「咲夜が座ってるのって、なんだか珍しいわね」
「そうですか?」
紅みがかったテーブルの上には、幾分か量を失った紅茶がよっつ、置かれていた。
まだわずかに熱を保っているその液体の前には、よっつのはんぶん、二人の少女が座っている。
残りの二人はどこかへ席を外しているらしい。赤い茶室にいるのは、二人だけ。白いエプロンを腰に結んでいるメイド服の女と、桃色の水玉模様をあしらったパジャマ服の少女だけである。
メイドは、この前習った紅茶占いを思い出していた。
ティーカップの底の茶葉の残り。それを見れば未来がわかる。彼女の働いている職場の地下の、ある無駄知識人から教えてもらった占いである。
カップに残った茶渋は、ゲストが紅茶をおいしく飲んでくれた証でもある。自分の淹れた紅茶に残る、楽しいひとときの、残滓。
メイドは、この占いが大好きだった。
「ええ、珍しいわよ
咲夜、いつも私の後ろに立ってるもの」
ポットに手をかけ、メイドは紅茶を淹れる。赤い液体が、陶器に満たされる。
それを腋目で見ながら、彼女はテーブルの上の四つのカップに目をやった。
まずひとつめのカップ。メイドの右側に置かれたティーカップには、茶渋が行儀よく、正座してカップの底に座っていた。礼儀正しい、自称都会派の魔法使い兼人形遣いが飲んだものだ。その一見過剰な自己分析に違わず、紅茶の飲み方は確かに一流らしい。まるで椅子に座った人形のように、茶葉が列になっておしとやかに座っている。
椅子、と。メイドは心に留めた。
ふたつめのカップには、ラブマーク。意図したものではないだろうが、底に残る紅茶のなかに天使の輪っかめいてハート型が浮かんでいる。今目の前で話している、彼女の主人が飲んだものだ。それを崩すまいと悪戦苦闘してカップを口に運ぶ姿がとってもかわいらしいが、言えば怒られるだろう。
ハートマークは、愛情と、それを相手に伝える、愛撫のしるしである。なんだか恥ずかしい。次のカップに目を移した。
みっつめ。三つめのカップは茶渋一滴も残っていないほど、きれいさっぱりぜんぶの紅茶が攫われていた。これは先の都会派の魔法使いと仲良くしている、野良にんげんの魔法使いが飲んだ紅茶だ。豪快というか、義理堅いというか。とにかく、まるで真っ白に洗濯したみたい。
洗濯、と。
そして四つめ。………わたし、十六夜咲夜が飲んだ紅茶。それに浮かぶ記号は、十字架。そして、その隣にかかる川。
危険と、氾濫。あまり、良い未来の暗示ではない。
椅子、愛撫、洗濯、氾濫……そして、危険。こんな占いってあるかしら。メイドは困惑した。
「…確かにそうですね、珍しいかもしれません」
悪い占いの結果は、とりあえず忘れることにする。こと、と、ポットが陶器特有のきみのよい小音を立て、もとの皿に降り立った。
取手から離れるメイドの指は細く、ぱっと見か弱な印象を受ける。が、その仕事は外見に似つかわしくない完璧そのものであった。赤い液体がなみなみ満ち満ちた陶磁器を、片手で音も立てず操るのはちょっとやそっとの技術ではない。まるで一つの彫刻を見ているようでもあった。
ありがとう、そう応える少女の横顔も、まるで一つの絵画のようである。見開いたその眼の奥、そこには赤く妖しい炎が揺らめいていた。一度爆ぜれば激しく燃え盛りそうな、そんな青年ような、乙女のような、子供のような、はげしいほのお。
もう一度、寝間着の少女が紅茶を口に持っていく。頬が微かにゆるんで、ほつれる。
ほう、と紅茶で熱を帯びた息を吐き出し、少女は呟いた。
「珍しいことには、珍しいことでお返ししなきゃね」
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
レミリア・スカーレットは吸血鬼である。そしてそのメイド、十六夜咲夜は人間である。
今日は、咲夜の数少ない館の外の知り合いが二人、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイドとの茶会であった。本当は、思慮深いことその胸囲がごとくであるレミリアが気を利かせ、若者三人だけのわくわく女子会になるはずだったのだが。
…結局、彼女の我慢が持たなくなったがゆえ、四人でのなし崩しティータイムとなったのである。
ちょっと咲夜、今まで座ってたでしょ。いまさら立たなくていいわよ。そう主人に言われて、結局座ったまま茶会は終わったけど。確かにおかしな状況ね。そう咲夜は頷いた。
上下関係とか礼儀とか、レミリアはそういうのをあまり気にしないタイプの主であったが、ふたりで同じテーブルを囲むという機会はやはり珍しい。これでも、一応メイドと主人である。
「えいっ」
「あ、ちょっと、ご主人様」
思考を続けていた咲夜の膝に、突然レミリアが飛び乗った。小さな体が、まっしろなエプロンの上でぽすんと音を立てる。ばたばたとはためく茶黒い羽根が、咲夜の鼻をくすぐった。
「あー、人間椅子だわ。一度やってみたかったの」
「人間いす...?」
レミリアが笑う。彼女は無類の冒険好きである。長い生を生きた妖怪はいろいろと擦り切れるというが、幻想郷の妖怪はその原則に囚われない。日々新しい快楽を探す、そんな精神的豊かさを持ち合わせている。
レミリアは特にその能力に長けていた。暮しの中に修行有。日々の中に愉快有。時折痛い目を見ることもあるが、というかほぼ要らぬトラブルを生み出して同居人の主に七曜の魔法使いを呆れさせるのだが、その嫌味をも享楽に変換する。その精神的余裕をこの吸血鬼は持っていた。
「……」
対して咲夜は、いつでも大真面目であった。
「ういーん!咲夜椅子でーす!
おじょー様の肩をお揉みいたしまーーす!」
「う、うおっ!?」
レミリアの僧帽筋肉に、咲夜の細い指が陥入した。うさぎのように、レミリアの体がはねる。
十六夜咲夜は超真面目なメイドである。
さらに普通の真面目さんであればまだ良いのだが、その真面目さのベクトルは北の町目指して北極到達、挙句地球を回って目指すは月へ。そんな程度にはズレている。
しかもアソビが大好きな主人のもとで働き幾数年、そのユーモアセンスは絶望的なまでにシュールレアリズムに特化してしまった。レミリアが馬鹿なお使いを頼むと、彼女は阿呆な土産と、館の外のトラブルを抱えて帰ってくる。盗賊扱いされたこともしばしばだ。要するに、天然ボケなのである。
しかし彼女も、彼女の主も、それを是正することはしない。これはこれで楽しいからである。
…いちおう、彼女の名誉のために付け加えておくと、遊び以外に関しての彼女の仕事は一級品である。人間離れしていると言ってもいい。ただその反動が、遊びの面で出てくるというそれだけなのである。
とにかく今、電気椅子と化したメイド長は、その手練でもって主人の肩こりを直そうと指を動かし始めるのであった。
「ぐいーん、ぐいーん。こってますねー、お客様―」
「ひゃ、ははっ、吸血鬼に肩こりは、なっ、あっ、
咲夜っ、もうぅっ、やめなさいよぉっ!ひゃははっ」
もぎゅもぎゅと、咲夜の指がやわらかな少女の肩を押し上げるたび、こそばゆさにレミリアのがあえぐ。体をよじれさせる。
時には強く押すように、(強くすればレミリアの体も大きく飛び跳ねる)、時には肩峰をなぞるように、(なぞればレミリアの体はびくびくんと痙攣する。)不規則に緩急をつけその肩を揉み解す。農作業に疲れて帰ってきた幻想郷的サラリーマンがこの責めを受ければ、一発で陥落してしまうだろう御業。しかし、レミリアの言う通り吸血鬼に肩こりは無い。いや、もしかしたら存在するかもしれないが今のところ彼女はそれに悩まされてはいなかった。
こそばゆい。オンリーそれだけ。先の茶会であったまった体がさらに熱を帯びる。
きゃはは、やめてよ、そう呻くレミリアと、執拗にリアクションの高いところを狙い指を突き入れる咲夜と、まるで子猫と子犬のじゃれ合いであった。子犬は、右手を子猫の腰に回し、ぐ、と身を屈める。
「腰もこってますねー」
「ひゃ!?ひゃはっ、ひゃははははは、あは、あはははははっ!!」
左手でお腹を押さえ、背骨の棘の間に指をいれる。レミリアの体が前のめりに倒れ、幸せな笑い声とともに腹を抱える。痛いのか、気持ちいいのか、こそばゆいのか、全くわからない。ただ刺激に対し逃げられない状況だけが彼女を崖下へ突き落す。
咲夜は、ぐい、ぐい、と指に力を入れながらツボを探していた。ときおり深くゆびが入る、穴みたいなのを見つけては、力を入れる。ちょっと調子に乗りすぎたのか、いたたたた!と子猫の役が叫び出した。後ろ向きに腕を伸ばして、電気椅子のおしりを叩く。
…叩かれて、咲夜はだんだん楽しくなってきた。頭の上に音符をつけ、その力をだんだんと強めていく。レミリアがべしべしと両の手で快楽に抵抗する。しかし、所詮後ろ向きの抵抗だ。おそるるに足らず!
咲夜は、追い込みのアタックをかけた!
「あいたっ。ちょっと。お嬢様、つねるのは駄目、つねるのは駄目です、痛い、いたい」
「むーっ!むーーっ!」
なんて思っていたら、意外にしたたかな反撃を喰らってしまった。苦笑する咲夜。レミリアの反撃が始まった。
後ろ手に咲夜の尻を掴み、爪を立たせる。
いたい。いたい。普通に痛い。ホールド・アンド・ペイン。吸血鬼の爪は長い。狩りの際は竜の鱗すらもかるく貫くほどの長さと硬度になる爪だから、平常時もけっこう長い。そしてつねると、けっこう痛い。
「いけませんお嬢様、私はマッサージチェアーですよ、物は、大事にと、つねひごろから、あたたたたっ」
「うるさいっ!いすがしゃべるなっ!さーかーらーうーなー!」
「いたっ、いたたたたっ!」
メイド長も痛ければ力が抜ける。いたいいたいいたい。子犬の動きが鈍くなる。それを見抜き、子猫レミリアはメイドの左手の拘束から逃れようとした。しかし咲夜は、なんとか左手で暴れる小さな体を抑える。一進一退。月と海が、波を押し戻し、引き上げ、海岸線を震わせる。
化学平衡的膠着状態に陥ったふたりのじゃれ合いは、まさに紅魔館・世紀の決戦の様相を呈していた。
「っ、この!」
このままでは完全で瀟洒なる勝利は捥ぎ取れない、咲夜が呻く。
…ここは、持ちうる必殺の武器で勝負するしかないのか…
咲夜の千三百四十一の特技がひとつ、ナイフ投げと裁縫。彼女は手先の器用さについては自信があった。
しかしお互いに殴り合うこの状態では、いくら後ろを取っているとはいえその特技を発揮すること能わず。
スイッチを押さなければ。ナプキンを取らなければ。
切り札をつかう!
「さーくーやーのー…!」
「!」
レミリアがその目を剥いた。スカートのポケットから、懐中時計が飛び出てくる。
スペル、宣言だ!
「『せーかーいー』!!!」
右手にもった懐中時計の、14時51分44秒が45秒に変わる瞬間。44秒23が24に代わるしゅんかん。そのさかいめ。境界。ボーダーライン。
時計の針に、止まれと念じる。
か、ちん。
びびびびびびびっ。
時計の止まる音が、指を伝わり、肉を伝わり、心臓を伝わり、足先を伝わる。景色が、ネガポジから、モノクロに変わり脳の錯覚、そして。
この時間は私のもの。
咲夜だけが生きている。
レミリアが14時51分45を知覚した瞬間、一瞬遅れてその感覚は襲った。背中の異物感。
しまった、やられた。
これは不味い!
「羽こちょこちょですわ!」
むん、と背中の羽を掴まれる。そしてその付け根で、五本の指が、
「ひゃああああああ!?」
いっせいに踊った。
咲夜が三千九百八十三が奥義のひとつ。時を留める能力。
デメリットは霊力消費のみ。吸血鬼であろうとツェペシュの姫であろうと、破れる者は存在しない。
静止した時間の中では吸血鬼もただの蝋人形である。一撃必殺のポジショニング。それを止まった時の中で設定し、一気に攻勢にかかる。
咲夜の必殺拳がレミリアをおそった。
「こちょこちょですわ!!こちょこちょですわ!!!!」
ひいいっ、と息を吐きレミリアの体が跳ねる。
咲夜のおしりに突き立てていた指が、虚空に放たれた。
「あっ、ははっ、ちょ、ちょっと、はね、羽は反則!」
ふふん、と咲夜が鼻を鳴らす。絶対的マウントポジション。
最近外の世界で付加されたらしい吸血鬼の新たな弱点、『翼の付け根が性感帯』だ。時を止め、咲夜がアタックポイントとして定めたのはそこであった。
体はお子様のレミリアに性的快感が効くのかどうか、そこは一抹の不安であったが、効果は十分なようだ。性感帯というより敏感なばしょ、という感じではあるが、それでも反抗する意思をそぐ程度には弱点の意義を果たしていた。
きゅ、と寝間着の下から付け根を締め上げ、ぎゅぎゅぎゅっ。
上下に指を動かして絞り上げる。ははは、やめて、やめて、バンバンとレミリアの前足が咲夜を叩く。が、もう痛くも痒くもない。
逃がしはしない!
そう息巻き左右の羽の真ん中を撫で上げる。指の動きと共鳴し、レミリアは四肢を溺れたカエルみたいにじたばたと放り出す。そして咲夜がそれを押さえつけるようにまた右手で背中をくすぐり、そしてまたレミリアは逃げるようにカエルになり、それを咲夜が押さえつけ、くすぐり、それに体を震わせ、___
夢幻の悶絶ループが完成した。
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
5分ぐらい経ったであろうか。いつしかレミリアの呼吸は、かー、ひゅー、と乾いたものに変わっている。咲夜の呼吸も、ぜー、はー、と言った濁ったものに変わっていた。
「ぜー、はー、なにやって、るんでしょう、私たち」
「し、し…かー、ひゅー……しらないわよ、はー…」
文字通り息も絶え絶え、肺で息をしながら彼女たちはぐったりと椅子にもたれ掛る。どう見ても満身創痍。そのままふたり、お互いに雪崩れこむ状態でまた数分が過ぎる。そしてまた、大きく息を吐いて、咲夜が涎を垂らして___そして、レミリアが先に回復した。
ほう、と背中を伸ばす。息も、だいたい整っているようだった。
「……早いですね」
「やっぱり人間はダメね」
レミリアがこちらを見上げる。上目づかいに、いたずらっぽく。
悪魔というより、吸血鬼というより、小悪魔のようなほほえみ。
一聞辛辣な言葉ではあったが、その語調には確かに愛しい従者への友情があった。愛情があった。
咲夜もそれに答える。言葉はいらない。ただ、柔らかに、いつも通り。微笑めばいいのだ。
優しい時間がふたりを包む。懐中時計の音すら彼女たちを祝福しているようだ。こち、こち、こち、と、永久に続くかのようなしあわせの時を刻んでいる。
ああ、本当に、永遠に続けばいいのに。
「…トイレ」
尿意に、レミリアが上体を起こした。
ぐっ。
起こせなかった。
「は?」
見ればお腹にはまだ従者の左手。
錠前のようにレミリアを掴んでいる。
「この…!放しなさいよ咲夜!」
「いや、だって。しあわせですから、もうちょっと」
「そうだけど!トイレ!トイレだから!!放してって!」
「ええー」
さすと、咲夜がレミリアのお腹を撫でた。ひっ。レミリアのお腹を鋭い痛みが襲う。
咲夜さん、完全に呆け呆けモードである。
言い忘れたが、咲夜とレミリアは人間と吸血鬼。基本腕力の差は明白、さきのじゃれ合いの際もちょっと本気を出せばレミリアは咲夜を振りほどけるはずだった。
しかし咲夜は鍛えている。時間停止とかなんとかすごい力も使える。吸血鬼にもたぶん勝てる。それにレミリアが本気の力を出せば、咲夜の腕は無事では済まない。そうなれば今日のレミリアの夕食(夜行性のレミリアにとって夕食は朝食であるが、)はパーだ。
その躊躇いが決断を遅らせたのであった。
今回もそうだった。
「あ、ちょっと、ほん、っと、その、
ヤバい、咲夜、マジ、離して」
「あ、はい、ごめんなさい、放します」
咲夜は立ち上がった。その胸の下のあたりで、顔を真っ赤にしたレミリアが震える。
けっこう、限界だったみたいだ。空気を察した咲夜が、お腹から手を離す。
うう、とレミリアは立ち上がった。その姿は弱弱しい。なんだか心配になってくる。
「一人で歩けますか」
「歩けるわよ!」
ばかにするな、といった風に、レミリアは一歩、右足を前に踏み出した。
…ところで体勢を崩す。後ろによろめくのを、咲夜が慌てて支えに入る。
鈍痛鈍痛。お腹を激しく突く鈍痛。
実はこの十数分前、レミリアが最後に飲んだ紅茶は驚異の8カップ目であった。
いつもはこんなに暴飲する方ではない。夜のレディの名が廃る。だがしかし、これにはやむを得ぬ事情があったのである。
…今日の紅茶は何だか美味しいわ。だってお客様と飲むものですし、いつもみたいに冒険できませんから。冒険って、いつもはどんな紅茶なんだよ?…紅茶なのに、なぜか、辛い。…それは、斬新かも、ね。
そんな会話が繰り広げられていたのである。実際今日の紅茶はとても飲みやすく、またお茶請けのマカロンの味も絶妙であった。それで彼女は、柄にも合わぬ暴飲暴食をしてしまったのである。何たる迂闊。レミリアは久方ぶりの苦渋の味を味わった。
ああ、どうして今の今までこの身をつんざくような尿意に気付けなかったのか。気付く術はなかったのか。溢れる後悔が膀胱を責める。いつしか回復したはずの呼吸も切れ切れ、堪らずレミリアは咲夜の胸に倒れ込む。咲夜の背中が、再び椅子の上に着地する。
彼女の腕の中で喘ぐ少女は、かつて彼女が経験したことが無いほどに弱弱しく、ただのか弱い少女であった。
我が主は、こんなにも脆かったか。従者の中に、途方もない罪悪感が流れ込んでくる。
「お嬢様…」
「う、っ…んぅ…
んんんうう…っっ」
苦しげな吐息が咲夜の胸を刺す。幸せな時間は、確実に悪夢の時間に変わりつつあった。
ああ、どうして、どうしてこんなことに。わたしのせいなの?もしそうだとしたら、なにが?なにが悪かったっていうの?私はどうすればよかったの?
たのしい時間の、めっきがはがれる。
いとしいしあわせの、幕が下りる。
お遊戯のショーダウンであった。
絶望の、開幕であった。
「さくや…咲夜…っ」
「ご主人様、喋ってはいけません!」」
レミリアの口が、唇が、弱弱しく動く。
「咲夜、わたし…」
「喋らないでください!尿道が、尿道が開きます!」
咲夜の頬を、一粒の涙が伝う。レミリアの口から、何かを伝えようと喘ぎ声が漏れる。しかし、咲夜はそれを制止した。
咲夜は、主人の言いたいことが分かったのだ。分かってしまったのだ。
でもそれは、絶対に聞きたくない言葉であった。
現を受け入れることになるから。無慈悲なる現実に、屈することになるから。でも、レミリアのスペルは止まらない。咲夜は涙を流した。
厭だ。聞きたくない。そんなこと、そんなこと言わないで。レミリアの瞼が、ゆっくりと、堕ちた。
「ここで漏らしても、いい…?」
「いけませんお嬢様っ!あなたが漏らして…、一体誰が…っ、一体誰がそのパジャマを洗濯するって思ってるんですかっ!!」
膚色のハンカチーフのように、くしゃくしゃになるメイドの顔。レミリアの赤い瞳が、その貌を優しく見つめる。
叫びは伝わっていた。感情とともに氾濫する、悲痛な叫び。
でも、レミリアの瞳から決意は去っていなかった。消えぬ蒼い焔のように、その目は上気した微笑みとともに輝いている。
咲夜には、その微笑の意味が分からなかった。どうして、自分をそんな目で見つめるのか分からなかった。
どうして、そんな目で見るの。
どうして。どうして。
こんな主人の尿意にも気付けないダメ従者を。
こんな、トイレへの距離をゼロにできもしないダメ従者を。
あなたはどうして、___そんな幸せな目で、見ることができるの。
「貴方、だからよ…」
「えっ」
「洗濯してくれるのが貴方だから…貴方だからこそ、私は堂々と、ここで漏らすことができるの」
「お嬢様…!!」
ついに、感情のダムが崩壊した。
信頼してくれている。
こんな、主と一緒になって遊び呆け、主人の尿意にも気付けないダメ従者を。
絶対に、パチュリー様にも、フラン様にも、妖精メイドにも誰にも言わないって。
絶対に、アンモニアの匂いひとつ残すことなく、後片付けしてくれるって。
…信頼してくれているんだ。
「お嬢様……」
「咲夜も一緒に、どう?」
「!」
「知ってるわよ、咲夜も…
あの紅茶、9杯目だったんでしょう?」
「………!!」
そう、咲夜もあの茶会に出席していた一人。ホスト側とは言え。一杯も飲まない道理はない。
しかも、途中乱入してきたレミリアと違い、彼女は最初から茶会に出席していたのだ。女子会とはげに恐ろしき哉。乾いたのどを潤すため、水の如く茶を啜り、乙女話に花を咲かせる傍らお花を摘むのを忘れ、そして遍く乙女は己の膀胱を痛め傷付け続けるのだ。
ああ、なんという悲劇であろうか。享楽の裏には必ず犠牲が伴う。遊戯の裏には深淵の死が、いつでも私たちを覗いているのだ。
この二人も、悲劇に踊らされたマリオネットに過ぎない。その残酷な現実が少女たちを蝕む。不幸を誘う。絶望に包む。
「お嬢様…」
咲夜が呟いた。その目には、大粒の涙が氾濫している。
しかし、もう、迷いは無かった。
「お嬢様、ご主人様。私、決めました」
ぎゅ、とレミリアの手を握る。咲夜の体温が胸に伝わり、孤高の吸血鬼ははっとした。
咲夜の瞳からは、涙が消えている。もう、悲しみの瞳ではない。絶望の瞳ではない。
主とともに前に進むための、十六夜咲夜、決意のメイド長の瞳だ!
ああ、見よ!この二人の少女の、高貴なる姿を!
この奈落の底にあってさえ、共に手を取り合い、非道残虐なる定めを受け止めようとしている彼女たちの姿を!
そう!真の希望は絶望の下で輝くのだ!真に高潔なる心を持った者は、糞尿の中でこそ輝くのだ!!
「私は、漏らしません」
やっぱり、そう。
淋しそうに、レミリアは笑う。
その瞳は、慈しみに溢れた聖母のようで、長年連れ添った友人のようで、相棒のようで。
優しく輝く目の中の宝石(ほし)を見つめるたび、いっしょにすごした毎日が。
日常の幸せが、幾多のともし火のように。
「咲夜…」
「大丈夫、」
レミリアの尿管が震えた。限界が近い。
咲夜の腕がそっと、小さな体を抱きしめる。レミリアが、咲夜の目を見つめ続ける。
淋しそうなレミリアの顔が、ゆっくりと微笑んだ。
ぬくもりに、安堵するように。なにもかもをうけいれるように。
かのじょたちはひとつになる。
最後の時を迎えるために。
ふたりで絶望をうけいれるために。
ふたつのかたまりは、とけあい、よりそいあい、ひとつになり、そして、高みへと。
「漏らしている間はずっと、一緒にいますから」
危険は、過ぎ去った。
そしてアホかわいい!
行間の開け方も素晴らしい。笑わせていただきました。
これからもがんばってください。