一
夏は夜、といえば枕草子だけれども、夏の夜の到来は遅い。
着慣れない格好をした自分の姿を見下ろしながら、私はそわそわと時計に目を落とした。
時刻は十九時。ため息をついて顔を上げると、まだ日の沈みきらない空に、月と星が薄く輝いている。全く、月と星に正確な時刻が解っても、遅れてくるのでは意味がない。
眼前を通り過ぎている人々が、ちらちらとこちらに視線を向けてくる。自分の髪の色と、この格好が多少アンバランスなことは自覚していた。それが良い意味でか悪い意味でかは見る人によりけりかとは思うが、目を惹くのは間違いない。
――似合ってるって、阿希は言ったけれども。
にんまりと笑った姫田阿希の顔を思い出して、私はゆるゆると首を振った。
『初デートに向かう中学生みたいな顔ね』
そんなことを言った幼なじみには、手近にあったぬいぐるみをぶつけておいた。
――単に、自分の格好が変じゃないか、気になっているだけ。
自分自身に言い聞かせるように、私は小さくそう呟く。
至極マイペースで、他人からの視線に無頓着なあの相棒とは違うのだ。
はぁ、ともう一度ため息をつく。十九時三分二十五秒。――そろそろかしら。
「お待たせ、メリー」
噂ではないが、何とやら。小走りの足音とともに、聞き慣れた声が掛けられる。
「三分三十秒遅刻」
「正確には三分二十八秒よ」
全く悪びれる様子もなく、宇佐見蓮子は夜空を見上げてそんなことを言った。
「四捨五入すれば三分三十秒だわ」
「残念、四捨五入すれば十九時ジャスト」
変わり映えのしないやり取り。私は目を細めて、蓮子の姿を見やる。
半袖のブラウス一枚に短めの黒いスカート。随分とまたラフな格好である。ちょうど目の前を通り過ぎていく、シャツとハーフパンツだけの男性陣と大差ない。そのくせ、頭にはいつもの帽子をしっかりと被っているあたりがアンバランスというか、なんというか。
まあ、ラフな格好といえば自分もラフではあるのだろうが――。
「ま、とりあえず日も沈むし、行きましょメリー」
陽光の消えかけた空を見上げて、蓮子が私に手を差し出す。
その手を見下ろして、私は半眼で蓮子を見つめた。
「一言もコメント無しっていうのは、ひどいんじゃない?」
私の言葉に、「ん?」と蓮子は首を傾げ、それからぽんと手を叩いた。
「あー、メリー」
「うん」
「ニキビできてる」
「どこに!?」
「冗談よ」
慌てて頬を押さえた私に、蓮子はからからと笑った。思わず頬を膨らませた私の顔を、不意に蓮子は覗きこむ。蓮子の手が私の手に触れた。少し、冷たい。
「浴衣、意外と似合ってるわね、メリー」
「……意外と、が余計だわ」
全く、一言が余分なのだ。首を振る私に、蓮子は猫のような笑みを浮かべる。
街灯の光が、薄暗さを増していく景色の中に、私と蓮子を照らし出している。
「なに、メリー。恋人同士みたいなことでも言って欲しかった?」
「そういうわけじゃ、ないけど」
「メリーが綺麗なことなんて、今さら改まって言うまでもないことよ」
「――――」
「会場まで、手繋いで行く?」
からかわれているのか、蓮子がどこまで本気なのか、私には今ひとつ計れなかった。
ただ、差し出された蓮子の手を掴むことに、抵抗を覚えない程度には――私の中で、宇佐見蓮子の締める割合が大きくなっていることは、自覚してはいる。
蓮子の右手を握り返した私に、蓮子は振り向くと目を細めて笑った。
「行こう、メリー」
いつものように私の手を引いて、蓮子はすたすたと前を歩き出す。
早足でそれに引きずられながら、私は蓮子の背中を見つめて思うのだ。
――私は、蓮子に驚いてほしかったのだろう、と。
着慣れない浴衣を身に纏って、髪をアップにした、いつもと違う自分の姿に。
そう思うということが、どういうことなのかぐらいは――解っているつもりだけれど。
どうにもこうにも、整理がつけられないままで。
私は結局、前を行く蓮子の後ろ姿に、ため息を押し殺すぐらいしか出来ないのである。
二
要するに、夏休みで花火大会だった。
正確にはまだ学期末のレポートが若干残っているのだが、とにもかくにも前期の講義はつつがなく終了し、実質的に夏休みに突入した七月の終わりのこと。
『メリー、週末に花火大会を見に行かない?』
いつもの《喫茶 月時計》のテーブル席で、蓮子はそんなことを言った。
秘封倶楽部として? それとも――宇佐見蓮子個人としてのお誘い?
私の問いに、蓮子は『後者よ』と笑って答えた。
というわけで。
今、私は着慣れない浴衣を身に纏って、蓮子の隣を歩いているわけだ。
足元のタイルを、下駄がカランカランと高い音をたてて叩く。やっぱり履き慣れたサンダルにすれば良かっただろうか、と足元を見下ろして私は少しだけ後悔した。
隣を歩く蓮子はいつもと大差ない格好。周りを見てみれば、同じようにラフな格好の男性と浴衣姿の女性、という組み合わせが目立つ。そういうありふれた人波の中に、私と蓮子も埋没しているのだろうか。――蓮子が女の子で、私が天然の金髪であるという点をさておけば。
「蓮子も浴衣、来てくれば良かったじゃない」
「メリー、浴衣ってそもそも略装よ?」
「いいじゃない。浴衣なんてもう夏祭りぐらいでしか使われない文化遺産なんだから」
だいたい、それを言ったら蓮子の格好だって随分な略装である。
「まあでも、いつも半分寝てるメリーには、寝間着の浴衣はお似合いかもね」
「起きてるわよ」
「本当に?」
意地の悪い笑みを浮かべた蓮子に、私は鼻を鳴らした。
最近変な夢ばかり見るにしても、今こうして歩いていることは現実だ。
握った蓮子の手の微かな冷たさが、現実でないはずがない。
それを確かめるように強く握ると、蓮子の細い指がきゅっと握り返してくる。
たったそれだけのことを、ささやかな幸せと感じてしまう自分に、小さくため息をついて。
「お、祭りって感じがしてくるわね」
人ごみの向こうに見えてくる屋台の灯りに、蓮子が目を細めた。
雑踏に響く、威勢のいい売り子の声。綿飴、たこ焼き、かき氷。立ち並ぶ昔ながらの庶民的な屋台の数々に、多くの人たちが楽しげに群がっていく。
「何か食べる?」
「屋台の食べ物って高いじゃない」
「野暮なこと言わないの。たこ焼き食べよう、たこ焼き」
そう言って私の手を引く蓮子。お財布の中身は大丈夫だっただろうか、と私は少し不安になった。まあ、蓮子の言う通り野暮な心配なんだろうけども。
「たこやきー!」
と、屋台でたこ焼きを注文した私たちの後ろから、元気のいい子供の声。
「あら~、こんばんは」
振り返ると、見知った女性の顔があった。白石さんだ。その足元にはわらわらと子供たちの姿。みちるちゃんとその友達の面々のようだ。
「こんばんは、白石さん。……大変そうですね」
「まあ、ね~」
綿飴やチョコバナナを手に、わらわらと走り回る子供たちの姿に、白石さんは苦笑する。
けれど、娘のみちるちゃんを見つめるその視線は優しくて、いつぞやの二人の件に少しばかり関わった身としては、そのことが微笑ましく思えた。
「おじちゃん、あたいたこ焼きみっつ!」
「みちるちゃん、そ、そんなに食べられるの?」
「あたいだけじゃなくて、あいちゃんも食べるの」
「う、うんっ」
受け取ったたこ焼きのパックを愛ちゃんに渡して、みちるちゃんは嬉しそうに白石さんのところへ駆け戻っていく。
「はいっ」
「……私の分~?」
「ん、おかーさんの分っ」
「ありがとう、みちる」
頭を撫でる白石さんに、みちるちゃんは気持ちよさそうに目を細めた。
仲良さそうで何よりね、と蓮子が囁き、私は頷く。
「れんこねーちゃん、かたぬきでしょうぶだ!」
「お? いいわよ、かかってきなさい」
陸くんがそんな声をあげ、蓮子を引っぱる。ちょっと行ってくるわね、と手を振る蓮子を見送って、それからふとこちらを見上げる視線に気付いた。
この場にいる子供たちの中では、ひとりだけ私の知らない顔だった。みずきちゃんと手を繋いで、大きな瞳でこちらを見つめる少女。頭の大きな赤いリボンが揺れている。
「おねーさんは、れんこさんのともだちなのかー?」
「え? そ、そうだけど」
「そーなのかー」
「そうなのね~♪」
頷く少女と、隣のみずきちゃんが顔を見合わせるようにして笑った。
というか、蓮子のことは知っているのか。相変わらず、蓮子の交友範囲はよく解らない。
「留美ちゃん、みずきちゃん、かき氷食べる?」
「食べるのだー」
「わたしも~♪」
白石さんが呼びかけ、ふたりが手を繋いだまま答えた。リボンの少女は留美ちゃんと言うらしい。みちるちゃん、愛ちゃん、陸くん、みずきちゃん、留美ちゃんで仲良し五人組か。まとめて面倒を見ている白石さんも大変だろう。
「騒がしくてごめんなさいね」
「いえいえ、お祭りですし」
陸くんを連れて戻ってきた蓮子に、白石さんがぺこりと頭を下げた。
型抜きを手に唸る陸くんに、蓮子は何やらコツを伝授しているようだった。子供の扱いも手慣れた様子の蓮子は、案外幼稚園の先生なども向いているのかもしれない。
「それじゃあ、また」
五人を連れて、白石さんは雑踏に消えていく。台風のような一団を見送って、私は小さく息をついた。人ごみの中にいるだけでも体力を使うのに、子供の相手など尚更疲れる。
「いいわねえ、夏休みに友達と一緒に花火大会なんて」
蓮子の方はけろりとした様子で、美味しそうにたこ焼きを頬張っていた。
「メリーも食べる?」
「ええ」
「じゃ、はい、あーん」
頷いた私に、蓮子は爪楊枝に刺したたこ焼き本体を差し出した。パックではなく。
いや、さすがにこの雑踏の傍らでそれはどうなのだ。人目というものが、
「ほらメリー、冷めちゃうわよ」
「…………あーん」
仕方なく開いた口に、熱いたこ焼きが転がり込んだ。はふ、とその熱を噛み締めて、それから蓮子を見やると、相棒は相変わらずどこまでも脳天気に笑っている。
「美味しい?」
こくりと頷いた私に、蓮子はいつもの猫のような笑みを浮かべた。
そんな蓮子の表情のひとつひとつが、今の私にはくすぐったかった。
『おねーさんは、れんこさんのともだちなのかー?』
不意に、留美ちゃんの言葉が蘇る。――その問いに、違う、と答えるときがもし来たら。
「と、そろそろ時間ね。私たちも行きましょ」
蓮子の手が、再び私の手を掴んだ。
その柔らかくて少し冷たい感触を、離さないように私はぎゅっと握りしめた。
三
屋台の並ぶ通りを抜け、川沿いの道に出る。
十九時四十分二十二秒、と蓮子が夜空を見上げて呟いた。花火大会の開始にはどうやら間に合ったらしい。人々が思い思いに場所を取る中、空いた場所を探して私と蓮子は歩く。
履き慣れない下駄に足元を気にしていると、不意に蓮子が立ち止まった。私が振り返ると、蓮子は人ごみの中に視線をやる。視線の先を追うと、また見覚えのある顔があった。
橋の上の特等席を確保して、幸せそうに綿飴を頬張っているのは西園寺さんだ。隣には紺野さんの姿もある。ふたりとも浴衣姿で、肩を寄せ合う姿は何とも微笑ましい。
「ねえメリー、あそこまだ場所に余裕ありそうじゃない?」
蓮子がそんなことを言いだし、私は眉を寄せた。
いや、さすがにそれは図々しいでしょう――と私が答えるより先に、蓮子は私の手を引いて歩き出してしまう。下駄を鳴らしながら、私は転ばないようにするので精一杯だ。
「あらあら、ハーンさんに宇佐見さん。こんばんは~」
私たちに気付いて、西園寺さんが手を振った。これ幸いと蓮子は人ごみをかき分けてそちらに歩み寄る。成り行きのまま、私もそれに着いていくことになってしまう。
「混んでいて大変でしょう。ここ、良かったらどうぞ~」
蓮子の目論み通り、西園寺さんが場所を空けてくれた。蓮子は頭を下げ、ちゃっかりそこに身体を滑り込ませる。「すみません」と私も頭を下げつつそれに従った。
「宇佐見さん、今日はふたりで?」
「ええ、メリーとデートです」
「あらあら~」
冗談めかして言う蓮子に、西園寺さんが楽しげに笑った。
私がため息とともに首を振ると、「大変そうですね」と紺野さんが苦笑する。
お互い、マイペースな相方に振り回されている同士。紺野さんと顔を見合わせて、私たちは揃って小さくため息を漏らした。
夜空に炎を打ち上げて、刹那の絵を暗闇に描く打ち上げ花火。
大輪の花を咲かせて、けれど一瞬で儚く消えていくその美は、江戸の昔から日本人の心に訴えかけるものがあるのだろう。
「た~まや~」
打ち上がる色とりどりの光に、西園寺さんが楽しそうに声をあげる。
次々と夜空に咲いては散っていく光の洪水と音に、私は半ば気圧されていた。
「凄いわね、ホントに特等席」
そんなことを呟く蓮子の声も、すぐ近くなのによく聞こえない。
ひゅるる、とまた一際高く打ち上がった花火が、七色の光を闇の中に撒き散らした。
「月まで届きそう」
ぽつりと紺野さんが呟いて、西園寺さんは振り返って笑う。
「月まで届いたら、月の兎がびっくりして地球に逃げ出してくるかもしれないわね」
「宣戦布告だって言って地球に月の軍隊が攻め込んでくるかもしれませんよ?」
西園寺さんの言葉に、蓮子が笑って混ぜ返した。民間月面ツアーも実現間もなくというこのご時世に、まったく脳天気な会話である。
花火の光に隠れるようにして浮かぶ月は、そんな地上の人間たちの会話など素知らぬ風に、ただ静かに夜空に蒼白い光を放っていた。
「――ちゃん」
と、花火の音の合間に微かな声が聞こえて、私はふと振り返った。
人ごみの向こう、きょろきょろと周囲を見回す人影が見える。――白石さんだ。
「留美ちゃん、みずきちゃ――」
ドォン、と再び花火の音。雑踏に紛れて、白石さんの姿は見えなくなる。
「メリー、どうかした?」
振り返った蓮子に、私は小さく首を傾げた。
白石さんは、人を探しているようだった。留美ちゃんとみずきちゃんの名前を呼んでいたから、はぐれてしまったのかもしれない。――この人ごみの中で、小さな女の子ふたり、すぐに見つけられるものだろうか。
「白石さんを見たの。誰か探してるみたいだったわ」
「白石さん? 子供たちの誰かとはぐれちゃったのかしらね」
蓮子も人ごみの方を見やった。花火はまだ続いているが、迷子となれば花火どころではない。
「ハーンさん、宇佐見さん?」
紺野さんが私たちに気付いて首を傾げた。私は蓮子と顔を見合わせる。このままここで花火を見るか、白石さんを追いかけてみるか――さて。
「すみません、ちょっと抜けます」
先に声をあげたのは蓮子だった。「はいはい、ごゆっくり~」と何を勘違いしたのか楽しげに笑う西園寺さんに苦笑を返して、私たちは人ごみの中に歩き出す。
しかし、この人ごみの中でそもそも白石さんを追えるだろうか――という心配は杞憂だった。花火の音の合間、留美ちゃんとみずきちゃんを呼ぶ声が聞こえて、私たちはそちらに向かう。
間もなく見つかった白石さんは、困り顔で「留美ちゃんとみずきちゃんがはぐれちゃって」と視線を彷徨わせた。GPSではこのあたりなんだけど、とモバイルを見下ろす横顔が、打ち上がる花火の光に照らされて明滅する。
「見かけては、いませんよね」
「探しますよ」
「すみません、本当に」
蓮子の言葉に、白石さんは申し訳無さそうにぺこりと頭を下げた。
「あの、みちるちゃんたちは?」
「あ……向こうに待たせてるので、メリーさん、ついていてもらえますか」
「解りました」
人ごみの中、よく知らない少女を捜すよりはそっちの方が気楽だ。「じゃあメリー、そっちはよろしくね」と蓮子は白石さんとともに歩き出す。私も人ごみをかき分けて、みちるちゃんたちの元へ向かった。
「留美とみずき、ふたりでときどきかくれたりするんだ」
「そうなの?」
「留美ちゃんとみずきちゃん、なかよしだから」
陸くんが言い、愛ちゃんが答える。この五人組、みちるちゃんと愛ちゃん、留美ちゃんとみずきちゃんがそれぞれペアで、ひとりだけ男の子の陸くんが両者の繋ぎ役らしい。
「あたいと愛ちゃんのほうがなかよしよう!」
みちるちゃんがそんなことを言って、愛ちゃんにぎゅっとしがみつく。愛ちゃんは目を白黒させていたけれど、その顔は嬉しそうだった。
「かくれんぼすると、いつもふたりでおなじばしょにかくれてるんだ」
だからつまんないんだよ、と陸くんは頬を膨らませる。
あるいは、ふたりはこの人ごみの中で隠れんぼでもしているつもりなのかもしれない。
それに振り回される大人にしてみれば、もちろんいい迷惑なのだけれども。
「あ、いたいた。おーいメリー」
と、そこに蓮子と白石さんが戻ってきた。傍らには、あのリボンの少女とみずきちゃんを連れている。どうやらふたりは無事見つかったらしい。
「ただいまー、わはー」
両手を広げてみちるちゃんたちの方に駆け寄る留美ちゃん。その片方の手はしっかりとみずきちゃんと繋いだままで、本当に仲が良いのだなぁ、と私は目を細める。
「すみません、本当に助かりました」
「いえいえ」
申し訳なさそうに頭を下げる白石さんに、私と蓮子は揃って首を振る。
「花火もまだ続いてますし、せっかくだから楽しんでいきましょう」
蓮子がそう言った瞬間、一際大きな花火が盛大に夜空に広がった。
七色の光を見上げて、子供たちが感嘆の声を上げる。
私は隣に立った蓮子の横顔を見やって――離していた手を、もう一度握り直した。
握り返してくれる手の感触に、少しのくすぐったさを噛み締めながら。
そのまま私は、蓮子とふたりで夜空に煌めく大輪の花々を見上げていた。
四
大学の夏休みというのは、とにかく長い。
高校以下の夏休みが終わってなお一ヶ月ある、という事実は嬉しくもあるが、アルバイトもしていない身の上では若干時間を持て余し気味だった。
本を読む時間がいくらでもあるというのは有り難い話だが、いかんせん暑い。部屋のクーラーをかけっぱなしにしていたら、電気代も馬鹿にならないのである。
「だからって、駅地下の待ちあわせ場所で読書っていうのもどうなの? メリー」
「涼しいからいいのよ」
隣で肩を竦める蓮子に、私は恩田陸の『ライオンハート』を捲りながら答える。
「大学よりは駅の方が近いし、喫茶店に入ったら結局はお金がかかるじゃない」
「ま、いいけどね」
隣に腰を下ろした蓮子も、買ってきた文庫本を取り出して開いた。
ふたり並んで腰を下ろし、本を読む。会話もなく、肩を並べて活字を追うだけの時間が、私は好きだった。阿希なんかには「ふたりで居てそれってどうなのよ?」と呆れられたりもするが、別にいいではないか。
ふっと本から顔を上げたとき、隣に蓮子の横顔がある。
それが少しだけ、幸せだったりするのである。
結局そのまま一時間以上を潰して、待ちあわせ場所に人の姿が増えてきたところでベンチを立った。《月時計》でも行く? と声をかける蓮子に、どうしようかしらね、と首を傾げながら、私たちは駅の中をゆっくりと歩く。
駅通路の壁に貼られたポスターをなんとなく見やっていると、不意にポスターの列が途切れて、子供の絵が並び始めた。クレヨンで塗りつぶされた幼稚な絵。描かれているのは簡略化された太陽や花、そして子供とその家族らしき笑顔。
どうやら幼稚園の子供たちの絵らしい。絵の下にひらがなで名前が書かれている。
「《夏休みの思い出》ねえ。またベタな」
蓮子もその絵の方を見やりながら小さく肩を竦め、
――私と蓮子は同時に、それに気が付いた。
並んだ子供たちの絵は、どれもカラフルなクレヨンが目一杯に使われていて華やかだ。海、山、遊園地、あるいは花火。ぱっと見で何が描かれているのか解りやすいものからちょっと首を傾げるものまで様々だが、基本的に方向性はどれも変わらない。
ただ一枚、隅の方に飾られたその絵だけを除いて。
その絵は、一枚だけひどく異質な存在感をもって壁に飾られていた。
真っ黒なのだ。画用紙一面が、黒いクレヨンだけで真っ黒に塗りつぶされている。
他の色は一切無い、本当にただ真っ黒なだけの絵。いや、これは絵なのだろうか。
近付いてみると、絵の下にタイトルと作者の名前が記されている。
タイトルは――《はなびたいかいのよる》。つけたのは恐らく幼稚園の先生だろう。飾らないというわけにもいかず、苦し紛れにつけたのかもしれない。
そして、作者の名前は――。
「あ」
その名前を見て、私と蓮子は同時に声を上げていた。
――《くろさき るみ》。
そう、並んでいたのは、神沢さんの幼稚園の子供たちの絵だったわけである。
探せば、他の子たちの絵もすぐに見つかった。例えばみちるちゃんは、三人で遊んでいる絵。他の二人はおそらく白石さんと愛ちゃんだろう。愛ちゃんも同じような絵を描いていた。陸くんはヒマワリとおそらくは風見さんを描いたらしい絵。みずきちゃんはふたりで手を繋いで向き合っている絵で、たぶん相手は留美ちゃんなのだろう。どれも子供らしい微笑ましい絵だったのだが――。
その中で、留美ちゃんの絵だけが、やはり明らかに異質だった。
夏休みの思い出、という題材で、真っ黒に画用紙を塗りつぶして終わる絵。
――何かひどく苦いものを噛んでしまったような感覚に、私は身を竦める。
花火大会の日に見た留美ちゃんは、何か問題のあるような子供には見えなかった。仲良くみずきちゃんと手を繋いで笑うその顔は屈託なく、愛されて育った子供のものに私には見えた。
彼女は何を思って、画用紙を真っ黒に塗りつぶしたのだろう?
彼女の夏休みの思い出は、こんな真っ暗な闇のようなものだったのだろうか?
花火大会の夜に一度会っただけの少女の笑顔が、しこりのように胸に引っかかった。
「さてメリー、これは今日の目的地は決まりかしら?」
帽子を被り直して、蓮子は私の方を振り返る。
「目的地って」
「気になるじゃない、こんなもの見せられたら。――真相を確かめないとね」
帽子のつばを持ち上げて、しかしいつもの笑みは見せずに、蓮子は私を見つめた。
「あの子がなんでこんな絵を描いたのか、確かめに行きましょ、メリー」
五
幼稚園はちょうどお昼寝の時間らしく、奇妙に静まりかえっていた。
部外者の私たちが訪ねていって、すぐに神沢さんに会えたのは、白石さんとみちるちゃんの件があったからだろう。蓮子の無駄に広い人脈というのは、つまりはこういうことなんだろうなあ、と何となく思う。
「留美ちゃんは、こう言うのもなんだけど――少し変わった子なのよね」
駅に飾ってあった絵の件で、と言うと、神沢さんはすぐに思い当たったらしく、困り顔で首を傾げてみせた。
「普段はごくごく普通の、明るい子なんだけど。ときどき私たちの常識からは少し外れたようなところがあって。あの絵もそうだったの」
職員室の応接ソファー。私と蓮子はお茶を口にしながら、神沢さんの話を聞いていた。
「夏休みに一番楽しかったこと、嬉しかったことをお絵かきしましょう――って言ったの。留美ちゃんは画用紙を見つめて、何度かまばたきして、それから一心不乱に画用紙を塗りつぶし始めた。最初は夜空でも描いているのかと思ったんだけど、一面全部塗りつぶして『できた』って言うから、困っちゃって」
「黒の下に他の色を塗っていた、とかは?」
蓮子が訪ねるけれど、神沢さんは首を横に振る。
「白の画用紙の上に直接黒で塗りつぶしただけ。『何を描いたの?』って尋ねたら、少し迷ったような感じで黙ってから『はなびのとき』って答えたわ」
――花火のとき。あの花火大会のときのことだろうか。
「それ以上は何も言わなくて。これで完成って本人が言い張ってるのを、描き直しなんて言うわけにもいかなくてね」
「……こういうことを聞いていいのか解りませんけど、家庭的に問題があるとかは」
私は躊躇いつつも、そのことを尋ねる。
真っ黒に塗りつぶされた絵。そんな異質には、どうしてもひどく生々しい背景を想像してしまう。けれど神沢さんは、それにも首を横に振った。
「ご両親にもあの絵を見せて少し話をしたのだけれど、どうしてこんな絵を描いたのか、ご両親も心配されてた。みちるちゃんや陸くんから聞いたけど、花火大会のときに留美ちゃんとみずきちゃんがはぐれたことがあったんですって?」
「ええ、私たちも探すのを手伝いました」
蓮子が頷く。
「そのはぐれている間に何かあったのかもしれないけれど、留美ちゃんもみずきちゃんも話してくれないのよね」
人ごみの中ではぐれた仲良しのふたり。真っ黒な絵。
「みずきちゃんの絵は――」
「留美ちゃんと花火を見に行ったときの絵だそうよ」
女の子ふたりが手を繋いで向き合っていた、みずきちゃんの絵を思い出す。
「蓮子、ふたりはあのときどうしてたの?」
「私たちが見つけたとき? 人ごみから少し外れた物陰から出てきたのよね、ふたりとも」
「物陰から?」
「川沿いの街路樹の陰に、かくれんぼでもするみたいにして居たのよ」
花火を見に行って、そんなところでふたりは何をしていたのだろう。
はぐれた場所でじっとしていたのだろうか。
「留美ちゃんとみずきちゃんは、仲良しなんですよね」
「ええ、姉妹みたいにいつも一緒」
「あの絵、みずきちゃんは見て何か言ってましたか?」
「……そういえば、みずきちゃんは何の絵なのか解ってるみたいだったけど」
私の問いかけに、神沢さんは首を捻る。
ふむ、と蓮子はひとつ鼻を鳴らして、脱いでいた帽子を指でくるくると回した。
「――留美ちゃんの描いた絵って、他にあります?」
「留美ちゃんの絵? 現物は本人に返しちゃってるけど……写真ならあるかな」
神沢さんは立ち上がり、机の方に向かった。私は湯飲みを置いて蓮子を振り返る。
「何か解った?」
「んー」
蓮子は帽子を弄りながらひとつ唸る。どうやら考え中らしい。私は空になった湯飲みを手の中で弄びながら、神沢さんの背中を見つめた。
あの絵を留美ちゃんは、花火のとき、と言った。
あれが夜空だとしたら、なぜそこに花火を描かなかったのだろう。
あんなにたくさんの、華やかな光の花が夜空には咲き誇っていたのに。
真っ暗な夜空に、彼女はいったい何を見たのだろうか。
「ええと、例えばこれね。今年の春に描いた『ともだち』の絵。左下が留美ちゃんの絵」
戻ってきた神沢さんがアルバムを差し出す。一枚の写真に、四枚の絵が写っていた。
留美ちゃんが描いていたのは、短いツインテールの女の子。みずきちゃんだろう。
右上は愛ちゃんの絵のようだった。みちるちゃんと思われるリボンの女の子と、愛ちゃんらしきサイドポニーの女の子が並んで笑っている。
「――留美ちゃんって、絵は上手いんですね」
「ええ、見たものをその場で描いたりするのは上手なの」
蓮子の言葉に、神沢さんが頷いた。
その答えを聞いて――蓮子は、弄っていた帽子を一度目深に被る。
「ああ……なるほど、ひょっとしてそういうこと?」
呟くような蓮子の言葉に、私と神沢さんは目を見合わせ。
「だとしたら――最近の子供は本当におませさんねえ」
蓮子はひとり、ひどく照れくさそうに苦笑した。
六
「あ、れんこねーちゃんだ!」
お昼寝の時間が終わって、置きだしてきた陸くんたちが、玄関先に居た私たちを見つけた。
陸くんが駆け寄ってくると、一緒に他の四人もついてくる。
もちろん、その中には留美ちゃんとみずきちゃんの姿がある。
「はいはいストップ。おねーさんは留美ちゃんとみずきちゃんにちょっと用があるのだ」
「え?」
蓮子の言葉に、陸くんが振り返った。留美ちゃんは「わたしなのかー?」と首を傾げ、みずきちゃんはその隣で笑っている。
「留美ちゃん、みずきちゃんのこと好き?」
「うん」
「みずきちゃんは?」
「だいすき~!」
顔を見合わせて、ふたりは「えへへー」と笑い合った。
微笑ましいその様に私が目を細めていると、蓮子が振り返り小さく肩を竦める。
「つまりは、そういう話なのよ」
「……どういうこと?」
「あの絵は確かに彼女にとって、《夏休みで一番楽しかった、嬉しかったこと》を描いたものだっていうことよ」
目をしばたたかせる私に、蓮子は不意にすっと歩み寄って、私の手を取った。
「れ、蓮子?」
「メリー」
ひどく甘やかな声で、蓮子が囁く。距離が縮まる。蓮子の顔が近付いてくる。
蓮子の手が肩に触れた。私たちを囲む子供たちが「おー?」と声をあげる。
「ほらメリー、目、閉じて」
「ちょ、ちょっと、蓮子――!?」
真正面から、蓮子の黒い瞳が私を見つめた。
そこに映っている自分の顔は、おそらく真っ赤だったと思う。
突然の接近に、心臓がばくばくと音を立てて跳ね、
近付いてくる蓮子の吐息がくすぐったくて、私は思わずぎゅっと目を閉じ――。
「こらそこ、何をしてるのよこんなところで!」
神沢さんの声に私ははっと目を開け、蓮子は肩を竦めて私から身を離した。
子供たちの誰かが「ちゅー?」と言った。「ちゅー!」誰かが叫んだ。
いや、だからちゅーって、ねえ蓮子、いったい何を――。
「神沢さん。――つまりあの絵は、そういうことなんですって」
「え? え、ちょっと、宇佐見さ――」
「ほらメリー、謎も解けたところで帰るわよ」
「れ、れれれ、蓮子っ――」
神沢さんを置いてけぼりに、何か「ちゅー!」と盛り上がる子供たちに手を振って、蓮子はそれから私の手を掴んで歩き出した。
私は引きずられるようにそれを追いかける。
握りしめられた蓮子の手の感触が、ひどくこそばゆい。
近付いた吐息は、触れあわなかったはずなのに。
まるで触れられてしまったみたいに、心臓が痛いほどに音をたてていて。
真っ赤になった顔を伏せながら、私は蓮子についていくしかなかった。
七
「……説明してもらうわよ、蓮子」
幼稚園の建物が見えなくなったあたりで、蓮子の手を離して、私はようやく口を開いた。
心臓はまだ高鳴っていたけれど、ともかく狐につままれたように釈然としない。
突然あんなところであんなことをされて、また勝手にひとりだけ蓮子は納得しているのだ。
――このままではこっちが完全に驚き損ではないか。
「説明って言われてもねえ。――みずきちゃんの絵を見た時点で気付くべきだったわ」
蓮子は帽子を被り直すと、呆れたように肩を竦めた。
「ねえ、みずきちゃんの絵、変だと思わない?」
「変って?」
留美ちゃんの絵の話だったはずなのに、どうしてみずきちゃんの絵の話になるのだ。
「彼女も花火大会のときを描いた絵でしょ? それなのに、みずきちゃんもあの絵の中に、花火を描いていなかった。向き合っているみずきちゃんと留美ちゃんの絵だったでしょ」
「……そういえば、そうだけど」
留美ちゃんの絵を思い出す。手を繋いで向き合う女の子ふたりの絵。
その背景に、花火らしきものは描かれていなかった。
「あのふたりはきっと、同じ場面を描いたのよ」
「同じ場面?」
「ただし、視点が違うの。みずきちゃんは客観的に、留美ちゃんは主観的に描いたのよ」
――主観的?
「友達を描いた絵でも、愛ちゃんはみちるちゃんと自分を並べて描いていたけど、留美ちゃんはみずきちゃんひとりだけを描いていたでしょ。留美ちゃんはきっと、常に見たままを描いているのよ。自分の姿は自分からは見えないから」
「見たまま……」
「花火のとき、って言ったのは、ふたりの照れ隠しなのね、きっと」
そう言って笑った蓮子に、ようやく私もおぼろげに理解できた。つまり――。
「あの真っ黒な絵は、目を閉じている間を描いた――っていうこと?」
はいご明察、と蓮子は笑った。
「花火を見に行って、だけど花火を描かず、向き合って目を閉じて――はぐれたふたりは、街路樹の陰で何をしていたのかしらね?」
「……ふたりとも幼稚園児よ?」
「あらメリー、初恋は遅かった方? いいじゃない、恋に年齢は関係無いわよ」
楽しげに蓮子は帽子のつばを指ではじいて、それから私を振り返る。
屈託のない笑顔で私を見つめる蓮子の視線に――私は火照る顔を逸らした。
「仲良し女の子同士、夏休みの一番の思い出がファーストキスなんて、微笑ましいじゃない」
――そんな笑顔で見つめないで。
私が、どうしていいか解らなくなるから。
「ん、照れてるの? メリーってば可愛い」
「れ、蓮子――」
蓮子の手が、私の手を掴んだ。
はっと私は顔を上げて、
目の前に、蓮子の顔があって、
一瞬、吐息が触れあった気がした。
それはもちろん、気のせいだったのかも知れないけれど。
「さて、《月時計》でも行きますか」
くるりと私に背を向けて、蓮子はどこかわざとらしく声をあげた。
私は微かに吐息の感触が残る口元に指を当てて、その背中を見つめて。
「……いいわね、今日は思い切り濃いコーヒーでも飲みたいわ」
そう答えて、蓮子の隣に並ぶと、その手を握った。
ふと重なる視線が、ひどくくすぐったくて、ふたりして笑い合って。
――こんな甘い気持ちがあれば、ケーキなんて要らないだろう、なんて思った。
他のキャラの話もきになりますねぇ 楽しみにしてます
あ、あとすいませんコーヒーください
甘い、だがそれがいい
このシリーズ大好きです
甘味? そんなのこのSSで十二分だZE
期待してたらそれ以上のものが投下されたときの気持ちといったら。
続きがきになって仕方がありません。
マスター、私にもコーヒーお願いします
その甘さが良いのです。
なんという2828感…
ちょっとブラック一杯欲しくなるなぁ~
また次回作も楽しみに待ってますね~
ところで月時計について詳しく。
そういえばメリーが読んでいた恩田陸さんの『ライオンハート』
あれいい話ですよね、大好きです。
それはともかく
朝の引き立てコーヒー飲んでくるもちろんブラックで
さてコーヒーをいれるか…
蓮メリちゅっちゅは正義です!!
ちょっとコーヒー淹れてくる
神沢さんが誰か解らなかったのが悔しい
さて、紅茶でも飲むか。え?当然砂糖たっぷりのミルクティーですがなにか?僕甘党なんでねwww
ちゅー!
>>35
神綺様だと思われ
まるでラグドゥネームのよう
上白沢慧音 → 神沢景子かと思ってた
上白沢慧音 → 神沢景子で合ってるよ
変なシリーズですがお楽しみ頂けているようで何よりです。
神沢さんはけーね先生です。口調を変えてるので解りづらかったですかね。
神沢さん(と藤川朋子さん)の話はまた別の機会に。
旧作組は、自分が旧作をプレイしていない関係で出てくる予定は今のところありません。
とりあえず次作は「ヒマワリの咲かない季節」に出てきた薬屋ういちゃん(≒メディスン)の話の予定です。
……許せるッ!!
え、なんでかって? 読みふけっちゃうと、飲むのを忘れるでしょう?
まあそれはそれとして、
相変わらず脳が砂糖図漬けになりそうなほど甘い作品をありがとう。
いつも2828しながら読ませてもらってます(^^)
百合とルーミスタグに釣られてきたらまさかの秘封ちゅっちゅで悶え死にかけたw
ちゅっちゅ手前のこそばゆさがもうね……たまらんですよはい
>>66
愛ちゃん→大ちゃんだと思ったけど……合ってるかは分からん
ブラックで!
キャラがどんどん出てきて世界が広がっていく感じがたまりませんね。
もっともっと見てみたいと思いましたが、あとがき見る限り想像以上に作者様は色んな話を考えているようで期待大大です。
あのタグの意味が読後になってようやく分かりましたw
面白かったです。
エスプレッソ、濃い目で。
紺野さんて妖夢モデル?
>>73
読んでて愛ちゃん→大ちゃんだと思ったから合ってるんじゃないかな?