針が飛ぶ、レコードを聞き終えたその瞬間。音が途切れて突然元の世界に引き戻されたような感覚に陥る。
本を読み終えた時も同じだ。気がつくと窓から黄昏の日の光が差し込んで、文字を追うことが難しくなっていることを初めて知る。本を読み終えた時、僕は長い旅から帰ってきたような気持ちになる。だけど本当は、針が飛ぶ瞬間、その音の隙間に身を置いただけかもしれない。
鈴奈庵の暖簾をくぐる。店内に入ると湿ったような乾いたような、古本の臭いが鼻腔を満たす。鼻から大きく深呼吸をして、その臭いを肺の中に満たして口から吐き出した。この臭いは僕を落ち着かせてくれる……古本に囲まれた、幸せな気分にさせてくれる。
「あら、いらっしゃいませ。霖之助さん」
小鈴が出迎えてくれた。僕の店には古道具はたくさんあっても、本はあまりない。無縁塚に書物が流れ着くことはあまりないのだ。特に小説の類いは。
無縁塚にはそとの世界で忘れて去られたものがやってくる場所だ。物語というものは、知識と違って完全に忘れるということは無い。一回でも読んだ物語は脳を駆け巡り、さまざまな置き土産を残していく。脳細胞に刻まれた登場人物たちの選択や生きざまは、いつまでも心と体に影響を与え続ける。
第一に、完全に忘れられてしまうような小説に面白いものなど存在しない。
「何かおすすめの小説はないかな?」
「おすすめ……そうですねえ。そこの本棚に、最近入った小説が並べられていますよ」
僕は小鈴が指差した一角で本の背表紙を眺めた。何か……何か運命的な物語と出会えないだろうか。運命というものは、恐らく人生において最も大切なものであると思う。これさえ手なずけることができれば、人生における全てのことは思うがままに運ぶだろう。
僕は運命という言葉にとりつかれて、いくつもの背表紙から運命と書かれた物だけを抜き出していた。
"運命の旅人" "運命の国の哀れな預言者" "運命と幻想の闇市" "運命の女賭博師"
どうも物語の紡ぎ手達は運命という言葉を使いたがるらしい。運命に絡めた物語は人生に似るからだ。
できれば僕の人生と大きくかけ離れた小説がいい。
けれども、こうして見てみるとタイトルから連想されるような出来事が、僕の周りで起きていないと言えなくもない。僕の人生は結構物語的ということか。そもそも僕が物語の登場人物ではないと誰が云えるだろう。これは、僕の物語……香霖堂の店主と幻想に生きる少女達の物語……なんてね、妄想が過ぎた。
僕は"運命の女賭博師"を手に取っていた。パラパラとページを繰る、なんとも面白そうな目次だ。よし、これに決めた。
「これを借りよう」
「ありがとうございます。それは面白いですよ、一級品です。マスト・ビー」
「マスト・ビー?」
「あ、いや。そとの世界の横文字の言葉でして。何々するのはいいことだ、みたいな意味だったと思います」
「へえ、面白い響きだね」
「霖之助さんも使ってみるといいですよ。マスト・ビー」
ふと小鈴の書き物机に目をやった、幾つもの本の山の傍らの、白い羽が差し込まれた本に目が止まった。あの羽は朱鷺のものだろうか、朱鷺といえば、僕の店にやって来た、名無しの本読み妖怪だ。霊夢が彼女から奪った3冊の本は未だに僕の店にある。あれはそのうち彼女に返さなければいけないな……、幻想郷において、本というものは貴重だ、自らの蔵書ともなればもはや宝物といっても差し支えないだろう。所有物を奪われる悲しみは、僕が一番よく知っている。
「この本はどうしたんだい?」
僕は本を、というより朱鷺の羽を指差した。
「これですか?以前本の返却にいらっしゃったお客さんで、返却本のなかに店のものではないものが混ざっていたんです。店のものにするわけにはいかないので、こうして目につきやすいところに置いてあるのですが……いずれはうちのものになるのかもしれませんね」
そう言って小鈴はまんざらでもなさそうな顔をした。全く、ちゃっかりしている。
僕は鈴奈庵を出た、小脇に借りた小説を抱えて。日々の数少ない楽しみの1つだ。こうして物語に想いを馳せながら人里を歩く……なんとも安上がりな楽しみだ。
空が曇り始めていた。雨が降り始める前に、早く帰ろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
香霖堂は物語の舞台袖のような場所だ。確かに舞台の上ではあるが、華やかで激しい展開が起こることは無い。静かな薄明かりのなかで進む物語こそ、僕の望む日々だ。
だけど、そんな思惑に反して僕の店は結構騒がしい。
「こんな夢を見たんだ」
商品の上に座った魔理沙が話している。
「街角で小さな絵を売っている男に会った」
魔理沙は以前もこんな切り出しをしたような気がする。
「どれも本当に小さな絵なんだが、色が美しくて、夢のようというか、いや実際に夢だったんだけど、あれは夢以上のものだった。いや、最初は何の絵かわからなかった。で、そいつに訊いてみたら、これは鳥の絵だと」
「鳥?」
話を聞いた誰もが、そこでそう口を挟んだ。僕もまたそのひとり。
「というか、それは鳥の絵というより、もう鳥そのもので、体温が感じられたんだ」
「ほう、それで?」
「そこで目が覚めたんだが……あの男や鳥は、何処に行っちまったんだろうな」
「夢の中の登場人物は、現実には存在しないぞ。小説の登場人物みたいなものだ、人の頭が産み出した想像上の産物だ」
「妖怪だって人の恐れや理不尽が具現化したものだぜ。最近は都市伝説まで妖怪化するんだ。現実であの男に会っても不思議じゃない」
「ふむ、一理あるな。夢もある」
「夢だけにな」
机の上に鈴奈庵で借りた"運命の女賭博師"が置いてある。それを見て、僕はこの前考えた1つの可能性を思い出した。
「なあ魔理沙、鳥の絵の画家は君の産物だが、僕達が想像上の産物だという可能性はないだろうか」
「あ?お前何言ってんだ。本の読みすぎでおかしくなっちまったのか」
「いや、分からないぞ。考えてみろ、この世界は常識が非常識で非常識が常識だ。そもそも、こんな考えが浮かぶ時点でおかしいんだ。僕達の世界は上手いようにできていて、絶対に起こり得ないことは考えることすらできない。僕達の意識自体が世界の現実と幻想を線引きするとはよく云ったものだよ、ここ幻想郷なら……いや、幻想郷自体が物語の舞台なのかもしれない」
「へえ、面白いじゃねえか。だけどそんなこと考えても仕方ないんだぜ……私達が物語の登場人物だとしても、私達が感じた喜び、悲しみ、怒りは本物だ。そして、好奇心や友人を想う心も。それがたとえ、誰かに言わされたものだとしても、この世界にいる分には私の心からの行動に違いないのだから」
なるほど。自分の心に素直に生きている彼女の言葉は違うな。
「自分が創造された人物ってのが悔しいのか?ならこーりんも物語を書いてみたらどうだ?」
「僕が物語を書くのか、それも面白そうだ」
「きっといい暇つぶしになるぜ。物語っているつもりが物語られていた、なんてことにならんようにな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
魔理沙が帰る頃、辺りは既に宵闇に包まれていた。
いつものように雑事を済ませ、寝巻きに着替えて安楽椅子に座ると、「さて」とばかりに本を開いた。
"運命の女賭博師"目次だけで引き込まれ、小鈴が「一級品」と称した本である。面白くないはずがなかった。というより、それはもう崖から突き落とされ、取り返しがつかなくなってしまうような、とてつもない読書体験だった。
とにかく止まらないのだ。いや、ちょっと喉が渇いた、何か飲もう。そう思ったりもするのだが、そう思った意識が、どんどん本に支配されてゆく。いやいや、待て、少し待て、読むのを止めないと……次のセンテンスでひと区切りして……そう思っているのに、気づくと2、3ページがあっという間に過ぎている。
なんだろうか、これは。
驚きながらも、目がひたすら熱狂して文字を追い続けた。手はいつのまにかページをめくるためのからくりでしかない。
そのうち全身が震えだす。そんなことはもちろん初めてのことだった。
この先どうなるのか?主人公はどうなってゆくのか?その答えが、いまこの手の中にある。いや、もう次のページ、薄い紙を一枚隔ててある。そう思っただけで、喜びと期待で大声を出したくなった。それを抑えようとして体が震えてしまう。
僕は本当に息を呑んでいた。生まれて初めて手に汗を握っている。
そこへさらに偶然が重なった。
この物語の主人公は、朱鷺の羽を本のしおりにしていた。
それだけではない、物語の最初の大きなカーブといったところで、彼女は自分の大切にしていた本をどこかに置き忘れてしまう。次々に彼女に悪夢めいたことが連続するので、彼女はいったいどこに本を置いたのか、それすら混乱して分からなくなってしまう。
この物語の作者は、どこまでも彼女を追い詰めようとしている。恐ろしいことだ。いつだって、一番恐ろしいのは作者の頭の中である。しだいに髪が乱れ、本を求めてさまよう彼女を執拗なまでに描き続ける。いや、そんなことはまだ序の口だ。なんと驚いたことに、彼女は度重なる恐ろしい経験を強いられた場所に再び立ち返り、自分が辿った道をもう一度最初から歩きなおすことになる。それに従い、読者もまた、恐怖の場所に否応なしに呼び戻される。なんという恐ろしいプロットだろうか。一度ならず、もう一度、同じ恐怖がリフレインされるとは。
彼女に襲いかかる得体の知れない影がうごめく夜道。まるで人のいない館。そして、四方八方に怪しい気配が漂うほの暗い神社。一難去ってまた一難などという生やさしいものではなかった。
ようやく脱した悪夢に、彼女はまた自ら身を投じてゆかねばならない。作者はどこまでも手加減などしなかった。
林道を足早にゆく彼女の靴の紐が当たり前のように外れる。それを合図に、無慈悲な雨が音をたてて降り始める。
「ああ」
思わず声が出てしまった。
「本だったら鈴奈庵にあるのに」
違う、そうではない。鈴奈庵にあるのはこっちの本読み妖怪の本。確かそうだ。違ったっけ?なんだか僕まで混乱してきた。でも、いい。こっちのことなど後でどうにでもなる。
問題は物語の中だった。
早いとこ僕が読み進まないと、この哀れな少女は僕の頭の中で延々苦しみ続ける。僕が読み進まないかぎり、いつまでたっても本は見つからない。いや、別の読者のところではもう見つかっているのかもしれない。既にハッピーエンドを迎えている彼女だっているのかもしれない。きっとそうだ。これだけ苦しいことが連続するのだから、最後はきっとあの本とともに幸福な場面に至る。そうあって欲しい。そう信じる。そう祈ろう。
だから、とにかくいち早く読み進まなくては。この本はきっと外の世界で多くの人の手に渡っている。そして今この時も、多くの人の頭の中で、何十何百という彼女が追い詰められている。なんと悲しいことだ。しかし知ってしまった以上、なんとかしなくてはと思う。僕だけでもいい。いち早く彼女を幸福に導かなくては。
なんとしても明日の朝までには。
読み終えてしばらくぼんやりしていた。
意外な結末。外はもう朝だ。物語もまた幸福な朝を迎えている。一応物語としては「ハッピー」といってよいエンディングではあった。しかし、彼女は最後の最後まで本を見つけることが出来ない。あれほど重要な意味を持っていたはずの朱鷺の羽も。
どうにも腑に落ちなかった。すっきりと物語が終わった感じがしない。それが作者の狙いなのか?だとしたら、実に巧く出来ている。
僕は軽く寝酒を煽りながら、漫然と考えていた。
僕は今から眠るために酒を呑んでいるのか?
それとも起きるために酒を呑むのか?
多分、眠るためだろう。だが、どうもそのことまでしっくりこない。
僕は虚ろな頭で布団に潜り込んだ。
だが、眠れなかった。
どこからか哀れな本読み妖怪が現れ、僕の頭の中でいつまでも本を探し回っていた。まだ雨は止んでいない。頭の中だけでなく、現実に外に降る雨が店の屋根を叩いている。
頭の中には、がらんとした貸本屋しか浮かばなかった。小鈴はいない。
そこに昨日のあの本が置かれていた。
本だけ。
いつまでもある。
僕はとうとう眠るのをあきらめた。
寝巻きを脱いでいつもの服に着替える。
不思議と眠くはなかった。いつのまにか少しだけ眠ったのかもしれない。
僕は何かを払い落とすように頭を振った。
店の前に出ると、地面に文々。新聞が放られてあった。
気晴らしにそれをざっとめくる。
鈴奈庵へ着いたら、
「どうでしたか、面白かったでしょう?」
と小鈴が得意げに言うのだろう。
「面白かったけど」
と僕は口ごもり、それからきっと本について話す。今もきっと小鈴の書き物机の上にある本のことと、運命の女賭博師について。すると、小鈴は血相を変えて言うに違いない。
「それは普通じゃないですよ。それこそ運命じゃないですか。いいですか?この本を忘れていった人は、霖之助さんと出会う運命なんです。ぼけっとしてちゃだめです、マスト……」
「ビー」
僕は小さく声に出して言ってみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小鈴は暖簾をあげている最中だった。
「あら、ああ。いらっしゃいませ」
小鈴がすぐに僕を見つけて声を上げた。
「どうしました?随分早いですね」
小鈴は僕の頭髪あたりにさっと目をやり、それから少しばかり緊張した様子で僕の返事を待っていた。後で鏡を見たら、僕は寝起きのままのひどい頭で、思えば顔すら洗っていなかった。小鈴が緊急時態と勘違いしてもおかしくない。
「いや……」
僕は赤面をこらえ、なるべく普通に、「本を返そうと思って」と言った。
「僕は忘れっぽいから、それに小鈴はうちにやってくることは出来ないだろう?」
僕は決して忘れっぽくなどないのだが。
「あの、ところで」
「ああ、そう言えば」
小鈴が言った。
「あのあとすぐいらっしゃったんです。本を忘れたお客さん」
「え?」
「なんだか不思議な女の子でした。私と仲良くなれそうな」
小鈴は嬉しそうに言う。
「そうか、それはよかった」
僕は商売用の笑顔をつくり、なるべく嬉しそうに聞こえるように言った。
「これを返すよ」
「もう読んだんですか。面白かったでしょう?」
小鈴は僕の予想通りの表情をした。
それからしばらく、彼女の感想を上の空で聞いていた。
「それでは、いい読書を」
小鈴の声を背中で聞き、里の外に向かって一直線に歩いた。
雨が降り始めていた。鈴奈庵に戻って傘を借りることができるが、とてもそんな気にはなれない。
足元ばかり見て歩いていたせいか、里の外れあたりで、何か白いものが落ちているのが目に留まった。
「何かな」と近づいてよく見ると、どうやら花束のようである。
地面の二次元の絵のように見える花束を見て、何となく、何となくだけれども、彼女の物語は終わったのだと感じた。
少なくとも、運命の本読み妖怪の物語は、ひとまずのエンディングを迎えたのだろう。僕の預り知らぬところで。
けれども、こう考えることもできるのではないだろうか。
この世界が全て僕の認識だとしたら、あの妖怪は僕が物語を読んだことで初めて主人公足り得て、僕が物語を読み終えてやっと本と再び巡り会えた、そして物語は終わりを迎えて僕がここにいる。
そうだ……きっとそうだと思いたい。こうして自らけりをつけないと、やりきれないことばかりだ。
またどこかで、幻想の切れ端を見つけるとしよう、マスト・ビー。
本を読み終えた時も同じだ。気がつくと窓から黄昏の日の光が差し込んで、文字を追うことが難しくなっていることを初めて知る。本を読み終えた時、僕は長い旅から帰ってきたような気持ちになる。だけど本当は、針が飛ぶ瞬間、その音の隙間に身を置いただけかもしれない。
鈴奈庵の暖簾をくぐる。店内に入ると湿ったような乾いたような、古本の臭いが鼻腔を満たす。鼻から大きく深呼吸をして、その臭いを肺の中に満たして口から吐き出した。この臭いは僕を落ち着かせてくれる……古本に囲まれた、幸せな気分にさせてくれる。
「あら、いらっしゃいませ。霖之助さん」
小鈴が出迎えてくれた。僕の店には古道具はたくさんあっても、本はあまりない。無縁塚に書物が流れ着くことはあまりないのだ。特に小説の類いは。
無縁塚にはそとの世界で忘れて去られたものがやってくる場所だ。物語というものは、知識と違って完全に忘れるということは無い。一回でも読んだ物語は脳を駆け巡り、さまざまな置き土産を残していく。脳細胞に刻まれた登場人物たちの選択や生きざまは、いつまでも心と体に影響を与え続ける。
第一に、完全に忘れられてしまうような小説に面白いものなど存在しない。
「何かおすすめの小説はないかな?」
「おすすめ……そうですねえ。そこの本棚に、最近入った小説が並べられていますよ」
僕は小鈴が指差した一角で本の背表紙を眺めた。何か……何か運命的な物語と出会えないだろうか。運命というものは、恐らく人生において最も大切なものであると思う。これさえ手なずけることができれば、人生における全てのことは思うがままに運ぶだろう。
僕は運命という言葉にとりつかれて、いくつもの背表紙から運命と書かれた物だけを抜き出していた。
"運命の旅人" "運命の国の哀れな預言者" "運命と幻想の闇市" "運命の女賭博師"
どうも物語の紡ぎ手達は運命という言葉を使いたがるらしい。運命に絡めた物語は人生に似るからだ。
できれば僕の人生と大きくかけ離れた小説がいい。
けれども、こうして見てみるとタイトルから連想されるような出来事が、僕の周りで起きていないと言えなくもない。僕の人生は結構物語的ということか。そもそも僕が物語の登場人物ではないと誰が云えるだろう。これは、僕の物語……香霖堂の店主と幻想に生きる少女達の物語……なんてね、妄想が過ぎた。
僕は"運命の女賭博師"を手に取っていた。パラパラとページを繰る、なんとも面白そうな目次だ。よし、これに決めた。
「これを借りよう」
「ありがとうございます。それは面白いですよ、一級品です。マスト・ビー」
「マスト・ビー?」
「あ、いや。そとの世界の横文字の言葉でして。何々するのはいいことだ、みたいな意味だったと思います」
「へえ、面白い響きだね」
「霖之助さんも使ってみるといいですよ。マスト・ビー」
ふと小鈴の書き物机に目をやった、幾つもの本の山の傍らの、白い羽が差し込まれた本に目が止まった。あの羽は朱鷺のものだろうか、朱鷺といえば、僕の店にやって来た、名無しの本読み妖怪だ。霊夢が彼女から奪った3冊の本は未だに僕の店にある。あれはそのうち彼女に返さなければいけないな……、幻想郷において、本というものは貴重だ、自らの蔵書ともなればもはや宝物といっても差し支えないだろう。所有物を奪われる悲しみは、僕が一番よく知っている。
「この本はどうしたんだい?」
僕は本を、というより朱鷺の羽を指差した。
「これですか?以前本の返却にいらっしゃったお客さんで、返却本のなかに店のものではないものが混ざっていたんです。店のものにするわけにはいかないので、こうして目につきやすいところに置いてあるのですが……いずれはうちのものになるのかもしれませんね」
そう言って小鈴はまんざらでもなさそうな顔をした。全く、ちゃっかりしている。
僕は鈴奈庵を出た、小脇に借りた小説を抱えて。日々の数少ない楽しみの1つだ。こうして物語に想いを馳せながら人里を歩く……なんとも安上がりな楽しみだ。
空が曇り始めていた。雨が降り始める前に、早く帰ろう。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
香霖堂は物語の舞台袖のような場所だ。確かに舞台の上ではあるが、華やかで激しい展開が起こることは無い。静かな薄明かりのなかで進む物語こそ、僕の望む日々だ。
だけど、そんな思惑に反して僕の店は結構騒がしい。
「こんな夢を見たんだ」
商品の上に座った魔理沙が話している。
「街角で小さな絵を売っている男に会った」
魔理沙は以前もこんな切り出しをしたような気がする。
「どれも本当に小さな絵なんだが、色が美しくて、夢のようというか、いや実際に夢だったんだけど、あれは夢以上のものだった。いや、最初は何の絵かわからなかった。で、そいつに訊いてみたら、これは鳥の絵だと」
「鳥?」
話を聞いた誰もが、そこでそう口を挟んだ。僕もまたそのひとり。
「というか、それは鳥の絵というより、もう鳥そのもので、体温が感じられたんだ」
「ほう、それで?」
「そこで目が覚めたんだが……あの男や鳥は、何処に行っちまったんだろうな」
「夢の中の登場人物は、現実には存在しないぞ。小説の登場人物みたいなものだ、人の頭が産み出した想像上の産物だ」
「妖怪だって人の恐れや理不尽が具現化したものだぜ。最近は都市伝説まで妖怪化するんだ。現実であの男に会っても不思議じゃない」
「ふむ、一理あるな。夢もある」
「夢だけにな」
机の上に鈴奈庵で借りた"運命の女賭博師"が置いてある。それを見て、僕はこの前考えた1つの可能性を思い出した。
「なあ魔理沙、鳥の絵の画家は君の産物だが、僕達が想像上の産物だという可能性はないだろうか」
「あ?お前何言ってんだ。本の読みすぎでおかしくなっちまったのか」
「いや、分からないぞ。考えてみろ、この世界は常識が非常識で非常識が常識だ。そもそも、こんな考えが浮かぶ時点でおかしいんだ。僕達の世界は上手いようにできていて、絶対に起こり得ないことは考えることすらできない。僕達の意識自体が世界の現実と幻想を線引きするとはよく云ったものだよ、ここ幻想郷なら……いや、幻想郷自体が物語の舞台なのかもしれない」
「へえ、面白いじゃねえか。だけどそんなこと考えても仕方ないんだぜ……私達が物語の登場人物だとしても、私達が感じた喜び、悲しみ、怒りは本物だ。そして、好奇心や友人を想う心も。それがたとえ、誰かに言わされたものだとしても、この世界にいる分には私の心からの行動に違いないのだから」
なるほど。自分の心に素直に生きている彼女の言葉は違うな。
「自分が創造された人物ってのが悔しいのか?ならこーりんも物語を書いてみたらどうだ?」
「僕が物語を書くのか、それも面白そうだ」
「きっといい暇つぶしになるぜ。物語っているつもりが物語られていた、なんてことにならんようにな」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
魔理沙が帰る頃、辺りは既に宵闇に包まれていた。
いつものように雑事を済ませ、寝巻きに着替えて安楽椅子に座ると、「さて」とばかりに本を開いた。
"運命の女賭博師"目次だけで引き込まれ、小鈴が「一級品」と称した本である。面白くないはずがなかった。というより、それはもう崖から突き落とされ、取り返しがつかなくなってしまうような、とてつもない読書体験だった。
とにかく止まらないのだ。いや、ちょっと喉が渇いた、何か飲もう。そう思ったりもするのだが、そう思った意識が、どんどん本に支配されてゆく。いやいや、待て、少し待て、読むのを止めないと……次のセンテンスでひと区切りして……そう思っているのに、気づくと2、3ページがあっという間に過ぎている。
なんだろうか、これは。
驚きながらも、目がひたすら熱狂して文字を追い続けた。手はいつのまにかページをめくるためのからくりでしかない。
そのうち全身が震えだす。そんなことはもちろん初めてのことだった。
この先どうなるのか?主人公はどうなってゆくのか?その答えが、いまこの手の中にある。いや、もう次のページ、薄い紙を一枚隔ててある。そう思っただけで、喜びと期待で大声を出したくなった。それを抑えようとして体が震えてしまう。
僕は本当に息を呑んでいた。生まれて初めて手に汗を握っている。
そこへさらに偶然が重なった。
この物語の主人公は、朱鷺の羽を本のしおりにしていた。
それだけではない、物語の最初の大きなカーブといったところで、彼女は自分の大切にしていた本をどこかに置き忘れてしまう。次々に彼女に悪夢めいたことが連続するので、彼女はいったいどこに本を置いたのか、それすら混乱して分からなくなってしまう。
この物語の作者は、どこまでも彼女を追い詰めようとしている。恐ろしいことだ。いつだって、一番恐ろしいのは作者の頭の中である。しだいに髪が乱れ、本を求めてさまよう彼女を執拗なまでに描き続ける。いや、そんなことはまだ序の口だ。なんと驚いたことに、彼女は度重なる恐ろしい経験を強いられた場所に再び立ち返り、自分が辿った道をもう一度最初から歩きなおすことになる。それに従い、読者もまた、恐怖の場所に否応なしに呼び戻される。なんという恐ろしいプロットだろうか。一度ならず、もう一度、同じ恐怖がリフレインされるとは。
彼女に襲いかかる得体の知れない影がうごめく夜道。まるで人のいない館。そして、四方八方に怪しい気配が漂うほの暗い神社。一難去ってまた一難などという生やさしいものではなかった。
ようやく脱した悪夢に、彼女はまた自ら身を投じてゆかねばならない。作者はどこまでも手加減などしなかった。
林道を足早にゆく彼女の靴の紐が当たり前のように外れる。それを合図に、無慈悲な雨が音をたてて降り始める。
「ああ」
思わず声が出てしまった。
「本だったら鈴奈庵にあるのに」
違う、そうではない。鈴奈庵にあるのはこっちの本読み妖怪の本。確かそうだ。違ったっけ?なんだか僕まで混乱してきた。でも、いい。こっちのことなど後でどうにでもなる。
問題は物語の中だった。
早いとこ僕が読み進まないと、この哀れな少女は僕の頭の中で延々苦しみ続ける。僕が読み進まないかぎり、いつまでたっても本は見つからない。いや、別の読者のところではもう見つかっているのかもしれない。既にハッピーエンドを迎えている彼女だっているのかもしれない。きっとそうだ。これだけ苦しいことが連続するのだから、最後はきっとあの本とともに幸福な場面に至る。そうあって欲しい。そう信じる。そう祈ろう。
だから、とにかくいち早く読み進まなくては。この本はきっと外の世界で多くの人の手に渡っている。そして今この時も、多くの人の頭の中で、何十何百という彼女が追い詰められている。なんと悲しいことだ。しかし知ってしまった以上、なんとかしなくてはと思う。僕だけでもいい。いち早く彼女を幸福に導かなくては。
なんとしても明日の朝までには。
読み終えてしばらくぼんやりしていた。
意外な結末。外はもう朝だ。物語もまた幸福な朝を迎えている。一応物語としては「ハッピー」といってよいエンディングではあった。しかし、彼女は最後の最後まで本を見つけることが出来ない。あれほど重要な意味を持っていたはずの朱鷺の羽も。
どうにも腑に落ちなかった。すっきりと物語が終わった感じがしない。それが作者の狙いなのか?だとしたら、実に巧く出来ている。
僕は軽く寝酒を煽りながら、漫然と考えていた。
僕は今から眠るために酒を呑んでいるのか?
それとも起きるために酒を呑むのか?
多分、眠るためだろう。だが、どうもそのことまでしっくりこない。
僕は虚ろな頭で布団に潜り込んだ。
だが、眠れなかった。
どこからか哀れな本読み妖怪が現れ、僕の頭の中でいつまでも本を探し回っていた。まだ雨は止んでいない。頭の中だけでなく、現実に外に降る雨が店の屋根を叩いている。
頭の中には、がらんとした貸本屋しか浮かばなかった。小鈴はいない。
そこに昨日のあの本が置かれていた。
本だけ。
いつまでもある。
僕はとうとう眠るのをあきらめた。
寝巻きを脱いでいつもの服に着替える。
不思議と眠くはなかった。いつのまにか少しだけ眠ったのかもしれない。
僕は何かを払い落とすように頭を振った。
店の前に出ると、地面に文々。新聞が放られてあった。
気晴らしにそれをざっとめくる。
鈴奈庵へ着いたら、
「どうでしたか、面白かったでしょう?」
と小鈴が得意げに言うのだろう。
「面白かったけど」
と僕は口ごもり、それからきっと本について話す。今もきっと小鈴の書き物机の上にある本のことと、運命の女賭博師について。すると、小鈴は血相を変えて言うに違いない。
「それは普通じゃないですよ。それこそ運命じゃないですか。いいですか?この本を忘れていった人は、霖之助さんと出会う運命なんです。ぼけっとしてちゃだめです、マスト……」
「ビー」
僕は小さく声に出して言ってみた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
小鈴は暖簾をあげている最中だった。
「あら、ああ。いらっしゃいませ」
小鈴がすぐに僕を見つけて声を上げた。
「どうしました?随分早いですね」
小鈴は僕の頭髪あたりにさっと目をやり、それから少しばかり緊張した様子で僕の返事を待っていた。後で鏡を見たら、僕は寝起きのままのひどい頭で、思えば顔すら洗っていなかった。小鈴が緊急時態と勘違いしてもおかしくない。
「いや……」
僕は赤面をこらえ、なるべく普通に、「本を返そうと思って」と言った。
「僕は忘れっぽいから、それに小鈴はうちにやってくることは出来ないだろう?」
僕は決して忘れっぽくなどないのだが。
「あの、ところで」
「ああ、そう言えば」
小鈴が言った。
「あのあとすぐいらっしゃったんです。本を忘れたお客さん」
「え?」
「なんだか不思議な女の子でした。私と仲良くなれそうな」
小鈴は嬉しそうに言う。
「そうか、それはよかった」
僕は商売用の笑顔をつくり、なるべく嬉しそうに聞こえるように言った。
「これを返すよ」
「もう読んだんですか。面白かったでしょう?」
小鈴は僕の予想通りの表情をした。
それからしばらく、彼女の感想を上の空で聞いていた。
「それでは、いい読書を」
小鈴の声を背中で聞き、里の外に向かって一直線に歩いた。
雨が降り始めていた。鈴奈庵に戻って傘を借りることができるが、とてもそんな気にはなれない。
足元ばかり見て歩いていたせいか、里の外れあたりで、何か白いものが落ちているのが目に留まった。
「何かな」と近づいてよく見ると、どうやら花束のようである。
地面の二次元の絵のように見える花束を見て、何となく、何となくだけれども、彼女の物語は終わったのだと感じた。
少なくとも、運命の本読み妖怪の物語は、ひとまずのエンディングを迎えたのだろう。僕の預り知らぬところで。
けれども、こう考えることもできるのではないだろうか。
この世界が全て僕の認識だとしたら、あの妖怪は僕が物語を読んだことで初めて主人公足り得て、僕が物語を読み終えてやっと本と再び巡り会えた、そして物語は終わりを迎えて僕がここにいる。
そうだ……きっとそうだと思いたい。こうして自らけりをつけないと、やりきれないことばかりだ。
またどこかで、幻想の切れ端を見つけるとしよう、マスト・ビー。
口調は気にならなかったですよ。そんなに原作とかけ離れているわけでもないし。
リーダビリティが高い上、イメージがスッと浮かぶ、良質な文章だ。
更には物語自体もギミックが凝ってて面白い。
物語を読み進めていく内、言葉では言い表せないようなイメージが頭の中で奔流した。
まるで幻想に取り憑かれたかのようだった。
また、読後の余韻も素晴らしかった。
この作品がもしも、紙媒体だったらページを繰る手が止まらなかったと思う。
それこそ作中の霖之助のように。
そのぐらい面白かった、良い読書体験だった。
しかも、霖之助の外の状態というもっと大きなスケールで。
不思議な気分になりました。