「はーるよ、来い」
雪が積もりに積もった神社の庭先に、小さく呟かれた声が消えていく。
縁側に腰掛けている博麗霊夢は温かな湯気が立つお茶を飲むと、内側からじんわりと広がる感覚にほぅ、と息をついた。
四月上旬。もう初春と言っても問題の無い頃だというのに、幻想郷は寒い日が続いていた。
この雪もつい二日前に降ったのだが、そのせいでいまだに溶ける様子も無い。
「はーるよ来い、はーやく来い」
それだから、日課の掃除なんて出来る訳もなく、霊夢はこうして呟きながらボーっと過す事しか出来なかった。
ビュウ、と冷たく刺すような風が吹く。思わず身震いをさせ霊夢はいそいそとお茶で体を温めた。
こうも寒いと出かける気も起きず、他の連中もそうなのか訪れる気配も無い。
毎日のように訪れる霧雨魔理沙さえここ数日姿を見せなかった。
幻想郷の春はリリー・ホワイトという一匹の妖精が現れると同時に訪れる。
どうしてそうなのかは誰にもわからないが、ぽつりぽつりと彼女を見たという話しが出てくるとあっという間に暖かくなり、春の色が差し込むのだ。
だからリリー・ホワイトは「春告精」とも呼ばれる。彼女が通った道には花が咲き、ほんわりとした空気で満たされる。
それなのに。もう四月だというのに。リリー・ホワイトはまだその姿を見せていなかった。
一体どこにいるのやら、リリー・ホワイト。
太陽の陽に反射して光る庭の雪を見つめ、霊夢はため息をついた。
その時だった。先程よりもずっと強い風が横から吹き抜けゴウと音を立てた。
一瞬で辺りが薄暗くなったかと思うとどんどんと気温が下がって寒くなり、僅かに感じていた陽の温もりもお茶の温かさも消え、霊夢はたまらず自分の肩を抱いて身を縮ませた。
屋根の上からくすくすと、女性の笑い声。霊夢が呼びかけると声の主が屋根を蹴って飛び降り、霊夢の前に立った。
薄紫色の髪に白い帽子を被せた背の高い女性はスカートの裾を摘むと、震える霊夢に膝を少し曲げて挨拶をした。
「元気な挨拶ね、レティ」
「ええとても元気よ、あなたはそうでもなさそうね霊夢」
寒さで震える声で霊夢は睨みながら言うが、レティ・ホワイトロックに柔らかく微笑んでそれを受け流された。
レティ・ホワイトロックは秋の終わりから春の始まりまで猛威を奮う冬の妖怪である。
冷気を操り、存在するだけで辺りを震える位の寒さをもたらすこの妖怪は、今頃なら姿を消しているハズなのだが。
どうやら春が遅れている分、冬が長くなっているらしい。
そりゃあ元気よね、と霊夢は露出している肩を摩って暖を取りながら呟いた。
「で、何しに来たの?」
「特に用は無いわ。近くを通ったら仕事をサボってだらけているあなたを見つけた――」
「サボりじゃなくて出来ないだけよ! 雪のせいで出来ないだけ!」
「――そう。なら、雪かきでもすればいいじゃない」
霊夢は答えず、頬を釣り上げさせながらレティから視線を外した。
どうやら図星らしく、気まずそうに頬を掻きながら。
「……したわよ、先週」
ぽつりと、小さく呟いた。遠くの林から聞えた雪の落ちる音の方が大きい位の声だった。
外した視線の端でレティが苦笑いを浮かべながら、呆れて肩をすくめていた。
「どっかに行く途中ならさっさと行ったら? ついでにリリーを見つけたら早く春を告げに来いって言っといて」
半ば開き直って霊夢は言った、せっかくのんびりと過していたのを邪魔された上にそんな事を言われては、たまったものではない。
「そうね、そろそろお寝坊さんを起こしに行かないと」
「お寝坊さん?」
「リリー・ホワイトよ」
本当にそうだとは思わず、霊夢は少し驚いて空の天気を確かめているレティを見た。
「あんた、リリーがどこに居るか知ってるの?」
「へ? ええ知ってるわ」
返答に、さらに驚く。レミリアが聞いたら喜びそうな言葉だった。
霧の湖の近くにあるあの館の小さな当主は、一度リリーを捕まえようとして失敗をしているのだ。
それ以前にも春になると霊夢を含めた人妖の間では『リリーがどこにいるのか』というのがもっぱらの話題なのだが、まさか冬の妖怪がそんな事を知っていようとは。
「リリーって普段どこに居るの?」
「んー……教えていいものやらか」
レティが困った表情をして頬をポリポリと掻く、ずっと気になっていた疑問が解決出来るチャンスだと霊夢はさらにしつこく聞いた。
しつこすぎる程しつこく、するとレティはまた呆れる様に肩をすくめ、観念して頷いた。
「だったら一緒に行く? どうせあなた今ヒマなんでしょ?」
ヒマじゃない、掃除が出来ないだけと言い返したかったが、霊夢は素直に頷いた。
そうと決まればなんとやらと、レティが地面を蹴ってふわりと浮かび上がる。
「ああちょっと待って、はんてんを取ってくるから」
そんなレティを慌てて止める、このままでも寒いというのに、空なんか飛んだら絶対に風を引いてしまう。
ふわふわと漂うレティが頷くのを確認してから、霊夢は衣服をしまった箪笥がある寝室へと向かった。
はたはたと向かい風によって首に巻いたマフラーが揺れる。
自身を包むはんてんの暖かさに気分を良くしながら真っ直ぐと、横に並ぶレティが物珍しげにその様子を見ていた。
巫女服の上にはんてん、一風変わった装いとでも思ってるのか。
しばらくして、前方に霧が見えてきた、霧の湖が近づいてきたのだ。
リリーはその先の妖怪の山に居ると、レティが真っ白で見えない先を指差した。
「いつもは太陽の畑からみんなで来るけど……霧が濃すぎて前が見えないわね」
霧が体につき、水滴が凍らないように少し距離を取ったせいで。影のようにぼんやりとしか見えないレティの呟きが横の方から聞えた。
「みんな?」
頬についた水滴を拭いながら霊夢は聞き返す。服にも水滴が付き、それをいちいち払っているとレティが聞えやすいようにと少し近づいてくる。
「幽香と、秋姉妹の三人と、まあ毎年って訳じゃないけどね」
「妖精一人に結構な面々ねぇ」
幽香。風見幽香とは幻想郷で長く生きる妖怪である。
四季の花がある場所で過し、向日葵の咲き誇る太陽の畑でよく見られる事から幽香を夏の妖怪と思う者も多い。
秋姉妹は妖怪の山に住む紅葉と豊穣を司る神様だ。
冬の妖怪に加え、そんな連中までとは。
ふっ、と視界が晴れ、紅魔館が見えてきた。
「あの娘は特別なのよ」
額についた水滴を拭いながらレティが霊夢を向いてウィンクした。
「リリー・ホワイトは最初、ただ春が来たら皆にそれを伝えたがるだけの他と変わりのない妖精だったの。でもそれがいつの間にか人間や大多数の妖怪達の中で……こうとでも思ったのかしらね。『あの風変わりな妖精は春そのものではないのか』ってね」
そんな訳無いのに、とレティがくすくすと笑う。
「だからリリーは春告精、春をもたらすと思われるようになり、リリー自身もいつしかそうなった」
確かにただ居るだけで花を咲かせたり、春の陽気をもたらすというのは普通の妖精には出来ない。人間の信仰や認識で姿や性質が変わることは稀だが、ありえる事なので霊夢は納得してふんふんと頷いた。
山に入った途端、まだ雪が残る木々がざわざわと重く揺れたかと思うと、何人かの哨戒天狗が眼前に飛び出してきた。
すわ何事かと霊夢は持っていた札に手をかけた、侵入者を素早く認知して駆けつけたのだろう。
山の連中は来訪者を好まない、つまりは面倒臭いが、一戦交える必要があるのかもしれない。
「……?」
しかし天狗達は現れただけで、こちらに警告をする訳でもなく。それどころか手を振って歓迎して始めた。
呆気に取られていると、レティが横で手を振り返す。数人の天狗達の間を通りすぎた所で。
「おいレティ、早くあいつを起こしてくれよ、寒くて構わん」
「わかってるわよー」
投げかけられた天狗の一人にぶっきらぼうにレティが返した。
天狗達の姿が見えなくなった所で、レティがゆっくりと地面に降りはじめた。
「ん? ああこの時期だけよ」
怪訝な顔をしている霊夢にレティが説明した。いつだったか山の神の所へ行くときしつこく邪魔をされたのに、すんなり通されて釈然としないでいたのだ。
降りたのは山のちょうど半ばの所か、レティがそのまま歩き出すので、霊夢もその後を付いて行った。
ジャリジャリと濡れた地面を歩く、獣道ですらない所をレティはすいすいと進んで行くが。霊夢から見れば当ても無く歩いている様にしか見えなかった。
軽く辺りを見回す。どこもかしこも解けかかった雪が残った木ばかり。
「ねぇ、どこ行こうって――」
自分だけが迷ってる様な気がしてならないので、先にリリーがどこらへんに居るのか聞こうとレティの肩を叩いた所で、不意に四方からザッと無数の影が飛び出して来た。
「なっ!」
霊夢は思わずレティの腕を掴んだ、飛び出してきたのは妖精だった。
大小様々な大きさの妖精、尋常じゃない数だ。そいつらはあっという間に二人を取り囲み、ぐるぐるとおどける様に回り始めたのだ。
「落ち着きなさい、霊夢」
腕を掴まれて一度立ち止まったレティが、すました表情のまま、また歩き始める。
ひっぱられるように続いた霊夢に合わせるように、一定の距離を保って妖精達も動いた。
「これは一体何? 説明してレティ」
「これはね――」
レティが答えようと口を開く。だがその前に妖精達が、ざわめいた。
『クスクス』
『人間だ、珍しいね』
『レティといるよ? いいのかな?』
『わかんない、でも大丈夫じゃない?』
『じゃあ連れて行こうよ、そうしよう!』
『クスクス、あの人間驚いてる、クスクス』
クスクスと、妖精達が笑いあう。
連れて行く? その中から聞えた会話に、霊夢は眉を潜めた。
「道に迷うのは、妖精の仕業」
何がおかしいのか、レティまでもがクスクスと笑いながらそんな霊夢を見て言った。
「この子達はここらへんにいる妖精よ、リリーの所に行かないようにこうやって来る者を道に迷わせるの。山の妖怪だって辿りつけないわ。まぁ案内役って言えばいいのかしらね?」
「妖精が? ……気が付いたら崖から落ちてるなんて嫌よ?」
「まぁ適当に歩いてるといいわ、そのうち着くから」
本当に大丈夫なのかと、のんびり歩き続けるレティの横顔を見る。
しかしこのままおどおどして妖精に笑われるのもシャクなので霊夢はレティから離れ、同じようにすました顔を装った。
しばらく見えた山の光景は足元の地面だけだったので、小石に躓かないように気をつけるだけだった。
どうやら上手く誘導されているらしく、不思議と真っ直ぐ歩いている感覚だけが続いている。
少しばかし不安はあるが、ここまで来てしまったなら後はなるようにしかならない。
そう思った瞬間、来た時と同じように妖精達がぶわっと羽音を立てて散った。
「――わぁ」
そして眼前に広がった光景に、霊夢は思わず感嘆の息を漏らした。
妖精達によって連れられたのは小さな花畑だった。
円の様に広がって咲き乱れる花々の、ちょうど中心にそれはあった。
子供より少し大きい位の白百合が蕾のまま咲いていた。まるで呼吸しているかのように、風もないのにゆらゆらと揺れている。
リリーがその中にいるという事はすぐに理解出来た。そうじゃないとこんな大きな白百合が存在している事に納得がいかなかった。
この花畑だけまるで春の様子で、その中にレティが足を踏み込ませると、数匹の虫が慌てて飛んで逃げた。
「さて、お寝坊さんを起こさないとね」
レティが白百合の横に立つ、霊夢が追いつくのを待ってから、レティはノックする様に白百合の蕾を叩いた。
コンコン、と。音はしなかったが数度するともぞもぞと蕾の内側が動いた。
レティがにっこりと微笑み少し離れる、そして口元に手を当てると。
「春ですよー!」
と、大きな声で呼びかけた。
そろそろと、蕾が上向きに動いていった。
閉じられた先端が、ゆっくりと開いていく。その中で、横たわるリリーの姿がちらと見え。
そして開ききったとき。リリー・ホワイトが白百合の中から現れた。
白百合のベッドで心地良さそうに眠っていたリリーが、もぞもぞと体を動かした。
動かしてまたすやすやと寝息を立ててしまう。レティと霊夢は肩をすくめて顔を合わせた。
「まだ寝てるわね」
「もう、リリーったら」
「おーい、リリー、春ですよー」
今度は霊夢も一緒になって呼びかける。そしてようやく――リリー・ホワイトの目がうっすらと開かれた。
「んぅ……?」
しょぼしょぼとリリーが瞬きを始める。帽子を枕の代わりにし、長く伸びた金色の髪がだらしなく顔にかかっていた。
その姿にレティが苦笑し、腰に手を当てる。リリーが体を起こし、白百合が大きく揺れた。
さっと、辺りが暖かくなった様な気がした。
虫達が楽しげに飛び回り、吹いた風は柔らかく、景色は変わらないのに。確かにこの瞬間、リリーが目覚めた瞬間に、春の色が差し込んだのだ。
「おはようリリー・ホワイト。もう春よ」
「うぇ? ……あー!」
レティの呼びかけに変な声で返事をしたかと思うと、リリーが二人を見て目をぱちくりさせた。かと思うと次の瞬間、いきなりレティにダイブし、抱きついた。
「おはようレティ! 寒い!」
そりゃあ冬の妖怪に抱きついたんだから寒いのは当たり前だろう。ぶるりと身を震わせたリリーの髪を、レティが優しく撫でて整えてあげていた。
「少し寝すぎよ、リリー」
「えへへ、ごめん。すぐに皆に春を伝えるね」
嬉しそうに顔をすりよせるリリー。そのリリーと、霊夢はふと目があった。
「霊夢だ!」
「ええ、あなたがいつまでも起きないから寒さでガタガタ震えてた霊夢が起こしに来てくれたわよ」
寒くしたのはレティなのだけど、と霊夢が思わず呟く。レティは小さく微笑んでそれを受け流した。
「おはよう霊夢!」
リリーが今度は霊夢に抱きついた、飛びつく勢いだったので少しよろけながらも受け止めると。とたんにふわりと花の香りが鼻をくすぐった。
ギュウと回された腕から、リリーの体から柔らかく、暖かな春が全身から伝わって、霊夢を包んでいった。
「春ですよー」
一年ぶりのお馴染みの言葉が満面の笑みを浮かべるリリーから霊夢へ。ふわり、ふわりと春独特の心地良い感触に、霊夢も自然と頬をほころばせた。
レティがそうしたように、霊夢はリリーの髪を撫でた。
二、三度撫で。ようやく訪れた春を堪能する為に、リリーを抱きしめ返す。するともっと強い力でリリーが全身で感情を表すかのようにさらに抱きしめる。
「おはようリリー・ホワイト」
囁くと、リリーが嬉しそうに霊夢の胸元に顔を埋め、頷いた。
暑い暑い今日ではありますが、本作に、薄ら寒さののこる春先の柔らかい日差しや風をふと思い出しました。得てして、季節の移ろいとはあやなきものにありますが、春いちばんの目覚め、春を起こしに参ります両君の姿が大へんほほえましく、また、心の温まる小話でありました。白百合の大輪が香りを快く楽しませていただき、つい夏の暑さなど失念してしまいますと、読み終わった後からどっと汗が噴き出て参ります。ちいさな春を見つけた心地が致します。
ほのぼのした作品でした。またお会いしましょう、では。
リリー・ホワイトがとにかく微笑ましく愛らしい。
「春ですよー」
このセリフはとことん私を優しい気持ちにさせるなぁ。
だというのに、後書きの『リリー・ホワイトの目覚め』のくだりに妙な反応をしてしまった自分は
人間として終わっているのか……
妖精が取り囲む行が印象深かった。
リリーがかわいいなぁ……。
本人は最後しか出てきませんでしたが、非常に印象的でした。
ただ、何点かもったいない点が。重箱の隅を啄くようで申し訳御座いませんが、感想の一部として聞いていただければ幸いです。
・リリーは何故寝坊したのか。
物語的には蛇足かもしれませんが、何か一言伏線があると深みが増すように思います。
・レティが何故リリーの居所を知っていたのか。
秋の神や季節を司る妖精、例えばチルノであれば知っていてもおかしくないと思ったのですが、高々いち妖怪であるレティが知っていたのは何か説明が欲しい気がしました。
・出発する前の霊夢のセリフ
地の文でレティの行動を説明してから霊夢のセリフにつづいたため、そこまでの流れるように読み進められていた文章が一瞬だけ途切れてしまいました。
例えば、以下のようにすれば次のセリフがすんなり流れてくるでしょうか。
そうと決まればなんとやらと、地面を蹴ってふわりと浮かび上がったレティを、霊夢は慌てて制した。
文章構成以外にも、セリフ上での霊夢とレティのキャラクター付けに大きな区別がないためにそのように感じたのかもしれません。