毎日、毎日、うかぶ火の玉はゆらめいて私のもとへ列をつくる。
彼らはこの束の間、なげくように震えて、月夜のような暗い青をぼうっとしたたらせる。
私は口上をのべ、黒か白かを言い渡し、顔はないが安堵や恐怖、憤りをうかべる火の玉たちをぞくぞくとさばいていく。
逃げ出す火の玉は、私のそばに付き従った地獄の鬼がしっぽを捕まえて、むりに私のめのまえまでひきずってくる。
この仕事を何度となく、数えるのもうんざりするほど繰り返していき、しばらくすると区切りとしての休憩がおとずれる。
私はもたれていた椅子にふかく背をあずけて、そうすると自然に漏れ出るため息だった。
いまの私は誰の目からみても休憩にどっぷり浴くす姿だろうが、しかし心はちがった。いや本当は、落ち着かない心が面に出ているのかもしれない。待ち焦がれる胸のうちが、からだから滲んで、空気をびみょうに湯だたせているだろう。
私は背をのばして王宮を見渡した。
(王宮は、閻魔が腰をおろす場所。いわば職場である。大きな椅子と机があり、天蓋とそれから垂れ下がる幕で覆われている。名前の割に小さい)
ついさきほどまで火の玉が列をなし夜のように青白かった王宮と、そこまでの道は、いまはきいろく薄暗く、さびれた風情だ。ここはまだ天上でも地獄でもないが、人の感覚からするとたいへんな地獄色で気味悪いそうだ。
私は立ち上がってしまいたかった。
そしてあの人の名前をめいいっぱいに叫びたかった。
そうすればすぐさま顔をだしてくれそうに思えた。
けれど、私が立ち上がる前にあの人はやってきた。
まだなにも見えなかった。しかし言葉にできぬよい香りがしのんできた。私のすぐ横に空を切るよう線がうかびあがり、間もなく口をあけるように開いた。なかはむらさきやくろが溶けこむ淀んだ色をしており、正体のわからぬ眼という眼がこちらを見つめている。
私はこの眼にさえもあの人を思わずにはいられない。
そこからはい出てきた人は、待ちに待ったあの人だった。
八雲紫は、私の椅子の縁に腰をおろすと、頭上から微笑みかけてきた。
私は見上げて、目があうとたちまち胸がはずんで、どうしても小さくなるよりほかはなかった。
彼女の着ているドレスは、ふくよかではあったが、座るさいにはからだの線を浮き彫りにした。いかにもやわらかそうなお尻がよく分かり、豊満な胸がことに強調された。
私のすぐそばにそのお尻がある。指を突き立てるとするだろう、すると迎え入れてくれるのは魅惑の弾力だ。
また、目と同じ高さには胸がつっぱっている。いますぐ顔をうずめることは簡単で、羽毛よりもやわらかく私を包みこんでくれるだろう。
こんなに距離もごくわずかだと、紫の香りも濃厚にかんじられてくる。
香水か、なにをつかっているのかは私にはわからないが、とにかくよい香りで、いつまでも嗅いでいたかった。鼻をとおると身体の芯にむかい、じわりとそこに住み着いて、私の紫への思いをいっそう可憐にいろどった。だから香りは仕事中でさえ、ふとすると思い出されて、私を幸せにする。ときには紫がやってきたのかと錯覚して緊張もする。
今の私はまるで子供だ。どうすればいいのか分からず、ただきわまった感情を面にあふれさせて、しどろもどろになっていた。
紫は見つめ合うと、笑って言う。
「あなたはいつまでも、うぶなひとね」
「そ、そうでしょうか」
「おかしいわ、敬語なんて」
女性同士とは、もっとかろやかに、遊ぶようにしなだれあうものらしい。くちづけをするときには鳥のようについばみあい、床にもぐるときには笑いあいながら。ただひたすら、猫のようにじゃれあうのだと。
どれも私には想像がつかなかった。
紫はあんまりに絶対的で、私は彼女をまえにして笑うことはありえないと、もう何度も思い知っていた。
私の手足はしつけられた犬のようにうごかなくなって、紫の言葉にいちいち反応した。
紫はそれをおかしいと言って、かわいいと言ってくれた。
私はもっと女性同士の理想といわれるものにちかづきたかったが、かわいいと言われてしまうと、このままでいいのかもしれないと立ち止まった。
ほんとうにかわいいのだろうか。
煩わしく思われているのではないだろうか。
そういう気持ちをふくんだ私の視線に、気づいているのかそうでないのか、柔和なほほえみはぐっと私の頬にすりよってきて、撫でるように唇がふれた。
「あなたはそのままでいなさい」
声がくすぐったい。
きっかけはない。
いや、実際、ほんとうにきっかけと呼べるようなできごとが見当たらない。
私のいつもどおりの休憩中に突然やってきた紫が、私の手をとってじっと見つめてきたに過ぎなかった。
もちろん私は追い払った。手をはらって何事か言って脅しつけると紫はたのしそうに消えていき、私は狐につままれたようにきょとんとした。しかたないので仕事をはじめて、それが終わり、次の休憩になった。するとまた紫の姿がそこにあった。
しつこかった。紫はなんどもやってきた。
けれど手をとる以外になにもやってこなかったので、しまいには放っておくようになった。
なんともなかったつもりだが、だんだんと紫の手のあたたかさに気がついた。
温かいことは当たり前だが、その温かさにとまどった。
紫のてのひらは、私のてのひらへすいついて、彼女のわずかな力みもすかさず伝わってきて、私はくすぐったかった。
休憩がおわるまで身をゆだねることにした。
そして、次も、次も、これはしばらくつづいた。
そのうち、私は紫の香りに注目するようになった。
私にはとうてい嗅ぎ分けのつかないふしぎな香り。かぐわしさは、上等な香水でないと出せないだろう。その香水とはなにか、見当つかない。ただこの香り、魅惑や存在感をひきたてるには、すばらしい作用をみせている。
いつしか香りの虜になっている私がいた。
私は紫と手をつなぎながら、紫から発せられる香りをひそかにしかしいっぱい吸いこんだ。
頭がくらくらしてくる。そのころには紫はいなくなってしまった。私が陶酔にいたる前にだ。
私は余韻をひきずったまま仕事をするはめになったが、嫌ではなく、気持ちのいいものだった。ただむずがゆかった。
コレは、紫がほほえみながら私の手をにぎり、私はにぎりかえして彼女の香りをあじわっているコレは、思いのほか長くつづいた。
いささか奇妙な関係だったがとっくに慣れて、居心地よくなっていた。
紫はあるひ、そんな私を立ち上がらせようとした。つないでいた手をひっぱられたのであわてて立ち上がったら、私の目前を紫の顔がおおった。
このときほど、こわばって、心臓がはねあがったことはなかった。
それを境に口づけも習慣と化した。
すっかり参った私は紫がくるたびにからだがひきつるようになってしまった。今日も口づけをされるのだろうと想像したとたんに、石化はすんでいた。
あとはゆっくり紫のなすがままに。
日が経つごとに行為は深みを増していって、いっそう私の緊張もつよくなっていった。
紫の手慣れたやりかたに私はとりこまれていった。
休憩のたびに私は紫の到来をいまかいまかと待つようになり、彼女がやってきたら、彼女にうながされない限り椅子から立ち上がることもできなくなった。
ときおり彼女はきてくれなかった。
むこうの都合だろうか。
彼女がいないまま過ごす休憩がたいくつに感じられた。すこし前にさかのぼってみると信じられないことだ。退屈さは王宮の無辺さと重なりおしよせてきて、右にも左にも誰もいない寒さを、煽りたててくる。そんな休憩のあとには暇もなく火の玉たちを判決していく仕事が待っていた。
だから、つぎの休憩になって、何食わぬ顔でふらりとやってきた紫をみると、私は心底からのため息を我慢できなかった。
「そんなに恐いかおをしないで」
そのときの私は、恐いかおをしているらしかった。
あるとき、どうして私のもとにやってくるのかとたずねたことがある。
紫は恥ずかしそうに、しかし優越そうにぽつぽつと言葉をおくりだしていった。
「あなたのようなまじめな娘がお気に入りなのよ。実直なのは、かわいいことよ。真摯なのは、美しいことよ」
つまり、私は、紫の美的感覚にさぞかし適っているから、愛玩されているのだ。
うすうす感じてはいたが、私は紫にとって玩具に相当しているのかもしれない。それが、いいわけがない。紫は私をなでるとき、手をつなぐとき、私のことを、鎖につながれて路端を歩きまわる犬や、かごのなかで喉をふるわせる小鳥くらいに思っているのだ。
いったいそんな関係のなにが楽しいのだろう。
そう考えてみると怒りのひとつものぼってくる。
けれど些細なことではないだろうか。なぜなら私は、現に紫と抱き合っているし、飲みこむと喉につまってしまいそうなほど濃い口づけをするのだから。
こんなことがあった。
そのひ、私は紫から抱擁をうけていた。
ちょっとつよく私の首にまきつけられた腕、椅子にすわる私の、うえにいる紫。
私は紫の髪からただよってくる芳しい香りを、鼻をうずめて間近から吸いこめることが、うれしかった。
「ずっとこのままでいる?」
私はうなづいたが、なぜか紫はからめていた腕をといて私からはなれた。私は思わず走りよろうとしたが、むこうから袖をふって近づいてくる者があらわれたので、こらえた。
王宮をぬけて三途の川がある方角、その閑散とした道を息をきらせてやってくる者は、小野塚小町だ。
小町は王宮までやってくると胸元をばたつかせ風を吹きこみながら話しだした。
「やーご苦労様です。ちょいと妙な魂ひとつがフラリときたもんですからね、映姫さまにご助言うけたまわろうと思いましてえ」
陽気に口早にしゃべりながら王宮のなかへ入ってきた小町は、私と、紫がいることに驚きをみせた。
「おおっと、お客人がいましたか。ふんふん、これはどうもむらさきの妖怪じゃないですか。もしや映姫さまと密談ですかね。ちょっと困りますよ映姫さまのだいじな休憩時間をあんまり奪っちゃあ。まあ映姫さまはしっかり者ですからね、時間の管理はしっかりできているでしょうが」
なるほど。
紫が私からはなれたのは、小町を予感してのことだったか。
私と小町へほほえみかけた紫は、「さようなら」などといいながら消えてしまった。
まだ紫のぬくもりは私のからだに張り付いていてほんの少しとはいえ身悶えせずにはいられなかった。
小町にはわからない、私のかすかな震えは。紫の、昼の日向のようなぬくもりと、時折とんでくる冷たい言葉と、油のようにまとわる仕草を知らない小町には、わからない。
親しげにねばっこくすりよってくる紫を知ってしまうと、たとえばほのかな残熱でさえも私を簡単にこわばらせるし、まだあたりの空気にのこった香りがとろける思い出を呼びおこす。
「わざわざここまで上がってきたのだから、それなりの用事があってのことでしょうね」
私は浸っていた感情をかくして、上司然とした態度で小町の話をうかがった。
小町はあっけらかんとした笑顔で私の前までやってきた。そのすがすがしさは、べつに私はいっさいの隠しごとは必要ないのではないか、とさえ思わせるほどだった。
三途の岸辺を火の玉がふらついていたらしい。
小町がさそっても船に乗ろうとせず、岸辺のあたりをふわふわと、まるで観光でもしているかのように。
そういう火の玉はたまに出てくる。また、そんな彼らに対する対処法も心得ている。
鬼を小町につれていかせ、火の玉をちからづくでひっぱってこさせる。地獄の鬼はべんりだ。力はつよく、ずるがしこいが忠誠心はあつい。弱者への情けのなさは折り紙つきだ。
小町と、その一回りも二回りも大きい鬼は三途のほうへ下っていった。
私は仕事の準備にとりかかった。
どうせつぎの休憩時に紫はまたやってくるのだろうから、中途半端なのは我慢しておこう。
はたしてどうかな。
私がつぎの休憩にはいったと同時に紫は幕をかきわけて近寄ってきた。
目の前に直接でてくることもできるのに、わざわざ幕の裏から侍女のようにもっともらしく姿をみせる。
小町に邪魔されたわずらわしさのせいで私は待ちきれなかったので、彼女の手をとって引き寄せようとした。すると彼女は絹衣のなめらかさ、手をするりとかわして私の膝の上に座ってきた。そして両手をとりなおした。
「もういちど抱きあう?」
私はかぶりをふった。
「じゃあキスする?」
私はうなづいた。
こうしている間は幸せではあるが、また、ぬぐいきれない不安もある。
紫は、ふとすれば翌日から私のもとへ、すっかりやってこなくなってきそうな放埒さをたずさえているから、親密になればなるほど不安は増した。
ほんとうは、親密に感じているのは私だけなのかもしれない。
私は紫がやってくるたびに、抱きしめられる心地と見捨てられる恐怖とにあてられて必要以上におどおどしなければいけなかった。
紫そのものにはたいして興味がない。彼女のあれこれを知りたいとは思わない、これ以上の接近はいらない。だが彼女の唇に二度と触れられなくなってしまうのはこまる。休憩のときには彼女のなめらかな手をにぎりしめて、奥からのぼってくる体温を交換しあいながら、息のかかるほどそばに寄り添いたいのだ。
私はからだが酔ったようにぽかぽかしだす。いますぐ紫にふれてほしい。私のからだ、あついでしょう?
わるい空想のつもりだったが、的中してしまった。
私は小町に邪魔をされた日から当分、紫の顔をみていなかった。糸が切れたようにぷっつりとやってこなくなってしまった。
まさか小町に見られただけで私との関係を、一方的に断ってしまうなんて、考えたくない。しかしそのほかの原因が見当たらなかった。
つぎの休憩には来てくれるだろう、と、期待しながら仕事を片付けていった。休憩になってもまだわくわくしていた。こんな恥ずかしい姿を、私は何日かずっと繰り返していたが、やがては目が覚めたように落ち着いていった。
目が覚めた、とは、我ながら妙に当てはまる言葉だと思う。
紫とのふれあいのあたたかさは忘れてはいなかったし、具体的にどんな交ぐあいをしたのかも説明できる。ただ、そのときの情熱を思い出せといわれると、むずかしくなっていた。
それでも、紫のちょっとふくよかな体に抱きしめられたいという欲求は、ときおり舞いこんできて私を困惑させた。決まってそういうときは、紫の香りが鼻腔の奥に再現された。長いあいだ嗅いでいない香りだったが、よいものだった。
私の事情などは当然しらないであろう小町が、私の休憩中にふらりと王宮にやってきて、勝手にべらべらと話しはじめる。
「あなた、仕事はどうしたんですか」
基本的に私の休憩時間と小町のそれは重ならないように組まれているはずだったから、小町が私のもとにいるのはおかしいことで。
「いやあね、映姫さまに覇気がないなあと感じまして、ここは部下である私が一肌脱いでやろうという寸法ですよ。私、口は達者ですからね。面白い話でもしてあげましょう。笑うお薬を処方いたすってわけですね。すると私はお医者さんってわけですね。どうでしょう映姫さま、私とお医者さんごっこでもしませんか」
仕事に戻れと言いつけてもヘラヘラ笑ったまま王宮に居座り、小町は物語りだした。私はそれをうわの空で聞いていた。小町はたらふく話したら満足したようで、帰っていくときでさえ笑みを絶やさなかった。
あるとき、こんな夢をみた。
私の横で微笑んでくれていた紫が、予兆もなくこんなことを言ってきたところから始まった。
「明日から来ないわよ」
私と指をからめあって、椅子の縁にまるいお尻をまかせて、頭上から笑顔をおくりながら言ってきた言葉だった。
これほど挨拶のようにあっさりと告げられるとは思わなかったが、私は冷静だった。
強いていうなら、いつものように硬直していたのだが、言葉を聞いたとたんに筋肉がほつれていった。
私は紫の指をいっそうきつく握り締めようとしたが、それはできなかった。そのまえに紫は離れてしまったからだ。彼女は王宮の幕をくぐっていく。
「どうしてそのような。理由をのべなさい」
私は腰をあげると机をまわりこんで紫のもとへ走りよった。何食わぬ顔の紫の腕をとって、こちらを振り向かせて、じっと目をうかがえば奥には底知れない光が沈んでいる。その光にあっては、どれだけ人間たちの嘘を見抜いてきた私でさえも、深層はとらえられそうにない。
彼女がしゃべらないのなら私がそうする。
「小町にみつかりそうになったからですか。そのくらい、いいえ、みつかったとして構いやしません。あなたもそんな些細なことを気にする人ではないはずです」
ふたたび私の手からのがれた紫は、ゆっくりと優雅な歩調で黄色い道をあるいていった。私はすぐにおいついて横をついていきながら話を続けた。
「あなた、あなたはずいぶん卑怯で身勝手ですね。あなたのほうからやってきておいて、あなたのほうから離れていくんですか」
紫は私なんてみてくれず、そこらの殺風景な景色を伏せぎみの目でおっていた。
「お説教が好きね」
決して私をみてくれない。
「けど、わかっているんでしょう」
歩くたびに紫の香りがここまではこばれてきた。
「あなたも、すこしくらいは遊ばれていることを自覚していたのではなくて」
あたりに曼珠沙華の刺さるような赤色がぽつぽつと、それはしだいに増していき、いつしか毒々しい絨毯が私たちの腰までのびてきていた。
もうすぐいくと彼岸にくる。あまり冗長にしていると、向こう岸から船で渡ってきた小町に見つかってしまうだろう。いや、すでにこちらがわの岸にいるかもしれない。
紫は誘ってきた。それに釣られたのは誰でもない私だ。そしてこうやって惨めに食い下がっているのも私だ。
たしかに、いいようにされていると分かっていながら、蜜月としたままでいたくて、ますます深みにはまっていっていたのは、私しかいない。
紫にそこをさされると、どもるしかない。
私はいまいちど冷静になりはじめていたが、まだうわついた心がのこっていた。最後にいちどでもいいから甘えたかった。
「口づけをさせてください」
「キスしたいの?」
そっけない声色は、私を突き離しているみたいだった。そういえば紫はいつもこの調子だった。私は紫を引き戻すことができないのを知った。
そうやって私が打ちひしがれていると、紫がそっと近づいてきて手をとってくれた。「明日から来ないわよ」の言葉がつげられたときより唐突な感を私はうけた。
どう反応すればいいのかわからなくなっていた私へ、彼女は微笑みをなげかけた。
「いっしょに飛びましょう。あなたの一日をつかわせてもらうわよ」
紫が躊躇なく飛び上がり、私はつられて地からはなれた。そして空に紫が用意したすきまが。
「待ちなさい。どこにつれていこうというのですか」
「いってからのお楽しみにしておきなさい」
「仕事があるんですが」
「あら、そんなに厳しかったかしら。あなたの仕事って、交代してもらえる程度にはゆるかったはずだけど」
そこで夢は終わった。
はじめは夢の余韻に心地よくひたっていたが、やがてみじめな気分になり、私は人知れず袖をぬらした。
夢のように紫がやってきてくれることは、恐らくもうない。夢の私は彼女へ理由をたずねることができたが、現の私はそれすらかないはしないのだ。夢の自分を羨ましく感じてしまうとは。
紫が閻魔の仕事について詳しいというのも、なんだか面白い夢だなあ。
その日の休憩時に性懲りもなく小町がやってきた。
「あ、どうしたんでしょうか。目が腫れていますよ」
なんでもないと言うと、ハアと能天気に返して、それからおしゃべりに興じようとする小町。私は彼女を一喝して仕事へもどらせた。小町は面食らった表情をすると、そそくさと彼岸への道をひきかえしていった。
時代がめぐった。
何百年かあとになった。
私とは別の、かたほうの閻魔が退任し、新しい若閻魔がやってきたくらいには時代がめぐっていた。
彼岸から王宮までの土まみれた道を火の玉たちがずらっと並んで、私のもとまで続いている。ひとつひとつ生前の生き様をてばやく確認し、嘘はさっさと見抜いて、しかるべき行き先を告げる。
逃げようとするものは鬼がわしづかんで私の前にひきずってくる。
ひと段落すると休憩にはいり、私は椅子に腰かけたまま体をのばした。小町はここ百年ほどはやってこなくなった。私が仕事に戻れとうるさく言うものだから、参ってしまって別の場所でさぼるようになりはじめたようだ。
休憩にはいってまもなく、幕がかきわけられて誰かが王宮に入ってきた。
はじめは小町かと思ったが、ちがった。
八雲紫を見たとたん、私はたまらず叫びそうになった。彼女は微笑みながら私のそばまで、なんら変わらない綺麗な姿勢と歩き方で、寄ってきた。とっくにうすぼけていた紫の香りが、いまは明瞭に私の頭をしびれさせている。ひさしぶりに、それこそ何百年かぶりにとんでもない緊張をあじわった。
まずは何から言うべきかと私が言葉を探していると、紫は私の手をとって王宮から連れ出していった。
「あなたに見せたいものがあるの。噂はもうこちらにも伝わっているのかしら。まあいいわ。とにかく来てちょうだい」
私は口がひらかなくなっていたが、それでいいと感じていた。紫に手をとられてなすがままになるのは、懐かしい。
「新しいふるさとをつくったわ。おびやかされることのない安泰な土地。龍からは大目玉をくらった。他の妖怪にも手間をかけさせてしまったけど、やる価値はあった」
彼岸までいくと、紫が空中にすきまをあけてみせた。そこをくぐろうというのだ。
私はその穴の先がどこにつながっているかを、なんとなくだが予想がついた。実はつい先日、上司が新しい地域で閻魔業務を行ってくれる者を求めているという話があった。そこは現世からとくべつな手法で隔離された地域だという。
そこの名前は、
「幻想郷と名付けたのよ。私がそう名付けた。実はあなたにお願いがあるのだけど、幻想郷の死者の裁判は、あなたにやってもらいたいの」
すきまの直前まできて、紫は私の顔をじっと見つめてきた。その顔のなんと綺麗なことだろうか。記憶のなかにいた彼女よりもだんぜん綺麗だ。
ずっと彼女に見惚れていた。手をはなしたくなかった。私がなかなか答えようとしないことに戸惑った紫が、もういちど言葉をなげかけた。
「どうなの?」
そんなに不安げな表情をしないでください。私の答えはとっくに決まっています。
彼らはこの束の間、なげくように震えて、月夜のような暗い青をぼうっとしたたらせる。
私は口上をのべ、黒か白かを言い渡し、顔はないが安堵や恐怖、憤りをうかべる火の玉たちをぞくぞくとさばいていく。
逃げ出す火の玉は、私のそばに付き従った地獄の鬼がしっぽを捕まえて、むりに私のめのまえまでひきずってくる。
この仕事を何度となく、数えるのもうんざりするほど繰り返していき、しばらくすると区切りとしての休憩がおとずれる。
私はもたれていた椅子にふかく背をあずけて、そうすると自然に漏れ出るため息だった。
いまの私は誰の目からみても休憩にどっぷり浴くす姿だろうが、しかし心はちがった。いや本当は、落ち着かない心が面に出ているのかもしれない。待ち焦がれる胸のうちが、からだから滲んで、空気をびみょうに湯だたせているだろう。
私は背をのばして王宮を見渡した。
(王宮は、閻魔が腰をおろす場所。いわば職場である。大きな椅子と机があり、天蓋とそれから垂れ下がる幕で覆われている。名前の割に小さい)
ついさきほどまで火の玉が列をなし夜のように青白かった王宮と、そこまでの道は、いまはきいろく薄暗く、さびれた風情だ。ここはまだ天上でも地獄でもないが、人の感覚からするとたいへんな地獄色で気味悪いそうだ。
私は立ち上がってしまいたかった。
そしてあの人の名前をめいいっぱいに叫びたかった。
そうすればすぐさま顔をだしてくれそうに思えた。
けれど、私が立ち上がる前にあの人はやってきた。
まだなにも見えなかった。しかし言葉にできぬよい香りがしのんできた。私のすぐ横に空を切るよう線がうかびあがり、間もなく口をあけるように開いた。なかはむらさきやくろが溶けこむ淀んだ色をしており、正体のわからぬ眼という眼がこちらを見つめている。
私はこの眼にさえもあの人を思わずにはいられない。
そこからはい出てきた人は、待ちに待ったあの人だった。
八雲紫は、私の椅子の縁に腰をおろすと、頭上から微笑みかけてきた。
私は見上げて、目があうとたちまち胸がはずんで、どうしても小さくなるよりほかはなかった。
彼女の着ているドレスは、ふくよかではあったが、座るさいにはからだの線を浮き彫りにした。いかにもやわらかそうなお尻がよく分かり、豊満な胸がことに強調された。
私のすぐそばにそのお尻がある。指を突き立てるとするだろう、すると迎え入れてくれるのは魅惑の弾力だ。
また、目と同じ高さには胸がつっぱっている。いますぐ顔をうずめることは簡単で、羽毛よりもやわらかく私を包みこんでくれるだろう。
こんなに距離もごくわずかだと、紫の香りも濃厚にかんじられてくる。
香水か、なにをつかっているのかは私にはわからないが、とにかくよい香りで、いつまでも嗅いでいたかった。鼻をとおると身体の芯にむかい、じわりとそこに住み着いて、私の紫への思いをいっそう可憐にいろどった。だから香りは仕事中でさえ、ふとすると思い出されて、私を幸せにする。ときには紫がやってきたのかと錯覚して緊張もする。
今の私はまるで子供だ。どうすればいいのか分からず、ただきわまった感情を面にあふれさせて、しどろもどろになっていた。
紫は見つめ合うと、笑って言う。
「あなたはいつまでも、うぶなひとね」
「そ、そうでしょうか」
「おかしいわ、敬語なんて」
女性同士とは、もっとかろやかに、遊ぶようにしなだれあうものらしい。くちづけをするときには鳥のようについばみあい、床にもぐるときには笑いあいながら。ただひたすら、猫のようにじゃれあうのだと。
どれも私には想像がつかなかった。
紫はあんまりに絶対的で、私は彼女をまえにして笑うことはありえないと、もう何度も思い知っていた。
私の手足はしつけられた犬のようにうごかなくなって、紫の言葉にいちいち反応した。
紫はそれをおかしいと言って、かわいいと言ってくれた。
私はもっと女性同士の理想といわれるものにちかづきたかったが、かわいいと言われてしまうと、このままでいいのかもしれないと立ち止まった。
ほんとうにかわいいのだろうか。
煩わしく思われているのではないだろうか。
そういう気持ちをふくんだ私の視線に、気づいているのかそうでないのか、柔和なほほえみはぐっと私の頬にすりよってきて、撫でるように唇がふれた。
「あなたはそのままでいなさい」
声がくすぐったい。
きっかけはない。
いや、実際、ほんとうにきっかけと呼べるようなできごとが見当たらない。
私のいつもどおりの休憩中に突然やってきた紫が、私の手をとってじっと見つめてきたに過ぎなかった。
もちろん私は追い払った。手をはらって何事か言って脅しつけると紫はたのしそうに消えていき、私は狐につままれたようにきょとんとした。しかたないので仕事をはじめて、それが終わり、次の休憩になった。するとまた紫の姿がそこにあった。
しつこかった。紫はなんどもやってきた。
けれど手をとる以外になにもやってこなかったので、しまいには放っておくようになった。
なんともなかったつもりだが、だんだんと紫の手のあたたかさに気がついた。
温かいことは当たり前だが、その温かさにとまどった。
紫のてのひらは、私のてのひらへすいついて、彼女のわずかな力みもすかさず伝わってきて、私はくすぐったかった。
休憩がおわるまで身をゆだねることにした。
そして、次も、次も、これはしばらくつづいた。
そのうち、私は紫の香りに注目するようになった。
私にはとうてい嗅ぎ分けのつかないふしぎな香り。かぐわしさは、上等な香水でないと出せないだろう。その香水とはなにか、見当つかない。ただこの香り、魅惑や存在感をひきたてるには、すばらしい作用をみせている。
いつしか香りの虜になっている私がいた。
私は紫と手をつなぎながら、紫から発せられる香りをひそかにしかしいっぱい吸いこんだ。
頭がくらくらしてくる。そのころには紫はいなくなってしまった。私が陶酔にいたる前にだ。
私は余韻をひきずったまま仕事をするはめになったが、嫌ではなく、気持ちのいいものだった。ただむずがゆかった。
コレは、紫がほほえみながら私の手をにぎり、私はにぎりかえして彼女の香りをあじわっているコレは、思いのほか長くつづいた。
いささか奇妙な関係だったがとっくに慣れて、居心地よくなっていた。
紫はあるひ、そんな私を立ち上がらせようとした。つないでいた手をひっぱられたのであわてて立ち上がったら、私の目前を紫の顔がおおった。
このときほど、こわばって、心臓がはねあがったことはなかった。
それを境に口づけも習慣と化した。
すっかり参った私は紫がくるたびにからだがひきつるようになってしまった。今日も口づけをされるのだろうと想像したとたんに、石化はすんでいた。
あとはゆっくり紫のなすがままに。
日が経つごとに行為は深みを増していって、いっそう私の緊張もつよくなっていった。
紫の手慣れたやりかたに私はとりこまれていった。
休憩のたびに私は紫の到来をいまかいまかと待つようになり、彼女がやってきたら、彼女にうながされない限り椅子から立ち上がることもできなくなった。
ときおり彼女はきてくれなかった。
むこうの都合だろうか。
彼女がいないまま過ごす休憩がたいくつに感じられた。すこし前にさかのぼってみると信じられないことだ。退屈さは王宮の無辺さと重なりおしよせてきて、右にも左にも誰もいない寒さを、煽りたててくる。そんな休憩のあとには暇もなく火の玉たちを判決していく仕事が待っていた。
だから、つぎの休憩になって、何食わぬ顔でふらりとやってきた紫をみると、私は心底からのため息を我慢できなかった。
「そんなに恐いかおをしないで」
そのときの私は、恐いかおをしているらしかった。
あるとき、どうして私のもとにやってくるのかとたずねたことがある。
紫は恥ずかしそうに、しかし優越そうにぽつぽつと言葉をおくりだしていった。
「あなたのようなまじめな娘がお気に入りなのよ。実直なのは、かわいいことよ。真摯なのは、美しいことよ」
つまり、私は、紫の美的感覚にさぞかし適っているから、愛玩されているのだ。
うすうす感じてはいたが、私は紫にとって玩具に相当しているのかもしれない。それが、いいわけがない。紫は私をなでるとき、手をつなぐとき、私のことを、鎖につながれて路端を歩きまわる犬や、かごのなかで喉をふるわせる小鳥くらいに思っているのだ。
いったいそんな関係のなにが楽しいのだろう。
そう考えてみると怒りのひとつものぼってくる。
けれど些細なことではないだろうか。なぜなら私は、現に紫と抱き合っているし、飲みこむと喉につまってしまいそうなほど濃い口づけをするのだから。
こんなことがあった。
そのひ、私は紫から抱擁をうけていた。
ちょっとつよく私の首にまきつけられた腕、椅子にすわる私の、うえにいる紫。
私は紫の髪からただよってくる芳しい香りを、鼻をうずめて間近から吸いこめることが、うれしかった。
「ずっとこのままでいる?」
私はうなづいたが、なぜか紫はからめていた腕をといて私からはなれた。私は思わず走りよろうとしたが、むこうから袖をふって近づいてくる者があらわれたので、こらえた。
王宮をぬけて三途の川がある方角、その閑散とした道を息をきらせてやってくる者は、小野塚小町だ。
小町は王宮までやってくると胸元をばたつかせ風を吹きこみながら話しだした。
「やーご苦労様です。ちょいと妙な魂ひとつがフラリときたもんですからね、映姫さまにご助言うけたまわろうと思いましてえ」
陽気に口早にしゃべりながら王宮のなかへ入ってきた小町は、私と、紫がいることに驚きをみせた。
「おおっと、お客人がいましたか。ふんふん、これはどうもむらさきの妖怪じゃないですか。もしや映姫さまと密談ですかね。ちょっと困りますよ映姫さまのだいじな休憩時間をあんまり奪っちゃあ。まあ映姫さまはしっかり者ですからね、時間の管理はしっかりできているでしょうが」
なるほど。
紫が私からはなれたのは、小町を予感してのことだったか。
私と小町へほほえみかけた紫は、「さようなら」などといいながら消えてしまった。
まだ紫のぬくもりは私のからだに張り付いていてほんの少しとはいえ身悶えせずにはいられなかった。
小町にはわからない、私のかすかな震えは。紫の、昼の日向のようなぬくもりと、時折とんでくる冷たい言葉と、油のようにまとわる仕草を知らない小町には、わからない。
親しげにねばっこくすりよってくる紫を知ってしまうと、たとえばほのかな残熱でさえも私を簡単にこわばらせるし、まだあたりの空気にのこった香りがとろける思い出を呼びおこす。
「わざわざここまで上がってきたのだから、それなりの用事があってのことでしょうね」
私は浸っていた感情をかくして、上司然とした態度で小町の話をうかがった。
小町はあっけらかんとした笑顔で私の前までやってきた。そのすがすがしさは、べつに私はいっさいの隠しごとは必要ないのではないか、とさえ思わせるほどだった。
三途の岸辺を火の玉がふらついていたらしい。
小町がさそっても船に乗ろうとせず、岸辺のあたりをふわふわと、まるで観光でもしているかのように。
そういう火の玉はたまに出てくる。また、そんな彼らに対する対処法も心得ている。
鬼を小町につれていかせ、火の玉をちからづくでひっぱってこさせる。地獄の鬼はべんりだ。力はつよく、ずるがしこいが忠誠心はあつい。弱者への情けのなさは折り紙つきだ。
小町と、その一回りも二回りも大きい鬼は三途のほうへ下っていった。
私は仕事の準備にとりかかった。
どうせつぎの休憩時に紫はまたやってくるのだろうから、中途半端なのは我慢しておこう。
はたしてどうかな。
私がつぎの休憩にはいったと同時に紫は幕をかきわけて近寄ってきた。
目の前に直接でてくることもできるのに、わざわざ幕の裏から侍女のようにもっともらしく姿をみせる。
小町に邪魔されたわずらわしさのせいで私は待ちきれなかったので、彼女の手をとって引き寄せようとした。すると彼女は絹衣のなめらかさ、手をするりとかわして私の膝の上に座ってきた。そして両手をとりなおした。
「もういちど抱きあう?」
私はかぶりをふった。
「じゃあキスする?」
私はうなづいた。
こうしている間は幸せではあるが、また、ぬぐいきれない不安もある。
紫は、ふとすれば翌日から私のもとへ、すっかりやってこなくなってきそうな放埒さをたずさえているから、親密になればなるほど不安は増した。
ほんとうは、親密に感じているのは私だけなのかもしれない。
私は紫がやってくるたびに、抱きしめられる心地と見捨てられる恐怖とにあてられて必要以上におどおどしなければいけなかった。
紫そのものにはたいして興味がない。彼女のあれこれを知りたいとは思わない、これ以上の接近はいらない。だが彼女の唇に二度と触れられなくなってしまうのはこまる。休憩のときには彼女のなめらかな手をにぎりしめて、奥からのぼってくる体温を交換しあいながら、息のかかるほどそばに寄り添いたいのだ。
私はからだが酔ったようにぽかぽかしだす。いますぐ紫にふれてほしい。私のからだ、あついでしょう?
わるい空想のつもりだったが、的中してしまった。
私は小町に邪魔をされた日から当分、紫の顔をみていなかった。糸が切れたようにぷっつりとやってこなくなってしまった。
まさか小町に見られただけで私との関係を、一方的に断ってしまうなんて、考えたくない。しかしそのほかの原因が見当たらなかった。
つぎの休憩には来てくれるだろう、と、期待しながら仕事を片付けていった。休憩になってもまだわくわくしていた。こんな恥ずかしい姿を、私は何日かずっと繰り返していたが、やがては目が覚めたように落ち着いていった。
目が覚めた、とは、我ながら妙に当てはまる言葉だと思う。
紫とのふれあいのあたたかさは忘れてはいなかったし、具体的にどんな交ぐあいをしたのかも説明できる。ただ、そのときの情熱を思い出せといわれると、むずかしくなっていた。
それでも、紫のちょっとふくよかな体に抱きしめられたいという欲求は、ときおり舞いこんできて私を困惑させた。決まってそういうときは、紫の香りが鼻腔の奥に再現された。長いあいだ嗅いでいない香りだったが、よいものだった。
私の事情などは当然しらないであろう小町が、私の休憩中にふらりと王宮にやってきて、勝手にべらべらと話しはじめる。
「あなた、仕事はどうしたんですか」
基本的に私の休憩時間と小町のそれは重ならないように組まれているはずだったから、小町が私のもとにいるのはおかしいことで。
「いやあね、映姫さまに覇気がないなあと感じまして、ここは部下である私が一肌脱いでやろうという寸法ですよ。私、口は達者ですからね。面白い話でもしてあげましょう。笑うお薬を処方いたすってわけですね。すると私はお医者さんってわけですね。どうでしょう映姫さま、私とお医者さんごっこでもしませんか」
仕事に戻れと言いつけてもヘラヘラ笑ったまま王宮に居座り、小町は物語りだした。私はそれをうわの空で聞いていた。小町はたらふく話したら満足したようで、帰っていくときでさえ笑みを絶やさなかった。
あるとき、こんな夢をみた。
私の横で微笑んでくれていた紫が、予兆もなくこんなことを言ってきたところから始まった。
「明日から来ないわよ」
私と指をからめあって、椅子の縁にまるいお尻をまかせて、頭上から笑顔をおくりながら言ってきた言葉だった。
これほど挨拶のようにあっさりと告げられるとは思わなかったが、私は冷静だった。
強いていうなら、いつものように硬直していたのだが、言葉を聞いたとたんに筋肉がほつれていった。
私は紫の指をいっそうきつく握り締めようとしたが、それはできなかった。そのまえに紫は離れてしまったからだ。彼女は王宮の幕をくぐっていく。
「どうしてそのような。理由をのべなさい」
私は腰をあげると机をまわりこんで紫のもとへ走りよった。何食わぬ顔の紫の腕をとって、こちらを振り向かせて、じっと目をうかがえば奥には底知れない光が沈んでいる。その光にあっては、どれだけ人間たちの嘘を見抜いてきた私でさえも、深層はとらえられそうにない。
彼女がしゃべらないのなら私がそうする。
「小町にみつかりそうになったからですか。そのくらい、いいえ、みつかったとして構いやしません。あなたもそんな些細なことを気にする人ではないはずです」
ふたたび私の手からのがれた紫は、ゆっくりと優雅な歩調で黄色い道をあるいていった。私はすぐにおいついて横をついていきながら話を続けた。
「あなた、あなたはずいぶん卑怯で身勝手ですね。あなたのほうからやってきておいて、あなたのほうから離れていくんですか」
紫は私なんてみてくれず、そこらの殺風景な景色を伏せぎみの目でおっていた。
「お説教が好きね」
決して私をみてくれない。
「けど、わかっているんでしょう」
歩くたびに紫の香りがここまではこばれてきた。
「あなたも、すこしくらいは遊ばれていることを自覚していたのではなくて」
あたりに曼珠沙華の刺さるような赤色がぽつぽつと、それはしだいに増していき、いつしか毒々しい絨毯が私たちの腰までのびてきていた。
もうすぐいくと彼岸にくる。あまり冗長にしていると、向こう岸から船で渡ってきた小町に見つかってしまうだろう。いや、すでにこちらがわの岸にいるかもしれない。
紫は誘ってきた。それに釣られたのは誰でもない私だ。そしてこうやって惨めに食い下がっているのも私だ。
たしかに、いいようにされていると分かっていながら、蜜月としたままでいたくて、ますます深みにはまっていっていたのは、私しかいない。
紫にそこをさされると、どもるしかない。
私はいまいちど冷静になりはじめていたが、まだうわついた心がのこっていた。最後にいちどでもいいから甘えたかった。
「口づけをさせてください」
「キスしたいの?」
そっけない声色は、私を突き離しているみたいだった。そういえば紫はいつもこの調子だった。私は紫を引き戻すことができないのを知った。
そうやって私が打ちひしがれていると、紫がそっと近づいてきて手をとってくれた。「明日から来ないわよ」の言葉がつげられたときより唐突な感を私はうけた。
どう反応すればいいのかわからなくなっていた私へ、彼女は微笑みをなげかけた。
「いっしょに飛びましょう。あなたの一日をつかわせてもらうわよ」
紫が躊躇なく飛び上がり、私はつられて地からはなれた。そして空に紫が用意したすきまが。
「待ちなさい。どこにつれていこうというのですか」
「いってからのお楽しみにしておきなさい」
「仕事があるんですが」
「あら、そんなに厳しかったかしら。あなたの仕事って、交代してもらえる程度にはゆるかったはずだけど」
そこで夢は終わった。
はじめは夢の余韻に心地よくひたっていたが、やがてみじめな気分になり、私は人知れず袖をぬらした。
夢のように紫がやってきてくれることは、恐らくもうない。夢の私は彼女へ理由をたずねることができたが、現の私はそれすらかないはしないのだ。夢の自分を羨ましく感じてしまうとは。
紫が閻魔の仕事について詳しいというのも、なんだか面白い夢だなあ。
その日の休憩時に性懲りもなく小町がやってきた。
「あ、どうしたんでしょうか。目が腫れていますよ」
なんでもないと言うと、ハアと能天気に返して、それからおしゃべりに興じようとする小町。私は彼女を一喝して仕事へもどらせた。小町は面食らった表情をすると、そそくさと彼岸への道をひきかえしていった。
時代がめぐった。
何百年かあとになった。
私とは別の、かたほうの閻魔が退任し、新しい若閻魔がやってきたくらいには時代がめぐっていた。
彼岸から王宮までの土まみれた道を火の玉たちがずらっと並んで、私のもとまで続いている。ひとつひとつ生前の生き様をてばやく確認し、嘘はさっさと見抜いて、しかるべき行き先を告げる。
逃げようとするものは鬼がわしづかんで私の前にひきずってくる。
ひと段落すると休憩にはいり、私は椅子に腰かけたまま体をのばした。小町はここ百年ほどはやってこなくなった。私が仕事に戻れとうるさく言うものだから、参ってしまって別の場所でさぼるようになりはじめたようだ。
休憩にはいってまもなく、幕がかきわけられて誰かが王宮に入ってきた。
はじめは小町かと思ったが、ちがった。
八雲紫を見たとたん、私はたまらず叫びそうになった。彼女は微笑みながら私のそばまで、なんら変わらない綺麗な姿勢と歩き方で、寄ってきた。とっくにうすぼけていた紫の香りが、いまは明瞭に私の頭をしびれさせている。ひさしぶりに、それこそ何百年かぶりにとんでもない緊張をあじわった。
まずは何から言うべきかと私が言葉を探していると、紫は私の手をとって王宮から連れ出していった。
「あなたに見せたいものがあるの。噂はもうこちらにも伝わっているのかしら。まあいいわ。とにかく来てちょうだい」
私は口がひらかなくなっていたが、それでいいと感じていた。紫に手をとられてなすがままになるのは、懐かしい。
「新しいふるさとをつくったわ。おびやかされることのない安泰な土地。龍からは大目玉をくらった。他の妖怪にも手間をかけさせてしまったけど、やる価値はあった」
彼岸までいくと、紫が空中にすきまをあけてみせた。そこをくぐろうというのだ。
私はその穴の先がどこにつながっているかを、なんとなくだが予想がついた。実はつい先日、上司が新しい地域で閻魔業務を行ってくれる者を求めているという話があった。そこは現世からとくべつな手法で隔離された地域だという。
そこの名前は、
「幻想郷と名付けたのよ。私がそう名付けた。実はあなたにお願いがあるのだけど、幻想郷の死者の裁判は、あなたにやってもらいたいの」
すきまの直前まできて、紫は私の顔をじっと見つめてきた。その顔のなんと綺麗なことだろうか。記憶のなかにいた彼女よりもだんぜん綺麗だ。
ずっと彼女に見惚れていた。手をはなしたくなかった。私がなかなか答えようとしないことに戸惑った紫が、もういちど言葉をなげかけた。
「どうなの?」
そんなに不安げな表情をしないでください。私の答えはとっくに決まっています。
贅沢を言わせてもらえば、タイトルも少し洒落たものを付けて欲しかったかな、とも思います。
個人的にわりと重要視する要素なので…