一
気がつくと、縁側にブン屋が座っていた。
どうやら、少し眠ってしまっていたようだ。幺樂団の曲が流れっぱなしになっているレコードプレイヤーを止めて、寝起きの重たい体を安楽椅子から縁側へと運ぶ。
「来てたなら、声をかけてくれれば良かったのに」
ブン屋こと射命丸文がこの稗田家を――この稗田阿求を訪ねてくるのは珍しいことではない。というより、来ない日のほうが少ないくらいだ。
「貴方が思っているほど待ちぼうけを食ってたわけでもありませんよ、いま来たばかりです」
「そうですか、それなら良かった。いまお茶を用意させますね」
女中を呼んで、紅茶と茶菓子をお願いする。相手によっては緑茶を用意することもあるが、彼女は私と同じく紅茶党である。
「お茶がくるまでに、お互いの用事を済ましておきましょうか」
さっきからすでに手帳とペンを持って臨戦態勢のブン屋にそう言って、安楽椅子の傍らからノートを取ってきた。
私と彼女はビジネスライクな関係、といえるのかもしれない。私は幻想郷縁起のために妖怪たちの情報を求めているし、彼女は新聞記事のために人里の話題を求めている。
もっとも、私にとって彼女の存在はもっと大きなものとなりつつあるのだが……。
幻想郷縁起の記述が完成に近づいていることもあり、年を重ねるにつれて外を出歩くことが少なくなった。目まぐるしく日々を送る者たちにとって、既に私は世界の外の存在である。わざわざ訪ねてくるような人も徐々に減り、いまや彼女だけと言っても過言ではない。取材対象でも、茶飲み友達でもなんでもいい。私という存在を気にとめてくれる人が居るということが嬉しいのである。
「……こんなところですかね、最近の話題というと」
「ふむふむ、最近これといって大きな事件が起こってないですね……。近々大きな騒ぎが起こる予兆でしょうか」
私が人里の近況を語り終えると、ブン屋はわくわくした様子で感想を述べ、メモをする手を止めた。ペンを傍らに置き、話の途中に来ていた紅茶へと手を伸ばす。
「あれ、ペンを新調されたんですか?」
彼女のペンが今まで私が見たことのないものに変わっている。以前からペン選びのセンスがいいなあ、と思っていたが、今度のものもとてもお洒落だ。
「お、目聡いですね。河童の里の最新作なんですけど、ペン先に新素材が採用されて、書き味がかなり向上してるって話題ですよ」
みてみて、というように目の前にぐいとペンが差し出される。黒いシックなボディが眼前に迫った。
近くで見てみるとその美しさがさらによく見て取れた。彼女に了解を取って書き味を試してみると、確かに驚くほど滑らか。体の一部のように手になじむ設計や先進的なデザイン、機能性……幻想郷で唯一のものと言ってもいいだろう。
「今はまだオーダーメイドだけらしいんですけどね。大量生産の準備ができてないそうで」
「ということは、河童の里まで行って直接お願いしないとだめですか……」
稗田家から河童の里までの道程を思い浮かべる。人里から妖怪の山の麓までが一里から二里、さらに山の中腹にある河童の里まできつい山道……とてもじゃないが私には歩けそうもない。
「私も欲しいですけど、河童の里は遠すぎますね……」
「本人が行かないと作ってくれませんからね……完璧主義もここまで来ると呆れるしかないというか、いやはや」
河童製の商品の一部はこのペンみたいなオーダーメイド方式で作られているが、それを注文する場合は本人が河童の工房まで行って職人と会い、一から仕様を話し合わなくてはならない。
紅茶を飲み終えるまで会話を交わすと、ブン屋は次の取材に向けて飛び去っていった。「どうしても欲しかったら言って下さい。河童と交渉してきますよ」と言い残していったその背中を見送りながら、私はひとつの決意を胸に秘めていたのであった。
二
人里の外に出るのは久しぶりだ。建物が建ち並び、人々が動き回っている光景が少し離れるだけで見違えたようになる。見渡す限りの平原が広がり、晴れ渡った空に浮かぶ太陽からは光がさんさんと注していて、麦わらをかぶっていてもそれはよく感じられる。もう少し行程が短ければ、絶好のピクニック日和だと云って喜ぶことができたのだろうけど……。
ブン屋はああ言ってくれたが、私は自分の足で河童の里まで行くことを選んだ。頼みづらかったとかそういうわけじゃないのだけど……いわく言い表し難い気持ちに突き動かされて、私はいまこうして歩いているというわけだ。
ま、まあ三里近い距離を考えると少し早まった気もするけど……。
「行くしかないです!」
ひとりごちて気合を入れる。すると道脇の高く伸びた草陰から声が上がった。
「妖怪の山へ行かれるのですか?」
がさがさと草葉をかき分けて声の主が現れる。
「あら、あなた達は……」紅葉と豊穣、二人の神様姉妹だった。
「そう、神様です。なんつって」姉のほうがおどけてみせる。
「もうお姉ちゃんってば。あれ、あなたもしかして前に話を聞きにきた……?」
「そ、そうです。稗田阿求です」
このふたりとは幻想郷縁起の取材以来だ。しかし前に会った時もそうだったが、このふたりは神様らしい雰囲気が全く感じられない。いま声をかけられたときも、最初は普通の人間かと思ってしまった。
「人里から歩いてきたんですけど……山まではあとどのくらいですか?」
「ここは妖怪の山まで……、だいたい半里って感じかなあ」
意外と早く歩けているようだ。この分なら、暗くなる前に帰れるかもしれないな、とぼんやり考える。
「ところで、阿求さんは山の上の神社に用事ですか」
「もしかして、入信したとか?」
「違います! 今日は河童の里に用事がありまして」姉妹ステレオに突っ込みで返す。
「なるほど、道のりは長いですが頑張ってください」
「さっき分けてもらったからひとつあげますね、頑張って」
姉妹と手を振り合って別れる。焼き芋の差し入れまで貰ってしまった。だが頑張ろうという気持ちが大きくなったのは事実だ。オーラのない神様でも人を元気づけてくれるんだなーと実感した。
芋をかじりながらさらに歩を進めると、山の姿が大きく近づいて、大きな影が小さな私を覆おうとするまでになった。さきほどの残念な姉妹とは比べ物にならない圧力が山から感じられる。
妖怪の山。その入口は昼間だというのに繁った木々で暗くなっていて、人間の来訪を拒む妖気みたいなものがひしひしと感じ取られる。
しかし、行かねばならぬ。ブン屋が持っていたあの万年筆、あれを見たときの胸の高鳴りは言葉で言い表せないほどだった。絶対に手に入れねばならぬと心に誓った。
だから、進むだけだ。
三
「もし、そこの可憐な人間のお嬢さん」
背後から声をかけられた。今日はよく声をかけられる日だ。
「神社へ行くのでしょう。私にぜひ案内させて下さるかしら」
そして神社へ行くものとも間違えられる日である。
振り向くとゴスロリ少女が立っていた。おおよそ山には不釣り合いな格好から、おそらく妖怪だろうと当たりをつける。しかし迷いの竹林でもないのに、案内が必要なことなんてあるのだろうか。
「私は厄神の鍵山雛と申します。この山は若い血気盛んな妖怪も多いですから、私がご一緒した方が安全だと思いますが……」
なるほど、案内人というより身辺警護ということか。確かに妖怪の山の妖怪は人間界と隔絶された生活を送っているだけあって、よその妖怪ほど思慮深くないという話も聞く。ここはお願いしておくのが吉かもしれない。
「そうですね……ではお願いします。えっと……鍵山さん」「雛でいいわ」
速攻で訂正された。「雛さん、よろしくお願いします……あ、私の名前は稗田阿求といいます」
「こちらこそお願いするわ、阿求」
狭い山道なので並んで歩くことはできず、前に雛さん・後ろに私という隊列(ふたりしかいないけど)で進むことにした。
「あ、そうだ……」「? どうかしたの」
「言い忘れてたんですけど、私が行きたいのは神社じゃなくて河童の里です」
さっきから訂正しようと思っていたのだが、山の妖怪についての情報を思い出している間に意識から追いやってしまっていた。
「あら、そうなの? 珍しいわね、河童の里に行く人間なんて」
「河童の制作品でどうしても欲しいものがありまして……あはは」
「人間を拒む山に踏み込んでまで手にしたいものねえ……きっととても重要な何かなんでしょうね、阿求」
「どうでしょう……そうでもないような気も、します」
強く惹かれたとはいえ、一本のペンに過ぎないことも確かである。別に手に入らなくても私は明日も生きていけるし、幻想郷縁起を一字も書き進められなくなったりということもない。
「ふふっ……貴方からはなかなか面白い匂いがするわね。いつか落ち着いて話をしてみたいわ」
前半部分はよく理解できなかったけど、もっと話をしたいのは私も同じかもしれない。山の社会の仕組みなど、幻想郷縁起に書き加えたい疑問をいっぱい抱えてもいるし。
四
だんだんと斜面がきつくなるにつれて、身体の動きが悪くなってきた。休憩を挟む感覚も短くなっている。
「大丈夫、阿求……? この少し先にある川を渡れば、河童の里はすぐそこよ、頑張って」
「はぁ、はぁ……すみましぇん……ぜぇぜぇ」
もう頑張れません、と言いたい。しかしこんな所で止まったところで、あとあとさらに困るだけだ。動かないと……。
雛さんが持っていた水を分けてもらうと(私が持ってきた分はもう飲んでしまった)、大分ラクになった。まだへこたるわけにはいかないのだ。用事を済ませたらまた同じ距離を戻らなきゃいけないわけだし。
「もう大丈夫です。先に進みましょう」
大丈夫なの? と何度も聞く雛さんに行けることを示し、再び山道を登り始める。
体力がないのは阿礼乙女としての定めだ、それを恨むのは筋違いだけど……それにしてもひどい!
「川と橋が見えるかしら? あの橋を渡ったところの分かれ道を右に曲がれば、あとは河童の里まで緩い下り坂になるわ」
私の背丈ではまだ川も橋も見えないが、残りの距離が着実に短くなっているのは確かなようだ。疲れた頭は、「橋の先が緩い下りってことは、帰りは上り坂になるのか……」とどうでもいいことを考えていたけれど。
やがて川は私にも視認できるところまで近づき、ほどなくして私たちは橋の前にたどり着いた。
「着いたわ!」
登り切った……心なしか空気の味が変わったような気がする。やりとげた者を祝う、爽やかな空気だ。
「そういえば、あの分かれ道を左へ行くとどうなるんですか?」
「そっちは滝……そして神社へ繋がる道ね。この山としてはそっちのほうが主たる道よ」
そりゃそうか。山に入ってずっと一本道なんだから、道が二つに別れれば片方は必ず頂上へ向かう道だ。
「さあ阿求、そろそろ橋を渡って、河童の里へ最後のひと踏ん張りよ。早くしないと帰れなくなるのでしょう?」
そうだ、まだ着いたわけじゃないのだから、いつまでもここで油を売っている場合ではない。私と雛さんは橋の上へ、川の向こう側に向けて一歩踏み出した。
五
いきなりの出来事だった。
橋を渡り、対岸に足を踏み出さんとした私達の足元に、上から矢が突き刺さったのだ。
「さあ、怪我をしたくなかったらこれ以上進まず帰るんだ!」
一拍置いて鋭い声。上を見あげれば、ひとりの天狗が私たち目がけて飛び降りてきていた。
「哨戒天狗……! 私がいるのに、どういうことなの!?」
天狗の姿を目にして、雛さんが焦りの声をあげる。
哨戒天狗という言葉には聞き覚えがある。山社会の一員として、山の警備を担う天狗の総称だ(ブン屋からの受け売りだが)。いきなり攻撃してくるような連中なのだろうか……?
そう考える間にも天狗の体が私たちに迫ってくる。逃げようにも身体が固まってしまって動けない。
「ここは逃げるしかないわ。阿求、しっかり掴まってて!」
今にも天狗がぶつかってこようという瞬間、雛さんが私を軽く担ぎ上げ脱兎の如く逃げを打った。地面に着地する天狗が見えたが、その姿はあっという間に小さくなり、視認できなくなった。
「ひ、雛さん、もう大丈夫でしょう。だから、お、下ろしてもらえませんか?」
雛さんの背中を下り、地面にぺたんとお尻をついた。担がれていただけでも、けっこうな体力を使ったようだ。
「あれ、なんなんでしょう……いつもあんな感じなんですか……」
「そんなことはないはずよ。少なくとも、山の頂上に神社ができてからは……」
雛さんにも事情が掴めていないようだ。いったい山のなかで何が起きているのだろう。
そのとき、声が響いた。
「見つけたぞ!」
「「っ……」」驚きが共鳴。しかし先の逃走でふたりの体力はもう限界に近かった。なすすべなし。
たちまち、ふたりとも哨戒天狗たちに囲まれてしまう。さっきの天狗が仲間を呼んだのか、今度は数が増えている。一つくらいブン屋つながりで知った顔があればと思ったが、その期待も的外れのようだった。
「……まず、説明をしてもらおうかしら」
焦りを押し殺して雛さんが言う。そうだ、私も事情が知りたい。
神社ができる以前はともかく、今は参拝者が一定数通るはずだ。なのにこの厳重な警戒はどういうことだろう。
「今日は特別です。半刻ほど前にここを突破した人間が山中で弾幕を四方八方へ撃っているのです。現在の警戒度は天狗級……ああ、いま鬼神級に上がりました」
……どうやら来る日を間違えてしまったようだ。お騒がせ者氏には後日たっぷり恨み言を言わせてもらおう。弾幕を撃てる人間なんてそういない。少し調べればすぐに誰のしでかしたことか分かるはずだ。
さしあたっての問題はこの場を切り抜けること。もちろん今すぐに山を出ればあちらも引いてくれるだろうが……。
「阿求は河童の工房に用があるだけよ、弾幕魔とは何の関係もないわ」
雛さんが擁護してくれるが、これで通してくれるようなら……最初から見咎めたりしないだろう。
「その判断を許されているのは上の者だけです。そしてそういう立場の天狗は皆弾幕魔の方に行っています」
あくまで自分たちは手足でしかないということか。山社会の規律も見上げたものだ。
「雛さん、どうしましょう……」
「ふたりで切り抜けるのは無理そうね。仕方ないわ、私が戦うから、阿求は先を行って頂戴」
「それは……」「このままだとふたりともやられるわ、早く!」
雛さんの声に余裕がなくなっている。決断を迫られていた。
「……雛さんごめんなさい。今日はありがとうございましたっ」
云うなり全速力で河童の里へ向けて走りだした。途端に天狗から弾幕の雨が降り注ぐ。
「…………!!」雛さんが何かを叫んだ。私を目がけて飛んできていた弾幕がはじけ飛ぶ。心の中で雛さんにありがとうと叫び、また走りだした。
初撃を防がれた天狗の攻撃は更に激しくなった。怖くて振り向けないが、後ろで弾幕のぶつかり合う音がさっきよりも大きく聞こえてくる。
雛さんの気持ちを無駄にしないために、絶対に無事に河童の里までたどり着く……だが足は疲れで思うように動かず、頭は血が足らなくてクラクラとし始めていた。
また一段と大きな爆発音が響き、私は道の先に門と塀が見えていることに気づいた。ついに河童の里が視認できるところまで来たのだ。
その時である。足元に弾幕が飛び込んできたのだ。さっきの大きな爆発で、遠いこの場所まで流れ弾が飛んできてしまったのだろう。
驚いた足がもつれ合い、私は前のめりに倒れこんでしまった。一回、二回、三回と地面を転がり、そのまま土の上に叩きつけられた。
「うう……ぐぐぃ……」
呼吸が止まり、言葉にならない声を漏らす。全身から伝わる痛みから、あちこち擦りむいているのが分かった。
死ぬ思いをして目指した河童の里は眼前に迫っている。ともすれば門に手が届きそうな距離だ。だがやっと戻ってきた呼吸は絶え絶えで、腕には体を起こす力すら残っていないようだった。
「なにもせずに帰れるもんですか……」
そう言葉には出してみたが、確実に意識が薄れつつあるのが分かった。
「雛さん、ごめんなさい、私……」
前の方から聞こえてきた「……うした、盟友じゃな……か! おい、……ろ!!」という声を背に、私の意識はゆっくりと消失した。
六
「あはは、それで肝心の万年筆は作ってもらえたんですか?」
面白くてしょうがない、という表情で続けてブン屋が聞いてくる。横臥しているこちらの身にもなってくれと言いたくなるが、あまりに屈託の無い笑顔なので、その気持ちもすぼんでしまう。
「いえ……お願いする前に気を失ってしまいましたから」
あははは、と更に大きな声で彼女が笑った。訂正、やっぱりこの笑顔には一言物申したい。
「というか、わざわざ貴方が妖怪の山まで行かなくても、私に頼んでくれれば良かったんですよ」
もっともな指摘だ、と思う。それでも、私は一人で河童の里へ向かい、万年筆の製造をお願いしてこねばならなかったのだ。
「文筆家なら道具にはゼロから目をかけるべきと思いましてね。でもさすがに今回の行動は身の丈に合っていなかったようです」
「……あは」
彼女が破顔した。あまりの唐突さに、思わず口を開けて彼女を凝視してしまう。そんなに変なことを言っただろうか。ま、まあ若干クサかった気もするけど……。
「ふふ、『文筆家なら道具にはゼロから目をかけるべき』ですか……久しぶりに聞きましたよ、その言葉」
笑いをこらえるようにして、ブン屋が言った。私には、その言葉の意味は理解しかねた。
「前にも……言ったことありましたっけ?」
いちおう聞き返してみるが、そんなことがないのは私が一番よく知っている。そのようなシーンが過去にあれば必ず記憶している、それが私の能力だ。
「貴方から聞いたことは……ふふっ、なかったかもしれませんね。」
思わせぶりな台詞だったが、私はそれだけで全てを理解することができた。
「言う時の顔は、貴方がいちばん凛々しかったですよ」
ブン屋にそう言われて、擦り傷も切り傷も、筋肉痛や関節痛も、なんだかどうでもいいような気分になってきたのだった。
気がつくと、縁側にブン屋が座っていた。
どうやら、少し眠ってしまっていたようだ。幺樂団の曲が流れっぱなしになっているレコードプレイヤーを止めて、寝起きの重たい体を安楽椅子から縁側へと運ぶ。
「来てたなら、声をかけてくれれば良かったのに」
ブン屋こと射命丸文がこの稗田家を――この稗田阿求を訪ねてくるのは珍しいことではない。というより、来ない日のほうが少ないくらいだ。
「貴方が思っているほど待ちぼうけを食ってたわけでもありませんよ、いま来たばかりです」
「そうですか、それなら良かった。いまお茶を用意させますね」
女中を呼んで、紅茶と茶菓子をお願いする。相手によっては緑茶を用意することもあるが、彼女は私と同じく紅茶党である。
「お茶がくるまでに、お互いの用事を済ましておきましょうか」
さっきからすでに手帳とペンを持って臨戦態勢のブン屋にそう言って、安楽椅子の傍らからノートを取ってきた。
私と彼女はビジネスライクな関係、といえるのかもしれない。私は幻想郷縁起のために妖怪たちの情報を求めているし、彼女は新聞記事のために人里の話題を求めている。
もっとも、私にとって彼女の存在はもっと大きなものとなりつつあるのだが……。
幻想郷縁起の記述が完成に近づいていることもあり、年を重ねるにつれて外を出歩くことが少なくなった。目まぐるしく日々を送る者たちにとって、既に私は世界の外の存在である。わざわざ訪ねてくるような人も徐々に減り、いまや彼女だけと言っても過言ではない。取材対象でも、茶飲み友達でもなんでもいい。私という存在を気にとめてくれる人が居るということが嬉しいのである。
「……こんなところですかね、最近の話題というと」
「ふむふむ、最近これといって大きな事件が起こってないですね……。近々大きな騒ぎが起こる予兆でしょうか」
私が人里の近況を語り終えると、ブン屋はわくわくした様子で感想を述べ、メモをする手を止めた。ペンを傍らに置き、話の途中に来ていた紅茶へと手を伸ばす。
「あれ、ペンを新調されたんですか?」
彼女のペンが今まで私が見たことのないものに変わっている。以前からペン選びのセンスがいいなあ、と思っていたが、今度のものもとてもお洒落だ。
「お、目聡いですね。河童の里の最新作なんですけど、ペン先に新素材が採用されて、書き味がかなり向上してるって話題ですよ」
みてみて、というように目の前にぐいとペンが差し出される。黒いシックなボディが眼前に迫った。
近くで見てみるとその美しさがさらによく見て取れた。彼女に了解を取って書き味を試してみると、確かに驚くほど滑らか。体の一部のように手になじむ設計や先進的なデザイン、機能性……幻想郷で唯一のものと言ってもいいだろう。
「今はまだオーダーメイドだけらしいんですけどね。大量生産の準備ができてないそうで」
「ということは、河童の里まで行って直接お願いしないとだめですか……」
稗田家から河童の里までの道程を思い浮かべる。人里から妖怪の山の麓までが一里から二里、さらに山の中腹にある河童の里まできつい山道……とてもじゃないが私には歩けそうもない。
「私も欲しいですけど、河童の里は遠すぎますね……」
「本人が行かないと作ってくれませんからね……完璧主義もここまで来ると呆れるしかないというか、いやはや」
河童製の商品の一部はこのペンみたいなオーダーメイド方式で作られているが、それを注文する場合は本人が河童の工房まで行って職人と会い、一から仕様を話し合わなくてはならない。
紅茶を飲み終えるまで会話を交わすと、ブン屋は次の取材に向けて飛び去っていった。「どうしても欲しかったら言って下さい。河童と交渉してきますよ」と言い残していったその背中を見送りながら、私はひとつの決意を胸に秘めていたのであった。
二
人里の外に出るのは久しぶりだ。建物が建ち並び、人々が動き回っている光景が少し離れるだけで見違えたようになる。見渡す限りの平原が広がり、晴れ渡った空に浮かぶ太陽からは光がさんさんと注していて、麦わらをかぶっていてもそれはよく感じられる。もう少し行程が短ければ、絶好のピクニック日和だと云って喜ぶことができたのだろうけど……。
ブン屋はああ言ってくれたが、私は自分の足で河童の里まで行くことを選んだ。頼みづらかったとかそういうわけじゃないのだけど……いわく言い表し難い気持ちに突き動かされて、私はいまこうして歩いているというわけだ。
ま、まあ三里近い距離を考えると少し早まった気もするけど……。
「行くしかないです!」
ひとりごちて気合を入れる。すると道脇の高く伸びた草陰から声が上がった。
「妖怪の山へ行かれるのですか?」
がさがさと草葉をかき分けて声の主が現れる。
「あら、あなた達は……」紅葉と豊穣、二人の神様姉妹だった。
「そう、神様です。なんつって」姉のほうがおどけてみせる。
「もうお姉ちゃんってば。あれ、あなたもしかして前に話を聞きにきた……?」
「そ、そうです。稗田阿求です」
このふたりとは幻想郷縁起の取材以来だ。しかし前に会った時もそうだったが、このふたりは神様らしい雰囲気が全く感じられない。いま声をかけられたときも、最初は普通の人間かと思ってしまった。
「人里から歩いてきたんですけど……山まではあとどのくらいですか?」
「ここは妖怪の山まで……、だいたい半里って感じかなあ」
意外と早く歩けているようだ。この分なら、暗くなる前に帰れるかもしれないな、とぼんやり考える。
「ところで、阿求さんは山の上の神社に用事ですか」
「もしかして、入信したとか?」
「違います! 今日は河童の里に用事がありまして」姉妹ステレオに突っ込みで返す。
「なるほど、道のりは長いですが頑張ってください」
「さっき分けてもらったからひとつあげますね、頑張って」
姉妹と手を振り合って別れる。焼き芋の差し入れまで貰ってしまった。だが頑張ろうという気持ちが大きくなったのは事実だ。オーラのない神様でも人を元気づけてくれるんだなーと実感した。
芋をかじりながらさらに歩を進めると、山の姿が大きく近づいて、大きな影が小さな私を覆おうとするまでになった。さきほどの残念な姉妹とは比べ物にならない圧力が山から感じられる。
妖怪の山。その入口は昼間だというのに繁った木々で暗くなっていて、人間の来訪を拒む妖気みたいなものがひしひしと感じ取られる。
しかし、行かねばならぬ。ブン屋が持っていたあの万年筆、あれを見たときの胸の高鳴りは言葉で言い表せないほどだった。絶対に手に入れねばならぬと心に誓った。
だから、進むだけだ。
三
「もし、そこの可憐な人間のお嬢さん」
背後から声をかけられた。今日はよく声をかけられる日だ。
「神社へ行くのでしょう。私にぜひ案内させて下さるかしら」
そして神社へ行くものとも間違えられる日である。
振り向くとゴスロリ少女が立っていた。おおよそ山には不釣り合いな格好から、おそらく妖怪だろうと当たりをつける。しかし迷いの竹林でもないのに、案内が必要なことなんてあるのだろうか。
「私は厄神の鍵山雛と申します。この山は若い血気盛んな妖怪も多いですから、私がご一緒した方が安全だと思いますが……」
なるほど、案内人というより身辺警護ということか。確かに妖怪の山の妖怪は人間界と隔絶された生活を送っているだけあって、よその妖怪ほど思慮深くないという話も聞く。ここはお願いしておくのが吉かもしれない。
「そうですね……ではお願いします。えっと……鍵山さん」「雛でいいわ」
速攻で訂正された。「雛さん、よろしくお願いします……あ、私の名前は稗田阿求といいます」
「こちらこそお願いするわ、阿求」
狭い山道なので並んで歩くことはできず、前に雛さん・後ろに私という隊列(ふたりしかいないけど)で進むことにした。
「あ、そうだ……」「? どうかしたの」
「言い忘れてたんですけど、私が行きたいのは神社じゃなくて河童の里です」
さっきから訂正しようと思っていたのだが、山の妖怪についての情報を思い出している間に意識から追いやってしまっていた。
「あら、そうなの? 珍しいわね、河童の里に行く人間なんて」
「河童の制作品でどうしても欲しいものがありまして……あはは」
「人間を拒む山に踏み込んでまで手にしたいものねえ……きっととても重要な何かなんでしょうね、阿求」
「どうでしょう……そうでもないような気も、します」
強く惹かれたとはいえ、一本のペンに過ぎないことも確かである。別に手に入らなくても私は明日も生きていけるし、幻想郷縁起を一字も書き進められなくなったりということもない。
「ふふっ……貴方からはなかなか面白い匂いがするわね。いつか落ち着いて話をしてみたいわ」
前半部分はよく理解できなかったけど、もっと話をしたいのは私も同じかもしれない。山の社会の仕組みなど、幻想郷縁起に書き加えたい疑問をいっぱい抱えてもいるし。
四
だんだんと斜面がきつくなるにつれて、身体の動きが悪くなってきた。休憩を挟む感覚も短くなっている。
「大丈夫、阿求……? この少し先にある川を渡れば、河童の里はすぐそこよ、頑張って」
「はぁ、はぁ……すみましぇん……ぜぇぜぇ」
もう頑張れません、と言いたい。しかしこんな所で止まったところで、あとあとさらに困るだけだ。動かないと……。
雛さんが持っていた水を分けてもらうと(私が持ってきた分はもう飲んでしまった)、大分ラクになった。まだへこたるわけにはいかないのだ。用事を済ませたらまた同じ距離を戻らなきゃいけないわけだし。
「もう大丈夫です。先に進みましょう」
大丈夫なの? と何度も聞く雛さんに行けることを示し、再び山道を登り始める。
体力がないのは阿礼乙女としての定めだ、それを恨むのは筋違いだけど……それにしてもひどい!
「川と橋が見えるかしら? あの橋を渡ったところの分かれ道を右に曲がれば、あとは河童の里まで緩い下り坂になるわ」
私の背丈ではまだ川も橋も見えないが、残りの距離が着実に短くなっているのは確かなようだ。疲れた頭は、「橋の先が緩い下りってことは、帰りは上り坂になるのか……」とどうでもいいことを考えていたけれど。
やがて川は私にも視認できるところまで近づき、ほどなくして私たちは橋の前にたどり着いた。
「着いたわ!」
登り切った……心なしか空気の味が変わったような気がする。やりとげた者を祝う、爽やかな空気だ。
「そういえば、あの分かれ道を左へ行くとどうなるんですか?」
「そっちは滝……そして神社へ繋がる道ね。この山としてはそっちのほうが主たる道よ」
そりゃそうか。山に入ってずっと一本道なんだから、道が二つに別れれば片方は必ず頂上へ向かう道だ。
「さあ阿求、そろそろ橋を渡って、河童の里へ最後のひと踏ん張りよ。早くしないと帰れなくなるのでしょう?」
そうだ、まだ着いたわけじゃないのだから、いつまでもここで油を売っている場合ではない。私と雛さんは橋の上へ、川の向こう側に向けて一歩踏み出した。
五
いきなりの出来事だった。
橋を渡り、対岸に足を踏み出さんとした私達の足元に、上から矢が突き刺さったのだ。
「さあ、怪我をしたくなかったらこれ以上進まず帰るんだ!」
一拍置いて鋭い声。上を見あげれば、ひとりの天狗が私たち目がけて飛び降りてきていた。
「哨戒天狗……! 私がいるのに、どういうことなの!?」
天狗の姿を目にして、雛さんが焦りの声をあげる。
哨戒天狗という言葉には聞き覚えがある。山社会の一員として、山の警備を担う天狗の総称だ(ブン屋からの受け売りだが)。いきなり攻撃してくるような連中なのだろうか……?
そう考える間にも天狗の体が私たちに迫ってくる。逃げようにも身体が固まってしまって動けない。
「ここは逃げるしかないわ。阿求、しっかり掴まってて!」
今にも天狗がぶつかってこようという瞬間、雛さんが私を軽く担ぎ上げ脱兎の如く逃げを打った。地面に着地する天狗が見えたが、その姿はあっという間に小さくなり、視認できなくなった。
「ひ、雛さん、もう大丈夫でしょう。だから、お、下ろしてもらえませんか?」
雛さんの背中を下り、地面にぺたんとお尻をついた。担がれていただけでも、けっこうな体力を使ったようだ。
「あれ、なんなんでしょう……いつもあんな感じなんですか……」
「そんなことはないはずよ。少なくとも、山の頂上に神社ができてからは……」
雛さんにも事情が掴めていないようだ。いったい山のなかで何が起きているのだろう。
そのとき、声が響いた。
「見つけたぞ!」
「「っ……」」驚きが共鳴。しかし先の逃走でふたりの体力はもう限界に近かった。なすすべなし。
たちまち、ふたりとも哨戒天狗たちに囲まれてしまう。さっきの天狗が仲間を呼んだのか、今度は数が増えている。一つくらいブン屋つながりで知った顔があればと思ったが、その期待も的外れのようだった。
「……まず、説明をしてもらおうかしら」
焦りを押し殺して雛さんが言う。そうだ、私も事情が知りたい。
神社ができる以前はともかく、今は参拝者が一定数通るはずだ。なのにこの厳重な警戒はどういうことだろう。
「今日は特別です。半刻ほど前にここを突破した人間が山中で弾幕を四方八方へ撃っているのです。現在の警戒度は天狗級……ああ、いま鬼神級に上がりました」
……どうやら来る日を間違えてしまったようだ。お騒がせ者氏には後日たっぷり恨み言を言わせてもらおう。弾幕を撃てる人間なんてそういない。少し調べればすぐに誰のしでかしたことか分かるはずだ。
さしあたっての問題はこの場を切り抜けること。もちろん今すぐに山を出ればあちらも引いてくれるだろうが……。
「阿求は河童の工房に用があるだけよ、弾幕魔とは何の関係もないわ」
雛さんが擁護してくれるが、これで通してくれるようなら……最初から見咎めたりしないだろう。
「その判断を許されているのは上の者だけです。そしてそういう立場の天狗は皆弾幕魔の方に行っています」
あくまで自分たちは手足でしかないということか。山社会の規律も見上げたものだ。
「雛さん、どうしましょう……」
「ふたりで切り抜けるのは無理そうね。仕方ないわ、私が戦うから、阿求は先を行って頂戴」
「それは……」「このままだとふたりともやられるわ、早く!」
雛さんの声に余裕がなくなっている。決断を迫られていた。
「……雛さんごめんなさい。今日はありがとうございましたっ」
云うなり全速力で河童の里へ向けて走りだした。途端に天狗から弾幕の雨が降り注ぐ。
「…………!!」雛さんが何かを叫んだ。私を目がけて飛んできていた弾幕がはじけ飛ぶ。心の中で雛さんにありがとうと叫び、また走りだした。
初撃を防がれた天狗の攻撃は更に激しくなった。怖くて振り向けないが、後ろで弾幕のぶつかり合う音がさっきよりも大きく聞こえてくる。
雛さんの気持ちを無駄にしないために、絶対に無事に河童の里までたどり着く……だが足は疲れで思うように動かず、頭は血が足らなくてクラクラとし始めていた。
また一段と大きな爆発音が響き、私は道の先に門と塀が見えていることに気づいた。ついに河童の里が視認できるところまで来たのだ。
その時である。足元に弾幕が飛び込んできたのだ。さっきの大きな爆発で、遠いこの場所まで流れ弾が飛んできてしまったのだろう。
驚いた足がもつれ合い、私は前のめりに倒れこんでしまった。一回、二回、三回と地面を転がり、そのまま土の上に叩きつけられた。
「うう……ぐぐぃ……」
呼吸が止まり、言葉にならない声を漏らす。全身から伝わる痛みから、あちこち擦りむいているのが分かった。
死ぬ思いをして目指した河童の里は眼前に迫っている。ともすれば門に手が届きそうな距離だ。だがやっと戻ってきた呼吸は絶え絶えで、腕には体を起こす力すら残っていないようだった。
「なにもせずに帰れるもんですか……」
そう言葉には出してみたが、確実に意識が薄れつつあるのが分かった。
「雛さん、ごめんなさい、私……」
前の方から聞こえてきた「……うした、盟友じゃな……か! おい、……ろ!!」という声を背に、私の意識はゆっくりと消失した。
六
「あはは、それで肝心の万年筆は作ってもらえたんですか?」
面白くてしょうがない、という表情で続けてブン屋が聞いてくる。横臥しているこちらの身にもなってくれと言いたくなるが、あまりに屈託の無い笑顔なので、その気持ちもすぼんでしまう。
「いえ……お願いする前に気を失ってしまいましたから」
あははは、と更に大きな声で彼女が笑った。訂正、やっぱりこの笑顔には一言物申したい。
「というか、わざわざ貴方が妖怪の山まで行かなくても、私に頼んでくれれば良かったんですよ」
もっともな指摘だ、と思う。それでも、私は一人で河童の里へ向かい、万年筆の製造をお願いしてこねばならなかったのだ。
「文筆家なら道具にはゼロから目をかけるべきと思いましてね。でもさすがに今回の行動は身の丈に合っていなかったようです」
「……あは」
彼女が破顔した。あまりの唐突さに、思わず口を開けて彼女を凝視してしまう。そんなに変なことを言っただろうか。ま、まあ若干クサかった気もするけど……。
「ふふ、『文筆家なら道具にはゼロから目をかけるべき』ですか……久しぶりに聞きましたよ、その言葉」
笑いをこらえるようにして、ブン屋が言った。私には、その言葉の意味は理解しかねた。
「前にも……言ったことありましたっけ?」
いちおう聞き返してみるが、そんなことがないのは私が一番よく知っている。そのようなシーンが過去にあれば必ず記憶している、それが私の能力だ。
「貴方から聞いたことは……ふふっ、なかったかもしれませんね。」
思わせぶりな台詞だったが、私はそれだけで全てを理解することができた。
「言う時の顔は、貴方がいちばん凛々しかったですよ」
ブン屋にそう言われて、擦り傷も切り傷も、筋肉痛や関節痛も、なんだかどうでもいいような気分になってきたのだった。
でも、良かったです
面白かったですが。