「こ、これは……」
まだ日も高く昼寝にはちょうどいい陽気のある日。目の前の我が主は無防備に目を伏せて寝息をたてていた。我が主――お嬢様がこの時間に眠っていること自体はなんてことはない普段の日常そのものだ。しかし、なぜ私がこうして嘆息をあげているかというと、
「すごい……ふにふにしてる……」
机に無防備に伏せたお嬢様があまりにも柔らかかったから、だ。
ここではあえてどこが、とは言わないでおこう。想像力とは人間に残された最後の幻想郷なのだから――
さて、風邪をひいてはいけないと、お嬢様のその体を持ち上げようとしたのが十分ほど前。いや、本当はもっと経っているかもしれないが、気にするほどのことではない。
そして距離にして二三歩の場所にあるベッドまでは、まだ遠い。
「お餅のような弾力……陶磁器のような純白……」
ふと廊下の掃除がまだであったと、そう思い出す。無念。最後にもう一度、人差し指でつついてみる。
「ん……」
!?
その時、お嬢様の体がぴくりと動いた。名残惜しさと寂寥が相まって力を込めすぎたか。お嬢様は目を覚ましてしまった。
「……おはよう咲夜」
「おはようございます。お嬢様」
頬をさすりながら、お嬢様が体を起こす。私は何事もなかったかのよう腕の中の毛布をお嬢様の背中にそっとかぶせる。お嬢様の瞳がこちらを見つめる。
「風邪をひいてしまっては大変ですから」
私の言葉を聞きながらも、お嬢様は頬をさすっていた。
「そう。こんな所で寝ちゃってたのね。今の時間は?」
「お昼の二時ですわ」
「……もう少し寝る」
お嬢様は毛布を羽織ったまま、椅子から飛び降りると毛布を引きずらせてベッドへと向かっていった。ちらりと、机に広がっている画用紙が気になったのだが、それはさて置きお嬢様に着いてゆく。お嬢様はベッドの手前で毛布を私に手渡すと、するりと布団の中へと滑り込んでしまった。ふわりと石鹸の匂いが舞う。お嬢様の視線が私を捕まえる。私は引き寄せられるように、枕元へと。
「ねぇ咲夜。綺麗なドレスを、着てみたい」
「綺麗なドレス、ですか。普段のお召し物では物足りないですか?」
「違うわよ。でも……その、真っ白な、裾がスラっと延びた、綺麗なドレス。着てみたい」
少しうつむき加減でお嬢様が言う。想像してみる。非常によろしい。
「これまた急ですね。繕わせましょうか?」
「……しなくていいわ。やっぱり忘れて頂戴」
「?」
疑問を抱きつつも、お嬢様が目を閉じてしまったので私は部屋を出ることにする。その途中、机の上に置いてあった画用紙には、純白のドレスに身を包んだお嬢様と……。
お嬢様の部屋を後にしてから私、十六夜咲夜は悩んでいた。悩む必要のあることなのか、と問われればこれは悩むべきことではない。喜ばしい。身に余る吉事。だがしかし、些か唐突に思えた。純白のドレス。ウェディングドレス。マリッジ。愛の契約。その健やかなるときも、病めるときも、喜びのときも、悲しみのときも、ようするに真心とともにお嬢様の小さな薔薇の花びらのような唇に不肖私の唇で、タッチ――誓いのキッスである。
oh……。
「――長? メイド長?」
と、そこで呼び声が聞こえた。咳払いで煩悩を追い出して、何事もなかったかのように応対する。我ながら瀟洒である。
「……どうしたの?」
「玄関のお掃除終わりました!」
彼女は……そう、アリッサ。この館のメイドにしてはなかなか出来る子で、確か外の世界からやってきた妖怪で裁縫が得意だったと記憶している。アリッサは満面の笑みで私を見上げていた。
「あら、早いじゃない。てっきり、何かやらかしたのかと思ったわ」
「ふふふ、そんなひどいですよ」
「他に何か仕事はあったかしら?」
「もう全て済ませてしまいました。だから、メイド長のお手伝いをしようかと」
実に出来た子である。皆がこれほど動いてくれれば、私がお嬢様のそばにいられる時間が増えるというのに。
「そう。それじゃ、廊下掃除を手伝ってもらおうかしら。モップを持って中央廊下に来て頂戴」
「はい! それでは失礼します」
彼女は元気よく言って駆けていった。
残された私はもう一度お嬢様のふにふにした感触と、ウェディングドレスのことを思い出す。何かあっただろうか。それとも、いつも通りのただの思いつきなのだろうか。
――お嬢様は、私をその気にさせることが、本当にお上手だ。
「ふぅ……大変、ですね」
アリッサが長い前髪をかき上げながら言う。これだけ長い廊下の掃除なのだ。大変でないわけがない。
「ご苦労様。もう少しで日が沈むし、先にあがってしまってかまわないわ」
「ありがとうございます。メイド長はいつも、一人でやってるんですよね?」
「えぇ。今日は貴方のお陰で早く終わったわ。ありがとう。貴方は本当にいい子ね」
そこらの妖精メイドに手伝わせては早く終わるどころか、その日のうちに終わらなくなってしまうだろう。
「ふふ、よかったです」
アリッサは節目がちにちらちらとこちらを窺っていた。むず痒くなって、尋ねる。
「どうかしたの?」
「い、いえ。ただ、メイド長みたいな方のお嫁さんになれたらな、ななんて、変ですよねっ。なんでもないですよ、本当に」
「そ、そう……」
「この前、メイドたちでちょっと話していたんです。ジューンブライドって素敵よね、とか、そんな話を……そしたら、こんなこと考えちゃって……だからなんでもないんです。失礼しますね! お疲れさまです」
アリッサは早口でまくし立てて帰っていった。
「ジューン、ブライド……」
私は長い廊下を見つめていた。
少し休憩が必要か、そう思って懐中時計に手を伸ばす。適当な部屋へ入って、時を止めた。
メイド達の休憩所。部屋には私以外、誰もいない。
椅子に腰掛ける。
「ジューンブライド」
口に出してみると、脳裏に世界が広がる。
それは、もしもの世界だ。私は女だし、第一従者だ。
だからそれは叶う筈のない、それでも私自身どこかで夢見ていた世界――
お嬢様は、どんな意図であんな話を私にしたのだろう。
お嬢様は、どんな意図で画用紙にウェディングドレス姿の自分と、タキシード姿の私を描いたのだろう。
時間が動き出すと共に、六月最後の日の、陽が沈む。
部屋にはアップルティの甘い香りと、トーストの焦げる匂いがふわりと漂っていた。席に着いているのは紅魔の姉妹。私はお二人の食事の様子をボーっと眺めていた。
私はあくまで紅魔館のメイドである。お嬢様のお隣に立つことは出来ない。それでも、ほんの少しだけでも夢見たい。お嬢様の手を引いて、その指に、そっと指輪を。
「あ、そうだ咲夜。ジューンブライドってなに? この前メイドたちがお話してたの。なんか美味しそう」
唐突に妹様が声をあげた。すっと意識が戻される。
「ふふふ、食べ物ではありませんよ。六月に結婚すると幸せになれると、そういう言い伝えです」
言ってみて、そこで恥ずかしくなった。本当に、お嬢様はどんな意図であんなことを言ったのだろうか。
「ふーん。変なの。胡散臭いのね。」
「ローマ神話にまつわる言い伝えよ。フラン、無闇に馬鹿にするものじゃないわ」
お嬢様が言う。少し意外に思えた。
「でも、変なものは変よ。お姉様だって変じゃない。普段なら鼻で笑いそうなことなのに」
私もそう思ったのだ。やはり先ほどのことは、単なる思いつきなのだろうか。――だとしたら、頭を悩ませている私はひどく滑稽だ。
「……咲夜、貴方もそう思ってるの?」
急だった。
「そ、それは……」
気の利いた言葉など、出てくる余地がなかった。お嬢様はひどく落胆した表情を浮かべて、席を立った。
「御馳走様。先に部屋に戻っているわ」
お嬢様はそのまま、部屋へと一人で帰ってしまった。
「やっぱり変なの。お姉様、この頃ずっとそうだったのよ。六月になってから、ずっと。なんかそわそわして、やたらと咲夜のことを話してた」
お嬢様が去った後、妹様が口を開く。
「――なんでだろうね?」
妹様が首を傾げて、こちらを見つめる。意図してかどうかは分からないが、赤い瞳がギョロリと私を見つめる。
その視線は、私を不安定に射抜いている。ごくり、と私が唾を飲む音が聞こえた。
長針が短針に追いついた。鐘が鳴る。
文月である。
あれから一週間が経った。
それからのお嬢様は何事も無かったかのようにいつも通りであった。部屋の掃除の際、ゴミ箱の中にあの画用紙を見つけた。胸が締め付けられる。
しかし、私も何も考えていない訳ではない。
「メイド長、お待たせしました。こちらです」
「ありがとうアリッサ。そして、なんだかごめんなさい」
「――何のことですか? だってお嬢様にぴったりの方と言えば、それは咲夜さんしかいないじゃないですか」
私のことを咲夜と呼んだのは、彼女なりの気遣いだろう。アリッサから、ハンガーごとそれを受け取る。
「……そう、かしら」
「そうですよ。それでは私はパーティの準備に戻りますね。もう白黒の魔法使いや、紅白の巫女が来ちゃっています」
「よろしく頼むわ」
「はい。失礼します」
そろそろ、お嬢様の目覚めるお時間だ。私はそのハンガーを手にしたまま、お嬢様の部屋を目指した。
心臓がいやに大きな音をたてる。お嬢様はどんな反応をするだろう。少しだけ、怖い。ドアを目の前に、僅かに深呼吸をする。
そっとドアを押して、部屋の中へ。
「……おはよう。咲夜」
分厚いカーテンが開かれたそこにはベランダがある。ティーテーブルが置かれたベランダに、お嬢様がいた。
空を見つめている。お嬢様は空を見上げたまま、口を開いた。
「こんな日は紅茶にすぅっと、ミルクを走らせてみたいわね」
「風流ですね。でも、その前にお願いがあるのです」
「お願い……ねぇ。妙に騒がしいのは、そのお願いに関係あるのかしら」
「そんなところです。静かすぎるよりは、賑やかな方がいいでしょう」
ふぅん、と言いながらお嬢様がこちらを振り返った。空には月が星が三角が、眩しい。一際輝くベガの光に浮かんだお嬢様は、いつもよりも可憐に見える。
「……咲夜、それ……」
「今宵、貴方を迎えに来ました」
お嬢様の目に映った私は、どんなだろうか。
今だけはメイド服ではない、慣れない服装。
「――それじゃあ、執事ね」
「ふふ、それは残念です。さ、こちらへ」
お嬢様がゆっくりこちらへと歩みよる。
手を取って、着替えを手伝う。誰か手伝いが欲しかったかとも思うが、やはりここは二人きりでいたい。
「……ねぇ咲夜。この前はごめんなさい」
「なんのことでしょう」
「惚けないでよ」
「私の方こそ、お嬢様の心に気が付けなかったのです」
「それでも――まぁいいか。やっぱり、今日じゃなきゃだめ?」
「今日だから、大切な日なのです」
「ケチ」
「そんなことはありませんよ」
バラのあしらわれたティアラを透き通った水色の髪に。レースのベールを乗せれば、そこには可憐な花嫁がいた。
マーメイドラインのドレスから羽が姿を見せている様は、まるで人魚かなにかのように美しかった。
お嬢様の手を引き、宴会場へと向かう。グローブ越しにもその柔らかさが伝わってきた。ふにふにである。
喧騒が近づく。ここは大扉の前。そこで立ち止まって、お嬢様は言う。
「五百年生きていても、やっていないことって沢山あるものね」
「そうでしょうか?」
「そうよ。例えば……」
お嬢様は私の首に手をかけ、顔を近づける。そしてニヤリと歯が見えるように微笑んでから、ちょこんと跳ねて、唇を重ねた。
「……!?」
唇は、ぷにぷにだった。
「こんなことも、していないじゃない」
今度はお嬢様に手を引かれるようになる。お嬢様がその手をドアノブにかけて、ゆっくりと押す。
ふと、お嬢様の部屋から見えた月を星を三角を――ミルキーウェイを、思い出す。織姫、彦星はどうしているだろうか。
七夕の、一夜限りのブライダルが眩い星のように鮮やかで、少しだけ悲しかった。
ドアが開く。同時に喧騒が止んだ。視線が突き刺さる。
水を打ったように静かなそこで、お嬢様が私にだけ聞こえるように囁いた。
「あ、そうだ。結局ジューンブライドは出来なかったから、来年ね」
微笑みながら、我儘を言う。
――レミリア・スカーレットは、私をその気にさせることが、本当にお上手だ。
浮いてくる言葉が日本語にならない
だがそれがいい!GJ!
凄く良かったです!
悶々としながら読ませていただきました
レミ咲はあはあ・・・
ふたりともかわいすぎます