「お燐、おりーん」
「なんですか?」
「ぶちぬけぇ!」
「ふごォッ!!」
ザラメの甘い衝撃が、クラスター爆弾のように口腔内を駆け抜ける。一拍置いて、ふわふわと甘く柔らかい舌触りが伝わってきた。
「んぐ、ぐっ」
「おいしい?」
「おいひい、れふけろ……」
口から生えた串を引っこ抜き、火車ネコ・火焔猫燐は目を白黒させた。串の深い部分には、平べったく丸いカステラがもう一つ刺さっている。いわゆる串カステラというやつだ。
一瞬のことで何がなにやらであったが、ようやく理解した。振り向きざまに、目の前でけらけら笑う幼い少女――古明地こいしが、己の口に串カステラを投擲したのだ。見事なダイレクトお裾分けである。
「こいし様……お菓子頂けるのは嬉しいんですけど、も少し穏やかにお願いします。しかもぶち抜けって、ノドぶち抜いちゃったらあたい死んじゃいますよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ! その辺のチカラ加減は考えてるから」
「はぁ」
「それより、ホラ! もっといっぱいあげる!」
こいしはさも愉快そうに笑い、右手に持った袋を掲げて示した。ほんのり漂う甘い香りに、串らしきシルエットも透けて見える。中には駄菓子の類がぎっしり詰まっているようだ。
「今さ、お菓子売りの行商さんが来てたから。いっぱい買っちゃった! お空といっしょに食べなよ!」
「あ、ありがとうございます。いいんですか、こんなに」
「わたしの分はちゃんとあるし」
燐が頭を下げると、こいしは左手を示す。燐に渡した袋と同じものが、三つ。
「そんなにいっぱい食べるんですか……」
「えへへ。女の子の滋養強壮と言ってほしいなー。さー、補給の時間だーい」
こいしはスキップしながら廊下の奥へと消えていった。燐はそれを見送った後で、すぐ近くにあったドアを開ける。その拍子に、ドアに掛けられた木製の小さな掛け看板――『Missing Cat』と記されている――が、からりと音を立てた。
(まー、お菓子でも食べてノンビリするのもいいか)
「どうせ依頼もないし」
脳内でぼやいたその続きを、現実での言葉が引き取った。
燐がコーヒーを沸かす間に補足すると、依頼とは彼女がここ地霊殿の一角で営む『何でも屋』の依頼に他ならない。元々地霊殿の財政難対策の一環として始めたものだが、以前に比べて金回りの良くなった今も半ば趣味に近い形で続けている。
尚、ここまでの依頼件数は一件、達成率は内緒だ。
「うーん、なんかいいニオイする」
「お、目ざとい……つーか、鼻ざといね」
がちゃりとドアが開き、八咫烏少女・霊烏路空が入ってきた。彼女も燐の助手としてこの何でも屋を支えている――と言えば聞こえはいいが、正確に言えばひっかき回していると言う方が正しい。
空が入ってきたので、燐はカップをもう一つ出した。何でも屋のオフィスとして使っているこの部屋、コーヒーカップセットは団体での依頼にも備えて常に二桁数揃えてある。実際に出番があったのは未だ三つ、内二つは燐と空だが。
「こいし様がさ、お菓子いっぱい買ってきてくれたのさ。おくうも食べるだろ?」
「うんうん! あ、これ?」
「そー。先に食っててもいいが、あたいの分も残しといてくれよ」
「もふもふもふ」
燐が二人分のコーヒーを手にテーブルへ向かうと、空は早速と言わんばかりに串カステラを頬張っている。見るからに幸せそうなその表情を見ていると、燐の口元も思わず緩んでしまう。
「いきなりだな。おいしいだろ、それ」
「んふふふー」
「あたいも食べさせられたからね」
自分のソーサーに一個、空のには五つの角砂糖を置き、燐もソファ、空の隣に腰掛けた。
「他には何が……ん、色々あるねぇ。これとか懐かしい」
「むにゅにゅ……わらひもたべる……」
「そっち先に飲み込んでくれよ」
口から串を生やしながら、燐の手にしたミルクビスケットと同じものを捕まえようとする空。袋を漁ってみると、飴やガム、ラムネにグミの類や一口サイズのチョコレートにビスケット、串に刺さった謎のフライなど実に多種多様。
燐はその中から、ドーナツ状の穴が空いた平べったいラムネを取り出し、袋を破った。
「おくう、コレ知ってるかい」
「ラムネ?」
「ただのラムネじゃない。穴空いてるだろ? 息を吹くとな……」
――こつ、こつ。唐突なノックの音が部屋を転がったのはその時であった。
「んお。誰だろ。さとり様かはたまた」
「もしかしてイライニン?」
「かもな……おくう、お菓子片付けて。一応な」
燐が二人分のカップを隅のテーブルへ持って行き、空が菓子袋を引っ掴む。テーブルは片付いた。
「はいはーい、どなた? 梯子から脚立まで、何でも屋『Missing Cat』でござい」
「ハシゴとキャタツってどうちがうの?」
「今度調べとく」
燐は呼吸を整え、ドアを開けた。果たしてその向こうにいたのはさとりでもこいしでもなく、少なくともここで見るのは初めての人物。特徴的なその服装と、赤い色彩を目にした瞬間、燐は思わず後ろの空へ向けて叫んでいた。
「おくう、大変だ! 有名人が来たぞ!!」
「えっ、ホント? サインもらわなきゃサイン!」
「いやあ、まさか次回公演は地底かい? 嬉しいね」
「いやあのその、ここって何でも屋さんだよね?」
目を白黒させる小さな『有名人』。星をあしらった赤い帽子がずるりと傾き、当人の困惑ぶりを如実に表す。
「んあ、依頼? そっち?」
「あ、その、ごめん。忙しい?」
「いやそんなコト……ちょいと珍しいっつーか、うん。あたいらが一方的に知ってるだけの相手から来るとは思わなくてね」
燐は手で室内を示し、この日の依頼人――騒霊キーボーディスト、リリカ・プリズムリバーを招き入れた。プリズムリバー楽団と言えば幻想郷でも有名な騒霊の楽団、燐や空の耳にもその噂は届いている。
実際演奏を耳にした機会もあったが、燐にしてみれば直接の交流がなかった以上、相手は芸能人のような存在。こうして目の前にするのは、少しばかり奇妙な感覚でもあった。
「座って座って。あんまりいいソファじゃないかもしれんけど」
「あ、ありがと」
「コーヒーと紅茶と緑茶と赤ワインと白ワインと……あとなんだっけ、リンゴ酢? どれがいい? 飲みたいのあったら買ってくるよ。口に合わんかったらすまないね。あたいらも庶民的なモンしか飲んでないし」
「えっと、コーヒー砂糖多めで……」
「おくう、コーヒーは一番いいやつを。砂糖も」
「はぁーい」
「あの、ちょっと。私、別にそんなセレブリティなアレじゃないから、もっとふつーに……」
リリカは明らかなVIP待遇に狼狽の色を隠せないようで、燐はばつが悪そうに頭を掻いた。
「あれ、ごめんよ。お前さん有名人だし、よっぽどいいモン食べてるんだろうなーとか」
「特にお金持ちでもないし、ごくごく普通だよ。むしろおんなじのがいいなぁ。あんまり高級品だと、お腹壊しそう」
「だとさ。おくう、あたいらと同じ奴で」
「おっけー!」
一連の流れで緊張も解けたか、くすりと笑うリリカの表情も柔らかい。燐は背筋を伸ばして、彼女に向き直った。
「いきなり失礼。改めまして、あたいが何でも屋の火焔猫燐だよ。お燐って呼んでくれると嬉しいな」
「で、で! わたしがお燐の助手の霊烏路空! うつほでもおくうでも、どっちでもいいよー」
「おわっ! おくう、コーヒー持ったまま走ってくるな」
「あ、ごめんね」
お盆の上で琥珀色の水面が大きく揺らぐ。堪えきれず、リリカが笑った。
「あは、あははは。楽しいトコロだね地底って。最初ちょっと怖かったけど……っと。私がリリカ・プリズムリバーね。よろしく」
「あいよろしく」
「わたしも!」
彼女の右手を燐が、左手を空が握る。空が気を利かせて、リリカが来るまでに飲んでいた二人のコーヒーをテーブルまで運んだのを見届け、燐が切り出した。
「さて、今回は演奏じゃなくて、あたいらへの依頼で地底くんだりまで来てくれたって話だけど。どんなご用件だい?」
「あー、その……ちょっと、ワタクシゴトなんだけど」
少しばかり恥ずかしげだ。気にするなとの言葉の代わりに、燐はヒラヒラ手を振った。
「むしろ私事じゃない依頼の方が珍しいと思うよ、この職業」
「そ、そっかな。じゃあ、えっと……今度さ、私と、姉さんたち……は、知ってるかな」
「そりゃモチロン。ルナサとメルランな」
「ヴァイオリン……ヴァイお燐とトランペットだっけ?」
「なんで言い直した」
燐は聴覚に自信がある。微かな発音の違いを聞き分けるのは簡単だった。
「そう。で、その姉さんたちとさ、ソロライブ対決することになったの」
「ソロライブ……」
「たいけつ?」
風に揺れるススキのように、首が傾く二人。リリカは頷き、続けた。
「うん……簡単に言うと、三人で順番に単独ライブを開くの。会場は人間の里のどっか。で、来てくれたお客さんの数で競うんだ」
「なるほどな。で、勝負なんだってからには、勝ち負けで何かあるのかい?」
「一番少なかったら罰ゲームで、一ヶ月食事当番」
「うわお」
「ごはん作るの?」
「いつもは交代制なんだけどね」
ちょっとしたお遊びの一環なのだろうが、思いの外ペナルティが重い。テーブルの下で何やらごそごそやっている空を後目に、燐は手を打った。
「もしかして、依頼ってのはその関係で?」
「そのとーり! 私、絶対に負けたくないの。だから、お客さんを集めるのを手伝ってほしいんだ」
「そう来たか。でも、他者の力を借りちゃって大丈夫かい?」
「もっちろん大丈夫だよ、こっそりやるから」
「……ダメなんじゃないか。まあいいや、お客さん集めるってのは分かったけど、それは当日に? それとももっと前から仕込んでく?」
「んー、やれるだけのコトはやりたいから……前々からお手伝いしてほしいな」
「よーしよし。そういうコトなら」
ぷぴー。
「……なんじゃ、今の気の抜ける音は」
ぷぴゅー。
「……おーくーうー?」
「ぴーぴー」
「商談中にフエラムネ食うなっつーのッ!!」
「ぽぴっ!」
燐のゲンコツが飛び、インパクトに合わせて乱れるラムネの音色。
「いひゃいのぉ……」
「ったく、いくら暇だからって客の目の前でぴーぴーやるヤツがどこにいる」
「だって、気になってたんだもん……お燐、息吹いたらどうなるか教えてくれなかったし」
「仕方ないだろ、来客だったんだから……」
「ぴゅー」
「さっさと飲み込め!」
つまらなそうな表情と叱られての涙目をブレンドした顔で、ぼりぼりとラムネを噛み砕く空。燐は咳払いをし、完全にほったらかしてしまったリリカに頭を下げる。
「こほん……あー、すまん。ウチのおバカが」
しかしリリカはさも面白そうに笑うと、自分の足下からも何かを取り出し持ち上げる。
「それ、もしかして地底に来てたお菓子屋さんから買ったの? 私もなの、ほら!」
彼女が手にしていたのは、確かに燐がこいしに貰ったのと同じ袋。あちらもぎっしり詰まっている。
「思わずいっぱい買っちゃった」
「こいし様と同じコト言ってら」
「おいしいよねー。なに買ったの?」
「色々買ったんだけど……個人的好みで、ちょっとかたよってる」
リリカが袋を開いて中身を示す。およそ燐が貰ったものと同じ類の物で構成されているが、ある一種の菓子だけが異様に多い。
「ん? なんか随分と多いね……えっと、コーヒーキャンディかこれ?」
「うん。その、私……大好きなんだ。コーヒーあめ」
指先で捕まえた小さな袋。コーヒーカップがデザインされた包装は、いかにも落ち着いていて大人っぽい、かも知れない。
「コーヒーのアメ? おいしい?」
「そうだよ。甘くて苦い、ちょっとオトナの味かな」
「へぇー」
意外な――と言える程の交流がまだあったわけではないが――好みに話が弾む。が、燐はここでようやく話が逸れていることに気付いた。
「あーっと。ごめん、お菓子の話で盛り上がっちまったが……肝心のさ、依頼の話も詰めないと」
「ん、ごめん。じゃあ、引き受けてもらえるの?」
「そりゃあ、依頼されたからにはね。ライブ当日はいつ?」
「ジャンケンで順番を決めたんだけど、四日後にルナ姉さん、その次の日がメル姉さん。で、その次が私」
「六日後か。割と時間はあるんだな」
「でも、姉さんもきっと色々宣伝したりして、準備してくるから」
「そうさな。やるなら早い方がいい……全部のライブに行く人もそりゃいるだろうが、スケジュールとか色々考えれば、どれか一つを選んで行くって人が大半だろ。
なるべく早く手を打って、リリカのことを印象づけないとな」
「うん。それじゃ……」
「ああ、任せてくれ。リリカのソロライブに客を出来るだけ多く呼び込む……この依頼、確かに引き受けた」
「うにゅ!」
脳内を葉巻の紫煙で満たしながらのハードボイルドフェイス。燐だけがレトロな探偵事務所風のオフィスにトリップする中、リリカが不意に先の袋をガサガサとやり出す。
「それじゃあ、お近づきと依頼の印に、はいコレ!」
彼女が両手一杯で抱えるように盛った、大量のコーヒーキャンディの包み。
「そんな、いいのに」
「アレだよ、報酬の一部を前払いってね」
「わー、ありがとー!」
報酬減額の必要性は置いておき、素直にその好意に甘えることにした。空が同じく両手で大量のキャンディを受け取り、こぼれ落ちそうになったものを燐がキャッチ。
空が早速包みを剥がして一つ口に入れる。
「んふー、にがいけどあまい」
「でしょー。この苦い感じがね、好きなんだ。大人っぽいよねぇ」
「これでわたしもオトナかなぁ」
「私はとっくにね」
「えー、ちっちゃいのに」
「これから大きくなるもん!」
頬を膨らませるも、すぐにリリカも自分の袋から一つ出して、口へ放り込みご満悦。
(あたいだけ取り残されるのもなぁ)
彼女が帰ってから食べようと思っていたのだが、燐もくすんだ黒茶色の飴を舌に乗せ、転がすようになめ回す。やや強めの甘さと、後からじわりと染み出すような苦み。無性に落ち着く。
「んじゃあ、確かに引き受けたよ。早速動こうかとは思うんだけど、その前に……ライブの詳細だけ教えてもらってもいいかな。会場とか、時間とか、曲目とか、強調したいテーマみたいなのもあれば。宣伝に使いたいから」
「うん。さっきも言ったけど開催は六日後。時間は夜の……」
ぴゅぴー。
「……よる、の……」
ぴぴー。
「……おくう?」
「おもひろい、これ」
「……なあリリカよ。ソロライブ対決、おくうも参加させれば確実に最下位は免れられそうだが?」
「フエラムネでやるの? むしろ珍しさで人集まりそう」
「ぴゅー」
燐が頭を抱えてみると、口の中で苦みが増す。
コーヒーキャンディ一つでは、まだまだ空はオトナになれそうもなかった。
・
・
・
・
・
「そーら、出来た! どうだい、おくう」
「すごいすごい! さっすがお燐!」
翌日の地霊殿内オフィスは、不意な盛り上がりを見せていた。依頼を受けてすぐに作り始めた宣伝用ポスターが完成したのだ。
薄赤色の紙をベースに、ピアノ鍵盤や五線譜が背景を飾り、その上に大きな文字で『リリカ・プリズムリバー オンステージ』と題されている。詳細な内容や会場への案内がその下に続いており、リリカ自身のシルエット姿が一番下に躍る、火焔猫燐渾身の一作だ。
「何か漏れがないか確認しておくれ。せっかく作ったんだ、不完全はヤだし」
「んー、だいじょぶみたい。それよりホントすごいね! お燐さ、こういうお仕事になってもよかったんじゃない?」
「そ、そうかいね。にゃははは」
こうまで褒めちぎられると流石に気恥ずかしいが、これならリリカにも喜んで貰えそうでもある。妖怪の山まで赴いて印刷機材を借りてきた甲斐があったというものだ。
古新聞を敷いたガラステーブル上には『GIRLY BURN』と銘打たれた件の印刷機材。その脇から完成したポスターの束を掴み上げ、ぱらぱらめくって乱丁確認。その後、燐はそれを鞄へと突っ込んだ。
「よぉーし! おくう、いっちょ行こうか!」
「おー!」
二人は気合いを入れ直し、地上へ向かうべくオフィスを出る。
しかしすぐに外へと飛び出したのではなく、燐は地霊殿のある一室へ。
「さとり様、失礼します」
「ええ、いいですよ」
ドアを開けると、既に地霊殿の主・古明地さとりが待っていたと言わんばかりに立っていた。
「さとり様にご用事?」
「ああ。恐縮だけど、ちょっとお手伝いをして頂きたくてね」
「そんなにかしこまらないで。せっかくのお仕事ですもの、私で良ければ使っていいんですよ」
どこか申し訳なさげな燐を安心させるように、さとりは微笑む。それから彼女は部屋の隅にあった棚からスピーカーとも、パラボラアンテナとも取れない妙な形の物を取り出し、示した。
「これで……里の方でいいのね?」
「はい、里の人々からちょちょいと抽出して頂ければ」
「うにゅうぅぅ……おりんー……」
「あ、ああ。悪かったよ」
置いてけぼりが大嫌いな空は、心を鷲掴むどころか噛み砕かんばかりの上目遣いお願いフェイスを燐に向ける。狼狽しつつ、燐は人差し指を伸ばした。
「ほれ、これからするのはプリズムリバー楽団の三人による客の奪い合いだろ。ソロライブの告知がある程度済んだところで、さとり様に簡単な読心をお願いするんだ」
「ココロをよんでもらうの?」
空が尋ねると、燐とさとりが同時に頷いた。
「一人一人のを詳細に読んでたら時間がかかりすぎるしさとり様も疲れちまうからね。里の人々沢山をひっくるめて、『誰のソロライブに行くのか』の一点に絞って読んでもらうのさ」
「これは言わばアンテナのようなもので、広範囲の人々の心をまとめて読むために使うんです。勿論、詳細に読んだりしたら情報が多すぎて頭がパンクしてしまいますし、プライベートに踏み込みすぎてはいけませんから、お燐が言った通りの一点に絞って情報を取り出すに留めますが……」
さとりが手にしている、集音マイクに似た形状の道具。第三の目に付属しているオプションパーツ、らしい。使うのは彼女も初めてのようだが。と言うより、使う機会が今後もう一度訪れるのかが疑問だが。
「へぇー。でも、なんで?」
「大まかにでも誰のライブが人気で、誰が苦戦しそうなのかが分かれば作戦も立てやすいと思ってね。リリカがダントツで多いなら前日辺りはダメ押しの宣伝をしてやればいい。
もし逆にリリカのライブに行くつもりの人が少ないようなら、大規模に人を引っ張る作戦を立てる。臨機応変に動くには、少しでも詳細な情報が欲しいのさ」
「なるほどー」
「それじゃさとり様、ある程度宣伝なんかを行ったところで改めてお願いしますね」
「了解。その前に、ちょっとテストを……」
燐が頭を下げると、さとりは頷きつつ第三の目に繋がれていたコードを一つ外し、アンテナにジャックイン。人間の里の方角へ向け、ダイヤルをこちゃこちゃいじり始める。
「ええと、こうかしら……んー、なんか見えてきた?」
「おおー、覚妖怪の本領発揮だ」
「さとりさまカッコいいー!」
真剣な表情で、遙か遠くを歩く人々の心から発せられる電波を掴もうと苦心するさとり。と――
「ん、え……ひゃ、ひゃああああああっ!!?」
さとりが素っ頓狂な悲鳴を上げたかと思うと、みるみる顔が真っ赤に染まっていく。
「さ、さとり様!?」
「どうしたんですか!?」
「ま、ままままちがえ……あっ、ああっ! そんな、だめェ! そんなは、はは、恥ずかしい情報は……やあああん!」
燐が駆け寄り、アンテナを取り落とし悶えるさとりを抱き起こす。彼女の腕の中でびくんびくんと身体を震わせるさとりは、どこか扇情的でもあった。
「は、ははははは外してくだひゃいいい!」
「外してって……これか? おりゃ!」
ぷちん、とアンテナに繋がれたコードを外すと、ようやくさとりにも呼吸を整える余裕が生まれたようで、はぁー、はぁー、と長い息をつき始める。
「ふぁ……し、失礼、ごめんなさい。ちょっと調節を誤って、その。ヘンな情報をキャッチしちゃって……」
「なんというか、さとり様の心を読めてしまう苦労の一端を垣間見た気がします」
「さとりさまー、何を見たんですか?」
「やめてやれ、おくう」
興味津々な空を諫める。さとりが何を見てしまったのかは、永遠に秘密のままにしておくべきだろう。燐は賢明な判断を下し、くったり座り込んださとりにもう一度頭を下げて部屋を後にした。
空と共に地底と地上を繋ぐトンネルを飛び出し、人間の里までひとっ飛び。空中散歩の最中、空が燐の肩をつついた。
「ところでさ、ポスター作るのはわかるんだけどさ」
「うん?」
「リリカがちょっとしたライブやって、そこで宣伝しちゃえばみんな来るんじゃないかなぁ」
「確かにそうなんだが、ダメなんだと。当日本番まで里の人々に聴こえる場所での演奏は禁止。宣伝として効果的すぎるからだとさ。無論脅したり、引きずってくるのもダメだ」
「そうなんだ」
「あくまで音楽の力には頼らず、お客さん当人の意志で来て貰えるように頑張る、ってコトだな。効果的な宣伝とか、音楽以外での表現とか……そういう練習も兼ねてるらしいね。だからこそあたいらの力の見せ所さ」
会話の間に、眼下に広がる人の河。二人揃って空いた場所へ降り立った。
「んー、相変わらずすごい活気だ」
「おりんおりん、みてみて! 新作『クラスターまんじゅう』だって!」
「あとでな」
早速茶店に引き寄せられそうな空を引っ張り返し、燐は里の大通りを歩く。物珍しそうな視線は少しで、やはり妖怪のいる光景には皆慣れているらしい。数度通えば、この僅かばかりの奇異の視線も殆どなくなってしまうのだろう。
(ま、地底からの来客なんてなかなかないだろうしな)
視線を飛ばし、人通りの奥にようやく目的の物を見つけた。
「ほれ、仕事だ。しっかり頼むぞ助手」
「うにゅ、任せてー!」
助手、を強調すると空は俄然やる気になって燐の横に並ぶ。二人の目の前には木で出来た掲示板。町内会的なお知らせや落とし物の情報、服飾店らしき店の新作宣伝、はたまた単なる落書きなどなど。特に許可もいらず、誰でも自由に使えるらしい。燐にしてみれば好都合だ。
「画鋲は……あるね。よし、早速貼っちまおう」
「よぉーし……ん? ねえ、お燐」
「どした?」
「あれ、リリカじゃない?」
空が指さす先、子供が集う駄菓子屋の軒下。あの目立つ赤い衣装は間違いようもなくリリカだ。しかし妙なことに、帽子の代わりにほっかむりで顔を隠している。手には小さな袋と、何か紙のような物が数枚。
「確かにそうだが、何のつもりだろうねありゃ。身を隠してる……のか?」
「さあ? おーい、リーリカー!」
燐としてはいつしかの依頼を思い出すスタイルで些かビターな気持ちになる。が、何かを言う前に空はその怪しい人物へ向けて大声を張っていた。
「なにしてんのー? ねーねー!」
「しーっ、しーっ!」
小走りで寄ってきたリリカは人差し指を唇に当て、必死に首を振る。
「声おっきい! なるべく私だってバレたくないんだから」
「あ、ごめん……」
空は素直に謝ったが、燐にしてみればまずその服装をどうにかするべきだろうとしか思えなかった。
「で、何してたんだい? わざわざ正体隠してまで」
「あー、ちょっと広報活動というか、なんかじっとしてられなくて」
「ふっふっふー。これ見てよこれ!」
空が自信満々にポスターを取り出すと、彼女は大層驚いたようで目を丸くした。
「わ、わ! なにコレ、すごい! 私じゃん!」
「そりゃリリカだろ。ルナサの宣伝したら裏切り行為になっちまう」
「ありがとう! ……でもちょっと恥ずかしいなー」
「だめだめ、もっと目立たなきゃ! で、わたしたちはこれ貼りにきたんだけど……」
「あ、それならさ」
するとリリカは先程まで自分がいた駄菓子屋の方を指さした。
「あっちにも貼らせてもらおうよ。お店の人に許可もらったし」
「手回しがいいね。じゃあ失礼しようか」
自分が交渉するまでもなくそういった許可を取っている辺り、リリカも本気なのだろう。応えるべく、燐は店の軒下、他にもポスターの類が散見される壁に向き直った。
妖怪をこんなに間近で見るのも珍しい経験なのだろう、お菓子に夢中だった子供達の視線を浴びながらポスターを貼ろうと取り出して――
「……おや? これは」
「どしたの、お燐……あっ」
ふとその手が止まった。空いている部分に自分達のものを貼ろうとしたのだが、隣の真新しい手書きポスターが目に留まる。片や薄灰色のシックで落ち着いた、片や白と水色に管楽器のイラスト満載な賑やか配色。
「ははーん、ライバルも動いてるな」
燐の言葉通り、今やライバルとなった姉二人、ルナサとメルランのソロライブ宣伝ポスターだ。手書きなのがそれらしいと言えばらしい。
「やっぱり作ってたんだね、こういうの」
「まあな、宣伝といえばポスターだろ。だが気合いならこっちだって負けちゃあいないさ。おくう、貼るぞ」
燐は二人のポスターの横に自分達が作ったリリカのポスターを並べる。壁に手で押さえ付け、位置を調節し、傍らの空に目配せ。言葉も必要なく、彼女は画鋲で上側二カ所を留めた。
「おーし、いい具合。三姉妹並んで見栄えもいいね。もう一枚どっかに……」
言いながら視線をスライドさせ、燐は硬直した。たった今貼ったポスターの周囲が妙に広々としている。具体的には横が。
「……姉妹並んで、と言ったところなのに」
「ないね」
姉のポスターが消えていた。そして先程から響く、ばりばりという紙状の物を引っ剥がすような音。
「何してんだ、お前さん」
「……勝つのは私、勝つのは私……」
念仏のように唱えながら、姉二人のポスターをべりべり剥がすリリカの目の色は明らかにおかしかった。
「いいのか、それ……」
「うるさーい! これは戦争なの! 手段選んでたら負けちゃうもん!」
先程から片手に持っていた紙は、どうやら他の場所から剥がしてきたものだったらしい。燐は頭を抱えた。何度目だろう。
「お燐、わたしたちも?」
「……あたいらは正攻法でやろう。破壊よりも創造が勝った時、愛の勝利が生まれるんだ」
「アイかぁ」
空はメルランのポスターがあった場所にリリカのポスターをあてがう。
尚も聞こえるポスター剥がしの音に頭を痛めながら、燐はポスターと壁に画鋲をねじ込んだ。
・
・
・
・
それからの数日間は、地味で地道な作業の繰り返しだった。
ライブ宣伝のポスターを貼り、少しサイズを縮小したビラを配り、またある店舗に協力を取り付けて、購入者に折り込みチラシという形で宣伝したり。
「こんだけやれば、リリカのライブにもお客さんいっぱい来るよね!」
「だといいんだがな……いや、いっぱいは来るだろうよ。だが問題は、姉二人の動員数を上回れるかどうかだ」
達成感に満ちた顔で笑う空と、対照的に表情を緩めない燐。
「うぅん、じゃあどうしよっか。ライブ会場で、ゆで卵でもくばる?」
「ライブ会場で食うもんじゃないだろ。それに、入場者数が問題なんだから、既に入った人よりは入るか分からない人達を引きつけなきゃ」
「そっか、人いっぱいじゃお塩かけづらいもんね。マヨネーズもこぼしたらお洗濯大変だし」
「そもそも声張り上げるのにノド乾くだろうよ……」
漫才のような会話を繰り広げながら二人が歩くのは里の大通り。既に依頼を受けてから四日が経過しており、この日はルナサのソロライブがある。
既に会場を目指していると思しき人の流れも散見され、その人気が窺える。燐はソロライブ宣伝のポスター――リリカが剥がしたものを一枚貰った――を取り出し、会場を確かめる。
「全員同じ場所でやるらしいね。大通りを奥の方まで歩いて、二手に分かれた道を左に行った先の、奥まった場所」
「広場みたいになってるんだね」
「防災訓練なんかがあれば、避難所代わりになるらしい。まあ、ちょっとした集まりには打ってつけだろうな」
流れに任せるまま、燐もその方向を目指す。ライバルの査察も立派な活動の一つだ。
二手に分かれた道を左に行く。右に行けば里から出てしまう。
「ライブ、どれくらい見るの?」
「何曲かはね。単純に興味もあるし……実際の動員数を見て、さとり様の情報と照らし合わせつつ作戦会議だな」
「おっけー」
やがて見えてくる、いくつものステージライトの光。夜の帳が降りつつある里の薄闇を切り裂き、会場へ向かう人妖を灯台のように導く。
道が開け、広場のようになるその入り口にゲートのような物が設置されており、人々はそれを潜って奥へ向かう。その先はざわめく黒山の人だかりと、一段二段高くなったステージ。
「なぁに、これ?」
「リリカの話じゃ、潜った人数をカウント出来るゲートなんだと。河童に頼んで借りたらしいが、こいつで入場者数を計るんだな。なるほど」
「上を飛び越えちゃったら、どうなるかな?」
「計測されないだろうな。だがまあ、そんなのを言い出したらキリがない。条件は三人とも同じだし、入場無料なんだからわざわざ飛び越えるヤツはいないさ……行くぞ、おくう」
「わぁ、なんかドキドキ」
まず燐が、それに続いてどこか緊張の面持ちな空がゲートを潜る。
「ヒトでいっぱいだねぇ、お燐」
「だな。流石はプリズムリバー楽団の長女、伊達じゃない」
「でもリリカのがいっぱい来るよね、きっと」
「そうなるように頑張るのがあたいらの仕事さ」
(だが、相手は強い。楽団のリーダーと花形だからな……)
燐の表情は渋い。しかしその顔もやがて驚きに変わる。
押されるがまま人波を掻き分け、観客席の中央前方付近。なかなかに良い位置取りだ。
「近くで見ると、やっぱ迫力あるな」
「まぶしー」
「あんまライト見つめるな、目が悪くなるぞ」
「うにゅう」
ぎゅう、と目を瞑る空に笑っていると、徐々に照明が落ちていく。
会場は闇に支配されつつあるというのに、反比例して客席からの歓声は大きくなっていき、地鳴りのように響き始めた。
「うにゅ、なんかすごい!」
「いざ始まるってんだ、盛り上がらん方がおかしいさ……ほら、来るぞ」
燐の言葉が終わるより早く、優れた彼女の耳は微かな金属音――ハイハットの小さなカウント音を捉えていた。
四つ数え、続けざまに響いた強烈な四発のスネアドラム――細かなタム回しを待ちきれないと言わんばかりに、鼓膜へ切り込むかのような鋭いカッティングギターがエッジを刻む。ルナサの姿はない。
主役のない、音だけが主張を続けるステージへ向け、人々は早くも割れんばかりのコールを贈り始めた。
「……」
燐の横で、あれほど騒がしかった空が完全に言葉を失った。食い入るようにステージを見つめている。きっと視覚なんて殆ど疎かで、聴覚に全神経を集中させているのだろう。分かりやすい。
自分だってそうなりかけているのだ。上へ下へ、ざくざく切り込むギターがイントロを掘り進めていき、自動演奏であろうシンセサイザーが微かに唸った、その一拍後だ。
『――砕けた鏡に濁る、君の瞳を――』
静かな、だが激しい――相反する二つの要素を混ぜ込んだ、美しい声だった。
(まさかのボーカル!)
燐は目を見開く。てっきり楽器演奏、インスト楽曲のみだと思っていた為に、これは良い意味での衝撃だった。
『あと何度かき集めて、自分を慰めよう?』
まだどこか幼さの残る声でありながら、老練さすら漂うロートーンボイス。テンションにブレはないのに、淡々と、と言うにはあまりに情熱的だ。
『何百回目の“もう一度だけ”をあと何度繰り返せば――』
『このオモイ、このココロ、埋まるでしょうか? ああ――』
暗がりの奥から、強力なスポットライトが二つ、唐突に輝きを放った。クロスする光の波に、誰もが眩しくて目を閉じた。
そして観客が一斉に目を開けた。同時に、その姿を見た。
『アイマイな、言葉ばかり並べても、あなたに視線を合わせられない!』
左右のレーザー光線がクロスするその場所――ステージのど真ん中に、逆光とギターを背負った少女がいた。
雷のエレメントと河童の技術協力を得たエレキギターの上で、繊細なその指が残像を伴って暴れ狂う。全身でリズムを刻みながら、目の前のスタンドマイクへ有らん限りの声をぶつける。今や一気にハイトーンボイスへと変わり、その叫びは火傷しそうな程の熱を帯びる。
彼女こそが、ルナサ・プリズムリバー。
『愛してなんて言わないから、少しだけ、私の、目を、見てよ!』
『砕けた瞳のカケラで、もう指は傷だらけ……それでも……!』
『目と、目の合わない、鏡合わせ……』
再び主役がカッティングギターへと戻る。だがそれすら打ち消しそうな程の歓声がステージ上へ、ギターを繰るルナサへ押し寄せる。
彼女は顔を上げ、ほんのりと――直前のあの叩きつける叫びなど忘れたかのように、嬉しそうに微笑んだ。
ギターの音色が絞られ、残響を残して引いていく。
「……えー、どうも、その。こんばんは。ルナサ・プリズムリバー……です」
曲が終わり、興奮冷めやらぬ客席へ向け、スタンドマイクでそのまま挨拶。応える熱狂的な叫びが渦を巻く。
「いきなり声、で驚かれたかと。その、せっかくのソロなので、色々やってみたくて……あ、そうだ。今日はどうも、ありがとうございます」
再び爆発音と紛うような叫び声。燐はふと隣を見た。
「うにゅぅううう!!」
もう完全に目的を見失った空が、両手を振り上げてルナサへ声援を贈っている。真っ赤に紅潮した頬が、彼女の興奮を如実に表していた。
「というわけで新曲『ウィズドロウ・アイズ』でした。本当は二番とかあるんですけど、オープニング用に短めで、その……わ、えと。ありがと、ございます、ハイ」
『ええーっ!?』という残念そうな合いの手に、ぺこぺことルナサは頭を下げる。性格上慣れていないのか、どうにも司会の彼女は恐縮しっ放しだ。
「その分、他の曲で楽しんで頂けるよう頑張ります。お馴染みの曲とか、お馴染みでもちょっと毛色を変えたり、完全新曲だったり……結構盛りだくさんです。
じゃ、早速ですが次……これも新曲です。今度はインストに戻りまして、でもギターでこう、ちょっと泣けるような」
喋りの終盤部は、早くもボルテージ最高潮になりつつある客席からの声援で掻き消えた。
「えと、じゃあ待ちきれないようなので。新曲『ハートストリングス』どうぞ」
(ははあ、『心の弦』と『深き愛情』をかけてるのかな)
冷静を保ちたかった燐の考察は、そこまでしか出来なかった。彼女もまた、スリーカウントで鳴り出したエレキギターのメロディに心奪われ、次の瞬間には我を忘れて腕を振り上げていたのだ。
鬱の音を操る者のステージとは思えぬ、熱量に満ちた空気の震えを誰もが感じ取っていた。時を忘れ、我を忘れ――
「……」
「うにゅーぅ……」
(最後まで観ちまった)
時刻は夜の九時を回った。地霊殿へ戻る道すがら、燐は首を捻る。
心から楽しい、感動のステージだった。それは確かな事実だ。
だがどうにも依頼人を裏切ってしまったような心地にもなってしまって、口の端からは、うにゃー、うぬー、と唸り声がリピート。
その一方、空は目をキラキラ輝かせて燐に話しかける。
「わ、わたし……あんなにスゴイの、はじめて……」
(完全にルナサのファンになっちまったな、おくう)
彼女くらい単純になれれば、きっともっと素直に楽しめたのだろう。
燐は心の中でもう一度、リリカに頭を下げた。
・
・
・
・
翌日、時刻は正午を既に回り夕方。
午前中から午後の早い時間は今まで通りの宣伝に費やし、そうして戻った地霊殿の一室、燐は背筋を伸ばしてその人物と向き合った。
「さとり様、例のアレですが……」
「ええ……出来てますよ。しっかり計測してメモしてあります。
この能力も、誰かの役に立つなら悪くないとも思えますね」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
お辞儀をひとつし、さとりから受け取った物――封筒。この中に、以前さとりに依頼した『ライブ動員傾向』の読心結果が入っている。姉妹のソロライブが実際に始まる日の前日、即ち二日前から観測して貰った。
「おりんおりん、どうなの? リリカが一番?」
「まあ待て、開けてすらいない。廊下のど真ん中で広げるわけにもいかないしね」
守秘義務守秘義務、と繰り返し呟きながら燐は来た廊下を戻り、オフィスのドアを開けた。
「おくう、閉めてくれ……」
「はーい。で、お燐! どうなの?」
「……」
燐は既に封を切り、中の紙片を広げていた。せわしない視線の動きで、紙に書かれた情報を追う。
「……」
「……お燐、ねぇ」
「どうした」
「なんか、こわいよ」
空の不安げな言葉で、燐はようやく顔を上げた。何となく頬に手を触れてみる。そこまで顔に出ていたか。
「あ、ああ。ごめんよ」
「で、どうなのってば。リリカは?」
ずっとお預けで待ち切れないと言わんばかりの空に、燐は黙ってその紙を差し出した。素早く手に取って開き、彼女は目を通す。
空が、そこに書かれたいくつかの文字と数字を追っていく視線の速度。それが徐々に遅くなるのに比例し、彼女の笑顔も色を失っていくのが、燐にはとてもよく分かった。
(成る程、あたいもこうだったか)
「ルナサ、ろっぴゃくろくじゅうよん、メルラン、ろっぴゃくさんじゅうなな、リリカ……え、えっと……リリカ、にひゃ」
「もういいよ、おくう」
燐は言いながら、空の手より紙を引ったくった。彼女は抵抗しなかった。
それから天井を仰ぎ、長い長いため息。
「きついな、こいつは」
「……なんで?」
「何に対する?」
「なんで、こんなに少ないの?」
潤んだ空の瞳を真っ直ぐに見据え、燐は冷静を保って言葉を絞り出した。
「……前提として、このライブは客の取り合いだ。勿論全部行くって人もいるだろう。だがスケジュールやら体力やら、色々考えたら大半の人はどれか一つに絞る」
「……うん」
「結論から言うぞ。リリカは悪くない。姉二人が、バケモンすぎるんだ」
「ばけもん……」
「まあね。感情に直接訴えかける音色を操るってコトを差し引いてもだ。
ルナサの落ち着いた普段のイメージと熱く弾き語るライブのギャップ。多分ビジュアル面でも一番人気なんじゃないか? やっぱ弦楽器ってカッコいいしさ。憧れる人も多いだろうよ。
一方メルランはぶっちぎりの明るさで人を絶えず惹き付ける。とにかく楽しく騒がしい。ノれる演奏って点では、彼女には誰も敵わない。笑顔が一番だからね。今日は観に行けなかったけど、今頃凄いことになってるだろうね、会場は」
空は無言で頷いた。
「さて、リーダーと花形を相手にだ。縁の下で支える役割が主のリリカではどうしても厳しい面はある……ソロライブでは尚更だ。リリカの演奏自体は劣るものじゃなくても、ね。イメージの時点でもう、リリカには不利な戦いだったのかも知れない」
「うにゅ……でも、でもぉ」
「分かってる。諦めるつもりなんかないよ。やれるだけやろう、おくう。
とりあえずだ、リリカには流石に言えないから黙っとくとして……この紙は処分だな。
おくうもうっかりリリカに言……」
神妙な顔で口を動かしていた燐の視界の端で、いきなり赤い服を着た誰かがひょっこり立ち上がったのはその時だった。
「……なっ、なっ」
「り、りりりリリカ!?」
「……」
オフィスの入り口で立ち話をしていた二人の死角、ソファの裏側から現れたのは、紛れもなくリリカ本人。その表情は、多くの感情を混ぜ込んですっかり濁っていた。
「あ、あのそのあの!! い、いまのはちがうの! だから、えっと……」
「……」
「お、お、お燐もなんかいってよぉ!! だからね、そのね」
「いいよ、お空。ありがとう」
え、と一言呟いて空がフリーズした。それ程までに、リリカのそのたった一言は恐ろしく重い。
彼女は笑っていた。彼女本来の笑顔を、燐の管理する灼熱地獄で三日三晩は乾燥させれば、こんな顔になるかも知れない。
「ごめん、わかってたよ。どうやって調べたのかは知らないけどさ、私がドン底だったでしょ。人気」
「……ああ」
「ちょっ、お燐!?」
「いいの。わかってたから」
リリカはもう一度、そう繰り返した。空は再び黙った。
「実はさ、ソロライブ対決するのってこれが初めてじゃないんだ。前にも一回やったんだけど、ヒドかったよ。倍以上負けた。
姉さんに何度もなぐさめられて、ミジメったらありゃしない……でも、でもさ。もっかい、やってみたくなったんだ。だから渋る姉さんたちに頼み込んで、もう一回の対決にこぎつけたの。
私だって、一人でもみんなを惹きつける演奏ができるって証明したかった。もっとも、この対決自体は宣伝技法が主なファクターだけどさ。
……まあ、けっきょくダメだったってコト」
リリカは肩を竦める。全く隠れることのない泣きそうな顔を、必死に押し隠しながら。
「だからさ、二人には……絶対に達成できない依頼をしてたんだ。勝てるワケないのにさ、お燐もお空もあんなに頑張ってくれて。うれしい。
……ごめんね、二人とも。疲れるわりに、むくわれない仕事でさ」
「な、な……何いってるの!? そんなコト言わないでよ!!」
空が一瞬でリリカとの距離を詰め、その薄い肩を掴む。勢い余って手が背中まで回ったので、無理矢理引き寄せ、そのままきつく抱き締めた。
「わたし……お燐も、ゼッタイにあきらめない! リリカのこと応援する! だから、だから……」
「……なあ、リリカ」
唇を噛み締めることで涙を堪えていた空とリリカは、燐の言葉に揃って顔を上げた。
燐にしてみれば、こんな辛気臭い空気など一秒でも蔓延らせたくないのだ。がりがりと頭を掻いて一瞬考え、燐は口を開いた。
「有名人だと騒いだクセに、ちゃんと聴いたことがなくてさ。あたいもおくうも。
……聴かせてよ、リリカの演奏。後のことはそれから考えたいんだ」
「……お燐?」
「いいだろ? これも依頼を達成するための重要な情報でね」
口元を歪めて、燐にとって理想的なニヒリズム漂う笑みを浮かべる。それを見つめていた空がそっと、リリカの身体を離した。
「あ、ごめんね。ジャマだよね……えと、わたしも聴きたいな。
なんだっけ、そのピアノ……色んな音が出るんでしょ? すごく楽しみ!」
空はそう言って屈託のない笑みを広げ、小走りで燐の隣に並んだ。
暫し呆然と突っ立っていたリリカだが――ぐしぐし、と楽団服の袖で目元を乱暴に拭う。
「音とか、大丈夫? かなり鳴らすけど」
「おねむにゃまだ早いさ。いっそ呼ぶか、さとり様とこいし様」
「パルスィとかこういうの好きそうだよね。よぶ?」
「流石にチト時間かかるな、こっからじゃ」
燐が笑うと、空も同調した。何も言わずとも二人の意見は同じ。リリカの視線が燐と空の間を忙しく飛び回り、その果てに彼女もようやく笑った。
オトナぶって必死に優位性を保とうとする、背伸びした満面の笑み。カッコつけてばかりの自分と、どこか重なる。
「……しょーがないなぁ。じゃあ特別に無料で聴かせちゃおうかな、私のソロライブ。新曲のおヒロメもかねてさ」
「嬉しいね。でも明日まで取って置いた方がいいんじゃないか?」
「二人に聴いてほしいの。最初に」
リリカの言葉に迷いはなかった。その真っ直ぐな眼差しを受け止め、燐は頷く。顔が赤くなっているのは自分でも分かった。
「そっか」
恥ずかしさでそれしか言えなかったが、それで十分だった。リリカはぴんと背筋を伸ばし、愛用のキーボードを抱えて優雅に一礼。
「ではでは、まもなくリリカ・プリズムリバー特別ソロライブイン地霊殿、開演でございます。
トランシーバーや弾幕の生成装置など、音や光の出る物は、お手数ですが座席の下やポケットなどにおしまいくださーい」
礼に合わせ、燐は拍手した。空もぱちぱちと両の手を叩く。
彼女は二人の眼を交互に見て、柔らかく笑ってから――そっと、腰の高さに滞空させたキーボードの鍵に、指を乗せた。燐には、乗せたようにしか見えなかった。
だが次の瞬間には、どこかから音が聞こえ始めている。遠くからまるでさざ波のようにそっと押し寄せてくる、アコースティックギターの音色。
徐々に被せるように、エレキギターに似せた、だが独特のシンセサイザー音が響く。ベース音とバスドラムがリズムを刻み始め、そのまま二小節分。撫でるようだったリリカの指が、ふわりと浮いた。
不意に音波を放つスネアドラムと、被せるようなシンセサイザーのスタッカート。サンバにも似たリズムを刻み、メインフレーズへ。
「……!」
明るく軽快なエレキギター風シンセが一際大きくなり、ドラムとベース、その上で音を震わせるアコースティックギターに乗るように飛び出していく。爽やかなのにどこか懐かしいそのフレーズが、燐の耳に飛び込み、頭の中で広がって、不意に一つの景色を創り出した。
そこには、どこまでも続くような夏の青空が広がっていた。遠くに白い入道雲が幅を利かせ、見上げれば真昼の月が白く溶け込む。
燐は走っていた。無論、本当に走っていたなら目の前のリリカに衝突してしまう。イメージだ。水色の世界を燐は走っている。リリカの演奏が、そんな彼女のイマジネーションを掻き立てて止まないのだ。
「……」
横を見ると、空は何も言わず、否言えず、どこか遠い目をして演奏に聴き入っていた。彼女の頭の中には、どんな景色が見えているのだろう?
後で訊いてみよう――燐の思考はやはりそこまでしか続かず、リリカの演奏が次のフレーズに入ったことで、再び水色の世界へと引きずり込まれていく。
先までがサビなら、今度はメロフレーズ。低めの音階を中心に組み立てられたシンセサイザーとギターの絡みに、時折ベースの主張が混ざる。
(これは……)
燐は驚いた。頭の中に広がる景色を見渡すと、すぐ左には広大な水溜まりが広がっている。
否、これは単なる水溜まりではない。寄せては返す陽光の煌めきを乗せて漂う、ウルトラマリンの水平線。
(こいつが――海、ってやつなのか……?)
実物を見たことはなく、話にしか聞かない無限の水溜まり。湖も比にならない大きさとは聞くが、これほどとは。リリカの演奏がもたらすイメージに過ぎないのに、潮風の匂いすら燐に教えてくれそうなリアリティがあった。
再び違う色を見せ始めるシンセサイザーの音色に合わせ、頭の中の景色も巡る。海を横目に、真昼の月を追いかけて走り出した。いくつも立ち並ぶ背の高い木々、網かけのように陰を落とす木漏れ日。数多の光に囲まれた、夏の匂いがする音の世界。燐は夢中になって走った。
スネアドラムとハイタムの織りなすビートを挟んで再び演奏がメインフレーズへ戻る。涙すら誘う不可思議な電子音の震えと、ワウを効かせたギターの音色が二人の心にさざ波を立てる。
軽いシンセソロを混ぜた間奏、ドラムの激しいタム回し、そしてブレイク。それらを経て最後の――燐にもそうと分かる――メインフレーズへ戻った時にはもう、燐の心に広がる夏空はすっかり暮れていた。夕焼けも徐々に群青へ染まり、いつしか頭上には満天の星空。
白かった月は黄金の輝きを纏い、天の川がまるでオーロラのように光の波を創り出す。海を見れば、波間に揺らぐ星の影。
メイン、アウトロを刻んで、シンセとベースが半音ずつその音を高めながら、同じフレーズを繰り返す。
星空が、波の影が、遠く。
(ああ、終わっちゃう)
燐の嘆きに似た心の呟きを掬い上げるように、うねりながら伸び続けていたシンセサイザーが、強烈なスネア二発と共にフィニッシュを告げた。
「!!」
世界が弾けて、地霊殿のオフィスの景色が戻ってきた。燐は右を見て、左を見て、未だ呆けたままの空の顔を見て、少し安心してから、リリカに視線を戻した。彼女はどこか恥ずかしげだった。
「……どう、かな? 新曲……名付けて『ミッドデイ・スター・メモリーズ』」
少し怖いけど、訊きたくてたまらない。そんな顔をしていた。残念なことに、燐はその望みをすぐには叶えてやれそうもない。
「……あー、その……なんつーか……いや、えと」
言葉が見つからない。迷いを口にする度に、彼女の心臓がどくどくと鼓動を強めていく。
(伝えられないって、こんなにもどかしい)
リリカがもう少しで、不安げな顔になりそうだと分かったその瞬間、燐は溢れ出るその衝動を解放した。
踏み込み、距離を詰めてリリカの肩を掴む。空も見せたそのアクションに、目の前の彼女は目を丸くして驚いていた。
それを真っ直ぐ見据え、碌に推敲もしないまま、思いついた言葉をぶつけた。
「……リリカ!! あたいらに任せろ!!
絶対だ……絶対に明日、リリカを勝たせてやる!!」
びりびりと戸棚のガラスが震える程の大声だった。何一つ偽ることのない、燐の決意。それだけの感動が、彼女の胸で渦を巻いている。
驚きっぱなしで瞬きすら忘れたリリカは、その叫びを聞いて二秒、三秒、四秒――やがて、ぽろりと一粒の涙がこぼれた。
みるみる内に顔をくしゃくしゃに歪めて、必死に止まらぬ涙を堪えようとする。
「……やめてよぉ……私、姉さんの前以外で泣いたコトなんて、ないんだよ……?」
「絶対にウソだな。泣き虫リリカって方々で言われてるさ、きっと」
燐はニヤリと笑った。強がる者程涙に脆い、燐の経験則。図星だったのか、リリカは呆然とした後で、表情を一変させる。
「お燐のばかぁ!!」
「いて、いてて」
ぽかすかと頭や肩を叩かれて、燐の笑みは苦笑いへ変わった。叩いて、叩いて、叩かれて、段々叩く力が弱くなって、やがてそのリリカの手が、燐の二の腕をそっと掴んだ。
「……勝たせてくれるって……ホント、に?」
「依頼人に嘘をつくようじゃ、この業界やってけんね。信頼第一」
「何でも屋だから?」
「あたいだからさ」
分かったような、分からないような。だけどその一言こそが、彼女の最も欲していたものかも知れない。
リリカは涙の光る目をゆっくり細めて、恥ずかしそうに笑った。彼女の心境とは裏腹、燐は脳内ガッツポーズ。
(……言ってみたかったんだ、こういうの……)
完璧なるハードボイルド風台詞を決めて燐は興奮を隠すのに必死。おりんりんランド営業強化月間である。
「……ま、お前さんはアレだ。ライブのことだけ考えてな。
リリカの演奏は最高だ。あたいは身をもってそれを知った。だから応えるよ。
大丈夫だ、心配なんかいらない」
「……」
「ホントだよ? お燐はね、ウソ言わないもん。それに、わたしもいるんだから!
リリカの演奏、すっごくよかった! うまく言えないけど……その、色々見えたんだよ! きっと、リリカがこの曲で言いたい、伝えたいコト」
燐は驚き、横を見た。ずっと呆然としていた空がいきなり喋ったからではない。自分の見たあの景色を、彼女もまた感じ取っていたのだと気付いたからだ。
「おくう、何が見えた?」
「……おそら、かな」
「空か」
「青いの。すっごく。どこまでも続いてる、夏のソラ」
「あたいも見えたよ。それに、海だ。目で見たことなんてないのに、何よりも鮮明だった。あれが海か」
燐はため息をついた。感嘆の息。それからすぐに、明日のことを。
こそこそ、と目元を袖で拭っているリリカ。この小さくて偉大な音楽家の下へ、大量の客を呼び込まねばならない。
それを請け負うのは自分と隣の助手。誇らしかった。
「ねぇねぇ、あの音全部、それで出してたんでしょ? どうやるの?」
音楽に触れる機会はそこまで多くない地底、空は興味津々にリリカへ尋ねた。彼女は待ってましたと言わんばかりに顔をぱぁっと華やげ、キーボードを宙に置いた。
「ふふふーん、私くらいの音楽家じゃなきゃ扱えない、すごいアレだよ。シンセサイザー機能をめっきめきに強化してあるからね。私の能力とあわせて、どんな音だって出ちゃうよ」
「しんせさいざ?」
「あ、ごめん。色んな音を混ぜ合わせたりこねくり回して、新しい音を作る機能だよ。私が持ってる幻想の音の能力と一緒に使って、どんな音でも楽器にできるんだ」
「えー、すごい!」
横でこうまで二人盛り上がられては、考え事も出来やしない。燐もその会話に頭を突っ込んだ。
「興味深いね。例えばどんな風にだい?」
「んー、そうだなぁ……あ、そうだ。じゃあお燐、なんか言ってみて」
リリカがぱちんと指を鳴らすが、燐は当惑。
「な、なんか?」
「うん。あー、とかわー、とか、にゃー、とか」
「にゃー! にゃーにしようよお燐!」
「よく分からんが、分かった。
えーっと……にゃ、にゃあああーーーーあああぁあ」
いつもの調子で鳴き声ロングトーン。どことなく恥ずかしい。燐の声が止むと、リリカはキーボードに備えられたボタンやら、側面のダイヤルやらをいじくり回す。
「んー、もうちょいこうかな……エレキか、サックスっぽく……」
「お、おおお? なんか分からんが、プロの顔だな」
燐の率直な呟きに、リリカの頬が染まる。聞こえてはいるようだ。彼女はやがて、燐を向いてにっこり笑う。
「でーきたっ! お燐、聞いて聞いて! いくよー」
リリカが鍵盤に指を乗せ、押し込む。するとどうだ、響き渡るのはエレキギターにトロンボーンの響きを合わせたような、音は高くも重みのある電子音。
エフェクトを効かせてシンセサイザーの音色にしてはあるものの、それは明らかに猫の声のようでもあり――
「……おい、このにゃーにゃー言ってる音はまさか」
「まさかもまさか、お燐のにゃーだよ」
「マジかいな……これ、あたいの声か……完全に楽器だな」
「わぁ、なんかすごい! ホントにお燐の声だ!」
自分自身の声が確かな『音色』になっているのを聴くのは不思議な心地だった。燐の声で何やらピロピロにゃーにゃーと演奏を始めたリリカの肩を、空がせっつく。
「ねぇねぇ、わたしの声もできる?」
「もっちろん! じゃ、なんか言ってみて」
「あたいがにゃーなら、おくうはうにゅーだな」
「う、うん。それじゃ……うにゅううううーーーうぅ」
空もロングトーン。ぎゅっと拳を握って必死に長い声を絞り出すその様はどこか滑稽でもある。
「にゅ、にゅうぅ……けほ、けほん」
「おくう、ムリするな。もう十分みたいだし」
咳き込む空の背中をさすりながら、燐はリリカを見やった。彼女は先と同様、ヘッドホンでもしているかのように片耳を手で押さえ、エフェクターらしきダイヤルをいじっている。
「えっへっへー、できたぞー。そーれ!」
彼女はそう呟くなり鍵盤を叩く。燐のものとはまた異なり、何かの楽器に形容することの難しい歪んだ電子音声。
強烈なエフェクトとビブラートによってぐにゃぐにゃに捻られたような、だがどことなく可愛らしいその声は、確かに空のもの。
「おおー、にゅーにゅー言ってる」
「うにゅー! これわたしの!?」
「そうだよー。なんかカワイイでしょ」
「う、うにゅうう。フシギっていうか、はずかしいっていうか、なんていうか」
「いやあ、おくうにピッタリだと思うけどなぁ」
はっはっは、と燐は思わず笑った。リリカが尚奏でる空の声は、澄み渡ったものとはとても言えないが――珍しい形の花を見た時のような、驚きを伴う美しさがある。
釣られて笑う空とリリカの笑い声とその妙ちくりんな電子音声が、綺麗なユニゾンを奏でながら地霊殿に響き渡る中――燐は不意に気になって、リリカへ尋ねてみた。
「なあ、ひとついいかい」
「なぁに?」
「なんでさっき、ソファの後ろにいたんだ?」
「……お燐とお空がいなかったから、おどろかそうと思って隠れてた」
奇妙なユニゾンに、再び燐の笑い声が加わった。
・
・
・
・
・
青白い月光に包まれて、里の家々はすっかり寝静まっていた。
真夜中まで宴会をして近隣住民から苦情を入れられた若者達の騒動も記憶に新しいのか、猫の子一匹動くものはなく、静かだ。
否――読んで字の通りの、猫の子が一匹。闇夜に融け込む黒い身体を躍らせて、素早く小さな窓から中へと滑り込む。
薄い布団に包まって寝息を立てる少女が一人、二人。起こさぬようとの配慮なのか、猫は爪を立てずにそそくさと駆けていく。
棚の上を飛び移り、水瓶を見つけるとその縁に捕まって、のぞき込むようにしがみ付いた。
と、その猫は何か小さく鳴いたかと思うと――招き猫のように掲げた手から、淡い朱色の光が瞬く。
光は一瞬だけ小さな人形の形を取ったかと思うと、すぐに篝火のように揺らぎ、水瓶の中へ沈んでいった。
「にゃ」
よし、とでも言いたげに猫は鳴き、素早い身のこなしで元来た窓へと飛び移る。二本の尻尾を引っ掛けないように真っ直ぐ伸ばして、するり。
その後も猫は家々を、倉庫を、何かの店舗を、果てはゴミ捨て場まで周り、ぽっかり口を開けて待つ物達へと小さな光を落としていった。
バケツ、桶、ゴミ箱、樽、かまど、熊の剥製の口の中――駆け巡る猫のしなやかな身体を舐め回すように、月明かりが降り注ぎ続ける。
・
・
・
「……おくう、どうだ? そっちは」
「うん、オッケーって! やっぱり眠そうだったけど」
「まあなぁ。ちゃんと後でお礼しに行くぞ」
ポン、と燐が叩いたその紙箱。お中元で大量に余っている素麺である。空が今し方会ってきた人物の好物らしいので、いくらでもプレゼントするつもりだ。
「お燐はだいじょうぶ? 見つかんなかった?」
「楽勝も楽勝、みーんな寝てたよ。ま、問題は明日……っつーか今日だけど。もう一回やらなきゃだからな」
「わたしはお昼までに、取りに行けばいいんだよね? 例のブツ」
「そそ。とりあえず作戦会議だ」
燐は空に座るよう促し、自ら台所に立ってコーヒーを沸かす。普段飲む物よりかなり濃く淹れて、二人分のカップをガラステーブルに置いた。
時刻は既に朝、リリカのソロライブ当日。燐は『作戦』の概要を空へ分かりやすく説明しながら、昨夜の演奏に思いを馳せる。
(……あれだけの演奏だ。一度耳にすれば、絶対に惹かれるだけのパワーはある。なら……)
「お燐?」
「あ、ああ。悪い。で、おくうはその後……」
途切れた説明を再開し、燐は身振り手振りを交えて空へと作戦の肝を伝えた。
どちらが欠けても成功しない大博打なのだと。
「んじゃ、あたいはもう動く。準備工作も必要だしね」
「お燐、だいじょうぶかなぁ」
「あたいとおくうだぞ? いけるさ」
ニヤリと笑ってみせると、空は一瞬だけ固まった後で笑い返した。気合いを入れるつもりなのか、制御棒を取り出して腕に付けたり外したりを繰り返し始める。
燐はそれを横目に、テーブルに置かれた装置――何かの端子だろうか――ともう一つ、リリカに借りた集音マイクを掴み上げて鞄に押し込み、オフィスを出た。
(まず山に寄って、そのまま里へ……リリカに見つからない方がいいかね)
廊下を暫し歩き、ロッカールームのようになった部屋で靴を履き替える。丈夫な見た目で歩きやすそうなショートブーツだ。
奥のドアから外へ出ると、そこはもう暗褐色に囲まれた地底の景色。傍らの物置のようなボックスから愛用の一輪車を引っ張り出し、今し方出てきたロッカールームに積んであった物を次々と放り込む。
ベニヤ板、加工された木や竹の棒、丈夫な布、金属プレート、工具箱――何かの工作に用いることは想像に難くない。
燐は息を大きく吸い込み、一輪車のハンドルを握ると、地面を抉るように蹴り込む。
土煙と共に轍を刻みながら、地獄の赤い猫は地底を駆け抜けていった。
・
・
・
・
かん、かん、と硬い足音が聞こえる。下だ。燐は手を止め、振り返る。
ばささ、と翼を動かす音と共に、ひょっこりと空の顔が足場の下から現れた。
「おりーん! やっほー!」
「お、来たな。見てよコレ、どうかな」
「すごいよお燐! やっぱりお燐、こういう図工の才能あるって!」
「そっかねー。にゃはは」
少しばかりデジャヴの香りがする会話をしながら、燐はその大きなドーム状の物体を示した。
すぐ前には一面金属製の壁があって、いくつもの足場やパイプによって組まれている。燐らがいるのは二人で立ちつつ工作作業が出来るくらいには広くなった足場。そして目の前の壁に取り付けられた、角張ったドーム。布と金属プレートで面が形成され、九十度傾いてドームの天辺を燐らに向ける形で取り付けられている。亀の甲羅に見えなくもない。
空の身長の半分以上はあろうかという巨大なお手製ドームだが、無論最初からここ――ソロライブ会場の、ステージ真裏にあったものではない。
「で、ここにさすの?」
「そうだよ。一応ちゃんと接続出来るかは確かめた……で、問題はそっちだ。もらってきたかい?」
「うん! ちゃんとね、『れいのブツは?』ってきいたんだよ。そしたら、『問題ない。シャレイはいつものところへたのむ』って答えてくれたの!」
「ノリいいねぇ。あいつらしいや」
空はとても嬉しそうに語りながら、大きな袋を少し開けて、中身を燐へ示してみせた。手を入れて一部を摘み上げる。
燐の指先で淡い陽光に光る、白い糸。絹のような手触りで、髪の毛よりも遙かに細いそれがぎっしりと束になって袋に入っている。
「うん、触っただけで分かる。こいつはバッチリ『通して』くれそうだ」
「じゃあ、あとはやるだけ?」
「かな。リハーサル出来るモンでもないし……上手くいかないようなら、最終手段に出るまでだ」
「どんなの?」
「その時はあたい一人でやるよ。おくうまで灰を被るこたぁない」
「だめだよ! わたしもお燐といっしょにやるの! そのための助手なんだから!」
息荒く迫る空を見て、燐は額を押さえた。成功率は未知数――どちらかと言えば悪い意味で。何せ誰も考えないような方法だ。
だがそれでも、やると決めたのだ。自分達の申し出がリリカに勇気を与えたのなら、逆もまた然り。あの演奏を耳にした瞬間からずっと、胸の中に灯り続ける小さな火を、多くの人に分け与える。
「おくうも一応、確かめてね。そのてっぺん」
少しでも成功率を高めるには、入念な準備が必要だ。もう一人のキーマン、空にも確認を促す。
空は頷くと制御棒を取り出して腕に装着し、もぞもぞとその中で腕を動かす。と、先端からマニピュレータにも似た接続端子がにょっきり生えてきたではないか。
それをゆっくりドーム状の装置に近付け、彼女らの方を向いたドーム天辺の端子に腕ごと差し込む。かちり、と音がしたのはすぐだった。
「どーれどれ……おっけー、ジャストフィット! もうやっちゃっていい?」
「わあ、やめろやめろ! 火でも吹かれたら困る」
「うにゅ」
どこか興奮する空を慌てて止め、燐は一瞬で滲んだ冷や汗を袖で拭った。
ざわりと風が吹いて、広場を取り囲む木々を揺らしていく。組まれたステージの壁が、微かに軋んだ。
「……」
風に揺れる三つ編み。燐の表情は若干険しい。圧倒的不利を打開する為の大がかりな作戦、失敗したらという不安は拭えない。
「おりんおりん」
「……んあ。どした」
「はい!」
不意に呼ばれたので横を見ると、空が笑いながら何かを差し出す。指先に摘まれた、コーヒーキャンディの包み。
「こういう時は、甘いモノがイチバンだってこいし様が言ってたよ!」
屈託なく笑う空も、もごもごと口を動かしている。思わず燐も破顔し、包みを受け取った。
「ありがとさん」
口に入れると、甘くて苦い。どこか懐かしいその味が、昨夜の演奏を彷彿とさせる。
燐は暫し、ぼんやりと滲む夏の空に思いを馳せた。
・
・
・
・
ステージ裏側、壁の隙間から見える広場には、既に人だかりが出来ている。
顔を上げれば、薄いオレンジに染まる西の空も徐々にダークブルーへと溶かされていくのが見える。妖怪の時間はもうすぐだ。
「いつ始まるんだっけ?」
「午後七時……あと四十分ってぇところか。そろそろ出るかね」
燐はゆっくり立ち上がり、スカートに付着したビスケットの欠片――空が駄菓子屋で調達――をはたき落とす。
「お燐、ひとついい?」
「なんだい?」
「どうしてこんな作戦思いついたの? わたし、びっくりしちゃって」
「ああ、それか……昨日の晩、リリカが帰ってからずっと考えてたろ」
「うん、コーヒーいっぱい飲んでたよね」
「その時に、こいつを見てね」
燐はポケットから取り出したそれを空へ放った。
「わ」
キャッチしようとして指先で弾き、再度舞い上がった所を今度こそ受け止める空。つまり、それだけ軽い物体。
「……なんじゃこりゃ? コレが?」
「ま、すぐ分かるよ。分からなかったら、終わってからじっくり教えてやるさ……んじゃ、行ってくる」
「あっ、待ってお燐」
「?」
背を向けようとした所で不意に呼び止められ、燐は小首を傾げた。空は相変わらずの笑顔で右手を握ると、拳の先にそっと口付けしてから燐へ向けて突き出す。
「おまじない! こうするとなんでもうまくいくって、こいし様が言ってたよ!」
「こいし様の知恵袋も守備範囲が広いこって」
燐は少し頬を染めて笑い返し、自分もまた空に倣った。唇は思ったより乾いていなかった。
互いの右拳を突き出して、打ち合わせるように重ねる。
「いえーい」
小声で燐。空がまた笑った。
徐々に人の集まりつつある広場。そびえ立つステージの後ろから、誰にも見えぬ赤い影が躍り出て、里の大通りへ向けて消えていく。
空は燐と口付けを交わした右手に制御棒をはめ込んで、それを見送る。
「……きっとだいじょぶだよね、お燐」
彼女は呟きながら、左手の中にあった紙コップを軽く弄び、落っことした。
・
・
・
・
里の大通りは変わらぬ賑わいで、夜の訪れを少しでも遅らせようと騒ぎ立てている。通りの一角に置かれたねじ巻き式の大時計は、午後六時五十分。
誰かの家の影に身を隠す、黒衣に赤毛の三つ編み少女――何故か通りすがる人々は彼女を気に留めない。気付かぬまま、家路へと向かう。
「……よし、やっか」
彼女は――燐は呟き、何かを口にくわえる動作。そのまま全身の力を抜くと、みるみるその姿は縮んでいく。人間に近い容姿から、赤いリボンがチャーミングな完全なる黒猫へ。
くわえた何かを離さぬよう顎に軽く力を込めて、今し方身を潜めていた家の中へ、窓から素早く侵入した。
新聞を読み耽る家主の方を一瞬だけ伺い、燐は音を立てずに素早く桐箪笥へ飛び移る。爪の音一つしない。
そのままの勢いでそそくさと箪笥の上を渡り、部屋の隅に置かれた壷に狙いを定める。もう一度家主の意識がこちらに向いていないことを確認し、燐は音も立てずに飛び降りた。
壷の中をそっと覗き込むと、小さな朱色の光が瞬く。そこへ目掛けて、口にくわえた何かを落っことした。
ふわり、猫の息遣いにも吹き飛びそうな軽い挙動で落ちていく、細い細い糸の先端。目を凝らしても尚殆ど見えないその糸の続きは、不思議なことに壁や天井にぴったり貼り付いていて、誰かが引っ掛ける心配はなさそうだ。
燐の鋭敏な聴覚にしか引っ掛からぬ、しゅるり、という音。誰かが投げ返したかのように、今し方壷の中に落とした糸の先端が宙に浮く。それを再びくわえて、燐は物音一つなく身を躍らせた。
壷の縁、箪笥の上、そして窓枠に飛び乗り、薄闇が支配する里の通りへ。
もしもこの家の家主が、余程感覚の鋭い妖怪の類であったならば、或いは見つけられたかも知れない。
古びた壷の中で、目に見えぬ程細い糸を小さな手で中継する、灰色の妖精の姿に。
(人の持つ生気を避ける性質を持たせてくれなんて無茶、よく出来たもんだよ)
また別の家の窓から顔を出しながら、燐は思う。口にくわえた糸はライブ会場から先の家の窓を経由し、人々の行き交う道すれすれの地面を通って彼女へ続いている。
気まぐれな人の足が糸を断ち切りそうになろうと、ふわり風に舞うようにその脚を避けていく。人には見えることも、気付かれることもない。
そんな様子だけを確かめてから、燐はそのまた別の家に飛び込んでいく。長押に手を掛け、懸垂するかのような姿勢で部屋の奥を目指した。
使われていないのか、玄関先に置かれた空っぽの樽――本来はきっと、漬け物にでも使うのだろう。玄関の鍵が掛かっていた故にこのような大冒険を強いられたが、燐は無事に辿り着き、中へ糸を落とす。妖精の手が伸びて糸を捕まえ、端を燐へ投げ返した。
物の多い部屋、こまごまとしたガラクタに身を隠しながら窓の下まで忍び寄り、一息に飛び出す。通りに人多けれども、彼女へ注意を払う者はいなかった。
僅かな玄関の隙間、換気用の小窓、煙突に勝手口、床下――ほんの少しの隙間があれば、彼女は入っていける。阻むものはない。
黒猫が駆ける。バケツ、桶、ゴミ箱、樽、かまど、熊の剥製の口の中――半日余前の足跡に、ひとつひとつ糸を通しながら。
遠く離れた広場には、それなりに多くの人だかりが波を作りつつあった。見比べる者など居やしないが、昨日より、一昨日より小さな波。
ステージの隙間から様子を伺うと、赤い楽団服の背中はますます小さく見えた。
「リリカ、がんばれ」
空は呟き、制御棒の中で手を握り込む。先端から生える接続端子。息を吸って、吐いて、また吸って、遠目に見える里の大通りへ一度だけ視線を飛ばしてから、彼女はそれを目の前のドーム型集音機に差し込んだ。
装置の下部からは、空の視力でようやく捉えられる程の白く細い糸が延びていて、燐が去っていった方角へ続いている。
と、その糸が不意に、ぴんと緊張した。空の表情が変わる。
「わかったよ、お燐」
そっと糸を摘んで、弾く。程良い反発が、準備完了の合図。
自分の心臓が不意に暴れ出し、視界がぶれる。冷や汗を袖で拭い、もう一度ステージ下を窺った。今まさに、キーボードを抱えたリリカが飛び出していく。
爆発のような歓声。十分に誇れそうな観客の数だが、彼女は欲張りだ。だからこそ自分達がいる。空は見える筈のない笑顔をリリカへ投げた。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
アイドリング。体内で膨れ上がる膨大なエネルギーを、制御棒を介して少しずつ装置へ注いでいく。汗が止まった。
「では早速新曲いきまーす! 聴いてね、『ミッドデイ・スター・メモリーズ』!!」
リリカの楽しそうな声が聞こえた瞬間、空の全身が淡い光を放つ。太陽の化身・八咫烏。その力を宿した彼女の身体は、今やひとつのエネルギープラント。
「うにゅうっ!!」
気の抜けそうな気合一閃、圧倒的な原子力エネルギーが制御棒を通じ、装置へと流れ込む。
細い糸が、風を切り裂く唸りを上げた。
・
・
・
そっと糸を摘む燐の細い指が、遠くからの確かな脈動を感じ取ったのは、大通りのねじ巻き式大時計が午後六時八分を指した時だった。
「……よし、来た!」
燐は近くの家の壁にもたれ掛かり、息を吐く。間違いない、必ず上手くいく。自信で不安を塗り潰さねば、あのふてぶてしい笑みは生まれない。
そっと見上げれば、うっすら浮かぶスポンジケーキのような満月。見つめる燐の目の中で、リリカが見せてくれた真昼の月がそっと重なる。
目を閉じる。その意図の半分は、この里中にバラ撒いた己の力の分身。亡霊と化して尚生きる妖精と、その手が介する土蜘蛛の糸。それらに神経を飛ばすため。
土蜘蛛の妖力がたっぷり詰まった細い糸は、あらゆる力をしなやかに受け、伝える。遠くにある音と、それを爆発的に加速・増幅させる八咫烏の力。
そして今、ゾンビフェアリーの中継を介して里中に張り巡らされた共同作業。燐が目を見開いた。
今、町中が歌声を上げる。
「コード、ストリングフォン・ネットワーク! さあ歌え!!」
――尚、目を閉じたもう半分の理由は、カッコつけである。
・
・
・
・
「……?」
妙な胸騒ぎがした。その日行った国語テストを採点する手を止め、上白沢慧音は顔を上げる。
窓の外で、誰かが叫んだ気がしたのだ。気のせいだろうか。それとも家の中だろうか。
「妹紅、何か言ったかー?」
「んー? なんにもー」
声を張ると、あちらも声を張り返した。藤原妹紅の声は、風呂場特有の反響を伴って慧音の耳に届く。
続いて、ざぶざぶと水音。すまない、と一声返して彼女は再び筆を握る。
すぐに目の前の答案に戻ろうとしたが、その手をもう一度止めさせるだけの明確な違和感が、彼女の耳を小突いた。
「なんだ……?」
部屋を見渡す。使い古された机、桐箪笥、妹紅と自分が写った写真立て。もう少し視線をずらすと、床の間に置かれた大きな花瓶。彼女のある誕生日に、生徒達が贈ってくれたものだ。
流しかけた慧音の視線が、再び床の間を向いた。びりびり、と花瓶が震えている。無論その傍には誰もいない。
聡明な慧音が真っ先に思い当たったのは、地震であった。そう滅多にあるものではないが――そうでもなければ、騒霊の仕業ぐらいしか思い付かない。
結果として彼女の推測は、半分が的中することとなる。
「な」
その一文字を呟いた状態で、彼女の口は開いたまま硬直した。
じゃんじゃん、じゃかじゃか。花瓶が歌っている。
遠い異国の夏空を思わせるような、アコースティックギターの旋律を。
(夢でも見ているのか?)
慧音の身体の半分は妖怪だ。その感覚は人のそれより鋭敏である。部屋のどこかから聴こえるこの音色が、花瓶の口から響いているとすぐに気付いた。
或いは完全な妖怪であるならば、その発生原因まで特定出来たかも知れないが――最早それどころではない。
「け、けけけけーねぇ!! 風呂釜からなんか音楽が聴こえるよ!?」
「妹紅か、私も……うわぁ! ふ、服くらい着なさい!」
「ンなコト言われたってぇ」
風呂から上がって直接飛び込んできたのか、白い肌がすっかり上気した妹紅が部屋に駆け込んでくる。身に纏うのはタオル一枚のみ、身体も髪も濡れたままで、慧音としては歌う花瓶よりある意味衝撃的だ。
しかし――ある種の非常事態においてこれだけ普段通りのやり取りが出来るのは、この事態が危険を伴うものではないと、彼女達の勘が告げているからだろうか。
「これは……」
彼女らがラブコメのようなやり取りをしている間にも花瓶からは音楽が流れ続ける。
スネアドラムとギター、ベース音がサンバを思わせる快活なビートを響かせ、エレキギターがメインと分かるメロディを歌い出す。
音に色を付けるのなら、それは間違いなく水色。手を浸せば刺すように冷たく、叫びたい程暑苦しい真夏の色。
「そういえば」
(去年の夏は、湖の近くまで皆を連れて遠足に行ったな……どこまでも高い空が、まるで水面のように……)
不意に想起される、真夏の思い出。ギターの震えに呼応するように、胸の奥から夏の記憶が次々と浮かんでは、手に取れそうな程はっきりとしたビジョンを形作る。
ぼんやり耳と心に任せるがまま夏の景色を楽しんでいたら、背後の襖が開いた。
「慧音……」
「……あ、ああ。どうした」
「あのさ」
一拍遅れて振り返ると、いつもの服に着替えた妹紅がいて、ピンク色に染まった頬を少し寄せてから口を開く。
「今年の夏はさ、二人でどっか遊びに行かない? 山に流れてる川とか、楽しそうだし」
「へ?」
「あ、その」
何を言うかと思えば、夏の予定。あと半年はある。素っ頓狂な声を聞いて、妹紅は我に返ったように慌て出す。
「ごご、ごめん。なんかこの曲聴いてたらさ、その」
「……夏の思い出が次々に蘇って、居ても立ってもいられなくなったか? 安心しなさい、私もだ。泳ぐか?」
「あ、あー……うん、泳ごっか。約束ね」
「ああ」
自分の言葉で妹紅はどこか安心した顔になる。それが嬉しかった。
そして彼女達のその会話の間に、聴こえてくるエレキギターのフレーズはメインへと戻っている。裏では変わらずアコースティックギターと数多のパーカッションが、まるでさざ波を演出するかのように鳴り響く。
心を直接揺さぶるメロディ。音の上下に合わせ、視線と目の裏側が熱くなる。
「妹紅、外だ」
「へ? あ、ホントだ」
窓の外が騒がしい。里に住む多くの人々も気付いたのだ。
無意識に目頭を押さえながら靴を履いて玄関を開ける。大通りには少しの困惑と、多大な興奮が渦巻いていた。
いくつもの見知った顔が右往左往しながら、今起きている事態に説明を付けられないでいる。あちこちの家々からは、同じ曲。
冬の里に、夏の夜空が広がっていた。
「な、なにが起こってんだ!?」
「わからん、いきなり壷から音楽が」
「でもいい曲じゃないか、コレ。面白いし」
「冷静だなぁマッタク」
「すごいんだよ、ウチのクマが歌ってるんだよ!」
「せんせー!」
騒乱の中、一人の少年が駆けてくる。慧音の生徒だ。その手には元々菓子類が詰められていたであろう、やや平たい箱。
「みてみて、コレ! オレのつかまえたカブトムシ!」
彼は嬉しそうに箱を開ける。中には見事な大きさのカブトムシの標本が、四匹。
慈しみ以外の一切の感情が消えていく。慧音はしゃがんで生徒と目線を合わせ、その小さな頭を撫でながら笑った。
「凄いじゃないか、いつ見ても見事だ。私も虫取りに行きたくなるな」
「へへー」
この上なく嬉しそうにはにかむ少年がこの標本を見せに来るのは、これが二度目だ。昨年の夏休みが終わった直後が最初。
「慧音」
「ああ。皆、夏のことを思い出してしょうがないんだ」
冬の空は、星がとても綺麗に見える。慧音にはそれが一瞬だけ、大輪の花火に見えた。
「これかなぁ、もしかしてさ」
「む」
妹紅が袖を引く。寺子屋の壁に貼られた薄赤色に五線譜が踊るポスター。
「プリズムリバー楽団……じゃない、リリカのソロライブか。そういえば宣伝していたな」
「これくらいやりそうだよね、あの楽団メンバーなら」
「実際、効果は覿面と言えそうだしな」
彼女らと同じ考えに至った者は多いようで、ぞろぞろと移動を始める人間もちらほら。
「慧音、どうする?」
「妹紅は?」
「慧音の意見に合わせます」
「……湯冷めしないか?」
「夜風に当たりたい気分でもあるんだ」
互いに頷き合い、二人は大通りを走り出した。一曲目がもう終わりそうだ。
・
・
・
・
人は勝ち誇った時、既に敗北している。どこかで聞いた偉人の言葉だ。
だが今の光景を見て、勝ち誇らずにいられる方がおかしい。燐は確信を持ってそう言えた。
「おくう、よくやったな」
「あっ、お燐! すごいの! すごいんだよ!! ヒトがね、いっぱい来たんだよ!!」
「だろうな。ま、あたいとおくうが本気を出せばちょちょいとね」
「えっへー」
ソロライブ会場、ステージ裏。体力を使う一仕事を終え、足場の上で座り込んでいた空を労う。壮大な糸電話を使って流したのは最初の一曲だけ――多少迷惑を掛けているという自覚はあったからだ。それでも、その効果の大きさは目の前の光景が何よりも雄弁に物語っている。
隙間から覗き込んだ会場には、ステージ中目一杯に走り回って演奏を続けるリリカと、最初に見た時の何倍もの人数で埋め尽くされた客席。
「ね、ね! これならきっと」
「ああ……こんだけ集めりゃ、リリカの勝ちだろうね。確証はないけど、確信はある」
「どうちがうの?」
「あとで教えてやるよ。今はあたいも客になる」
「わたしも」
ステージの壁に背を預け、息を吐く。妖怪としての力をかなり使って、正直疲れていた。この特等席も、追加報酬として貰うつもりだ。
寄り添うように、空が隣に座る。温かい。
首だけ動かしてステージを見やると、丁度演奏が終わった。万雷の拍手に、手を振って応えるリリカが見えた。燐の感覚が確かなら、二日前のライブで聞いたよりも大きな拍手だ。
マイクを使わずとも、騒霊の力で拡張されたリリカの声が響く。
「えー、残念だけど次で最後の曲でーす!」
お決まりのように嘆きの声が会場を埋める。間違いなく本心であろうが。
「えへへ、ありがと! また次のライブまで、その気持ちをとっといてくれるとうれしいな!
で、最後の曲なんだけど……たった昨日生まれたばっかの新曲だよ!」
おおー、と会場全体がどよめく。
「昨日だって! ホントに生まれたてだね」
「だな……あたいらのトコに来る前に完成させたのかな」
空の言葉に頷く燐。自然と思い起こされる、あの夜。
(絶対に勝たせてやる、か)
思えばかなりの大見得を切ったが、それに応えることが出来ただろうか。少なくとも、作戦は成功した。
依頼人の期待に添えたのか――どれだけの自信を以てしても、その一点の不安を拭い去るのは難しい。
大きな壁を隔てた向こうで、リリカがスタンドマイクを設置しているのが見えた。
あー、あー、てすてす、と声が聞こえる。何故か心地良くて、燐は目を閉じる。
「思い切って歌っちゃうよ! ラストナンバー、『ミッシング・キャット』!!」
一気に目が覚めた。
「なんじゃとぉ!?」
「お燐?」
「あたいらタッグの名前、忘れたなんて言わないよな!?」
「あっ!!」
やり取りの終わりを待たずして、シンセサイザーで作っただろうサックスとエレクトーンの音色が、軽妙なテンポのロックを奏で出す。
ジャズとブルースとロックを足して割ったような、ひたすらにノリ重視の音運び。スネアドラムが跳ね回り、強いアクセントを添える。
空と一緒に必死になって覗き込むと、燐には理解の追いつかぬ指遣いでキーボードを操りながら、満面の笑みでリリカがマイクに顔を寄せるところだった。
『I am blazing cat.Nobody catch me.
I am shining crow.Nobody break me.』
「!?」
(英詞……だよな、これ……)
「う、うにゅ! おりんおりん、なんかわかんないけどカッコいい!」
幻想郷であっても、英語で歌っていけない道理はない。しかしあんまり唐突だったので、燐は呆然と聴き入るばかりだった。
『What is your request,in the today ?
We can do anything,A to Z.』
燐だって日本語を喋るのだから慣れている訳ではないが。幼い声質のせいか、発音に難がある――気がする。慣れない英語なのだから、簡単な言葉でしか組み立てられないのもまた分かる。
それでも、溌剌としたその歌声が少しずつ、客席で聴き受ける大勢と、背後にいる二人の心をぐいぐいと引っ張り上げる。
不意に湧いた手拍子が、ドラムを掻き消す程のビートを刻み始めるのに時間はかからなかった。
『Be lost child ? or missing cat ?
Maybe solve to accident ?
Okay,okay ! That's leave me everything ! 』
サビに近付いているのか、リリカがますます声を張り上げる。ハイタムとロータムが織り成す地響きのようなフィルに合わせリリカがゆっくり目を閉じ、目一杯の笑みを浮かべるのがはっきり見えた。
『Don't cry,BABY !! Don't worry !! We're stand by you.
Don't say LAZY !? Noway !! Just not serious still.』
手拍子が一際大きくなり、会場そのものが叫び出す。今すぐ客席に飛び込んで一緒に拳を振り上げたい衝動を、燐は必死で押さえた。きっと空も同じだろうから、彼女の腕を掴んでおいた。
(あいつより目立つなんて、あっちゃならんのよね)
『Call me anytime,if you have a trouble and sorrows.
Forget my name ? Okay,repeat after me loud……』
スポットライトを浴びるこの日の主役が、ぐっ、とタメを作って勿体ぶる。観客は、燐は、空は、心の中で急かした。
『We are the “Missing Cat” !!』
マイクに向けて叩き付けられた、自分達の呼び名。不思議な心地だった。
『Get back your pretty smile !!』
マイクに向けて叩き付けられた、自分達の信念。顔が熱くなった。
二度のシャウトに続き、キーボードソロ――だが、その音色。
エレキギターにトロンボーンのような響きを合わせた、猫の声。メロディアスで哀愁漂うフレーズを歌うそれは。
「お、お燐! これって」
「……言わなくたって分かるだろ?」
自分の声に合わせ、観客がますます興奮し、拳を振り上げる。そんな経験なんて、地獄でも出来やしない。空の質問にまともに答えられず、誤魔化しながら燐は目頭を押さえ、俯いた。
ジャズやブルースの類ならソロフレーズはサックスと相場が決まっていそうなものでもあるが、不可思議に力強い響きがそんな概念を吹き飛ばしつつある。この曲において、これ以上似合う楽器はない。
音色が変わった。一際高くピーキーな電子音。楽器に無理矢理例えるなら、テナーサックスから限界まで音を高くしたエレクトーンに変えたような。
「うにゅ……わたし、の」
今度は空が顔を伏せる番だった。感極まったのか、ぐすぐす、と鼻を啜る音が聞こえる。
「二人揃ってMissing Catか。リリカのやつめ」
「粋なコトするわね」
「う、うぅ。リリカぁ……ぐす」
「んー、いいハナシじゃない。こういうの、私も好きだな」
「これでハッキリしちまったな。この曲、リリカが一晩で作ったんだ。あたいらと約束した帰りにな」
「わたしたちのために?」
「それ以外ないでしょう。あの子なりの、精一杯のお礼ね」
「実際いい曲だしね。歌詞も相当頑張って作ったみたいだし、面と向かってお礼言えない、その代わりかな?」
「ったく、リリカめ。全部終わったら、褒め殺してやる……なぁ、ところでおくう」
「わたしもなんだけど、お燐」
『さっきから、誰と話してんだ(の)?』
二人はコントじみた動きで一斉に顔を上げた。揃って左を見、右を見て、見つける。
いつの間にかそこにあった、新たな二つの人影。
「ホント、面白い二人組ね」
「歩く人情活劇って感じ?」
黒と白の楽団服が並び立って、方や呆れ、方や楽しげな笑みで二人を見ていた。
燐の脳内物質がフル稼働し、大慌てで試算を開始する。目の前の二人を丸め込み、誤魔化す算段。
だがそれは非常に厳しいことを、黒い方――ルナサから否応なく突き付けられる。
「先日はどうもありがとう、私のライブに来てくれて。しかも妹のライブを盛り上げてくれるなんてね」
「んー、すっごい数。こりゃあリリカも張り切るよねぇ」
ステージの隙間から客席を覗き、白い方――メルランがまた笑う。
「な、なんのコトだ。あたいらはただの客さ」
「そ、そーだよぉ。ちょっとこっそり、近くできいてみたくなって」
空が援護するが、効果は薄めのようで。ルナサは苦笑いしながら、ポケットを探る。
「あの子は隠し事が昔から下手なのよ。リビングにこんなのを放置してくくせに、夜中に帰ってくる時はわざわざダクトから入ってくるし」
「そこが可愛いと思うんだけどねー」
彼女の手にあったもの――『ハッキングから夜のおかずまで!』の文言が躍る、燐お手製の何でも屋宣伝チラシ。
ちら、と横を見る。空の縋るような視線。奥歯を噛んで、燐は言葉を捻り出した。
「ま、待て待て。あたいらは別にリリカに一枚噛んでるワケじゃないぞ。そんな偶然でリリカが不正扱いになっちゃ、たまらんだろ」
「そうは言うけど、さっきから聴く限り……この歌、あなた達のコトにしか聞こえなくて」
「さっき自分の声って言ってたしねー」
「そ、それはただ知り合いってだけでな」
その時であった。間奏が途切れ、ベースとバスドラムのみのシンプルな繋ぎに切り替わる。時折リムショットとタムがアクセントのように鳴る中で、リリカの声が響き渡った。
『えっとぉ……こ、この曲は、今回のライブのためにすごく、すごく頑張ってくれた……私の大事な、二人の友達のコトを歌ってます!』
んが、と燐の顔が硬直した。
『ちょっとおトボケだけど、すごくカッコよくて、優しくて……二人がいなかったらきっと、きっと、わ、わたしは……こんなに素敵なライブには出来なかった、と、おも……っ』
くぐもった嗚咽が混じる。客席からいくつものリリカコール。袖で涙を拭い、精一杯の笑みで顔を上げるリリカの姿が、ステージ裏の四人の脳裏に、あまりにも自然に過ぎるのであった。
「……泣き虫リリカめ……」
「燃えるネコと輝くカラス。リリカはホントの本気で、二人が好きなんだね」
「こんな大がかりな装置まで作ってもらって、あの子は幸せ者よ」
ふぅー、と夜空に向かって白い吐息を吐く。メルランの言葉はある種のフォローのつもりだろうか。
詰めを誤った。横の空とステージのリリカに向け、燐は片手を挙げて謝罪した。
・
・
・
・
・
ルナサ、六百六十七人。
メルラン、六百四十三人。
リリカ、千飛んで二十一人。
結果だけ見ればぶっちぎりでこのソロライブ対決を制したリリカは今、その大きな目いっぱいに涙を溜めながら、姉の前で一時間に渡る正座を続けている。
もう、日付も変わろうかという時間帯だ。
「……あなたの執念や、結果に結びつけようとする努力は認めるわ。それは本当の気持ち。
だけど、だからと言ってルールを破っていいコトにはならない。あなたの気持ちも鑑みてはいるけれど、それは正々堂々とやった上で初めて言えることなのであって……」
ルナサの声はあくまで静か。だがそれが逆に、研ぎ澄まされた真剣のような切れ味でリリカの心を抉り続けている。
耐え切れず、隣で無理矢理正座に参加していた燐は手を挙げた。
「なあ、そろそろ勘弁してやってくれないか。その、ルールに反すると知っていて荷担したのはあたいらだし……」
「そも、ルールに反すると知っていて依頼したのはリリカよ」
ぐ、と唸る。理詰めでは勝てそうにない。
「無理しない方がいいわよ」
表情を緩めたルナサが声を掛けたのは空だ。燐の隣で同じく正座に参加していたが、もう足が限界なのか全身がぐらぐら動いている。
「う、にゅう。だいじょぶ」
「大丈夫には見えないんだけれど……別にあなた達を責めるつもりはないし」
「そうは言うがな。請け負った以上その先に起こり得るアレコレにもちゃんと責任を持たないと、何でも屋としても名折れでね……」
燐が口を挟むと、彼女は少し困った顔をした。
「うーん……でも、この子がねぇ」
「つか、アレだ。何で二人はあたいらのコト分かったんだ? チラシだけじゃ確信持てないと思うんだけどさ」
多少、説教の矛先を逸らすつもりもあった質問に、ルナサは頬に手を当てつつ思案顔で答えた。
「んー……それは、一応私達は騒霊だから、音には敏感で。
あなた達が具体的にどんな手を使ったかは分からないけれど、リリカのライブ一曲目の時に、里の方でいくつも大規模な音の共鳴があって……」
「あ、なんかしたんだなーって。ステージの真裏にも、音が集まるような反応があったから、マイクでもあるのかなって」
成り行きを見守っていたメルランが補足する。燐は内心で舌を出した。要するに、ライブが始まった時点で二人にはバレていたのだ。
「理解しました、っと。リリカは……その、確かにルールとしては違反だったかも知れないけどさ。あたいらは別に、依頼だからやったってだけじゃないのさ」
「?」
「リリカの演奏、本当に素敵だったよ。多くの人の耳に届けなきゃ、勿体ないだろ。勝手にそう思ったから、こんな作戦を立てたワケでもあってね」
「そーだよ! お燐、言ってたもん! リリカの演奏なら、耳にさえ届けばみんな聴きに来てくれるって! ホントだったじゃん!」
空が興奮した様子でまくし立てると、ルナサは燐と空、それから半ベソで俯くリリカの顔を順番に見て、宙を仰ぐ。
「……どうしたものか。リリカったら、相当強力な助っ人を呼んできたわね」
「もういいじゃん、姉さん」
と、不意にメルランが割って入った。ソファの背もたれに腰を下ろし、相変わらずの笑顔で一同の視線を集め、彼女は続ける。
「姉さん的には、自力でお客さんを集めなきゃいけないところに、他の誰かの力で呼んでもらったのがよろしくないと。
じゃあ訊くけど、二人はなんでリリカに協力したの? 誰かの差し金?」
質問の意図が読めなかったが、燐は一瞬の思案の後でごくごく素直に答えた。
「それは……リリカからの依頼だからってのもあるし、演奏を聴いてもっと広めたいってのもあるし。
何にせよ、相手がリリカだから、だろうな。あたいらの意志さ」
空も隣で頷いている。メルランは満足そうに頷いて、ぱっと顔を華やげた。
「じゃ、決まり。リリカは、何百人ものお客さんに匹敵するような、最高に素敵な友達を二人も連れてきましたー、っと。
これじゃあ、リリカの勝ちを認めざるを得ないんじゃない?」
燐は、真夜中なのに急に日が射したように錯覚していた。明るさに目が慣れた辺りで、毒気を抜かれたような顔でルナサが頬を掻く。
「え、あー……」
「だってホラ。いくら依頼でもさ、ここまで大掛かりでド派手な作戦を立てて、里中を巻き込んでまでリリカのために頑張ってくれるような二人だよ?
お客さんに優劣を付けるつもりなんかないけどさ、私は認めたくなっちゃうな。二人とリリカのコト」
現に結果も出てるしね、とメルランは何度目か分からない笑みの上塗り。リリカが少し顔を上げたのが見えた。
「……」
「あなたは……メルランはそれでいいの? そうしたら、負けるのはあなたってコトになるけど」
ルナサが念の為と言いたげに尋ねる。本気で問うているような声色に聞こえないのは――
「私はもう負けを認めてるよ、姉さんにもリリカにも。罰ゲームだって、別に料理は好きだしねー」
――この答えが返ってくることが、分かり切っていたからなのだろう。彼女達は何百年の時を共にした姉妹なのだ。
「異論、もうない? なら、今回の勝者はリリカってコトで! おめでとー!」
ぱちぱちと手を叩く音。燐もそれに倣った。異論などあろう筈もない。
「ほれリリカ、いつまでも泣いてないで。お前さん、勝ったんだぞ」
燐が背中を叩くと、リリカは潤んだ目のままで一同を見渡し、また少し俯き加減。燐にはすぐに分かった。空にも似たような所があるからだ。
(頼むよ)
ルナサに目配せ。彼女は一瞬だけ考えてから気付いたようで、リリカの前に座って目線を合わせる。
「ごめんなさい。なんだかんだ言って、あなたが演奏で沢山の人を惹き付けたのは紛れもない事実なのにね。嫉妬してたのかも。
だからもう泣かないで、胸を張っていいのよ」
頭を撫でながら優しく語りかける。するとリリカの泣き顔はみるみる引っ込んで、久方ぶりの笑みが戻った。
「……そっかぁ。いいの、私の勝ちで」
「何度も言わせないの」
「おめでとー、リリカ! やったね!」
「あわわわわわ」
空がリリカの肩を掴み、嬉しそうに揺さぶる。そのまま立て膝を着こうとした彼女だが、
「よかったよかっ……が、あ、あしが……きゃっ!」
「ふぎゃー!」
――足が痺れて、リリカを押し潰しながら倒れ込んだ。
「大丈夫か、ほれ」
「うにゅう、ごめんねリリカ」
「か、勝ったのに罰ゲームとは……」
引っ張り起こされたリリカの『メル姉さんよりおっきいかも……』という呟きは、多分燐にしか聞こえなかっただろう。
笑い声の巻き起こる中で、燐は満足げに息をつきながら立ち上がった。
「んじゃま、あたいらはここらで……長居も悪いしね」
「え、あ……お、お燐」
「ん?」
不意にリリカが呼び止める。彼女はどこか焦っているようにも見えた。
「んと……ほら、その。依頼のさ、報酬? それ、まだ払ってないから……ちょっと待ってて、今」
待つように手で示しながら自らも立ち上がるリリカだが、燐はゆっくりと首を横に振る。
「あ、また?」
空の呟きは聞こえない振りをした。
「おっとリリカよ。申し訳ないがそいつは受け取れんな」
「え、なんで」
面食らった表情。燐だって貰えるなら貰いたいが、二重三重にそうはいかない理由が出来てしまった。
「端的に言えば、依頼をきちんとこなせなかったからね。見つかっちまったし、リリカもこの通り怒られて泣いちまってまあ」
「うるさぁい!! ……で、でも。私、勝ったんだし、当初の目的はさ」
食い下がるリリカを見て、燐は少しだけ思いを巡らせた。
詰めを誤り最後の最後で失敗した以上、そのまま報酬を受け取るのはどうにも納得がいかない。彼女なりのプライドもある。
加えて、ライブの最中にリリカが放ったあの言葉。
(大事な友達、ね……)
嬉しかった。が、そうなれば今度は金を取ることに抵抗が出来てしまう。依頼の報酬なのだから受け取った所で燐に落ち度はまったくない。が、それだけでは計れない心理的な事情があるのだ。
前回の依頼から、何も変わらぬ葛藤。そんな折、ふっと思い付く妙案。自然と口が開いた。
「じゃあこうしよう。報酬の一部を貰うってコトで」
折衷案に、リリカは頷きポケットに手を入れる。余り厚みのない封筒が見えかけたその時、改めて燐は彼女を手で制した。
「おーっと待った! これ以上追加で貰っちまったら流石に悪いよ」
「……つ、追加? え?」
訳が分からないと言いたげな彼女の真似をするように、燐はポケットに手を入れた。
「自分で言ったんじゃないか。既にきっちり報酬は貰ってるよ」
引き抜いた燐の手にあったもの――リリカの大好物、コーヒーキャンディ。包みを破いて、口に放り込む。
「あ……」
「欲しい? 残念だが報酬の前払いだからね、依頼人からの」
呆然とするリリカに、悪戯っぽく笑ってみせた。
「じゃあわたしがあげるね、はい!」
空が同じくスカートのポケットに入れていたキャンディを一つ、リリカへと差し出す。二拍程の間を置き、彼女はそれを受け取って夢中で封を切り、口へ押し込む。
「おいしい?」
「……うん……!」
「ま、そういうコトで。ご依頼頂きまして、誠に有り難うございました……とね」
(味、分かるのかな?)
ぐすぐすと鼻を啜りながら必死に味わうリリカを見ていると、自然と口元が緩む。きっと大人になっても泣き虫のままなのだろう。そうでいて欲しい気もした。
「んじゃ、今度こそ……」
「おじゃましました!」
「おくう、足はもう大丈夫か」
「へーきへーき、ちょっと眠いけど」
身体を解すように腕、足を伸ばす。柱時計は既に夜中の一時を指している。依頼人の前だから頑張ってはいるが、空も流石に眠そうだ。
「……はい、コレ。気をつけてね」
いつの間にか姿を消していたルナサが、燐が外で着ていたコートを持って現れた。
「おっと、これはどうも。それじゃ音楽家の皆様、また何かあれば是非我ら『Missing Cat』を頼っておくれ」
「なんでもするからね!」
「ありがとう、お世話になりました! ほら、リリカ」
メルランに促され、どうやら必死に泣くのを堪えていたらしいリリカが一歩前に出る。
「……お燐、お空。そのさ、またライブやる時には……来てくれる?」
少し涙の残る上目遣いで尋ねられ、燐は少し顔を赤くした。
「……行かないって言ったらまた泣いちまうだろ、お前さん。絶対に行くから心配するなって」
「何も言われなくたって行くって! リリカはすごいんだから、もっと自信もたなきゃ!」
「そーだな、依頼でもいいし、お客さんの頭数でもいい。今更水くさいコト言うなよ、リリカ」
皮肉で押し通そうとして、途中でやめた。最後にもう一回、リリカの得意気な顔が見たかった。
恥ずかしげに、それから徐々に広がっていく嬉しそうな顔。
「……ありがと!」
金銭的な稼ぎはなくとも、その一言が何よりの報酬だった。
(いやー、今日もバッチリ決まっちゃった)
月明かりに照らされた湖のほとり。すぐ飛んでも帰っても良かったが、依頼達成の余韻が残る内はのんびりと歩きながらそれを噛み締めたかった。
「おりんおりん、カッコよかったよ!」
「にゃははは。今度こそ依頼達成で報酬を貰えるかと思ったけどね、色々あったからさ。
素敵なライブを特等席で聴けたし、テーマ曲まで作って貰っちゃったし……この上お金まで貰うのは、ちょいとね」
仕事人としては失格なのかも知れないが、燐に後悔はなかった。カッコいいと言ってくれる空も、自分と同じ気持ちだと分かったのがまた有り難くもある。
「でもま、さとり様にお手伝いして頂いた手前、手ぶらじゃ帰れないな」
「どうするの?」
「んー、まあ前回と同じだな。どこかでアルバイトでもして、その給料を代わりに……」
びゅう、と不意な突風。冬の夜中に吹く風は冷たく、いかに彼女らが地獄の妖怪でも骨身に凍みる。
「うにゅ」
「寒いか。ごめんな、続きは後にしてそろそろ」
帰るか――と続けるつもりだった燐が、手を暖める目的で手を突っ込んだコートのポケット。
何年も使ってる筈のそれが、覚えのない感触を彼女の手へと返した。
「……なんだコレ、こんなもん入れた覚えなんか」
「なにそれ?」
そっと引きずり出してみると、多少の厚みがある白い封筒。フラッシュバックする、プリズムリバー邸での光景――。
弾かれたように、燐は封筒を開いた。厚みの正体である紙幣の束の一番上に、折り畳まれた便箋。
このコートは燐のものだ。封筒のことは燐は無論、空も知らない。
他に、これに触ったのは?
その答えは今、燐が開いた手紙の中にあった。月明かりに文字が浮かぶ。
『本当にありがとうございました。カッコつけもお仕事の内なお二人に、私達からのほんの気持ちです。
もし良かったらこれからも、リリカと仲良くしてあげて下さい。
月の女神より』
「――やられたァァァァ!!!」
「お燐!? どうしたの!?」
「ぐあああああああ……か、かかか、カッコわりィぃぃ……」
「おりぃぃぃぃん!!」
燐には今、分かったのだ。
何故リリカへ報酬を突き返している最中、ルナサが姿を消していたのか。
何故別れの最中、ルナサが笑いを堪えるような顔をしていたのか。
(うああああああ……なんにもキマってない……)
リリカから報酬を殆ど受け取らなかった、二重三重の理由。
仕事の詰めを誤ったこと。
友達からお金を取ることへの心理的抵抗。
――そして何より、それがカッコいいと思ったから。
最大の理由を完全にひっくり返されてしまった今、燐はその場に崩れ落ちることしか出来なかった。
糸電話大作戦。そして自身のカッコ付け美学。全て、全て、あの『月の女神』にはお見通しだったのだ。恐らくは、もう一人にも。
「お燐、しっかりしてぇ! おりーん!」
「あ、あたい……もう、リリカに会いに行けないよォ……」
真夜中、月光の道筋がスポットライトのように二人を照らす。
それはさながら失意のブレイジングキャットに、月の女神の優しい眼差しが注ぎ続けるかのようであった。
・
・
・
・
・
・
・
朝食に山のようなウインナーが出て来た。それだけで、自分達の仕事に確かな意味があったのだと、燐は強く実感出来る。
――今回の場合は、些か皮肉のようでもあったが。『月の女神』が脳裏でニヤリと笑う。
「うにゅ、おなかいっぱい」
「何本食ったよ、おくう」
(ウインナーの究極の調理法は焼くか、茹でるか……うーむ)
空はこいしとウインナー大食い競争を朝から展開し、まるまるした腹を撫でながら流石に苦しそうだ。あんまりばりぼりと美味しそうな音を立てるものだから、燐も少し食べ過ぎた。
身重な二人は、何でも屋のオフィスへと向かう。
「そうそう、お燐。今度また、プリズムリバー楽団のライブがあるんだってさ」
「へぇー、ソロライブ対決がつい先日なのに、もうか。精力的だね」
自分達も行かねばなるまい。親友の晴れ舞台の一つだ。考えながら廊下の角を曲がると――
「……おや。噂をすれば」
「あっ、リリカー! おはよー!」
オフィスのドアの前に、依頼人第二号の姿有り。こちらに気付き、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「おはよ、二人とも! こないだはホントにありがとね。今日はさ、ちょっとしたお礼を持ってきたんだ」
「え、なになに!?」
「そいつは嬉しいな。とりあえず入りなよ」
三人連れ立ってオフィスへ。からから音を立てる掛け看板。
コーヒーを淹れた燐がソファへ戻り、リリカと向き合ったところで相手が切り出した。
「ふふーん、すっごいんだから。じゃーん!」
リリカが抱えていた鞄から出したのは、水晶のように透き通った透明な円盤。直径は二十センチ程度、中央には指が入るくらいの穴が開いている。
「お、綺麗だね。何に使うんだい?」
「かざるの?」
「ソーサーに……じゃなくて。
こいつは名付けて、『超音楽ダイジェスト円盤』! 略してCDだよ。
河童の友達に作ってもらった、こっちのキカイに入れるとね……」
正確に略するならCDD――とは誰も言わず、リリカがもう一つ取り出した、箱にスピーカーをくっつけたような装置に件の透明円盤を入れるところを眺める。
「で、スイッチを押すと……」
彼女は得意気にニヤニヤ笑いながらスイッチオン。するとどうだ、部屋中に響き渡るサックスとエレクトーンのブルースロック。聴き紛う筈もなかった。
「おいおい、こりゃすごいな。あの夜を思い出すね」
「うにゅー、すごい! どうやってんの?」
「へへへー。あの円盤は、演奏した音楽を騒霊の力であのカタチに固めたモノなの。それを再生出来る機械を作ってもらったんだー。
これ、二人にあげる! また円盤ができたらもってくるね」
「ありがとう、なんかもう報酬と言うには過剰だな」
「いらない?」
「まさか。もう泣いたって返さないぞ」
素早く装置を手元に引き寄せる燐。二人が声を揃えて笑った。
「今度のライブでもさ、この曲……『ミッシング・キャット』、やるんだ。姉さんにサックス吹いてもらったりして、もっともっと豪華にするの!」
「歌うのはルナサか?」
試しに訊いてみると、リリカは心外そうに頬を膨らませた。
「私に決まってるじゃん!」
「はは、分かってたよ。悪かった悪かった」
「ならいいけどさ。だから、絶対聴きに来てね。お燐とお空には、一番いい席取っとくからさ。
あとチケット多めに置いてくから、他にもいっぱい連れてきてよ!」
勿論だと頷いて、燐はチケットの束を受け取った。
何度も来るように念押しして帰って行ったリリカを見送った後で、もう一度装置を動かす。力強いテナーサックスの音色と、元気なソプラノボイスが歌う自分達のテーマ曲。
「なんだか、うれしいね。お燐」
「……だな。照れくさいけど」
「でもこれ、どういう意味なの? 英語なんだよね」
「あたいも詳しくはないけどさ、じっくり教えてやるよ。歌は、メッセージは、届いてこそ意味があるからね」
耳を傾けると、曲は今まさに一番盛り上がる部分に差し掛かっている。
リリカとデュエットしたくなって、そっと口ずさんでみた。
『Don't cry,BABY !! Don't worry!! We're stand by you.(泣くなって! 心配ないさ、あたいらがついてるだろ?)
Don't say LAZY !? Noway!! Just not serious still.(だらけてるって? 違う違う、まだ本気じゃないだけさ)』
「なんですか?」
「ぶちぬけぇ!」
「ふごォッ!!」
ザラメの甘い衝撃が、クラスター爆弾のように口腔内を駆け抜ける。一拍置いて、ふわふわと甘く柔らかい舌触りが伝わってきた。
「んぐ、ぐっ」
「おいしい?」
「おいひい、れふけろ……」
口から生えた串を引っこ抜き、火車ネコ・火焔猫燐は目を白黒させた。串の深い部分には、平べったく丸いカステラがもう一つ刺さっている。いわゆる串カステラというやつだ。
一瞬のことで何がなにやらであったが、ようやく理解した。振り向きざまに、目の前でけらけら笑う幼い少女――古明地こいしが、己の口に串カステラを投擲したのだ。見事なダイレクトお裾分けである。
「こいし様……お菓子頂けるのは嬉しいんですけど、も少し穏やかにお願いします。しかもぶち抜けって、ノドぶち抜いちゃったらあたい死んじゃいますよ」
「だいじょーぶだいじょーぶ! その辺のチカラ加減は考えてるから」
「はぁ」
「それより、ホラ! もっといっぱいあげる!」
こいしはさも愉快そうに笑い、右手に持った袋を掲げて示した。ほんのり漂う甘い香りに、串らしきシルエットも透けて見える。中には駄菓子の類がぎっしり詰まっているようだ。
「今さ、お菓子売りの行商さんが来てたから。いっぱい買っちゃった! お空といっしょに食べなよ!」
「あ、ありがとうございます。いいんですか、こんなに」
「わたしの分はちゃんとあるし」
燐が頭を下げると、こいしは左手を示す。燐に渡した袋と同じものが、三つ。
「そんなにいっぱい食べるんですか……」
「えへへ。女の子の滋養強壮と言ってほしいなー。さー、補給の時間だーい」
こいしはスキップしながら廊下の奥へと消えていった。燐はそれを見送った後で、すぐ近くにあったドアを開ける。その拍子に、ドアに掛けられた木製の小さな掛け看板――『Missing Cat』と記されている――が、からりと音を立てた。
(まー、お菓子でも食べてノンビリするのもいいか)
「どうせ依頼もないし」
脳内でぼやいたその続きを、現実での言葉が引き取った。
燐がコーヒーを沸かす間に補足すると、依頼とは彼女がここ地霊殿の一角で営む『何でも屋』の依頼に他ならない。元々地霊殿の財政難対策の一環として始めたものだが、以前に比べて金回りの良くなった今も半ば趣味に近い形で続けている。
尚、ここまでの依頼件数は一件、達成率は内緒だ。
「うーん、なんかいいニオイする」
「お、目ざとい……つーか、鼻ざといね」
がちゃりとドアが開き、八咫烏少女・霊烏路空が入ってきた。彼女も燐の助手としてこの何でも屋を支えている――と言えば聞こえはいいが、正確に言えばひっかき回していると言う方が正しい。
空が入ってきたので、燐はカップをもう一つ出した。何でも屋のオフィスとして使っているこの部屋、コーヒーカップセットは団体での依頼にも備えて常に二桁数揃えてある。実際に出番があったのは未だ三つ、内二つは燐と空だが。
「こいし様がさ、お菓子いっぱい買ってきてくれたのさ。おくうも食べるだろ?」
「うんうん! あ、これ?」
「そー。先に食っててもいいが、あたいの分も残しといてくれよ」
「もふもふもふ」
燐が二人分のコーヒーを手にテーブルへ向かうと、空は早速と言わんばかりに串カステラを頬張っている。見るからに幸せそうなその表情を見ていると、燐の口元も思わず緩んでしまう。
「いきなりだな。おいしいだろ、それ」
「んふふふー」
「あたいも食べさせられたからね」
自分のソーサーに一個、空のには五つの角砂糖を置き、燐もソファ、空の隣に腰掛けた。
「他には何が……ん、色々あるねぇ。これとか懐かしい」
「むにゅにゅ……わらひもたべる……」
「そっち先に飲み込んでくれよ」
口から串を生やしながら、燐の手にしたミルクビスケットと同じものを捕まえようとする空。袋を漁ってみると、飴やガム、ラムネにグミの類や一口サイズのチョコレートにビスケット、串に刺さった謎のフライなど実に多種多様。
燐はその中から、ドーナツ状の穴が空いた平べったいラムネを取り出し、袋を破った。
「おくう、コレ知ってるかい」
「ラムネ?」
「ただのラムネじゃない。穴空いてるだろ? 息を吹くとな……」
――こつ、こつ。唐突なノックの音が部屋を転がったのはその時であった。
「んお。誰だろ。さとり様かはたまた」
「もしかしてイライニン?」
「かもな……おくう、お菓子片付けて。一応な」
燐が二人分のカップを隅のテーブルへ持って行き、空が菓子袋を引っ掴む。テーブルは片付いた。
「はいはーい、どなた? 梯子から脚立まで、何でも屋『Missing Cat』でござい」
「ハシゴとキャタツってどうちがうの?」
「今度調べとく」
燐は呼吸を整え、ドアを開けた。果たしてその向こうにいたのはさとりでもこいしでもなく、少なくともここで見るのは初めての人物。特徴的なその服装と、赤い色彩を目にした瞬間、燐は思わず後ろの空へ向けて叫んでいた。
「おくう、大変だ! 有名人が来たぞ!!」
「えっ、ホント? サインもらわなきゃサイン!」
「いやあ、まさか次回公演は地底かい? 嬉しいね」
「いやあのその、ここって何でも屋さんだよね?」
目を白黒させる小さな『有名人』。星をあしらった赤い帽子がずるりと傾き、当人の困惑ぶりを如実に表す。
「んあ、依頼? そっち?」
「あ、その、ごめん。忙しい?」
「いやそんなコト……ちょいと珍しいっつーか、うん。あたいらが一方的に知ってるだけの相手から来るとは思わなくてね」
燐は手で室内を示し、この日の依頼人――騒霊キーボーディスト、リリカ・プリズムリバーを招き入れた。プリズムリバー楽団と言えば幻想郷でも有名な騒霊の楽団、燐や空の耳にもその噂は届いている。
実際演奏を耳にした機会もあったが、燐にしてみれば直接の交流がなかった以上、相手は芸能人のような存在。こうして目の前にするのは、少しばかり奇妙な感覚でもあった。
「座って座って。あんまりいいソファじゃないかもしれんけど」
「あ、ありがと」
「コーヒーと紅茶と緑茶と赤ワインと白ワインと……あとなんだっけ、リンゴ酢? どれがいい? 飲みたいのあったら買ってくるよ。口に合わんかったらすまないね。あたいらも庶民的なモンしか飲んでないし」
「えっと、コーヒー砂糖多めで……」
「おくう、コーヒーは一番いいやつを。砂糖も」
「はぁーい」
「あの、ちょっと。私、別にそんなセレブリティなアレじゃないから、もっとふつーに……」
リリカは明らかなVIP待遇に狼狽の色を隠せないようで、燐はばつが悪そうに頭を掻いた。
「あれ、ごめんよ。お前さん有名人だし、よっぽどいいモン食べてるんだろうなーとか」
「特にお金持ちでもないし、ごくごく普通だよ。むしろおんなじのがいいなぁ。あんまり高級品だと、お腹壊しそう」
「だとさ。おくう、あたいらと同じ奴で」
「おっけー!」
一連の流れで緊張も解けたか、くすりと笑うリリカの表情も柔らかい。燐は背筋を伸ばして、彼女に向き直った。
「いきなり失礼。改めまして、あたいが何でも屋の火焔猫燐だよ。お燐って呼んでくれると嬉しいな」
「で、で! わたしがお燐の助手の霊烏路空! うつほでもおくうでも、どっちでもいいよー」
「おわっ! おくう、コーヒー持ったまま走ってくるな」
「あ、ごめんね」
お盆の上で琥珀色の水面が大きく揺らぐ。堪えきれず、リリカが笑った。
「あは、あははは。楽しいトコロだね地底って。最初ちょっと怖かったけど……っと。私がリリカ・プリズムリバーね。よろしく」
「あいよろしく」
「わたしも!」
彼女の右手を燐が、左手を空が握る。空が気を利かせて、リリカが来るまでに飲んでいた二人のコーヒーをテーブルまで運んだのを見届け、燐が切り出した。
「さて、今回は演奏じゃなくて、あたいらへの依頼で地底くんだりまで来てくれたって話だけど。どんなご用件だい?」
「あー、その……ちょっと、ワタクシゴトなんだけど」
少しばかり恥ずかしげだ。気にするなとの言葉の代わりに、燐はヒラヒラ手を振った。
「むしろ私事じゃない依頼の方が珍しいと思うよ、この職業」
「そ、そっかな。じゃあ、えっと……今度さ、私と、姉さんたち……は、知ってるかな」
「そりゃモチロン。ルナサとメルランな」
「ヴァイオリン……ヴァイお燐とトランペットだっけ?」
「なんで言い直した」
燐は聴覚に自信がある。微かな発音の違いを聞き分けるのは簡単だった。
「そう。で、その姉さんたちとさ、ソロライブ対決することになったの」
「ソロライブ……」
「たいけつ?」
風に揺れるススキのように、首が傾く二人。リリカは頷き、続けた。
「うん……簡単に言うと、三人で順番に単独ライブを開くの。会場は人間の里のどっか。で、来てくれたお客さんの数で競うんだ」
「なるほどな。で、勝負なんだってからには、勝ち負けで何かあるのかい?」
「一番少なかったら罰ゲームで、一ヶ月食事当番」
「うわお」
「ごはん作るの?」
「いつもは交代制なんだけどね」
ちょっとしたお遊びの一環なのだろうが、思いの外ペナルティが重い。テーブルの下で何やらごそごそやっている空を後目に、燐は手を打った。
「もしかして、依頼ってのはその関係で?」
「そのとーり! 私、絶対に負けたくないの。だから、お客さんを集めるのを手伝ってほしいんだ」
「そう来たか。でも、他者の力を借りちゃって大丈夫かい?」
「もっちろん大丈夫だよ、こっそりやるから」
「……ダメなんじゃないか。まあいいや、お客さん集めるってのは分かったけど、それは当日に? それとももっと前から仕込んでく?」
「んー、やれるだけのコトはやりたいから……前々からお手伝いしてほしいな」
「よーしよし。そういうコトなら」
ぷぴー。
「……なんじゃ、今の気の抜ける音は」
ぷぴゅー。
「……おーくーうー?」
「ぴーぴー」
「商談中にフエラムネ食うなっつーのッ!!」
「ぽぴっ!」
燐のゲンコツが飛び、インパクトに合わせて乱れるラムネの音色。
「いひゃいのぉ……」
「ったく、いくら暇だからって客の目の前でぴーぴーやるヤツがどこにいる」
「だって、気になってたんだもん……お燐、息吹いたらどうなるか教えてくれなかったし」
「仕方ないだろ、来客だったんだから……」
「ぴゅー」
「さっさと飲み込め!」
つまらなそうな表情と叱られての涙目をブレンドした顔で、ぼりぼりとラムネを噛み砕く空。燐は咳払いをし、完全にほったらかしてしまったリリカに頭を下げる。
「こほん……あー、すまん。ウチのおバカが」
しかしリリカはさも面白そうに笑うと、自分の足下からも何かを取り出し持ち上げる。
「それ、もしかして地底に来てたお菓子屋さんから買ったの? 私もなの、ほら!」
彼女が手にしていたのは、確かに燐がこいしに貰ったのと同じ袋。あちらもぎっしり詰まっている。
「思わずいっぱい買っちゃった」
「こいし様と同じコト言ってら」
「おいしいよねー。なに買ったの?」
「色々買ったんだけど……個人的好みで、ちょっとかたよってる」
リリカが袋を開いて中身を示す。およそ燐が貰ったものと同じ類の物で構成されているが、ある一種の菓子だけが異様に多い。
「ん? なんか随分と多いね……えっと、コーヒーキャンディかこれ?」
「うん。その、私……大好きなんだ。コーヒーあめ」
指先で捕まえた小さな袋。コーヒーカップがデザインされた包装は、いかにも落ち着いていて大人っぽい、かも知れない。
「コーヒーのアメ? おいしい?」
「そうだよ。甘くて苦い、ちょっとオトナの味かな」
「へぇー」
意外な――と言える程の交流がまだあったわけではないが――好みに話が弾む。が、燐はここでようやく話が逸れていることに気付いた。
「あーっと。ごめん、お菓子の話で盛り上がっちまったが……肝心のさ、依頼の話も詰めないと」
「ん、ごめん。じゃあ、引き受けてもらえるの?」
「そりゃあ、依頼されたからにはね。ライブ当日はいつ?」
「ジャンケンで順番を決めたんだけど、四日後にルナ姉さん、その次の日がメル姉さん。で、その次が私」
「六日後か。割と時間はあるんだな」
「でも、姉さんもきっと色々宣伝したりして、準備してくるから」
「そうさな。やるなら早い方がいい……全部のライブに行く人もそりゃいるだろうが、スケジュールとか色々考えれば、どれか一つを選んで行くって人が大半だろ。
なるべく早く手を打って、リリカのことを印象づけないとな」
「うん。それじゃ……」
「ああ、任せてくれ。リリカのソロライブに客を出来るだけ多く呼び込む……この依頼、確かに引き受けた」
「うにゅ!」
脳内を葉巻の紫煙で満たしながらのハードボイルドフェイス。燐だけがレトロな探偵事務所風のオフィスにトリップする中、リリカが不意に先の袋をガサガサとやり出す。
「それじゃあ、お近づきと依頼の印に、はいコレ!」
彼女が両手一杯で抱えるように盛った、大量のコーヒーキャンディの包み。
「そんな、いいのに」
「アレだよ、報酬の一部を前払いってね」
「わー、ありがとー!」
報酬減額の必要性は置いておき、素直にその好意に甘えることにした。空が同じく両手で大量のキャンディを受け取り、こぼれ落ちそうになったものを燐がキャッチ。
空が早速包みを剥がして一つ口に入れる。
「んふー、にがいけどあまい」
「でしょー。この苦い感じがね、好きなんだ。大人っぽいよねぇ」
「これでわたしもオトナかなぁ」
「私はとっくにね」
「えー、ちっちゃいのに」
「これから大きくなるもん!」
頬を膨らませるも、すぐにリリカも自分の袋から一つ出して、口へ放り込みご満悦。
(あたいだけ取り残されるのもなぁ)
彼女が帰ってから食べようと思っていたのだが、燐もくすんだ黒茶色の飴を舌に乗せ、転がすようになめ回す。やや強めの甘さと、後からじわりと染み出すような苦み。無性に落ち着く。
「んじゃあ、確かに引き受けたよ。早速動こうかとは思うんだけど、その前に……ライブの詳細だけ教えてもらってもいいかな。会場とか、時間とか、曲目とか、強調したいテーマみたいなのもあれば。宣伝に使いたいから」
「うん。さっきも言ったけど開催は六日後。時間は夜の……」
ぴゅぴー。
「……よる、の……」
ぴぴー。
「……おくう?」
「おもひろい、これ」
「……なあリリカよ。ソロライブ対決、おくうも参加させれば確実に最下位は免れられそうだが?」
「フエラムネでやるの? むしろ珍しさで人集まりそう」
「ぴゅー」
燐が頭を抱えてみると、口の中で苦みが増す。
コーヒーキャンディ一つでは、まだまだ空はオトナになれそうもなかった。
・
・
・
・
・
「そーら、出来た! どうだい、おくう」
「すごいすごい! さっすがお燐!」
翌日の地霊殿内オフィスは、不意な盛り上がりを見せていた。依頼を受けてすぐに作り始めた宣伝用ポスターが完成したのだ。
薄赤色の紙をベースに、ピアノ鍵盤や五線譜が背景を飾り、その上に大きな文字で『リリカ・プリズムリバー オンステージ』と題されている。詳細な内容や会場への案内がその下に続いており、リリカ自身のシルエット姿が一番下に躍る、火焔猫燐渾身の一作だ。
「何か漏れがないか確認しておくれ。せっかく作ったんだ、不完全はヤだし」
「んー、だいじょぶみたい。それよりホントすごいね! お燐さ、こういうお仕事になってもよかったんじゃない?」
「そ、そうかいね。にゃははは」
こうまで褒めちぎられると流石に気恥ずかしいが、これならリリカにも喜んで貰えそうでもある。妖怪の山まで赴いて印刷機材を借りてきた甲斐があったというものだ。
古新聞を敷いたガラステーブル上には『GIRLY BURN』と銘打たれた件の印刷機材。その脇から完成したポスターの束を掴み上げ、ぱらぱらめくって乱丁確認。その後、燐はそれを鞄へと突っ込んだ。
「よぉーし! おくう、いっちょ行こうか!」
「おー!」
二人は気合いを入れ直し、地上へ向かうべくオフィスを出る。
しかしすぐに外へと飛び出したのではなく、燐は地霊殿のある一室へ。
「さとり様、失礼します」
「ええ、いいですよ」
ドアを開けると、既に地霊殿の主・古明地さとりが待っていたと言わんばかりに立っていた。
「さとり様にご用事?」
「ああ。恐縮だけど、ちょっとお手伝いをして頂きたくてね」
「そんなにかしこまらないで。せっかくのお仕事ですもの、私で良ければ使っていいんですよ」
どこか申し訳なさげな燐を安心させるように、さとりは微笑む。それから彼女は部屋の隅にあった棚からスピーカーとも、パラボラアンテナとも取れない妙な形の物を取り出し、示した。
「これで……里の方でいいのね?」
「はい、里の人々からちょちょいと抽出して頂ければ」
「うにゅうぅぅ……おりんー……」
「あ、ああ。悪かったよ」
置いてけぼりが大嫌いな空は、心を鷲掴むどころか噛み砕かんばかりの上目遣いお願いフェイスを燐に向ける。狼狽しつつ、燐は人差し指を伸ばした。
「ほれ、これからするのはプリズムリバー楽団の三人による客の奪い合いだろ。ソロライブの告知がある程度済んだところで、さとり様に簡単な読心をお願いするんだ」
「ココロをよんでもらうの?」
空が尋ねると、燐とさとりが同時に頷いた。
「一人一人のを詳細に読んでたら時間がかかりすぎるしさとり様も疲れちまうからね。里の人々沢山をひっくるめて、『誰のソロライブに行くのか』の一点に絞って読んでもらうのさ」
「これは言わばアンテナのようなもので、広範囲の人々の心をまとめて読むために使うんです。勿論、詳細に読んだりしたら情報が多すぎて頭がパンクしてしまいますし、プライベートに踏み込みすぎてはいけませんから、お燐が言った通りの一点に絞って情報を取り出すに留めますが……」
さとりが手にしている、集音マイクに似た形状の道具。第三の目に付属しているオプションパーツ、らしい。使うのは彼女も初めてのようだが。と言うより、使う機会が今後もう一度訪れるのかが疑問だが。
「へぇー。でも、なんで?」
「大まかにでも誰のライブが人気で、誰が苦戦しそうなのかが分かれば作戦も立てやすいと思ってね。リリカがダントツで多いなら前日辺りはダメ押しの宣伝をしてやればいい。
もし逆にリリカのライブに行くつもりの人が少ないようなら、大規模に人を引っ張る作戦を立てる。臨機応変に動くには、少しでも詳細な情報が欲しいのさ」
「なるほどー」
「それじゃさとり様、ある程度宣伝なんかを行ったところで改めてお願いしますね」
「了解。その前に、ちょっとテストを……」
燐が頭を下げると、さとりは頷きつつ第三の目に繋がれていたコードを一つ外し、アンテナにジャックイン。人間の里の方角へ向け、ダイヤルをこちゃこちゃいじり始める。
「ええと、こうかしら……んー、なんか見えてきた?」
「おおー、覚妖怪の本領発揮だ」
「さとりさまカッコいいー!」
真剣な表情で、遙か遠くを歩く人々の心から発せられる電波を掴もうと苦心するさとり。と――
「ん、え……ひゃ、ひゃああああああっ!!?」
さとりが素っ頓狂な悲鳴を上げたかと思うと、みるみる顔が真っ赤に染まっていく。
「さ、さとり様!?」
「どうしたんですか!?」
「ま、ままままちがえ……あっ、ああっ! そんな、だめェ! そんなは、はは、恥ずかしい情報は……やあああん!」
燐が駆け寄り、アンテナを取り落とし悶えるさとりを抱き起こす。彼女の腕の中でびくんびくんと身体を震わせるさとりは、どこか扇情的でもあった。
「は、ははははは外してくだひゃいいい!」
「外してって……これか? おりゃ!」
ぷちん、とアンテナに繋がれたコードを外すと、ようやくさとりにも呼吸を整える余裕が生まれたようで、はぁー、はぁー、と長い息をつき始める。
「ふぁ……し、失礼、ごめんなさい。ちょっと調節を誤って、その。ヘンな情報をキャッチしちゃって……」
「なんというか、さとり様の心を読めてしまう苦労の一端を垣間見た気がします」
「さとりさまー、何を見たんですか?」
「やめてやれ、おくう」
興味津々な空を諫める。さとりが何を見てしまったのかは、永遠に秘密のままにしておくべきだろう。燐は賢明な判断を下し、くったり座り込んださとりにもう一度頭を下げて部屋を後にした。
空と共に地底と地上を繋ぐトンネルを飛び出し、人間の里までひとっ飛び。空中散歩の最中、空が燐の肩をつついた。
「ところでさ、ポスター作るのはわかるんだけどさ」
「うん?」
「リリカがちょっとしたライブやって、そこで宣伝しちゃえばみんな来るんじゃないかなぁ」
「確かにそうなんだが、ダメなんだと。当日本番まで里の人々に聴こえる場所での演奏は禁止。宣伝として効果的すぎるからだとさ。無論脅したり、引きずってくるのもダメだ」
「そうなんだ」
「あくまで音楽の力には頼らず、お客さん当人の意志で来て貰えるように頑張る、ってコトだな。効果的な宣伝とか、音楽以外での表現とか……そういう練習も兼ねてるらしいね。だからこそあたいらの力の見せ所さ」
会話の間に、眼下に広がる人の河。二人揃って空いた場所へ降り立った。
「んー、相変わらずすごい活気だ」
「おりんおりん、みてみて! 新作『クラスターまんじゅう』だって!」
「あとでな」
早速茶店に引き寄せられそうな空を引っ張り返し、燐は里の大通りを歩く。物珍しそうな視線は少しで、やはり妖怪のいる光景には皆慣れているらしい。数度通えば、この僅かばかりの奇異の視線も殆どなくなってしまうのだろう。
(ま、地底からの来客なんてなかなかないだろうしな)
視線を飛ばし、人通りの奥にようやく目的の物を見つけた。
「ほれ、仕事だ。しっかり頼むぞ助手」
「うにゅ、任せてー!」
助手、を強調すると空は俄然やる気になって燐の横に並ぶ。二人の目の前には木で出来た掲示板。町内会的なお知らせや落とし物の情報、服飾店らしき店の新作宣伝、はたまた単なる落書きなどなど。特に許可もいらず、誰でも自由に使えるらしい。燐にしてみれば好都合だ。
「画鋲は……あるね。よし、早速貼っちまおう」
「よぉーし……ん? ねえ、お燐」
「どした?」
「あれ、リリカじゃない?」
空が指さす先、子供が集う駄菓子屋の軒下。あの目立つ赤い衣装は間違いようもなくリリカだ。しかし妙なことに、帽子の代わりにほっかむりで顔を隠している。手には小さな袋と、何か紙のような物が数枚。
「確かにそうだが、何のつもりだろうねありゃ。身を隠してる……のか?」
「さあ? おーい、リーリカー!」
燐としてはいつしかの依頼を思い出すスタイルで些かビターな気持ちになる。が、何かを言う前に空はその怪しい人物へ向けて大声を張っていた。
「なにしてんのー? ねーねー!」
「しーっ、しーっ!」
小走りで寄ってきたリリカは人差し指を唇に当て、必死に首を振る。
「声おっきい! なるべく私だってバレたくないんだから」
「あ、ごめん……」
空は素直に謝ったが、燐にしてみればまずその服装をどうにかするべきだろうとしか思えなかった。
「で、何してたんだい? わざわざ正体隠してまで」
「あー、ちょっと広報活動というか、なんかじっとしてられなくて」
「ふっふっふー。これ見てよこれ!」
空が自信満々にポスターを取り出すと、彼女は大層驚いたようで目を丸くした。
「わ、わ! なにコレ、すごい! 私じゃん!」
「そりゃリリカだろ。ルナサの宣伝したら裏切り行為になっちまう」
「ありがとう! ……でもちょっと恥ずかしいなー」
「だめだめ、もっと目立たなきゃ! で、わたしたちはこれ貼りにきたんだけど……」
「あ、それならさ」
するとリリカは先程まで自分がいた駄菓子屋の方を指さした。
「あっちにも貼らせてもらおうよ。お店の人に許可もらったし」
「手回しがいいね。じゃあ失礼しようか」
自分が交渉するまでもなくそういった許可を取っている辺り、リリカも本気なのだろう。応えるべく、燐は店の軒下、他にもポスターの類が散見される壁に向き直った。
妖怪をこんなに間近で見るのも珍しい経験なのだろう、お菓子に夢中だった子供達の視線を浴びながらポスターを貼ろうと取り出して――
「……おや? これは」
「どしたの、お燐……あっ」
ふとその手が止まった。空いている部分に自分達のものを貼ろうとしたのだが、隣の真新しい手書きポスターが目に留まる。片や薄灰色のシックで落ち着いた、片や白と水色に管楽器のイラスト満載な賑やか配色。
「ははーん、ライバルも動いてるな」
燐の言葉通り、今やライバルとなった姉二人、ルナサとメルランのソロライブ宣伝ポスターだ。手書きなのがそれらしいと言えばらしい。
「やっぱり作ってたんだね、こういうの」
「まあな、宣伝といえばポスターだろ。だが気合いならこっちだって負けちゃあいないさ。おくう、貼るぞ」
燐は二人のポスターの横に自分達が作ったリリカのポスターを並べる。壁に手で押さえ付け、位置を調節し、傍らの空に目配せ。言葉も必要なく、彼女は画鋲で上側二カ所を留めた。
「おーし、いい具合。三姉妹並んで見栄えもいいね。もう一枚どっかに……」
言いながら視線をスライドさせ、燐は硬直した。たった今貼ったポスターの周囲が妙に広々としている。具体的には横が。
「……姉妹並んで、と言ったところなのに」
「ないね」
姉のポスターが消えていた。そして先程から響く、ばりばりという紙状の物を引っ剥がすような音。
「何してんだ、お前さん」
「……勝つのは私、勝つのは私……」
念仏のように唱えながら、姉二人のポスターをべりべり剥がすリリカの目の色は明らかにおかしかった。
「いいのか、それ……」
「うるさーい! これは戦争なの! 手段選んでたら負けちゃうもん!」
先程から片手に持っていた紙は、どうやら他の場所から剥がしてきたものだったらしい。燐は頭を抱えた。何度目だろう。
「お燐、わたしたちも?」
「……あたいらは正攻法でやろう。破壊よりも創造が勝った時、愛の勝利が生まれるんだ」
「アイかぁ」
空はメルランのポスターがあった場所にリリカのポスターをあてがう。
尚も聞こえるポスター剥がしの音に頭を痛めながら、燐はポスターと壁に画鋲をねじ込んだ。
・
・
・
・
それからの数日間は、地味で地道な作業の繰り返しだった。
ライブ宣伝のポスターを貼り、少しサイズを縮小したビラを配り、またある店舗に協力を取り付けて、購入者に折り込みチラシという形で宣伝したり。
「こんだけやれば、リリカのライブにもお客さんいっぱい来るよね!」
「だといいんだがな……いや、いっぱいは来るだろうよ。だが問題は、姉二人の動員数を上回れるかどうかだ」
達成感に満ちた顔で笑う空と、対照的に表情を緩めない燐。
「うぅん、じゃあどうしよっか。ライブ会場で、ゆで卵でもくばる?」
「ライブ会場で食うもんじゃないだろ。それに、入場者数が問題なんだから、既に入った人よりは入るか分からない人達を引きつけなきゃ」
「そっか、人いっぱいじゃお塩かけづらいもんね。マヨネーズもこぼしたらお洗濯大変だし」
「そもそも声張り上げるのにノド乾くだろうよ……」
漫才のような会話を繰り広げながら二人が歩くのは里の大通り。既に依頼を受けてから四日が経過しており、この日はルナサのソロライブがある。
既に会場を目指していると思しき人の流れも散見され、その人気が窺える。燐はソロライブ宣伝のポスター――リリカが剥がしたものを一枚貰った――を取り出し、会場を確かめる。
「全員同じ場所でやるらしいね。大通りを奥の方まで歩いて、二手に分かれた道を左に行った先の、奥まった場所」
「広場みたいになってるんだね」
「防災訓練なんかがあれば、避難所代わりになるらしい。まあ、ちょっとした集まりには打ってつけだろうな」
流れに任せるまま、燐もその方向を目指す。ライバルの査察も立派な活動の一つだ。
二手に分かれた道を左に行く。右に行けば里から出てしまう。
「ライブ、どれくらい見るの?」
「何曲かはね。単純に興味もあるし……実際の動員数を見て、さとり様の情報と照らし合わせつつ作戦会議だな」
「おっけー」
やがて見えてくる、いくつものステージライトの光。夜の帳が降りつつある里の薄闇を切り裂き、会場へ向かう人妖を灯台のように導く。
道が開け、広場のようになるその入り口にゲートのような物が設置されており、人々はそれを潜って奥へ向かう。その先はざわめく黒山の人だかりと、一段二段高くなったステージ。
「なぁに、これ?」
「リリカの話じゃ、潜った人数をカウント出来るゲートなんだと。河童に頼んで借りたらしいが、こいつで入場者数を計るんだな。なるほど」
「上を飛び越えちゃったら、どうなるかな?」
「計測されないだろうな。だがまあ、そんなのを言い出したらキリがない。条件は三人とも同じだし、入場無料なんだからわざわざ飛び越えるヤツはいないさ……行くぞ、おくう」
「わぁ、なんかドキドキ」
まず燐が、それに続いてどこか緊張の面持ちな空がゲートを潜る。
「ヒトでいっぱいだねぇ、お燐」
「だな。流石はプリズムリバー楽団の長女、伊達じゃない」
「でもリリカのがいっぱい来るよね、きっと」
「そうなるように頑張るのがあたいらの仕事さ」
(だが、相手は強い。楽団のリーダーと花形だからな……)
燐の表情は渋い。しかしその顔もやがて驚きに変わる。
押されるがまま人波を掻き分け、観客席の中央前方付近。なかなかに良い位置取りだ。
「近くで見ると、やっぱ迫力あるな」
「まぶしー」
「あんまライト見つめるな、目が悪くなるぞ」
「うにゅう」
ぎゅう、と目を瞑る空に笑っていると、徐々に照明が落ちていく。
会場は闇に支配されつつあるというのに、反比例して客席からの歓声は大きくなっていき、地鳴りのように響き始めた。
「うにゅ、なんかすごい!」
「いざ始まるってんだ、盛り上がらん方がおかしいさ……ほら、来るぞ」
燐の言葉が終わるより早く、優れた彼女の耳は微かな金属音――ハイハットの小さなカウント音を捉えていた。
四つ数え、続けざまに響いた強烈な四発のスネアドラム――細かなタム回しを待ちきれないと言わんばかりに、鼓膜へ切り込むかのような鋭いカッティングギターがエッジを刻む。ルナサの姿はない。
主役のない、音だけが主張を続けるステージへ向け、人々は早くも割れんばかりのコールを贈り始めた。
「……」
燐の横で、あれほど騒がしかった空が完全に言葉を失った。食い入るようにステージを見つめている。きっと視覚なんて殆ど疎かで、聴覚に全神経を集中させているのだろう。分かりやすい。
自分だってそうなりかけているのだ。上へ下へ、ざくざく切り込むギターがイントロを掘り進めていき、自動演奏であろうシンセサイザーが微かに唸った、その一拍後だ。
『――砕けた鏡に濁る、君の瞳を――』
静かな、だが激しい――相反する二つの要素を混ぜ込んだ、美しい声だった。
(まさかのボーカル!)
燐は目を見開く。てっきり楽器演奏、インスト楽曲のみだと思っていた為に、これは良い意味での衝撃だった。
『あと何度かき集めて、自分を慰めよう?』
まだどこか幼さの残る声でありながら、老練さすら漂うロートーンボイス。テンションにブレはないのに、淡々と、と言うにはあまりに情熱的だ。
『何百回目の“もう一度だけ”をあと何度繰り返せば――』
『このオモイ、このココロ、埋まるでしょうか? ああ――』
暗がりの奥から、強力なスポットライトが二つ、唐突に輝きを放った。クロスする光の波に、誰もが眩しくて目を閉じた。
そして観客が一斉に目を開けた。同時に、その姿を見た。
『アイマイな、言葉ばかり並べても、あなたに視線を合わせられない!』
左右のレーザー光線がクロスするその場所――ステージのど真ん中に、逆光とギターを背負った少女がいた。
雷のエレメントと河童の技術協力を得たエレキギターの上で、繊細なその指が残像を伴って暴れ狂う。全身でリズムを刻みながら、目の前のスタンドマイクへ有らん限りの声をぶつける。今や一気にハイトーンボイスへと変わり、その叫びは火傷しそうな程の熱を帯びる。
彼女こそが、ルナサ・プリズムリバー。
『愛してなんて言わないから、少しだけ、私の、目を、見てよ!』
『砕けた瞳のカケラで、もう指は傷だらけ……それでも……!』
『目と、目の合わない、鏡合わせ……』
再び主役がカッティングギターへと戻る。だがそれすら打ち消しそうな程の歓声がステージ上へ、ギターを繰るルナサへ押し寄せる。
彼女は顔を上げ、ほんのりと――直前のあの叩きつける叫びなど忘れたかのように、嬉しそうに微笑んだ。
ギターの音色が絞られ、残響を残して引いていく。
「……えー、どうも、その。こんばんは。ルナサ・プリズムリバー……です」
曲が終わり、興奮冷めやらぬ客席へ向け、スタンドマイクでそのまま挨拶。応える熱狂的な叫びが渦を巻く。
「いきなり声、で驚かれたかと。その、せっかくのソロなので、色々やってみたくて……あ、そうだ。今日はどうも、ありがとうございます」
再び爆発音と紛うような叫び声。燐はふと隣を見た。
「うにゅぅううう!!」
もう完全に目的を見失った空が、両手を振り上げてルナサへ声援を贈っている。真っ赤に紅潮した頬が、彼女の興奮を如実に表していた。
「というわけで新曲『ウィズドロウ・アイズ』でした。本当は二番とかあるんですけど、オープニング用に短めで、その……わ、えと。ありがと、ございます、ハイ」
『ええーっ!?』という残念そうな合いの手に、ぺこぺことルナサは頭を下げる。性格上慣れていないのか、どうにも司会の彼女は恐縮しっ放しだ。
「その分、他の曲で楽しんで頂けるよう頑張ります。お馴染みの曲とか、お馴染みでもちょっと毛色を変えたり、完全新曲だったり……結構盛りだくさんです。
じゃ、早速ですが次……これも新曲です。今度はインストに戻りまして、でもギターでこう、ちょっと泣けるような」
喋りの終盤部は、早くもボルテージ最高潮になりつつある客席からの声援で掻き消えた。
「えと、じゃあ待ちきれないようなので。新曲『ハートストリングス』どうぞ」
(ははあ、『心の弦』と『深き愛情』をかけてるのかな)
冷静を保ちたかった燐の考察は、そこまでしか出来なかった。彼女もまた、スリーカウントで鳴り出したエレキギターのメロディに心奪われ、次の瞬間には我を忘れて腕を振り上げていたのだ。
鬱の音を操る者のステージとは思えぬ、熱量に満ちた空気の震えを誰もが感じ取っていた。時を忘れ、我を忘れ――
「……」
「うにゅーぅ……」
(最後まで観ちまった)
時刻は夜の九時を回った。地霊殿へ戻る道すがら、燐は首を捻る。
心から楽しい、感動のステージだった。それは確かな事実だ。
だがどうにも依頼人を裏切ってしまったような心地にもなってしまって、口の端からは、うにゃー、うぬー、と唸り声がリピート。
その一方、空は目をキラキラ輝かせて燐に話しかける。
「わ、わたし……あんなにスゴイの、はじめて……」
(完全にルナサのファンになっちまったな、おくう)
彼女くらい単純になれれば、きっともっと素直に楽しめたのだろう。
燐は心の中でもう一度、リリカに頭を下げた。
・
・
・
・
翌日、時刻は正午を既に回り夕方。
午前中から午後の早い時間は今まで通りの宣伝に費やし、そうして戻った地霊殿の一室、燐は背筋を伸ばしてその人物と向き合った。
「さとり様、例のアレですが……」
「ええ……出来てますよ。しっかり計測してメモしてあります。
この能力も、誰かの役に立つなら悪くないとも思えますね」
「ありがとうございます。お手数おかけしました」
お辞儀をひとつし、さとりから受け取った物――封筒。この中に、以前さとりに依頼した『ライブ動員傾向』の読心結果が入っている。姉妹のソロライブが実際に始まる日の前日、即ち二日前から観測して貰った。
「おりんおりん、どうなの? リリカが一番?」
「まあ待て、開けてすらいない。廊下のど真ん中で広げるわけにもいかないしね」
守秘義務守秘義務、と繰り返し呟きながら燐は来た廊下を戻り、オフィスのドアを開けた。
「おくう、閉めてくれ……」
「はーい。で、お燐! どうなの?」
「……」
燐は既に封を切り、中の紙片を広げていた。せわしない視線の動きで、紙に書かれた情報を追う。
「……」
「……お燐、ねぇ」
「どうした」
「なんか、こわいよ」
空の不安げな言葉で、燐はようやく顔を上げた。何となく頬に手を触れてみる。そこまで顔に出ていたか。
「あ、ああ。ごめんよ」
「で、どうなのってば。リリカは?」
ずっとお預けで待ち切れないと言わんばかりの空に、燐は黙ってその紙を差し出した。素早く手に取って開き、彼女は目を通す。
空が、そこに書かれたいくつかの文字と数字を追っていく視線の速度。それが徐々に遅くなるのに比例し、彼女の笑顔も色を失っていくのが、燐にはとてもよく分かった。
(成る程、あたいもこうだったか)
「ルナサ、ろっぴゃくろくじゅうよん、メルラン、ろっぴゃくさんじゅうなな、リリカ……え、えっと……リリカ、にひゃ」
「もういいよ、おくう」
燐は言いながら、空の手より紙を引ったくった。彼女は抵抗しなかった。
それから天井を仰ぎ、長い長いため息。
「きついな、こいつは」
「……なんで?」
「何に対する?」
「なんで、こんなに少ないの?」
潤んだ空の瞳を真っ直ぐに見据え、燐は冷静を保って言葉を絞り出した。
「……前提として、このライブは客の取り合いだ。勿論全部行くって人もいるだろう。だがスケジュールやら体力やら、色々考えたら大半の人はどれか一つに絞る」
「……うん」
「結論から言うぞ。リリカは悪くない。姉二人が、バケモンすぎるんだ」
「ばけもん……」
「まあね。感情に直接訴えかける音色を操るってコトを差し引いてもだ。
ルナサの落ち着いた普段のイメージと熱く弾き語るライブのギャップ。多分ビジュアル面でも一番人気なんじゃないか? やっぱ弦楽器ってカッコいいしさ。憧れる人も多いだろうよ。
一方メルランはぶっちぎりの明るさで人を絶えず惹き付ける。とにかく楽しく騒がしい。ノれる演奏って点では、彼女には誰も敵わない。笑顔が一番だからね。今日は観に行けなかったけど、今頃凄いことになってるだろうね、会場は」
空は無言で頷いた。
「さて、リーダーと花形を相手にだ。縁の下で支える役割が主のリリカではどうしても厳しい面はある……ソロライブでは尚更だ。リリカの演奏自体は劣るものじゃなくても、ね。イメージの時点でもう、リリカには不利な戦いだったのかも知れない」
「うにゅ……でも、でもぉ」
「分かってる。諦めるつもりなんかないよ。やれるだけやろう、おくう。
とりあえずだ、リリカには流石に言えないから黙っとくとして……この紙は処分だな。
おくうもうっかりリリカに言……」
神妙な顔で口を動かしていた燐の視界の端で、いきなり赤い服を着た誰かがひょっこり立ち上がったのはその時だった。
「……なっ、なっ」
「り、りりりリリカ!?」
「……」
オフィスの入り口で立ち話をしていた二人の死角、ソファの裏側から現れたのは、紛れもなくリリカ本人。その表情は、多くの感情を混ぜ込んですっかり濁っていた。
「あ、あのそのあの!! い、いまのはちがうの! だから、えっと……」
「……」
「お、お、お燐もなんかいってよぉ!! だからね、そのね」
「いいよ、お空。ありがとう」
え、と一言呟いて空がフリーズした。それ程までに、リリカのそのたった一言は恐ろしく重い。
彼女は笑っていた。彼女本来の笑顔を、燐の管理する灼熱地獄で三日三晩は乾燥させれば、こんな顔になるかも知れない。
「ごめん、わかってたよ。どうやって調べたのかは知らないけどさ、私がドン底だったでしょ。人気」
「……ああ」
「ちょっ、お燐!?」
「いいの。わかってたから」
リリカはもう一度、そう繰り返した。空は再び黙った。
「実はさ、ソロライブ対決するのってこれが初めてじゃないんだ。前にも一回やったんだけど、ヒドかったよ。倍以上負けた。
姉さんに何度もなぐさめられて、ミジメったらありゃしない……でも、でもさ。もっかい、やってみたくなったんだ。だから渋る姉さんたちに頼み込んで、もう一回の対決にこぎつけたの。
私だって、一人でもみんなを惹きつける演奏ができるって証明したかった。もっとも、この対決自体は宣伝技法が主なファクターだけどさ。
……まあ、けっきょくダメだったってコト」
リリカは肩を竦める。全く隠れることのない泣きそうな顔を、必死に押し隠しながら。
「だからさ、二人には……絶対に達成できない依頼をしてたんだ。勝てるワケないのにさ、お燐もお空もあんなに頑張ってくれて。うれしい。
……ごめんね、二人とも。疲れるわりに、むくわれない仕事でさ」
「な、な……何いってるの!? そんなコト言わないでよ!!」
空が一瞬でリリカとの距離を詰め、その薄い肩を掴む。勢い余って手が背中まで回ったので、無理矢理引き寄せ、そのままきつく抱き締めた。
「わたし……お燐も、ゼッタイにあきらめない! リリカのこと応援する! だから、だから……」
「……なあ、リリカ」
唇を噛み締めることで涙を堪えていた空とリリカは、燐の言葉に揃って顔を上げた。
燐にしてみれば、こんな辛気臭い空気など一秒でも蔓延らせたくないのだ。がりがりと頭を掻いて一瞬考え、燐は口を開いた。
「有名人だと騒いだクセに、ちゃんと聴いたことがなくてさ。あたいもおくうも。
……聴かせてよ、リリカの演奏。後のことはそれから考えたいんだ」
「……お燐?」
「いいだろ? これも依頼を達成するための重要な情報でね」
口元を歪めて、燐にとって理想的なニヒリズム漂う笑みを浮かべる。それを見つめていた空がそっと、リリカの身体を離した。
「あ、ごめんね。ジャマだよね……えと、わたしも聴きたいな。
なんだっけ、そのピアノ……色んな音が出るんでしょ? すごく楽しみ!」
空はそう言って屈託のない笑みを広げ、小走りで燐の隣に並んだ。
暫し呆然と突っ立っていたリリカだが――ぐしぐし、と楽団服の袖で目元を乱暴に拭う。
「音とか、大丈夫? かなり鳴らすけど」
「おねむにゃまだ早いさ。いっそ呼ぶか、さとり様とこいし様」
「パルスィとかこういうの好きそうだよね。よぶ?」
「流石にチト時間かかるな、こっからじゃ」
燐が笑うと、空も同調した。何も言わずとも二人の意見は同じ。リリカの視線が燐と空の間を忙しく飛び回り、その果てに彼女もようやく笑った。
オトナぶって必死に優位性を保とうとする、背伸びした満面の笑み。カッコつけてばかりの自分と、どこか重なる。
「……しょーがないなぁ。じゃあ特別に無料で聴かせちゃおうかな、私のソロライブ。新曲のおヒロメもかねてさ」
「嬉しいね。でも明日まで取って置いた方がいいんじゃないか?」
「二人に聴いてほしいの。最初に」
リリカの言葉に迷いはなかった。その真っ直ぐな眼差しを受け止め、燐は頷く。顔が赤くなっているのは自分でも分かった。
「そっか」
恥ずかしさでそれしか言えなかったが、それで十分だった。リリカはぴんと背筋を伸ばし、愛用のキーボードを抱えて優雅に一礼。
「ではでは、まもなくリリカ・プリズムリバー特別ソロライブイン地霊殿、開演でございます。
トランシーバーや弾幕の生成装置など、音や光の出る物は、お手数ですが座席の下やポケットなどにおしまいくださーい」
礼に合わせ、燐は拍手した。空もぱちぱちと両の手を叩く。
彼女は二人の眼を交互に見て、柔らかく笑ってから――そっと、腰の高さに滞空させたキーボードの鍵に、指を乗せた。燐には、乗せたようにしか見えなかった。
だが次の瞬間には、どこかから音が聞こえ始めている。遠くからまるでさざ波のようにそっと押し寄せてくる、アコースティックギターの音色。
徐々に被せるように、エレキギターに似せた、だが独特のシンセサイザー音が響く。ベース音とバスドラムがリズムを刻み始め、そのまま二小節分。撫でるようだったリリカの指が、ふわりと浮いた。
不意に音波を放つスネアドラムと、被せるようなシンセサイザーのスタッカート。サンバにも似たリズムを刻み、メインフレーズへ。
「……!」
明るく軽快なエレキギター風シンセが一際大きくなり、ドラムとベース、その上で音を震わせるアコースティックギターに乗るように飛び出していく。爽やかなのにどこか懐かしいそのフレーズが、燐の耳に飛び込み、頭の中で広がって、不意に一つの景色を創り出した。
そこには、どこまでも続くような夏の青空が広がっていた。遠くに白い入道雲が幅を利かせ、見上げれば真昼の月が白く溶け込む。
燐は走っていた。無論、本当に走っていたなら目の前のリリカに衝突してしまう。イメージだ。水色の世界を燐は走っている。リリカの演奏が、そんな彼女のイマジネーションを掻き立てて止まないのだ。
「……」
横を見ると、空は何も言わず、否言えず、どこか遠い目をして演奏に聴き入っていた。彼女の頭の中には、どんな景色が見えているのだろう?
後で訊いてみよう――燐の思考はやはりそこまでしか続かず、リリカの演奏が次のフレーズに入ったことで、再び水色の世界へと引きずり込まれていく。
先までがサビなら、今度はメロフレーズ。低めの音階を中心に組み立てられたシンセサイザーとギターの絡みに、時折ベースの主張が混ざる。
(これは……)
燐は驚いた。頭の中に広がる景色を見渡すと、すぐ左には広大な水溜まりが広がっている。
否、これは単なる水溜まりではない。寄せては返す陽光の煌めきを乗せて漂う、ウルトラマリンの水平線。
(こいつが――海、ってやつなのか……?)
実物を見たことはなく、話にしか聞かない無限の水溜まり。湖も比にならない大きさとは聞くが、これほどとは。リリカの演奏がもたらすイメージに過ぎないのに、潮風の匂いすら燐に教えてくれそうなリアリティがあった。
再び違う色を見せ始めるシンセサイザーの音色に合わせ、頭の中の景色も巡る。海を横目に、真昼の月を追いかけて走り出した。いくつも立ち並ぶ背の高い木々、網かけのように陰を落とす木漏れ日。数多の光に囲まれた、夏の匂いがする音の世界。燐は夢中になって走った。
スネアドラムとハイタムの織りなすビートを挟んで再び演奏がメインフレーズへ戻る。涙すら誘う不可思議な電子音の震えと、ワウを効かせたギターの音色が二人の心にさざ波を立てる。
軽いシンセソロを混ぜた間奏、ドラムの激しいタム回し、そしてブレイク。それらを経て最後の――燐にもそうと分かる――メインフレーズへ戻った時にはもう、燐の心に広がる夏空はすっかり暮れていた。夕焼けも徐々に群青へ染まり、いつしか頭上には満天の星空。
白かった月は黄金の輝きを纏い、天の川がまるでオーロラのように光の波を創り出す。海を見れば、波間に揺らぐ星の影。
メイン、アウトロを刻んで、シンセとベースが半音ずつその音を高めながら、同じフレーズを繰り返す。
星空が、波の影が、遠く。
(ああ、終わっちゃう)
燐の嘆きに似た心の呟きを掬い上げるように、うねりながら伸び続けていたシンセサイザーが、強烈なスネア二発と共にフィニッシュを告げた。
「!!」
世界が弾けて、地霊殿のオフィスの景色が戻ってきた。燐は右を見て、左を見て、未だ呆けたままの空の顔を見て、少し安心してから、リリカに視線を戻した。彼女はどこか恥ずかしげだった。
「……どう、かな? 新曲……名付けて『ミッドデイ・スター・メモリーズ』」
少し怖いけど、訊きたくてたまらない。そんな顔をしていた。残念なことに、燐はその望みをすぐには叶えてやれそうもない。
「……あー、その……なんつーか……いや、えと」
言葉が見つからない。迷いを口にする度に、彼女の心臓がどくどくと鼓動を強めていく。
(伝えられないって、こんなにもどかしい)
リリカがもう少しで、不安げな顔になりそうだと分かったその瞬間、燐は溢れ出るその衝動を解放した。
踏み込み、距離を詰めてリリカの肩を掴む。空も見せたそのアクションに、目の前の彼女は目を丸くして驚いていた。
それを真っ直ぐ見据え、碌に推敲もしないまま、思いついた言葉をぶつけた。
「……リリカ!! あたいらに任せろ!!
絶対だ……絶対に明日、リリカを勝たせてやる!!」
びりびりと戸棚のガラスが震える程の大声だった。何一つ偽ることのない、燐の決意。それだけの感動が、彼女の胸で渦を巻いている。
驚きっぱなしで瞬きすら忘れたリリカは、その叫びを聞いて二秒、三秒、四秒――やがて、ぽろりと一粒の涙がこぼれた。
みるみる内に顔をくしゃくしゃに歪めて、必死に止まらぬ涙を堪えようとする。
「……やめてよぉ……私、姉さんの前以外で泣いたコトなんて、ないんだよ……?」
「絶対にウソだな。泣き虫リリカって方々で言われてるさ、きっと」
燐はニヤリと笑った。強がる者程涙に脆い、燐の経験則。図星だったのか、リリカは呆然とした後で、表情を一変させる。
「お燐のばかぁ!!」
「いて、いてて」
ぽかすかと頭や肩を叩かれて、燐の笑みは苦笑いへ変わった。叩いて、叩いて、叩かれて、段々叩く力が弱くなって、やがてそのリリカの手が、燐の二の腕をそっと掴んだ。
「……勝たせてくれるって……ホント、に?」
「依頼人に嘘をつくようじゃ、この業界やってけんね。信頼第一」
「何でも屋だから?」
「あたいだからさ」
分かったような、分からないような。だけどその一言こそが、彼女の最も欲していたものかも知れない。
リリカは涙の光る目をゆっくり細めて、恥ずかしそうに笑った。彼女の心境とは裏腹、燐は脳内ガッツポーズ。
(……言ってみたかったんだ、こういうの……)
完璧なるハードボイルド風台詞を決めて燐は興奮を隠すのに必死。おりんりんランド営業強化月間である。
「……ま、お前さんはアレだ。ライブのことだけ考えてな。
リリカの演奏は最高だ。あたいは身をもってそれを知った。だから応えるよ。
大丈夫だ、心配なんかいらない」
「……」
「ホントだよ? お燐はね、ウソ言わないもん。それに、わたしもいるんだから!
リリカの演奏、すっごくよかった! うまく言えないけど……その、色々見えたんだよ! きっと、リリカがこの曲で言いたい、伝えたいコト」
燐は驚き、横を見た。ずっと呆然としていた空がいきなり喋ったからではない。自分の見たあの景色を、彼女もまた感じ取っていたのだと気付いたからだ。
「おくう、何が見えた?」
「……おそら、かな」
「空か」
「青いの。すっごく。どこまでも続いてる、夏のソラ」
「あたいも見えたよ。それに、海だ。目で見たことなんてないのに、何よりも鮮明だった。あれが海か」
燐はため息をついた。感嘆の息。それからすぐに、明日のことを。
こそこそ、と目元を袖で拭っているリリカ。この小さくて偉大な音楽家の下へ、大量の客を呼び込まねばならない。
それを請け負うのは自分と隣の助手。誇らしかった。
「ねぇねぇ、あの音全部、それで出してたんでしょ? どうやるの?」
音楽に触れる機会はそこまで多くない地底、空は興味津々にリリカへ尋ねた。彼女は待ってましたと言わんばかりに顔をぱぁっと華やげ、キーボードを宙に置いた。
「ふふふーん、私くらいの音楽家じゃなきゃ扱えない、すごいアレだよ。シンセサイザー機能をめっきめきに強化してあるからね。私の能力とあわせて、どんな音だって出ちゃうよ」
「しんせさいざ?」
「あ、ごめん。色んな音を混ぜ合わせたりこねくり回して、新しい音を作る機能だよ。私が持ってる幻想の音の能力と一緒に使って、どんな音でも楽器にできるんだ」
「えー、すごい!」
横でこうまで二人盛り上がられては、考え事も出来やしない。燐もその会話に頭を突っ込んだ。
「興味深いね。例えばどんな風にだい?」
「んー、そうだなぁ……あ、そうだ。じゃあお燐、なんか言ってみて」
リリカがぱちんと指を鳴らすが、燐は当惑。
「な、なんか?」
「うん。あー、とかわー、とか、にゃー、とか」
「にゃー! にゃーにしようよお燐!」
「よく分からんが、分かった。
えーっと……にゃ、にゃあああーーーーあああぁあ」
いつもの調子で鳴き声ロングトーン。どことなく恥ずかしい。燐の声が止むと、リリカはキーボードに備えられたボタンやら、側面のダイヤルやらをいじくり回す。
「んー、もうちょいこうかな……エレキか、サックスっぽく……」
「お、おおお? なんか分からんが、プロの顔だな」
燐の率直な呟きに、リリカの頬が染まる。聞こえてはいるようだ。彼女はやがて、燐を向いてにっこり笑う。
「でーきたっ! お燐、聞いて聞いて! いくよー」
リリカが鍵盤に指を乗せ、押し込む。するとどうだ、響き渡るのはエレキギターにトロンボーンの響きを合わせたような、音は高くも重みのある電子音。
エフェクトを効かせてシンセサイザーの音色にしてはあるものの、それは明らかに猫の声のようでもあり――
「……おい、このにゃーにゃー言ってる音はまさか」
「まさかもまさか、お燐のにゃーだよ」
「マジかいな……これ、あたいの声か……完全に楽器だな」
「わぁ、なんかすごい! ホントにお燐の声だ!」
自分自身の声が確かな『音色』になっているのを聴くのは不思議な心地だった。燐の声で何やらピロピロにゃーにゃーと演奏を始めたリリカの肩を、空がせっつく。
「ねぇねぇ、わたしの声もできる?」
「もっちろん! じゃ、なんか言ってみて」
「あたいがにゃーなら、おくうはうにゅーだな」
「う、うん。それじゃ……うにゅううううーーーうぅ」
空もロングトーン。ぎゅっと拳を握って必死に長い声を絞り出すその様はどこか滑稽でもある。
「にゅ、にゅうぅ……けほ、けほん」
「おくう、ムリするな。もう十分みたいだし」
咳き込む空の背中をさすりながら、燐はリリカを見やった。彼女は先と同様、ヘッドホンでもしているかのように片耳を手で押さえ、エフェクターらしきダイヤルをいじっている。
「えっへっへー、できたぞー。そーれ!」
彼女はそう呟くなり鍵盤を叩く。燐のものとはまた異なり、何かの楽器に形容することの難しい歪んだ電子音声。
強烈なエフェクトとビブラートによってぐにゃぐにゃに捻られたような、だがどことなく可愛らしいその声は、確かに空のもの。
「おおー、にゅーにゅー言ってる」
「うにゅー! これわたしの!?」
「そうだよー。なんかカワイイでしょ」
「う、うにゅうう。フシギっていうか、はずかしいっていうか、なんていうか」
「いやあ、おくうにピッタリだと思うけどなぁ」
はっはっは、と燐は思わず笑った。リリカが尚奏でる空の声は、澄み渡ったものとはとても言えないが――珍しい形の花を見た時のような、驚きを伴う美しさがある。
釣られて笑う空とリリカの笑い声とその妙ちくりんな電子音声が、綺麗なユニゾンを奏でながら地霊殿に響き渡る中――燐は不意に気になって、リリカへ尋ねてみた。
「なあ、ひとついいかい」
「なぁに?」
「なんでさっき、ソファの後ろにいたんだ?」
「……お燐とお空がいなかったから、おどろかそうと思って隠れてた」
奇妙なユニゾンに、再び燐の笑い声が加わった。
・
・
・
・
・
青白い月光に包まれて、里の家々はすっかり寝静まっていた。
真夜中まで宴会をして近隣住民から苦情を入れられた若者達の騒動も記憶に新しいのか、猫の子一匹動くものはなく、静かだ。
否――読んで字の通りの、猫の子が一匹。闇夜に融け込む黒い身体を躍らせて、素早く小さな窓から中へと滑り込む。
薄い布団に包まって寝息を立てる少女が一人、二人。起こさぬようとの配慮なのか、猫は爪を立てずにそそくさと駆けていく。
棚の上を飛び移り、水瓶を見つけるとその縁に捕まって、のぞき込むようにしがみ付いた。
と、その猫は何か小さく鳴いたかと思うと――招き猫のように掲げた手から、淡い朱色の光が瞬く。
光は一瞬だけ小さな人形の形を取ったかと思うと、すぐに篝火のように揺らぎ、水瓶の中へ沈んでいった。
「にゃ」
よし、とでも言いたげに猫は鳴き、素早い身のこなしで元来た窓へと飛び移る。二本の尻尾を引っ掛けないように真っ直ぐ伸ばして、するり。
その後も猫は家々を、倉庫を、何かの店舗を、果てはゴミ捨て場まで周り、ぽっかり口を開けて待つ物達へと小さな光を落としていった。
バケツ、桶、ゴミ箱、樽、かまど、熊の剥製の口の中――駆け巡る猫のしなやかな身体を舐め回すように、月明かりが降り注ぎ続ける。
・
・
・
「……おくう、どうだ? そっちは」
「うん、オッケーって! やっぱり眠そうだったけど」
「まあなぁ。ちゃんと後でお礼しに行くぞ」
ポン、と燐が叩いたその紙箱。お中元で大量に余っている素麺である。空が今し方会ってきた人物の好物らしいので、いくらでもプレゼントするつもりだ。
「お燐はだいじょうぶ? 見つかんなかった?」
「楽勝も楽勝、みーんな寝てたよ。ま、問題は明日……っつーか今日だけど。もう一回やらなきゃだからな」
「わたしはお昼までに、取りに行けばいいんだよね? 例のブツ」
「そそ。とりあえず作戦会議だ」
燐は空に座るよう促し、自ら台所に立ってコーヒーを沸かす。普段飲む物よりかなり濃く淹れて、二人分のカップをガラステーブルに置いた。
時刻は既に朝、リリカのソロライブ当日。燐は『作戦』の概要を空へ分かりやすく説明しながら、昨夜の演奏に思いを馳せる。
(……あれだけの演奏だ。一度耳にすれば、絶対に惹かれるだけのパワーはある。なら……)
「お燐?」
「あ、ああ。悪い。で、おくうはその後……」
途切れた説明を再開し、燐は身振り手振りを交えて空へと作戦の肝を伝えた。
どちらが欠けても成功しない大博打なのだと。
「んじゃ、あたいはもう動く。準備工作も必要だしね」
「お燐、だいじょうぶかなぁ」
「あたいとおくうだぞ? いけるさ」
ニヤリと笑ってみせると、空は一瞬だけ固まった後で笑い返した。気合いを入れるつもりなのか、制御棒を取り出して腕に付けたり外したりを繰り返し始める。
燐はそれを横目に、テーブルに置かれた装置――何かの端子だろうか――ともう一つ、リリカに借りた集音マイクを掴み上げて鞄に押し込み、オフィスを出た。
(まず山に寄って、そのまま里へ……リリカに見つからない方がいいかね)
廊下を暫し歩き、ロッカールームのようになった部屋で靴を履き替える。丈夫な見た目で歩きやすそうなショートブーツだ。
奥のドアから外へ出ると、そこはもう暗褐色に囲まれた地底の景色。傍らの物置のようなボックスから愛用の一輪車を引っ張り出し、今し方出てきたロッカールームに積んであった物を次々と放り込む。
ベニヤ板、加工された木や竹の棒、丈夫な布、金属プレート、工具箱――何かの工作に用いることは想像に難くない。
燐は息を大きく吸い込み、一輪車のハンドルを握ると、地面を抉るように蹴り込む。
土煙と共に轍を刻みながら、地獄の赤い猫は地底を駆け抜けていった。
・
・
・
・
かん、かん、と硬い足音が聞こえる。下だ。燐は手を止め、振り返る。
ばささ、と翼を動かす音と共に、ひょっこりと空の顔が足場の下から現れた。
「おりーん! やっほー!」
「お、来たな。見てよコレ、どうかな」
「すごいよお燐! やっぱりお燐、こういう図工の才能あるって!」
「そっかねー。にゃはは」
少しばかりデジャヴの香りがする会話をしながら、燐はその大きなドーム状の物体を示した。
すぐ前には一面金属製の壁があって、いくつもの足場やパイプによって組まれている。燐らがいるのは二人で立ちつつ工作作業が出来るくらいには広くなった足場。そして目の前の壁に取り付けられた、角張ったドーム。布と金属プレートで面が形成され、九十度傾いてドームの天辺を燐らに向ける形で取り付けられている。亀の甲羅に見えなくもない。
空の身長の半分以上はあろうかという巨大なお手製ドームだが、無論最初からここ――ソロライブ会場の、ステージ真裏にあったものではない。
「で、ここにさすの?」
「そうだよ。一応ちゃんと接続出来るかは確かめた……で、問題はそっちだ。もらってきたかい?」
「うん! ちゃんとね、『れいのブツは?』ってきいたんだよ。そしたら、『問題ない。シャレイはいつものところへたのむ』って答えてくれたの!」
「ノリいいねぇ。あいつらしいや」
空はとても嬉しそうに語りながら、大きな袋を少し開けて、中身を燐へ示してみせた。手を入れて一部を摘み上げる。
燐の指先で淡い陽光に光る、白い糸。絹のような手触りで、髪の毛よりも遙かに細いそれがぎっしりと束になって袋に入っている。
「うん、触っただけで分かる。こいつはバッチリ『通して』くれそうだ」
「じゃあ、あとはやるだけ?」
「かな。リハーサル出来るモンでもないし……上手くいかないようなら、最終手段に出るまでだ」
「どんなの?」
「その時はあたい一人でやるよ。おくうまで灰を被るこたぁない」
「だめだよ! わたしもお燐といっしょにやるの! そのための助手なんだから!」
息荒く迫る空を見て、燐は額を押さえた。成功率は未知数――どちらかと言えば悪い意味で。何せ誰も考えないような方法だ。
だがそれでも、やると決めたのだ。自分達の申し出がリリカに勇気を与えたのなら、逆もまた然り。あの演奏を耳にした瞬間からずっと、胸の中に灯り続ける小さな火を、多くの人に分け与える。
「おくうも一応、確かめてね。そのてっぺん」
少しでも成功率を高めるには、入念な準備が必要だ。もう一人のキーマン、空にも確認を促す。
空は頷くと制御棒を取り出して腕に装着し、もぞもぞとその中で腕を動かす。と、先端からマニピュレータにも似た接続端子がにょっきり生えてきたではないか。
それをゆっくりドーム状の装置に近付け、彼女らの方を向いたドーム天辺の端子に腕ごと差し込む。かちり、と音がしたのはすぐだった。
「どーれどれ……おっけー、ジャストフィット! もうやっちゃっていい?」
「わあ、やめろやめろ! 火でも吹かれたら困る」
「うにゅ」
どこか興奮する空を慌てて止め、燐は一瞬で滲んだ冷や汗を袖で拭った。
ざわりと風が吹いて、広場を取り囲む木々を揺らしていく。組まれたステージの壁が、微かに軋んだ。
「……」
風に揺れる三つ編み。燐の表情は若干険しい。圧倒的不利を打開する為の大がかりな作戦、失敗したらという不安は拭えない。
「おりんおりん」
「……んあ。どした」
「はい!」
不意に呼ばれたので横を見ると、空が笑いながら何かを差し出す。指先に摘まれた、コーヒーキャンディの包み。
「こういう時は、甘いモノがイチバンだってこいし様が言ってたよ!」
屈託なく笑う空も、もごもごと口を動かしている。思わず燐も破顔し、包みを受け取った。
「ありがとさん」
口に入れると、甘くて苦い。どこか懐かしいその味が、昨夜の演奏を彷彿とさせる。
燐は暫し、ぼんやりと滲む夏の空に思いを馳せた。
・
・
・
・
ステージ裏側、壁の隙間から見える広場には、既に人だかりが出来ている。
顔を上げれば、薄いオレンジに染まる西の空も徐々にダークブルーへと溶かされていくのが見える。妖怪の時間はもうすぐだ。
「いつ始まるんだっけ?」
「午後七時……あと四十分ってぇところか。そろそろ出るかね」
燐はゆっくり立ち上がり、スカートに付着したビスケットの欠片――空が駄菓子屋で調達――をはたき落とす。
「お燐、ひとついい?」
「なんだい?」
「どうしてこんな作戦思いついたの? わたし、びっくりしちゃって」
「ああ、それか……昨日の晩、リリカが帰ってからずっと考えてたろ」
「うん、コーヒーいっぱい飲んでたよね」
「その時に、こいつを見てね」
燐はポケットから取り出したそれを空へ放った。
「わ」
キャッチしようとして指先で弾き、再度舞い上がった所を今度こそ受け止める空。つまり、それだけ軽い物体。
「……なんじゃこりゃ? コレが?」
「ま、すぐ分かるよ。分からなかったら、終わってからじっくり教えてやるさ……んじゃ、行ってくる」
「あっ、待ってお燐」
「?」
背を向けようとした所で不意に呼び止められ、燐は小首を傾げた。空は相変わらずの笑顔で右手を握ると、拳の先にそっと口付けしてから燐へ向けて突き出す。
「おまじない! こうするとなんでもうまくいくって、こいし様が言ってたよ!」
「こいし様の知恵袋も守備範囲が広いこって」
燐は少し頬を染めて笑い返し、自分もまた空に倣った。唇は思ったより乾いていなかった。
互いの右拳を突き出して、打ち合わせるように重ねる。
「いえーい」
小声で燐。空がまた笑った。
徐々に人の集まりつつある広場。そびえ立つステージの後ろから、誰にも見えぬ赤い影が躍り出て、里の大通りへ向けて消えていく。
空は燐と口付けを交わした右手に制御棒をはめ込んで、それを見送る。
「……きっとだいじょぶだよね、お燐」
彼女は呟きながら、左手の中にあった紙コップを軽く弄び、落っことした。
・
・
・
・
里の大通りは変わらぬ賑わいで、夜の訪れを少しでも遅らせようと騒ぎ立てている。通りの一角に置かれたねじ巻き式の大時計は、午後六時五十分。
誰かの家の影に身を隠す、黒衣に赤毛の三つ編み少女――何故か通りすがる人々は彼女を気に留めない。気付かぬまま、家路へと向かう。
「……よし、やっか」
彼女は――燐は呟き、何かを口にくわえる動作。そのまま全身の力を抜くと、みるみるその姿は縮んでいく。人間に近い容姿から、赤いリボンがチャーミングな完全なる黒猫へ。
くわえた何かを離さぬよう顎に軽く力を込めて、今し方身を潜めていた家の中へ、窓から素早く侵入した。
新聞を読み耽る家主の方を一瞬だけ伺い、燐は音を立てずに素早く桐箪笥へ飛び移る。爪の音一つしない。
そのままの勢いでそそくさと箪笥の上を渡り、部屋の隅に置かれた壷に狙いを定める。もう一度家主の意識がこちらに向いていないことを確認し、燐は音も立てずに飛び降りた。
壷の中をそっと覗き込むと、小さな朱色の光が瞬く。そこへ目掛けて、口にくわえた何かを落っことした。
ふわり、猫の息遣いにも吹き飛びそうな軽い挙動で落ちていく、細い細い糸の先端。目を凝らしても尚殆ど見えないその糸の続きは、不思議なことに壁や天井にぴったり貼り付いていて、誰かが引っ掛ける心配はなさそうだ。
燐の鋭敏な聴覚にしか引っ掛からぬ、しゅるり、という音。誰かが投げ返したかのように、今し方壷の中に落とした糸の先端が宙に浮く。それを再びくわえて、燐は物音一つなく身を躍らせた。
壷の縁、箪笥の上、そして窓枠に飛び乗り、薄闇が支配する里の通りへ。
もしもこの家の家主が、余程感覚の鋭い妖怪の類であったならば、或いは見つけられたかも知れない。
古びた壷の中で、目に見えぬ程細い糸を小さな手で中継する、灰色の妖精の姿に。
(人の持つ生気を避ける性質を持たせてくれなんて無茶、よく出来たもんだよ)
また別の家の窓から顔を出しながら、燐は思う。口にくわえた糸はライブ会場から先の家の窓を経由し、人々の行き交う道すれすれの地面を通って彼女へ続いている。
気まぐれな人の足が糸を断ち切りそうになろうと、ふわり風に舞うようにその脚を避けていく。人には見えることも、気付かれることもない。
そんな様子だけを確かめてから、燐はそのまた別の家に飛び込んでいく。長押に手を掛け、懸垂するかのような姿勢で部屋の奥を目指した。
使われていないのか、玄関先に置かれた空っぽの樽――本来はきっと、漬け物にでも使うのだろう。玄関の鍵が掛かっていた故にこのような大冒険を強いられたが、燐は無事に辿り着き、中へ糸を落とす。妖精の手が伸びて糸を捕まえ、端を燐へ投げ返した。
物の多い部屋、こまごまとしたガラクタに身を隠しながら窓の下まで忍び寄り、一息に飛び出す。通りに人多けれども、彼女へ注意を払う者はいなかった。
僅かな玄関の隙間、換気用の小窓、煙突に勝手口、床下――ほんの少しの隙間があれば、彼女は入っていける。阻むものはない。
黒猫が駆ける。バケツ、桶、ゴミ箱、樽、かまど、熊の剥製の口の中――半日余前の足跡に、ひとつひとつ糸を通しながら。
遠く離れた広場には、それなりに多くの人だかりが波を作りつつあった。見比べる者など居やしないが、昨日より、一昨日より小さな波。
ステージの隙間から様子を伺うと、赤い楽団服の背中はますます小さく見えた。
「リリカ、がんばれ」
空は呟き、制御棒の中で手を握り込む。先端から生える接続端子。息を吸って、吐いて、また吸って、遠目に見える里の大通りへ一度だけ視線を飛ばしてから、彼女はそれを目の前のドーム型集音機に差し込んだ。
装置の下部からは、空の視力でようやく捉えられる程の白く細い糸が延びていて、燐が去っていった方角へ続いている。
と、その糸が不意に、ぴんと緊張した。空の表情が変わる。
「わかったよ、お燐」
そっと糸を摘んで、弾く。程良い反発が、準備完了の合図。
自分の心臓が不意に暴れ出し、視界がぶれる。冷や汗を袖で拭い、もう一度ステージ下を窺った。今まさに、キーボードを抱えたリリカが飛び出していく。
爆発のような歓声。十分に誇れそうな観客の数だが、彼女は欲張りだ。だからこそ自分達がいる。空は見える筈のない笑顔をリリカへ投げた。
「だいじょぶ、だいじょぶ」
アイドリング。体内で膨れ上がる膨大なエネルギーを、制御棒を介して少しずつ装置へ注いでいく。汗が止まった。
「では早速新曲いきまーす! 聴いてね、『ミッドデイ・スター・メモリーズ』!!」
リリカの楽しそうな声が聞こえた瞬間、空の全身が淡い光を放つ。太陽の化身・八咫烏。その力を宿した彼女の身体は、今やひとつのエネルギープラント。
「うにゅうっ!!」
気の抜けそうな気合一閃、圧倒的な原子力エネルギーが制御棒を通じ、装置へと流れ込む。
細い糸が、風を切り裂く唸りを上げた。
・
・
・
そっと糸を摘む燐の細い指が、遠くからの確かな脈動を感じ取ったのは、大通りのねじ巻き式大時計が午後六時八分を指した時だった。
「……よし、来た!」
燐は近くの家の壁にもたれ掛かり、息を吐く。間違いない、必ず上手くいく。自信で不安を塗り潰さねば、あのふてぶてしい笑みは生まれない。
そっと見上げれば、うっすら浮かぶスポンジケーキのような満月。見つめる燐の目の中で、リリカが見せてくれた真昼の月がそっと重なる。
目を閉じる。その意図の半分は、この里中にバラ撒いた己の力の分身。亡霊と化して尚生きる妖精と、その手が介する土蜘蛛の糸。それらに神経を飛ばすため。
土蜘蛛の妖力がたっぷり詰まった細い糸は、あらゆる力をしなやかに受け、伝える。遠くにある音と、それを爆発的に加速・増幅させる八咫烏の力。
そして今、ゾンビフェアリーの中継を介して里中に張り巡らされた共同作業。燐が目を見開いた。
今、町中が歌声を上げる。
「コード、ストリングフォン・ネットワーク! さあ歌え!!」
――尚、目を閉じたもう半分の理由は、カッコつけである。
・
・
・
・
「……?」
妙な胸騒ぎがした。その日行った国語テストを採点する手を止め、上白沢慧音は顔を上げる。
窓の外で、誰かが叫んだ気がしたのだ。気のせいだろうか。それとも家の中だろうか。
「妹紅、何か言ったかー?」
「んー? なんにもー」
声を張ると、あちらも声を張り返した。藤原妹紅の声は、風呂場特有の反響を伴って慧音の耳に届く。
続いて、ざぶざぶと水音。すまない、と一声返して彼女は再び筆を握る。
すぐに目の前の答案に戻ろうとしたが、その手をもう一度止めさせるだけの明確な違和感が、彼女の耳を小突いた。
「なんだ……?」
部屋を見渡す。使い古された机、桐箪笥、妹紅と自分が写った写真立て。もう少し視線をずらすと、床の間に置かれた大きな花瓶。彼女のある誕生日に、生徒達が贈ってくれたものだ。
流しかけた慧音の視線が、再び床の間を向いた。びりびり、と花瓶が震えている。無論その傍には誰もいない。
聡明な慧音が真っ先に思い当たったのは、地震であった。そう滅多にあるものではないが――そうでもなければ、騒霊の仕業ぐらいしか思い付かない。
結果として彼女の推測は、半分が的中することとなる。
「な」
その一文字を呟いた状態で、彼女の口は開いたまま硬直した。
じゃんじゃん、じゃかじゃか。花瓶が歌っている。
遠い異国の夏空を思わせるような、アコースティックギターの旋律を。
(夢でも見ているのか?)
慧音の身体の半分は妖怪だ。その感覚は人のそれより鋭敏である。部屋のどこかから聴こえるこの音色が、花瓶の口から響いているとすぐに気付いた。
或いは完全な妖怪であるならば、その発生原因まで特定出来たかも知れないが――最早それどころではない。
「け、けけけけーねぇ!! 風呂釜からなんか音楽が聴こえるよ!?」
「妹紅か、私も……うわぁ! ふ、服くらい着なさい!」
「ンなコト言われたってぇ」
風呂から上がって直接飛び込んできたのか、白い肌がすっかり上気した妹紅が部屋に駆け込んでくる。身に纏うのはタオル一枚のみ、身体も髪も濡れたままで、慧音としては歌う花瓶よりある意味衝撃的だ。
しかし――ある種の非常事態においてこれだけ普段通りのやり取りが出来るのは、この事態が危険を伴うものではないと、彼女達の勘が告げているからだろうか。
「これは……」
彼女らがラブコメのようなやり取りをしている間にも花瓶からは音楽が流れ続ける。
スネアドラムとギター、ベース音がサンバを思わせる快活なビートを響かせ、エレキギターがメインと分かるメロディを歌い出す。
音に色を付けるのなら、それは間違いなく水色。手を浸せば刺すように冷たく、叫びたい程暑苦しい真夏の色。
「そういえば」
(去年の夏は、湖の近くまで皆を連れて遠足に行ったな……どこまでも高い空が、まるで水面のように……)
不意に想起される、真夏の思い出。ギターの震えに呼応するように、胸の奥から夏の記憶が次々と浮かんでは、手に取れそうな程はっきりとしたビジョンを形作る。
ぼんやり耳と心に任せるがまま夏の景色を楽しんでいたら、背後の襖が開いた。
「慧音……」
「……あ、ああ。どうした」
「あのさ」
一拍遅れて振り返ると、いつもの服に着替えた妹紅がいて、ピンク色に染まった頬を少し寄せてから口を開く。
「今年の夏はさ、二人でどっか遊びに行かない? 山に流れてる川とか、楽しそうだし」
「へ?」
「あ、その」
何を言うかと思えば、夏の予定。あと半年はある。素っ頓狂な声を聞いて、妹紅は我に返ったように慌て出す。
「ごご、ごめん。なんかこの曲聴いてたらさ、その」
「……夏の思い出が次々に蘇って、居ても立ってもいられなくなったか? 安心しなさい、私もだ。泳ぐか?」
「あ、あー……うん、泳ごっか。約束ね」
「ああ」
自分の言葉で妹紅はどこか安心した顔になる。それが嬉しかった。
そして彼女達のその会話の間に、聴こえてくるエレキギターのフレーズはメインへと戻っている。裏では変わらずアコースティックギターと数多のパーカッションが、まるでさざ波を演出するかのように鳴り響く。
心を直接揺さぶるメロディ。音の上下に合わせ、視線と目の裏側が熱くなる。
「妹紅、外だ」
「へ? あ、ホントだ」
窓の外が騒がしい。里に住む多くの人々も気付いたのだ。
無意識に目頭を押さえながら靴を履いて玄関を開ける。大通りには少しの困惑と、多大な興奮が渦巻いていた。
いくつもの見知った顔が右往左往しながら、今起きている事態に説明を付けられないでいる。あちこちの家々からは、同じ曲。
冬の里に、夏の夜空が広がっていた。
「な、なにが起こってんだ!?」
「わからん、いきなり壷から音楽が」
「でもいい曲じゃないか、コレ。面白いし」
「冷静だなぁマッタク」
「すごいんだよ、ウチのクマが歌ってるんだよ!」
「せんせー!」
騒乱の中、一人の少年が駆けてくる。慧音の生徒だ。その手には元々菓子類が詰められていたであろう、やや平たい箱。
「みてみて、コレ! オレのつかまえたカブトムシ!」
彼は嬉しそうに箱を開ける。中には見事な大きさのカブトムシの標本が、四匹。
慈しみ以外の一切の感情が消えていく。慧音はしゃがんで生徒と目線を合わせ、その小さな頭を撫でながら笑った。
「凄いじゃないか、いつ見ても見事だ。私も虫取りに行きたくなるな」
「へへー」
この上なく嬉しそうにはにかむ少年がこの標本を見せに来るのは、これが二度目だ。昨年の夏休みが終わった直後が最初。
「慧音」
「ああ。皆、夏のことを思い出してしょうがないんだ」
冬の空は、星がとても綺麗に見える。慧音にはそれが一瞬だけ、大輪の花火に見えた。
「これかなぁ、もしかしてさ」
「む」
妹紅が袖を引く。寺子屋の壁に貼られた薄赤色に五線譜が踊るポスター。
「プリズムリバー楽団……じゃない、リリカのソロライブか。そういえば宣伝していたな」
「これくらいやりそうだよね、あの楽団メンバーなら」
「実際、効果は覿面と言えそうだしな」
彼女らと同じ考えに至った者は多いようで、ぞろぞろと移動を始める人間もちらほら。
「慧音、どうする?」
「妹紅は?」
「慧音の意見に合わせます」
「……湯冷めしないか?」
「夜風に当たりたい気分でもあるんだ」
互いに頷き合い、二人は大通りを走り出した。一曲目がもう終わりそうだ。
・
・
・
・
人は勝ち誇った時、既に敗北している。どこかで聞いた偉人の言葉だ。
だが今の光景を見て、勝ち誇らずにいられる方がおかしい。燐は確信を持ってそう言えた。
「おくう、よくやったな」
「あっ、お燐! すごいの! すごいんだよ!! ヒトがね、いっぱい来たんだよ!!」
「だろうな。ま、あたいとおくうが本気を出せばちょちょいとね」
「えっへー」
ソロライブ会場、ステージ裏。体力を使う一仕事を終え、足場の上で座り込んでいた空を労う。壮大な糸電話を使って流したのは最初の一曲だけ――多少迷惑を掛けているという自覚はあったからだ。それでも、その効果の大きさは目の前の光景が何よりも雄弁に物語っている。
隙間から覗き込んだ会場には、ステージ中目一杯に走り回って演奏を続けるリリカと、最初に見た時の何倍もの人数で埋め尽くされた客席。
「ね、ね! これならきっと」
「ああ……こんだけ集めりゃ、リリカの勝ちだろうね。確証はないけど、確信はある」
「どうちがうの?」
「あとで教えてやるよ。今はあたいも客になる」
「わたしも」
ステージの壁に背を預け、息を吐く。妖怪としての力をかなり使って、正直疲れていた。この特等席も、追加報酬として貰うつもりだ。
寄り添うように、空が隣に座る。温かい。
首だけ動かしてステージを見やると、丁度演奏が終わった。万雷の拍手に、手を振って応えるリリカが見えた。燐の感覚が確かなら、二日前のライブで聞いたよりも大きな拍手だ。
マイクを使わずとも、騒霊の力で拡張されたリリカの声が響く。
「えー、残念だけど次で最後の曲でーす!」
お決まりのように嘆きの声が会場を埋める。間違いなく本心であろうが。
「えへへ、ありがと! また次のライブまで、その気持ちをとっといてくれるとうれしいな!
で、最後の曲なんだけど……たった昨日生まれたばっかの新曲だよ!」
おおー、と会場全体がどよめく。
「昨日だって! ホントに生まれたてだね」
「だな……あたいらのトコに来る前に完成させたのかな」
空の言葉に頷く燐。自然と思い起こされる、あの夜。
(絶対に勝たせてやる、か)
思えばかなりの大見得を切ったが、それに応えることが出来ただろうか。少なくとも、作戦は成功した。
依頼人の期待に添えたのか――どれだけの自信を以てしても、その一点の不安を拭い去るのは難しい。
大きな壁を隔てた向こうで、リリカがスタンドマイクを設置しているのが見えた。
あー、あー、てすてす、と声が聞こえる。何故か心地良くて、燐は目を閉じる。
「思い切って歌っちゃうよ! ラストナンバー、『ミッシング・キャット』!!」
一気に目が覚めた。
「なんじゃとぉ!?」
「お燐?」
「あたいらタッグの名前、忘れたなんて言わないよな!?」
「あっ!!」
やり取りの終わりを待たずして、シンセサイザーで作っただろうサックスとエレクトーンの音色が、軽妙なテンポのロックを奏で出す。
ジャズとブルースとロックを足して割ったような、ひたすらにノリ重視の音運び。スネアドラムが跳ね回り、強いアクセントを添える。
空と一緒に必死になって覗き込むと、燐には理解の追いつかぬ指遣いでキーボードを操りながら、満面の笑みでリリカがマイクに顔を寄せるところだった。
『I am blazing cat.Nobody catch me.
I am shining crow.Nobody break me.』
「!?」
(英詞……だよな、これ……)
「う、うにゅ! おりんおりん、なんかわかんないけどカッコいい!」
幻想郷であっても、英語で歌っていけない道理はない。しかしあんまり唐突だったので、燐は呆然と聴き入るばかりだった。
『What is your request,in the today ?
We can do anything,A to Z.』
燐だって日本語を喋るのだから慣れている訳ではないが。幼い声質のせいか、発音に難がある――気がする。慣れない英語なのだから、簡単な言葉でしか組み立てられないのもまた分かる。
それでも、溌剌としたその歌声が少しずつ、客席で聴き受ける大勢と、背後にいる二人の心をぐいぐいと引っ張り上げる。
不意に湧いた手拍子が、ドラムを掻き消す程のビートを刻み始めるのに時間はかからなかった。
『Be lost child ? or missing cat ?
Maybe solve to accident ?
Okay,okay ! That's leave me everything ! 』
サビに近付いているのか、リリカがますます声を張り上げる。ハイタムとロータムが織り成す地響きのようなフィルに合わせリリカがゆっくり目を閉じ、目一杯の笑みを浮かべるのがはっきり見えた。
『Don't cry,BABY !! Don't worry !! We're stand by you.
Don't say LAZY !? Noway !! Just not serious still.』
手拍子が一際大きくなり、会場そのものが叫び出す。今すぐ客席に飛び込んで一緒に拳を振り上げたい衝動を、燐は必死で押さえた。きっと空も同じだろうから、彼女の腕を掴んでおいた。
(あいつより目立つなんて、あっちゃならんのよね)
『Call me anytime,if you have a trouble and sorrows.
Forget my name ? Okay,repeat after me loud……』
スポットライトを浴びるこの日の主役が、ぐっ、とタメを作って勿体ぶる。観客は、燐は、空は、心の中で急かした。
『We are the “Missing Cat” !!』
マイクに向けて叩き付けられた、自分達の呼び名。不思議な心地だった。
『Get back your pretty smile !!』
マイクに向けて叩き付けられた、自分達の信念。顔が熱くなった。
二度のシャウトに続き、キーボードソロ――だが、その音色。
エレキギターにトロンボーンのような響きを合わせた、猫の声。メロディアスで哀愁漂うフレーズを歌うそれは。
「お、お燐! これって」
「……言わなくたって分かるだろ?」
自分の声に合わせ、観客がますます興奮し、拳を振り上げる。そんな経験なんて、地獄でも出来やしない。空の質問にまともに答えられず、誤魔化しながら燐は目頭を押さえ、俯いた。
ジャズやブルースの類ならソロフレーズはサックスと相場が決まっていそうなものでもあるが、不可思議に力強い響きがそんな概念を吹き飛ばしつつある。この曲において、これ以上似合う楽器はない。
音色が変わった。一際高くピーキーな電子音。楽器に無理矢理例えるなら、テナーサックスから限界まで音を高くしたエレクトーンに変えたような。
「うにゅ……わたし、の」
今度は空が顔を伏せる番だった。感極まったのか、ぐすぐす、と鼻を啜る音が聞こえる。
「二人揃ってMissing Catか。リリカのやつめ」
「粋なコトするわね」
「う、うぅ。リリカぁ……ぐす」
「んー、いいハナシじゃない。こういうの、私も好きだな」
「これでハッキリしちまったな。この曲、リリカが一晩で作ったんだ。あたいらと約束した帰りにな」
「わたしたちのために?」
「それ以外ないでしょう。あの子なりの、精一杯のお礼ね」
「実際いい曲だしね。歌詞も相当頑張って作ったみたいだし、面と向かってお礼言えない、その代わりかな?」
「ったく、リリカめ。全部終わったら、褒め殺してやる……なぁ、ところでおくう」
「わたしもなんだけど、お燐」
『さっきから、誰と話してんだ(の)?』
二人はコントじみた動きで一斉に顔を上げた。揃って左を見、右を見て、見つける。
いつの間にかそこにあった、新たな二つの人影。
「ホント、面白い二人組ね」
「歩く人情活劇って感じ?」
黒と白の楽団服が並び立って、方や呆れ、方や楽しげな笑みで二人を見ていた。
燐の脳内物質がフル稼働し、大慌てで試算を開始する。目の前の二人を丸め込み、誤魔化す算段。
だがそれは非常に厳しいことを、黒い方――ルナサから否応なく突き付けられる。
「先日はどうもありがとう、私のライブに来てくれて。しかも妹のライブを盛り上げてくれるなんてね」
「んー、すっごい数。こりゃあリリカも張り切るよねぇ」
ステージの隙間から客席を覗き、白い方――メルランがまた笑う。
「な、なんのコトだ。あたいらはただの客さ」
「そ、そーだよぉ。ちょっとこっそり、近くできいてみたくなって」
空が援護するが、効果は薄めのようで。ルナサは苦笑いしながら、ポケットを探る。
「あの子は隠し事が昔から下手なのよ。リビングにこんなのを放置してくくせに、夜中に帰ってくる時はわざわざダクトから入ってくるし」
「そこが可愛いと思うんだけどねー」
彼女の手にあったもの――『ハッキングから夜のおかずまで!』の文言が躍る、燐お手製の何でも屋宣伝チラシ。
ちら、と横を見る。空の縋るような視線。奥歯を噛んで、燐は言葉を捻り出した。
「ま、待て待て。あたいらは別にリリカに一枚噛んでるワケじゃないぞ。そんな偶然でリリカが不正扱いになっちゃ、たまらんだろ」
「そうは言うけど、さっきから聴く限り……この歌、あなた達のコトにしか聞こえなくて」
「さっき自分の声って言ってたしねー」
「そ、それはただ知り合いってだけでな」
その時であった。間奏が途切れ、ベースとバスドラムのみのシンプルな繋ぎに切り替わる。時折リムショットとタムがアクセントのように鳴る中で、リリカの声が響き渡った。
『えっとぉ……こ、この曲は、今回のライブのためにすごく、すごく頑張ってくれた……私の大事な、二人の友達のコトを歌ってます!』
んが、と燐の顔が硬直した。
『ちょっとおトボケだけど、すごくカッコよくて、優しくて……二人がいなかったらきっと、きっと、わ、わたしは……こんなに素敵なライブには出来なかった、と、おも……っ』
くぐもった嗚咽が混じる。客席からいくつものリリカコール。袖で涙を拭い、精一杯の笑みで顔を上げるリリカの姿が、ステージ裏の四人の脳裏に、あまりにも自然に過ぎるのであった。
「……泣き虫リリカめ……」
「燃えるネコと輝くカラス。リリカはホントの本気で、二人が好きなんだね」
「こんな大がかりな装置まで作ってもらって、あの子は幸せ者よ」
ふぅー、と夜空に向かって白い吐息を吐く。メルランの言葉はある種のフォローのつもりだろうか。
詰めを誤った。横の空とステージのリリカに向け、燐は片手を挙げて謝罪した。
・
・
・
・
・
ルナサ、六百六十七人。
メルラン、六百四十三人。
リリカ、千飛んで二十一人。
結果だけ見ればぶっちぎりでこのソロライブ対決を制したリリカは今、その大きな目いっぱいに涙を溜めながら、姉の前で一時間に渡る正座を続けている。
もう、日付も変わろうかという時間帯だ。
「……あなたの執念や、結果に結びつけようとする努力は認めるわ。それは本当の気持ち。
だけど、だからと言ってルールを破っていいコトにはならない。あなたの気持ちも鑑みてはいるけれど、それは正々堂々とやった上で初めて言えることなのであって……」
ルナサの声はあくまで静か。だがそれが逆に、研ぎ澄まされた真剣のような切れ味でリリカの心を抉り続けている。
耐え切れず、隣で無理矢理正座に参加していた燐は手を挙げた。
「なあ、そろそろ勘弁してやってくれないか。その、ルールに反すると知っていて荷担したのはあたいらだし……」
「そも、ルールに反すると知っていて依頼したのはリリカよ」
ぐ、と唸る。理詰めでは勝てそうにない。
「無理しない方がいいわよ」
表情を緩めたルナサが声を掛けたのは空だ。燐の隣で同じく正座に参加していたが、もう足が限界なのか全身がぐらぐら動いている。
「う、にゅう。だいじょぶ」
「大丈夫には見えないんだけれど……別にあなた達を責めるつもりはないし」
「そうは言うがな。請け負った以上その先に起こり得るアレコレにもちゃんと責任を持たないと、何でも屋としても名折れでね……」
燐が口を挟むと、彼女は少し困った顔をした。
「うーん……でも、この子がねぇ」
「つか、アレだ。何で二人はあたいらのコト分かったんだ? チラシだけじゃ確信持てないと思うんだけどさ」
多少、説教の矛先を逸らすつもりもあった質問に、ルナサは頬に手を当てつつ思案顔で答えた。
「んー……それは、一応私達は騒霊だから、音には敏感で。
あなた達が具体的にどんな手を使ったかは分からないけれど、リリカのライブ一曲目の時に、里の方でいくつも大規模な音の共鳴があって……」
「あ、なんかしたんだなーって。ステージの真裏にも、音が集まるような反応があったから、マイクでもあるのかなって」
成り行きを見守っていたメルランが補足する。燐は内心で舌を出した。要するに、ライブが始まった時点で二人にはバレていたのだ。
「理解しました、っと。リリカは……その、確かにルールとしては違反だったかも知れないけどさ。あたいらは別に、依頼だからやったってだけじゃないのさ」
「?」
「リリカの演奏、本当に素敵だったよ。多くの人の耳に届けなきゃ、勿体ないだろ。勝手にそう思ったから、こんな作戦を立てたワケでもあってね」
「そーだよ! お燐、言ってたもん! リリカの演奏なら、耳にさえ届けばみんな聴きに来てくれるって! ホントだったじゃん!」
空が興奮した様子でまくし立てると、ルナサは燐と空、それから半ベソで俯くリリカの顔を順番に見て、宙を仰ぐ。
「……どうしたものか。リリカったら、相当強力な助っ人を呼んできたわね」
「もういいじゃん、姉さん」
と、不意にメルランが割って入った。ソファの背もたれに腰を下ろし、相変わらずの笑顔で一同の視線を集め、彼女は続ける。
「姉さん的には、自力でお客さんを集めなきゃいけないところに、他の誰かの力で呼んでもらったのがよろしくないと。
じゃあ訊くけど、二人はなんでリリカに協力したの? 誰かの差し金?」
質問の意図が読めなかったが、燐は一瞬の思案の後でごくごく素直に答えた。
「それは……リリカからの依頼だからってのもあるし、演奏を聴いてもっと広めたいってのもあるし。
何にせよ、相手がリリカだから、だろうな。あたいらの意志さ」
空も隣で頷いている。メルランは満足そうに頷いて、ぱっと顔を華やげた。
「じゃ、決まり。リリカは、何百人ものお客さんに匹敵するような、最高に素敵な友達を二人も連れてきましたー、っと。
これじゃあ、リリカの勝ちを認めざるを得ないんじゃない?」
燐は、真夜中なのに急に日が射したように錯覚していた。明るさに目が慣れた辺りで、毒気を抜かれたような顔でルナサが頬を掻く。
「え、あー……」
「だってホラ。いくら依頼でもさ、ここまで大掛かりでド派手な作戦を立てて、里中を巻き込んでまでリリカのために頑張ってくれるような二人だよ?
お客さんに優劣を付けるつもりなんかないけどさ、私は認めたくなっちゃうな。二人とリリカのコト」
現に結果も出てるしね、とメルランは何度目か分からない笑みの上塗り。リリカが少し顔を上げたのが見えた。
「……」
「あなたは……メルランはそれでいいの? そうしたら、負けるのはあなたってコトになるけど」
ルナサが念の為と言いたげに尋ねる。本気で問うているような声色に聞こえないのは――
「私はもう負けを認めてるよ、姉さんにもリリカにも。罰ゲームだって、別に料理は好きだしねー」
――この答えが返ってくることが、分かり切っていたからなのだろう。彼女達は何百年の時を共にした姉妹なのだ。
「異論、もうない? なら、今回の勝者はリリカってコトで! おめでとー!」
ぱちぱちと手を叩く音。燐もそれに倣った。異論などあろう筈もない。
「ほれリリカ、いつまでも泣いてないで。お前さん、勝ったんだぞ」
燐が背中を叩くと、リリカは潤んだ目のままで一同を見渡し、また少し俯き加減。燐にはすぐに分かった。空にも似たような所があるからだ。
(頼むよ)
ルナサに目配せ。彼女は一瞬だけ考えてから気付いたようで、リリカの前に座って目線を合わせる。
「ごめんなさい。なんだかんだ言って、あなたが演奏で沢山の人を惹き付けたのは紛れもない事実なのにね。嫉妬してたのかも。
だからもう泣かないで、胸を張っていいのよ」
頭を撫でながら優しく語りかける。するとリリカの泣き顔はみるみる引っ込んで、久方ぶりの笑みが戻った。
「……そっかぁ。いいの、私の勝ちで」
「何度も言わせないの」
「おめでとー、リリカ! やったね!」
「あわわわわわ」
空がリリカの肩を掴み、嬉しそうに揺さぶる。そのまま立て膝を着こうとした彼女だが、
「よかったよかっ……が、あ、あしが……きゃっ!」
「ふぎゃー!」
――足が痺れて、リリカを押し潰しながら倒れ込んだ。
「大丈夫か、ほれ」
「うにゅう、ごめんねリリカ」
「か、勝ったのに罰ゲームとは……」
引っ張り起こされたリリカの『メル姉さんよりおっきいかも……』という呟きは、多分燐にしか聞こえなかっただろう。
笑い声の巻き起こる中で、燐は満足げに息をつきながら立ち上がった。
「んじゃま、あたいらはここらで……長居も悪いしね」
「え、あ……お、お燐」
「ん?」
不意にリリカが呼び止める。彼女はどこか焦っているようにも見えた。
「んと……ほら、その。依頼のさ、報酬? それ、まだ払ってないから……ちょっと待ってて、今」
待つように手で示しながら自らも立ち上がるリリカだが、燐はゆっくりと首を横に振る。
「あ、また?」
空の呟きは聞こえない振りをした。
「おっとリリカよ。申し訳ないがそいつは受け取れんな」
「え、なんで」
面食らった表情。燐だって貰えるなら貰いたいが、二重三重にそうはいかない理由が出来てしまった。
「端的に言えば、依頼をきちんとこなせなかったからね。見つかっちまったし、リリカもこの通り怒られて泣いちまってまあ」
「うるさぁい!! ……で、でも。私、勝ったんだし、当初の目的はさ」
食い下がるリリカを見て、燐は少しだけ思いを巡らせた。
詰めを誤り最後の最後で失敗した以上、そのまま報酬を受け取るのはどうにも納得がいかない。彼女なりのプライドもある。
加えて、ライブの最中にリリカが放ったあの言葉。
(大事な友達、ね……)
嬉しかった。が、そうなれば今度は金を取ることに抵抗が出来てしまう。依頼の報酬なのだから受け取った所で燐に落ち度はまったくない。が、それだけでは計れない心理的な事情があるのだ。
前回の依頼から、何も変わらぬ葛藤。そんな折、ふっと思い付く妙案。自然と口が開いた。
「じゃあこうしよう。報酬の一部を貰うってコトで」
折衷案に、リリカは頷きポケットに手を入れる。余り厚みのない封筒が見えかけたその時、改めて燐は彼女を手で制した。
「おーっと待った! これ以上追加で貰っちまったら流石に悪いよ」
「……つ、追加? え?」
訳が分からないと言いたげな彼女の真似をするように、燐はポケットに手を入れた。
「自分で言ったんじゃないか。既にきっちり報酬は貰ってるよ」
引き抜いた燐の手にあったもの――リリカの大好物、コーヒーキャンディ。包みを破いて、口に放り込む。
「あ……」
「欲しい? 残念だが報酬の前払いだからね、依頼人からの」
呆然とするリリカに、悪戯っぽく笑ってみせた。
「じゃあわたしがあげるね、はい!」
空が同じくスカートのポケットに入れていたキャンディを一つ、リリカへと差し出す。二拍程の間を置き、彼女はそれを受け取って夢中で封を切り、口へ押し込む。
「おいしい?」
「……うん……!」
「ま、そういうコトで。ご依頼頂きまして、誠に有り難うございました……とね」
(味、分かるのかな?)
ぐすぐすと鼻を啜りながら必死に味わうリリカを見ていると、自然と口元が緩む。きっと大人になっても泣き虫のままなのだろう。そうでいて欲しい気もした。
「んじゃ、今度こそ……」
「おじゃましました!」
「おくう、足はもう大丈夫か」
「へーきへーき、ちょっと眠いけど」
身体を解すように腕、足を伸ばす。柱時計は既に夜中の一時を指している。依頼人の前だから頑張ってはいるが、空も流石に眠そうだ。
「……はい、コレ。気をつけてね」
いつの間にか姿を消していたルナサが、燐が外で着ていたコートを持って現れた。
「おっと、これはどうも。それじゃ音楽家の皆様、また何かあれば是非我ら『Missing Cat』を頼っておくれ」
「なんでもするからね!」
「ありがとう、お世話になりました! ほら、リリカ」
メルランに促され、どうやら必死に泣くのを堪えていたらしいリリカが一歩前に出る。
「……お燐、お空。そのさ、またライブやる時には……来てくれる?」
少し涙の残る上目遣いで尋ねられ、燐は少し顔を赤くした。
「……行かないって言ったらまた泣いちまうだろ、お前さん。絶対に行くから心配するなって」
「何も言われなくたって行くって! リリカはすごいんだから、もっと自信もたなきゃ!」
「そーだな、依頼でもいいし、お客さんの頭数でもいい。今更水くさいコト言うなよ、リリカ」
皮肉で押し通そうとして、途中でやめた。最後にもう一回、リリカの得意気な顔が見たかった。
恥ずかしげに、それから徐々に広がっていく嬉しそうな顔。
「……ありがと!」
金銭的な稼ぎはなくとも、その一言が何よりの報酬だった。
(いやー、今日もバッチリ決まっちゃった)
月明かりに照らされた湖のほとり。すぐ飛んでも帰っても良かったが、依頼達成の余韻が残る内はのんびりと歩きながらそれを噛み締めたかった。
「おりんおりん、カッコよかったよ!」
「にゃははは。今度こそ依頼達成で報酬を貰えるかと思ったけどね、色々あったからさ。
素敵なライブを特等席で聴けたし、テーマ曲まで作って貰っちゃったし……この上お金まで貰うのは、ちょいとね」
仕事人としては失格なのかも知れないが、燐に後悔はなかった。カッコいいと言ってくれる空も、自分と同じ気持ちだと分かったのがまた有り難くもある。
「でもま、さとり様にお手伝いして頂いた手前、手ぶらじゃ帰れないな」
「どうするの?」
「んー、まあ前回と同じだな。どこかでアルバイトでもして、その給料を代わりに……」
びゅう、と不意な突風。冬の夜中に吹く風は冷たく、いかに彼女らが地獄の妖怪でも骨身に凍みる。
「うにゅ」
「寒いか。ごめんな、続きは後にしてそろそろ」
帰るか――と続けるつもりだった燐が、手を暖める目的で手を突っ込んだコートのポケット。
何年も使ってる筈のそれが、覚えのない感触を彼女の手へと返した。
「……なんだコレ、こんなもん入れた覚えなんか」
「なにそれ?」
そっと引きずり出してみると、多少の厚みがある白い封筒。フラッシュバックする、プリズムリバー邸での光景――。
弾かれたように、燐は封筒を開いた。厚みの正体である紙幣の束の一番上に、折り畳まれた便箋。
このコートは燐のものだ。封筒のことは燐は無論、空も知らない。
他に、これに触ったのは?
その答えは今、燐が開いた手紙の中にあった。月明かりに文字が浮かぶ。
『本当にありがとうございました。カッコつけもお仕事の内なお二人に、私達からのほんの気持ちです。
もし良かったらこれからも、リリカと仲良くしてあげて下さい。
月の女神より』
「――やられたァァァァ!!!」
「お燐!? どうしたの!?」
「ぐあああああああ……か、かかか、カッコわりィぃぃ……」
「おりぃぃぃぃん!!」
燐には今、分かったのだ。
何故リリカへ報酬を突き返している最中、ルナサが姿を消していたのか。
何故別れの最中、ルナサが笑いを堪えるような顔をしていたのか。
(うああああああ……なんにもキマってない……)
リリカから報酬を殆ど受け取らなかった、二重三重の理由。
仕事の詰めを誤ったこと。
友達からお金を取ることへの心理的抵抗。
――そして何より、それがカッコいいと思ったから。
最大の理由を完全にひっくり返されてしまった今、燐はその場に崩れ落ちることしか出来なかった。
糸電話大作戦。そして自身のカッコ付け美学。全て、全て、あの『月の女神』にはお見通しだったのだ。恐らくは、もう一人にも。
「お燐、しっかりしてぇ! おりーん!」
「あ、あたい……もう、リリカに会いに行けないよォ……」
真夜中、月光の道筋がスポットライトのように二人を照らす。
それはさながら失意のブレイジングキャットに、月の女神の優しい眼差しが注ぎ続けるかのようであった。
・
・
・
・
・
・
・
朝食に山のようなウインナーが出て来た。それだけで、自分達の仕事に確かな意味があったのだと、燐は強く実感出来る。
――今回の場合は、些か皮肉のようでもあったが。『月の女神』が脳裏でニヤリと笑う。
「うにゅ、おなかいっぱい」
「何本食ったよ、おくう」
(ウインナーの究極の調理法は焼くか、茹でるか……うーむ)
空はこいしとウインナー大食い競争を朝から展開し、まるまるした腹を撫でながら流石に苦しそうだ。あんまりばりぼりと美味しそうな音を立てるものだから、燐も少し食べ過ぎた。
身重な二人は、何でも屋のオフィスへと向かう。
「そうそう、お燐。今度また、プリズムリバー楽団のライブがあるんだってさ」
「へぇー、ソロライブ対決がつい先日なのに、もうか。精力的だね」
自分達も行かねばなるまい。親友の晴れ舞台の一つだ。考えながら廊下の角を曲がると――
「……おや。噂をすれば」
「あっ、リリカー! おはよー!」
オフィスのドアの前に、依頼人第二号の姿有り。こちらに気付き、嬉しそうに駆け寄ってくる。
「おはよ、二人とも! こないだはホントにありがとね。今日はさ、ちょっとしたお礼を持ってきたんだ」
「え、なになに!?」
「そいつは嬉しいな。とりあえず入りなよ」
三人連れ立ってオフィスへ。からから音を立てる掛け看板。
コーヒーを淹れた燐がソファへ戻り、リリカと向き合ったところで相手が切り出した。
「ふふーん、すっごいんだから。じゃーん!」
リリカが抱えていた鞄から出したのは、水晶のように透き通った透明な円盤。直径は二十センチ程度、中央には指が入るくらいの穴が開いている。
「お、綺麗だね。何に使うんだい?」
「かざるの?」
「ソーサーに……じゃなくて。
こいつは名付けて、『超音楽ダイジェスト円盤』! 略してCDだよ。
河童の友達に作ってもらった、こっちのキカイに入れるとね……」
正確に略するならCDD――とは誰も言わず、リリカがもう一つ取り出した、箱にスピーカーをくっつけたような装置に件の透明円盤を入れるところを眺める。
「で、スイッチを押すと……」
彼女は得意気にニヤニヤ笑いながらスイッチオン。するとどうだ、部屋中に響き渡るサックスとエレクトーンのブルースロック。聴き紛う筈もなかった。
「おいおい、こりゃすごいな。あの夜を思い出すね」
「うにゅー、すごい! どうやってんの?」
「へへへー。あの円盤は、演奏した音楽を騒霊の力であのカタチに固めたモノなの。それを再生出来る機械を作ってもらったんだー。
これ、二人にあげる! また円盤ができたらもってくるね」
「ありがとう、なんかもう報酬と言うには過剰だな」
「いらない?」
「まさか。もう泣いたって返さないぞ」
素早く装置を手元に引き寄せる燐。二人が声を揃えて笑った。
「今度のライブでもさ、この曲……『ミッシング・キャット』、やるんだ。姉さんにサックス吹いてもらったりして、もっともっと豪華にするの!」
「歌うのはルナサか?」
試しに訊いてみると、リリカは心外そうに頬を膨らませた。
「私に決まってるじゃん!」
「はは、分かってたよ。悪かった悪かった」
「ならいいけどさ。だから、絶対聴きに来てね。お燐とお空には、一番いい席取っとくからさ。
あとチケット多めに置いてくから、他にもいっぱい連れてきてよ!」
勿論だと頷いて、燐はチケットの束を受け取った。
何度も来るように念押しして帰って行ったリリカを見送った後で、もう一度装置を動かす。力強いテナーサックスの音色と、元気なソプラノボイスが歌う自分達のテーマ曲。
「なんだか、うれしいね。お燐」
「……だな。照れくさいけど」
「でもこれ、どういう意味なの? 英語なんだよね」
「あたいも詳しくはないけどさ、じっくり教えてやるよ。歌は、メッセージは、届いてこそ意味があるからね」
耳を傾けると、曲は今まさに一番盛り上がる部分に差し掛かっている。
リリカとデュエットしたくなって、そっと口ずさんでみた。
『Don't cry,BABY !! Don't worry!! We're stand by you.(泣くなって! 心配ないさ、あたいらがついてるだろ?)
Don't say LAZY !? Noway!! Just not serious still.(だらけてるって? 違う違う、まだ本気じゃないだけさ)』
そんな事より待っておりましたよ、このシリーズ。
いやぁ安定の面白さだと感じました。
いつものようにカッコつけるがイマイチ決まらないでも一生懸命なお燐とマイペース可愛いヤッター!なお空。そして背伸びしたいリリカの奏でた友情の音色が脳内に浮かび上がってきました。
次回作も楽しみに全裸待機しておりますからして。
…ところでこのMissing Catって曲何か元ネタって有るのかな。
だが、茹でて油分を程よく落とした物もまた良し マヨネーズを少し付け焼いた時とは違ったプツリという噛み応えがまた旨し。
夏を感じさせる描写と言うのはまあ色々あると思うのですが、
特にこれは、と言うなら「郷愁」だと思います
郷愁と言えば子供・青春時代、その時代と言えば遊び、遊びといえば…「夏」休みですね
だから夏=郷愁なのかもしれません
慧音の辺りのシーンは、それ強くを感じ取る事ができました
幻想郷の音楽らしさ、プリズムリバーらしさが出ていたと思います
お姉さん風を吹かせるお燐と無邪気なお空というペアも原点にして頂点という感じ(?)で素晴らしいですっ!
どこかの月の女神様GJw