Coolier - 新生・東方創想話

鼻提灯作家

2022/12/08 21:57:16
最終更新
サイズ
23.12KB
ページ数
1
閲覧数
1312
評価数
10/12
POINT
1040
Rate
16.38

分類タグ

 「ねえフランちゃん、僕たちはそろそろ寝ようと思うから、あとのことは全部、自分ひとりでやっておくれよ」
 半開きのドアの向こう、逆光にふちだけ白く輝いているひとりの少女の影があった。すぐに誰かわかる。丁礼田舞だ。部屋の壁にしどけなく背もたれ本を読んでいたフランは、ページから視線を離し顔を上げた。しかしすぐに視線を元に戻しひとりごとのように抑揚のない口調で答えた。
「最初からそのつもり。どうせあなたたちは今日も、セックスするんでしょ?」
「あはは。ちょっと声が大きすぎたかな。里乃はああ見えて、すごく感じやすいんだよ。ちょっと撫でてあげただけで、新鮮な果物みたいにじゅくじゅく水っぽくなるんだ」
 舞は苦笑交じりに答えた。その言葉はフランの声音とは違い感情の弾みが感じられるものだった。けれどフランは、理解していた。見せかけなのだ。ほんとうは酔いどれの繰り言のように内容空疎な、がらんどうなのだ。たった数日間同居しているだけだが、フランは二童子がそういう存在なのだということをすでに見抜いていた。
「好きにしなさいよ。私も好きにさせてもらうから」
「遠慮なくそうさせてもらうよ。でも、いいの? お師匠様も僕たちもなしで君に何かできるの?」
「ええ」
「よければ君も仲間に加えてあげようか? ひとりよりふたり、ふたりより三人の方がずっとキモチいいもの! 大丈夫。僕が優しく手解きしてあげるから」
 フランはやはり何もそそられない。きっとあのふたりは、舞と里乃は何かを演じているだけなのだ。セックスというのはその舞台にすぎないのだ。睦言を囁き素肌を重ね合い、若々しい透明な汗をかく。けれどそれが何かを新しく生み出すことはない。
(隠岐奈がかつて言っていたわ。狂人は子どもを作る能力を持たない……)
 フランは首を横に振った。舞はそれを見るとたちまちフランへの関心を失ったようで、わけもなく作り笑顔をひとつこしらえバタンと扉を閉めた。
(そういえば、私も気狂いなんだっけ)
 部屋にひとり残されたフランは闇の中で首をかしげるしぐさをしてみた。そうか、今のは狂人同士の会話。寄せては返す波のようなもの。ひとつのカラッポであり、永劫であり、時計の針では決して救済しえぬ性質のもの。
 だからフランは、自分ひとりで退屈をしのぐしかなかった。

 きっかけは隠岐奈のひとことだった、「いい加減部屋に引きこもってばかりじゃ、退屈だろう。私といっしょに外の世界で暮らしてみないか?」。フランドールはその誘いに乗った。実際退屈だったからだ。隠岐奈が借りている外の世界のマンションにて、フランは二童子を加えた四人で共同生活をすることになった。けれど想像していたのと違い隠岐奈は随分忙しいようで中々帰ってこない。その上紅魔館にいたころしていたような「退屈しのぎ」をすると周りの部屋から苦情が来るのだ。二童子はあれこれ世話をしてくれるものの両者が打ち解け合うことはなかった。そもそも舞と里乃は最初からふたりだけの世界に閉じこもっていて、極めて外面的にしかフランとかかわりを持とうとしないのだった。もっと露骨な語彙を使うなら、ふたりは典型的な「バカップル」だった。
 もっとも吸血鬼の性で日中はあまり外に出られない。活動するなら夜である。そのうちフランには新しい趣味ができた。隠岐奈が買ってくれた外出用の衣装、トレンチコートを着ての深夜徘徊だった。この日陰者の吸血鬼少女は結局こっちの世界でも無職臭い趣味に目覚めてしまったわけだ。

 冴えた夜気に素肌を撫でられながら、人気のない道をひとり歩く。ローファーの靴音がカァン、カァンと、そびえ立つ建物に狭められた道の中甲高く響いた。自然と神経が研ぎ澄まされていき新味のある爽やかな心地が胸を浸す。名も知らぬ夜の街を歩いている今の自分は、もはや何者でもないという感覚があるのだ。紅魔館とも幻想郷ともスカーレットの血筋とも、あのマンションの一室とも現代社会とかいう代物とも無縁。代わりにほの白い微光を放つあの三日月や、せわしない点滅を繰り返すおんぼろな電灯や、公園の中ポツンとたたずむ忘れ去られた孤独な自転車が現状の友だちである。心やすく感じられる存在なのである。
 やはり夜というのは趣深い時だ、そう思いながら軽やかな足取りであてどなく道を歩いていたフランは、前方に人を見つけた。フランは興味をそそられた。脂っぽい蓬髪の、背の曲がった長躯の男である。道の真ん中を妙にのそのそとした足取りで歩いている。
「見えないし……見えない」
 男はそう呟きながら、両手を前の方にやってもぞもぞと動かしていた。けれども、手が滑ったのだろう。その掌中から不意に何かが転げ落ちる。目を留めてみるとそれは注射器だった。
「ねえ、あなた、落とし物よ」
 男が振り向いてフランの方を見る。頬のこそげた、ズズ黒い肌の中年の男だった。注射器を拾い男に手渡してやると、男はそそくさとそれをふところに収めた。
「……ありがとう」
 ひどくしゃがれた、のっぺりとした声音だった。意志の力だとかハリだとかをまるで感じさせなかった。
「どういたしまして。ねえ、あなたも私の同類?」
「……同類って?」
「夜行性の種族?」
 男は口角を上げ、曖昧模糊とした微苦笑をひとつこしらえた。息の漏れる音とも、引き笑いともつかぬ隠微な音を立てたのち男は答えた。
「夜行性ですよ。朝日なんか毒としか思えませんね。なんたってあっしは、これでも物書きのはしくれなんですから」
 行き先が決定した。フランは男に着いていくことにした。

 男は名を権鷹男(けん たかお)と名乗った。フランは真っ先に「権高(けんだか)」という熟語を思い出したけれど権は割合腰が低く、基本的にですます調で会話をした。
 権のねぐらは築四十年を超えるボロアパートだった。狭苦しく殺風景なところで部屋はひとつしかなく、真ん中には机と座椅子が置かれていた。机の上にあるのは権の商売道具、すなわち鉛筆と消しゴムと原稿用紙、そして缶の中に入ったいくつかのアンプルである。
 権は部屋に入るやいなやもう待ち切れないといった様子で、缶の中に手を突っ込んだ。手慣れた手つきで容器の首部を折り中の薬液を注射器で吸い出す。外套を脱いで腕まくりし、腕の血管に薬液を注ぎ込む。作業が終わると権は深々と吐息をついた。万年床の上死体みたいに横たわっている臙脂色の分厚い毛布を肩に羽織り、座椅子に腰かける。執筆作業のはじまりだった。
 フランは部屋の隅に背もたれ執筆に励む権を観察してたが、その様は異常という他なかった。黒目がちの目玉をぎょろりと剥いて、鼻先がくっつきそうなくらい用紙に顔を近づけ一心不乱に筆を走らせる。晩秋の寒い夜、それも暖房器具のない部屋にいるというのに権は汗びっしょりだった。顔一面にびっしりと大粒の汗の玉が浮かび、頬を伝い顎に集まりボタボタと垂れていった。
(鬼気迫る感じだなあ。そこまでしていったい何が書きたいんだろう)
 フランは部屋の中の数少ない家具のひとつ、本棚から坂口安吾の小説を取り出して読みはじめた。しばらくするとぶごーっという、異様に大きく耳ざわりな、濁音の印象の強いいびきが聞こえてきた。薬の効き目が切れたということなのか、権は机に突っ伏して眠ってしまっていた。眠りというより気絶といった方がいいのかもしれない。その寝顔には生命の気配が感じられない。魂そのものがすっぽり抜け落ちてしまったかのような異質な深さの眠りだった。
 権の鼻先には、大きな鼻提灯が膨らんでいた。
 流石に物珍しくて、フランは読んでいた本を畳の上に置きそばへと近寄ってみた。机の上前のめりになって肘を置き、それを見つめてみる。油のような七色の光を帯びた透明な玉が、権の呼吸に合わせ膨らんだかと思えば縮む。それを延々と繰り返す。そのうちフランは鼻提灯の中にある映像が映し出されていることに気づいた。片手に拳銃を持った全身黒ずくめの巨漢がひとりの少年と対峙している。少年はやたらとキラキラした表情をしていて、拳銃を突きつけられても全くひるんでいない。自分が主人公であることを知っているかのように。机の上の原稿用紙を見てみると、ちょうど同じシーンが小説の文体で記されていた。
「夢の中でも小説を書くのね。鼻提灯にそれが映し出されているんだわ」
 占い師の水晶玉のように鼻提灯はその後の展開を映しつづけた。なるほど、これは夜行性の種族だとフランは思った。鼻提灯作家・権鷹男。面白いやつを見つけることができた。

 朝が訪れる前にフランは権の部屋を出て隠岐奈のアパートに戻った。隠岐奈の術により羽は隠されていたし、日光や流水にも多少の耐性を付与されていたけれども不愉快であることに変わりはない。針山で肌を撫でられるような感触がするのだ。
 土産物を一冊携えていた。坂口安吾の『白痴』という小説である。部屋に戻ったあとフランはつづきを読んだ。それまでフランが主に読んできた本、推理小説などでは描かれていなかったような、人間の別の姿の活写されている一冊だと思った。戦争という舞台、文化映画の演出家と白痴の女という組み合わせ。戦争という巨大な破壊を描くことで、人生の奥底に潜んだ虚無を浮かび上がらせ、その黒々とした光線によって人間の本来あるべき姿、土臭い生というものをじりじりと照らし出す。ラストシーン、あまりに朝が寒いから、空が晴れて日の光が注ぐことを望む主人公の心理など、読み終えたあと――人間の心にはこういった一面もあるのか――そんな感銘が胸に残った。
 本を閉じ、枕元に放り投げてフランは寝床の上に横たわった。ネコのように鷹揚なあくびをする。カーテンのはしっこ、淡い朝の微光がこぼれて白い壁をほのかに暖めている。そろそろ就寝の時間である。いい加減眠たかった。フランは目を閉じ薄い布団を一枚かぶった。閉ざされたまぶたの裏、今日見たもの、触れ合ったイメージが冬の星のように澄んだ光を放ち闇の中をグルグルと駆け巡った。そういったものをひとつひとつ、はたらきのあいまいになった意識を用いて点検しているうちに、眠気が強まっていった。フランはまもなくして寝息を立てはじめた。

 インターホンの音というのは無愛想で融通が利かないものだ。その無機質な電子音に鼓膜を弾かれフランは目を覚ました。戸を開いてリビングに出てみると、襖の閉ざされた和室の方から人の気配がする。二童子なのだろうが、彼女たちはどうも睦事に興じているようなのである。インターホンの音なんてまったく無視している。
 仕方ないからフランが出た。そこそこに珍しい訪問客で、果物の訪問販売だとのたまうのだった。フランはこっちに来る際隠岐奈から渡されたお小遣いを、まだ全く使っていないことを思い出した。フランは800円を支払いよく熟した大きなパイナップルをひとつ買った。
 部屋に戻ると、桃色の下着をつけた里乃が椅子に座っていてミネラルウォーターを飲んでいた。フランが両手で抱えた果実を見るやいなや里乃は噴き出した。
「どうしてパイナップルなのよ。パイナップルに吸血鬼、ヘンな組み合わせねえ。今日の晩御飯は酢豚でも作ろうかしら」
「ダメよ」、フランは無愛想に答えた。「これは私が食べるの」。
 フランは里乃に目もくれてやることなく部屋に戻った。物の少ないよく整った洋室においてそれはたしかに場違いである。炬燵の上にのせてみるとなんだか王様みたいだった。てっぺんから突き出て四方八方に広がる濃緑の葉っぱ。みっちりと隙間なく果実を覆う、金色の鱗のような分厚い皮。熱帯の盛んな日差しを浴び育つこの南国の果実には、アイドルのように華やかな存在感がある。なんとなく誇らしい気分になれた。炬燵の上でんとふんぞり返るパイナップルに対し、フランは久方ぶりの所有のよろこびを見出していた。お気に入りの玩具と同じでいつまで眺めていたって飽きることはなかった。

 その日の晩も隠岐奈は帰ってこなかった。夕食はねぎだれをかけた油淋鶏だった。フランはまたトレンチコートを羽織って散歩へと出かけた。両手を用いてパイナップルを抱きかかえながら歩き、もう一度権鷹男の部屋へと向かった。
 権鷹男は相変わらず眠りこけていた。その鼻提灯は昨日よりひとまわり大きくなっており、やはりその表面に空想の中の情景を映し出しているのだった。フランはそれを見てそこはかとなく安堵し、台所を借りてパイナップルをきれいに切り分け、皿に盛った。テーブルの上に散らばる原稿用紙を整理し、スペースを作って皿を置く。フランはパイナップルのうちの一切れを食べはじめた。そうしているうちに、この殺風景な部屋には場違いな南国の果実に嗅覚を刺激されたのか、権がめざめた。権は華やかな黄金色に輝くその果実にすっかり目を打たれたようでしきりに目をしばたいていた。
「アンタの分よ。私は一切れあれば十分だから、あとは好きなだけ食べなさいよ」
 権は信じられないといった様子で一瞬首をかしげたが、誰だって泣く子と腹の虫には勝てない。獲物を捕まえるようにバッと手を伸ばし果実を鷲掴みにし、むさぼりはじめた。柿色に濁った乱杭歯で肉厚の果肉へと食らいつき、じゅるじゅると音を立てて果肉を啜る。もはや獣と見分けがつかない。
「なんだか、人を殺した直後みたいねえ」
 一切れ分のパイナップルをすっかり腹に収めたフランが、批評的な冷静さでそうつぶやく。権は一瞬咀嚼をやめフランを睨みつけた。けれどすぐにどうでもよくなったようだ。寝起きのかれはこういったことに対し、関心を持続する能力に欠けていた。また獣のように果肉をむさぼりはじめた。
「あなた、また痩せたようね。ひとまわり背が縮んだように見えるわ。ちゃんとご飯を食べなさいよ」
 伸びきったヒゲに付着した果汁を手の甲でぬぐいながら、権はフランに目もくれることなく答えた。
「食べてはいるんだよ。それでもどんどん痩せていくんだ」
「肉体労働をしているでもないのに? 薬が原因なんじゃない? いい加減やめなさいよあんなもの」
「昔は薬がなくても書けた。でも今は無理なんだ」
「齢を取ったということ?」
「ああ、そうだ」
 その声からは人間らしさが一切感じ取れない、空無そのものだった。もはや、ただ習慣だから、反復しようとしていただけなのかもしれない。パイナップルを食べ終えた権は机の隅に転がっている注射器と、アンプルを手に取った。
「僕はこんなもので、自分の崩壊を支えてきた」
 年月の絶え間のない波にかろうじて持ちこたえている人間の言葉だった。権は注射器の針を、腕の皮膚にうっすらと浮かぶいくつかの血管のひとつへと突き刺した。音もなく注ぎこまれていく薬液。目盛りによってあらわされる細い円筒の世界の中を段々下っていって、カラッポになる。
(私が紅魔館の自分の部屋の中で過ごしている間にも、外の世界で歴史が動いていたのと同じように、あの注射器の中にもきっと別の世界があるんだわ。あの人はもうそちら側の住人なのね)
 まもなく昨日と同じ凄まじい発汗がはじまった。権はかじりつくようにして原稿用紙へと向かい、疲れの色を見せることなく鉛筆を動かしつづけた。フランの目には死に急いでいるようにしか見えなかったが、同情を感じることもない。ウェットな感傷とは一切無縁だった。とはいっても権に対する侮蔑や、皮肉っぽい感情が胸に去来することもない。今のフランは夜の湖面と同じようなもので、ただ権という人間をしずかに映し出すだけだった。さざなみがその像をかすかに乱すことくらいはありうるだろう。けれども積極的に色を塗ったり、新しい輪郭をつけたすことはありえない。
(お姉さまや隠岐奈だったらこんな時を何をするんだろう。何を語るんだろう)
 フランは今度は「堕落論」という短い随筆を読んだ。小説と評論という違いはあれど「白痴」と響き合う箇所が多いと思った。どうもこの作家は人間の生を孤独で虚無的なものととらえているらしい。たしかにそうだろう。人間はいずれ必ず死ぬのだから。壊れてしまうのだから。
(死ぬ、壊れる……私の本分ね)
 薬で作った集中の反動ということか、不自然なほどの唐突さで権はまた眠りに落ち、鼻提灯を膨らませはじめた。やはりそれは更に大きくなっていてもう風船ほどもあった。権の顔と同じくらいのサイズだった。
 フランはそばによって、その半透明の球体の中をのぞきこんでみた。これまでとは少し違うタイプの風景が見えた。セーラー服の少女が首を絞められている。これだけなら小説のワンシーンなのだが、明らかに主観の視界なのだ。これまではどれも客観、三人称の視界だったというのに。セーラー服の少女の顔はどんどん赤くなっていき、しまいには滑稽なくらい赤黒く膨れ上がった。かと思えば、潮が引くように血の気が失せていき最後には青くなった。タコの血の色みたいな顔色で口の周りには細かな泡が残っていた。ひらきっぱなしの双眸から白っぽい涙がひとしずくこぼれていて、一瞬やわらかな光を放った。
 
 翌日の晩、隠岐奈は家に帰ってきた。この時の隠岐奈の恰好は恰幅のいい好々爺風だったけれど、札束に火をつけ明かりの代わりに用いていそうなふてぶてしさがあった。
 夕飯のあと、フランは部屋で隠岐奈と話をした。顔は相変わらず素晴らしい美人なのに、恰好は深緑色のパーカーと灰色のスエットと、部屋着とはいえずいぶん野暮ったいものだった。フランはそんな隠岐奈といっしょに炬燵を囲んで座り、足をちょいちょいぶつけたりしながら近況について語った。深夜の散歩がマイブームだとか、もらったおこづかいをパイナップルの購入に使っただとか。隠岐奈は聞き上手なタチであり、しきりに相槌を打ちながら「それでそれで?」とどんどん話を引き出してくるのだった。フランは権鷹男のことも、かれの鼻提灯のこともことごとく隠岐奈へ話してしまった。
「面白いじゃないか。ここは幻想郷と比べずっと不思議の不毛な土地柄だというのに、そんな掘り出し物を見つけてくるとはな、流石だフラン」
 隠岐奈はフランの頭をなれなれしい手つきでなでなでした。フランは特に反発はしなかった。もう慣れ切っているのだ。フランはしずかにそれを受け入れながらも言葉をつづけた。
「ねえ、隠岐奈。人間にとって死ぬってなんなんだろうね。ものすごく重大なことのように扱うのに、推理小説とかだとすごく雑に人を殺すじゃない」
「あー、急にどうした? 何か気になることがあったのか?」
「あの作家の鼻提灯に、首を絞められて死んじゃう女の子の姿が映ってたの」
「ああ……。人間というのも中々複雑な存在でな。生への執着と矛盾することなく死へのあこがれを抱いていたりするんだよ」
「どうして?」
「理由はいろいろあるよ。例えば、生きるっていうのはそれだけで疲れることだしな。人間はつねに生へと駆り立てられているクセに生にも疲れるんだよ。この矛盾から解放される一番手っ取り早い方策は自殺さ。他には、人間は死が身近にある時ほど生存本能が昂るんだ。生の実感を感じやすい生き物なんだ。戦場の兵士が勃起しやすいだとか、ホラー映画やスプラッター映画でセックスシーンと残酷なシーンが表裏一体となっているのはこのためだな。また死は絶対的な畏怖の対象ではあるが、同時に陽気な哄笑との結びつきも非常に強い。いわゆる「トリックスター」と呼ばれる存在や、メキシコの「死者の日」のような祝祭の存在はそれをよく表しているな。とかく人間というのは複雑でな、つねに引き裂かれ、巻き込まれつづける生き物なんだ」
「なんだか、よくわからないわね」
「お前は、まるで白痴だなあ」
 隠岐奈は炬燵の上、網かごにのせられたミカンのひとつを手に取った。皮を剥いて一房つまみフランの口元へと運んでいった。
「ほら、あーん」
「あーん」
 フランは目をつむって大口を開けた。吸血鬼らしい犬歯の鋭さが目立つ歯並び。隠岐奈はミカンの房を投げ込んだ。フランは口をしずかに閉じて咀嚼をはじめた。
「それで、今日もソイツのところへ行くのか?」
「……どうしようかなあ」
「行ってこい行ってこい。その方が私にとっては都合がいい」
「どうして?」
 隠岐奈は眉を吊り上げ、傲岸不遜がそのまま形を取ったような不敵な笑みを浮かべた。
「今日は二童子に夜伽を命じようと思うんだ。私の魔羅にかしづかせて愉しむのさ」

 雨が降っていたから傘を持って出かけた。等間隔に並べられた電信柱、そこに設置された電灯によって照らされた道を一人歩く。濡れたアスファルトの上白い光が滲むように広がって微妙なまだらを作っている。途切れることなく注ぐ雨の音や、雨樋とつながった錆まみれのパイプが勢いよく水を吐き出す音が、耳にひっついて離れなかった。フランは隠岐奈がくれた菫色の傘をクルクルと回転させた。
 道の両側にはいくつもの建物が立ち並んでいる。それぞれの建物にそれぞれの生活の営みが息づいている。さまざまな用途が、様式がある。各々の命のざわめきとつながっている。やはり不思議な気分だ。幻想郷にいた頃、自分はどんな風に外界とつながっていたんだっけ。それがもう、思い出せない。
(私も半分くらい死んでいるんだ。巻きこまれていないわけじゃないんだ)
 そう思うのにどうしてか孤独の感覚が、心細さが胸のうちでざわざわと疼くのだった。隠岐奈がそばにいて欲しい、そんな思いがふと頭をもたげた。けれども隠岐奈は今二童子たちと快楽に耽っている。きっと熱帯のように高温多湿な性交を行うのだ。そのイメージがフランの脳内にはあった。
 その足取りは自然と早まっていった。ありとあらゆる方向から隠微な、不愉快な圧力がかけられているようだった。

 権鷹男の家に着いた。フランが玄関の扉を叩くと権が出てきた。
「こんばんは」、その日の権は珍しく沈着で頽廃の気配を感じさせなかった、「今日も来るんだな」。
「こんばんは。まあ別に取り立てて用があるわけじゃないのよ。ただの暇つぶしなの」
 その日の権はどうしてか、ギラギラと濁った輝きを放つ双眸をフランの方へと向けていた。その瞳にひらめいている感情とは何か、明瞭だった。憎悪だ。
「なんで今日は薬を打っていないのに、見えるんですかねえ」
「あなた、私を幻覚とでも、自分の物語の登場人物とでも思っているの?」
 呆れ顔でフランは言った。薬を打っていないという権の言葉に嘘はなかったのだろう。それでもかれの情動は極端だった。
「うるさい! 死ね! 死んじまえ!!」
 その剣幕にはフランも驚いた。権はフランの首めがけて両腕を伸ばしてきた。が、フランが咄嗟に権の胸を突き飛ばした途端、紙細工のようなあっけなさでコテンと倒れてしまった。どうも更にひとまわり体躯が縮んだようだ。仰向けに倒れたまま腕を伸ばしむやみやたらと虚空を引っ掻く権の姿は、亀そっくりで無力感に満ちていて、見ていて哀しくなってくるほど滑稽なものだった。
「ああ、死にてえ……」
 すぐにフランは、ほんとうは死ぬ気なんてないんだろうなと直感した。口癖のような軽薄さの言葉としか思えなかった。
「隠岐奈が言ってたの。人間は生きたいと思ってるのと同時に、死にたいとも思う生き物だって。よかったらまたあのパイナップル買ってきてあげるけど、いる?」
「いらねえッ!」
「こんなところで話すのもなんだから、中に入れてよ。集合住宅だとすぐ苦情が来るじゃない」
「もう好きにしろよ」
 フランと権は部屋の中へと入った。権はすぐさま万年床の上にごろりと寝転がった。天井をじっと見つめ思索にふけっているようだった。「今日は執筆はしないの?」とたずねても権は答えない。しかたないからフランは部屋の隅に体育座りの姿勢で座った。膝頭に額をくっつけるようにして丸まり、目を閉じた。このまま眠ってしまえばきっと甘い夢が見れるのだ。何もかも都合のよい、円満な夢を……。家族との仲は良好で肉体は健康で若々しく、生活は厳しくとも時代は上向きで努力すればした分だけ報われる。そういう世界の中で日々情熱を胸に抱き生きていけるのだ。もちろん時には孤独を感じることだってあるのだろうけど……。
 けれど権は違った。権はあくまで、作家だったのだ。かれが布団の上に臥し天井を見上げるのは、原稿用紙に記すべき新しい言葉を思いつくための雌伏なのだった。新しい言葉の世界を切り拓くための。かれは唐突にバッと立ち上がった。もっとも「唐突」に見えたのはフラン個人の感覚に由来する。権からするとそれは「運命」というほかないタイミングだったのかもしれない。立ち上がった権は天を仰ぐかのようにのけぞり両手を宙に掲げた。かと思うと、突然肩を震わせかすれた笑い声を立てた。その双眸から涙があふれ出てズズ黒いかれの頬を濡らした。そういえば、まだ外では雨が降りつづいている……。
「お嬢ちゃん、ワシは人を殺したことがあるんよ!」
「セーラー服の女の子を縊り殺したの?」
 権の表情が凍りついた。フランはすべてを察した。自分の何気ない言葉が権のたくらみのすべてを、破局に追い込んでしまったのだとただちに理解した。
「わからないんだよ。オレはほんとうに自分が少女を絞殺したのか、みずからの頭脳でこしらえた精緻な空想なのかもうわからないんだ」
「じゃあ、もう一度再現してみる? 大丈夫。私は首を絞められたくらいじゃ死なない。いや、死ねないから」
「どうしようもねえ莫迦娘だな、コイツ」
 のしのしとフランの方へとにじり寄ってきたかと思うと、権はフランの横っ面を張った。フランは理解できなかった。継ぎ接ぎだらけの衣服みたいに、あやういほころびが世界のあちこちに生じている気がした。そしてその世界の中でフランはおそらく、致命的な異物なのだった。
 恐ろしい理解が突然やってきてフランの頭を打った。けれどそれはたちまち、塩酸の中の肉片のように泡に包まれ消えていった。世界はしぶとかった。いかに破壊をつかさどる吸血鬼といえどこれを壊すことは不可能のようだった。それはまあ、仕方ない。ラスボスの大魔王を打ち倒すさだめの勇者でも、ダンジョンの壁ひとつ砕くことができないというのはよくあることだ。
 権は最後に深々としたため息をついたあと、宣言をした。
「オレは作家をやめるよ。田舎に帰って百姓のまねごとでもして余生を送る。それですべて片付く」
 権はへへっと笑い、また布団の方へと戻ろうとした。かれの足取りはどうしようもなくおぼつかないものだった。そのせいでスネがゴチンと机に当たった。はずみではしっこに置かれていた注射器が床に転げ落ちた。たちまち権の視線は注射器の針の、氷のように澄み切った銀色の光芒へと吸い込まれていった。
 人間はどうしようもなくかなしみを背負った生き物で、きっとそれがすべての大本なのだった。権は注射器を拾った。アンプルの首部を折り、中の透明な薬液を一滴たりとも残すことなく注射器で吸いあげた。
「最後に君の名前を教えてくれ」
「フランドール・スカーレット」
「冗談みたいな名前だな」
「あなただって。『権 鷹男』だって」
「そうだな」
 権が針を腕の血管へと突き刺した。
「バイバイ」
 権はたちまち異常なほど発汗し、意識を失い倒れこんでしまった。また例の鼻提灯が膨らみはじめる。今度の膨らみ方は際限がないほどで、また膨らめば膨らむほどそれとは逆に権の肉体のかさが縮んでいく。そしてとうとう権の肉体はキレイさっぱり消え失せ、あとにはかれの魂の垢のような、巨大な泡のみが残った。 
 今度はフランが選択し、行為する番だった。油のような七色の輝きを放つこの鼻ちょうちんに手を触れてみれば、きっとさまざまな物語を、今までにないたしかな肌触りで楽しめるのだろう。命の血を搾り、それを混ぜたインクで作り出された数々の物語。連綿として途切れることのない曖昧模糊なる七色のタペストリー。けれどもおそらくそれは、不完全なのだった。遅かれ早かれ大口を開けた虚無に呑み込まれてしまう性質のものなのだった。だからフランはただ、しずかに掌を握りしめただけだった。パンッ、と、意外と小さな音を立てて目の前の泡が破裂した。一瞬そこには七色に輝く光の粒が振りまかれた。けれどそれは、風に当てるにはあまりにも脆すぎたようだ。光の粒々は黄色い明かりに照らされた部屋の中たちまち輝くことを忘れ、色彩を失い、最初から存在しなかったのと同じになってしまった。
 人が亡くなったならば、何らかのけじめをつけなくてはならない。千古より変わることのない人間の掟なのだった。そしてそれはしばしば、「弔い」という言葉を用いて表される……。
 これと同じ時に、隠岐奈と二童子は熱帯のように高温多湿な性交をしているのだろう。それはどうやら救いの一形態のようだった。どれだけ遠回りな救いであろうと、だ。
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
良かったです
2.90東ノ目削除
フランと後戸組を狂気という共通点で結び付けつつ、フランが経験する狂気と後戸組が展開する狂気はまた別物、という物語の組み立てが面白かったです。
3.80竹者削除
よかったです
4.90名前が無い程度の能力削除
最初に読み始めたときの印象からは考えられないくらい良かったです。
5.100名前が無い程度の能力削除
面白かったです。気だるげな雰囲気のなかにしっかりと思考があってよかったです。鼻提灯に物語が浮かぶという光景もシュールでありながら不思議と幻想的で、それを見届けて、最後に割るフランドールが印象的です。
6.100南条削除
面白かったです
矛盾するような心象を抱えながら薬を打つ作家も、そこから何かを知れたような知れなかったようなフランも二人とも素敵でした
7.100めそふ削除
面白かったです。汚いのに美しかった
9.90已己巳己削除
大変読み応えのある作品でした。とても面白かったです
10.100おーどぅ削除
まじか!適当に読み進めたと思ったら久々に傑作に出会えた気分!
11.100名前が無い程度の能力削除
いいですね