*
「お前に力を与えよう。代わりに、私の下で働かないか?」
私の前に突然現れた、九本の尻尾を持つ妖怪は、私にそう告げた。
その凜とした態度に秘めた強い力。私の二本の尻尾が震えているのが分かった。
持って回った言い方をしなくても、一言、「従え」と言えばいいだろうに。
だから私は、渋々という態度を全面に出して頷いた。
するとその妖怪は、少し苦笑いして言った。
「与えるのは力だけではない。悪い話ではないぞ。今は分かるべくもないが、いずれ分かる。」
そうして、私はその妖怪の式になった。
彼女の言う通り、沢山の大切なものを見つけていく日々が始まった事に、私はまだ気付いていなかったけれど。
*
「いずれ分かる。」
言いながら私は苦笑いしていた。
私の式になれ、と言った時、二本の尻尾を持つ化け猫の少女は渋々と頷いた。
それは、私が紫様にした仕草と全く同じ。
紫様もこんな気持ちだったのだろうか。
この少女にはまだまだ足りないものが多過ぎるのだ。私が教えてやらねば。
そう、人と共に生きるという事の意味を。
それはかつて、紫様が私にそうしてくれたように。
まずは、名前からだ。私は、この少女を見た時から一つしかない、と考えていた名前を与えた。
「私の名は藍。お前は今日から橙と名乗りなさい。いいね、橙」
名前を呼ぶと、少女の2本の尻尾が揺れ、ほんの少しだけその強張りに綻びが見えた気がした。
なかなか自分でつけた名前を呼ぶのは恥ずかしいものだ。慣れなくては。
これから、ゆっくりと。
*
彼女は私に名前を与えた。
妖怪になる前は誰も私を気にかけもせず、せいぜい指示語でしか表されなかった。
妖怪になった後は誰もみな「化け猫」としか呼ばなかった。
そんな私を、圧倒的な力を持つ妖怪がどこか恥ずかしそうに呼ぶのだ。
張り詰めていたものが一瞬だけ緩んだ。
(「この人なら…」)
だが、その考えは自らですぐに打ち消した。
人間だろうと妖怪だろうと、簡単に信用してはいけない。
それが、今まで這いつくばるように生きて来た中から私が学んだことだった。
大体、働くと言っても、何をさせられるか分かったものではない。最悪、この場で殺された方がましだった、なんてことも有り得る。
とにかく、信用してはいけないのだ。
*
働く、といっても何をさせればよいのかわからないものだ。
当然のように、橙は家事の類は一切出来ず、それを任せるわけにはいかなかった。
そんな有様では紫様の身の回りの世話をする事も、もちろんできない。
結局、今まで通り食事も、洗濯も、紫様の世話も私がしなくてはならなかった。
そこで、しばらくは見て学ばせようと考え、私の仕事を手伝わせる形で覚えさせることにした。
始めのうち、橙は慣れぬ家事に渋々という様子を隠さず、また仕事をなかなか覚えられぬ事にも苛立っていたようだった。
しかし、小物を取らせる、配膳をやらせるなど、細々とした仕事をやり遂げる度に、私は橙を褒めた。
始めから出来る者などいないのだ。出来ないから渋々という態度になる。だから、出来た時は必ず褒める。これも、紫様に学んだ事だった。
もちろん、今ではなかなか褒めて貰える事も少なくなったが。
そうやって褒めている内に、橙も打ち解けてきたようだった。私を「藍さま」と呼び、後ろを着いてくる姿はなかなか可愛いものだ。
こうやって、少しずつ学んでいけばいいのだ。私がかつてしたように。
*
思っていた「最悪」はなかったが、家事という私にとっては「次悪」とも言える仕事を彼女は命じた。
ついぞさっきまで放浪の身だったのである。家事なんて出来る筈もなく、全く持って面白くない。
特に、式である以前に化け猫でもある私は水に触れられないのだ。炊事洗濯なんて出来るわけがなかった。
しかし、式になった以上、上からの命令は絶対であり、私に出来る事は、これみよがしに「渋々」という様子を見せ付ける位であった。
だが、彼女は私がいくら失敗しようと、途中で投げ出そうと、決して叱る事はなかった。
それどころか、少しでも進歩した所は褒め、私の頭を撫でた。
そうやって少しずつ、家事にも彼女にも慣れていき、気がつけば私も彼女を名前に様付けで呼ぶようになっていた。
だが、不思議な事に全くもって不快ではなく、むしろ楽しいとさえ言えた。
彼女に褒められる為に頑張ろうと思えたし、頑張って出来るようになれば楽しかった。
(「この人なら…」)
あの時打ち消した思いは、もう確固たるものとして私の内にあった。
彼女の言う「力だけではない」何かを、少しだけ分かるようになってきた気がしていた。
*
橙は大分私の仕事を手伝えるようになってきていた。
しかしながら、そもそも水を嫌うため、掃除等はともかく、水回りの仕事はいつまでも一人では任せられない。結局は私がやらなくてはいけないことに気付いた。
そもそも、みんな橙が出来るようになったのなら、私は何をしたらいいのだろう。
元々私の仕事を任せるのが式としての存在意義なのだから問題ない気もするが、残念な事に私も式である。
全てを橙にやらせてしまったら、私が紫様の側にいる意味がなくなってしまう。
だから、私は橙を外に出す事にした。
そろそろ、私以外の人(まぁ妖怪だろうが)とも関わらせるべきだと思ったのもある。
橙は私には大分慣れてきたようだが、それだけでは意味がない。見知らぬ環境、人々、そういった中で自分の力で作っていった関係がいかに大切であるかを知らないといけないのだ。
そこである日、私は橙を呼び出してこう言った。
「橙、今日から家事はいいから、外で遊んできなさい。遅くなっても、楽しいのなら帰ってこなくても構わないから、友達を作るんだよ」
思えば、なんでこんな言い方をしてしまったのかわからないが、私はとにかく橙に「友達を作って欲しい」という一念でこう言ったのである。
橙はしばらく何も言わず、急に飛び出して行った。その時も私は「やはり家事はつらかったのだな」と思っていたのである。
これでよかった、と。
つまり、私は間抜けだった。
昼前から雨が降ったにも関わらず、橙はその日、帰って来なかった。
次の日も。
その次の日も。
橙が横にいない代わりに、雨音だけが屋根を叩いていた。
*
「帰って来なくても構わない」
その一言だけが私の頭の中で何度も鳴り響いていた。
何故?
私は何か粗相をしただろうか?
確かに、きちんと出来てはいなかったかもしれない。しかし、一生懸命やっていた。あの褒めて、撫でてくれたのは何だったのだ?
気がついたら私は飛び出していた。
どれだけ走っただろうか。走りながら、頬に冷たいものが伝うのを感じた。手の甲で拭うと水滴が付いている。
雨だ。あんなに晴れていたのに。
私の気持ちに呼応するように降り出した雨は、ひどさを増すばかりで、私の頬は何度拭っても乾く事はなかった。
信じかけていたのに。名前なんて与えて、温もりをちらつかせて、結局突き放すのか。
だったら、名前なんかいらなかった。温もりなんか知らなくてよかった。
一人の夜はどうしようもなく寂しかったが、私を痛め付ける事はしなかったから。
*
橙が帰ってこなくなって三日。ようやく長雨も上がった。
そう、三日。三日もの間、橙が帰って来なくなって、初めて私は自らの愚かさに気付いたのだった。
橙は家事が嫌になったのではなく、私が嫌になったのだ、と。
それがいつの時点からなのかはわからない。もしかしたら始めからずっとだったのかもしれない。
それをずっと隠して、無理矢理笑顔を作るようになっていたのだとすれば、一番阿呆だったのは私だ。
「家族」の温もりを与えると言いながら、「式」として縛りつけていたのだから。
しかし、私が嫌で飛び出したならば、連れ戻すのは躊躇われた。
もっといい人が橙にちゃんとした温もりを与えてくれるなら、それに越したことはないのではないか?
そう自分を無理矢理に納得させて、私はいつものように家事を始める。
いつもより、所作が遅い気がするのは気のせいだろう。
まずは部屋の掃除からだ。橙が手伝ってくれていた仕事も、また一人でやらなくてはならない。
以前に戻っただけと言えばそれまでだが、傍らに空間が空いただけでもの寂しい気持ちになるものだ。
それを打ち消すかのように、いつもより念入りに埃を払い、磨いていった。
しかし、この三日掃除ばかりしていたのだ。目につくほどのゴミもなかなかなかった。
掃除を終えると、次は洗濯だ。
ここからはいつも一人だったから、少しの間、この寂しさを追い払うことが出来るだろうか。三日分の洗濯物が没頭させてくれるといいのだが。
しかし、いつものように洗濯籠を持ちあげると、何か違和感があった。
なんだか妙に軽い。
三日分とは思えない軽さだ。これでは精々二日分だろう。不思議に思い、底の方を探ってみた。
無い。
一昨昨日の洗濯物がないのだ。
まさか。いや、でも。しかし。
いくつもの言葉が過ぎったが、ここから導き出せる解なんてそう何通りもない。
一番高い可能性は。
私は慌てて裏庭に出た。そこにあったのは。
「…。この干し方じゃシワになってしまうな…」
私の声は震えていたかもしれない。
ようやく晴れた、雲ひとつない青空の下に、物干しに掛けられた洗濯物。
不器用を隠そうともしない。出来るだけ水に触らないように干したのも伝わってくる。
それでも、一生懸命に、自分に出来ることを頑張ったのだ。
もう我慢ならず、私は袖で顔を隠して、鳴咽を漏らした。
橙。
私のかわいい式。
今迎えに行くよ。お前が嫌だとしても、私はお前がいなくちゃ、もう駄目なんだ。
「温もり」を手放せなくなっていたのは、私なんだ。
何より、洗濯という大仕事をやり遂げたお前を褒めてやらないと。
頭も撫でてやる。お前が嫌がるまで撫でてやるんだ。
顔を上げて、私は駆け出した。空から注ぐさんさんとした光が、この涙も、洗濯物も乾かしてくれるだろう。
*
私が戻ったのは、結局、私が一番嫌っていた暗がり。
雨を避けて、廃屋で、以前と同じように膝を抱えて眠る。屋根のない廃屋では、雨が吹き込まない所の方が少なく、寒かった。
そうやって3回の夜を越えた。たった3回。片手で数えられる夜なのに、気が遠くなるほど永かった。
かつては目を閉じればすぐに朝だったというのに。ずっと目をつむって、雨音だけを聞いていたのに、眠れることはなかった。
誰とも会わず、何も口にせず、そうやって4回目の夜を迎えた。
雲ひとつない、星空が広がる夜。屋根のないこの場所に、静かな灯りが射していた。
もう目を閉じ続けるのも疲れて、私は空の輝きを、霞がかったような意識の中で眺めていた。
ああ、星空はこんなにも色彩豊かだったのだな。白と黒だけだと思っていたのに。
紅。
橙。
黄。
碧。
蒼。
藍。
紫。
ああ、そうか。
もう私は温もりを、モノクロではない、色づいた世界を知ってしまった。
だから、こんなにも眩しくて、痛いのか。
もう私はあの色づく世界を捨てたから。あの私だけの、私のためにあの方が付けてくれた名前を捨てたから。
蒼い空に輝く、橙色の星。
あの色は、私だったのに。
あの方がくれた、私の色だったのに。
戻りたかった。
必要とされていなくてもいい。それでも、またあの温もりに戻りたかった。
洗濯だってする。炊事だって覚える。
だから、また傍に。傍に置いて下さい。
でも、そう思えたのに、もう私の世界が色づく事はないのだ。
貴女の言う大事な事が、やっとわかったのに。
静かに涙が零れた。星空が滲んだ。
その時だった。有り得ない筈の声が聞こえたのは。
「見つけた」
*
「見つけた。捜したぞ、橙」
橙はかなり離れた人里の、さらに外れた廃屋で膝を抱えていた。午前中からなりふり構わず捜していたのに、見つけたのは夜遅くになってしまった。
協力を要請していた白狼天狗が見つけたという連絡をブン屋から受けて、急いで駆け付けたのだ。
私は橙の頭を撫でながら言った。
「橙。洗濯、してくれていたんだな。とても上手に出来ていたよ。ありがとう」
橙はずっと俯いたままだ。
しかし、私の胸に顔を押し当ててきた。
私は撫でる手を止めずに言った。一つ咳ばらいをして。
さぁ、もう一度、仕切り直そう。
「さて、これにて私、藍とその式、橙との契約を打ち切る。尚、これは契約上、式神使いから一方向的に提唱出来るものであり、異論は一切認めないものとする」
びくん、と橙の、いや二本の尻尾を持つ化け猫の体が震えた。
泣き腫らした顔が私を見つめる。縋るように。
大丈夫。大丈夫だよ。
「その上で、今一度問おう。お前、私の式になる気はないか?家事の類が仕事の中心になると思うが」
大丈夫だから。またそんな泣きそうな顔をしないでおくれ。
橙は何も言わず、一度だけ頷いた。
「ふむ。これにて契約成立だ。しかしお前、では不便だな。何か希望の呼び名はあるかい?」
橙はまた俯いてしまった。
その顔が泣いているのか、笑っているのか、その両方なのか私には分からないが、ポツリと一言呟いた。
「橙、とお呼び下さい。私の、大切な方から頂いた名前です」
私は黙って橙の頭を撫でていた。
これから、よろしくな。橙。
*
私は黙って2本の尻尾を持つ化け猫の少女の頭を撫でていた。
ああ、私もこんな風に藍様に撫でられたっけな。最近ではなかなか撫でて貰えないのが寂しい所ではあるけど。
しかし、同じ事を繰り返すなんて、私もまだまだだ。せっかく尻尾も二本から九本に分かれるほど成長したと思っていたのに。
藍様が言うように、式を持つというのはいい事だ。私自身も成長できるし、何より、自らの式というのはかわいい。
さて、そろそろ泣き止んだだろうか。
やっと少し慣れてきた、私が与えた名前を呼ぶ。
「そろそろ行こうか。紫様も藍様も待ってる。帰るよ、蒼」
蒼。この空の色と同じ名前を付けられた少女は、顔を上げて言った。
「はい、橙さま」
*
「あれ、紫様、どちらに行ってらっしゃったんですか?」
「ん?橙の所よ?」
「いいところなんですから邪魔しちゃ駄目じゃないですか」
「いいところだから、よ」
「そういうのを悪趣味っていうんですよ。私の時も覗いてたじゃないですか」
「悪趣味でも趣味、よ。簡単に止められるものは趣味じゃないわ」
「…解になっていません。大体、私のときだって、橙が飛び出した日の朝に紫様がちゃんと起きて、すぐに洗濯物を出していたら、その日のうちに気づけてたんですよ?一昨昨日だってそうですし…」
「いいじゃないの。だって、また新しい「色」がこうやって生まれたのよ?とても嬉しいことよ。私にとっては曾孫みたいなものね…あら?そしたら私はひいおばあちゃんじゃないの。それはないわ。前言撤回」
「何一人で盛り上がってるんですか。それは私だって孫みたいなものですから、嬉しいですよ。ちゃんと大事なものが受け継がれていったのですから。それより日々の生活をですね…」
「七人より増えたら大変よねぇ。名前付けるの」
…付いていく人を間違えただろうか。
話の合わない主人からは目線を話し、私は庭を眺めた。
橙のやつ、洗濯物取り込まないで行ったな…。
洗濯物はまた夜露で湿っていた。私は庭に出て、このままではシワになってしまう洗濯物を、干し直した。
このまま干しておいても、明日には乾くだろう。
空には、明日の快晴を約束する、蒼天の星空が広がっていたから。
それは、また新しい色が生まれた事を祝福するかのように輝いていた。
いい出会い、あるといいですなぁ…まずは、おんもに出るとしましょうかねw
ここは「人」ではなく「誰か」等の言葉にしたほうが良いのではないでしょうか。
橙が心を許す相手は人間に限らないと思うので。
それまで他人だった相手と家族になるのは大変なことだと思います。
すれ違いから深まる愛につながる展開に作者様の気合を感じました。
また家族物を是非書いていただきたいです。
涙で前が見えない……学校に行けないじゃなですか
今更になってようやく気づき、読んで、感動しました
橙と藍の心の葛藤が歯がゆくて面白かったです