私が今回経験した一連の事件は、誰かしらに語るべきなのかどうか、それとも胸の内にしまっておくべきなのかどうか、正直結構迷うところではある。
八雲藍という名前を授けられ、それなりに優秀に仕事をこなしてきたつもりではあったけど、それでもそんな私にだってミスぐらいはあるのだ。
そもそも一つ言い訳をさせて貰うとすれば、今回は何も私一人の責任というわけではない。
山に住み着いた新人神様、東風谷早苗がそもそもの発端であるところは間違い無いし、彼女の方こそ、私よりも責任を負うべき立場だと言えるだろう。
もっともこんなことをつらつらと並べたところで、大した意味がないということは分かっている。
所詮は言い訳に過ぎず、起きてしまった事実を覆す事なんて、それこそ私の御主人様にだってできっこないのだから。
それでも、もし時間があるようなら、ちょっと聞いていって欲しい。
私達の暮らす幻想郷が滅亡するまでに至る、今回の出来事を。
式神というのは、これで案外忙しいものだったりする。
まぁ正確に言うならそれは仕える主人次第というところではあるのだけど、少なくとも私の一日は結構忙しい。
人によっては私のことを、日がな一日飼い猫にじゃれついてる専業主婦程度に思っているかもしれないが、それは大きな誤解だと言わせて頂こう。
家事や猫の世話以外にも、紫様から任されている結界の管理代行という大事な職務があるだけに、私の仕事は時間に追われることになるケースが多いのだ。
何せこの幻想郷を囲む博麗大結界である。
紫様と暮らす屋敷を出て、結界まで行き、そして場合によっては結界の補修等を行うとすれば、それはもう文字通り幻想郷中をあちこち飛び回ることにすらなりかねないわけで、考えれば考えるほど、空間を渡ることのできる紫様がやればいいんじゃねって思ったりするんだけど、まぁそこは私が任されている大事な大事なお仕事。日によっては本当に疲れ果てて里に寄り、適当な食材を買い揃えて屋敷に帰って家事をこなす、みたいな感じである。
以前は、紫様が冬眠される時期などは家事に手を抜くことが出来たからその分楽だったりしたんだけど……どうにも少し前から、紫様は睡眠時間を削って外を出歩くケースが増えている。
幻想郷において強い力を持つ妖怪が増えてきたから、それらがよからぬことをしでかさないようチェックしなければいけないなんてことらしいけど、あの方の場合職務半分、もう半分は博麗神社でくだを巻いてる感じに思えた。
ああいう風に誰かと打ち解けている御主人の姿は結構珍しいので、それ自体は別に構わないことなんだけどね。
でも紫様の起きている時間が長いということは、即ち私がやるべき仕事が増えるということであって。
食事を作るのにも手を抜けない。
そこいらで人間でも野生動物でも何でも掻っ攫ってきて食卓に載せるだけとか、そういうのでは失礼に当たるのだ。
だから里まで出向いて材料を買い、調理もこなし、かといって普段の業務も疎かにしないという、この超多忙っぷりが私には求められている。
……以前、紅魔館のメイドを犬呼ばわりした私だけど、これは正直人のこと言えないなぁ。私の場合、まんまイヌ科だし。
ともあれ忠実な八雲藍は今日も、結界のチェックという大事な仕事をこなしている最中だった。
確認箇所を全て廻った後は、夕食の買い出しに出掛け、家で料理とお洗濯。
「忙しいから急がなきゃ~、っと。……よし、ここはチェック完了」
鬱蒼とした森の中で確認事項に関するメモを書きつつ、鼻歌交じりに呟いてみた。
結界自体は現在充分安定している為、今私がするべき仕事というのは、要は安全点検みたいなものだ。
何箇所か移動を繰り返さなければいけないのが少々面倒だけど、こればかりは仕方がない。
ふと、空を見上げてみる。木々の天蓋に隠されて太陽の場所がどの辺りか分かりづらかったけど、まだお昼にはなっていないはずだった。
「できればお昼過ぎには帰りたいかなぁ」
そう呟いた、直後。
枝葉の向こうで、何かが動いたように見えた。
「?」
目を凝らして確認してみるまでもなく、それの正体はすぐに判明した。
空から、人が一人落下してくる。
「こんにちはっ、狐さんっ!」
しゅたっ、と綺麗に着地したその人間はすぐさま立ち上がり、随分元気よく挨拶をしてきた。
「……ええと、こんにちは」
何て返したらいいのか分からなくて、とりあえず普通に挨拶する。
降ってきたのは、三年ぐらい前から山に住み着いている奇妙な巫女兼神様、東風谷早苗だった。紫様の話では、これまで外の世界にいたのに、自ら力尽くで幻想郷へ引っ越してきたというそれはそれは奇特な連中である。
そもそも半分が神様で半分が人間という性質もよく分からない。
「何をしてたの、ここで」
ストレートに聞いてみると、早苗はにっこりと笑顔で頷いて、
「いえ、神社にいても暇なので、自主的にパトロールをしてまして」
早苗は言葉と共に、手にした厚紙付きの棒みたいなやつ――何の儀式に使う道具なんだろうか、アレ――をシュッシュと素振りしている。
「そしたらやけに強い妖怪の力を感じ取ったので、これは悪の存在に違いないと私の第六感がビキビキ反応し、その正体を見極めに来たというわけです」
「……ていうことは私は退治されてしまうの?」
「いえいえ、狐さんは別段悪いことをする妖怪というわけでもありませんし、決してそんな。退治したらきっと、お豆腐屋のおじさんが悲しみますし」
豆腐屋のおじさんに義理立てして、判断を甘めにしてくれるらしい。というか、どうもこの神様は独自の司法権まで持っているつもりの様子だった。
「それに私だって、いきなり即死級の攻撃をしたりするわけじゃありませんし、大丈夫ですよ」
「何が大丈夫なのかよく分からないけど……一応聞いておくと、現人神としては悪い妖怪にいつもどんな攻撃を仕掛けているの?」
「出会い頭に、奇跡「客星の明るすぎる夜」あたりを」
「ルナティック!」
殺す気満々だった。
「まぁまぁ、神様の言うことですから」
「山の上の神様達は信用できない!」
「そんなことを言われましても……神様の言うことは絶対、という言葉もあるぐらいですし」
「独裁政権じゃないの!」
しかし実際のところこの神様たちは、山の上でちょっとした王国を築きつつあるぐらいだったりする。あれだけ排他的だった天狗や河童と打ち解け、旧都との行き来を禁じていたルールも彼女達によって半ば形骸化されてしまったぐらいだし。
「でも結局、狐さんはここで何をしていたんですか?」
「仕事よ」
「お仕事ですか? …………こんな場所で?」
早苗はあたりを見回した後で首を捻る。
まぁ、不思議がるのも無理はないか。何も知らない人からしてみれば、単なる森の中だし。
「それは所謂、アレですか? リストラされちゃった後で家族にそれを打ち明けることもできず、仕方なく出社する振りをして家を出てから近所の公園でベンチに座って愛妻弁当を食べるという、そういう状態の『お仕事』ですか?」
「…………」
無垢な表情で、随分残酷な例え話を出してくる娘だ。
そんな世知辛い状況に自分を当て嵌めて想像し、ちょっぴり悲しくなってしまった。……まぁ、出勤していく私に紫様がお弁当を作ってくれるなんて、まず有り得ないことだろうけど。
「そうじゃなくって、歴としたお仕事がここであったのよ。もう終わったけど」
「へぇ、そうなんですか。そういえば以前神奈子様から聞いた気がします。八雲さんちの狐さんは、あのスキマ妖怪さんに代わって幻想郷の結界を管理している、って」
「あの神様も何処で聞いたんだか……」
確かに一部の連中には、別に隠しているってわけではないけど。
早苗は再び辺りをキョロキョロ見回して、
「でも、こんな所に結界があるんですか? 別にここ、幻想郷の端っことか、そういうことじゃないですよね?」
「結界についての詳しくは企業秘密……なんだけど」
「単に原作者の一次設定と食い違うのが怖いだけなんじゃないんですか?」
神様はちょっぴりメタなことを言った。
「…………」
「いいじゃないですか。教えて下さいよ」
「……ここは、結界の起点となる場所の一つなのよ。大事なのはここ一箇所だけではないんだけど、ここも大事。そういった場所がこの幻想郷にはいくつもあって、私はそういった所で結界を管理する仕事をしている。まぁ、掻い摘んで話せばそういうことよ」
この三年ちょっとで色々なトラブルを巻き起こしたこの半人前神様にこんな説明をしてしまって良いものか悩んだけど、どちらにせよ多少の仕組みを知ったところで何ができるわけでもないだろうし。煙に巻くのに必要な出費だったと割り切っておくことにしよう。
「とにかく分かったでしょう? それじゃ、私はまだ仕事があるからこれで――」
「あ、あのっ」
踵を返そうとしたところで、袖を掴まれた。
振り返ると、やけに熱の込められた真剣な眼差しで、早苗がこちらを見ている。身長差がある為、多少見下ろす形になってしまうが……まぁ私の場合別に神様に対して信仰があるとかそういうわけではないし、気にしないでおく。
「まだ、何かあるの?」
「あの、その……実はですね、お願いがあるのですっ!」
やけに乱れた口調で、早苗は言う。空いた方の手でぐっと拳を握り、彼女は力強く聞いてきた。
「ここが結界にとって重要な場所だって言うなら、ここから結界の外に出ることとか、できませんか!?」
「……あなたの目的が分からないけど」
とりあえず改めて向き直り、ついでに掴まれていた袖を離させる。全力でつままれた生地はそこだけちょっとよれてしまっていた。
「外の世界に帰りたいの?」
「い、いえ、違いますっ! 滅相もない!」
「それなら、どうして?」
「別に、大した理由というわけではないんですが……ただ、その、久し振りに向こうの様子が知りたいなぁ、って、近頃そう思ってまして」
視線を下の方へと泳がせ、早苗は小声でそう言う。木の陰になってしまって分かりにくいけど、頬も少し紅い。
「ホームシック……ということ?」
「そうなっちゃいますかね……えへへ」
照れ臭そうに後ろ頭を掻く神様。もっともこの子の場合、半分は人間なわけで、その人間の部分が、そうした生まれ故郷への想いを生み出してしまっているのだろう。
「ええと……駄目、でしょうか。やっぱり。というか、無理なんでしょうか」
「……技術的には、一応可能だと思う」
この場所は結界の隙間に通じる場所でもある。
こうした特定の場所であるなら、紫様の助力が無くとも、わたしの力だけで外の世界への扉を開くことは可能なはずだった。
しかし、勿論そんなことは試したことがない。だからこそ、成功するかどうかも、そもそも理論通り扉が開くかどうかもさっぱり分からないのだ。
そして無論のこと、私の立場上そんな無謀な行いをするわけにはいかない。
「あの、それじゃあ是非、一度外の世界に……!」
「駄目よ」
わたしは首を横に振った。
「結界の管理代行者として、幻想郷と外を繋ぐ道を無闇に開くわけにはいかない。それに、理論上できるかも、というだけであって、確実に成功するとは限らないし」
試してみたい、という技術的欲求が無いわけではないんだけど。
失敗したら紫様からどんなお仕置きを受けるか分からない、という恐怖の方が今は勝った。
ただ、早苗の方も、そう簡単には負けてくれないらしかった。
「お手伝いが必要なら、私幾らでも力を貸しますから! そ、それに、別に何も外の世界に長期滞在したいとか、そういうわけじゃないんです! 一目、向こうを見るだけでも構いませんので!」
熱を帯びた、現人神の言葉。
聴覚が受け取ったそれを意識の片隅で処理しつつ、私は考えた。
曲がりなりにも神様である東風谷早苗の力を借りれば、成功率は限りなく百パーセントに近付くだろう。そもそも私一人でやっても失敗する確率の方が低いことである。そして失敗がまず無いのだということであれば、それは数々の問題がクリアされるということでもあるのではないだろうか。
私個人としても、自身の手で外の世界を見てみたい。
紫様に連れられて何度かあちらへ行ったことはあるものの、それは数えるほどの機会でしかないし、そして何より、自分の手で、というのが重要だ。
私だって一人前の妖狐として、日頃から研鑽を積んでいるつもりである。
博麗霊夢にボコボコにされたあの日以来、それなりに修行もやり直してきたのだ。
「……ちょっと行って、すぐに帰ってくれば、問題、無い――かな?」
我ながら、それが言い訳であるとは気付いているんだけど。
そうして、今日一回限り、且つ外の世界の人間との接触は厳禁というルールだけは作り、私八雲藍と東風谷早苗は、外の世界へ見物に出掛けることにしたのだった。
その行為が後々どんな意味を持ってくるのか、この時点ではまだ何も分かっていなかったのだけれど。
現人神の力を借りるまでもなく、扉はスムーズに作り出すことができた。
紫様の使う境界のワープと似たような感覚で空間を渡り、あっさりと外の世界へ。
私達の出現した場所がどういった地名の所なのかなどはさっぱり分からなかったけど、とりあえず空間を繋げることは成功したようだ。うん、凄いぞ私。まぁ今回のことは、紫様は勿論、橙にだって話せない私だけの秘密になってしまうだろうけど。
鳥も飛ばないぐらいの高度に浮遊しつつ、遠くに拡がった街を眺める。木造建築が主流の幻想郷と違い、やけに冷たく頑丈そうな高層建築物などが目立つ。その辺りは、幻想郷と外との技術レベルの差だろう。
「うわぁ、本当に外の世界だぁ」
私の隣では、元々こちらの世界の住人だったという早苗が目を輝かせて街を見下ろしている。
よくよく見やると、目元には僅かながら光るものがあった。感激のあまり泣いているらしい。
……故郷って、そんなにいいものなのかしらん。
「まさか本当に来ることができるとは思っていませんでしたから、私、もう、何て言ったらいいのか」
「あまり長くはいられないから、それだけは覚悟してよ」
「分かっています。ですから今の内に、こちらの世界の風を楽しんでおかないと」
どうやら幻想郷とこちらとで、風に違いがあるらしい。私は別に風ソムリエじゃないから分からないけど。
「ああ、なまら懐かしい」
「その言葉はあなたの故郷のものとは違うよね?」
たぶんだけど違う地方のものだということぐらいは私にも分かる。
「ねえ早苗。楽しんでるところ悪いんだけど、教えてくれるかしら」
「なんでしょう?」
「あそこにある、鳥の翼みたいなのが付いたどでかい鉄の塊は何なの?」
私が指差した先には、広大な敷地に、今言ったような謎の鉄塊が並べられた場所がある。
早苗は間髪入れず答えてくれた。
「アレは地中を進む為の乗り物です」
「羽みたいなのがついてるから空でも飛ぶのかと思った。なんだか邪魔そうだね」
続いて私は、人間達の街を指差す。道を行く人間の何人かが、二つ折りにできる小型の機械のようなものを手にしているのが見えた。人によってはそれを何故か顔に当てて、さも会話相手がいるかのように独り言を話している。
「あの人間達は何をしているの?」
「あれは機械からとっても気持ちよくなる音と臭いが出てまして、持ち歩いている人は基本的にそれを携帯していないと落ち着かなくなってしまう依存症なんです」
「煙草みたいなものかぁ。大変だわ」
欲望に忠実なあたり、外の世界らしいと言えばらしいかもしれない。私の偏見ではあるけれど。
次に指差したのは、山から山、そして街の方へと伸びている、鉄の線だった。途中途中、やはり金属製の――それにしても外の世界は鉄だらけだ――塔が見受けられる。
あれが何であるのかぐらいは、外の世界に疎い私も知っていた。同じ役割を果たす似たような物を、河童達の里で見たことがある。
「あれは電力を運ぶ為の装置よね?」
「いいえ、違います。あれはこちらの世界での交通機関ですよ」
「そうなの!?」
「はい。今はお昼前ですから皆さん会社でお仕事をされていますが、夜になってお仕事が終わると、誰もがあの金属線にぶら下がって、ずりずりと腕の力だけで家の近くまで移動していくのです」
「外の人間凄い!」
今現在歩いている人間などはそうでもないが、おそらくその交通機関を利用する人間の腕はさぞやムキムキなことだろう。
「ところで疑問に思ったんですけど、狐さん、こんな高い所からなのにしっかり下の様子が見られるんですね」
感心したように、早苗が言ってくる。確かに、現在私達がいる高度からでは人間の姿などは豆粒以下でしかないのだけど、そこは私だって力ある妖狐なのだ。
「これぐらい簡単なことでしょう」
「凄いですね! 空の宮殿から人造人間達を監視するピッコロさんみたいです!」
神様のくせに、話の例えがドラゴンボールだった。
「でもあなただって、私と同じように下の様子が見れているじゃない」
「そりゃ私は神様ですし。あ、でもピッコロさんって元は神様なんですよね」
「いいよ別にドラゴンボールの話続けなくて!」
以前紫様が、これだけ時間が経っても幻想入りしないなんて大した作品だ、と褒めていたことがある。かくいう私も、紫様の書庫に揃えられていたものを読んで、それなりに楽しませて貰っていた。
そうして小一時間ほど外の世界に滞在し、私達は幻想郷へ帰ることにした。
早苗はかなり名残惜しそうではあったけど、流石にいつまでもこちらにいることなんてできないし、いい加減向こうに戻って仕事の続きをこなさないと、帰る時間が遅くなってしまう。それは避けたかった。
来たときと同じ地点に残してあったゲートをそのまま使い、境界を渡る。
ふんわりとした感覚で通り抜けると、そこは先程までいた幻想郷の中の森であり、とりあえず一息つく。
一緒に幻想郷へ戻ってきた早苗と二人で扉を閉じて、私はとにかく今回の一件は他言無用であるのだと、彼女に対して念を押した。
この外の世界へのプチ観光は、私の立場上決してよろしくない行いであり――実のところ紫様はかなり気軽に外とこちらを行き来しているが、あの人は規格外だから仕方がないだろう――、紫様や橙に対して土産話を聞かせることはできない。
同様に、早苗の口から、山の二柱に今回の話が行くことは絶対に避けたいところではあった。八坂神奈子などは、こちらとあちらとを行き来する交通手段の発明を河童に促してしまいかねない。
最初から、この場限りの秘密であるということは絶対に約束させておいたので、早苗も素直に従ってくれた。
この神様は決して頭が良いようには思えないが、少なくとも約束は守るだろうし、もしそれを破ったら自らがどういう立場になるか、考えられないほどの馬鹿ではないだろう。
こうして些細な非行飛行を終えた私達は、幻想郷に戻ってきたことで、ある一つの深刻な事態に直面することになる。
まさか幻想郷の全てが壊滅しているなんて、この時点ではまだ何も分かっていなかった。
早苗に秘密を念押しして、いざ仕事へ戻るべく意識を切り替えようとして――ふと気が付いた。
「……? なんだろう。体が重いというか、んー……」
独り言で疑問を口にしてみるが、そもそも疑問自体がよく分からない。
体に違和感があるのだが、その違和感が何に対するものなのか、私自身よく分からないのだ。
「狐さんも……ですか?」
見やると、若干よろめいた早苗が、手近な木の幹に手をついてもたれ掛かったところだった。風邪で高熱でも出したかのように、表情にも元気がない。
「何でしょうこれ……風邪引いちゃいましたかね」
「あなたって半分は神様なんでしょう? 風邪なんてひくの?」
「どうでしょう……私にもよく分かりませんが、このままだと風祝じゃなくて、風邪祝になっちゃいますね」
「面白くも上手くもないからね、一応言っておくと」
「あら……」
力無く、笑う。
それにしても、この子の容態は明らかに私以上にまずそうだった。病気なのかどうか分からないが、もしそうなのだとしたら医者に診て貰った方が良いのかもしれない。
「大丈夫?」
「平気ですよ……。でもなんだか、体が重くって。疲労というか、力が抜ける感じというか、何というか」
「……あなたもなの?」
私も似たような感じである。
「どうしたんでしょうね。エキノコックスですかね」
「それは失礼な発言だよね!」
叫んでツッコんではみたが、私の方もイマイチ覇気が乗り切らない。
「とにかく、あなたも私も何だか調子が悪いし、ひとまず里の方へ行きましょう。あなたを医者に連れて行かないと」
「あはは……。別にそこまで酷いものじゃないですよ」
お互いにふわりと浮き上がり、森の木々よりも高所へ。
空に上がってようやく気が付いたが、どうやら私達が外の世界に行っている間に、こちらの天気は大きく変わっているらしかった。
さっきまで雲一つ無い青空が拡がっていたはずなのに、今は太陽の位置が分からない程の曇天だ。
雨でも降りそうな天気で、嫌な感じがする。
そうして里の方へと飛び立った時点で、新しい違和感に気が付いた。
――速度が出せない。
別に飛行するのに大きな問題があるわけではないのだけど、普段の私だったらもっと速いスピードで飛べるはずなのに、今は何故か目一杯頑張って、せいぜいいつもの半分という有様だった。
天狗や吸血鬼ほどではないにせよ、私の速度がこんなものだというのは有り得ない。
「……狐さん、大丈夫ですか?」
私の少し前を飛んでいる早苗が、気遣うようにして速度を落とした。
ひょっとしたら彼女と私は何かしらの同じ症状に掛かっているのではないかと思ったのだが、どうやら違うらしいということが分かる。彼女の方は、飛行速度に関して何の影響も出ていない。
「あなた、元気になったの?」
「別にそういうわけではありませんよ。飛んでると何だかそれだけで疲れますし、体が重いように感じるのもありますけど、別に空を飛ぶこと自体はそのままです」
私はと言えば、体にある違和感はさほど大したものではない。だが、思うように力が使えないという状態だった。
本当に、普段の半分以下といったところだ。
当初私は、妖怪や神様の力を弱体化させるような能力があると仮定してみたのだけど、これはおそらく違う。
東風谷早苗は調子こそ悪そうなものの、その能力についてはそのままのようである。
では、妖怪と神、それぞれ違う症状を発症させるような能力? そんな回りくどい力など聞いたこともない。ましてや、仮にそういった何かしらの力を使う者が実在するとしても、私達があの場所に帰ってきた時点で、周囲には人間や妖怪の類は見受けられなかった。
遠隔操作型だとでもいうのだろうか?
それにしたって神と妖怪を、何を以てどんな理由で区別するというのか。
「……何者かによる攻撃を受けている可能性は、決してゼロではないにせよ、やはり低いと見た方が良い」
ではこの不調は一体何なのかというところだが、それについてはこれから調べていくしかない。
里を目指して飛びながら色々と思考していると、前方を飛ぶ早苗がこちらに大声で叫んできた。
「き、狐さん!」
「……実はずっと前から言おう言おうと思っていたのだけど、私には紫様に与えられた藍という名前があるのよ」
「監さん!」
「勝手に草冠を外さないで!」
なんていう、馬鹿なやり取りはそこで強制的に終了せざるを得なかった。
「とにかく、大変なんですよ! あれを見て下さい!」
人間の里が見えてくる。
正確に言うとそこにあったのは、かつては人間の里と私達が呼んでいた、ただの廃墟だった。
「……何があったの、これは」
廃墟を見下ろして、とりあえず私はそう呟くしかなかった。
他に言葉が出てこないぐらいに、町の様子は変わり果てている。木造の家屋が建ち並んでいたそこは、元の形を保っている建物が殆ど無いぐらい、完膚無きまでに破壊され尽くしていた。
莫大な力を持つ何者かが蹂躙したような、否、凄まじいエネルギーの何かが一瞬で焼き尽くしたような、そんな状態だ。
同じく隣で絶句している早苗の肩を軽く叩く。彼女にも、何が起きたのか全く分からないのだろう。
いつまでも上から眺めているだけでは意味がないので、私達は降りてみることにした。
里に降り立って辺りを見回してみる。瓦礫と砂埃しか無いような、酷い有様だった。
「……何で……こんな……こ、こと……」
途切れ途切れの言葉を聞き、そちらに顔を向ける。一緒に着地したはずの早苗が、やけに疲れた様子で荒い息を繰り返していた。
「ええと、大丈夫?」
何と声を掛けて良いのか分からず、取り敢えずそう訊ねてみる。
「平気です……ちょっと疲れただけですから」
「疲れたって、こんなちょっとの距離を飛んできただけで?」
「ええ、どうしてでしょうね。飛んできただけで疲れるなんて、まるで心臓病にやられた孫悟空みたいですよね」
「とりあえずドラゴンボールの例えから離れて欲しいんだけど……」
ドラゴンボールの例えをそんな万能のように扱わないで頂きたい。
真面目な会話が成立しないような気がしてしまう。
しばらくすると呼吸も落ち着いてきたらしく、早苗は一度大きく深呼吸した。
「すいません、手間取ってしまって」
「それは構わないけど、いったい何が起きているの」
少し、周辺を歩きながらで会話を振ってみる。早苗もあちこちの廃墟や瓦礫の山などを見回しつつ、答えてきた。
「分かりません……。でも、何時間か前に私がこの辺りを通ったときは、こんなことにはなっていなかったはずです」
「私だって見ていないよ。それにこんな異常事態があれば、紫様だって絶対に気が付――」
無意識の内に適当なことを喋りながら、私はそこで思わず言葉を止めた。
一つだけ、分かったことがある。
いや、正確に言うなら想像が付いたことがある。だがおそらくそれで正解だろう。結局のところ何者がこんな風に里を破壊し尽くしたのかは分からないが、今現在、私達の身に何が起きているのかは簡単に説明づけられる。
でも……――でもそれは。
「? どうしたんですか、狐さん?」
台詞と共に立ち止まり、そしてその場で膝から崩れ落ちてしまった私を心配して、早苗が駆け寄ってくる。けど、今の私はそれどころではなかった。
灰燼を含んだ砂で服が汚れるが、そんなことを気にしている余裕すらない。
もっと、もっと重大で深刻な可能性が、頭から離れてくれようとしない。
妖力はかなり低下しているようだけど、頭の方は問題なく働いてくれている。それが嬉しいことなのかどうかは、私の頭でも判断することはできそうになかった。
だって。これって。
「狐さん……?」
不安を浮かべた様子で言ってくる早苗。
そちらを見るより先に、私は口を開いた。
今現在、私の能力が低下している、その理由。
「私から…………式神が外れている」
それは、紫様の身に何かがあったということだった。
私達が式神と呼ぶものは、外の世界で言うところのコンピューターハードとソフトウェアに似ている、と早苗には説明した。
基本的に単語単語の意味はよく理解できていなかったし、言葉も殆ど全てが紫様からの受け売りみたいなものなんだけど、丁度外の世界から来たこの巫女には理解して貰いやすいだろうと思ったのだ。
私は紫様の式神となることでパラメータが大きくアップされており、本来以上の力を発揮することができる。
但しそれは裏を返せば、式神が外れてしまえば、私の能力は元に戻るということでもあった。
絶対値が上がったわけではなく、あくまで式神の分が加算されているだけなのだから。
そして今それが、本当に元通りになってしまっている。
「……それって、狐さんが弱くなっちゃうって、そういうことですか?」
「そこは私自身のプライドに賭けて、違うと言わせて貰いたい」
私は元々、最強の妖獣たる九尾の狐である。単体の能力であっても、そんじょそこいらの妖怪に引けを取るようなものでないと、そう言い切れる。
だけど。
「だけど……紫様の式神が外れるなんて、こんなこと今までそうそう無かったから」
私が使役する式神の場合、水に弱いだとか、強い衝撃で外れてしまうだとか、能力値の加算率がまだ小さいとか、色々不出来な点もあるかもしれないけど。
紫様に限って、そんな詰めの甘いことは無い。
そしてそれはつまり、今起きている事態がそうそう簡単で生易しいことではないのだという事実の証明でもあった。
廃墟になった、人間の里。
影も形も見受けられない、人間達。
更には、紫様の身にも何かが起きたらしいということ。
「私のことについては、それぐらいにしておくとして」
次はあなたのことだと、私は早苗の方を見た。
きょとんとした様子の、見習い神様。半分が神様で、もう半分は人間なのだという。事実、元々は普通の人間として生まれてきて、神格化したのは割と最近のようだったし。
「私が……何か?」
「今のあなたがどういう状態なのか、それが想像付いた」
「!? どういうことですかっ?」
察しの悪い早苗に、私は一度長めの呼吸を挟んでから告げた。
「あなたは今、ただの人間になっている、ということよ」
「そんな!? 私、ただの人間には興味ありません!」
早苗はよく分からないことを言った。
「……ええと、あくまで想像なんだけど、でもたぶん間違ってはいないと思う。今のあなたは博麗霊夢とかと同じように神に仕える巫女であって、現人神ではなくなっている、ということよ」
「どうしてそんなことが?」
「理由は全く不明だけど、里のこの惨状を見るに、幻想郷の人間は殆どが死んだと思って良いでしょう」
それは同じく人間である早苗には、決して楽しい想像にはならなかっただろうが。
それでも、それで説明を止めるわけにはいかない。だから続ける。
「神というのは、人間でも妖怪でも、取り敢えずどんな存在からでも『信じる心』を受けることでその存在を保ち、また強めていくことができるもの、よね?」
「はい、そうです。信仰心が、私達の源と言えます」
確か守矢神社の八坂神奈子は、外の世界で信仰心が減ってきたから、この幻想郷に移り住んできたのだと聞いた。
つまりは。
「でも今のこの幻想郷には、そうして神を信じてくれる、人間という存在が皆無になってしまっている。……みんな瓦礫の下じゃ、ね」
「だから神が存在を保てないと?」
「おそらくはね。でもあなたの場合、元々半分が人間という中途半端な存在だったから、人間の部分だけが残ってしまっているのだと思う」
つまりは、巫女だ。
「仮定するなら、私達が外の世界へ出ている僅かな時間に、この幻想郷で何かが起きて、壊滅的な被害を受けた。そして人間がいないから、あなたの中の神様な部分が消滅している、ということよ」
「そんな……」
意味のある動作ではないのだろうが、早苗は自らの体を見やっている。起きた変化に自覚が無いというのは、さぞかし不安だろう。どれだけ真実を告げられたところで、他人事のようにしか響かないというのだから。
それでも、私は極力冷静に続ける。
「気を付けなさい。今のあなたに使える力は、もう有限になってしまっているのだから」
「株式ということではなくてですか?」
「……いちいちボケを挟まないと会話できないの?」
「い、いえ、でも有限ってどういう――あ、そうか!」
理解できたらしい。
普段は里の人間や山の妖怪といった存在から信仰を受けている彼女にとって、その信仰心が半ば無限のエネルギーとして作用しているわけだが。では、その供給が絶たれたらどうなるのかと言えば。
「私が何かしらの奇跡を起こしたりして力を使っても、もう回復しないということ……ですね」
早苗の言葉に、頷いて返す。
「普通の人間にはできないことは、全て『奇跡』になってしまうのよ。スペルカードだけじゃない。空を飛ぶことだって、あなたの中に蓄えられている信仰心をどんどん消費していく」
式神による補正を失ってしまった私と。
力の量が有限になってしまった早苗と。
苦笑する。どちらも随分と半端な存在であると、そう言わざるを得ないだろう。
「でも、これからどうしましょう」
生存者など絶望的なこの里を見渡し、早苗が不安げに呟いた。
「私に言われても……だって、生きている人間なんていそうにないし、…………ん?」
適当に返しつつ周囲の光景に目をやっていて、私は一つのことに気が付いた。
違和感、と言っても良い。
あるいはそれは、真っ白なシーツに付いた、ほんの小さな染み程度の違和感でしかないかもしれないけど。
崩れ落ちていた膝を持ち上げて立ち上がった私は、とりあえず走り出した。早苗が何か言いながら同じく走ってついてくるが、とりあえず今はそれに構っている余裕など無い。
空を飛ぼうかとも考えたが、ひとまず地上から確認してみる方が確実のように思える。
そうして里の表通りを走り、辺りを見回す。
崩壊した建物。それがどこまでも続く道。
今現在の時刻を思い出し、私はやはりこの状態がおかしいのだと確信した。
すぐに追いついてきた早苗が訊ねてくる。
「何があったんですか?」
「おかしいのよ。だって今って、お昼ぐらいの時間帯でしょう?」
時計が無く、太陽も厚い雲に隠れてしまっていては正確な時刻は分からないが。
早苗が相槌と共に頷いてくる。
「まぁ、そうですね」
「だったらどうして、ここには人間の姿が見られないの?」
真っ昼間の大通りである。
通行人が一人もいないというのは、おかしなことだろう。
「でもそれは、誰かに襲われたからじゃないんですか? 町だってこんな破壊され尽くしているわけですし」
「だから、それだったら死体の一つや二つ、その辺に転がっていてもいいんじゃないかしら」
「いや、いいってことはないと思いますけど……あ、でも、そうか」
早苗も気が付いたらしかった。
「私達がたまたまこっそり外に出掛けている間にこんな大それた破壊工作を実行できるような奴がいたとして、それはそれで置いておくとして、そいつは破壊した町で、人間の死体を一つ一つ丁寧に埋葬していったりとかしたということ?」
「じゃあ、攫われたとかですか?」
「その可能性は低いんじゃないかしら。あなたの力が大きく制限されていることを考えると、生存者というのは期待できそうにないでしょう」
「そっか……そうですよね」
項垂れる早苗。神様としても巫女としてもまだ半分で半人前な彼女にとって、それはつらいことだろう。
「だからこそ楽観的にはなれないけど、でも何かおかしい状況であることは確かなのよ。説明が付かないというか、ともあれそういうこと」
町が滅びているのに、人間の死体が一つもないという現状。
何が起こったのか、せめて死体があれば、ある程度推測もできるのだろうが、それさえできそうにないし……。
手近な家屋を一つ見やり、私はそれを妖力で吹き飛ばした。すぐ隣でびっくりした早苗が甲高い声を上げているが、気にしない。
倒壊していた屋根や柱などが盛大に舞い上がり、小さな瓦礫などが更に小さな破片へと変じて飛び散っていく。
更地、とまではいかなくとも、ある程度大きい物や重い物を排除したその場所に、私は歩み寄っていった。まだ残っている残骸などを手で押しのけつつ、確認する。
……やっぱり、家の中にも死体の類は残されていない。
「埃っぽいですぅ」
咳き込みつつ、早苗が呻いている。どうにも人間は不便な体のつくりをしているね。
とりあえず何軒か同じように家屋を力尽くで吹っ飛ばして確認してみたけど、やはり何処にも死体は無かった。
「やっぱり、何処にも誰もいないみたいだ」
生存者ゼロ。但し、死体もゼロ。
「……ずっとここにいてもこれ以上の収穫は無さそうだし、ひとまず移動しようと思うのだけど」
「それは私も賛成ですけど……何処へ行きますか?」
訊ねてきた早苗に答えることを、私は少しばかり逡巡した。
だけど――状況が状況だし、やむを得ないことだと割り切ることにする。
私は答えた。
「八雲の屋敷へ」
顕界と冥界。幻想郷と外。表と裏。
様々なものの、全ての境目となる位置に、紫様の屋敷はあった。
この場所を、他人が訪れるのはかなり珍しいことである。
実際紫様は普段から誰も招こうとしないので、私としても早苗を連れてくるのには少しばかり抵抗があったのだけど……非常事態だから仕方がないのだ。ごめんなさい、紫様。
ちなみにどうして、そんなに抵抗があるにも関わらず早苗を連れてきているのかと言えば、今現在の彼女には何処かへ行く為の移動手段が無いからだった。限りある信仰心を無駄遣いしないようにするには、彼女はこれ以上、無駄に空を飛んだりだとかそういうことをしている余裕は無い。だから仕方なく、私が彼女を抱えて幻想郷中を移動する羽目になったのである。早苗としても、神社にいる二柱のことが気掛かりだろうが、この順番ばっかりはこちらに譲って貰った。
人間の里にあった建物達とは違い、こちらの屋敷は幸い目立った損傷は見受けられないようだった。もっとも、それが単に見えないだけなのだという可能性は否定できないけれど。
「紫様! 紫様、おられないのですか!」
玄関口でどうしていいのか分からないまま立ち往生している早苗は完全に放置して、屋敷の中へ。しかし、悲しいぐらいに予想通りのことではあったけど、私の声は虚しく響くばかりで何も返ってはこなかった。
誰の気配もしない屋敷。
それでも私は、とりあえず力の限り名前を呼ぶ。
「紫様! 紫様! 橙もいないの!? 橙! ちぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇん!!!」
緊張感がないとか、そういうことは言わないで頂きたい。これでも必死なんだから。
しかしやはり、声が返ってくることはない。
分かってはいたけど――それでもやはり、これはかなり辛い。
紫様も橙も、何処かで無事なら良いのだけど。
玄関の方へと戻ると、どうやら早苗はどうして良いのか分からずずっとそこで待っていたようだった。別にあがって待っていてくれても良かったのだけど、いくら彼女でもそこまで礼儀知らずではないということだろうか。
こちらを迎えた彼女の瞳は、どうだったのかと訊ねてきているようだった。だから私は、無言で首を横に振って答える。
がっくりと肩を落とした早苗と共に、私は屋敷の外へ出た。
無人の廃墟となった、八雲の屋敷。それを見上げていると、早苗が呟いてくる。
「……正直、紫さんならこの異常な事態もどうにかしてくれるんじゃないかと、そんな希望的観測があったりしたのですけど」
甘かったですね、と続けてから早苗は嘆息した。
妖怪の賢者と称される、私の御主人様。それは神様である早苗でさえ頼りたくなってしまうような、そんな何かを感じさせる偉大な存在だ。いっそのこと、あの方も神になってしまえばそれはそれで面白いのかもしれない。そういったことを考えた時期もあったなと、ふと懐かしくなって、思わず涙が溢れそうになる。
「――私の式神が外れてしまっている時点で、望み薄だったということでしょう」
「そんな、それじゃ……」
「でも、紫様はきっと無事に違いないわ。あの方が、そう簡単にやられるはずはないもの。きっと、絶対、何処かに逃げ延びているはず。……あなただって、大切な相手のことはそう信じたいでしょう?」
告げると、早苗は一度だけ、大きく肩を震わせた。そしてその後で、じわりと目に涙を浮かべ――それを自ら乱暴に拭う。
「当たり前です。神奈子様も諏訪子様も、私なんかとは比べものにならないぐらい立派な神様なんです。だからきっと、無事に決まっています」
涙は拭ったそばからまた溢れてきてしまっていたけど、早苗はその固く強い表情を崩そうとはしなかった。神としての、意地か、矜持か。
もっとも彼女は人間でもあるから、ぼろぼろと涙は止まりそうになかったけど。
「絶対、絶対……、神奈子様も諏訪子様も、ご無事なはずです。……無事なんだから」
「……そうだね」
掛ける言葉が見つからず、私はそう返すしかなかった。
早苗の頭を撫でつけて、
「山の様子を見に行こう。そして、あなたの神社に」
私の言葉に、早苗は泣きながら頷いた。
早苗が二柱の神様達と暮らしている神社は、妖怪の山の上にある。
ついでというわけではないけど、私達はそこまで移動する途中で、顔見知りなどが暮らす場所があったら、立ち寄ったりもしていた。
紅魔館、永遠亭、命蓮寺。
いずれも強力すぎる連中が巣くっているような場所ばかりだけど、どれも同じように無人の廃墟と化しているようだった。
吸血鬼も、蓬莱人も、魔界の僧侶も、どれも規格外なレベルで強力な存在ばかりだけれど。
その誰もがいないという状況は、改めてこれが異常事態なのだということを分からせてくれる。
……それを言うなら紫様の姿が見受けられない時点でそうかもしれない、か。
だがどちらにせよ、原因の究明と、生存者の捜索は必須であるはずだった。だからこうして、妖怪の山を目指して飛んでいるわけだ。
ちなみに早苗のことは、べったりと抱きつくような状態で運んでいる。このポーズ自体は少々不満というか何というか、色々思うところがなかったわけではないのだけど、結局の所これが一番抱きかかえやすいという理由で採用になってしまっていた。私の体に両手を回し、もうなんていうか恋人のようにぎゅっと抱きついてくる早苗の腰に手を回し、それで支えている。
他に色々なポーズを試しては見たのだけど、これが一番飛びやすかったから仕方がないんだってっ。
「さて……そろそろ山の麓に着くわね」
回り道はしていないものの寄り道はしてしまったので、多少時間が掛かってしまっていた。
この麓にも、季節によっては豊穣の女神などがいたりするのだが、今日は妖精の姿すら無い。
「呑気に山登りしてる暇もないし、一気に飛んでいくわよ」
厄神の飛び回る森も、河童のファクトリーがある川も、天狗の哨戒する滝も。
全てを駆け抜けるようにして飛んでいくことにする。
普段であれば、こんな風に問答無用で山に侵入しようとすれば、主に天狗あたりが黙っちゃいないところなんだろうけど、今日に限ってはそれがないというのがどうも寂しい。
「落ちないように気を付けてね」
「は、はいっ。…………――あの、狐さん」
神社を目指して飛んでいる最中、私にしがみついている早苗がどこか遠慮がちに言ってくる。
「? どうかした?」
「いえ、あの、大したことじゃないんですけど……その、大きいんですね」
「何が?」
「あの……胸が」
「はぁっ?」
全然緊張感のない内容だった。
……これだから現代っ子は。
「あなた、何を言ってるのよ?」
「だ、だってだって、私ってこの年になっても結局あんまり大きくならなかったですからっ。だから何て言うか、羨ましいなぁって思っちゃって……っ」
「別にあなたの胸だって、そんな小っちゃいわけじゃないでしょう」
早苗の着ている巫女装束は、二の腕から肩口、そして脇付近が露出したデザインである為、横からだと胸の形が分かり易い。……別に他の人と比べて、特別小さいとか、そういうのはないと思うのだけど。
それとも、人間には人間なりの基準みたいなのがあるのだろうか。
「あと言いながら、私の胸をそんなまじまじと見つめないで貰えるかしらね!」
「だってこんな近くにあるんですし……あの、ちょっぴりなら触ってみても良いでしょうか?」
「良いわけないでしょう! 下の川に突き落とすわよ!」
「ああああそれはやめてくださいっ! ……勿体ない、こんなに大きくて綺麗な胸なのに」
「なんでそんなに残念そうなのよあなたは」
さっきまであんな真面目なシーンをやっていたというのに。
「狐さんっ! こういう立派なおっぱいは、いったい何を食べたら育つんでしょうかっ」
「立派なおっぱい言うな!」
「で、でも他に言い方なんて……」
「あるわよいくらでも!」
「『淫らでいやらしい雌乳』とかですか」
「突き落としてやるわこの淫乱巫女!」
「や、やめてー! ほ、ホントに落ちちゃいますから! ごめんなさいごめんなさい! だから引き剥がさないで下さい! らめぇっ!」
「らめぇって言うな!」
それらが空元気から来るものだとは分かっていても、早苗の心が少しでも復調していることに、私は安心した。
結論から言えば、妖怪の山も、その上にある守矢神社も、空振り以上の結果にはならなかった。朽ちた無人の社だけが残されたその神社の姿を見て、早苗はまた少しだけ泣いていたようだったけど。
真中からぼっきりとへし折れた境内の御柱が痛々しい。家族のように慕っている相手の姿が見えず、自らにとって家のようなものである神社がこうも徹底的に痛めつけられているのだから、早苗の心中たるや辛いところではあるだろう。
決して声には出さず、私の方も向かず。無言で泣いている今の彼女に、声を掛ける気分にはならなかった。無粋で無礼というものだろう。待ってあげるしかない。
その後は更に上空の天界、そしてそこから底へと下っていって地獄の旧都、果ては一旦境界を越えて冥界まで遥々移動を繰り返してみたのだけど、やはり生き物の姿は無く、建物は或いは破壊され、或いは無人のまま打ち捨てられている。地上もそれ以外も、どこも似たような状態だった。
神様も鬼も天人もいない。
……んー。私個人の意見としては、ああいう強力無比な存在がこうも揃ってやられちゃう状況っていうのは、あんまり想像できないんだけどなぁ。
一番最後にはなってしまったけど、私達はそこでようやく、博麗神社に行ってみることにした。
異変解決のプロフェッショナル。博麗霊夢であれば、もしかしたらこの異変――そう、これは異変としか言いようがない――に対して何らかのアクションを起こしているかもしれないと、そう思った。
それが所謂、溺れる者が藁に縋ろうとしている心理状態であることは、私自身も理解しているところではあったのだけど。
何もしないというわけにはいかない。
「……うわぁ、無残ですねぇ」
博麗神社に着いて、まず真っ先に早苗が発したのはそんな一言だった。
「ゴミクズみたいになっちゃったわね」
私もそれなりに酷いことを口走っていた。
だけど、弁解させて欲しい。博麗神社は、そりゃもうゴミクズぐらいにしか形容できないぐらいの、惨憺たる有様だったのだ。いつだったか、紫様と天人がここでガチの殺し合いをやらかした時よりも酷いと思う。
境内には小隕石が多数落ちてきたのかというぐらいに穴だらけになり、鳥居は斜めに両断されて切れた部分が見当たらない。本殿の屋根は粉々に消し飛んでいて、建物自体も全壊状態だ。
無事なところを探す方がよっぽど難しい。
神社って、建物がないとこんなに敷地が広いんだなぁなんて、そんな間の抜けたことを思ったりする。
そして、確認するように、呑み込むように、私は口を開いた。
「博麗の巫女も、やはりいないのね」
「守矢の巫女ならここにいますけど」
「お呼びでない」
「…………」
早苗は沈黙した。
それで静かになってくれたので、落ち着いて思考を巡らせる。
――決して予想していなかったわけではないのだが、この場所も、他と同じように破壊され無人の廃墟と化していた。
幻想郷の異変を解決する巫女がいたはずの、博麗の神社が。
単純に考えれば……私や早苗がこっそりと幻想郷を抜け出して外の世界を見物に行っている間に、恐るべき力を持った妖怪が幻想郷を侵攻、紫様や博麗霊夢を筆頭に、吸血鬼やら蓬莱人やら魔界の僧侶やら神々やら鬼やら天人やら、幻想郷の力ある妖怪達を片っ端からぶちのめし、里の住民や妖精、その他野生動物まで全部を殺して回った……と?
小一時間でそんなことを実現できるような存在というのは現実味に欠ける気がする――この言い方は幻想郷という場所を考えると不思議な感じだけど。
じゃあ何が起きたのかと訊かれれば、そりゃ私でもさっぱり分からないことなんだけどね……。
そもそも、異変が起きたら迅速に解決できるように、博麗の巫女という存在があったわけで。解決できないどころか壊滅させられちゃってるんじゃ、冗談にも笑い話にもなりはしないのだ。
でも……紫様も博麗霊夢もどこにもいなくて、幻想郷の何処へ行ってもこんな感じの状態だということは、やはりみんな何者かに襲われ、負けてしまったという可能性が最も高い。
これだけ探し回って、それでも誰も見つけられない。
幻想郷で、私と早苗は二人ぼっちになってしまったらしかった。
移動を繰り返して時間を使いすぎたので、夜になってしまった。
式神が憑いていなくても、そもそも妖獣な私である。夜になろうが夜中になろうが、逢魔が時だろうが丑三つ時だろうがそれで何の不都合があるというわけでもないのだけど、一緒にいる早苗は現在ただの人間なのである。
神様だった頃は体に多少の無理をさせても問題なかっただろうが、純粋な人間の状態ではそうもいかない。
結局何処かしっかりと体を休められる場所を、ということで、私達は再び八雲の屋敷へと来ていた。
別に我が家だから、というだけでなく、ここは他と比べて建物の損傷が奇跡的なまでに少ないのだ。
この程度のことで、奇跡を起こすという早苗の能力を使われていたのだとすれば勿体ない気はするけど。どちらにせよ、これは幸運と言って良いだろう。
勝手知ったる我が家のことである。
朝食以降何も口にしていない早苗はかなり疲れているようだったので、屋敷に備蓄してあった分の食料で適当に食事を作った。
普段は紫様と私、そして日によっては橙も一緒で使っている食卓に、二人分の簡素な食事を並べる。
照明は殆ど付けていなかった。人間の早苗には多少不便だろうが、今この幻想郷で何が起きているのか分からない以上、用心しておくに越したことはない。
ひょっとしたら灯りを付けておけば、生存者が気付いて来てくれるか……なんてことも考えたけど、立地的なことを考えればこの屋敷は何の招待も受けていない者がそう易々と辿り着ける場所ではないので、期待するだけ無駄だろう。
二人だけの、無言での食事。
普段から食事中は静かにしているのか、それとも精神的に疲れているのか分からないが、早苗は食事中本当に一切言葉を発さなかった。いただきますとごちそうさまだけである。
食器の後片付けは面倒だったので、取り敢えず水に浸けておくだけ。普段だったらまずこんな怠慢はしないんだけど、今日はもう流石に疲れたのでこれぐらいは見逃して頂きたい。
居間に戻ると、早苗は壁により掛かって座っていた。食事中、何も話そうとしなかったことの理由がどちらであったのか、それは考えるまでもなく分かるような気がした。
心身ともにありありと疲労を見せる彼女に、私は一応告げる。
「食糧の備蓄も、そういつまでも続くものではないから……何か、対策を考えないとね」
「どれぐらいの量があるんですか?」
「普通に消費して一週間、といったところかしら」
紫様は場合によっては二日も三日も眠っていることがあるので、あんまり無駄に食材を貯め込んではいないのである。必要になったら買いに行けば事足りたし。
「里もあんな状態だったし、動物もいなかったし――食べ物の問題というのも、ちょっと切実な感じね」
私が言うと、早苗は自嘲気味に笑って、
「じゃあもし食べるものが無くなっちゃったら……狐さん、私のこと食べちゃって下さい」
「……何を」
「だって……これってもう、絶望的すぎるじゃないですか」
壁にもたれ掛かったままで、早苗は自分の両脚を抱きかかえる。膝に顔を埋もれさせるような体勢で、くぐもった声は続けられた。
「神奈子様も、諏訪子様もいなくなってしまって……信者の皆さんも、それ以外の皆さんも誰もいなくなってしまって……なるべく明るく考えようと頑張ってましたけど、でも、これってやっぱりもうどうしようもないですよ」
言葉の後半は、声が震えていることがすぐに分かった。顔が隠れてしまっている為こちらから覗うことはできないが、泣いているらしい。
嗚咽を漏らす早苗に、私は言った。
「あなたを食べるつもりなんてないわ」
「でも、狐さんだって人を食べることぐらいできるでしょう?」
「できるからやる、というわけではないわ。他に選択肢があるのなら、そちらを選ぶことだって当人の自由でしょう。私はあなたを食べるという選択肢を選ばないだけ。だってまだ、他の選択肢を探すという自由が、私にはあるはずだものね」
早苗が顔を上げる。涙と鼻水を拭いもせず、元神様の巫女はこちらを見た。
「他に選ぶものなんて――」
何かを言いかけて、彼女は言葉を止めた。
その様子を見て、私は早苗に背を向ける。
「…………」
「狐さん、もしかして今……私のこと励まそうとしてくれてましたか?」
「何のことかしら。ナンのことかしら?」
「いいえどちらかといえば私の好みはライス……っていや、そうじゃなくって。他の選択肢を探すって……」
一人でまくし立てながら、早苗は立ち上がろうとしていた。気持ちを振る起こすようにして、体を起こしている。
「そう、そうですよね。私達はまだ、他にできることを探すという選択肢がある、ってことですよね。狐さんは、私にそれを教えようとしてくれていたんですよね?」
「……知らない」
やたらとこちらの顔を覗き込んでこようとする。私が体の向きを変えて背を向けると、ついてくるように回り込む。一進一退の攻防と共に、早苗は何故か嬉しそうに言った。
「私、忘れちゃってました。奇跡を起こすのは、何も神様としての力だけじゃないんです。それを今、狐さんが思い出させてくれました」
「それは何の話?」
ナンのではなく、何の?
訊ねつつ早苗の方を見やると、彼女は胸元で両の拳をぐっと握り、力説してくれた。
「誰にだって、奇跡を起こす力はあるんですよ。神様じゃなくったって、勿論巫女じゃなくったって、奇跡は起こせるんです。でもみんな、奇跡は簡単には起こらないもの、だなんて思い込んでしまっているから……だから起こらない」
「それは……諦めちゃうから駄目、みたいなことかしら」
まぁ考えるまでもなく、そりゃ諦めたら起こる奇跡も起こり得ない。奇跡なんてものが起こるとしたら――それは最後まで、本当に最後の最後まで頑張り抜いたときだけだろう。どれだけ陳腐で使い古されたフレーズだろうと、そう思う。
私の言葉に、早苗は大きく頷いた。
「はい、そうです。諦めたらそこで試合終了ですよ」
「別にあなたと試合をしていたつもりはないけど……。そういえばドラゴンボールだけじゃなく、その漫画も幻想入りしないから凄いって言ってたような気がするわ」
ただ、早苗はリアルタイム世代のようには思えないんだけど。
「楽しいですからねぇ、スラムダンク。ああ、こういう話をしてると久々に読みたくなってきちゃいますね」
「スラムダンクは紫様の書庫には無かった気がするから……読むとしたら、外の世界に行くしかないと思うけど」
「!! そっか、それですよ!」
そこでいきなり、早苗はそう叫んだ。そ、それって何?
「それです! その手がありました!」
「……その手って、どの?」
「ですから、他の選択肢ですよ!」
早苗は大はしゃぎしながら私の両手を握る。
そして、続けた。
「ここが駄目なら、外の世界に行きましょう」
朝。
幻想郷が丸ごと廃墟となり、人も妖怪も一人残らず消滅するという前代未聞の事件を経た後でも、睡眠というのはそれなりに取れるものらしかった。
私もそれだけ疲れてた、ということだと思う。実際、早苗を抱えて幻想郷中を飛び回ってたわけだし。
外の世界に行く、という漠然とした目標というか行動の指針を決定した後で、私達はそれぞれ眠りについた。
早苗も相当疲れていたのだろうか、布団を敷いたらすぐに寝息を立て始めたので、私も同じくしっかりと眠っておいた。
目が覚めて、覚醒した頭が最初に考えたのは、昨日の事件が全部夢だったら良かったのに、ということだった。
勿論夢オチなんていう使い古された――関係無いけど、じゃあ夢オチの全盛期っていつだったんだろうとは思う――展開があるはずもなく、そこにあったのは紫様も橙もいない八雲の屋敷。
ただ一人だけ遺ってしまった私と、この屋敷としてはかなり珍しい客人が一人。
普段誰も訪れないこの屋敷には客間なんてものは無いので、正確にはあるんだけど何の手入れもしていなかったので、早苗には居間に布団を敷いて休んで貰っていた。
悲しく辛い現実を、まだ少しだけ寝惚けた頭で受け入れて。
簡単な身支度を調えた私は、取り敢えず早苗が休んでいる居間に足を運んだ。
「起きてる?」
などと適当に声を掛けてふすまを開け――猛烈な勢いで意識が覚醒の方向へと走り出していくのを感じた。
「あら、狐さん、おはようございます」
「……何してるの?」
私自身が、少しばかりのんびり眠りすぎていたからだろうか。
早苗は既に起床し、そして何故か、八雲家の居間で下着姿になっていた。更に言えば、姿見の前で決めポーズらしきものを取っている最中である。
着物の下に下着を身に着けるかどうかは時としてかなり熱い議論を呼び、そして世の男性方は『本来の作法』という言葉を盾にして下着を穿かせないよう主張するという。
別にその討論会が何処で開かれどのような結末を迎えたとしても私としては全く以て構わないことだったし興味もなかったが、とりあえず早苗は巫女服の下にしっかりブラジャーとパンツを着ているらしかった。
上下で共通の意匠が施された、白い下着。やや複雑な刺繍は、一見して花柄なのかと思ったが、どうやら蛇と蛙を表しているらしい。大きすぎず小さすぎず、程良い大きさのバストを包むブラジャーの、左右にそれぞれ蛇と蛙。趣味が良いかどうかは置いておくとして、そのデザインはこの上なく彼女らしくて、似合っていると思う。
ぷっくりとしたお尻の方に見えるのは、五芒星なのだろうか。やはりそのような刺繍だが、こちらはひょっとすると本当に花柄なのかもしれない。どちらにしたところで、彼女はヒップのラインが綺麗なので、どんな模様も似合うことだろう。パンツの正面にちょこんと飾られている小さなリボンが、彼女の無垢さや微かな幼さを、上手く引き立てるように演出していて可愛らしい。
「って、どうして私がこんなに長々と下着の描写をしなくちゃいけないの!」
思わず自分に対してツッコミを入れていた。
「どうしたんですか、狐さん。起き抜けに私に質問をしてきて、そして答えを聞くより先にいきなり己ツッコミなんて」
「何なんだろう……。何故かこんなことになってしまったけど。ていうかあなた本当に、何をやっていたの」
改めて訊ねると早苗は、にへらと照れつつ頭を掻き、
「いやぁ、改めてみると私ってそれなりに可愛いんじゃねー、なんて思っちゃいまして。下着姿で色々ポーズを取ってみたりとかしてたんですけど」
「…………」
それを人様の家でやるというのが中々に凄い。
誰かこの子に、常識に囚われなければ何をしても良いというわけではないのだと教えてやってくれないだろうか。私はたぶん無理だ。
「……とりあえず食事にして、そうしたら出発するわよ。準備……なんてのは、まぁ必要ないでしょうけど」
気を取り直して、私はそう告げた。
そう、どうしたところで準備をすることなんて何も無い。
この幻想郷にはもう何も残っていないのだから。
食事を終えて、私達はすぐさま移動を始めることにした。幸いというか何というか、例えばわざわざ昨日いた森まで移動する必要も無く、外への扉ならこの屋敷内にもある。手間も掛からず簡単なので、外への移動にはその扉を使うことにした。
こちらに長居をしたところで、特に状況が好転するということも期待できそうにはない。
この事態を引き起こした犯人が説明台詞と共に私達の前に現れる、なんていう都合の良い展開も、恐らくは無いだろう。そもそも昨日一日幻想郷中を移動し尽くして、それで何とも遭遇しなかったのだから、原因の究明なんて期待できるはずがないのだ。
「まずは行動の拠点というか、何にしても今後のことを落ち着いて相談できるような場所を探さないと、ですね」
移動するにあたって、早苗はそう言った。私もそれには頷いて同意する。
「そうね。別に言い訳をするのではないけど、私は逃げるのでもなく去るのでもないわ。私は、必ずここへ戻ってくる」
戻ってこなくてはならないのだ。
たとえ紫様がいなくたって。
それでも今は、幻想郷こそが私の故郷なのである。
今回の件がただの自然現象の類ではなく、妖怪でも人間でも、とにかく人為的に引き起こされたことだというのであれば、私は犯人を許さないだろう。
紫様が、幻想郷に害成す者を決して許さず裁いてきたように。私だって、絶対に許さない。
ふと、早苗が言葉を挟んできた。
「狐さん、その台詞、ちょっと違いますね」
「? 台詞って、どのこと?」
許さない、じゃなくて、許さないよ、の方が良いだろうか。主に早苗的に。
どうでもいいことが頭に浮かぶが、早苗は全く違うことを言った。
「ここへ戻ってくるのは、狐さん一人じゃありません」
そして、彼女は私の手を握る。
早苗はこちらに向かって微笑んだ。
「だから今の台詞は『私』じゃなくて――『私達』、ですよ」
「……そうだね」
私はこのとき初めて、早苗がいてくれたことを心から嬉しく思ったのだった。
改めて、誓う。
私達は必ず、幻想郷へ還ってこよう。
そうして随分と短いスパンでまたしても外の世界へやって来て、私達はひとまず身を隠す場所を探すことにした。
早苗に話を聞くまでもなく、私達のこの服装がこちら側で目立つものだというのは分かり過ぎるぐらいに分かる。
紫様の屋敷から繋がっていた場所は、こないだの所からは随分と離れた地点のようだったけど、ひとまず人間では簡単に入り込めないような山や森などが手近にあったことは幸運だろう。
上空から降り立った場所は、早苗の話では『国有林の類だと思う』とのことだった。良くは分からないが、つまりはあんまり人が来ない場所ではあるものの、この国が管理している土地であるらしい。
「見つかったら、私達不法侵入者ってことになっちゃいますよ」
「それを言ったら私なんて、こちらの世界への不法侵入よ」
早苗の場合は帰国になるかもしれないけど。
何にせよ人工物が少ない森の中というのは、私にしてみれば落ち着く環境でもある。
一息ついて、私は早苗に訊いてみた。
「今私達がいるのが、この世界の何処ら辺なのか、分かる?」
「さっき空の上から、大きな神宮とか、赤福の看板とかが見えましたから……そうですね、おおよその地点は想像が付きます」
「ああ、そういえば神社っぽいものがあった気がする。あれはあなたや八坂神奈子の神社とは違うの?」
「はい、別ですね。勢力としても、あちらの方が大きいんじゃないかと」
そりゃまた凄い話だ。
……そういえば、早苗を初めとして守矢神社の神々は、神社や湖をそっくりそのまま幻想郷へ持ってくるというとんでもないスケールの引っ越しをやってのけたわけだけど、元々神社や湖があった場所というのは、どういう状況になっているのだろうか。その辺り、紫様は教えてくださらなかったし。
「思ったんだけど、あなたの故郷の方へ行ってみる? 八坂神奈子が神社や湖を移動させて、こっちの世界のその場所がどうなってるのかとかも知りたいし」
「……いいえ。それは、やめておきましょう」
あっさりと断られてしまった。
おかしいなぁ、早苗なら喜んで食いついてくる話だと思ったし、ちょっぴり、早苗の為も思って言ってみたことだったんだけど。
悲愴な面持ちで首を横へ振った早苗に、私は思わず訊ねていた。
「どうして、帰りたくないの?」
そこには、何か決意があるかのように見えた。
幻想郷へ行くからには、二度と故郷の土を踏まないとか、そういう誓いがあったのかもしれない。
だとしたら私が安々と口を挟めることではないのだろうけど……。
「故郷のこと、気にならないの?」
「気にはなりますけど……」
そう前置きして、早苗は言った。
「原作の一次設定と食い違うと困りますから」
メタ発言だった。
一つ喜ばしい事というか、ここへ来てようやくプラスなことが見つかった。
早苗の力が、僅かばかりだが回復するようになってきたのだ。
それは幻想郷にいた頃と比べれば微々たるペースではあったものの、消費した分の力が、徐々にだが回復してきているらしい。
「こちらの世界にもまだ僅かですが、私達の神社に信仰を寄せてくれている方がいるということですね」
二重の意味で喜ばしいことだと、早苗は言っている。分社が全国に散らばっているのが功を奏したようだ。
とにかくそのお陰で早苗の力は、時間さえおけば最大値まで戻るのだということが判明した。
閑話休題。
外の世界に来てまず私がクリアしなければならないことと言えば、それは先程も言ったように見た目のことだ。
何だか奇妙な会話のせいで話題がずれてしまったけど、結局の所何の問題も解決していないのである。
「狐さんの場合服装もそうですけど、その柔らかい尻尾がどうしても目立ってしまうんですよね……」
「やっぱり、そうよね……」
確かにこの九尾は私の自慢でもあるけど、こちらの世界では目立ってしまって仕方がない。
隠すしかないかなぁ。
まぁ、不可能ではないんだけどさ。むしろ何かに化けたり化かしたりっていうのは、狐の得意技だ。狸もやるけど。
「私の方は術で誤魔化せるとして、あなたの巫女服は目立たないの?」
「いえ、思いっきり浮きまくると思います」
「そんな力強く断言されても困るけど」
じゃあどうするのかと続けようとしたが、早苗が口を開く方が早かった。
「どちらにしても私達には、もう一つ逼迫した問題があることに、狐さんは気が付いてますか?」
「もう一つの問題? ……こちらの世界に来て、解決しなくちゃいけないこと?」
幻想郷の方で起きたあの異変に関するものでないとしたら……何だろうか。
首を捻っていると、早苗は自信たっぷりに胸を張り、
「金欠です」
情けないことを言い出した。
「あ、今馬鹿にしましたか? 大変なんですよ、お金が無いと。人間の社会はお金が無い者を迫害するシステムになっているんですから」
「まあそれは在りし日の博麗霊夢を見ていればなんとなく分かったけど」
ご飯のおかずが沢庵数切れだけという博麗神社の経済状況をスキマから盗み見た紫様が、流石に可哀相だからと差し入れに行ったこともあった。
貧乏ではやっていけない。
それが人間の社会であるということは、幻想郷も外の世界も同じであるらしい。
全く以て、罪深い生き物である。
「でもあなただって、こちらの通貨はもう持ち歩いてないでしょう?」
早苗の手荷物は、あの白い紙が付いたお祓い棒ぐらいのものである。
換金できそうな価値のあるものも見受けられないし……。
そんな早苗はちっちと舌を鳴らす。
「お金を稼ぐ方法はあるんですよ」
そう言われて、何となく連想できた言葉を私は口にしてみた。
「恐喝」
「犯罪は駄目です」
「強盗」
「暴力も駄目です」
「売春」
「えっちなのも駄目ですっ」
「じゃあ、アルバイトとか?」
「……普通順番的にはそれが最初に来るものだと思うんですけど」
何故か、常識というカテゴリで早苗に呆れられると非常に悔しい気がする。
ともあれ、早苗はそんなまともなアイデアですら否定してみせた。
「じゃあ、どうするっていうのよ」
訊ねると、彼女はふっふっふと笑いつつ腰元のお祓い棒を手に取った。
そしてそれを高く掲げ、
「こうするんですよ――奇跡を!」
ぴかっ。
一瞬だけ、その棒の先端が光を発した。
そして早苗はいそいそとお祓い棒をしまうと、すぐに足元の地面を漁りだした。かなり浅い段階で、土に埋もれた何かが出てくる。
早苗は今度はそれを掲げた。そして、わざとらしく叫ぶ。
「おおっとぉ! 奇跡的な幸運で、落ちてたお財布を拾いましたよ!」
……ええ~~っ。
いいのぉ、それぇ?
力の回復が見込めるって分かった途端、そんな使い方していいの?
あなたの能力ってそういう感じのものだったっけ? そういうのってどちらかと言えばレミリア・スカーレットの能力なんじゃないの?
そして中身を確認して、あっさり着服しようとしてるけど、それは犯罪にならないの?
まぁ、色々と言いたいことはあったのだけど、最終的には私も気にしないことにした。
だってほら。私、妖怪だし。
人間のルールとか、関係無いし? みたいな。
「というわけで、ようやく本格的にこちらで行動ができる、というわけですが」
早苗が奇跡を起こして拾った財布の中には、この国の最高額紙幣が相当な量収められていたらしく、彼女は早速、近くの街でそれを使ってこちらの世界の服を見繕った。
丈の長いふわふわしたスカートに、淡い櫻色をした薄手の長袖。蛙の髪飾りはそのままに、髪型をポニーテイルに変えて蛇の飾りで結っている。そして肩には手荷物などを入れる為の、小さめの鞄を提げていた。
早苗に言わせればそれは「カジュアルなファッション」というものらしく、正直私には基準がよく分からないので何とも言えないが、とにかくこちらの世界では割と普通な格好らしい。まぁ確かに、人の中に溶け込めるだろうとは思う。
実際今現在は人間達の行き交う街中を歩いているのだけど、誰も彼も似たような格好に見えるし。
「ごめん早苗、もうちょっと大きな声で喋って貰わないと、ここまで声が届かない」
「いやでもそんな大声で話し掛けてたら、私怪しい人みたいじゃないですか」
そうは言われても、会話ができなくては仕方がないのだけど。
何でこんな苦労をしているのかと言えば、現在の私は、仔猫や子犬より小さな子狐のサイズになって、早苗が肩から提げる鞄の中に収まっているからだ。
体長四十センチ前後の子狐サイズに変化して、尻尾を消して。最初は肩にでも乗ってようかと思ったのだけど、それはそれで目立つのでこうして鞄の中に隠れているのである。
当初は私も普通の人間の姿に化けて一緒に行動するというアイデアだったけど、外の世界の常識があまり身に付いていない私では、結果的に目立つ行動を取ってしまって不便になりそうだったので、暫くの間はこうして早苗に運んで貰うことにした。楽ちんだし。
「私、独り言がすっごい激しい子みたいになっちゃうじゃないですか」
「良いじゃないちょっとぐらい」
「嫌ですよそんな恥ずかしい」
……ここへ来て、早苗の中で封印されてきた「常識」というものが少しずつ甦りつつあるような気がする。
外の世界、なかなか凄いところだ。
「それで、この後はどうしますか?」
「そのことなんだけど、一箇所、行ってみたいところがあって」
「はい、それじゃランドとシーどっちにしましょうか」
「そこに興味は無いから!」
私とあなたがそこでデートしている様子にニーズなんて無いから!
あと仮に私とあなたでそこへ遊びに行ったとしても、諸々の事情で描写できそうにないから! 私達の方の事情とかでなく! もっと別の理由で描写不可能!
「違うんですか?」
「違うわよ。そうじゃなくって――実はあなたが買い物に行っている間に、結界に似た気配を探知したの」
「結界って言うと……幻想郷と外を隔てていたっていう、あの結界ですか?」
早苗の言葉に、私は頷いた。鞄の中の子狐姿で首肯しても、よくよく考えてみれば早苗には見えてなかっただろうけど、どうやら察してくれたらしい。
幻想郷を取り囲んでいた、博麗大結界。
要は私達だって、それを越えてこちらの世界にやって来たわけだけど。
「狐さんの言う、その結界の気配というのが錯覚でなかったとして――それは、どういうことになるんでしょうか?」
結界に関しては完全に素人である早苗が質問してくる。かく言う私だって単なる管理者代行であり、そう大した知識があるわけでは無い。多分に推測が混じることにはなる。
それでも一応、私は考えを述べてみた。
「こちらの世界では、神や妖怪といった存在が、既に失われつつある……っていうのは、あなたならよく分かるわよね?」
「ええ、そりゃ勿論」
だからこそ、守矢神社は幻想郷にやって来たわけだしね。
「それを踏まえて考えると、こちらの世界に、博麗大結界と同じ規模・密度の結界が存在するとは、どうも考えにくいのよね」
ここから割と近くにあるというその神宮や、その他各要所に設けられた大規模な神社仏閣といった聖域であれば、現代でもそれなりの結界を有している所はあるだろけど。
それにしたって、随分昔に初代博麗の巫女と龍神、そして紫様達が力を合わせて作った結界と同等のものが現存しているとは、少々考えにくい。
「じゃあ狐さんが感知したその結界は何なんでしょう」
「考えたんだけど……博麗大結界そのものじゃないかと思って」
「? どういうことですか?」
人差し指を口元に当てて、首を捻る早苗。
こういう仕草を見ていると、本当に単なる年頃の女の子にしか見えない。
それはともかく、私は説明した。
「……当たり前だけど、結界はこちらの世界と、幻想郷を隔てている。だから普通であればその存在は分からないものなの」
結界には、遮断や隠蔽の能力があるのである。
「それがこちらから認知できたということは――」
「誰かが結界を開いた、ってことですか?」
私の言葉を、早苗はすんなりと引き継いでくれた。物わかりが良くて助かることである。
私は頷き、
「こちらの世界の人間にはまず不可能でしょうし……一番有り得そうなのは、犯人なんじゃないかと、私は思う」
「犯人って……まさか、」
「私達の幻想郷をあんな滅茶苦茶にした犯人、よ」
まだ方法も定かではないけど、とにかく幻想郷を無人の廃墟に至らしめた者。
それだけの力があれば、方法さえ分かっていれば結界を開いてこちらへ来ることは可能かもしれない。
全て推測に過ぎず、八坂神奈子のように強い力を持った神様が向こうへの扉を開いただけ、という可能性も無くはないのだけど。
「でも狐さん、もしそうだとしたらこれって凄く大変じゃないですか」
「ええ、そうね。もし幻想郷の事件の犯人がこちらの世界に来たのだとしたら……こちらの世界でも、同じ事が起こる可能性がある」
「た、大変ですっ」
無残な廃墟と化した人間の里を思い出したのだろう。
早苗が緊張するのが、こちらまで伝わってきた。
「場所は分かりますか?」
「地名とかそういうのは私には分からないけど、大まかな方角とか距離なら、何となく分かるわ」
今はもう結界の気配も消えてしまっているけど、一度記憶したからには忘れない。
私は鞄から身を乗り出して、その方角を指差した。
指って言うか、正確には前足で。
「あっちの方だね」
早苗が息を呑んだ。そして、私の収納されてる鞄から本を一冊取り出す。
「狐さんにこっちの世界を案内しようと思って取り敢えず地図も一緒に買ってきていたんですけど」
パラパラとページをめくって、早苗は私にそれを見せてきた。一箇所を指差し、
「今が、この辺です。……結界の気配があったのってどの辺りか、それで行くと分かりますか?」
やっぱり幻想郷に比べて外の世界っていうのは広いんだなぁ、なんてことを、地図の縮尺を見て考えていたけど、とにかく私は距離や方角などを計算してから前足を伸ばした。
「たぶん、この辺りだと思う」
地図の一箇所を示す。
「……京都」
早苗が短く、そう呟いた。
空を飛んだりしていく余力は無い為、結局私達はこちらの世界の交通機関を利用することになった。
『バス』や『電車』といった乗り物を駆使して、結界の気配があった街、京都へと向かう。
途中途中、鞄から顔を出そうとすると早苗が
「中でじっとしていて下さい、狐さん。ペットの持ち込みは怒られちゃうんです」
なんて言ってきて、すっかりペット扱いであることに若干悲しくなったりした私である。
街に入ったのはもうすっかり日も暮れたような時間であった為、ひとまずその日の宿を取った。勿論そこでも、鞄の中に隠れて持ち込みペット扱い。
食事やお風呂などの休憩をその宿で取り、実際の行動は翌朝からということになった。
朝方。
宿を出て京都の街を散策しつつ、私は私を運んでくれている早苗に声を掛ける。
「結界の気配、あれからまたあったのよ」
「またですか?」
「ええ。それも、最初に私が感知してから、きっかり六時間おきに一度ずつ、何者かが結界に干渉しているような気配がある」
それにどんな意味があるのかまでは、私には分からない。
それでも、何の理由もない自然的な現象でないことだけは、これで確信が持てた。
この街まで来たことは無駄にならなさそうではある。
「狐さんの計算でいくと、次に犯人が結界に干渉するのは何時間後なんでしょう」
「あと二時間と十一分、といったところかしら。……まあ、犯人と決まったわけじゃないんだけどね」
但し、限りなく怪しい。
そしてどちらにしたところで、次の時間を待つ必要もそれ程無いように思えていた。
こちらの世界に来てから何度も同じ気配を感じているだけに、場所はかなり特定されてきている。
時間によって微妙に場所は動いているようだが、ここまで接近すればもう微々たる誤差でしかない。
「……ひょっとしてですけど、その容疑者の居場所って、近かったりします?」
「今現在、かなり近いと思うわ」
「もしかするとですけど、遭遇したら戦闘になったりするでしょうか」
「有り得ない話じゃないわね」
そこにいるのが幻想郷壊滅の異変を引き起こした犯人だとして、私達の力でどこまで対抗できるのか、それは疑問だけど。
「早苗は、何か不安なことでも? まだ力が回復しきっていないとか?」
いや、それは無いか。確か昨日の夜、全快まで回復したと本人から聞いたし。
早苗は溜め息と共に首を横へ振り、
「実は今朝、小さい奇跡を幾つか起こしてしまいまして……またちょっぴり、消耗している状態なんです」
「小さい奇跡って、何か起きてたっけ?」
「はい、朝食の生卵の中に黄身が二個入っていたり、朝風呂で一番風呂をゲットしたり、歩いててもなるべくイケメンとすれ違うようにしたり」
「力の無駄遣いをしないでよ!」
思わず叫んでツッコミを入れてしまった。
子狐の姿のままで、大声で。
……まぁでも、結構朝も早い時間帯だし、他に歩いている人なんていないから――
「ねぇ今、あの狐喋らなかった?」
「…………」
聞かれていた。
見られていた。
完全にバレバレで目立ちまくっていた。
幻想郷の中でだって、流石に見た目なんの変哲もない狐がいきなり喋り出したら驚かれるだろうに、そういった不可思議と無縁なこの外の世界で狐が絶叫を上げてツッコミ入れてるシーンなんて、もう目立つどころの話ではないだろう。
嫌だなぁ、変に人目に付くようなことは避けたかったんだけど。
早苗に頼んで、プロフィールを腹話術師ってことにしてもらおうかしら。
狐が叫んだように見えただけ、みたいな。
「喋ったっていうか、大声でツッコミ入れてるみたいだったよね」
目撃者が近付いてくる。
素速く周囲を見渡すが、他に通行人はいないようだった。
ということは、見られたのは今のこの人間だけということか。
私はそちらへ視線を移す。
そこにいたのは二人の人間だった。
黒い髪に、縁の広い黒帽子。白いブラウスと黒いスカートという、胸元の紅いネクタイを除けば殆ど二色だけで構成された少女と。
そして。
「…………」
金髪で白い帽子を被った、紫色のワンピースを着た少女。
「ねぇメリー、あなたも見たし聞いてたわよね? この狐が今、喋ってたの」
黒髪の少女が、金髪の少女にそう話し掛ける。
メリー。
それが『この方』の名前だということだろうか。
私は鞄の縁から力尽くでよじ登り、外へ出た。
「あ、き、狐さんっ」
早苗が止めようとしてくるが、そんなものには構わず、私はその方――メリーと呼ばれたその方の元へと近付いていく。
子狐のサイズでは、彼女は遙か高い位置にいるように感じてしまうけど。
彼女はその場で屈み込んで、こちらへ近付いてきてくれた。
「ちょっとメリー、聞いてる? どうしたの?」
黒髪の少女が、不思議そうに話し掛けているが。
金髪の少女は、その言葉が聞こえないように沈黙したままだ。
「狐さん、どうしちゃったんですか?」
私の背後では早苗が、黒髪の少女と同じように不思議そうな声を出している。
私は勿論その声を聞いていたけど、敢えてそれには答えなかった。
「…………」
「…………」
私と、その金髪の少女は暫く無言で見つめ合い。
そして、ほのかに桜色をした彼女の唇が、ようやく動いた。
「はじめまして。お名前は?」
そう言って、両手をこちらへ伸ばしてくる。
私は――何故だろう、涙が出そうになっていた。
どうしてだろう。
初めて出会ったこの少女に、何故だか今はもういないあの方に似た、そんな何かを感じ取ってしまって。
変な期待や勝手な希望を抱いて……そして彼女の発した当たり前な一言に、私は泣きそうになるぐらいの悲しみを覚えている。
金髪の少女の言葉は続く。
「私はマエリベリーよ。マエリベリー・ハーン」
そう、あの方はもういないのだ。
だから、たまたまあの方に似た気配を持っているというだけのただの人間に、いちいち感情を流されていてはきりがない。
これはおそらく、私の弱さだろう。
未だあの方に依存してしまっている、私の弱さ。
八坂神奈子や洩矢諏訪子に依存してしまっている早苗のことを、弱いと馬鹿にすることもできない。
私の心だって、同じぐらい弱い。
「マエリベリーが呼びにくいなら、メリーと呼んでくれて構わないわ」
私は本当に弱くて、そして弱っていたのだろう。
幻想郷が滅んで、橙もあの方もいなくなってしまったこの状況で。
似ているだけの単なる人間に心を流されてしまうぐらい、弱っていたのだ。
心の脆弱さを嘆き、私は涙を堪えた。
これから先、私は早苗とこちらの世界で生きていかなければいけないのだから、いつまでもあの方に固執しているわけにはいかない。
そして。
金髪の少女は言った。
「それか……今まで通りに呼んでくれても構わないのだけどね――藍」
「っ!」
私は顔を上げた。
微笑みを向けてくる、見知らぬ少女。
何故かその笑みが、私の知っているあの方とダブって見えた。
「……ゆかりさま?」
ゆかりさま。ゆかりさま。
「よくここまで来てくれたわね、藍。私は待っていたわよ」
紫様。紫様。
少女の背後に、私が見慣れた紫様の姿がうっすら浮かび上がる。
私は一瞬で子狐から元の姿へと戻り、そして彼女に思いっきり抱きついた。
「紫様、紫様、紫様紫様……ゆかりさまぁっ!」
「信じて待っていて良かったわ。やっぱり貴女は、私自慢の式神ね」
そういって抱きしめて貰えることが嬉しくて。
私は声を上げて泣いた。
とりあえずその場で最も驚いていたのは、紫様と一緒にいた、黒髪の少女であっただろうと思う。
宇佐見蓮子、という名前らしいその少女が、喋る狐を見掛け、その狐が姿を変えて自分の友人に泣きながら抱きついている様子をどう見ていたのだろうかということは非常に気になったが、客観的に見ると私の姿だどうにも情けなく映りそうだったので敢えて何も聞かないでおいた。
「……不思議なこともあるものね」
という一言で済ませてくれる辺り、外の世界の人間にしては随分と浮世離れしているのかもしれない。
私が変化の術を解いてしまったということもあり、私達は場所を移して話をすることにした。
近くにあった広めの公園に行き、人が寄りつかなさそうな奥まった場所へ。
全員が椅子に座るのを待ってから、宇佐見蓮子は紫様へと声を掛けた。
「あなたは……メリー、なのよね?」
その言葉に、早苗が片手を挙げて同意する。
「私もそれが聞きたいですっ」
それについては、私も知りたいところではある。
三者から六つの目で見られつつ、紫様は落ち着いた吐息を漏らす。
「私とこの子。八雲紫とマエリベリー・ハーンの関係については……そうね、少しばかり、説明が難しいところかしら」
見ず知らずの少女の口から、全く違う声で、それでも口調だけは紫様のそれであるというこの状況は、正直少しばかり戸惑ってしまう。
でも、それでもやはり、この少女は紫様なのだ。理屈でなく、そう感じる。
「ひとまず今の私に言えて、そして理解して貰えることがあるとすれば、今の私の状態は、マエリベリー・ハーンの体を八雲紫が間借りしている、というところかしら」
「……やっぱりちょっと理解ができないんですが、紫さんってそんな能力無いですよね?」
と、早苗。
紫様――メリー? いやもうよく分からないからこの際やっぱり紫様と呼んでしまおう――はあっさりと頷き、
「今のこの状態は、私固有の能力によるものではないわ。勿論、全くの無関係ということもないけれど」
「それだけ分かってて、でもやっぱり私達には教えて貰えない、ってことですか?」
「ええ。だって――」
「だって?」
「一次設定と食い違うと厄介でしょう?」
紫様までメタ発言をしていた。
紫様は扇子代わりに自分の手を口元に添えて、上品に笑う。
「もっとも、メタ発言なんて誰よりも私に似合いそうなことかもしれないけどね」
そこについては否定しようがないなぁ。
博麗霊夢か紫様か、あと強いて似合いそうというならあの天狗の新聞記者とかだろうか。
ともあれ、と。
紫様は一度話を区切り、そして私と早苗を見た。
「まずは貴女達がここまで辿り着いたことに関して、素直に褒めさせて貰うわ。そして、お礼も言わせて貰う。ありがとう」
紫様にそんな率直に褒められると、照れてしまう。
「貴女達が悪戯に結界を越えたことは本来お仕置きを受けるべきことではあったのだけど、今回は結果的にそれが良い方向へ働いたというところかしらね」
「紫様気付いてらしたんですか!?」
私と早苗が、無断で結界を越えて外へ出たこと。
それがバレていたのだとすると……やばい! 怒られる!
反射的に体ごと尻尾を丸めてしまいそうになったけど、紫様は小さく苦笑しただけだった。
「私の作った結界なのだから、それぐらいはすぐに分かるわよ。でも、今回は許してあげるわ。貴女達の些細な悪戯心が、もしかしたら幻想郷を救ってくれることになるかもしれないのだからね」
「幻想郷を……」
「救う?」
私と早苗の言葉が繋がった。
紫様は頷き、
「こちら側へ再び渡ってきたということは、貴女達もあの惨状は実際に見てきたのでしょう?」
惨状。
あれはそんな、生易しい言葉で表現しきれるものではなかったとすら思う。
私の知る幻想郷は。
紫様の愛した幻想郷は。
生命の残らない、死の世界へと変貌していた。
いや、死を司る死神や亡霊すらいなかったのだから、無の世界、と言うべきか。
「……やはり、見てきたのよね」
私や早苗の沈痛な面持ちを見て、紫様は察してくれたようだった。
「結論から言えば、幻想郷は元に戻る可能性がある」
「本当ですか!?」
「ええ。但しそれには……ほんの少しの危険が伴うことになるわ」
身を乗り出して聞いた私に、紫様は静かに言う。
そんな私の隣で、早苗が呟いた。
「そうですよね。簡単な話だったら、紫さんが既になんとかしている……そういうことですよね」
「察しが良いわね、東風谷早苗。ついこの間までとは別人みたいだわ」
そうして全てを見透かしたように、薄く笑う。
顔も形も声も年齢も、何もかも違うというのに、こういう仕草を見るとやはり紫様なのだなと安心してしまう私だ。
「まずは……そう、幻想郷に何が起こったのか、というところから話しましょうか」
「お願いします」
「とは言っても、実のところ事態は割と単純なことなのよ。貴女達がふとした拍子に外の世界へ渡った時、幻想郷では既に事件は起きていた」
「あの時点で、ですか?」
「ええ。でもその時はまだ、取るに足らない小さな現象でしかなかった。博麗霊夢も感知しきれないぐらいに小さな。だからこれは、私の油断が招いた結果と言うこともできるわね。私がもっと早く事態に気付いていれば、ここまで大変なことにはならなかったかもしれない」
そこまで喋ってから、紫様は一度、短く息をついた。そして。
「あの時、幻想郷の片隅で、一つの力が生まれようとしていた」
「力……ですか?」
「ええ。存在としては、妖精に近いもの、と言えるかもしれないわね」
いまいち具体性に欠ける話に、私は思わず口を挟んで訊ねた。
「よく分からないのですが……それは一体何なんでしょう」
「その時点では、それはまだ何でもなかったのよ。何にでもなれるし、何にもなれない、何てことのない力の塊。エネルギーの集合体、みたいなイメージかしらね」
「その力が、幻想郷を滅ぼしてしまったと?」
「厳密に言えば、幻想郷は滅んだわけではないのよ。今現在滅んではいるけど、滅びきったわけではない。大丈夫よ、藍。分からないって顔をしているけど、すぐに説明するから。……貴女達が外の世界へ渡った直後、その存在に異常が起こったのよ。それまでは単なる力の塊に過ぎなかった、言うなれば無垢だったそのエネルギーに、悪意が紛れ込んでしまった」
「悪意……」
もしそうなのだとすれば、やはりあの事件は天災などではなく、人災だったということだろうか。
「活動を開始してからは早かったわね。一瞬で幻想郷を覆い包もうとするその力に対して、私はひとまず逃げるしかなかった」
「紫様が、ですか?」
「誰だって、よ。鬼も神も閻魔も天人も、誰もいなくなっていたでしょう? 要はアレは、どんな存在だろうと問答無用で消滅させてしまう力を持っていた、ということなのよ」
紫様は手荷物の中から、紙とペンを取り出した。そこに何かを記しつつ、続ける。
「今回起きた異変は、滅亡という異変。滅亡という現象そのものが異変なの。何かしらの経過があって結果が滅亡となるわけではない。滅亡という経過があって滅亡という結果が残った。だから誰にも防げない」
そこで一度言葉を区切って、紫様は紙に書いていた内容を見せてくれる。
全く意味のない言葉が、紙いっぱいに適当に並べられているだけだった。
「こうして紙に書かれた内容を一度全て消しゴムで消して、そして全く別の言葉を上書きした状態。それが今の幻想郷なのよ」
「……幻想郷という存在が、根底から書き換えられてしまったと、そういうことですか?」
だからこそ、強力な力を持つ妖怪達も対抗する手段が無く、存在そのものが『滅んだこと』になってしまったと。
紫様は頷く。
「イメージとしては、里にいたワーハクタクの能力が近いかもしれないわ。もっとも、事実どころか現実をねじ曲げてしまうなんて、途方もない力なのだけどね。でも、異変は起こってしまった。放っておけば、別に強大なだけの無害なエネルギーだったでしょうに」
「誰かがその力を悪用して、幻想郷が滅ぶようにしたということですかね?」
これは早苗からの質問だったが、紫様は首を振って否定した。
「おそらくは違うわ。ただ、人間や妖怪、幻想郷で暮らす全ての者の、マイナスな感情といったものがそこに流れ込んでしまった。水が上流から下流に流れるみたいに、行き場のない水が淀むみたいに、集まったどす黒いものがその力を染めてしまったのね。そして結果として、発動した力は壊滅という異変を幻想郷に引き起こした」
「紫さんのその話を聞いてると、なんだか今回の事件に犯人なんていないんじゃないかって思えてきちゃいますけど」
「いないわよ」
あっさりと、そう言ってのけた。
早苗が狼狽しつつ、紫様に言う。
「そんなぁっ! 紫さんなら何とかしてくれるって思ってたのに! 無敵の『境界を操る程度の能力』で何とかしてくださいよーーっ!!!」
「落ち着いてよ、早苗」
あなたが週刊少年ジャンプ好きなのはよく分かったから。
だから落ち着いて。
成長したと思わせたり取り乱したり、何であなたはそんなにブレが激しいのかしら?
「犯人はいないですけど……元凶はそのまま残っている、ってことですよね? 紫様」
私の質問に、紫様は静かな笑みを浮かべ答えてくれる。
「私の予想では貴女達は、犯人かもしくは生き残りがいるのではないかと幻想郷中を飛び回ったと思うけど」
「はい。あちこちを調べましたけど……」
私達の調査が甘かったということか。
紫様の話を総合すれば、元凶となったその存在はまだ幻想郷にいることになる。
「貴女達が探していない場所がまだ残っているということよ」
「……一応だいたいの場所は廻ったように思うんですが」
「未熟ねぇ、藍。一箇所、貴女が絶対に見落としている場所があるでしょう」
何処だろうか。神社も山も里も、その他本当に色々な場所を早苗と二人で見て回ったのだ。
仮に見落としているにしても、それだけ莫大なエネルギーならば、近付いただけでも私と早苗に察知できないはずがないのだけど。
「探知することは難しかったでしょうね。けど、推理することができれば、貴女には解答には辿り着けたはずよ」
探知できない。推理……。
「あ!」
「分かった?」
「境界の中、ですか!?」
「正解」
幻想郷と外の世界を隔てる博麗大結界。
その境界を越えて渡る為の、空間。
紫様が『スキマ妖怪』なんて呼ばれる所以にもなった、あの空間の中にあるのだとしたら。
普段幻想郷や外の世界にいるだけでは絶対に感知することはできないし、私達が世界を渡ってくる際にも、結界という大きな力がヴェールの役割を果たしてしまうことになる。
「便宜上、その力の塊のことを『核心』と呼ばせて貰うけど……核心は今現在、境界の狭間にいるわ。逃走しながら、私はあれをあの場所へと閉じ込めた。あそこは生物も意志も、何も無い。これ以上の被害を及ぼすようなことは無いでしょう」
「今の紫様に解決できない理由は、その少女の体のことですね?」
「ええ。マエリベリー・ハーンの肉体はごく普通の人間なのよ。隙間へ行ってしまえば、確実に壊れてしまう」
理由までは分からないし私も聞くつもりはないが、紫様としてはその人間の少女に危害を加えたくないのだろう。
だから、偶然外の世界へ抜け出していた私達が幻想郷へ戻ってきて、異変を目の当たりにし、解決の為に捜査へ赴いて、そして何も手掛かりがないからと一度外の世界へ抜け出してくることを予測し、紫様は待っていたのだ。
境界の中に入っても平気な妖怪でしか、この件は解決できないから。
実際に結界が開いて、私達がこちらの世界へ渡ってきたことを察知した紫様は、今度は定期的に結界の気配を出して私が気付くのを待った。おおよその場所を特定して私達がここまでやって来て――
「紫様……あなたは何処までを見据えてらっしゃるんですか」
見据えて、見透かして。
伊達に妖怪の賢者などと呼ばれていない。
流石は私の御主人様だ。
「私は信頼しただけよ、藍。私だって軽い気持ちで、貴女に私の名前を分け与えたわけじゃない。貴女なら幻想郷の為に必ずこちらの世界にやって来ると、私はそう信じた」
「正直に言えば、こちらへ来たのは私だけの意志や判断ではありません……」
そう言って、私は隣に座る早苗のことを見やった。
紫様も橙も幻想郷も、何もかもを失って絶望に打ち拉がれていた私に、外の世界へ行こうと声を掛けてくれたのは早苗なのだ。
私一人の功績なんかじゃない。
私はやっぱり、まだまだ未熟で弱いままだ。
「そう、早苗が促してくれたのね……」
言葉と共に早苗の方へ視線を移した紫様は、大きく頭を下げた。
「結界の管理者として、そして藍の主として、改めてお礼を言わせて頂きますわ。守矢の巫女、東風谷早苗。……どうもありがとう」
「いえ、私はそんな……」
両手をぱたぱたと振って早苗が照れる。
「でも、紫様」
礼を終えた紫様に、私は尋ねた。
「私達が境界の狭間へ赴いて――どうすれば幻想郷を救うことができるんでしょう」
その質問に、紫様はいつも通りに知的な笑みを浮かべ、答えてくれた。
「そうね。あなたにそれを教えなくてはいけないわね」
紫様はその場で立ち上がる。凛とした笑顔で、紫様は続けた。
「そうして、最後にはハッピーエンドを迎えましょう」
数時間後。
お昼と呼ぶには遅く、夕方と呼ぶには早い、そんな中途半端な隙間の時間。
私と、再び巫女服へと着替えた早苗は並び立って、マエリベリー・ハーンと――否、紫様と向き合っていた。
椅子に腰掛けた状態だと分かりづらかったが、こうして向かい合って立つと、マエリベリー・ハーンの身長は紫様と比べて随分低いのだと分かる。
一応こんな状況こんな姿であっても主の筈の紫様を、頭一つ分以上も高い位置から見下ろしてしまうのは何だかちょっぴり気が引けてしまうけど……。
紫様は背伸びをして、私の髪の毛に触れた。
「次に貴女と会うときは……もう少し、触りやすい高さになっていたいものだわ」
「会えるでしょうか……私達は、もう一度」
「会えるわよ。マエリベリー・ハーンとはもう会えなくても、八雲紫とならきっと再会できるわ」
紫様の手が、私の頬をくすぐる。
たまにしてくれるこんな優しいふれあいも、何だか随分久し振りなことのように思えてしまいますね……。別にそんなに長い間、離れていたわけでもないというのに。
「式神を付けてあげられないのは申し訳ないけど……でも、大丈夫よ。貴女と早苗ならそれ程大変なことにはならないでしょうし――それに」
言葉と共に。
紫様の細い腕が、私の首に巻き付いていく。
するりと、しなやかに。
背伸びをしたままの紫様が、優しく抱きしめてくれて。
耳元で、囁くように言ってくれる。
「それに貴女は、私がいなくたって最強の妖獣だものね。だから、大丈夫よ」
聞こえてくる声は、聞き慣れた紫様のそれとは異なるものだというのに。
何故か私は、涙が滲んでしまうぐらいに嬉しくて。
紫様はそのまま、私から離れた。
はにかみながら笑い、
「本当はほっぺにキスぐらいしてあげたいところなんだけど……この身体はメリーのものだし、蓮子に申し訳ないから我慢しておくわ」
「それなら私は、元の紫様からそれを頂けることを励みに、頑張ろうと思います」
「そんな頑張り方はしなくていいわよ」
紫様は苦笑し、そして。
紫様が片手を挙げると、そこに見慣れた、境界への隙間が出現する。
「本来マエリベリー・ハーンの力だけではここまで開くことはできないんだけど……今は私がいるから特別ね」
「その隙間に入れば、『核心』がある場所へ行けるんですか?」
これは早苗の質問だ。
紫様は頷いて、肯定した。
「一回限りしか使えない直通ルートよ。迷子にならないように、しっかりと気を持ってね」
空間に開いた亀裂のようなそこを見やると、中には渦巻いた黒い何かが見えた。
いつも、それが何であるのか、大して気にしたことはなかったけど……。
今日に限って、やけにそれが不気味なもののように思えてならない。
私はその場で大きく深呼吸して、そして、告げた。
「では、行って参ります」
「ええ。いってらっしゃい」
紫様の――マエリベリー・ハーンの声に見送られて、私と早苗は、境界の隙間へと飛び込んでいった。
「うへぇ、何だかぐるんぐるんのゆわんゆわんですけどぉ」
入って速効で、早苗が音を上げそうになっていた。
「……確かに、人間にはちょっとつらいわよね、これは」
かく言う私も、ここの感触というか印象は、いまだに好きになれそうにはない。
紫様に連れられて何度か通ったことがあるののだけど、前後左右上下、どんな感覚も麻痺する極めて気持ちの悪い空間なのだ。
今、自分が何処を向いているのかどうかもよく分からない。それまで前だと思っていたのが、実は上だった、なんていうわけの分からないことが平気で起こる空間なのだ。
紫様が、ここに核心があると分かっていても手を出せなかった理由も、マエリベリー・ハーンという単なる人間の肉体や精神を気遣ってのことだろう。
紫様とあの少女とがどういった関係にあるのか、それは私にもよく分からないけど、紫様にとって重要な人間であることは間違い無いし、そして今の紫様はあの少女の中から出てくることができない。せいぜいが、私に一瞬だけ姿を見せてくれたときのように、少女の傍でぼんやりとした姿を浮かび上がらせるだけだ。
「スタンドみたいでしたよねぇ、あの時の紫さん」
ふわふわと空間を漂いながら、早苗が言う。
「取り敢えず早苗は自己の意識をはっきりと保たないと、この空間からでる前に廃人になっちゃうわよ」
「そ、それは嫌な話ですねっ。……でも、具体的にはどうしたらこのむにょもみょ空間に打ち勝てますか私は」
「むにょもみょ?」
「言葉は気にしないで下さい」
ともあれ、私は早苗の方へと向き直り――気が付いたら背後に移動していた――、助言する。
「何よりも意識をはっきりと持つことが大事なのよ。ここがここである、自分が自分である、それをまず自覚すること。そうしていけば、まやかしの感覚に惑わされることはなくなるわ」
これは本来、通常の人間の精神ではとてもではないが実践できるレベルの話ではないらしい。
だが、巫女として、風祝として、そして現人神として修行を積んできた早苗であれば、肉体が人間であってもどうにかできるはずだ。
「……一応質問なんですが、ここらへんで私が待ってる間に、狐さんだけさっさか核心の所へ行って異変を解決してきて貰うっていうのは駄目なんですか?」
「情けないこと言わないでよ。それに紫様の説明はあなたも聞いていたでしょう? 私一人では、むしろ完全には成功しきらないかもしれないのよ」
そう。そうなのだ。
紫様が授けてくれた、今回の異変の解決法。
それは私一人でも、決して無理ではなかったかもしれないけど――早苗がいてくれたお陰で、その成功率はより高くなっているのである。
一見すると何も考えて無さそうなお馬鹿な子だけど、そんな早苗がいてくれて良かったと、私は心からそう思った。
「私達二人で、幻想郷を救うのよ。そうでなかったら……」
「そうでなかったら?」
オウム返しに訊ねてきた早苗に、私は笑顔を作った。私の最愛の御主人様がよく見せる、ちょっぴりとだけ意地悪な笑顔を作れるように努力して。
「そうでなかったら、私一人で幻想郷に帰ってしまうんだから」
平衡感覚も時間感覚も自己意識も、およそ感覚という感覚の全てを狂わせる空間の中を暫く進み。
そして、実に唐突に、私達は紫様の話に登場した『核心』とやらに出会うことができた。
出会うというのか、出遭うというのか、どちらが正しいのか少々判断しかねるけど。
この場合は、簡単に遭遇できて都合が良かったと考えるべきだろう。
「……その子が、核心、ですか」
「たぶん、ね」
背後から聞いてきた早苗の言葉に、私は振り向かないままで答えた。
核心。
幻想郷を無人の廃墟に至らしめた、壊滅異変の犯人とでも言うべき存在。
それは、何のことはない、直径十五センチ程度の、光の球だった。
出立前、紫様の説明にあった姿に合致する。だから間違い無いだろう。
正義でも悪でもない、ただ純粋に強大な力の塊。それがこの球状の光だという。
「こんなものが……私達の、紫様の愛した幻想郷を滅ぼしたというの」
そう考えると、私の心の中に、沸々と怒りがわき上がってきた。
無人の廃墟となった幻想郷。
乾いた風が吹き抜けるだけになってしまった死の里。否、無の里。
それを……こんなちっぽけな球が?
「狐さん危ないっ!」
!!
我に返った瞬間、目の前に何かが迫っていた。反射的に顔を反らして、私の頭部目掛けて伸びてきたものを回避する。ほんの一瞬、凄まじい勢いで私の顔のすぐ横を突き抜けていったのは……光の球から撃ち出された巨大な光針のようだった。
「今のは……私を攻撃したの?」
回避が間に合わなければ頭部が吹き飛んでいてもおかしくないような威力だった。早苗の言葉がなければ、間違い無く避けきれなかっただろう――
「駄目ですよ、狐さんっ」
後ろから、早苗が私の袖を強く掴んだ。彼女は私を制止するように、説得してくる。
「敵意を持って接したら駄目なんですっ。この子は何にも染まらない無垢な存在ですから、こちらが攻撃の意志を見せれば、それに影響されて攻撃態勢になってしまうんですよ!」
「……そうか、偶然流れ込んだ悪意をキャッチしたから、ああいう被害が出た、ってことなんだ」
そして一度発動してしまったから、紫様でも逃げるしかなかった。逃げて、この空間内に封じ込めるので精一杯だった。
「それこそ、狐さんがさっき私に教えてくれたみたいに、心を落ち着けることが大事なんだと思いますよ」
「そうね……というか、心を無にして接しない限り、どんな反作用が返ってくるか想像もつかないわね」
まさかそんな初歩的な対処法を、早苗に教わることになるとは思わなかった。
ちらりと、すぐ隣にいる早苗を見やる。神様ではなくなった、守矢の巫女。
幻想郷があんなことになってしまった直後には、何故こんな何の役にも立たなさそうな人間が生き残ってしまったのかという嘆きも、私の心の奥底には僅かながらあったように思うけど。
今では、この子がいてくれることが本当に心強い。
「もう一度、私から接触を試みてみようと思うわ」
「はい。何かあったら、私が護りますので御安心を」
両手で抱えるようにして持ったお祓い棒を手に、早苗が力強く言ってくれる。
私は頷いて、改めて核心の光球の方を見やった。
攻撃は一度だけで、今はまた落ち着きを取り戻している。
おそらく私から伝わった感情がほんの少しだけだったから、元の状態に戻ったのだろう。
「……私の名前は八雲藍」
呟き、私は一歩を踏み出した。
返事など寄越さない無愛想な光の球に対して告げながら、脚は止めない。
「幻想郷の生き残りだ」
頭の中に、私が記憶してあるだけの幻想郷の姿を全て思い描いていく。それは、糸を編む作業によく似ていた。頭脳に収納されている記憶の欠片達を少しずつ揺り起こしながら、それを脳内で繋ぎ合わせていく作業。
ともすれば私の頭の中にもう一つ幻想郷が作れるのではないかとすら思えるほどに。
克明に。
精細に。
入念に。
詳細に。
丁寧に。
精到に。
丹念に。
地道に。
着実に。
精巧に。
緻密に。
私が覚えている限りの、これまでの『正しい』幻想郷の姿を思い描いていく。
そうだ。これが正しい幻想郷の姿だ。
「あなたが作り変えてしまった幻想郷は、間違った姿でしかないの」
誰もいない、何も無い郷を、誰が愛してくれる?
紫様だけではない、みんなが幻想郷を愛しているから。
そうやって望まれたから、幻想郷はあるんじゃないか!
「だから……だから、お願い」
光球に向かって手を伸ばし――私は叫んだ。
「私達の幻想郷を返してよ!」
光に、手が届く。
そしてすぐに、私のその手に早苗の手が添えられた。
「私の記憶も、しっかり使って下さいね」
幻想郷に関する記憶を持った者が、光球に触れて上書きをすること。
それこそが、紫様の秘策だった。
私が覚えている限りの幻想郷を全て思い起こし、この光球に触れる。その力を利用して、一度書き換えられてしまった幻想郷の姿を元の通りに描き直そうというのだ。
そして、私の記憶だけでは足りない部分を、早苗が補ってくれる。
記憶力には自信のある私だけど、やはり人間と接する機会というのは決して多くない為、偏りができてしまうだろう。
それを早苗に補って貰おう、ということだ。
そうやって私の記憶に残っていた誰かが再生されれば、その誰かの記憶に残っているまた別の誰かも再生される。
記憶の連鎖は、必ず全てのみんなを繋いでくれるはずだった。
みんなが幻想郷のことを愛して、みんなが幻想郷のことを覚えてくれていれば――この作戦は、成功率の高いものになる。
核心の光球から、眩しい光が溢れ出した。
明暗もあやふやなこの境界の狭間に光が満ちていく。
私も早苗も、その光に包み込まれて。
そして。
「お茶とお酒、どちらにしましょうか?」
「折角あんなに綺麗な月が見えるのだから、勿論お酒にするわ」
私の質問に、縁側に腰掛けた紫様はそう答えた。
外の世界で見た、マエリベリー・ハーンの姿ではない。
私の『記憶している』、八雲紫という偉大な妖怪の姿だ。
「あ、あの……私は、お茶で」
紫様の隣に座布団を敷いて正座している早苗が、控えめに手を挙げてそう言ってきた。
ああそういえばこの子って、お酒が駄目なんだっけ。
妖怪の山に住んでて下戸なんて、随分と苦労しそうだなぁ。
「藍、グラスは貴女の分を入れて三つよ」
「御意に」
早苗が大きく狼狽えていたけど、私も紫様も、聞こえなかったふりをした。
こんな、折角の機会なのだ。月だけでなく、元に戻った幻想郷の姿を肴にするというのに、お茶では勿体ない。
グラスとお酒を用意し、縁側へ戻る。
ちなみに橙は現在、あの子が纏めている猫達の集まりに出掛けている。
八雲の広い屋敷には、現在三人だけだ。
「……皆さん、今回のことを何も覚えてらっしゃらないんですねえ」
出されたものに一切口を付けないこともそれはそれで不躾と思ったのか、ちびちびと酒に舌をつけつつ、早苗が言った。
確かに彼女の言う通り、元に戻った幻想郷の住民は、人も妖怪も神も、誰もが今回の件を覚えていなかった。覚えていない、というよりは……認識していない、と言う方が正しいか。
まるで、あんな事件があったのだとは誰も知らないように。
あんな事件など、元々起きていないのだと言わんばかりに。
誰もが、それまでと何も変わらず普通に生活を続けている。
「事実すら塗り替えてしまうというのが、あの球の能力だったわけだし……当然とも言えるでしょうね」
既に二杯目を呷り始めている――注ぐのが忙しい――紫様がそう答えた。
「幻想郷は一度、確かに滅んだけど……その後貴女達のお陰で滅んだという事実そのものが無くなったのよ。だからこそ、どれだけ力の強い存在であってもそれを覚えておくなんてできないわ」
「短い間でしたけど……私達は、何だか物凄い大冒険をさせられてしまった気分でしたよ」
元々誰かに聞かせるつもりもないことだったけど、正真正銘、本当に誰にも聞かせられない話になってしまったというわけだ。
「あら、少しは楽しかったんじゃないかしら?」
「意地悪なこと言わないで下さい。私はもう、あんな事件は御免被ります」
紫様も橙も、誰も彼もいなくなってしまって、どれだけつらく、どれだけ心細かったことか。
「私も出来れば遠慮したいです……。神奈子様も諏訪子様もいない世界なんて、やっぱり私にはつら過ぎますから」
うんうん、同意同意。
「そう言えば紫様、早苗を招待するってお話、あの神様達に言ってないですけど大丈夫なんですか?」
まさか酒まで飲んで行くとは正直思っていなかったのだ。
だから聞いてみたのだが、紫様はあっさりと。
「良いんじゃないかしら? まぁ早苗だって年頃の女の子なんだし、無断外泊ぐらい経験あるでしょう。外の世界の人間はこちらより進んでるし、別の意味で『経験』も既に――」
「何の話をしてるんですかぁっ!」
早苗が顔を真っ赤にして猛抗議していた。
……以前もちらっとだけ思ったことだが、この新人神様は、結構うぶなところがある。
妖怪というのはえてして性に開けっぴろげな連中が多かったりするし、山での暮らしはますます大変そうだ。
いや、大変すぎて既にちょっぴり変な方向へ歪んでしまっている、とも言えるか。
外の世界で取り戻しつつあった早苗の中の常識も――どうせまた、大した時間も掛けず失われてしまうに違いない。
「まぁそれはそれで、あなたらしいかもね」
「ふぇ?」
羞恥か酩酊か、どちらか分からないが顔を真っ赤にした早苗がこちらを見る。
今回の一件で、一緒に色んな所を巡って大冒険を繰り広げて……そうして感じたことなのだが、ひょっとしたらこの子は――案外可愛いのかもしれない。
「……どうかしましたかぁ、狐さん?」
ちょっとだけ呂律が怪しくなってきている辺り、酔っているようだった。
と、紫様がすくっと立ち上がり。
「何か、つまむものが欲しいわね」
「あ、それでしたら私が――」
「いいわよ。貴女達は色々と働いてくれたんだし。それに確か、幽々子の所に美味しい御饅頭があったはずだから、少し分けて貰ってくるわ」
そう言って、紫様は境界を開いた。躊躇いなくその中へと足を踏み入れ、消えていく。
「……お酒の肴に、御饅頭ですか?」
げんなりとした様子で、早苗が漏らす。
「そんなに悪いものでもないわよ。呑んでると、甘いものって結構美味しくてよく合うんだから」
それにいつものパターンだと、西行寺家の台所から饅頭以外のおつまみなども幾らかお裾分けして貰ってくるだろう。
「ふぅ……何だか、あの境界の中にいたときよりも頭が回る気がしますぅ」
長い溜め息と共に、早苗は言う。その様子を見て、私は苦笑した。
「ねぇ、早苗」
「はひ?」
「あなた……もし、あなたが良ければなんだけど」
言葉と共に、話し相手である早苗の方を見た。
肩口の露出した巫女服を着た、髪の長い神様。白くて綺麗な柔肌は、今はアルコールによってほんのりと赤くなっている。
酔いがあるのか、普段よりも少しだけ、ぼんやりとした眼差し。それを見て。
私は、告げた。
「あなた、私の式神にならない?」
私自身も紫様の式神だけど、そんな私でも式神を操ることが出来る。
要は、橙と同じような感じに。
別に普段の行動が制限されるとか、そういうことはない。私の場合は常日頃から紫様にお仕えしているけど、それは私の意志でもあるわけで。
早苗の自由を侵害するつもりも、私には毛頭無かった。
ただ――そう、ただ……何か、この子との繋がりが欲しいんだろうと、そんな風に他人事のように想う。
早苗は暫くきょとんとした顔を見せていた。そうして、少し困ったように微笑んだ。
「私はもう神様ですから……式神には、なれないですね」
「そう、だよね」
「狐さんこそ」
「え?」
「狐さんこそ、私達の神社で御稲荷さんとして暮らしませんか?」
大真面目な顔でそれを言われて――成程、私は今し方早苗が見せたように、困り顔で笑うしかなかった。
「私は紫様の式神だから……それは受け入れられない、わね」
「そうですよねぇ」
お互いに、寂しく、悲しく、困惑して笑い。
そして二人同時に、溜息が出た。
これが感傷に過ぎないと、自分でも分かっているのだけど。
それでも何か繋がりを欲してしまうのは、私の弱さだろう。
本当に全く。未熟で、まだまだ修行が足りない。
会話が途切れ、無言の時間が訪れる。かと思いきや、その静寂を吹き飛ばす声が玄関口から届いた。
「藍ー! 幽々子と妖夢も連れてきちゃったから、やっぱり何か用意してくれるかしらー!」
紫様の声だ。
「あの二人を連れてきたって事は……というか、幽々子様を連れてきたって事は、これは相当激しい飲み会になるわねぇ」
「な、何がそんなに激しいんですか」
「幽々子様はよく食べるから……お酒も料理も、凄い量が必要になるのよ」
妖夢を連れてきた辺り、紫様は確実に雑用を押しつけようという魂胆なのだろうけど。
あの子一人では確実に人手が足りないだろう。私も手伝わないとだなぁ。
私は早苗の方へ向き直り、
「潰れるまで呑まされるのが嫌なら、今の内に逃げた方が良いかもしれないわよ、早苗」
「そ、そんなにですかっ」
グラスの三分の一で顔が真っ赤になるようなこの子の場合、潰れるというか本当に死んでしまいかねない。
「あなたに何かあったら、山の二柱に怒られちゃいそうだし。紫様には、私から言っておくから」
「じゃ、じゃあ、申し訳ないんですけどこれでっ」
帰り支度を整えて、早苗が庭に出る。
すぐさま飛び立とうとした早苗だったが、ふと、こちらに話し掛けてきた。
「あの、狐さ――藍さんっ」
「……どうしたの?」
思えばそれは、この子が初めて、私の名前を呼んだ瞬間でもあった。
「色々と大変でしたし、誰にも聞かせられない大冒険記になっちゃいましたけど……それでも私、楽しかったです。一緒にいてくれたのが藍さんで良かったって、本当に心から、そう思ってます」
「……私もよ。あんな事件はもう二度と御免だけど、あなたと出掛けるというだけなら、いつでも歓迎するわ」
本当に、そう思う。
残ってくれたのがあなたで、本当に良かった。
「また会えますか?」
「いつでも会えるわ」
私達は同じ、幻想郷に生きる者なのだから。
私が答えると、早苗は満足したように笑顔で頷いて、そしてそのまま妖怪の山の方へと飛び去っていった。
手を振ってそれを見送った後で、彼女の飲み残していったグラスに気が付く。
そこに残っていた液体を一気に喉の奥へと流し込んで――それは何故だかいつもより、ちょっとだけ苦い味がした。
……これはオチというよりちょっとした余談みたいなものなのだけど。
幻想郷が元通りになって数日してから、早苗が私の元を尋ねてきた。
全部が上手くいったと思った今回の幻想郷再生作戦だったけど、あの事件以来、命蓮寺の周りでこれまでよく目撃されていた化け傘の妖怪が見当たらなくなったということで。
私と早苗の二人は、大慌てで紫様の元へと走っていったのだった。
終わり
新しい属性に目覚めてしまいそうだ
俗っぽい天然現人神と、ツッコミ気質な式神というのは、案外食べ合わせが良い物なのですね。
二人の冒険旅行みたいな展開や、どこかズレた会話など、テンポが良くて楽しかったです。
あと、オールライダーみたいな話だな、というのは読んでて思いました(笑)
元ネタは知りませんが作者さん色に上手く染まっていたと思います。
二人の別れのシーンがちょっと悲しくて非常に良かったと思います
個人的には、藍さなの二人がランドやシーに行く回も書いて欲しいかなw
らんさなはこがさなと相容れないものなのですね!(ちょっとだけ悲しい)
元ネタが理解できればもっと面白いんだろうなとちょっと残念でした
題材の割にあっさりで軽いノリでしたが、それがこの作品の良さなのかもしれないと思ったり。
とりあえずランドとシーの件は書くなよ! 絶対だぞ!!
幻想郷滅亡といい、メタ発言といい、オチといい、西尾維新のあの物語すぎるんですがw
デートはともかく、このコンビのお話をもっと見てみたい、とは思いましたね。楽しかったです
↑の方に
私も似た感想を抱きましたが、そもそも「オールライダー」と「あの物語」のプロットが結構似てるんですよね
更に遡って言うなら某パラレル西遊記がそれらの原点かもしれない
ただ、100kbありながら問題にあたった時の壁が低い気がします。とくに最後の核心とのやり取りがあっさりしすぎでは、めでたく幻想郷は元に戻りましたが盛り上がりはあまり感じませんでした。
ほかにも幻想郷中を探したけれど誰もいなくて早苗が弱音をはく所なんかも立ち直りがあっさりしていたのでは、安心して読めすぎて緊迫感が足りなかった気がします。
名前ださなくても何にそっくりなのか自分で分かるよね?
全然良くない部分を吸収してるから
劣化コピーという意味ではなく、粗悪品を忠実にコピーしてる