境界線が引かれる。
一瞬で、あるいは永遠の時間を使って―――
***
「ねぇ、蓮子。境界って、何かしら」
夏も終わりに近づいた、午後4時くらい。
私ことメリー―――本名はマエリベリー・ハーンだが、長い上に日本人には発音しにくいのだそうだ―――は傍らに立つ友人、宇佐見蓮子に声をかけた。
待つこと数秒間。ようやく「んー?」というだらしのない返事が返ってくる。しばらく私ではなく私の金髪を睨んで、それから質問の内容をようやく理解したらしい彼女は、
「ううん……。急に何を言い出すのかと思えば……」
そう小さくため息を吐きつつ手にした紅茶を口に含んだ。彼女の方から独特の香りが空気に乗って流れて来る。テーブルに置いたハットを睨んでいるので、もう帰ろうかな、などと考えているのかもしれない。
蓮子と私の二人のみで構成されたサークル「秘封倶楽部」の活動は、普段はこのカフェで行われる。紅茶や珈琲などを飲みながら未知の世界、幻想郷についての話をしたりすることが多い。蓮子がそこに関係のある何かを見つけてくると、現実と幻想の境界を探しにフィールドワークに出かけることもある。
私は世界に蔓延る「境界線」を見ることが出来る。空間に開いたスキマのようなものだ。幸か不幸か、生まれつきそんな眼を持っているのだから、あり得ないと今更言われてもどうしようもないし、正直困るだけだ。その眼のお陰で、こうして秘封倶楽部として活動出来ているということも事実であって、それがただの霊能サークルなどとは違う理由にもなっている。蓮子曰く、実践派霊能サークル、だそうだ。大差ないと思う。
そして、蓮子もまた特殊な眼を持っているのだが―――
「境界って何? って訊かれてもねぇ……。メリーがいつも見ているもの、としか答えようがないわ」
今日の話題は、私の発言から始まったので……それはまた別の話。
「そうなんだけどね……。ちょっと聞いてよ、蓮子」
「もちろん聞いてるわよ、失礼ね」
「じゃあ眼を閉じないで欲しいんだけど。……その、美術関係の学部に入っている友人から聞いた話なんだけどね? 世界のスキマを描いたような作品があるっていうのよ」
「メリー、貴女友達なんていたの?」
「失礼なのはどっちよ。どうせ蓮子の携帯電話のアドレスには私の名前以外無いんでしょうね。私よりも友達少なそうだし」
「…………」
「……あれ、図星?」
こくん、と恥ずかしそうに頷く蓮子は、余りにも哀れに私の眼には映ってしまった。まさか冗談のつもりで言った言葉がこんな結果を得ることになるとは……。
驚きで思考の鈍っていた私は、一つの疑問に至る。
「でも蓮子、それってちょっと異常よね?」
「……………………」
「蓮子ー?」
「……で、何? そのスキマの芸術品っていうのは」
羞恥に顔を赤くする蓮子はなかなかの見物で、つまりはめったに見ることが出来ない。どうやら友達のいないらしい彼女の、こんな顔を見ることが出来るのは私だけなのだろう。
気を紛らわすためか、私の前にあるクッキーを一つ奪い取ると、彼女はジト目で口へと放り込んだ。
私は構わず先を続ける。蓮子の可愛い顔を見るのが今日の目的ではないからだ。
「この写真にある作品よ。見て……スキマにそっくりだわ」
「だから私は見たことないんだってば」
私がバッグから取り出した写真には、一つのキャンバスのような何かが映っていた。しかし、何かが描いてあるわけではない。
どうも、キャンバス自体が作品なのだそうで―――
―――中心が、ナイフか何かで切り裂かれているのだ。
勢いをつけて切り裂いたのだろうそのスキマは、異常なほどになめらかで、私の見る空間のそれと良く似ていた。一つだけ違うのは、その中が黒洞々とした闇であること。その先にある「幻想郷」と幾つもの「眼」の見えるスキマとは違い、キャンバスを裂いた跡はただの、闇だった。当然、人の作ったものなのだから何も置かなければ黒か白になるのは当然のことなのだけれど、どうしても違和感が拭えないのだ。
「ふぅ、ん。何度も言っているように、私は見たことがないから何とも言えないけど……これが境界に似ているとしたら、どういうことになるの?」
「そうね……」そういえば、特に考えていなかったような気がする。「いつも活動内容を提唱してくれるのは蓮子でしょ? だから今度は私からどうかと思って」
「なるほど。実際に見ている貴女が言うなら、確かに興味深いしね」
「そういうわけで、これの作者の出身地へ行ってみたいと思うのよ」
まったくもって今考えたことだが、蓮子は気付いていないらしい。今日の講義が眠くてそれどころじゃないのかもしれないが、うっかり失言をすると彼女は意外と覚えているので怖い。
それでも蓮子は、相変わらずの眠そうな顔。昨日はいつまで起きていたのだろう?
そんなことを訊いたら、「今日まで起きていたわ」なんて言うだろうから訊かないけれど。
……まぁ、可愛いし、良いんだけどね。
***
私こと宇佐見蓮子は、眠かった。
目の前の金髪少女がどこかへ行こうと言い出したことは分かったが、それ以降は何かを言ったことさえ記憶していない。
例えるなら、どこかへ行った帰りの電車でうつらうつらとしてしまう状態。何度頭を壁にぶつけても起きる気がしないのだ。
今の私の意識は、メリーが「秘封倶楽部やめるわ」なんて言わない限り覚めることはないだろう。このまま寝てしまえば、彼女が家まで運んでくれるだろうか?
「……ないなぁ」
「何がないのよ」
「んー、そうね、メリーは優しくないだろうなぁって思って」
「今の話と関係ないよね?」
「……ないなぁ」
メリーの顔に昔の漫画で言う「怒」マークがついたのを認識して、私の意識は少しずつまともになってきた。少し頑張れば睡魔など、どうにかなるものらしい。
そんなことよりも、先程の会話の中で変なことを口走っていたりしないかどうかが気になった。そういえば何か恥ずかしいやりとりをしたような覚えがないこともない。
私は目の前の写真を見て、話していたことを思い出した。
途端に頭の回転は速くなる。好きなことはいくらでもできるということだ。
「あぁ、芸術作品と境界線の話だったわね。似てるっていうのは分かったけど、じゃあ具体的にはどこが違うのか分かる?」
「え? 違うのはスキマの中が闇であることかしら。私が見ているのは『幻想郷』と幾つもの『眼』だって言ってたよね。このキャンバスを裂いた跡には当然のように、何もなかったわ」
「なるほどね……。ときにメリー、これは絵画だと思う?」
これが重要。メリーがどう答えようが関係ないのも事実だが、それでもこの質問は必要だと思った。私がこれを見たときの第一印象は、「絵画ではない」だ。
「どうかしら……。絵具とかは使ってないけど、絵みたいに空間が広がっていくことはないわね」
「そう。絵画っていうのは突き詰めれば『空間概念』だわ。極論を言うなら、最終的に絵画を決定づけているのは様式や技法、技術じゃなくて、空間になるのよ。美術は進化論的に直線的に進むものじゃないから、どんなに栄光に彩られた美術史があったとしても、空間に対する概念が欠如していれば成立しない、非連続的な展開をしているの」
「眼が覚めたみたいね。変なことを言い出すわけだ」
「別に、どこかで見た論説の引用よ」
「良く覚えてるのね。さすが自称プランク並みの頭脳だわ。……で、例によって何を言っているのかさっぱり分からないんだけど」
私は覚めた頭をコツコツと叩いてから再び紅茶に手を伸ばした。残念なことに空だった。良い香りだけが鼻に入ってくる。
記憶していた美術論の中で使えるものはこれだけで、あとは印象と考察をもとに話さなければならないが、これは引用するよりも私の得意とするところだった。
「要は、私はこれと境界の関連性についての考えを話したいんだけど……」
「そうなの? そうは聞こえなかったわ」
「今のは前口上だからね」
絵画―――空間。それを次々に描きだしてそこに物語を封じ込める。芸術家はそうして空間を作り出しているのだ。当然抽象画にも物語は存在する。ただ、少しだけ霞んでいるから見るのが難しいだけだ。
そうして、少しずつ空間を広げていく。
しかしそれに対するかのように、このキャンバスは異常なものだった。
「これは、このスキマだけの作品は、普通の絵画作品とは明らかに違うわ。スキマに視線が吸い込まれて、落ちて……、空間がそこで閉じているような印象を与えるの。普通の絵画に見られるような空間の広がりが一切存在しないのよ、このキャンバスには」
「視線が落ちる……ねぇ。私の見ているスキマの中にある眼っていうのは、もしかしたら落ちてきた視線なのかもしれないわね」
「面白い考えね。要検証だわ。……で、この裂け目だけど……」
今のメリーの考えに、私は興味を覚えるとともに妙な違和感を感じた。残念ながらそれが何かは今は分からなかったので、頭の隅にしまっておくことにして、私は先を続ける。
いつの間にか、眼の前にあったはずのクッキーは無くなっていた。
「まず、閉じる空間を想起させるっていうのは間違いがないと思うのよ。作者がそう考えたかは別として、ね。で、この裂け目―――スキマが、貴女の見ているそれと関係するものと考えられるかというと、それは正しくて、間違いなのよ」
「日本語は正しくお願い。外人のメリーさんには少々きついわ」
「なによそれ。メリーは日本国籍持ってるじゃないの。……先程貴女が言った通り、あらゆる境界を私たちは日々見つめていて、その視線がスキマから覗いているのだと考えることもできるわ。さらに言うなら、メリーの見るスキマが私の見ている一般の空間にないのと同じように、裂け目はキャンバスにおける絵画空間には存在していないのよ。ナイフを用いて『空間を横切っている』線と言えるわ。絵画ではなくて、キャンバスという物質そのものなの。それが関連しているという考え。
でも、それならば空間が閉じていてはいけない。この裂け目が意味するものが何かは知らないけど、閉じていてはその先に世界なんてあるはずがないわ。……とまぁ、一つだけどこれが関連していないという考えね。重大だから一つで十分だわ」
一息にここまで言ってのけると、メリーは私が話し始めたときと同じような表情で紅茶を飲んでいた。私は、とりあえず自分の空のカップを覗いて嘆息してみた。
「理解した? 私、変なこと話してないよね」
「変なのはいつもだわ。まぁとりあえずは理解したわよ」
本当かしら、と思いながら私は紅茶のおかわりを要求する。
メリーの持ち込んだ話題なのに、いつの間にか主導権は私が握っていた。仕切り屋であるつもりはないのだが、何故かこうなってしまうのだ。
……まぁ、いつものんびりとしているメリーに任せておいたら、いつになっても終わらないだろうからこれで良いんだけどね。
そんなことを考えながらメリーの眼を見た私に、
―――あれ?
……ようやく先程の違和感が戻ってきた。
これは何の話題のときだったか―――
―――「私の見ているスキマの中にある眼っていうのは、もしかしたら落ちてきた視線なのかもしれないわね」
そう、これだ。
「ねぇ、メリー。貴女、盲目じゃないよね?」
「蓮子の髪の毛は黒い。盲目じゃないわよ、もちろん」
ちょっとした疑問。
それだけで、空間の境界は姿を現す。
あるいは、概念の境界さえもその姿を彼女の眼に晒すのだ。
しかし、彼女の場合のみ、同時に落ちていった視線も見ることになる、という矛盾が生じてしまうのだ。
つまり、どういうことなのかというと―――
「―――じゃあ、メリーの視線はどこにあるの?」
***
境界線が引かれる。
一瞬で、あるいは永遠の時間を使って―――たった一人の少女の、眼によって。
おわる
それでも楽しめました。雰囲気も秘封らしいし。
蓮子可愛いよ蓮子
でも、私の理解力ではちょっとどういうことなのか分からなかった……。
で、少し調べてその絵画を見てきて(画像で見ただけなので、実際に見た
わけではないのですが、ちょっと見たくなりました)説明文?的なものも
読んで納得。
これはなかなか面白い見解ですね。作者さんが書きたかったことをどこま
で理解できたかは分からないけど、素直によかったと思ったのでこの点数で。
最初は、60か70つけようとしてたんだけど、フォンタナの好奇心に勝てな
かった。
こんな作品で良いのかどうかと悩んでいましたが、二人もコメントしていただいて、嬉しい限りです。
>>7さん
無学だなんてとんでもない。
楽しんでいただけて何よりです。秘封らしいというのは最大級の褒め言葉です。ありがとうございます。
蓮子可愛いよ蓮子。
>>8さん
作者も良く分かっていない作品ですから、仕方ないですwww
簡潔にまとめようとするならば、以下のようにまとめられるのではないかと思います。
(フォンタナの作品がメリーの見る境界線を示しているのであれば)空間を示している広がりのスキマであるはずのメリーの見ているものは、実は閉じた空間であって、そこに落ちていく視線が『目』だとするなら、落ちた視線の持ち主であると同時にその『目』を見ているメリーの視線は一体どこにあるんでしょう?
という感じかもしれません。多分。余計混乱させてしまったら申し訳ないです。
何にせよ、楽しんでいただけたようで何よりです。こんな高得点をくれる方がいるとは思っていませんでした。
もっと多くの方に認めてもらえる作品をかけるように精進いたします。
では蓮子に褒めてもらいに行ってきます。
初投稿というのが信じられないくらい練りこまれた作品だと思います。すごいですね。
次回作も楽しみにしてます。
だが雰囲気で楽しめた俺は勝ち組!
>>葉月ヴァンホーテンさん
ありがとうございます。
今見ると初投稿で何冒険してんだって作品ですが、褒めて頂けて何よりです。
>>14さん
私も分かんない!
雰囲気で楽しめた貴方は勝ち組です!(たぶん