Coolier - 新生・東方創想話

世の中に たえて櫻の なかりせば

2008/08/29 07:17:48
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※ こちらは上の句(前編)です。お読みになる際はこちらからお願いします。
   あと、作者の妄想満開で、オリキャラ注意です。





















「よっ! …と。
 ふぅ…重たいなぁ。これは…ここに置いておこう」


よいしょ、の掛け声とともにズシリと重みのある荷物が床に置かれた。
私、魂魄 妖夢は今、我が主である幽々子様の命で白玉楼の蔵の整理と掃除をしています。


「それにしても尋常じゃなく埃っぽいなぁ…
 どれくらい掃除してないんだろう?」


少なくとも私の代になってから掃除した記憶はない。もう何と言うか埃が層を為している。
祖父で剣の師でもある妖忌の代はどうかわからないが、随分長い間放置されていたようだ。


「いつもは庭と幽々子様の食事の世話で手一杯だからなぁ。
 蔵の掃除なんてしようと思ったことなかった気がする…」


それが何で急に、と疑問に思うところだが、いつもの幽々子様の気まぐれだろう。
それにしても、こんなになるまで放っておかなくても…


「きっと幽々子様も忘れてたんでしょう。
 ぼやいてても終わらないし、続き続きと………ん?」


整理を続けようとしたところ、一際目を引く箱があることに気付いた。
それは周囲の箱と比べると、あまりに小さく質素で、華美な装飾も施されていないボロボロの木箱だった。


「なんだろう、これ…?」


私は妙にその箱が気になったので、手に取り、中を確認してみることにした。


「これは…掛け軸?
 何が描いてあるんだろう?」


中にあったのは外箱と同様に、傷んだ様子の掛け軸だった。
何が描かれているのか知りたくなった私は、好奇心に勝てず中を覗くことにした。
結構な年代物らしく、慎重に紐解いてゆくと…


「誰かの肖像…なのかな?
 う~ん… 絵の事はよくわからないけど、これはお世辞にも上手とは…
 それに、まだ描き切っていないみたいだし…」


中に描かれていたのは女性が佇んでいる様子で、それ以外には何も描かれていない。
その女性の姿も全身が描かれているのではなく、膝辺りから下が未完成だ。
それにしてもこう、何と言うか……下手なのだ。
何がどう下手なのか、というのは私に絵の知識が乏しいからハッキリとは言えないが、下手だ。


「…でもこの人の表情、凄く綺麗…」


技巧も何も感じられない絵の中で、女性のたおやかな笑みだけが際立っていた。
この表情からは、画家の何か言い知れぬ思いを感じる。


「…あれ? この女の人、誰かに似てるような…」
「妖夢ー、終わったー?」


あぁ…そうか。幽々子様にそっくりなんだ。
いつもの服ではなく、着物を身につけているから判らなかった。
ということは、これは幽々子様の肖像なのだろう。
なら本人に直接問いただせば、この絵の由来がわかるはずだ。


「まだ終わっていませんよ。
 ところで幽々子様、こんなものを見つけたのですが」
「なぁにこれ?
 絵…? 誰か描かれているみたいね」
「私が思うに、この誰かは幽々子様ではないでしょうか?」
「これが私?」
「はい。
 ですので、幽々子様ならこれが何かわかるかと思ったのですが…」
「私、こんな絵知らないわよ。適当に片付けといて。
 そんなことより妖夢~、今日の晩御飯なぁに~?」
「さっきお昼ご飯食べたばかりなのに…
 いつも通り、幽々子様の好きな物をお作りしますよ」
「やったー! だから妖夢って好きよ。
 じゃあ蔵の掃除、頑張ってね~」

「…まったく、幽々子様は相変わらずだなぁ」


ため息混じりに笑みが零れるのがわかる。
幽々子様が笑顔になると、何故か私まで嬉しくなるというものだ
幽々子様だからこそ、私はここにいるのだと改めて思い知らされる。
…まぁ、半端じゃなく手のかかるお人であるとは思うけれども。


「でもやっぱり気になるなぁ、いったい誰が描いたんだろう?
 …あれ、よく見たら何か書いてある…『無名』?
 何て読むんだろう? むみょう? むめい?
 いや、そもそも名前なのかな?」


作者不明ということだろうか? これでは意味がわからない。
幽々子様は知らないと言ったから、尚更気になってしまう。
誰か他の人なら知っているだろうか?
幽々子様と付き合いの長い人と言えば…


「やっぱり紫さんしかいないかな。
 でも、おいそれと会える人じゃないし…」
「呼んだ?」
「うわぁ!!」
「何よ、自分から呼んどいてその反応は酷いんじゃないかしら?」
「ゆ…紫さん…
 突然現れないでください…心臓に悪いですから」
「ふふ… それはごめんなさいね」


ビックリしたぁ…
この人がいきなり登場することはいつもの事だけど、そうそう慣れるものじゃない…


「それはいいとして、私の事呼んだでしょ?」
「は…はぁ…
 確かにお会いしたかったですが、聞こえたんですか?」
「私はいつでもどこでも、私を求める声に応じるのよ」
「…そうですか」


相変わらず胡散臭い人だ。
この人の言葉は、どこまで本気なのかがさっぱりわからない。


「それで、どんな用事かしら?」
「あ…え~と、この絵についてなんですが…」
「…! これは…」
「蔵の掃除をしている最中に出てきた物でして、幽々子様に聞いても知らないとのことで…」
「それはそうでしょうね」
「…? どういう意味ですか?」
「これはあの娘の生前に描かれた絵だもの、あの娘が知っている筈がないわ。
 幽々子には、生きていた頃の記憶が綺麗さっぱり無くなっているのだから」
「幽々子様の…生きていた頃…」
「あなたは妖忌から何も聞いていないの?」
「いえ、私は何も…」


お祖父様は西行妖の事以外、何も言っていなかった。
ある日突然いなくなったのだから、聞けようはずもない。


「そうなの…
 だったら、私が話してあげましょうか?」
「それは…確かに知りたかったのですが、よろしいのですか?」
「あなたも幽々子の従者として知っておいた方がいいわ。
 でもね、今から話すのはあの娘の死に関するものよ。
 決して半端な気持ちで聞いていい話ではない、ということだけは覚えておいてね」
「…はい」
「よろしい。それでは話して進ぜましょう。
 ずっと、ずっと昔の事よ…」




◆    ◆    ◆




「はぁ… 腹減ったなぁ…」


俺はしがない絵描きだ。まだ若いぞ。と言っても二十は超えているが。
職の通り絵を描き、それを売って生計を立てている。
絵を描くために、全国を放浪する旅人紛いの事をやっている。…まぁ、目的はそれだけじゃないが。
ともあれ、なぜ絵描きを選んだかというと、なんか自分でも出来そうな気がしたからだ。
そこにあるものをそのまま描けばいいんだろ? 楽勝だぜ!
…と思っていた自分の浅はかさを呪いたくなるくらいに、俺の絵は売れない。
当然生計など立てられるはずもなく、俺は常に貧困に喘いでいて、一晩の宿にも困る程だ。季節的には春が近くなったから少しは助かるが、まだまだ肌寒い。


「でもなぁ… 何か食べないと、死んでしまうしなぁ…
 しょうがない。本当はやりたくないんだけど、あの手しかないか」


虚しさで腹は膨れない。となれば、何かを食べなくてはならない。
しかし、金が無いなら飯を食うことはできない。
それならば、やることは一つだろう。


「お? 丁度いい所に飯屋発見。
 したらば早速失礼して…」
「いらっしゃい!」


何食べようかな… まぁ適当でいいか。
腹が膨れれば文句は言うまい。
どうせ金払う気ないんだし…




~    ~    ~




「いや~、うまかった!
 ていうか本当に生き返った気分だね!」


大げさじゃなくてこれ以上食べなかったら死ぬところだったからなぁ…
あぁ…久しく忘れていたこの満腹感。
これからも頑張れる、意味も無くそんな気持ちにさせてくれる。
やはり食事は大切だ。


「なぁ、知ってるか?」
「何をだよ?」

「ん?」


しばらく至福の時を堪能していると、別の席から話し声が聞こえてきた。
特にすることも無かったし、興味が湧いたのでその話を聞くことにした。


「隣町から少し離れた所に大きな屋敷があってだな、そこには絶世の美女がいるって噂だ」
「なんだそりゃ?」


絶世の美女だと!? 今聞き捨てならん事を言いやがったな!


「それだけじゃないんだよ…」
「おい、あんた!」
「うおっ!? な…何だよ?」
「今、絶世の美女と言ったか!?」
「い…言ったが、それがどうかしたのか?」
「その屋敷の場所を、俺に詳しく教えるんだ!」
「あ…あぁ、それか。悪いが詳しくは俺も知らないんだよ。
 次の町の奴らに聞けば直ぐにわかるだろうよ。何せ有名な屋敷らしいから」
「よしわかった! 礼を言うぞ!」


目的地決定!
そうと決まればこんな所で時間食ってる場合じゃないな。
実は、俺が諸国を旅する最大の理由が嫁さん探しなのだ。
全国の美女を探し回って、理想の嫁さんを見つけるのが俺の野望だ!
だって、男なら綺麗なお嫁さんが欲しいじゃないか!


「待っててください! 名も知らぬ美女さん!
 今私が会いにゆきますからねーーーー!!!!」
「く…食い逃げだーーーー!!」

「…何だったんだ?」
「さぁ…
 それより、さっきの話だよ。まだ何かあるんだろ?」
「あぁ、実はその美女は、人を殺して食っちまう魔物らしいんだよ」
「なんだそれ、おっかねぇな…」
「美しさに気を取られている内に命を奪うんだろうよ。
 何せ絶世の美女らしいから、餌は自然と集まるだろうし」
「さっきの奴みたいにか?」
「………多分な」




~    ~    ~




「はぁ…はぁ… ふぅ、しつこい親父だった…
 久々に骨のある奴と出会えたぜ………しかし疲れた…」


そう言ってその場に座り込む。
ちょっと休憩しないと、さすがにしんどい…
だが、親父との闘いのおかげで町はもう目と鼻の先だ。
逆に考えれば、これはある意味時間短縮ができて運が良かったのではないだろうか?


「幸運の女神は俺に微笑んでいるようだな…
 ふ…ふふふ、今度こそ我が願い、成就させてくれるわ! …ゲホッゴホッ!!」


息も整っていないのに大声出すもんじゃないな…
これまで、数多くの美女と出会ってきたのだが、全てが失敗に終わっている。
曰く、『婚約者がいる』とか『友達なら…』とか『好みじゃない』とか『好きになれない』とか…
前二つの理由はともかく、後の二つは酷くないですか?
もうちょっと、言い方というものがあってもいいんじゃないかと思います。
そんな真剣な人物評価は俺の尊厳を深く傷つけるわけですよ…


「しかし、俺は挫けない。理想の嫁さんを見つけるその日までは…!
 よし、休憩も済んだし、いざ行かん! 美女の元へ!! …ゲッホゴホッ!!」


…もうちょっと休んでから行こう。




~    ~    ~




「…さて、町に着いたところで早速情報収集でもしようか…と思ったんだけど…」


なんだろうか、町と言う割には結構な寂れようだ。
まず歩行人が見当たらないというのはどういう事だろうか?


「何にせよ、誰かに話を聞かないことにはどうにも……お?」


その辺を歩いていると、農具を抱えたお婆さんがのそのそとやって来た。
どうやら機会が巡って来たようだ。これは聞くしかないだろう。


「もし、そこなお婆さんや」
「…? なんだい、見かけない顔だね」
「私は旅の絵師です。少しお尋ねしたい事がございまして」
「…何を聞きたいんだい?」
「実は私、この町の近くに大きなお屋敷があると聞きました。
 それで、その屋敷の主人にお目通りしたいと思っているのですよ」
「ふんっ! やっぱりその話かい」


なんだ? いきなり不機嫌になったぞ?
話を聞いているだけだというのに、何だというのだ?


「あんな屋敷が近くにあるからこの町が寂れちまったんだよ。
 全く気分が悪いったらありゃしない!」
「あの…それで、場所は?」
「ああ、この道をまっすぐ行けば見えてくるさ。
 用事はこれだけかい? だったらもう行くよ」


行ってしまった…
それはいいとして、屋敷があるから町が寂れた? 一体どういうことだろうか…
とりあえず、行ってみないことには何とも言えないか。


「この道をまっすぐか…
 まだ日は暮れないし、行ってみよう」


何やら不穏な空気が漂ってきたが、ここまできて引き下がるなんてできるはずがない。
なにより、美女に会うためにも俺は歩まなければならないのだ!




~    ~    ~




「…日が暮れてしまった。ここはどこだろう?
 暗くて周りが良く見えないのだが…」


歩いていると林に潜り込んでしまい、その中を彷徨っている内に日が暮れてしまった。
ここまで暗いと方向感覚も無くなってしまう。


「まずいなぁ… 早く屋敷を見つけないと。
 このままでは妖怪に食われてしまう…」


道に迷っている人間など格好の餌食だろう。
こんな所で死ぬのだけは本当に嫌だ! 俺にはやり残したことが多すぎる!


「でも見つけないことにはどうにも…
 …あれ、何か見える…あれは、光?」


光…ということは誰かが生活している証。
そして、この辺りに屋敷があるはずだから…


「ということは、俺はとうとう見つけたのか…?」


そうだ! そうに違いない!
もしかしたら妖怪の発する光かもしれないけど、そんなの気にしてられない。
とにかく俺はもう疲れたんだ。早く休ませてくれ!


「もうひと踏ん張りだ!
 頑張れ俺! 頑張れ俺の足!!」


光に向かって進んでゆくと、大きな門が見えてきた。
どうやらかなり大きな屋敷らしい。
俺は何とか無事にたどり着けたようだ。


「助かったぁ… これで何とかなりそうだ。
 それにしても、大きな門だなぁ…
 この屋敷、どれぐらいの大きさなんだろう…
 …っと、呆けてる場合じゃないな。中に入れてもらわないと状況は変わらないし」


しかし、どうやって入ったらいいのだろう?
門番みたいな人はいない様子だし…呼んでみるしかないか?


「すいませーん! 誰かいませんかー!?
 おーい! 誰かー、いーまーせーんーかー!!」


…返事がない。ただの屋敷のようだ。
いや、このままでは本当に不味い。
でかい声出したから妖怪だって寄ってくるというものだ。
それに、季節はもう春が近いとは言えまだ冬の寒さが残っているのだ。
凍死してしまう可能性だって十分に考えられる。


「ちょ! 本当に誰かいませんか!?
 中に入れてくださーい!!」
「五月蝿いわー!!」
「おぉう!」


俺の声を上回る怒声とともに現れたのは、見るからに厳つい強面のお爺さんでした。
長い白髪を後ろで一つに纏め、立派なお髭も真っ白な目つきの鋭い人です。
一言で表すと、怖い。
いや、実際凄い体してるよ。この人と喧嘩したら秒殺されるね、間違いなく。
そんな確信を抱かせるお爺さんに、早くも帰りたくなってしまいました。


「誰だ、こんな夜中に門を叩く輩は…」
「あのー…」
「あぁん? でかい声を出していたのはお主か?」
「ひぃっ!」


思った通り、この人滅茶苦茶怖いよ!
目つきがそもそもおかしいって! これは間違いなく人を殺せる目です!


「黙ってないで何とか言わんか」
「あ…いえその、私は…つまり、えーと…」
「はっきり喋らんか!」
「はいぃ! 道に迷ってしまったので中に入れていただけないでしょうか!?」
「なんだ、迷子か。
 見たところ不審ではあるが、危険な物は持っておらぬようだな…
 致し方なし。よかろう、中に入れてやる」
「あ…ありがとうございます!!」
「だから大きな声を出すな! 喧しいと言っとろうが!」
「ひぃ! すいませんでした!」


やっぱり怖い爺さんだけど、中に入れてくれるようだ。
以外といい人かもしれない…


「何をしておる。さっさと入らんか」
「あ、はい。お邪魔します」


お爺さんはいつの間にか門を開いて待っていてくれた。
でもちょっと待ってくれ。この爺さん、あの大きな門を片手で開けてたんですけど…
この人は絶対に怒らせないようにしとこう… 殺される…


「あのぉ… 門を開けていただいて非常に恐縮なのですが、勝手口みたいなものは無いのですか?」
「あるにはあるが、こっちの方が速かろう」
「…そうですか。
 素晴らしい力をお持ちでいらっしゃるんですね」
「鍛えておるからの」


絶対そういう問題じゃない気がする。
でも、下手なこと口にすると俺の命が危ぶまれる…


「ここが客室だ。
 今宵はここで一晩を明かすとよいだろう」
「ありがとうございます」


少し話しながら歩いていると、ある一室に案内された。
どうやらここで休めるようだ。
でも、何か肝心なことを忘れているような気がする…
どうやら怪力爺さんの衝撃が、今日の印象を全部持って行ってしまったようだ。


「妖忌、お客様ですか?」
「おぉ、幽々子様。
 外で迷っていたそうで、一晩泊めて欲しいそうです」
「そうですか… それは難儀でしたね」
「…………」
「…? どうなさいましたか?」
「はっ! いえいえ、何でもないです!
 どうかお気になさらず!」
「…?」


そうだった… 俺はこの人に会いに来たんだ…
恐らくこの人が探していた美女に違いない。
これまで数多くの女性を見てきたが、思考が停止したのは初めてだ。
まさに絶世の、いや、この世ならざる美しさ、とでも言うべきだろう…


「私、旅の絵描きでございます。
 今宵は道に迷い困っていたところを助けていただき、誠に有り難く存じます」
「ご丁寧にどうも…
 私はこの西行寺の現当主、幽々子と申します」


幽々子さん、かぁ… なんとも綺麗な響きだろう…
この人に一番相応しい名前じゃないだろうか。


「今宵はこの屋敷にてごゆるりとお休みください。
 ですが、明日の朝早くにはここを発つことをお勧めいたします」
「え…?」
「では、失礼いたします…」
「あ…ちょっと?」


行ってしまった…
一体なんだというのだろうか?


「気を悪くせんでくれ。
 幽々子様には色々と、都合というものがあるのだ」
「いえ… 気を悪くしたわけではないのですが…」
「ともかく、今日はもう休むとよい。
 疲れておるのだろう?」


確かに、妖忌さんだったか? の言う通りだな…
今日は何かを考えるには疲れすぎた。とりあえず一眠りしたいところだ。


「ではお言葉に甘えて、休ませていただきます…」
「うむ。しかと疲れをとるとよい」
「はい、お心遣い感謝します」


部屋の中に入ると、既に布団が敷いてあった。
恐らく妖忌さんの仕業なのだろうが、一体いつの間に…?
つくづく恐ろしい爺さんだ…


「もういいや… 寝よう…」


それにしても、幽々子さんかぁ…
正直、一目惚れしてしまった。
あの人こそ俺の探し続けていた理想の女性だろう。
あの美貌、気品の漂う物腰、そして今にも消えてしまいそうな儚げな雰囲気…
どれをとっても満点と言わざるを得ない。
なんとかしてお近づきにならないとなぁ…
まぁそれは明日考えることにしよう。今は本当にしんどい…
俺にここまでの傷を残すとは、飯屋の親父め…恐る……べし………




~    ~    ~




「…ん……朝か…」


朝日が部屋に差し込んで目を覚ました。
疲れていただけあってぐっすりと眠れた。
まだ少し足が痛い気がするが、これ位なら何ともないだろう。
とりあえず起きようか…


「ん~~…! いい天気だ!
 ……おぉ、これは見事な…」


襖を開き、外に出て思いっきり伸びをしていると、昨日は見えなかった庭の様子が覗える。
庭の全てが互いに調和を保ち、そのどれもが景観として不可欠で、これぞまさに造形美の極致と言えるだろう。


「手入れしている人は凄いな…
 …それにしても広い庭だけど、この屋敷、本当にどれだけでかいんだ?」
「おお、起きたのか。
 早い目覚めだの」
「あ、妖忌さん。お早うございます」
「うむ、お早う」
「その、つかぬ事をお尋ねいたしますが、この見事な庭はどれくらい広いのですか?」
「…今、見事と申したか?」
「え? あ…あぁ、はい。確かに言いましたが…」
「小僧……お主…!」


なんだなんだ!? いきなり何だというのだ!?
よくわからないけど、これは怒ってるのか!?
だとしたら不味い!! あの怪力で捻り千切られてしまう!!


「ごめんなさい!! 何か失礼があったなら…」
「中々に見る目があるではないか!!」
「……はい?」
「いや、確か旅の絵師と言っておったな。
 なるほど、絵描きともなると物を見る目もあるというものか!」
「あの…」
「長らくそのようなことを言ってくれる者がおらんかったからな。
 仕事を褒められるとあれば、是まさに庭師冥利に尽きるというものだ!」


何だ、怒ってるわけじゃなかったのか…
初めの印象通りちょっと取っ付きづらいけど、元気な爺さんだな。


「ということは、この庭は妖忌さんが手入れしているのですか?」
「然り」
「へぇ~… 凄いんですねぇ…
 これだけの庭になると、他にどれくらい庭師の方がいらっしゃるのですか?」
「儂一人だ」
「……え?」
「だから、儂一人でやっておる」


俺の耳はおかしくなってしまったのだろうか?
この庭、向こう側が見えないくらいに広いようだが、それを一人で…?


「…改めてお尋ねしますが、この庭の広さはどれ程なのですか?」
「凡そ二百由旬あると言われておる」
「にひゃ…!!」


まてまてまてまてぃ!!
そんな広い庭、どうやって一人で手入れするというのだ!?
いや、もしかしたら何日かに分けてやっているのかも知れないぞ。
むしろそうじゃないとおかしい、て言うかそうであって欲しい。
…でも念のために…


「へ…へぇ~…
 ちなみに、どれくらいの時間をかけて終わらせるのですか?」
「そうさのぉ…
 途中休憩も挟むが、のんびりやっても夕餉の支度までには終わらせておるよ」
「…その言を手繰れば、毎日やっておられるのですか?」
「無論だろう」


一番欲しくない答えが返ってきた。
この爺さん、俺の中で暫定天下無双だよ…


「…凄いんですね」
「鍛えておるからの」


…もういいや。突っ込む気力も湧かない…
この人は常識では測れないということがわかったよ。
もう一つ、この人には気になる点があるのだが、聞いていいものだろうか?
…まぁ、結構気さくな人みたいだし、いいだろう。


「ところで、妖忌さんの傍にある白いそれは何なのですか?
 飾りか何かなのでしょうか?」
「これか? これは霊魂だ」
「……ゑ?」
「儂は厳密に言うと人間ではないのだよ」


この人は一体何を言っているのだろう?
傍に浮いてるのは霊魂で、この人は人間じゃない…?


「儂は半分人間で、もう半分が幽霊と呼ばれる存在だ。
 簡単に言うと、半人半霊だな」
「お…おばけなのですか?」
「半分はそうだ」
「………」


この完璧お爺さんは、実は半分お化けだったとさ…
どうしよう。混乱し過ぎてどんな反応したらいいかわからない。


「…そうですか」
「…驚かんのか?」
「いえ、逆に納得させられました…」


そりゃそうだよな。
門を片手で開ける怪力や、馬鹿でかい庭を一人で手入れするとか、人間なわけないよな。
あぁ… なんか逆に安心させられたよ。
よかった、俺の常識はまだまだ世間に通用するようだ。


「そんな反応したのはお主が初めてだ。
 存外面白い奴だのう」
「…褒められているのでしょうか?」
「もちろんだとも」
「ありがとうございます…」


それは正直嬉しくない。
普通じゃない人に褒められると、なんか俺まで普通じゃない感じに聞こえてくるからね。
この場合の普通じゃないとはもちろん、人の枠を超えて、という意味になる。
これで嬉しい訳がねぇ。
でも、そんなこと言ったら多分殺されるだろう。だから言わない。


「ともかく、まだ朝餉の用意ができておらんからもう暫く待っておれ」
「私にも頂けるのですか?」
「客人はもてなすものだろう。
 昨夜は碌にもてなしもできず、すまんかったな」
「いえ…そのお気持ちだけで十分でございます」


妖忌さん…凄くいい人だ。普通じゃないなんて、少しでも思ってごめんなさい。
こんないい人が、半分幽霊だけど、悪い人のはずがない。


「そうか。
 では支度が出来たら呼びに来るから、それまで暇を潰しておってくれ」
「はい。この見事な庭を眺めていようと思います」
「口の巧い奴だな!」


ハッハッハ! と妖忌さんは豪快に笑いながら去って行った。
…もしかしたら、以外と扱いやすい人なのかもしれないなぁ。
失礼にあたるので、勿論そんなことはしないが。


「まぁ、いい人だよな。
 それにしても食事の用意まであの人がしてるなんて、他に人はいないのだろうか?」
「いませんよ」
「ぅおっ!?」


まさか独り言に返事が来るとは思っていなかったので、かなり驚いてしまった。
声のした方を見ると、そこには昨夜と変わらぬ雰囲気で佇む幽々子さんがいた。
明るいところで見ても、やっぱりお美しい…


「お早うございます。驚かせてしまい、申し訳ございません」
「お…お早うございます。
 私が勝手に驚いたのだけですから、幽々子さんがお気になさることはございませんよ」
「そう言って頂けると、有り難いです」
「いえ… ところで、他に誰もいないとは一体…?」
「言葉通りでございます。
 今この屋敷には、私と妖忌以外おりません」
「…理由をお尋ねしても宜しいですか?」
「皆、自らの意思で出て行った…
 それだけのことです」
「そうなのですか…」


肝心の理由が話されていないが、これ以上は聞ける空気じゃないな…
こんなに悲しそうな顔されて聞ける訳ないじゃないか…
きっと何か、大きな不幸があったに違いない。


「ご存知かとは思いますが、妖忌が膳の支度をしております。
 それまでは、今しばらくお待ちください」
「あ…あぁ、はい。わかりました」
「では、失礼いたします」
「あの…」
「…? 何か御用ですか?」
「い…いえ、何でもないんです…
 お呼び止めして申し訳ございません」
「そうですか。それでは…」


重苦しい雰囲気のまま、幽々子さんは歩いていってしまった。
その苦しげな表情に俺は、終ぞ声をかけることができなかった。
あの人は一体、どれほどの苦しみを抱えているというのだろうか…?


「ここは一つ、この俺があの人の心の傷を癒して差し上げるべきだろう!
 そして、それを機に親密になった二人は…」


ふふふ…妄想が止まらぬわ!
大丈夫、今回は必ず成功させて見せる。あの人こそまさに俺の理想だ!
この千載一遇の機会を必ずものにしてやる!


「よーし、頑張るぞーーー!」
「頑張るのはいいことだが、何をそんなに気合いを入れておるのだ?」
「…妖忌さん。いたんですか?」
「来たのは今だが、何を頑張るのだ?」


聞かれていたのはそこだけか… 良かった…
この人の前で迂闊なことは言えない。いや本当に。


「いえ、自分を奮い立たせているだけですので、どうかお気になさらないで下さい」
「…? よくわからんが、やはりおかしな奴だな。
 まぁいい、それより膳の支度が済んだぞ。案内してやるから付いて来い」
「あ、はい。わかりました」


腹が減っては戦は出来ぬ、とも言うし、まずは腹ごしらえからだろう。
…そう言えば、昨日は晩飯を食っていないんだったな。
今気づいたが、かなり空腹だ。このお屋敷で出される料理って、どんなのだろう?
でも作るのは妖忌さんか。幽々子さんの手料理だったらいいのになぁ…




~    ~    ~




「さて、ここだ。
 中に入るとよい」
「はい、ありがとうございます」


中に入るとそこには膳が二つ用意されていた。
どっちに座ればいいんだろう?
まぁ、見たところ同じ食事みたいだし、どっちでもいいか。


「それでは食べるとしようかの」
「では頂きます」
「うむ、たんと食えい」


そう言って、妖忌さんは俺の対面に座り込んだ。
白米に味噌汁、それに焼き魚に漬物か…
こんなに真っ当な朝飯は長らく食べていなかった。
本当にありがたいなぁ…


「いやぁ…おいしいです」
「そうかそうか。
 簡単な物しか作れなんだが、そう言ってもらえると嬉しいわい」
「簡単な物だなんてそんな…
 こんなにおいしいご飯を食べたのは本当に久しぶり…いえ、初めてかもしれません」
「ハッハッ! お世辞を言っても何も出んぞ?」
「お世辞だなんてそんな…
 本当においしいですよ」
「そうか…
 遠慮せずに食べなさい」
「はい、お心遣い感謝します」


改めて思うが、妖忌さんは本当にいい人だ。
豪放磊落という言葉がこれほど似合う人もいないが、それだけではない。
この人は優しさもちゃんと持ち合わせている。
…そう言えば、食事に夢中で気付かなかったけど幽々子さんはどうしたんだろう?
出会った頃からやけに余所余所しい態度だったが、もしや避けられてるのか?


「食事中に無作法かとは思いますが、幽々子さんは…?」
「幽々子様か? あの方はいつも自室で食事をされておる」
「そうなんですか…」


一緒に食事を出来ないのは非常に残念だが、どうやら懸念していたことではなさそうだ。


「それよりお主、何故この屋敷に来たのだ?」
「は? いえ、迷っている内に辿り着いたのですが…」
「惚けるでない。あの林の周辺にはこの屋敷しかないのだ。
 そこで迷っていたとは、ここを探していたのではないのか?」


うっ… そうだったのか。
不味い。幽々子さんが目的です、なんて言ったら何が起こるかわからない。
ここはうまいこと切り抜けなければならないな…


「あのぅ、実はここの噂を聞きまして…」
「…噂だと?」


うぐっ… 何だ、この空気は…
妖忌さんはさっきの雰囲気とは一転して、なんとも剣呑な空気を纏っている。
これは冗談じゃなくて、本気で殺気を放っているようで…息苦しくなってきた…


「どんな噂を聞いて来た」
「それは…その、見事な庭があるという話を耳にしまして…
 これは絵描きとして一度見ておかないと…と思いまして」
「…それだけか?」


ごめんなさい。それすらも嘘です。
でも、そんなこと言えません。


「は…はい。それだけです」
「本当か…?」
「天地神明に誓って」
「…そうか、疑って悪かったの」


ようやく解ってもらえたみたいで、妖忌さんは殺気を消してくれた。
ふぅ…もう駄目かと思った…
それにしても、この人は一体何を疑っていたのだろう?


「あの、何をそんなに警戒されていたのですか?」
「ふむ… まぁ迷惑をかけた詫びもせねばならんしな…
 この屋敷には、偶におかしな輩が訪れるのじゃよ」
「おかしな輩?」
「うむ。なんでも『妖怪退治』らしいがの」
「この屋敷に妖怪がいるのですか?」
「むぅ… まぁ、それに近いものはいるな」


この屋敷にそんな物騒な存在がいるのか…
あ、それってもしかして…


「妖怪って、妖忌さんのことですか?」
「何だと? 失礼なことを言うでない!」
「い…いや、だって半分幽霊じゃないですか!
 外の人から見たらそれが妖怪に見えたのかな~、なんて思っただけです!」
「ぐ…むぅ、確かにそういうこともあるかも知れんが…しかし…」


妖忌さんは頻りに首を捻っている。
妖怪呼ばわりがそんなに嫌だったのだろうか?


「そんなに気に障ったなら謝りますが…」
「いや、そうではないから安心せい。
 …しかし、本当に知らぬ様だな」
「何をですか?」
「知らぬのならそれで良いのだ。
 あまり掘り下げるでない」


どうやらこの話はもうしたくない様だ。
それに重く口を閉ざしてしまい、これ以上聞ける様子でもない。
まぁ、これ以上聞こうとも思わないけど。


「わかりました。
 ともあれ、御馳走様でした」
「もうよいのか?
 まだ食べても構わんぞ」
「いえ、十分ですよ」
「そうか。
 ところで飯を食い終わったなら、早々に荷物をまとめて出て行った方がよいぞ」
「え? いきなりどうしたんですか?」
「昨夜、幽々子様も申しておったことじゃが、この屋敷に長居は禁物ということだ。
 決してお主が気に食わぬから言うておるのではないのだ。
 ここに不用意に誰かが居座ることは、誰の為にもならぬことなのだよ」
「…どういうことか、お尋ねしてもよろしいですか?」
「すまんが…答えることはできん」


この流れは非常に不味いぞ。このままでは俺は帰らされる羽目になる。
これでは苦労して飯を食いに来ただけに収まってしまうではないか!
それだけは何としても回避せねば…!
とりあえず、こういう場合は幽々子さんと話をつけるのが一番だろう。


「それでは一度、幽々子さんとお話をさせていただけないでしょうか?」
「んん? 何を話すつもりだ?」
「いえ、一晩の宿を借りたお礼を言いたいと思いまして」
「あぁ、そういうことか。
 ならば付いて参れ。幽々子様の自室に案内してやる」
「はい、お願いします」


なんとか首の皮一枚繋がってる状態だな…
しかしどうやってこの屋敷に滞在する理由を作る?
まさか素直に『置いて下さい』なんて言っても断られること間違い無しだろう…
それに、この屋敷には何か並々ならぬ事情があるみたいだし、どうしたら良いのだ?


「ここだ。暫し待っておれ」
「わかりました」


そうこうしている内にもう着いてしまった。
本当にどうしよう。もう考える時間なんてないぞ。


「よいぞ。入りなさい。
 儂は外で待っておるでの」
「あ…はい。
 失礼します」


えーい! もう考えても無駄だ、当たって砕けてやる!
…いや、砕けたらいかんのか。


「改めまして、お早うございます。
 私に何かお話があるとのことですが…?」
「はい、宿を貸していただいたお礼を言いたいと思いまして」
「そんなわざわざ…
 お礼を言われるほどの事ではありません」
「いえ、朝食までいただいてお礼の一つも言わないとは、人道に悖ります。
 この度は、大変親切にして頂き本当にありがとうございました。
 あなたは私の命の恩人でございます」
「命…ですか」
「大袈裟ではなく、あのままだと私は行倒れていたことでしょう。
 危ないところを助けて頂き、重ねてお礼申し上げます」
「いえ… 大した事ではございません」


よし、ここからが本番だ。
どうやって切り出そうか…


「ところで、一つお願いがあるのですが…」
「…? 何でしょうか」
「暫らく、このお屋敷に身を置かせては頂けませんでしょうか」
「…お断りします」


うぐ… 思った通りの答え…
取りつく島が全くない返答だ。やはり何か手を打たなければいけないみたいだな。


「そ…その前に、理由を聞いていただけませんか?」
「理由ですか…?
 一体どういったものでしょう」


よし、少し脈が出てきたぞ! ここからが肝要だな。
さてどんな理由にするか………そうだ!


「実は、ここで絵を描きたいと思いまして」
「絵、ですか?」
「その通りです」
「ここの庭を描きたいのでしょうか?」
「いえ…私、人物画を得意としております。
 ですので、叶うならば貴女を描かせていただきたいのです」
「私を…?」
「はい、是非に」
「………」


幽々子さんは少し驚いた様子だが、それもそうだろう。
いきなり自分の絵を描かせてくれなんて言われて、驚かない方が珍しい。
彼女は押し黙ってしまい、思案しているようだ。


「やはり、お断りさせていただきます。
 私などを描くより、この屋敷の外に出ればもっと素晴らしい方々がいらっしゃると思います」


やはりそう返してきたか。
しかし、俺の考え出した理由はこれからが本領だ!


「私は貴女ほどの美しさを持った女性を目にしたことがございません。
 ここで貴女に出会えたという幸運を、みすみすふいにしたくはないのです。
 加えて申しますなら、今後貴女以上の人物に出会えることはないと断言します」
「そんなことはないでしょう。
 世界は広いですから、私などよりも良い方は大勢いらっしゃる筈です」
「…これほど頼み込んでも、駄目なのですか?」
「申し訳ないですが…」
「そうですか…
 では、この場にて命を絶たせて下さい」
「えっ?」
「未熟とはいえ、これでも絵師として生きてきた矜持がございます。
 私の絵描きとしての信念は、描きたいと思ったものを描く、というものです。
 ですので、貴女を描けないとあれば私の信念は意味を為さなくなります。
 信念無き者に、素晴らしい絵など描ける筈がない。
 即ち貴女を描けないなら、私は死んだも同然という訳なのです」
「そんな…」


しまった…! 少し強引過ぎたか、幽々子さんは明らかに困った様子だ。
あ~…そんな顔させるつもりじゃなかったのに…
あと、自害するつもりは毛頭ございません。本当にごめんなさい。


「本当に…」
「ん?」
「本当に、命を懸ける覚悟がおありなのですか?」
「え…えぇ、私は絵に生かされておりますので」


俺の絵が売れたことはありませんが…


「…わかりました、そこまで言うならもう止めません。
 どうぞ、御随意になさって下さい」
「あ…ありがとうございます!!」


やった、許可が下りたぞ!
いや~、やっぱり時には強引さも必要ですね。
ちょっとやり過ぎたかも知れないけど…まぁいいだろう。
まだここに居られる。この結果が全てだ。


「では、あの客室を引き続きお使い下さい」
「わかりました」
「この屋敷については、妖忌に案内させます。
 妖忌、お願いしますね」
「はい、お任せ下さい」


いつの間にか背後に妖忌さんが居た。
気配を全く感じなかったが、相変わらず凄い爺さんだ…


「では案内仕ろう。
 小僧、付いて参れ」
「お願いします。
 では幽々子さん、これからしばらくの間お世話になります」
「はい…
 貴方がご自身で決められたこと…後悔だけはなさいませんよう…」
「…? はい、わかりました。
 ですが、後悔などする筈がありませんよ」
「………」


何だろうか…?
幽々子さんは妙に苦しげな雰囲気だ。
それに後悔だなんて…なんでそんな事を言うのだろう?


「もうよいか?
 では行くとしようかの」
「はい。
 幽々子さん、失礼しました」
「はい…」


そう言って、俺と妖忌さんは部屋を出た。
はぁ…何かドッと疲れたよ…
予想はしてたけど、ここまで精神擦り減らす事になろうとは…


「小僧…儂はお主を誤解しておったぞ」
「はい?」
「見た目通り性根も軟弱な男かと思っておったが、中々骨のある言葉を吐くではないか。
 絵描きの矜持か… この妖忌、久方ぶりに心を打ち震わせたぞ!」
「あ…ありがとうございます…」
「うむ! 気に入った!」
「…何をですか?」
「お主に決まっとろうが」


なんと妖忌さんに気に入られてしまった。
いや、もちろん嬉しいのだが、この人よりかは幽々子さんに気に入られたかった…


「時にお主、儂の弟子になってみんか?」
「あはは、謹んでご遠慮させていただきます」
「むぅ…そうか…」


この申し出を引き受けたが最後、修行と称した拷問が始まることだろう。
始めて一日で全身の骨が粉々になる自信があるね。
仮にやり通したとしても、その時俺は既に人間じゃないだろうし、どっち道勘弁してもらいたい。


「まぁよい。
 案内を始めるぞ」
「あ、はい。
 これから宜しくお願いします、妖忌さん」
「うむ。宜しくな」




~    ~    ~




「…さて、こんなもので案内は終わりだ。
 この屋敷の仕組みは大体理解できたか?」
「はい… えぇ、まぁ…なんとか」
「慣れるまでは大変じゃろうが、まぁ頑張ることだな」
「は…ははは…」


妖忌さんの案内は終わった。
手短に済ませてくれたとは言え、この屋敷は広すぎる。
このままでは間違いなく迷うだろう。
慣れる? それまでどれくらいここで過ごせば良いのだろうか…
いや、長引くに越したことはないけどな。


「後は…そうだな、近寄ってはならぬ場所を教えておくとするか」
「近寄ってはいけない場所、ですか?」
「うむ。この白玉楼の象徴とも言うべきものなのだが…」
「白玉楼…って何ですか?」
「おぉ、まだ話しておらんかったか。
 白玉楼とはこの屋敷の呼称じゃ。昔からそう呼ばれておる」
「へぇ… 綺麗な名前ですね」


そんな呼び名があったのか…
これからはそう呼ぶことにしよう。


「それで、近寄ってはならぬ物というのはここにある桜の木だ」
「桜ですか…? それだったら、もう何本も庭で見かけてますが…」
「あれらではない。
 この白玉楼には、いつの時代からあるのか判らぬほど大きな桜の木があるのだ」
「…そんなものがあるのですか」
「そして、それは『西行妖』と呼ばれておる」
「妖…? 桜の木なのに、妙な名前が付いていますね」
「うむ… まぁ、色々と曰く付きでな…」
「そうなんですか…
 ところでそれは、どれくらい大きいのですか?」
「それはだな…
 見た方が早いだろう。こっちだ」
「近寄ってはいけないのでは?」
「今の時季はまだ大丈夫なのだ」


時季によっては駄目なのか?
ともあれ、見せてくれるようだし付いて行くとしよう。


「この先だ。どれ程の大きさか、自分の目で確かめるとよい」
「はい…」


妖忌さんに促され外に続く襖を開くと、外は晴れているはずなのに薄暗かった。
いや、違う。薄暗いのは日差しが何かに遮られているからだ。
その何かを、ようやく俺は認識することができた。


「これは… なんと大きい…」


昼が近付き太陽が高くなってきたというのに、それでも遮る程巨木は高く聳え立つ。
一体どれほどの年月を経ればこれ程までになるのだろうか…


「大きかろう?」
「はい… 思っていたよりも、遥かに…」
「だろうな。
 この儂とて、こいつの大きさには何時まで経っても慣れぬ」
「確かに…これは慣れるものではないでしょう」


人知を超えるとはまさにこのことだろう。
ここからは少し離れた場所にあるとは言え、その大きさを知るには十分だ。


「しかし、何故これに近寄ってはいけないのですか?」
「今は問題ない。
 だが、これが満開になった時、近寄ってはならぬ」
「この巨大な桜の木が満開に…
 想像しただけでも素晴らしい光景が浮かびますね」
「それが問題なのだ」
「え…?」
「古来より、人を魅了する物には魔性の力が宿る。
 これもその例に漏れぬのだ」
「…と、言いますと?」
「この桜に魅入られた者は…死に至る」
「死…!?」
「そうじゃ」
「そんな…嘘ですよね…?」
「………」


そんなに物騒なのか!? それに、そんなこと有り得るのか!?
しかし妖忌さんの表情を見る限り、冗談には聞こえない…
ということは、本当に死んでしまうのだろうか…?


「信じられぬだろうが、事実だ。
 そして、この木が“妖”の名で呼ばれる所以でもある」
「西行…妖…」


もし本当だとするなら、とんでもなく恐ろしい桜だ…
成程、確かにこの木に近寄ってはいけないな。


「…もしかして、これがある所為で白玉楼に家人が居ないのですか?」
「…まぁ、理由の一つではあるだろうな」
「一つ? まだ何かあるのですか?」
「儂が話してよいことではない。
 すまぬが、これ以上聞かんでくれ」


どうやら、この屋敷にはまだ秘密があるようだ。
しかし、妖忌さんからはこれ以上聞き出せる様子ではない。
この他に一体何があるのだろうか…?


「ところで、妖忌さんはこの木の満開を見たことはあるのですか?」
「あぁ、あるぞ」
「…? でも生きてますよね」
「儂は精神も鍛えておるからな。
 桜に見惚れることはあるが、自分を見失うことはない。
 西行妖に心を奪われると、それが死へと至るのだ」
「要は心の持ちよう、ということですか?」
「まぁ詳しくは知らぬが、恐らくはそうだろう。
 しかし、これに魅了されないというのは生半可なことではないぞ。
 儂とて完全な人間であったなら、既にこの世に居らんやも知れん」
「どういうことですか?」
「儂が半分幽霊であることが、何らかの助けになっているかも知れんのだ。
 半霊であるとは、即ち半分死んでおるとも言える。
 それ故に、西行妖の影響が儂に対しては薄らいでおる可能性もある」
「妖忌さんでもそれ程なのですか…
 あれ、だったら幽々子さんはどうなのですか?」
「あのお方は儂とは違った意味で特別なのだ。
 幽々子様が西行妖に命を奪われることは、不思議と無い」


へぇ…そうなんだ。幽々子さんも何か凄い部分があるんだろうなぁ…
ともかく、俺では間違いなく死んでしまうことが判明した。
なぜなら俺は臆病だ。今の話だけで身震いしてしまった。
自分で言うのも何だが、俺ほど心の弱い人間も珍しいと思うよ。


「わかりました、ここには絶対に近寄りません。
 死ぬのは怖いですから」
「うむ、それが良いだろう」


いや、誰だって死ぬのは怖いでしょう。
俺の場合、それに過剰に反応して回避しようとするだけであって、一概に臆病とは言えないと思う……多分。


「さて、とりあえずこれで案内を終わろうかの。
 お主、これからどうするのだ?」
「どうする、とは?」
「何を言っておる。
 幽々子様の絵を描くのだろう?」
「あ…あぁ、そうですね。
 直ぐにでも取り掛かろうと思います」

グゥ~…

「あ…」
「その前に昼飯を食った方が良さそうだな。
 絵を描くのはその後でもよいか?」
「…お願いします」


どうする、とはこの事だったか…
確かに案内に結構な時間が掛かったからな。もう昼飯時だったのか。
くそう、とんだ失態を見せてしまった。せっかく良い印象を持たせようと努力してたのに…


「無様なところをお見せしてしまい申し訳ない…」
「この程度の事、無様でも何でもなかろう。
 お主が健康な証拠だ。あまり気にするな」
「そう言って下さると、有り難いです」
「直ぐに支度してやるからの。部屋で暫く待っておれ」
「はい」


ここに居れば食事に困ることはないかもしれない。
桜は怖いけど、これは喜ばしいことだ。
でもやっぱり幽々子さんの手料理が食べたいなぁ…




~    ~    ~




「御馳走様でした」
「うむ」


幽々子さんお手製ではないのは残念だが、やはり妖忌さんの作る料理はうまい。
ふぅ…またもやお腹一杯頂いてしまった。


「しかしお主、小食だのう。
 本当にそれで足りるのか?」
「そうですか?
 私はいつもこんなには食べないのですが」
「これよりも少ないのか?
 それでよく動けるな」
「こんなものではないですか?
 何も食べない日などというのも頻繁にありますよ」
「むぅ…そうなのか。苦労しておるのだな。
 せめて、この屋敷に居る内は存分に食べなさい」
「は…はぁ、ありがとうございます」


何か同情までされてしまった。
毎食食べられるなんて、そっちの方が遥かに珍しい事なんだけどなぁ。
それにしても、妖忌さんって結構世話焼きなのかもしれない…
何だかんだで俺の事を気にかけてくれてるような気がする。


「儂はこれから庭の手入れを始めるが、お主は絵を描き始めるのか?」
「そうですね…とりあえず、幽々子さんに会おうと思います。
 今はどちらにいらっしゃるのでしょうか?」
「この時間は自室に居られるかと思うが、案内は要るか?」
「大丈夫…だと思います。
 早く慣れたいので、自分の力で行ってみます」
「よい心構えだな。
 それでは、また夕餉の時間に会おう」
「はい。お仕事、頑張ってください」
「お主もな」


さて、向かうとするか。
迷わなきゃいいけど…




~    ~    ~




「…ようやく辿り着いた。
 だが案の定迷ったな…」


お約束、というやつだな。
俺はそんなに物覚えもいい方じゃないし、本当に慣れるしかなさそうだ。


「…というか、ここで合ってるんだよな?
 幽々子さん、いらっしゃいますか?」
「中に居ります。
 どうぞお入りください」


良かった。さすがにそれは間違えなかったか。
妖忌さんも傍に居ないし、正真正銘の二人きりか…
やば、ちょっと緊張してきた。


「では、失礼します」
「どうぞ」


部屋の中では幽々子さんが静かに正座し、佇んでいた。
その優雅な雰囲気さえ漂う姿勢に、彼女の育ちの良さが感じられる。
少し緊張しつつも、彼女の対面に座った。


「いらっしゃいませ。
 ここに着くのに随分苦労されたようですね」
「…聞こえてましたか?」
「ええ、ハッキリと」
「いやはや、お恥ずかしい限りです…」
「ここは広いですから仕方がありません。
 慣れるまでは辛抱下さいませ」
「はは、妖忌さんにも同じことを言われましたよ」
「まぁ…そうなのですか」
「幽々子さんはこの屋敷の広さに困ったことはないのですか?」
「私はずっとここに住んでおりますので…そういった苦労は感じません」
「はぁ…やっぱりそうなのですか」
「ですが…」
「ん?」
「子供の頃は頻繁に迷子になった記憶があります」
「へぇ…幽々子さんでも迷うことがあったんですね」
「えぇ…お恥ずかしい事ですが」
「ここは広いですからね。
 それに子供の頃は慣れてなかったでしょうし、仕方無いですよ」
「…そうかも知れませんね」
「そうですよ。これだけ広いのに迷わないなんて無理ですよ。
 …でもまぁ、妖忌さんは無さそうですけど」
「そう…ですね。
 確かに妖忌が迷ったという話は聞いたことがありません」
「やっぱり…」


あの人、どんだけ凄い爺さんなんだろう。
ともかく、今はそれよりも幽々子さんだ。
昨日の夜からずっとだが、表情の変わらない人なんだよなぁ。
どうにかならないものだろうか…?


「ところで、幽々子さんはどんな子供だったのですか?」
「私は…そうですね、結構活動的だった記憶があります」
「そうなんですか?」
「ええ、よく悪戯をして親に叱られたものです。
 今となっては懐かしいですが、良い思い出です…」
「へぇ…今のお姿からは想像し難いですね」
「今は勿論成長しましたので、そんな事はしません」
「それはちゃんと理解していますよ」


幽々子さんって意外とやんちゃな子供だったんだな。
あぁ、できることなら時間を飛び越えて見てみたい…


「そう言えば、今のお話で幽々子さんの親が出てきましたが、御両親はどちらに…?」
「父と母は…死去しました…」
「あっ……配慮が足りませんでした。
 無神経な質問をしてしまい、心よりお詫び申し上げます…」
「いえ…もう過ぎたことですので、気にしておりません。
 ですので、どうか顔を上げてください」
「はい…ありがとうございます」


何と迂闊なことを聞いてしまったのか。
少し和やかだった場の空気は一変、重苦しいものに変わってしまった。
不味い…何とか話題を変えないと。


「そ…そうだ、どんな悪戯をしたのかお話しいただけますか?」
「それは構いませんが…一つ聞いてもよろしいですか?」
「何でしょう?」
「その…私の絵を描くのではないのですか?」


…忘れてた。話が楽しくてついつい夢中になってしまったよ。
でも、もう暫く幽々子さんと話していたいなぁ。
何か適当な理由はないものだろうか…?


「それはですね…えぇと、何と言いましょうか…」
「…?」
「…そう! 絵を描くための前準備なのですよ」
「どういう意味なのでしょうか…?」
「つまりですね、より良い絵を描くためにはその内面を知る必要があるのです。
 何も知らぬままにただ描いたところで、見る人の心には響かないのですよ」
「…そうなのですか?」
「そうなのです!
 なので、この会話は決して無駄ではないということです。
 加えて言いますと、幽々子さんが私に慣れて頂く為にも重要な役割があります」
「慣れる…ですか?」
「はい。
 幽々子さんにして見れば、知らない男と一緒に居ては息が詰まるというものでしょう。
 こうして会話を重ねることで、私が居るという雰囲気に慣れて頂きたいのです」
「はぁ…絵の事はよく存じませんが、大変なのですね」
「お解り頂けたようで幸いです」


よかった。口から衝いて出た言葉だったが、なんとか誤魔化せた。
それにしても、ここに来てから俺の話術はどんどん巧みになってる気がする…
まぁ、悪いことじゃないからいいか。


「どんな悪戯をしたか…でしたね」
「え? あ…あぁ、はい。お話しして頂けるんですね」
「はい…私が子供の頃は、屋敷も今より更に広く感じていました。
 見る物全てが新鮮で、色々な場所を駆け回ったものです」
「元気な子供時代だったのですね」
「そうですね…余りに元気過ぎて、高価な壺を誤って割ってしまったこともあります。
 ですが一番印象深い悪戯と言えば、寝ている妖忌の顔に蛙を落とそうとしたことですね」
「そ…そんなことをしたのですか…」
「転寝をしていたのですが、あの妖忌ですから勿論それは失敗してしまいました。
 私が近寄っただけで彼は起きてしまい、その上私に剣先を突き付けてきたのですよ」
「えぇ!! 本当ですか!?」
「はい。彼が言うには、寝込みを襲われないように寝ている間も警戒を怠らない、らしいです。
 剣を突き付けられたのは怖かったですが、何より印象深かったのはその後の妖忌です」
「と、言いますと?」
「私だと判るや否や、畳に頭を擦り付けて必死で謝ったのです。
 その時の妖忌の表情といったら、もう二度と見ることは敵わないでしょうね」


あの爺さんにそんな面白い話があったなんて。
いや、当人達は笑える状況じゃなかったんだろうけど…
とりあえずその顔は俺も見てみたかった。


「でも本当に大変だったのはその後です。
 妖忌が突然『切腹します』なんて言うものですから大慌てでした」
「切腹!?」
「はい。彼は責任感の強い人ですから。
 私が必死に止めようと騒いでいる内に皆が集まり、私の両親の姿を認めるや平謝り。
 そして懲りずに再度切腹しようとしたのです」
「それは…大変でしたね」
「私が気にしていないということを何とか伝えて、ようやくその場は収まりました。
 ですがそれ以来、彼はそのことをずっと気にし続けているのです。
 悪いのは悪戯しようとした私なのに… 彼には申し訳ないことをしたと思います」
「そ…そうなんですか…」


子供の頃にあの人から剣を突き付けられたら、心に深い傷を残しそうだけどなぁ…
それでも自分の非を認めることができる幽々子さん…素敵だ。というか大人だ。


「ところで、妖忌さんは随分長いこと庭師をやってらっしゃるんですね」
「そうですね…私も彼がどれ程ここに居るのかは知りません。
 ただ、昔から全く変わらない人ではありますね」
「それは何となくわかります。
 そう言えば、あの人って今何歳なのですか?」
「彼もハッキリしたことは覚えていないと…
 ですが、もう何百年も生きているらしいです」
「…え?」
「彼が普通の人間でないことはご存知ですか?」
「そ…それはまぁ、半分幽霊だそうですが」
「その所為か、彼の時の歩みはとても緩やかだそうです。
 ですから妖忌の容姿は、私が物心ついた頃から一切変わっていません」
「………」


普通じゃないとは思っていたが、まさかそれ程とは…
何に於いてもこちらの想像の遥か上を行く人だな。


「…自分で切り出して申し訳ないですが、妖忌さんの話はもういいです。
 このままだと、自分の中の常識が悉く覆されそうでして…」
「そのお気持はわかります。かつての私も同じ思いでした。
 さすがに今はもう慣れましたが…」
「そうですか…
 次は、えぇと…何を話しましょうか」
「あの…」
「どうしましたか?」
「私、まだ貴方の名前を伺っておりません」
「あ~…名前、ですか…」


困った話題になったなぁ。
でも暫くここに居ることになったわけだし、避けられない事だろうな。


「どうなさったのですか?」
「いえ、実は私、名乗ることができないのです」
「名乗れない…ですか?
 何か事情がお有りなのでしょうか?」
「複雑な話ではないのですが、その…名前が無いのですよ」
「えっ?」
「驚かれるのも無理はないでしょうが事実です」
「…理由をお聞かせ願えますか?」
「私の身の上の話になりますが、宜しいですか?」
「是非ともお聞かせ下さい」
「…わかりました、お話しいたします。
 始めに申しますと、私に親はいません」
「それは、逝去なされたのですか?」
「わかりません。私は物心ついた時には既に一人でした」
「そんな…どうしてですか?」
「捨てられたのでしょうね。
 今のご時世、子供一人育てるのがどれ程の負担か、想像に難くないですから」
「でも…捨てるだなんて、酷いです…」
「私は寺の門の傍に捨てられていたらしく、当分はそこで育ちました。
 満足とはいかないまでも、飢えないだけの食も与えられましたし悪くはなかったですよ」
「そこの方々は、名前をくださらなかったのですか?」
「そこの住職が変わり者でしてね。
 何でも、『お前が自分で納得のできる名を考えなさい』とのことです。
 まだ幼い子供にそんなこと言うなんて、変わってるでしょう?」
「え…えぇ、まぁ…」
「『自分の人生だから全て自分で決めろ』というのが彼の口癖でした。
 だから、きっとこれもそういうことなのでしょう。
 ちなみに私はそこの坊主達からは、童とか呼ばれてました」
「…自分の人生は、自分で決める…」
「暫くして其処を出まして、各地を転々としておりました。
 その所為で、私に家族はもとより友人もおらず、私の名を知りたがる者は滅多にいなかったのです」
「そんなことが…」
「まぁ私は絵描きをやっておりますので、皆私の事は肩書きで呼んでいましたね。
 そのおかげで、名前で不便する事は今までありませんでしたよ。
 だからという訳ではありませんが、未だに自分の名前を考えたことがありません」
「でも…名前が無いなんて…」


まぁ、滅多にないことだよな。
今の時代、捨て子で名無しなんて何処にでもいるが、この年で名前が無いというのはさすがに珍しいだろう。


「私は特に気にしていません。
 ですから、幽々子さんがそんなに思い煩うこともありませんよ」
「どうして…そんなに平気なのですか…?」
「んー…そうですねぇ…
 やっぱり私にとって、それが普通だからでしょうね。
 そんな複雑な理由なんて無いですよ、きっと」
「…画家としての名も無いのですか?」
「ありません」
「………」


…どうしたんだろう。幽々子さんは突然黙りこんでしまった。
口元に手を当ててるけど、何かを考えているのか?


「ですが、それでは困ってしまいませんか?」
「…? 何がですか?」
「それでは世間があなたを知ることが無いのでは…という意味です」
「どういうことでしょうか?」
「つまり、あなたの絵が売れても誰が描いたか判らないのではないか、ということです」
「…それは盲点でした」


言われてみると確かにその通りだ。このままでは世が俺を知ることはない。
…今まで絵が売れたことなかったから、そんなこと考えたことも無かった。


「確かに…それは困ってしまいますね。
 私は絵師として世に知られてる訳ではありませんが…」
「それでしたら…今お考えになられてはいかがですか?」
「今ですか…?」
「ええ」


う~む… こんな流れになるとは思わなかった。
これはどうしても今この場で命名しなければいけないようだ。
でも、俺に相応しい名前なんて……あぁ、こんな時自分の学の無さが悔やまれる。


「何か思いつきましたか?」
「う~ん…そうですねぇ…
 無名、というのはどうでしょうか?」
「むめい…?」
「はい。名が無いと描きまして『無名』です」
「…それで良いのですか?」
「ええ、私に名前はありませんし、絵描きとしても知られておりません。
 ですので、多分これが一番私に相応しい名だと思います」
「名が無いのが、名前なのですか?」
「そんな大した人間じゃありませんので、これで良いのです」
「…それでは、画家として大成しても『無名』なのですか?」
「そうですねぇ…その時は『有名』とでも改名しますよ」
「………」


幽々子さんは口をポカンと開けている。
もしかして呆れられてしまったのだろうか?
うーん… 俺に一番合ってると思ったんだけどなぁ。


「…ふふ、可笑しなお方」
「そ…そうでしょうか?」
「そうですよ。
 ふふ…楽しいお人なのですね」
「は…ははは……あれ?」


ちょっと待てよ…?
幽々子さん、今笑ったぞ!!
昨夜からずっと変わらなかった表情が、とうとう変化を見せてくれた。
今も口元に手を当てて上品に笑っている。
幽々子さんのその笑顔は、まるで花が開いたように美しく、可愛らしい。
女性を自然物に喩えることは数多くあれど、一輪の花とはよく言ったものだ…


「…どうなさいましたか?」
「いえ、幽々子さんがようやく笑ってくれたなぁ、と思いまして」
「えっ?」
「昨晩からずっと暗い顔をされておりましたから、私と居ても楽しくないのかと思っておりました」
「そ…そんなことはありません…」
「良かった。それを聞いて安心しましたよ」


幽々子さんが俺を避けている、という懸念はもう必要なさそうだな。
しかし、だとするならばこの人の表情が暗いのはやはり別に理由がありそうだ。
家人が全て出て行ってしまった事が関係するのだろうか?
聞けば早いのだが、おいそれと聞ける内容でもなさそうだし…どうしたものかな…
やはり、今はなるべくこの話題に触れないようにするのが一番だな。


「ではこれからは無名様、とお呼びしますね」
「様は要りませんよ。呼び捨てで結構でございます」
「そんな、呼び捨てだなんて…」
「先程も申しましたが、様付けで呼ばれるような立派な人間ではありませんので」
「…それでは、無名さんとお呼びします」
「んん…ちょっとむず痒いですが、それでお願いしますね。
 でも、いずれは有名になって見せますよ」
「ふふ…」


幽々子さんもこうして笑ってくれてるし、わざわざ暗い顔に戻す必要もないだろう。
あぁ、やっぱり綺麗な笑顔だなぁ… 彼女が笑う度に見惚れてしまう。
飯屋での噂を聞いて良かったよ。いや、本当に。


「あの…少しよろしいですか?」
「どうなさいましたか?」
「無名さんは、諸国を旅されているのですよね?」
「ええ、相違ないです」
「外の世界、というのはどのようなものなのでしょうか?」
「外、ですか?」
「お恥ずかしい限りですが、実は私この白玉楼からあまり出たことが無いのです。
 それで、ここ以外の事を知りたいと思いまして…」
「そうなのですか…」


幽々子さんの境遇を不憫と思うのは筋違いなのだろうが、外を知らないとは…
白玉楼も広いことは広いが、何年も住めば目新しい物も無くなるだろう。
よし、それならば俺が見てきた物を話して差し上げるべきだな。


「幽々子さん、海を見たことは?」
「ありません…」
「それでは私が初めて海を見た時の話をいたしましょう」
「…よろしいのですか?」
「ええ、あれは何年前のことだったでしょうか…」

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「…と言う訳でして、そこから私が勝利を収めるまでに実に長い時間がかかったのです」
「…知りませんでした。魚って本当は恐ろしい生き物なのですね」
「お解り頂けましたでしょうか…」


…あれ? 海を見た時のあの感動を伝えようと思ってたのに、何故こんな結末に?
奴らの持つ生存本能の凄まじさを語ることに終始してしまった…このままではいかん!


「で…でもですね! 海というのは本当に素晴らしいものなのですよ!
 その時私は海辺で一夜を明かしたのですが、夜明けと同時に目を覚ましまして…」
「それで…どうなさったのですか?」
「朝日が昇る瞬間に出くわしたのです。
 太陽の光を、永遠に続くと思わせるような海原が反射して、まるで一つの大きな宝石のようでした」
「まぁ…」
「幻想の世界に紛れ込んだような錯覚を覚えたものです…
 世界には、まだまだ私たちの知らない美しいものが溢れているのでしょう」
「素敵ですね…」


よかった…なんとか纏めることができたようだ。
幽々子さんにちゃんと海の素晴らしさを伝えられたか不安だけど…


「幽々子様、よろしいですか?」
「妖忌、どうしたのですか?」


部屋の外から声がする。
いつの間にか妖忌さんが控えていたようだ。


「夕餉の支度が整ってございます。
 そろそろお召し上がりになりませぬか?」
「…もうそんな時間なのですか?」
「そうみたいですね…全く気付きませんでしたよ」


どうやら話をしている内に随分と時間が経っていたようだ。
よくよく外を見てみると、もうかなり日が傾いている。


「それでは頂きます。
 妖忌、申し訳ありませんが持って来てくれますか?」
「既に此処にございます」
「わかりました。では…」
「そうですね、私はそろそろお暇します。
 また明日、お会いできる時を楽しみにしております」
「はい。また明日お会いしましょう」
「ええ、お休みなさい」
「お休みなさいませ」


そう言って部屋から出ると、やっぱりそこには妖忌さんがいた。
膳を持って擦れ違いに部屋に入る彼は、『少しそこで待っておれ』と言ってきた。
なので、大人しく待つことにしよう。


「さて、待たせたの。
 昨日と同じ部屋に儂らの飯が用意してある」
「ありがとうございます。
 それでは行きましょうか」
「うむ…なぁ小僧」
「何ですか?」


歩き始めると、突如妖忌さんが話しかけてきた。
どうしたのだろう?


「絵を描くのではなかったのか?
 なにやら話し声ばかり聞こえてきたのだが…」
「あぁ、そのことですか。
 まずは幽々子さんの内面を知ろうと思ったのですよ」
「ふむ?」
「そして、私にも慣れて頂くことで幽々子さんが自然体で居られるように、今日は会話をするだけでした」
「絵を描くにはそのような事をせねばならぬのか?」
「その方が良い絵を描けると思っております」
「むぅ…只描くだけではいかんのだな。
 成程、これもお主が持つ絵描きとしての拘りか」
「え…えぇ、まぁそんなところです」


本当はただ話がしたかっただけなのです。ごめんなさい…
明日からはちゃんと絵を描きながら話をしていこうと思います。


「なぁお主、これからも幽々子様と話をしてはくれぬか?」
「え…?」
「あのように上機嫌な幽々子様は久方振りに見た。
 お主との会話で心が和らいだのなら、是非これからも続けて欲しいと思ったのだ」
「宜しいのですか?」
「最近のあの方は、滅多に笑う事が無いのだ。
 故に、幽々子様の笑い声が聞こえたときは本当に驚いた。
 ひとえにお主の力と言えるだろう。この通り、頼む」
「か…顔を上げてください、妖忌さん!
 私は、もとよりそのつもりでしたから」
「…ならば、引き受けてくれるか?」
「その役目、喜んで承ります」
「そうか! 感謝するぞ、小僧!」
「感謝されるほどの事ではありませんよ。
 私が自らやろうと思っていたことですから」
「それでもだ。礼を言わせてくれ」


本当に義理堅い人だな…
それに、この人が如何に幽々子さんの事を考えているのかも良く解る。
妖忌さんのこの想いに応えるという訳ではないが、明日からも彼女を楽しませられるよう頑張ろう。


「とりあえず飯を食べようかの。先に入りなさい」
「はい、頂きますね」


ともあれ明日からだな。
さすがに絵を描き始めないといけないだろうけど、大丈夫かな…俺?
下手な事がばれなければいいんだけど……まぁ、なるようになるか!

よし、頑張ろう!!


 ~下の句へ~
タイトルは在原業平の有名な歌です。西行法師とのつながりはありません(多分…
なぜこの歌をタイトルに選んだかというのは、最後までお読みいただけれお分かり頂けると思います。

今回初めて物語というものを作ってみましたが…本当に難しいですね…
バンバン長編を書かれている作家さんは本当に尊敬します……そしてちょっと嫉妬します…ウギギ…悔しい喃…

したらば、下の句もよろしくお願いしますね。

※9月2日 修正を加えました
お腹が病気
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