欠けた月を仰ぎ見て左手をかざすと、まるで弓手(ゆんで)が弦(つる)を弾くように、影はぴたりと当てはまった。
彼の小さな左手の中で、数粒の砂糖菓子は黄金色を降り注がせる月に照らされて、みな一様に沈黙した感触でいる。赤や、黄色や、白色をしているはずのそれは、夜の中ではどれもすべて黄金色に染め上げられ、全身に突き出した小さく甘やかな角も、その先端を薄い暗みに煙らせている。隣で、少年の手を引いている銀色の髪の女が、懐にした小袋から取り出して少年にくれたものだが、彼は、その砂糖菓子の名前を知らなかった。
「これをあげる」
出発の前、女が身を屈ませ小袋から取り出した十数粒のそれを、少年の手に握らせた。
大事な宝物だとでも言うように。
もう二度と手に入れられないものであるというのを、しっかりと心得させるように。
「これ、なに」
「金平糖という。甘くて、とても美味しいんだ」
手の中に広がった十数粒の、その金平糖を、試しに一粒だけ口の中に放り込んでみた。
小さな歯はがりりと砂糖のかたまりを噛み潰し、ざらついた粗い甘味が舌の上を転がっていった。最初、その心地よさをたちの悪い幻じゃないかと疑った。そういうものを、少年は口にしたことがない。それこそ、狐に化かされているのじゃないかと。唾液と混ざり込んで薄まっていく甘味をたっぷりと時間をかけて飲み下してから、握りしめていた手の中身を見つめた。同じような甘さが、未だたくさん残っていた。少年は、ひどく嬉しがった。
そして、自分にその金平糖という菓子をくれた女のことが、直ぐに好きになった。
彼女は今、彼の右手をゆるい力で握りしめ、半歩も先を歩いている。ふたりは、村の外れから外れに歩いて行った。いつの間にか、家族の誰もが指をくわえて眺めることしかできなくなっていた田畑が、もうあんなにも遠くなっている、と、後ろを振り向いて思う。少年が立ち止まるたび、女もまた立ち止まって、彼の歩調に合わせてくれようとした。鏡面のようにきらめく水田が、波立つこともなく、植え込まれている弱々しく萎びた苗の影を浮かび上がらせている。黄金色の月が幾つにも割られたような姿で田の水面に映っても、人々の狼狽と困苦とがそこに直接見えることはなかった。少年は、もう鍬(くわ)の握り方も、その重みが子供の身にはどれだけ辛かったかも、ほとんど憶えていなかった。
ふたりは、また歩き出した。
今夜中に――月が山の稜線に割り込んで姿を隠すより早く、村を出なければいけないのだ。
手の中に残った金平糖をまたひとつ、口の中に放り投げた。
今度は、さっきよりも時間をかけて味わってみようと思った。
そうやって金平糖をひとつ食べるたび、自分の手を引く女の力は少しずつ強まっていくのである。女は、ずいぶんと彼に優しかった。もしかしたら、少年の父や母よりも優しくしてくれたかもしれない。未だ赤ん坊でしかなかった弟や妹を迎えに来たのも、その銀色の髪をした女だった。ちょうど、少年が三つか、四つのころであった。女には、子がないという。自分は学問と結婚したようなものだから、それだから誰にも嫁ぐつもりはないと言った。そのわりには手つきは器用で、弟や妹が旅立つとき、赤ん坊を優しく抱き締めて、泣きだすことがないように上手くあやしてやっていた。
そうして、弟も妹も居なくなった。
先生が、良いところに連れて行ってくださったんだよと、母は言う。
ではなぜ、その痩せこけた醜い頬には涙の後が幾筋も残っていたのだろう。
村境に近いことを示す碑の前で、女はしばし立ち止まる。
何かを待っているのかもしれなかったが、どんなに待っても何も起きない。
いや、それというよりも、むしろ躊躇いの色がどこかに残った足取りの鈍さだった。
またひと粒、金平糖をがりりと噛んだ。
「行こう」
と、女は言う。
「約束を、してしまっているんだ」
約束。
それはいったい誰とだろうか。
たぶん――父や母と何か交わしたものについて話しているのだろうが、それにしても、すべては淀み過ぎている。人いきれに満ちることなど望むべくもない小さな村は、その晩に限っては空気が澄むことを忘れきった怖ろしさに満ちていた。少年の手は汗ばんでいる。女の手を力強く握り返した。彼女は、もう二度と力強さを返してくれることはなかった。村を出ると、鬱蒼とした暗黒が森の中に噴き出している。ここから先に、進まなければならない。良い子にしていなければいけない。良い子にしていないと、弟や妹たちの居る場所にはいけない。父からは、そう言い含められていた。
踏みしだく土は生ぐさい。
手を突いた木々の表面に流れる蜜に、すべすべとした殻を背負った甲虫が群がっていた。
少年と女の歩みはしばし阻まれる。金平糖をかじるのが、ほんの少しだけ早くなった。
丸まった狸みたいな形の丘からは、村が手のひらの上に収まってしまうほど小さくなって見える。「疲れはしないか」と訊かれた。森の中の淀みは、いつの間にか少年に形のない活力を与えていた。高揚か、錯覚か――そのいずれにもせよ、女の問いには首を横に振ってやることしかできない。
夜闇の天を支える背の高い樹木たちの間から、再び月の光を見つけ出すまでにはそれほど時間がかからなかった。そこここに転がる、きれいに光る石のよう。あるいは、海という、ばかでかくて塩辛い水溜まりにはたくさん落ちているらしい貝殻とかいうもののきらめき。それをいちどだけ見たことがあった。弟たちが産まれる前、未だ痩せこけてはいなかった父母に、街に連れて行ってもらったとき、小間物屋の店先で売りに出される、蝶の羽を二枚束ねたような形の貝。熟れきらない桃に似た色をし、裏返すと薄黄色い色が走っていた。その裏側によく似た色が月から降り注いでいるのだ。闇に隠れて姿の見えない葉の間を通り抜けて、不揃いな石のようになって……。
何度かの坂を越えて、地形の傾斜はいっとうにその急さを増していく。
少年の手を引く女も、不慣れな身のこなしで彼の手を引っ張った。
応えて、彼もまた女について行こうとした。
背に垂らされていた銀色の髪の毛が乱れ、嗅いだこともないような、やわらかいにおいが鼻を突いた。心臓がどきりとしたのは、ずっと歩き通しで休まる暇がなかったからだ。だが、それ以上に腹の奥にぐるぐると熱が留まっていって、幾らものを考えても金平糖を噛んでいても、どうしようもなくなるときがあった。それまで自覚はしていなかったけれど、女に手を引かれたときから、ずっとその感覚は続いてたはずである。少年は唇を舐めた。砂糖の粒がそこには残っていて、舌を突きだすたびにざらついてしまう。
坂を越えると、急に風がざわついてくる。
「手を離すな」
彼女は少年を振り返らない。
しかし、その気持ちを裏切るのが嫌で、何度も何度もうなずいた。力強く。
ようやくにして、あるていどの平坦さを得た山道は、そこかしこに誰かの眼が走っている気がする。ぞわぞわと背が粟立つ。足取りは、やがて土の上を擦るのみのかすかなものになっていく。月の光を帯びて、小さく浮かびあがろうとするものがあった。緩慢な旅を早く早くと急き立てるように、路(みち)を喪った蛍にも似た無数の青白い光の珠が、ふわりとした尾を引きながら少年と女を追い抜かし、森の奥へと這っていった。
空気がいっそうに生あたたかくなった。
女の手の熱さも、もうほとんど見分けがつかないのだ。
木の幹の間を飛び回る光はふたりの行くべき場所を教えてくれていた。
あるいは、自分たちの元まで釣り込んでやろうと思っているのか。
浮かび上がる光の間をすり抜ける。
足取りは嫌でも早くなる。
なるほど、ここで手を離せばこの青白い光の珠の群れに混じってしまって、お互いはもう二度と会えないだろう。森の暗闇の中に幕のように集まっている光の珠たちは、互いにくっつき、離れ、ぶつかり合い、どこか粘ついたものを思わせるその形を、絶えず変化させ続けるのであった。ねっとりとした、気持ちの悪い美しさが夜の中にはあるのを知らずにはいられなかった。そうして、そこに身を浸すことでしか闇の中を這い歩くことはできないということも。
森の、いっとうに深く深く沈んだ暗みの奥まで――あともう少しと思えた。
中腹にあるという大きな神社も、そこに居ると莫大な瀬音で話もできなくなるほどだという見事な瀑布も、少年は話に聞くだけで本当に見たことはなかった。山のあちこちからはいつも黒い煙が湧きあがっていて、そこには見たこともないような、何かまったく異質の存在が息づいているのだろうということを、何となしに感づいてはいたのだが。それが火葬の窯から立ち上る煙に、ひどくそっくりだということも。だけれども、何かが燃えるにおいはしない。灰みたいにざらつく不安も、女と一緒だと薄らいでいく。
いったい誰が整えたのか、明らかな普請の後が見える曲がりくねった道が、山の中に在る。葉も石ころも、足で踏む限りひとつも落ちてはいない。行き先を失念したかのような蛙が一匹、ふたりの足音を聞いて逃げ去っていく。ざりざりと砂を踏み遣る音がくり返される。歩行の調子は踊るがごとき陶酔に満ちていた。誰も何も言わず、邪魔する者も居なかった。わずかに残った光の珠たちの残骸が辺りを未だ漂ってい、我先にと山の中へと還っていく。
欠けた月は身を落とし、山の稜線まで迫り始めていた。
東の空が、すでに爪の先ほど燃え立っている気がする。
夜が、このまま引き上げなければ良い。
そうすれば、この旅も終わることがないだろうに。
世界は、少年と女だけのものになろうとしていた。
すべてが死に絶えた静謐である。
その静謐の中を――歩き続ける、自分たちふたり。
ならば、彼らもまた死に絶えていた。
夜を歩くには、夜の作法がどこかにあったに違いない。
金平糖の甘味も、女の手の熱さも、そこには必要ないはずであった。
兆し始める眠気のさなかにあって、少年はなお幸福でありつづけた。
眠ってしまえば何も解らなくなってしまうということだけを、期待して。
山の入り口に近いところで、白い着物の男を見たのだ。
枯れ木めいて老いさらばえ、骨の浮き出た身体を皺んだ白い装束で隠し、黄ばんだ歯を幾度となく噛み合わせている。ざんばらの白髪から浮き出たふたつの眼がぎょろりと少年と女を睨みつけていた。地面に座り込み、にたにたと笑って、片手を伸ばしてくる。指先が、女の手に触れそうになった。彼女は無視して歩き続けた。
通り過ぎたその老人を振り向こうとしたとき、「振り返ってはいけないよ」と、女が言う。今まで聞いたこともない、きつい口ぶりで。
「あれはね。“良くないもの”だから」
だから、きみはどこにも行けなくなってしまう。
その言葉を呑み、それから直ぐに唾を飲み込んだ。
うなずくことも、忘れていた。
この夜の闇が本当に絶え果てるとしたら、それは、少年が次第に怖れから離れて行ってしまうということだったかもしれない。突き進む山道がよりいっそう狭まる先では、苔むした碑――と言うよりも、小さな塚が、幾つも幾つも連なって打ち棄てられていた。ちょうど、少年の背と同じくらいの大きさをした。でこぼことした地面から突き出たそれは、雨風に濡れ、傷つき、表面に彫られた何かの文字も、もうすっかり薄れて判らなくなってしまっている。
その塚の群れに、誰かが身を潜めている。
やはり白い着物を着ているがさっきの老人よりも小柄で、髪は黒く、肩先に合わせるように切り揃えられていた。朱塗りの高下駄は一本しか歯を持たず、その歯の先を地面に転がる塚のかけらに力なく叩きつけ、からからと音を発している。薄赤い紗の布で頭を覆い、その人は顔を隠している様子だったが、その頭の上にあったのは――あれは確か、勧進の聖がよく身につけているものだ。『頭襟』(ときん)という、その道具の名を少年は最後まで知ることがなかった。ただ、その人の名前だけは、
「射命丸どの」
と、女が呼んだので、かろうじて知ることができた。
あ……と、待ち人の来たのを知ったその人が声を上げる。
年若い、女の声。少女と言っても良い。
「あやややや。“それ”が、かねてより申し合わせの」
「……そうだ。未だ“七つにはなっていない”子だ」
「ふうん。ご苦労さまでした。金子(きんす)は後々……ご両親の元へ届けておきますから。先生は、万事ご心配なく」
「たびたび、ご迷惑をお掛けする」
「お気になさらずとも。もっと言えば、塚を建てるところまでが、われわれ天狗の仕事なのです。せめて、そのくらいの責は負わなければならないでしょう。そのくらいのことを、私たちはやっているんですから」
射命丸と呼ばれた人の姿を認めると、女は少年の手を離した。
数時間ぶりに夜の空気に触れた手のひらはすっかり汗ばみ、ぬるりとしたものが残っている。口の中がからからに乾いている気がして、せめて唾を飲み込みたいと、また金平糖を放り込んだ。
「良いか。ここからは、この人について行くんだぞ」
女は少年の目線までしゃがみ込み、言い聞かせた。
村を発つ前に見せたのとそっくり同じ、あの優しい笑顔をして。
少年が、躊躇いながらも彼女にうなずいてしまったのは、女のことが好きだからに違いなかった。それが恋だったのか、それとも母を思慕することに似ていたのか、あるいはもっと違う何かだったのかは、ここで云々すべき事柄ではない。女と射命丸とは、未だ何か言葉を交わしたいらしかったが、結局は互いに何も言えずに分かれてしまった。来たときよりもずっと早く、女は山を駆け下りていく。少年の方を、いちども振り返ることなく。
欠けた月は、いよいよ山の稜線を割り込み始めている。
弱まり始めたその黄金色が、新たに歩き出すふたりを照らしていた。
振り返ってみたところで、もうさっきまで一緒だった女の姿は、すっかり見えなくなっていた。塚の群れが連なる場所にまで、あの青白い光の珠は、幾つも集まって来ている。だが、それらはもう少年と射命丸を追い抜かすことをしなかった。塚の連なりだけが、他ならぬ自分らのねぐらだというのをよく承知しているかのように、淡い光芒を放ちながら、ふたりを見送るだけである。
「金平糖、食べる……」
「いいえ。それは、あなたがお食べなさい」
射命丸が腹を空かせていないかと、少年は金平糖を差し出した。
が、彼女はやんわりと断った。
「先生があなたに与えたのです。それは、あなたのものですよ」
女がそうしていたのと同じように、射命丸は少年の手を握ってくれ、半歩の先を進む。
けれど、その肌は冷たい。鋭い刀を、ぎゅうと握り締めているみたいに。
「ここから、また少し長い道のりですよ。ついてこられますか」
射命丸の言葉に、少年はうなずいた。
はっきりと、力強く。
少しずつ薄れていこうとする夜の中、少年と射命丸の他にもうひとつ、細い細い声が聞こえてきた気がした。慟哭に近い、哀切に波立った。あの女の声によく似ていると、少年は思った。懐かしい銀色の髪の毛を思い出すと、わけもなくかなしくなってくる。金平糖を二、三粒も一気に、口に放り込んだ。粗い甘味が、ひどく心地よくて仕方がない。
「通りゃんせ、通りゃんせ……ここは、どこの細道じゃ……」
射命丸が、小さな声で歌いだした。
その節回しに宿るどこか物悲しい安堵に包まれながら、先に旅立った弟や妹たちには、いったいいつ会えるのかな――と、少年の心は、少しずつざわめき出していた。
ですが、こう生々しく書かれると、そういう部分もあるんじゃないかという気がしてきますね。
雰囲気が良かったです。
少年の目には綺麗なものや思い出ばかりが映っているというのは、ある意味救いなのか。
でも面白い。
この作品に抱く俺のイメージはそんな感じです。
『七つまでなら、神のうち』
色々思うところはあるけれど、最終的には「やっぱ凄ぇな、昔の日本人のメンタルは」ってなりますね。
基本的につっかえつっかえ拝読することが多い作者様の作品なのですが、今作は割とさらりと読めた気がします。
良い悪いではなく単なる感想として。俺はどちらの系統も好きなので。
それと、貴方が作品に塗り込める匂いは今回も健在でしたね。
なんつーか、直には嗅ぎたくないけれど、なんか気になる、そしてどこか懐かしいそんな匂いが俺は好きだ。
この優しいが、静かで恐ろしい文章がとても気に入りました。
やっていることは暗いのだが、ただただ手を引かれる少年がその背景と対照的で。
読み終えれば穏やかな気持ちになりました。
どうしようもねー困窮はとっくに承知しているので、いまさらしみったれてどうこう思うよりも、いっそここぞとばかりに幻想に満ちた終の旅路を存分に楽しんでいる。そういう見方をした方が、これは楽しいし清清しい。作者さんの意図とはずれるかもだけど、しかし実際夜の尻尾を踏み背を登り鼻を渡るような道中が、美しく書かれようとしていることは間違いない。
こういうハナシは、だれかがしなくちゃいかんのだと思う。
先生も、天狗殿も。旧い世界のがんじがらめを感じました。
しかし、巧い文章だ。
こうして子供を売ることになるんだな・・・
これと似た話を国語の教科書か何かで読んだ記憶があります・・・。
東方原作はシューティングなのでスタートからラスボスまで一直線ですけども、
これはそれとはまた違う一直線な掌編ですね。