七月七日。俗に言う七夕と呼ばれる今日、我が永遠亭はどこもかしこも慌しく、そして喧騒に包まれている。
誰も彼もが七夕の準備で大忙し。
てゐを筆頭にしたウサギたちは願いを短冊に吊るす為に竹を調達したり、あるいは飾りを作ったり短冊を書いたりと、なんとも元気なことだ。
あたりはすっかり夜闇に沈み、空には目を奪われるような満天の星空が広がっている。
この時期にしか見ることのできない、天の川を地上の者に見せ付けるように。
そんな中、私こと鈴仙・優曇華院・イナバは姫と一緒に離れの縁側で隣り合って座っていた。
ここはほかのウサギたちの声も遠く、幾分と静かで虫の鳴き声も聞こえてきてとても涼しい。
夏であるにもかかわらず、風があって涼しいこの場所は、姫の―――蓬莱山輝夜のお気に入りの場所らしかった。
「イナバの髪は綺麗ね」
鈴の音のような声を紡いで、姫は私の髪をさらさらとなでる。
姫の細い指がまるで櫛のように髪の間に入り込んで、壊れ物を扱うような丁寧さで弄んでいた。
その言葉が恥ずかしいのか、それとも嬉しかったのか、あるいはその両方か。
私は顔が赤くなっていくのを自覚しながら、「ありがとうございます」と紡ぐのが精一杯で。
そんな私を見て、姫はコロコロとおかしそうに笑う。
この方は人をからかって遊ぶのが大好きなお方だから、時折このような戯れを言葉にする。
それでいて、彼女は私の髪で遊ぶのをやめはしない。
私も髪は特に手入れしているほうだけれど、到底、姫に及ぶようなものじゃない。
彼女の鴉の塗れ羽色の髪は艶やかで、さらさらと風に乗って流れても纏まりを失わないその光景は、言葉で表すには惜しい程に綺麗だ。
だからこそ、私は姫に髪を褒められたことを嬉しく思うべきなのか、それとも恥じるべきなのか、判断に悩むわけで。
「姫の髪も、とても綺麗だと思います」
「当然。私以上に綺麗な髪をしてるやつなんて、早々いないでしょう」
私の賛辞の言葉にも、姫はむしろ当然といった風に胸を張った。
その自信はいったいどこから出てくるのやら。けれども、その言葉を真実だと裏付けるように、姫のその姿は言い知れない何かがある。
こういうのを、カリスマとでもいうのだろうか。あいも変わらず私の髪を弄って遊ぶ姫だけれど、クスクスと笑うその姿はこちらの心を覗き込んでいるようで。
「だから、素直に喜びなさい。この私が褒めているのだから、自分に自信を持ってしゃんとなさいな。
あなたは優秀だけど、自身を過小評価しすぎる。この私や、霊夢や魔理沙ぐらいには自分に自信を持ちなさい」
「……なんかいきなりハードルが高すぎるんですが」
「冗談よ。まぁでも、私たちの三割ぐらいは自身を持っていいと思うけれどね」
相変わらず楽しそうに笑う姫を見て、私はげんなりと脱力してうなだれる。
よっぽど気に入ったみたいで、私の髪に手櫛をやめないまま、姫は上機嫌に空を見上げた。
私も釣られて空を見上げてみれば、やっぱりそこには目を奪われる星という名の宝石の海。
一年に限られた期間しか見ることのできない、誰もが美しいと思う壮観な星の川。
目が、釘付けになる。
思わずうっとりとした様な吐息がこぼれたのを感じながら、輝きに満ちた世界に視線が奪われて。
隣で姫が苦笑したのがわかったけれど、けれど彼女も何も指摘しないまま、ただじっと空を見上げている気配がする。
どれくらいそうしていただろう。
唐突に、ポツリと姫が言葉をこぼし始めた。
「昔はね、この時期にお爺さんとこうやって空を見上げたものだわ」
「竹取の翁さんとですか?」
「ふふ、あなた達にしてみればそういうことになるかしらね」
隣で、姫が笑う気配がする。
そちらに振り向けば、やっぱり姫は楽しそうにクスクスと笑っている。
こちらに視線を向けて、どこか懐かしむように瞳を閉じて、彼女は「本当に、懐かしいわ」とつぶやいて。
いつの間にか、さらさらと撫でていてくれた手は離れてしまっていて、それが少し名残惜しい。
「家が貧しかったころは外に出てまで見上げたものだわ。家のそばにあった大きな切り株に座ってね、お爺さんとお婆さんと、そして私とで。
それから裕福になった後でも、こうやってこの空を見上げるのは欠かさなかった」
「どうして、ですか?」
「あら、美しいものを愛でるのに理由なんて必要かしら?」
それが当然といわんばかりに、当たり前であると言うかのように、姫はそんな言葉を紡ぎだした。
彼女にとってはそれは当たり前のことで、半ば習慣と課してしまった癖みたいなものなんだろう。
姫は相変わらず笑っていて、つんつんと私のおでこをつつく彼女は上機嫌だ。
なんだか、我が子を可愛がる母親みたいだなーなんて、そんなことをぼんやりと思ってしまう。
存外に子供が好きなお方だから、どこか母親を思わせるこういう仕草は元からみたい。
「でもまぁ、今の本当のところを言うとね」
ぐるりと、世界が回る。
何が起こったのかわからぬままに気がつけば、後頭部には柔らかな感触と、視線の先には姫の顔と星の川、頬にはひんやりとした姫の掌。
彼女に膝枕をされたんだと理解した瞬間、私は羞恥のあまりにトマトみたいに顔を真っ赤にさせてしまった。
そんな私の反応が面白かったみたいで、姫は童女みたいに楽しそうで。
「お爺さんとお婆さんとの思い出をさ、少しでも残しておきたいのよ」
けれどもその言葉で、その笑顔にどこか陰りがあるのだと気がついてしまった。
楽しそうに笑っているけれど、けれどもどこか悲しそうな、そんな矛盾した感情を抱かせるその笑顔。
姫は、そんな泣き笑いのような表情のまま空を見上げた。
そしてまた、彼女はさらさらと私の髪を撫でてくれる。
「私ね、もう二人の顔をほとんど覚えてないのよ。千年も生きていれば仕方ないのかもしれないけれど、でも気持ちが納得してはくれないわ。
あんなに大好きだったのに、あんなに愛しかったのに、あんなにも家族で在れたと実感できた人たちだったのに―――今はもう、顔も思い出せないの」
その言葉は、まるで血を吐き出すかのような悔いに満ちた言葉で。
今にも泣き出してしまいそうな、そんな声で。
きっと姫は、自分を愛してくれた人たちを忘れそうになっている自分自身が許せない。
不死とは、えてしてそういうものなのかもしれない。
体はたとえ不滅であったとしても、あやふやな記憶まではどうしようもないはずだ。
だから、消えていく。古くなってしまった情報が淘汰されていき、大事に保管していた思い出すら色あせて朽ち果てていく。
それはなんて―――残酷なことだろうか。
リーンリーンと、どこかで虫のなく音だけが静寂を満たす。
ここからでは姫がどんな顔をしているのか伺い知ることはできなくて。
言葉を紡ごうとした喉が、何を声にすればいいかわからなくて、結局何も紡げないまま黙るしかなくて。
なんと不甲斐ないことか。姫は今悲しんでいるのに、従者である私がそれを慰めることもできないなんて、笑い話にもなりはしない。
「お婆さんがね、こうやって膝枕をしてくれたわ。星を見上げる私の髪を撫でて、「かぐやの髪はきれいだね」って、言ってくれたのよ。
それがね、それだけの言葉がね、すごく嬉しかったのよ。そのしわがれた声で紡がれた言葉が、私にはどんな求婚の言葉よりも価値のあるものだった。
それなのにね、思い出せないのよ。その時のお婆さんの顔が、隣に座っていたおじいさんの顔も」
ポツポツと、姫は言葉をこぼしていく。
涙を流さない代わりに、まるで懺悔の様なその声を涙の代わりにして。
色あせていく記憶。抜け落ちていく思い出。それは大切な宝物のはずなのに、ボロボロと虫食いのように時の流れは蝕んでいく。
いつの頃だろうか。師匠が「時の流れは残酷だ」と、私に告げたことを思い出していた。
今なら、私自身も理解できる。だって、涙こそ流してはいないけれど、姫は今泣いているんだから。
「きっと、笑ってましたよ」
だからこそ、私がまた姫を笑顔に戻してあげないと。
姫に悲しんでほしくない。姫には笑っていてほしい。だからこそ私は、今も永遠亭にいるのだから。
みんなそうだ。師匠はもちろん、私も、てゐも、そしてきっと他のウサギたちも。
みんな姫が好きだから、ここにいる。
だからこそ、今ここにいる私がみんなを代表して笑顔に戻してあげなくてどうするというのか。
姫にしては珍しく驚いた様子で、私のほうを振り向いた。
今にも泣き出しそうな瞳は私の目を離さずに、ただただ不思議そうに覗き込んでいる。
私は、姫の言うお爺さんやお婆さんのことをよく知らない。
けれども、これだけは―――自身を持って口にできる。
「さっき私の髪を綺麗だといってくれた姫は、とても優しそうに笑っていました。私の髪を撫でながら、どこか楽しそうに。
だから、お爺さんもお婆さんも笑ってたに違いないんです。だって姫は、お二人の娘さんなんですから」
どんなに生まれ故郷が離れていたとしても、たとえ血の繋がりがなかったとしても、姫は間違いなく二人の娘なんだ。
種族が違うなんて関係ない。血の繋がりなんて、そんなの瑣末ごとだ。
だって、姫がお二人の話をするときはいつも幸せそうだった。
数々の思い出を語る姫の表情はどれも生き生きとしていて、どれも嬉しそうで。
だから、二人がどれだけの思いで姫を育てたのか、想像するのは容易で。
あくまで想像でしかない、なんてことのない言葉かもしれない。
けれども、姫の頭を撫でていた二人の表情はきっと、私の頭を撫でてくれた姫と同じように笑っていたと思うから。
血の繋がりのない、けれどもそれ以上の確かな絆でつながっている、親子だからこそ。
「そっか」
さらりと、姫が私の髪を撫でてくれる。
するりと抜け出した姫の言葉はどこか晴れやかで、けれどもにじむ涙は止まらなくて。
「そうよね」
その涙を、私は腕を伸ばして拭う位しかできない。
あとはそう、こうやって姫になされるがままに髪を弄られるくらいだろう。
けれども、どんどんあふれてくる姫の涙は拭い切れなくて。
「私は、あの人たちの娘だもの」
けれども、その声はこんなにも嬉しそう。
ぽろぽろとこぼれる雫は、私の頬に落ちて伝っていく。
泣いているけれど、けれども必死に笑みを浮かべようとする姫が、今はこんなにも愛おしい。
「だから、きっと二人も笑ってたんです」
「私が、あなたを撫でてあげたときと同じように?」
「間違いありませんよ。だって私は、姫の子供みたいなもんですから」
「本当、イナバの癖に生意気だわ。私を泣かせるなんて、絶対に許さないんだから」
言葉はまるで脅してるようだけれど、けれども今はぜんぜん怖くなくて。
でも、参った。笑顔に戻したかったのに、泣かれてしまうなんて予想外にも程がある。
姫が涙を拭って、私の顔を覗き込む。目はまだ涙をこぼしたせいで赤いけれど、それでも精一杯の笑顔を浮かべながら。
「ありがとう」
そんな言葉を、私の耳元でつぶやいてくれた。
そうして、私たちはお互いに噴出した。
さらさらと姫が私の髪を弄る感触に身をゆだねながら、二人して満天の星空を見上げた。
今日は七夕だ。きっと何処もかしこもお祭り騒ぎに違いない。
だからまぁ、今日くらいはこんなことがあったっていいんじゃなかろうかと、しがないウサギは愚考するわけである。
「ねぇ、イナバ。これからもずっと、私と一緒にいてくれる?」
「もちろんですよ。言ったでしょう、私は姫の子供みたいなもんだって」
「あら、子供はすべからく親離れをするものだわ」
「いいんですよ。私は姫のそばが一番いいんですから」
そんな私の言葉を聞いて、姫は「わがままな子ね」と微笑んだ。
私も笑顔を浮かべて「たまにはわがままになったっていいじゃないですか」なんて、そんな言葉を返している。
ふと、姫が小指を差し出した。私が小首をかしげていると、彼女は相変わらずクスクスと笑みをこぼす。
「それじゃ、ゆびきりげんまんよ」
「あはは、なんだか子供みたいですね」
「たまにはいいわよ。こういった子供の約束もね」
楽しそうな姫の言葉に、私も「そうですね」と同意して小指を差し出し、そしてお互いに絡め合わせる。
先ほどの宣言のとおり、きっと私はいつまでも彼女のそばに居続けることだろう。
これはもう自分で決めたこと。自分で姫とともに居たいと願った、臆病なウサギの決意。
だから、私は願う。
これからもずっと、未来永劫に、姫とともに幸せな未来を歩んで行きたいと。
いつまでもずっと、姫と笑いあっていたいと。
「ゆーびきーりげーんまん、嘘ついたら針千本飲~ます! ゆーび切断ッ!!」
「怖ッ!!?」
―――例えそれが、私の寿命が先に尽きてしまうが故に、叶わぬ願いであったとしても―――
それくらい良かったです
昔のここに比べると姫うどんが少しずつ増えていってるような気がしないでもないです。
心地よい空間でした。
ああ、いつから我々は時間に使われるようになってしまったのか。
最後の一文が切ないです……
切ない
ひれ伏したいと思いますorz
切断!
小説げっしょーでも良い雰囲気だった姫うどんはいいものだ。
切断!
誤字?いや元の文のままでも意味が通る気がしないでもない。
>私たちの三割ぐらいは自身を→自信