そいつは妖怪のくせに人間らしかった。
様々な妖怪が居る。人間より人間らしい鬼や、人間らしさなんて欠片もない獣が居る。
だから、そんな中であいつは目立っていた。どうしようもなく異彩を放っていた。
後に人間上がりの妖怪だと知るのだけど――それでも納得いかない程に。
逸脱したものが何もない。
そいつを構成する全ての部品が誂えたように人間そのままだった。
強さも――弱さも。
そいつは何もかも守った。何もかも害した。
機能に特化した妖怪じゃ抱え切れない程の矛盾を抱えて、何百年も、人間のように生きていた。
毎日の宴に近づきもせず、楽しく騒ぎもしないで――人間のように。
そいつの名は水橋パルスィといった。
参加者の大半が酔い潰れたことで宴会はお開きとなった。
かくいう私も胃袋の中は酒で満たされていて、ふらふら千鳥足で帰路についている。
ったく、勇儀や萃香の横で呑んでちゃ胃袋が何個あっても足りゃしない。
牛は四つの胃袋を持っているって言うけど牛でもどうだか――ああいや、体大きいからね牛は。
私も牛くらい大きくなればまだまだ呑めたかな。
あの四天王共に呑み比べで勝つってのも痛快で楽しそうだ――と。
橋が見えてきた。っていうか目の前だ。
旧地獄と地上を――かつては彼岸と此岸を、別け隔てる川の橋。
んんー、愛しの我が家まであともうちょいか。ふぃー、ちょいと疲れたねぇ。
歓迎されないどころかウザがられるだろうけどあいつん家に押し入ろうかなー。
「――ヤマメ」
低い、否、意識して低くされた少女の声。
顔を上げれば金髪緑眼の少女の姿。
妖怪、橋姫、水橋パルスィがそこに居た。
「や、パルスィ。お元気?」
「お帰りかしら。精々橋から落ちないようにしなさいよ酒臭い」
「あいっかーらず憎まれ口叩いてくれるねぇ。元気そうで何よりさね」
家に行くまでもなく橋の上で番をしてたか。真面目な奴。
ああ、いや……こいつが居なかった例なんてないか。
水橋パルスィは――そういう奴だ。
「どっこいしょ」
家まで行く手間が省けたってもんだ。座り込んで橋の欄干に背を預ける。
そろそろ補修した方がいいかねこの橋も。前の補修から百年は経つし。
横に立つパルスィを見上げると、ぎろりと睨まれた。
「さっさと帰りなさいよ。せっかく道を開けてやってるのに」
「酔いざまし酔いざまし。ここはいい風が吹くからさ」
「ふん。いい風ね――地上と地下の風が混じる、嫌な冷たさよ」
冷たい、ねぇ。
そう感じてんのはあんただけだろうに。パルスィがここを動かないからそう思うんだ。
一歩でもこの橋を離れて、地上に向かうなり旧都に行くなりすればいい。
それだけで冷たさなんてもんは感じなくなると、思うんだがね。
じっとパルスィの顔を見る。
透けるほどに白い肌。翡翠染みた緑の瞳。くすみ派手さを感じさせない金の髪。
「なによ」
緑眼で睨まれる。
「ああいや、最近よく会うなーって」
咄嗟に嘘を吐く。見惚れてた、なんて流石の私でも恥ずかしくて言えやしない。
嘘は通じたようでパルスィは呆れ顔を私に向けた。
「あなたがよく旧都に行くからでしょうに。番をしてる私と会うのは当然だわ」
「まぁ仕事でもないし、泊まりがけってこともないからねぇ」
そういや最近仕事してないな。鬼たちで足りてるのかお呼びが掛からない。
今んとこ懐具合は寂しくないからまだいいんだけど。折を見て仕事探しに行くかなぁ。
「いや最近は鬼たちも大して暴れなくてねぇ。私ら土蜘蛛としちゃ商売あがったりさ。
こうして呑んだくれるくらいしかやることなくてねー」
「お暇だことで。妬ましいわね」
正直こんなこと嫉妬されてもなぁ。
改めて危機感を煽られるだけっつーか。
……あぁ。そんなんじゃダメになるわよって忠告してくれたんかな。
パルスィのやりそうなことだ。パルスィ、不器用だかんねぇ。
本当に、パルスィは不器用だ。
器用だったら――この若さでこんなとこに隠遁なんかしやしない、か。
「多弁かと思えばだんまり決め込んで。何がしたいのよヤマメ」
「ん、ああ――」
酔ってんのかな。なんか変なことばかり考えてる。
私、笑い上戸でそんな酔い方しない筈なのにな。
「なに、悪酔いでもしたの?」
「そうかも」
気遣う視線に短く応える。
なんだかな、そんな沈んだような顔してたかな。
「うーむ」
思わず唸る。なんかもやもやしたのが胸に痞えてすっきりしない。
酔ったとも違う感じがするんだけど……なんなのか、わからない。
パルスィを見ててこうなったんだから、パルスィのせいなのかな。
ま、はじめからパルスィの家に押し入るつもりだったしね。
このままもうちょい付き合ってもらおうか。
どうせこいつは私を追っ払いやしないんだし。
「……大丈夫?」
「ん、あーうん。気分悪いってわけじゃないからさ」
「そう」
パルスィを見上げる。
彼女はそっぽ向いたまま口を開いた。
「ならさっさと帰って。邪魔よ」
誰も通りやしない橋の番に邪魔も何もあるかい。
だいたい、そんな覇気のない声で言ったって裏が透けちゃってるよ。
帰らないで。
まだここに居て。
私を独りにしないで。
――そう言ってるのが丸わかりだよ、パルスィ。
「へいへい。もうちょい休んでからね」
素直じゃないよねパルスィってさ。
恥だかなんだか知らないけどいっつも真意を隠してさ。
逆のことばっか言って他人を遠ざけてさ。
人間。
みたい、だよね。
いつも通り睨まれると思って視線を下ろす。ふと、靴が目に入った。
ぼろぼろ、とまではいかないまでも履き古された革靴。
「その靴もけっこう履いてんよね。そろそろ履き換えたら?」
「ん。これは……別に、いいわよ。穴が開いたとかでもないし」
「また買ってあげよっか?」
あれは私が買ってあげたものだ。
ずっと昔、旧都で見かけた薄汚れた少女。鼻緒の切れた下駄を持って店の前で立ちんぼしてた。
新顔だな、店に入りにくいのかなと思い声を掛け靴を買ってやった。
あの頃は……後に地霊殿の主と張るくらいの嫌われ者になるなんて思わなかったなぁ。
「……いいわよ。まだ、履けるから」
「物持ちがいいねぇ」
物欲よりプライドが勝るかね。
なんにつけパルスィはそうだ。あんま褒められたもんじゃないけど。
嫌われモンなりのプライド、なのかねぇ。
……そう、パルスィは嫌われ者だ。
この地上を追われた妖怪たちの町で猶嫌われ蔑まれる妖怪。
心を操るなんていう、外道中の外道の力を持ってしまった妖怪。
生まれながらに……外れ者になるって運命を背負っちまった少女。
ぼりぼりと頭を掻く。
今なら、鼻緒の切れた下駄を持って立ちんぼしてた少女の気持ちがわかる。
一人じゃ買い物にも行けやしないよね。どんだけ勇気を出したって、近づくだけで精一杯だ。
嫌われるって、拒まれるってわかってりゃ――輪に加わろうなんて思えもしないよ。
それでも、パルスィが一人で生きられる奴なら……まだ救いはあったのに、さ。
パルスィは、私が他の誰かと一緒に居たら声を掛けてこない。私が一人で居る時だけ声を掛けてくる。
私以外の他人が怖いんだ。私だけが例外で、私以外の皆が怖いってパルスィは思ってる。
私、だけ。
水橋パルスィは、黒谷ヤマメとだけ繋がっていられる。
そしてパルスィはその繋がりを断ち切らないようにしている。
一人に、独りに耐えられないって理解しているから、私っていう例外を作った。
ぼろっちい靴。
私とパルスィを繋ぐたった一つの形あるモノ。
また買ってやるって言っても、そう簡単には捨てられないのかな。
どうも、妖怪の私には理解出来ない。
そんな人間みたいなこと、考えたことないから。
「ヤマメ?」
気付けばまた気遣う視線。気分悪そうに見えたのかな。
そういや、私が黙り込むってことはそうはなかったね。
いっつもべらべら喋ってパルスィが苛ついて追っ払われて。
ずっとずっと、そんなことの繰り返しだったよね。
「ちょいと、気分が悪いからさ。話にでも付き合ってくんない? 話してりゃ気分悪いの、紛れるからさ」
嘘を吐いてパルスィの足を止める。
そんなことをしなくとも彼女がこの橋から離れることはないだろうけれど。
でも距離を置かれたくはないから嘘を吐く。
「……別に、いいけど」
知らず含みがある口調になっていたか、パルスィは怪訝そうな顔を見せる。
なに、してんだろうね私は。なんだって嘘まで吐いてあんたと話そうとしてんだろうね。
自分で自分がよくわからないよパルスィ。
「でも話ってなにを話せばいいのよ。生憎と私は話題なんて持ち合わせてないわ」
「んな格式張らんでも。雑談だよ雑談。なんでもいいけど……ないってんなら私から」
さりげない風を装って短く告げる。
「パルスィのこと話してくんない?」
怪訝な顔、どころではない。怪しむ顔になるパルスィ。
ストレートに過ぎたかな。おっかしーな。騙し打ちとか結構得意なのにな。
「なんで……私のことなんて?」
「いやまぁ、橋姫って妖怪にちょいと興味があってね」
言い繕うも通じたのかどうか判然としなかった。彼女の表情は変わらない。
探るような半目で見られ続ける。それに笑みを返すが、どうだ。
ぷい、と顔が逸らされた。……ダメかな? 追い払われるかな。
「あなたも暇人ね。私みたいな木端妖怪のこと聞いたってしょうがないでしょうに」
そうは――思わないけど、ね。
易不易で聞きたいわけじゃないしさ。
「まぁいいじゃん。聞かせてよ」
ダメで元々と押してみると、意外とすんなりパルスィはこちらを見てくれた。
「なにを聞きたいの?」
この機を逃す手はない。
パルスィを逃がさぬ為の方便だが知りたいという気持ちに嘘はない。
さて、長くは付き合ってくれないだろうし、何から訊くかな……
「あー、宇治の橋姫ってのは有名だ。私の土蜘蛛や、勇儀らの鬼に負けじ劣らず――いや、鬼は別格かな。
パルスィは――さ、京の都の出だっけ?」
手堅く出自あたりから攻めようと問いを告げる。
「……別に。宇治の橋姫の眷属ってだけよ。憶えてないけど宇治川で水死したんじゃないかしらね。
川で死んだ者は橋姫の眷属となる――よ」
出自に拘りがないのか――逆に拘りがあるのか、あっさりと答えられた。
しかしそれは微妙にはぐらかされた答えだ。はっきりとは答えていない。
「ふぅん、元は人間だったんだ?」
故に私から踏み込む。
「珍しくもないでしょう?」
「まぁね。多いとは言えないけど、そこそこかな」
人間上がりの妖怪、ね。知ってはいたけど本人から聞くとまた別の感じ方をするもんだ。
だけどやっぱり納得がいかないよ。崇徳の大天狗然り、そうなった人間ってのは人間からかけ離れるもんだ。
あんたみたいに人間臭いままなんてぇのは――やっぱ、珍しいよ。
パルスィ以外の橋姫を知らないからか、余計にそう思う。
「興味深いよねぇパルスィは」
何の気なしに呟いた言葉。
しかし応えるのは俄かに強張る彼女の気配。
んー……? なにかおかしなこと言ったかな?
パルスィは、張り詰めた糸のように余裕を無くしていた。
――初めて彼女を訪ねたときのことを思い出させる。
突けば切れる脆さ。妖怪らしくないそれが、再び私の目の前に顕れていた。
「興味ね――興味というなら、あなたも興味深い。なんで旧都に住まないで縦穴に住んでいるのよ」
明らかに話を逸らす振り。
聞き逃したふりをしてもいいが……まぁ、これは雑談だ。
だらだらと応じるのも悪くはないよ。
「そらまぁ、色々さね。例えば私は死んでないから彼岸と此岸の向こう側は嫌で、こっち側を選んだとか。
鬼は地獄が故郷でも土蜘蛛の私は違うからね――あとはまぁ、私って元々は洞窟に住んでたんだし。
旧都は地底ってもちょいと開け過ぎかなーと思うところもあったり。ま、なんとでも言えらあね」
「答えになってないわ」
「気紛れだからね。答えなんて無いのさ。1か0かで言うなら0さ。人恋しくなったら旧都に引っ越すかも」
パルスィはふうんと応える。聞いているのかいないのか、生返事。
そろそろ追っ払われるかと思ったのだが様子が違う。落ちつかぬ風に私から目を逸らし続けている。
よくわかんないけど――恥ずかしがってる、のかなコレ。
恥ずかしくなるような問いはしてないつもりだったんだけどなぁ。
ん、いやもしかして、ぶっきらぼうに話してたから私に嫌われたとか思ったのかな?
パルスィにとって、私だけが、例外だから……そうなることが、怖いのかな?
でも、その割にゃ普段さっさと通れとかさっさと帰れとか追っ払おうとすんだよねぇ。
嫌われたくはないけど構われたくもない、のかな。
ああだったらこの態度は構い過ぎたからか。
構われたくないんなら無視すりゃいいだろうに――
相変わらず人間みたいにはっきりしない奴。
「…………」
妖怪ってのは基本的に1か0だ。好きか嫌いか、はっきり分かれる。
私だって例外じゃない、こいつは1だ。パルスィのことは1だと思ってるから構う。
人間っぽくて興味深いからってのを差し引いても――きっと1だ。
かわいいし、他の奴らが嫌ってるのもまあ面白い。
けどこいつは違う。そういうのとは――違う。
1と0の間に私を置いている。
1でも0でもない曖昧模糊な立ち位置。
人間みたいに、矛盾したものを抱え込んでいる。
人間、みたいに。
ぐうと、腹が鳴る。
すとんと――表情が消えるのを自覚した。
そっぽ向いたままのパルスィには見えていないだろう私の顔。
がらりと変わった眼の色を見て、彼女はどんな顔をするだろう。
「……もういい加減帰ったら? 家の方が休まるでしょ」
「もうちょい、休んでたいんだけどね」
「橋はあなたの休憩所じゃないわ」
つまらなそうに呟くその姿が酷く人間的で――――腹が、減る。
口中に涎が満ちて、体が食事に備えているのを自覚する。
胸に痞えていたものがなにかわかった。
空腹感だ。
「おなか、空いたなぁ」
「なに? たかる気? 何もあげないわよ」
ああ、駄目じゃないかパルスィ。
そんな無防備な姿見せられたら、堪らない。
我慢なんて、出来なくなるじゃあないか。
「私さ、人間が大好きなんだよ」
言いながら立ち上がる。
「は? なにをとつぜ、ん」
ほんの少し私より背の低いパルスィを見下ろす。
手を伸ばさなくても触れる位置。
橋の欄干に寄りかかるパルスィ。その左右に手をついて、逃げ道を奪う。
「や、ヤマメ?」
「ねぇパルスィ――」
ああ、ああ……いい匂いだ。
ここまで近づいたことはなかった。直にパルスィの匂いを嗅ぐなんて出来なかった。
だから知らなかったよ。こんなにも、香しかったんだねぇ、パルスィは。
「やめ、てよ、ヤマメ」
身を捩るのも許さない。橋に突いた手を狭めて動きを奪う。
「あんたは人間に近い考え方をするから理解出来ないかもしれないけどさ――
いや、だからこそ理解出来るかもしれないのかな。まぁそんなことはどっちでもいいのかな。
私は人喰いだからさぁ。人間が大好きなんだよね。私を殺そうと滅ぼそうとした人間を今でも好きなんだよね。
だって美味しいもの。食欲と情欲が直結してるんだよね。だって、そうじゃない?
誰だって美味しいイキモノを嫌いになんかなれないよね」
パルスィは戸惑って――怯えているようだった。
そうだよね。私はいつもにこにこ元気で、こんな顔見せたことなかったよね。
こんな、口の端が吊り上がってる笑い方なんてパルスィには見せてないよね。
「……何が言いたいの」
「何が言いたいって――そのままだよ。私は仄めかしたりはぐらかしたりしないよ。
人間じゃない、妖怪だからね」
ぎっと睨まれる。
己を奮い立たせているのか、歯軋りまで聞こえた。
「どうしたの? パルスィ」
問えば、いつもの口調で告げられる脅し文句。
「何時にも増してよく喋るじゃない。さっさと帰らないと呪うわよ。祟るわよ」
それこそ。
「……ねぇパルスィ」
呆れた声しか出やしない。
「いい加減やめてくんないかな、私から目を逸らすの」
そんな脅した後のことを考えてない脅し文句なんか効きゃしない。
どこを怖がればいいのかさっぱりだよ。殺すとか甚振るとか、後のことがなけりゃ意味がない。
そんなもん怖がるのは人間くらいだ。弱い弱い人間くらいしか怖がりゃしないよ。
「意味がわからないわ」
わからない? そんな筈ないじゃん。あんたが目を逸らしてるんだ。
意識して私のそういう部分を見ないようにしてんだよ、あんたは。
「私はさぁパルスィ。妖怪なんだよ?
私を呪う?
私を祟る?
勘違いもその辺までにしてよ。
私を見てよ。私は人間じゃないんだよ」
言って、
「黒谷ヤマメは妖怪で――人喰いなんだよ?」
絡めた糸を強く引く。
「いっ……!?」
跳ね上げられた両の腕に驚いているのか、それともその後動けぬ自身の体に驚いているのか。
混乱し切った眼を私に向ける少女、蜘蛛の糸に絡めとられた蝶のような少女を眺める。
「やま、め――なにをして……っ」
どうしてそんな顔すんのさ。
……あんたが悪いんじゃないか、パルスィ。
あんたが私を見てくれないから、目を逸らすから動けなくしたんだよ。
私の糸でぐるぐる巻きにして指一本自由に動かせないようにしたんだよ。
「やめなさい、よ……っ」
「――自分は害するだけで、害されないとでも思ってんのかい?」
そっと、優しくパルスィの頬を撫でる。
「そいつは自惚れが過ぎるってもんだ。あんた――弱いじゃないか」
糸の絡まる首を撫でても、パルスィは抵抗さえ出来ない。
私の成すがままだ。パルスィはもう、私の巣から逃げられない。
「さぁて、あんたにはどんな毒が効くのかねぇ。妖怪……鬼用かな? それとも、人間用かな?」
「な――なに、言って」
「だって私、病毒遣いだからさぁ。捕らえた獲物は逃がさぬよう毒を打たなきゃ」
えもの、とパルスィは喉を震わせる。
その感触が糸を通じて私の手に届く。
得も言われぬ気持ち良さに、膝が折れそうになってしまう。
パルスィの首の柔らかさ、恐怖、絶望感、色んな物が全部手の平に伝わってくる。
まるで、まるでパルスィの全てを手に入れたみたいで――すごく、気持ちが良いよ。
「嫌かい?」
でもそれだけじゃ満足できない。この空腹を満たせない。
てのひらで直に触れる。パルスィの柔らかさを恐怖を絶望感を直に味わう。
「橋姫ってのは縁切りの神様なんだろ? 縁を切る鋏でこんな糸切っちゃえばいいじゃない。
ああ、あんたは弱いからそんな力も持ってないかな?」
もうパルスィは睨んですらいなかった。
ただただ怯えてやめてと繰り返すばかりだった。
やめて、ねぇ。たすけて、じゃないんだねぇ。
それじゃ時間稼ぎしてるみたいじゃない。
「まだ、誰かが助けてくれるとでも思っているのかい? そいつは呑気にも程がある。
だってここにゃ誰も来ないじゃないか。誰も来ないようあんたが追い払ったんじゃないか」
水橋パルスィ。あんたは、
「私しか残らなかったじゃないか」
黒谷ヤマメを選んでいた。
「ぅ――う、うう……っ」
だから、だからさ。
私を見てよ、パルスィ。
「や、ヤマメ――は、この先に、家がある、から――」
「追い払い続けりゃ引っ越したよ。建築は得意なんだ、どこにだって住める。
けどさ、あんたはそうしなかったよね。私がこの先に住んでるからってだけで見逃したよね。
私にだけ牙を隠して、情けをかけて。まるで守ろうとするように。まるで橋を渡る人間を守るように」
まだ、私から目を逸らすのか。まだ私を見てくれないのか。
「我儘だよねぇあんた」
パルスィの首に添えた指を軽く曲げる。
首を絞めるように指を這わせる。
「見放されたくなかったんだろ? 決定的に独りになるのに耐えられないんだろ?
追っ払っといてそれでも構って欲しいから私って保険を残しといたんだろ?
自分から誰かに歩み寄る勇気なんてないから通行人って私が最適だったんだろ?
そういやあそうだったよねぇ。私がこの橋を通る時、あんたが居ないことなんて一度もなかった。
いつだって私を見送り私を出迎え――そりゃ寂しくなんかなくなるよなぁ?」
顔を寄せる。
「まるで、人間だよねパルスィは」
そっと優しく首に噛みつく。
「本当に――美味しそうだ」
このまま。
食い破ってしまえたら。
どれだけ美味しいだろう。
ぽたりと、頬に何か落ちた。
首を傾げて見上げれば、それはパルスィの涙だった。
「――ヤマメ」
声は、ひどく震えていた。
「な――なんで、どうして、こんな――」
ぽたりぽたりと噛みついたままの私の頬に涙が落ちる。
それは熱く冷たく、彼女の心が溶けだしてるようだった。
「食べる、為だったの……? 私に話しかけてくれていたのは、この為だったの?」
ああ、裏切られるなんて考えてなかったんだね。
純血じゃないけどあんたも鬼なんだね。嘘を吐かれるなんて思いもしなかったんだ。
「そんな――私は、私は……っ」
嘘も吐くし騙しもする私とは全然違う。
ただ、話し掛ける、笑い掛ける私のことを……
「ヤマメのこと、信じて――」
身勝手な――とは思えない。思わない。
こいつがどう生きてきたか、私はよく知ってる。
ずっとずっと見てきた。眺め続けてきた。
誰とも関わらずに、関われずに生きてきたパルスィ。
そんな未熟な心が、誰かを信じることがどれだけ難しいか――知っている。
首から顔を離す。まっすぐに、涙に濡れる緑眼を見つめる。
「泣かれると思った」
どうしても歪になってしまう笑みを彼女に向ける。
「でも、我慢できなかった」
首に添えていた手で、頬を撫ぜる。
「私はさ――保険じゃ嫌だったんだよね」
パルスィの肩に、凭れるように、噛みつくように、顔を埋める。
悲鳴を上げられるって、暴れられるって思ったけど、パルスィは黙ってそれを受け入れた。
あんたが、どんな顔で私の話聞いてんだかわかんないよ。
糸を外す勇気も……持てないよ。
「だから、パルスィの気を引こうとしてさ、人間の勉強をしたよ。
つっても参考にしたのは人間より人間らしい鬼たちだけどさ――頑張ったんだよ。
食い物より、着物とか花とか、飾るものを贈られた方が喜ぶとか、さ。
でも、なんかあんたは嫌がりそうだから、結局贈れなかったんだけどね。
実はさ、あんたの靴、買ってあるんだ。渡せなかったけど、用意してあるの。
今日みたいに、古いやつの方がいいのかなって、わかんなくて、渡せなかった」
縛り上げたまま滔々と語り続ける。
きっと、彼女にとっては迷惑でしかない一人語り。
でも、やめられない。もう我慢なんて出来ない。
全部全部吐き出すまで、止まれない。
「私はさぁ」
声が熱くなる。
「パルスィが好きで好きで食べたくて食べたくてどうしようもないんだ。
パルスィが好きで好きで食べたくなくて食べたくなくて気が狂いそうなんだ。
なんだろうねぇこれ? あんたに合わせて人間っぽくしてたからなのかねぇ。
私は食べることと愛することがイコールだったのに、今は食べたくて食べたくないんだ。
どっちつかずでどっちも欲しくてどっちも嫌だ。おかしいよねぇ。
食べたらいっしょになれるけどもう会えない。
食べなかったらいつでも会えるけどひとつになれない。
苦しくて悲しくて嬉しくて楽しくて――――なんだろうねぇ、これ」
がり、と爪が欄干を削る。
「人間みたいな愛し方も、悪くないんだよ。長い長い時間をかけて愛するってのも楽しいんだ。
人喰いの愛し方みたいな、刹那的なもんじゃないってのも、薄く感じはするけどさ。悪くない。
ずっとずっと言葉を交わし続けるのが楽しいって、理解出来る。薄いけど、薄味だけど、不味くない。
愛した瞬間食べるって、私本来の愛し方は濃くて、濃密で、この上なく美味しいのに、さ――
理解しちゃったから。パルスィに合わせて人間のふりしてたから。もう出来ない」
ぶちぶちと、私の糸が切れていく。
もう頭の中ぐちゃぐちゃで、糸に妖気を回してる余裕もなくて。
自由になった彼女に凭れたまま、私は動けない。
「パルスィ」
私より小さなパルスィに凭れて、わたし、は。
「私は、泣けばいいのかな? 笑えばいいのかな?」
腕を、だらりと下ろした。
「もう――――わかんないよ、パルスィ」
パルスィを捕まえてるものはもう何もない。
手はどかした。糸は切れた。
後はもう私を突き飛ばせば彼女は逃げれる。
それなのに、私は彼女の肩に顔を埋めたまま。
……逃げないのかな、パルスィ。また、捕まえちゃうよ?
ほら、早く逃げないと今度こそ食べちゃうよ?
なにしてんの? なんで逃げないの?
私がさ、怖いんじゃないの?
「ごめん」
体を包むあたたかさ。
ぎゅって、抱き締められている。
パルスィに――抱き締められている。
ばか、だなぁ。それじゃあんた、逃げられないじゃん。
あんたを喰おうとした私の傍に居たら、何されるかわかんないのに。
「私は……誰かに、そう思われたの初めてだから――答えられない」
――考えて、くれたんだ。
人喰いの気持ちなんてわかりゃしないだろうに。
あんたみたいに人間側の妖怪には理解出来ないってわかりきってるのに。
私のこと、理解しようとしてくれたんだ。
「ごめんねヤマメ。私は――食べてあげられない」
あやまらないでよ。
「ごめんね……あなたの苦しさが、わからない」
……あやまらないでよ、パルスィ。
なんでだか、わからないけどさ、苦しいよ。
あやまられるとさ、胸が、苦しくてしょうがないよ。
「あなたがわからなくて、ごめんなさい」
少女はあやまり続ける。
それしか知らないと言うかのように。
少女は抱き締め続ける。
言葉に出来ぬ想いを伝えるように。
まるで子供のようだと、そう思った。
ああ、私も、同じだ。
未熟な心。模倣でしかない恋心。
どうしたらいいのかわからない、子供の癇癪だ。
それでも。
模倣でも、癇癪でも。
この苦しみは本物だ。
この飢えは偽物じゃない。
ただ、彼女が欲しい。
パルスィが欲しいって、飢えている。
この気持ちに嘘なんか一つもない。
どれだけ苦しんだって――パルスィを失いたくない。
「パルスィ」
きっと、何を言ってもあやまられる。
そんなのは嫌だから。
「好きだよ」
彼女が何か言う前に、強く強くくちづけた。
いやこれはいい百合。堪能させていただきました。
にとヤマ派の私にこうも深い一撃を加えるだ・・・と・・・?
パルスィのカップリング万能説はどこまでいくのだ・・・・・・!
そういう見方もあるのか、という点でも面白いお話でした。
マジゾクゾクする。
あとカンダタロープマジ登竜門
このヤマメをヤンデレと呼ぶ無かれ。
病毒遣いってキノラッチみたいだな
やっぱりパルスィは受けで確
ふたりは愛し方の表現が違うだけで根っこのところは一緒なのかもなあ、と思いました。
未来、ふたりが深い仲になれたらきっともっと解り合えそうだ、とも。
地底妖怪らしくって、とても素敵でした。
それと、タイトル見て槇原敬之の同名の曲を思い出したんだが、もしかして何か関係あったりするのか?
一口に妖怪といっても、愛し方は様々なんでしょうね。
とても素敵な作品をありがとうございました。