「うおおっ! 今日こそ、今日こそ殺してやる! 十万億土の彼方まで飛んで逝けぇー!!」
「ひえー通り魔だー!?」
その出遭いはあまりにも唐突で。
「って誰このずぎゃぎゃぎゃぎゃあぁぁぁ!?」
燃えるように真っ赤な通り魔は、こちらの目の前に飛び出したかと思うや、振り上げた拳を振り上げたまま身体を思い切り捻って地面に突っ伏した。竹林の地面へ痛烈に顔面を叩きつけたにも関わらず勢いは止まることはなく、ガリガリと地面を削ってそれなりに長い溝を掘った。挙句、首を支点にしてぐるりと胴体を回転させ、仰向けになって地面に倒れてようやく停止した。
きょとんとして、その通り魔を見やる。月と星以外に明かりの無い夜ではあるが、夜の眷属であるため正確にその姿を確かめることができた。
目を回して転がっているのは、真っ白な髪を伸ばした少女の姿をしていた。白い洋服に赤の指貫袴という和洋折衷紅白衣装。おや? 先ほど襲われた時、全身真っ赤な妖怪に見えたのだけれど、半分は白じゃないか。顔は地面削りの影響で真っ赤なのはご愛嬌。
なにこいつ。
鼻を近づけてくんくんと嗅いでみれば、これまた随分と人間臭い。もしかして人間?
いやいや、ここがどこか思い返してみなよ。
ここは幻想郷の中でも悪名高い迷いの竹林じゃないか。
人間なら端っこまでしか入ってこない。
外来人ならその限りじゃないけれど、この奇天烈な格好はそれっぽくない。白い髪には札のようなものが大量に結ばれているし妖術の心得もありそうだもの。
だからこいつは多分、人間を食べたばかりの妖怪だろう。
今宵は楽しい満月だし、昂ぶる妖怪も大勢いる。
それにしても、なぜこいつは突然襲ってきて、自爆なんかしちゃってるんだろう?
悪い奴か。
ともかく気絶している今が好機。
「えいっ」
驚かせた罰として踏んでやる。
げしげしと踏む彼女の着物からかすかに覗く足は、女性らしからぬ毛深さだった。
また、通り魔がやけに人間臭いのであれば、襲われた彼女はちょっぴり獣臭かった。
人間臭い奴と獣臭い奴はこうして出遭った。
その出遭いはあまりにも唐突で。
その出遭いはあまりにも可笑しくて。
冷静になって振り返ってみる。
多分こいつは、人違いをしたのだろう。
襲ってきた時の言葉をちゃんと覚えている訳ではないが、かろうじてそんな風だった気がする。
ならばこいつが目覚めても再び襲われる心配は無いし、また間違えられないよう確認しておいた方がいい。
憂さ晴らしに踏みつけたことだし、通り魔の襟首を引っ張り起こし、頬をいっぱい叩いてやる。
なかなか叩き心地のいい頬で、次第に目的を忘れ夢中になってビッタンバッタン叩いてしまう。
力もだんだんこもってきて、人間ならざる力と速さでゴキンッ!
……頬を叩くのとは違う音がしてしまった。
あ、やばい。一瞬そう思ったが、妖怪なら首が折れたくらい、しばらくすれば治るだろう。平気平気。言い訳完了。
治るのに時間かかりそうだし当初の目的の誰と人違いしたのかの確認はまた今度ということで、おさらばさせてもらおう。
己の聡明さに感心しつつ、通り魔に背を向けて歩き出す。これでもう二度と会うことが無ければ平和でよい。
そして、またしても突然だった。
山火事でも起きたのかと思うほどの熱風が巻き起こり、彼女の自慢の黒髪を乱暴に撫でつける。
一瞬、月夜が紅く照らされたようにも見えた。
チリチリとする熱の正体を見ようと振り返ってみれば、そこには火の気などまったく無く、代わりに通り魔の紅白衣装が立ち上がっていた。首に手を当て、コキコキと骨を鳴らしている。
「あー死ぬかと思った」
なにこいつ。
幻想郷の妖怪は不死性が高く、肉体がバラバラになっても時間をかければ復活できるものだ。正しい退治方法や、存在を消滅させるレベルの大きな力でもぶつけられない限り。
さて、自分は先ほど、こいつの首を折った。不幸な事故だ。顔面削りで気絶する程度の奴が、首を折られてすぐ復活する? 意味が分からない。こいつはなんの妖怪だ。
「あっ、さっきの。ごめん、いきなり殺そうとしちゃって。怪我無い?」
「無いけど」
答えながら、先ほどの熱風も気になって自身の身体を見下ろしてみる。
愛用の白い着物には汚れも焦げも無い。手足の裾が黒いのは元からだし、黒くなくっちゃ体毛を隠しにくい。
胸から下の女袴は欧化主義の影響を受けたもので、外では女学生の制服としてよく使われている。それを拝借して知り合いの妖怪に染め直してもらったものを着用している。これもまた汚れは無い紅白の女袴だ。赤にかかる白がまるで月のように丸く描かれており、裾だけ黒色となっているのも相まって、花札の『芒に月』を連想させる。単純かつ鮮やかな姿である。
真っ赤な鋭い爪で、自慢の黒髪をすく。
熱風のせいで少し乱れたけれど、うん、綺麗なままだ。
その黒髪を、紅白衣装はじっと見ていた。
ぎくりとして頭から生える耳を立たせてしまう。
「狼女か」
紅白少女は、彼女の正体を言い当てた。
赤い瞳で睨み返すと、紅白衣装もまた赤い瞳で見つめ返してくる。
「ええ、そう。私は狼女。あなたはなんの妖怪?」
「んんっ? いや、火の鳥の人間だけど」
「そう、火の鳥の妖怪なのね」
「いや、人間」
「えっ?」
そういえばこいつ、やたら人間臭かった。人間を食べたばかりの妖怪だと思っていたけれど、妙だ、妖怪臭さが全然感じられない。妖怪じゃ……ない?
すらりとした鼻をくんくん鳴らしてみる。
物の怪らしからぬ臭い。とても新鮮な人間の臭いだ。
「って、ええっ! 人間!?」
狼女は狼狽した。外の世界から姿を消しつつある同胞に思いを馳せながら後ずさり、マタギとの攻防が脳裏に蘇る。だがここは幻想郷。こんな竹林の奥までやってくる人間となれば妖怪退治の専門家か。首を折った時、念入りに殺しておけばよかった。
両手の爪を鋭くさせ、狼女の彼女は服の下の毛を逆立たせる。
白い牙を剥いて血肉の味を思い出す。
「私を退治しにきたのね? 妖怪退治の専門家だからって、誇り高き狼女の私にかなうはずもない。よりにもよってこんな満月の夜にね!」
「えっ?」
紅白衣装は首を傾げる。
そんなことまったく思ってもみなかった、とでも言うようにだ。
臨戦態勢に入ったというのに、これでは拍子抜け。
「違うの?」
「うん? なんで妖怪退治しなくちゃいけないの?」
「だって……人間でしょ?」
「だって……キリが無いじゃん。幻想郷だもの、どこもかしこも妖怪だらけでしょ? いちいち相手にしてられないわ」
なにこいつなにこいつ。
狼女はますます狼狽してしまう。どう扱えばいいのだこの紅白人間。
臨戦態勢を取ったままでいると、紅白人間は突然ペコリと頭を下げた。
「それより、さっきはごめん。その綺麗な黒髪を見て人違いしちゃったのよ」
「あ、そ、そうなの」
「次からは気をつけるからさ、勘弁してくれないかな」
「まあ、そういうことならそういうことでいいんだけど」
「いやあ、話の分かる妖怪でよかった。襲われたらどうしようか不安だったわ」
「襲ってきたのはあなたでしょ? 怖いわー、人間怖いわー」
「だから人違いだってば、ごめん。無駄な戦いも悪くないけど今はなんか頬と首が痛いし」
「そういえばなんで無事なの?」
「地面に突っ込んだくらいじゃ死なないよ」
「その後頬ぶっ叩いて首折ったんだけど、すぐ復活したし」
「ああそれでなんだ頬と首が痛いのなんだなんだそうだったのかなんだとこの獣ッ!!」
紅白人間の足元が爆発したかと思うや、その五体が弾丸のように飛んできた。
ギョッとして反射的に飛びのこうとするも、紅白人間は空中でくるりと回転して遠心力をたっぷり乗せた足で蹴り上げてくる。三日月を描くような鋭い一撃が顎に真下から叩き込まれ、脳天まで衝撃が突き抜ける。目頭から火花が散って白熱し、肉体の重さを喪失して宙を漂っていると背中がなにかに打ちつけられる。
まばたきをして、夜空に向かって無数竹が伸びているのが見えた。
人間なんかにやられてしまったのか。
狼女のこの私が。
(まだ、死にたくないな――)
起き上がりたかったが、身体は動いてくれない。
星が、遠のいていく。
●
『げんそうきょう?』
『うむ。俺は群れを連れて、そこに移り住むことにした。どうだ影狼、一緒に来ぬか?』
『ハグレ狼なんか誘って、どういうつもりかしら』
『俺達ニホンオオカミは遠からず滅びる。そういう時勢だ。だが幻想郷なら生きられる。だから誘っている』
『本音は?』
『俺にもしものことがあった時、お前になら群れを任せられるからな。ほれ、この山で狼男なのは"もう"俺とお前だけだし』
『狼女です!』
『細けぇことはいいんだよ。オオカミだけじゃ幻想郷に行くの苦労するだろ、妖怪の力が必要なんだ。道案内とか結界通り抜けとか』
『私はあなたにとって都合のいい女でしかないのね。さみしいわ』
『知るか馬鹿。こんな時くらい黙ってついてこい』
『……私は……』
『太古より続くニホンオオカミの血を絶やしてはならん。生きるぞ』
やめておけばよかった。故郷に残ればよかった。ついて来なければよかった。あんな勝手な奴。
群れはすでに幻想郷の野山で新しい暮らしを始めている。ハグレの自分はやっぱりハグレだ。
だからもう自分の役目も終わっていて、死んで困ることも無いけれど。
幻想郷って、楽しそうなところだなって思いつつあったのに。
ああ、死にたくないな――。
「よーしよしよし。今日は大物が捕れたぞぉ、お腹いっぱい食べられるぅ~。焼くぞぉこんがり焼いちゃうぞぉ。想像しただけでよだれズビッ! いやぁ本当にもう肉づきがよくておいしそうでワクワクしちゃう。新調したこの包丁『鳳凰天舞』の切れ味を見せてもらおうか。ウワーッハハハハハッ」
ああ、死にたく――。
「死んでたまるくぁー!」
ガバッと起き上がると、そこは布団の中だった。
あれ、生きてる。
どこぞの山小屋の中のようで、夜はとっくに明けているようだ。楽しい楽しい満月だったのにもったいない。
人の気配に振り向いてみれば土間で大魚を掲げている紅白人間の姿があった。
向こうも自分が起きたのに気づいて振り返り、にこやかに声をかけてくる。
「ん、おはよう。お昼ご飯食べる?」
「あ、はい、いただきます」
焼き魚をご相伴に預かりつつ、なんだこの状況と頭を悩ませる。
どうやらこの人間に殺されずにすんだようだけれど、自分はこの人間に襲われたと思ったら人違いで謝られたと思ったらやっぱり襲われたような記憶があるのだけれど、頭を打ったのか微妙に曖昧でなんとも言えない。
食後の一服を終えて、馳走の礼を言わねばと背筋を正す。
「申し送れました。私は今泉影狼。此の度はお世話になりました」
「これはこれはご丁寧に。私はンーヨダン・タッダイテヨ・ルデモーチスミ・デ・ドヤオノメズス・ハョシイサと申しません」
「ん、んーよだん、さん、ね? 個性的な名前……さすが幻想郷だわー」
「申しませんってば。ホントは妹紅です。藤原妹紅」
「騙したのね! なんて酷い。人間ってみんなこうなの?」
耳をピーンと立てて怒りをあらわにすると、妹紅はすっかり困り顔。意外と気の弱い奴なのかもしれない。
ちゃんと名乗った礼儀を知る狼女、今泉影狼はグルルと喉を鳴らした。
無礼者は首を掻っ切っても許されると父に教わったし。
「このくらいの冗談、幻想郷じゃ呼吸みたいなものよ? 影狼だっけ、幻想郷来てどれくらいだっけ」
「ひとつき」
「ああ……東の麓で急に狼が増えたっていうの、影狼の仕業?」
生きて幻想郷にたどり着いたのはほんの十数頭なのだけれど、騒ぎになってしまっていたのか。
余所様とあまり交流が無かったので気づかなかったが、影狼はハグレである、これ以上群れの面倒を見る義務は無い。
義理もすでに果たした。家族でも無いのに同族というだけでつき合っていられるか。
「狼の群れ、迷惑になってます?」
「人間にとって? 妖怪にとって?」
「どっちでも」
「別になんとも。人間も妖怪も、自分の住処を荒らされなきゃなんとも思わないよ。荒らしたら狩る。それだけ」
ならいいか。
どうでもよさそうに、けれど小さくうなずく。
「平和と言うか、のん気なのね、幻想郷って」
「そりゃもう。妖怪が人間を襲うことも、人間が妖怪を退治することも、もう全然無くなってきてるし、平和でいい」
襲うこと。
退治すること。
その言葉が影狼の脳髄をかすかに刺激した。
なにか思い出せそうな感覚。
はて、なにを思い出そうとしているのか?
故郷の山でマタギに追われた日々?
ハグレを嫌う群れの狼に吼えられた夜?
人間に襲われたと思ったら自爆されたと思ったらやっぱり襲われた今日この日?
「今日この日よ!」
思い出したので、今泉影狼は高々と跳躍して妹紅の顔面に足の裏をぶち込んだ。
さすが狼女と言うべきか、その威力はすさまじく、妹紅の五体は鞠のように転がっていき、土間の戸を破ってようやく止まった。
土間に自分の靴を見つけると、それを履いて外に出る。空がほとんど見えないほど竹が長々と伸び、葉が生い茂っている中、風景に溶け込むようにこの小さな家があるらしい。こんなところに人間が住んでいる?
よろよろと起き上がろうとする妹紅を、警戒心を強めながらじろりと睨む。
「思い出したわ、よくも私の顎を蹴り飛ばしてくれたわね!」
「ぐぐぐっ……元はと言えばあなたが私の首を折ったからでしょう? 棚に上げて勝手を言う!」
「元の元を言えば人違いで襲ってきた馬鹿人間が全面的に悪いわー、妹紅が悪いわー」
「なんだとこのー! ぶちかましてやる!」
「それはこっちの言葉よ! アオーン!」
同時に飛び掛る二人!
影狼による真紅の鋭い爪による突きと、妹紅による真紅に燃える貫き手が真正面からぶつかり合う。
人間の脆弱な骨肉を貫く確かな手ごたえと同時に、全身の体毛が逆立つほどの熱さに悲鳴を上げる。
「あっつーい!」
思わず手を引っ込めて転げ回っていると、視界の端で妹紅も血まみれの手を押さえて転げ回っていた。
「痛いぃ~! これすごく痛いッ! 手が裂けて指の長さが"倍"になったー!」
もはやお互い戦いどころではない。
熱いの痛いの、子供のように喚き散らすだけという有様。
自慢の髪の毛を土埃まみれにした影狼は、ひぃひぃ泣きながら起き上がる。
「ふ、不毛だからもうやめよう」
「有毛な奴がなに言ってんの」
二人はもう一度転げ回るハメになった。
悪いのはやっぱり藤原妹紅であるはず。
だから自分は精神的優位に立てるはずだった。
正しくあり、こちらが受けたのは痕も残らないだろう小さな火傷で、向こうは両手を串刺しにされたのだから。
しめしめと内心で舌なめずりさえもした。脅してやれば食料なり金目の物なり頂戴できるかもしれない。
幻想郷の人妖は平和ボケしているので鴨にしやすいのだ。あいつの群れの狼を野に放った時も、妖怪の自分が睨みを利かせてやるだけで元からいた動物や妖精なんかはすぐ尻尾を巻いて逃げ出した。自分も平穏に暮らしたいので積極的にことを荒立てる気は無いが、藤原妹紅のように逆恨み体質の手前勝手な下種ならば気兼ねせずにすむというもの。
冷静に考えれば、妹紅は自爆によって人違いの奇襲を阻止したのだし、先に手を出したのは今泉影狼である。
だが都合が悪いので目を背けさせてもらおう。
どっちもどっちである。
などと妖怪らしい思考を経て、まだちょっと痛む指先をさすりながら、藤原妹紅の醜態を確かめるべく振り向いてみる。
そこには傷ひとつない両手を腰に当てている藤原妹紅の姿があった。
影狼はまぶたをしばたかせる。
両手を、狼の爪で貫いたはずである。確かにだ。
ぎりりと奥歯を噛みしめる。これはいったいどういうことか。人間外れした高い再生能力? それとも幻でも見せられてしまったのか。今回のぶつかり合いでどうやら妹紅は炎を操る術を持っているらしいと分かったが、炎だけではないのはもはや疑いようの無い事実。
妖怪退治の専門家なんて外の世界では減っており、また、幻想郷においても数を減らしていると聞いていたが、まだこれほどの使い手がいたとは油断ならない。
無策に戦いを続ける訳にもいかず、以後こいつの煽りは受け流さなくてはと心に留めた。
「ところで影狼」
だがさっそく妹紅は声をかけてくる。どんな無礼を言われても我慢だ我慢。まだ、我慢。
「なに?」
「竹林にはなにしに来たの? ご飯探しくらいならいいけどさ、住むなら最低限、迷わない能力がいるよ」
影狼はうっと押し黙った。
実のところ、ご飯探しのついでに住処を探して竹林を訪れ、すっかり迷ってしまっていたのだ。
自分の臭いをたどれば帰れると気楽に構えていたのに、臭いをたどっても帰れる気配が無く、真っ直ぐ突き抜ければ自然と外に出られるだろうと信じて半刻ほど駆けて挫折した。お腹が空いたので兎でも獲って喰おうと考えたが、見つけた兎はどれもこれも頭がよく小穴や岩陰を利用してすぐに姿をくらましてしまう。臭いを追おうにも小さな場所には入れない。
住み慣れた者にとっては天然の隠れ家であり、侵入者にとっては悪辣な迷宮であると、竹林への道中で出会った妖怪が忠告してくれたのだが、まさかここまでとは思わなかった。
こんなの正直に告げては馬鹿にされるに違いない。
だが意地を張ったところで、帰り道が分からず途方に暮れるのは明らかだ。
巧みに誤魔化し抜かねばニホンオオカミの沽券に関わる。
「私は……私が迷いの竹林に来たのは……そう、竹林七不思議を確かめに来たのよ!」
ビシッと人さし指を立てて言ってのけると、妹紅は感心したようにほほ笑んだ。
好感触。これなら誤魔化せる。
「七不思議かー。それって竹林の中じゃなく外で語られるものだから、中に住んでると意外と知る機会無いのよね」
しかも結構興味を引けたようで。
「ねえ、今の七不思議ってどんなの?」
「えっ? ええーと」
記憶の糸を手繰る影狼。
迷いの竹林に行くなら注意しなさいよと言ってくれたあの黒髪の鴉天狗、七不思議を教えてくれたのも彼女だ。新聞を書いているとかで色々と幻想郷の事情を教えてくれた親切な鴉天狗だった。お礼に狼の群れが幻想入りした件について、自分が連れてきたと話しただけで喜んでくれた扱いやすい妖怪だ。きっと年齢二桁の若輩者に違いない。
「七不思議、其の一! 迷いの竹林には、雀のお宿という秘境があると言う!」
「ほー……雀のお宿、ね」
「そう。そこは幻想郷中の鳥にとって約束された楽園であり、最上級の酒と料理が惜しげもなく振舞われ、万病に効く温泉が湧き出ていると言う。でもそこは住人から絶対の信頼を得た一部の有力者しか入ることができないとされ、その実態は依然謎に包まれている秘境中の秘境。根も葉もない噂によれば幻想郷を司る龍神様もご愛用なされているとか」
「へー、意外と正確に伝わってるのね。そう言えば『自分は鳥類だから雀のお宿に受け入れられるべき』って騒ぐ鴉天狗が集団迷子になった事件とか随分前にあったなー」
「えっ? あなた、雀のお宿について知ってるの?」
「知ってる知ってる。迷いの竹林七不思議ってさ、六十年周期でだいたい新しい内容になるんだけど、お宿の有無は常に七不思議の代表格なのよね」
「そうなの。ねえ妹紅って竹林住まいなんでしょ? どう、雀のお宿って本当にあるの?」
「こんな貧相な人間が、雀のお宿に招かれるような有力者に見えて?」
「それもそうよね……」
「雀のお宿のご令嬢とてんやわんやして、"夜雀に捧ぐ焼き鳥秘話"~みたいな大事件でも無きゃそんなのナイナイ。で、他の七不思議は?」
「えっと、七不思議の其の二は、ナマズの呪詛よ!」
「ナマズ?」
「そう、竹林のどこかにあると言う聖なる蓮池に、邪悪で巨大なナマズが住み着いて、満月の晩になるとおぞましい呪詛を唱えるらしいわ」
「はぁ……呪詛? うん」
「天と地を呪い、地獄から響く呪いの言霊が、雷となって世界を打ち砕き虚無に導くとか、とても恐ろしい企みをしているそうよ」
「そんな怖い七不思議なのか。知り合いの爺さんが、どっかの池の大ナマズと一緒に詩を綴りつつ、目指せ"三月姫の夜想曲"とかのたまってるのとは、きっと無縁だねこりゃ」
「詩? そんなの関係ある訳ないでしょう。詩とは美しいものだもの」
「そうだね、一周回って美しいね。それじゃまあ次の七不思議いってみよー」
「其の三の七不思議。"鬼の口"と呼ばれる穴があり、そこに落ちると恐るべき地底世界まで落ちて、地獄の鬼に喰い殺されてしまうと言うわ」
「鬼ねぇ。随分と前に幻想郷から姿を消して、もう幻想郷ですら忘れ去られた存在だけど、それが地底にいると?」
「所詮は七不思議だから、信憑性は薄いでしょうけれど……天狗の間ではかなり恐れられているそうよ」
「ふーん。そんな穴があったらオムスビでも転がして、中の反応をうかがってみたいもんだ。いや、オムスビじゃもったいないな。生首でも放り込んだ方が面白そうだ」
「なにこの物騒な人間。怖いわー人間怖いわー」
「幻想郷で生首なんて、ちょっと珍しい程度のものよ。人形の頭が地面に転がってるのと同じくらいの価値よ。"人形頭部流転物語"~なんつって。四つ目は?」
「迷いの竹林、七不思議。其の四は忍者の隠れ里伝説!! 今でも幻想郷転覆を目論んでいるとか、雀のお宿から略奪した財宝を貯め込んでいるとか、色んな説があるそうよ」
「ふーん。忍者……か」
「幻想郷屈指の戦闘能力を持つ忍者集団の隠れ里が、妖怪の賢者と大戦争を起こしたという伝説もあるそうよ」
「伝説ってほどのものかしら」
「しかも幻想郷中を巻き込みかねなかったその大戦争を制したのは、当時の博麗の巫女だとか」
「へー、巫女すごーい強ーい」
「最近の巫女はろくに妖怪退治する機会も無くてへなちょこだそうだけど、当時の巫女とは、あの博麗大結界を張った巫女だったと言われているわ。歴代の博麗の巫女でも屈指の実力者に違いないはずよ」
「そうだね。きっと私みたいな半端者じゃ逆立ちしたって勝てない強さなんだろうなー。巫女無双しちゃうんだろうなー」
「七不思議、其の五は竹林を徘徊する高速山姥よ」
「山姥?」
「人間が竹や筍を取りにやって来ると、山姥が人間を獲って喰おうとつけ狙うの。だから人里の人間は山姥対策をしているのだけど、なぜか効果が無くて、山姥じゃなく老婆の幽霊じゃないかとも」
「んんっ? 人間をつけ狙う? ……えーとそいつ、お婆さんなの? 山姥とか老婆とか」
「髪が真っ白で、顔もしわくちゃで、腰が直角に曲がっていながらすごい速度で走るそうよ」
「や、髪は白いけど、他は……えっ? 噂の尾ひれ?」
「あれ? これもしかして妹紅のこと?」
「いや違う絶対違う私の訳がない。だからほら次行こう次」
「七不思議其の六は、永遠に眠ってしまう竹林よ」
「永遠に眠る? なにそれ怠惰の楽園みたいなの」
「竹林のどこかにとても寝心地のいい広場があって、そこに近づくだけで眠気を催し、あまりの心地よさのため永遠に眠ってしまうとか」
「あー……そんな場所あったら竹林の住人も近づかないだろうね」
「実際怖いらしいわ。それは獲物を捕らえるための狡猾な罠で、眠ってる間に魂を地獄へ引きずり込むから永遠に眠ってしまうんだとか」
「おお、怖い怖い。魂を引きずり込むのかー、すごい力だ。気をつけなよ、それっぽい場所には近づかないようにさ。で、最後のひとつは?」
「迷いの竹林の七不思議、其の七は……雀のお宿以上に存在を疑問視されている秘中の秘」
「ほう? なかなか期待できそうな……」
「あらゆる男を虜とする麗しき姫の住まう静寂なる屋敷」
「……あん?」
「竹林で行方不明になった男は、その姫に心奪われて屋敷について行ったのだと言われているわ。姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払うとか」
「……ねーわ。そんな超常現象起こすよーな美人いる訳ねーわ。まったく七不思議史上最悪の七不思議だわ」
七不思議に対する反応はいずれも白々しく、なにか隠しているんだろうなと影狼には察せられた。
呪詛のナマズは実在しそうだし、高速山姥は妹紅の白髪によるものだろう。
そしてどうも、七つ目の七不思議は藤原妹紅にとって相当気に入らないものらしい。
わざわざ薮蛇をつついて出す必要は無いし、妹紅の事情なんかどうでもよく、とっとと打ち切っていいか。
「とまあそんな訳で、ご飯探しのついでに七不思議とやらを解明してやろうかと思って竹林に来たのよ」
「あ、そ」
すでにたっぷり機嫌を損ねてしまっていたらしく、妹紅の態度は素っ気無い。
七不思議への興味もすっかり失せてしまっているらしく、露骨に話題を変えてきた。
「……外まで案内しようか?」
「あら、いいの? いやー、別に迷った訳じゃないけど、道を知ってる人に案内してもらった方が断然いいし、正しい道順を学んだ方が色々と便利だものね。助かるわーありがとう妹紅」
してやったり。
今泉影狼大勝利!
見抜いた上で合わせてくれてるだけかもしれないけど、どうせ竹林でたまたま出遭っただけの関係、後腐れなどいちいち気にするほどの相手でもない。
妹紅は破れた戸を戻すと、さっそく影狼の案内に出てくれた。
行けども行けども代わり映えのしない景色。時々目印になりそうな岩や池もあったが、同じようなものが次々に現れるためますます混乱するだけだ。坂を上ったり降りたりもするし、気がつけば霧が出ていたり、いつの間にか消えていたり。
濃密な竹の臭いで鼻も馬鹿になってきてしまい、適当に歩いているようにしか見えない妹紅の背中がだんだん胡散臭いものに思えてくる。不安にもなってくる。
「ねえ妹紅」
だから声をかけてみた。
「誰と、間違えたの?」
そういえばまだ確認していなかったこと。
最初の出遭いは人違いだったのだ。
「さあ。誰とだろね」
けれど妹紅ははぐらかす。被害者であり加害者でもある影狼には聞く権利があるはずなのだが。
少々カチンときて、七不思議の七つ目を思い出す。
姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払う。
黒く輝く髪が。
こいつの案内も不安になってきたことだし、どうせ今日この日だけの関係、後腐れてやろうか。
「もしかして、竹林のお姫様と間違えたのかしら?」
返事を待つ。肯定するのか否定するのかちょっと楽しみだったから。
けれど妹紅は答えない。だんまりか。またもやカチンときた。
「フフッ。お姫様と間違われるだなんて、私の美しさの前では月さえ輝きを失うわ」
月を信仰する狼女として、これは言いすぎだとすぐさま後悔した。
次の十五夜にはお供え物をしなければ。
「まさか」
鼻で笑われ、三度カチンときた。
妹紅は足を止め、肩を揺らして笑っている。馬鹿にするかのように。
結構歩いたしここなら竹林の外も近いだろう、用心深く行動すれば出られるはず。喧嘩別れする頃合かもしれない。
振り返った妹紅は暗い瞳でほほ笑む。
「あんな性悪姫なんかより、あなたの髪の方がずっと綺麗よ」
ゾクリと背筋が震え、産毛が逆立つ。
精神的生命である妖怪ですら溺れるほど濃密な感情の臭いが鼻腔を貫き、頭を内側からガツンと叩いた。
こいつは人間を自称しているし、実際そうなのだろうが、ある意味で妖怪より妖怪らしいおぞましさを抱えているのではないか。数十年やそこらで至れるモノではない。見かけ通りの年齢なのか? 仙人? 魔女? 人間と妖怪の混血児? ともかく得体が知れない。
無意識に牙を剥いて、しかし足は後ずさってしまっていた。
「ん、どうかした?」
自身の異質さに気づいていないのか、妹紅の態度は軽いものだ。
「もしかして照れてる? 世辞じゃなく、本当に綺麗だと思うよ影狼の髪の毛」
動揺により高鳴った動悸のためか、影狼の体温もまた上がっていた。その微妙な変化と牙を剥いた行為を合わせ、照れ隠しに妙な行動を取ってしまっているだけかと判断されたらしい。
自分一人動揺しているのが滑稽に思えてたたずまいを正した。
「まあ、確かに私の髪はいつも綺麗だって褒められていたけれども。人間の癖になかなか見る眼があるわね」
「まあ、ね」
影狼が自慢の黒髪をかき上げると、妹紅はつまらなそうに自身の白髪を払った。
鼻を鳴らして笑ってやり、髪の美しさの勝利を見せつけてやる。
そう、きっと幻想郷でもっとも美しい髪の持ち主は今泉影狼なのだ!!
だが人違いだったのだ。
七不思議にある麗しい性悪姫とやらは、影狼のような黒髪の持ち主?
勝手ながら自尊心に小さな傷がつく。母親譲りの自慢の毛並み、いったいどこの誰と見間違えたというのだ!
「ねえ妹紅。いい加減教えてよ、その性悪姫とかいうのが誰なのか。私の方が髪が綺麗なんでしょ? お姫様に見せつけて自慢してやりたいわ」
「自慢? その髪で?」
その声色と表情で影狼は察した。
妹紅は、性悪姫の髪の方が美しいと思っている。
影狼の髪を褒めたのは世辞にすぎない。
いちいち癪に障る嫌な奴。きっと相性が最悪なのだ。
表情に出てしまったのか、こちらを見る妹紅は笑顔を取り繕う。
「いや、そうだね。影狼の髪なら全世界のお姫様が嫉妬するさ」
いや、ってなんだ。
なぜ否定から入る。
全世界のお姫様が嫉妬? 本気でそう思っているのか? あまりにもおざなりだ。
相性が悪い――再びそう、強く思う。
「どういう事情か知らないけれど、妹紅は随分とそのお姫様にご執心のようね!」
「……いや、別にそんな」
「私の髪が綺麗だったから、お姫様と間違えたんでしょう? じゃあ、あなたは、お姫様の髪を綺麗だって思ってるんじゃない」
「なに言ってるのさ。そんなの、あるわけない」
「お姫様以下だって、私の髪を見下してる。私の自慢の、夜空に溶けるような黒髪を」
「ちょっと、急にどうしたの。気に障った?」
「障ったわ。私達ってきっと相性が悪いのよ、とことんね。所詮は人間。妖怪の餌よ」
「餌って、幻想郷の人間は食べちゃ駄目よ? 人間も妖怪も争わず平和に暮らしていられる今の幻想郷は理想郷なんだから」
「牙の抜けた幻想郷の妖怪と、一緒にするな! 私は誇り高きニホンオオカミ、今泉を継ぐ影狼だ!!」
幻想郷に来てほんの一ヶ月の狼女は、未だ人間を喰わないという幻想郷の慣習を受け入れていなかった。
新参者の身でことを荒立てては、確執が生まれて面倒という打算のみで人間を見逃してやっているにすぎない。
幻想郷の管理者達が支給する外の世界の自殺者や不要な人間なんて、どうせ不味いに決まっている。
馴れ合うものか、腑抜けるものか。
そんな気持ちが、藤原妹紅という人間への敵意によって急激に燃え上がっていた。今にも噴火しそうな火山のように。
こんな些細な。
些細ななにかが、気に障るから。
「……誰に怒ってるのか知らないけど、八つ当たりはやめてよね」
瞬間――影狼の感情が爆発した。
なんで、こいつ、なんで!
『影狼の髪は本当に綺麗だな。まるで――』
なんでこいつは!
疾風のように地面を蹴り、女袴をはしたなく振り乱す。竹の緑が揺らぎ、後ろへと流れていく。軽く開いた口に流れ込んでくる空気が牙を冷たく撫で、激しい感情とは裏腹に指は脱力して鞭のようなしなやかさを蓄えている。一線。人体などやすやすと引き裂く威力が空を薙いだ。野生の動体視力は獲物の人間が後ろへ倒れ込むのを捉えている。すでに攻撃を読まれていたらしいが倒れて避けるなど下策。右の一撃は裂けられたが、すでに左腕を振り上げている。妹紅の背中が地面に着くよりも早く、喉笛に突き立てられるはずだ。馬鹿め、所詮は人間。いやこんな無茶な回避しか許さなかった己の速度を誇るべきだ。自尊心が満たされていく。
「咲かせろ、紅蓮の花をッ!」
左の死を振り下ろす。
確実だ、自由落下よりもこちらが早い。仮に拳や蹴りで反撃してきたところでこんな体勢では力が入らない。炎の妖術を使おうとしている気配も無い。ハグレ狼として人間とも狼とも妖怪とも戦ってきた本能が、確実に仕留めたと告げる。
柔肌を貫いた爪はさらに深く喰い込み、その勢いの方向を上方へとずらして振り上げる。やや爪が軋んだものの妹紅の顔面は深々と切り裂かれた。肉の裂け目は見事に咲いた紅蓮の花によって隠る。喜悦に表情を歪めた影狼は、首と脳という二箇所の急所を破壊されて息絶えた妹紅の身体を飛び越えて着地する。
どうだ。妖怪退治の専門家だろうと、足手まといがいなければ人間なんかに遅れを取るはずがないんだ。
正しいのは自分だ。
幻想郷に来て初めて人間を殺してしまったが、人里の人間じゃないんだ、問題あるまい。
くつくつと笑い声が漏れ、血濡れの爪をペロリと舐める。
そこには慣れ親しんだ血の味が、無かった。
「あっ……?」
左手を確認する。紅蓮を咲かせたはずの手は汚れひとつ無い。
馬鹿な。確かに貫き、切り裂いたはずだ! 惨殺死体を確認し安心を得ようと牙を剥いて振り返る。
代わり映えのしない竹林の風景だけが、そこに在った。
馬鹿のように髪を振り乱して四方八方を見回すも、やはり見分けのつかない竹林が広がるのみ。
鼻を鳴らしてみれば残り香が漂ってはいた。妹紅の臭い、血の臭い。
ではなぜいない。
縮地で遠くへ逃れたのか。だが手応えはあった。狸や狐のように化かされたのか?
「ハァーッ、ハァーッ! グルル……」
あせりと恐怖から乱れた息を威嚇の唸りで誤魔化しながら、腰を低くして身構える。
口喧嘩はともかく、今回先に手を出してしまったのは自分だ。殺す気でやった以上、殺されても文句は言えない。死ぬのか? あんな得体の知れない奴に殺される? こんなさびしい竹林で? 案内してやった群れの連中はのん気に暮らしているのに、なぜ妖怪である自分達が死なねばならないのか。弱い奴は勝手に死ねばいい、こっちを巻き込むな。
弱者なのか? この幻想郷において自分は。
人間なんかに。
あいつみたいに、人間なんかに殺されるのか!?
顎にありったけの力を込め、歯が割れんばかりに食いしばる。力を抜けば無様にカチカチ鳴らしてしまいそうだ。あのいけ好かない人間にせめて一矢でも報いるべきだ。
殺されるとしてもニホンオオカミの誇りを見せておかねばならぬ。
そう考え、影狼はハッとした。
『ここで殺されるとしても、ニホンオオカミの誇りを見せねばならん』
『なに馬鹿を言ってるの! 囮なら幾らでもいる、逃げよう』
『ここは俺が喰い止める。群れの連中を幻想郷まで連れてってくれ』
『嫌だ。足手まといなんかのために、なんで私達が犠牲にならないといけないの!』
『それが誇りだ』
「そんな誇りッ……!」
思わず唾棄してしまう。
嫌っていたあいつと似た行動を取ろうとした自分が疎ましい。
致命的な隙を作ってしまったとしても、唾棄せねばやってられない!
「このまま真っ直ぐ――」静かな声が背後から聞こえ、背筋を冷たくしながら振り返る。「――進めば、座り心地のよさそうな岩がある」
だがやはり、あるのは同じ景色だけ。妹紅の声であるはずなのに。
「岩に矢印が彫ってあるから、その通りに歩けば迷わず出られるよ。里の人間も目印にしてる」
そういえば慌てて四方を見回したため、さっきまでどの方向に歩いていたのか分からなくなってしまっていた。
殺しにかかった自分に案内を続けてくれている? 姿こそ現さないが、方角は今向いている方向で間違いない。
「岩までは余所見せず歩いてよ。ちょっと余所見するだけでそれたりしちゃうから。岩に着いてからは、ちょっとくらい余所見しても出られるよ。そっからは難易度低いからさ」
「ガルッ……も、妹紅、私は」
「じゃあね」
竹がガサガサと揺れ、妹紅の気配がいずこかへ去っていった。
しばし呆然と、その場に立ち尽くす。
身体の向きを変えないよう留意する程度の理性は残っていたが、胸には酷い虚無感があった。
「嫌いだな」
――そう呟いて思い浮かべた顔は、藤原妹紅ではなかった。
●
「大嫌い」
――そう呟いて思い浮かべた顔は、藤原妹紅だった。
なにが、このまま真っ直ぐ歩けば岩があるだ。余所見しなけりゃ大丈夫だ。
その通りに歩き続けて今は夜、岩なんて見つかりゃしないし竹林からも出られりゃしない!
あの後、しばし呆然としている間に空が陰り、ハッとして影狼は歩き出した。
太陽が雲で隠れる、ただそれだけのことでも精神の弱った彼女は不安を感じ、早く竹林から脱しようと心がけた。
だから余所見せず、真っ直ぐ歩いたのだ。
『夜の鳥ぃ、夜の歌ぁ。火の鳥人間やって来てぇ。夜の夢ぇ、夜の紅ぁ。鰻のお代は今日もツケぇ』
という奇怪ながらも美しい歌がどこからともなく聴こえてきても、余所見なんかしなかったのに。ちょっとその場に立ち止まって歌を聴いたけれど、視線は常に前へ向けていたのだから、迷う道理は無いはずだった。なんかちょっと空の曇り方が酷くなって一雨くるんじゃないかと慌てて駆けている最中、ちょっと地面が暗くてよく見えなかったかもしれない。雨の臭いがしなかったせいか結局一滴も降らず、竹林が暗くなっただけの話だった。
だが影狼は夜を生きる狼女なのだ。
妖怪の類に暗闇をもたらされたのならばともかく!
天然自然の暗闇くらいで目印の岩を見逃すなんてありえない。
そう、空あるいは視界を暗くするような妖術や幻術でもかけられない限りありえないのだ!
そしてそんなものをかけられた心当たりは無い。無いったら無い。
だから藤原妹紅に騙されたに違いないのだ!
「ガルルー! 次に顔を合わせたら、今度こそ殺してやるわ」
すっかり闇夜に包まれた竹林は、まさに一寸先は闇という有様。ただでさえ見分けのつかない景色なのにこれでは右も左も分からない。とはいえ、しつこいようだが影狼は狼女である。月の力を信仰し、夜を生きる妖怪である。竹の葉の合間からかすかに射し込む月明かりさえあれば十分に活動できるのだ。
「わたっ!?」
つまづいて転んだ。
慣れない竹林だから仕方ない。しかも迷いの竹林だから仕方ない。
そう理性が告げていても、ああ、惨めなり。
頼みの鼻も、むせ返るような竹の臭いばっかりで馬鹿になってきたように思え、違和感が鼻の奥にこびりついて拭えない。
「ぐうっ……せめて、月がちゃんと見える場所に出られれば……お月様、どうかこの哀れな狼女にお慈悲を……」
祈りが天に通じたのか、ふいに前方の空が眩しく輝いた。
それは月のように白く静かで、本能から美しいと感じ入るものだった。
本来黄緑色であるはずの竹も今は清らかなる白へと変貌している。
祈ってすぐこんな奇跡が起こりもすれば、感極まって駆け出すしかなかった。
あの場所へ、あの月の元へ馳せ参じねば。
竹藪をひとつ飛び越えると、光の色が白だけではないことに気づく。
いや、白い光が無く、白ではない光が重なって白い光となっているのだ。
あったのは赤、青、緑、黄、紫という――五色の燐光!!
五つの小さななにかがそれぞれ異なる光を発し、それが重なり合うことで白く見えていたのだ。月とはまったく異なる性質の光であったが、そのあまりの美しさの正体を確かめたいという好奇心が即座に行動理由を塗り替える。
だが走るうちに光は収まりつつあり、せめて消える間際だけでも、いや消えた後でもいいから光の正体を知りたいと願った。
そうしてたどり着いたのは竹林の奥深くのやや開けた広場であり、光の正体こそ分からなかったが、光の正体を放っていただろう人物を目の当たりにした。
赤焼けのような衣装を身にまとった、女人の姿。
緩やかに宙を舞う美しき半月のように整った顔には、絶世と呼ぶべき美貌が浮かんでいる。
黒真珠の瞳を楽しげに輝かせ、桜の花弁を思わせる唇は清楚にほほ笑み、高貴な光を発しているかのよう。
影狼のように長い履き物を着用しているが、下から覗き見えた脚は産毛すら生えていないのではないかと疑うほど白くなめらかであった。
そして、ああ、もっとも目を惹いたのは、その黒髪であった。
影狼は常々、自分の黒髪を美しいと信じていた。
闇に溶けるような深く暗い黒髪を。
ああ、だが、しかし、なんということだろう。
夜空を舞う黒髪は、影狼のそれよりも深く暗い闇夜の中で、毛の一本一本すら視認できるほど輝いて見えるではないか!
影狼と同じように膝の裏まではあろうかという黒髪が龍のように弧を描き、漆黒のきらめきで世界を彩っている。
闇さえ払いのける黒龍の髪を目の当たりにすれば、闇に溶ける黒狼の髪など――。
『お前の闇に溶けるような黒髪は俺の自慢だ。本当に美しい。まるで――』
――まるで、竹取物語に出てくるなよ竹のかぐや姫のよう。
もしかして彼女がそうなのか、竹林七不思議最後のひとつ、あらゆる男を虜にする麗しき姫とは。
姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払う。まさしく彼女こそが。
妹紅をもっとも不快にさせた七不思議の――。
「うおおっ! 今日こそ、今日こそ殺してやる! 十万億土の彼方まで飛んで逝けぇー!!」
巨大な炎の砲弾が地上から打ち上げられ、黒龍の髪の姫へと迫る。
突然のできごとに思考が追いつかぬも、姫はやわらかく笑うや服の袖を颯爽と払った。
直後、腹まで響く爆発が起こり姫の姿を炎で隠した。
呆然として見上げていると、炎の中から無傷の姫が現れる。その前面には赤い羽衣のようなものが浮かんでおり、あれだけの大爆発の後だというのにほんのわずかにも燃えた様子は無い。
すごい。なにがなんだか分からないけれど、ただそれだけは分かって、眼が離せない。
姫は何気ない仕草で頭上に手をかざす。
するとどこからともなく白々と輝く物が現れた。満月よりも眩しいそれから、無数の光線が大地に降り注ぐ。
その軌跡を追って視線を下ろしてようやく、姫と戦っている者の正体に気づいた。
藤原妹紅が地に膝をついている。
その五体を光線が貫いて、穴だらけになった妹紅が崩れ落ちる。
そうだ、さっきの言葉。十万億土の彼方までというあれは、影狼を人違いして襲ってきた時に言っていたものだ。
正しくその言葉を向けるべき相手があのお姫様。
しかし逆に殺される結果を、心の準備も無く目の当たりにしてしまった影狼の心には驚きすら湧いてこない。
感情を喪失してただただ見つめるのみ。
月下の躯が立ち上がるのを、ただただ見つめていた。
傷口と言う傷口から炎を噴出し、海蛇のように宙をうねったそれは周囲の竹林へと這い寄る。
妹紅は両手を素早く交差させ忍者のように印を結んだ。
「木の葉乱舞、そして燃えろッ!!」
忍者の使う暗器"くない"の刃にも似た竹の葉が、火炎をまとって回転しながら乱舞する。
それも数え切れないほどの燃える竹の葉手裏剣の弾幕だ。四方八方を取り囲んで退路を断ち、またあの赤い衣では全身を覆えず防ぎ切れない。姫のあの輝く黒髪が燃えるところなんてさぞ美しいだろうと、相当に歪んだ思考がふっと浮かんだ。
けれど姫は慌てない。どこまでも己の呼吸を乱さず安穏として妹紅を見下ろす。
「しゅゆ」
と、言ったように聞こえた。
違うかもしれないが、影狼の獣耳にはそう聞こえた。どういう意味の言葉なのか分からないが、これで燃える竹の葉は届かないだろうと予感してしまう。
炎をまとった葉は姫の全身に雨あられと降り注ごうとするも、そのことごとくが空中で燃え尽きて消滅した。
火加減を間違えた、なんてことはあるまい。妹紅も目を見開いて驚愕している。だがすぐさま眉を釣り上げ、姫と正反対の白髪を振り乱して炎をまとった。
「燃え尽きてしまうなら、炎だけでも!」
髪の毛一本一本の先端から、孔雀の尾羽にも似た朱色の炎が舞い上がる。
いや、孔雀と言うよりは――不死鳥の尾か。
竹の葉を媒体としていないため威力は多少落ちているかもしれないが、これならば"しゅゆ"とやらを突破できるのだろうか? できるかもしれないと、姫が初めて表情を変えるのを見て思った。不死鳥の尾が夜空を無慈悲に舞い踊り姫は炎に包まれた。赤い衣でもしのぎ切れず、あの輝く黒髪が炎上して眩しさを増していた。
先ほどから続く備考の違和感を消し去るほど強烈な肉の焼ける臭いと同時に、強大な妖怪さえ焼き尽くすであろう火力が伝わってきた。しかもそれを惜し気も無く行使している。幻想郷で殺し合いはご法度のはず。
闘争を忘れ牙の抜けた妖怪など恐れるに足らずと思っていた。
でもこれは。
妖怪を上回る火力による殺しに、妹紅は慣れている。
外の世界でマタギや陰陽師に追われた経験から、影狼はそれを悟った。
影狼は殺す気で妹紅を攻撃したが殺せなかった。
だが妹紅は殺す気になれば影狼を殺せていた。
人間の中には並みの妖怪じゃ歯が立たない強者がいるが、あいつがまさにそれだったのか。
あの黒龍の如き髪の姫も相当の強さだったが……。
「やってくれたわね」
鈴のような声が凛と響く。
心音を高鳴らせて声の出所を見れば、地面、妹紅の前方に燃え尽きたはずの姫君が立っていた。
しかも肌も服もそして黒髪も、まったく焼けた痕跡が無い。あの火力を浴びて? 肉の焼ける臭いは確かにしてきた。
狐に化かされた気分だ。
まるで影狼が妹紅を殺し損なった時に似た不可解な現象。
なんなんだこれは。なにが起きているんだ。
幻想郷とは、迷いの竹林とは、藤原妹紅とは。
理解を越える光景を竹藪の陰から眺めている自分自身の姿を、影狼は見た気がした。
まるで現実味のない夢のような体感。
蚊帳の外の影狼など気づかず妹紅は肩を揺らして笑い出した。
「は、ははは。死んだ、死んだぞ。焼け死んだ!」
「一回だけね。あなたはもう四回だわ」
「もっと殺す。もっともっと殺す。もっともっともっと殺す。そうら涅槃へ旅立て、不死の火の鳥の翼で!」
妹紅の右腕の肘から先が荒々しく燃え盛り、獲物を鷲掴みするように構えられた手に尋常ならざる力が集中する。空気がチリチリと焼け、なぜか無性に吼えたくなったが牙の合間から漏れるのはかすれた吐息だけだ。
白髪の少女が猛る。
右腕を振りかざしながら手のひらを目いっぱい開くと、まとっていた炎が鳥の姿へと変じて凄まじい勢いで飛翔した。
羽ばたくそれを見て黒髪の姫は小さく笑い、いずこかから取り出した白い貝殻を指でつまんで火の鳥に向ける。
「あなたの不死鳥なんか、燕にも劣るわ」
悪戯っ子のような口調で言うや、貝殻からほとばしる銀光が満月のような真円を描いて火の鳥を呑み込んでしまう。
罠にかかった鳥のように火の鳥はもだえて消失し、光はさらに妹紅へと迫り、傍観していた影狼にも――。
●
『おい影狼、今なんつった』
『群れを出る』
『なんでだよ』
『群れって言ったって、強い奴が弱い奴の面倒を見るだけじゃない。弱い奴は強い奴になにをしてくれるの? 私になにを与えてくれるの? 弱さと無能さで母さんを死なせたあいつ等が、母さん以上のなにを与えてくれるというの?』
『ニホンオオカミの血を守るためには、群れた方が都合がいい。俺達はそうやって生きてきた』
『だったらなんで、ハグレ狼なんてのが存在するの? 群れから追放された奴だけじゃない、みずから望んでハグレになった狼もいる。彼等は群れを必要としなかった。私がそうなっていけない理由があるの?』
『家族だろう、俺達は』
『そうね、群れは家族よね。だったら家族なんていらないわ』
『影狼』
『さよなら、父さん』
けれど影狼は期待していた。
甘い父親のことだ、なんだかんだでハグレになった娘を放っておけまい。
事実その通り、群れを出てからも父は様子を見に来てくれた。
ハグレになっても、妖怪である影狼は不自由をしておらず、群れの狼より豊かな生活をしていた。獲物は独り占めできるし、好きな時に寝て好きな時に遊べる。マタギから逃げるのも妖怪の足なら簡単なもので安全性も増した。
ほうら、自分はこんなに快適に暮らしている。影狼は父に何度もそう言い、見せつけたが、結局、父は群れを捨てなかった。
『げんそうきょう?』
『うむ。俺は群れを連れて、そこに移り住むことにした。どうだ影狼、一緒に来ぬか?』
けれど故郷を捨てようとはしても、娘を捨てようとはしなかった。
ちゃんと誘ってくれた。
『ここは俺が喰い止める。群れの連中を幻想郷まで連れてってくれ』
『嫌だ。足手まといなんかのために、なんで私達が犠牲にならないといけないの!』
群れを守るため囮になって死んだ。
影狼はただ、家族仲良く暮らしたかっただけなのに。
母を喪い、群れを捨て、そして父を喪った。
孤独――孤独の狼女は、幻想郷をさすらい、迷いの竹林を訪れた。
「父さん!」
叫んで起き上がると、見覚えのある部屋だった。
どこだ? 木造りの部屋。粗末な家具と布団。あたたかみのある囲炉裏。
「おはよう、迷子の狼さん」
妹紅の声が聞こえて、そうだ妹紅の家だと気づいた。
またこの展開か。
「観客がいたとは気づかなかったよ。竹林に住む者なら近づかない、瘴気の濃い場所を選んでたんだけどね。どう? 気分悪くない?」
「あ、ああ……? 瘴気……?」
竹の臭いばかりのせいで鼻が馬鹿になって違和感があったのを思い出し、もしやそれが原因かと思い至る。
「無臭でね。頭がぼんやりして精気が抜けて、妖怪でも野垂れ死にする危険があるの。広場になってるのも瘴気のせいで土が駄目になってるからね。ほら、七不思議、覚えてる? 永遠に眠ってしまう広場とかいうの。それあそこ」
「そう……だったの?」
「近づくだけで眠気を催すっていうのは、瘴気のせいでぼんやりしちゃうからよ。苦しみが無いから心地よく感じちゃうし、あの場所にあるものをすばらしく感じて離れたくなくなっちゃう」
では黒鱗の龍が闇夜を泳ぐ様に見惚れてしまったのはそのせいか。
心の中でそう思うや、あの闇夜で輝く黒髪を思い出し、すぐ否定する。
違う。瘴気なんか関係無く見惚れてしまっていた。
自慢の黒髪よりはるかに美しい黒髪を知ってしまった。
「……おーい、聞いてる?」
「聞いて、る」
少しつっかえた。
手のひらで目を覆い、頭を左右に振って倦怠感を払いのける。
と、鼻先に水の臭いが近づいてきた。
「ほら」
無意識に口が半開きにすると、竹の器が唇に触れる。涼やかな水が流れ込んできて喉を優しく潤していく。
深く息を吐いてかたわらに目を向ければ、竹筒を持った妹紅が座っていた。表情こそやわらかなものだったが細められた目元に得体の知れない脅威を感じ、影狼は喉を鳴らす。
「なにがあったか覚えてる?」
「妹紅……と、黒髪の、とても綺麗でお姫様みたいなのが、殺し合っていた。あの人が七不思議の?」
「あいつ、あまり人前に出ちゃ行けないから、七不思議のままでいさせてやって」
「殺したいんでしょう? どうして気遣うの」
「噂が広まって、家に閉じ込められたら、ああやって気軽に殺し合えないじゃない」
トンチンカンな理由だ、殺し合うために相手の都合を守ってやるだなんて。
本当に、藤原妹紅という人間は得体が知れない。そこいらの妖怪なんかよりずっとずっと不気味な存在だ。
でもひとつ、推察できることが。
「死なないの……」
「うん」
推察を途中まで口にし、またつっかえた。
すると一呼吸の間も置かず妹紅はうなずく。
「……仙人かなにか?」
「内緒」
「ちゃんと人間?」
「一応人間」
ちゃんとでは、ないのか。
「言い触らさないでね」
「触らさないよ。ねえ、殺し合いって、あの人といつもしてるの?」
「触らさない?」
「触らさない」
「いつもしてるの。七不思議になったこともある」
七不思議は六十年周期で新しいものに変わるらしい。
前の七不思議を知る妹紅は見かけ通りの年齢ではない。下手したら影狼よりずっと年上かもしれない。少なくとも年齢は三桁くらいあるだろう。さすがに四桁には届かないだろうがここまで妖怪を驚かせる相手だ、否定はし切れない。
影狼は布団から出て窓辺へ行き、外がすでに明るいことを確かめる。やけにお腹が空いているしすでに昼時だろうか。
「ねえ、影狼」
「なに?」
「あの黒いの竹林三大勢力の重要人物だから、下手に言い触らすと矢の的にされるよ」
「ちっとも信用されてなかった! 三大勢力って竹林意外と危険!? いったいどこのことよ。関わらないようにしないと」
「あいつんトコと、あの子のトコと、それっぽいトコ」
「あいつとあの子とそれっぽい!? この人間ちゃんと教える気が全然無いわー、三大勢力って気づかずちょっかい出して殺されたらどうしよう……」
「ん……ちゃんと内緒にしてくれてたら、口利きくらいするよ。竹林の中には顔の利く連中もいるし」
「そんな脅しかけなくても内緒にしてたのに! 妹紅あなた今、約束と引き換えに信用を失ったわよっ」
「狼から信用されてもなー」
「狼なめるな。誇り高い種族なのよ」
「お父さんが誇り高かったのね」
ぎくりと、影狼は息を呑む。
なんでもない振りをして窓枠に腕をかけて余裕の態度を示した。
「なんっ、で父さんが出てくるの」
またまたつっかえた。
動揺は完全に露見してしまったが妹紅は気にした様子を見せず答える。
「寝言で父さん父さん言ってたし、目を覚ます時に父さんって叫んだし、お父さん大好きなんだね」
「うわーっ、うわーっ。恥ずかしぃー!」
「……影狼の父さんって、どんな風だったの?」
その声色は今までに聞いた妹紅のものとはまったく違っていて、はるか遠くへ語りかけるような哀愁が香った。
影狼は思い出す、故郷の山と森を。
父と母に愛され、もっとも幸せであった時間を。
「父さんは……群れの長で」
だからだろうか。語る気なんて無いはずなのに、自然と口が開いてしまう。
もしかしたら、口だけでなく心も。
「狼男で、いつも群れのためにがんばってた。私はそんな父さんを誇りに思っていた。でも母さんと、群れの子供達が危険に見舞われた時、父さんは群れの子供を助けに行っちゃったわ。私は一人で母さんを助けに行った。もう少しで助けられそうだったけど、助けられなかった。今にも息絶えようという段になってようやく父さんがやって来た。母さんは小さく鳴いて、死んだ。父さんが……群れの子供じゃなく、母さんを先に助けようとしてくれてたら、確実に母さんを助けられたわ。だから」
だから、影狼は。
「群れを出て、ハグレ狼になった。そうすれば父さんも、私を心配して群れを出てくれると思ったから。いっつも父さんと母さんに助けられてた癖に、母さんの危機に足を引っ張った無能な連中に見切りをつけてくれるって期待したのに。でも」
「お父さんは群れを捨てなかったのね」
「ええ」
「娘より――を選んだ」
ふいに妹紅の声がかすれる。
今、なんと言ったのだろう? 文脈から察するに、娘より群れを選んだ、が妥当なところ。
さして気にも留めず、影狼は父を思って窓の下にうずくまり黙り込む。
胸がきつく縛られたように苦しくなり、頭上の耳がへにゃりと垂れてしまう。
こんな話、続ける必要あるのかな。迷っていると、妹紅の臭いが近づいてきた。臭いは隣に座り込み、壁に背を預けて呟く。
「父上に愛されたかった。自分を見て欲しかった」
「そう、たったそれだけだった。私の願いは」
意見を肯定すると胸の圧迫感がすっと抜けて、ちょっと冷たい爽やかさが湧き上がった。
少し気持ちいい。
「……群れを出てから、お父さんは?」
「たまに様子を見に来てくれたけれど、普段は群れにかまけてた。群れのみんなはハグレ狼を厭っていたけど、父さんはそれでも会いに来てくれた。会いに来てくれるだけじゃ不満足なのに」
「子が親を求めるのは本能みたいなものさ」
「そして十数年くらい経って、父さんは幻想郷に行こうって私を誘った。二人でなら無事にたどり着けたはず。親子関係をやり直せたかもしれない。でも父さんは群れを避難させるのが目的だった。外の世界ではニホンオオカミが数を減らして、遠からず絶滅するだろうって予見したから、他の絶滅種のように幻想郷へ避難しようって、ニホンオオカミの血を残そうって、群れのために。ついでだったのかな、私は」
「そんなこと、ないよ。ハグレになってからも、気にかけてくれていたんでしょう? 私は、そんなことなかった」
「……私は? 妹紅のお父さんは」
「お父さんは、きっと影狼を愛していた」
同じ言葉をかぶせてさえぎると、話を打ち切るようにして影狼の父の心を決めつけた。
だがしかし、それで納得する影狼ではない。
随分とあれこれ語ってしまった。語りすぎてしまった。
誰にも話す気の無かった自分の生い立ちを。
ならば望むべきはひとつ。影狼は妹紅を見やり親しげに笑む。
「ねえ、妹紅。私にばっかり生い立ちを語らせて不公平じゃない? 妹紅も教えなさいよ。竹林三大勢力を敵に回したくないから内緒にするわ」
「いやいや、私はどこにでもいる極々普通の、健康を心がける焼き鳥屋サンですよ?」
「どこが極々普通なのよ。焼き鳥屋? 火の鳥を出してるだけでしょう!」
「焼き鳥が駄目なら"えのころ飯"を始めようか? 犬は生類哀れみなので狼で代用しよう」
「しない!」
「なぁに、調理法は簡単。影狼のおっぱいをぎゅぎゅっと寄せて上げてできた谷間に、上から白米を詰めてぎゅぎゅっと押し込む。すると胸の谷間を利用してなかなかいい感じ形になった"えのころ飯"が!」
「それ"えのころ飯"と違う! 犬の腹から内臓取って米を詰める奴でしょ」
「ああ、そうだったのか。練習したいから影狼お腹出して」
「ひぃいーっ、腹かっさばかれるー。怖いわー人間怖いわー」
「でも"えのころ飯"なんか食べる気ないわー。なんか色々と無理。ところでお腹空かない? 魚はもう無いし、狼って米は食べられるのかな」
「食べられるわ。私、これでも色々食べてるの」
「じゃあ炊いてくるからおっぱい出して待ってて」
「嫌よ。お米に毛が混じるじゃない」
「えっ」
「あっ」
ある意味、父親よりも禁忌なものを口にしてしまった。
いやまだ誤魔化せる。どう誤魔化そう。
影狼の灰色の脳細胞がぐるぐる渦巻き模様を描いて世界の真理を模索するが、幻想の歌声は無情にも闇へと沈み堕ちて行く。姑息な一番星に縋りつきたい衝動をこらえながらも正しき偽装手段こそ虚空に輝けるが如くに。なればこそ信じよう、お月様の導きにより時代を切り拓けるはずだと。
「この時期抜け毛が多くてね、胸なんか揺すったら前髪がはらはらと――」
「よっと」
着物の胸元をぐいっと引っ張られ、妹紅が身を乗り出して覗き見る。
間違った"えのころ飯"を作れそうなほど豊満に育ち、もち米よりももちもちした白いふくらみをばっちり観察されてしまう。
相反する色が故に目立つ、闇に溶けるような黒も。
「うーん、確かに毛が混ざっちゃうか」
「あ……ああっ、あッ……!」
「仕方ない、普通に握ろう」
「アォオーンッ!!」
妹紅が死ぬたび飛び散った血も消えるので掃除の手間がかからず便利だという豆知識を、影狼は覚えた。
本当にもう、どういう理屈の不死なのだか。
仙人や天人さえ裸足で逃げ出す不死っぷりかもしれない。
●
その日、月が昇る頃。
影狼は妹紅と布団を並べていた。
なんだかんだで米だけのわびしい食事をしつつ、幻想郷や竹林の事情などについて色々話を聞いたり、夕飯を集めに竹林を歩いたり、喧嘩して何度か気軽に惨殺したり、こっちは張り倒されたり火傷しかけたり、髪を触らせてやったり触らせてもらったり。
両親のことを訊ねられたり。答えたり答えなかったり。
両親のことを訊ねたり。生い立ちを訊ねたり。不死の秘密を訊ねたり。結局、妹紅はろくに自分の素性を語らなかった。健康を心がける焼き鳥屋だのなんだのと誤魔化すだけ。
そうこうしているうちに夜が更けて、妹紅が竹林を案内するのを面倒がったためお泊りとなった。
相性が悪い――影狼はそう思っていたし、今でもそうだと思っているが、悪くても、ちょっとは仲良くなれた。
だからまったく素性を語らぬ妹紅に不満を感じてしまう。
語れば相手を巻き込むような危険な事情、という訳ではなさそうだ。
だから影狼の生い立ちを聞きたがる癖に自分の生い立ちを語ろうとしないのは、所詮、その程度の相手と思われているからだろうか。出遭って一日ちょっとしか経っておらず、人間と妖怪という差異もあれば当然の話ではある。
あるが、不満だ。
だからほら、やっぱり相性が悪いのだ。
隣からの静かな寝息と、外からの虫の音を子守唄にしながらも眠れないのは、そんなつまらないことを考えているせいだと影狼は自覚している。考えごとをせずぼんやりしている方が眠れる性質なのだ。それでもあれこれ考えてしまうのは、幻想郷に来てからもっとも充実した一日だったからか。
充実? 酷い目にも遭ったのに?
自嘲してまぶたを閉じる。ああ、考えごとが途切れそうだ。このまま寝よう。
「うぇ……」
ところが隣から妙な呻きが聞こえ、閉じたばかりのまぶたを開けて視線を向ける。
窓も閉めているので月明かりすら無いこの部屋では寝顔を確かめることはできないが、呼吸音からこちらを向いているのが分かる。鋭敏な嗅覚は涙のそれを捉えた。
「父上……」
妹紅が呟く。
「私いらない子なんかじゃないよぉ、父上……」
寝言、か。
あれだけ生い立ちを語るまいとしていた妹紅が、影狼の両親話をやけに聞きたがった理由。
「あなたも、お父さんを求めていたのね」
影狼は父を得ることはできなかったが、愛されていた。
妹紅は父を得られなかったのだろう、愛されていたのかさえ定かではない。
いたのかいなかったのか勝手な想像をさせてもらえば、いなかったのだろう。間違っているかもしれないが、親に捨てられた子犬のような声を聞いてしまえばそう思ってしまう。
「まだまだ、子供だな……」
爪で傷つけないよう指を曲げ、指の関節で妹紅の目元を拭ってやる。
冷たく濡れ、哀しく香る。
●
目が覚めて朝の空気を吸いに外へ出ると、青々と輝く竹林の息吹が身体の隅々まで澄み渡り、世界の"彩"がまったく違って見えた。
まるで生まれ変わったみたい。
長年溜まっていた父への想いを他者に話したためか。力や髪の美しさで天狗になっていた鼻を、妹紅とあの黒髪の姫に出会ったことでへし折られたためか。情けないと見られるかもしれない。でも、気分はいい。
ああそうか。
世界が変わったように感じるのは、世界を見る自分自身が変わったからだ。
竹の葉の合間から射し込む朝日を浴びて、影狼の黒髪が輝いた。
夜を生きる狼女には不釣合いかもしれないと自嘲する。姫には遠く及ばない。思い出の中の母にも。
艶やかな黒髪をよく自慢して、他者を不愉快にしたことも多々あったが、これからはしないだろう。自慢ですら無くなるかもしれない。父も母も喪ったハグレにとって、最後の心の拠り所だったというのに。これからの人生を惨めに感じてしまうかもしれない。
そう考えると、ああ、輝きを増していたはずの世界がわずかにくすんで見えてきた。
新しい自分、新しい世界は、一時の幻だったようだ。
「おはよう」
そう時間は経っていないと思う。
振り返れば戸口に妹紅が立っており、目を細めて影狼の輝いていた黒髪を見ていた。
どう反応したものか。
「おはよう」
と返して、誤魔化すように自身の髪を指にくるくると巻く。なにをやっているんだと自分でも呆れた。
「朝ご飯食べたら、外まで案内するよ」
たいして気にも留めず妹紅は言い、粗末な家へ戻った。
影狼はうんと背筋を伸ばし、軽い眩暈を起こしてから妹紅の後に続く。もちろんと言うべきか、侘しい朝餉だった。
腹をふくらませてお茶をすすり一服してから、二人は家を出て竹林の外へ向かう。
影狼は景色や臭いに気を配ってみたが、やはりどこをどう歩いているのかちっとも分からない。妹紅は散歩でもしているかのように自然な動きだ。日ごとに変化するとさえ言われている竹林なのに、なにかに気を配っている様子はまるで無い。七不思議を聞いてすぐどこのことか分かるようによっぽど慣れ親しんでいるのだろう。
人間も長生きすれば妖怪より妖怪じみたイキモノになるんだなとしみじみ感じたが、言ったら怒りそう。
なんとなく黙って歩いていたが、構われるのが嫌いな構いたがりの妹紅が我慢の限界を迎えたのか、影狼には迷うからするなと禁じた余所見をしながら話しかけてきた。
「影狼ってさ、髪の手入れ、気遣ってる?」
「……まあ、毛繕いは念入りにしてるけど」
「なんて言うかさ、前に褒めた時は喧嘩になっちゃったけど、改めて綺麗だなって思ったよ」
「お姫様と比べても?」
分かっている答えを、あえて訊ねる。
自虐にも似た行為だが、劣っているなら劣っていると他者からも太鼓判を押された方が潔い。
「ん……今、お日様の下で見た時……」
やっぱり見ていた、比べてもいたのか。
はっきり言えよと視線を強くする。
「こっちじゃないなって」
分かっている答えは、分からない答えで返ってきた。
影狼はちょっと苛立ちながら、ここでまた喧嘩しては話が進まないと自重を心がけた。
「どういう意味?」
「ああ、その、影狼の髪は、夜に見る方が綺麗だなって」
「……夜に?」
「お日様は眩しすぎて、せっかくの深い黒を損なわせてるんじゃないかな。月と星の頼りない光が丁度いい塩梅さ。あいつとの殺し合いで巻き添えになった影狼を家まで運んだ時、その黒髪が、闇に溶けるように見えて……すごく綺麗だった」
「……お世辞はよしてよ」
不機嫌を隠さずしかめっ面を返すと、妹紅は意外そうな顔を返した。
もしかして本気で褒めていたのか。影狼も意外そうな顔を作る。
「でも……だって妹紅、あのお姫様とはいつも殺し合ってるんでしょう?」
「ああ、うん? し合ってるけど?」
「し合ってるなら、ほら、七不思議でさ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払うとかっていうの、本当に本当だったじゃない。夜の空をものともせず、黒く輝いていて……本当に美しいっていうのがどういうものか思い知らされたから、私とは違うなって。妹紅はそう思わなかったの?」
「……ん、と。同じ黒髪同士だけどさ、闇を払って輝く髪と、闇に溶ける髪とじゃ、方向性が違くない?」
「方向性?」
影狼は首を傾げる。
「えーと、ほら、同じ赤でも、花と炎とじゃ全然違うでしょ? あいつの髪を鋼や宝石の黒だとしたら、影狼のは夜の闇の黒だよ。どっちも違ったよさがあるし、無理に比べなくてもいいんじゃない? 私は、影狼の髪も好き――って、影狼? ちょっと、どうしたの」
妹紅が慌てたので、頬を伝う冷たさに気づいた。
「あれ、なんで……」
指で拭う。
昨夜、妹紅のそれを拭ったように。
それでも涙は止まらない。
『お前の闇に溶けるような黒髪は俺の自慢だ』
父の言葉が蘇る。
『本当に美しい。まるで――』
ぎゅっとまぶたを閉じると、両親がそろっていた時の光景が昨日の出来事のようにまぶたに浮かんだ。
父に寄り添う母の、長く美しい、闇に溶けるような。
「母さんの」
姫の髪の美しさに打ちのめされて否定したのは、影狼の髪であり、亡き母の髪であった。
父は影狼の髪を褒める時、いつも母を引き合いに出していた。
母が生きていた頃は、それを嬉しく思った。
母が死んだ後は、それを疎ましく思った。
自分は母の代用品でしかないのか。父は自分に母の面影を見ているだけではないのか。
ああ、今度こそ、世界の"彩"が変わった。
生命力に満ち溢れた竹の息吹を浴びて、影狼の髪が闇のように揺らぐ。
影狼がなぜ泣いているのか分からず、妹紅はただおろおろするばかりだった。
泣き止んだ影狼は頑として理由を話そうとせず、妹紅を置いて先へ進もうとしたものだから、またもや迷いそうになってしまった。妹紅は気を遣いながら案内を続けてくれてついに竹林の出口へとたどり着く。
ああ、原っぱが広がっていて、草木もあちこちにあり、遠くには山々が見える。
目を凝らせば遠くの空を妖精や妖怪がちらほら飛んでいる。
まさに幻想郷だ。
迷いの竹林は隔離された別世界だったのではと思えてしまうほどに幻想郷だ。
うんと背伸びをすると今度は眩暈が起きず、ただただ清々しさがあった。
これで迷いの竹林ともおさらばだ。
人生を変える出来事があったのに加え、妹紅の話を聞く限り迷いさえしなければかなり居心地のいい土地のようなので、なんだかんだで名残惜しい気持ちがある。
影狼は幻想郷を見て回って今後どう暮らしていくか考えている最中なのだが、他にいい場所が無ければ竹林を住処とするのも悪くないかもしれない。
「ねえ妹紅。よかったらまた、あなたの家にお邪魔していいかしら?」
「ああ、いや……」
困ったように妹紅は目を伏せる。
意外な反応だった。友情が芽生えつつあるというのは影狼の思い違いだったのか。
「案内くらいならいいんだけどさ。あまり、私を頼られても困る。泊めたのも、こっちに非があったからだし……」
「そ……うだったの?」
妹紅は視線を合わせようとしない。それでも視界の端で少しは見えているはずだ。影狼が今どんな表情をしているのか。
淡く抱いていた期待が、崩れていく。
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
「勘違いしないで欲しいんだけど、影狼が嫌いとか迷惑っていうんじゃないよ。幻想郷はそういう場所ってだけ」
「なにそれ。どういう意味」
「本来、人間と妖怪が親しくするのはよくない。私は人間……人間で、影狼は妖怪。人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を襲わなきゃいけない。それを崩しすぎると、妖怪は存在意義を失って弱くなる。そう、弱くなってる……昔に比べ、幻想郷の妖怪達は」
「……それで、なんだ」
幻想郷にやって来た影狼が、他の妖怪を見て牙が抜けていると感じ、自分はそいつらとは違うと驕り高ぶってしまったのは。
「私も孤独な人生を送ってきたけど、幻想郷に来て、寿命を気にせずつき合える妖怪の友達ができたこともあった」
竹林を見て、想い馳せながら妹紅は言う。
「でも次第にそいつが、力を失ってきて……その頃はまだ博麗大結界を張ったばかりで時勢が安定していなくて、妖怪を退治しようって人間もいたし、妖怪同士で争うこともあったから、このままじゃいつか大変な目に遭うんじゃないかって思って、私は、竹林の奥深くに一人で暮らすようになった」
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
ついさっき影狼が思ったばかりのことを、妹紅はとっくの昔に経験していたのか。
「でも今は違うんでしょう?」
影狼は幻想郷の現状を多少なりとも学んでいる。
「人間と妖怪はもちろん、妖怪同士でさえ滅多に争わないって。だったら力が弱まったって……」
「力を保っている連中もいる。私やあいつのように」
不死ゆえに気安く殺し合える妹紅の言葉には説得力があった。
事実、妹紅には他の妖怪には無い殺意というものを感じられた。危険な存在とはっきり言える。
あの姫も同様だ。三大勢力とやらの一角ならば、姫の仲間も力を蓄えて竹林に潜んでいる?
「かといって、力を取り戻そうと気軽に争う訳にもいかない。集まりに集まった幻想郷の妖怪達が下手に争いを起こしたら、妖怪が力を取り戻すより先に幻想郷が壊滅してしまう」
「でも、妹紅とお姫様は……」
「私とあいつは竹林の奥深くでひっそりとやってるし、妖怪を滅する術や不死の肉体があっても、破壊する力に突出してる訳じゃない」
妹紅はようやく、影狼の目を見た。
今にも泣きそうな瞳に、今にも泣きそうな瞳が映っている。
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
二人はきっと、同じ気持ちを抱いている。
けれど幻想郷はそれを許してくれない。
「だから……駄目なんだ。人間にとって益になる妖怪や、半人……半獣くらいならともかく、人間に害を成す狼女が人間と仲良くしてちゃあ、いつか、不幸になるよ。だから」
影狼は一歩踏み出した。
言葉をさえぎるよう、足音を大きく立てて。
狙い通り妹紅は黙る。
影狼が踏み出したのは竹林の反対側で、妹紅からはそっぽを向く形となっていた。
「とりあえず次は、霧の湖に行ってみようかなって思ってる。水が綺麗らしいし、居心地のいい場所を探して、しばらく幻想郷をさすらってみて」
言葉が多くなる。
本当に言いたいことを誤魔化すために。
「でも竹林って居心地よさそうだし、迷いさえしなければって思うから、その時は、案内くらい頼んでいいのよね?」
「あっ……ああ、もちろんっ。それくらいならお安い御用さ」
それくらいなら、いいはずだ。
妹紅の声も喜色を帯びているし、こちらが力を失うほどの関わりは持たずにすむはずだ。
友達にはなれなくても、知人にはなれるはずだ。
「いつか……」
でも、願わずにはいられない。
「いつか、そういうのを気にせずいられる幻想郷になるといいね」
そう言って、影狼は駆け出した。
狼女の俊足によって景色が後ろへと流れていく。
妹紅がなにか返事をしていたかもしれないが、これ以上話していたらまた泣いてしまう。
これからどうしようか。
とりあえず、水が綺麗で景色がいいと聞いた霧の湖にでも向かってみようと影狼は決めた。
そして……時は流れて……。
●
「満月の夜にやってくるとはいい度胸だ。あの人間には指一本触れさせない!」
「ひえー通り魔だー!?」
その出遭いはあまりにも唐突で。
「って誰このぶべらっ!?」
牛にも似た一対の角を生やした白髪の女性が、影狼の目の前で盛大にすっ転んだ。
満月の竹林にてとても痛そうな光景が展開され困惑してしまったが、よくよく見ると彼女はさらに痛そうな姿をしていた。
緑の洋服はところどころ破れたり焼けたりしているし、腕には切り傷があったり、長い白髪にはなぜかナイフが一本絡まっている。どういう事態に遭えばこんな状態になるのか。転ぶ前から満身創痍だ。
「あの……えっと、大丈夫?」
影狼は手を差し伸べたが、彼女は自分で立ち上がる。
「むううっ……だ、大丈夫だ。妖怪の手は借りん」
「あなたも妖怪でしょ? 獣臭いし……って、あまり臭わないわね」
「私は人間だ。……半分だが」
鼻をさすりながら言う彼女からは、確かに人間の臭いもした。
人と獣の臭いを併せ持つ者。もしやこいつは。
「なんだ半端者か」
「半人半獣と言ってもらおうか。それに私はワーハクタクだが、元々人間で心も人間のままだ」
「だから半端者なのよ」
「なんだと!?」
煽っておいてなんだが、妙なのに引っかかってしまったなと影狼は嘆息する。
そもそもは突然襲いかかってきた半獣が悪いのだし。
「ん……?」
ふいに、脳裏を紅白衣装の人間がよぎった。
こんなような出遭いをした人間が昔いて、人間の癖に妖怪より長生きしているもんだから何度かお世話になったことがある。
竹林を迷わず歩けるようになったのも半分はそいつのおかげだ。
いや、三分の一くらいかな。
四分の一くらいかもしれない。教えるのが下手すぎて自分でがんばったから。
最後に会ったのは何十年前だったか。
「うぉ~い慧音、生きてるかぁ?」
そうそう、こんな声をした人間だった。
などと思い出に浸っていると、思い出の中から飛び出して来たかのような紅白衣装の白髪少女が竹藪の中から現れた。
こちらも半獣に負けず劣らずのボロボロ姿で服があちこち破けて埃まみれになっており、長い白髪にはナイフが二本も絡まっていた。最近のトレンドなのか?
というか、思い出の人物にしては存在感がありすぎる。
というか。
「ん……? あれ、もしかして影狼?」
本人だった。
相変わらず白い上着に紅の指貫袴という装いだが、今はサスペンダーまで加わっているし、二の腕には用途不明のベルトが巻かれていてオシャレだ。
こちらも着物と女袴ではなく、黒いスカーフで襟元を覆い、花札の『芒に月』をイメージした紅白のドレスを着用ている。裾は当然ながら黒で満月の夜でも体毛をカモフラージュできる。
衣装の西洋化がお互い進んでいた。これも時代の流れか。
そんな小さな変化を実感しつつ、影狼はにこやかに笑う。
「あら、妹紅じゃない。久し振り」
「おひさ」
互いに挨拶すると、慧音と呼ばれた半獣はきょとんとして目を丸くする。
「あ、あれ? この妖怪とは知り合いか?」
「あー、まー、昔、通り魔のような出遭いをしたというか」
「通り魔!? やはり危険な妖怪なのだな。妹紅には指一本触れさせんぞ!」
両腕をガバッと広げ、大の字になって妹紅との間に立ちふさがる慧音。
通り魔してきたのは妹紅の方なのだが、聞く耳を持たないカチカチ頭に見える。
「どうどう、落ち着いて慧音」
今にも飛びかかりそうな半獣を羽交い絞めにしてくれた妹紅は、喜色に満ち満ちた困り顔を浮かべていた。
本当に困っているのかと疑いたくなるほど幸せそうだ。
いや絶対困ってないだろこいつ。
「通り魔、通り魔って、あなた達の方こそ通り魔でしょ。竹林を歩いてるだけの私を何度襲えば気がすむのよ」
「……? お前とは初対面のはずだが」
「あー、慧音、いいからここは任せて」
噛み合わない半獣をどかして妹紅が前に出る。
「まさかこんな夜に会うとはね。竹林にはどうして?」
「ほら、先月の永夜異変……あれ以来、月の力が竹林に多く降り注ぐようになったみたいなの。それで、せっかくだし引っ越してみようかなーなんて」
「また永夜異変絡みか……どんだけ迷惑かければ気がすむのよあいつは!」
妹紅は握った拳をメラメラと燃やした。この怒りっぷり、あのお姫様が永夜異変に関係しているのだろうか? もしかしたら異変の犯人?
慧音とやらも事情を把握しているらしく、不機嫌そうに口をきつく結んでいる。
ボロボロの身体なのに闘志の萎えない人間達だ。
「ところであなた達、二人そろってボロ雑巾になってるけど、なにかあった?」
「巫女に襲われた」
短く妹紅が答える。
巫女って、幻想郷で巫女と言えば博麗の巫女しかいない。
スペルカードルールを制定し、紅霧異変や春雪異変を解決し、妖怪と見れば見境無く襲いかかるという、あの巫女か。
だが半獣の慧音はともかく、妹紅は一応人間に分類される。人間離れしすぎているから勘違いされたのかもしれない。納得。
「魔法使いにも襲われた」
「……えっ?」
「メイドにも襲われて」
「……ええっ?」
「辻斬りにも襲われたの」
「……ええーっ!?」
どう納得すればいいのか分からないほど混沌とした状況だった。
慧音が襲いかかって来た時の言葉を思い出せば、そいつらのターゲットは妹紅だったのか? あの人間には指一本触れさせないとか言っていたはずだし。
「いったいなにがあったのよ妹紅!?」
「肝試しがあったっぽい」
「肝試しでどうしてこうなるの!? 怖いわー」
あまりに意味不明すぎて影狼は恐怖した、振りをした。
だって、今の幻想郷にはスペルカードルールがあるんだもの。
いつかの妹紅とお姫様のように、誰もが気軽に本気で戦える幻想郷なんだもの。
だからきっとそういうことなのだろう。
引っ越し先に選んだ迷いの竹林の治安が著しく悪化したとか、通り魔や肝試しが盛んに行われるデンジャラススポットに変貌しているなんてことはない。と願いたい。
住み心地がなかなかいいのに加え、月の気まで満ちた竹林は影狼にとって理想郷にも等しいのだから。
それに、竹林を住居としなかった理由のひとつもスペルカードルールのおかげで解消されている。
「そうだ! ねえ、せっかく久し振りに再会したんだし、私と弾幕ごっこしない?」
「お前、この状態の私に挑む気か」
ズタボロの妹紅はうんざりした口調だったが、影狼は飛び切りの笑顔で返す。
「一度死ねばスッキリするでしょ? とりあえず一発逝っとく?」
「やめんか!」
拒絶したのは慧音だった。
しかも思い切り頭を振り上げたかと思うと、影狼の額に痛烈な頭突きをお見舞いしてきた。
目頭から火花が散って、視界が真っ白に染まる。あれ? 今、夜だったよね?
うずくまって呻いていると、頭上で妹紅と慧音が言い合っていた。
「やりすぎだよ」
「人狼は危険な妖怪だ。人を騙す。信用ならん」
「顔見知りだから大丈夫だって」
「殺そうとしてきたばかりじゃないか」
「私の命なんて安いもんだしなー」
「安くない! 死んでも生き返るからって、命を粗末にしていい理由にはならない。そんな生き方をしていてはいつか命の大切さを忘れ、他者への優しさも忘れてしまうだろう」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではない。いいか妹紅、そもそも人という字は――」
「ここは寺子屋じゃないし、私は生徒でもないんだから、そんな話はやめてよ」
「いいややめない。どこであろうと誰であろうと私は教師として清く正しくあらねばならない。いいか、人という字は互いに支え合っていてだな、人は一人では生きていけないと漢字を考えた古人も重々理解しており――」
視界が戻ってきたので見上げてみると、口論は説教になっており、慧音がガミガミ口うるさく雑音を撒き散らしていた。
妹紅はうんざりした様子だが、なんだか、その姿には安心できるものがあった。
そういえば妹紅が言っていたっけ。
『人間にとって益になる妖怪や、半人……半獣くらいならともかく』
この半獣、半分は人間で、心も人間寄り。
また、会話から察するに寺子屋で教師をしている。
草の根妖怪ネットワークで妖怪の寺子屋や半獣の教師なんて聞いたことがない。
じゃあ、半分人間だし、人里で寺子屋を開いているのか。
人の益になる存在……なのだろう。
『人間に害を成す狼女が人間と仲良くしてちゃあ』
友達が、できたのか。
不老不死の人間にも。
「ひぃ~、もう勘弁してよぉ」
「まったく。今日は疲れているし、これくらいにしておいてやろう」
でもこれじゃ友達っていうより、悪ガキとお母さんみたいだ。
影狼の母親とは全然似てないけれど、こんな親も悪くないなと思う。
親を求めて迷子になっていた子供が、ようやく親を手に入れたのか。
父親じゃなく母親だけれど、そこは些細な問題。
すでに両親への想いに決着をつけた影狼と違い、妹紅の親への複雑な感情の決着はまだまだ時間がかかりそうだ。でも、慧音がいればきっと乗り越えられるだろう。
「やれやれ。妹紅ったら私より長生きしてる癖に、まだまだ子供なんだから」
「なんだとーう?」
思わず口に出してしまった言葉は妹紅の癪に障ったらしく、精神的にも物理的にも熱気を放って白い長髪を揺らめかせている。
挑発に乗りやすくなったな。これもスペルカードルール制定の影響か。
「こうなったら出血大サービスだ。影狼、再会を祝して退治してやる」
「ええーっ? こんなボロ負けした後の妹紅をイジメるなんて可哀想だわー」
「即リザレクション!」
突然妹紅が爆発し、髪に絡まっていた二本のナイフが地面に落ちて刺さる。
静かな月の光が荒々しい焔によって塗り替えられ、それが収まるとすべての負傷が消え去った妹紅が立っていた。
リザレクションって、わざわざ名づけたのか。
白いブラウスと紅い指貫袴からはもちろん損傷が消えている。どういう仕組みなのかは気にしないでおこう。
「妹紅、やけっぱちになるな。筋肉痛がつらくなる」
推定お母さんポジションの慧音が心配がるも、推定悪ガキポジションの妹紅は気にも留めない。
すっかり戦闘準備完了のようで参ってしまうが、影狼とて幻想郷に生きる少女、弾幕ごっこは嗜んでいる。先日も霧の湖にて人魚の友人と一戦交えたばかりだ。とても楽しかった。
けれど考えてみれば人間と戦うのは今回が初めて。
「いいわ、相手になる。妖怪の恐ろしさって奴を叩き込んで上げるわ」
「こちとら、妖怪退治の専門家だった時期が三百年ほどあってね。あなたみたいな若造には負けないわ」
「なにが若造よ。"乳離れ"できてない子供の癖に」
「"父離れ"……? お前が言うかそれを!」
なぜか急に怒気がふくれ上がった。
慧音との関係を茶化されたから?
いやしかし、お母さんポジションに見えるとは口にしていないはずだが。
「私はとっくに"乳離れ"してるけど?」
「メソメソしてた癖に生意気な」
「覚えてないわ」
恥ずかしいことをわざわざ思い出させてくれるとは、本気でかかって来いと挑発しているのか。
ならばこちらも挑発を返すのが幻想郷スタイル。
「だいたい、さっき博麗の巫女にやられたって言ってたでしょう? 妖怪退治の専門家の代表みたいなもんじゃない。それに負けた妹紅なんて、元専門家のロートルよ」
「言ったなこいつ。自慢の闇に溶ける黒髪を黒コゲにしてやる!!」
「い、言ったわね!? 言ってはならないことを!」
影狼は全身の毛を逆立たせた。
満月の影響で少々毛深くなっているため、服がちょっぴり盛り上がる。
「毎日毎日入念にお手入れしている、私のキューティクルをどうするですって!?」
「なぁにがキューティクルだ! 闇に溶けて全然見えないわー髪の毛どこ? あ、満月の時期は抜け毛多いもんな。ハゲたのね」
「ガルルー! もう許さない、紅蓮の華を咲かしてやるわ!」
妹紅が紅蓮の翼を咲かせて飛び上がったので、影狼も妖力を込めて飛び上がった。
下の方で慧音が騒いでいるが、もはや止められないと分かっているのか手は出してこない。
竹のざわめきをBGMに、溶けるような夜空の中、真円を描いて静かに狼と不死鳥を照らす銀月の下で。
「狼の牙は不死鳥にゃ届かぬ。ホームグラウンドの竹林で闘おうなんて身の程知らずを悔やむがいいわ」
「そうよ、今や竹林は月に祝福された地。ここで私と闘うなんて気の毒だわ……」
彼女達は今日も生きる。
生を充実させるために闘う。
子供のように笑いながら。
子供のように胸を躍らせながら。
夜を彩るスペルカードを披露する。
「死を知らない私は闇を超越する。小宵の弾は、お嬢ちゃんのトラウマになるよ!」
「この月に祝福されたこの地で闘う不幸を悔やむがいい!」
引っ越し早々、ご苦労なことだ。
過激な肝試しの後だというのに、ご苦労なことだ。
でも手加減はしない。久し振りに気兼ね無く、友達と遊べるのだから。
この出遭いは、いつかの日を夢見て別れた時からずっと、待ち望んでいたものだから。
THE END
「ひえー通り魔だー!?」
その出遭いはあまりにも唐突で。
「って誰このずぎゃぎゃぎゃぎゃあぁぁぁ!?」
燃えるように真っ赤な通り魔は、こちらの目の前に飛び出したかと思うや、振り上げた拳を振り上げたまま身体を思い切り捻って地面に突っ伏した。竹林の地面へ痛烈に顔面を叩きつけたにも関わらず勢いは止まることはなく、ガリガリと地面を削ってそれなりに長い溝を掘った。挙句、首を支点にしてぐるりと胴体を回転させ、仰向けになって地面に倒れてようやく停止した。
きょとんとして、その通り魔を見やる。月と星以外に明かりの無い夜ではあるが、夜の眷属であるため正確にその姿を確かめることができた。
目を回して転がっているのは、真っ白な髪を伸ばした少女の姿をしていた。白い洋服に赤の指貫袴という和洋折衷紅白衣装。おや? 先ほど襲われた時、全身真っ赤な妖怪に見えたのだけれど、半分は白じゃないか。顔は地面削りの影響で真っ赤なのはご愛嬌。
なにこいつ。
鼻を近づけてくんくんと嗅いでみれば、これまた随分と人間臭い。もしかして人間?
いやいや、ここがどこか思い返してみなよ。
ここは幻想郷の中でも悪名高い迷いの竹林じゃないか。
人間なら端っこまでしか入ってこない。
外来人ならその限りじゃないけれど、この奇天烈な格好はそれっぽくない。白い髪には札のようなものが大量に結ばれているし妖術の心得もありそうだもの。
だからこいつは多分、人間を食べたばかりの妖怪だろう。
今宵は楽しい満月だし、昂ぶる妖怪も大勢いる。
それにしても、なぜこいつは突然襲ってきて、自爆なんかしちゃってるんだろう?
悪い奴か。
ともかく気絶している今が好機。
「えいっ」
驚かせた罰として踏んでやる。
げしげしと踏む彼女の着物からかすかに覗く足は、女性らしからぬ毛深さだった。
また、通り魔がやけに人間臭いのであれば、襲われた彼女はちょっぴり獣臭かった。
人間臭い奴と獣臭い奴はこうして出遭った。
その出遭いはあまりにも唐突で。
その出遭いはあまりにも可笑しくて。
冷静になって振り返ってみる。
多分こいつは、人違いをしたのだろう。
襲ってきた時の言葉をちゃんと覚えている訳ではないが、かろうじてそんな風だった気がする。
ならばこいつが目覚めても再び襲われる心配は無いし、また間違えられないよう確認しておいた方がいい。
憂さ晴らしに踏みつけたことだし、通り魔の襟首を引っ張り起こし、頬をいっぱい叩いてやる。
なかなか叩き心地のいい頬で、次第に目的を忘れ夢中になってビッタンバッタン叩いてしまう。
力もだんだんこもってきて、人間ならざる力と速さでゴキンッ!
……頬を叩くのとは違う音がしてしまった。
あ、やばい。一瞬そう思ったが、妖怪なら首が折れたくらい、しばらくすれば治るだろう。平気平気。言い訳完了。
治るのに時間かかりそうだし当初の目的の誰と人違いしたのかの確認はまた今度ということで、おさらばさせてもらおう。
己の聡明さに感心しつつ、通り魔に背を向けて歩き出す。これでもう二度と会うことが無ければ平和でよい。
そして、またしても突然だった。
山火事でも起きたのかと思うほどの熱風が巻き起こり、彼女の自慢の黒髪を乱暴に撫でつける。
一瞬、月夜が紅く照らされたようにも見えた。
チリチリとする熱の正体を見ようと振り返ってみれば、そこには火の気などまったく無く、代わりに通り魔の紅白衣装が立ち上がっていた。首に手を当て、コキコキと骨を鳴らしている。
「あー死ぬかと思った」
なにこいつ。
幻想郷の妖怪は不死性が高く、肉体がバラバラになっても時間をかければ復活できるものだ。正しい退治方法や、存在を消滅させるレベルの大きな力でもぶつけられない限り。
さて、自分は先ほど、こいつの首を折った。不幸な事故だ。顔面削りで気絶する程度の奴が、首を折られてすぐ復活する? 意味が分からない。こいつはなんの妖怪だ。
「あっ、さっきの。ごめん、いきなり殺そうとしちゃって。怪我無い?」
「無いけど」
答えながら、先ほどの熱風も気になって自身の身体を見下ろしてみる。
愛用の白い着物には汚れも焦げも無い。手足の裾が黒いのは元からだし、黒くなくっちゃ体毛を隠しにくい。
胸から下の女袴は欧化主義の影響を受けたもので、外では女学生の制服としてよく使われている。それを拝借して知り合いの妖怪に染め直してもらったものを着用している。これもまた汚れは無い紅白の女袴だ。赤にかかる白がまるで月のように丸く描かれており、裾だけ黒色となっているのも相まって、花札の『芒に月』を連想させる。単純かつ鮮やかな姿である。
真っ赤な鋭い爪で、自慢の黒髪をすく。
熱風のせいで少し乱れたけれど、うん、綺麗なままだ。
その黒髪を、紅白衣装はじっと見ていた。
ぎくりとして頭から生える耳を立たせてしまう。
「狼女か」
紅白少女は、彼女の正体を言い当てた。
赤い瞳で睨み返すと、紅白衣装もまた赤い瞳で見つめ返してくる。
「ええ、そう。私は狼女。あなたはなんの妖怪?」
「んんっ? いや、火の鳥の人間だけど」
「そう、火の鳥の妖怪なのね」
「いや、人間」
「えっ?」
そういえばこいつ、やたら人間臭かった。人間を食べたばかりの妖怪だと思っていたけれど、妙だ、妖怪臭さが全然感じられない。妖怪じゃ……ない?
すらりとした鼻をくんくん鳴らしてみる。
物の怪らしからぬ臭い。とても新鮮な人間の臭いだ。
「って、ええっ! 人間!?」
狼女は狼狽した。外の世界から姿を消しつつある同胞に思いを馳せながら後ずさり、マタギとの攻防が脳裏に蘇る。だがここは幻想郷。こんな竹林の奥までやってくる人間となれば妖怪退治の専門家か。首を折った時、念入りに殺しておけばよかった。
両手の爪を鋭くさせ、狼女の彼女は服の下の毛を逆立たせる。
白い牙を剥いて血肉の味を思い出す。
「私を退治しにきたのね? 妖怪退治の専門家だからって、誇り高き狼女の私にかなうはずもない。よりにもよってこんな満月の夜にね!」
「えっ?」
紅白衣装は首を傾げる。
そんなことまったく思ってもみなかった、とでも言うようにだ。
臨戦態勢に入ったというのに、これでは拍子抜け。
「違うの?」
「うん? なんで妖怪退治しなくちゃいけないの?」
「だって……人間でしょ?」
「だって……キリが無いじゃん。幻想郷だもの、どこもかしこも妖怪だらけでしょ? いちいち相手にしてられないわ」
なにこいつなにこいつ。
狼女はますます狼狽してしまう。どう扱えばいいのだこの紅白人間。
臨戦態勢を取ったままでいると、紅白人間は突然ペコリと頭を下げた。
「それより、さっきはごめん。その綺麗な黒髪を見て人違いしちゃったのよ」
「あ、そ、そうなの」
「次からは気をつけるからさ、勘弁してくれないかな」
「まあ、そういうことならそういうことでいいんだけど」
「いやあ、話の分かる妖怪でよかった。襲われたらどうしようか不安だったわ」
「襲ってきたのはあなたでしょ? 怖いわー、人間怖いわー」
「だから人違いだってば、ごめん。無駄な戦いも悪くないけど今はなんか頬と首が痛いし」
「そういえばなんで無事なの?」
「地面に突っ込んだくらいじゃ死なないよ」
「その後頬ぶっ叩いて首折ったんだけど、すぐ復活したし」
「ああそれでなんだ頬と首が痛いのなんだなんだそうだったのかなんだとこの獣ッ!!」
紅白人間の足元が爆発したかと思うや、その五体が弾丸のように飛んできた。
ギョッとして反射的に飛びのこうとするも、紅白人間は空中でくるりと回転して遠心力をたっぷり乗せた足で蹴り上げてくる。三日月を描くような鋭い一撃が顎に真下から叩き込まれ、脳天まで衝撃が突き抜ける。目頭から火花が散って白熱し、肉体の重さを喪失して宙を漂っていると背中がなにかに打ちつけられる。
まばたきをして、夜空に向かって無数竹が伸びているのが見えた。
人間なんかにやられてしまったのか。
狼女のこの私が。
(まだ、死にたくないな――)
起き上がりたかったが、身体は動いてくれない。
星が、遠のいていく。
●
『げんそうきょう?』
『うむ。俺は群れを連れて、そこに移り住むことにした。どうだ影狼、一緒に来ぬか?』
『ハグレ狼なんか誘って、どういうつもりかしら』
『俺達ニホンオオカミは遠からず滅びる。そういう時勢だ。だが幻想郷なら生きられる。だから誘っている』
『本音は?』
『俺にもしものことがあった時、お前になら群れを任せられるからな。ほれ、この山で狼男なのは"もう"俺とお前だけだし』
『狼女です!』
『細けぇことはいいんだよ。オオカミだけじゃ幻想郷に行くの苦労するだろ、妖怪の力が必要なんだ。道案内とか結界通り抜けとか』
『私はあなたにとって都合のいい女でしかないのね。さみしいわ』
『知るか馬鹿。こんな時くらい黙ってついてこい』
『……私は……』
『太古より続くニホンオオカミの血を絶やしてはならん。生きるぞ』
やめておけばよかった。故郷に残ればよかった。ついて来なければよかった。あんな勝手な奴。
群れはすでに幻想郷の野山で新しい暮らしを始めている。ハグレの自分はやっぱりハグレだ。
だからもう自分の役目も終わっていて、死んで困ることも無いけれど。
幻想郷って、楽しそうなところだなって思いつつあったのに。
ああ、死にたくないな――。
「よーしよしよし。今日は大物が捕れたぞぉ、お腹いっぱい食べられるぅ~。焼くぞぉこんがり焼いちゃうぞぉ。想像しただけでよだれズビッ! いやぁ本当にもう肉づきがよくておいしそうでワクワクしちゃう。新調したこの包丁『鳳凰天舞』の切れ味を見せてもらおうか。ウワーッハハハハハッ」
ああ、死にたく――。
「死んでたまるくぁー!」
ガバッと起き上がると、そこは布団の中だった。
あれ、生きてる。
どこぞの山小屋の中のようで、夜はとっくに明けているようだ。楽しい楽しい満月だったのにもったいない。
人の気配に振り向いてみれば土間で大魚を掲げている紅白人間の姿があった。
向こうも自分が起きたのに気づいて振り返り、にこやかに声をかけてくる。
「ん、おはよう。お昼ご飯食べる?」
「あ、はい、いただきます」
焼き魚をご相伴に預かりつつ、なんだこの状況と頭を悩ませる。
どうやらこの人間に殺されずにすんだようだけれど、自分はこの人間に襲われたと思ったら人違いで謝られたと思ったらやっぱり襲われたような記憶があるのだけれど、頭を打ったのか微妙に曖昧でなんとも言えない。
食後の一服を終えて、馳走の礼を言わねばと背筋を正す。
「申し送れました。私は今泉影狼。此の度はお世話になりました」
「これはこれはご丁寧に。私はンーヨダン・タッダイテヨ・ルデモーチスミ・デ・ドヤオノメズス・ハョシイサと申しません」
「ん、んーよだん、さん、ね? 個性的な名前……さすが幻想郷だわー」
「申しませんってば。ホントは妹紅です。藤原妹紅」
「騙したのね! なんて酷い。人間ってみんなこうなの?」
耳をピーンと立てて怒りをあらわにすると、妹紅はすっかり困り顔。意外と気の弱い奴なのかもしれない。
ちゃんと名乗った礼儀を知る狼女、今泉影狼はグルルと喉を鳴らした。
無礼者は首を掻っ切っても許されると父に教わったし。
「このくらいの冗談、幻想郷じゃ呼吸みたいなものよ? 影狼だっけ、幻想郷来てどれくらいだっけ」
「ひとつき」
「ああ……東の麓で急に狼が増えたっていうの、影狼の仕業?」
生きて幻想郷にたどり着いたのはほんの十数頭なのだけれど、騒ぎになってしまっていたのか。
余所様とあまり交流が無かったので気づかなかったが、影狼はハグレである、これ以上群れの面倒を見る義務は無い。
義理もすでに果たした。家族でも無いのに同族というだけでつき合っていられるか。
「狼の群れ、迷惑になってます?」
「人間にとって? 妖怪にとって?」
「どっちでも」
「別になんとも。人間も妖怪も、自分の住処を荒らされなきゃなんとも思わないよ。荒らしたら狩る。それだけ」
ならいいか。
どうでもよさそうに、けれど小さくうなずく。
「平和と言うか、のん気なのね、幻想郷って」
「そりゃもう。妖怪が人間を襲うことも、人間が妖怪を退治することも、もう全然無くなってきてるし、平和でいい」
襲うこと。
退治すること。
その言葉が影狼の脳髄をかすかに刺激した。
なにか思い出せそうな感覚。
はて、なにを思い出そうとしているのか?
故郷の山でマタギに追われた日々?
ハグレを嫌う群れの狼に吼えられた夜?
人間に襲われたと思ったら自爆されたと思ったらやっぱり襲われた今日この日?
「今日この日よ!」
思い出したので、今泉影狼は高々と跳躍して妹紅の顔面に足の裏をぶち込んだ。
さすが狼女と言うべきか、その威力はすさまじく、妹紅の五体は鞠のように転がっていき、土間の戸を破ってようやく止まった。
土間に自分の靴を見つけると、それを履いて外に出る。空がほとんど見えないほど竹が長々と伸び、葉が生い茂っている中、風景に溶け込むようにこの小さな家があるらしい。こんなところに人間が住んでいる?
よろよろと起き上がろうとする妹紅を、警戒心を強めながらじろりと睨む。
「思い出したわ、よくも私の顎を蹴り飛ばしてくれたわね!」
「ぐぐぐっ……元はと言えばあなたが私の首を折ったからでしょう? 棚に上げて勝手を言う!」
「元の元を言えば人違いで襲ってきた馬鹿人間が全面的に悪いわー、妹紅が悪いわー」
「なんだとこのー! ぶちかましてやる!」
「それはこっちの言葉よ! アオーン!」
同時に飛び掛る二人!
影狼による真紅の鋭い爪による突きと、妹紅による真紅に燃える貫き手が真正面からぶつかり合う。
人間の脆弱な骨肉を貫く確かな手ごたえと同時に、全身の体毛が逆立つほどの熱さに悲鳴を上げる。
「あっつーい!」
思わず手を引っ込めて転げ回っていると、視界の端で妹紅も血まみれの手を押さえて転げ回っていた。
「痛いぃ~! これすごく痛いッ! 手が裂けて指の長さが"倍"になったー!」
もはやお互い戦いどころではない。
熱いの痛いの、子供のように喚き散らすだけという有様。
自慢の髪の毛を土埃まみれにした影狼は、ひぃひぃ泣きながら起き上がる。
「ふ、不毛だからもうやめよう」
「有毛な奴がなに言ってんの」
二人はもう一度転げ回るハメになった。
悪いのはやっぱり藤原妹紅であるはず。
だから自分は精神的優位に立てるはずだった。
正しくあり、こちらが受けたのは痕も残らないだろう小さな火傷で、向こうは両手を串刺しにされたのだから。
しめしめと内心で舌なめずりさえもした。脅してやれば食料なり金目の物なり頂戴できるかもしれない。
幻想郷の人妖は平和ボケしているので鴨にしやすいのだ。あいつの群れの狼を野に放った時も、妖怪の自分が睨みを利かせてやるだけで元からいた動物や妖精なんかはすぐ尻尾を巻いて逃げ出した。自分も平穏に暮らしたいので積極的にことを荒立てる気は無いが、藤原妹紅のように逆恨み体質の手前勝手な下種ならば気兼ねせずにすむというもの。
冷静に考えれば、妹紅は自爆によって人違いの奇襲を阻止したのだし、先に手を出したのは今泉影狼である。
だが都合が悪いので目を背けさせてもらおう。
どっちもどっちである。
などと妖怪らしい思考を経て、まだちょっと痛む指先をさすりながら、藤原妹紅の醜態を確かめるべく振り向いてみる。
そこには傷ひとつない両手を腰に当てている藤原妹紅の姿があった。
影狼はまぶたをしばたかせる。
両手を、狼の爪で貫いたはずである。確かにだ。
ぎりりと奥歯を噛みしめる。これはいったいどういうことか。人間外れした高い再生能力? それとも幻でも見せられてしまったのか。今回のぶつかり合いでどうやら妹紅は炎を操る術を持っているらしいと分かったが、炎だけではないのはもはや疑いようの無い事実。
妖怪退治の専門家なんて外の世界では減っており、また、幻想郷においても数を減らしていると聞いていたが、まだこれほどの使い手がいたとは油断ならない。
無策に戦いを続ける訳にもいかず、以後こいつの煽りは受け流さなくてはと心に留めた。
「ところで影狼」
だがさっそく妹紅は声をかけてくる。どんな無礼を言われても我慢だ我慢。まだ、我慢。
「なに?」
「竹林にはなにしに来たの? ご飯探しくらいならいいけどさ、住むなら最低限、迷わない能力がいるよ」
影狼はうっと押し黙った。
実のところ、ご飯探しのついでに住処を探して竹林を訪れ、すっかり迷ってしまっていたのだ。
自分の臭いをたどれば帰れると気楽に構えていたのに、臭いをたどっても帰れる気配が無く、真っ直ぐ突き抜ければ自然と外に出られるだろうと信じて半刻ほど駆けて挫折した。お腹が空いたので兎でも獲って喰おうと考えたが、見つけた兎はどれもこれも頭がよく小穴や岩陰を利用してすぐに姿をくらましてしまう。臭いを追おうにも小さな場所には入れない。
住み慣れた者にとっては天然の隠れ家であり、侵入者にとっては悪辣な迷宮であると、竹林への道中で出会った妖怪が忠告してくれたのだが、まさかここまでとは思わなかった。
こんなの正直に告げては馬鹿にされるに違いない。
だが意地を張ったところで、帰り道が分からず途方に暮れるのは明らかだ。
巧みに誤魔化し抜かねばニホンオオカミの沽券に関わる。
「私は……私が迷いの竹林に来たのは……そう、竹林七不思議を確かめに来たのよ!」
ビシッと人さし指を立てて言ってのけると、妹紅は感心したようにほほ笑んだ。
好感触。これなら誤魔化せる。
「七不思議かー。それって竹林の中じゃなく外で語られるものだから、中に住んでると意外と知る機会無いのよね」
しかも結構興味を引けたようで。
「ねえ、今の七不思議ってどんなの?」
「えっ? ええーと」
記憶の糸を手繰る影狼。
迷いの竹林に行くなら注意しなさいよと言ってくれたあの黒髪の鴉天狗、七不思議を教えてくれたのも彼女だ。新聞を書いているとかで色々と幻想郷の事情を教えてくれた親切な鴉天狗だった。お礼に狼の群れが幻想入りした件について、自分が連れてきたと話しただけで喜んでくれた扱いやすい妖怪だ。きっと年齢二桁の若輩者に違いない。
「七不思議、其の一! 迷いの竹林には、雀のお宿という秘境があると言う!」
「ほー……雀のお宿、ね」
「そう。そこは幻想郷中の鳥にとって約束された楽園であり、最上級の酒と料理が惜しげもなく振舞われ、万病に効く温泉が湧き出ていると言う。でもそこは住人から絶対の信頼を得た一部の有力者しか入ることができないとされ、その実態は依然謎に包まれている秘境中の秘境。根も葉もない噂によれば幻想郷を司る龍神様もご愛用なされているとか」
「へー、意外と正確に伝わってるのね。そう言えば『自分は鳥類だから雀のお宿に受け入れられるべき』って騒ぐ鴉天狗が集団迷子になった事件とか随分前にあったなー」
「えっ? あなた、雀のお宿について知ってるの?」
「知ってる知ってる。迷いの竹林七不思議ってさ、六十年周期でだいたい新しい内容になるんだけど、お宿の有無は常に七不思議の代表格なのよね」
「そうなの。ねえ妹紅って竹林住まいなんでしょ? どう、雀のお宿って本当にあるの?」
「こんな貧相な人間が、雀のお宿に招かれるような有力者に見えて?」
「それもそうよね……」
「雀のお宿のご令嬢とてんやわんやして、"夜雀に捧ぐ焼き鳥秘話"~みたいな大事件でも無きゃそんなのナイナイ。で、他の七不思議は?」
「えっと、七不思議の其の二は、ナマズの呪詛よ!」
「ナマズ?」
「そう、竹林のどこかにあると言う聖なる蓮池に、邪悪で巨大なナマズが住み着いて、満月の晩になるとおぞましい呪詛を唱えるらしいわ」
「はぁ……呪詛? うん」
「天と地を呪い、地獄から響く呪いの言霊が、雷となって世界を打ち砕き虚無に導くとか、とても恐ろしい企みをしているそうよ」
「そんな怖い七不思議なのか。知り合いの爺さんが、どっかの池の大ナマズと一緒に詩を綴りつつ、目指せ"三月姫の夜想曲"とかのたまってるのとは、きっと無縁だねこりゃ」
「詩? そんなの関係ある訳ないでしょう。詩とは美しいものだもの」
「そうだね、一周回って美しいね。それじゃまあ次の七不思議いってみよー」
「其の三の七不思議。"鬼の口"と呼ばれる穴があり、そこに落ちると恐るべき地底世界まで落ちて、地獄の鬼に喰い殺されてしまうと言うわ」
「鬼ねぇ。随分と前に幻想郷から姿を消して、もう幻想郷ですら忘れ去られた存在だけど、それが地底にいると?」
「所詮は七不思議だから、信憑性は薄いでしょうけれど……天狗の間ではかなり恐れられているそうよ」
「ふーん。そんな穴があったらオムスビでも転がして、中の反応をうかがってみたいもんだ。いや、オムスビじゃもったいないな。生首でも放り込んだ方が面白そうだ」
「なにこの物騒な人間。怖いわー人間怖いわー」
「幻想郷で生首なんて、ちょっと珍しい程度のものよ。人形の頭が地面に転がってるのと同じくらいの価値よ。"人形頭部流転物語"~なんつって。四つ目は?」
「迷いの竹林、七不思議。其の四は忍者の隠れ里伝説!! 今でも幻想郷転覆を目論んでいるとか、雀のお宿から略奪した財宝を貯め込んでいるとか、色んな説があるそうよ」
「ふーん。忍者……か」
「幻想郷屈指の戦闘能力を持つ忍者集団の隠れ里が、妖怪の賢者と大戦争を起こしたという伝説もあるそうよ」
「伝説ってほどのものかしら」
「しかも幻想郷中を巻き込みかねなかったその大戦争を制したのは、当時の博麗の巫女だとか」
「へー、巫女すごーい強ーい」
「最近の巫女はろくに妖怪退治する機会も無くてへなちょこだそうだけど、当時の巫女とは、あの博麗大結界を張った巫女だったと言われているわ。歴代の博麗の巫女でも屈指の実力者に違いないはずよ」
「そうだね。きっと私みたいな半端者じゃ逆立ちしたって勝てない強さなんだろうなー。巫女無双しちゃうんだろうなー」
「七不思議、其の五は竹林を徘徊する高速山姥よ」
「山姥?」
「人間が竹や筍を取りにやって来ると、山姥が人間を獲って喰おうとつけ狙うの。だから人里の人間は山姥対策をしているのだけど、なぜか効果が無くて、山姥じゃなく老婆の幽霊じゃないかとも」
「んんっ? 人間をつけ狙う? ……えーとそいつ、お婆さんなの? 山姥とか老婆とか」
「髪が真っ白で、顔もしわくちゃで、腰が直角に曲がっていながらすごい速度で走るそうよ」
「や、髪は白いけど、他は……えっ? 噂の尾ひれ?」
「あれ? これもしかして妹紅のこと?」
「いや違う絶対違う私の訳がない。だからほら次行こう次」
「七不思議其の六は、永遠に眠ってしまう竹林よ」
「永遠に眠る? なにそれ怠惰の楽園みたいなの」
「竹林のどこかにとても寝心地のいい広場があって、そこに近づくだけで眠気を催し、あまりの心地よさのため永遠に眠ってしまうとか」
「あー……そんな場所あったら竹林の住人も近づかないだろうね」
「実際怖いらしいわ。それは獲物を捕らえるための狡猾な罠で、眠ってる間に魂を地獄へ引きずり込むから永遠に眠ってしまうんだとか」
「おお、怖い怖い。魂を引きずり込むのかー、すごい力だ。気をつけなよ、それっぽい場所には近づかないようにさ。で、最後のひとつは?」
「迷いの竹林の七不思議、其の七は……雀のお宿以上に存在を疑問視されている秘中の秘」
「ほう? なかなか期待できそうな……」
「あらゆる男を虜とする麗しき姫の住まう静寂なる屋敷」
「……あん?」
「竹林で行方不明になった男は、その姫に心奪われて屋敷について行ったのだと言われているわ。姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払うとか」
「……ねーわ。そんな超常現象起こすよーな美人いる訳ねーわ。まったく七不思議史上最悪の七不思議だわ」
七不思議に対する反応はいずれも白々しく、なにか隠しているんだろうなと影狼には察せられた。
呪詛のナマズは実在しそうだし、高速山姥は妹紅の白髪によるものだろう。
そしてどうも、七つ目の七不思議は藤原妹紅にとって相当気に入らないものらしい。
わざわざ薮蛇をつついて出す必要は無いし、妹紅の事情なんかどうでもよく、とっとと打ち切っていいか。
「とまあそんな訳で、ご飯探しのついでに七不思議とやらを解明してやろうかと思って竹林に来たのよ」
「あ、そ」
すでにたっぷり機嫌を損ねてしまっていたらしく、妹紅の態度は素っ気無い。
七不思議への興味もすっかり失せてしまっているらしく、露骨に話題を変えてきた。
「……外まで案内しようか?」
「あら、いいの? いやー、別に迷った訳じゃないけど、道を知ってる人に案内してもらった方が断然いいし、正しい道順を学んだ方が色々と便利だものね。助かるわーありがとう妹紅」
してやったり。
今泉影狼大勝利!
見抜いた上で合わせてくれてるだけかもしれないけど、どうせ竹林でたまたま出遭っただけの関係、後腐れなどいちいち気にするほどの相手でもない。
妹紅は破れた戸を戻すと、さっそく影狼の案内に出てくれた。
行けども行けども代わり映えのしない景色。時々目印になりそうな岩や池もあったが、同じようなものが次々に現れるためますます混乱するだけだ。坂を上ったり降りたりもするし、気がつけば霧が出ていたり、いつの間にか消えていたり。
濃密な竹の臭いで鼻も馬鹿になってきてしまい、適当に歩いているようにしか見えない妹紅の背中がだんだん胡散臭いものに思えてくる。不安にもなってくる。
「ねえ妹紅」
だから声をかけてみた。
「誰と、間違えたの?」
そういえばまだ確認していなかったこと。
最初の出遭いは人違いだったのだ。
「さあ。誰とだろね」
けれど妹紅ははぐらかす。被害者であり加害者でもある影狼には聞く権利があるはずなのだが。
少々カチンときて、七不思議の七つ目を思い出す。
姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払う。
黒く輝く髪が。
こいつの案内も不安になってきたことだし、どうせ今日この日だけの関係、後腐れてやろうか。
「もしかして、竹林のお姫様と間違えたのかしら?」
返事を待つ。肯定するのか否定するのかちょっと楽しみだったから。
けれど妹紅は答えない。だんまりか。またもやカチンときた。
「フフッ。お姫様と間違われるだなんて、私の美しさの前では月さえ輝きを失うわ」
月を信仰する狼女として、これは言いすぎだとすぐさま後悔した。
次の十五夜にはお供え物をしなければ。
「まさか」
鼻で笑われ、三度カチンときた。
妹紅は足を止め、肩を揺らして笑っている。馬鹿にするかのように。
結構歩いたしここなら竹林の外も近いだろう、用心深く行動すれば出られるはず。喧嘩別れする頃合かもしれない。
振り返った妹紅は暗い瞳でほほ笑む。
「あんな性悪姫なんかより、あなたの髪の方がずっと綺麗よ」
ゾクリと背筋が震え、産毛が逆立つ。
精神的生命である妖怪ですら溺れるほど濃密な感情の臭いが鼻腔を貫き、頭を内側からガツンと叩いた。
こいつは人間を自称しているし、実際そうなのだろうが、ある意味で妖怪より妖怪らしいおぞましさを抱えているのではないか。数十年やそこらで至れるモノではない。見かけ通りの年齢なのか? 仙人? 魔女? 人間と妖怪の混血児? ともかく得体が知れない。
無意識に牙を剥いて、しかし足は後ずさってしまっていた。
「ん、どうかした?」
自身の異質さに気づいていないのか、妹紅の態度は軽いものだ。
「もしかして照れてる? 世辞じゃなく、本当に綺麗だと思うよ影狼の髪の毛」
動揺により高鳴った動悸のためか、影狼の体温もまた上がっていた。その微妙な変化と牙を剥いた行為を合わせ、照れ隠しに妙な行動を取ってしまっているだけかと判断されたらしい。
自分一人動揺しているのが滑稽に思えてたたずまいを正した。
「まあ、確かに私の髪はいつも綺麗だって褒められていたけれども。人間の癖になかなか見る眼があるわね」
「まあ、ね」
影狼が自慢の黒髪をかき上げると、妹紅はつまらなそうに自身の白髪を払った。
鼻を鳴らして笑ってやり、髪の美しさの勝利を見せつけてやる。
そう、きっと幻想郷でもっとも美しい髪の持ち主は今泉影狼なのだ!!
だが人違いだったのだ。
七不思議にある麗しい性悪姫とやらは、影狼のような黒髪の持ち主?
勝手ながら自尊心に小さな傷がつく。母親譲りの自慢の毛並み、いったいどこの誰と見間違えたというのだ!
「ねえ妹紅。いい加減教えてよ、その性悪姫とかいうのが誰なのか。私の方が髪が綺麗なんでしょ? お姫様に見せつけて自慢してやりたいわ」
「自慢? その髪で?」
その声色と表情で影狼は察した。
妹紅は、性悪姫の髪の方が美しいと思っている。
影狼の髪を褒めたのは世辞にすぎない。
いちいち癪に障る嫌な奴。きっと相性が最悪なのだ。
表情に出てしまったのか、こちらを見る妹紅は笑顔を取り繕う。
「いや、そうだね。影狼の髪なら全世界のお姫様が嫉妬するさ」
いや、ってなんだ。
なぜ否定から入る。
全世界のお姫様が嫉妬? 本気でそう思っているのか? あまりにもおざなりだ。
相性が悪い――再びそう、強く思う。
「どういう事情か知らないけれど、妹紅は随分とそのお姫様にご執心のようね!」
「……いや、別にそんな」
「私の髪が綺麗だったから、お姫様と間違えたんでしょう? じゃあ、あなたは、お姫様の髪を綺麗だって思ってるんじゃない」
「なに言ってるのさ。そんなの、あるわけない」
「お姫様以下だって、私の髪を見下してる。私の自慢の、夜空に溶けるような黒髪を」
「ちょっと、急にどうしたの。気に障った?」
「障ったわ。私達ってきっと相性が悪いのよ、とことんね。所詮は人間。妖怪の餌よ」
「餌って、幻想郷の人間は食べちゃ駄目よ? 人間も妖怪も争わず平和に暮らしていられる今の幻想郷は理想郷なんだから」
「牙の抜けた幻想郷の妖怪と、一緒にするな! 私は誇り高きニホンオオカミ、今泉を継ぐ影狼だ!!」
幻想郷に来てほんの一ヶ月の狼女は、未だ人間を喰わないという幻想郷の慣習を受け入れていなかった。
新参者の身でことを荒立てては、確執が生まれて面倒という打算のみで人間を見逃してやっているにすぎない。
幻想郷の管理者達が支給する外の世界の自殺者や不要な人間なんて、どうせ不味いに決まっている。
馴れ合うものか、腑抜けるものか。
そんな気持ちが、藤原妹紅という人間への敵意によって急激に燃え上がっていた。今にも噴火しそうな火山のように。
こんな些細な。
些細ななにかが、気に障るから。
「……誰に怒ってるのか知らないけど、八つ当たりはやめてよね」
瞬間――影狼の感情が爆発した。
なんで、こいつ、なんで!
『影狼の髪は本当に綺麗だな。まるで――』
なんでこいつは!
疾風のように地面を蹴り、女袴をはしたなく振り乱す。竹の緑が揺らぎ、後ろへと流れていく。軽く開いた口に流れ込んでくる空気が牙を冷たく撫で、激しい感情とは裏腹に指は脱力して鞭のようなしなやかさを蓄えている。一線。人体などやすやすと引き裂く威力が空を薙いだ。野生の動体視力は獲物の人間が後ろへ倒れ込むのを捉えている。すでに攻撃を読まれていたらしいが倒れて避けるなど下策。右の一撃は裂けられたが、すでに左腕を振り上げている。妹紅の背中が地面に着くよりも早く、喉笛に突き立てられるはずだ。馬鹿め、所詮は人間。いやこんな無茶な回避しか許さなかった己の速度を誇るべきだ。自尊心が満たされていく。
「咲かせろ、紅蓮の花をッ!」
左の死を振り下ろす。
確実だ、自由落下よりもこちらが早い。仮に拳や蹴りで反撃してきたところでこんな体勢では力が入らない。炎の妖術を使おうとしている気配も無い。ハグレ狼として人間とも狼とも妖怪とも戦ってきた本能が、確実に仕留めたと告げる。
柔肌を貫いた爪はさらに深く喰い込み、その勢いの方向を上方へとずらして振り上げる。やや爪が軋んだものの妹紅の顔面は深々と切り裂かれた。肉の裂け目は見事に咲いた紅蓮の花によって隠る。喜悦に表情を歪めた影狼は、首と脳という二箇所の急所を破壊されて息絶えた妹紅の身体を飛び越えて着地する。
どうだ。妖怪退治の専門家だろうと、足手まといがいなければ人間なんかに遅れを取るはずがないんだ。
正しいのは自分だ。
幻想郷に来て初めて人間を殺してしまったが、人里の人間じゃないんだ、問題あるまい。
くつくつと笑い声が漏れ、血濡れの爪をペロリと舐める。
そこには慣れ親しんだ血の味が、無かった。
「あっ……?」
左手を確認する。紅蓮を咲かせたはずの手は汚れひとつ無い。
馬鹿な。確かに貫き、切り裂いたはずだ! 惨殺死体を確認し安心を得ようと牙を剥いて振り返る。
代わり映えのしない竹林の風景だけが、そこに在った。
馬鹿のように髪を振り乱して四方八方を見回すも、やはり見分けのつかない竹林が広がるのみ。
鼻を鳴らしてみれば残り香が漂ってはいた。妹紅の臭い、血の臭い。
ではなぜいない。
縮地で遠くへ逃れたのか。だが手応えはあった。狸や狐のように化かされたのか?
「ハァーッ、ハァーッ! グルル……」
あせりと恐怖から乱れた息を威嚇の唸りで誤魔化しながら、腰を低くして身構える。
口喧嘩はともかく、今回先に手を出してしまったのは自分だ。殺す気でやった以上、殺されても文句は言えない。死ぬのか? あんな得体の知れない奴に殺される? こんなさびしい竹林で? 案内してやった群れの連中はのん気に暮らしているのに、なぜ妖怪である自分達が死なねばならないのか。弱い奴は勝手に死ねばいい、こっちを巻き込むな。
弱者なのか? この幻想郷において自分は。
人間なんかに。
あいつみたいに、人間なんかに殺されるのか!?
顎にありったけの力を込め、歯が割れんばかりに食いしばる。力を抜けば無様にカチカチ鳴らしてしまいそうだ。あのいけ好かない人間にせめて一矢でも報いるべきだ。
殺されるとしてもニホンオオカミの誇りを見せておかねばならぬ。
そう考え、影狼はハッとした。
『ここで殺されるとしても、ニホンオオカミの誇りを見せねばならん』
『なに馬鹿を言ってるの! 囮なら幾らでもいる、逃げよう』
『ここは俺が喰い止める。群れの連中を幻想郷まで連れてってくれ』
『嫌だ。足手まといなんかのために、なんで私達が犠牲にならないといけないの!』
『それが誇りだ』
「そんな誇りッ……!」
思わず唾棄してしまう。
嫌っていたあいつと似た行動を取ろうとした自分が疎ましい。
致命的な隙を作ってしまったとしても、唾棄せねばやってられない!
「このまま真っ直ぐ――」静かな声が背後から聞こえ、背筋を冷たくしながら振り返る。「――進めば、座り心地のよさそうな岩がある」
だがやはり、あるのは同じ景色だけ。妹紅の声であるはずなのに。
「岩に矢印が彫ってあるから、その通りに歩けば迷わず出られるよ。里の人間も目印にしてる」
そういえば慌てて四方を見回したため、さっきまでどの方向に歩いていたのか分からなくなってしまっていた。
殺しにかかった自分に案内を続けてくれている? 姿こそ現さないが、方角は今向いている方向で間違いない。
「岩までは余所見せず歩いてよ。ちょっと余所見するだけでそれたりしちゃうから。岩に着いてからは、ちょっとくらい余所見しても出られるよ。そっからは難易度低いからさ」
「ガルッ……も、妹紅、私は」
「じゃあね」
竹がガサガサと揺れ、妹紅の気配がいずこかへ去っていった。
しばし呆然と、その場に立ち尽くす。
身体の向きを変えないよう留意する程度の理性は残っていたが、胸には酷い虚無感があった。
「嫌いだな」
――そう呟いて思い浮かべた顔は、藤原妹紅ではなかった。
●
「大嫌い」
――そう呟いて思い浮かべた顔は、藤原妹紅だった。
なにが、このまま真っ直ぐ歩けば岩があるだ。余所見しなけりゃ大丈夫だ。
その通りに歩き続けて今は夜、岩なんて見つかりゃしないし竹林からも出られりゃしない!
あの後、しばし呆然としている間に空が陰り、ハッとして影狼は歩き出した。
太陽が雲で隠れる、ただそれだけのことでも精神の弱った彼女は不安を感じ、早く竹林から脱しようと心がけた。
だから余所見せず、真っ直ぐ歩いたのだ。
『夜の鳥ぃ、夜の歌ぁ。火の鳥人間やって来てぇ。夜の夢ぇ、夜の紅ぁ。鰻のお代は今日もツケぇ』
という奇怪ながらも美しい歌がどこからともなく聴こえてきても、余所見なんかしなかったのに。ちょっとその場に立ち止まって歌を聴いたけれど、視線は常に前へ向けていたのだから、迷う道理は無いはずだった。なんかちょっと空の曇り方が酷くなって一雨くるんじゃないかと慌てて駆けている最中、ちょっと地面が暗くてよく見えなかったかもしれない。雨の臭いがしなかったせいか結局一滴も降らず、竹林が暗くなっただけの話だった。
だが影狼は夜を生きる狼女なのだ。
妖怪の類に暗闇をもたらされたのならばともかく!
天然自然の暗闇くらいで目印の岩を見逃すなんてありえない。
そう、空あるいは視界を暗くするような妖術や幻術でもかけられない限りありえないのだ!
そしてそんなものをかけられた心当たりは無い。無いったら無い。
だから藤原妹紅に騙されたに違いないのだ!
「ガルルー! 次に顔を合わせたら、今度こそ殺してやるわ」
すっかり闇夜に包まれた竹林は、まさに一寸先は闇という有様。ただでさえ見分けのつかない景色なのにこれでは右も左も分からない。とはいえ、しつこいようだが影狼は狼女である。月の力を信仰し、夜を生きる妖怪である。竹の葉の合間からかすかに射し込む月明かりさえあれば十分に活動できるのだ。
「わたっ!?」
つまづいて転んだ。
慣れない竹林だから仕方ない。しかも迷いの竹林だから仕方ない。
そう理性が告げていても、ああ、惨めなり。
頼みの鼻も、むせ返るような竹の臭いばっかりで馬鹿になってきたように思え、違和感が鼻の奥にこびりついて拭えない。
「ぐうっ……せめて、月がちゃんと見える場所に出られれば……お月様、どうかこの哀れな狼女にお慈悲を……」
祈りが天に通じたのか、ふいに前方の空が眩しく輝いた。
それは月のように白く静かで、本能から美しいと感じ入るものだった。
本来黄緑色であるはずの竹も今は清らかなる白へと変貌している。
祈ってすぐこんな奇跡が起こりもすれば、感極まって駆け出すしかなかった。
あの場所へ、あの月の元へ馳せ参じねば。
竹藪をひとつ飛び越えると、光の色が白だけではないことに気づく。
いや、白い光が無く、白ではない光が重なって白い光となっているのだ。
あったのは赤、青、緑、黄、紫という――五色の燐光!!
五つの小さななにかがそれぞれ異なる光を発し、それが重なり合うことで白く見えていたのだ。月とはまったく異なる性質の光であったが、そのあまりの美しさの正体を確かめたいという好奇心が即座に行動理由を塗り替える。
だが走るうちに光は収まりつつあり、せめて消える間際だけでも、いや消えた後でもいいから光の正体を知りたいと願った。
そうしてたどり着いたのは竹林の奥深くのやや開けた広場であり、光の正体こそ分からなかったが、光の正体を放っていただろう人物を目の当たりにした。
赤焼けのような衣装を身にまとった、女人の姿。
緩やかに宙を舞う美しき半月のように整った顔には、絶世と呼ぶべき美貌が浮かんでいる。
黒真珠の瞳を楽しげに輝かせ、桜の花弁を思わせる唇は清楚にほほ笑み、高貴な光を発しているかのよう。
影狼のように長い履き物を着用しているが、下から覗き見えた脚は産毛すら生えていないのではないかと疑うほど白くなめらかであった。
そして、ああ、もっとも目を惹いたのは、その黒髪であった。
影狼は常々、自分の黒髪を美しいと信じていた。
闇に溶けるような深く暗い黒髪を。
ああ、だが、しかし、なんということだろう。
夜空を舞う黒髪は、影狼のそれよりも深く暗い闇夜の中で、毛の一本一本すら視認できるほど輝いて見えるではないか!
影狼と同じように膝の裏まではあろうかという黒髪が龍のように弧を描き、漆黒のきらめきで世界を彩っている。
闇さえ払いのける黒龍の髪を目の当たりにすれば、闇に溶ける黒狼の髪など――。
『お前の闇に溶けるような黒髪は俺の自慢だ。本当に美しい。まるで――』
――まるで、竹取物語に出てくるなよ竹のかぐや姫のよう。
もしかして彼女がそうなのか、竹林七不思議最後のひとつ、あらゆる男を虜にする麗しき姫とは。
姫が歩けば大地には花が咲き乱れ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払う。まさしく彼女こそが。
妹紅をもっとも不快にさせた七不思議の――。
「うおおっ! 今日こそ、今日こそ殺してやる! 十万億土の彼方まで飛んで逝けぇー!!」
巨大な炎の砲弾が地上から打ち上げられ、黒龍の髪の姫へと迫る。
突然のできごとに思考が追いつかぬも、姫はやわらかく笑うや服の袖を颯爽と払った。
直後、腹まで響く爆発が起こり姫の姿を炎で隠した。
呆然として見上げていると、炎の中から無傷の姫が現れる。その前面には赤い羽衣のようなものが浮かんでおり、あれだけの大爆発の後だというのにほんのわずかにも燃えた様子は無い。
すごい。なにがなんだか分からないけれど、ただそれだけは分かって、眼が離せない。
姫は何気ない仕草で頭上に手をかざす。
するとどこからともなく白々と輝く物が現れた。満月よりも眩しいそれから、無数の光線が大地に降り注ぐ。
その軌跡を追って視線を下ろしてようやく、姫と戦っている者の正体に気づいた。
藤原妹紅が地に膝をついている。
その五体を光線が貫いて、穴だらけになった妹紅が崩れ落ちる。
そうだ、さっきの言葉。十万億土の彼方までというあれは、影狼を人違いして襲ってきた時に言っていたものだ。
正しくその言葉を向けるべき相手があのお姫様。
しかし逆に殺される結果を、心の準備も無く目の当たりにしてしまった影狼の心には驚きすら湧いてこない。
感情を喪失してただただ見つめるのみ。
月下の躯が立ち上がるのを、ただただ見つめていた。
傷口と言う傷口から炎を噴出し、海蛇のように宙をうねったそれは周囲の竹林へと這い寄る。
妹紅は両手を素早く交差させ忍者のように印を結んだ。
「木の葉乱舞、そして燃えろッ!!」
忍者の使う暗器"くない"の刃にも似た竹の葉が、火炎をまとって回転しながら乱舞する。
それも数え切れないほどの燃える竹の葉手裏剣の弾幕だ。四方八方を取り囲んで退路を断ち、またあの赤い衣では全身を覆えず防ぎ切れない。姫のあの輝く黒髪が燃えるところなんてさぞ美しいだろうと、相当に歪んだ思考がふっと浮かんだ。
けれど姫は慌てない。どこまでも己の呼吸を乱さず安穏として妹紅を見下ろす。
「しゅゆ」
と、言ったように聞こえた。
違うかもしれないが、影狼の獣耳にはそう聞こえた。どういう意味の言葉なのか分からないが、これで燃える竹の葉は届かないだろうと予感してしまう。
炎をまとった葉は姫の全身に雨あられと降り注ごうとするも、そのことごとくが空中で燃え尽きて消滅した。
火加減を間違えた、なんてことはあるまい。妹紅も目を見開いて驚愕している。だがすぐさま眉を釣り上げ、姫と正反対の白髪を振り乱して炎をまとった。
「燃え尽きてしまうなら、炎だけでも!」
髪の毛一本一本の先端から、孔雀の尾羽にも似た朱色の炎が舞い上がる。
いや、孔雀と言うよりは――不死鳥の尾か。
竹の葉を媒体としていないため威力は多少落ちているかもしれないが、これならば"しゅゆ"とやらを突破できるのだろうか? できるかもしれないと、姫が初めて表情を変えるのを見て思った。不死鳥の尾が夜空を無慈悲に舞い踊り姫は炎に包まれた。赤い衣でもしのぎ切れず、あの輝く黒髪が炎上して眩しさを増していた。
先ほどから続く備考の違和感を消し去るほど強烈な肉の焼ける臭いと同時に、強大な妖怪さえ焼き尽くすであろう火力が伝わってきた。しかもそれを惜し気も無く行使している。幻想郷で殺し合いはご法度のはず。
闘争を忘れ牙の抜けた妖怪など恐れるに足らずと思っていた。
でもこれは。
妖怪を上回る火力による殺しに、妹紅は慣れている。
外の世界でマタギや陰陽師に追われた経験から、影狼はそれを悟った。
影狼は殺す気で妹紅を攻撃したが殺せなかった。
だが妹紅は殺す気になれば影狼を殺せていた。
人間の中には並みの妖怪じゃ歯が立たない強者がいるが、あいつがまさにそれだったのか。
あの黒龍の如き髪の姫も相当の強さだったが……。
「やってくれたわね」
鈴のような声が凛と響く。
心音を高鳴らせて声の出所を見れば、地面、妹紅の前方に燃え尽きたはずの姫君が立っていた。
しかも肌も服もそして黒髪も、まったく焼けた痕跡が無い。あの火力を浴びて? 肉の焼ける臭いは確かにしてきた。
狐に化かされた気分だ。
まるで影狼が妹紅を殺し損なった時に似た不可解な現象。
なんなんだこれは。なにが起きているんだ。
幻想郷とは、迷いの竹林とは、藤原妹紅とは。
理解を越える光景を竹藪の陰から眺めている自分自身の姿を、影狼は見た気がした。
まるで現実味のない夢のような体感。
蚊帳の外の影狼など気づかず妹紅は肩を揺らして笑い出した。
「は、ははは。死んだ、死んだぞ。焼け死んだ!」
「一回だけね。あなたはもう四回だわ」
「もっと殺す。もっともっと殺す。もっともっともっと殺す。そうら涅槃へ旅立て、不死の火の鳥の翼で!」
妹紅の右腕の肘から先が荒々しく燃え盛り、獲物を鷲掴みするように構えられた手に尋常ならざる力が集中する。空気がチリチリと焼け、なぜか無性に吼えたくなったが牙の合間から漏れるのはかすれた吐息だけだ。
白髪の少女が猛る。
右腕を振りかざしながら手のひらを目いっぱい開くと、まとっていた炎が鳥の姿へと変じて凄まじい勢いで飛翔した。
羽ばたくそれを見て黒髪の姫は小さく笑い、いずこかから取り出した白い貝殻を指でつまんで火の鳥に向ける。
「あなたの不死鳥なんか、燕にも劣るわ」
悪戯っ子のような口調で言うや、貝殻からほとばしる銀光が満月のような真円を描いて火の鳥を呑み込んでしまう。
罠にかかった鳥のように火の鳥はもだえて消失し、光はさらに妹紅へと迫り、傍観していた影狼にも――。
●
『おい影狼、今なんつった』
『群れを出る』
『なんでだよ』
『群れって言ったって、強い奴が弱い奴の面倒を見るだけじゃない。弱い奴は強い奴になにをしてくれるの? 私になにを与えてくれるの? 弱さと無能さで母さんを死なせたあいつ等が、母さん以上のなにを与えてくれるというの?』
『ニホンオオカミの血を守るためには、群れた方が都合がいい。俺達はそうやって生きてきた』
『だったらなんで、ハグレ狼なんてのが存在するの? 群れから追放された奴だけじゃない、みずから望んでハグレになった狼もいる。彼等は群れを必要としなかった。私がそうなっていけない理由があるの?』
『家族だろう、俺達は』
『そうね、群れは家族よね。だったら家族なんていらないわ』
『影狼』
『さよなら、父さん』
けれど影狼は期待していた。
甘い父親のことだ、なんだかんだでハグレになった娘を放っておけまい。
事実その通り、群れを出てからも父は様子を見に来てくれた。
ハグレになっても、妖怪である影狼は不自由をしておらず、群れの狼より豊かな生活をしていた。獲物は独り占めできるし、好きな時に寝て好きな時に遊べる。マタギから逃げるのも妖怪の足なら簡単なもので安全性も増した。
ほうら、自分はこんなに快適に暮らしている。影狼は父に何度もそう言い、見せつけたが、結局、父は群れを捨てなかった。
『げんそうきょう?』
『うむ。俺は群れを連れて、そこに移り住むことにした。どうだ影狼、一緒に来ぬか?』
けれど故郷を捨てようとはしても、娘を捨てようとはしなかった。
ちゃんと誘ってくれた。
『ここは俺が喰い止める。群れの連中を幻想郷まで連れてってくれ』
『嫌だ。足手まといなんかのために、なんで私達が犠牲にならないといけないの!』
群れを守るため囮になって死んだ。
影狼はただ、家族仲良く暮らしたかっただけなのに。
母を喪い、群れを捨て、そして父を喪った。
孤独――孤独の狼女は、幻想郷をさすらい、迷いの竹林を訪れた。
「父さん!」
叫んで起き上がると、見覚えのある部屋だった。
どこだ? 木造りの部屋。粗末な家具と布団。あたたかみのある囲炉裏。
「おはよう、迷子の狼さん」
妹紅の声が聞こえて、そうだ妹紅の家だと気づいた。
またこの展開か。
「観客がいたとは気づかなかったよ。竹林に住む者なら近づかない、瘴気の濃い場所を選んでたんだけどね。どう? 気分悪くない?」
「あ、ああ……? 瘴気……?」
竹の臭いばかりのせいで鼻が馬鹿になって違和感があったのを思い出し、もしやそれが原因かと思い至る。
「無臭でね。頭がぼんやりして精気が抜けて、妖怪でも野垂れ死にする危険があるの。広場になってるのも瘴気のせいで土が駄目になってるからね。ほら、七不思議、覚えてる? 永遠に眠ってしまう広場とかいうの。それあそこ」
「そう……だったの?」
「近づくだけで眠気を催すっていうのは、瘴気のせいでぼんやりしちゃうからよ。苦しみが無いから心地よく感じちゃうし、あの場所にあるものをすばらしく感じて離れたくなくなっちゃう」
では黒鱗の龍が闇夜を泳ぐ様に見惚れてしまったのはそのせいか。
心の中でそう思うや、あの闇夜で輝く黒髪を思い出し、すぐ否定する。
違う。瘴気なんか関係無く見惚れてしまっていた。
自慢の黒髪よりはるかに美しい黒髪を知ってしまった。
「……おーい、聞いてる?」
「聞いて、る」
少しつっかえた。
手のひらで目を覆い、頭を左右に振って倦怠感を払いのける。
と、鼻先に水の臭いが近づいてきた。
「ほら」
無意識に口が半開きにすると、竹の器が唇に触れる。涼やかな水が流れ込んできて喉を優しく潤していく。
深く息を吐いてかたわらに目を向ければ、竹筒を持った妹紅が座っていた。表情こそやわらかなものだったが細められた目元に得体の知れない脅威を感じ、影狼は喉を鳴らす。
「なにがあったか覚えてる?」
「妹紅……と、黒髪の、とても綺麗でお姫様みたいなのが、殺し合っていた。あの人が七不思議の?」
「あいつ、あまり人前に出ちゃ行けないから、七不思議のままでいさせてやって」
「殺したいんでしょう? どうして気遣うの」
「噂が広まって、家に閉じ込められたら、ああやって気軽に殺し合えないじゃない」
トンチンカンな理由だ、殺し合うために相手の都合を守ってやるだなんて。
本当に、藤原妹紅という人間は得体が知れない。そこいらの妖怪なんかよりずっとずっと不気味な存在だ。
でもひとつ、推察できることが。
「死なないの……」
「うん」
推察を途中まで口にし、またつっかえた。
すると一呼吸の間も置かず妹紅はうなずく。
「……仙人かなにか?」
「内緒」
「ちゃんと人間?」
「一応人間」
ちゃんとでは、ないのか。
「言い触らさないでね」
「触らさないよ。ねえ、殺し合いって、あの人といつもしてるの?」
「触らさない?」
「触らさない」
「いつもしてるの。七不思議になったこともある」
七不思議は六十年周期で新しいものに変わるらしい。
前の七不思議を知る妹紅は見かけ通りの年齢ではない。下手したら影狼よりずっと年上かもしれない。少なくとも年齢は三桁くらいあるだろう。さすがに四桁には届かないだろうがここまで妖怪を驚かせる相手だ、否定はし切れない。
影狼は布団から出て窓辺へ行き、外がすでに明るいことを確かめる。やけにお腹が空いているしすでに昼時だろうか。
「ねえ、影狼」
「なに?」
「あの黒いの竹林三大勢力の重要人物だから、下手に言い触らすと矢の的にされるよ」
「ちっとも信用されてなかった! 三大勢力って竹林意外と危険!? いったいどこのことよ。関わらないようにしないと」
「あいつんトコと、あの子のトコと、それっぽいトコ」
「あいつとあの子とそれっぽい!? この人間ちゃんと教える気が全然無いわー、三大勢力って気づかずちょっかい出して殺されたらどうしよう……」
「ん……ちゃんと内緒にしてくれてたら、口利きくらいするよ。竹林の中には顔の利く連中もいるし」
「そんな脅しかけなくても内緒にしてたのに! 妹紅あなた今、約束と引き換えに信用を失ったわよっ」
「狼から信用されてもなー」
「狼なめるな。誇り高い種族なのよ」
「お父さんが誇り高かったのね」
ぎくりと、影狼は息を呑む。
なんでもない振りをして窓枠に腕をかけて余裕の態度を示した。
「なんっ、で父さんが出てくるの」
またまたつっかえた。
動揺は完全に露見してしまったが妹紅は気にした様子を見せず答える。
「寝言で父さん父さん言ってたし、目を覚ます時に父さんって叫んだし、お父さん大好きなんだね」
「うわーっ、うわーっ。恥ずかしぃー!」
「……影狼の父さんって、どんな風だったの?」
その声色は今までに聞いた妹紅のものとはまったく違っていて、はるか遠くへ語りかけるような哀愁が香った。
影狼は思い出す、故郷の山と森を。
父と母に愛され、もっとも幸せであった時間を。
「父さんは……群れの長で」
だからだろうか。語る気なんて無いはずなのに、自然と口が開いてしまう。
もしかしたら、口だけでなく心も。
「狼男で、いつも群れのためにがんばってた。私はそんな父さんを誇りに思っていた。でも母さんと、群れの子供達が危険に見舞われた時、父さんは群れの子供を助けに行っちゃったわ。私は一人で母さんを助けに行った。もう少しで助けられそうだったけど、助けられなかった。今にも息絶えようという段になってようやく父さんがやって来た。母さんは小さく鳴いて、死んだ。父さんが……群れの子供じゃなく、母さんを先に助けようとしてくれてたら、確実に母さんを助けられたわ。だから」
だから、影狼は。
「群れを出て、ハグレ狼になった。そうすれば父さんも、私を心配して群れを出てくれると思ったから。いっつも父さんと母さんに助けられてた癖に、母さんの危機に足を引っ張った無能な連中に見切りをつけてくれるって期待したのに。でも」
「お父さんは群れを捨てなかったのね」
「ええ」
「娘より――を選んだ」
ふいに妹紅の声がかすれる。
今、なんと言ったのだろう? 文脈から察するに、娘より群れを選んだ、が妥当なところ。
さして気にも留めず、影狼は父を思って窓の下にうずくまり黙り込む。
胸がきつく縛られたように苦しくなり、頭上の耳がへにゃりと垂れてしまう。
こんな話、続ける必要あるのかな。迷っていると、妹紅の臭いが近づいてきた。臭いは隣に座り込み、壁に背を預けて呟く。
「父上に愛されたかった。自分を見て欲しかった」
「そう、たったそれだけだった。私の願いは」
意見を肯定すると胸の圧迫感がすっと抜けて、ちょっと冷たい爽やかさが湧き上がった。
少し気持ちいい。
「……群れを出てから、お父さんは?」
「たまに様子を見に来てくれたけれど、普段は群れにかまけてた。群れのみんなはハグレ狼を厭っていたけど、父さんはそれでも会いに来てくれた。会いに来てくれるだけじゃ不満足なのに」
「子が親を求めるのは本能みたいなものさ」
「そして十数年くらい経って、父さんは幻想郷に行こうって私を誘った。二人でなら無事にたどり着けたはず。親子関係をやり直せたかもしれない。でも父さんは群れを避難させるのが目的だった。外の世界ではニホンオオカミが数を減らして、遠からず絶滅するだろうって予見したから、他の絶滅種のように幻想郷へ避難しようって、ニホンオオカミの血を残そうって、群れのために。ついでだったのかな、私は」
「そんなこと、ないよ。ハグレになってからも、気にかけてくれていたんでしょう? 私は、そんなことなかった」
「……私は? 妹紅のお父さんは」
「お父さんは、きっと影狼を愛していた」
同じ言葉をかぶせてさえぎると、話を打ち切るようにして影狼の父の心を決めつけた。
だがしかし、それで納得する影狼ではない。
随分とあれこれ語ってしまった。語りすぎてしまった。
誰にも話す気の無かった自分の生い立ちを。
ならば望むべきはひとつ。影狼は妹紅を見やり親しげに笑む。
「ねえ、妹紅。私にばっかり生い立ちを語らせて不公平じゃない? 妹紅も教えなさいよ。竹林三大勢力を敵に回したくないから内緒にするわ」
「いやいや、私はどこにでもいる極々普通の、健康を心がける焼き鳥屋サンですよ?」
「どこが極々普通なのよ。焼き鳥屋? 火の鳥を出してるだけでしょう!」
「焼き鳥が駄目なら"えのころ飯"を始めようか? 犬は生類哀れみなので狼で代用しよう」
「しない!」
「なぁに、調理法は簡単。影狼のおっぱいをぎゅぎゅっと寄せて上げてできた谷間に、上から白米を詰めてぎゅぎゅっと押し込む。すると胸の谷間を利用してなかなかいい感じ形になった"えのころ飯"が!」
「それ"えのころ飯"と違う! 犬の腹から内臓取って米を詰める奴でしょ」
「ああ、そうだったのか。練習したいから影狼お腹出して」
「ひぃいーっ、腹かっさばかれるー。怖いわー人間怖いわー」
「でも"えのころ飯"なんか食べる気ないわー。なんか色々と無理。ところでお腹空かない? 魚はもう無いし、狼って米は食べられるのかな」
「食べられるわ。私、これでも色々食べてるの」
「じゃあ炊いてくるからおっぱい出して待ってて」
「嫌よ。お米に毛が混じるじゃない」
「えっ」
「あっ」
ある意味、父親よりも禁忌なものを口にしてしまった。
いやまだ誤魔化せる。どう誤魔化そう。
影狼の灰色の脳細胞がぐるぐる渦巻き模様を描いて世界の真理を模索するが、幻想の歌声は無情にも闇へと沈み堕ちて行く。姑息な一番星に縋りつきたい衝動をこらえながらも正しき偽装手段こそ虚空に輝けるが如くに。なればこそ信じよう、お月様の導きにより時代を切り拓けるはずだと。
「この時期抜け毛が多くてね、胸なんか揺すったら前髪がはらはらと――」
「よっと」
着物の胸元をぐいっと引っ張られ、妹紅が身を乗り出して覗き見る。
間違った"えのころ飯"を作れそうなほど豊満に育ち、もち米よりももちもちした白いふくらみをばっちり観察されてしまう。
相反する色が故に目立つ、闇に溶けるような黒も。
「うーん、確かに毛が混ざっちゃうか」
「あ……ああっ、あッ……!」
「仕方ない、普通に握ろう」
「アォオーンッ!!」
妹紅が死ぬたび飛び散った血も消えるので掃除の手間がかからず便利だという豆知識を、影狼は覚えた。
本当にもう、どういう理屈の不死なのだか。
仙人や天人さえ裸足で逃げ出す不死っぷりかもしれない。
●
その日、月が昇る頃。
影狼は妹紅と布団を並べていた。
なんだかんだで米だけのわびしい食事をしつつ、幻想郷や竹林の事情などについて色々話を聞いたり、夕飯を集めに竹林を歩いたり、喧嘩して何度か気軽に惨殺したり、こっちは張り倒されたり火傷しかけたり、髪を触らせてやったり触らせてもらったり。
両親のことを訊ねられたり。答えたり答えなかったり。
両親のことを訊ねたり。生い立ちを訊ねたり。不死の秘密を訊ねたり。結局、妹紅はろくに自分の素性を語らなかった。健康を心がける焼き鳥屋だのなんだのと誤魔化すだけ。
そうこうしているうちに夜が更けて、妹紅が竹林を案内するのを面倒がったためお泊りとなった。
相性が悪い――影狼はそう思っていたし、今でもそうだと思っているが、悪くても、ちょっとは仲良くなれた。
だからまったく素性を語らぬ妹紅に不満を感じてしまう。
語れば相手を巻き込むような危険な事情、という訳ではなさそうだ。
だから影狼の生い立ちを聞きたがる癖に自分の生い立ちを語ろうとしないのは、所詮、その程度の相手と思われているからだろうか。出遭って一日ちょっとしか経っておらず、人間と妖怪という差異もあれば当然の話ではある。
あるが、不満だ。
だからほら、やっぱり相性が悪いのだ。
隣からの静かな寝息と、外からの虫の音を子守唄にしながらも眠れないのは、そんなつまらないことを考えているせいだと影狼は自覚している。考えごとをせずぼんやりしている方が眠れる性質なのだ。それでもあれこれ考えてしまうのは、幻想郷に来てからもっとも充実した一日だったからか。
充実? 酷い目にも遭ったのに?
自嘲してまぶたを閉じる。ああ、考えごとが途切れそうだ。このまま寝よう。
「うぇ……」
ところが隣から妙な呻きが聞こえ、閉じたばかりのまぶたを開けて視線を向ける。
窓も閉めているので月明かりすら無いこの部屋では寝顔を確かめることはできないが、呼吸音からこちらを向いているのが分かる。鋭敏な嗅覚は涙のそれを捉えた。
「父上……」
妹紅が呟く。
「私いらない子なんかじゃないよぉ、父上……」
寝言、か。
あれだけ生い立ちを語るまいとしていた妹紅が、影狼の両親話をやけに聞きたがった理由。
「あなたも、お父さんを求めていたのね」
影狼は父を得ることはできなかったが、愛されていた。
妹紅は父を得られなかったのだろう、愛されていたのかさえ定かではない。
いたのかいなかったのか勝手な想像をさせてもらえば、いなかったのだろう。間違っているかもしれないが、親に捨てられた子犬のような声を聞いてしまえばそう思ってしまう。
「まだまだ、子供だな……」
爪で傷つけないよう指を曲げ、指の関節で妹紅の目元を拭ってやる。
冷たく濡れ、哀しく香る。
●
目が覚めて朝の空気を吸いに外へ出ると、青々と輝く竹林の息吹が身体の隅々まで澄み渡り、世界の"彩"がまったく違って見えた。
まるで生まれ変わったみたい。
長年溜まっていた父への想いを他者に話したためか。力や髪の美しさで天狗になっていた鼻を、妹紅とあの黒髪の姫に出会ったことでへし折られたためか。情けないと見られるかもしれない。でも、気分はいい。
ああそうか。
世界が変わったように感じるのは、世界を見る自分自身が変わったからだ。
竹の葉の合間から射し込む朝日を浴びて、影狼の黒髪が輝いた。
夜を生きる狼女には不釣合いかもしれないと自嘲する。姫には遠く及ばない。思い出の中の母にも。
艶やかな黒髪をよく自慢して、他者を不愉快にしたことも多々あったが、これからはしないだろう。自慢ですら無くなるかもしれない。父も母も喪ったハグレにとって、最後の心の拠り所だったというのに。これからの人生を惨めに感じてしまうかもしれない。
そう考えると、ああ、輝きを増していたはずの世界がわずかにくすんで見えてきた。
新しい自分、新しい世界は、一時の幻だったようだ。
「おはよう」
そう時間は経っていないと思う。
振り返れば戸口に妹紅が立っており、目を細めて影狼の輝いていた黒髪を見ていた。
どう反応したものか。
「おはよう」
と返して、誤魔化すように自身の髪を指にくるくると巻く。なにをやっているんだと自分でも呆れた。
「朝ご飯食べたら、外まで案内するよ」
たいして気にも留めず妹紅は言い、粗末な家へ戻った。
影狼はうんと背筋を伸ばし、軽い眩暈を起こしてから妹紅の後に続く。もちろんと言うべきか、侘しい朝餉だった。
腹をふくらませてお茶をすすり一服してから、二人は家を出て竹林の外へ向かう。
影狼は景色や臭いに気を配ってみたが、やはりどこをどう歩いているのかちっとも分からない。妹紅は散歩でもしているかのように自然な動きだ。日ごとに変化するとさえ言われている竹林なのに、なにかに気を配っている様子はまるで無い。七不思議を聞いてすぐどこのことか分かるようによっぽど慣れ親しんでいるのだろう。
人間も長生きすれば妖怪より妖怪じみたイキモノになるんだなとしみじみ感じたが、言ったら怒りそう。
なんとなく黙って歩いていたが、構われるのが嫌いな構いたがりの妹紅が我慢の限界を迎えたのか、影狼には迷うからするなと禁じた余所見をしながら話しかけてきた。
「影狼ってさ、髪の手入れ、気遣ってる?」
「……まあ、毛繕いは念入りにしてるけど」
「なんて言うかさ、前に褒めた時は喧嘩になっちゃったけど、改めて綺麗だなって思ったよ」
「お姫様と比べても?」
分かっている答えを、あえて訊ねる。
自虐にも似た行為だが、劣っているなら劣っていると他者からも太鼓判を押された方が潔い。
「ん……今、お日様の下で見た時……」
やっぱり見ていた、比べてもいたのか。
はっきり言えよと視線を強くする。
「こっちじゃないなって」
分かっている答えは、分からない答えで返ってきた。
影狼はちょっと苛立ちながら、ここでまた喧嘩しては話が進まないと自重を心がけた。
「どういう意味?」
「ああ、その、影狼の髪は、夜に見る方が綺麗だなって」
「……夜に?」
「お日様は眩しすぎて、せっかくの深い黒を損なわせてるんじゃないかな。月と星の頼りない光が丁度いい塩梅さ。あいつとの殺し合いで巻き添えになった影狼を家まで運んだ時、その黒髪が、闇に溶けるように見えて……すごく綺麗だった」
「……お世辞はよしてよ」
不機嫌を隠さずしかめっ面を返すと、妹紅は意外そうな顔を返した。
もしかして本気で褒めていたのか。影狼も意外そうな顔を作る。
「でも……だって妹紅、あのお姫様とはいつも殺し合ってるんでしょう?」
「ああ、うん? し合ってるけど?」
「し合ってるなら、ほら、七不思議でさ、姫が振り向けば黒く輝く髪が闇夜を払うとかっていうの、本当に本当だったじゃない。夜の空をものともせず、黒く輝いていて……本当に美しいっていうのがどういうものか思い知らされたから、私とは違うなって。妹紅はそう思わなかったの?」
「……ん、と。同じ黒髪同士だけどさ、闇を払って輝く髪と、闇に溶ける髪とじゃ、方向性が違くない?」
「方向性?」
影狼は首を傾げる。
「えーと、ほら、同じ赤でも、花と炎とじゃ全然違うでしょ? あいつの髪を鋼や宝石の黒だとしたら、影狼のは夜の闇の黒だよ。どっちも違ったよさがあるし、無理に比べなくてもいいんじゃない? 私は、影狼の髪も好き――って、影狼? ちょっと、どうしたの」
妹紅が慌てたので、頬を伝う冷たさに気づいた。
「あれ、なんで……」
指で拭う。
昨夜、妹紅のそれを拭ったように。
それでも涙は止まらない。
『お前の闇に溶けるような黒髪は俺の自慢だ』
父の言葉が蘇る。
『本当に美しい。まるで――』
ぎゅっとまぶたを閉じると、両親がそろっていた時の光景が昨日の出来事のようにまぶたに浮かんだ。
父に寄り添う母の、長く美しい、闇に溶けるような。
「母さんの」
姫の髪の美しさに打ちのめされて否定したのは、影狼の髪であり、亡き母の髪であった。
父は影狼の髪を褒める時、いつも母を引き合いに出していた。
母が生きていた頃は、それを嬉しく思った。
母が死んだ後は、それを疎ましく思った。
自分は母の代用品でしかないのか。父は自分に母の面影を見ているだけではないのか。
ああ、今度こそ、世界の"彩"が変わった。
生命力に満ち溢れた竹の息吹を浴びて、影狼の髪が闇のように揺らぐ。
影狼がなぜ泣いているのか分からず、妹紅はただおろおろするばかりだった。
泣き止んだ影狼は頑として理由を話そうとせず、妹紅を置いて先へ進もうとしたものだから、またもや迷いそうになってしまった。妹紅は気を遣いながら案内を続けてくれてついに竹林の出口へとたどり着く。
ああ、原っぱが広がっていて、草木もあちこちにあり、遠くには山々が見える。
目を凝らせば遠くの空を妖精や妖怪がちらほら飛んでいる。
まさに幻想郷だ。
迷いの竹林は隔離された別世界だったのではと思えてしまうほどに幻想郷だ。
うんと背伸びをすると今度は眩暈が起きず、ただただ清々しさがあった。
これで迷いの竹林ともおさらばだ。
人生を変える出来事があったのに加え、妹紅の話を聞く限り迷いさえしなければかなり居心地のいい土地のようなので、なんだかんだで名残惜しい気持ちがある。
影狼は幻想郷を見て回って今後どう暮らしていくか考えている最中なのだが、他にいい場所が無ければ竹林を住処とするのも悪くないかもしれない。
「ねえ妹紅。よかったらまた、あなたの家にお邪魔していいかしら?」
「ああ、いや……」
困ったように妹紅は目を伏せる。
意外な反応だった。友情が芽生えつつあるというのは影狼の思い違いだったのか。
「案内くらいならいいんだけどさ。あまり、私を頼られても困る。泊めたのも、こっちに非があったからだし……」
「そ……うだったの?」
妹紅は視線を合わせようとしない。それでも視界の端で少しは見えているはずだ。影狼が今どんな表情をしているのか。
淡く抱いていた期待が、崩れていく。
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
「勘違いしないで欲しいんだけど、影狼が嫌いとか迷惑っていうんじゃないよ。幻想郷はそういう場所ってだけ」
「なにそれ。どういう意味」
「本来、人間と妖怪が親しくするのはよくない。私は人間……人間で、影狼は妖怪。人間は妖怪を退治し、妖怪は人間を襲わなきゃいけない。それを崩しすぎると、妖怪は存在意義を失って弱くなる。そう、弱くなってる……昔に比べ、幻想郷の妖怪達は」
「……それで、なんだ」
幻想郷にやって来た影狼が、他の妖怪を見て牙が抜けていると感じ、自分はそいつらとは違うと驕り高ぶってしまったのは。
「私も孤独な人生を送ってきたけど、幻想郷に来て、寿命を気にせずつき合える妖怪の友達ができたこともあった」
竹林を見て、想い馳せながら妹紅は言う。
「でも次第にそいつが、力を失ってきて……その頃はまだ博麗大結界を張ったばかりで時勢が安定していなくて、妖怪を退治しようって人間もいたし、妖怪同士で争うこともあったから、このままじゃいつか大変な目に遭うんじゃないかって思って、私は、竹林の奥深くに一人で暮らすようになった」
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
ついさっき影狼が思ったばかりのことを、妹紅はとっくの昔に経験していたのか。
「でも今は違うんでしょう?」
影狼は幻想郷の現状を多少なりとも学んでいる。
「人間と妖怪はもちろん、妖怪同士でさえ滅多に争わないって。だったら力が弱まったって……」
「力を保っている連中もいる。私やあいつのように」
不死ゆえに気安く殺し合える妹紅の言葉には説得力があった。
事実、妹紅には他の妖怪には無い殺意というものを感じられた。危険な存在とはっきり言える。
あの姫も同様だ。三大勢力とやらの一角ならば、姫の仲間も力を蓄えて竹林に潜んでいる?
「かといって、力を取り戻そうと気軽に争う訳にもいかない。集まりに集まった幻想郷の妖怪達が下手に争いを起こしたら、妖怪が力を取り戻すより先に幻想郷が壊滅してしまう」
「でも、妹紅とお姫様は……」
「私とあいつは竹林の奥深くでひっそりとやってるし、妖怪を滅する術や不死の肉体があっても、破壊する力に突出してる訳じゃない」
妹紅はようやく、影狼の目を見た。
今にも泣きそうな瞳に、今にも泣きそうな瞳が映っている。
ようやく、孤独を癒せると思ったのに。
二人はきっと、同じ気持ちを抱いている。
けれど幻想郷はそれを許してくれない。
「だから……駄目なんだ。人間にとって益になる妖怪や、半人……半獣くらいならともかく、人間に害を成す狼女が人間と仲良くしてちゃあ、いつか、不幸になるよ。だから」
影狼は一歩踏み出した。
言葉をさえぎるよう、足音を大きく立てて。
狙い通り妹紅は黙る。
影狼が踏み出したのは竹林の反対側で、妹紅からはそっぽを向く形となっていた。
「とりあえず次は、霧の湖に行ってみようかなって思ってる。水が綺麗らしいし、居心地のいい場所を探して、しばらく幻想郷をさすらってみて」
言葉が多くなる。
本当に言いたいことを誤魔化すために。
「でも竹林って居心地よさそうだし、迷いさえしなければって思うから、その時は、案内くらい頼んでいいのよね?」
「あっ……ああ、もちろんっ。それくらいならお安い御用さ」
それくらいなら、いいはずだ。
妹紅の声も喜色を帯びているし、こちらが力を失うほどの関わりは持たずにすむはずだ。
友達にはなれなくても、知人にはなれるはずだ。
「いつか……」
でも、願わずにはいられない。
「いつか、そういうのを気にせずいられる幻想郷になるといいね」
そう言って、影狼は駆け出した。
狼女の俊足によって景色が後ろへと流れていく。
妹紅がなにか返事をしていたかもしれないが、これ以上話していたらまた泣いてしまう。
これからどうしようか。
とりあえず、水が綺麗で景色がいいと聞いた霧の湖にでも向かってみようと影狼は決めた。
そして……時は流れて……。
●
「満月の夜にやってくるとはいい度胸だ。あの人間には指一本触れさせない!」
「ひえー通り魔だー!?」
その出遭いはあまりにも唐突で。
「って誰このぶべらっ!?」
牛にも似た一対の角を生やした白髪の女性が、影狼の目の前で盛大にすっ転んだ。
満月の竹林にてとても痛そうな光景が展開され困惑してしまったが、よくよく見ると彼女はさらに痛そうな姿をしていた。
緑の洋服はところどころ破れたり焼けたりしているし、腕には切り傷があったり、長い白髪にはなぜかナイフが一本絡まっている。どういう事態に遭えばこんな状態になるのか。転ぶ前から満身創痍だ。
「あの……えっと、大丈夫?」
影狼は手を差し伸べたが、彼女は自分で立ち上がる。
「むううっ……だ、大丈夫だ。妖怪の手は借りん」
「あなたも妖怪でしょ? 獣臭いし……って、あまり臭わないわね」
「私は人間だ。……半分だが」
鼻をさすりながら言う彼女からは、確かに人間の臭いもした。
人と獣の臭いを併せ持つ者。もしやこいつは。
「なんだ半端者か」
「半人半獣と言ってもらおうか。それに私はワーハクタクだが、元々人間で心も人間のままだ」
「だから半端者なのよ」
「なんだと!?」
煽っておいてなんだが、妙なのに引っかかってしまったなと影狼は嘆息する。
そもそもは突然襲いかかってきた半獣が悪いのだし。
「ん……?」
ふいに、脳裏を紅白衣装の人間がよぎった。
こんなような出遭いをした人間が昔いて、人間の癖に妖怪より長生きしているもんだから何度かお世話になったことがある。
竹林を迷わず歩けるようになったのも半分はそいつのおかげだ。
いや、三分の一くらいかな。
四分の一くらいかもしれない。教えるのが下手すぎて自分でがんばったから。
最後に会ったのは何十年前だったか。
「うぉ~い慧音、生きてるかぁ?」
そうそう、こんな声をした人間だった。
などと思い出に浸っていると、思い出の中から飛び出して来たかのような紅白衣装の白髪少女が竹藪の中から現れた。
こちらも半獣に負けず劣らずのボロボロ姿で服があちこち破けて埃まみれになっており、長い白髪にはナイフが二本も絡まっていた。最近のトレンドなのか?
というか、思い出の人物にしては存在感がありすぎる。
というか。
「ん……? あれ、もしかして影狼?」
本人だった。
相変わらず白い上着に紅の指貫袴という装いだが、今はサスペンダーまで加わっているし、二の腕には用途不明のベルトが巻かれていてオシャレだ。
こちらも着物と女袴ではなく、黒いスカーフで襟元を覆い、花札の『芒に月』をイメージした紅白のドレスを着用ている。裾は当然ながら黒で満月の夜でも体毛をカモフラージュできる。
衣装の西洋化がお互い進んでいた。これも時代の流れか。
そんな小さな変化を実感しつつ、影狼はにこやかに笑う。
「あら、妹紅じゃない。久し振り」
「おひさ」
互いに挨拶すると、慧音と呼ばれた半獣はきょとんとして目を丸くする。
「あ、あれ? この妖怪とは知り合いか?」
「あー、まー、昔、通り魔のような出遭いをしたというか」
「通り魔!? やはり危険な妖怪なのだな。妹紅には指一本触れさせんぞ!」
両腕をガバッと広げ、大の字になって妹紅との間に立ちふさがる慧音。
通り魔してきたのは妹紅の方なのだが、聞く耳を持たないカチカチ頭に見える。
「どうどう、落ち着いて慧音」
今にも飛びかかりそうな半獣を羽交い絞めにしてくれた妹紅は、喜色に満ち満ちた困り顔を浮かべていた。
本当に困っているのかと疑いたくなるほど幸せそうだ。
いや絶対困ってないだろこいつ。
「通り魔、通り魔って、あなた達の方こそ通り魔でしょ。竹林を歩いてるだけの私を何度襲えば気がすむのよ」
「……? お前とは初対面のはずだが」
「あー、慧音、いいからここは任せて」
噛み合わない半獣をどかして妹紅が前に出る。
「まさかこんな夜に会うとはね。竹林にはどうして?」
「ほら、先月の永夜異変……あれ以来、月の力が竹林に多く降り注ぐようになったみたいなの。それで、せっかくだし引っ越してみようかなーなんて」
「また永夜異変絡みか……どんだけ迷惑かければ気がすむのよあいつは!」
妹紅は握った拳をメラメラと燃やした。この怒りっぷり、あのお姫様が永夜異変に関係しているのだろうか? もしかしたら異変の犯人?
慧音とやらも事情を把握しているらしく、不機嫌そうに口をきつく結んでいる。
ボロボロの身体なのに闘志の萎えない人間達だ。
「ところであなた達、二人そろってボロ雑巾になってるけど、なにかあった?」
「巫女に襲われた」
短く妹紅が答える。
巫女って、幻想郷で巫女と言えば博麗の巫女しかいない。
スペルカードルールを制定し、紅霧異変や春雪異変を解決し、妖怪と見れば見境無く襲いかかるという、あの巫女か。
だが半獣の慧音はともかく、妹紅は一応人間に分類される。人間離れしすぎているから勘違いされたのかもしれない。納得。
「魔法使いにも襲われた」
「……えっ?」
「メイドにも襲われて」
「……ええっ?」
「辻斬りにも襲われたの」
「……ええーっ!?」
どう納得すればいいのか分からないほど混沌とした状況だった。
慧音が襲いかかって来た時の言葉を思い出せば、そいつらのターゲットは妹紅だったのか? あの人間には指一本触れさせないとか言っていたはずだし。
「いったいなにがあったのよ妹紅!?」
「肝試しがあったっぽい」
「肝試しでどうしてこうなるの!? 怖いわー」
あまりに意味不明すぎて影狼は恐怖した、振りをした。
だって、今の幻想郷にはスペルカードルールがあるんだもの。
いつかの妹紅とお姫様のように、誰もが気軽に本気で戦える幻想郷なんだもの。
だからきっとそういうことなのだろう。
引っ越し先に選んだ迷いの竹林の治安が著しく悪化したとか、通り魔や肝試しが盛んに行われるデンジャラススポットに変貌しているなんてことはない。と願いたい。
住み心地がなかなかいいのに加え、月の気まで満ちた竹林は影狼にとって理想郷にも等しいのだから。
それに、竹林を住居としなかった理由のひとつもスペルカードルールのおかげで解消されている。
「そうだ! ねえ、せっかく久し振りに再会したんだし、私と弾幕ごっこしない?」
「お前、この状態の私に挑む気か」
ズタボロの妹紅はうんざりした口調だったが、影狼は飛び切りの笑顔で返す。
「一度死ねばスッキリするでしょ? とりあえず一発逝っとく?」
「やめんか!」
拒絶したのは慧音だった。
しかも思い切り頭を振り上げたかと思うと、影狼の額に痛烈な頭突きをお見舞いしてきた。
目頭から火花が散って、視界が真っ白に染まる。あれ? 今、夜だったよね?
うずくまって呻いていると、頭上で妹紅と慧音が言い合っていた。
「やりすぎだよ」
「人狼は危険な妖怪だ。人を騙す。信用ならん」
「顔見知りだから大丈夫だって」
「殺そうとしてきたばかりじゃないか」
「私の命なんて安いもんだしなー」
「安くない! 死んでも生き返るからって、命を粗末にしていい理由にはならない。そんな生き方をしていてはいつか命の大切さを忘れ、他者への優しさも忘れてしまうだろう」
「そんな大袈裟な」
「大袈裟ではない。いいか妹紅、そもそも人という字は――」
「ここは寺子屋じゃないし、私は生徒でもないんだから、そんな話はやめてよ」
「いいややめない。どこであろうと誰であろうと私は教師として清く正しくあらねばならない。いいか、人という字は互いに支え合っていてだな、人は一人では生きていけないと漢字を考えた古人も重々理解しており――」
視界が戻ってきたので見上げてみると、口論は説教になっており、慧音がガミガミ口うるさく雑音を撒き散らしていた。
妹紅はうんざりした様子だが、なんだか、その姿には安心できるものがあった。
そういえば妹紅が言っていたっけ。
『人間にとって益になる妖怪や、半人……半獣くらいならともかく』
この半獣、半分は人間で、心も人間寄り。
また、会話から察するに寺子屋で教師をしている。
草の根妖怪ネットワークで妖怪の寺子屋や半獣の教師なんて聞いたことがない。
じゃあ、半分人間だし、人里で寺子屋を開いているのか。
人の益になる存在……なのだろう。
『人間に害を成す狼女が人間と仲良くしてちゃあ』
友達が、できたのか。
不老不死の人間にも。
「ひぃ~、もう勘弁してよぉ」
「まったく。今日は疲れているし、これくらいにしておいてやろう」
でもこれじゃ友達っていうより、悪ガキとお母さんみたいだ。
影狼の母親とは全然似てないけれど、こんな親も悪くないなと思う。
親を求めて迷子になっていた子供が、ようやく親を手に入れたのか。
父親じゃなく母親だけれど、そこは些細な問題。
すでに両親への想いに決着をつけた影狼と違い、妹紅の親への複雑な感情の決着はまだまだ時間がかかりそうだ。でも、慧音がいればきっと乗り越えられるだろう。
「やれやれ。妹紅ったら私より長生きしてる癖に、まだまだ子供なんだから」
「なんだとーう?」
思わず口に出してしまった言葉は妹紅の癪に障ったらしく、精神的にも物理的にも熱気を放って白い長髪を揺らめかせている。
挑発に乗りやすくなったな。これもスペルカードルール制定の影響か。
「こうなったら出血大サービスだ。影狼、再会を祝して退治してやる」
「ええーっ? こんなボロ負けした後の妹紅をイジメるなんて可哀想だわー」
「即リザレクション!」
突然妹紅が爆発し、髪に絡まっていた二本のナイフが地面に落ちて刺さる。
静かな月の光が荒々しい焔によって塗り替えられ、それが収まるとすべての負傷が消え去った妹紅が立っていた。
リザレクションって、わざわざ名づけたのか。
白いブラウスと紅い指貫袴からはもちろん損傷が消えている。どういう仕組みなのかは気にしないでおこう。
「妹紅、やけっぱちになるな。筋肉痛がつらくなる」
推定お母さんポジションの慧音が心配がるも、推定悪ガキポジションの妹紅は気にも留めない。
すっかり戦闘準備完了のようで参ってしまうが、影狼とて幻想郷に生きる少女、弾幕ごっこは嗜んでいる。先日も霧の湖にて人魚の友人と一戦交えたばかりだ。とても楽しかった。
けれど考えてみれば人間と戦うのは今回が初めて。
「いいわ、相手になる。妖怪の恐ろしさって奴を叩き込んで上げるわ」
「こちとら、妖怪退治の専門家だった時期が三百年ほどあってね。あなたみたいな若造には負けないわ」
「なにが若造よ。"乳離れ"できてない子供の癖に」
「"父離れ"……? お前が言うかそれを!」
なぜか急に怒気がふくれ上がった。
慧音との関係を茶化されたから?
いやしかし、お母さんポジションに見えるとは口にしていないはずだが。
「私はとっくに"乳離れ"してるけど?」
「メソメソしてた癖に生意気な」
「覚えてないわ」
恥ずかしいことをわざわざ思い出させてくれるとは、本気でかかって来いと挑発しているのか。
ならばこちらも挑発を返すのが幻想郷スタイル。
「だいたい、さっき博麗の巫女にやられたって言ってたでしょう? 妖怪退治の専門家の代表みたいなもんじゃない。それに負けた妹紅なんて、元専門家のロートルよ」
「言ったなこいつ。自慢の闇に溶ける黒髪を黒コゲにしてやる!!」
「い、言ったわね!? 言ってはならないことを!」
影狼は全身の毛を逆立たせた。
満月の影響で少々毛深くなっているため、服がちょっぴり盛り上がる。
「毎日毎日入念にお手入れしている、私のキューティクルをどうするですって!?」
「なぁにがキューティクルだ! 闇に溶けて全然見えないわー髪の毛どこ? あ、満月の時期は抜け毛多いもんな。ハゲたのね」
「ガルルー! もう許さない、紅蓮の華を咲かしてやるわ!」
妹紅が紅蓮の翼を咲かせて飛び上がったので、影狼も妖力を込めて飛び上がった。
下の方で慧音が騒いでいるが、もはや止められないと分かっているのか手は出してこない。
竹のざわめきをBGMに、溶けるような夜空の中、真円を描いて静かに狼と不死鳥を照らす銀月の下で。
「狼の牙は不死鳥にゃ届かぬ。ホームグラウンドの竹林で闘おうなんて身の程知らずを悔やむがいいわ」
「そうよ、今や竹林は月に祝福された地。ここで私と闘うなんて気の毒だわ……」
彼女達は今日も生きる。
生を充実させるために闘う。
子供のように笑いながら。
子供のように胸を躍らせながら。
夜を彩るスペルカードを披露する。
「死を知らない私は闇を超越する。小宵の弾は、お嬢ちゃんのトラウマになるよ!」
「この月に祝福されたこの地で闘う不幸を悔やむがいい!」
引っ越し早々、ご苦労なことだ。
過激な肝試しの後だというのに、ご苦労なことだ。
でも手加減はしない。久し振りに気兼ね無く、友達と遊べるのだから。
この出遭いは、いつかの日を夢見て別れた時からずっと、待ち望んでいたものだから。
THE END
こういうのは増えて欲しいですね
面白かったです
やっぱり最後が幸せなお話はいいですね。
GJ。
そして妹紅と言えばイムスさん。コメディとシリアスが入り交じるいい話でした。
そしてステルスしてないダイレクトマーケティング乙。
>孤独のウェアウルフだと→じゃあ孤独のフェニックスだ!
激しく同意
ひっそり竹林に住むと聞いて、もこたんが浮かばないはずがない
こんなSS待ってました
あと、イムスさんの書き方変わった気がするなあ
妹紅の交友関係がまた広がりましたね。
きれいにまとまってて、とても納得できるお話!
しかし恐ろしい七不思議もあったもんだよ
新作を期待しています
お腹いっぱし影狼ちゃん
この作品もその例に漏れず面白かったです。
まさかスペルカードルール制定前の話だったとは。展開の妙に心打たれました。面白かったです