※『記憶の花』の続編です。先に前作を読まれてからどうぞ。
一
私の世界にはもう、光が届くことは無い。
それでも、朝が訪れたことは解る。光は届かなくとも、その気配は感じられるからだ。その機能を失った目にも、微かな刺激として、その気配は届く。
布団に横たわったまま息を吐いて、まだ自分がここ――現世にいることを確かめた。転生の術を終えてからは、毎朝がその確認から始まる。終わりは刻一刻と近付いている。けれど、それがいつになるのかは解らないから。
それから、胸の上に重みを感じて片手を彷徨わせた。触れたのは柔らかく温かな毛並み。猫が一匹、私の上で眠っていたらしい。私の手に安眠を妨げられたか、猫は布団の上から飛び退いて、畳の上を障子の方へ駆けていく。――音と気配で、それが解る。
視覚を失っても、聴覚はまだ残っている。この身体が少しずつその機能を失っていく中で、まだ音を聴くことができる――その事実には、ただ静かに感謝していた。
猫が、閉ざされた障子にぶつかったか足音を止めた。私はそちらに首を向けた。
からからと、障子が開く音がした。光が差し込んで、闇に閉ざされた世界が、ほのかに赤く明滅する。猫が一声、みゃあ、と鳴いた。その声が、横たわった私よりも高い位置から聞こえる。猫は抱き上げられたのだ。
その腕の、障子を開け放った気配の主が誰なのかは、目に見えなくても解っている。
愛おしい姿が、変わらずそこにあることを、私は知っている。
――だから、私は幸福なのだ。
御阿礼の子としての、三十年に満たない短い生。彼女と過ごした時間は、そのおよそ半分。
それはきっと、彼女にとっては瞬きにも等しい、刹那に過ぎないのだろうけれど。
私にとっては、何物にも代え難い、無二の時間だった。
「……ゆうかさん」
私は、彼女の名前を呼んだ。その声ももう、掠れて微かな音にしかなっていなかった。
近付いてくる足音が、すぐそばで止まる。かがみこむ気配。近付く、愛おしい体温。
「おはよう、阿求」
私の頬に、彼女の手が触れた。いつもと変わらない、優しい手だった。
その感触に目を細めて、私はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「おはようございます……幽香さん」
彼女の顔は、もう見えない。
だけどきっと、いつも通りに彼女は微笑んでいるのだろう。
傍らにあった十五年間ずっと――彼女はそうして、私に笑いかけてくれていたのだから。
壱
やせ細った彼女の身体をそっと起こし、寝間着を脱がせて、その身体を丁寧に拭った。
元々華奢だったその姿は、もう柔らかさを失い、枯れ木のように細くなった。少し力を込めれば折れてしまいそうな腕。こけた頬。あばらの浮いた胸。
彼女がもう、視覚を失ってしまっていることは、あるいは幸いなのかもしれない。
見る影もなくなってしまった自分自身の姿を、彼女が見なくて済むという意味では。
「……今日は、陽射しがあたたかいですね」
彼女は掠れた声で、そう囁いた。もう、声も微かにしか出ないのだ。
私はその手をそっと握って、「もう、春だもの」と答えた。
障子の向こうに見える庭を振り返れば、私がこの十五年間を費やして作り上げた花壇が、色とりどりの花を咲かせている。けれどその色を、彼女の目はもう認識できないのだ。
「今日は、スターチスが咲いたのよ」
身体を拭き終えて、新しい寝間着を着せる。人形のように大人しく、されるがままの彼女に袖を通させて、その頬に触れた。手の感触がくすぐったいのか、彼女は薄く微笑んだ。
「あのときも、あなたはその花をくれましたね」
「……懐かしい話だわ。あの頃の貴女は、まだ幼かった」
「あなたは変わりませんね。……私がこうなってしまっても、ずっと変わらない」
彼女の乾いた指先が、私の手に重なる。
スターチスの花言葉は、「変わらぬ心」。桃色の花は、「永久不変」。
「そんなことはないわ」
私はゆっくり首を振る。それから、彼女の乾いた唇に、そっと自分のそれを寄せた。
目を閉じた彼女の、艶を失った髪を撫でる。微かな吐息と触れあう温もりは、彼女がまだここにいる証だ。それを確かめるように数度、私は口づけを繰り返す。
「……貴女のそばにいて、私はもっと、貴女を好きになったわ」
それはただ、本心からの言葉。
変わらないものなど無い。どれほど短い時間であっても、私は変わっていく。
傍らにある彼女の温もり。そばで見守ってきた、この小さな命が、愛おしいという気持ち。
それは今も、日を経るごとに強く、私の胸を締め付けている。
「幽香さん」
彼女が私の名前を呼んだ。愛しい声。大切な温もり。終わりゆく命の、最後のひとかけら。
それを精一杯に守ろうと、私は彼女を優しく抱きしめた。
小さな一輪の花が枯れていこうとするのを、どうして止めることができるだろう。
短い生を終え、しおれ、色褪せて朽ちていく花たちのように、彼女の命もまた尽きていく。
私にはただ、それを見守るしかないのだ。
彼女が人間で、私が妖怪である以上――どうしようもなく。
二
転生の術を終えてから、私は少しずつ身体の機能を失っていった。目が見えなくなり、足が動かなくなった。味覚が無くなり、もう嗅覚もほとんど残っていない。ゆっくりと、土に還るように、私の身体は少しずつ死んでいく。それは、普通の人間のおよそ半分の時間しか生きられない御阿礼の子であるがゆえの終わり方なのだろう。
そんな今の私にとって、車椅子というのは本当に有り難い道具だった。河童が作ったというこの道具は、私の足が動かなくなってすぐ、射命丸文が差し入れてくれた。互いに利用しあう関係ではあったけれど、あのブン屋はこういうとき、たまに優しい。
布団から彼女に抱き上げられて外に出て、車椅子に乗せられて庭に出る。ほとんど感じなくなった嗅覚にも、僅かに匂いのようなものが届いた。彼女がずっと育ててきた、庭の花壇に咲き誇る花たちの匂いだった。
「具合は、大丈夫?」
「ええ、平気です。……太陽が、暖かいですね」
彼女の問いかけに答えて、私は見えない空を振り仰ぐ。きっと今は、透き通るような春の青空が広がっているのだろう。雲がゆったりと、風に流れているのだろう。私の記憶は、闇に閉ざされた世界にも、その光景を思い描くことができた。
「少し、陽射しが強いわ」
けれど過保護な彼女は、心配そうにそう言って、私の頭上に白い日傘を広げた。それを音と、光の感触で知って、私は小さく笑う。
からからと車椅子の車輪が音をたて、ゆるやかな風が私の頬を撫でていく。
さわさわと、葉ずれの音が囁きのように耳に届いた。
五感のうち三つを失ったけれど、まだ世界の優しさと、温もりをこうして感じられる。
私はここにいるのだと、風が、太陽が、木々の音色が教えてくれる。
――彼女の咲かせた花の匂いが感じられないことだけが、残念だった。
「スターチスは、このあたりに咲いていますか?」
「ええ、たくさん咲いたわ。薄紫も、黄色も、桃色も」
「知識、愛の喜び、永久不変」
順番に花言葉を答えると、彼女は小さく笑って、車椅子を止めた。
彼女の足音がして、それから鼻先に微かな匂いが届く。
その元に手を伸ばすと、あの花の手触りがした。まだ私が何も知らずにいたことから、彼女が贈り続けた想いの形。スターチス――花浜匙。花言葉は「変わらぬ心」。
彼女はこの花を通して、ずっと私を見守っていてくれた。
長い永い時間、変わらない想いのままに、ひそやかに私のそばにいてくれた。
「……この花はね。ずっと昔の貴女が、好きだった花なの」
不意に、彼女がそう言った。誰のことなのかは、すぐに見当がついた。
「幽香さんに……初めて出会った、私ですね」
六代目阿礼乙女、稗田阿夢。――三代前の私。風見幽香を愛した、かつての私。
その記憶は、私には無い。十五年間、彼女と同じ時間を過ごしても、結局三代前の自分の記憶が甦ることはなかった。だから私は今も、稗田阿夢がどんな風に風見幽香と出会い、彼女を愛し、また愛され、そして別れたのかは知らない。彼女もそれは語らないから。
だけど確かなことは、ひとつだけある。
稗田阿夢が風見幽香を愛したように、私も彼女を愛した。いや――今も、愛している。
そしてきっと、彼女も――稗田阿求を、愛してくれているのだと、そう思う。
「でも、その言葉はひとつ、訂正しないといけません」
私は笑って、そう続けた。「え?」と彼女が小さく声をあげた。
スターチス。「お久しぶり、ね」という言葉とともに、彼女が私にくれた花。
「今も私は、この花が一番好きですから」
彼女の手から一輪のスターチスを受け取って、私はそう言った。
その手に彼女の手が重ねられる感触がした。彼女の言葉は、何もなかった。
ただ、彼女と一輪の花を挟んで、春の気配を身体に受けている。それだけで、充分だった。
弐
庭から、彼女の軽い身体を抱いて部屋へ戻った。
布団にその細い身体を横たえて、毛布を掛けると、彼女は見えない目を細めて私の方に手を伸ばした。その弱々しい手を握りしめて、「どうしたの?」と問いかける。
「……少し、眠くなりました」
瞼を閉じて、彼女はそう囁いた。そう、と私は頷いて、その額を撫でる。
彼女の眠る時間は、だんだんと長くなっている。今はもう、一日の大半は眠っている。いずれその眠りは、決して覚めない眠りになることを、私は知っている。
いや――いずれ、ではない。もう、彼女の砂時計の砂は、あとほんの僅かしか残っていない。
おそらく、今眠ってしまえば、彼女が目覚めるのは、あと一度か二度か――。
解っているけれど、どうしようもないことだった。
だからといって、彼女を起こし続けていることなど、できはしないのだから。
「幽香、さん」
「……大丈夫。私はここにいるわ」
こけた頬を撫で、もう一度その手を強く握った。
「ここにいるから……ずっと」
その言葉に安心したのか、彼女は小さく息を吐いて――そのまま、すう、と眠りに落ちた。
口元に手をあてて、まだ彼女の呼吸が続いていることを確かめる。
終わりではない。まだ……今はまだ終わりではない。そう、信じていたかった。
何の根拠も無い、ただの願望に過ぎないのだとしても。
あと一日でも、二日でもいいから、この時間が、彼女の手がまだ温かい時間が長く続いてくれれば、どんなに幸せだろう――。
そう、祈るように顔を伏せていた私は、不意に背後に気配を感じて振り返る。
舞い降りるように現れたその気配は、この家の女中のものであるはずがなかった。
「お邪魔します。……あやや、眠られたところでしたか」
その翼を畳んで、鴉天狗の射命丸文は、足音を殺して部屋に入り込んだ。
「つい今しがたね。……貴女は何の用かしら?」
「お見舞いですよ。彼女にはお世話になりましたから」
それは知っている。彼女が転生の術を始める直前まで編纂していた幻想郷縁起。射命丸文はその情報提供者だった。文もまた、彼女を自らの情報収集に利用していた。要するに、持ちつ持たれつの関係だったわけだ。
「どうぞ」
文が差し出したのは果物の入った籠だった。私は彼女の手を離さないまま、空いたもう片方の手でそれを受け取る。……彼女はもう、こんな果物も食べられないだろうけれど。
私の傍らに膝を折って、文は彼女の寝顔を見下ろした。「……痩せましたね」と小さく文は呟く。今更言われるまでもないことだったので、私は何も答えなかった。
「……正直、彼女のこの姿は、あまり何度も見たいものではないです」
溜息のようにそう呟いて、不意に文はこちらを振り向く。
「風見幽香さん。――貴女は、どうするのです?」
私は答えない。答えられない。
もうすぐ手の中からこぼれ落ちてしまう大切な命。それが失われた後――私は。
私の沈黙をどう受け止めたのか、文はそれ以上何も追求しては来なかった。
静まりかえった部屋の中に、彼女の小さな寝息だけが、ゆるやかなリズムを刻んでいた。
三
息苦しさで、目を覚ました。
それは苦痛だったのかもしれない。ただ、私の身体はもう、痛みすらも伝えてこなかった。ただ溺れるような息苦しさだけがあって、私は闇の中でもがくように手を彷徨わせた。
深く深く、私を闇の底へ引きずり込もうとする力がある。
これが死だ、と戦慄のように私は悟った。
もう何度も繰り返しているはずなのに、決して慣れることのない奈落への誘い。
息が苦しい。引きずり込まれる。もう、私には這い上がる力がない――。
諦めて、沈んでしまおうかと思ったそのとき、私の手が強く握りしめられた。
それは、愛した彼女の手だった。私は見えない目を見開いた。
――そこに、風見幽香の姿が見えた気がした。
いつもと変わらない、彼女の優しい微笑みが、目の前にある気がした。
「……ゆう、か、さん」
「阿求」
彼女が震える声で、私の名前を呼んだ。
私は手を伸ばした。彼女の頬に触れたかった。だけど、手は届かない。
代わりに、彼女の手が強く、痛いほどに強く、私の手を握りしめていた。
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。
願うなら――いつものように、微笑んでいてほしかった。
彼女の、太陽のように眩しく暖かい微笑みが、私は大好きだったから。
だけどそれは――きっと、残酷な願いなのだろう、と思う。
「阿求……」
彼女の声は震えていた。泣き出しそうに掠れていた。
――彼女の泣き顔なんて、一度も見たことがなかったから、闇の向こうで彼女がどんな顔をしているのか、今は想像もできなかった。
息が苦しい。熱に浮かされたように、意識がぼんやりと霞みに覆われていく。
……たぶん、これが最後なんだと、私は悟っていた。
稗田阿求として、風見幽香と言葉を交わせる、これが最後の時間なのだと。
だとすれば、たったひとつ、伝えなければいけない言葉があった。
御阿礼の子として。この歪な生を見守り続けてくれた彼女に。
――最後の機会を与えてくれた誰かに、小さく感謝を捧げながら。
「幽香、さん……聞こえて、ます、か」
言葉を絞り出すのも重労働だったけれど、彼女が応えてくれるから、苦ではなかった。
「聞こえるわ。……なあに?」
精一杯の、優しい声。しゃくり上げるように震えた、彼女の声。
私は、それに向かって笑いかけた。……笑えていればいいな、と思った。
「……私が、……生まれ、変わったら。……転生して、新しい私が、ここに生まれたら」
百年。私が次の生を受けるまでの時間。
それは彼女にとって、どれほどの長さの時間だろう?
そんな時間に、彼女を取り残して逝くことが、心残りでないといえば、それは嘘だ。
だけど――だけど。
「次の、私が、生まれたら、その時は――――」
参
彼女が目を覚ましたときには、文はもうそこに居なかった。
苦しげに息を吐き出しながら、私の名前を呼んで、彼女は何かを伝えようとしていた。
私はただ、じっと耳を澄ませて、その言葉を待っていた。
――そうして、聞こえた言葉に、私はただ、息を飲んだ。
「次の、私が、生まれたら、その時は――もう、ここには、来ないで、ください」
目を見開いて、私は彼女を見下ろした。彼女はただ、苦しみの中で微笑んでいた。
彼女が咳き込んだ。その細い身体が砕け散ってしまいそうな咳だった。
私が咄嗟に背中をさすると、「……すみません」と彼女は言って、私の顔に手を伸ばす。
「……次に生まれる私は、たぶん、あなたのことを、覚えていません。私があなたを愛したことも、あなたが私を、愛してくれたことも」
寂しげに、彼女はそう言った。私は何と答えたらいいのか解らない。
御阿礼の子。記憶を引き継ぎ、転生を繰り返す存在。けれど彼女たちは、個人の記憶は引き継ぐことはない。彼女はかつての自分のことを、ほとんど覚えていないと言った。それから寂しげにいつか語ったのだ。――私も生まれ変わったら、幽香さんのことを忘れてしまうんでしょうね、と。
「私は――私は、覚えているわ。ずっと覚えている。ずっと、ずっと貴女を――」
咄嗟に、そう言いつのった私に、彼女はただ、笑って首を振る。
「……忘れてください。私のことは……もう、忘れて、あなたはあの花が咲き乱れる丘に帰ってください。……次の私は、あなたが愛してくれた私では、ありませんから」
「でも――」
だけどそれは、彼女の生まれ変わりだ。それならきっと、きっとまた同じように。
「私は……あなたも、未来の私も、それで縛りたくはないんです。……私は私。幽香さんを愛したのは私なんです。……私だけの、気持ちなんです。だから――未来の私には、それに、囚われてほしくない。……あなたにも、ずっと私の影に囚われてほしくない」
優しい言葉だった。優しくて、悲しい言葉だった。
そうだ。転生しても記憶が受け継がれないなら、生まれ変わった彼女は全く別個の人格にしかなり得ない。だとすれば――それは最早、私の愛した彼女ではないのだ。
「……幸せでした。幽香さん。……あなたを愛することができて、私は本当に、幸せでした。この幸せは……私だけのもの。今は、そう信じさせてください」
「――――っ」
言葉を返せなかった。全ての思いは喉につかえて、言葉になってくれなかった。
枯れていく花を、私は見守ることしかできない。
その花の残す種が咲かすのは、同じだけれど別の花。
それを、彼女と同じように愛するのは――彼女に対する、冒涜なのかもしれない。
「……幽香、さん」
彼女が、私の名前を囁いた。
私も咄嗟に、彼女の名前を呼び返した。それしか、言葉にならなかった。
その声に、彼女はただ、幸せそうに――微笑んだ。
「ありがとう……ございます……」
――それが、最期の言葉だった。
そのまま、彼女は――稗田阿夢は、眠るように息を引き取った。
阿夢の顔はどこまでも安らかで、ただ静かな微笑みをたたえていた。
私の愛した、彼女の微笑のままで、小さな花は、その命を終えた。
四
「次の、私が、生まれたら、その時は――また、同じように、見守っていて、ください」
伝えたかった言葉を吐き出すと、ふっと身体から力が抜けた。
意識が闇に沈んでいこうとする。それがもう、二度と浮かび上がらない闇だと知っている。
それで良かった。これが最後で――いいと、思った。
だけど。
「阿求――」
彼女の声が、もう一度闇から私を引き上げる。
握りしめられた手の感触が、私という存在を、まだ現世に繋ぎ止める。
「……幽香、さん」
ぽたり、ぽたりと頬に雫が落ちる感触が、微かに感じられた。
それは……彼女の流す涙なのだろうか。
拭いたかったけれど、もう両手も動かせそうになかったから。
ただ、まだ動く口だけを震わせた。――言葉を、もう少しだけ、伝えられるなら。
「……次に生まれる私は、きっと、あなたのことを、覚えていないはずです。私が、そうだったように。……きっと、次の私は、稗田阿求とは、全く別の存在です」
ああ、そうだ。
私は稗田阿夢ではない。三代前の私が、風見幽香と交わした想いを、私は知らない。
だけど、――だけど、それでも、きっと。
「でも……私は、またこうして、あなたを愛した。稗田阿夢ではない……稗田阿求として、幽香さん、あなたを愛せた……それはきっと、意味があるんだと、思います」
もし、本当に、完全に私が、稗田阿夢と別の存在なら、きっと。
こうして、再び彼女と愛しあうなんてことは、きっとあり得なかった。
私は私。稗田阿求だ。――だけど私は、やはりこれまでの、御阿礼の子でもあるのだ。
転生によって、個人の記憶が失われるとしても。思い出が受け継がれないとしても。
きっと、どこかに、消しきれない想いが残る。
――それがきっと、御阿礼の子という歪な花の残す種。記憶の花が残す、想いの粒。
「だから……また、見守ってください。私ではない私を。そしてまた……同じように、花を贈ってください。スターチスの花を――それを、次の私がどう受け止めるのかは、解りません。だけど、きっと……きっとまた、私は――」
それが限界だった。もう、絞りだそうとしても言葉は声にならなかった。
「阿求……あ、きゅう――」
彼女が泣いていた。あの、いつも冷静で、静かな微笑みを絶やさない彼女が、きっと人目もはばからずに、私の頬にぼろぼろと、大粒の涙をこぼしていた。
握りしめられた手は、もう握り返すこともできなかったけれど。
その温かさは、ずっと私を見守ってくれた、太陽の温もりだったから。
そんな温もりに包まれて終われるのは、きっと――幸福な終わりだった。
意識が沈んでいく。闇の底に引きずり込まれていく。
最期にもう一度だけ、彼女の名前を呼んだ。
幽香、と。何度も何度も呼んだ、愛おしい名前を、囁いた。
――阿求、と。彼女が呼び返してくれた、そんな気がした。
それが、最後だった。
肆
スターチスの花が、咲いていた。
女中たちが慌ただしく行き交う屋敷に背を向けて、私はその小さな花を見下ろしていた。
初めて出会ったとき、彼女に贈った花。彼女が一番好きだと言ってくれた花。
花言葉は――「変わらぬ心」。
「……亡くなられましたか」
声がした。振り返ると、射命丸文が屋敷を見やりながらそこに立っていた。
文がどんな顔をしているのか、私の位置からはよく解らなかった。
「ついさっき……ね。……眠るように逝ったわ」
私はただ、そう答える。そうですか、とだけ文は答えた。感情を殺した声で。
「貴女はどうするの?」
文が私に投げかけた問いかけを、私はそのまま投げ返した。
しばしの沈黙があって、それから文は苦笑するように「もちろん――」と答えた。
「取材をしますよ。稗田家の当主が没したとあれば、記事にしないわけにはいきませんから」
「……そう」
いつも通りの、文の言葉。それでいい、と私は思う。それが本来、あるべき姿なのだ。
人間の生は短い。いつだって、私たち妖怪を追い抜いて、先にいなくなってしまう。
それは当たり前のことで、どうしようもない必然でしかないのだから。
「幽香さん。貴女は?」
もう一度、その問いを投げ返された。……そのときにはもう、答えは決まっていた。
「帰るわ。太陽の畑に」
それが、彼女の――阿夢の願ったことだったから。
私はただの、太陽の畑に暮らす花好きの妖怪に戻るのだ。
「……そうですか。では、私は取材に参りますので、これで」
文はどんな感情を見せることもなく、翼を広げて飛び立とうとした。
――が、不意にその翼を止めて、「そうだ――」と文は思いだしたように言葉を続けた。
「幽香さん。……どうぞ、使ってください」
何かがこちらに投げて寄越された。受け取ると、それは一枚の手布だった。
思わず文の方を振り返ると、文は苦笑するようにこちらに目を細めた。
「……人里周辺で最強の妖怪が、そんな顔をしていたら、他の妖怪に侮られますよ」
それだけ言って、文は黒い羽根を散らして飛び立つ。
受け取った手布を見下ろすと、ぽたり、ぽたりとそこに染みが生まれていった。
雨かと思って、空を振り仰いだ。夕日が沈もうとする空は、高く澄んで晴れ渡っていた。
――手布にこぼれたのが、自分の流した涙であることに、私はなかなか気付けなかった。
* * *
そしてまた、あのときと同じように、庭にスターチスは咲いていた。
永久不変の花言葉のままに、あの日と変わらぬ姿で、小さく風に揺れていた。
「……亡くなられましたか」
ふわりと稗田邸の庭に降り立ち、女中たちが慌ただしく行き交う屋敷を見やって、射命丸文はそう言った。私はスターチスを見下ろしたまま、変わらない光景に息を吐いた。
「ついさっき、ね。……眠るように逝ったわ」
そうですか、と文はまた、無感情な声で答えた。
繰り返す光景。阿夢のときと、あまりにもそれは似通っていた。けれど――。
「貴女はどうするの?」
あのときと同じように、私は文に問いかけた。文もまた、同じように答えた。
「取材をしますよ。記事にしないわけにはいきませんから」
「……そう」
変わらない関係。……御阿礼の子をずっと見守っていたのは、文も一緒なのだ。
ただ、ほんの少しだけ、私の方が彼女と距離が近かっただけで。
「幽香さん、貴女は?」
その問いかけが来るのは解っていた。何もかも、阿夢のときと同じやりとり。
だけど、その繰り返しはここまでだ。ここから先は――私と、阿求の物語だ。
「……彼女が生まれ変わるまで、ここに残るわ。その後は、それから決める」
私の答えに、文が驚いたように目を見開いた。私は振り向いて、ひとつ笑いかけた。
「百年ぐらい、そう長い時間じゃないもの。……ゆっくり、花でも育てながら待つわ」
その言葉をどう受け止めたのか、文はただ、目を細めて微笑んだ。
「そうですか」
――それが阿求の望みだから、私は見守ろう。これからもずっと、ずっと。
御阿礼の子の、繰り返す生を。彼女の魂が咲かせる、記憶の花を。
私はこの場所で、見守り続けよう。愛おしい花の記憶を抱いて。
たとえ新たに咲く花が、また別の花なのだとしても。
時の流れの中で、何もかもが変わっていくとしても。
繰り返し、繰り返し、スターチスの花は咲き続ける。
永久不変の、愛の喜び。知識としとやかさと誠実さを抱いた、永遠に変わらない想いの形。
それがある限り、私は何度でも、彼女に巡り会えるだろう。
そのときはまた、彼女にこの花を贈るのだ。
何度でも、何度でも。
この地に、花が咲き続ける限り――。
一
私の世界にはもう、光が届くことは無い。
それでも、朝が訪れたことは解る。光は届かなくとも、その気配は感じられるからだ。その機能を失った目にも、微かな刺激として、その気配は届く。
布団に横たわったまま息を吐いて、まだ自分がここ――現世にいることを確かめた。転生の術を終えてからは、毎朝がその確認から始まる。終わりは刻一刻と近付いている。けれど、それがいつになるのかは解らないから。
それから、胸の上に重みを感じて片手を彷徨わせた。触れたのは柔らかく温かな毛並み。猫が一匹、私の上で眠っていたらしい。私の手に安眠を妨げられたか、猫は布団の上から飛び退いて、畳の上を障子の方へ駆けていく。――音と気配で、それが解る。
視覚を失っても、聴覚はまだ残っている。この身体が少しずつその機能を失っていく中で、まだ音を聴くことができる――その事実には、ただ静かに感謝していた。
猫が、閉ざされた障子にぶつかったか足音を止めた。私はそちらに首を向けた。
からからと、障子が開く音がした。光が差し込んで、闇に閉ざされた世界が、ほのかに赤く明滅する。猫が一声、みゃあ、と鳴いた。その声が、横たわった私よりも高い位置から聞こえる。猫は抱き上げられたのだ。
その腕の、障子を開け放った気配の主が誰なのかは、目に見えなくても解っている。
愛おしい姿が、変わらずそこにあることを、私は知っている。
――だから、私は幸福なのだ。
御阿礼の子としての、三十年に満たない短い生。彼女と過ごした時間は、そのおよそ半分。
それはきっと、彼女にとっては瞬きにも等しい、刹那に過ぎないのだろうけれど。
私にとっては、何物にも代え難い、無二の時間だった。
「……ゆうかさん」
私は、彼女の名前を呼んだ。その声ももう、掠れて微かな音にしかなっていなかった。
近付いてくる足音が、すぐそばで止まる。かがみこむ気配。近付く、愛おしい体温。
「おはよう、阿求」
私の頬に、彼女の手が触れた。いつもと変わらない、優しい手だった。
その感触に目を細めて、私はもう一度、彼女の名前を呼んだ。
「おはようございます……幽香さん」
彼女の顔は、もう見えない。
だけどきっと、いつも通りに彼女は微笑んでいるのだろう。
傍らにあった十五年間ずっと――彼女はそうして、私に笑いかけてくれていたのだから。
壱
やせ細った彼女の身体をそっと起こし、寝間着を脱がせて、その身体を丁寧に拭った。
元々華奢だったその姿は、もう柔らかさを失い、枯れ木のように細くなった。少し力を込めれば折れてしまいそうな腕。こけた頬。あばらの浮いた胸。
彼女がもう、視覚を失ってしまっていることは、あるいは幸いなのかもしれない。
見る影もなくなってしまった自分自身の姿を、彼女が見なくて済むという意味では。
「……今日は、陽射しがあたたかいですね」
彼女は掠れた声で、そう囁いた。もう、声も微かにしか出ないのだ。
私はその手をそっと握って、「もう、春だもの」と答えた。
障子の向こうに見える庭を振り返れば、私がこの十五年間を費やして作り上げた花壇が、色とりどりの花を咲かせている。けれどその色を、彼女の目はもう認識できないのだ。
「今日は、スターチスが咲いたのよ」
身体を拭き終えて、新しい寝間着を着せる。人形のように大人しく、されるがままの彼女に袖を通させて、その頬に触れた。手の感触がくすぐったいのか、彼女は薄く微笑んだ。
「あのときも、あなたはその花をくれましたね」
「……懐かしい話だわ。あの頃の貴女は、まだ幼かった」
「あなたは変わりませんね。……私がこうなってしまっても、ずっと変わらない」
彼女の乾いた指先が、私の手に重なる。
スターチスの花言葉は、「変わらぬ心」。桃色の花は、「永久不変」。
「そんなことはないわ」
私はゆっくり首を振る。それから、彼女の乾いた唇に、そっと自分のそれを寄せた。
目を閉じた彼女の、艶を失った髪を撫でる。微かな吐息と触れあう温もりは、彼女がまだここにいる証だ。それを確かめるように数度、私は口づけを繰り返す。
「……貴女のそばにいて、私はもっと、貴女を好きになったわ」
それはただ、本心からの言葉。
変わらないものなど無い。どれほど短い時間であっても、私は変わっていく。
傍らにある彼女の温もり。そばで見守ってきた、この小さな命が、愛おしいという気持ち。
それは今も、日を経るごとに強く、私の胸を締め付けている。
「幽香さん」
彼女が私の名前を呼んだ。愛しい声。大切な温もり。終わりゆく命の、最後のひとかけら。
それを精一杯に守ろうと、私は彼女を優しく抱きしめた。
小さな一輪の花が枯れていこうとするのを、どうして止めることができるだろう。
短い生を終え、しおれ、色褪せて朽ちていく花たちのように、彼女の命もまた尽きていく。
私にはただ、それを見守るしかないのだ。
彼女が人間で、私が妖怪である以上――どうしようもなく。
二
転生の術を終えてから、私は少しずつ身体の機能を失っていった。目が見えなくなり、足が動かなくなった。味覚が無くなり、もう嗅覚もほとんど残っていない。ゆっくりと、土に還るように、私の身体は少しずつ死んでいく。それは、普通の人間のおよそ半分の時間しか生きられない御阿礼の子であるがゆえの終わり方なのだろう。
そんな今の私にとって、車椅子というのは本当に有り難い道具だった。河童が作ったというこの道具は、私の足が動かなくなってすぐ、射命丸文が差し入れてくれた。互いに利用しあう関係ではあったけれど、あのブン屋はこういうとき、たまに優しい。
布団から彼女に抱き上げられて外に出て、車椅子に乗せられて庭に出る。ほとんど感じなくなった嗅覚にも、僅かに匂いのようなものが届いた。彼女がずっと育ててきた、庭の花壇に咲き誇る花たちの匂いだった。
「具合は、大丈夫?」
「ええ、平気です。……太陽が、暖かいですね」
彼女の問いかけに答えて、私は見えない空を振り仰ぐ。きっと今は、透き通るような春の青空が広がっているのだろう。雲がゆったりと、風に流れているのだろう。私の記憶は、闇に閉ざされた世界にも、その光景を思い描くことができた。
「少し、陽射しが強いわ」
けれど過保護な彼女は、心配そうにそう言って、私の頭上に白い日傘を広げた。それを音と、光の感触で知って、私は小さく笑う。
からからと車椅子の車輪が音をたて、ゆるやかな風が私の頬を撫でていく。
さわさわと、葉ずれの音が囁きのように耳に届いた。
五感のうち三つを失ったけれど、まだ世界の優しさと、温もりをこうして感じられる。
私はここにいるのだと、風が、太陽が、木々の音色が教えてくれる。
――彼女の咲かせた花の匂いが感じられないことだけが、残念だった。
「スターチスは、このあたりに咲いていますか?」
「ええ、たくさん咲いたわ。薄紫も、黄色も、桃色も」
「知識、愛の喜び、永久不変」
順番に花言葉を答えると、彼女は小さく笑って、車椅子を止めた。
彼女の足音がして、それから鼻先に微かな匂いが届く。
その元に手を伸ばすと、あの花の手触りがした。まだ私が何も知らずにいたことから、彼女が贈り続けた想いの形。スターチス――花浜匙。花言葉は「変わらぬ心」。
彼女はこの花を通して、ずっと私を見守っていてくれた。
長い永い時間、変わらない想いのままに、ひそやかに私のそばにいてくれた。
「……この花はね。ずっと昔の貴女が、好きだった花なの」
不意に、彼女がそう言った。誰のことなのかは、すぐに見当がついた。
「幽香さんに……初めて出会った、私ですね」
六代目阿礼乙女、稗田阿夢。――三代前の私。風見幽香を愛した、かつての私。
その記憶は、私には無い。十五年間、彼女と同じ時間を過ごしても、結局三代前の自分の記憶が甦ることはなかった。だから私は今も、稗田阿夢がどんな風に風見幽香と出会い、彼女を愛し、また愛され、そして別れたのかは知らない。彼女もそれは語らないから。
だけど確かなことは、ひとつだけある。
稗田阿夢が風見幽香を愛したように、私も彼女を愛した。いや――今も、愛している。
そしてきっと、彼女も――稗田阿求を、愛してくれているのだと、そう思う。
「でも、その言葉はひとつ、訂正しないといけません」
私は笑って、そう続けた。「え?」と彼女が小さく声をあげた。
スターチス。「お久しぶり、ね」という言葉とともに、彼女が私にくれた花。
「今も私は、この花が一番好きですから」
彼女の手から一輪のスターチスを受け取って、私はそう言った。
その手に彼女の手が重ねられる感触がした。彼女の言葉は、何もなかった。
ただ、彼女と一輪の花を挟んで、春の気配を身体に受けている。それだけで、充分だった。
弐
庭から、彼女の軽い身体を抱いて部屋へ戻った。
布団にその細い身体を横たえて、毛布を掛けると、彼女は見えない目を細めて私の方に手を伸ばした。その弱々しい手を握りしめて、「どうしたの?」と問いかける。
「……少し、眠くなりました」
瞼を閉じて、彼女はそう囁いた。そう、と私は頷いて、その額を撫でる。
彼女の眠る時間は、だんだんと長くなっている。今はもう、一日の大半は眠っている。いずれその眠りは、決して覚めない眠りになることを、私は知っている。
いや――いずれ、ではない。もう、彼女の砂時計の砂は、あとほんの僅かしか残っていない。
おそらく、今眠ってしまえば、彼女が目覚めるのは、あと一度か二度か――。
解っているけれど、どうしようもないことだった。
だからといって、彼女を起こし続けていることなど、できはしないのだから。
「幽香、さん」
「……大丈夫。私はここにいるわ」
こけた頬を撫で、もう一度その手を強く握った。
「ここにいるから……ずっと」
その言葉に安心したのか、彼女は小さく息を吐いて――そのまま、すう、と眠りに落ちた。
口元に手をあてて、まだ彼女の呼吸が続いていることを確かめる。
終わりではない。まだ……今はまだ終わりではない。そう、信じていたかった。
何の根拠も無い、ただの願望に過ぎないのだとしても。
あと一日でも、二日でもいいから、この時間が、彼女の手がまだ温かい時間が長く続いてくれれば、どんなに幸せだろう――。
そう、祈るように顔を伏せていた私は、不意に背後に気配を感じて振り返る。
舞い降りるように現れたその気配は、この家の女中のものであるはずがなかった。
「お邪魔します。……あやや、眠られたところでしたか」
その翼を畳んで、鴉天狗の射命丸文は、足音を殺して部屋に入り込んだ。
「つい今しがたね。……貴女は何の用かしら?」
「お見舞いですよ。彼女にはお世話になりましたから」
それは知っている。彼女が転生の術を始める直前まで編纂していた幻想郷縁起。射命丸文はその情報提供者だった。文もまた、彼女を自らの情報収集に利用していた。要するに、持ちつ持たれつの関係だったわけだ。
「どうぞ」
文が差し出したのは果物の入った籠だった。私は彼女の手を離さないまま、空いたもう片方の手でそれを受け取る。……彼女はもう、こんな果物も食べられないだろうけれど。
私の傍らに膝を折って、文は彼女の寝顔を見下ろした。「……痩せましたね」と小さく文は呟く。今更言われるまでもないことだったので、私は何も答えなかった。
「……正直、彼女のこの姿は、あまり何度も見たいものではないです」
溜息のようにそう呟いて、不意に文はこちらを振り向く。
「風見幽香さん。――貴女は、どうするのです?」
私は答えない。答えられない。
もうすぐ手の中からこぼれ落ちてしまう大切な命。それが失われた後――私は。
私の沈黙をどう受け止めたのか、文はそれ以上何も追求しては来なかった。
静まりかえった部屋の中に、彼女の小さな寝息だけが、ゆるやかなリズムを刻んでいた。
三
息苦しさで、目を覚ました。
それは苦痛だったのかもしれない。ただ、私の身体はもう、痛みすらも伝えてこなかった。ただ溺れるような息苦しさだけがあって、私は闇の中でもがくように手を彷徨わせた。
深く深く、私を闇の底へ引きずり込もうとする力がある。
これが死だ、と戦慄のように私は悟った。
もう何度も繰り返しているはずなのに、決して慣れることのない奈落への誘い。
息が苦しい。引きずり込まれる。もう、私には這い上がる力がない――。
諦めて、沈んでしまおうかと思ったそのとき、私の手が強く握りしめられた。
それは、愛した彼女の手だった。私は見えない目を見開いた。
――そこに、風見幽香の姿が見えた気がした。
いつもと変わらない、彼女の優しい微笑みが、目の前にある気がした。
「……ゆう、か、さん」
「阿求」
彼女が震える声で、私の名前を呼んだ。
私は手を伸ばした。彼女の頬に触れたかった。だけど、手は届かない。
代わりに、彼女の手が強く、痛いほどに強く、私の手を握りしめていた。
彼女は今、どんな顔をしているのだろう。
願うなら――いつものように、微笑んでいてほしかった。
彼女の、太陽のように眩しく暖かい微笑みが、私は大好きだったから。
だけどそれは――きっと、残酷な願いなのだろう、と思う。
「阿求……」
彼女の声は震えていた。泣き出しそうに掠れていた。
――彼女の泣き顔なんて、一度も見たことがなかったから、闇の向こうで彼女がどんな顔をしているのか、今は想像もできなかった。
息が苦しい。熱に浮かされたように、意識がぼんやりと霞みに覆われていく。
……たぶん、これが最後なんだと、私は悟っていた。
稗田阿求として、風見幽香と言葉を交わせる、これが最後の時間なのだと。
だとすれば、たったひとつ、伝えなければいけない言葉があった。
御阿礼の子として。この歪な生を見守り続けてくれた彼女に。
――最後の機会を与えてくれた誰かに、小さく感謝を捧げながら。
「幽香、さん……聞こえて、ます、か」
言葉を絞り出すのも重労働だったけれど、彼女が応えてくれるから、苦ではなかった。
「聞こえるわ。……なあに?」
精一杯の、優しい声。しゃくり上げるように震えた、彼女の声。
私は、それに向かって笑いかけた。……笑えていればいいな、と思った。
「……私が、……生まれ、変わったら。……転生して、新しい私が、ここに生まれたら」
百年。私が次の生を受けるまでの時間。
それは彼女にとって、どれほどの長さの時間だろう?
そんな時間に、彼女を取り残して逝くことが、心残りでないといえば、それは嘘だ。
だけど――だけど。
「次の、私が、生まれたら、その時は――――」
参
彼女が目を覚ましたときには、文はもうそこに居なかった。
苦しげに息を吐き出しながら、私の名前を呼んで、彼女は何かを伝えようとしていた。
私はただ、じっと耳を澄ませて、その言葉を待っていた。
――そうして、聞こえた言葉に、私はただ、息を飲んだ。
「次の、私が、生まれたら、その時は――もう、ここには、来ないで、ください」
目を見開いて、私は彼女を見下ろした。彼女はただ、苦しみの中で微笑んでいた。
彼女が咳き込んだ。その細い身体が砕け散ってしまいそうな咳だった。
私が咄嗟に背中をさすると、「……すみません」と彼女は言って、私の顔に手を伸ばす。
「……次に生まれる私は、たぶん、あなたのことを、覚えていません。私があなたを愛したことも、あなたが私を、愛してくれたことも」
寂しげに、彼女はそう言った。私は何と答えたらいいのか解らない。
御阿礼の子。記憶を引き継ぎ、転生を繰り返す存在。けれど彼女たちは、個人の記憶は引き継ぐことはない。彼女はかつての自分のことを、ほとんど覚えていないと言った。それから寂しげにいつか語ったのだ。――私も生まれ変わったら、幽香さんのことを忘れてしまうんでしょうね、と。
「私は――私は、覚えているわ。ずっと覚えている。ずっと、ずっと貴女を――」
咄嗟に、そう言いつのった私に、彼女はただ、笑って首を振る。
「……忘れてください。私のことは……もう、忘れて、あなたはあの花が咲き乱れる丘に帰ってください。……次の私は、あなたが愛してくれた私では、ありませんから」
「でも――」
だけどそれは、彼女の生まれ変わりだ。それならきっと、きっとまた同じように。
「私は……あなたも、未来の私も、それで縛りたくはないんです。……私は私。幽香さんを愛したのは私なんです。……私だけの、気持ちなんです。だから――未来の私には、それに、囚われてほしくない。……あなたにも、ずっと私の影に囚われてほしくない」
優しい言葉だった。優しくて、悲しい言葉だった。
そうだ。転生しても記憶が受け継がれないなら、生まれ変わった彼女は全く別個の人格にしかなり得ない。だとすれば――それは最早、私の愛した彼女ではないのだ。
「……幸せでした。幽香さん。……あなたを愛することができて、私は本当に、幸せでした。この幸せは……私だけのもの。今は、そう信じさせてください」
「――――っ」
言葉を返せなかった。全ての思いは喉につかえて、言葉になってくれなかった。
枯れていく花を、私は見守ることしかできない。
その花の残す種が咲かすのは、同じだけれど別の花。
それを、彼女と同じように愛するのは――彼女に対する、冒涜なのかもしれない。
「……幽香、さん」
彼女が、私の名前を囁いた。
私も咄嗟に、彼女の名前を呼び返した。それしか、言葉にならなかった。
その声に、彼女はただ、幸せそうに――微笑んだ。
「ありがとう……ございます……」
――それが、最期の言葉だった。
そのまま、彼女は――稗田阿夢は、眠るように息を引き取った。
阿夢の顔はどこまでも安らかで、ただ静かな微笑みをたたえていた。
私の愛した、彼女の微笑のままで、小さな花は、その命を終えた。
四
「次の、私が、生まれたら、その時は――また、同じように、見守っていて、ください」
伝えたかった言葉を吐き出すと、ふっと身体から力が抜けた。
意識が闇に沈んでいこうとする。それがもう、二度と浮かび上がらない闇だと知っている。
それで良かった。これが最後で――いいと、思った。
だけど。
「阿求――」
彼女の声が、もう一度闇から私を引き上げる。
握りしめられた手の感触が、私という存在を、まだ現世に繋ぎ止める。
「……幽香、さん」
ぽたり、ぽたりと頬に雫が落ちる感触が、微かに感じられた。
それは……彼女の流す涙なのだろうか。
拭いたかったけれど、もう両手も動かせそうになかったから。
ただ、まだ動く口だけを震わせた。――言葉を、もう少しだけ、伝えられるなら。
「……次に生まれる私は、きっと、あなたのことを、覚えていないはずです。私が、そうだったように。……きっと、次の私は、稗田阿求とは、全く別の存在です」
ああ、そうだ。
私は稗田阿夢ではない。三代前の私が、風見幽香と交わした想いを、私は知らない。
だけど、――だけど、それでも、きっと。
「でも……私は、またこうして、あなたを愛した。稗田阿夢ではない……稗田阿求として、幽香さん、あなたを愛せた……それはきっと、意味があるんだと、思います」
もし、本当に、完全に私が、稗田阿夢と別の存在なら、きっと。
こうして、再び彼女と愛しあうなんてことは、きっとあり得なかった。
私は私。稗田阿求だ。――だけど私は、やはりこれまでの、御阿礼の子でもあるのだ。
転生によって、個人の記憶が失われるとしても。思い出が受け継がれないとしても。
きっと、どこかに、消しきれない想いが残る。
――それがきっと、御阿礼の子という歪な花の残す種。記憶の花が残す、想いの粒。
「だから……また、見守ってください。私ではない私を。そしてまた……同じように、花を贈ってください。スターチスの花を――それを、次の私がどう受け止めるのかは、解りません。だけど、きっと……きっとまた、私は――」
それが限界だった。もう、絞りだそうとしても言葉は声にならなかった。
「阿求……あ、きゅう――」
彼女が泣いていた。あの、いつも冷静で、静かな微笑みを絶やさない彼女が、きっと人目もはばからずに、私の頬にぼろぼろと、大粒の涙をこぼしていた。
握りしめられた手は、もう握り返すこともできなかったけれど。
その温かさは、ずっと私を見守ってくれた、太陽の温もりだったから。
そんな温もりに包まれて終われるのは、きっと――幸福な終わりだった。
意識が沈んでいく。闇の底に引きずり込まれていく。
最期にもう一度だけ、彼女の名前を呼んだ。
幽香、と。何度も何度も呼んだ、愛おしい名前を、囁いた。
――阿求、と。彼女が呼び返してくれた、そんな気がした。
それが、最後だった。
肆
スターチスの花が、咲いていた。
女中たちが慌ただしく行き交う屋敷に背を向けて、私はその小さな花を見下ろしていた。
初めて出会ったとき、彼女に贈った花。彼女が一番好きだと言ってくれた花。
花言葉は――「変わらぬ心」。
「……亡くなられましたか」
声がした。振り返ると、射命丸文が屋敷を見やりながらそこに立っていた。
文がどんな顔をしているのか、私の位置からはよく解らなかった。
「ついさっき……ね。……眠るように逝ったわ」
私はただ、そう答える。そうですか、とだけ文は答えた。感情を殺した声で。
「貴女はどうするの?」
文が私に投げかけた問いかけを、私はそのまま投げ返した。
しばしの沈黙があって、それから文は苦笑するように「もちろん――」と答えた。
「取材をしますよ。稗田家の当主が没したとあれば、記事にしないわけにはいきませんから」
「……そう」
いつも通りの、文の言葉。それでいい、と私は思う。それが本来、あるべき姿なのだ。
人間の生は短い。いつだって、私たち妖怪を追い抜いて、先にいなくなってしまう。
それは当たり前のことで、どうしようもない必然でしかないのだから。
「幽香さん。貴女は?」
もう一度、その問いを投げ返された。……そのときにはもう、答えは決まっていた。
「帰るわ。太陽の畑に」
それが、彼女の――阿夢の願ったことだったから。
私はただの、太陽の畑に暮らす花好きの妖怪に戻るのだ。
「……そうですか。では、私は取材に参りますので、これで」
文はどんな感情を見せることもなく、翼を広げて飛び立とうとした。
――が、不意にその翼を止めて、「そうだ――」と文は思いだしたように言葉を続けた。
「幽香さん。……どうぞ、使ってください」
何かがこちらに投げて寄越された。受け取ると、それは一枚の手布だった。
思わず文の方を振り返ると、文は苦笑するようにこちらに目を細めた。
「……人里周辺で最強の妖怪が、そんな顔をしていたら、他の妖怪に侮られますよ」
それだけ言って、文は黒い羽根を散らして飛び立つ。
受け取った手布を見下ろすと、ぽたり、ぽたりとそこに染みが生まれていった。
雨かと思って、空を振り仰いだ。夕日が沈もうとする空は、高く澄んで晴れ渡っていた。
――手布にこぼれたのが、自分の流した涙であることに、私はなかなか気付けなかった。
* * *
そしてまた、あのときと同じように、庭にスターチスは咲いていた。
永久不変の花言葉のままに、あの日と変わらぬ姿で、小さく風に揺れていた。
「……亡くなられましたか」
ふわりと稗田邸の庭に降り立ち、女中たちが慌ただしく行き交う屋敷を見やって、射命丸文はそう言った。私はスターチスを見下ろしたまま、変わらない光景に息を吐いた。
「ついさっき、ね。……眠るように逝ったわ」
そうですか、と文はまた、無感情な声で答えた。
繰り返す光景。阿夢のときと、あまりにもそれは似通っていた。けれど――。
「貴女はどうするの?」
あのときと同じように、私は文に問いかけた。文もまた、同じように答えた。
「取材をしますよ。記事にしないわけにはいきませんから」
「……そう」
変わらない関係。……御阿礼の子をずっと見守っていたのは、文も一緒なのだ。
ただ、ほんの少しだけ、私の方が彼女と距離が近かっただけで。
「幽香さん、貴女は?」
その問いかけが来るのは解っていた。何もかも、阿夢のときと同じやりとり。
だけど、その繰り返しはここまでだ。ここから先は――私と、阿求の物語だ。
「……彼女が生まれ変わるまで、ここに残るわ。その後は、それから決める」
私の答えに、文が驚いたように目を見開いた。私は振り向いて、ひとつ笑いかけた。
「百年ぐらい、そう長い時間じゃないもの。……ゆっくり、花でも育てながら待つわ」
その言葉をどう受け止めたのか、文はただ、目を細めて微笑んだ。
「そうですか」
――それが阿求の望みだから、私は見守ろう。これからもずっと、ずっと。
御阿礼の子の、繰り返す生を。彼女の魂が咲かせる、記憶の花を。
私はこの場所で、見守り続けよう。愛おしい花の記憶を抱いて。
たとえ新たに咲く花が、また別の花なのだとしても。
時の流れの中で、何もかもが変わっていくとしても。
繰り返し、繰り返し、スターチスの花は咲き続ける。
永久不変の、愛の喜び。知識としとやかさと誠実さを抱いた、永遠に変わらない想いの形。
それがある限り、私は何度でも、彼女に巡り会えるだろう。
そのときはまた、彼女にこの花を贈るのだ。
何度でも、何度でも。
この地に、花が咲き続ける限り――。
今から過去作も読み返して更に泣いてこようと思います。
あなたもなかなかどうしてひどいお方だ。
感動しました
ありがとうございます。
ほぼ無限に生きる幽香に死の間際に「見守っていてください」と
束縛の言葉を残すのは、正直卑怯だと思う。
と言うか毎回30数年で死んで愛しき人を待たすぐらいなら
俺ならお役目放棄して妖怪化でも何でもしてずっと一緒にいようとするけどな。
こんな一方的に依存するような、そのくせ自分の債務は果たすような
関係は自分なら耐え切れない。
転生か幽香、どちらかを諦める。
読めてよかった。
ありがとうございました。
前作から続いて読みましたが上の一言に尽きます。
前では点数付け忘れて申し訳ないっ もちろん満点です!
阿斗の名前の由来は両者を表していたのかも?もちろん良い意味で(深読みしすぎでしょうかw