春が終わりを迎えようとしている。桜の花はとうに散り、季節は六月。そろそろ夏独特の少し意地悪な熱気が歩みを進めてくる頃だろう。
「いやあ、いつもいつもありがとうございます」
その花の苗を受け取り、紅魔館門番、紅美鈴はほくほく顔で笑顔を見せた。
「カンナの花を所望だなんて、なかなか乙な趣味ね」
その花の苗の主、風見幽香は、感情の読み取り辛い独特な笑みを返した。カンナの花。仏陀が悪魔から攻撃を受け、その血を吸って開花したと言われる真紅の花である。
「まあ、赤けりゃなんでもいいんですけどね」
「あら、それは挑発かしら?」
「いえいえ滅相も無い」
僅かに目を細める幽香の態度に、美鈴はパタパタと手を振って弁解する。尤もそれくらいの冗談で怒る幽香ではないのだが。
幽香と美鈴の親交は、そこまで深くは無い。友人関係というよりは契約関係に近い。幽香は種や球根、花の苗を譲る代わりに、紅魔館の周りの湖の水を彼女から運んできてもらっているのだ。澄み切った湖の水は、花には最高のご馳走だ。
「そういえば、花の種を分けてもらい始めてからそろそろ1年が経ちますね」
幽香の背後に並ぶそれを見て、美鈴は感慨深げに呟いた。幽香の背後に聳え立つそれは、もうじき旬を迎えようとしている向日葵だった。もう少し待てばさぞかし見事な向日葵の絨毯を空から拝むことが出来るだろう。
「向日葵だけはすごく沢山育ててますよね。何か思い入れでもあるんですか?」
ふと気になったのか、美鈴はそんな疑問を投げかける。風見幽香は花の妖怪。春になれば春、夏になれば夏の花を求めて移動する。幻想郷にも様々な花は咲くが、その中でも際立って目立つのは、夏の時期に姿を現す広大な向日葵畑だ。故に幽香が夏の妖怪と勘違いしている者もいるらしい。
「……元気があるのよ、この子達はね」
幽香は笑って見せた。しかしその表情は、どこか物憂げな空気を漂わせていた。
「……幽香さん?」
「なんでも無いわ。ちょっと昔を思い出しただけ」
そう、これは何でも無い。昔と呼ぶにはあまりに最近な話。
「昔話、ですか?」
「聞きたい?」
美鈴は目を丸くする。あまり他人と積極的に触れ合うことを好まない幽香が、進んで自分の話をしようと言うのだ。驚いたが、それ以上に興味をそそられた。美鈴は幽香とは違い、どちらかと言えば温厚な妖怪だ。だからこそ、風見幽香という妖怪を知りたい。そんな小さな欲が彼女に走った。
「気を悪くしないのなら」
正直に、美鈴は答える。その正直さは、幽香の嫌いとするところではない。だから幽香は久しぶりに、自然に頬を緩ませた。
「ここにある向日葵畑だけど、最初はこんなに沢山咲いてなかったの。沢山咲いちゃったのは、あの花の異変が原因」
「ああ、60年に一度のなんちゃらってやつですね? 咲夜さんから聞きました」
幻想郷中にあらゆる花が咲き乱れた異変。それも去年の話だ。
「これはその異変が起きた、ほんのちょっとだけ後の話……」
~6月29日 あいつと出会った~
「……」
風見幽香は戸惑っていた。ありとあらゆる花が咲き乱れるあの異変から早二ヶ月近く。異変の原因はもう分かっているから、それ自体はどうでもよかった。むしろ多くの花を一度に楽しめるこの異変に感謝すらしていたが……幽香が未だ満開の向日葵畑で目にしたそれは、幽香が生まれて初めて目にするものだった。
「……」
まず第一に、それが花かどうかで戸惑った。いや、花なのは分かった。しかしその姿はあまりにも異様だった。直径1メートルを超えるそれは、カーマインを基調とした毒々しい斑模様の花弁を五枚携え、その巨大な花弁の中央は、まるで人を喰らう口のような穴を開けていた。しかし、一番特執すべきはそこではない。
「……すごい臭さね」
恐ろしい程に臭かったのだ。数週間、いや数ヶ月間放置した便所、あるいは封印を解いた生ごみの袋のような異臭を、その花は放っていた。おかげで向日葵畑には蝶や蜂だけではなく、蝿まで元気に飛びまわっている。
「出会い頭に臭いとは、随分な挨拶だ」
「?」
声がした。壮年の、妙に渋み掛かった男の声だ。幽香は辺りを見回す。そこに人影は無い。幽香は認めたく無かったのだ。目の前で起こった現実に。
「どこを見ている。俺だ俺」
間違い無かった。言葉を発したのは、目の前のゾンビみたいな花だったのだ。
「驚いたわ。貴方……喋れるの?」
「お前さんが花の言葉を理解できる事のほうが驚きだがな、俺としては」
その花は幽香の質問に無骨に返答する。花の妖怪である幽香は、花の考えていることは大方理解出来る。しかし花とは本来単純な生物だ。水が欲しい、太陽がほしい、肥料が欲しい、害虫が邪魔だ。その程度の必要最低限な思考しか持ち合わせていない。だからこそ彼女は驚いた。これ程までにはっきりと会話を成立させる花が存在するとは、思いもしなかったのだ。
「見るのは初めてだけど、外の世界の噂で聞いたことがあったわね。世界で最も大きな花。確か……ラフレシアだったかしら?」
「正確にはラフレシア・アーノルディだ。尤も、人間が勝手に付けた名前だが」
その花、ラフレシアは興味の無い様子で返事をする。しかし幽香は逆だ。これ程の発見は、今までに無かったのだから。
「どんな偶然かは知らないけれど、まさか幻想郷で貴方みたいな大きな花に出会えるなんてね。今日は運がいいわ」
「へえ、そいつは結構なことだ」
幽香は心躍った。見た目と臭いは気になるものの、これほどに立派な花だ。是非とも自分の力にしたいと思った。これほど生命力に溢れた花の力さえあれば、どんな弾幕勝負にも勝つことが出来るだろう。花を荒らす無法な輩をより確実に始末出来る。そんな自分を退治しようとする輩を返り討ちにすることも容易だろう。
「貴方も喜びなさいよ。これからは私が、貴方の主人になってあげるわ」
「は?」
ラフレシアの反応は実に乾いたものだった。
「貴方の立派で大きな花弁……その力を思う存分使ってあげる。勿論、私の能力があれば貴方をより大きく、強い花にすることだって出来る。いい条件だと思わない?」
「……何を寝惚けたこと言ってるんだこの嬢ちゃんは」
「な……!?」
ラフレシアは問題外と言った様子で幽香の勧誘を跳ね除けた。驚いたのは幽香の方だ。生まれて初めて、花に無視されたのだから。
「わ、私はフラワーマスター……全ての花の頂点に立つ妖怪なのよ?」
「へえ、そいつは初耳だ」
「んぐぐ……っ!」
花は自分の下僕と思っていた。花は自分の手足だと思っていた。従わない花なんて、考えたことも無かった。だからこそ幽香は、取り乱した。
「わ、私に従うのが花にとって一番幸せなことなのよ! だから大人しく私の傘下に入りなさい!」
「思い上がるな小娘」
「ぐぬぅ!?」
これはもはや無視ではなく、明らかな拒絶だった。ラフレシアの怒気が篭ったその言葉よりも、幽香はその事実に次の言葉を出せなくなる。
「俺はお前さんの道具じゃない。水を吸えば呼吸もするし、死にもする命だ。それ以上俺を玩具みたいに扱ってみろ。もっと蝿を集めてやる」
屈辱だった。妖怪の中でもかなりの強者と言われる風見幽香。彼女が生まれて初めて味わう屈辱だった。自分が信じて疑わない花に拒絶されるどころか、あまつさえ小娘と一蹴されたのだから。
「ふ……ふふ」
しかし、それはもう一つの感情の芽生えだった。
「ますます気に入ったわ」
「なんだって?」
その拒絶は、幽香の心を刺激したのだ。
「絶対に私のモノのしてやる」
「話を聞いてなかったのか? 俺は――」
「ええ聞いてたわ。貴方のような誇り高い花……なおさら諦めるわけにはいかないわね」
幽香は悪魔のような薄笑みを自分が浮かべていることに気付いていなかった。それほどまでに、生まれて初めて自分を拒んだこの花に惹かれたのだ。この花さえモノに出来れば怖いものなど何も無い。そうとさえ思えた。
「……好きにしろ」
ラフレシアは呆れた様子である。そのうち飽きるだろうと思ったのか、幽香に対しそれ以上の言葉は無かった。
「覚えておきなさい。私の名前は風見幽香……貴方の主になる妖怪よ」
「だから玩具にはならないと言っただろう」
「玩具じゃない。優秀な部下よ」
「同じことだ」
「貴方のことはラフレシア……いや、アーノルディと呼んだほうがいいかしら?」
「好きに呼べ。名前など無意味に等しい」
「じゃあ臭い花」
「お前がそう呼びたいならそう呼べばいい」
「ちょっとはつっこみなさいよ」
「動かないから花なんだ」
こうして、ラフレシア・アーノルディへの勧誘生活が始まったのだった。
「へえ、喋る花なんてあったんですねえ。私もそのアーノルディさんとお話してみたいです」
生まれて初めて聞く喋る花の話題に、美鈴は目を輝かせるが、
「それはたぶん無理ね。花の波長が読み取れる私じゃないと、多分あいつの声を聞くことは出来ないわ」
「なーんだ、残念」
首を振る幽香の言葉に、がっくりと肩を落とした。
「それにしても幽香さんに懐かないなんて、中々肝が据わった花もいるものですねえ」
「肝は無いけどね」
「物の喩えですよ。てっきり幽香さんなら容赦無くそのアーノルディさんを灰にでもしそうなものだなと思っていたんですが」
「失礼ね。私が花を焼くなんて、巫女の神社に参拝客が押し寄せるくらい有り得ない話よ」
「そりゃまた酷い喩えですね」
たははと苦笑する美鈴に、幽香は小さく溜息を吐いた。
「で、アーノルディさんは幽香さんに懐いてくれたんですか?」
「まあ、そう上手くいくものでは無かったのよね……」
~6月30日 あいつと喧嘩した~
「また来たわよ」
「やれやれ……本気で俺を飼うつもりか」
「飼うじゃない、しつけるのよ」
「言ってろ」
翌日、幽香は再びアーノルディの元へと足を運んでいた。目立つはずの向日葵畑に咲くアーノルディは、向日葵達より目立っていた。
「物好きな奴もいるもんだ。俺みたいな臭いのに近付くなんて、蝿くらいしかいないってのに」
「ええ、お陰で昨日の晩御飯の味がよく分からなかったわ」
「本当に物好きな奴だ」
天気は晴れ、昨晩降った雨のお陰か、気温の高さと相まって、アーノルディの臭さをより引き立たせている。開いた日傘の下、その臭気は更に幽香に強く纏わり付いているように感じられた。
「本当に私の下に就く気はないの?」
「それは昨日言っただろう」
同じ問答を繰り返すつもりか。アーノルディの語気には少しばかりの不快感が混じっているように思えた。
「時間をかけてる暇が無いから言ってるのよ。私と貴方には、長々と交渉をするだけの時間が無いから」
「む……」
幽香の言葉に、アーノルディは言葉を濁す。
「すぐ枯れちゃうんでしょ? 貴方」
「わざわざ勉強してきたのか? 本当に物好きな奴だ」
目に若干隈を作っている幽香に気付き、アーノルディは益々呆れたように声を漏らす。幻想郷に咲く花のことは詳しいが、流石に外の世界の花については専門外だった幽香は、昨日アーノルディと別れた直後に、外の世界に関する文献を漁っていたのだ。
「早くて明日。長くても明後日かその次の日……それが、貴方の寿命」
「二年近く青二才を過ごしてたんだ。十分な大往生だ」
ラフレシアは生まれて二年の間は花を咲かすことは無い。そして花を咲かせてから枯れるまでの日数は、約三日。それ故に花を見ることが出来るのは稀である。幽香が調べた文献にはそう書いてあった。
「私なら、貴方の寿命を延ばしてあげることが出来る」
「何だって?」
幽香のその言葉に、アーノルディは無い耳を傾ける。
「言ったはずよ? 私は四季のフラワーマスター。私に操れない花は無い。私の強い妖力があれば、貴方を一週間だって十年間だって長生きさせてあげられるわ」
「……」
「見ず知らずの世界に急に流れ着いて、そのまま朽ち果てていくなんて嫌でしょう? だから私と――」
ペキッ
「……!」
その時、幽香の背後で茎の折られる音がした。その音に、幽香は肩をピクリと反応させる。
「……丁度いいわね」
幽香の背後にいるそれは、ぺキ、ミシっとさらに小さな花達を押し潰し歩み寄る。それは口から涎を垂らし、剥きだした歯茎にはナイフのように鋭い牙、四足にも刃物のように鋭い爪が生えていた。幽香は肩に乗せた日傘を下げ、それを畳んだ。
「私の力を見せてあげる……」
グルグルと野蛮なうなり声をあげ、人間の大人の大きさよりも一回りは大きい毛むくじゃらのそれは跳躍した。幽香の背丈よりも更に高く飛び上がったそれは、幽香の首筋に喰らい付こうと襲い掛かった。だが、それは気付いていなかったのだ。アーノルディの腐臭に覆い隠された強豪妖怪、風見幽香の匂いに。
「野良妖怪風情が……!」
振り返り様に、幽香は日傘でその野良妖怪を薙ぎ倒した。顔面に日傘を直撃したそれはギャンッと悲鳴を上げ、草原に腹を打ち転がった。
「行け! 向日葵達!」
しかしそれだけで許す幽香ではなかった。普段は自分を恐れて近寄りすらしない下等妖怪が、間違ったとはいえ幽香に牙を剥いた。その不快感は、ただ返り討ちにするというだけで晴れるものではなかったのだ。
傘を倒れた妖怪に向けるやいなや、周囲の向日葵達が一気に牙を剥く。向日葵達はその茎を手足のように伸ばし、一瞬のうちにその妖怪を捕獲した。締め上げられたその妖怪は声すら出せない。その強靭な顎すら伸びた茎で締め付けられていたのだから。
「貴方が押し潰した花と同じように死になさい」
ミシッ、グキッと鈍い音がした。向日葵という名の繭に閉じ込められた野良妖怪は、一瞬のうちにその骨を圧し折られ、その内臓を捻じ切られ、その肉を押し潰され、肺に溜まった僅かな空気から押し出された音だけが、彼の最期の声となった。粉々になった彼の体は赤く霧散し、向日葵畑の地面に降り注いだ。
「……ふう、やれやれね」
幽香は傘を開き、服を赤い雨から守った。元々日傘だが、服が汚れるよりはいい。小さく溜息を吐き、何事も無かったかのように、幽香はアーノルディに振り向いた。
「どう? 私の力があれば、貴方だってもっと長生きが出来るの。だから素直にこの私に――」
「冗談じゃない」
「……え」
より赤く染まったアーノルディの声には、明らかに怒気が混じっていた。
「不味い血を飲ませやがって。最悪の気分だ。小娘……俺は化け物退治のために生まれてきたんじゃない」
「何よ……私は花を敵から守ってあげてるのよ? それの何がいけないって言うの?」
幽香は初めて表情を険しくした。花を守るための行動を、花に否定されたのだから。
「俺は守って欲しいと言った覚えはない。ましてや今の野獣を殺せともな」
「あのまま放っておいたらこの向日葵畑は荒らされていたかも知れない……これは正当防衛よ」
「花の正当防衛だと? 笑わせる。俺達はただ咲き、動くことのない種族だ。蝿や蟻を捕まえる種があるにしても、捕食以外にむやみに生き物を殺したりはしない」
アーノルディは、ただ純粋に自然に生まれた種としての生き方を全うしようとしていた。そしてそれは幽香にも理解出来た。理解出来たからこそ、幽香はそれを認めたくは無かった。
「だったらそのまま貴方達が踏み潰されるのを見ていろっていうわけ? 花は人を襲わない、花は妖怪を退治出来ない! だから好き放題に踏まれる! 摘まれる! 花の悲鳴がそいつらに届くことも無く! ただなす術も無く轢き殺されるだけの轢史を辿る……そんな恥ずかしい姿を黙って見過ごせって言うの!?」
ここまで自身が取り乱したことが、今まであっただろうか……? 幽香自身が、自らの言動に一番戸惑っていた。花のために生きてきた、花のために戦ってきた、花のために殺してきた。それを、花に否定された今の幽香にとっては、冷静という単語が余りに空しい存在になっていた。
「恥ずかしい……? 小娘、それは違う」
それとは対称的に、アーノルディは冷静だった。
「傷つけ、殺すことが出来ないのが恥なのではない。傷つけ、殺すことしか出来なくなることが恥なんだ」
「そんな綺麗事――!」
「人は互いに傷付け合い、殺し合う。そして、妖怪もそうだと知った。俺達は傷つけない、殺さない、戦わない。互いに殺し合い自滅するならば、誰かに踏まれて死ぬ方が、よっぽど誇らしい死に方なんだよ」
「……っ!」
自分の全てが否定された。幽香はそう感じた。生まれて初めて経験する、挫折だった。
「……頭を冷やせ小娘。俺と違って長く生きるなら……その長い時間を間違った方向に向けるな」
アーノルディは、諭すように言った。語気を荒げることもなく、我侭を言う子供を宥めるように、幽香を帰した。
「……なあ」
誰もいない向日葵畑で、アーノルディは呟く。
「俺の考えは間違ってるか?」
いや、そこには沢山いた。
「向日葵達よ」
「……」
そこまでの話を聞いて、美鈴はぽかんとした表情で幽香を見ていた。
「あら……そんなに意外な話だったかしら?」
「ええ、まあ」
美鈴は正直に返す。
「私がアーノルディに取り乱したことが?」
「いえ、アーノルディさんの言葉に幽香さんが黙らされたことがです」
美鈴は正直に返す。
「それって同じじゃない?」
幽香は肩をすくめる。
「正直、幽香さんは花のことなら何でも分かっているものだと思ってました。そんな幽香さんが何も言い返せないなんて……なんか、負けを認めたみたいですし」
負けを認めた。その言葉に幽香は少し目を丸くし、そして苦笑した。
「まあ……きっと私はまだまだ、二年目には程遠かったんでしょうね」
~7月1日 あいつと ~
雨。ざんざん振りである。打ち付ける雨粒を傘で受け止めながら、幽香は悩んでいた。数分飛んでいけば、そこには向日葵畑がある。でも、その一歩を踏み出せない自分に歯噛みしていた。
「傷つけ、殺すことが出来ないのが恥なのではない。傷つけ、殺すことしか出来なくなることが恥なんだ」
「……」
傷つけられる者を守るためには、傷つける者を排除するしかない。何度思い悩んでも、幽香にはその答えしか出なかった。
「ただなす術も無く轢き殺されるだけの轢史を辿る……そんな恥ずかしい姿を黙って見過ごせって言うの!?」
アーノルディは物思いに耽っていた。自らの人生に過ちがあったとは微塵も思っていない。それでも、誰かに守られるということ。そんなものが存在するなどと思ってもいなかった。
「向日葵達よ……あんたらにとってあの小娘は……一体なんなんだ?」
アーノルディは問い掛ける。それは、脚を持った生き物には決して届くことの無い、言葉ではない声。
向日葵は、打ち付ける雨の中頭を上げた。そして、向日葵達はアーノルディに頭を向けた。
「……そうかい」
誰にも聞こえない、アーノルディと、向日葵達にしか分からない会話。アーノルディはただ、向日葵の声を受け止めていた。
パキッ
「む?」
音がした。小さな花の悲鳴が聞こえた。それは、向日葵畑と、アーノルディに忍び寄る危機だった。
「……やれやれ、今度は大勢か」
アーノルディは溜息混じりに呟く、向日葵畑は包囲されていた。昨日無残に霧と消えた、あの野良妖怪の集団に。
十、二十……いや、もっといるかも知れない。どうやら群れを成す集団のようだ。しかし、何故獣の妖怪がわざわざ花畑に群がるというのだろうか。
「ああ……成程、そういうことか」
アーノルディは理解した。これは全て、自分が原因なのだと。自らが放つ腐臭、蝿が集まるのと同じように、こいつらは自分を腐肉と勘違いしているのだ。よっぽど鼻が発達した種族なのだろう。
「悪いな、迷惑かけちまった」
アーノルディは自嘲気味に、向日葵に謝罪する。しかし、向日葵はその言葉に反応しなかった。
これはアーノルディだけではない、向日葵達にとっての危機でもある。大きな四肢を持つこの妖怪達は、容赦なく向日葵を踏み倒してアーノルディに歩み寄ってくるのだろう。それでも、向日葵達は何も起きていないかのように、その頭をアーノルディではなく、妖怪達にでもなく、ただ、どことも分からぬ一点に向けていた。
「……なんだ?」
アーノルディは分からない。ただ、向日葵達は何かに対し、確信を持っていた。だが今はそれどころではない。野良妖怪達は一歩ずつ確実に、彼を目指し歩みを進めていた。
「……やるなら早く終わらせろ。どうせ今日明日の命だ」
アーノルディは覚悟を決めた。この妖怪達は自分に牙を深く突き刺し、それが食べ物では無いと理解したならばすぐに退散するだろう。そして、無残に散らかされて自分は死ぬのだ。それもまた、自然の摂理なのだろう。彼はそれを受け入れようとしていた。
一匹の妖怪が、アーノルディの目の前に辿りついた。すんすんと臭いを嗅ぎ、その野蛮な口を大きく開けた瞬間、
ズンッ
その妖怪の頭に、何かが刺さった。何が起こったの理解出来ぬまま、その妖怪はピクピクと痙攣した。その妖怪に刺さった物……それは、一本の日傘だった。
「待たせたわね」
そこに立っていたのは、幽香だった。日傘を引き抜き、彼女は絶命した妖怪の亡骸を蹴飛ばした。
「何故気付いた?」
「聞こえたからよ。向日葵達の声が……貴方を助けてという声がね」
「馬鹿な……!」
アーノルディは信じられなかった。向日葵達が、そんな言葉を発する事は無かったからだ。それなのに、幽香は向日葵達の危険信号に気付く事が出来た。これは、彼の予想だにしない事態だった。
「のんびり話をしてる暇はなさそうね……」
打ち付ける雨をもろともせず、幽香は日傘に染み付いた血糊を払う。彼女の周りにはまだ数十に及ぶ野良妖怪の集団が唸り声を上げ、殺気を露にして構えていたのだ。
(俺が理解出来ない言葉を、向日葵達が発していた……いや、違う)
アーノルディは理解した。風見幽香という妖怪を。
「野蛮な獣風情が……赤く爆ぜて地に染まりなさい」
空気が凍り付く程の視線を、幽香は野良妖怪達に向ける。それに一瞬警戒する野良妖怪達であったが、現れた敵は一人。一斉に唸り声を上げ、彼らは幽香に襲い掛かった。
(この小娘は……)
アーノルディは理解した。
「この私に牙を剥こうなんて……!」
周囲の向日葵を操り、幽香は妖怪達を薙ぎ倒し、引き千切り、投げ飛ばす。しかし、向日葵達の動きは昨日に比べ随分と鈍かった。
(雨のせいか……!)
幽香は小さく舌打ちをする。雨のせいで、水分を吸いすぎたのだ。植物は、水分を拒否出来ない。今の向日葵達は、腹いっぱいに胃袋に食べ物を押し込んだ人間の状態のそれに近い。つまり、派手に動けない状態にあったのだ。
(言葉では、無かった)
徐々に追い詰められつつある幽香を見つめながら、アーノルディは理解した。
幽香が理解していたのは、花達の言葉ではなく、花達の本能だったのだ。これは、花との会話どころか、テレパシーに近い。風見幽香。彼女は花の事を理解していない訳ではなかった。生まれた時からそれ以上のことを知っていたから、言葉という小さなものに気付かなかっただけなのだ。
「この……雑魚共が!!」
大きく息を荒げ、向日葵を操り、弾幕を放ちながら幽香は野良妖怪の集団を牽制する。しかし二つの目しか持たぬ幽香の体では、その全ての動きを捉えることは到底出来なかった。ましてやこれは弾幕勝負ではない。多勢に無勢だった。
「が……っ!」
その時、隙を見た一匹の野良妖怪が、幽香の右腕に噛み付いた。人間の骨ならば軽々と砕くであろうその攻撃に、幽香の表情が歪んだ。
「小娘!」
「な……めんじゃないわよ!!」
喰らい付いた一匹を蹴飛ばし、なおも幽香は応戦体勢を取る。だが幽香は気付いていなかった。目の前の敵に気を取られ、今まさに背後から三匹の妖怪が襲い掛かろうとしていたことに。
「使え」
声が聞こえた。
「……え?」
それが一瞬理解出来ず、幽香は立ち止まる。
「俺を使え!」
「!」
反射的に、幽香は反応した。日傘を天に翳し、幽香は叫んだ。
「行け、アーノルディ!」
それは一瞬の出来事だった。アーノルディの巨大な5枚の花弁は、桜の花吹雪のような小さな破片へとその姿を分散させ、向日葵畑を舞った。そしてその一枚一枚は鋭い刃へと姿を変え、その場にいた妖怪達を切り刻んだ。
三秒と無い出来事だった。空中に広がった赤が妖怪達の血煙なのか、アーノルディの花弁なのかは、もはや分からなかった。
「……」
その光景に、幽香は呆然としていた。それは、幽香の想像を遥かに超えたものだったからだ。だが、幽香はすぐにその表情を青くする。アーノルディのとった行為を思い出したからだ。彼には向日葵のような茎や葉がない。彼には伸ばす手足が無かった。彼には、自らの花弁を千切り飛ばす以外の手段が無かった。それが何を意味するのか……幽香はようやく気付いた。気付いたのだ、己の過ちに。
「アーノルディ!」
振り返った幽香の目に映ったのは、勇ましい花弁を全て散らした、無残なアーノルディの姿があった。
「ああ……やっぱ慣れないことはするもんじゃないな」
アーノルディは苦笑しているように見えた。しかし、その声にはもはや昨日のような力強さは無かった。幽香には分かってしまった。彼が、今この場で枯れることが。
「アーノルディ……ごめんなさい、私……!」
「何を謝ってる……使えと言ったのは、俺だ」
幽香には分かっていた。アーノルディには、既に戦う力など残されていなかったことを。それでも、使ってしまった。反射的に、本能的に、いつものように、向日葵を扱うように。
「なんで……なんで使えだなんて言ったの!?」
幽香は理解出来なかった。死期が迫っていることを一番知っていたのは、アーノルディ自身だったはず。もし能力を使わなければ一日、せめて一日は、その花を咲かせることが出来たのに。
「向日葵達が……お前さんのことをこう呼んでたんだよ」
「……?」
「……女神」
幽香は戸惑った。何て返せばいいのか、分からなかった。
「こいつらはそれしか言わない……でも、それだけで理解出来た。お前さんは……いや、お前さんのいる場所が、花達にとっての楽園だったんだ……」
「私が……楽園……?」
「言葉を言わなくても……分かってくれる妖怪が、自分達を守り、育ててくれる……花と花がただ咲き、互いに咲き合い、認め合うことが出来る場所を作ってくれる……花達から見れば……お前さんは女神らしい」
「だからって貴方が――!」
「俺はただひっそりと……周りに他の花なんて無い場所で生まれた。誰とも話さず、ただ自分の花を咲かせりゃ、それでいいと思っていた……でも、向日葵達と話してみて、楽しいって感じてしまった。今までの二年間が、どれだけ空しいものだったかを知ってしまった……」
「アーノルディ……」
「戦いだの、争いだのは好きじゃあない……でも、花のために体張ってるお前さんがここで死ぬのは絶対に間違ってる……そう思ってしまった」
雨は、幽香とアーノルディ、そして向日葵達を強く打ち付けていた。
「……私が一番守りたかったのは、貴方だったのに……」
「……そういうこと、言うもんじゃない……お前さんは、この世界の全部の花を守るんだろう?」
「貴方はこの世界に一つしかない花なのよ! それなのに……それなのに……!」
強すぎる雨は、幽香を濡らした。誰も、彼女の表情を見ることは出来ない。
「お前さんが……この世界の全ての花を守りたいならば……花を縛り付けてはいけない。お前さんがこいつらを守りたいように……こいつらも、お前さんを守りたいんだ……」
「……」
雨は頬を伝い、地面に染み込んだ。
「気張る必要はない……花はいつだって、お前さんを見ている……お前さんの幸せを望んでいる……」
「……」
「だから……花だけを見るな……花畑の先に広がる、外の世界のことも……脚の無い花達に教えてやってくれ……もう一度言う。花を縛るな……そして、花に縛られるな……」
それは、更に下へ下へと染み渡り。
「……風見……幽香」
「……何よ、急に名前で呼んで……」
「……次に生まれてくる時は……こいつらみたいに、元気な向日葵も、悪くないな……」
「……変なこと言わないでよ……貴方は、世界一大きくて強い……」
「……妖怪の血は……不味いが……妖怪の……涙は……」
「……何よ」
「……」
「何よ……!」
アーノルディは、喋らなかった。
「はっきり言いなさいよ……! 泣いてなんかいないわよ! 私を誰だと思ってるの!? 私は、私は……!」
アーノルディは、喋らなくなった。
「私は……!」
そして、雨は止んだ。太陽が顔を覗かせ、向日葵に滴る雨粒を照らした。しかし、向日葵達は太陽に頭を向けなかった。全ての向日葵達が見つめる先にあったのは、その場に立ち尽くした、一人の少女の姿だった。
「そんな……そんなエピソードがあったなんて……!」
「蛇口が緩いのね、貴女」
既に瞳を潤ませている美鈴を見て、幽香は苦笑する。
「ぐす……すいません、そんな悲しい秘話とは露知らず……」
「あら、まだ話は終わって無いのよ?」
「ふえ……?」
「これは私がどうしてこんなに向日葵を咲かせてるか……そういうお話だったでしょ?」
それだけ言うと、幽香は歩き出した。ずずっと鼻水をすすり、美鈴もそれに着いて行く。
「ちょうどこの辺りだったかしらね」
向日葵畑の隅っこに、幽香は立っていた。
「ここに、何があるんですか?」
「これよ、これ」
幽香が見つめる先にあったのは、一本の向日葵だった。それはそれは大きく、他の向日葵よりも一回り大きな立派な向日葵の蕾だ。
「ちょうどこの下に、あいつを埋めた」
「!」
「別に種を植えたわけじゃないんだけど……気付いたらまあ、こんな立派な子が生まれちゃったのよね」
それはそれは大きな、威厳すら感じさせる大きな向日葵の蕾は、ただ真っ直ぐに立っていた。
「……」
「この子を見てたらなんとなく……愛着が沸いちゃったのよ」
呆然と、美鈴はその一本を見つめる。幽香はその向日葵を見つめながら、小さく笑みを浮かべた。
「世界一大きな花はもういないけど……世界一大きな向日葵なら作れるかもね」
その蕾をひと撫でし、幽香は美鈴に振り返る。
「長話して悪かったわね。あんまり道草してると貴女の主人に――」
「……」
「……美鈴?」
「ぶわっ」
美鈴の涙腺が崩壊した。
「うぶおおぉぉぉ……っ」
「ち、ちょっと!? そんなに泣くことないでしょ?」
「い゛まのは……反則でずぅ……! うぶあぁ……っ」
「……困ったわね」
洪水状態になってしまった美鈴を見つめながら、幽香は大きく溜息を吐いた。
幽香の下に美鈴が尋ね、種の商談を持ちかけたのは、アーノルディを埋葬してからそう月日の経たない頃だった。幽香は最初は断ろうと思っていたらしいが、そんな彼女の胸中に、彼の言葉がこだました。
(花畑の先に広がる外の世界のことも、脚を持たない花達に……)
幽香は初めて、花を他人に託した。自分の目の届かない場所に花を預けるのは気が引けたが、これはきっと、花に縛られた自分には出来ないことだと思った。だからその種を、幽香は美鈴に渡した。
こんな話をすると、きっとあの門番の蛇口がまた開くから、これは彼女には言わなかったが。
「長々とお邪魔してすいませんでした」
目元を若干腫れさせつつも、美鈴はカンナの植木鉢を両手でしっかりと持ち、美鈴に深々と頭を下げる。
「ちゃんと言ったとおりに育てなさいよ?」
「はい! ちゃんと日当たりのいい場所に植えます」
花に対してはマメな彼女のことだ。きっと七月には立派なカンナの花が、紅魔館を彩ってくれることだろう。
「それでは、私はこれで」
「美鈴」
別れを告げ背を向ける美鈴に、幽香は声をかけた。
「なんですか?」
「その花、咲いたら見に行ってもいいかしら? その子達の話も、向日葵達に教えてあげたいから」
「勿論です!」
笑顔を輝かせ、美鈴は飛び立った。青空の下、手を振り去っていく美鈴に手を振り返しながら、幽香は彼女が見えなくなるまで見送った。
「やれやれ……私も丸くなったものね」
沢山の向日葵達を見つめながら、幽香は苦笑する。
「最近になって知ったけど、昔は花の番人だの、肉食系植物だの言われてたらしいわ」
それは、向日葵畑の中では知ることが出来なかった話。人里に脚を運び始めるようになるまでは知ることができなかった話。
「きっと昔の私なら、あの門番さんも容赦なく返り討ちにしてたのに」
日差しが強くなってきた。幽香は日傘を広げ、向日葵畑に背を向けた。
「まあ、花を大事にしない奴にお灸を据えるところは変わらないでしょうけど」
「いいんじゃないか? お前さんらしくて」
「え?」
声が聞こえた気がした。壮年の、妙に渋み掛かった男の声だ。幽香は辺りを見回す。そこに人影は無い。
「……お節介ね」
くすりと笑い、幽香は歩き出した。向日葵達は燦々と輝く太陽に頭を向けていた。
ラフレシアのように大きな向日葵だけが、日傘の少女をいつまでも見つめていた。
~完~
……6月31日?
あり得ないはずの日に起きたあり得た物語とか、意味深だなと思ったら……思ったら……!!
アーノルディ氏のように一花咲かせて散りたいものだ。