“ぼとぼとん”という名の妖怪を阿求は今まで聞いたことがなかったが、阿求の親戚はぼとぼとんに詳しかった。興味深く感じた彼女は話をうかがってみた。
「ぼとぼとんは、ぼとぼとんは、
屋根裏におる。
屋根裏におって、したにむかってよだれを垂らす。
だからぼとぼとんなんじゃな。
朝でも夕でも屋根裏におって、人がおらんときにはよだれを垂らす。
人がおるときはいっこうに垂らさん。
けど、
たまに人がおってもよだれを垂らして、人を仰天させるときがある。
こうな、こうな、ぼとっと、肩にかかったあ思うと、決して天井を見上げてはいかん。
ぼとぼとんと目があうと、食われてしまう」
親戚のお婆さんが口をもごもごさせながら、しわがれた声でそう語ったのを、阿求は紙に書き留めながら聞いていた。
この手の伝承はたくさんある。とりたてて特別な節は見受けられなかった。しかし阿求の仕事柄、どうしても無視はできなかった。
さらに詳しく聞いてみるとまだまだこぼれ出てくる、ぼとぼとん。
普段は山奥にこもっているが、雨の降りそうな日、また雨の降っている日は人家の屋根裏へ身をうつす。屋根裏で何をしているのかというと、一つには、涎をたらすことで雨漏りを装い住人が調べにくるのを待ち構えている。やってきたときには、もう頭からかぶりつかれてしまうというわけだが、お婆さんはこう付け足した。
「けんどわしが思うに、雨宿りしたいから屋根裏かくれるんじゃろうなあ」
ぼとぼとんをおびき出す方法もある。この妖怪は鰹節が好物なので、雲行きの思わしくない日、部屋に鰹節をおいていると、いつの間にか現れて鰹節にむしゃぶりついているという。
もっとも肝心な妖怪の容姿については、お婆さんでさえ知らなかった。
親戚が帰っていったあと、阿求は自宅内を歩き回った。そして自分の力では屋根裏へ行けそうにないと判断した。蔵から梯子を取り出し、喘ぎ喘ぎ居間へもっていくと、それでようやく天井まで届いた。外れそうな板を見つけたので押しこんでみると、開いてくれた。
蝋燭をもち、いざ屋根裏へと上半身まで上がりこんだ。蝋燭の薄明かりに、ぼんやりと、蜘蛛の巣やほこりや煤が照らされて、一面の黒ずんだ様子がうかびあがる。
阿求は息をひそめて屋根裏を見まわした。肌寒い空気がそうさせた。虫とねずみのいた跡以外になにもないことを確認すると、下へおりた。
今日はいい日和だ。
雲はすくなく、突き抜けるような青空であったし、お日様は盛んだった。それはこの季節のつめたい微風と混ざり合って、ここちよい気温をあたえてくれた。
伝承の通りに考えるなら、こんな絶好の日和には、ぼとぼとんは山で寝息をたてていたとしても不思議でない。
阿求は机につくと、縁側からのびる暖かい光線をあびながらお婆さんから聞いた話のまとめに取りかかった。
そうしながら、次に雨天がやってきたときのために鰹節を用意しておこうと考え、果たして台所の戸棚にあったような記憶が、彼女を妙に悩ませた。結局はあとになって買いに出かけた。
阿求は待ったが、さほどの時間はかからなかった。
二日して雨が降り出した。幻想郷中を洗うような大雨は久しぶりだった。
部屋にある振り子時計がしめすところ、十時をまわった頃に、阿求はこれよしと買っておいた鰹節を持ち出し、おぼんにのせて居間に用意した。
本人は隣の部屋へいき、襖をほんの少し開けておいて、その隙間から観察するというわけだ。
書斎にあった座卓を部屋までもってきていた阿求は、それを襖の目の前にちかづけていた。ついでに物書きをするつもりだった。
わりあい静かな阿求だが、鉛筆で用紙をなぞりはじめると、ますます無口になった。しかし頭では妖怪が気になるらしく、首の上下にうごく様はせわしない。
「雨が降るならぼとぼとん。
屋根裏にぼとぼとん。
鰹節をなめまわす。
鰹節をかみくだく」
これは阿求がお婆さんから聞かせてもらった唄だ。決して声には出さず口の中で繰り返しながら、ぼとぼとんの到来を期待した。
近く巻き起こった妖精同士の争いに……。
用紙に書かれた文章が、ここから先まいごになっているのも、仕方がなかった。
阿求はずっと覗き続け、しばらくはそうしていたが、やがてとうとう顔を下げている時間のほうが増えてきた。昼食の頃はとうに過ぎているが胃の訴えも知らぬほど物書きに没頭していた。はじめと比べれば、用紙は四枚目が埋まろうとしている、快調のようだ。
ときおりは鰹節の行方を思い出して居間を覗きこむも、ぽつんとする鰹節は半ば不動に感じられた。
「雨が降るならぼとぼとん。ああ、雨脚はまだ遠のいていない。夜になったらさすがにやむのかな。夜までにやってきてくれるかしら」
と、これも、声に出しはしなかった。だが阿求は、出してしまっても構わない気持ちになっていた。
彼女は消沈していた。座卓を端へのけると、台所から取り寄せたせんべいをかじりながら、気のない顔で居間を覗いた。
やがて、もう、鰹節を片付けてしまおうと襖へ手をかけた彼女を、ふと硬直させるものがあった。にわかに彼女の顔には緊張がよみがえり、嬉しみがせりあがってきた。居間の中央に添えられた鰹節がぬめるように光っており、それをのせたおぼんには、ないはずの水たまりが出来上がっていたことが、阿求にぼとぼとん到来を伝えるものとなった。
その間際にも、てんと鳴る水しぶきの音が。明らかに、天井から滴が垂れてきていた。
じき姿をあらわし鰹節をほおばってしまうであろう妖怪を、阿求はじっと待ち構えた。そこで彼女が耳にした軋み。天井板がうごいた音にちがいなかった。
数時間前。
正午になってからメリーのもとへやってきた蓮子はいかにも嬉しそうで、それが彼女の手にある古めかしい巻物により引き起こされる笑顔であることは疑いようもなかった。メリーは蓮子につかまり、とんでもないものを実家の倉庫から見つけたこと、この巻物は必見であることをまくしたてられ、ついでその巻物をおしつけられた。
元はおとなしい緑色をしていたであろう表紙は、黄色みがかり破けてしまっている。全体をまとめるための紐はほつれている。メリーはそれを取っていざ開いてみた。すると油断していたので、巻物が彼女の手から転げ落ち、テーブルを通ったあとに床をめいいっぱいまで伸びていった。
足止めをくらった店員がよろめいたのも相まって、カフェテリアにいる客の視線がすべてそれらに集中した。
面食らったメリーにかわり、蓮子が慌てて巻物を拾い、巻き戻していった。
「貴重なものなんだから気をつけてよ」
「そんなんだ」
メリーは改めて、ただし、次は慎重に開いて中身を確認した。
濃厚な紙の匂いと、もうひとつ、何がどうとハッキリ言葉にできない古臭い匂いが漂ってきた。味わいたいとは思えない匂いにメリーは顔をしかめながら、草書体のまるで読めない文字は飛ばして、色あせた絵だけを見た。
二人の人間が、図体の大きく、妙に強調して描かれている目玉が気を引く、黒い何かを指さしている絵だ。
「これは何が書かれているの」
「妖怪に出会う方法よ」
メリーの親友は自分の言葉が朗報であることに確信をもっているようだ。メリーから見ても親友は嘘をついていないと判断できた。
だからといってメリーも同じ笑顔になるとは限らない。
「まず冒頭になんと書いてあるのか。ほら、これ。……聞いて仰天なさるなかれ、ここにこそ魑魅魍魎と疎通を図る手法の数々を記載せんと……となっているのよ。そのあとに目次のような部分があって、いよいよ妖怪と出会う方法が記されているわ。そりゃあもちろん、河童や天狗や鬼。女郎蜘蛛やぬりかべだってなんのその。幽霊を見るために枯れ尾花も柳も探しまわる必要がなくなる。水木しげるが泣いて喜ぶ最強書物が私たちのてもとにあるなんて、素敵じゃない?」
蓮子の饒舌が普段とかけ離れている様子からして、この巻物がとんでもない代物であるのは間違いなかった。
しかしメリーは、これが信用に値するだけの素質をもっているのかどうか、用心を厳かにしてはいけないと感じていた。
「これ、眉つばじゃないでしょうね」
「そうね、まったくの偽物かもしれないわね。だからいいんじゃない!」
あ。
と、メリーは納得した。
蓮子は、巻物にある妖怪と出会う方法を、それが真実かどうかはともかく、ただ試したいだけのようだ。彼女の舌がよく回っているのは、妄信からではなく、はやいところメリーを取りこみさっさと実証にかかりたいからだ。
その意図を見抜いた途端、メリーはニヤニヤと口角をあげた。
「だからいい。なるほど、気持ちは分かるわ。で、これからどうするつもりなの」
「ようやく乗ってきてくれたわね。もちろん検証なくして多くは語れず。さっそくいきましょう。いや、いこう」
「いこう」
「いこう」
そういうことになった。
カフェをあとにした二人は、夜までたっぷり巻物を読むことに費やし、暗くなってから活動をはじめた。つまり、秘封倶楽部としての活動を。わざわざ遅い時間にうごく理由は、そのほうが雰囲気も出るからだ。雰囲気以上に彼女たちを盛り上げるものはなかった。
蓮子がかねてから計画していたらしい、もっとも手軽に行える妖怪対面法を行うために、二人はだべりながら夜道を進み、近くの神社へおもむいた。
メリーは道中で買ったペットボトル飲料水をちびちびと飲みながら、蓮子がノート片手にぶつぶつ言っているのを眺めていた。二人が神社にきて、神社の裏手に回ってから、三十分は経過していた。
「いったい何をしているの」
メリーが聞くと。
「うん、人魂と出会える方法をね。いま読み返しているところ。もういいわ。じゃあやろうか。人魂なんて、手始めには最適と思わない?」
蓮子はビニール袋をもっていた。お酒の缶は自動販売機が落としたもので、白い曼珠沙華は花屋で手に入れた。
「地面に白の曼珠沙華をそえ、それに酒をふりかける。もし花が赤くなったなら、もう人魂はそばをただよっているだろう。とね。昔は、曼珠沙華は赤ばかりが咲いていて、白いものはあまり見られなかったらしいわ。今では品種改良で珍しくもなく、一輪ほしければワンコインを差し出せばいい」
その一輪の曼珠沙華は土のうえにそっとおかれ、缶のタブが気味の良い音を鳴らして開いた。かがんだ蓮子が缶をかたむけると酒がこぼれて曼珠沙華をいっぱいに濡らした。メリーは神社の縁側に腰掛けて、白い花びらや緑の茎がきらきらと月明かりを跳ね返す様子を見つめた。
「花、あかくならないわね」
メリーがそう言うと、蓮子は何食わぬ顔でビニール袋からさらに一缶とりだし、先ほどと同じようにした。三本目までを開けることになったが、とうとう曼珠沙華は変色しなかった。
「さて、どうしましょう」
そう冗談っぽく蓮子は口にしたが、表情は浮かない。
「このジュースでもかけてみる?」
メリーは自分が口にしていたペットボトルをとろうと手を伸ばした。すると指がボトルを跳ね飛ばしてしまい、ほとんどしまっていなかったキャップは遠くへ、ボトルはまだ三分の一も残っていた中身をすべてまき散らした。ああ、とつぶやいたメリーが体をよじってボトルを拾おうとしたとき、彼女の瞳を驚きで満たす画がそこにあった。
こぼれたジュースは、神社の床板の上をすべって広がった。いくらか木をしめらせながら、それはある程度までいくと止まると思われた。ところが、ジュースは速度をゆるめず、床を走り続けていく。まるでガラスの上に水をたらしたように。
もしかしたら床が傾いているのかもしれないし、床板が思いのほか滑らかだったのかもしれない。一時は驚きを隠せなかったメリーも、すぐにそれらの可能性に気づいてほっとしたものだが、しかしそうはいかず、床をたっぷり四メートルほど走ったジュースは、そこで急停止したかに見えた。その瞬間はたしかにジュースがそれ以上動かなくなったようにしか見えなかった。だが、メリーの見張った目は、それが床下へと吸いこまれていく様子を見逃さない。
「蓮子! 蓮子!」
間もなくメリーの叫び声が夜の静かをやぶった。
メリーは立つことも忘れて、四つん這いに、ジュースが消えていく床の部分へと近づいていき、その間じゅう相方の名を繰り返した。
何事かと言わんばかり蓮子が背中を追いかけて、土足で神社へ踏みこんだ。ややあってから、彼女も床の異常を見抜いた。
「ココに何かあるのよ! きっとそうだわ」
床をまさぐってみたメリーは、そこの床板が案外かんたんに外れ、ぽっかりと空洞を示したのを発見した。そのときの彼女の表情といえば、夢で赴くはるか幻想の地を、興味深げに歩く姿の一端をあらわしていた。また蓮子は、境界探しにあけくれ日暮れにたたずむ際の、期待をふくんだ微笑を隠すことができずにいた。
空洞からもれてくる光は、二人の心をもっと加熱させた。もはや濡れそぼった曼珠沙華はカヤのそとにおかれ、目の前にほりおこされた秘密だけが二人をうごかした。なによりその空洞が人間くらいなら通れそうな幅を有しているところが、よい興奮の材料になったようだ。
メリーと蓮子は目配せをし、まずメリーから足を沈ませた。「思っていたより下があるみたい」とメリーは注意をうながしながら胴体まで落とし、ふんぎりをつけると手を離した。
「あっ」
という声が彼女には聞こえたが、そこでは、蓮子が発したものだとばかり思った。
同刻。
板のずらされた天井から黄色い足がのぞいたかと思うと、薄紫の布がただよった。
てっきり阿求は子鬼のような薄汚い妖怪がおりてくるとばかり思っていたので、余所行き姿な人間の下半身がみえて、あっと、彼女らしからぬ大きな声が上がったのも仕方がなかった。
あるいはその人間がぼとぼとんかもしれぬと、すぐさま口を手で覆った彼女だ。
しばらく宙づりになっていたソイツは、いっきに畳めがけて飛び降りてきた。服装からして女性だと思われていたが、その通りだった。
「これは、かつおぶし?」
女性はそう言った。
「蓮子もおりてきてよ。部屋になっているわ」
女性が天井に呼びかけるとまたもや足が突きだされて、黒のスカートがなびいた。二人目はあっさりと着地してみせて、しきりと首をまわしながらここが部屋であることに驚いていた。
阿求はこれがぼとぼとんと言われる妖怪なのだろうか、と息をのんだ。涎をたらす妖怪にしてはずいぶん可憐な姿ではないか。
彼女はひとしきり疑問を巡らせながら、わずかに開けていた襖にかじりついて、すぐ隣の居間で落ち着かないやり取りをする二人を見つめた。しかし、力みすぎたのだろう。彼女はつい襖をがたりと言わせてしまったのだ。
襖との距離からして向こう二人が気づかないはずはなかった。阿求は四つの目玉と視線を交じらすハメになってしまった。
「よかったじゃない。人がいたわ。話をうかがいましょう」
黒いほうの女性は襖までちかづくと引き開けてしまった。
一瞬、身の危険さえ感じた阿求だったが、もうどうにでもなれと心に唱えた彼女は強い。すぐさまくずおれていた姿勢を直して、上等なつくり微笑をみせた。
「ようこそおいでくださいました。お二方はぼとぼとんの妖怪とお見受けいたします。さっそく鰹節はごちそうになられますか。それとも目撃してしまった私をお食べになられますか」
「いったい何の話よ」
阿求の開口にあきらかな不審の色をみせた二人。もちろん阿求は困惑した。
「妖怪では、ない?」
「私たちは人間のつもりなんだけど」
ここで話を広げると余計にこんがらがってしまいそうだった。
阿求はすぐさま決めた。彼女たちを座らせ、お茶を用意して私ともども落ち着かせようと。
彼女たちはあっさりしたがってくれた。阿求は台所へいくと湯を沸かしはじめたが、その間に二人が妙な動きをしないものかと気が気でなかった。お茶をくんだ湯のみを三つのせたおぼんを居間まで運び、できるだけ丁寧に湯のみを手渡した。
一服。
彼女たちがほうっと一息ついたところを見計らい、阿求はこう話しかけた。
「なにやら私とあなた方との間でずいぶん話題が倒錯しているようなので、ここで一つ、お互いに情報交換といきませんか。つきましては自己紹介を。私は稗田阿求と申します」
改まって膝をすすめてきた阿求に、目の前の二人も服を正したり正座をくんだりなどした。そうしてまずは、黒いスカートに白いシャツのはきはきとしたほうが口を開いた。
「あ、私、宇佐見蓮子っていうの。蓮子でいいわ。それであなたは……うん、分かった、阿求と呼べばいいのね」
蓮子が紹介をおえると、次はそばにいる薄紫のドレスを着るしとやかな彼女の番だった。
「私はマエリベリー・ハーンというのだけれど、これだと長いでしょう? だからメリーでいいわ。みんなからもそう呼ばれているし。よろしくね阿求」
あいさつを交わしてみると緊張感はやわらいだ。阿求はかしこまった態度こそ崩れないが、それでもさっきより笑顔は自然だった。
まず、阿求が自分の目的を話した。
ぼとぼとんなる妖怪を確かめるようとしていたこと。ぼとぼとんの特徴を簡単につたえて。蓮子とメリーをそれに間違えてしまった理由をはなした。天井からよだれが、鰹節めがけてたれてきたかと思えば、板をずらして現れた二人。ぼとぼとんかと、たかぶらないほうがおかしかったのだと。
これを聞いた蓮子がたちまち笑顔を咲かせたかと思うと、懐からメモ帳を取り出してその紙面を見ながら阿求へ詰め寄った。
「よ、妖怪! 実は私たちも妖怪に会おうとしていたのよ。や、けれど、正確には人魂に会ううつもりだったんだけれど、いずれは、妖怪と」
なにか蓮子のその姿は、阿求に天狗の新聞記者をおもいおこさせた。
さて、阿求は食いかかってきた蓮子に少々狼狽した。けれど、彼女がなぜそのような態度をとったかの理由を聞くと、ははあと納得の面持ちがとってかわった。
蓮子とメリーは、妖怪と出会える手段が記されている巻物を試すために、神社へむかった。そこでメリーが起こした、なんてことのないドジ。それに導かれて神社の床板をはずしてみれば、この状態へまっしぐらだったという。
「そんな、鰹節にかかっていた水、よだれかと思っていたんですが。飲み物だったんですね」
今はもう片付けてしまった鰹節を阿求は思いだして、苦笑をうかべた。
こうやって両者の話を並べてみると、明確にふに落ちない点がでてくる。まずこの、阿求の住まう屋敷の天井は決して神社なんかではない。そして、神社の床下に一棟ぶんもの空間があるのも奇怪の一言に尽きる。
そう考えると、阿求は不思議でたまらなくなってきた。頭上にあいた天井の穴を見上げて、暗くて見通しの悪いそこに、さらに重なっているらしき神社の天井を見定めようとした。もちろん、一片たりともうかがえない。
「ここではまだお昼なのね。雨も降っている」
メリーがそうつぶやきながら、雨音のやまない縁側へ目をやった。
物憂げな表情をしていた。
唇がまた、上下しだした。
「蓮子、帰りましょう」
「え、どうして。まだ全然」
「私たちが神社に着いたころの時間をわすれたの?」
「ああ、でも、まだ何分も」
そんなやりとりのあと、二人は立ちあがると「ありがとうね」などと言いながら天井へ手を伸ばして、残念ながら届かなかった。
阿求は笑いながら、梯子をもってくると言って部屋を出ると雨のなかを小走りで蔵までむかい、目的のものをかついで戻った。穴へひっかけると準備は万端だ。
時間をかけて二人は登った。最後に穴から見下ろしながら、手をふって別れの言葉を告げた。阿求が梯子をいったんのけると、二人が天井板をぴったり閉じた。
まだそわそわしていた阿求は、ややもしない内に再び梯子を渡して、天井板をずらして、頭を入れた。
薄暗くて埃にまみれた屋根裏が視界いっぱいにあるだけにすぎなかった。
蓮子は帰路のあいだウキウキとしていた。メリーは微笑ましく思いながらも、胸にひっかかる憂いを無視できなかった。
神社のしたにあったあの部屋、あの屋敷は、いやあの世界は、いつか夢で訪れた例の場所だと彼女は確信していた。あそこの空気に覚えがあると感じた瞬間、瞬く間に夢の記憶が再生されて、えも言われぬ懐かしい思いに迫られた。そこでハッキリと、長居してはいけないと、思ったのだ。
二人はひと気のない道路をとろとろ歩いていた。均一にならんだ街灯が、決して彼女たちの足元を暗くさせはしない。
蓮子が今にも踊りそうなのは、またとない見知らぬ場所に行けたからだけではなく、帰ってみると曼珠沙華が赤くなっていたからだ。夜の闇にも紛れぬ鮮やかな赤をしていたのは、メリーの印象にも残っている。
蓮子の手元にはその曼珠沙華があった。
「人魂を呼び寄せる方法は成功したわね」
「けど蓮子、じっさいに私たちの目でみたわけじゃないでしょ」
「そうね。つぎこそは絶対にみてやりましょう」
蓮子はまだ知らず、メリーは知っているが言わずにおいたことがある。蓮子はメモ帳をあそこに忘れてきてしまっていた。なぜ言わなかったのかというと、自分の夢に、自分がいた痕跡を残したかったからだ。見れるなら、いつか見てみたいものだと、淡い期待を添えて。
一方で、主のもとから離れてしまったメモ帳をかわりにめくっていたのは阿求だ。そこに書かれていた、妖怪と出会う手段の書き写し群へ目をとおしていた。
そのいずれもが、まるで見当違いな内容であることに、しずかに落胆しながら。
「いったい彼女たちはどうやってここにやってきたんでしょう」
そう一人ごちた。少なくとも、このメモ帳からは、彼女たちが結界を越えれそうな力にめぐまれている感じは受け取れないと、阿求は決めつけた。ただ阿求には解読不能なところが多々あったので、そこに秘密があるのではと、思いもした。
梯子をしまおうと阿求は立ちあがった。だが何かが肩に触れたためそこで動かなくなった。
肩をみてみると、彼女自慢の着物に染みができていた。
また二人がやってきた。そうときめいた彼女は何の抵抗もなく天井を見上げた。そこで、天井板がはずされているまではよかったが、暗がりに妖しく光る大きな双眸が、しっかと自分を捉えていることを知ったときには、
彼女は、絶句した。
「ぼとぼとんは、ぼとぼとんは、
屋根裏におる。
屋根裏におって、したにむかってよだれを垂らす。
だからぼとぼとんなんじゃな。
朝でも夕でも屋根裏におって、人がおらんときにはよだれを垂らす。
人がおるときはいっこうに垂らさん。
けど、
たまに人がおってもよだれを垂らして、人を仰天させるときがある。
こうな、こうな、ぼとっと、肩にかかったあ思うと、決して天井を見上げてはいかん。
ぼとぼとんと目があうと、食われてしまう」
親戚のお婆さんが口をもごもごさせながら、しわがれた声でそう語ったのを、阿求は紙に書き留めながら聞いていた。
この手の伝承はたくさんある。とりたてて特別な節は見受けられなかった。しかし阿求の仕事柄、どうしても無視はできなかった。
さらに詳しく聞いてみるとまだまだこぼれ出てくる、ぼとぼとん。
普段は山奥にこもっているが、雨の降りそうな日、また雨の降っている日は人家の屋根裏へ身をうつす。屋根裏で何をしているのかというと、一つには、涎をたらすことで雨漏りを装い住人が調べにくるのを待ち構えている。やってきたときには、もう頭からかぶりつかれてしまうというわけだが、お婆さんはこう付け足した。
「けんどわしが思うに、雨宿りしたいから屋根裏かくれるんじゃろうなあ」
ぼとぼとんをおびき出す方法もある。この妖怪は鰹節が好物なので、雲行きの思わしくない日、部屋に鰹節をおいていると、いつの間にか現れて鰹節にむしゃぶりついているという。
もっとも肝心な妖怪の容姿については、お婆さんでさえ知らなかった。
親戚が帰っていったあと、阿求は自宅内を歩き回った。そして自分の力では屋根裏へ行けそうにないと判断した。蔵から梯子を取り出し、喘ぎ喘ぎ居間へもっていくと、それでようやく天井まで届いた。外れそうな板を見つけたので押しこんでみると、開いてくれた。
蝋燭をもち、いざ屋根裏へと上半身まで上がりこんだ。蝋燭の薄明かりに、ぼんやりと、蜘蛛の巣やほこりや煤が照らされて、一面の黒ずんだ様子がうかびあがる。
阿求は息をひそめて屋根裏を見まわした。肌寒い空気がそうさせた。虫とねずみのいた跡以外になにもないことを確認すると、下へおりた。
今日はいい日和だ。
雲はすくなく、突き抜けるような青空であったし、お日様は盛んだった。それはこの季節のつめたい微風と混ざり合って、ここちよい気温をあたえてくれた。
伝承の通りに考えるなら、こんな絶好の日和には、ぼとぼとんは山で寝息をたてていたとしても不思議でない。
阿求は机につくと、縁側からのびる暖かい光線をあびながらお婆さんから聞いた話のまとめに取りかかった。
そうしながら、次に雨天がやってきたときのために鰹節を用意しておこうと考え、果たして台所の戸棚にあったような記憶が、彼女を妙に悩ませた。結局はあとになって買いに出かけた。
阿求は待ったが、さほどの時間はかからなかった。
二日して雨が降り出した。幻想郷中を洗うような大雨は久しぶりだった。
部屋にある振り子時計がしめすところ、十時をまわった頃に、阿求はこれよしと買っておいた鰹節を持ち出し、おぼんにのせて居間に用意した。
本人は隣の部屋へいき、襖をほんの少し開けておいて、その隙間から観察するというわけだ。
書斎にあった座卓を部屋までもってきていた阿求は、それを襖の目の前にちかづけていた。ついでに物書きをするつもりだった。
わりあい静かな阿求だが、鉛筆で用紙をなぞりはじめると、ますます無口になった。しかし頭では妖怪が気になるらしく、首の上下にうごく様はせわしない。
「雨が降るならぼとぼとん。
屋根裏にぼとぼとん。
鰹節をなめまわす。
鰹節をかみくだく」
これは阿求がお婆さんから聞かせてもらった唄だ。決して声には出さず口の中で繰り返しながら、ぼとぼとんの到来を期待した。
近く巻き起こった妖精同士の争いに……。
用紙に書かれた文章が、ここから先まいごになっているのも、仕方がなかった。
阿求はずっと覗き続け、しばらくはそうしていたが、やがてとうとう顔を下げている時間のほうが増えてきた。昼食の頃はとうに過ぎているが胃の訴えも知らぬほど物書きに没頭していた。はじめと比べれば、用紙は四枚目が埋まろうとしている、快調のようだ。
ときおりは鰹節の行方を思い出して居間を覗きこむも、ぽつんとする鰹節は半ば不動に感じられた。
「雨が降るならぼとぼとん。ああ、雨脚はまだ遠のいていない。夜になったらさすがにやむのかな。夜までにやってきてくれるかしら」
と、これも、声に出しはしなかった。だが阿求は、出してしまっても構わない気持ちになっていた。
彼女は消沈していた。座卓を端へのけると、台所から取り寄せたせんべいをかじりながら、気のない顔で居間を覗いた。
やがて、もう、鰹節を片付けてしまおうと襖へ手をかけた彼女を、ふと硬直させるものがあった。にわかに彼女の顔には緊張がよみがえり、嬉しみがせりあがってきた。居間の中央に添えられた鰹節がぬめるように光っており、それをのせたおぼんには、ないはずの水たまりが出来上がっていたことが、阿求にぼとぼとん到来を伝えるものとなった。
その間際にも、てんと鳴る水しぶきの音が。明らかに、天井から滴が垂れてきていた。
じき姿をあらわし鰹節をほおばってしまうであろう妖怪を、阿求はじっと待ち構えた。そこで彼女が耳にした軋み。天井板がうごいた音にちがいなかった。
数時間前。
正午になってからメリーのもとへやってきた蓮子はいかにも嬉しそうで、それが彼女の手にある古めかしい巻物により引き起こされる笑顔であることは疑いようもなかった。メリーは蓮子につかまり、とんでもないものを実家の倉庫から見つけたこと、この巻物は必見であることをまくしたてられ、ついでその巻物をおしつけられた。
元はおとなしい緑色をしていたであろう表紙は、黄色みがかり破けてしまっている。全体をまとめるための紐はほつれている。メリーはそれを取っていざ開いてみた。すると油断していたので、巻物が彼女の手から転げ落ち、テーブルを通ったあとに床をめいいっぱいまで伸びていった。
足止めをくらった店員がよろめいたのも相まって、カフェテリアにいる客の視線がすべてそれらに集中した。
面食らったメリーにかわり、蓮子が慌てて巻物を拾い、巻き戻していった。
「貴重なものなんだから気をつけてよ」
「そんなんだ」
メリーは改めて、ただし、次は慎重に開いて中身を確認した。
濃厚な紙の匂いと、もうひとつ、何がどうとハッキリ言葉にできない古臭い匂いが漂ってきた。味わいたいとは思えない匂いにメリーは顔をしかめながら、草書体のまるで読めない文字は飛ばして、色あせた絵だけを見た。
二人の人間が、図体の大きく、妙に強調して描かれている目玉が気を引く、黒い何かを指さしている絵だ。
「これは何が書かれているの」
「妖怪に出会う方法よ」
メリーの親友は自分の言葉が朗報であることに確信をもっているようだ。メリーから見ても親友は嘘をついていないと判断できた。
だからといってメリーも同じ笑顔になるとは限らない。
「まず冒頭になんと書いてあるのか。ほら、これ。……聞いて仰天なさるなかれ、ここにこそ魑魅魍魎と疎通を図る手法の数々を記載せんと……となっているのよ。そのあとに目次のような部分があって、いよいよ妖怪と出会う方法が記されているわ。そりゃあもちろん、河童や天狗や鬼。女郎蜘蛛やぬりかべだってなんのその。幽霊を見るために枯れ尾花も柳も探しまわる必要がなくなる。水木しげるが泣いて喜ぶ最強書物が私たちのてもとにあるなんて、素敵じゃない?」
蓮子の饒舌が普段とかけ離れている様子からして、この巻物がとんでもない代物であるのは間違いなかった。
しかしメリーは、これが信用に値するだけの素質をもっているのかどうか、用心を厳かにしてはいけないと感じていた。
「これ、眉つばじゃないでしょうね」
「そうね、まったくの偽物かもしれないわね。だからいいんじゃない!」
あ。
と、メリーは納得した。
蓮子は、巻物にある妖怪と出会う方法を、それが真実かどうかはともかく、ただ試したいだけのようだ。彼女の舌がよく回っているのは、妄信からではなく、はやいところメリーを取りこみさっさと実証にかかりたいからだ。
その意図を見抜いた途端、メリーはニヤニヤと口角をあげた。
「だからいい。なるほど、気持ちは分かるわ。で、これからどうするつもりなの」
「ようやく乗ってきてくれたわね。もちろん検証なくして多くは語れず。さっそくいきましょう。いや、いこう」
「いこう」
「いこう」
そういうことになった。
カフェをあとにした二人は、夜までたっぷり巻物を読むことに費やし、暗くなってから活動をはじめた。つまり、秘封倶楽部としての活動を。わざわざ遅い時間にうごく理由は、そのほうが雰囲気も出るからだ。雰囲気以上に彼女たちを盛り上げるものはなかった。
蓮子がかねてから計画していたらしい、もっとも手軽に行える妖怪対面法を行うために、二人はだべりながら夜道を進み、近くの神社へおもむいた。
メリーは道中で買ったペットボトル飲料水をちびちびと飲みながら、蓮子がノート片手にぶつぶつ言っているのを眺めていた。二人が神社にきて、神社の裏手に回ってから、三十分は経過していた。
「いったい何をしているの」
メリーが聞くと。
「うん、人魂と出会える方法をね。いま読み返しているところ。もういいわ。じゃあやろうか。人魂なんて、手始めには最適と思わない?」
蓮子はビニール袋をもっていた。お酒の缶は自動販売機が落としたもので、白い曼珠沙華は花屋で手に入れた。
「地面に白の曼珠沙華をそえ、それに酒をふりかける。もし花が赤くなったなら、もう人魂はそばをただよっているだろう。とね。昔は、曼珠沙華は赤ばかりが咲いていて、白いものはあまり見られなかったらしいわ。今では品種改良で珍しくもなく、一輪ほしければワンコインを差し出せばいい」
その一輪の曼珠沙華は土のうえにそっとおかれ、缶のタブが気味の良い音を鳴らして開いた。かがんだ蓮子が缶をかたむけると酒がこぼれて曼珠沙華をいっぱいに濡らした。メリーは神社の縁側に腰掛けて、白い花びらや緑の茎がきらきらと月明かりを跳ね返す様子を見つめた。
「花、あかくならないわね」
メリーがそう言うと、蓮子は何食わぬ顔でビニール袋からさらに一缶とりだし、先ほどと同じようにした。三本目までを開けることになったが、とうとう曼珠沙華は変色しなかった。
「さて、どうしましょう」
そう冗談っぽく蓮子は口にしたが、表情は浮かない。
「このジュースでもかけてみる?」
メリーは自分が口にしていたペットボトルをとろうと手を伸ばした。すると指がボトルを跳ね飛ばしてしまい、ほとんどしまっていなかったキャップは遠くへ、ボトルはまだ三分の一も残っていた中身をすべてまき散らした。ああ、とつぶやいたメリーが体をよじってボトルを拾おうとしたとき、彼女の瞳を驚きで満たす画がそこにあった。
こぼれたジュースは、神社の床板の上をすべって広がった。いくらか木をしめらせながら、それはある程度までいくと止まると思われた。ところが、ジュースは速度をゆるめず、床を走り続けていく。まるでガラスの上に水をたらしたように。
もしかしたら床が傾いているのかもしれないし、床板が思いのほか滑らかだったのかもしれない。一時は驚きを隠せなかったメリーも、すぐにそれらの可能性に気づいてほっとしたものだが、しかしそうはいかず、床をたっぷり四メートルほど走ったジュースは、そこで急停止したかに見えた。その瞬間はたしかにジュースがそれ以上動かなくなったようにしか見えなかった。だが、メリーの見張った目は、それが床下へと吸いこまれていく様子を見逃さない。
「蓮子! 蓮子!」
間もなくメリーの叫び声が夜の静かをやぶった。
メリーは立つことも忘れて、四つん這いに、ジュースが消えていく床の部分へと近づいていき、その間じゅう相方の名を繰り返した。
何事かと言わんばかり蓮子が背中を追いかけて、土足で神社へ踏みこんだ。ややあってから、彼女も床の異常を見抜いた。
「ココに何かあるのよ! きっとそうだわ」
床をまさぐってみたメリーは、そこの床板が案外かんたんに外れ、ぽっかりと空洞を示したのを発見した。そのときの彼女の表情といえば、夢で赴くはるか幻想の地を、興味深げに歩く姿の一端をあらわしていた。また蓮子は、境界探しにあけくれ日暮れにたたずむ際の、期待をふくんだ微笑を隠すことができずにいた。
空洞からもれてくる光は、二人の心をもっと加熱させた。もはや濡れそぼった曼珠沙華はカヤのそとにおかれ、目の前にほりおこされた秘密だけが二人をうごかした。なによりその空洞が人間くらいなら通れそうな幅を有しているところが、よい興奮の材料になったようだ。
メリーと蓮子は目配せをし、まずメリーから足を沈ませた。「思っていたより下があるみたい」とメリーは注意をうながしながら胴体まで落とし、ふんぎりをつけると手を離した。
「あっ」
という声が彼女には聞こえたが、そこでは、蓮子が発したものだとばかり思った。
同刻。
板のずらされた天井から黄色い足がのぞいたかと思うと、薄紫の布がただよった。
てっきり阿求は子鬼のような薄汚い妖怪がおりてくるとばかり思っていたので、余所行き姿な人間の下半身がみえて、あっと、彼女らしからぬ大きな声が上がったのも仕方がなかった。
あるいはその人間がぼとぼとんかもしれぬと、すぐさま口を手で覆った彼女だ。
しばらく宙づりになっていたソイツは、いっきに畳めがけて飛び降りてきた。服装からして女性だと思われていたが、その通りだった。
「これは、かつおぶし?」
女性はそう言った。
「蓮子もおりてきてよ。部屋になっているわ」
女性が天井に呼びかけるとまたもや足が突きだされて、黒のスカートがなびいた。二人目はあっさりと着地してみせて、しきりと首をまわしながらここが部屋であることに驚いていた。
阿求はこれがぼとぼとんと言われる妖怪なのだろうか、と息をのんだ。涎をたらす妖怪にしてはずいぶん可憐な姿ではないか。
彼女はひとしきり疑問を巡らせながら、わずかに開けていた襖にかじりついて、すぐ隣の居間で落ち着かないやり取りをする二人を見つめた。しかし、力みすぎたのだろう。彼女はつい襖をがたりと言わせてしまったのだ。
襖との距離からして向こう二人が気づかないはずはなかった。阿求は四つの目玉と視線を交じらすハメになってしまった。
「よかったじゃない。人がいたわ。話をうかがいましょう」
黒いほうの女性は襖までちかづくと引き開けてしまった。
一瞬、身の危険さえ感じた阿求だったが、もうどうにでもなれと心に唱えた彼女は強い。すぐさまくずおれていた姿勢を直して、上等なつくり微笑をみせた。
「ようこそおいでくださいました。お二方はぼとぼとんの妖怪とお見受けいたします。さっそく鰹節はごちそうになられますか。それとも目撃してしまった私をお食べになられますか」
「いったい何の話よ」
阿求の開口にあきらかな不審の色をみせた二人。もちろん阿求は困惑した。
「妖怪では、ない?」
「私たちは人間のつもりなんだけど」
ここで話を広げると余計にこんがらがってしまいそうだった。
阿求はすぐさま決めた。彼女たちを座らせ、お茶を用意して私ともども落ち着かせようと。
彼女たちはあっさりしたがってくれた。阿求は台所へいくと湯を沸かしはじめたが、その間に二人が妙な動きをしないものかと気が気でなかった。お茶をくんだ湯のみを三つのせたおぼんを居間まで運び、できるだけ丁寧に湯のみを手渡した。
一服。
彼女たちがほうっと一息ついたところを見計らい、阿求はこう話しかけた。
「なにやら私とあなた方との間でずいぶん話題が倒錯しているようなので、ここで一つ、お互いに情報交換といきませんか。つきましては自己紹介を。私は稗田阿求と申します」
改まって膝をすすめてきた阿求に、目の前の二人も服を正したり正座をくんだりなどした。そうしてまずは、黒いスカートに白いシャツのはきはきとしたほうが口を開いた。
「あ、私、宇佐見蓮子っていうの。蓮子でいいわ。それであなたは……うん、分かった、阿求と呼べばいいのね」
蓮子が紹介をおえると、次はそばにいる薄紫のドレスを着るしとやかな彼女の番だった。
「私はマエリベリー・ハーンというのだけれど、これだと長いでしょう? だからメリーでいいわ。みんなからもそう呼ばれているし。よろしくね阿求」
あいさつを交わしてみると緊張感はやわらいだ。阿求はかしこまった態度こそ崩れないが、それでもさっきより笑顔は自然だった。
まず、阿求が自分の目的を話した。
ぼとぼとんなる妖怪を確かめるようとしていたこと。ぼとぼとんの特徴を簡単につたえて。蓮子とメリーをそれに間違えてしまった理由をはなした。天井からよだれが、鰹節めがけてたれてきたかと思えば、板をずらして現れた二人。ぼとぼとんかと、たかぶらないほうがおかしかったのだと。
これを聞いた蓮子がたちまち笑顔を咲かせたかと思うと、懐からメモ帳を取り出してその紙面を見ながら阿求へ詰め寄った。
「よ、妖怪! 実は私たちも妖怪に会おうとしていたのよ。や、けれど、正確には人魂に会ううつもりだったんだけれど、いずれは、妖怪と」
なにか蓮子のその姿は、阿求に天狗の新聞記者をおもいおこさせた。
さて、阿求は食いかかってきた蓮子に少々狼狽した。けれど、彼女がなぜそのような態度をとったかの理由を聞くと、ははあと納得の面持ちがとってかわった。
蓮子とメリーは、妖怪と出会える手段が記されている巻物を試すために、神社へむかった。そこでメリーが起こした、なんてことのないドジ。それに導かれて神社の床板をはずしてみれば、この状態へまっしぐらだったという。
「そんな、鰹節にかかっていた水、よだれかと思っていたんですが。飲み物だったんですね」
今はもう片付けてしまった鰹節を阿求は思いだして、苦笑をうかべた。
こうやって両者の話を並べてみると、明確にふに落ちない点がでてくる。まずこの、阿求の住まう屋敷の天井は決して神社なんかではない。そして、神社の床下に一棟ぶんもの空間があるのも奇怪の一言に尽きる。
そう考えると、阿求は不思議でたまらなくなってきた。頭上にあいた天井の穴を見上げて、暗くて見通しの悪いそこに、さらに重なっているらしき神社の天井を見定めようとした。もちろん、一片たりともうかがえない。
「ここではまだお昼なのね。雨も降っている」
メリーがそうつぶやきながら、雨音のやまない縁側へ目をやった。
物憂げな表情をしていた。
唇がまた、上下しだした。
「蓮子、帰りましょう」
「え、どうして。まだ全然」
「私たちが神社に着いたころの時間をわすれたの?」
「ああ、でも、まだ何分も」
そんなやりとりのあと、二人は立ちあがると「ありがとうね」などと言いながら天井へ手を伸ばして、残念ながら届かなかった。
阿求は笑いながら、梯子をもってくると言って部屋を出ると雨のなかを小走りで蔵までむかい、目的のものをかついで戻った。穴へひっかけると準備は万端だ。
時間をかけて二人は登った。最後に穴から見下ろしながら、手をふって別れの言葉を告げた。阿求が梯子をいったんのけると、二人が天井板をぴったり閉じた。
まだそわそわしていた阿求は、ややもしない内に再び梯子を渡して、天井板をずらして、頭を入れた。
薄暗くて埃にまみれた屋根裏が視界いっぱいにあるだけにすぎなかった。
蓮子は帰路のあいだウキウキとしていた。メリーは微笑ましく思いながらも、胸にひっかかる憂いを無視できなかった。
神社のしたにあったあの部屋、あの屋敷は、いやあの世界は、いつか夢で訪れた例の場所だと彼女は確信していた。あそこの空気に覚えがあると感じた瞬間、瞬く間に夢の記憶が再生されて、えも言われぬ懐かしい思いに迫られた。そこでハッキリと、長居してはいけないと、思ったのだ。
二人はひと気のない道路をとろとろ歩いていた。均一にならんだ街灯が、決して彼女たちの足元を暗くさせはしない。
蓮子が今にも踊りそうなのは、またとない見知らぬ場所に行けたからだけではなく、帰ってみると曼珠沙華が赤くなっていたからだ。夜の闇にも紛れぬ鮮やかな赤をしていたのは、メリーの印象にも残っている。
蓮子の手元にはその曼珠沙華があった。
「人魂を呼び寄せる方法は成功したわね」
「けど蓮子、じっさいに私たちの目でみたわけじゃないでしょ」
「そうね。つぎこそは絶対にみてやりましょう」
蓮子はまだ知らず、メリーは知っているが言わずにおいたことがある。蓮子はメモ帳をあそこに忘れてきてしまっていた。なぜ言わなかったのかというと、自分の夢に、自分がいた痕跡を残したかったからだ。見れるなら、いつか見てみたいものだと、淡い期待を添えて。
一方で、主のもとから離れてしまったメモ帳をかわりにめくっていたのは阿求だ。そこに書かれていた、妖怪と出会う手段の書き写し群へ目をとおしていた。
そのいずれもが、まるで見当違いな内容であることに、しずかに落胆しながら。
「いったい彼女たちはどうやってここにやってきたんでしょう」
そう一人ごちた。少なくとも、このメモ帳からは、彼女たちが結界を越えれそうな力にめぐまれている感じは受け取れないと、阿求は決めつけた。ただ阿求には解読不能なところが多々あったので、そこに秘密があるのではと、思いもした。
梯子をしまおうと阿求は立ちあがった。だが何かが肩に触れたためそこで動かなくなった。
肩をみてみると、彼女自慢の着物に染みができていた。
また二人がやってきた。そうときめいた彼女は何の抵抗もなく天井を見上げた。そこで、天井板がはずされているまではよかったが、暗がりに妖しく光る大きな双眸が、しっかと自分を捉えていることを知ったときには、
彼女は、絶句した。
「民話」って、怖いけど惹かれるものがありますよね…
最初はタイトルで蓮メリちゅっちゅの話だと思っていました。
阿求が心配だけど、ぼとぼとんもきっと見た目は少女にちがいない。だから安全とは限りませんが。
曼珠沙華を染めたのはあっきゅんの人魂…か…?
げ、幻想郷ならなんとかなるか!?