橙が商売を始めた。
あの橙が、マヨヒガで猫を侍らすこと以外に能がないと思われていた橙が商売を始めたということに驚く声もあるにはあった。が、全体としては少数派だった。橙はかのボーダー商事の孫受け的立ち位置でもあったし(ただしそのボーダー商事は倒産して久しい)、あの幻想郷版富岳こと八雲藍の直属の部下でもあった。商売くらいはさせればするだろうという納得の声が大きかった。
そういう声の主らに予想外なことがあったとするならば、橙は自発的に、紫や藍といった頼りになる身内の助けを借りず商売をしたということと、にも関わらず有能に業績を上げたということだろう。
橙の商売は人材派遣だった。社名は直球に「猫の手」。人手が足りないところにマヨヒガの猫を派遣する。猫なのでできることの幅は狭いが、少なくとも荷運びはできるくらいに訓練された猫が送られてくるし、走る速さや狭い場所に入る能力なら人間より優れている。あとこれはいささか社会の闇か光か判断に困る話だが、何か問題が起きたときに「猫のせい」ということにしてしまえば全部お咎めなしで終わるのでそういう目的で借りられることもあった。借りた人は責任の所在をうやむやにできる。その問題で不利益を被っていた人達も怒りが収まる。猫は可愛い、可愛い猫ちゃんがしたことなら仕方ない。Win-Winの関係だ。
つまるところ、社会は何かしら猫を必要としていたのだ。橙が事業を始めてからというもの、「猫の手も借りたい」は妥協を意味する表現ではなく最適解を示す表現に変わりつつあった。
***
さて、「猫の手」の利用は現金決済でなされるが、単純に人間からマヨヒガの猫にお金が移動していくようになった、という話ではない。「猫に小判」というように、お金ごときで猫は動いてくれないのだ。橙は依頼料としてお金を貰い、このお金でマタタビを買い、半分を「これは私に支払われた正当な手数料だから」と自分のものとして残り配分を報酬として子分に配る、そうして事業は運営されていた。
この事情を踏まえると事業の成長に難色を示す者がいて、それが藍であるということも納得がいくだろう。
藍にとって橙は目に入れても痛くない可愛い可愛い部下である。そんな部下が一丁前に商売を成功させてる、だけならこれはもう大喜び赤飯ものだったのだが、現実にはその続きがあって成功すればするほど、可愛い橙はマタタビ
漬けになっていってしまう。
ということで、世界がもっと真っ当だったら赤飯用の小豆と餅米を買いに行っていたであろうその足を方角九十度北に向けて、藍は妖怪の山に向かった。
幻想郷のマタタビは山で栽培されている。山童が栽培しているのだ。山童は藍という来訪者にすくみ上がった。藍はちょっと怒っていたようだった。この「ちょっと」というのが絶妙で、仮にブチギレていたら山童の側もぶつけられた強引な怒りをそのまま反射して「お前がその気ならこっちもやってやんよ」モードに入れるのだが、普段温厚な人が理知的に「私が何を言いたいのか分かっていますよね?」という風を漂わせて近づいてくるのはこれはもう最悪に怖いのである。河童でなくとも「ひゅい」と小さく悲鳴を上げざるをえない。
「すみませんすみません。私共の方で至急燃やさせていただくので、はい」
こういうときに交渉の矢面に立たされるのは山城たかねと相場が決まっているが、彼女は白旗の代わりに松明を上げて降参と迅速な問題解決の意志を示していた。
「何を勘違いしてるんだ。マタタビを作るのをやめろとは言わない。逆だ」
「おお、話が分かるようで助かります。山のマタタビはそちらのお橙様からも大変好評でこちらの稼ぎ頭筆頭でして……」
「その橙のことで迷惑しているという罪があるのだが……」
「罪!? すみません!! すみません!! 腹を切ってお詫びいたしますのでどうか命だけは!!」
藍がちゃんと怒っているというのを再確認してたかねは支離滅裂な詫びをし始めた。藍は理知的なので一秒で理解した。こいつの情緒の浮き沈みに一々付き合っていたら進む話も進まない。
「マタタビにはマタタビラクトンと呼ばれる数種類の化学物質が含まれていてこれが猫に快楽反応を引き起こすらしい。つまりマタタビラクトンが罪なのであって、マタタビそのものに罪はない。だからマタタビラクトンの作用を打ち消すような、『負のマタタビ』というべきものをここで作ることができれば、幻想郷の猫を薬害から救うことができる。当然君達のマタタビ事業は衰退するだろうが、その分は開発費用に上乗せしても構わない」
「ほへ? ……あっはい、そういうことならぜひ喜んで」
***
翌月には「負のマタタビ」は流通し始めた。この自然の摂理をも超えた対応の迅速さは、文字通り山童が死ぬ気で取り組んだからとも、山童がどうにかして天邪鬼を味方に引き入れて効能を反転させることで即席に解決としたからとも言われている。が、今回の語りでそれを解き明かす必要はないだろう。重要なことは結果であって結果を得るための手段ではない。少なくとも藍はそう考え、結果にたいへん満足した。
藍が満足するのと逆に猫は不平たらたらで、「急にマタタビが不味くなった。これは親分
が良質なマタタビを搾取しているからだ。私達の取り分を増やせ」とストライキを起こすようになった。しまいにはマタタビを返納してその分の何かをマヨヒガから持ち出すことが横行するようになってしまった。
橙はマタタビの粉を巻き煙草のように吸って嘆息した。状況に対してもだが、そもそも口寂しさに仕方なく吸ってるこいつが不味くて不味くてしょうがないのだ。しかもこの吸わないと消えない粉屑の不良在庫が段ボール五箱分はある。腹いせに天邪鬼にでも味のいい煙草だと偽って無理やりに吸わせてやろうかと思い始めている。が、手元にお手頃な天邪鬼はいないし、そもそも天邪鬼を虐める前に他の猫に支払うものを見つけないと商売上がったりなのである。橙はマタタビに代わる嗜好品兼人件費を求めて山の市に足を運ぶことにした。
捨てる神あれば拾う神あり。市の一角で山童が細長い小袋に入った「獣人用おやつ」と銘打たれた商品を売っており……。
その後の顛末は言うまでもあるまい。可愛いペットの偏食と過食に頭を悩ませた藍は今度は食欲を反転させる「逆ちゅーる」の開発を山童に依頼し……。この「逆ちゅーる」の方はダイエット食品として獣人の間でそれなりに評判になったという。
あの橙が、マヨヒガで猫を侍らすこと以外に能がないと思われていた橙が商売を始めたということに驚く声もあるにはあった。が、全体としては少数派だった。橙はかのボーダー商事の孫受け的立ち位置でもあったし(ただしそのボーダー商事は倒産して久しい)、あの幻想郷版富岳こと八雲藍の直属の部下でもあった。商売くらいはさせればするだろうという納得の声が大きかった。
そういう声の主らに予想外なことがあったとするならば、橙は自発的に、紫や藍といった頼りになる身内の助けを借りず商売をしたということと、にも関わらず有能に業績を上げたということだろう。
橙の商売は人材派遣だった。社名は直球に「猫の手」。人手が足りないところにマヨヒガの猫を派遣する。猫なのでできることの幅は狭いが、少なくとも荷運びはできるくらいに訓練された猫が送られてくるし、走る速さや狭い場所に入る能力なら人間より優れている。あとこれはいささか社会の闇か光か判断に困る話だが、何か問題が起きたときに「猫のせい」ということにしてしまえば全部お咎めなしで終わるのでそういう目的で借りられることもあった。借りた人は責任の所在をうやむやにできる。その問題で不利益を被っていた人達も怒りが収まる。猫は可愛い、可愛い猫ちゃんがしたことなら仕方ない。Win-Winの関係だ。
つまるところ、社会は何かしら猫を必要としていたのだ。橙が事業を始めてからというもの、「猫の手も借りたい」は妥協を意味する表現ではなく最適解を示す表現に変わりつつあった。
***
さて、「猫の手」の利用は現金決済でなされるが、単純に人間からマヨヒガの猫にお金が移動していくようになった、という話ではない。「猫に小判」というように、お金ごときで猫は動いてくれないのだ。橙は依頼料としてお金を貰い、このお金でマタタビを買い、半分を「これは私に支払われた正当な手数料だから」と自分のものとして残り配分を報酬として子分に配る、そうして事業は運営されていた。
この事情を踏まえると事業の成長に難色を示す者がいて、それが藍であるということも納得がいくだろう。
藍にとって橙は目に入れても痛くない可愛い可愛い部下である。そんな部下が一丁前に商売を成功させてる、だけならこれはもう大喜び赤飯ものだったのだが、現実にはその続きがあって成功すればするほど、可愛い橙はマタタビ
漬けになっていってしまう。
ということで、世界がもっと真っ当だったら赤飯用の小豆と餅米を買いに行っていたであろうその足を方角九十度北に向けて、藍は妖怪の山に向かった。
幻想郷のマタタビは山で栽培されている。山童が栽培しているのだ。山童は藍という来訪者にすくみ上がった。藍はちょっと怒っていたようだった。この「ちょっと」というのが絶妙で、仮にブチギレていたら山童の側もぶつけられた強引な怒りをそのまま反射して「お前がその気ならこっちもやってやんよ」モードに入れるのだが、普段温厚な人が理知的に「私が何を言いたいのか分かっていますよね?」という風を漂わせて近づいてくるのはこれはもう最悪に怖いのである。河童でなくとも「ひゅい」と小さく悲鳴を上げざるをえない。
「すみませんすみません。私共の方で至急燃やさせていただくので、はい」
こういうときに交渉の矢面に立たされるのは山城たかねと相場が決まっているが、彼女は白旗の代わりに松明を上げて降参と迅速な問題解決の意志を示していた。
「何を勘違いしてるんだ。マタタビを作るのをやめろとは言わない。逆だ」
「おお、話が分かるようで助かります。山のマタタビはそちらのお橙様からも大変好評でこちらの稼ぎ頭筆頭でして……」
「その橙のことで迷惑しているという罪があるのだが……」
「罪!? すみません!! すみません!! 腹を切ってお詫びいたしますのでどうか命だけは!!」
藍がちゃんと怒っているというのを再確認してたかねは支離滅裂な詫びをし始めた。藍は理知的なので一秒で理解した。こいつの情緒の浮き沈みに一々付き合っていたら進む話も進まない。
「マタタビにはマタタビラクトンと呼ばれる数種類の化学物質が含まれていてこれが猫に快楽反応を引き起こすらしい。つまりマタタビラクトンが罪なのであって、マタタビそのものに罪はない。だからマタタビラクトンの作用を打ち消すような、『負のマタタビ』というべきものをここで作ることができれば、幻想郷の猫を薬害から救うことができる。当然君達のマタタビ事業は衰退するだろうが、その分は開発費用に上乗せしても構わない」
「ほへ? ……あっはい、そういうことならぜひ喜んで」
***
翌月には「負のマタタビ」は流通し始めた。この自然の摂理をも超えた対応の迅速さは、文字通り山童が死ぬ気で取り組んだからとも、山童がどうにかして天邪鬼を味方に引き入れて効能を反転させることで即席に解決としたからとも言われている。が、今回の語りでそれを解き明かす必要はないだろう。重要なことは結果であって結果を得るための手段ではない。少なくとも藍はそう考え、結果にたいへん満足した。
藍が満足するのと逆に猫は不平たらたらで、「急にマタタビが不味くなった。これは親分
が良質なマタタビを搾取しているからだ。私達の取り分を増やせ」とストライキを起こすようになった。しまいにはマタタビを返納してその分の何かをマヨヒガから持ち出すことが横行するようになってしまった。
橙はマタタビの粉を巻き煙草のように吸って嘆息した。状況に対してもだが、そもそも口寂しさに仕方なく吸ってるこいつが不味くて不味くてしょうがないのだ。しかもこの吸わないと消えない粉屑の不良在庫が段ボール五箱分はある。腹いせに天邪鬼にでも味のいい煙草だと偽って無理やりに吸わせてやろうかと思い始めている。が、手元にお手頃な天邪鬼はいないし、そもそも天邪鬼を虐める前に他の猫に支払うものを見つけないと商売上がったりなのである。橙はマタタビに代わる嗜好品兼人件費を求めて山の市に足を運ぶことにした。
捨てる神あれば拾う神あり。市の一角で山童が細長い小袋に入った「獣人用おやつ」と銘打たれた商品を売っており……。
その後の顛末は言うまでもあるまい。可愛いペットの偏食と過食に頭を悩ませた藍は今度は食欲を反転させる「逆ちゅーる」の開発を山童に依頼し……。この「逆ちゅーる」の方はダイエット食品として獣人の間でそれなりに評判になったという。
良い小話でした。「お橙様」すきです。
たかねのキャラが面白かったです!
あと、タグに反転とあったので、絶対隠し文章あると思って一生懸命空白の部分を反転させてたのは内緒です(アホ)
せっかくうまくいってたのに取り上げられて不貞腐れる橙がかわいらしかったです
過保護な藍もひたすら小物なたかねもただあるがままにいるだけで人の役に立っていた猫たちもそれぞれよかったです
軽くまとまっていてこれぞ三題噺と思えるお話でした
正邪もちょっとだけいて栄養バランスもいい
(ある意味で)最強過ぎる……。
そして急に高まる正邪の需要。面白かったです。
ボーダー商事って果たして何年ぶりに聞いたのやら…