~no title~
「はい。気をつけます。はい。……そんなことありませんわ。しばらく忙しいでしょうから、顔を出せません。はい。はい。お母様も、御身体に気をつけて。はい、では」
通話を止め、携帯をポケットにしまいこむ。
最初こそ欲しくてしょうがなくて、手に入れた後も大事に使っていたけれど、最新機種が出れば出るほど興味が薄れてしまった。薄型で、頑丈で、大容量で、発色が綺麗で、ホログラムに対応していて、防衛軍御用達の機能満載、なんて言葉に釣られていたのだと思う。
けれど、そんな行きすぎた機能、使いきれる訳がない。独自開発の暗号通信技術で機密もバッチリ、なんて言われても、そもそもそんな大それた通話なんかしないし、電話先の相手は自宅の母と父ぐらいなものだ。
コーヒーを飲み干すと、カップをカウンターに戻して、喫茶店を後にする。
新居にも荷物が届いた頃合いだろう。私は大通りに出ると、手を挙げてタクシーを停めた。
「ご利用ありがとうございます。手前のディスプレイから行き先をご選択ください。行き先が決まりましたら、シートベルトをお締めくださると、自動で発進致しま――畏まりました。乗車時間は十五分程度です。道路の混雑状況によりお時間が前後致しますが、ご了承ください。尚、お支払いは電子マネー、カード各社、現金の場合は円、ユーロ、イーストドル、ウェストドル、その他新機軸機構加盟国家の紙幣をご利用出来ます」
アナウンスを聞き流しながら、私はシートベルトを締めてシートに身をゆだねる。環境の変化からか、最近は少し疲れが溜まっている様子だ。この歳で……とは思うけれど、現代の若者は気疲れが多い。
実家だってそう遠くないのに、私は両親と離れて暮らす選択を取った。これから私は大学生なのだから、独り立ちする訓練も必要だろうと親を諭したけれども、実際は違う。
たぶん逃れたかったのだろう。強いて言えば、新しい選択肢を探したかった。両親に監視されず、赴くままをやり、考え、選び定めてみたい欲求に駆られたからだ。自分でも間抜けだと思う。そこに利点なんてない。突出した才能がある訳ではないし、賞賛されるような頭脳でもない私が、レールを自ら踏み外す可能性がある方向を見定めようなど、狂気の沙汰だ。
……。良い国だとは思う。表向きには頑張れば頑張るだけ評価される社会を、血のにじむような歴史の中作り上げたのだから。ただ、現実に目を向けた時、頑張っても頑張っても駄目な奴は駄目で、けれど一応の評価をされる、という空気は耐えられないものがあった。それは空虚ではないだろうか? 実際それで生活が安定するなら、そうするべきだろうけれど、そんなものでは人間の真価など見いだせないのではないだろうか? 見出したくない奴も沢山いる、ということだろうか?
本当に、自分が自分であると認識出来て、自分が自分足れる力を発揮しようと、見つけようと思ったら、両親が用意する枠や鋳型に収まらず、正しく自分から前に出てみるべきではないだろうか?
「……なんて」
……なんて、決意は当然ない。自分は自分が大切だ。奇抜な事をして評価されるのは一部の天才だけで、凡人は凡人らしく、社会の歯車として日夜周り続けるべきだろう。だから、私は中途半端なのだ。レールを踏み外すのは怖いけど、ちょっと外側も覗いて見たい。そんな、軽い気持ちでしかない。
「あーあ。大学生かあ……大学生ねえ……取り敢えず勉強さえしてれば……食べるにゃ困らないものねぇ」
窓を開ける。丁度河川敷に差し掛かったようだ。春らしい、日本の色が一面に咲き誇っている。
最近、桜が増えたように思う。行政が率先して植えているのだろう。淡く、儚く散り逝く姿があらゆる人々に感動を与える桜だけれど、それが造り物の景色だと思うと、いささかばかり、虚しい気持ちになった。この植えられた桜の散り逝く姿に、日本の面影を映し出せはしない。風流でもなんでもない。
「そうそう、ああいう、どっしりと構えていて、来年も咲くから覚悟しろって桜がいいわね」
若い桜達に混じり、太い幹を湛えた桜が、十分咲きの雄姿をこれ見よがしに見せつけていた。花見客もまた、そんな樹の周りばかりに集まっている。やはり、大樹には寄り添いたくなるものなのだろう。いや、皆もまた、解っているのかもしれない。
儚く散り逝くばかりでは、未来に何も託せないから。壮絶に生き、壮絶に死ぬ事こそ、私達の心に響く。
「壮絶なれ、か。きっと、あの木もタダじゃ枯れないわね。壮絶に倒れたりするんでしょ、たぶん、ねえ、アナウンスさん」
ディスプレイに話しかける。当然返答はない。自動運転のタクシーに対して独り言を呟く姿に、本社で映像を監視している社員は小首をかしげているに違いない。
「到着まで残り二分です。お忘れ物の無いよう、お気をつけください」
「どーも」
カードで支払いを済ませ、私はタクシーを降りる。眼の前に現れたのは豪奢な御屋敷でも、煌びやかなお城でもない。旧世代を生き抜いた二階建てワンルームアパートメントだ。マンションでも良かったのだけれど、家賃もそれなりだし、あまり親に迷惑をかけたくないので、だいぶグレードを下げた。
でも正直、空調が付いていて高速ネット回線が使用可能ならどこでも良いような気もする。どうせ荷物も多くないのだから、広い部屋なんて持てあましてしまう。
塗料も禿げて錆ついた階段をおっかなびっくり昇り、二階の一番奥まで辿り着く。いっちょ前のセキュリティーロックを外して中に入ると、大きなダンボールが三箱積み上げられ、その上には書き置きがあった。
「おかえりなさい。若いうちの独り暮らしは大変でしょうけれど、がんばってください。こんなボロアパートですが、自宅だと思って過ごしてくださいね……」
大家さんはもう八十を過ぎたおばあちゃまだ。病床世代に旦那を、貧困世代に息子と娘を亡くしてから独りで生きて来たらしい。それを忘れるようにして必死に働いて働いて、ちいさな城を手に入れた。それがこのアパート。
もうひとつ隣の通りに、安くて良いアパートもあったけれど、私はこちらを選んだ。
「小泉さーん」
「あ、はい」
「小泉さん? えーと、はい。サインで構いません」
「どうも御苦労さまです」
「デカイ荷物ですけど、中に入れますか?」
「そこにおいといてください」
「はい。では失礼しますー」
玄関の前に、大きな荷物が届く。組み立てベッドと、組み立て本棚と、組み立てデスクだろう。今は午後三時なので、たぶん今日はこれを組み立てる作業で一日が終わるに違いない。幸いここは冷蔵庫が備え付けだったので、私はさっそく冷蔵庫の電源を入れ、荷物を運び込み、家の鍵を締めて外に出る。
まずはコンビニ、という考えは、もう八十年以上昔から続く古風な習慣だ。
昔ながらのくすんだフローリング床の、びみょーな壁紙の張られたワンルーム。メールではなくて書き置きのメッセージ。数世代前の冷蔵庫と戯れてから、外へ飛び出した私はコンビニへ行く。タイムスリップでもしたかのような生活になりそうだ。
新しい生活が古臭い、というのも、復古主義的で悪くない気がする。
「たしか、ここを左に行くと駅で、正面を行くと大学……で、こっちがコンビニだったかしら……」
道順を覚えながら目的地に辿り着く。
未だ頑固に紙媒体で出版している数社のファッション雑誌を眺めてから、未だ頑固に紙媒体で出版している少年漫画雑誌と少女漫画雑誌を手に取り、籠に放り込む。なんとなく炭酸、という気分にまかせてサイダーを一つ取った。昔は炭酸が骨を溶かす、だなんてネガティブキャンペーンを張られていた大手の茶色い飲み物だ。
お弁当のコーナーに目をやる。軒並み合成だけれど、おにぎり二種類は限定生産の国産米使用らしい。50%ほど。お米の国の称号を取り戻すまでまだまだ時間はかかりそうだ。でも確か噂では、大量生産可能なビル型食料プラントの再計画も持ち上がっていたし、どうやら各地に残る米農家にも声をかている様子だから、希望は持てる。
少しお高いけれど、私はおにぎり(具の高菜は本物らしい)を一つと、おかず用の合成焼き魚(切り身)を買う事にした。
合成食品増産体制が整ってからというもの、こちらの方がコストも安く大量に作れるという事で重宝されてしまい、元来の第一次産業が蔑ろになってしまったのも、現代に続く本物不足の原因だ。ただ、当時はどうやって国民の餓えを凌がせるか、という究極的な課題にぶつかっていた為、誰も強く責められないのだ。もう少し早く体制が整っていれば、大家さんの子供たちも苦しまずに済んだだろうに、なんて考えてしまう。
「おばあちゃま、こういうの好きかしら」
確か長野出身と言っていたか。私の手元には『イナゴ100%君』なる佃煮がある。本物不足の御蔭で『~%』という商品名で客を引こうという浅はかな試みについては目を瞑ろう。それにしても強そうなイナゴだ。思うに、米の産出量が少なくなった現代にも適応するよう進化した結果100%なイナゴが出来あがったのではないか。違うか。違うわね。
「ねえ」
「ん?」
まだ何か食べるものを、なんて棚を見ていると、隣で声が上がる。そちらを見ると、その女の子は私の手の中にあるイナゴ氏を凝視していた。黒帽子の、なんだかやぼったい服を着た黒髪の子は、イナゴ氏から目線を私に移す。
「食べるの? それ」
「おみやげよ」
「最後の一つよね。というか、ここ二つしかいつも入荷しないし」
「……」
同い年ぐらいだろうか。言葉はハキハキとしていて、良く通る。
「もしかして、これを買いに来たのかしら、貴女は」
「え、あ、うん。あんまり美味しくないよ? 外人さんには辛いかも」
「食べるおばあちゃまは長野の人だし、私も日本人ですわ」
「そ、そっか」
女の子は寂しそうに俯く。どうやら諦めたらしい。確かに、こんな商品がそこら辺のコンビニに沢山置いてあるとも思えない。けれども、私も私でこのイナゴ氏に用事があるので、ここは譲れなかった。
「100%ですって。強そうよね」
「実際、昔のイナゴに比べると咬む力が三倍で、捕まえるのも苦労するって話を聞くわ」
ちらり、と上目遣いで彼女がいう。その目線が少し可愛いけれど、言葉にしているのは新イナゴの生態だ。
「……食べたい?」
「……」
「まあ……量はあるし……タッパーにでも移しかえれば良いかしら。私食べないし。あ、半分出して頂戴ね?」
「ホント? なんだか悪いわね」
「うーん……」
普通なら煙たいし、あまり他人に干渉されるのも好かない私だけれど、この子はそんな気持ちにならなかった。
自宅に戻り、私はダンボールの中から小分けに出来るタッパーを取り出し、半分詰める。彼女には外で待ってもらっているけれど、先ほどからチラチラとこちらを伺っている様子だ。
「どうかした?」
「引っ越してきたの?」
「そうそう。今日ね。実家も近くだけど、独りで暮らしたくって」
「へえー……春だし、その歳だと大学生かな」
「そ。首都大学の一年ですわ」
「あ、私も今年から、そうなの」
「まあ。偶然ってあるものね。はいこれ」
タッパーを手渡す。彼女は私とイナゴ氏を見比べてから、眉を顰めてうんうん唸りだした。
とてつもなく、今更だけれどとてつもなく変な子だ。
「……あの、ええと」
「あ。蓮子よ。貴女は?」
「マエリベリーよ。蓮子さん、その、何か?」
「あ、えと。片付けとか手伝おうか?」
「大丈夫。入学後の学力指数テストがあるでしょ。帰ってお勉強する事をお勧めしますわ」
「大丈夫、免除だから」
「……はて。学術特待生?」
「私、宇佐見蓮子。名前聞いた事、ある?」
名前をきいて、私は目を瞬かせた。その名前をどこで見たか。
一番最初は新聞、次はゴシップ誌、次は科学雑誌だったか。
「こんな大学に? 政府の研究機関に入るんじゃ?」
「蹴っちゃった。まだ勉強したいし。みんな忙しい中、私は暇だからさ。じゃあ趣味を広げてみよう、なんて思って、食べ物について色々やってたら、私には昆虫のたんぱく質が合うんじゃないかと発見したわけよ」
「はあ……なんというか、貴女、なんか変ね」
「良く言われるけど、普通よ普通。で、マエリベリー・ハーンさん。確か、国内の統一模試だと五位だったかな。名前覚えてる。顔写真も載ってたね。我が高校を代表する生徒です、とかなんとか」
「……何も無いとこだけど、上がって行く?」
「いいの?」
「立ってるものは親でも使え。暇な学生なんて、使われる為に存在しているようなものですわ」
「あ、いいね、それ。うん。じゃ、お邪魔します」
宇佐見蓮子と名乗る子を自宅に上げる。私は携帯からネットにアクセスして、その名前を検索。丁度インタビューを受けている写真を見つけ、当人である事を再確認した。
『神童 宇佐見蓮子 その頭脳はどこからくるのか』
そんな見出しだ。
「まえりべ……ううん、言いにくいわ、その名前」
「じゃ、メリーで良いですわ」
「メリー、この本棚どうやって組み立てるの?」
「論理的に」
「……ふむ」
蓮子さんはバラバラになった本棚を眼の前にして、熟考を始めてしまった。私は冷蔵庫に食料を仕舞い、彼女の隣に座る。なんとなく桜のような香りがした。
「出来そう?」
「この部分とこの部分、負荷が分散されないから傷みやすい」
「なるほど……って、それじゃ組み上がらないわ」
「――確かに」
真剣に頷き、また考え始める。そんな様が傍から見ていて、なんだかおかしくて、思わず笑みになる。仕草がどこか子供っぽくて(実際子供だけど)、こんな子がまさか学生の頭脳の頂点にいるなど、誰も思わないだろう。
「出来そう?」
「二日貰えれば」
「……ま、いっか。じゃ、飲み物と食べ物、二人分買ってくるわ」
「そうなるとまずベッドかな……」
「ああ……じゃ、お任せするわ、蓮子さん」
「蓮子で良いわ」
「蓮子」
「うん。私合成オレンジジュースで良い」
「はいはい」
冷蔵庫からイナゴ氏を取り出し、私はまた外へ出る。一階におりて大家さんの部屋に赴き、インターホンを鳴らすと直ぐ出て来た。おばあちゃまは足腰がまだまだ丈夫らしい。
「おばあちゃま、イナゴなんて食べます?」
「メリーちゃんかい。食べるよお、大好物さね」
「良かった。はいこれ。これからよろしくお願いします」
「ええ、ええ。おばあちゃんが死ぬまでここに居てね。ま、あと何年も生きとらんだろうけど、ほっほ」
おばあちゃまの自虐ギャグが炸裂する。
私は微妙な顔を浮かべると、おばあちゃまもそれを悟ってか、また余計に微笑んでくれた。
「では」
「あいよ。よろしくね」
自分から踏み出した一歩だけれど、何かと不安だったけれど。
そもそも、親の意見を跳ねのける、という行為自体が初めてだったのだから。
けれども、まあ、なんとかなりそうだ。
「メリー、冷蔵庫のジュース飲んで良いわよね?」
「え、なにそれすごいずうずうしい。てか降りてこないで組み立ててくださいな早く」
「えげつないくらい貪欲じゃなきゃ、頭も良くならないの」
「はあ。まあいいわ。飲んでなさい」
「ん。じゃ、頑張るわ」
「頑張ってね」
まあ……なんとかなりそうだ。たぶん。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 19時30分
見上げる月は、まるくて大きい。
「――――あ?」
「はい、おまちかね!! かの有名な大馬鹿女郎、嫌われに嫌われ、もはや逆に好かれているんじゃないかと噂の八雲紫のソックリさん、マエリベリー・ハーン女史だ! 酔っ払い共、拍手しやがれ!!」
好奇な目が私に注がれている。ふと辺りを見回せば、頬を赤くした人達が、取り敢えずノリで拍手しておけ、といった投げやり感たっぷりに笑っていた。隣には一升瓶を抱えた魔理沙さんがいる。遠目に見ると、阿求さんと慧音さんに挟まれるようにして、蓮子がオドオドとしていた。
「あれ、魔理沙さん?」
「まあまあ、ほら、来たばっかりだ、さっさと一杯キメろ」
と、コップ一杯の……臭いを嗅ぐ、焼酎だ……を、渡される。総勢数十人からのイッキコールが巻き起こり、やむにやまれず私はそれを胃の中へと流し込んだ。思いの外強くない。観ると、魔理沙さんは二種類の酒樽を背後に構えていて、片方はどうやら水のようだ。薄めてくれたのだろう。が、そんな事は知らない周りが、私の呑みっぷりに感心して拍手を喝采だ。
これは優しさじゃない……こんな姿見せつけたら、死ぬほど呑まされるにきまってる。
「まあ……紫ったら……なんか、可愛くなってしまって……」
艶のかかった声が耳元で聞こえる。ひんやりとした空気に振り返ると、いつの間にかそこには、魔理沙さんが要注意を勧告した亡霊姫がいた。ビクッと一歩下がると、彼女は私を放したくないのか、スグサマ私の手を掴み取った。
「幽々子様、それ紫様じゃないです」
「妖夢、そんな事はどうでも良いのよ」
「はあ……まあ何でも良いです。魔理沙さん、もう少し強い酒はないのか喃」
「こいつ、もう酔ってやがる……そんなだから半人前(ナマクラ)なんだ」
「ナマクラと申したか」
「半人半霊だったなそういえば」
「はあ……まあそうですけど……。うっ……く……はひー……お酒おいしー……」
「……幽々子の隣に居ると、水まで美味くなるのか……そうだ妖夢、なんか芸しろ芸」
「――お見せ仕る、幻想郷無双と言われたその太刀筋を」
「ほう?」
「白玉楼を守る事……魂魄家はそれにつきまする……」
やいのやいのと背後が盛り上がっている所、私は完全にその幽々子様とやらに捕まってしまう。その女性は優雅に微笑み、私に御酌をし始めた。お猪口に注がれた日本酒程度なら良いけれど、鼻を近づけてそれは違うと直ぐ気が付いた。
「……スピリッツ」
「スピリタスですわ」
「や、そういうのはちょっと……ご遠慮願いたいですわ」
「……呑んでくださらないんですのね……」
よよよ、と幽々子嬢が泣き崩れる。
気が付いた、もう早々に気が付いた。
こいつらは最悪だ。
「謀った喃……謀ってくれた喃……」
後ろで白髪オカッパが騒いでいる。刀ってそんな持ち方するんだっけ? 彼女は無音のまま太刀を『放ち』、魔理沙さんが投げた徳利を真っ二つ……いいや――バラバラにした。
「お美事!! お美事にごさいまする妖夢殿!!」
「ざっとこんなもんです。さあ、おひねりください。白玉楼の食費の為に」
酔っぱらってる割りには現実的らしい。私は此方に転がって来た徳利の破片を拾い上げる。それは、見事に細かく、賽の目切りになっていた。やっぱり人間じゃないらしい。
「……幽々子、さんでしたっけ?」
「いやん、他人行儀だわ。ゆゆこって呼んでくださいまし」
「呑まなきゃだめ?」
「人間が作ったお酒なのだから、人間が呑めない筈がないわ」
スピリタスっていうのは、基本果実酒にしたりするものであって、直呑みなんて変態のする事だと思う。とはいえ、消毒につかえて、身体はあったまって、ガソリンの代わりにもなるぐらいだから、便利といったらそうだ。いやだから、普通には呑まないのだ。でも幽々子さんの目が怖い。呑まなきゃ殺す、という雰囲気だ。呑んでも死ぬのに。酷すぎる幻想郷。
私は覚悟を決め、一気に流し込む。
「くぅ……げほ……わたしゃ露西亜人か!!!」
「いやぁーーーッかっこいいーーッ幽々子気絶しそうッ!!」
「気絶しれっ」
ケタケタと笑う亡霊姫の頭をひっぱたく。叩いた後からヤバいと思ったけれど、彼女はそんなものどうでも良いらしい。だいぶ少量だから良いものの、こんなものコップで出された日には訴訟モノだ。
「うおあ……ぐ……」
「流石労働者燃料ね。はい、お水」
「……」
無言で胃の中を薄める。
「それで良いのよ。ここに居る人達、みんな自分の事、大した存在だとは思っていないの」
「……はて」
「怪物みたいに強い人も、私みたいに簡単に人を殺せる人も、結局は皆、人間に破れた者達、人間でいる事を諦めた者達なのよ。自尊心は大きいけど、人間に馬鹿にされて仕方が無いって、思ってる。私達は、幻想的な風景の中でしか暮らせない、ちっぽけな存在」
「……」
「人間は弱い。人間は一人じゃ生きて行けない。人間は脆い……けれど、行く川の流れのようにある事こそが、変容を重ね進化し続ける人間のが強さ」
「それは、経験則か、何かですか」
「……はて、何だったかしら」
急に落ち着いたかと思えばとぼける。幽々子さんはお猪口から一口して、ゆっくりと長い溜息を吐いた。良く見れば、とても人とは思えない程に白い肌で、全体的な雰囲気も薄い。お酒を口にしていなければ、かくも華やかで、そして風雅な人なのだろう。……本当に幻想郷は、その名の通り幻想的な美人しかいない。現実的な美人なんて、観た事がない。
「いつまでも貴女を一人占めしていると、怒られるわ。ほら、次へ回りなさい、人間」
「殺されちゃ堪りませんものね」
「ふふ、ええ」
幽々子さんに手を振られ送られるも、この大魔界状態の宴会場で、私は果たして何処へ行けばよいのだろうか。いつの間にか手元には瓶を握らされている。琥珀色の液体はだいぶ年季の入った瓶の中でなみなみと揺れていた。ラベルを見る。グレナボン1852年とあった。これ、現実に持ち帰ってオークションに掛けたら、一財築けるかもしれない。
「ああ来た来た。待ってたわ、待ってたわ」
「いや、来てないですわ、通りがかっただけ」
「いいのよ、そんな言い訳しなくても。私の隣に座れて光栄でしょう?」
緑髪のチェック柄、幽香と言ったか。彼女はヘラヘラと笑いながら、自分の隣を手でぽんぽん叩いている。……仕方なく、私はそこへ腰掛ける。幽香さんの周りを囲っているのは、魔理沙さんに普通と評された大道芸人と、赤い髪をぼんぼりで結った女性だ。幽香さんと赤ぼんぼりの人は、それ相応の年齢層に見えるけれども、大道芸人の人はなんだか少し浮いている。私が入って丁度均等がとれるぐらいだ。
「あら、お土産?」
「外で売り払おうと思って」
「やめなさいやめなさい。お酒なんてのは呑まれて幾らよ」
と、私からウィスキーを奪い去り、瓶の首を――手刀で弾き飛ばした。なんかおかしい。何がおかしいって切り口が、水圧カッターで斬ったみたいになめらかなのがおかしい。手ってそんなに切れ味良かったっけ?
「はいダバー」
「あ、馬鹿幽香、もったいないわね」と大道芸人。
「年代物のウィスキーかあ。乙女っぽくない飲み物だねえ」と赤ぼんぼり。
「酔っ払いに乙女も鼻くそもないわ。はい、メリー」
「……幻想郷では人間にアルハラするのが流行りなのかしら? あそこの亡霊に、スピリタス呑まされたばかりなのですけど」
「ええ……あんなの呑んでシラフで居るなんて、魔理沙の言ってた通り、めちゃくちゃ強いのかしら?」
「さあ。限界ぐらい知ってるつもりなんですけれど。きっと幻想度が高いから」
「度数が高くてもイケる、と。いいわねえ、お酒の呑める女性は」
グラスに注がれたウィスキーを眼の前に持ってこられる。仕方なく受け取り、私は三人と乾杯した。
「お……おいしい……か、どうかは別として。物凄く深い香。マニア向けの飲み物だわ」
そもそも、私は合成しか呑んだ事がない。
「ああ、ぶっ倒れても大丈夫よ、メリー。あそこにほら、看護婦がいるから」
「ええと……あのウサミミを裸にしている人かしら」
「そうそう。死にかけても人間ぐらい生き返すでしょう。薬の副作用で、もっと楽しくなってしまうかもしれないけれど」
「……」
三口呑んで手元から放す。今夜が山なんだ。幻想郷で色々あったけれど、今日こそが本当に正念場だ。ここを超えなければ、私には未来がない。というか、どうして焼酎、スピリタス、年代物ウィスキーなんてコンボが完成するのかがまず解らない。幾ら幻想郷が幻想郷だからといっても、ものには限度があるのではないだろうか? まずビールでしょう? 蓮子は空気読まずにライチサワーとか頼みだすけど、ビールでしょう? 出て来た唐揚げに勝手にレモン汁をぶちまけるかの如き所業とはこのことだ。
「居酒屋で出て来た唐揚げにレモン汁をぶちまける奴を私は三人程殺したわ」
「あら、幽香、奇遇ね。私もまだ煮えていない鍋を自分の箸で掻き回す奴を二人程縫いつけたわ」
「ああ、解る。私も是非曲直庁の飲み会で出て来た本マグロの刺身をじゃんけんで決めずに食った奴を三途で泳がせたよ。でもそいつ閻魔でさ、めっちゃめちゃに怒って、私を解雇だ解雇だなんて騒いだんだけど、映姫様がもーね、ほら、白黒つけなきゃ駄目なタイプでしょ? 当然ローカルルールも守らないと許せない人でさ、そいつまた三途で泳がされて……」
「くっ」
「ぷぷ」
「あっはっは!!」
どんな話題なの、どんな話題なのそれ。何? 単語が解らない。面白話なの? とりあえず話題に乗ろう。
「私の友達も、まずライチサワーとか言いだすのよ」
「ライチサワー(笑) は、別に良いんじゃないの?」
「え、私女だけど……まずビール。小町はぁ?」
「え? なに? 幻想郷の里は最初に何頼んでも良いの? 彼岸だと日本酒頼まないと釜ゆで地獄番させられるんだけど」
どうやらここで意見が分かれたらしい。私はビールはなので、大道芸人につこう。
「ビールですよね、ええと」
「アリスよ。アリス・マーガトロイド……昨日来てくれたわね……」
「ええ。あれ、魔法なんですって? 魔法使いだったんですのね」
「人形遣いなの……他にも色々出来るけど。ふふッ」
アリスさんはなんだか優しく微笑み、顔を赤らめている。もしかして酔っているのかもしれない。彼女の手元を見ると、指四本まで注がれたウィスキーがもう三分の一も残っていない。流石にそれはペースが早すぎる。チェイサーもないではないか。
ふと、私は隣に座る二人、幽香さんと小町さんと呼ばれた人を見る。とても機嫌の好さそうな笑みだけれど、その視線はアリスさんに注がれていた。私に強引にお酒を勧めて来ないのは、そうか、現在の標的はアリスさんなのだ。
「おお、アリス。グラスが乾いちゃうよ」
そういって小町さんが注ぐ。アリスさんは否定する気もないのか、否定する理性が飛んでるのが、おっとっとっと、なんて笑っていた。ウィスキーをおっとっとする光景を見れるのも、きっと幻想郷ならではだろう。あれはそういう飲み物じゃない。
「ううん……こういうのもいいわねえ……情緒の欠片も……ひっく……ないけど」
幽香さんの頬が釣り上がる。同時に振り返り、遠くの席……咲夜さん達が居る方向に目配せした。私もそちらを見ると、咲夜さんがコクリ、と頷き、次の瞬間には……アリスさんの隣に、紫色の人が現れた。咲夜さんが時間を止めて運んで来たのだろう。そうそう、名前は知らないけれど、紅魔館の図書館で本を肥やしにしている人だ。
どうやら紫パジャマの人もだいぶ酔っぱらっているらしく、かなり目が座っている。ウィスキーを見つめたままうっとりしていたアリスさんが隣の紫パジャマの人に気が付き、少しだけ目を瞬かせ、恥ずかしそうにした。
なるほど。
「あら……パチュリーじゃない……どうしたの?」
「貴女こそ……あら……いつ移動したのかしら……あ、はい、乾杯」
「あ……う、うん。かんぱい……」
「……そ、そうだ。この前、人形ありがとう。小悪魔が、喜んでたわ。可愛いって」
「そう……簡単なものだったけど」
「簡単なのに、あんな精巧なものが出来るのね……アリスは器用だわ。私ったら、手先はあまり得意じゃなくて」
「私なんて大した事ないわ。私も、パチュリー程の知識があればなんて、いつも思うもの……」
「じゃ、じゃあ。今度またウチに来て、勉強会でもしましょうか?」
「あら、いいの? お言葉に甘えて……お邪魔しようかしら」
「え、ええ、是非そうして。お礼もしたいから……」
「そんな、お礼なんてされる程の事じゃないし」
「アリスは自分を過小評価してるわ。貴女は天才よ。作る事にかけては幻想郷一だわ」
「ぱ、パチュリーも、魔法にかけては右に出る者はいないんじゃないかしら?」
うんうん、と私は頷く。女性で好き同士だと、互いを褒めちぎってコミュニケーションをとるタイプのカップルが多い。女性は褒められるのが好きだ。男性はその辺りを理解せず『言葉が無くても伝わっている筈』なんて思いがちで、行き違いになってしまう事例は多々ある。ちなみに私と蓮子はそういうタイプじゃない。駄目出ししあって補完している節がある。
一人納得してから、私は隣に視線を移すと、いつの間にか観客が増えていた。一様にニヤニヤしながら、片手にはコップやグラスやジョッキを抱えている。きっと幽香さん達はツマミ作りを任命されたのだろう。恐ろしいことだ。
「そんなことないわよ!! アリスの方が凄いわ!」
「だから違うってば、パチュリーの方がよっぽど立派な魔法使いよ!!」
褒め殺しからの発展技、痴話喧嘩だ。褒めあいながら喧嘩してるのだから凄い。だけど直ぐ仲直りするのも予定調和。
「あっ……その……アリス、ご、ごめんなさい。私ったら……」
「うっ……う、うん。私も、ごめんね、パチュリー」
「アリス……」
「パチュリー……」
……二人が手を繋いでウンウンと頷き合っている。顔が近い。隣からは『ほらそこだやれ』だの『いってしまえ』だのと聴こえて来る。私はあんまりにもお腹いっぱいなので、腹をさすりながら席を離れる。ここに居たら、お酒が甘くて仕方が無い。確かに、ウィスキーのツマミにチョコレートってのもあるかもしれないけど、私はしょっぱい方が好きだ。
酒のアテを人物関係から作成するまで成熟しきった幻想郷の宴会は、小娘の私にとってレベルが高すぎる。どこかもう少しまともな所はないのだろうかと視線を巡らせると、紅白色の人が空を浮きながら笑っているのが見えた。
「く、ふ、あははははっ」
「あの、霊夢さん」
「え、何? たぶんメリー? ふふ」
「なんでもないです」
「なんでもないの? おっかし、あっははははッッ」
だめだ。これはダメ人間だ。これに絡もうというのが間違いだ。
そんな風に飽きれている所で、私は肩を叩かれる。振り返ると、そこには一仕事終えた咲夜さんがいた。そのまま手を掴まれ、私は所謂紅魔館組の中にポンと据えられてしまった。正面には幼女、右には中国人がいた。レミリアさんと紅美鈴、紅美鈴さんだ。
「あら咲夜。今日は血じゃなくてお酒を呑みに来たのだけれど」
「古い知人ですわ」
「なんかどっかで見た事あるのよね。スキマのアレに似てるからってのもあるけど。ああ違う、確か」
「そうですわ。紅魔館でお茶していった人間ですの」
「メリー、だったかしら」
「流石お嬢様、御聡明でいらっしゃいます」
「わたしゃボケ老人か。で、メリー」
「はい」
「注げ」
傲岸不遜にも、唯我独尊にも、彼女は私の前に大きな盃を据えた。私は近くにあったボトルを手に取り、それを注ぐ。たぶん盃に注ぐようなお酒じゃないだろうけれど、当然そんなものこのひと達が気にする訳もない。
「呑まないの?」
「え? 私が呑むんですの?」
「私の酒が呑めないって?」
「いや、注いだの私ですけれど。まあいいです、呑みますわ」
「ほう」
ああ、相手が吸血鬼だと思って、調子に乗って注ぎすぎた。こんな盃、儀式か横綱しか使わない。
私のアルコール摂取量は明らかにキャパシティを超えている筈なのに、今日に限ってはほろ酔い程度で気持ち悪くならない。肝機能が超人化したのか、ただ単に私の秘められた力が解放されたのか。どっちも少年漫画的だけど。
向けられた盃を受け取り、うだうだ言わずに飲み干す。うわこれブランデーだ。
「お、おおー……咲夜、こいつ人間なのに、凄いじゃない」
「十年前から目をつけていましたの。お気に召しましたか」
「ぶは……なんで酔わないのかしら……まあいっか。ああ、ほら、レミリアさんもどうぞ」
「あ、うん」
「こんなものでよろしかったかしら」
「(いや多いだろ……)ま、まあそうね。それにしても盃交わすって、義姉妹の契りでも交わす気かい、お前は」
「お嬢様、広域指定暴力団紅魔組の組長が何をおっしゃいますか」
「それは違うだろう? 人間保護するかわりに貢いで貰ってるだけだから」
「それは暴力団ですわ」
「レミリア組長、呑まないんですの?」
「誰が組長だ! 呑むわよ!!」
そこは流石の吸血鬼か。鬼というだけあって呑みっぷりも堂に入ったものだ。胡坐をかいて盃を乾かし、口元を擦る姿は幼女なのに男らしすぎる。私はレミリアさんと咲夜さんを見比べ、ひとり頷いた。やっぱり妖怪は歳を取らない。これだけ信用のおかれる咲夜さんは、このままでは間違いなく、先に歳をとって死ぬだろう。
幽々子さんは、行く川の流れはたえずして、なんて歌を比喩に持って来たけれど、信じあえる者同士が同じ時間の中に居られない、というのは、とても残酷な事だ。レミリアさんは咲夜さんが今後、人間の寿命に抗えないまま死んで行く姿を目の当たりにして、普通に居られるだろうか。レミリアさんの姿を、微笑ましそうに見守っている姿を見ると、殊更胸が痛む。
……魔理沙さんも、たぶん今後、霊夢さんの死に際に出会う事になるのだろう。妖怪は人間を食べる。けれど、人間の全てを単なる食料だと思っていないなんて事実は明白だ。
「おい人間」
「ええ」
「今、私達に何を見た?」
「言葉にする必要もない事ですわ。大事な事ですもの」
「達観したつもりか。ひよっこめ。現実を目の当たりにした時、その達観なんてものは角砂糖より簡単に割れて砕け散る。現実っていうのは、それほどまでに過酷で、残酷で、痛々しい。幻想郷においても、手を施さなければ現実は現実のままだ」
「良く解りましたわね」
「何年生きてると思ってる。お前の眼を見れば、直ぐわかるわよ。ふん、まあいいわ。咲夜」
「はい、如何なさいましたか」
「お前はそのまま死ね。人間のまま死ね」
「ええ、仰せのままに」
「質素な墓に、質素な花を飾る。慎ましく、瀟洒な墓だ。神式か? 仏式か? 基督式か?」
「神式でお願いしますわ」
「そうか。じゃあ単なる岩だ。お前の墓は、紅魔館の庭石。末長くそこに居ろ、自然物の如く」
「――ええ、ハイセンスですわ、お嬢様」
……。
私には何も言えない。知ったかぶりをした自分が恥ずかしくてたまらなかった。ここの人達はみな口を揃えて言う。人間は素敵なのだと。元から人間でない者も、元は人間の者も、人間至上主義者ばかりだ。ただ、ここには人間の価値を計る為の秤が沢山あって、自分の存在について悩むべき要素が沢山ある。
秤を使って、自分の価値を確かめ、道を決めるだけの世界が存在する。異能の対価を寿命で支払う咲夜さんと、永遠に幼いままのレミリアさんの間には、最新技術で作られた極薄特殊剃刀一枚だって入る隙間はない。二人の想いと価値が、そこには完成された形で誇らしくそびえ立っている。秤を弄り倒した結果なのだろう。
「後悔して反省して糧にしろ。昇華しない後悔は単なる荷物だ」
「勉強になりましたわ、レミリアさん」
「よろしい。なんにせよ、お前はどうも、つつけば破裂しそうな水風船のようだから、柄にもなく心配してしまう」
「……自覚は、あるのですけれどね」
「自覚は行動を伴わなければ自覚していないのと同じだ。生きるゴミにだけはなるな。難しい事もない。かくの如くあればいい。咲夜が咲夜であるように、私が私であるように、お前がお前であれれば、ゴミにもならんだろうから」
「何故そんなに、心配してくださるんでしょうか」
「咲夜がわざわざ連れて来たからだ。私からすれば人間は食べ物にすぎない。それを捌く咲夜もまた人間の価値に対しては冷めている。けれど咲夜は私の前に連れて来た。では若者を連れて来られた年寄りである私は、それに説教しなきゃいけない」
「身に余りますわね」
「なんとでも言え、人間。ほら、さっさと何処かに消えてしまえ」
レミリアさんが手をぷらぷらさせて私を追い払う。咲夜さんは笑顔だ。私は立ちあがって礼をしてから、背を向ける。また説教されてしまった。ここに来てから、もう何度目か。けれど、それだけ彼女達妖怪からすると、私は危うく見えるのだろう。私の能力如何に関わらず。
では、もう一方の人間はどうだろうか?
その辺りに落ちている未開封のビール瓶を手に取り、私は漸く蓮子達がまとまっているグループに辿り着く。
蓮子がぼんやりと私を見上げ、少しだけ笑う。右には慧音さん、左には銀色長髪、その横には阿求さんがいる。
「蓮子のお世話、おつかれさまです」
「おお、メリー。蓮子が寂しがっていたんだ。ああ、その隣にいるのは藤原妹紅。竹林の焼鳥屋で、藤原不比等の娘だ」
「物凄い経歴の人物には何人かお会いしたので、今更驚きませんわ、慧音さん」
藤原妹紅と呼ばれた人は、私を訝るような目をしてから、首を振って、また会釈した。不比等の娘となると、稗田阿礼と同年代の人物だ。古事記、日本書紀に近い人物が当たり前のように暮らしているのだから相変わらずぶっとんだ世界観だ。
「メリーですわ、妹紅さん。貴女も、人間を辞めた方?」
「辞めさせられたタイプだ。不本意だよ。まあ、今は現状に満足してるけどね」
妹紅さんの正面に座らされ、御酌される。彼女は私をじっくり見てから、目を瞑って思い出すように語らい始めた。不本意だとは口にするけれど、お酒のツマミに出来る程度にまでは、その因果も薄まっているのかもしれない。
父を辱めた蓬莱山輝夜への怨み、人知を超える蓬莱の薬、それを作る八意永琳。私は時代小説の読み聞かせでもされるかのように、黙ってお酒を呑む。お年寄りの話は静かに聞くものだ。
「しばらく幻想郷ではなく、外にいらしたんですのね」
「ああ。大東亜戦争が終わる頃までかな。日本の幻想が急激に死滅した頃まではいたよ。時代に乗って神様にでもなって落ち着こうかと思ったけれど、敗戦で居心地悪くなってね。神道も国家から切り離されたし、安定収入がないんじゃねえ」
「痛み入りますわ。けれどそうなると、旧近代史の生き証人になりますわね」
「そうだね。ああ、お前さんは小泉の子孫だって? 何度か見たころがあるよ、八雲」
「まあ。世の中狭いですわ」
「島根を回っていた頃の話だ。島根といえばなんだい?」
「出雲大社、大国主、あとは須佐乃男や稲田姫、因幡の白ウサギなんかもかしら」
「永遠亭の白ウサギ。制服じゃない方だ」
「ああ、あちらで全裸のウサギに蝋燭を垂らそうとしている方ですわね」
「因幡の白ウサギだ。私なんかよりも年上だからな……永遠亭の平均年齢は一体いくつなんだか」
「……」
「お前のご先祖様が幻視した神国出雲の話が知りたいなら、あいつに聞くのが良いだろうさ。貢物持っていけよ」
「世の中狭いですわ」
「狭いさ。因果に寄る私達幻想物なんて、全部一括り。お前さんも括られてるかもしれないな」
妹紅さんがお酒を一口して笑う。良く怒り、良く笑う人達だ。歴史を超え時代を超えて来た人々が集まる幻想郷は、終の住処。あとは終わるまで、ここに居るだけ。外に出る気もなく、何かを生み出そうという気もないけれど、前向きに現時間を愛している。短い一生の先を追われる事だけが生きる印である私達とは根本的に存在理由が違う。
「貴重なお話、ありがとうございます」
「いいや。年寄りの戯言だよ。お前さん達は前を見れば良い」
妹紅さんが頷き、歴史を蒐集する二人もまた、頷く。
「では永遠亭の方々に、顔を出してみようかしら。蓮子は?」
「ん。も少しここにいる。用事が終わったら、呼んで」
「はい。酔い潰れないでね?」
蓮子に釘を刺して、私は件の永遠組が固まる方へと足を進める。
そこに広がる光景はなんというか、なんとも言えない。因幡の白兎と言われた人物は服を着ているけれど、この制服兎の方は制服を着ていなかった。つまり鮫は因幡で兎は制服だったのだろう。幽香さんが看護婦と言っていた女性は私に気が付くと、多少訝る目をするが、すぐ笑顔になる。いつもこれだ。皆、特に力がありそうな人達は特に。
それだけ八雲の影響というのは、強いのだろう。
「いらっしゃい。待ってたわ。予想以上に似ているのね、ええと」
「メリーですわ」
「永琳よ。竹林で薬師をしているの。二日酔いに効く薬なら、常備してあるわ。いる?」
「それよりも、急性アルコールで倒れた時の対処をお願いしたい所ですわ」
「ごもっともね。さ、こちらに座って」
永琳さんの隣に招かれ、私は静かに腰掛ける。私の正面には裸で半べそをかいた耳長兎の人、それを超えた向こうに、美味しそうにお酒を呑んでいる、黒髪の人がいる。もっさりした耳の因幡氏は、新しい苛めの対象が増えたと喜んでいる様子だ。そうはなるものか。
「メリーですわ」
「蓬莱山輝夜よ。お姫様気取って、はて、何年だったかしら」
「古典文学の主人公に逢えるなんて、光栄です」
「ああ、妹紅から聞いたのね。永琳、御酌してあげて」
輝夜さんはニコニコと笑ったまま、永琳さんに指示する。蓬莱山輝夜。竹取物語の主人公。ともすれば、本物の月人か。私達の科学では及ばない領域に住んでいた人なのだろう。薄暗い中でもハッキリと際立つ彼女の美貌は、まさしく魔性と言える。これは、おえらいさん方がこぞって求婚するのも仕方が無いかもしれない。
「頂きます」
「どうぞ」
頂いたお酒を口にする。普通の日本酒のようだ。ただ、幻想郷で呑んだ日本酒よりも澄んでいる。
「魔理沙がふれまわっていたけれど、貴女は未来人なんですって?」
「ええ、たぶん、そういう定義になると思いますわ」
「今……現代から、何年後?」
「六十年ほど先、です」
「その時代にも……あの家は残っているのかしら」
輝夜さんはぼんやりと空を見上げて呟く。あの家、とは、恐らくかの家、だろう。
「神社も、お寺も、昔程は拝まれなくなりましたけれど、かの家はまだありますわ。臣民の精神支柱として」
「不思議なものだわ、ねえ永琳」
「初めは征服者として。次は支配者として。次は傀儡として。はては現人神として。そして貴女の時代では、再び神に祭り上げられたのね。忙しい家だわ、本当に」
「でも、いつもやむにやまれぬ状況で、変化するものですわ、お二方」
「そうねえ。ねえ、永琳」
「ええ。そうね……変化。良い言葉ね」
永琳さんは少しだけ視線を落として、静かに呟く。何か、琴線に触れる言葉だったのだろうか。長い間生きる人々にとって、変化というのは悉く稀なのだろう。魔理沙さんの話では……この八意永琳という人物は、突拍子もない話だけれど、億単位で生きているらしい。生物が人間の形に進化する前からの、人間の形をした何か……それは神と称するものではなかったか。
「罪に時効はないわ。私達は、咎を背負って生きる身。例え、月の姫君達が私達を愛しく思っていたとしても、私がした事は、つまりそういう事。メリーさんは、何か変化が欲しいと、望んだ事があるかしら?」
「具体的には。けれど、人の身で人の中に生きていると、どうしても違うモノになってみたいって、そう思う事はありますわ」
「凡庸ね。でも、その通り。私も結局そうだった。私は、変化が欲しかった。ね、輝夜」
「――たとい私達が永遠になろうとも、世界は変化を免れない。そして、たとい世界が永遠になろうとも、私達は変化を免れない。世はまさしく、絶えまない経過の中にある。隔絶された仮初の永遠は、いつかは必ず崩れて消える。素敵よね、メリー」
その言葉を、どう判じれば良いだろうか。まともな質問でない事は承知しているが、荒唐無稽すぎる。意味がない……のだろうか。この人々の瞳に貫かれる私は、答えを出すべきなのだろうか。
「……儚くたゆたう月はまさしく、永遠ではないのよ。私達は、そういう道を選んだ。苛めてごめんなさいね、メリー」
「い、いえ。輝夜さん」
二人が微笑む。やはり、答えはなかったのだろう。
二人はきっと、この幻想郷住人の中でも、飛びぬけて長い年月を歩んだ人達だ。今の質問も戯れ……とすれば何の事もない会話だけれど、何か深い意味がある可能性だってある。それが普通の人ではなく、私のような特異な人間に向けてだとすれば、尚更だ。
何か次の言葉を紡げれば。そう悩んでいると、私の前に因幡の人が割って入った。
「辛気臭い話。この二人に付き合うと、脳が融けるよ?」
「まあ、酷い事いうのね、イナバ」
「……反論はしないわ、てゐ」
失礼にも言い放たれた言葉だったが、二人も慣れているのだろう。因幡氏は私の正面に座ると、ドンと構える。神話に出て来る白兎……ああ、そうだ。浅知恵を働いて蹂躙された所を、イケメン男子に助けられた過去があった筈だ。
「妹紅さんから聞きましたわ。出雲に詳しいとか」
「ま、そりゃそうよ。あそこに生まれてあそこで暮らしていたんだもの。国引きで一緒にこっちに来てしまったけど。ま、丁度良かったかな?」
「国引き? ご教示願えるかしら?」
「私達が暮らしている竹林は、元は向こうの高草郡にあったのよ。でも、幻想郷に国引きされて、こちらに移ったの」
因幡てゐさんは、ニンマリと笑う。私としては出雲の過去を聞きたかったのだけれど、どうやらてゐさんは違う話題に持って行きたいらしい。何故そうなるのか。まあきっと、どうせ、私の所為だろう。
「どういう意味です? ああ、これ、供物ですわ」
そういって、先ほどくすねて来た一升瓶をデンと据えると、彼女は偉そうに頷いた。
「殊勝な心がけ。神様にはそうでなくちゃね。幻想郷の奴等ときたら、全く」
「てゐ」
「あー、コホン。たぶん、古くからここに住んでいる人達は気が付いていると思うけれど、幻想郷と言う場所は、国引きによって作られたわ。地理的に有り得ない土地が沢山ある。魔法の森は西洋から、竹林は出雲から、八ヶ岳ももっと遠かった筈なのに、こんなに近くにある。それに……諏訪湖。あれだって、普通には幻想郷入りなんてしない」
――ぐるりと、頭の中が回る。止めようと思っても、止められない回転。脳が、思考が、洗濯機に入れられたように、何度も回転、反転する。
「刺激強かったかな。お師匠、これ、全部話しても大丈夫なタイプの人間んでしょーか。いやそもそも、人間なのかな?」
「その判断は、当人によって決められるべきだと思うわ」
「ま、出雲の話しろっていう事だし。ねえ、メリーさんさ。ヤツカミズオミツヌって神様、知ってるかしら」
「……いいえ。勉強不足で」
悪酔いよりも、よっぽど性質が悪い。
「八束水臣津野命。小さき国だった出雲を、土地を手繰り寄せて大きくした神様。出雲国風土記の根幹部分。なのに、皆には忘れられ、どこにも取り上げられることのない、スサノオの孫。この力は、他に類を見ないわね。そう、まるで、境界線を弄ったように、土地を引き寄せては、大きくする神様」
てゐさんは、盃を小さく傾けてから、ゆっくりと私を指差す。
「幻想の、境界線を操る、そんな人。凄く気になる。貴女は誰、メリーさん。八雲何某は、まさしくこれに当てはまる。いつから生きているか、何を考えているか、サッパリ解らないそんな妖怪。貴女はそっくりだけれど、アレの親類?」
「わ……私は」
ぐるぐると思考が周り、ぴたりと、一つの場所に留まった。
大海原へと続く長い長い綱。
くにこくにこと、掛け声があがる。
狭き国を広き国に。
うつくしきくにに。
りそうのせかいに。
「てゐ」
「む……」
見ゆる筈のない幻想が、何者かによってかき消された。気がつけば私は、永琳さんの胸の中にいる。ゆっくりと視界が定まって行き、ようやく辺りを見回すだけの余裕が出来た。それにしても柔らかいなあ……。
「あまり、不用意にそういう事を言うモノじゃないわ。この子は彼女に似ているかもしれないけれど、とんでもなく遠く……それこそ、時間の先から現れた人よ。それと、彼女を同一視するのも、失礼だわ」
「ま、人間らしい反応も見れたし、良しとするわ」
「もう……アナタはウドンゲでも苛めていなさい」
「こわやこわや。触らぬ神に祟りなし」
てゐさんが脱兎の如く……いやまさしくそのままに逃げ出し、場が静まり返る。私は何も口にする事が出来ずにいたけれど、やがて輝夜さんが手ずから、こちらに御酌してくれた。
「ま、戯言よ。イナバの話なんて、半分以下で聞いてればいい。あとは、お酒で溶かせばいいわ……って言っても駄目ね。聞きたい事がありそうな顔だもの。ほら、永琳の出番よ。私はそういうの、詳しくないから」
「ふむ」
永琳さんは溜息を吐いて改まる。あまり昔話もしたくないのだけれど、と付け加えたけど、どうやら聞いてくれる様子だ。
「永琳さんは、長い間生きていると、聞き及びましたわ」
「……恐らく。ここでは、一番か二番位に」
「ヤツカミズオミツヌという神様を、永琳さんはどのように考えていますか」
「奇特な能力の神ね。イザナギとイザナミ程では無いにしても」
「……私は現代の、科学世紀の人間ですわ。国生みをまともに信じてはいませんの。かの家も、歴史の重みを蓄えているからこそ、現代人も有難がるだけであって、国家神道政策を取っている訳でもありませんし」
「宇宙がどう出来あがったか誰も知らないように、地球がどう出来あがったか根拠を立て並べた理由でしか解らないように、所謂日本で言う所の神様という存在もまた、誰も知らない間にいたのよ。そしてまた、私も知らない間に、この姿そのままに、生まれた」
「……その、姿のまま?」
「そう。私に幼少期なんてないわ。若かった自覚はあるけどね。非科学的で申し訳ないけれど、そうなったものはそうなった、としか言いようがないの。イザナギとイザナミが国を産んだというのならそうだし、ヤツカミズオミツヌが国を引いたというのならば、きっとその通りなのよ。貴女の世界では、宇宙がどう出来あがったのか、論理的に説明できる時代になった?」
「――生憎。零から生まれたという仮説しか」
「国が生まれ、国が引かれる事もまた同じ。思念、想念として湧出した神々は、特異な能力が備わっていたりする。役目を終えれば黄泉に下り、根乃堅洲国に下り、常世へと隠れる。人間が時折思い出して拝む事で、またひょっこり顔を出す。観念的よねえ」
また一つ溜息を吐いて、渇いた笑いが響いた。質問すればするほど深みにハマりそうだ。この人は……本当は何もかも知っていて、それを教える気であっても……、正しく言語化出来る術がないのかもしれない。だから結局『観念的』なんて言葉に収まっているのだろう。私は宇宙の始まりも知らないし、人間は進化して出来上がったと信じている。けれども、眼の前には、いや、幻想郷にはそんなものでは説明のつかない人々が数多と暮らしている。当然、夢じゃない。
「では、そんな奇特な能力を使える人間がいたなら……永琳さんは、どう判断します?」
「ありえないわ、そんな人間。境界を割り、常識を穿つなんて……いえ……いや……貴女は……」
「魔理沙さんは、なんて触れまわって、貴女達をこの宴会に呼びましたか」
「……そう。容姿だけじゃないのね。まあ、子孫ならありうるんじゃないかしら? もしくは、並行世界の同存在」
そこに落ち着いたか納得し、と頭を掻く。悉く常識を破った世界を目の当たりにした今、並行世界ぐらい否定しない。これは私も考えていた事の一つだ。八雲何某と私が、どうしようもなく似ているとして、更にどうしようもなく親和性があるとするなら、もはや別人と言い切るのは難しい。かなりSF的な解釈になってしまうけれど、それが一番納得出来る答えなのだろう。
「逢わない方が良いわね。入れ替わるから」
「阿求さんにも、そのように忠告されましたわ」
「そう。あの娘も貴女が心配なのよ。いえ、たぶん、皆心配しているわ。厳密に言えば、八雲紫をだけれど。あのヒトは幻想郷の根幹部分……国を引き、理想の世界を、本当に作り上げたヒト。皆、なんだかんだと、彼女の重要性を弁えているし、幻想郷を憂いているの」
「嫌われている様子ですけれど」
「そりゃそうよ。彼女が願えば、明日には皆の性別が変わってる可能性だって否定出来ないもの。なるべく近寄らせたくないのは、当然だわ。まあ、それだけの力を持っているの。彼女はね。古い私ですら、そんな力は持っていない。そう、本当に、強大な意思によって選ばれた者のみが持つ、卓越した、そして壊滅的な力よ。だから、貴女も気をつけて。変化は良い事かもしれないけれど、変わってはいけない事もあるわ。今は人間のようだけれど、貴女は境界線の上にいる。気をつけて」
細い瞳が私を見据えている。本当に心配するように。いつのまにか、永琳さんの手は私の手に重ねられ、強く握られていた。その手にはじっとりと、汗をかいている。
「永琳」
そっと輝夜さんが声をかける。この馬鹿騒ぎの中でも、凛として響く声色は、何かを必死に願うような永琳さんをハッとさせた。
「ごめんなさい。喋りすぎたわね」
「いえ、とんでもない。面白い話でもないのに、付き合ってくださってありがとうございます」
「まあ、一献、お二人とも」
そういって輝夜さんがまた、私と永琳さんの盃にお酒を注ぐ。それに倣い、私も輝夜さんに注ぐ。お互いなんとなしに見つめ合うと、彼女は笑顔で飲み干した。続き、私もそうする。
具体的な意味はいらないのだろう。彼女はそうしたいからそうした、が正しい。幻想郷はなんとも、観念的な世界だ。
「さて、宴もたけなわ。本日のツマミを何時までもここに留めておけないわ。他にも顔を出してあげて、メリー」
「はい。お騒がせしましたわ」
「いいのよ。どうせイナバが悪いのだから。いたずら好きで参ってしまうわ」
「参っているのは私とウドンゲばかりだけど」
「そうだったかしら? まあ、そういうことよ」
ここでも別の一升瓶を預けられる。私は二人に一礼して、背を向けた。まだ少し、頭の中が揺らいでいる様子だけれど、歩行に問題はなさそうだ。
それにしても、と思う。もし、私が八雲紫と同一存在だとした場合。では私が神様という事になる。けれども、当然そんな話はなく、私は一介の人間でしかない。当たり前に生まれ、当たり前に育った、女子大生だ。当然生まれた頃の私も、成長過程も全て、映像に写真にと保存されている。決して、永琳さんのようにオトナで生まれて来た訳ではない。
思うに。私というヒトは、やはり特殊である事には違いないだろう。人間が生まれて死んでどれだけの数が入れ替わったか解らない。数億、数兆、そんな数の人間の中に、おかしな能力を持った人間が生まれても、不思議ではない。幻想郷に辿り着いたのだって、その能力あってこそ。容姿が似たのは、この容姿がその特異な能力を発揮するのにうってつけだったから、そうなっただけ。
……無茶……とは思うけれど、そう納得するほかない。
永琳さんは何かを、とても不安に思っていた様子だった。それは八雲紫への不安か、それとも、不必要な変化の選択肢を選ぼうとする私への不安か。どちらにせよ、八意永琳という人は、本当に慈悲深い人だ。また、その傍らで静かに見守っていた輝夜さんも、長い時を一緒に過ごした者としての矜持か、彼女に同調した。
不躾な考えだけれど、ああいう関係は、非常に羨ましい。
私の相方は今何をしているだろうか。
ふと彼女達が集まっている方向へと視線を落とすと、私の申しつけを良く守ってくれたらしく、蓮子の調子は普通だった。これから目的の場所へと向かうのに、ヘベレケではしょうがない。
チラリと視線を移す。皆から少し外れるようにして、鳥居の近く。守矢の人々は、そこに居た。
「蓮子」
「……ん?」
「ほら、あれ」
私は蓮子の手を取り、鳥居側を指差す。そこに固まっている人達は、私達が望んだヒト達だ。ここにいると、あらゆる『理由』が必要ではない気がする。けれど、私達は『理由』を探しに来た。元来の目的を達成する為には、どうしても聞かなきゃならない。
何時の間に現れたのか。というかそもそも、私はいつのまに宴会に参加したのか。
脳裏を、霊夢さんのキツイ視線がよぎる。
「じゃあ皆さん、私達は目的達成の為、行きますわ」
「ええ、行ってらっしゃい」
阿求さんが小さく手を振る。私と蓮子はそれに返してから、守矢の人々が集まる場所へと向かった。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 21時
……諏訪の一大神社信仰群の頂点、守矢の神官長。二歳の頃に神通力で空に浮き、五歳で神託を授かる。十になる頃には諏訪信仰というよりも、彼女本人に対する信仰が拡大し、信者も増加傾向にあった。当時の公安警察、公安調査庁、神社庁からも目をつけられ、敵は多かったと言われる。
父も母も人から離れて行く娘を現人神として信仰し、氏子達は朝廷の討伐以来の守矢神再臨だと囃したてていた。神通力を授かった東風谷早苗を気味悪がり、集団で苛めていた子供達の数人が失踪。惨殺死体で発見されるなど、様々な曰くつきの事件が散見される。
そうして十五の頃。高校生になって間もない彼女は、諏訪湖、守矢神社、十数に及ぶ摂社、末社と共に消失。
観光に頼っていた上諏訪、下諏訪は名物の消滅で衰退。洩矢に連なる者達も離散。氏子達は信仰のやり場を失った。
噂を信じるならば、彼女は本当に、ありとあらゆるものを犠牲にして、幻想郷入りした事になる。日本国における幻想郷伝説を表面化させた人物。今もなお神として奉られる風の祝。
「なんでも、私に用事があるそうですね、お二方」
東風谷早苗。皇族以外絶滅した筈の、現御神。民なき王だ。
「頭を垂れろと? 偉そうですわね」
「ちょ、メリー、強気すぎ」
「あら、下げないんですか。なら良いんです」
彼女が下げろと言った訳ではない。その風体が、その空気が、雰囲気が、私達に頭を下げろと言っていた。彼女を挟むようにして、写真に見た二人が腰を据えている。二人とも、いいや、二柱とも東風谷早苗を守るような形だ。私達を警戒しているのだろう。
「話では、私を八雲紫と誤認してたたき落としたとか。生憎、私は八雲紫じゃありませんの。むしろ頭を下げるのはそちら」
「……神奈子様」
「本当でしょう」
「諏訪子様」
「まあ、嘘じゃないでしょ」
「そう。解りました。頭は下げましょう。その節は、どうもご迷惑をおかけしました。御無事で何よりです」
そのように言い、東風谷早苗が身を正してから頭を垂れた。私は私が間違っているとは思わないし、勘違いだろうと頭を下げるのは筋だと思う。それに、そうした方が話を聞き出しやすい。
深い緑色のような髪が揺れる。表を上げた表情は、少し変わっていた。
「幻想郷の人は謝らないというから、心配していたんですの。此方も被害は少ないし、謝って頂けるなら、何一つ言う事もありませんわ。私はメリー、こちらが蓮子。少し、想像を超えるお話をしますけれど、私達は未来から来ました」
「……未来?」
「はい。皇紀2731年の8月から。私達は大学生で、秘封倶楽部という倶楽部活動をしています。日本国の怪異や、境界の歪を探しては、一喜一憂する、実の無いサークル活動ですの。この度は、ひょんな事から過去の幻想郷に流入してしまったので、では是非とも、現世で神とあがめられる東風谷早苗女史にお会いしたい、と思いましたから、こうしてやってきましたわ」
「……そんな未来で……私が?」
「私達の時代では、狭義の意味で幻想郷の存在が確認されています。結界を暴く事を禁止する法律もある。科学で、呪術で、なんとか幻想郷に至ろうという人々もいますわ。違法ですけれど。そして、そんな動きが活発になったのは、貴女達、守矢の人々が諏訪湖ごと消え失せた事件に起因する。私達のような人間からすれば、東風谷早苗は結界暴きの象徴存在ですの」
二柱の神が、東風谷早苗の背後でヒソヒソと喋っている。思い当たる節があるのか、それとも別か。
「貴女の経歴は、大体知ってるわ。後ろの二人は、非科学的だけれど、神様ね?」
「ええ、蓮子さん。八坂神奈子様と、洩矢諏訪子様です。ご質問でしたら、お受けします。話せる範囲で。未来人さん」
「じゃあ一つ。貴女は、何故あらゆるものを捨てて、幻想郷に至ったのか。それは偶然なのか、必然なのかを」
蓮子の眼が一際輝いて見えた。真摯に見つめるその瞳は、いつもの彼女。小さい事から大きい事まで、幻想だろうと現実だろうと論理性を求める、いや、好奇心を満たそうとする少女の眼。
東風谷早苗は少しだけを大きく息を吸い込み、吐く。私は彼女にお酒を注ぐと、コクリと頷いた。
「吾が身は神と共に。吾が身は信仰と共に。生まれ出でたその日からは、私はもはや現代世界ではあってはならない、現人神でした。皇族が神を名乗れない時代だというのに、一地方豪族の末裔である私は神だった。諏訪の地に根付き数千年。戦国時代には武将化した諏訪家と金刺家の騒乱、そして武田家によって血統も危機にさらされましたが、それでも持ちこたえ、ながらえました。長い時間です。気も遠くなるような、私も理解出来ないような時間、この国は血統を重んじてきました。とある家は絶え、とある家は消され、とある家は自滅し、日本国には国造と呼べる者達も減り、地方には居たであろうありきたりだった神々の末裔は、数えるほどになってしまった」
彼女は足を崩すと、胡坐をかく。脚に肘をつき、顎をささえ、ジッと此方を見る。窘めるように。
「信仰とは永遠ではありません。血統も永遠ではない。歴史は必要と不必要を分別して行きます。では、私、つまり守矢はどうかといえば、またその例外から漏れず、やがては消え入る運命だったのです。大東亜戦争敗戦後、GHQは皇室から宮家を減らしました。つまり、皇胤を残す為に必要だった種族のストックを削られる事になる。それは遅効性の毒として皇室をむしばみ、60余年。やがては男系が、女系が、なんて議論にまで発展し、その神性は減るばかり……そんな最中、私のような地方豪族の末裔が、生き残れる訳がない。御国の中枢を削られたのですから。中枢がそんな状態であるのに、末端の私達が、並大抵の事では神性を保てない。けれど、私は許せなかった」
私達の時代で、彼の血族はまた、御簾の奥へと下がり、人目には晒されなくなった。明治期以来の皇室信仰は復古したものの、それ以外のもの、つまり守矢に匹敵するような一大宗教すら信仰対象外になってしまった。国体を表すものさえあれば、他はすべて科学が解決する。今まであった信仰は全て、科学へとシフトしていた。東風谷早苗は慧眼だったのだろうか。
「運よく。私はそんな時代に生まれた。運よくです。神奈子様、諏訪子様のお力があっても、薄まった信仰を取り返すには、目に見える奇跡が必要だったのです。私は眼に見る奇跡を授かった。それこそ、キリストのような。ただ、これを現世で盛りたてても、あまり意味が無い事は明白だった。私の存在を危険視する人も沢山いましたし、私程度が頑張った所で、日本国の信心が戻る訳もない。自然物に手を合わせる事を忘れ、全てを形骸化させてしまった日本には、居場所はない。数千年にわたり繋ぎ続けた血統を、絶やす訳にもいかない。だから、私は選び、決めたのです。吾が身は神と共に。吾が身は信仰と共に。では永遠になろうと。この、幻想が跋扈する世界で、神様達と生きようと」
東風谷早苗は眼を瞑り、二柱は眼を伏せ、蓮子は食い入るように見つめ、私は眼を流した。まだだ。
「西暦2011年。未曾有のパンデミックで人類が衰退した。巷では、東風谷早苗はこれを予見していたのだという噂がある。東風谷早苗さん、貴女は、未来を見ていたのね?」
「噂の後付けなんて、幾らでも出来ます。信じられるもの、信じられないもの。人間は資料に寄らずとも、本当だと思う事を本当だと信じる。それは信仰にも通じます。あると思えばある」
「ここに来てハッキリしないわね?」
「……現実なんて、簡単に滅ぶんですよ。そうですね、ここからは、一個人として話しましょう。私はそう信じていました。どんな形であれ、私達の知っている現実は脆くも滅び行く。ただ、その言葉を誰が信じますか。信者の方々にも口外はしませんでした。だから、その噂は誰も漏らしていない筈の事。つまり、後から作られた話。実際、私が予見していた云々は、もう関係ないのです」
「なるほど。東風谷早苗伝説の後付けではあるけれど、本来通りではある、と。まあ、貴女の話が後付けでなければだけれどね。じゃあ、貴女が漏らしたと言われる『私と一緒に幻想郷へ行きませんか。永遠の幻想世界へ。人類が夢想した桃源郷へ』という言葉はどうですか?」
「ぐ……」
そこで、現人神、東風谷早苗の表情が崩れた。私達が想像したように、その言葉は家族か、もしくは恋人に紡がれた言葉だったのだろうか。東風谷早苗は動揺を隠せないでいる。
が、暫くすると沈黙の中、私の訝る目を余所に、後ろの神様達は腹を抱えて笑うのを堪えている。
「『そうだ神様、こんな言葉を残しておけば、後世に語り継がれたりしませんかね?』」
「『私と一緒に幻想郷へ行きませんか。永遠の幻想世界へ。人類が夢想した桃源郷へ』」
「『ちょっと厨二くさいですかね? いやいや、私神様だし、リアル能力者だし。大丈夫ですよね』」
「ちょ、お二方、やめてください、やめてください」
「ぶぶ、早苗、すごいわ、本当に、偉い未来まで語り継がれたわね!!」
「だははっ!! オチが、オチが未来から来た!! やったね早苗ちゃん!!」
「やめれーー!!」
目に見えた東風谷早苗のカリスマが決壊する。本気で半分涙目らしく、彼女は振り返って二人の神様に襲いかかった。
……、どんな逸話があるかと思いきや、真実なんてこんなものだ。けれども、その言葉こそが、未来へと繋がる私達倶楽部の礎になっている事だけは否定しようがない。とんでもない言葉を残してくれたものだ。
私は蓮子に日本酒を注いで、私も彼女に注いでもらう。たぶんこれで話は終わりだろう。
「メリー、何このひと達」
「さあ……現人神も一応半分人間だったんでしょう……」
「ああそうだ、東風谷さん」
「はあ……早苗でいいですよ。神様ったって別に偉くもなんともないですから。なんですか?」
「魔理沙さんやにとりさんから聞いたんだけど、守矢神社は当初、幻想郷に流入してすぐ、博麗神社を取り込もうとしたらしいわね。みんなその理由についてきにしてたけど、そこのところはどうなの?」
「ああ、それですか。それはー……」
「早苗」
「早苗」
「む。あ、はい。単に神社繋がりってだけです。信仰心のない神社を放置するなんて無駄ですから、お二方を祀れば土地の無駄遣いが解消されますし。本当にそれだけですよ?」
いや、流石に今の制止は不自然だ。早苗さんの眼もどこか泳いでいる。この問題、まだ何かあるのだろう。皆が予想した博麗神社乗っ取り。そして噂される守矢神社による幻想郷支配拡大。ただ、皆が同じ事を言う場合、それは印象操作されている可能性も加味して考えなければいけない。メディアというのは情報を解りやすく、そして自分の都合の良いように書き換える。つまり、そういった噂は、守矢が流したデマである事だって考えられる訳だ。
「何かあるんですのね?」
私の言葉に、早苗さんがビクついた。
「早苗、この二人は聡明だよ。隠し事が出来ないんだ。未来の子は頭が良いねぇ」
目玉帽子……洩矢諏訪子が口を出して、早苗さんをフォローする。どうやら喋らせない気だ。
「教えてくださいませんの?」
「残念ながら。私達にとって、お前達人間は脅威足り得ない。つまり、どんなに凄まれ様と、子ネズミが暴れようと、私達神にとってそんなものは部屋に溜まった埃程度の価値も不快感もないわけ。だから喋らないよ。隠している事実は隠さないけれどね」
「気になりますわ。折角幻想郷に来たのに」
「駄目駄目」
そこまで否定されると、もっと気になる。何かよい方法は無いかと思い、私は一つ提案する。
「じゃあ、神様お三方、誰か一人代表で、私と呑み比べしましょう」
「はっ、人間が? 神様と? 急アルで死ぬよ?」
「この中で一番お酒が強いのは?」
「たぶん神奈子だろうけど。ねえ神奈子、自殺志願者がいるのだけれど」
「呑み比べって。あのね。自分で言うのもなんだけど、ウワバミだよ?」
「まあまあ。勝ったら話してくださいね。洗いざらい。蓮子、魔理沙さん連れてきて」
今日はそう、何かおかしいのだ。あれだけお酒を入れておいて、私は気持ち悪くもならないし、強烈に酔っぱらいもしない。幻想郷の変な影響のせいか、はたまた別の理由かは解らないけれど、それを生かさない手はない。
やがて蓮子が魔理沙さんを連れて来る。趣向を聞いたらしい魔理沙さんは、酒瓶を抱えて嬉しそうにやってきた。それに釣られて、複数のヒト達もぞろぞろとやってくる。こうなれば、相手も否定しようがないだろう。同時に私も退路はないけど。
「メリー、お前はやっぱりヤル奴だと思ってたぜ。このウワバミに戦争しかえるたあね。流石未来人。おい神奈子、メリーさんナメてかかるとタダじゃすまされねぇぜ、おぉ?」
テメェどこ中だよ、みたいなノリの魔理沙さんが、ぶつくさ言いながら……私の用意した大升にジャバジャバとお酒を注ぎ始める。これにはお酒に強いと言われている神奈子さんもかなり引き気味だ。
「おい魔理沙、アンタね、それ私ら専用じゃないか。あと使える奴っていうと、鬼とか」
「はあ? メリーさん馬鹿にしてんのか? 私らのシマじゃメリーさんは樽で一気ノミよ、えぇ?」
どこのシマだろうか。魔理沙さんもかなり出来あがってるらしい。周囲の人々も口ぐちに『あれはないわ(笑)』などと語っている。蓮子などよほど心配なのか、先ほどから耳元で『やめてやめてしんじゃう』などと語っており、女々しいかぎりだ。私は隣の蓮子を捕まえると、巻き込み一本背負いの要領で御座に転がした。
「戦争に女はいらないのよ、蓮子」
「あんた女でしょ!! だめだーよっぱらってるぅー……」
「メリーさんに言われちゃあ、もう誰も否定できないぜ……幻想郷も今日でおしまいか……さあ、ヤッてくれ、これで……!!」
縦15、横15、高さ15。升というか正方形だ。正方形はなみなみとお酒をたたえ、私の顔を映している。幻想郷の大きな月も浮かび、実に風流だ。やがてそれは神奈子さんの前にも用意される。
「一番減らした方が勝ちだ。制限時間は10分、ぐだぐだやってもしかたないからな。互いに構え」
「死んでも怨むなよ、人間」
「ヒト無くしてカミは無しと心得なさい、カミ如きが」
「こんな好戦的な人間、博麗霊夢以来だ……こいっ!!」
「うむっ」
「はじめぇっ」
呑む……いいや、泳ぐ、が正しいか。啖呵切った手前、今更逃げるわけにもいかない。升に口をつけると、あらゆるお酒の味がした。魔理沙さんの馬鹿は日本酒だけに留まらず、手元にあったお酒全部ブレンドしたらしい。物凄くおいしくない。周囲の妖怪達は私と神奈子さんの呑みっぷりが偉く豪快だったのが楽しいのか、酔っ払いの真骨頂、意味不明な笑い声で応援していた。お酒を呑むと本当にどうでもいい事が楽しくなる。最高にして最悪の飲み物だ。
「むぉっぷ……」
「め、メリーっ」
「ぷぇ……大丈夫よ蓮子、明けない夜はないわ……ッ」
「かっこいいけど、使用状況が不適切よッ」
「むぷぉ……」
「神奈子様っ」
「大丈夫だよ早苗……私は未だに、お前のブラのサイズは知らないから……」
「本当に良くわかりません。せめて突っ込みどころのあるセリフにしてください」
アルコールの濃い部分と薄い部分がめちゃくちゃだ。混ぜるならちゃんと混ぜてほしい。どうも濃い部分に差し掛かったらしく、私の手が止まる。啜ると喉が焼けるようだし、胃に入ると、なんと表現すればいいか、ぐわんぐわんくる。
「くくく……人間……私はまだ本気を出していない……その意味、わかるか?」
「もう三分の二終わりましたよ、ほら、早く本気出さないと」
「え? ちょ、何この人間怖い」
余裕ぶちかましている暇があるなら一滴でも胃に流し込むべきだ。それにしたって、本当に私の肝臓はどうしたのだろうか。今なら文字通り神様にも勝てる気がしてならない。
一端升から手を放し、私は心配そうに見つめる蓮子に微笑みかける。
「蓮子、私、この戦いが終わったら、貴女をお嫁さんにもらおうと思うの」
「え……その……う、うん……」
「ば、ばかやろうメリー!! その言葉は今吐くなっ」
魔理沙さんが喚き立てる。大丈夫、私達の愛の前に古来から語り継がれる死亡フラグなんて
「……ぶあ……」
「め、メリー?」
「ここは幻想郷だ……有り得ないフラグこそ成立するような、そんな世界……」
ガックリとうなだれる。突如世界が回り出した。いや、むしろ私が回っているのか。世界は私を中心として回っていたはずでは。
「勝機、是非も無しっ」
神奈子さんが本気でお酒を片付け始めた。折角ここまで来て、疑問を残して現実へと戻るのはいささか悔しい。何よりも、蓮子の好奇心を満たしてあげられないのは、何より残念だ。
世界が回る。私は改めて升を手にした。
「メリー、やめて……貴女の身体は……もう……っ」
「負けられない戦いがあるのよ……人の為に、張る命がある……南無三!!」
升をあおり、美味しいのか不味いのかも解らなくなってしまったアルコールを飲み干して行く。喉を嚥下して、三回、四回目か。
私はその手を放した。
「――ど、どうよ」
「……おしい。十秒程ね」
眼の前には新しい一升瓶を開ける神奈子さん。本気で涙目になった蓮子が――――私の身体を揺すっている。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 22時50分
世界はぐるぐると回っていた。やたら回るので、致し方なく、私はその手を伸ばし、世界を止める。下腹から湧き上がるような感覚を抑え、私はゆっくりと身体を起こした。
心地よい風が頬を撫でつける。風を感じる余裕があるのだと解り、今一度体調を確認する。なんともない。あれだけ呑んで無事、というのは、人間として喜ぶべきか否か。
「――ここは」
「博麗神社境内。の、ちょっと外れた所。風通しが良いんだよ、ここは」
私は木の根元に寝かされていたらしい。気を失ってから、そう時間も経っていない様子だ。私の前で背を向け、遠く幻想郷を見下ろしているのは、ふざけた蛙帽子だ。洩矢諏訪子と言ったか。私より小さく、幼いのに、神様だという。相変らず容姿がアレだ。年寄りほど、小さかったり可愛いふりをしているのかもしれない。
洩矢……となると。彼の地の祖神。諏訪の地に討伐者が現れる前からいるであろう、土着神だ。
「普通、人間はあんなに呑んだら死ぬ。でも死なない。ほら、ケロっとした顔で、私を見てる。境界を弄られたね」
「……何の話かしら」
「まあ、解らないならいいよ。アイツも気を使ったんだろうから。下戸とウワバミの境界線。普段そんなに呑めないでしょ?」
「幻想的になったから、呑めるようになったんだと思ってましたわ」
「ないない。下戸は下戸さ。それなりに呑めるようだけど」
「負けてしまいましたわ」
「そりゃね。アイツだから。神様に呑み比べを挑んだのは、天狗と鬼だけ。今後語り継がれるでしょう、貴女の武勇伝」
「負けましたけど」
「誰も勝てるなんて思ってないよ。でもニアピンだ。話を聞きたかったんでしょう?」
そうだ。私は守矢が何か隠していると解ったから、あんな無茶を仕掛けた。相変わらず、ここに来てからどうも、危機感が薄い。本来、あんなに呑んだら急性アルコール中毒でさようならしている所だというのに。そりゃ、蓮子も涙目になる。
「良いモノ見せて貰ったから。やっぱりね、人間は思い切り。私は好きだよ、そういうの。無謀かもしれないけど、神様はもちろんの事、妖怪達だって、ああいうのが見たいんだ。人間が無茶するところ。そうして、無茶をしている所をみると、私達超越者が助けなきゃいけないって、そう思えるから」
「人間、好き?」
「うん。そりゃあ。大好きだよ。私が生まれたのだって、人々が一心に願ったからさ。人間ではどうしようもない事象、天災、そういったものを乗り越えたくて、彼等は自然に祈った。お前も言ったでしょう、ヒト無くしてカミは無しと。ヒトがいるからこそ、カミは生まれる。そしてカミは生んで貰ったからこそ、ヒトと共に生きて助けたいと思う。願いによって授かった、その力で」
「……共依存?」
「まあ、そうだね。だから、私も、神奈子も、早苗も、絶望したんだ。もはや現世で、私達の居場所はないと。あれだけ愛した国からも、郷土からも見放され、人間は科学を信仰した。でも、それは仕方が無い事。信仰は、新しく生まれ、そして衰退して行く。私達は、諦めが悪かっただけ」
「何故……そう、何故、博麗神社掌握を目指したの?」
「お前達の時代にあるかどうか知らないけれど、絶対性精神学っていうのがあったんだ」
「今は衰退しましたわ。それを元に作られたのが、私が大学で専攻している、相対性精神学」
「……なるほど。つまりね、あの頃から幻想郷の話はあった。そして幻想郷に至る術を探していた……そう、日本国政府は、私達守矢が、幻想郷に近い事を知っていた。絶対性精神学の爆発的拡散も、そこに理由がある。もしかして、知ってるんじゃない?」
私は息を飲む。私と蓮子が予想した筋、そのままだ。絶対性精神学宣言と、結界不可侵法の施行は同時期。あらゆる人達が……辛い現実を逃れる為、政府の用意した精神世界の受け皿を求めた。
パンデミックと同時に、データベース破壊によって、彼等が精神世界で見ていたものは消え去り……そして数十年後、相対性精神学確立と共に、また幻想郷の話題が持ち上がり、謎の映像データが、解放者達が見ていた光景だった事が判明する。
その光景は――幻想郷。
「政府は、幻想郷へ到達する手段を考えていた。詳しく言えば、幻想郷のような強力な結界を築く手段を模索していた。私達は、つまり先兵。侵略者と取ってくれて構わないよ」
「……噂は」
「まあ、最初は幻想郷乗っ取りってのもありだと思った。けどね、強い奴沢山いるし、八雲紫は理不尽だし、ここは面白いし、独立した一勢力として存在して、皆と小競り合いしていた方が、よっぽど神様らしく生きられた。だから、そんなのは破棄したわ。外と連絡もとっていない。私達は、この素晴らしい幻想の中、生きようと、そう思ってる」
「……そう、なの」
思うべき所は沢山ある。考えなければいけない所もある。政府が幻想郷の存在を把握していたのは、既知の事実。けれど、矛盾がないだろうか。何故、結界不可侵法が必要なんだろうか。
「禁止したら、禁止しただけ熱心な奴が暴こうとする。絶対性精神学による精神解放は、幻想郷へ精神だけの流入と、肉体ごと流入する奴がいる、とても不安定だった。けれど、結界ごと暴けば、直接入れる。規制とは狂信者を生み出す最高のエッセンスだよ、人間」
「うまい……なるほど。けれど、少し小利口すぎますわね……それに、何故政府は幻想郷を知っていたの?」
「早苗だよ。誰にも話してないなんて、嘘八百。彼女は未曾有の大災害を予知したし、それを政府にも伝えてる。日本人を如何に多く残すか……。まさか、その大災害が、避けようのない病気だったっていうんだから、どうしようもないね」
「……予知を、政府が、信じる? 当時の政府ですわよ? 私の時代じゃないわ」
「日本国は古来より、占いで政治を決めて来た。当時だって、政治家はお抱えの占い師がいたよ。神童とまで呼ばれた東風谷早苗を頼った、当時の大臣もいた」
「……私の時代、つまり、未来に、諏訪は……いいえ、日本国そのものは」
「解ってる。私達は逃げ出したのだから。丁度良く、そして政府案に乗った。幻想が拡大すれば、私達の住む世界が増えるからね。でもこの通りさ。私達はこの罪を背負って生きる。絶対性精神学の試みも潰えたみたいだね、その様子だと。そう。信仰無き人間は、現実で物質を愛せばいい……これでいいかな、人間」
「ええ、ありがとう、神様。貴女なら、少し信仰する気も湧きますわ。可愛らしいし」
「まあ、口がお上手。レズビアンだったね、気をつけないと」
「たまたま好きだった人が女性だったのよ」
「ほいほい……ほら、恋人が向こうで、心配そうにしてる」
立ち上がり、皆が騒ぎたてている方向を見る。丁度私達と乱痴気の間で、蓮子は静かに慎ましく、此方の様子をうかがっていた。
「蓮子」
「聞こえちゃった」
「隠し事じゃないもの。どうしたの?」
「……ん」
思えば本当に最近の事だ。彼女に手を取られ、私は彼女と共に秘封倶楽部を立ち上げた。日本各国への小旅行、つまらない議論、実の無い語らい、距離はどんどんと近づいて行って、私と彼女はもう零距離にいる。
大嫌いだった能力も、彼女が居れば苦ではなかった。彼女がいれば、私の空虚な心の内も埋められた。皆が注意するように、自分で自覚しているように、私は彼女に心の大部分を預けている。
「幻想郷。政府資料を見る限りでは、その存在は明治には確認されている。大規模な戸籍調査の折にね。でも、直後に消えてしまったわ」
「……政府資料ね。ハッキングでもしたの?」
「ううん。公安調査庁経由でヒューメントされた時、全部叩き込まれたから。幻想郷の事も、相対性精神学の事も、結界の事も、貴女の事も」
「……はあ。画期的な偶然の出会いだと思ったのだけれど」
「ごめんね」
そんな私と彼女の倶楽部活動の最中に至ったここは幻想郷。ある意味での終着点。蓮子が、ここに住もうなんて言いだすくらい、素晴らしい場所だ。
「気にしないで」
……。蓮子。何故、彼女は私に声をかけたのか。魔法を夢見る物理学少女の眼に、私はどう映ったのだろう。
超統一物理学期待の星。世界統一基準模試第十位。神童、宇佐見蓮子には。
「……マエリベリー・ハーン。日本名、小泉真絵理縁。先祖はかの有名な文豪、小泉八雲。京都出身、幼少期より左目が無く、義眼。その右目は現世を、左目は幽世を見ると噂される。小学校入学と共に能力が肥大化。政府制定のESP判断基準で異能度測定不能。要監視対象。コード『ヘルン』」
「……」
「13歳で結界を跳躍。肉体ごと幻想郷へ流入した可能性高し。絶対性精神学における非分離による精神解放幻想化を確認。知力高し。情緒不安定の為、過度は刺激は避けるべし。相対性精神学を用いた情緒の固定化と、能力の自在化を優先させるべきだと判断。『ヘルン』の趣味、趣向から対象者割り出し。相対性精神学による相互依存関係者の用意が急がれる」
「蓮子」
「――適合者、宇佐見蓮子。過去に幻視体験。神隠し体験。幻想度高し。『ヘルン』との友好関係を築き…………結界跳躍、幻想郷への活路を、開くべし。御国の皇民を救済すべし」
「もう、いいわ」
「……わたしは」
「蓮子、いいの。いいから」
「私は、とんでもない、裏切り者なのに……」
「私は貴女が好き。蓮子は?」
「……私も、好き」
「じゃあ、問題ないじゃない。貴女は私を裏切ったりしていない」
……。
想像できたことだった。本来、なんでもない私に突然声を掛けて来た彼女は、最初からずっと不自然だったのだから。それに、幻想郷に来てから、彼女はずっと不自然だった。私への態度はどこか遠慮があり、いつも何かを言いたげで、けれど言わない。心の内と、勅命の狭間で彼女は悩んでいた。
本当に好いていてくれたからこそ。彼女は命令を預かりながら、本気で私を補完の対象としてくれていた。夢と現を彷徨う私に、現実を見せてくれた。
ここに住もうと言いだしたのも……私が、研究対象にされる可能性を考えたから。彼女とここでずっと暮らせたなら、きっときっと、幸せだろう。毎日楽しいに違いない。
けど、私はやっぱり現実の娘。その左目は幽世を覗くかもしれない。けれど、この身は物質と共にある俗物だ。
宇佐見蓮子。天才と馬鹿の境界線を行く、この世で最も愛らしい少女だ。何せ、こんなにも、間抜けなのだから。
「蓮子」
「……」
「蓮子、返事」
「……うん」
「こっちみて」
「……」
涙を浮かばせた顔がいじらしい。私は彼女を深く抱きしめると、その唇にゆっくりと吸いつく。やわらかくて、少し震えていて、ちいさくて、温かい。彼女がどんなに天才でも、密命を受けた間者でも、私には宇佐見蓮子個人にしか見えない。彼女の持つ背景なんてものには、とんと興味が無い。
私は蓮子が大好きだから。
「メリー……」
「私は、ここで暮らす気はない。不自由に逃避行する気もない。もし、私を研究する事で結界暴きが大成したとしても、現世の人達が、幻想郷をどうにか出来るとも、私は思えないわ。神様はいう。人類は科学を愛していればいいのだと。あんな人達が、今更幻想を手に入れた所で、どうしようもないのよ」
「で、でも」
「私は、勝手な人間だから。貴女と同じ時代に生きていたい。他がどうなろうなんて、知った事ではないわ。貴女は言ったわね、人類は滅びるんだって。なら、それでいいじゃない。今、楽しい日々が貴女と共にあれば」
「……マエリベリー・ハーン」
「ん?」
「『ヘルン』能力縮小。多感な幼少期からの純粋な能力減衰と思われる。研究対象にあたわず。そう、報告すればいい。何も、かわりないわ。きっと私は、切り捨てられるだろうけれど、私はメリーが居れば良い。私達はただの秘封倶楽部。大学の、非公式サークル。小旅行を楽しむだけの、勉学に積極的でない、社会ごらく者」
「貴女がそれで良いのなら。私には否定する権利はないわ。さ、ほら」
蓮子の手を引く。
他人様がどう思おうと、知った事じゃない。私には蓮子がいる。
「おお、人間界のアルコールプリンセスのお出ましだ!! おらぁ、酔っ払い共、拍手しろぉっ!!」
「あはは、どうもーどうもーっ」
どうせつまらない人生だと思っていたのだから。鋳型に嵌められ、整形されて行くだけの現代人達と同じような生を歩むだけだと、そう考えていたのだから。
だから、この出来事は、蓮子の憂鬱は、政府の思惑は、私がこれからまた、あの萎びた現代世界で生きて行く折に、理不尽かつ不条理な人生を与えてくれるのだろう。死ぬほど辛いかもしれない。死ぬほど耐えがたいかもしれない。でも、私に危機感はない。
……そう、まるでない。
蓮子以外の人達が私に手をかけようというのならば。では覚悟すると良い。
「あら、お酒が足らない。ええと」
「うお、メリー、それ、スキ……」
「あーあー、魔理沙さん、これは手品ですわ」
この異能、存分に発揮して見せよう。幻想郷に感応した私の力は、他愛ない人間如き、悉く千に千切る。矢でも鉄砲でも持ってくればいい。その先に待つものは、終りの無い無間世界だ。
来るなら来ればいい。例え相手がお国だろうと。
「はい、蓮子。沢山呑んでね」
「……え、こんな呑んだら私」
「霊夢さん、お布団あいてる?」
「ひくっ……んあ? ええ、好きに使えばいいわ」
「だってさ、蓮子?」
「お、おかされる」
「ああ、そうだ、写真をとりましょう、ほら、みなさん、こちらによってー」
私には蓮子がいる。
「はい、チーズ」
二章へつづく
「はい。気をつけます。はい。……そんなことありませんわ。しばらく忙しいでしょうから、顔を出せません。はい。はい。お母様も、御身体に気をつけて。はい、では」
通話を止め、携帯をポケットにしまいこむ。
最初こそ欲しくてしょうがなくて、手に入れた後も大事に使っていたけれど、最新機種が出れば出るほど興味が薄れてしまった。薄型で、頑丈で、大容量で、発色が綺麗で、ホログラムに対応していて、防衛軍御用達の機能満載、なんて言葉に釣られていたのだと思う。
けれど、そんな行きすぎた機能、使いきれる訳がない。独自開発の暗号通信技術で機密もバッチリ、なんて言われても、そもそもそんな大それた通話なんかしないし、電話先の相手は自宅の母と父ぐらいなものだ。
コーヒーを飲み干すと、カップをカウンターに戻して、喫茶店を後にする。
新居にも荷物が届いた頃合いだろう。私は大通りに出ると、手を挙げてタクシーを停めた。
「ご利用ありがとうございます。手前のディスプレイから行き先をご選択ください。行き先が決まりましたら、シートベルトをお締めくださると、自動で発進致しま――畏まりました。乗車時間は十五分程度です。道路の混雑状況によりお時間が前後致しますが、ご了承ください。尚、お支払いは電子マネー、カード各社、現金の場合は円、ユーロ、イーストドル、ウェストドル、その他新機軸機構加盟国家の紙幣をご利用出来ます」
アナウンスを聞き流しながら、私はシートベルトを締めてシートに身をゆだねる。環境の変化からか、最近は少し疲れが溜まっている様子だ。この歳で……とは思うけれど、現代の若者は気疲れが多い。
実家だってそう遠くないのに、私は両親と離れて暮らす選択を取った。これから私は大学生なのだから、独り立ちする訓練も必要だろうと親を諭したけれども、実際は違う。
たぶん逃れたかったのだろう。強いて言えば、新しい選択肢を探したかった。両親に監視されず、赴くままをやり、考え、選び定めてみたい欲求に駆られたからだ。自分でも間抜けだと思う。そこに利点なんてない。突出した才能がある訳ではないし、賞賛されるような頭脳でもない私が、レールを自ら踏み外す可能性がある方向を見定めようなど、狂気の沙汰だ。
……。良い国だとは思う。表向きには頑張れば頑張るだけ評価される社会を、血のにじむような歴史の中作り上げたのだから。ただ、現実に目を向けた時、頑張っても頑張っても駄目な奴は駄目で、けれど一応の評価をされる、という空気は耐えられないものがあった。それは空虚ではないだろうか? 実際それで生活が安定するなら、そうするべきだろうけれど、そんなものでは人間の真価など見いだせないのではないだろうか? 見出したくない奴も沢山いる、ということだろうか?
本当に、自分が自分であると認識出来て、自分が自分足れる力を発揮しようと、見つけようと思ったら、両親が用意する枠や鋳型に収まらず、正しく自分から前に出てみるべきではないだろうか?
「……なんて」
……なんて、決意は当然ない。自分は自分が大切だ。奇抜な事をして評価されるのは一部の天才だけで、凡人は凡人らしく、社会の歯車として日夜周り続けるべきだろう。だから、私は中途半端なのだ。レールを踏み外すのは怖いけど、ちょっと外側も覗いて見たい。そんな、軽い気持ちでしかない。
「あーあ。大学生かあ……大学生ねえ……取り敢えず勉強さえしてれば……食べるにゃ困らないものねぇ」
窓を開ける。丁度河川敷に差し掛かったようだ。春らしい、日本の色が一面に咲き誇っている。
最近、桜が増えたように思う。行政が率先して植えているのだろう。淡く、儚く散り逝く姿があらゆる人々に感動を与える桜だけれど、それが造り物の景色だと思うと、いささかばかり、虚しい気持ちになった。この植えられた桜の散り逝く姿に、日本の面影を映し出せはしない。風流でもなんでもない。
「そうそう、ああいう、どっしりと構えていて、来年も咲くから覚悟しろって桜がいいわね」
若い桜達に混じり、太い幹を湛えた桜が、十分咲きの雄姿をこれ見よがしに見せつけていた。花見客もまた、そんな樹の周りばかりに集まっている。やはり、大樹には寄り添いたくなるものなのだろう。いや、皆もまた、解っているのかもしれない。
儚く散り逝くばかりでは、未来に何も託せないから。壮絶に生き、壮絶に死ぬ事こそ、私達の心に響く。
「壮絶なれ、か。きっと、あの木もタダじゃ枯れないわね。壮絶に倒れたりするんでしょ、たぶん、ねえ、アナウンスさん」
ディスプレイに話しかける。当然返答はない。自動運転のタクシーに対して独り言を呟く姿に、本社で映像を監視している社員は小首をかしげているに違いない。
「到着まで残り二分です。お忘れ物の無いよう、お気をつけください」
「どーも」
カードで支払いを済ませ、私はタクシーを降りる。眼の前に現れたのは豪奢な御屋敷でも、煌びやかなお城でもない。旧世代を生き抜いた二階建てワンルームアパートメントだ。マンションでも良かったのだけれど、家賃もそれなりだし、あまり親に迷惑をかけたくないので、だいぶグレードを下げた。
でも正直、空調が付いていて高速ネット回線が使用可能ならどこでも良いような気もする。どうせ荷物も多くないのだから、広い部屋なんて持てあましてしまう。
塗料も禿げて錆ついた階段をおっかなびっくり昇り、二階の一番奥まで辿り着く。いっちょ前のセキュリティーロックを外して中に入ると、大きなダンボールが三箱積み上げられ、その上には書き置きがあった。
「おかえりなさい。若いうちの独り暮らしは大変でしょうけれど、がんばってください。こんなボロアパートですが、自宅だと思って過ごしてくださいね……」
大家さんはもう八十を過ぎたおばあちゃまだ。病床世代に旦那を、貧困世代に息子と娘を亡くしてから独りで生きて来たらしい。それを忘れるようにして必死に働いて働いて、ちいさな城を手に入れた。それがこのアパート。
もうひとつ隣の通りに、安くて良いアパートもあったけれど、私はこちらを選んだ。
「小泉さーん」
「あ、はい」
「小泉さん? えーと、はい。サインで構いません」
「どうも御苦労さまです」
「デカイ荷物ですけど、中に入れますか?」
「そこにおいといてください」
「はい。では失礼しますー」
玄関の前に、大きな荷物が届く。組み立てベッドと、組み立て本棚と、組み立てデスクだろう。今は午後三時なので、たぶん今日はこれを組み立てる作業で一日が終わるに違いない。幸いここは冷蔵庫が備え付けだったので、私はさっそく冷蔵庫の電源を入れ、荷物を運び込み、家の鍵を締めて外に出る。
まずはコンビニ、という考えは、もう八十年以上昔から続く古風な習慣だ。
昔ながらのくすんだフローリング床の、びみょーな壁紙の張られたワンルーム。メールではなくて書き置きのメッセージ。数世代前の冷蔵庫と戯れてから、外へ飛び出した私はコンビニへ行く。タイムスリップでもしたかのような生活になりそうだ。
新しい生活が古臭い、というのも、復古主義的で悪くない気がする。
「たしか、ここを左に行くと駅で、正面を行くと大学……で、こっちがコンビニだったかしら……」
道順を覚えながら目的地に辿り着く。
未だ頑固に紙媒体で出版している数社のファッション雑誌を眺めてから、未だ頑固に紙媒体で出版している少年漫画雑誌と少女漫画雑誌を手に取り、籠に放り込む。なんとなく炭酸、という気分にまかせてサイダーを一つ取った。昔は炭酸が骨を溶かす、だなんてネガティブキャンペーンを張られていた大手の茶色い飲み物だ。
お弁当のコーナーに目をやる。軒並み合成だけれど、おにぎり二種類は限定生産の国産米使用らしい。50%ほど。お米の国の称号を取り戻すまでまだまだ時間はかかりそうだ。でも確か噂では、大量生産可能なビル型食料プラントの再計画も持ち上がっていたし、どうやら各地に残る米農家にも声をかている様子だから、希望は持てる。
少しお高いけれど、私はおにぎり(具の高菜は本物らしい)を一つと、おかず用の合成焼き魚(切り身)を買う事にした。
合成食品増産体制が整ってからというもの、こちらの方がコストも安く大量に作れるという事で重宝されてしまい、元来の第一次産業が蔑ろになってしまったのも、現代に続く本物不足の原因だ。ただ、当時はどうやって国民の餓えを凌がせるか、という究極的な課題にぶつかっていた為、誰も強く責められないのだ。もう少し早く体制が整っていれば、大家さんの子供たちも苦しまずに済んだだろうに、なんて考えてしまう。
「おばあちゃま、こういうの好きかしら」
確か長野出身と言っていたか。私の手元には『イナゴ100%君』なる佃煮がある。本物不足の御蔭で『~%』という商品名で客を引こうという浅はかな試みについては目を瞑ろう。それにしても強そうなイナゴだ。思うに、米の産出量が少なくなった現代にも適応するよう進化した結果100%なイナゴが出来あがったのではないか。違うか。違うわね。
「ねえ」
「ん?」
まだ何か食べるものを、なんて棚を見ていると、隣で声が上がる。そちらを見ると、その女の子は私の手の中にあるイナゴ氏を凝視していた。黒帽子の、なんだかやぼったい服を着た黒髪の子は、イナゴ氏から目線を私に移す。
「食べるの? それ」
「おみやげよ」
「最後の一つよね。というか、ここ二つしかいつも入荷しないし」
「……」
同い年ぐらいだろうか。言葉はハキハキとしていて、良く通る。
「もしかして、これを買いに来たのかしら、貴女は」
「え、あ、うん。あんまり美味しくないよ? 外人さんには辛いかも」
「食べるおばあちゃまは長野の人だし、私も日本人ですわ」
「そ、そっか」
女の子は寂しそうに俯く。どうやら諦めたらしい。確かに、こんな商品がそこら辺のコンビニに沢山置いてあるとも思えない。けれども、私も私でこのイナゴ氏に用事があるので、ここは譲れなかった。
「100%ですって。強そうよね」
「実際、昔のイナゴに比べると咬む力が三倍で、捕まえるのも苦労するって話を聞くわ」
ちらり、と上目遣いで彼女がいう。その目線が少し可愛いけれど、言葉にしているのは新イナゴの生態だ。
「……食べたい?」
「……」
「まあ……量はあるし……タッパーにでも移しかえれば良いかしら。私食べないし。あ、半分出して頂戴ね?」
「ホント? なんだか悪いわね」
「うーん……」
普通なら煙たいし、あまり他人に干渉されるのも好かない私だけれど、この子はそんな気持ちにならなかった。
自宅に戻り、私はダンボールの中から小分けに出来るタッパーを取り出し、半分詰める。彼女には外で待ってもらっているけれど、先ほどからチラチラとこちらを伺っている様子だ。
「どうかした?」
「引っ越してきたの?」
「そうそう。今日ね。実家も近くだけど、独りで暮らしたくって」
「へえー……春だし、その歳だと大学生かな」
「そ。首都大学の一年ですわ」
「あ、私も今年から、そうなの」
「まあ。偶然ってあるものね。はいこれ」
タッパーを手渡す。彼女は私とイナゴ氏を見比べてから、眉を顰めてうんうん唸りだした。
とてつもなく、今更だけれどとてつもなく変な子だ。
「……あの、ええと」
「あ。蓮子よ。貴女は?」
「マエリベリーよ。蓮子さん、その、何か?」
「あ、えと。片付けとか手伝おうか?」
「大丈夫。入学後の学力指数テストがあるでしょ。帰ってお勉強する事をお勧めしますわ」
「大丈夫、免除だから」
「……はて。学術特待生?」
「私、宇佐見蓮子。名前聞いた事、ある?」
名前をきいて、私は目を瞬かせた。その名前をどこで見たか。
一番最初は新聞、次はゴシップ誌、次は科学雑誌だったか。
「こんな大学に? 政府の研究機関に入るんじゃ?」
「蹴っちゃった。まだ勉強したいし。みんな忙しい中、私は暇だからさ。じゃあ趣味を広げてみよう、なんて思って、食べ物について色々やってたら、私には昆虫のたんぱく質が合うんじゃないかと発見したわけよ」
「はあ……なんというか、貴女、なんか変ね」
「良く言われるけど、普通よ普通。で、マエリベリー・ハーンさん。確か、国内の統一模試だと五位だったかな。名前覚えてる。顔写真も載ってたね。我が高校を代表する生徒です、とかなんとか」
「……何も無いとこだけど、上がって行く?」
「いいの?」
「立ってるものは親でも使え。暇な学生なんて、使われる為に存在しているようなものですわ」
「あ、いいね、それ。うん。じゃ、お邪魔します」
宇佐見蓮子と名乗る子を自宅に上げる。私は携帯からネットにアクセスして、その名前を検索。丁度インタビューを受けている写真を見つけ、当人である事を再確認した。
『神童 宇佐見蓮子 その頭脳はどこからくるのか』
そんな見出しだ。
「まえりべ……ううん、言いにくいわ、その名前」
「じゃ、メリーで良いですわ」
「メリー、この本棚どうやって組み立てるの?」
「論理的に」
「……ふむ」
蓮子さんはバラバラになった本棚を眼の前にして、熟考を始めてしまった。私は冷蔵庫に食料を仕舞い、彼女の隣に座る。なんとなく桜のような香りがした。
「出来そう?」
「この部分とこの部分、負荷が分散されないから傷みやすい」
「なるほど……って、それじゃ組み上がらないわ」
「――確かに」
真剣に頷き、また考え始める。そんな様が傍から見ていて、なんだかおかしくて、思わず笑みになる。仕草がどこか子供っぽくて(実際子供だけど)、こんな子がまさか学生の頭脳の頂点にいるなど、誰も思わないだろう。
「出来そう?」
「二日貰えれば」
「……ま、いっか。じゃ、飲み物と食べ物、二人分買ってくるわ」
「そうなるとまずベッドかな……」
「ああ……じゃ、お任せするわ、蓮子さん」
「蓮子で良いわ」
「蓮子」
「うん。私合成オレンジジュースで良い」
「はいはい」
冷蔵庫からイナゴ氏を取り出し、私はまた外へ出る。一階におりて大家さんの部屋に赴き、インターホンを鳴らすと直ぐ出て来た。おばあちゃまは足腰がまだまだ丈夫らしい。
「おばあちゃま、イナゴなんて食べます?」
「メリーちゃんかい。食べるよお、大好物さね」
「良かった。はいこれ。これからよろしくお願いします」
「ええ、ええ。おばあちゃんが死ぬまでここに居てね。ま、あと何年も生きとらんだろうけど、ほっほ」
おばあちゃまの自虐ギャグが炸裂する。
私は微妙な顔を浮かべると、おばあちゃまもそれを悟ってか、また余計に微笑んでくれた。
「では」
「あいよ。よろしくね」
自分から踏み出した一歩だけれど、何かと不安だったけれど。
そもそも、親の意見を跳ねのける、という行為自体が初めてだったのだから。
けれども、まあ、なんとかなりそうだ。
「メリー、冷蔵庫のジュース飲んで良いわよね?」
「え、なにそれすごいずうずうしい。てか降りてこないで組み立ててくださいな早く」
「えげつないくらい貪欲じゃなきゃ、頭も良くならないの」
「はあ。まあいいわ。飲んでなさい」
「ん。じゃ、頑張るわ」
「頑張ってね」
まあ……なんとかなりそうだ。たぶん。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 19時30分
見上げる月は、まるくて大きい。
「――――あ?」
「はい、おまちかね!! かの有名な大馬鹿女郎、嫌われに嫌われ、もはや逆に好かれているんじゃないかと噂の八雲紫のソックリさん、マエリベリー・ハーン女史だ! 酔っ払い共、拍手しやがれ!!」
好奇な目が私に注がれている。ふと辺りを見回せば、頬を赤くした人達が、取り敢えずノリで拍手しておけ、といった投げやり感たっぷりに笑っていた。隣には一升瓶を抱えた魔理沙さんがいる。遠目に見ると、阿求さんと慧音さんに挟まれるようにして、蓮子がオドオドとしていた。
「あれ、魔理沙さん?」
「まあまあ、ほら、来たばっかりだ、さっさと一杯キメろ」
と、コップ一杯の……臭いを嗅ぐ、焼酎だ……を、渡される。総勢数十人からのイッキコールが巻き起こり、やむにやまれず私はそれを胃の中へと流し込んだ。思いの外強くない。観ると、魔理沙さんは二種類の酒樽を背後に構えていて、片方はどうやら水のようだ。薄めてくれたのだろう。が、そんな事は知らない周りが、私の呑みっぷりに感心して拍手を喝采だ。
これは優しさじゃない……こんな姿見せつけたら、死ぬほど呑まされるにきまってる。
「まあ……紫ったら……なんか、可愛くなってしまって……」
艶のかかった声が耳元で聞こえる。ひんやりとした空気に振り返ると、いつの間にかそこには、魔理沙さんが要注意を勧告した亡霊姫がいた。ビクッと一歩下がると、彼女は私を放したくないのか、スグサマ私の手を掴み取った。
「幽々子様、それ紫様じゃないです」
「妖夢、そんな事はどうでも良いのよ」
「はあ……まあ何でも良いです。魔理沙さん、もう少し強い酒はないのか喃」
「こいつ、もう酔ってやがる……そんなだから半人前(ナマクラ)なんだ」
「ナマクラと申したか」
「半人半霊だったなそういえば」
「はあ……まあそうですけど……。うっ……く……はひー……お酒おいしー……」
「……幽々子の隣に居ると、水まで美味くなるのか……そうだ妖夢、なんか芸しろ芸」
「――お見せ仕る、幻想郷無双と言われたその太刀筋を」
「ほう?」
「白玉楼を守る事……魂魄家はそれにつきまする……」
やいのやいのと背後が盛り上がっている所、私は完全にその幽々子様とやらに捕まってしまう。その女性は優雅に微笑み、私に御酌をし始めた。お猪口に注がれた日本酒程度なら良いけれど、鼻を近づけてそれは違うと直ぐ気が付いた。
「……スピリッツ」
「スピリタスですわ」
「や、そういうのはちょっと……ご遠慮願いたいですわ」
「……呑んでくださらないんですのね……」
よよよ、と幽々子嬢が泣き崩れる。
気が付いた、もう早々に気が付いた。
こいつらは最悪だ。
「謀った喃……謀ってくれた喃……」
後ろで白髪オカッパが騒いでいる。刀ってそんな持ち方するんだっけ? 彼女は無音のまま太刀を『放ち』、魔理沙さんが投げた徳利を真っ二つ……いいや――バラバラにした。
「お美事!! お美事にごさいまする妖夢殿!!」
「ざっとこんなもんです。さあ、おひねりください。白玉楼の食費の為に」
酔っぱらってる割りには現実的らしい。私は此方に転がって来た徳利の破片を拾い上げる。それは、見事に細かく、賽の目切りになっていた。やっぱり人間じゃないらしい。
「……幽々子、さんでしたっけ?」
「いやん、他人行儀だわ。ゆゆこって呼んでくださいまし」
「呑まなきゃだめ?」
「人間が作ったお酒なのだから、人間が呑めない筈がないわ」
スピリタスっていうのは、基本果実酒にしたりするものであって、直呑みなんて変態のする事だと思う。とはいえ、消毒につかえて、身体はあったまって、ガソリンの代わりにもなるぐらいだから、便利といったらそうだ。いやだから、普通には呑まないのだ。でも幽々子さんの目が怖い。呑まなきゃ殺す、という雰囲気だ。呑んでも死ぬのに。酷すぎる幻想郷。
私は覚悟を決め、一気に流し込む。
「くぅ……げほ……わたしゃ露西亜人か!!!」
「いやぁーーーッかっこいいーーッ幽々子気絶しそうッ!!」
「気絶しれっ」
ケタケタと笑う亡霊姫の頭をひっぱたく。叩いた後からヤバいと思ったけれど、彼女はそんなものどうでも良いらしい。だいぶ少量だから良いものの、こんなものコップで出された日には訴訟モノだ。
「うおあ……ぐ……」
「流石労働者燃料ね。はい、お水」
「……」
無言で胃の中を薄める。
「それで良いのよ。ここに居る人達、みんな自分の事、大した存在だとは思っていないの」
「……はて」
「怪物みたいに強い人も、私みたいに簡単に人を殺せる人も、結局は皆、人間に破れた者達、人間でいる事を諦めた者達なのよ。自尊心は大きいけど、人間に馬鹿にされて仕方が無いって、思ってる。私達は、幻想的な風景の中でしか暮らせない、ちっぽけな存在」
「……」
「人間は弱い。人間は一人じゃ生きて行けない。人間は脆い……けれど、行く川の流れのようにある事こそが、変容を重ね進化し続ける人間のが強さ」
「それは、経験則か、何かですか」
「……はて、何だったかしら」
急に落ち着いたかと思えばとぼける。幽々子さんはお猪口から一口して、ゆっくりと長い溜息を吐いた。良く見れば、とても人とは思えない程に白い肌で、全体的な雰囲気も薄い。お酒を口にしていなければ、かくも華やかで、そして風雅な人なのだろう。……本当に幻想郷は、その名の通り幻想的な美人しかいない。現実的な美人なんて、観た事がない。
「いつまでも貴女を一人占めしていると、怒られるわ。ほら、次へ回りなさい、人間」
「殺されちゃ堪りませんものね」
「ふふ、ええ」
幽々子さんに手を振られ送られるも、この大魔界状態の宴会場で、私は果たして何処へ行けばよいのだろうか。いつの間にか手元には瓶を握らされている。琥珀色の液体はだいぶ年季の入った瓶の中でなみなみと揺れていた。ラベルを見る。グレナボン1852年とあった。これ、現実に持ち帰ってオークションに掛けたら、一財築けるかもしれない。
「ああ来た来た。待ってたわ、待ってたわ」
「いや、来てないですわ、通りがかっただけ」
「いいのよ、そんな言い訳しなくても。私の隣に座れて光栄でしょう?」
緑髪のチェック柄、幽香と言ったか。彼女はヘラヘラと笑いながら、自分の隣を手でぽんぽん叩いている。……仕方なく、私はそこへ腰掛ける。幽香さんの周りを囲っているのは、魔理沙さんに普通と評された大道芸人と、赤い髪をぼんぼりで結った女性だ。幽香さんと赤ぼんぼりの人は、それ相応の年齢層に見えるけれども、大道芸人の人はなんだか少し浮いている。私が入って丁度均等がとれるぐらいだ。
「あら、お土産?」
「外で売り払おうと思って」
「やめなさいやめなさい。お酒なんてのは呑まれて幾らよ」
と、私からウィスキーを奪い去り、瓶の首を――手刀で弾き飛ばした。なんかおかしい。何がおかしいって切り口が、水圧カッターで斬ったみたいになめらかなのがおかしい。手ってそんなに切れ味良かったっけ?
「はいダバー」
「あ、馬鹿幽香、もったいないわね」と大道芸人。
「年代物のウィスキーかあ。乙女っぽくない飲み物だねえ」と赤ぼんぼり。
「酔っ払いに乙女も鼻くそもないわ。はい、メリー」
「……幻想郷では人間にアルハラするのが流行りなのかしら? あそこの亡霊に、スピリタス呑まされたばかりなのですけど」
「ええ……あんなの呑んでシラフで居るなんて、魔理沙の言ってた通り、めちゃくちゃ強いのかしら?」
「さあ。限界ぐらい知ってるつもりなんですけれど。きっと幻想度が高いから」
「度数が高くてもイケる、と。いいわねえ、お酒の呑める女性は」
グラスに注がれたウィスキーを眼の前に持ってこられる。仕方なく受け取り、私は三人と乾杯した。
「お……おいしい……か、どうかは別として。物凄く深い香。マニア向けの飲み物だわ」
そもそも、私は合成しか呑んだ事がない。
「ああ、ぶっ倒れても大丈夫よ、メリー。あそこにほら、看護婦がいるから」
「ええと……あのウサミミを裸にしている人かしら」
「そうそう。死にかけても人間ぐらい生き返すでしょう。薬の副作用で、もっと楽しくなってしまうかもしれないけれど」
「……」
三口呑んで手元から放す。今夜が山なんだ。幻想郷で色々あったけれど、今日こそが本当に正念場だ。ここを超えなければ、私には未来がない。というか、どうして焼酎、スピリタス、年代物ウィスキーなんてコンボが完成するのかがまず解らない。幾ら幻想郷が幻想郷だからといっても、ものには限度があるのではないだろうか? まずビールでしょう? 蓮子は空気読まずにライチサワーとか頼みだすけど、ビールでしょう? 出て来た唐揚げに勝手にレモン汁をぶちまけるかの如き所業とはこのことだ。
「居酒屋で出て来た唐揚げにレモン汁をぶちまける奴を私は三人程殺したわ」
「あら、幽香、奇遇ね。私もまだ煮えていない鍋を自分の箸で掻き回す奴を二人程縫いつけたわ」
「ああ、解る。私も是非曲直庁の飲み会で出て来た本マグロの刺身をじゃんけんで決めずに食った奴を三途で泳がせたよ。でもそいつ閻魔でさ、めっちゃめちゃに怒って、私を解雇だ解雇だなんて騒いだんだけど、映姫様がもーね、ほら、白黒つけなきゃ駄目なタイプでしょ? 当然ローカルルールも守らないと許せない人でさ、そいつまた三途で泳がされて……」
「くっ」
「ぷぷ」
「あっはっは!!」
どんな話題なの、どんな話題なのそれ。何? 単語が解らない。面白話なの? とりあえず話題に乗ろう。
「私の友達も、まずライチサワーとか言いだすのよ」
「ライチサワー(笑) は、別に良いんじゃないの?」
「え、私女だけど……まずビール。小町はぁ?」
「え? なに? 幻想郷の里は最初に何頼んでも良いの? 彼岸だと日本酒頼まないと釜ゆで地獄番させられるんだけど」
どうやらここで意見が分かれたらしい。私はビールはなので、大道芸人につこう。
「ビールですよね、ええと」
「アリスよ。アリス・マーガトロイド……昨日来てくれたわね……」
「ええ。あれ、魔法なんですって? 魔法使いだったんですのね」
「人形遣いなの……他にも色々出来るけど。ふふッ」
アリスさんはなんだか優しく微笑み、顔を赤らめている。もしかして酔っているのかもしれない。彼女の手元を見ると、指四本まで注がれたウィスキーがもう三分の一も残っていない。流石にそれはペースが早すぎる。チェイサーもないではないか。
ふと、私は隣に座る二人、幽香さんと小町さんと呼ばれた人を見る。とても機嫌の好さそうな笑みだけれど、その視線はアリスさんに注がれていた。私に強引にお酒を勧めて来ないのは、そうか、現在の標的はアリスさんなのだ。
「おお、アリス。グラスが乾いちゃうよ」
そういって小町さんが注ぐ。アリスさんは否定する気もないのか、否定する理性が飛んでるのが、おっとっとっと、なんて笑っていた。ウィスキーをおっとっとする光景を見れるのも、きっと幻想郷ならではだろう。あれはそういう飲み物じゃない。
「ううん……こういうのもいいわねえ……情緒の欠片も……ひっく……ないけど」
幽香さんの頬が釣り上がる。同時に振り返り、遠くの席……咲夜さん達が居る方向に目配せした。私もそちらを見ると、咲夜さんがコクリ、と頷き、次の瞬間には……アリスさんの隣に、紫色の人が現れた。咲夜さんが時間を止めて運んで来たのだろう。そうそう、名前は知らないけれど、紅魔館の図書館で本を肥やしにしている人だ。
どうやら紫パジャマの人もだいぶ酔っぱらっているらしく、かなり目が座っている。ウィスキーを見つめたままうっとりしていたアリスさんが隣の紫パジャマの人に気が付き、少しだけ目を瞬かせ、恥ずかしそうにした。
なるほど。
「あら……パチュリーじゃない……どうしたの?」
「貴女こそ……あら……いつ移動したのかしら……あ、はい、乾杯」
「あ……う、うん。かんぱい……」
「……そ、そうだ。この前、人形ありがとう。小悪魔が、喜んでたわ。可愛いって」
「そう……簡単なものだったけど」
「簡単なのに、あんな精巧なものが出来るのね……アリスは器用だわ。私ったら、手先はあまり得意じゃなくて」
「私なんて大した事ないわ。私も、パチュリー程の知識があればなんて、いつも思うもの……」
「じゃ、じゃあ。今度またウチに来て、勉強会でもしましょうか?」
「あら、いいの? お言葉に甘えて……お邪魔しようかしら」
「え、ええ、是非そうして。お礼もしたいから……」
「そんな、お礼なんてされる程の事じゃないし」
「アリスは自分を過小評価してるわ。貴女は天才よ。作る事にかけては幻想郷一だわ」
「ぱ、パチュリーも、魔法にかけては右に出る者はいないんじゃないかしら?」
うんうん、と私は頷く。女性で好き同士だと、互いを褒めちぎってコミュニケーションをとるタイプのカップルが多い。女性は褒められるのが好きだ。男性はその辺りを理解せず『言葉が無くても伝わっている筈』なんて思いがちで、行き違いになってしまう事例は多々ある。ちなみに私と蓮子はそういうタイプじゃない。駄目出ししあって補完している節がある。
一人納得してから、私は隣に視線を移すと、いつの間にか観客が増えていた。一様にニヤニヤしながら、片手にはコップやグラスやジョッキを抱えている。きっと幽香さん達はツマミ作りを任命されたのだろう。恐ろしいことだ。
「そんなことないわよ!! アリスの方が凄いわ!」
「だから違うってば、パチュリーの方がよっぽど立派な魔法使いよ!!」
褒め殺しからの発展技、痴話喧嘩だ。褒めあいながら喧嘩してるのだから凄い。だけど直ぐ仲直りするのも予定調和。
「あっ……その……アリス、ご、ごめんなさい。私ったら……」
「うっ……う、うん。私も、ごめんね、パチュリー」
「アリス……」
「パチュリー……」
……二人が手を繋いでウンウンと頷き合っている。顔が近い。隣からは『ほらそこだやれ』だの『いってしまえ』だのと聴こえて来る。私はあんまりにもお腹いっぱいなので、腹をさすりながら席を離れる。ここに居たら、お酒が甘くて仕方が無い。確かに、ウィスキーのツマミにチョコレートってのもあるかもしれないけど、私はしょっぱい方が好きだ。
酒のアテを人物関係から作成するまで成熟しきった幻想郷の宴会は、小娘の私にとってレベルが高すぎる。どこかもう少しまともな所はないのだろうかと視線を巡らせると、紅白色の人が空を浮きながら笑っているのが見えた。
「く、ふ、あははははっ」
「あの、霊夢さん」
「え、何? たぶんメリー? ふふ」
「なんでもないです」
「なんでもないの? おっかし、あっははははッッ」
だめだ。これはダメ人間だ。これに絡もうというのが間違いだ。
そんな風に飽きれている所で、私は肩を叩かれる。振り返ると、そこには一仕事終えた咲夜さんがいた。そのまま手を掴まれ、私は所謂紅魔館組の中にポンと据えられてしまった。正面には幼女、右には中国人がいた。レミリアさんと紅美鈴、紅美鈴さんだ。
「あら咲夜。今日は血じゃなくてお酒を呑みに来たのだけれど」
「古い知人ですわ」
「なんかどっかで見た事あるのよね。スキマのアレに似てるからってのもあるけど。ああ違う、確か」
「そうですわ。紅魔館でお茶していった人間ですの」
「メリー、だったかしら」
「流石お嬢様、御聡明でいらっしゃいます」
「わたしゃボケ老人か。で、メリー」
「はい」
「注げ」
傲岸不遜にも、唯我独尊にも、彼女は私の前に大きな盃を据えた。私は近くにあったボトルを手に取り、それを注ぐ。たぶん盃に注ぐようなお酒じゃないだろうけれど、当然そんなものこのひと達が気にする訳もない。
「呑まないの?」
「え? 私が呑むんですの?」
「私の酒が呑めないって?」
「いや、注いだの私ですけれど。まあいいです、呑みますわ」
「ほう」
ああ、相手が吸血鬼だと思って、調子に乗って注ぎすぎた。こんな盃、儀式か横綱しか使わない。
私のアルコール摂取量は明らかにキャパシティを超えている筈なのに、今日に限ってはほろ酔い程度で気持ち悪くならない。肝機能が超人化したのか、ただ単に私の秘められた力が解放されたのか。どっちも少年漫画的だけど。
向けられた盃を受け取り、うだうだ言わずに飲み干す。うわこれブランデーだ。
「お、おおー……咲夜、こいつ人間なのに、凄いじゃない」
「十年前から目をつけていましたの。お気に召しましたか」
「ぶは……なんで酔わないのかしら……まあいっか。ああ、ほら、レミリアさんもどうぞ」
「あ、うん」
「こんなものでよろしかったかしら」
「(いや多いだろ……)ま、まあそうね。それにしても盃交わすって、義姉妹の契りでも交わす気かい、お前は」
「お嬢様、広域指定暴力団紅魔組の組長が何をおっしゃいますか」
「それは違うだろう? 人間保護するかわりに貢いで貰ってるだけだから」
「それは暴力団ですわ」
「レミリア組長、呑まないんですの?」
「誰が組長だ! 呑むわよ!!」
そこは流石の吸血鬼か。鬼というだけあって呑みっぷりも堂に入ったものだ。胡坐をかいて盃を乾かし、口元を擦る姿は幼女なのに男らしすぎる。私はレミリアさんと咲夜さんを見比べ、ひとり頷いた。やっぱり妖怪は歳を取らない。これだけ信用のおかれる咲夜さんは、このままでは間違いなく、先に歳をとって死ぬだろう。
幽々子さんは、行く川の流れはたえずして、なんて歌を比喩に持って来たけれど、信じあえる者同士が同じ時間の中に居られない、というのは、とても残酷な事だ。レミリアさんは咲夜さんが今後、人間の寿命に抗えないまま死んで行く姿を目の当たりにして、普通に居られるだろうか。レミリアさんの姿を、微笑ましそうに見守っている姿を見ると、殊更胸が痛む。
……魔理沙さんも、たぶん今後、霊夢さんの死に際に出会う事になるのだろう。妖怪は人間を食べる。けれど、人間の全てを単なる食料だと思っていないなんて事実は明白だ。
「おい人間」
「ええ」
「今、私達に何を見た?」
「言葉にする必要もない事ですわ。大事な事ですもの」
「達観したつもりか。ひよっこめ。現実を目の当たりにした時、その達観なんてものは角砂糖より簡単に割れて砕け散る。現実っていうのは、それほどまでに過酷で、残酷で、痛々しい。幻想郷においても、手を施さなければ現実は現実のままだ」
「良く解りましたわね」
「何年生きてると思ってる。お前の眼を見れば、直ぐわかるわよ。ふん、まあいいわ。咲夜」
「はい、如何なさいましたか」
「お前はそのまま死ね。人間のまま死ね」
「ええ、仰せのままに」
「質素な墓に、質素な花を飾る。慎ましく、瀟洒な墓だ。神式か? 仏式か? 基督式か?」
「神式でお願いしますわ」
「そうか。じゃあ単なる岩だ。お前の墓は、紅魔館の庭石。末長くそこに居ろ、自然物の如く」
「――ええ、ハイセンスですわ、お嬢様」
……。
私には何も言えない。知ったかぶりをした自分が恥ずかしくてたまらなかった。ここの人達はみな口を揃えて言う。人間は素敵なのだと。元から人間でない者も、元は人間の者も、人間至上主義者ばかりだ。ただ、ここには人間の価値を計る為の秤が沢山あって、自分の存在について悩むべき要素が沢山ある。
秤を使って、自分の価値を確かめ、道を決めるだけの世界が存在する。異能の対価を寿命で支払う咲夜さんと、永遠に幼いままのレミリアさんの間には、最新技術で作られた極薄特殊剃刀一枚だって入る隙間はない。二人の想いと価値が、そこには完成された形で誇らしくそびえ立っている。秤を弄り倒した結果なのだろう。
「後悔して反省して糧にしろ。昇華しない後悔は単なる荷物だ」
「勉強になりましたわ、レミリアさん」
「よろしい。なんにせよ、お前はどうも、つつけば破裂しそうな水風船のようだから、柄にもなく心配してしまう」
「……自覚は、あるのですけれどね」
「自覚は行動を伴わなければ自覚していないのと同じだ。生きるゴミにだけはなるな。難しい事もない。かくの如くあればいい。咲夜が咲夜であるように、私が私であるように、お前がお前であれれば、ゴミにもならんだろうから」
「何故そんなに、心配してくださるんでしょうか」
「咲夜がわざわざ連れて来たからだ。私からすれば人間は食べ物にすぎない。それを捌く咲夜もまた人間の価値に対しては冷めている。けれど咲夜は私の前に連れて来た。では若者を連れて来られた年寄りである私は、それに説教しなきゃいけない」
「身に余りますわね」
「なんとでも言え、人間。ほら、さっさと何処かに消えてしまえ」
レミリアさんが手をぷらぷらさせて私を追い払う。咲夜さんは笑顔だ。私は立ちあがって礼をしてから、背を向ける。また説教されてしまった。ここに来てから、もう何度目か。けれど、それだけ彼女達妖怪からすると、私は危うく見えるのだろう。私の能力如何に関わらず。
では、もう一方の人間はどうだろうか?
その辺りに落ちている未開封のビール瓶を手に取り、私は漸く蓮子達がまとまっているグループに辿り着く。
蓮子がぼんやりと私を見上げ、少しだけ笑う。右には慧音さん、左には銀色長髪、その横には阿求さんがいる。
「蓮子のお世話、おつかれさまです」
「おお、メリー。蓮子が寂しがっていたんだ。ああ、その隣にいるのは藤原妹紅。竹林の焼鳥屋で、藤原不比等の娘だ」
「物凄い経歴の人物には何人かお会いしたので、今更驚きませんわ、慧音さん」
藤原妹紅と呼ばれた人は、私を訝るような目をしてから、首を振って、また会釈した。不比等の娘となると、稗田阿礼と同年代の人物だ。古事記、日本書紀に近い人物が当たり前のように暮らしているのだから相変わらずぶっとんだ世界観だ。
「メリーですわ、妹紅さん。貴女も、人間を辞めた方?」
「辞めさせられたタイプだ。不本意だよ。まあ、今は現状に満足してるけどね」
妹紅さんの正面に座らされ、御酌される。彼女は私をじっくり見てから、目を瞑って思い出すように語らい始めた。不本意だとは口にするけれど、お酒のツマミに出来る程度にまでは、その因果も薄まっているのかもしれない。
父を辱めた蓬莱山輝夜への怨み、人知を超える蓬莱の薬、それを作る八意永琳。私は時代小説の読み聞かせでもされるかのように、黙ってお酒を呑む。お年寄りの話は静かに聞くものだ。
「しばらく幻想郷ではなく、外にいらしたんですのね」
「ああ。大東亜戦争が終わる頃までかな。日本の幻想が急激に死滅した頃まではいたよ。時代に乗って神様にでもなって落ち着こうかと思ったけれど、敗戦で居心地悪くなってね。神道も国家から切り離されたし、安定収入がないんじゃねえ」
「痛み入りますわ。けれどそうなると、旧近代史の生き証人になりますわね」
「そうだね。ああ、お前さんは小泉の子孫だって? 何度か見たころがあるよ、八雲」
「まあ。世の中狭いですわ」
「島根を回っていた頃の話だ。島根といえばなんだい?」
「出雲大社、大国主、あとは須佐乃男や稲田姫、因幡の白ウサギなんかもかしら」
「永遠亭の白ウサギ。制服じゃない方だ」
「ああ、あちらで全裸のウサギに蝋燭を垂らそうとしている方ですわね」
「因幡の白ウサギだ。私なんかよりも年上だからな……永遠亭の平均年齢は一体いくつなんだか」
「……」
「お前のご先祖様が幻視した神国出雲の話が知りたいなら、あいつに聞くのが良いだろうさ。貢物持っていけよ」
「世の中狭いですわ」
「狭いさ。因果に寄る私達幻想物なんて、全部一括り。お前さんも括られてるかもしれないな」
妹紅さんがお酒を一口して笑う。良く怒り、良く笑う人達だ。歴史を超え時代を超えて来た人々が集まる幻想郷は、終の住処。あとは終わるまで、ここに居るだけ。外に出る気もなく、何かを生み出そうという気もないけれど、前向きに現時間を愛している。短い一生の先を追われる事だけが生きる印である私達とは根本的に存在理由が違う。
「貴重なお話、ありがとうございます」
「いいや。年寄りの戯言だよ。お前さん達は前を見れば良い」
妹紅さんが頷き、歴史を蒐集する二人もまた、頷く。
「では永遠亭の方々に、顔を出してみようかしら。蓮子は?」
「ん。も少しここにいる。用事が終わったら、呼んで」
「はい。酔い潰れないでね?」
蓮子に釘を刺して、私は件の永遠組が固まる方へと足を進める。
そこに広がる光景はなんというか、なんとも言えない。因幡の白兎と言われた人物は服を着ているけれど、この制服兎の方は制服を着ていなかった。つまり鮫は因幡で兎は制服だったのだろう。幽香さんが看護婦と言っていた女性は私に気が付くと、多少訝る目をするが、すぐ笑顔になる。いつもこれだ。皆、特に力がありそうな人達は特に。
それだけ八雲の影響というのは、強いのだろう。
「いらっしゃい。待ってたわ。予想以上に似ているのね、ええと」
「メリーですわ」
「永琳よ。竹林で薬師をしているの。二日酔いに効く薬なら、常備してあるわ。いる?」
「それよりも、急性アルコールで倒れた時の対処をお願いしたい所ですわ」
「ごもっともね。さ、こちらに座って」
永琳さんの隣に招かれ、私は静かに腰掛ける。私の正面には裸で半べそをかいた耳長兎の人、それを超えた向こうに、美味しそうにお酒を呑んでいる、黒髪の人がいる。もっさりした耳の因幡氏は、新しい苛めの対象が増えたと喜んでいる様子だ。そうはなるものか。
「メリーですわ」
「蓬莱山輝夜よ。お姫様気取って、はて、何年だったかしら」
「古典文学の主人公に逢えるなんて、光栄です」
「ああ、妹紅から聞いたのね。永琳、御酌してあげて」
輝夜さんはニコニコと笑ったまま、永琳さんに指示する。蓬莱山輝夜。竹取物語の主人公。ともすれば、本物の月人か。私達の科学では及ばない領域に住んでいた人なのだろう。薄暗い中でもハッキリと際立つ彼女の美貌は、まさしく魔性と言える。これは、おえらいさん方がこぞって求婚するのも仕方が無いかもしれない。
「頂きます」
「どうぞ」
頂いたお酒を口にする。普通の日本酒のようだ。ただ、幻想郷で呑んだ日本酒よりも澄んでいる。
「魔理沙がふれまわっていたけれど、貴女は未来人なんですって?」
「ええ、たぶん、そういう定義になると思いますわ」
「今……現代から、何年後?」
「六十年ほど先、です」
「その時代にも……あの家は残っているのかしら」
輝夜さんはぼんやりと空を見上げて呟く。あの家、とは、恐らくかの家、だろう。
「神社も、お寺も、昔程は拝まれなくなりましたけれど、かの家はまだありますわ。臣民の精神支柱として」
「不思議なものだわ、ねえ永琳」
「初めは征服者として。次は支配者として。次は傀儡として。はては現人神として。そして貴女の時代では、再び神に祭り上げられたのね。忙しい家だわ、本当に」
「でも、いつもやむにやまれぬ状況で、変化するものですわ、お二方」
「そうねえ。ねえ、永琳」
「ええ。そうね……変化。良い言葉ね」
永琳さんは少しだけ視線を落として、静かに呟く。何か、琴線に触れる言葉だったのだろうか。長い間生きる人々にとって、変化というのは悉く稀なのだろう。魔理沙さんの話では……この八意永琳という人物は、突拍子もない話だけれど、億単位で生きているらしい。生物が人間の形に進化する前からの、人間の形をした何か……それは神と称するものではなかったか。
「罪に時効はないわ。私達は、咎を背負って生きる身。例え、月の姫君達が私達を愛しく思っていたとしても、私がした事は、つまりそういう事。メリーさんは、何か変化が欲しいと、望んだ事があるかしら?」
「具体的には。けれど、人の身で人の中に生きていると、どうしても違うモノになってみたいって、そう思う事はありますわ」
「凡庸ね。でも、その通り。私も結局そうだった。私は、変化が欲しかった。ね、輝夜」
「――たとい私達が永遠になろうとも、世界は変化を免れない。そして、たとい世界が永遠になろうとも、私達は変化を免れない。世はまさしく、絶えまない経過の中にある。隔絶された仮初の永遠は、いつかは必ず崩れて消える。素敵よね、メリー」
その言葉を、どう判じれば良いだろうか。まともな質問でない事は承知しているが、荒唐無稽すぎる。意味がない……のだろうか。この人々の瞳に貫かれる私は、答えを出すべきなのだろうか。
「……儚くたゆたう月はまさしく、永遠ではないのよ。私達は、そういう道を選んだ。苛めてごめんなさいね、メリー」
「い、いえ。輝夜さん」
二人が微笑む。やはり、答えはなかったのだろう。
二人はきっと、この幻想郷住人の中でも、飛びぬけて長い年月を歩んだ人達だ。今の質問も戯れ……とすれば何の事もない会話だけれど、何か深い意味がある可能性だってある。それが普通の人ではなく、私のような特異な人間に向けてだとすれば、尚更だ。
何か次の言葉を紡げれば。そう悩んでいると、私の前に因幡の人が割って入った。
「辛気臭い話。この二人に付き合うと、脳が融けるよ?」
「まあ、酷い事いうのね、イナバ」
「……反論はしないわ、てゐ」
失礼にも言い放たれた言葉だったが、二人も慣れているのだろう。因幡氏は私の正面に座ると、ドンと構える。神話に出て来る白兎……ああ、そうだ。浅知恵を働いて蹂躙された所を、イケメン男子に助けられた過去があった筈だ。
「妹紅さんから聞きましたわ。出雲に詳しいとか」
「ま、そりゃそうよ。あそこに生まれてあそこで暮らしていたんだもの。国引きで一緒にこっちに来てしまったけど。ま、丁度良かったかな?」
「国引き? ご教示願えるかしら?」
「私達が暮らしている竹林は、元は向こうの高草郡にあったのよ。でも、幻想郷に国引きされて、こちらに移ったの」
因幡てゐさんは、ニンマリと笑う。私としては出雲の過去を聞きたかったのだけれど、どうやらてゐさんは違う話題に持って行きたいらしい。何故そうなるのか。まあきっと、どうせ、私の所為だろう。
「どういう意味です? ああ、これ、供物ですわ」
そういって、先ほどくすねて来た一升瓶をデンと据えると、彼女は偉そうに頷いた。
「殊勝な心がけ。神様にはそうでなくちゃね。幻想郷の奴等ときたら、全く」
「てゐ」
「あー、コホン。たぶん、古くからここに住んでいる人達は気が付いていると思うけれど、幻想郷と言う場所は、国引きによって作られたわ。地理的に有り得ない土地が沢山ある。魔法の森は西洋から、竹林は出雲から、八ヶ岳ももっと遠かった筈なのに、こんなに近くにある。それに……諏訪湖。あれだって、普通には幻想郷入りなんてしない」
――ぐるりと、頭の中が回る。止めようと思っても、止められない回転。脳が、思考が、洗濯機に入れられたように、何度も回転、反転する。
「刺激強かったかな。お師匠、これ、全部話しても大丈夫なタイプの人間んでしょーか。いやそもそも、人間なのかな?」
「その判断は、当人によって決められるべきだと思うわ」
「ま、出雲の話しろっていう事だし。ねえ、メリーさんさ。ヤツカミズオミツヌって神様、知ってるかしら」
「……いいえ。勉強不足で」
悪酔いよりも、よっぽど性質が悪い。
「八束水臣津野命。小さき国だった出雲を、土地を手繰り寄せて大きくした神様。出雲国風土記の根幹部分。なのに、皆には忘れられ、どこにも取り上げられることのない、スサノオの孫。この力は、他に類を見ないわね。そう、まるで、境界線を弄ったように、土地を引き寄せては、大きくする神様」
てゐさんは、盃を小さく傾けてから、ゆっくりと私を指差す。
「幻想の、境界線を操る、そんな人。凄く気になる。貴女は誰、メリーさん。八雲何某は、まさしくこれに当てはまる。いつから生きているか、何を考えているか、サッパリ解らないそんな妖怪。貴女はそっくりだけれど、アレの親類?」
「わ……私は」
ぐるぐると思考が周り、ぴたりと、一つの場所に留まった。
大海原へと続く長い長い綱。
くにこくにこと、掛け声があがる。
狭き国を広き国に。
うつくしきくにに。
りそうのせかいに。
「てゐ」
「む……」
見ゆる筈のない幻想が、何者かによってかき消された。気がつけば私は、永琳さんの胸の中にいる。ゆっくりと視界が定まって行き、ようやく辺りを見回すだけの余裕が出来た。それにしても柔らかいなあ……。
「あまり、不用意にそういう事を言うモノじゃないわ。この子は彼女に似ているかもしれないけれど、とんでもなく遠く……それこそ、時間の先から現れた人よ。それと、彼女を同一視するのも、失礼だわ」
「ま、人間らしい反応も見れたし、良しとするわ」
「もう……アナタはウドンゲでも苛めていなさい」
「こわやこわや。触らぬ神に祟りなし」
てゐさんが脱兎の如く……いやまさしくそのままに逃げ出し、場が静まり返る。私は何も口にする事が出来ずにいたけれど、やがて輝夜さんが手ずから、こちらに御酌してくれた。
「ま、戯言よ。イナバの話なんて、半分以下で聞いてればいい。あとは、お酒で溶かせばいいわ……って言っても駄目ね。聞きたい事がありそうな顔だもの。ほら、永琳の出番よ。私はそういうの、詳しくないから」
「ふむ」
永琳さんは溜息を吐いて改まる。あまり昔話もしたくないのだけれど、と付け加えたけど、どうやら聞いてくれる様子だ。
「永琳さんは、長い間生きていると、聞き及びましたわ」
「……恐らく。ここでは、一番か二番位に」
「ヤツカミズオミツヌという神様を、永琳さんはどのように考えていますか」
「奇特な能力の神ね。イザナギとイザナミ程では無いにしても」
「……私は現代の、科学世紀の人間ですわ。国生みをまともに信じてはいませんの。かの家も、歴史の重みを蓄えているからこそ、現代人も有難がるだけであって、国家神道政策を取っている訳でもありませんし」
「宇宙がどう出来あがったか誰も知らないように、地球がどう出来あがったか根拠を立て並べた理由でしか解らないように、所謂日本で言う所の神様という存在もまた、誰も知らない間にいたのよ。そしてまた、私も知らない間に、この姿そのままに、生まれた」
「……その、姿のまま?」
「そう。私に幼少期なんてないわ。若かった自覚はあるけどね。非科学的で申し訳ないけれど、そうなったものはそうなった、としか言いようがないの。イザナギとイザナミが国を産んだというのならそうだし、ヤツカミズオミツヌが国を引いたというのならば、きっとその通りなのよ。貴女の世界では、宇宙がどう出来あがったのか、論理的に説明できる時代になった?」
「――生憎。零から生まれたという仮説しか」
「国が生まれ、国が引かれる事もまた同じ。思念、想念として湧出した神々は、特異な能力が備わっていたりする。役目を終えれば黄泉に下り、根乃堅洲国に下り、常世へと隠れる。人間が時折思い出して拝む事で、またひょっこり顔を出す。観念的よねえ」
また一つ溜息を吐いて、渇いた笑いが響いた。質問すればするほど深みにハマりそうだ。この人は……本当は何もかも知っていて、それを教える気であっても……、正しく言語化出来る術がないのかもしれない。だから結局『観念的』なんて言葉に収まっているのだろう。私は宇宙の始まりも知らないし、人間は進化して出来上がったと信じている。けれども、眼の前には、いや、幻想郷にはそんなものでは説明のつかない人々が数多と暮らしている。当然、夢じゃない。
「では、そんな奇特な能力を使える人間がいたなら……永琳さんは、どう判断します?」
「ありえないわ、そんな人間。境界を割り、常識を穿つなんて……いえ……いや……貴女は……」
「魔理沙さんは、なんて触れまわって、貴女達をこの宴会に呼びましたか」
「……そう。容姿だけじゃないのね。まあ、子孫ならありうるんじゃないかしら? もしくは、並行世界の同存在」
そこに落ち着いたか納得し、と頭を掻く。悉く常識を破った世界を目の当たりにした今、並行世界ぐらい否定しない。これは私も考えていた事の一つだ。八雲何某と私が、どうしようもなく似ているとして、更にどうしようもなく親和性があるとするなら、もはや別人と言い切るのは難しい。かなりSF的な解釈になってしまうけれど、それが一番納得出来る答えなのだろう。
「逢わない方が良いわね。入れ替わるから」
「阿求さんにも、そのように忠告されましたわ」
「そう。あの娘も貴女が心配なのよ。いえ、たぶん、皆心配しているわ。厳密に言えば、八雲紫をだけれど。あのヒトは幻想郷の根幹部分……国を引き、理想の世界を、本当に作り上げたヒト。皆、なんだかんだと、彼女の重要性を弁えているし、幻想郷を憂いているの」
「嫌われている様子ですけれど」
「そりゃそうよ。彼女が願えば、明日には皆の性別が変わってる可能性だって否定出来ないもの。なるべく近寄らせたくないのは、当然だわ。まあ、それだけの力を持っているの。彼女はね。古い私ですら、そんな力は持っていない。そう、本当に、強大な意思によって選ばれた者のみが持つ、卓越した、そして壊滅的な力よ。だから、貴女も気をつけて。変化は良い事かもしれないけれど、変わってはいけない事もあるわ。今は人間のようだけれど、貴女は境界線の上にいる。気をつけて」
細い瞳が私を見据えている。本当に心配するように。いつのまにか、永琳さんの手は私の手に重ねられ、強く握られていた。その手にはじっとりと、汗をかいている。
「永琳」
そっと輝夜さんが声をかける。この馬鹿騒ぎの中でも、凛として響く声色は、何かを必死に願うような永琳さんをハッとさせた。
「ごめんなさい。喋りすぎたわね」
「いえ、とんでもない。面白い話でもないのに、付き合ってくださってありがとうございます」
「まあ、一献、お二人とも」
そういって輝夜さんがまた、私と永琳さんの盃にお酒を注ぐ。それに倣い、私も輝夜さんに注ぐ。お互いなんとなしに見つめ合うと、彼女は笑顔で飲み干した。続き、私もそうする。
具体的な意味はいらないのだろう。彼女はそうしたいからそうした、が正しい。幻想郷はなんとも、観念的な世界だ。
「さて、宴もたけなわ。本日のツマミを何時までもここに留めておけないわ。他にも顔を出してあげて、メリー」
「はい。お騒がせしましたわ」
「いいのよ。どうせイナバが悪いのだから。いたずら好きで参ってしまうわ」
「参っているのは私とウドンゲばかりだけど」
「そうだったかしら? まあ、そういうことよ」
ここでも別の一升瓶を預けられる。私は二人に一礼して、背を向けた。まだ少し、頭の中が揺らいでいる様子だけれど、歩行に問題はなさそうだ。
それにしても、と思う。もし、私が八雲紫と同一存在だとした場合。では私が神様という事になる。けれども、当然そんな話はなく、私は一介の人間でしかない。当たり前に生まれ、当たり前に育った、女子大生だ。当然生まれた頃の私も、成長過程も全て、映像に写真にと保存されている。決して、永琳さんのようにオトナで生まれて来た訳ではない。
思うに。私というヒトは、やはり特殊である事には違いないだろう。人間が生まれて死んでどれだけの数が入れ替わったか解らない。数億、数兆、そんな数の人間の中に、おかしな能力を持った人間が生まれても、不思議ではない。幻想郷に辿り着いたのだって、その能力あってこそ。容姿が似たのは、この容姿がその特異な能力を発揮するのにうってつけだったから、そうなっただけ。
……無茶……とは思うけれど、そう納得するほかない。
永琳さんは何かを、とても不安に思っていた様子だった。それは八雲紫への不安か、それとも、不必要な変化の選択肢を選ぼうとする私への不安か。どちらにせよ、八意永琳という人は、本当に慈悲深い人だ。また、その傍らで静かに見守っていた輝夜さんも、長い時を一緒に過ごした者としての矜持か、彼女に同調した。
不躾な考えだけれど、ああいう関係は、非常に羨ましい。
私の相方は今何をしているだろうか。
ふと彼女達が集まっている方向へと視線を落とすと、私の申しつけを良く守ってくれたらしく、蓮子の調子は普通だった。これから目的の場所へと向かうのに、ヘベレケではしょうがない。
チラリと視線を移す。皆から少し外れるようにして、鳥居の近く。守矢の人々は、そこに居た。
「蓮子」
「……ん?」
「ほら、あれ」
私は蓮子の手を取り、鳥居側を指差す。そこに固まっている人達は、私達が望んだヒト達だ。ここにいると、あらゆる『理由』が必要ではない気がする。けれど、私達は『理由』を探しに来た。元来の目的を達成する為には、どうしても聞かなきゃならない。
何時の間に現れたのか。というかそもそも、私はいつのまに宴会に参加したのか。
脳裏を、霊夢さんのキツイ視線がよぎる。
「じゃあ皆さん、私達は目的達成の為、行きますわ」
「ええ、行ってらっしゃい」
阿求さんが小さく手を振る。私と蓮子はそれに返してから、守矢の人々が集まる場所へと向かった。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 21時
……諏訪の一大神社信仰群の頂点、守矢の神官長。二歳の頃に神通力で空に浮き、五歳で神託を授かる。十になる頃には諏訪信仰というよりも、彼女本人に対する信仰が拡大し、信者も増加傾向にあった。当時の公安警察、公安調査庁、神社庁からも目をつけられ、敵は多かったと言われる。
父も母も人から離れて行く娘を現人神として信仰し、氏子達は朝廷の討伐以来の守矢神再臨だと囃したてていた。神通力を授かった東風谷早苗を気味悪がり、集団で苛めていた子供達の数人が失踪。惨殺死体で発見されるなど、様々な曰くつきの事件が散見される。
そうして十五の頃。高校生になって間もない彼女は、諏訪湖、守矢神社、十数に及ぶ摂社、末社と共に消失。
観光に頼っていた上諏訪、下諏訪は名物の消滅で衰退。洩矢に連なる者達も離散。氏子達は信仰のやり場を失った。
噂を信じるならば、彼女は本当に、ありとあらゆるものを犠牲にして、幻想郷入りした事になる。日本国における幻想郷伝説を表面化させた人物。今もなお神として奉られる風の祝。
「なんでも、私に用事があるそうですね、お二方」
東風谷早苗。皇族以外絶滅した筈の、現御神。民なき王だ。
「頭を垂れろと? 偉そうですわね」
「ちょ、メリー、強気すぎ」
「あら、下げないんですか。なら良いんです」
彼女が下げろと言った訳ではない。その風体が、その空気が、雰囲気が、私達に頭を下げろと言っていた。彼女を挟むようにして、写真に見た二人が腰を据えている。二人とも、いいや、二柱とも東風谷早苗を守るような形だ。私達を警戒しているのだろう。
「話では、私を八雲紫と誤認してたたき落としたとか。生憎、私は八雲紫じゃありませんの。むしろ頭を下げるのはそちら」
「……神奈子様」
「本当でしょう」
「諏訪子様」
「まあ、嘘じゃないでしょ」
「そう。解りました。頭は下げましょう。その節は、どうもご迷惑をおかけしました。御無事で何よりです」
そのように言い、東風谷早苗が身を正してから頭を垂れた。私は私が間違っているとは思わないし、勘違いだろうと頭を下げるのは筋だと思う。それに、そうした方が話を聞き出しやすい。
深い緑色のような髪が揺れる。表を上げた表情は、少し変わっていた。
「幻想郷の人は謝らないというから、心配していたんですの。此方も被害は少ないし、謝って頂けるなら、何一つ言う事もありませんわ。私はメリー、こちらが蓮子。少し、想像を超えるお話をしますけれど、私達は未来から来ました」
「……未来?」
「はい。皇紀2731年の8月から。私達は大学生で、秘封倶楽部という倶楽部活動をしています。日本国の怪異や、境界の歪を探しては、一喜一憂する、実の無いサークル活動ですの。この度は、ひょんな事から過去の幻想郷に流入してしまったので、では是非とも、現世で神とあがめられる東風谷早苗女史にお会いしたい、と思いましたから、こうしてやってきましたわ」
「……そんな未来で……私が?」
「私達の時代では、狭義の意味で幻想郷の存在が確認されています。結界を暴く事を禁止する法律もある。科学で、呪術で、なんとか幻想郷に至ろうという人々もいますわ。違法ですけれど。そして、そんな動きが活発になったのは、貴女達、守矢の人々が諏訪湖ごと消え失せた事件に起因する。私達のような人間からすれば、東風谷早苗は結界暴きの象徴存在ですの」
二柱の神が、東風谷早苗の背後でヒソヒソと喋っている。思い当たる節があるのか、それとも別か。
「貴女の経歴は、大体知ってるわ。後ろの二人は、非科学的だけれど、神様ね?」
「ええ、蓮子さん。八坂神奈子様と、洩矢諏訪子様です。ご質問でしたら、お受けします。話せる範囲で。未来人さん」
「じゃあ一つ。貴女は、何故あらゆるものを捨てて、幻想郷に至ったのか。それは偶然なのか、必然なのかを」
蓮子の眼が一際輝いて見えた。真摯に見つめるその瞳は、いつもの彼女。小さい事から大きい事まで、幻想だろうと現実だろうと論理性を求める、いや、好奇心を満たそうとする少女の眼。
東風谷早苗は少しだけを大きく息を吸い込み、吐く。私は彼女にお酒を注ぐと、コクリと頷いた。
「吾が身は神と共に。吾が身は信仰と共に。生まれ出でたその日からは、私はもはや現代世界ではあってはならない、現人神でした。皇族が神を名乗れない時代だというのに、一地方豪族の末裔である私は神だった。諏訪の地に根付き数千年。戦国時代には武将化した諏訪家と金刺家の騒乱、そして武田家によって血統も危機にさらされましたが、それでも持ちこたえ、ながらえました。長い時間です。気も遠くなるような、私も理解出来ないような時間、この国は血統を重んじてきました。とある家は絶え、とある家は消され、とある家は自滅し、日本国には国造と呼べる者達も減り、地方には居たであろうありきたりだった神々の末裔は、数えるほどになってしまった」
彼女は足を崩すと、胡坐をかく。脚に肘をつき、顎をささえ、ジッと此方を見る。窘めるように。
「信仰とは永遠ではありません。血統も永遠ではない。歴史は必要と不必要を分別して行きます。では、私、つまり守矢はどうかといえば、またその例外から漏れず、やがては消え入る運命だったのです。大東亜戦争敗戦後、GHQは皇室から宮家を減らしました。つまり、皇胤を残す為に必要だった種族のストックを削られる事になる。それは遅効性の毒として皇室をむしばみ、60余年。やがては男系が、女系が、なんて議論にまで発展し、その神性は減るばかり……そんな最中、私のような地方豪族の末裔が、生き残れる訳がない。御国の中枢を削られたのですから。中枢がそんな状態であるのに、末端の私達が、並大抵の事では神性を保てない。けれど、私は許せなかった」
私達の時代で、彼の血族はまた、御簾の奥へと下がり、人目には晒されなくなった。明治期以来の皇室信仰は復古したものの、それ以外のもの、つまり守矢に匹敵するような一大宗教すら信仰対象外になってしまった。国体を表すものさえあれば、他はすべて科学が解決する。今まであった信仰は全て、科学へとシフトしていた。東風谷早苗は慧眼だったのだろうか。
「運よく。私はそんな時代に生まれた。運よくです。神奈子様、諏訪子様のお力があっても、薄まった信仰を取り返すには、目に見える奇跡が必要だったのです。私は眼に見る奇跡を授かった。それこそ、キリストのような。ただ、これを現世で盛りたてても、あまり意味が無い事は明白だった。私の存在を危険視する人も沢山いましたし、私程度が頑張った所で、日本国の信心が戻る訳もない。自然物に手を合わせる事を忘れ、全てを形骸化させてしまった日本には、居場所はない。数千年にわたり繋ぎ続けた血統を、絶やす訳にもいかない。だから、私は選び、決めたのです。吾が身は神と共に。吾が身は信仰と共に。では永遠になろうと。この、幻想が跋扈する世界で、神様達と生きようと」
東風谷早苗は眼を瞑り、二柱は眼を伏せ、蓮子は食い入るように見つめ、私は眼を流した。まだだ。
「西暦2011年。未曾有のパンデミックで人類が衰退した。巷では、東風谷早苗はこれを予見していたのだという噂がある。東風谷早苗さん、貴女は、未来を見ていたのね?」
「噂の後付けなんて、幾らでも出来ます。信じられるもの、信じられないもの。人間は資料に寄らずとも、本当だと思う事を本当だと信じる。それは信仰にも通じます。あると思えばある」
「ここに来てハッキリしないわね?」
「……現実なんて、簡単に滅ぶんですよ。そうですね、ここからは、一個人として話しましょう。私はそう信じていました。どんな形であれ、私達の知っている現実は脆くも滅び行く。ただ、その言葉を誰が信じますか。信者の方々にも口外はしませんでした。だから、その噂は誰も漏らしていない筈の事。つまり、後から作られた話。実際、私が予見していた云々は、もう関係ないのです」
「なるほど。東風谷早苗伝説の後付けではあるけれど、本来通りではある、と。まあ、貴女の話が後付けでなければだけれどね。じゃあ、貴女が漏らしたと言われる『私と一緒に幻想郷へ行きませんか。永遠の幻想世界へ。人類が夢想した桃源郷へ』という言葉はどうですか?」
「ぐ……」
そこで、現人神、東風谷早苗の表情が崩れた。私達が想像したように、その言葉は家族か、もしくは恋人に紡がれた言葉だったのだろうか。東風谷早苗は動揺を隠せないでいる。
が、暫くすると沈黙の中、私の訝る目を余所に、後ろの神様達は腹を抱えて笑うのを堪えている。
「『そうだ神様、こんな言葉を残しておけば、後世に語り継がれたりしませんかね?』」
「『私と一緒に幻想郷へ行きませんか。永遠の幻想世界へ。人類が夢想した桃源郷へ』」
「『ちょっと厨二くさいですかね? いやいや、私神様だし、リアル能力者だし。大丈夫ですよね』」
「ちょ、お二方、やめてください、やめてください」
「ぶぶ、早苗、すごいわ、本当に、偉い未来まで語り継がれたわね!!」
「だははっ!! オチが、オチが未来から来た!! やったね早苗ちゃん!!」
「やめれーー!!」
目に見えた東風谷早苗のカリスマが決壊する。本気で半分涙目らしく、彼女は振り返って二人の神様に襲いかかった。
……、どんな逸話があるかと思いきや、真実なんてこんなものだ。けれども、その言葉こそが、未来へと繋がる私達倶楽部の礎になっている事だけは否定しようがない。とんでもない言葉を残してくれたものだ。
私は蓮子に日本酒を注いで、私も彼女に注いでもらう。たぶんこれで話は終わりだろう。
「メリー、何このひと達」
「さあ……現人神も一応半分人間だったんでしょう……」
「ああそうだ、東風谷さん」
「はあ……早苗でいいですよ。神様ったって別に偉くもなんともないですから。なんですか?」
「魔理沙さんやにとりさんから聞いたんだけど、守矢神社は当初、幻想郷に流入してすぐ、博麗神社を取り込もうとしたらしいわね。みんなその理由についてきにしてたけど、そこのところはどうなの?」
「ああ、それですか。それはー……」
「早苗」
「早苗」
「む。あ、はい。単に神社繋がりってだけです。信仰心のない神社を放置するなんて無駄ですから、お二方を祀れば土地の無駄遣いが解消されますし。本当にそれだけですよ?」
いや、流石に今の制止は不自然だ。早苗さんの眼もどこか泳いでいる。この問題、まだ何かあるのだろう。皆が予想した博麗神社乗っ取り。そして噂される守矢神社による幻想郷支配拡大。ただ、皆が同じ事を言う場合、それは印象操作されている可能性も加味して考えなければいけない。メディアというのは情報を解りやすく、そして自分の都合の良いように書き換える。つまり、そういった噂は、守矢が流したデマである事だって考えられる訳だ。
「何かあるんですのね?」
私の言葉に、早苗さんがビクついた。
「早苗、この二人は聡明だよ。隠し事が出来ないんだ。未来の子は頭が良いねぇ」
目玉帽子……洩矢諏訪子が口を出して、早苗さんをフォローする。どうやら喋らせない気だ。
「教えてくださいませんの?」
「残念ながら。私達にとって、お前達人間は脅威足り得ない。つまり、どんなに凄まれ様と、子ネズミが暴れようと、私達神にとってそんなものは部屋に溜まった埃程度の価値も不快感もないわけ。だから喋らないよ。隠している事実は隠さないけれどね」
「気になりますわ。折角幻想郷に来たのに」
「駄目駄目」
そこまで否定されると、もっと気になる。何かよい方法は無いかと思い、私は一つ提案する。
「じゃあ、神様お三方、誰か一人代表で、私と呑み比べしましょう」
「はっ、人間が? 神様と? 急アルで死ぬよ?」
「この中で一番お酒が強いのは?」
「たぶん神奈子だろうけど。ねえ神奈子、自殺志願者がいるのだけれど」
「呑み比べって。あのね。自分で言うのもなんだけど、ウワバミだよ?」
「まあまあ。勝ったら話してくださいね。洗いざらい。蓮子、魔理沙さん連れてきて」
今日はそう、何かおかしいのだ。あれだけお酒を入れておいて、私は気持ち悪くもならないし、強烈に酔っぱらいもしない。幻想郷の変な影響のせいか、はたまた別の理由かは解らないけれど、それを生かさない手はない。
やがて蓮子が魔理沙さんを連れて来る。趣向を聞いたらしい魔理沙さんは、酒瓶を抱えて嬉しそうにやってきた。それに釣られて、複数のヒト達もぞろぞろとやってくる。こうなれば、相手も否定しようがないだろう。同時に私も退路はないけど。
「メリー、お前はやっぱりヤル奴だと思ってたぜ。このウワバミに戦争しかえるたあね。流石未来人。おい神奈子、メリーさんナメてかかるとタダじゃすまされねぇぜ、おぉ?」
テメェどこ中だよ、みたいなノリの魔理沙さんが、ぶつくさ言いながら……私の用意した大升にジャバジャバとお酒を注ぎ始める。これにはお酒に強いと言われている神奈子さんもかなり引き気味だ。
「おい魔理沙、アンタね、それ私ら専用じゃないか。あと使える奴っていうと、鬼とか」
「はあ? メリーさん馬鹿にしてんのか? 私らのシマじゃメリーさんは樽で一気ノミよ、えぇ?」
どこのシマだろうか。魔理沙さんもかなり出来あがってるらしい。周囲の人々も口ぐちに『あれはないわ(笑)』などと語っている。蓮子などよほど心配なのか、先ほどから耳元で『やめてやめてしんじゃう』などと語っており、女々しいかぎりだ。私は隣の蓮子を捕まえると、巻き込み一本背負いの要領で御座に転がした。
「戦争に女はいらないのよ、蓮子」
「あんた女でしょ!! だめだーよっぱらってるぅー……」
「メリーさんに言われちゃあ、もう誰も否定できないぜ……幻想郷も今日でおしまいか……さあ、ヤッてくれ、これで……!!」
縦15、横15、高さ15。升というか正方形だ。正方形はなみなみとお酒をたたえ、私の顔を映している。幻想郷の大きな月も浮かび、実に風流だ。やがてそれは神奈子さんの前にも用意される。
「一番減らした方が勝ちだ。制限時間は10分、ぐだぐだやってもしかたないからな。互いに構え」
「死んでも怨むなよ、人間」
「ヒト無くしてカミは無しと心得なさい、カミ如きが」
「こんな好戦的な人間、博麗霊夢以来だ……こいっ!!」
「うむっ」
「はじめぇっ」
呑む……いいや、泳ぐ、が正しいか。啖呵切った手前、今更逃げるわけにもいかない。升に口をつけると、あらゆるお酒の味がした。魔理沙さんの馬鹿は日本酒だけに留まらず、手元にあったお酒全部ブレンドしたらしい。物凄くおいしくない。周囲の妖怪達は私と神奈子さんの呑みっぷりが偉く豪快だったのが楽しいのか、酔っ払いの真骨頂、意味不明な笑い声で応援していた。お酒を呑むと本当にどうでもいい事が楽しくなる。最高にして最悪の飲み物だ。
「むぉっぷ……」
「め、メリーっ」
「ぷぇ……大丈夫よ蓮子、明けない夜はないわ……ッ」
「かっこいいけど、使用状況が不適切よッ」
「むぷぉ……」
「神奈子様っ」
「大丈夫だよ早苗……私は未だに、お前のブラのサイズは知らないから……」
「本当に良くわかりません。せめて突っ込みどころのあるセリフにしてください」
アルコールの濃い部分と薄い部分がめちゃくちゃだ。混ぜるならちゃんと混ぜてほしい。どうも濃い部分に差し掛かったらしく、私の手が止まる。啜ると喉が焼けるようだし、胃に入ると、なんと表現すればいいか、ぐわんぐわんくる。
「くくく……人間……私はまだ本気を出していない……その意味、わかるか?」
「もう三分の二終わりましたよ、ほら、早く本気出さないと」
「え? ちょ、何この人間怖い」
余裕ぶちかましている暇があるなら一滴でも胃に流し込むべきだ。それにしたって、本当に私の肝臓はどうしたのだろうか。今なら文字通り神様にも勝てる気がしてならない。
一端升から手を放し、私は心配そうに見つめる蓮子に微笑みかける。
「蓮子、私、この戦いが終わったら、貴女をお嫁さんにもらおうと思うの」
「え……その……う、うん……」
「ば、ばかやろうメリー!! その言葉は今吐くなっ」
魔理沙さんが喚き立てる。大丈夫、私達の愛の前に古来から語り継がれる死亡フラグなんて
「……ぶあ……」
「め、メリー?」
「ここは幻想郷だ……有り得ないフラグこそ成立するような、そんな世界……」
ガックリとうなだれる。突如世界が回り出した。いや、むしろ私が回っているのか。世界は私を中心として回っていたはずでは。
「勝機、是非も無しっ」
神奈子さんが本気でお酒を片付け始めた。折角ここまで来て、疑問を残して現実へと戻るのはいささか悔しい。何よりも、蓮子の好奇心を満たしてあげられないのは、何より残念だ。
世界が回る。私は改めて升を手にした。
「メリー、やめて……貴女の身体は……もう……っ」
「負けられない戦いがあるのよ……人の為に、張る命がある……南無三!!」
升をあおり、美味しいのか不味いのかも解らなくなってしまったアルコールを飲み干して行く。喉を嚥下して、三回、四回目か。
私はその手を放した。
「――ど、どうよ」
「……おしい。十秒程ね」
眼の前には新しい一升瓶を開ける神奈子さん。本気で涙目になった蓮子が――――私の身体を揺すっている。
――17日 幻想郷 博麗神社境内 22時50分
世界はぐるぐると回っていた。やたら回るので、致し方なく、私はその手を伸ばし、世界を止める。下腹から湧き上がるような感覚を抑え、私はゆっくりと身体を起こした。
心地よい風が頬を撫でつける。風を感じる余裕があるのだと解り、今一度体調を確認する。なんともない。あれだけ呑んで無事、というのは、人間として喜ぶべきか否か。
「――ここは」
「博麗神社境内。の、ちょっと外れた所。風通しが良いんだよ、ここは」
私は木の根元に寝かされていたらしい。気を失ってから、そう時間も経っていない様子だ。私の前で背を向け、遠く幻想郷を見下ろしているのは、ふざけた蛙帽子だ。洩矢諏訪子と言ったか。私より小さく、幼いのに、神様だという。相変らず容姿がアレだ。年寄りほど、小さかったり可愛いふりをしているのかもしれない。
洩矢……となると。彼の地の祖神。諏訪の地に討伐者が現れる前からいるであろう、土着神だ。
「普通、人間はあんなに呑んだら死ぬ。でも死なない。ほら、ケロっとした顔で、私を見てる。境界を弄られたね」
「……何の話かしら」
「まあ、解らないならいいよ。アイツも気を使ったんだろうから。下戸とウワバミの境界線。普段そんなに呑めないでしょ?」
「幻想的になったから、呑めるようになったんだと思ってましたわ」
「ないない。下戸は下戸さ。それなりに呑めるようだけど」
「負けてしまいましたわ」
「そりゃね。アイツだから。神様に呑み比べを挑んだのは、天狗と鬼だけ。今後語り継がれるでしょう、貴女の武勇伝」
「負けましたけど」
「誰も勝てるなんて思ってないよ。でもニアピンだ。話を聞きたかったんでしょう?」
そうだ。私は守矢が何か隠していると解ったから、あんな無茶を仕掛けた。相変わらず、ここに来てからどうも、危機感が薄い。本来、あんなに呑んだら急性アルコール中毒でさようならしている所だというのに。そりゃ、蓮子も涙目になる。
「良いモノ見せて貰ったから。やっぱりね、人間は思い切り。私は好きだよ、そういうの。無謀かもしれないけど、神様はもちろんの事、妖怪達だって、ああいうのが見たいんだ。人間が無茶するところ。そうして、無茶をしている所をみると、私達超越者が助けなきゃいけないって、そう思えるから」
「人間、好き?」
「うん。そりゃあ。大好きだよ。私が生まれたのだって、人々が一心に願ったからさ。人間ではどうしようもない事象、天災、そういったものを乗り越えたくて、彼等は自然に祈った。お前も言ったでしょう、ヒト無くしてカミは無しと。ヒトがいるからこそ、カミは生まれる。そしてカミは生んで貰ったからこそ、ヒトと共に生きて助けたいと思う。願いによって授かった、その力で」
「……共依存?」
「まあ、そうだね。だから、私も、神奈子も、早苗も、絶望したんだ。もはや現世で、私達の居場所はないと。あれだけ愛した国からも、郷土からも見放され、人間は科学を信仰した。でも、それは仕方が無い事。信仰は、新しく生まれ、そして衰退して行く。私達は、諦めが悪かっただけ」
「何故……そう、何故、博麗神社掌握を目指したの?」
「お前達の時代にあるかどうか知らないけれど、絶対性精神学っていうのがあったんだ」
「今は衰退しましたわ。それを元に作られたのが、私が大学で専攻している、相対性精神学」
「……なるほど。つまりね、あの頃から幻想郷の話はあった。そして幻想郷に至る術を探していた……そう、日本国政府は、私達守矢が、幻想郷に近い事を知っていた。絶対性精神学の爆発的拡散も、そこに理由がある。もしかして、知ってるんじゃない?」
私は息を飲む。私と蓮子が予想した筋、そのままだ。絶対性精神学宣言と、結界不可侵法の施行は同時期。あらゆる人達が……辛い現実を逃れる為、政府の用意した精神世界の受け皿を求めた。
パンデミックと同時に、データベース破壊によって、彼等が精神世界で見ていたものは消え去り……そして数十年後、相対性精神学確立と共に、また幻想郷の話題が持ち上がり、謎の映像データが、解放者達が見ていた光景だった事が判明する。
その光景は――幻想郷。
「政府は、幻想郷へ到達する手段を考えていた。詳しく言えば、幻想郷のような強力な結界を築く手段を模索していた。私達は、つまり先兵。侵略者と取ってくれて構わないよ」
「……噂は」
「まあ、最初は幻想郷乗っ取りってのもありだと思った。けどね、強い奴沢山いるし、八雲紫は理不尽だし、ここは面白いし、独立した一勢力として存在して、皆と小競り合いしていた方が、よっぽど神様らしく生きられた。だから、そんなのは破棄したわ。外と連絡もとっていない。私達は、この素晴らしい幻想の中、生きようと、そう思ってる」
「……そう、なの」
思うべき所は沢山ある。考えなければいけない所もある。政府が幻想郷の存在を把握していたのは、既知の事実。けれど、矛盾がないだろうか。何故、結界不可侵法が必要なんだろうか。
「禁止したら、禁止しただけ熱心な奴が暴こうとする。絶対性精神学による精神解放は、幻想郷へ精神だけの流入と、肉体ごと流入する奴がいる、とても不安定だった。けれど、結界ごと暴けば、直接入れる。規制とは狂信者を生み出す最高のエッセンスだよ、人間」
「うまい……なるほど。けれど、少し小利口すぎますわね……それに、何故政府は幻想郷を知っていたの?」
「早苗だよ。誰にも話してないなんて、嘘八百。彼女は未曾有の大災害を予知したし、それを政府にも伝えてる。日本人を如何に多く残すか……。まさか、その大災害が、避けようのない病気だったっていうんだから、どうしようもないね」
「……予知を、政府が、信じる? 当時の政府ですわよ? 私の時代じゃないわ」
「日本国は古来より、占いで政治を決めて来た。当時だって、政治家はお抱えの占い師がいたよ。神童とまで呼ばれた東風谷早苗を頼った、当時の大臣もいた」
「……私の時代、つまり、未来に、諏訪は……いいえ、日本国そのものは」
「解ってる。私達は逃げ出したのだから。丁度良く、そして政府案に乗った。幻想が拡大すれば、私達の住む世界が増えるからね。でもこの通りさ。私達はこの罪を背負って生きる。絶対性精神学の試みも潰えたみたいだね、その様子だと。そう。信仰無き人間は、現実で物質を愛せばいい……これでいいかな、人間」
「ええ、ありがとう、神様。貴女なら、少し信仰する気も湧きますわ。可愛らしいし」
「まあ、口がお上手。レズビアンだったね、気をつけないと」
「たまたま好きだった人が女性だったのよ」
「ほいほい……ほら、恋人が向こうで、心配そうにしてる」
立ち上がり、皆が騒ぎたてている方向を見る。丁度私達と乱痴気の間で、蓮子は静かに慎ましく、此方の様子をうかがっていた。
「蓮子」
「聞こえちゃった」
「隠し事じゃないもの。どうしたの?」
「……ん」
思えば本当に最近の事だ。彼女に手を取られ、私は彼女と共に秘封倶楽部を立ち上げた。日本各国への小旅行、つまらない議論、実の無い語らい、距離はどんどんと近づいて行って、私と彼女はもう零距離にいる。
大嫌いだった能力も、彼女が居れば苦ではなかった。彼女がいれば、私の空虚な心の内も埋められた。皆が注意するように、自分で自覚しているように、私は彼女に心の大部分を預けている。
「幻想郷。政府資料を見る限りでは、その存在は明治には確認されている。大規模な戸籍調査の折にね。でも、直後に消えてしまったわ」
「……政府資料ね。ハッキングでもしたの?」
「ううん。公安調査庁経由でヒューメントされた時、全部叩き込まれたから。幻想郷の事も、相対性精神学の事も、結界の事も、貴女の事も」
「……はあ。画期的な偶然の出会いだと思ったのだけれど」
「ごめんね」
そんな私と彼女の倶楽部活動の最中に至ったここは幻想郷。ある意味での終着点。蓮子が、ここに住もうなんて言いだすくらい、素晴らしい場所だ。
「気にしないで」
……。蓮子。何故、彼女は私に声をかけたのか。魔法を夢見る物理学少女の眼に、私はどう映ったのだろう。
超統一物理学期待の星。世界統一基準模試第十位。神童、宇佐見蓮子には。
「……マエリベリー・ハーン。日本名、小泉真絵理縁。先祖はかの有名な文豪、小泉八雲。京都出身、幼少期より左目が無く、義眼。その右目は現世を、左目は幽世を見ると噂される。小学校入学と共に能力が肥大化。政府制定のESP判断基準で異能度測定不能。要監視対象。コード『ヘルン』」
「……」
「13歳で結界を跳躍。肉体ごと幻想郷へ流入した可能性高し。絶対性精神学における非分離による精神解放幻想化を確認。知力高し。情緒不安定の為、過度は刺激は避けるべし。相対性精神学を用いた情緒の固定化と、能力の自在化を優先させるべきだと判断。『ヘルン』の趣味、趣向から対象者割り出し。相対性精神学による相互依存関係者の用意が急がれる」
「蓮子」
「――適合者、宇佐見蓮子。過去に幻視体験。神隠し体験。幻想度高し。『ヘルン』との友好関係を築き…………結界跳躍、幻想郷への活路を、開くべし。御国の皇民を救済すべし」
「もう、いいわ」
「……わたしは」
「蓮子、いいの。いいから」
「私は、とんでもない、裏切り者なのに……」
「私は貴女が好き。蓮子は?」
「……私も、好き」
「じゃあ、問題ないじゃない。貴女は私を裏切ったりしていない」
……。
想像できたことだった。本来、なんでもない私に突然声を掛けて来た彼女は、最初からずっと不自然だったのだから。それに、幻想郷に来てから、彼女はずっと不自然だった。私への態度はどこか遠慮があり、いつも何かを言いたげで、けれど言わない。心の内と、勅命の狭間で彼女は悩んでいた。
本当に好いていてくれたからこそ。彼女は命令を預かりながら、本気で私を補完の対象としてくれていた。夢と現を彷徨う私に、現実を見せてくれた。
ここに住もうと言いだしたのも……私が、研究対象にされる可能性を考えたから。彼女とここでずっと暮らせたなら、きっときっと、幸せだろう。毎日楽しいに違いない。
けど、私はやっぱり現実の娘。その左目は幽世を覗くかもしれない。けれど、この身は物質と共にある俗物だ。
宇佐見蓮子。天才と馬鹿の境界線を行く、この世で最も愛らしい少女だ。何せ、こんなにも、間抜けなのだから。
「蓮子」
「……」
「蓮子、返事」
「……うん」
「こっちみて」
「……」
涙を浮かばせた顔がいじらしい。私は彼女を深く抱きしめると、その唇にゆっくりと吸いつく。やわらかくて、少し震えていて、ちいさくて、温かい。彼女がどんなに天才でも、密命を受けた間者でも、私には宇佐見蓮子個人にしか見えない。彼女の持つ背景なんてものには、とんと興味が無い。
私は蓮子が大好きだから。
「メリー……」
「私は、ここで暮らす気はない。不自由に逃避行する気もない。もし、私を研究する事で結界暴きが大成したとしても、現世の人達が、幻想郷をどうにか出来るとも、私は思えないわ。神様はいう。人類は科学を愛していればいいのだと。あんな人達が、今更幻想を手に入れた所で、どうしようもないのよ」
「で、でも」
「私は、勝手な人間だから。貴女と同じ時代に生きていたい。他がどうなろうなんて、知った事ではないわ。貴女は言ったわね、人類は滅びるんだって。なら、それでいいじゃない。今、楽しい日々が貴女と共にあれば」
「……マエリベリー・ハーン」
「ん?」
「『ヘルン』能力縮小。多感な幼少期からの純粋な能力減衰と思われる。研究対象にあたわず。そう、報告すればいい。何も、かわりないわ。きっと私は、切り捨てられるだろうけれど、私はメリーが居れば良い。私達はただの秘封倶楽部。大学の、非公式サークル。小旅行を楽しむだけの、勉学に積極的でない、社会ごらく者」
「貴女がそれで良いのなら。私には否定する権利はないわ。さ、ほら」
蓮子の手を引く。
他人様がどう思おうと、知った事じゃない。私には蓮子がいる。
「おお、人間界のアルコールプリンセスのお出ましだ!! おらぁ、酔っ払い共、拍手しろぉっ!!」
「あはは、どうもーどうもーっ」
どうせつまらない人生だと思っていたのだから。鋳型に嵌められ、整形されて行くだけの現代人達と同じような生を歩むだけだと、そう考えていたのだから。
だから、この出来事は、蓮子の憂鬱は、政府の思惑は、私がこれからまた、あの萎びた現代世界で生きて行く折に、理不尽かつ不条理な人生を与えてくれるのだろう。死ぬほど辛いかもしれない。死ぬほど耐えがたいかもしれない。でも、私に危機感はない。
……そう、まるでない。
蓮子以外の人達が私に手をかけようというのならば。では覚悟すると良い。
「あら、お酒が足らない。ええと」
「うお、メリー、それ、スキ……」
「あーあー、魔理沙さん、これは手品ですわ」
この異能、存分に発揮して見せよう。幻想郷に感応した私の力は、他愛ない人間如き、悉く千に千切る。矢でも鉄砲でも持ってくればいい。その先に待つものは、終りの無い無間世界だ。
来るなら来ればいい。例え相手がお国だろうと。
「はい、蓮子。沢山呑んでね」
「……え、こんな呑んだら私」
「霊夢さん、お布団あいてる?」
「ひくっ……んあ? ええ、好きに使えばいいわ」
「だってさ、蓮子?」
「お、おかされる」
「ああ、そうだ、写真をとりましょう、ほら、みなさん、こちらによってー」
私には蓮子がいる。
「はい、チーズ」
二章へつづく
堂々たる1章の終り、大変面白かったです
でも蓮子の報告を国が信じてくれそうもないのでやっぱり不安が拭えない……
境界の妖怪がもう一人誕生するような事態にならないことを祈りつつ
後編、楽しみに待たせていただきます。
設定がかなり大規模かつ練りこまれてるので、うpされ次第、一気に読み直します。
でもスパイが監視対象にだんだん感情移入して……
というのは王道で、なんだか秘封の二人にあっている気がしました。
あと早苗さんの厨二病w
それとメリーは自分じゃなくて蓮子に被害がいくことを考えてくれー!
最悪利用価値の無くなった蓮子が○○されるなんてことも・・・ゴクリ エロクナイホウノイミデスヨ?
早苗さんもなんだかんだで早苗さんだったね!
しかし蓮子がそういうことだとはね。
二章か…未だ姿を見せない紫が気になって仕方ない…
出雲神話、小泉八雲、俄雨さんとはいい酒が飲めそうだ。
上手い。期待。
すごく面白いとしか言いようがない
何でこんなに評価が低いんだろう…
投稿からそろそろ1年。図々しくも続きを要求したいと思います。
マダー?
きっとこの二人ならどんな場所でも幸せでしょう。
続きが超気になりますが、これはこれで十分かも。スラムダンク第一部完みないな感じでw
続きへの期待値という事で90止まりで
言葉じゃ言い表せませんだ。
まだ頭が元に戻ってきてません。
第2章を楽しみにしてます。