※ こちらは下の句(後編)です。注意事項は前編と同じです。
翌日目が覚めて、俺は今妖忌さんと朝食をとっている。
滞在してまだ二晩しか明けていないが、あぁ…なんて充実しているのだろう。
しかし、まだ足の疲れが抜けていないような気がする。
…飯屋の親父との勝負がここまで尾を引くとは……俺も年なのか?
いやいや、俺はまだ若いはずだ。あの親父が凄かったのだろう。
「なぁお主、今日も幽々子様の所に行くのだろう?」
「はい、その予定ではあります」
「いつ頃行くつもりなのだ?」
「そうですねぇ…昨日と同じく昼頃お伺いしようと思っております」
「そうか…」
朝から訪ねても迷惑かも知れないしな。
昼飯を食べた後くらいの、まったりした時間が丁度いいだろう。
「ならばそれまでは時間を持て余す、ということだな?」
「…? まぁ、そういう事になりますね」
「そうか…」
「…妖忌さん?」
「それでは、一つ頼まれてはくれまいか?」
「頼み、ですか?」
「うむ。昼までで良いのだが…」
それぐらいだったら構わないだろう。
何よりずっとタダ飯食わせてもらうのも居心地が悪いし、ここは受けるべきだろう、人として。
「それなら構いませんよ。何をすればよいのですか?」
「儂の仕事を少し手伝ってもらいたいのだ」
「それって庭師の仕事ですか?
私などがこの庭を触るなんてできませんよ」
「心配するな。庭の仕事ではない」
「え? それなら、何をすればよいのでしょうか?」
「それはこれを食べ終えてから説明してやる」
「はぁ…」
一体何をさせられるというのだろうか?
不安は残るが引き受けないわけにはいかなかったし…
…でも、妖忌さんの仕事を手伝うことには変わりないんだよな。
妖忌さんの仕事………やばい、不安しか感じられなくなったよ…
~ ~ ~
「さて、お主に手伝ってもらいたい事とはこれだ」
「これは…薪ですね」
「薪だな」
「…それで、私にやって欲しい事とは…?」
「わからぬか?」
「…いえ、一目瞭然ですね」
それは目の前にあるものを見れば解るというものだ。
俺が一番聞きたい事はそうではなくて…
「…この量をこなせと言うのでしょうか?」
「無理か?」
「無理です!!」
目の前に広がるのは大量の薪。
広大な庭の一角に広がる、素敵な薪の楽園。
どうしてこんなに用意してあるのだろうかと疑問に思わざるを得ない。
「むぅ、お主ならできると思ったのだが…」
「買い被り過ぎです。無理です。できません。本当に」
「そうかのう…」
「…本気で言ってます?」
「いや、さすがに冗談だ。あまり真に受けるな」
冗談に聞こえないから性質が悪いというのに…
でも良かった! 妖忌さんが無意識に俺を殺しにかかったのかと心配したよ!
「では、どれくらい割ればよいですか?」
「そうさのう…まぁできるところまでで良いぞ。
絵も描かねばならぬだろうし、あまり無理はするな」
「わかりました」
「時にお主、薪割りをやったことはあるのか?」
「ありますよ。以外と力仕事が得意だったりします」
「ほぅ、だったらこれ全部…」
「不可能です」
「…冗談だ」
だったらなんでそこで少し残念な顔をするのでしょうか? その顔も冗談なのですか? ていうか冗談って言って下さい。
そうじゃなければ、そんなに俺を人間卒業させたいのですか? いいえ、その前に腕が弾けて死にます。
「ともかく、昼までは頼んだぞ。昼餉の支度が終われば呼びに来るからの」
「わかりました。できる限り頑張ります」
「うむ。さっきも言ったが、無理だけはするなよ」
「大丈夫ですよ。任せてください」
「そうか、ではまた後でな」
「はい、妖忌さんもお仕事頑張って下さい」
さっきの冗談はともかく、こうした気遣いは本当にありがたい。
妖忌さんってつくづく温かいおやっさん、て感じだな。あんな感じの性格の人は滅多にお目にかかれるものじゃないと思う。
旅をしていて長いが、俺は少なくとも初めて会った。
「まぁ俺が見過ごしていただけなのかも知れないけどな。さて、始めるとしようか」
できる限りでいいらしいから、俺なりに頑張るとしよう。
手斧は…あったあった、これか。妖忌さんが使っている物らしく、随分年季が感じられる。
手にとってみると、ズシリとした重量感が俺を襲う。
そう、襲うのだ。ズシリとした…手斧が……ズシリどころじゃなく………
「重すぎるわーーー!!!」
何だこの重さは!? 見た目の何倍もの重さがあるぞ!?
どうやったらこんな小さな物をここまで重くできるんだ!?
「…そうか、妖忌さん専用なんだな。
だとするならばこの重さも納得できる…半分は」
あとはこれを重くする方法だな。
中に鉄心でも仕込んであるのかとは思うが、ここまで重くなるものか?
「それはあの人に聞かないと分からないか…
ともかく、こんな物使って作業なんてできないな。どこかに普通の斧はないだろうか…?」
そう思い周囲を見渡してみても、そこにあるのは相変わらず薪の楽園。
それ以外目に着く物は一切無い。つまり、代わりの斧も当然無い。
「成程…これでやるしかないという事だな。
まぁ、確かに持ち上がらない訳ではない……無理すれば」
今更ながらに安請け合いしてしまったものだ。
まさかこんな結果が待ち受けていようとは誰が想像できただろうか?
薪割りという、割かし普通な仕事の裏に隠されたこの罠を看破することなど俺には…
「そうだったな…あの人を常識で測ってはいけないんだった。
この場合は迂闊だった俺が悪いんだな。よし、これからは気をつけよう」
「…無名さん? 何をなさっているのですか?」
「ああ、幽々子さん。お早うございます」
「お早うございます。それで…一体何を?」
「妖忌さんに頼まれまして、今から薪を割るところなのですよ」
「まぁ…妖忌ったらそんな事を…」
いい加減始めようと思ったところに幽々子さんがやってきた。
相変わらずの麗しさで、こちらの心も癒される。とりあえず拝んでおこう。
「…? 何をしていらっしゃるのですか?」
「いえ、薪割りの前に必ずやる儀式の様なものです。どうかお気になさらないで下さい」
「はぁ……そんなことより、無名さんがそのような事をする必要はありません。
あなたはこの白玉楼のお客人なのですから、どうか寛いでいて下さい」
「お心遣い痛み入りますが、私とて何もせずに只持て成されるというのは居心地が悪いものなのですよ」
「ですが、お客様にそんな…」
「それに、体を動かしたかったですし丁度良かったです」
「無名さん…」
「私が自分でやると決めたことですから、やらせて下さい。
ここに来てから食事が充実していますので、力が有り余っているんですよ」
「まぁ…」
腕を回して元気な事を表現してみると、幽々子さんはどこか感心した様子だ。
朝から無駄に活力のある俺が不自然なのかな?
「そういうことでしたらお止めしません。
お仕事、頑張って下さいね」
「はい、任せて下さい!」
「ふふ、それでは失礼しますね」
幽々子さんの励ましがあったならば、薪割りといえど至福の作業となり得るさ!
この斧の無駄な重さも気に…少しはならないとも!
よーし、頑張ろう!
~ ~ ~
「ぜぇ…はぁ……も…無理……」
幽々子さんの応援があってもこれは重すぎた。
そろそろ昼が近くなっては来たが、精々今日使う分くらいしか割れていない。
くそぅ…これでは幽々子さんに申し訳が立たんじゃないか…!
「俺は…こんな、所で…終わる男じゃ……ない! もう一丁いくぞー!!」
「やっとるのう。感心感心」
「よ…妖忌さん…」
「少し早いが飯の支度をしておいたぞ。
早めに食べて、暫く休憩すると良い」
「そうさせて…貰えますか…?」
「うむ。しかし頑張ったのう。その斧でよくここまで薪割りが出来たものだ」
「…と、言いますと…?」
「うっかり普通の斧を用意するのを忘れておってな。それは儂用の斧なのだよ」
「それは…判りますが…普通の斧、あるんですか…?」
「いや~、すまぬ。許してくれ」
「は…はは…は」
もう嫌…勘弁して欲しいですよ………
・
・
・
・
・
・
「…はっ! ここは!?」
「おお、目を覚ましたか。いきなり倒れるから驚いたぞ」
周りを見渡してみると、俺の荷物が目に入った。
どうやらここは俺が寝泊まりしている客間らしい。
「とりあえずここに運んだが、こんなに早く目覚めるなら初めから向こうにしておけばよかったな」
「妖忌さんが運んでくれたのですか?」
「他に誰がおる」
「…それもそうですね。ご迷惑をおかけしました」
「気にするな。儂の方こそすまんかった。
まさか倒れるまで続けるとは思わなんだ」
倒れた原因は別にありますけどね。
でも今更それを言ったところでどうにかなるものでもない。
「しかし感心したぞ。今まであの斧で薪割りを続けた者など、儂以外にはおらんかったからな」
「それはそうでしょうね」
「やはりお主、かなりの根性の持ち主じゃな。なあ、本当に儂の弟子に…」
「私は絵描きとして生きとうございます」
そして、普通の人間として死にとうございます。
これは声に出して言えないがな…
「むぅ、そうか……仕方ないがそれは諦めるとしよう。
ところでお主、飯は食えそうか?」
「はい、大丈夫そうです」
「それは結構。では行こうかの」
飯を貰えるなら逃すわけにはいかないだろう。
だってここのご飯、美味しいもの。そりゃ食べるさ。
「妖忌さん、その前に一つだけいいですか?」
「どうした?」
「あの斧は、どうしてあんなに重いのですか?」
「ああ、あれか。秘密という事にしておいてくれ」
「何かあるのですか?」
「秘密だ」
「…わかりました」
これぞ妖忌さん七不思議の一つ、『彼の所持品は何故か異様に重い』だな。
恐らくこれを解明しようとする者には、妖忌さんによる天誅が下ることだろう。くわばらくわばら…
~ ~ ~
「御馳走様でした」
「うむ。これから幽々子様の部屋へ行くのか?」
「そうですね…そうしようかと」
「その状態で絵は描けるのか?」
「…描けるところから始めようかと思います」
「そうか…すまんな」
「いえ…」
無理したのは俺だからなぁ…
一概に妖忌さんを責められないし、このまま頑張るしかないだろう。
今日も描かないという選択肢もあるけど、それだと何の為に居るのか、なんて思われそうだし…
「とりあえず行ってきますね」
「うむ、幽々子様のこと頼んだぞ」
「はい、今日も笑わせて見せますよ」
そうは言ったものの、うまいこと話をできるかは不安だ。
幽々子さんと二人きりという状況を考えるとやはり緊張してしまうからな。
でもまぁ、当面の問題は道に迷わないか否かだろう。
こればっかりは中々慣れるものじゃない。
「さて、まずは道具を取りに戻らないとな………
……という訳で、またしても迷ってしまったな。
客室に戻ったのが運の尽きだったか……そこからの道は分からんかった」
何とか辿り着けるだろうという考えではどうもいかんらしい。
ここは順当に道筋を覚えるべきなのだろうが…
「ついつい色んな所に行ってしまうんだよなぁ。何と言うか、冒険したくなってしまう。
これはもしかしたら近道かもしれない、なんて考えるのはもう止めよう」
そんな浅はかな思考は迷う原因にしかならない。
もう冒険はしません。今誓いました………が、これからもちょっとはするかも知れません。
「それはさて置き…幽々子さん、いらっしゃいますか?」
「中に居りますよ。どうぞお入りください」
「では、失礼いたします」
幽々子さんに促されて中に入ると、そこには彼女が昨日と変わらぬ姿勢で居た。
相も変わらぬ優雅な佇まいに、俺の胸の鼓動は自然と高まってしまう。
「今日も迷われたのですか?」
「…やっぱり聞こえましたか?」
「ええ、ハッキリと」
「何と言いますか…面目ないです…」
「そ…そこまで仰るほどではないと思いますが…」
「いいえ、自分で自分が恥ずかしいです。
なので、猛省し次に生かしたいと思います」
「そ…そうですか。頑張って下さい」
「はい、ありがとうございます」
「そう言えば、午前は薪割りをされていたのですよね?
今更かもしれませんが、お疲れ様でした」
「そのお言葉を頂けるだけで私は満足です…」
「そんな、大袈裟ですよ」
「いいえ、大袈裟などではありません」
そう、その一言であの意味の分からない斧との格闘も報われるというものだ。
あぁ…今日は幽々子さんにとことん助けられてるな。
というかちょっと飛ばしすぎだ。いくら緊張しているからって、幽々子さんを狼狽させてどうする、俺。
「そ…それはともかく、今日こそは絵を描こうと思います」
「…薪割りをしておりましたが、腕は大丈夫なのですか?
心なしか顔色が優れない様にも見えますが…」
「ええ、まぁ…何とか……描ける範囲で頑張ろうと思います」
「そ…そうですか。
ところで、画材などは足りていらっしゃいますか?」
「大丈夫です。それだけは持っていますから」
「そうですか。何か必要になった時はいつでもお申し付けください。
この屋敷にも恐らく色々と置いてあるはずですので」
「ありがとうございます。その時はお願いしますね」
一応仕事道具でもあるし、画材だけは持つようにしていたのだ。
まぁ俺の住んでいた寺に道具だけあったから、出るついでにそれを頂いただけだ。
だが紙だけはそうもいかず非常に金がかかったが、人間頼み込めば何とかなるものさ。
世の中は助け合いで成り立っていると実感できた瞬間でもあった。
土下座なんてしてませんよ? 地面に這いつくばってお願いはしましたが。
「では描かせていただきますね」
「は…はい、宜しくお願いします」
「…そんなに堅苦しくする必要ないですよ。
できることなら、力を抜いて自然体でいてほしいのですが」
「自然体…ですか。
こ…こうでしょうか?」
幽々子さんはそう言って楽な姿勢をとろうとするが、どうにも不自然だ。
今までの彼女の雰囲気とはまるで違うが…
「…あの、もしかして緊張してます?」
「も…申し訳ありません……なにぶん初めての経験でして…」
「………ぷっ、ははははは!」
「な、何が可笑しいのですか?」
「いえ、何でもないんです。すいません……くっ、はははは!」
「…?」
そうだよな、浮世離れしてるけど幽々子さんだって人間、いやさ乙女なんだよな。
ああ、なんか安心したよ。現実離れした人だけど、色々な表情をちゃんと持ってるんだ。
今だって不思議そうに此方を眺めているが、小首を傾げるその仕草が何とも愛らしいじゃないか。
成程、この人は素晴らしく純真無垢なのだな。これでは現実感が無くて当然というものだ。
それが堪らなく可笑しくて、それ以上に嬉しくて、思わず笑ってしまった。
「はぁ…ふぅ……すいませんでした…」
「いえ…それはいいのですが、何が可笑しかったのでしょうか?」
「え~と、つまりですねぇ…幽々子さんが緊張していたというのが可笑しかったのですよ」
「まぁ、私だって緊張くらいします」
「あっと、言葉足らずでしたね。
実は私も緊張しているのですよ」
「無名さんも…?」
「はい。幽々子さんは現実離れしてお美しい方ですから、男として緊張してしまうのですよ」
「えっ?」
「諸国を歩き回った私が言うのですから、間違いありません。
それで、幽々子さんは私などとは全く違う世界の人だと思っておりました」
「そ…そんなことありません」
「ええ、仰る通りです。実際私との違いなんて些細なものなのでしょう。
そう思っていたからこそ、幽々子さんが私と同じく緊張していたというのが可笑しかったんですよ」
「はぁ…そうなのですか。よく解りませんが…」
「はは、幽々子さんはそれでいいと思いますよ」
「…そうでしょうか?」
「はい。会って日も浅いですが、一番幽々子さんらしい気がします」
「はぁ…」
いま一つ解っていない様だが、彼女はそれでいい。
儚げで消え入りそうだった最初の印象など完全に払拭された。
幽々子さんはここでしっかりと生きている。俺と同じような感情だって持ち合わせている。
ここに居るのは人形ではなく、純朴で可憐な一人の少女なのだ。
今まで馬鹿みたいに緊張していた自分が愚かしくさえ見えてきたよ。
「はははっ、今も緊張していますか?」
「え…えぇ、まだ少し…」
「それでは昨日のように話でもしましょうか。
話していれば、その内緊張もほぐれてくることでしょう」
「ですが、絵は描かないのですか?」
「勿論描きますよ。幽々子さんが自然体になった隙を突こうと思います。
なんでしたら、また外の話でもして差し上げましょうか?」
「でも…よろしいのですか?」
幽々子さんはどこか遠慮している風だな……本心では聞きたいと思っているだろうに。
もしかして俺の作業を気遣ってくれているのだろうか?
だとしたら、気遣われてばかりでは俺の中の男が廃るというものだ。
「どの道黙ったままでは息が詰まるでしょう。
何より、私が沈黙に耐えられないと思います。大人しくしていられない性分なので」
「…絵を描くのに、じっとしていられないのですか?」
「困った事にそうなのですよ。
なので、暫し私のお喋りにお付き合いいただけますか?」
「…ふふ、それは大変ですね。
わかりました。喜んでお付き合いいたします」
「ありがとうございます」
また笑ってくれた。やっぱり綺麗に笑うお方だな…
妖忌さんが必死になって頼み込む理由が良くわかる。多分俺が同じ立場でもそうしたことだろう。
この人はいつまでも微笑んでいるべきで、暗い顔なんかさせてはならない人だ。
「無名さん…」
「どうしました?」
「ありがとうございます…」
「…いいんですよ。
さて、今日は何をお話しいたしましょうか…」
「よろしければ、旅のお話をして頂けませんか?」
「旅の…ですか。でしたら、今までで一番大きかった町の話をいたしましょうか」
「まぁ、町ですか」
「はい。その町はとても賑わっておりまして、その人通りの多さと言ったら歩くのも困難なほどでした」
「それは凄いですね…」
「通りには多くの商店、露店が立ち並び、町も人も活気が溢れていましたよ」
「何か変わった物はありましたか?」
「そうですねぇ…」
幽々子さんの表情も柔らかくなってきたことだし、ちょっとずつ書き始めるとしよう。
この穏やかな時間をいつまでも感じていたい。もっとこの人と語らっていたい。
腕の疲れを理由にするのではなく、少しでも長く彼女の傍に居たいから、少しずつ、ゆっくり描こう…
~ ~ ~
「…とまぁ、その町に関する話はこんなものですね」
「そうですか。話して頂いてありがとうございます」
「いえいえ、そんな畏まってお礼を言われるほどではありませんよ。
私ばかりが長々と話していて退屈だったでしょう?」
「そんなことありません。どのお話も新鮮で楽しかったです」
「そう言って頂けると、話した甲斐があるというものです」
「私の友人からも外の話を聞くことはありますが、彼女とはまた違った新鮮さがあります」
「ご友人、ですか?」
「ええ、偶にしか顔を出さないのですが、色々な事を聞かせてくれますよ」
「へぇ…どんなお方なのですか?」
「そうですね…一言で表すなら、『胡散臭い』ですね」
「う…胡散臭い?」
幽々子さんの口からそんな言葉が飛び出すとは思わなかった。
彼女をしてそのような評価をさせる人物とは一体…
「彼女の話は現実感が無さ過ぎて、どこまでが本当なのか判らないのです。
話を聞いて戸惑う私を見て楽しんでいるような節もありますし…」
「それは…確かに胡散臭いですね」
「でもとても優しくて、私にとってはかけがえのない友人です」
「そうなのですか…」
「それに目が覚めるような美貌の持ち主ですよ。
流れるような金の髪に美しく整った目鼻立ち…
私は初めて彼女を見たとき、思わず見惚れてしまいました」
「幽々子さんがそこまで仰るとは…
私もその人に会ってみたくなりましたよ」
「人ではありませんよ」
「…え?」
「彼女は人ではありません。
自分で妖怪だと言っていました。それも、妖忌より長生きしている大妖怪だと」
そ…それはまた凄いな…
ここに集まる存在というのは、常識外れの者ばかりではないだろうか。
俺、本当にここに居ていいのかなぁ…?
でもその友人とやらには是非とも会ってみたいなぁ。話だけ聞いてるととんでもない美人みたいだし…
いやいや、俺は幽々子さん一筋ですから、会ってみたいだけですよ?
「そ…それはともかく、その方とはどうやって知り合ったのですか?」
「彼女は突然私の前に現れました。何も無い空間から突如顔を出したのです」
「何も無い所から…?」
「どうやら彼女の力の一部らしいですが、詳しいことは私にも…
ただ、あれほど驚いた瞬間は、後にも先にも無いでしょう」
「それは…凄い人、いえ妖怪ですね」
「彼女はいつもどこからともなく現れますから、あれに慣れることは無いでしょうね。
いつも驚かされてばかりですが、私の大事な友人には違いありません」
幽々子さんの表情や口調から、その友人の事を如何に大切に思っているかが伝わる。
女性ということらしいが、こう…嫉妬心とでも言うべきものを持ってしまう。
俺も幽々子さんからそんな風に思われたいよ……まぁこれからだけどな。
「好い方に巡り合えたのですね」
「はい。気まぐれで捉えどころがないですが、自慢の友人です」
「良かったですね、幽々子さん。
私は生まれてこの方、友人というものを持ったことが無いので羨ましいです」
「そんな…私も、多くの物を見てこられた無名さんが羨ましいですわ」
「はは、だったらお相子ですね」
「ええ、お相子です」
何と楽しい一時だろうか。
彼女と言葉を交わすだけだというのに、これまで歩んできた人生で一番穏やかな気分だ。
「日が沈んできましたね。
そろそろ妖忌さんが…」
「幽々子様、宜しいですか?」
「…来ましたね」
「ふふ……えぇ、思った通りでしたね」
「ははっ」
「…? どうなさったのですか?」
「何でもありませんよ、妖忌。
食事の用意ができたのですか?」
「仰せの通りです。すぐに召し上がられますか?」
「はい。頂くことにしますね」
「では、只今お持ちいたします。暫しお待ちください」
「それでは今日はここまでですね。
ところで昨日から不思議に思っていたのですが、どうして幽々子さんはお一人で食事をなさるのですか?」
「どうして、と言われましても…
家人と同じ場で食事をすることが無い、というのが普通でしたから」
それで、一人でこの部屋で食べていたというのか。
しかしそれはあまりにも…
「寂しくはないですか?」
「もう慣れましたから、大丈夫です」
「慣れたということは、寂しさはあるのですね?」
「それは、その……少しは…」
「そうですか。そうでしょうとも」
静かな場所で一人の食事。これが寂しい訳がない。
ならば、今俺のやるべきことは一つだな。
「…無名さん?」
「だったら、私がご一緒してもよろしいですか?」
「えっ?」
「寂しいのでしたら私がお傍に居りますよ。
それに、私は幽々子さんの家人ではありませんし」
「で…ですが、突然そんなことを申されましても…」
「勿論、幽々子さんが迷惑だと仰るなら無理にとは言いません」
「迷惑だなんて…寧ろ無名さんにご迷惑がかかります」
「私が迷惑するだなんてとんでもない!
貴女とお話しできる時間が延びるとあれば、喜ばしい限りですよ」
「でも…折角のお食事の時間を私などと過ごされても…」
「幽々子さん、遠慮や謙虚であることはあなたの美徳ですが、度が過ぎては損をするだけです。
どうぞ私に遠慮などなさらないで下さい。私は貴女とできる限り対等でいたいのです」
「…本当に、よろしいのですか?」
「幽々子さんがいいのであれば喜んで」
「…では、ご一緒していただけますか?」
「はい。是非ともご一緒させて下さい」
ふぅ……にべもなく断られたらどうしようかと思ったけど何とかなったな。
幽々子さんは少し控えめ過ぎるな。それに、極度に物静かだ。
いや、慎ましやかという意味では非常にお嬢様らしくて魅力的なのだが…
「…あんなに可愛らしく笑えるのに、勿体無いよなぁ…」
「…? 何か仰いましたか?」
「い…いえ! 只の独り言ですから、気にしないで下さい!」
「はぁ…」
聞こえなかったようだが、思わず口に出してしまった…
まぁその辺は俺がこれから変えていけばいい。
できるかどうかなんて事はわからないが、頑張ってみる価値はあるはずだ。
「幽々子様、お持ちしましたぞ」
「ありがとうございます、妖忌。
その、持って来てくれたばかりで悪いのですが…」
「話は聞いておりました。
既に彼の分も用意してあります」
「…流石妖忌ですね」
「お褒めに預かり光栄です。
それはともかく、少し彼と話をしたいのですがよろしいですか?お時間は取らせませんので」
「え? それは…」
「私は一向に構いませんよ」
「…だそうです」
「では、外にて話したいと思います。
こちらへ来てはくれまいか?」
「今行きます。
では幽々子さん、行ってまいりますね」
「はい」
そうして部屋の外に出ると、妖忌さんが待ち構えていた。
俺に話があるとのことだが、一体なんだろうか…?
「ここなら幽々子様にも聞こえぬだろう。
さて、お主らの会話は聞いておったぞ」
「はぁ…それで、お話とは?」
「まぁ待て、まずは盗み聞きする形になったことを謝罪しておく。
無粋な真似をしてすまなかった」
「いえ、妖忌さんがお気になさることではないでしょう」
「それで話なのだが…小僧、お主……」
「な…何でしょう?」
「不思議な男だのう。
あの幽々子様があのような事を言うとは思いもよらんかった」
「あのような…?」
「お主と一緒に食事をしたい、と言ったことだ」
「あ…あぁ、あれですか。
半ば私が言わせたような感じが強いですが…」
「あのお方は、ああ見えて嫌なことは嫌と言う性質でな。
そう言わんかったという事は、嫌ではないという事だ。お主とおるのが余程楽しいのかも知れぬ」
「そうだと嬉しいですね」
「お主に任せて良かったと思っておるよ。
これからもよろしく頼むぞ」
「はい。頑張ります」
どうやら妖忌さんの意向に沿った結果が出せたようだ。
俺自身この上なく楽しかったし、こんな役目なら本当に大歓迎だな。
「…ここからが本題なのだが、お主…体は大丈夫か?」
「体ですか? そりゃあ勿論、腕が痛いです。
薪割り、というか斧の所為で…」
「むぅ…それは謝ったであろう。
…それはいいとして、それだけか?」
「…? ええ、他には特に…あ、後足の疲れが未だに尾を引いていますね」
「足…? 何かあったのか?」
「いえ…白玉楼に至る道中、結構な距離を全力で走ったものでして…」
「何故そのような事をしたのだ?」
「い…色々とあったんですよ……それより、どうしてそんな事を聞いたのですか?」
「いや、少し思うところがあってな…
何も無いならそれでいいのだ。気にするな」
「はぁ…わかりました」
「ともかく、調子が悪くなったと思ったらすぐ儂に言うのだぞ。
話はこれだけだ。思いの外時間を取らせてしまったな、すまん」
妖忌さんの意図は分からないが、言われた通りにしておこう。
健康優良男児のこの俺が、不調を訴えるなど有り得んだろうがな。
ごめんなさい、嘘つきました。思いっきり腕が痛いです。
「いえ、それでは私は戻りますね」
「うむ。あぁ、あと一つ」
「何ですか?」
「幽々子様に変な気を起こすなよ…?
もし何かあろうものなら……わかるな?」
「は…はいぃ…肝に銘じておきますぅ…」
「それでいい……ではまた明日な」
怖!! 油断してたから尚更怖かった!!
この人はこういう一面も持ってたんだよな…気をつけよう、本当に。
ともあれ妖忌さんは行ったし、俺も幽々子さんの所へ戻ろう。
「幽々子さん、入りますね…って、まだ食べていなかったんですか?」
「はい。お待ちするのが礼儀かと思いまして。
ところで、妖忌と何を話しておられたのですか?」
「他愛もない話ですよ。特に何かを話していた、という事ではありません」
「そうなのですか?」
「そうなのです」
実は貴女の事について話していました、などと言えるものか。
そんなこと言っても幽々子さんが戸惑うだけだし、何より本人を前にして言うことじゃない。
「それにしても、わざわざ待っていなくても良かったのに…」
「無名さんと一緒に食べると決めましたから。これくらいは当然です」
「なんともお優しいお心…
それでは早速頂くとしましょう」
「はい。そうですね」
「では頂きます……うん、美味しいですね」
「ええ、妖忌はいつも美味しい料理を作ってくれますから。彼には本当に感謝しています」
「私もあの人には良くしてもらってますから、とてもありがたく思います。
まぁ、驚かされることばかりですけどね…」
「ふふ…それも妖忌のいいところですよ」
「そうかも知れませんね。
ところで食べ物で気になったのですが、幽々子さんは好きな物とかありますか?」
「好きな物ですか…?
これといって特にありませんね。全部美味しいですから」
「へぇ、そうなんですか」
「ただ…」
「ただ?」
「小骨の多いものは…ちょっと…」
「小骨ですか?」
「ええ…妖忌には申し訳ないですが、苦手です…」
何か変わった物が苦手なんだな。
でもまあその気持ちは分からなくもない。
「確かにちょっと食べ難いかも知れませんね。
でも、ああいう物ほど食べれば体が強くなりますよ」
「まぁ、そうなのですか?」
「はい。見たところ幽々子さんは細すぎるような気がします。
ですので、これからはちょっと我慢してみてはいかがですか?」
「そう…ですね。頑張ってみることにします。
それでは、無名さんの好きな物は何ですか?」
「私も特に無いですね。食事ができる、という事が何よりですから。
ここの外では、私のような者は真っ当に食事すらとれないのですよ」
「そんな…」
「それが事実です。
富める者は富み、貧ずる者はとことんまで貧ずる。
こんな時にこんな話をするのもどうかとは思いますが、外の世界は全てが綺麗という訳ではないのですよ」
「私は…何も知らないのですね…」
「幽々子さんが嘆くことではありませんよ。
いつの間にかそういう構図が出来上がっていたのですから、仕方の無いことです。
それに今までは知らなかったかも知れないけど、幽々子さんは今知ったじゃないですか。それだけでも大きな前進だと、私は思いますよ」
「そう言って頂けると…心が安らぎます」
幽々子さんは本当に何も知らない。だけどそれは悪いことではない。
彼女は知らないだけなのだから、これから知っていけばいいだけの話だ。
「辛気臭い話はこれくらいにして、食事を続けましょうか」
「はい…その、御馳走様でした」
「ええっ!? もう食べ終わったのですか?」
「えっと、小食ですので…」
「それにしたって速過ぎでしょう。
ちゃんと噛んで食べてますか?」
「それはまぁ…ちゃんと噛んでいるつもりですが」
「だとしたら量の問題か……さっきも言いましたが、幽々子さんは細すぎます。もっと食べた方がいいですよ」
「はぁ……ふふ…」
「…? どうしましたか?」
「いえ、無名さんったら母親みたいで…可笑しいです、ふふ…あはは」
「あのぅ…幽々子さん?」
「ふぅ…すみませんでした。
ええ、気をつけるようにしますね。ご忠告痛み入ります」
「分かって頂けたのなら良いのですが…」
「こんなに楽しいのは久し振りです。
本当にありがとうございます」
「まぁ、楽しんで頂けたのであれば幸いです」
「ふふ…あぁ、可笑しすぎて涙が…」
何か釈然としない部分はあるが、まあいいか。
幽々子さんも気をつけるって言ってくれたし、これ以上俺が言う事もないだろう。
それにしても、俺の諫言は涙を流すほど可笑しかったのだろうか? いまいち分からん…
「ともあれ、御馳走様でした。
幽々子さんはもうお休みになられるのですか?」
「ええ、すぐにという訳ではありませんが」
「それでは私はこれで失礼しますね。
食事にお付き合いいただき、ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました」
「…またお相子ですかね?」
「お相子ですね」
「ははは…」
「ふふ…」
「ではお休みなさい、幽々子さん」
「はい、無名さんもお休みなさいませ」
また明日、幽々子さんに会える。その次の日も、またその次も会える。
俺が描き終わらないうちはずっと傍に居られる。
これがずっと続けば、それはどんなに幸せなことだろうか…
そんな思いを抱きながら、俺は眠りについた。
~ ~ ~
「うぐ……腕が痛い…
間違いなく筋肉痛だ…薪割りの所為で…」
いや、むしろ全身が倦怠感に襲われていて、正直しんどい…
しかし爽やかな朝の第一声がこれかよ…
いい陽気で、春らしい暖かさだというのに、俺の体は絶不調。
何故だろうか、ここに来てから体が安まらない。体力に自信はあったのに…情けない。
「動けないわけじゃないけど……ぐむっ! やっぱり痛いな…」
「小僧、起きておるか?」
「起きてますよ~…」
「では入るぞ。……何をやっとるんだ、お主?」
「見ての通り、のた打ち回っています…
どうも私の中の若さが追いついていないようです」
「昨日の薪割りの事を言うておるのか?
お主、ちとしつこいぞ」
「いえいえ、妖忌さんを責めているわけではありませんよ。
あの場合は私が全面的に悪いのですから」
「むぅ…妙に殊勝な態度だな」
「そんなことありませんよ~…」
そう、状況確認を怠った俺に責任があるのだ。
妖忌さんに悪意は一切無い。だからこそ、俺が注意しなければならねぇのである。世知辛い世の中だぜ、全く…
「まぁそれは置いといてだ、朝餉の支度ができておる。
ついて来い……というか、起きられるのか?」
「それは大丈夫です。日常生活に支障はありません」
「ならば何故転がっておったのだ?」
「特に意味は…強いて言うなら、どうにもならないこの世を嘆いていただけです」
「…相変わらず変な男だのう」
どの口がそれを言うのか…!
しかし、俺にそんな強い言葉は吐けない。
妖忌さんの機嫌を損ねるんじゃないかな~…とかは決して考えてないよ?
「ともかく、起きられるならついて参れ」
「わかりました…よっと!」
「存外元気ではないか」
「体が痛むだけですから」
「それなら今日も薪割りを…」
「構いませんが、斧は変えてくださいよ」
「やはり無理か?」
「私には重すぎます」
「残念だのう……いや、少しずつ重くするという手も…」
「重くしないで下さい」
「…冗談だ」
ですから、冗談に聞こえないんです。あなたは俺を最終的にどうしたいのですか?
言動は割とお茶目なのかも知れないが、内容が伴っていない。
「着いたな。入りなさい」
「はい。ありがとうございます」
「…では食べようかの」
「頂きます」
「うむ……食べながらでよい、聞いてくれ」
「どうしましたか?」
「今日の午前だが、儂は遠出をせねばならぬのだ」
「遠出? 何かあるのですか?」
「実はそろそろ食料の買い出しに行かねばならなくてな。
それで、午前の間儂は留守になる」
「…それって、食い扶ちが増えたからですか?」
「お主が気にする事ではない。お主を客として迎え入れたのは我々だからの」
「そうですか…
それにしても、食料は妖忌さんが全部用意しているのかと思ってました」
「どういう意味だ?」
「いえ、狩りや栽培をしているのかと…」
「さしもの儂にも農業の知識は無い。
それに、狩りと言うても白玉楼の周囲には獣が居らんのだ」
「獣が居ない…?」
「お主は気付かなかったか? この辺りには一羽の雀すらも居らん」
「言われてみれば…確かに囀りさえ聞こえませんね……でも、どうしてですか?」
「本能、というやつだろう。奴らは恐れておるのだよ」
恐れる…? 一体何を?
いや、白玉楼の周辺という事は…
「西行妖を…ですか?」
「あれそのものを恐れておるわけではないだろう。
この白玉楼に充満する、死の匂いを避けておると言えるな」
「死の…匂い……私には判りませんが」
「普通の人間では認知し得ぬ事だ。仕方あるまい。
儂とて、人であれば只ならぬ気配がする位であったろう」
「はぁ…」
「ともあれ儂はいなくなる。
昼までには戻るつもりだが、それまで幽々子様を頼むぞ」
「わかりました、お任せ下さい。
でも薪割りはどうしますか?」
「今日はよい。儂が今朝やっておいたからの」
「わかりました……だったらどうしてさっき薪割りを頼んだんだろう?」
「何か言ったか?」
「いいえ、何も言ってません。
ところで、どこで食料を調達するのですか? あの町ではとても充実しているとは言い難いかと…」
「お主の言う通りあの町では無理だ。
故に、もう一つ向こうの町まで行く」
もう一つ向こう…? それはもしかして俺が通って来た道だろうか?
もしそうじゃないとしても、かなりの距離が予想される。
それを昼までに帰ってくるというのか? 恐らくは大量の食材を抱えて。
「馬を使ったりはしないのですか?」
「先ほど言ったが獣は居らん。
それに、儂一人の方が余程早く済む」
「…やっぱり、凄いですね」
「鍛えておるからの。それに、その位でなければここの庭師は務まらんよ」
「まぁ、確かにそうかも知れませんが…」
馬より速く、土煙を巻き上げながら爆走する妖忌さんを想像する。う~ん……思ったより違和感がないなぁ…
唯一の違和感は、背負った巨大風呂敷の中身が野菜やらなんやら、という点だ。
こんな感想を抱くとは…俺も妖忌さんに慣れてきたのだろうか?
「これを片づけ終わったらすぐに行くつもりだ。
なので、すまんが早めに食べてはくれんか?」
「わかりました。もうすぐ終わりますよ」
「すまんな」
「いえ……御馳走様でした」
「うむ、それでは儂は行くからの。
何も無いとは思うが、幽々子様のこと頼んだぞ」
「わかりました。幽々子さんには私が付いておりますので、安心して行って来て下さい」
「…何故だろうな。急に不安になってきおった」
「ひ…酷いですよ…」
「冗談だ。ではまた後でな」
「…今のも冗談か。あの人何でも真顔で言うから判りにくいんだよなぁ」
これ以上ここにいても仕方ないし、幽々子さんの所に行ってみるとしよう。
今日は薪割りしなくてもいいみたいだし…
~ ~ ~
「今日は迷わなかったぞ。自分の成長を感じるな。
一応道具も持ってきたし……幽々子さん、いらっしゃいますか?」
しかし、中からの返事は一向に無い。
不思議に思ったので、失礼とは思いつつも中を覗き見るがやはり幽々子さんはいない。
「部屋にはいないか……困ったな。
別の場所と言っても、この屋敷のどこを探せばいいのだろうか…」
言うまでもなく、白玉楼はだだっ広い。
幽々子さんを探す…? 馬鹿を言うな、俺の方こそ探して欲しいくらいだ。
でもそんな事を嘆いていてもどうにもならねぇので、とりあえず歩くことにします。
「幽々子さーん、いますかー? いたら返事して下さーい!」
しかし返事はなく、俺の声が木霊するだけだった。
虚しい上に、ちょっと孤独感…
「いや、幽々子さんは必ずどこかにいて俺を待っているはずだ。
成程、これは試練なのですね? 『私を見つけられますか?』と、そういう事なのですね?
わかりました! この無名、命に代えても貴女を見つけ出して見せます!!」
とりあえず自分を奮い立たせてみるが、虚しさが激増しただけだった。
加えて、羞恥心が少しだけ……いや、かなり芽生え始めてきた。
「俺は何を言っとるんだ…
はぁ…幽々子さんどこにいるのかな……おや?」
縁側を歩いていると、探し求めていた彼女の姿が目に入った。
柱に寄りかかって座り、どうやら日向ぼっこをしているようだ。
「こんな所にいたんですか…
いるなら返事くらいして下さいよ、幽々子さん……幽々子さん?」
「すー………」
「…寝てるのか」
道理で反応が無いはずだ。寝ているとあらば仕方がないだろう。
…それにしても初めて幽々子さんの、というか女性の寝顔を見た気がする。
普段見る表情とは違い、顔に暗い影を落とすことなく穏やかな眠りについている。
「これが幽々子さんの素顔なのかな…
本当の…幽々子さん……か、温かな寝顔だな」
せっかく会えたのだがこれでは起こせない。
春の陽気と相まって、ゆっくりとした時間が流れるこの場を壊すなど出来よう筈がない。
「それにしても、こんな所で寝ていると風邪をひいてしまうな。
俺の上着で申し訳ないですが、これで我慢して下さいね」
「ん………すー……」
「なんとも柔らかい表情だな…
さて、これからどうしようか。幽々子さんが寝ているとなるとすることが無いぞ」
寝顔を眺めているというのも魅力的な提案だが、昼までずっとというのもなぁ…
何か別の事を考えなければ間がもたないな。
「う~ん…どうしたものだろうか?
…あ、そういえば画材を持ってきてるんだった。そうだな、今が一番自然体だろうし、絵を描かせてもらおうか」
したらば早速用意をしよう。
幽々子さんを起こさないよう、音を立てずに道具を広げる。
彼女もそれに気付いた様子はなく、起きる気配はない。
「それではお休みの最中失礼しますね、幽々子さん」
「すー………」
本当に暖かいな。
庭の桜もぽつぽつと咲き始めている。満開までそんなに日はかからないだろう。
春の訪れを、目と肌でしっかりと感じ取れる。そんな季節になった。
「それにしても、ここに来たのはほんの数日前だけど、随分昔の事のように感じられるな。
初めにあったのは妖忌さんだったなぁ。あの時は本当に怖かった…」
いきなり大声で怒鳴られて、その後本気で睨まれたんだよな。
その上大きな門を片手で開いたりと、規格外な人物という事が分かったのだ。
何よりも凄いのは、半人半霊で何百年も生きているということだ。
あの人がどういった経緯でここにいるのかは幽々子さんも知らないらしいが、大分長いこと居るらしい。
「それにこの人の事を心から案じていることも分かった。
もしかしたら妖忌さんにとって、幽々子さんは孫娘みたいなものなのかもな」
そして、その後に幽々子さんと出会ったんだっけ。
噂に違わぬどころか、想像を絶するほどの美しさに暫し硬直してしまったな。
あまりのその美しさと雰囲気から、夢でも見ているような心地だったのを覚えている。
そんなこともあり、初めの印象は近寄り難いものだったが、今ではこんな寝顔まで見れるほど近づいた。
「あの時と比べると格段の進歩だな。
幽々子さんも色々な顔を見せてくれるようになったし、少しは仲良くなれたのかな」
こんなにのんびりしていると、過去を振り返ってしまう。
ここに来てから体は痛むし休まらないと大変な事もあるが、これ程までに充実した日々はこれまで無かった。
白玉楼に来て、妖忌さんに会えて良かった。何より、幽々子さんの傍にいられて本当に幸せだ。
「はは…本当に暖かだな…
妖忌さん、幽々子さん、ありがとうございます…」
「すー………」
さて、独り言なんて言ってないで描き始めようか。
相変わらず腕は痛いし、そもそも俺に技巧など無いが、俺なりに精一杯やろう。
正直な話、幽々子さんとお近付きになりたいという初めの思いは薄れている。
今は只、彼女の事をもっと知りたい。もっと色んな表情を見てみたい。
ひたすらに彼女の心に触れてみたいと感じている。
この想いに邪な心があるのかどうかは俺にもわからないが、今は彼女の傍に居てみようと思う。
願わくば、彼女が自然と笑顔を作れますように…
~ ~ ~
「…ふぅ、少し疲れた。それに結構描き進めたな」
自分でゆっくり描いていこうとか言っておきながら…
これですぐに絵が完成してしまったらどうしようか?
「まあその時はまたうまい言い訳考えるさ。
でも当面の問題は、やっぱりこの絵だよなぁ……どうしようか…」
何が問題なのかと言うと、絵の中の幽々子さんの表情をどうするかという事だ。
今が一番自然な表情なのはわかるが、寝顔を描かれるというのはあまり気持ちの良いものではないだろう。
なので、上半身は完成し足にまで手を加えているにも拘らず、顔だけが描かれていないのだ。
「でもまぁ、今すぐ考えなくてもいいか。その内描けるだろ。
それにしてもよく寝てるな。いい陽気だし、気持ちはわかるなぁ…」
「…すー………」
かく言う俺も目の前に布団が敷かれていたら飛び込むことだろう。
それ位、今日という日は気持ちがいいのだ。
しかし実際問題そんな訳にもいかず、なによりも彼女にだらしの無い姿を見せたくはない。
なので、勢いよく立ちあがり一伸びすることにした。
「ん~~~……はぁ、いい天気だな…
そういえばそろそろ昼が近くなってきたけど、妖忌さんはまだ帰ってこないな」
いくらあの人でも流石に時間のかかることらしい。
それはそうだろう。常人なら数日かけての作業になるだろうし…
恐らく今頃はここに向かって爆走中なのだろう。俺の想像の中では、何人か跳ね飛ばしている。
そして妖忌さんの決め台詞『ん、今何かおったか?』が炸裂するのだ。恐ろしい……いや、全部想像ですけどね。
「…疲れてるのかな? 変な妄想が膨らみ始めたよ。
まぁ妖忌さんもそのうち帰ってくることだろう。それまではここでのんびりしてようか」
キリ…リ……
そうして庭でも眺めようとした時に、妙な音が耳に入った。まるで何かを引き絞るような、そんな音が。
不審に思って音のしたほうに目をやると、塀の上に誰かがいるようだ。
身を低くして何かを構えている。あれは……弓?
何故あのような所に人がいて、何故弓を構えているのだ?
それに、何を狙っている…? 鏃の向く先には、未だに眠る幽々子さんしかいない。
おいおい…嘘だろ?
リリ……リ…
俺の思惑を余所に矢は力いっぱい引き絞られ、今にも飛び出さんとしていた。
このままではマズイ!! 俺は何も考えず幽々子さんの傍に走った。
ヒュッ
それと同時に、終に矢が放たれてしまった。
クソッ…! 間に合うか!?
「幽々子さん! 危ない!!」
「……んぅ…無名さん…?」
ドスッ!
「ぐぅっ!!」
「…無名さん?
どうしたんですか……無名さん、腕が! 大丈夫ですか!?」
「だ…大丈夫です…俺はいいですから、幽々子さんは早く中に…」
「そんな…すぐに手当てをしないと!」
「いいから! 早く中へ!!」
「は…はい!」
幽々子さんは屋敷の中へ行ってくれたようだ。これで一先ず安全だろう。
彼女を庇った際に放たれた矢が俺の左腕に深々と突き刺さってしまったが、間に合って良かった。
しかし、矢を放った張本人が塀を降りてこちらに向かって来ている。まだ安心はできない。
遠目には判らなかったがそいつは男で、見るからに武芸者といった装いだ。
そしてそいつは俺の目の前で足を止めた。
「…何なんだよ、あんた。どうしてこんな事をする?」
「件の女の傍には腕の立つ従者がいると聞いたが、お前がそうか?」
「何を言っている? 俺は彼女の従者ではない」
「…違うのか? ならば何故このような場所にいる?」
「俺はここに客人としているだけだ。
それより、俺の質問に答えろ!」
「そうか、それはすまない事をした…
だが今はあの女を成敗しなければならぬ故、御免」
「お…おい! ちょっと待てよ!!
お前は何者で、どうしてこんな事をしたんだよ!?」
「何者か…というのは答えづらいな。俺はただの流れ者だ。
それにどうしてとは……矢を放つのに、命を奪う以外の理由があるか?」
「命…! お前、幽々子さんを殺そうとしたってのかよ!?」
「それはお前に阻まれたが…お前はあの女に虜にされたのだな。
安心しろ、俺が今から奴の息の根を止めてお前を解放してやる」
「な…!? ふざけんな!!」
バキッ!
「うぉっ!?」
何なんだこいつは! いきなり現れて、幽々子さんを殺すだと!?
それに、俺が彼女に騙されてるだの解放してやるだの、意味が分からない事言いやがって!
誰がそんなことさせるかってんだよ!!
「邪魔をするな! お前も殺すぞ!」
「五月蝿い! 大体、どうして幽々子さんを殺すなんてことになるんだよ!?」
「どうしてだと…? 妙なことを聞く輩だな」
「…どういう事だ?」
「あの女が人の皮を被った魔物だからに決まっているだろう。
今世間で噂になっている、人をおびき寄せ食らう妖怪女とは奴の事だ」
「何を言って…?」
「付近の人間も奴を恐れこの地を去ったと聞いた。
俺は近くの町でこの噂を聞き、悪しき妖怪に天罰を下しに来たのだ」
「そんな筈無い! ふざけたことを言うな!!」
幽々子さんが悪い妖怪だと…? 冗談でも許せない言葉だ!
俺はこいつを絶対に通しちゃいけない。
今は妖忌さんが不在だ。だから、俺が幽々子さんを守る!
「ふざけてなどいない。実際にその町では死者が出たと聞いた」
「それが何の根拠になる! お前が彼女の何を知っている!?」
「奴は妖怪だろう。他に何を知る必要がある?
大方これまでに殺された者達は皆食われたのだろうが、この俺が終止符を打ってやろうではないか」
「それは違う! 人が死んでしまうのは、ここにある桜のせいなんだ!」
「桜…? 桜がどうやって人を殺すというのだ?」
「俺も詳しいことは知らないが、ともかく彼女が妖怪のはずない!」
「お前は嘘を吹き込まれたのだろうよ。
桜が人の命を奪うなど…馬鹿馬鹿しい。それでは各地で人が死ぬではないか」
「そうじゃない! ここにある桜が…!」
「もういい。お前の戯言に付き合っている暇は無い。
これ以上邪魔立てするならば、本気で殺すぞ…?」
駄目だ、こいつは聞く耳を持っていない。このままでは本当に殺される…!
恐怖で足が震えてきた。正直今すぐ逃げ出したい。
だけど幽々子さんを置いて逃げるなんて…出来る訳がないだろう!!
「やれるもんならやってみろ!
幽々子さんには指一本触れさせない!」
「…あの女の洗脳は余程強力なのだな。
やはり世の為人の為、生かしておいてはならぬ存在だ」
「黙って聞いてりゃ勝手な事ばかり言いやがって…!
あの人がどれだけ柔らかな笑顔を見せるか知ってるのか!?
あの人がどれだけの優しさを持ってるか…あんたは知ってんのかよ!!」
「全て騙すための演技だろう。
これが最後だ。そこを退け」
「死んでも退くものか!」
「そうか…ならば覚悟しろ!」
「っ!」
その言葉と同時に、男は抜き身の刀で切りかかって来た。
俺は恐怖で体が竦み上がり、まともに反応できず後ろに倒れ込んでしまった。
だがその御蔭か刀を回避することができ、目の前を白刃が通り過ぎて行った。
「あ…危なかった…」
「ちっ、外したか……だが二度目は無いぞ」
「くそ…!」
「死ねい!!」
「待って下さい!」
刃は俺に触れる寸前で止まった。
命拾いしたが…どうして出て来たんだよ…?
「幽々子さん! 中に居てくれって言っただろ!」
「ですが、あのままでは貴方が…」
「俺の事はいいって…」
「成程、お前が全ての元凶だな?」
「…私はここに居ります。その方を放して下さい」
「ふんっ、いいだろう…
お前が居る所為で周囲の人間は怯えきっている。よって、俺が成敗してくれるわ。覚悟はよいか?」
「私はまだ死を迎えるわけにはいきません。私には重大な使命があります。
どうかお引き取り下さい。帰って頂けないなら、私にも考えがありますよ?」
「ほざけ! 覚悟しろ!!」
「…仕方ありません」
男は最早俺など眼中にないようで、幽々子さんに向かって行った。
幽々子さんには何か手立てがあるようだが、このままでは彼女が危ない!
そう思った俺は必死に男の足にしがみ付いた。
「させるかよ…!」
「無名さん!?」
「ええい、離さんか若造!」
「嫌だね。お前を彼女に近づけさせるものか!」
「もう我慢ならぬ…!
お前から先に死ねい!!」
「っ!!」
「やめてぇぇ!!」
刃の切っ先が俺に向かって降ろされた。俺はそれを見て固く目を閉じた。
あぁ…これは無理だ……死んだな、俺………
キィンッ!
甲高い音が鳴り響いたのが聞こえた。
そして、いつまで経っても刀が突き刺さる感触が無い。
どうしたのかと思い、恐る恐る目を開いてみると…
「この不届き者めが…!」
「ぐっ!」
「妖忌!」
「申し訳ございません、幽々子様。
火急の事態にすぐさま駆けつけられなかったお叱りは後で受けます。今はあの輩を…」
「はい、お願いします」
「妖忌さん…」
「よく頑張ったの。後は儂に任せておけ」
「はい…」
助かった……妖忌さんが来てくれたならもう安心だな。
あの人があの程度の奴に負ける訳がない。
「お前が妖怪女の僕か…成程、骨のありそうな…」
「黙れ」
「何だと…?」
「丸腰の相手に切りかかり、挙句婦女子まで手に掛けようとするとは武人の風上にも置けぬ。
そのような者の語る言葉など聞きとうないわ。覚悟しろ、只では帰さんぞ!」
「ぬぉっ! 速…!?」
「むん!」
ドスッ!
「うぐ…は……」
「…ふん、他愛もない。
幽々子様、お怪我はありませんか?」
「私は大丈夫です。それより彼を…」
「分かっております。小僧、無事か?」
「はい、なんとか…
あの男は…もしかして殺したのですか?」
「あの程度の愚物の血でこの庭を汚したくはないのでな。当て身を食らわせただけだ。
後で簀巻きにして外に放り出してやるから安心せい」
「はは…速過ぎて解りませんでしたよ…
流石妖忌さんですね…」
「喋るな。今これを抜いてやるからな。
少し痛むが、我慢しろよ」
「はい……ぐ、ぁぁあああ!!」
「よし、抜けたぞ。次は止血だな。
後でちゃんとした物に換えてやるから、今はこれで我慢してくれ」
「あ…ありがとうございます……俺、迷惑かけてばかりですね…」
「そんなことありません!」
「幽々子さん…」
「貴方がいなければ…私、きっと…」
「そうだぞ、小僧。お主がいてくれたから幽々子様は無事なのだ。
ようやってくれたのう、お主には感謝しておる」
「そう言って頂けると、頑張った甲斐があります…」
「もう喋るな。今はゆっくり休め」
「はい…」
血を流しすぎたのか目が霞んできた……それに加えてなんだか眠い…
ぼやけた視界の片隅に、倒れ伏したあの男が目に入った。
なにやら身動ぎしている……あの男、まだ意識が…!
「妖忌さん…! あいつ、まだ…!」
「何だと!?」
「そいつさえ、殺せればいい…これでも食らえ…!」
「吹き矢…! 幽々子様!!」
妖忌さんは反応できていないし、幽々子さんも咄嗟の事で驚いている。
もう駄目なのか…!?
そう思った直後、幽々子さんに向かっていたはずの矢が宙で消えた。
「あらあら、今日は随分賑やかね」
「紫…」
「こんにちは、幽々子」
…よく分からないが、幽々子さんは無事のようだ。安心したら一層眠くなってきた…
あの人が、幽々子さんの言っていた友人なのだろうか…?
わからない……ただ、今はひたすらに眠気が……
~ ~ ~
「……うっ…く…は、あ…あれ、俺は…?」
「ようやく目を覚ましたか」
「妖忌さん…」
傷の痛みで目を覚ますと傍には妖忌さんの姿があった。
俺はどうやら客間の布団に寝かされているようだ。
そうか…俺はあの後眠くなってしまってそのまま…
「どうだ、傷は痛むか?」
「はい…まだ、少し…」
「そうか…傷が癒えるまでの辛抱だぞ。
一応、傷によく効く薬は塗り込んでおいたからな」
「ありがとうございます…それで、幽々子さんは…?」
「幽々子様は自室にて紫殿と話されておられる。
お主の事をずっと案じておったぞ」
「無事だったんですね…良かった……」
「お主がいてくれた御蔭でな。心から礼を言うぞ」
「いえ…当然の事をしたまでです…
それで、紫殿…とは?」
「ああ、お主も見たであろう。先程突如現れた怪しげな女人のことだ。
八雲 紫という名で、いつ頃からかこの屋敷に度々現れるようになり、今では幽々子様の御友人という話だ」
「八雲…紫……あの人が幽々子さんの言っていた、大妖怪…」
「まぁ…そうだな。あの御仁の持つ力は異常の一言に尽きる。
この儂とて、まともにやり合っては勝ちの目は薄いだろうな。まさしく大妖怪だ」
「それは…凄い人なのですねっ…と、痛っ…」
「起きても大丈夫なのか? あまり無理はするなよ」
「これぐらい何ともないですよ。それより、私はどれ位寝ていたのですか?」
「今は夜になったばかりだから、数刻と言ったところだろう」
結構長い間眠っていたみたいだな……まだ少し頭が働いていない感じがある。
それでも、今は聞かなければならない事があまりにも多い。
「そうですか。ところで、幾つか質問させていただいてもよろしいですか?」
「…やはり聞かずにはおれぬか。儂の答えられる範囲でならよいぞ」
「それでは、あの男は一体何者だったのですか?」
「素性は分からぬ。ただ、ここには稀におかしな輩が来ると前に話したな?」
「ええ、確か『妖怪退治』に来るのだとか…」
「あれも同じ類の人間だ。ここに『妖怪退治』をしに来たのだ」
「その『妖怪』というのは、西行妖のことなのですか?」
「奴らの目的はそれではない。狙われておるのは幽々子様だ」
「…なぜ、彼女が狙われなければならないのですか?」
「それは…答えられぬ…」
「妖忌さん…?」
「彼にそれを答えさせるのは酷というものよ?」
「!!!」
突如、部屋の中から聞える筈の無い声がした。
今ここには俺と妖忌さんしかいないはずなのに、一体どこから…?
「…紫殿、聞いておられたのですか。
それはともかく、姿を見せてからお話し下され」
「はいはい、相変わらずお固いわねぇ」
「あ…さっきの…」
「あなたは初めましてね。
私、八雲 紫と申します。以後お見知り置きを」
「あ、はい。ご丁寧にどうも…私の名前は…」
「無名、でしょ? さっき幽々子に散々聞かされたわよ」
「そ…そうですか」
「折角私が来たのに上の空なんだから。
余りにもつまらないからこっちに来てみたのよ」
空間を割り開いて出てきたのは、少女とも成熟した女性ともとれる不思議な人だった。
しかし幽々子さんが言っていたように途轍もない美貌の持ち主だ。
人間とはかけ離れた妖美さとでも言うのだろうか、見慣れぬ服装で身を包んだこの人は一目で魔性の女性と判る。
「ところで、妖忌さんにとって酷とは…?」
「だって幽々子に関わることだもの。
従者が主人について濫りに話していいものではないわ。特にこの件に関してはね」
「紫殿、それは…」
「彼もここまで巻き込まれたんだもの。真実を知る義務があると思うわ。
貴方が話せないなら私が話す。それでいいわね?」
「…分かり申した。頼みます」
「なら話すわね。その前に、貴方は幽々子についてどれだけの事を知ってるの?」
「え…? それは…白玉楼のお嬢様で、大変美しく朗らかだけど…何か悩みを抱えているようだ、っていう事と…」
「もういいわ。要するに、何も知らないのね」
「そ…それは」
「紫殿、そういう言い方は…」
「だけど事実じゃない」
確かにそうなのかもしれない。
俺は彼女のことは殆ど知らない。彼女の持つ‘何か’を…
「だから教えてあげる。あの娘の抱える苦しみを包み隠さずにね」
「苦しみ…」
「でも、それを聞けばこれまで通り幽々子と接するのは難しくなるわよ。
もしかしたら、あの娘から拒絶されるかもしれないわ。それでも聞くの?」
「…聞かせて、下さい…」
俺は何も知らない。それなのに、ただ悪戯に幽々子さんの心に近づこうとしていた。
彼女の心の闇には目も向けず、自分の都合のいいように解釈していたのかも知れない。
だから、俺は知らないといけない。それがどのような結末を招こうとも…
「覚悟はあるようね。では、話して差し上げましょう」
「お願いします」
「…いい顔をするわね。それに、とても澄んだ目をしているのね」
「は…はぁ…」
「成程…これなら幽々子が…」
「どうしました?」
「なんでもないわ。それより、あなたがさっき妖忌に投げかけた質問だけど…」
「何故彼女が狙われるのか…ですね」
「そうよ。幽々子は人間、だけど妖怪として退治されようとしていた。
あなたには、どうしてここにあんな人間がやってくるか解る?」
「それは、ここに人を脅かす存在があるからでしょう。
そしてその存在とは、あの妖怪桜の事なのですよね?」
「その通りよ。今、世間にはこんな噂が飛び交っているの。
『白玉楼と呼ばれる大きな屋敷の女主人は、人を殺し喰らう魔物だ』というね」
「…あの男もそんな事を言っていました。
ですが、それは世間が勘違いしているだけじゃないですか。
本当の魔物が、あの西行妖だという事を知らないだけでしょう」
「確かにあの妖怪桜は噂を広めるのに一役買ったわ。
だけどね、噂がここまで広まるには中身が無いといけないのよ」
「…どういう意味ですか?」
「あれが人の命を奪うのは、満開になる春に限られるわ。
だけど、この噂は季節を問わずに世間に浸透していった。何故だか分かる?」
「…わかりません」
「答えは簡単よ。その噂に中身を与えるような事件が起こったの」
「事件…?」
「あれは去年の春だったわ。白玉楼の存在に怯えた人間たちが大挙してここに押し寄せたの。
もちろん彼らは西行妖の存在など知らない訳だから、原因をそこに居る幽々子だと思い込んだのよ」
「何て勝手な…!」
「それが人間よ。どうしようもなく愚かで、身勝手。
その時に家人はもう妖忌しかいなくて、彼だけで抑え込むには数が多すぎたの。
それで、とうとう人間たちは幽々子の元に辿り着いてしまった」
「それから、どうしたのですか…?」
「あの娘の傍にいた人間達は、一瞬にして全員死んだわ」
「死ん…だ…?」
何故そんな事になるんだ? 妖忌さんが駆け付けたのだろうか?
いや、それにしたって一瞬で全員殺すなんてこと…
「どうして、ですか?」
「幽々子が力を使ったのよ」
「力…?」
「そう。そして、その力が最も彼女を苦しめているのよ」
「どのような力なのですか…?」
「あの娘はね、生ある者を死に誘うことが出来るの…」
「死に誘う…? そんな馬鹿なこと…」
「………」
「本当…なのですか?」
「残念だけど、事実よ」
「そんな……じゃあ、その時に攻め入った人たちを殺したのは…」
「幽々子自身よ。
でも勘違いしないで。あれは事故の様なものなのだから」
「事故ですか…?」
「そう。あんなことになるなんて誰も思っていなかった。
幽々子は元々、死霊を操る程度の能力しかなかったのよ」
「…それも驚きですが…だったらどうして?」
「西行妖が原因でしょうね。『死』に連なる力を持つ幽々子とあの桜は、とても近しい存在なの。これが幽々子が西行妖の影響を受けない理由よ。
あれは長年人の精気を吸い続け、今や簡単に人の命を奪うほどの力をつけた。
それ程の存在が傍にある所為で周囲に『死』が充満して、幽々子の力も自然と強まったのでしょう」
「その結果…死に誘う程になったというのですか…?」
「それだけではないはずよ。
多分あの娘の死にたくないという強い思いが爆発して、力が暴走した結果だと思うわ」
そんな…それじゃあ尚更彼女に非は無いじゃないか。
悪いのは何も知らない身勝手な連中で、幽々子さんはただの被害者だ。
それなのに、どうしてあの人がそこまでの苦しみを抱えないといけないんだ…!
そこまで憤って逆に冷静になり、冷めた頭で思い至った。
あぁ…そうか。あの人は…
「幽々子さんは、本当に優しい人なのですね…」
「…そうね。幽々子程慈愛に満ち溢れた人間はいないと思うわ。
誰よりも生ある者を愛し、誰からも愛されるべき娘。
だからこそ、今の幽々子が抱える苦しみは測り知れないわ…
愛した傍から命を奪い、誰からも憎まれなくてはならない…悲劇の娘よ」
「全ては、西行妖が在るばかりに…」
「でも、それを言っても何も解決しないわ。
今考えなくてはならないのは貴方の事でもあるのよ?」
「私の事…? 何を考えるのです?」
「春が来て、桜もそろそろ咲いてきた。当然あの桜も花をつけてきているわ。
『死』の気配が日ごとに強くなって、幽々子の力もそれに呼応して強まっているのよ。
それこそ、幽々子自身でも抑えきれない程に…」
「それって…つまりどういうことですか?」
「このままここに居たら、貴方は間違いなく死ぬわ……西行妖、そして幽々子に殺される」
「殺され…!?」
「ここに来てからまだ日が浅いらしいけど、何かおかしいと感じなかった?
例えば体の疲れが抜けなかったり、全身が気だるかったり…」
言われてみればその通りだ…
ここに来てからというもの妙な倦怠感があったが、それは疲れていたからじゃなかったのか…?
死、死、死…この言葉を実感する度に体の震えが止まらなくなる…
「本当…ですか?」
「間違いなくね。今や外に出ても大差は無いけど、ここに居ては早死にするだけよ」
「大差は無いって…どういう意味ですか…?」
「紫殿…!」
「妖忌は黙ってて。貴方は幽々子を庇って矢を受けたそうね。
吹き矢まで持っていたから不審に思ったのだけど、鏃に毒が塗られていたわ。
ある程度は毒抜きしたけど、それでも貴方の体にはもう回ってしまっているの。直ぐには死なないだろうけど、安静にしていてもどれだけもつことか…」
「そんな……何とかならないのですか?」
「残念だけどならないわ。諦めなさい」
「小僧…全ては留守にした儂の責任だ…
謝って済む問題ではないが…すまなかった…」
遅かれ早かれ死んでしまうのは人の常。
しかし、これ程まで身近に忌避していたものが迫るとは…
怖い…死ぬのは嫌だ……でも、もう逃げられない……俺は…死ぬ…?
「今の弱り切った体ではとてもここの空気に耐えられないわ。
外に出ても状態は変わらないけど、それでもここに居続けるよりかは幾分楽になるはずよ」
「初めはお主の体が弱り始めたらここから出そうと思っておったのだが…
まさかこのような事態を招くことになるとは思わなんだ……すまん…」
「……ちょっと、外の空気を吸ってきますね…」
「あまり動いてはいかん」
「大丈夫です…外に出るだけですから…」
「小僧…」
一度に色々な事が起こり過ぎた。何もかもが突然で、俺は混乱するだけだった。
しかし確かな事は、俺には余命幾許も無いという事…
外に出ると、月に照らされて庭がまた違った顔を見せてくれている。
あぁ…月明かりが少し目に痛い…
そして、庭の点景の一つにここ最近で見慣れたものが目に入った。
「今晩は…お目覚めになられたのですね」
「幽々子さん…」
「全て、紫から聞いたのですね…?」
「…はい。あなたの抱える苦しみを知りました」
「そうですか…軽蔑するでしょう?
私は世間で噂されている通り、人殺しの魔物なのですから」
「そんなこと…」
「取り繕った物言いは結構です。事実は変わりません。
貴方も愚かしい事をなさいましたね。人殺しを助けてしまったなんて」
「………」
「それで自分が死ぬ羽目になるなんて、愚の骨頂ですね。
ふふ……可笑しい。惨めな貴方を見ていると、笑いが込み上げてしまいます」
「……やめて下さい」
「昼間の方が言っていたように、全ては演技だったのですよ。
貴方は私の思い通りに動いてくれて、見事私の盾となってくれましたからね……本当に滑稽だわ」
「…やめるんだ」
「もう愛相が尽きたでしょう? これが私の本性です。
この屋敷を出て短い余生を過ごされてはいかがですか? 貴方はもう要済みですから」
「もうやめろ!!」
なんてことを言いやがるんだ…!
これ以上は我慢できない…これ以上は許せない…
これ以上この人に喋らせるわけにはいかない…これ以上は…
「…もうやめろ」
「何をやめろと言うのですか?
それに貴方はもう要済みだと言ったでしょう? 私の前から消えて下さい…目障りです」
「幽々子さん…」
「それ以上近づかないで下さい。
少しでも長生きしたいなら、今すぐ白玉楼を出ることです。さっさと何処へなりとも行ったらいいでしょう」
「もういいんだ…」
「…意味の分からない事を言うのはもう止めて下さい。
言う事を聞いてくれないなら、私の手で殺して差し上げましょうか?」
「全部、分かってるから…」
「何を…分かっているというのですか?」
何を…? そんなこと、貴女だって分かりきっているはずでしょう。
「お願い…ですから、私なんかの事は放っておいて…ここから…」
「自分を傷つけるのは…もうやめろ…」
「そんなこと…ありません…」
「だったら、どうして泣く?
幽々子さん…これ以上自分を苦しめないでくれ…」
「泣いて、なんか……いません……」
彼女の目の前まで歩み寄り、華奢な体をそっと抱き締める。
見た目通り細い体だ。この小さな体で、一体どれほどの苦悩を抱えてきたというのだろう。
そして、さらに傷を重ねようとするならば……それだけは止めないといけない…これ以上は悲しすぎるだろう…?
「…離して…下さい」
「離さない。貴女の言う事は聞かない」
「死にたい…のですか…?」
「やれるものならやってみろ。その代わり、死んでも離さないからな」
「貴方を殺す、なんて……出来る筈…ないですよぉ……」
「そうか。良かった」
彼女がここまで強がる原因は…やっぱり俺なんだろうな。
自分だって辛いはずなのに、こんな時にまで優しいだなんて……自分を傷つけてまで誰かを気遣うなんて…
「ごめん…なさい……私の所為で、こんな事に…
ごめんなさい…本当にごめんなさい……」
「俺がやりたいようにやっただけだよ。
だから、幽々子さんが苦しむ必要なんて無い」
「それでも…謝らなければなりません…
ごめんなさい……ごめんなさい……」
「俺の事はもういいから…それより幽々子さんの声を聞かせてくれ」
「…え……?」
「もう我慢しなくていいから…今まで抱えてきたもの全部、聞かせてくれないか?」
「……そんなもの、聞き苦しいだけです…
…それに、とても言葉にできそうに…ない…」
「それでいいじゃないか。何でもいいから、吐き出さないと苦しいだけだ…」
「…本当に、いいの……?」
「聞かせてほしいんだ…」
この人が抱えるものは、この小さな肩には重すぎる。
俺が肩代わりすることなんて出来ないけど、話を聞くだけならできる。
今の俺に出来るのはそれだけだ…
「…どうして……」
「ん…?」
「どうして…私がこんなに苦しまないといけないの…?
どうして私にはこんな力があるの? どうして皆私を殺そうとするの?
私は生きていてはいけないの? 私に普通の人生は送れないの?
ねぇ、どうして私だけ皆から疎まれるの? どうして…どうして…」
「うん…うん……」
ぽつりぽつりと、幽々子さんは話し始めた。
語る言葉の一つ一つに積年の苦しみ…嘆き…何より悲しみが感じられる。
本当に、どうしてこの人がこんな理不尽な運命を背負わないといけないんだろうな…
誰も幽々子さんの思いを知らず、誰もがそれを知ろうとしない。
彼女が悪いなんてこと一切ない。本当に悪いのは…きっとこの世の中だ。
俺に出来ることは…これだけなのか…?
俺は細い体を抱きしめたまま、月を見上げた……それは変わらぬ輝きを誇っていた…
・
・
・
・
・
・
「…もう、大丈夫です」
「これで全部ですか…?」
「はい…情けない所をお見せしてしまい、申し訳ございませんでした…」
「情けなくなんてないですよ…幽々子さんの本心が聞けて良かったです」
「それと…少しだけ、スッキリしました。
聞いてくれてありがとうございます」
「お役に立てたなら幸いです」
「…あの…一つお尋ねしても宜しいですか?」
「何でしょう?」
「先程と話し方が違うようですが…」
「あ…その、あれは何と言いますか…」
「あっちが本当の貴方なのですか?」
「えーと……はい…
すみません、今まで騙すような形になってしまって…」
「もう先程の様に話しては頂けないのですか?」
「それはその…勘弁してもらえませんか?
聞き苦しいだけですから…」
「素の話し方で構いませんよ…?」
「ええっ? で…でも、幽々子さんだって今とは違う話し方してたじゃないですか。
あっちが貴女の素なら、幽々子さんこそさっきみたいに話してくださいよ」
「それは…恥ずかしいです…」
「私も同じですよ。恥ずかしいのです」
「…これも、お相子ですか…?」
「…そうですね。お相子かもしれません」
「ふふふ…」
「ははは…」
幽々子さんはやっぱり綺麗に笑う人だ。外で噂だけしている奴らは、この人の事を知らない。
でも、口で言っても今更この噂は払拭できないだろう。だったら、より強い印象を与えてやればいい。
俺に出来ること、まだあったな…
「幽々子さん。聞いて下さい」
「…どうしたんですか?」
「私は未だ白玉楼を去ることが出来ません。
もう暫く、ここに居させて下さい」
「どうして…ですか?」
「まだ絵が描き上がっていません。
何よりも、まだ表情すら描けていないのです」
「表情…?」
「幽々子さんの最高の笑顔を絵に描き、私はそれを世間に広めようと思います」
「えっ?」
「世間は貴女の事を勘違いしています。だから私が正すのです」
お前たちが魔物と呼ぶ人はこんなに綺麗な笑顔を作れるんだぞ。
お前たちはここまで優しげな微笑みを見たことがあるのか?
この人が噂されているような悪い妖怪のはずがないだろう……全てはこの言葉の為に。
「私は、残りの人生を幽々子さんの為に使い切ります」
「そんな…私なんかの為に…」
「止めないで下さい。
私の人生だから、私が自分で決めたように生きたいのです」
「自分で決める…あの教えの通りですか?」
「幼少の頃のあの教えを守りたい訳ではないです。
私が心からそうしたいと決めたから…」
俺がやりたい事をやって、それが彼女の為になるならこの上ないだろう。
あぁ…今ならわかる。俺は幽々子さんにとことん惹かれている…
俺がこの若さで死ぬのが定めなら、彼女に出会えたことは俺の中では特等だ。
幽々子さんは、短い俺の人生に意味を与えてくれた……本当に好い女だよな…
死ぬのは怖いし嫌だ…だけど、この人が誰からも愛されないのはもっと嫌だ。
「…なので、もう暫くここに置いて頂けますか?」
「もう…決心は揺らがないのですか?」
「心に誓ってしまいましたから」
「…後悔はしませんか?」
「やりたい事をやるのに、後悔なんてあり得ませんよ」
「…わかりました。これ以上は貴方を侮辱するだけですね…」
「それでは…?」
「もう止めません。貴方の決めた人生を歩んでください」
「はい…そうさせてもらいますね。
改めまして、宜しくお願いします、幽々子さん」
「こちらこそ…お願いします、無名さん」
ほんの数日前には考えもしなかった未来だな。
今までただ漠然と生きてきたこの俺が、ここまでの決意をするとは思ってもみなかった。
俺が死ななきゃならんのは天命というやつだろうか……だったらそれでいい。
彼女の為に生きて死ぬ。これだけで、俺の人生に意味はある。
俺の最大の幸運は、そう思わせてくれるような幽々子さんに出会えたってことだろう。
彼女に出会うことなく、ただ漠然とした日々を無為に過ごすよりよっぽど上等な生き方じゃないか。
「…いや、俺にしてみれば最上か…」
「何か仰いましたか?」
「いえ、幽々子さんの素晴らしさを再確認していただけです」
「…?」
「はは…ここは冷えますから、中に戻りましょう」
「そうですね」
「お話は終わったかしら、お二人さん?」
「紫…聞いてたの?」
「いくらなんでもそこまで無粋じゃないわ。
そりゃあちょっとは聞いたけど、殆ど見てただけよ。それにしても…何か暑いわ~」
紫さんはパタパタと手で煽ぐ仕草をしている。
聞いてはいなかったけど見てたって…それって結局一緒では…?
「ゆ…紫!」
「冗談よ、冗談。
それよりも問題は貴方よ。自分の体のこと解ってるの?」
「…死が目の前まで迫っているんですよね?」
「外に出れば精気は回復するけど、ここに居たらそれは無い。
このままだと、貴方は数日ともたないわよ。それでも…」
「絵を完成させると決めました。
それにもし中途半端で逃げ出したら、外で幽々子さんに怯える連中と何も変わりません。
死ぬのはこの上なく怖いですが、幽々子さんは怖くないので私はここに居ます」
「無名さん…」
「矛盾した考えね…」
「そ…そうでしょうか?」
「そうよ。結果は怖いけど、その原因は怖くないって言ってるようなものよ?
全く持って矛盾しているわ……でも…」
「でも…何でしょう?」
「悪くないわ。貴方みたいな馬鹿は久しぶりに見たもの」
「馬鹿って…」
確かに頭のいい方じゃないという自覚はあるが…こうも率直に言われると…
「紫! そんな言い方は…!」
「あら、最高の褒め言葉だと思ったのだけど?」
「どこが褒め言葉なの! 彼に失礼じゃない」
「幽々子さん…」
「まぁ…幽々子ったら…」
「な…何よ?」
「ふふ…無自覚なのねぇ。幽々子らしいわ」
「…何を言っているの?」
「何でもないわ。それよりそこのお馬鹿さんに、楽しませてくれたお礼をしてあげる」
「お礼? それに紫さんを楽しませるようなこと、何かしましたか?」
「…あなたも大概ね。
まぁいいわ、貴方はとりあえず目を閉じなさい。幽々子はあっち向いててね」
「いいけど…何をするつもり?」
「ちょっとした餞別よ。早くあっち向いてちょうだい……じゃあ行くわよ」
餞別? 何をくれるというのだろう?
言われるがまま目を閉じていると、唇に柔らかい感触が触れた。それと同時に甘い香りが…
………えっ、今のは…まさか…!?
「ゆ、紫さん! 何を!?」
「落ち着きなさい。別に初めてって訳じゃないんでしょ?」
「それにしたって…いきなりこんな…!」
「…? 何をしたの、紫?」
「何でもないわよ。幽々子は耳も塞いでてね。
ところで貴方、体の調子はどう?」
「体…?」
「今、貴方に少しだけ精気を分けてあげたのよ。
大分楽になったんじゃないかしら?」
「い…言われてみれば、少し体が軽くなった気がします…」
「これでもう暫くはここの空気に耐えられるはずよ。
私がこんな気紛れ起こすなんて滅多に無いのだから、感謝しなさい」
「それはありがたいのですが…他に方法は無かったのですか?」
「これが一番手っ取り早いの。文句言うなら返してもらうわよ?」
「えっと…どうやって?」
「さっきと同じ方法よ。それとも、やって欲しいのかしら?」
「あ…いえ! 結構ですから!」
「そう? 私にこんなことされる機会なんて、転生してもあり得ないわよ?」
「それでも結構です!!」
「あら…そんな強く拒否されるなんて…
私ってそんなに魅力ないかしら…?」
いいえ、お願いできるならもう一度やって欲しいです。
だがそれを言った場合、何か良くないことが起きそうな気がして…
何よりも精気を吸い取られる可能性がある以上、やってくれなんて言えないだろう。
「そんな意味ではありません。とにかく、結構です」
「…意外と冷めた反応ね。つまんないわ」
「…もしかして、からかってたんですか?」
「もしかしなくてもね。
幽々子、もういいわよ」
「紫、終わった?」
「ええ、私は帰ることにするわ」
「えっ、もう帰るの?」
「だって幽々子ったら私と居るのに別の事考えてるんだもの。
ゆかりん悲しいから、家に帰って枕を濡らすことにするわ…」
「そう、またね」
「うわああぁぁん! 幽々子が素気ないわー!
男ができたら私は要済みなのねーーー!」
行っちゃった……なんだか凄い起伏の激しい人だったな。
それに、俺は結局からかわれただけだった……いやまぁ精気を分けてもらったけど。
「男ができる…ってどういう意味ですか?」
「深い意味はありませんよ。幽々子さんは知らなくてもいい事です」
「はぁ…そうですか」
「それにしても、言っていた通り胡散臭い人でしたね」
「そうでしょう? それに、いつも突然現れるんですから…」
「そうそう、言い忘れてたわ」
「うわぁっ!」
「私は今あの桜をどうにかする方法を考えてるから、幽々子…」
「………」
「くれぐれも早まった真似しちゃ駄目よ、いいわね?」
「…わかってるわ」
「そう…だったらいいのよ」
「あの…何の話ですか?」
「…幽々子、まだ話してないの?」
「………」
「…どうしたんですか?」
「何でもないわ。私が話すわけにはいかないから、どうしても知りたいなら本人の口から聞きなさい」
「紫…」
「何時までも隠し通せることじゃないわ。幽々子、もう貴女だけの問題でもないのだから……じゃあ、またね」
まだ何かあるというのだろうか…?
幽々子さんは、まだ抱えているものがあるのか?
この人の心の闇は一体どれ程深いのだろう…
「幽々子さん…」
「…後日必ずお話しいたします。今日はもうお休みになられた方が良いでしょう」
「え…えぇ、そう…ですね」
「では、私はこれで失礼します。
お休みなさいませ」
「はい、お休みなさい」
「…無名さん、今日はありがとうございました…」
「…私は何もしていませんよ」
「いえ…それと、貴方が残って下さると聞いた時……嬉しかったです」
「えっ?」
「…お休みなさい」
嬉しかったとは……そういう事なのだろうか?
俺のやってきたことも、まるっきり無駄だったわけじゃないのかもな…
それにしても、まだ秘密があるなんて……話して貰えるみたいだけど…
「幽々子さん、苦しそうだったな…」
「わかるか、小僧」
「うおぅ! …って、妖忌さんですか」
「儂は詳しいことは知らぬが、どうやら幽々子様には西行妖を封印する手立てがあるらしいのだ。
しかし、その話をなさる時のあの方はいつも暗い表情をされる」
「それは…つまり彼女にとって喜ばしい方法ではないと…?」
「儂には判らぬ。だが何か良からぬ事が起きるような気がするのだ…」
「良からぬ事…」
「儂にこのような事を言う資格は無いかもしれぬが、お主が幽々子様の支えになってくれ」
「妖忌さん…」
「頼んだぞ、小僧」
妖忌さんがここまで深刻になるようなことが起きるというのだろうか。
自分の体の事はもう取り返しがつかないし、受け入れるしかないのだが…彼女は何をしようとしているのだ?
一抹の不安を抱えながら俺は眠りについた。長い一日が終わりを告げる…
~ ~ ~
「……う…んん…朝か……
矢傷は痛いけど…体の調子は昨日よりいいかも…」
こんな調子だと、自分が毒に侵されているなんて忘れてしまいそうだ。
昨日はあれほど切迫していた死の雰囲気が和らいでいる。
「でも俺の死が近いのは変わらない…かぁ……起きよ」
外に出てみると太陽が大分高い位置にあった。
…これは一体どういうことだろう?
「もしかして…もう昼なのか…?」
「小僧、起きたのか」
「妖忌さん…これは一体?」
「お主も感じとるように、既に昼を回っておる。
朝に声をかけたのだがお主は全く起きなかったのだ」
「…それは本当ですか?」
「本当だ。死んだように眠っておったから驚いたぞ。
何度声をかけても体を揺すっても起きる気配が無かったので、とりあえず寝かしておくことにしたのだ」
「そんな…全然気づきませんでした…」
「このまま目覚めぬのかと思ってしまう程だったが…安心した」
そんな馬鹿な…そこまでされて起きなかったなんて…
俺の体が極端に弱っていることが影響しているのか…?
もしかしたら…眠ったまま起きることなく、死んでしまうなんていうことも…
「…小僧、震えておるのか?」
「えっ…?」
「やはり死ぬのは怖いか…」
「…怖いです…今はそれ以上に眠ってしまうことが怖いです…」
「そうか…だが安心せい。明日の朝はこの儂が叩き起こしてやるからな」
「…お願いします」
「うむ。ところで、飯は食べるか?」
飯か…普段は渇望しているものなのに、今は何故か欲しくない。
二十年程生きてきて、食欲が無いのは初めてだ…
「申し訳ないですが…今は何も喉を通りません」
「しかし、食べねば体がもたんぞ?」
「それでも…御免なさい…」
「むぅ…そうか。だが夜はしっかり食べるのだぞ」
「…はい、お心遣い感謝します。
ところで幽々子さんはどちらに…?」
「あのお方は今、西行妖の元に居るはずだ」
「西行妖の傍に…」
「会いたいか?」
「それは勿論ですが…しかし…」
「ならば連れて行ってやろう。儂について来い」
「えっ、あそこに近づいてはいけないのでは?」
「儂が危険だと判断したら即座に連れ戻す。
幽々子様と会って話がしたいのだろう?」
「…はい」
「ならばついて参れ」
「お願いします」
西行妖…全ての元凶の元に幽々子さんがいる…
俺は昨夜聞き損ねたことを、どうしても聞かなければならない。
何故か、そんな気がする…
「幽々子様はこの向こうに居られる。
行く前に一つだけ言っておくぞ」
「…何ですか?」
「西行妖は未だ満開はせずとも、かなり花をつけておる。
くれぐれも直視せぬようにしろよ……何が起こるか分からん」
「…はい、心得ておきます」
「宜しい。では行くぞ」
そう言って、妖忌さんは歩を進めた。
襖を開いた先に広がるのは、花びらが舞い散る幻想的な風景だった。
その花びらの元は当然あの巨大樹……その傍には幽々子さんが佇んでいた。
「ここからはお前だけで行け。儂はここで控えておる。
会話は聞かぬようにするから、心行くまで話すとよい」
「わかりました…」
幽々子さんはこちらに背を向けて西行妖を見上げ、俺の接近に気付いた様子は無い。
俺から表情を伺うことはできないが、どんな顔をしているかは予想がついた。
俺は桜には目もくれず、彼女だけを目指して近づいていった。
近づくにつれて空気が重々しくなっていくのが良く分かる。胸の鼓動が高まるのは、恐らく恐怖のせい…
「幽々子さん…」
「…無名さん? 何故ここに?
この桜に近づいてはいけないと妖忌から…」
「教わりました。それでも、貴女に会いに来たのです」
「…今すぐ場所を変えましょう」
「構いません。今のところ不調は無いですから。
それよりも、今は貴女と話がしたいのです」
「…昨夜の事ですか?」
「はい…妖忌さんから聞きました。
幽々子さんには、この西行妖を封印する手段があると」
「………」
「そして、それが何か良くない事であるとも…」
「…確かに私にはできます」
「教えて下さい。貴女は何をしようとしているのですか?」
「それは…」
幽々子さんは口を噤んでしまった。それ程話し難いことなのだろうか…?
俺はただ待つしかできない。これほど沈黙が重いと思ったのは初めてだ。
「…私には、大切な使命があります」
「………」
「私は西行寺家の当主として家名を守らなければなりません。
この桜は、年々人の精気を吸い続け強大な力を持つようになりました。
その力は人の命を脅かすまでになり、それを恐れた家人は皆ここを離れていったのです」
「そんなことが…」
「私の持つ力を気味悪がったというのも理由の一つだと思います。
そんなこともあり、西行寺家のかつての繁栄は見る影も無くなってしまいました。
…最早かつての威光を取り戻すことは敵わないでしょう。それでも潰えて尚、汚名を被ることは我慢が出来ないのです」
彼女を気味悪がって…傍にいる人からそう思われるのは辛いことだ。
だから家人が居ないという話をした時の彼女は暗い表情をしていたのか。
そして、あの男に言っていた『重大な使命』とはつまり…
「それでは…使命とは被った誹謗を拭い去ることですか?」
「その通りです。完全には不可能だと思いますが…
それで、全ての元凶とも言えるこの桜を封印する決意をしたのです」
「…その方法とは?」
「…私の…命を捧げることです…」
「命…!? どうしてそのような話になるのですか!?」
「もうこれしか方法が思いつかないのです…
私を生贄として、西行妖を鎮めることしか私には…」
「そんな…確証は無いのでしょう!?」
「…はい」
「馬鹿な事は止めてください! 一歩間違えば無駄死にじゃないですか!!」
「…だったら……だったら他にどうしたらいいのですか!?」
「幽々子さん…」
「私にはもうどうする事も出来ない…この桜を止められない…
それに、私が生きていたら誰かが苦しむ……だったら、自ら命を絶ちます…
その結果、西行妖を封じることができれば、全てが丸く収まるじゃないですか…」
そんな馬鹿な事を考えていたのか…!
この人は自分の生に絶望している。生きることに疲れている。
その所為でこんな事を考えてるなら、絶対に止めないといけない…!
「ふざけるな! 幽々子さんが死んだら俺が悲しむ! 妖忌さんだって、紫さんだって絶対に悲しむはずだ!!
皆、貴女が笑って過ごせる未来を望んでいる! それなのに…簡単に死ぬなんて言うな!!」
「…そうですね…確かに無名さんたちの想いを無駄にしてしまいます……
ですが、もう決めてしまったのです……これ以上生きていても…辛いだけですから…」
「諦めるなよ! 紫さんが手立てを考えてるって昨日言ってたじゃないか!
あの人だったらきっとなんとかしてくれる!! あの人は大妖怪なんだろ!?」
「…ええ、私も彼女は信じています。
ですので、次の満開までは紫を待とうと思います……ですが、彼女が間に合わなければ…」
「死ぬって言うのか…!」
「はい…自分の人生ですから、自分で決めました…」
「怖くないのかよ…」
「…怖いですよ。怖くて怖くて…気付けば体の震えが止まらない時があります」
「だったら逃げちまえよ……
ここを出て、西行妖のことなんか忘れて…どこかで生き続ければいいじゃないか…」
「…私は、ここが大好きなんです。
私が生まれ、育ってきた…思い出が沢山詰まったこの家が大好きなんです…
だからここを捨ててのうのうと生きるなんて、私にはできません…」
「そんな…」
「それに、私は既に多くの命を奪ってしまいました…
そんな私が生きていていい場所など……どこにも在りませんよ…だったら、私はこの家で果てたいのです…」
「何故……どうしてこんな事に…?」
「理由は多過ぎるほどあります……ただ、私は自分の力を心の底から憎んでおります」
「幽々子さん…」
「私にこんな力がある所為で、大勢の方々が怯えなければならない…
そのうえ貴方まで傷つけて…取り返しのつかない事になってしまった……こんな力、どうして好きになれるでしょう…?」
その言葉を聞いて、俺は膝から崩れ落ちてしまった。
駄目だ…彼女の決意はもう揺らがない……この人は…優しすぎるよ………
何故自分以外を憎めないんだ…? 自分を責めることしかできないなんて…
何より、どうして彼女が死ななきゃならない…幽々子さんは何も悪くないんだよ……
「お願いだから…考え直してくれ……
幽々子さんがそこまで思いつめる必要なんて無いじゃないか…」
「…御免なさい」
「幽々子…さん……くそ…なんでだよっ!!」
「無名さん…お願いですから、私なんかの為に…泣かないで?」
「無理だよ…どうしてこんな理不尽なんだよ…
どうしてそんなに意思が固いんだよ…あんた……優しすぎるんだよぉ…!」
「無名さん…」
「くそ……ちくしょおおおおおぉぉぉぉ!!」
俺は叫ぶだけだ。俺には何も無い…誰もが初めに手にする名前すら無い。
自覚はしていた事だ。俺はただの人間で、特別なモノなんて何一つ持っていない。
だから、ずっと‘特別’という言葉に憧れてきた。それがもたらすモノも考えずに。
今ここに、自分の中の特別を心から嫌う人がいる。何も持たない俺には、その人の気持ちが分からない。
だから、俺には無様に叫ぶ以外の選択肢が残されていなかった。自分の無力を呪いながら叫ぶしか…
「あまり興奮されてはお体に障ります……屋敷に戻りましょう?」
「…はい……みっともない所を見せてしまいました…」
「私の為に叫んで下さったんですよね…ありがとうございました。
ですが、ここにいては危険ですから中に入りましょう」
「わかりました……あれ…?」
「どうしたのですか?」
「いえ…急に体が重く……立て、ない…?」
「…! 妖忌、すぐに来て!
無名さん! しっかりして!!」
「小僧! 気をしっかり持て!」
「妖忌、彼を今すぐに休ませて!」
「畏まりました。小僧、しっかりせい!」
また意識が遠くなってきた…嫌だ…眠るのは怖い……
死ぬのは……怖いよ………
「無名さん…」
薄れゆく意識の中で、幽々子さんの囁きだけが強く響いた…
~ ~ ~
徐々に浮かび上がる感触…暗闇の中で幽かな光を感じる。
これは生まれてから毎日ずっと経験してきたこと…目覚めだ…
「……俺はまだ…生きてる…?」
どれくらい眠っていたのだろうか…体の感覚が覚束ない。
だけどまだ生きている。目もよく見えないが、肌に触れる布の感触が教えてくれる。
恐ろしい眠りを越えて、俺の命はまだ続いている。
「ここは…白玉楼じゃない…?」
「その通りだ。近くの町の空き家を借りておる。
幽々子様の強い要望で、ここに移すことになった」
「妖忌さん…」
「小まめに様子を見に来ておったが、儂の居る時に目が覚めてくれるとは幸いだ。
今粥でも作ってやるからな。暫く待っていてくれ」
「私は、どれくらい眠って…」
「…丸三日と言ったところだ」
丸三日……はは、よく目が覚めたものだ…
どうも俺はしぶとい体の持ち主みたいだな。
「そうですか……!
桜、桜は…ゲホッ、どうなりましたか…!?」
「落ち着け。大声を出してはいかん」
「そんなことより桜は、西行妖は…!?」
「…満開を迎えた。幽々子様は今宵、封印を試みるそうだ」
そんな…紫さんは間に合わなかったのか…
だったら、今夜幽々子さんは西行妖の前で自害を…
「妖忌さん! 俺を…ゴホッ…白玉楼へ連れて行って下さい!」
「だから大声を出してはいかん!
それに、今あそこに行ってはお主の体は耐えられん。本当に死んでしまうぞ?」
「それでも行かなければならないのです!」
「駄目だ。自殺行為を手助けしたくはない」
「…だったら、俺一人で行きます!
それなら文句は無いでしょう!?」
「認められん。今のお主は歩ける状態でもないのだ。
とても白玉楼までは辿り着けまい」
「構いません。ここでじっとしていては…」
「…お主、死ぬのが怖くないのか?」
「怖いよ! 怖いに決まってるだろう!!」
「!!!」
当然だ。死ぬのが怖くない人間がいるわけない。
特に俺は一等臆病だ。いつ来るかも分からない死に今だって怯えてる。
それでも…今日死ぬと決意した人がいる。あの小さな肩で…押し潰されそうになりながら歯を食いしばって耐えている…
あの人を独りにしてはいけない……俺には何もできなくても、傍には居れるから…
「俺と同じで苦しんでても、俺より頑張ってる人がいるんだ!
俺もあんたも大好きなあの人は、今も苦しんでるんだよ!!」
「小僧…」
「あの人言ってたよ…死ぬのは怖いって…
それでも、自分が死ねば大勢の人が救われるだろうって…」
「幽々子様…」
「あんな優しい人が誤解されたままなんて…悲しすぎるじゃないかよ……
俺にあの人の決意を動かすことはできない……紫さんでもできなかったんだ…
…だから俺は絵を描きに戻る。描き終えて、そして生きてやる!
あの人の笑顔を、温もりを…勘違いしてる馬鹿野郎どもに伝え終わるまで死んでなんかやるもんか!!」
「…それがお主の決意なのか?」
「こればっかりは絶対に譲れない」
「生きて帰るのだな?」
「そうしないと意味が無い」
「…わかった。連れて行こう」
「妖忌さん…!」
「だが約束してくれ。無理はするなよ」
「…わかった。出来る限りの事をするよ」
「では儂の背に負ぶされ。全速力で行くぞ」
「ありがとう、妖忌さん」
「構わんよ。お主の幽々子様を想う気持ちに曇りは無い。
形は違うが、同じ想いを抱く者としてお主には感謝を禁じ得ん」
「大した事はできないけどね」
「立派だよ、お主は。本当に弟子にしてみたかったのう」
「はは…あんたの修行にはついていけそうもないよ」
「…ところでそれがお主の本当の話し方なのだな?」
「気分を悪くしたかい?」
「いや、逆に好感が持てる。取り繕わぬ方が良い」
「やっぱりあんたって…豪快な人だよな」
「そんなに褒めるな」
これが幽々子さんと過ごす最後の日になるのか…
俺も覚悟は決めた。もう無様に泣いたりはしない。彼女の決意を汚さない。
俺は俺に出来ることをやるだけだ。だから幽々子さん…待っててくれ!
~ ~ ~
「幽々子様、少しよろしいですか」
「妖忌…どうしたの?」
「どうしても幽々子様と会いたいと言っておる輩がおりまして…」
「…お帰り頂いて」
「しかし、会えないのならばこの場で死ぬとまで言っております。如何いたしましょうか?」
「………」
「幽々子様」
「お通ししなさい…」
「畏まりました。では、入れ」
「…久し振りだね、幽々子さん」
「………」
「それでは私はこれにて…」
妖忌さんは外で控えるようだ。それにしてもこの空気は異常だな…
濃密な死が白玉楼全体に充満し、常に首を絞められているような息苦しさがある。
幽々子さんの傍に近づくにつれその気配は強まっている。
これが幽々子さんの持つ悲しみか…
「久し振りと言っても俺はさっき目が覚めた訳だからそうでもないかな。
幽々子さんにとっては三日振りになるから…久し振りでいいよね」
「………」
「そうだ、俺は今日も絵を描きに来たんだよ。
前にも言ったけどまだ描き終わってなくて、桜が満開になったって聞いたから焦ったよ」
「………で」
「じゃあ描き始めようか。言っとくけど、拒否権は無いからね?」
「……なんで」
「おいおい幽々子さん、ちゃんと顔上げてくれないかな。それじゃあ描けない…」
「何で来たのよ!?」
「………」
「ここに来ても死ぬだけだって解ってるはずしょう!?
私のことなんか忘れて、外で少しでも長生きしようとは思わないの!?
貴方も知っての通り私はもう死ぬわ! そんな人間に構って、貴方まで死ぬつもり!?」
「幽々子さん」
「紫の言ってた通りだわ…貴方はどうしようもない馬鹿よ…」
「幽々子さん、聞け」
「死ぬのが貴方の望みなら、どうして私の前に現れるの…?
惨めな私を嘲笑いにでも来たの…? もう止めてよ…私を苦しめないで…」
「黙って聞け!!」
「!!!」
やっぱりこんな顔してたのか。だからこの人は独りにしちゃいけないんだ。
こんな思いを抱えたまま、誰からも知られることなく死を迎える……そんなことさせてはいけない。
「俺は絵を描きに来たって言っただろ。それ以外に目的なんて無い。
それに俺だってもう死んじまうかもしれないんだ。あんたを笑えるかよ…」
「あ……」
「惨めだって言うなら俺の方が惨めだよ。
凄い美女がいるって噂聞いてここまで来て、挙句死んじまうんだぜ?
それも、自分から死ぬなんて言う女庇った所為でさ」
「…ごめんなさ…い…」
「本当に、我が事ながら涙が出るよ……ここに来て大正解だったってな」
「……え…?」
「噂通りここに居たのは最高の女だ。俺はそいつを守って死んじまう。
その上、死ぬまでの猶予まで設けられてる。それを使って本当にやりたい事も見つかった。
ここに居たのは誰よりも優しい暖かな笑顔の持ち主で、空っぽの俺に生きる目的を与えてくれた。
……最高じゃないか。今の俺は誰よりも充実している自信があるね」
「……そ…んな…」
「あんたが下ばっかり向いてたら俺は本当に惨めになっちまう。
…もう死ぬ決意したんだったらさ、せめてそれまでは笑って過ごしたいじゃないか…」
「…むめ…い…さん…」
避けられないならば、それは本当にどうしようもないこと。それを嘆いたままでは俯いた顔は上がらない。
最後の最後まで暗い顔して…そのままなんて許せない。だから俺はまたここに来たんだ……覚悟をもって…
「それに、幽々子さんは勘違いしてるよ…
俺は死なない…生きてここから出てみせる……生きて出ないといけない…
幽々子さんと一緒に歩く未来は無いけど、貴女の想いと歩くことはできる…」
「無名さん!」
「おっと……なぁ、幽々子さん。
俺にも貴女の手伝いをさせてくれよ……それで死ぬなら、本望だから…」
「寂しかった! 独りぼっちで苦しかった!
誰も私の心を知らない、それが辛かったの!」
「うん…そうだよな…」
「死にたくない! でもこの家を捨てられない!
私はどうしたら良かったの!? どうすれば憎まれなかったの!?」
「辛かったよな…苦しかったよな…
俺も死ぬのは怖いよ……実感すればするほど頭が真っ白になるよ…
でも幽々子さんは俺よりもずっと長い間これに耐えて来たんだよな……ごめんな……気付いてやれなくて…ごめんな……」
「う…ひっく……うわああぁぁぁ!!」
「よしよし……思う存分泣きなよ…」
前の晩に吐露した思いとは違う。これが彼女の小さな体に詰め込まれた全ての思いだ。
背中にそっと手をまわすと、折れてしまいそうなほど細い……本当に強い少女だよ。
この娘に出会えて心の底から良かったと思う。この娘の心を知ることができて幸せだ…
そうして、俺達は暫くの間抱きしめ合っていた…
・
・
・
・
・
・
「…もう、泣き止んだかい?」
彼女からの返事は無く、ただ腕の中で肯いたのを感じた。
一体どれほどの時間抱き合っていたのだろうか……数分、あるいは数刻?
最早時間の感覚など無く、意識が朦朧としてきたが…まだ動ける。まだ話せる。
紫さんのお蔭なのかな……気紛れだって言ってたけど、あなたのお蔭で俺はまだ頑張れます…ありがとう…
「幽々子さん…生きるって、どういうことなんだろうな?」
「…どうしたんですか、突然?」
「生きるって、よくよく考えれば『死に向かう』事なんじゃないかって思うんだ…
死ぬためだけに生きるなら…どうして俺たちは生きてるんだろうな…?」
「…私には…わかりません…」
「俺さ、ここに来てそんな難しいこと考えて…はは、人生で一番頭使ったよ…」
「答えは…出たのですか?」
「ああ、出たよ」
俺がこんなこと考えるなんて思ってもみなかったが、人生の崖っぷちに立たされて…答えまで見つかった…
全てはここに来たお蔭……彼女と…幽々子さんと触れ合ったから…
「最後の一瞬に…笑うためだと思うんだ…」
「笑う…?」
「生きているうちにやりたいことやって、生きているうちに悔いを無くす…
それで最後に笑うんだよ…『いい人生だった』…てな」
「…私には…とても無理ですね…」
「いいや、そうでもないと思うよ…」
「…え?」
「なにも自分のことばかりじゃなくていい……何かいい思い出があれば…それでいいんじゃないかな…?」
「いい思い出…」
「俺は幽々子さんに出会えたことが一番だなぁ…
君のお蔭でやりたいことが見つかったし…悔いも残らなさそうだよ…
というか…もし出会えなかったら、とても笑って死ぬなんて…」
「わ…たしは……」
幽々子さんは口籠って何かを言おうとしているが…ごめんな?
もう…時間もあまり残されていないんだよ…
「…幽々子さん…そろそろ絵を描かせてくれないかな?」
「え…?」
「情けない話だけど…俺の体、そろそろ限界なんだ」
「そ…んな…」
「目も霞んできちまったし…このままだと本当に死んじまう。
その前に一番描きたい部分だけでも描いとかないとな…」
「…わかりました。貴方がそこまで強くあるなら、私ももう少し頑張ってみます」
「ああ、敬語は止めてくれよ。今更気を使わなくてもいいだろ…?」
「そう…ね、そうするわ」
「よし、それが一番だよ」
「…貴方って本当に優しい人ね。私なんかよりもずっと…」
「俺は美人には優しいのさ…
そんなことより、笑ってくれないか?」
「笑う…?」
「言っただろ…? この絵の幽々子さんの表情は笑顔にするって…」
「でも…こんな時に笑うなんて…」
「無理かい…?」
「とても…」
確かにこんな状況で笑うなんてのは難しいだろうが、それは困った…どうしたらいいものだろう。
何とか彼女を笑顔にしないと………そうだ…
「幽々子さん…想像してみないか?」
「想像? 何を想像するの?」
「もしも、もしもだぞ?
もし…白玉楼に西行妖が無かったら…どんな風なのか…」
「西行妖が…無い世界……」
そんな都合のいい話はあり得ない…もしも、の話なんて意味が無い…
だけど、幸せな日常を思い起こせるなら…これ程明るい話題なんてないさ…
「きっと楽しいぞ?
幽々子さんが居て、紫さんがからかって、妖忌さん…は変わらないか…
ともかく、皆が一緒に居て平和に過ごす風景だよ……その中に俺もいたら嬉しいけど…」
「そんな世界…」
今日は一日楽しかった…明日は何して過ごそう…明後日はこんな事をしてみようか…
全てが思いのままで、全てが輝かしい宝石のような日々……幽々子さんが一番望む…日常という名の宝物……
「毎日が、素晴らしい日々になるぞ…?
まぁ…俺は妖忌さんの手伝いで、体がボロボロになるだろうけど……」
「……そうね、きっと…きっと素敵ね…」
「…そう、だよ…最高…だよ…」
「ええ…涙が出るくらい…素晴らしい風景だわ…」
「い…ままで…で……」
一番いい笑顔だよ…幽々子さん…
あぁ…もう声も出ないのか…
でも、それならこの絵を飾るに相応しい……あぁ、このへぼ絵描きめ…もっと巧いこと描けんのか…
でもまぁいいか…俺の描きたいものはもう無い……これで彼女の素晴らしさが伝わるか不安だけど、もう行かないと…
……でも、また…眠くなってきた……何でだろうか、あれほど怖かった眠りが…今はそうでもないな…
…いいや…このまま寝てしまおう……でも…どうせ寝るんだったら……夢でも………
◇ ◇ ◇
「…無名さん…? 無名さん?
…お疲れだったもの…眠ってしまったのね…ふふ…幸せそうに笑ってる」
彼は眠ってしまった…そっとしておきましょう…
紫は間に合わなかったわね。私の為に色々してくれてありがとう…感謝しているわ。
「妖忌」
「…何でしょうか」
「彼をお願い。疲れているようだから、休ませてあげて」
「…畏まりました。
よう頑張ったのう……小僧…!」
「私はもう行くわね…」
「幽々子様…」
「私は全てを終わらせてくるわ…
…妖忌、今までお疲れ様」
「…はい、幽々子様もお達者で」
お達者で…か。妖忌ったら、こんな時まで相変わらずなのね。
でも…こんな私にずっと仕えてくれて、ありがとうね…
私にはかけがえのない出会いがあった…力強く支えてくれる人達がいた……こんな私にも…
死ぬのは怖い…多くの人の命を奪った私が、それを言う資格はないのかもしれないけど…恐ろしい…
既に覚悟はしたが…やはり震えは止まらない……だけど、しっかりとした足取りで西行妖の元までたどり着くことができた。
「西行妖…あなたも私と同じなのかも知れないわね…
あなたも普通の桜だったのに、いつしか命を奪う妖怪と呼ばれるようになった…
私はこんな力、望んでなかった…あなたも望まぬ力を持たされたの?」
月明かりに照らされて、西行妖は不思議な光を放っている。
まるで、私の問いに答えるかのよう…
「もう…こんな事は終わりにしましょう…?
私たちが存在する事は…いけないことらしいから…」
西行妖の幹に手を触れ、静かに語りかける。
…そういえば、彼はここで私の為に泣いてくれたっけ…
嬉しかったなぁ……私は生きていいって、あそこまで強く言ってくれて…
彼がいなかったら、きっと私は自分を悲観したままだった…
こんな私に、精一杯の想いと温もりを与えてくれた……そして、笑顔をくれた…
「でも…それでも私は自分を好きになれない。
そんな私を好いてくれて…本当にありがとう…
私も貴方と出会えて…本当に良かった……私は…貴方が大好きです……」
さようなら………
◆ ◆ ◆
「…私が到着した時には全てが終わっていたわ。
幽々子の亡骸でもって、西行妖の封印と為したのよ」
幽々子様の生前がその様なものだったとは…
なんて悲しすぎる話だろう…
「そして、この絵は妖忌が片付けたのでしょうね。
結局、彼の意思は日の目を見ることが無かった…という訳よ」
「…幽々子様は、この事を…」
「知らないわ。綺麗さっぱり忘れているのよ」
「そんな…それではあまりにも…」
「あの娘にとって、辛い思い出でしかないわ。
忘れている方がいい、ということもあるのよ?」
「私には…わかりません…」
「それに、全く報われないということも無いわ。
彼は目的を達成できなくても、この絵に込められた想いは…貴女に伝わったじゃない」
「…詭弁ですよ…」
「そうかも知れないわね。でも、今更どうしようもないわ」
確かにそうなのかも知れない…
だけど、やっぱり私にはどうしても納得できないのだ…
「妖夢ー。よーうーむー!」
「…どうしましたか、幽々子様」
「あら、紫もいたの? いらっしゃい」
「今日は、幽々子」
「それより妖夢、さっきの絵はもう片付けた?」
「まだですけど…」
「そう、よかった。それやっぱり私の部屋に飾っておいて」
…何故そのようなことを言うのだろう…?
いつもの気紛れというのであれば…いくら幽々子様の命といえども…
「…理由をお尋ねしてもよろしいですか?」
「理由? う~ん…何でかしら…
よくわかんないけど、それを見てたら何か懐かしくなったのよ」
「懐かしく…」
「とりあえず、よろしくねー」
「…はい! 今すぐ取りかかりますね!
それでは紫さん、お話しして頂き本当にありがとうございました!」
「……報われない事ばかりじゃないのね……良かったわねぇ…」
◆ ◆ ◆
「……いさん。無名さん、起きて」
「…はっ! …幽々子さん…私は…?」
「もう、絵を描いてる最中に突然寝るんだから。
いくら暖かいからって、ちょっと失礼よ?」
「あ…あぁ、そうでしたね。すみません…」
「あ、敬語使ってる。使わないように言ったのは貴方でしょ」
「う…面目ない……そうだ、幽々子さん! 西行妖は!?」
「さいぎょうあやかし? なぁに、それ?」
「……え…?」
「そんなことより、一旦休憩しましょう。
外はこんなにいい天気なんだから、ずっと部屋に居るのは勿体ないわ」
「わ…わかったよ…」
「ふぅ…暖かい…」
「そうだな…春らしいな…」
「でも春っていまいちパッとしないのよねぇ」
「「うわぁっ!」」
「何よ二人して…いきなりそれは酷いんじゃないかしら?」
「突然出てくる貴女が悪いのよ!」
「それ位いい加減慣れて欲しいわ。
でも春って暖かくていいんだけど、特に見ものがあるわけじゃないし退屈なのよね~」
「平和でいいじゃないの」
「おや、御三方お揃いで賑やかですな」
「あ、妖忌さん」
「うむ、小僧。明日の薪割りは久し振りにあの斧を使ってみるか?」
「そ…それだけは勘弁して…」
「はっはっは…冗談だ。
どれ、お茶でも淹れて来ましょうかの?」
「お茶請けも忘れないでね?」
「分かっております、幽々子様」
「はぁ…本当に暖かくていい気持ちだ…」
「いい気持ちなのは結構だけど、絵の腕前少しは上達したの?」
「うっ…それは…」
「…相も変わらず下手糞なのね」
「紫! そんな言い方はないでしょう!?」
「でも本当の事じゃない」
「それにしたって言い方ってものが…!」
「幽々子さん…それ、慰めになってない…」
「…ああ! 違うのよ、無名さん!
今のは言葉の綾というもので……もう、紫!」
「何よ~。私に八つ当たりしないでよ」
「元はと言えば貴女が変な事言うからでしょう!?」
「や~ん、幽々子が怒った~…
私よりその男の方が大事なんだ……やっぱり愛って偉大?」
「紫!!」
「きゃー! もっと怒ったー!
ふーんだ、いいもん。腹いせに幽々子のお茶請け食べちゃうから」
「それをやったらどうなるか…解ってるでしょうね…?」
「幽々子怖ーい。ここは一時撤退ね」
「待ちなさい、紫!」
「紫殿ー! それは幽々子様のお茶請けですぞーーー!!」
「知らないもーん」
「…私のお茶請けが…」
「俺のをあげるから…元気出しなよ」
「ありがとう…」
「はは…本当に平和なんだな…」
「そうね…嘘みたいに穏やかだわ」
「…ずっとこんな日が続けば、どれだけいいだろう…」
「続くわよ。ずっとね…」
「そうかな…?」
「そうよ」
「ははっ、そうだな……あぁ、安心したら眠くなってきたよ」
「また寝るのかしら? しょうがない人ね……ほら」
「膝…? 貸してくれるのかい?」
「今回だけよ」
「…ありがとう……本当に暖かだなぁ…」
「えぇ…本当に……」
「明日も…晴れるかな?」
「きっと晴れるわよ…明日も、明後日も」
「もし明日晴れたら…外に出かけてみないか…?」
「あら、雨が降ったらどうするの?」
「そうだなぁ……その時はまた別の日にしようか…」
「…そうね、そうしましょう」
「時間は…幾らでもあるさ……この先ずっと…」
「…そうね…」
「…ごめん、もう眠いや…」
「えぇ…お休みなさい……」
「お休み……幽々子さん…」
名も無き絵師は陽だまりの中、深い眠りについた………
後半の展開がスピーディーな気がしたのが少々残念です
いい話でした。
いい話でした。
全てを忘れてしまった幽々子と、それを知った妖夢の対比が
くっきりと浮かび上がり、それがまた悲しく……
しかし、最後に幽々子が絵に感じた『何か』は
正しく魂を込めて描いた、無名の『想い』なんでしょうね。
いいお話でした。
最後の歌はまさにそのとおりですね。
もし西行妖がなければ、こんな悲しい結末にはならなかったでしょうね・・・・・
本当に感動を禁じえない作品だと思う。
西行妖と幽々子様の話はとても悲劇的な物語です。それだけに二次作品の題材になることが多く、作者様の作品には他の作品と一線を画すものが無かったように感じます。素直に良い話だとは思うのですが…。
無名が愛した幽々子、そして無名を愛した幽々子が無名の元へ行ったから今の幽々子には記憶がないのかもしれませんね…
涙しました。
こんな妖忌も大好きだし、おしとやかな幽々子様もかわいいし(無論、幽々子様はいつでもかわいいがね)、紫様はいつも通りだし、男おまえカッコイイぞこの野郎。
西行妖さえ無ければ………。涙腺が壊れました。
いろいろ考えたけど結局これしかいえない己に絶望。
素敵な物語をありがとう。
この辺で涙腺が限界値・・・・・・
実にすばらしい作品でした。