポケットから取り出したのはトランプだった。箱からカードを取り出すとシャッフルを始める。
「ババ抜きなんてどうです?」
「え? ちょ、ちょっと!」
レミリアの返事を待たず、勝手に話を進めていく小悪魔。舞い上がっているのだろうか。
そして、配り始めようとしたところで動きを止めた。
「おっと、シャッフルが私だけではフェアではありませんね。ささ、お嬢様もどうぞ」
カードの束を差し出す。
――はぁ?
思わずピクリと左腕が動いた。右手だけでババ抜きをやるのは無茶だし、ましてやカードのシャッフルなんて不可能。
小悪魔だってレミリアの左手のことを知っているはずなのに。
この子って結構天然なのね。あきれながら小悪魔の顔を見た時、彼女の目が悪戯っぽく笑っていることに気付いた。
――こいつ!
わざとやっている。仲良くなりたいなどというのは嘘だ。
忘れかけていたがこの子も悪魔の端くれ。簡単に気を許したレミリアの方がどうかしていたのだ。
「さぁ、どうしたんです? ゲームが始まりませんよ」
小悪魔がカードを押し付けてきた。明らかにレミリアの反応を見て楽しんでいる。
咲夜はなかなかカードを受け取らないレミリアを不思議そうに見ていた。シャッフルを断れば、確実に咲夜は不信感を抱く。
しかし、どうやっても片手でシャッフルはできない。どうやら、あっという間に追い詰められてしまったみたいだ。
「私にゲームを挑むなんて身の程知らずねぇ、小悪魔」
それでもレミリアは不敵に笑う。打開策が見つかったわけではなかった。
自分がこの程度の罠を切り抜けられないわけがない。ただ根拠もなく漠然とそう信じているのだ。
右手でカードの束を受け取る。
「あなたの御主人が言うには、月は元々この地上の一部だったらしいわ。昔、隕石がぶつかって二つに分かれたんだって。随分、奇想天外な話よねぇ。あなたは信じるかしら?」
レミリアは右手に収まったカードを眺めながら言った。
突然の質問に小悪魔は黙ったままだ。レミリアに向けられた視線は「早く負けを認めろ」と言っているように見える。
レミリアは構わず続ける。
「それが本当なら、今あなたの真下にある地面が、気付いた時には遠い空の上ってこともあり得るわね」
幼い吸血鬼は言いながらくすくすと笑う。
「それがどうかしたのですか」
小悪魔はレミリアの態度にいらだっているようだ。
「みんなで何してるの?」
険悪になりかけた雰囲気を壊すようにしてフランドールが部屋に入ってきた。
「あー、トランプ。私もやりたい!」
レミリアの手にしているものに気付いてはしゃぐ。
「フラン様のカップもご用意しますわ」
咲夜が席を立った。レミリアはフランドールに呼びかける。
「フラン、こっちへいらっしゃい」
「え? でも、そこは咲夜が……」
「いいのよ。こっちへ来て」
「うん」
フランドールは戸惑いながらレミリアの隣に座った。レミリアの膝にあるブランケットをフランにも掛けてやる。
ブランケットは小柄な二人を覆うのに十分な大きさだった。フランドールはもじもじと落ち着かない様子だ。
普段、レミリアからフランドールに構うことはほとんどない。
紅魔異変以来、フランドールは紅魔館の中であれば自由に歩き回ることを許されるようになった。
レミリアがフランドールに与えた地下牢の住人という「運命」をある二人の人間が断ち切ったからだ。
それはレミリアにとって妹との関係をやり直す良い機会になった。
しかし、長年に渡って幽閉していた罪悪感からレミリアはフランドールと上手く接することができずにいた。
何百年もの間、レミリアはフランドールを見ないようにしてきた。気のふれた手のつけようのない存在だとして決して自分からは関わらなかった。
それでもレミリアを慕ってくれる妹に、どう償えばいいのか答えを出せずにいる。
レミリアはフランドールの体に手を回して、自分の方へと引き寄せた。
「お姉様」
フランドールは恥ずかしそうに顔を赤らめている。それでもどこか嬉しそうだった。
――小悪魔、あなたは案外良いことをしたのかもしれないわね。
「咲夜さんが戻ってくる前に降参した方がいいんじゃないですか」
小悪魔はそう言って口の端を吊り上げた。
「何を言っているのかしら。私はあなたに感謝してもいいという気持ちなのに」
「降りるなら最後のチャンス。後で後悔しても知りませんよ」
呆れたような視線を向ける小悪魔。
ティーカップを運んできた咲夜は自分の席がなくなっていることに気付いたが、何も言わずに小悪魔の隣に腰を下ろした。
ぴったりと寄り添う姉妹を微笑ましそうに見ている。
レミリアはブランケットの中でフランドールの手を握る。フランドールの羽がパタパタと動いた。
――それにあなたと私とでは悪魔としての格が違うみたい。こんなに可愛い妹まで利用してしまうのだから。
「私がシャッフルするところからだったわね」
そう言ってレミリアは両腕をブランケットから引き抜いた。
小悪魔が息をのむ。左腕の先には――五本の指が踊っていた。
「どうして……?」
目を見開いて固まる小悪魔。
そんな小悪魔をよそに、レミリアは正確な手さばきでカードをシャッフルした。
カードを切り終えるまで、小悪魔はレミリアの左手の謎を見破ることはできなかった。
「さて、ゲームを始めましょうか。それとも、これでゲームセットかしら?」
小悪魔は悔しいよりもわけが分からないといった様子で呆然としていた。
今、レミリアの左腕の先にあるのはフランドールの左手だった。
吸血鬼であるフランドールも当然体をコウモリに変える能力を持っている。
ブランケットの中で左手をコウモリに変えさせ、レミリアの左腕へと移した。
正直なところ、二人の間でこんなことが可能だとは思っていなかった。あまりに簡単にできたのでレミリア自身が驚いたほどだ。
さすが血を分けた妹の手だ。実に良く馴染む。
3.アルニタクの捜索
美鈴はパチュリーが計算した予測落下地点に向かって走っていた。しなやかな動きで地面を蹴って進む。
空気は冷たかったが、普段から一日中外にいる美鈴にとって苦ではなかった。
出発した頃は口やかましく指示を出していたコウモリが、今はじっと美鈴の肩に留ったままだ。
本体の方で何かあったのだろうか。少し気になったが自分のやるべきことに集中しようと努めた。
林道が終わって開けた場所に出る。小高い丘に一面の花畑があった。
「すごい……」
美鈴は息を呑んだ。色とりどりの花々が太陽の光を受けて輝いている。ここだけ、一足先に春がきてしまったかのような奇妙な光景だった。
この先にロケットがあるはずだった。花畑を荒らさないように美鈴は空を飛んで探すことにした。
北に十六キロ、西に九キロ――パチュリーの書いてくれたメモはあまりに大雑把で不安になる。
日没まであまり時間がない。暗くなってからでは探し物は難しいだろう。急がねばならない。
コンパスを片手に辺りを見渡しながら飛び続けた。やがて花畑の終端が見えてくる。
花畑の広さにも驚くが、植えられた花の全てに手入れが行き届いていることが信じられない。
一体どれほどの人手があれば、この花の絨毯を作ることができるのだろうか。
そして、おそらくこの辺りが落下地点だ。美鈴は円を描くように飛び回った。
――あった!
花畑の端に倒壊した木造建築のような塊を発見した。周辺は抉られたようになっていて、花畑に大きな傷跡を残している。
落下時の衝撃の凄まじさを想像させた。美鈴は地面に降り立つ。
酷い有様だが、全く原型がないというわけでもなかった。
「お嬢様、着きましたよ」
コウモリに呼びかけるとしばらく間があってから、
「遅かったじゃない」
レミリアの声で返事があった。
口には出さないが、喋るコウモリというのはなかなか気持ちが悪い。
だからコウモリが肩から離れた時、美鈴はほっと胸をなでおろした。
コウモリは割れた外壁の隙間から中へと入っていた。美鈴も通り抜けられそうな隙間を見つけて体を潜り込ませる。
当然、内部も酷い有様だった。家具は倒れ、割れた食器が散乱している。それになぜか神棚らしきものが転がっていた。
宇宙旅行というのはずいぶん勿体無いことをするものだ。
「お嬢様、そろそろ探し物が何なのか教えてくれないと。それと心当たりはありますか」
「心当たりはあるわよ」
コウモリがひとつの箪笥に留まった。前向きに倒れているので、起き上がらせないと引き出しが開けられない。
「どりゃあー」
気合の叫びと共に美鈴は箪笥を起こした。
「たぶん二段目」
コウモリが指示する。開けると中には衣類が残されていた。船内用の着替えだろうか。
良く見ると衣類だけではない。そこに光るものが混じっていることに気付く。
「これは……、ペンダント?」
丸い銀のペンダントだった。ペンダントの横には蝶番がある。開くことができるようだ。
おそらくロケットというやつだ。それならば、中には誰かの写真が入っていることになる。
「ご苦労様」
美鈴の興味を遮るようにしてコウモリが言った。
「あの、この中って」
「あなたの仕事は終わりよ、美鈴」
コウモリは毅然とした態度で、美鈴の質問を受け付けようとはしない。
中身は気になるが諦めるしかないようだった。
* * *
宇宙船から這い出た美鈴は、両手を組んで天に向かって伸びをする。
宇宙船の中では屈みっぱなしだったので気持ちが良かった。
花畑からこちら向かって歩いてくる人影があった。真っ白な日傘をさしている。
この季節に日傘は珍しかったが、まさか吸血鬼というわけではないだろう。
「犯人は犯行現場に戻ってくる。あれって本当だったのね」
良く通る声だった。美鈴に優しく微笑む。
背丈は美鈴と同じくらい。白いブラウスに赤い格子柄のロングスカート。
ブラウスの上にもスカートと同じ柄のベストを羽織っている。上品で可愛らしい服装だった。
「あの、こんにちは」
美鈴はとりあえず挨拶をする。
「この廃棄物、あなたのものかしら?」
「私のものというか、私の仲間のものというか……」
「おかげでお花が台無し。せっかく今年は自分で育ててみたのにねぇ」
再びにっこりと微笑む。美鈴は笑い返せなかった。どうやら彼女はこの花畑の持ち主らしい。
少女は笑顔の裏で怒っているに違いない。
大切に育てた花を潰されたのだから。
「ごめんなさい」
美鈴は素直に謝った。確かにこの事態は紅魔館の住人の不注意が引き起こしたものだ。
「いいのよ」
少女は日傘を畳んだ。眩しそうに空を仰ぐ。
許してくれたのだろうか。
感謝の意を込めて、もう一度頭を下げた時、
「罪は十分償ってもらうつもりだから」
どきりとするような一言が聞こえてきた。
顔を上げると、傘の柄を槍投げのように握り締めて振りかぶる少女の姿が見えた。
日傘は高速の狙い弾となって美鈴の顔面めがけて飛んできた。
美鈴の防衛本能が反射的に右手を動かす。最短の軌跡で振り上げた。美鈴の目が見開かれる。
額から数ミリのところで日傘は止まっていた。日傘の先端を握り締めている右の掌が痺れている。
恐怖が遅れてやってきて全身に鳥肌が立つ。再び視界に入った少女は微笑みを浮かべたままだった。
美鈴は握っていた日傘を足元に放る。
コウモリが飛んできて肩に留まった。
「風見幽香……」
「知ってるんですか?」
「見るのは初めてだけどね。この辺りには花を操る妖怪がうろついてて、幻想郷でもトップクラスの強さだって聞いたことがあるわ」
「トップクラス……」
おそらくただの噂話ではない。今の攻撃で、彼女の強さが並ではないことがすでに証明されている。
だだ探し物にきただけなのに、とんでもないことになってしまった。
「隙を見て逃げるわよ」
コウモリは飛び立とうと羽を動かしはじめた。
「何を言ってるんですか、お嬢様。そんな危ない妖怪を紅魔館に連れて帰れるわけがないでしょう」
「あなたじゃ勝てないわ、美鈴」
コウモリが強い口調で言った。
「私の役目をお忘れですか?」
館に迫る危険を未然に食い止めるのが門番の仕事なのだ。勝てようが勝てまいが取るべき行動は変わらない。
美鈴はペンダントをコウモリの首に掛けた。
「命令が聞けないの?」
コウモリは怒っているのか羽をバタつかせている。
「命令してほしかったです。あの人を倒せと」
自然と口をついた言葉は美鈴の本心だった。
もっと信用してほしかった。咲夜やパチュリーのように頼ってほしかった。
「行ってください」
コウモリを追い払って、幽香と再び対峙する。
「とっても強いって聞いてますよ。幽香さん」
「時々虚しくなるくらいにね。私の名前よく知っていたわね」
幽香は意外そうに言った。
「コウモリが教えてくれました」
「あなたコウモリと話せるの? 変わっているわね」
当のコウモリはなおも後ろの方で飛び回っていたが、美鈴は気にしないことにした。
幽香を観察しながら呼吸を整える。そして、地面を蹴って一気に間合いを詰めた。腰の位置から右の拳を繰り出す。
先程の不意打ちのお返しだったが、幽香は予想していたようであっさりとかわされる。
美鈴もこれが決まるなどと甘くは考えていない。あくまで狙いは接近戦に持ち込むことだ。
格上の相手と戦うならば、少しでも自分に有利な状況に持ち込む必要があった。苦手な弾幕戦ではまず勝ち目はない。
即座に幽香の反撃がくる。顔面狙いの左フック。腰を捻ってかわせたものの、幽香の拳の威力の凄まじさを肌で感じることになった。
一発でも貰ったら即座に試合終了の可能性もある。
次から次へと繰り出される幽香の打撃に、美鈴は防戦一方だった。
これだけ重たいパンチを連続で打てば、普通ならすぐに消耗してしまうところだが、幽香に疲れやペースダウンは見られない。
このままでは、おそらく先に美鈴の体力がなくなる。
しかし、驚いているのは美鈴だけではない。幽香は乱打を避け続ける美鈴を、意外に思っているはずだった。
ここまで幽香の打撃を喰らうどころかガードすらしていない。幽香の拳は一度も美鈴に触れていないことになる。
この回避力の根幹となっているのが美鈴の「気を使う程度の能力」だった。
気というものは生き物全てが持っている力だ。美鈴は他人が持つ気を感じ取ることができる。
それは非常に難しい技術で、美鈴も完全に会得したとは言えない。小さな気の変化まで読み取る自身はなかった。
ところが、幸いなことに幽香の気は強大で派手に変化していた。
気を集中させている部位がわかれば、次にくる攻撃を予測することができる。
この戦法を可能にしたのは、当然日々の訓練によるものである。
門の前で目を瞑り、周囲の気を探る特訓を欠かさずに行ってきた。
目を瞑るとついつい眠くなってしまうのが問題なのだが、これで訓練の実用性が証明されたことになるだろう。
美鈴は猛攻撃を浴びながら、自分の集中力がこれまでにないほど高まっていくのを感じていた。
幽香の気だけではなく、草花や空気中を漂う微量の気の存在まで気付くことができた。
攻撃をかわせるだけではまだ半分。何とかしてこちらも反撃に転じなければならない。
拳を打った時に、次の回避行動が間に合うか分からなかった。おそらくかなり厳しいタイミングになるだろう。
そして、チャンスは何度も訪れない。気を読むことで回避できてはいるが、幽香の攻撃自体に隙があるわけではない。
むしろ美鈴には無駄のない理想的な動きに思えるほどだ。
一撃で決めるしかない――それが最善にして唯一の策だ。美鈴は全身に巡る気を右手に集め始めた。
幽香を一撃で倒すには、おそらく美鈴の持つ気全てを叩き込まなければならない。
気を練りながら一方で、幽香の嵐のような打撃をかわし続けなれればならなかった。
美鈴は幽香の体を駆け巡る気の流れを、つぶさに観察していた。一瞬でも見誤れば命取りになる。
唸るような幽香の右フック。美鈴の死角を突いて正確に打ち込んでくる。
それでも、気を読んでいる美鈴にかわせない攻撃ではない。顎を狙った一撃に頭を引いて対処する。
しかし、その瞬間美鈴は喰われた。幽香の強く眩い気の波を全身で浴びていた。
それは幽香の感情そのものだった。幽香の怒り、憎しみ、いらだち――全て美鈴に向けられている。
幽香の気を熱心に追っていたがために感じ取ってしまった。全身が総毛立つ。思わず後方に飛び退った。
それがいけなかった。間合いが開いてしまった。接近戦から美鈴の苦手な弾幕戦の間合いへ移ったのだ。
幽香がこの好機を逃すはずもなく、美鈴が再び距離を詰めようと動いた時には、すでに幽香から強烈な光線が放たれていた。
即座に左へ跳ぶが、幽香のレーザーの範囲はあまりに広い。かわしきれず美鈴の右の脇腹に直撃する。
美鈴の身体はコマのように回りながら地面へと叩きつけられた。背中に湿った土の感触。
焼けるような脇腹の痛みに気を失いそうになるが、訓練された本能が追撃を恐れ、美鈴を立ちあがらせる。
身体の自由がきかない。足をもつれさせ、手を地面につきながら、ただこの場を離れたいという一心で動く。無様な姿だった。
幽香は追撃をしてこなかった。それに気付いて美鈴は動きを止める。
悔しかった。勝てないからではない。情けをかけられたことが悔しかった。
美鈴はもはや幽香のいる方を見ることもできない。地についた自分の手を茫然と眺めているだけだ。
「まさか負けたわけじゃないわよね、美鈴」
頭の上で何かが言った。
トレードマークの帽子はどこかへ飛ばされてしまったせいで、爪が髪の中まで食い込んでいる。
コウモリ姿のレミリアが留っているのだ。
「お嬢様、すみません。私にはやはり……」
「さっきは私がどうかしてたわ」
美鈴が震える唇から紡ぎだした言葉をレミリアは遮る。
「風見幽香を倒しなさい。紅魔館の門番が、敵を前にして逃げるなど許されるはずがないじゃない」
「お嬢様……」
でも、彼女は強すぎる。私には――、
「できるわね? 美鈴」
その言葉を聞いて、美鈴は身体の痛みが遠くなっていくのを感じた。
代わりに戻ってきたのは気を探る感覚だった。
頭上のお嬢様の気、離れた所からこちらをうかがっている強大な幽香の気、そして再び満ちてくる自分の気。
まだ戦える。
「もちろんです。お嬢様」
美鈴は落ち着きを取り戻していた。
辺りを見渡すとすぐ後ろに花畑があった。レーザーを喰らった時にここまで飛ばされてきたというわけだ。
なるほど。だから、幽香は追撃してこなかったのか。こちらに攻めてこないのも花畑を戦場にしないようにするために違いない。
つまり、花畑を背にしている以上、幽香は弾幕を使ってこない。もう一度、接近戦に持ち込むことができる。
それどころか、花畑を上手く利用すれば、戦いを有利に進めることができるかもしれなかった。
考えろ。きっと咲夜なら良い方法を思いつくだろう。私にだって……、
「なーんてね」
だめだめ。咲夜とは違うのだ。美鈴は策を巡らせるなんて柄ではない。慣れないことはしない方がいい。
「お嬢様、離れてください。行きます!」
「期待してるわ」
馬鹿正直でもいい。真っ向勝負で行こう。それがきっと一番自分に合っている。
美鈴は幽香に向かって駆け出した。
徐々に速度を上げていき、幽香との距離を半分ほど詰めたところで最高速に達する。駆けながら右の拳に気を集めていく。
幽香は一見すると全くの自然体だった。とても飛び込んでくる敵を待っているようには見えない。
しかし、美鈴には分かっていた。幽香の気は四肢の間をうねるように行き交っている。
美鈴がどうこようとも確実に反応し、迎撃するつもりなのだ。
幽香の間合いの一歩手前で、美鈴はびたりと速度を落とす。幽香は隙を見せたりはしなかった。
このタイミングで拳を打つようなミスは犯さない。
そして、美鈴は最後の一歩を踏み込む。それは互いが相手の拳の射程距離に入る瞬間。
そこで初めて幽香が動いた。おそらく彼女にとっては決着の一撃。
しかし、一瞬早く美鈴の左手が飛んでいた。敵の左手首に掌低を叩き込む。
幽香は目を見開いた。ダメージは大したことがないはずだ。それでも美しき怪物の表情には恐怖が浮かんでいた。
心を読まれているように感じたのだろう。
これまで美鈴が取っていた相手の気を察知して攻撃をかわすという戦術は、次の段階へと移行した。
攻撃をかわすのではない。攻撃をさせないのだ。
それは気を見る技術だけではなく、並はずれた反射神経と集中力があって初めて可能となる。
幽香の対応は早かった。
易々と美鈴に反撃の間を与えるつもりはないらしい。間髪入れずに二撃目へと移る。
幽香が右腕を動かすよりも前に、美鈴は彼女の気が左から右へと流れるのを見ていた。
気の流れを察知するのとほぼ同時に、脳は左脚に指令を出す。頭蓋骨の内側が沸騰する。
ためらいも熟考も許されない。本能と無意識が左脚を振り上げ、最短時間で幽香の右腕を阻む。
「……っ」
言葉にならない声を上げて幽香の顔が歪む。
美鈴は振り上げた左脚を下ろしてくる勢いをそのままに、右の拳を繰り出した。
体勢を崩された幽香の胴はガラ空きだ。
美鈴は雄叫びと共に幽香の腹を打った。持てる気の全てを叩き込む。
幽香の体が衝撃で浮き上がった。美鈴の気は幽香の体内で爆発し、幽香自身の気を相殺しながら暴れ回る。
幽香の体が地面に落下して大きな音を立てる。
美鈴も膝を付き、そのまま倒れ込んだ。
限界まで気を放出した上に、極度の緊張状態が解けて立っていられなくなったのだ。
遠のいていく意識の中で、脳裏に浮かんだのは不思議といつもの平凡な日常。
背中には硬い門柱、さらに後ろには紅魔館が建っている。
目を閉じて、少し気を探ればすぐにわかる。最上階には退屈そうなレミリア、館中を颯爽と駆けまわる咲夜。
図書館ではページをめくる以外動きがないパチュリーと、その世話を焼く小悪魔。
地下室のフランドールは寂しい思いをしていないだろうか。
変わらない日々の光景が美鈴の背中を暖める。
早く紅魔館へ帰りたかった。そこは美鈴の居場所だから。大好きな人たちが待っていてくれるから。
頭上で声が聞こえた。良く知った声が美鈴の名を呼んでいる。
目覚めなければ――。
* * *
レミリアは離れたところから幽香が倒れるのを見ていた。
――美鈴がやった!
もし今コウモリの姿をしていなかったら、跳び上がってガッツポーズをしていたかもしれない。
幻想郷中が恐れる風見幽香をうちの門番が倒してしまったのだ。
幽香との戦いが始まる前、レミリアは美鈴に逃げろと言った。
そして、美鈴の傷ついた表情を見た。
どんな時でもへらへらと笑っている美鈴が、あんな表情をすることがあるなんて知らなかった。
戦いが始まってから後悔した。
どうして、美鈴に戦うように命令してやれなかったのだろうと。
レミリアは無意識のうちに美鈴を見くびっていたのだ。美鈴の実力と忠誠心を過小評価していた。
主君としてあるまじき行為だ。
「ごめん」
そう呟いた時、美鈴が倒れた。あわてて飛んでいく。
「美鈴、大丈夫? 美鈴!」
声をかけるが動く気配はない。
それでも、美鈴の背中に留ってみると鼓動を感じることができた。気を失っているだけのようだ。
とりあえず、目を覚ますまで側に居よう。そう考えた時、視界の端で動くものがあった。
――まさか!
風見幽香がゆっくりと立ち上がるところだった。足元がふらついている。
それでも二本の足で身体を支えて立っていた。
こちらへやってくる。美鈴にはもう戦う力は残っていない。
最悪の状況だった。このままでは美鈴が殺される。
「させない!」
レミリアは幽香に向かって飛びかかっていった。
顔面に体当たりをかます。
「うるさいわね」
幽香の平手打ちを喰らった。
コウモリの意識はそこで途絶えた。
4.大切なもの
レミリア本体に意識が戻っていた。
背中には柔らかい感触。リビングのソファに体を預けていた。
周りには誰もいない。弾かれたように立ち上がった。美鈴を助けに行かなければ!
「咲夜! 咲夜、どこにいるの!?」
もはや「咲夜には秘密」などと言っている場合ではなかった。
「咲夜ー!」
返事がない。いつもなら呼んだ瞬間には目の前にいるというのに。
――だめだ。もう待てない。
リビングの窓に寄ってカーテンを開ける。紅魔館を包む霧で夕焼けが滲んで見えていた。
日傘を差して優雅にお散歩している場合じゃない。もちろん日没まで待つわけにもいかない。
レミリアは自分の体質を呪った。
外の景色を見つめながら悔しそうにカーテンを握りしめる。
* * *
コウモリが地面に落ちた時、しゃらんと金属音が鳴った。
その音が美鈴の意識を引き戻させた。音を立てたのは転がった銀のペンダント。
残された力を振り絞るようにして、這いつくばって手を伸ばし、握り込んだ。
「それ、そんなに大切なものなの?」
上の方から声がする。
そうか、幽香を仕留めることはできなかったのか。
「さあ」
「冷たいのね」
本当に美鈴は知らないのだ。
幽香の気配が近づいてきたかと思うと、襟首を掴まれて乱暴に体を持ち上げられた。
「パンジー、スミレ、チューリップ……。綺麗に花を咲かせましたね」
掠れた声で言った。
「命乞いのつもり?」
「そう聞こえましたか。こう見えて私も園芸はなかなかのものなんですよ」
強がって笑いかけようとしたが、出てきたのは隙間風のような吐息だけだった。
「そうなの」
意外にも幽香に疑う様子はなかった。
「ねぇ、この中で一番好きな花は何?」
まるで清楚な乙女たちのティータイムで出されそうな質問だ。
少なくとも、相手の体を吊り上げながら問いかけるようなことではない。
「さ、桜草……かな。うちで育てたことはありませんが」
「ふうん」
そこで会話が途切れた。
すぐに会話が途切れたのではなく、幽香が発言できなくなったのだと知る。
今、この恐るべき妖怪の首筋にはピタリと銀の刃が押し付けられていた。
「そこまでにしておきなさい」
幽香の背後に現れたのは可愛らしいエプロンドレスに身を包んだ銀髪の少女――十六夜咲夜だった。
鈍く光る紅い瞳はおそらく夕焼けのせいだけではない。
「咲夜さん……」
「あなた、この子の仲間?」
咲夜が僅かにナイフを緩めたので幽香は喉を動かすことができた。
「夕食の準備があるから早く帰りたいわ。その子を放してくれない?」
「忙しいならあなた一人で帰ればいいじゃない。私はまだ遊び足りないの」
「早くしないと夕飯の野菜と一緒に刻むわよ」
幽香はわずかな逡巡の後、美鈴の襟元から手を放した。
美鈴は地面に落とされる自分の姿を想像したが、そうはならなかった。
咲夜が後ろから抱きかかえてくれていた。
「速い……。今の体調であなたとやりあうのは厳しそうねぇ」
幽香は腹をさすりながら痛みに顔を歪める。
「やっぱり今日はもう疲れたから帰るわ。武道家さん、今度桜草を持ってお伺いするわね。住まいはどこかしら?」
「紅魔館です。湖の先にあります」
「美鈴!」
咲夜が不用意な発言を咎めるが、美鈴は何も心配はいらないと思っている。
幽香は花畑の中から日傘を拾い上げた。二人に向かって小さく手を振ると、日傘を肩に掛けて歩いていった。
幽香の姿が見えなくなり、美鈴と咲夜の間に弛緩した空気が流れる。
咲夜は美鈴の腕を首に掛け、体を支えながら歩き出した。
美鈴の方が身長が高いため、なかなかスムーズに進むことができない。
美鈴は申しわけなく思った。
「ごめんなさい、咲夜さん」
「あなたの用事というのは、あの凶悪な妖怪とのデートだったのかしら?」
咲夜は刺々しい口調で返す。
「い、いえ、そういうわけでは……。あの人は予定外です」
「まぁ、いいけど。勝てない喧嘩は何の意味もないわよ」
咲夜は大げさにため息をついてみせるが、怒っている様子はなかった。
「なら、もしかして用事って、あれ?」
咲夜は木片の塊を指して言った。美鈴はどきりとする。
「いやその、まぁ、そんなところですかね」
「私も気になっていたのよ」
聞けば、咲夜は帰ってきてから空いた時間を見つけては、切り離されたロケットを探して回っていたらしい。
「最上段はとにかく狭くて、最低限の必需品しか持ち込めなかったの。家具とか、お嬢様の洋服とか、涙を飲んで置いていったわ」
勿体ないことが嫌いな咲夜らしい話だ。
月旅行の主役であった宇宙船の一部――アルニタクの残骸は夕陽に照らされて、物悲しい雰囲気を漂わせている。
ひとつの夢の終わりを感じさせた。
それよりも、美鈴は握り込んだままになっているレミリアのペンダントが気になりだしていた。
咲夜には秘密にしなければならないのだった。
「めいりーん!」
自分の名前を呼ぶ声がしたかと思うと、前方から黒い塊が凄い勢いでこちらへ向かって飛んできた。
目の前までやってきたところで、それは黒い布を被った子供であることがわかる。
布には二つの小さな穴が開いていた。おそらくここから外を見ているのだろう。
「レミリア様?」
咲夜が不思議そうに呟く。
良く見ると、被っている布は紅魔館のリビングに掛っているカーテンだった。
こんな分厚い黒のカーテンを、他に使っているところがあるとは思えない。
布を被った子供は美鈴に抱きついてきた。
「美鈴! 大丈夫なの?」
その声は紛れもなくレミリアのものだった。
「もう殺されちゃってるかと思った」
不吉な言葉の後、布の内側からは押し殺したような嗚咽が聞こえてきた。
「まったく……、馬鹿な門番を持つと苦労するわよ」
「ごめんなさい、お嬢様」
美鈴は布越しに少女の頭を撫でた。
「あまり揺すると美鈴の傷に障りますよ」
咲夜が注意する。
「えっ、何で咲夜がいるの」
今、気付いたらしい。
「こっちが聞きたいです。それにお嬢様、そのカッコは……」
咲夜は口元を押さえて震えていたが、堪え切れず吹き出した。
「なんですか、それ。何なんですか……うぷぷ」
一度、決壊した感情を止めることができずに咲夜の含み笑いは爆笑へと変わった。
「うっ、うるさい」
レミリアがバシバシと咲夜の腹を叩くが笑いは止まらない。
恥ずかしそうなレミリアの反応がまた可笑しいのだ。つられて美鈴も笑ってしまう。
「二人ともうるさーい!」
その時、地面に何かが落ちる音がした。レミリアのペンダントである。
大笑いしたせいで、手が緩んでしまったらしい。落ちた拍子にペンダントが開いていた。
写真にはレミリアと咲夜が映っていた。でも、この咲夜は……。
「美鈴、それは?」
背後で咲夜の声がした。かなりまずい状況だった。
ここにきて最悪の失態。レミリアは怒っているに違いない。
美鈴は怖くて振り向くことができなかった。
気付くとレミリアが隣に立っていた。怒っている様子はない。
もっとも布を被っているせいで表情は読み取ることができない。
美鈴の手からペンダントを抜き取ると、咲夜に向かって放る。
受け取った咲夜も、わけがわからないといった様子だ。
「お、お嬢様」
「いいんだ。元々こいつのものなんだよ、あれは」
わざとぶっきらぼうな口調でレミリアが言う。
咲夜のものだった? ならば、なぜ咲夜に秘密で探させたのだろうか。
布の奥で光るレミリアの瞳と視線がぶつかった。
「少し昔話をしてあげるわ。咲夜は耳を塞いでなさい」
道にはすでに日の光はなかった。夜がやってきたのだ。
レミリアは布を取ると美鈴の背中にそっと掛けた。
どこからかコウモリが飛んできてレミリアの左腕に収まる。
幼い吸血鬼は静かに語り始めた。
5.ロケットは待ってくれる
いつもの銃を構えた軍人でも、十字架を掲げた聖職者でもない。
今、こちらにナイフを向けているのは幼い少女だった。
レミリアの爪で全身がズタズタになっているのにも関わらず、少女の瞳には紅い戦意の灯が揺らめいている。
驚くべきことに、少女はこれまでレミリアの命を狙ってきた者たちの誰よりも強かったのだ。
レミリアの左肩に突き立った一本のナイフがそれを証明している。おかしな夢でも見ているかのような光景だった。
もっともレミリアに出会った者も皆、悪夢を見ているようだと言うのだが。
「あなた、どうして私を殺そうとするの?」
無視されるかと思ったが、少女は口を開いた。
「それがわたしの運命だから。課せられた任務だから」
「随分とつまらないことを言うのね」
非難するつもりはないが、彼女に対して失望するのを隠せなかった。
レミリアは少女に向かって歩き出す。足元にはレミリアを殺そうとやってきた者たちの死体が無造作に転がっている。
死臭と静寂が占める室内には、レミリアのヒールの音と少女の息遣いだけがあった。
先程、一戦交えた時に少女の力の正体はおおよそ予想がついていた。
それでも、レミリアは無防備に彼女の射程距離へと足を踏み入れる。
少女と目が合った。自分の姿はどのように見えているのだろう。
嫌悪を催すほどの奇形か、それとも、外見だけなら人の子とほぼ変わりがないと捉えているのか。
少女から魔力の発動を感知する。彼女を目で追おうとはせずに、ただ右手を胸の前へと動かす。
胸をカバーするのとほぼ同時。手の甲には深々とナイフが突き刺さっていた。
予期していた痛みなので怯むこともない。
「体力の限界と最後のナイフ、この状況で狙うなら心臓しかないわよね」
少女の表情が凍りつく。レミリアは左手でナイフを引き抜くと床に放り捨てた。
ついに少女を追い詰める。顎を掴んで顔を覗きこんだ。
手にできたばかりの刺傷から血が溢れ、少女の顔を汚す。
「あなた、名前は?」
「ない」
「それでは、誰かがあなたを呼ぶ時困るんじゃないかしら」
「必要ない。私はあんたみたいなのを殺すための『武器』だから」
「家族はいないの? まさか、そこら辺に転がっているのは違うわよね」
「違う。家族もいない。こいつらは私を買っただけだ」
吐き捨てるように言った。その瞬間、少女の目が紅く光ったのをレミリアは見逃さなかった。
気付くと、レミリアの肩に刺さっていたナイフは少女の手に収まっている。
驚くことに刃先はレミリアではなく少女自身に向けられていた。
レミリアの動きは素早かった。
少女の手首を捻り上げる。ナイフは彼女の首筋を撫でるに留まった。
床に落ちて転がったナイフを即座に蹴り飛ばす。
「なぜ死のうとした?」
まるで独り言のように、消え入りそうなほど小さな声でレミリアは呟いた。
珍しく動揺していた。
少女は呻き声を上げてもがくが、レミリアの手から抜け出ることはできない。
「もう許して。早く終わりにさせてよ!」
つい先ほどまで、圧倒的に不利な状況でも気丈に振舞っていた少女が、怯え泣きじゃくっている。
この子にとって「死」は最後の拠り所だったのだ。
「うるさい! 黙れ」
言うと同時に頬を打つ。少女は強烈な一撃を喰らって床に仰向けに転がった。
レミリアは腹を踏みつけて逃げられないようにする。
「誰かを殺すことばかり考えて。次に考えるのはどうやって死ぬかだ。つまらない。くだらない。お前も……私も」
レミリアは苦しげに声を絞り出す。
「最低だ……、最低な世界だ」
呼吸を整える。何を熱くなっているんだ、私は。
「私は『幻想郷』に行く。そこでは人間の目を気にすることもなく、妖怪や悪魔が自由に過ごしているらしい」
レミリアは少女の上から足を退けた。少女は体を起こしながら咳こんだ。
やがて落ち着いたのか口を開く。
「幻想郷?」
「まだどこにあるかは分かっていない。でも、私の友人がそこへ行く方法を見つけ出すわ」
レミリアは少女の手を取った。
「あなたも一緒に来なさい。心配しなくてもいい。他の妖怪は私が従える」
少女の目にはもう殺意も怯えも見られなかった。ただ不思議そうにレミリアを見つめている。
「悪いけど、あなたがここで自殺するという運命には鍵を掛けさせてもらったわ」
少女はレミリアの手を借りて立ち上がる。
「行ってやってもいい」
無表情のまま、たった一言だけだった。
少女に受けた手の傷はすでに塞がっている。
レミリアは手を伸ばすと、少女の頬についた血を拭ってやった。
* * *
目を覚ますと覗きこむ咲夜の顔があった。
「お嬢様、おはようございます」
「いつからそこに?」
「一時間ほど前からです。お嬢様が目覚めるのをお待ちしておりました」
一時間も寝顔を観察されていたということか。
「次からは部屋の外で待機するように」
「かしこまりました」
レミリアが名前を与えた少女――十六夜咲夜は紅魔館の管理をほとんど一人でこなすようになっていた。
咲夜にメイドという仕事を与えたのは半ば思いつきであり、残りの半分は冗談のつもりだった。
ところが、不思議なことに咲夜はメイドの仕事が気に入ったらしい。
まるでこれまでの人生もずっとメイドとして生きてきたかのように振舞い、プロフェッショナルとして扱われることを好んだ。
そんな咲夜の様子につられてレミリアも、
「私に相応しい完璧で瀟洒なメイドを目指しなさい」
なんて言ってみたりする。
咲夜は掃除、洗濯、館の修繕までほとんど独学で習得していた。
どうやらパチュリーの図書館を利用したらしい。
正直、レミリアにそれらを教える自信はなかったので助かった。
しかし、時折今みたいな妙な行動に出ることもあるので、まだまだ注意が必要なのだ。
念願の幻想郷に辿りついてから半年が経とうとしていた。
幻想郷を制圧する計画は着々と進められている。
「妹様から伝言があります」
身支度を済ませて部屋を出たレミリアは、咲夜を連れて紅魔館の長い廊下を歩く。
窓からは夜空に無数の星が瞬くのが見える。
「何かしら」
「殺してやるから地下に降りて来い、とのことです」
「うるさいわね。あと一年、いや半年経てば好きなだけ外に出してやるわよ。もう少し大人しくしてなさい」
「お伝えしておきます」
ダイニングルームの前までくると、咲夜が扉を開けながら言った。
「朝食の準備ができております」
「う、うん……わかった」
長いテーブルの端に食器が並べられていた。レミリアは席に着き、料理の数々を観察する。
カリカリに焼かれたベーコンはほとんど木炭の破片と区別がつかない。
オムレツからは生焼けの卵の白身が流れ出していた。
サラダには得体のしれないピンク色のドレッシングがかかっていて、スープはどろりと粘り、どちらかと言うと液体よりも固体に近い。
唯一まともに見えるパンも、ずっしりと重たい小麦粉の塊だということを知っていた。
目覚ましい速さで家事の技術を習得してきた咲夜だったが、なぜか料理の腕だけは進歩しなかった。
それでも、日々頑張って練習していることは知っているのであまり悪くも言えない。
「今日は朝食はやめておく。紅茶だけもらえるかしら」
「お嬢様、朝食を抜くと健康に悪いらしいです。どうか召し上がってください」
表情の変化が乏しいせいか、咲夜がこういう発言をすると妙に威圧感があった。
「そ、そうね」
レミリアは決死の覚悟で料理に手を付ける。
問題は食事のことだけではないのだ。
たとえば、レミリアは当たり前のように夜間が活動時間だが咲夜は違う。
レミリアに合わせて昼夜逆転の生活を送っているせいで、しばしば体調を崩していた。
前に咲夜がレミリアのために洋服を作った時も、背中の羽を出すための穴が上手くいかず、試行錯誤しているうちに布がズタズタになってしまった。
人間と吸血鬼、食べられる側と食べる側、十代前半の少女と四百九十代後半の少女――ふたりはあまりに違い過ぎていた。
距離感を測り損ねて失敗し、価値観の違いが相手を傷つけた。
それでも、二人は館主とその従者という関係を手放しはしなかった。ままごとのような生活だった。
いつ終わってもおかしくないことに気付かないふりをしていた。
一度手を止めたら、もう二度と再び食べ始めることはできない。
そんな予感に急かされて、レミリアは黙々と料理を口へ運んでいた。限界は近い。
それでも、レミリアは最後の一口を紅茶で流し込み、無事戦いを終わらせる。
――私っていつこんなに食べられるようになったのだろう。
つい最近までは、人間の血ですら入っていかない日もあったというのに。
「お茶のお代わりはいかがです?」
咲夜がトレーにティーポットを載せてやってくる。
相変わらずの無表情だが、どことなく嬉しそうな雰囲気だ。
この様子を見せられては明日もまた完食しなければならないだろう。
「いただくわ」
咲夜がテーブルにトレーを置いた時、何かが床に落ちた音がした。
レミリアは咲夜がスプーンか何かを落としたのだと思った。
咲夜はカップに紅茶を注ぐのに真剣で気付いていない。まだ、咲夜にはここのテーブルは高すぎて作業は大変だった。
仕方がないのでレミリアは拾ってやることにする。
テーブルの下に落ちていたのはスプーンではなく銀のペンダントだった。
レミリアの見たことがないものだ。
チェーンが切れていたので、丸い銀のトップを摘まんで拾い上げる。すると、半分に割れて開いた。
写真が入っている。幼児を抱いた銀髪の若い女性が写っていた。良く見ると抱かれた子供も銀髪だった。
隣で咲夜が息を呑んだのがわかった。
次の瞬間、手の中にあったのは写真のない空っぽのロケット。
隣には瞳を紅く光らせた咲夜がいた。咲夜の右手は固く握られている。
「咲夜、今の写真……」
「知りません」
震えた声でレミリアの言葉を遮る。
「でも、このペンダントはあなたのでしょう」
「違います」
嘘ね。ここまで動揺する咲夜を見るのは初めてだった。
そして、おそらくレミリアの方がもっと激しく動揺していた。
頭が痺れたようになり、視界が狭まる。
レミリアは自分の愚かさを呪った。
――そっか。咲夜はひとりぼっちじゃなかったんだ。
レミリアは無神論者だ。
それでも、もし自分を常に観察している超越的な何者かが存在するならば、この罪を蔑み嘲笑しているに違いないと思った。
レミリアは、咲夜が自分やフランドールと同様に誰にも愛されなかった子だと思い込んでいたのだ。
だから、ここに連れてきた。何と浅はかで惨めな思い込みか。
愛されることができるのならば、咲夜は向こう側に残るべきだったのだ。
連れてきてはいけなかったのだ。
逃げるようにして厨房へ向かう咲夜に何も言えなかった。
レミリアは広いダイニングルームでいつまでもロケットを握りしめていた。
* * *
それから半年ほど経ったある日のこと、紅魔館を一人の旅人が訪れた。外の世界からの迷い人で、酷く衰弱しているという。
「どのように致しましょうか」
いつものように、咲夜は感情を込めずに言った。
ロケットの一件で気まずくなったのは、ほんの二三日だけのことだった。
レミリアと咲夜はこれまで通り、寄り添いながらもどこか噛み合わない日々を送っていた。
もちろん、さすがのレミリアも綺麗さっぱり忘れるというわけにはいかなかったのだが。
「そうねぇ」
考えるような素振りをしてみるが、はっきり言ってどうでも良かった。
幻想郷に来てからというもの、レミリアはすっかり人間への興味を失っていた。もちろん一人の例外は除く。
「そいつに何か面白いところがあるなら、一晩くらい置いてやってもいいわよ」
別に期待しているわけではない。試しに言ってみただけだ。
咲夜は少し考えて、
「そういえば、カメラを持ってましたね」
面白くも何ともなさそうに言った。
部屋にひとり。
レミリアはベッドに仰向けになって、旅人に撮らせた写真を眺めている。
少しだけ顔を強張らせたレミリアと無表情の咲夜が並んでいた。
二人の肩の間には隙間があった。レミリアは写真を床に放って、枕に顔を埋める。
ベッドの上でもぞもぞ悩んだ後、勢いをつけて起き上がる。
左手で床に落ちた写真を拾い上げ、右手には鋏を持った。
咲夜に隠れて、キッチンの引き出しから取ってきたものだ。ゆっくりと写真に鋏を入れる。
慎重に作業を行ったにも関わらず、綺麗な円にはならなかった。
悔しいが、鋏を使うのに慣れていないので仕方がないことかもしれない。
レミリアと咲夜の顔が離れているせいで、一つの円に収めるのも難しかった。
背丈が近いおかげで縦方向に距離が出なかったのが不幸中の幸いだった。
ロケットを開き、写真を差し込む。
銀で縁取られた二人の写真は悪くなかった。
ぼんやりとロケットを眺めていたレミリアは、ここからが本番であることを思い出す。
銀盤を閉じてワンピースのポケットに閉まった。そろそろティータイムの時間だ。
廊下に気配を感じたかと思うと、
「お嬢様、お茶の用意ができております」
扉の向こうで咲夜の声が聞こえた。
「わかったわ」
レミリアが返事をすると咲夜が扉を開ける。レミリアは咲夜の脇を抜けて部屋を出た。
バルコニーへ向かって廊下を歩く。月の綺麗な夜はバルコニーでティータイムを取ることに決めているのだ。
咲夜はレミリアの背中に寄り添うようにして付いてきている。
バルコニーには穏やかな風が吹いていた。
レミリアが丸テーブルに着くと、咲夜は伏せてあったカップを返し、ポットから紅茶を注ぐ。
「ねぇ、咲夜」
あえて紅茶を淹れ終える前に話しかけた。
ペンダントがポケット越しに存在を主張している。ポケットに手を入れようとして迷う。
「何でしょうか」
テーブルにティーポットを置いて咲夜が尋ねる。レミリアは何か言おうとするが言葉にならない。
月に照らされる咲夜の銀髪を綺麗だなと思う。
「呼んでみただけよ」
「そうですか」
やっぱり渡せなかった。
これまで入っていた「誰か」の写真の代わりに、自分の写真を入れて渡すなんておこがましいにもほどがあった。
渡せるわけがないのだ。
「咲夜」
それでも、もうレミリアは悩んだりはしなかった。
咲夜が淹れた紅茶に口を付ける。緊張で固まった心が、熱い液体に溶かされていく。
再びテーブルに戻したカップには小さく月が浮かんでいた。
「あなたが淹れたにしては美味しいわね。飲んでみる?」
レミリアがカップを指差すと、咲夜はうろたえた。
「……よろしいのですか?」
恐る恐るカップを両手で取ると、ずずっと音立てて啜った。
やはり咲夜は肝心のところが抜けている。まだまだ完璧という言葉には程遠い。
そう、今はまだ早いというだけじゃないか。焦る必要はないのだ。
幻想郷での生活は始まったばかりで、この世界で過ごすティータイムはこんなにも素敵なのだから。
私に付いてきて良かったでしょう――咲夜にそう自信を持って言える時が来たらこれを渡そう。
その時が来るまでは預かっておいてやる。
「カップを返しなさい。次は私が飲む番よ」
* * *
美鈴は咲夜の肩を借りながら、一歩ずつ紅魔館との距離を縮めていた。体の痛みと脱力感をレミリアの話が忘れさせてくれていた。
「でも、どうして月にそのペンダントを持っていったんです?」
「月が私のものになった瞬間なら、渡すタイミングとしてはベストだと思ったのよ」
「な、なるほど……」
さすがはレミリア・スカーレット。スケールがでかい。
しかし、結局月の侵略もペンダントを渡すことも忘れて帰ってきてしまうのだからわからない。
それも見方を変えれば大物であると言えるかもしれないが。
咲夜は黙ったまま、美鈴に合わせて歩いている。
もちろん耳を塞いだりはしていない。それでは美鈴を運ぶことができない。
レミリアの話は聞こえていたはずなのだが、咲夜は何も言わなかった。
話を終えたレミリアもそのまま黙ってしまった。
地面を引きずる美鈴の足音だけが暗い夜道に響く。
気まずさはあったが、このまま館に着くまで黙っているのが一番いい。
美鈴がそう判断した時、
「あの写真に写っていたのは誰だったのでしょうか?」
唐突に咲夜が言った。美鈴には何のことを言っているのかすぐにはわからなかった。
「母親……じゃないのか?」
「さぁ、どうなんでしょう。少なくとも私に母親の記憶はないんです。だだ物心付いた時にはあのペンダントを身に付けていました」
咲夜は淡々と言う。
「だから、それはつまり形見ってやつでしょう」
そんな咲夜の様子を見てレミリアは苛立たしげに言った。険悪な雰囲気が漂い始める。
「でも、赤の他人である可能性も捨てきれませんわ」
「はあ!?」
レミリアは今にも咲夜に掴みかかりそうだった。
「ふざけてるのか。あの写真はもっと大切に扱うべきだったんだよ。私に気を遣って言ってるのなら殺すぞ!」
そろそろ黙ってみているわけにもいかなくなってきた。
美鈴が止めに入ろうと考えた時、
「レミリア様、一つだけ言わせてください」
落ち着いた口調で咲夜が言った。
「紅魔館以外に私の居場所があるとお思いですか?」
レミリアがはっと押し黙る。
「私は、お嬢様の傍を離れるつもりはありません」
強く凛とした声だった。
「もし、万が一、私に母親というものがいたとして、その人が今の私の生活を見たならば、きっと喜んでくれるでしょうね」
レミリアは黙ったまま、顔を真っ赤にしていた。怒っているせいではないと思う。
咲夜が足を止めた。自然と美鈴も立ち止まることになる。
「付けてくれませんか? 手が塞がっているので」
咲夜がペンダントをレミリアに差し出した。
レミリアはおずおずと受け取ると、ふわりと浮かびあがった。
咲夜の首に後ろからチェーンを掛ける。そこでレミリアが不思議そうな表情をした。
「チェーンの留め具なら今直しました。丸環が広がってしまっていただけなので簡単でしたよ」
「油断も隙もないわね」
レミリアが苦笑する。
咲夜の胸元で銀盤が輝いていた。ロケット型ペンダントは数年ぶりにそこへと帰ってきたのだ。
中には咲夜とレミリアの小さな思い出が収められている。
美鈴は込み上げてくるものを抑えきれなかった。
「何泣いてるのよ、馬鹿」
咲夜が呆れたように言った。
「だって、だって……」
「馬鹿ね。顔を拭きなさい」
レミリアが差し出してくれた布で顔を拭く。
「カーテン、新調しなければなりませんね」
「これを機に柄を変えようかしら」
「薄い色はダメですよ。光を通しますから」
二人の何気ないやり取りが、やけに涙腺を刺激する。
美鈴は黒い布から顔が離せなくなってしまった。
エピローグ ~翌朝~
目覚めたばかりのダイニングルームには、朝の気だるい空気が流れている。
美鈴が中へ入っていくと他の住人はすでに席に着いていて、咲夜の作った朝食を摂っていた。
まだ幽香の攻撃を受けた脇腹はヒリヒリと痛んだが、美鈴の体はおおむね回復していた。
席に着くと、すぐに咲夜がスープを持ってくる。
「大丈夫?」
普段は美鈴が一番乗りなので、今日みたいなことは珍しい。
怪我のせいではないかと心配してくれているのだろう。
咲夜の胸元にペンダントはなかったが、良く見ると首元にチェーンが光るのが見えた。
ロケットは服の中にしまっているのだろう。
「ちょっと寝過ぎちゃいました」
美鈴は頭を掻きながら、咲夜に笑いかけた。
さすがに昨晩は門番の仕事に戻ることはできず、紅魔館の一室で静養していた。
疲れていた上に久しぶりにベッドで眠ったせいか、思いっきり熟睡してしまったのだ。
これ以上、あのフカフカを味わってしまうと、門番の仕事に戻れなくなるんじゃないかと本気で思う。
「寝過ぎるくらいでちょうどいいのよ」
離れたところから話を聞いていたのか、レミリアが言った。
「美鈴は今日から一週間休みを取りなさい」
「いえ、お嬢様。私はもう元気ですから」
美鈴は手を振って遠慮するが、
「命令よ、これは」
レミリアに発言を撤回するつもりはないようだ。
「ありがとうございます」
美鈴は主人の優しい命令に頭を下げた。
「やった! 一緒に遊ぼうね。美鈴」
一番喜んでいるのはフランドールだった。目を輝かせてこちらを見ている。
フランドールと過ごす一週間というのも悪くないかもしれない。
「でも、その間、誰が門番をするのですか?」
レミリアはサラダにフォークを突きたてたところで手を止めて、パチュリーの隣へと視線を移す。
「小悪魔、あなたがやりなさい」
「えっー!」
いきなりの指名に小悪魔が不満の声を上げた。
「そんなの無理ですよ。そもそも、私には司書の仕事があるんですから。パチュリー様からも何か言ってやってください」
「むにゃ」
小悪魔に救いの手は差し伸べられなかった。
朝に弱いパチュリーは、テーブルに頭を載せて二度寝に入っている。
「これも命令」
「そんなぁ」
レミリアは冗談で言っているわけではないらしい。美鈴は小悪魔に少し申しわけなかった。
その反面、門番の仕事をそこまで嫌がらなくてもいいのに、とも思う。
食事も終わり、咲夜が紅茶を準備を始めていた。
すると、レミリアがおもむろに立ち上がり咳払いを一つした。
「さて、今日から我々は新たな計画に挑みます」
「計画?」
突然のことで、皆きょとんとしている。
「ここ幻想郷に海を作るのです。名付けて『紅魔館臨海計画』!」
「海……ですかぁ」
いまいちピンとこない。
「お嬢様は月で海遊びにハマってらしたから」
咲夜が理由を教えてくれた。それにしても、お嬢様は月に何をしに行ったのだろう。
「おもしろそー」
フランドールだけが手を叩いて囃し立てている。
「というわけでパチェ、今回も設計はあなたに任せるわよ」
「ふぇ」
パチュリーだけはまだ食事が終わっていなかった。
半分眠った状態のパチュリーに、小悪魔がパンをちぎって口へと運んでいる。
「いつまで寝てるの。あなたが頑張らないと始まらないのよ。咲夜、パチュリーのために海に関する文献を集めておきなさい」
「はい、お嬢様」
咲夜は笑顔だった。張り切るレミリアを優しい眼差しで見つめている。
「土を掘ったり、水を運んでくるのは……小悪魔でいいわね」
「ええっ!」
今日のレミリアは、やけに小悪魔に対して厳しい気がする。何かあったのだろうか。
普段、それほど交流しているのを見ることが少ない二人だけに、理由に心当たりがなかった。
「無理ですって。これはいじめです! パチュリー様、起きてください。私、いじめられてますよ~」
「む~」
小悪魔は涙目になってパチュリーを揺する。
動かない大図書館はそれでも眠ったまま、もぐもぐとパンを咀嚼するだけであった。
「さぁ、ぐずぐずしてないで計画を進めるわよ」
レミリアが拳を高く上げた。また騒がしい毎日になりそうだ。
「ちょっと待ってください。レミリア様の仕事は何なんですか?」
小悪魔が仕返しとばかりに訊ねた。レミリアは真顔で返す。
「私? 私は水着を選んでくるわ」
まるでSSの手本を見ているようでした。
構成が上手くぐいぐい引き込まれる感じ。
文句なしの満点で
それぞれのキャラに独立したエピソードを想像してしまう位に。
無垢なフランちゃんや、何気に黒い小悪魔を作者様ならどう料理するんだろうなぁ。
それにつけても後書きの霊夢……
どうしてか、彼女に対して熱いものがこみ上げてくるのです。
これに全部もってかれた
だったけどこの後日談はいいなあ
美鈴と小悪魔に出番あるのも嬉しいし話自体も面白くて素敵