ふと、思ったことがある。
「最近メリーを見ていると、何故か昔のことを思い出すのよね……」
私は自宅で一人、そんなことを呟いた。
それは不思議なことだった。何故ならメリーと知り合ったのは大学に入ってからのことで、昔からの知り合いというわけではないのだから。
そんなメリーのことを見て昔のことを思い出す――はて、どうしてだろうか。
私は考える。
昔、まだ小さな頃にメリーと会っていた可能性は、おそらくないだろう。そのときメリーはまだ日本に来ていなかったはずだし、そもそもそんな経験があったなら忘れるはずもない。
しかしそうであるなら、今のメリーと私の過去の記憶には何の繋がりもないはずだった。つまり、今のメリーを見て昔のことを想起する理由はどこにもないことになる。
「考えようにも、昔を思い出す理由はない、か」
私の遠い過去の記憶に、当然ながらメリーはいない。メリーに似た誰かさえ見つからない。ということは、私が思い出しているのはメリー自身ではないのだろう。
私は考え方を変える。
そもそも私は昔と言っているが、それは具体的にいつのことを言っているのだろうか。
「あれは……小学校の教室」
小学生の頃。約十年前。
そこにメリーはいない。
代わりにいるのは、今では顔さえもおぼろげなクラスメイトたち。
ふと、先生が黒板に書いた問題の答えを尋ねる。
クラスメイトたちはみんな元気な声で「はい」と言いながら手を上げた。そうして一人の子が当てられて、黒板の前まで歩いていき即座に問題を解く。――正解だった。
その子が着席すると、ちょうどそのタイミングでチャイムがなる。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
授業はそこで終わり、日直の号令にあわせて起立、気をつけ、礼。次の瞬間には教室中が喧騒に包まれた。
ギィギィと、机と床が擦れて音を立てる。みんながそれぞれ机の向きを変えて、班ごとにひとかたまりとなって机を向かい合うように移動させる。
――今終わった授業はどうやら四時間目だったらしい。
それは給食の準備だった。
そうして給食当番の子たちが、服の上から白いスモックを着て――。
――ああ、あれだ。
私は気付いた。
私がどうしてメリーを見て、昔のことを思い出すのか――。
その理由は単純だった。
――メリーの帽子は、給食当番のそれと似ているのだ。
「……というわけで、買ってきました純白のスモック」
買ってきたばかりのそれを私は手にとって広げてみる。
ポリエステル六十五パーセント、綿三十五パーセントのそれをどうして買ってきたのかといえば――。
「何がというわけで、なのよ……私は絶対に着ないからね」
目の前のメリーがため息をつきながら言った。
――つまり、そういうわけだった。
私はメリーに、このスモックを着せるつもりで買ってきたのである。
だからメリーもすでにばっちり呼び出し済みだった。
今私の部屋にはメリーとスモックという必要な要素が全て揃っているのだ。
「いいじゃないメリー、減るもんじゃないし。むしろこのスモックあげるから増えるわよ?」
「いらないわよ、そんなの」
そういったメリーが私を呆れたような目で見ていた。
――ああ、違う。完全に呆れているのだ。
「……蓮子って頭はいいのに、突拍子も無く馬鹿なことを思いつくわよね」
「でしょ?」
「褒めてないからそんなドヤ顔しないでくれるかしら……」
嘆息するメリー。
「というよりも蓮子、もしかして今日はそんなことのために私を呼んだのかしら?」
「さあ、どうだったかしらね」
私はそういってとぼけた振りをする。
「ところでメリー、このスモックを――」
「着ないわ」
「まだ何も言ってないわよ」
「最後まで聞かなくたって、蓮子の言いたいことなんて分かるわ」
メリーはそんなことを言った。
まあほとんど言っているようなものではあるけれど。
「えー、いいじゃない、少しくらい」
「嫌よ」
「どうして?」
「だって、子供みたいで恥ずかしいじゃない」
……ふだんから幼女みたいな帽子を被っているくせに。
「蓮子、聞こえてるわよ?」
メリーが目を細めて私を見ていた。やだ、かわいい――違う、怖いだ。
メリーの表情を観察しながら、私は言い訳のためにあれこれ思考をめぐらせる。
「いや、ほら、これはあれよ――」
「……どれよ?」
「――幼女かわいいじゃない?」
「………………はぁ」
今日何度目だろうか、メリーはまたため息をついた。さすがにこの言い訳はなかったと自分でも思う。
「メリー、ため息ばかりついてると老けるわよ?」
「誰のせいよ、誰の」
「…………?」
「蓮子のせいに決まってるでしょ!」
「あぅ」
メリーが私の額をつっついてツッコミを入れる。
――マエリベリー・ハーンは漫才コンビ「秘封倶楽部」のツッコミ担当なのだ。
「違うから。漫才コンビじゃないから」
「まあそれはそれとして、メリー」
「着ないわ」
「しかしそうはいうけどね、メリー。あなたにはこのスモックを着る必然性があるのよ」
「必然性……?」
その言葉に、メリーの表情にはにわかに緊張走る。
「ざわ……ざわ……」
「……何その効果音」
私はメリーのツッコミを無視して話を続ける。
「――そう、必然よ。メリーはこのスモックを着なければならないの。だってメリーはかわいいから。そして幼女もかわいい。つまり、《メリー+幼女=かわいい+かわいい=最強》の方程式よ!」
「……ただの加算じゃない。というか、最強?」
「そう、最強。男と生まれたからには誰でも一生のうち一度は地上最強の男を夢見るものなの。それはメリーも同じ。ほら、偶然にもこんなところにメリーが最強になるための装備がッッッ! これは着るしかないッッッ!」
「………………」
メリーが無言で立ち上がる。
そうして玄関の方へ――。
「あぁ、ごめんメリー! 冗談だから帰らないでぇ」
「ちょ、わかった、わかったからそんなひっついたら危な、きゃっ」
私がメリーに抱きついて追いすがるようにしたせいで、ふいにバランスを崩したメリーと私はカーペットの上に倒れる。私は咄嗟にメリーをかばうようにして、メリーの頭を胸に抱いたまま下敷きになっていた。
「うぅ……メリー、大丈夫?」
「私は大丈夫だけど、それより蓮子は?」
メリーは下敷きになった私の心配をする。
いや、どう考えても私の自業自得なのだけれど、それで心配されると何だかとても申し訳ない気持ちになってしまう。
「私も大丈夫……」
というよりもこんなことで怪我なんてしていたらさすがに馬鹿みたいだ。
「……本当に大丈夫なのね?」
「大丈夫だって。それよりメリー、そろそろ――」
念を押すように尋ねるメリーに再度大丈夫だと答え、それよりも私の上からそろそろ降りてもらおうとしたとき――メリーが言った。
「それなら、攻守交替ね」
「…………はい?」
メリーが何だかよく分からないことを言った気がする。
――攻守交替?
「あの、メリーさん?」
「私メリーさん、今あなたの上にいるの」
「それは見れば分かるわよ! そうじゃなくて――」
メリーは一体何をしようというのか。
それが訊きたかったというか、やっぱり聞きたくないというか。
私の上にいるメリー、しかも気付いてみればいつの間にやら彼女はマウントポジションを取っていた。
本当に、いつの間に。
「蓮子、これが何か分かるかしら?」
メリーはどこからともなく取り出した新品のそれを私に見せる。
それは私にも見覚えのある、特徴的な容器だった。
キャップは赤。透明の容器に満たされた白濁の、それ――。
「――マヨネーズ?」
「そう、マヨネーズ(注・半固体状ドレッシングのうち、卵黄または全卵を使用し、かつ必須原材料〔食用植物油脂、食酢〕、卵黄、卵白、タンパク加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料〔アミノ酸等〕及び酸味料以外の原材料を使用していないものをいう)よ」
「何そのやたら長い注釈!」
「日本農林規格、通称JASよ」
「それは知ってる――いやごめん嘘全然知らなかったけど、ってそうじゃなくて! そのマヨネーズが一体何だっていうのよ?」
「蓮子、マヨネーズはね……マヨネーズは……」
「……マヨネーズは?」
「……フランス語だったのよ」
「どうでもいいわよ!」
「むかしむかし、あるところに身長百八十センチメートルを越す大柄なママがいました」
「また突然何の話よ……」
「彼は言いました――マヨネーズは飲み物です」
「明らかにカロリー過多よ、それ……というか今彼って言ったわね、ママなのに」
「『おっはーでマヨちゅっちゅ』……寝起きにはマヨネーズをちゅっちゅしましょうというその呪文――スペル――で彼は日本を混乱の渦に巻き込んだそうよ。彼こそがメタボリックシンドロームを蔓延させたと現代の歴史家は指摘しているわ」
「そ、そう。昔の日本は色々大変だったとは聞くけど、詳しいわねメリー」
「そこで私は思いました」
「……何を?」
そう尋ねながら、私は少し嫌な予感がした。
メリーが答える。
「マヨネーズはちゅっちゅするもの。蓮子もちゅっちゅするもの。つまり……《マヨネーズ+蓮子=ちゅっちゅ+ちゅっちゅ=最強》の方程式が成り立つんじゃないかしら、って」
「ただの足し算よそれ!」
私は思わずさっきどこかで聞いたようなツッコミを入れた。
けれど、違う。重要なのはそこじゃない。
――そうだ、前提がおかしいのだ。
「というか私がちゅっちゅするものってどういうことよ?」
「そんなことは無視できる些細な問題よ。蓮子だってよくテイラー展開の二次以降のオーダーを無視してるじゃない」
「違う違う違う、絶対に違うわ。そこは重要な所よ。大きな数字の前では小さな数字は無視できる物理学と同じ扱いしちゃダメよメリー!」
「せっかくだから私はこのマクローリン展開を選ぶわ」
「それもテイラー展開の一部よ! ってそうじゃなくて!」
意味の分からないメリーの論理に学術的見地からツッコミを入れる私。しかしそんな私を無視するようにメリーは続けた。
「蓮子、大発見よ……」
「何が」
「……マクローリンとマヨネーズって何だか似ているわ」
「マしかあってないわよ! どれだけマヨネーズが好きなのよメリーは」
「もう、蓮子はマヨネーズの何がそんなに不満なのよ。私はただ蓮子のマヨネーズ和えを作ろうとしているだけなのに」
「それが不満なのよ!」
「そう、分かったわ」
「……いや、メリーは絶対分かってないって顔をしてる」
「蓮子、タルタルソース派でしょう?」
「やっぱり分かってなかった!」
確かにタルタルソースは好きだけど、そうじゃない。
「大丈夫、安心して蓮子。私はそんなあなたのことも全て受け入れるわ……タルタルソースもマヨネーズの仲間だから」
「それくらい知ってるわよ! だからそういうことじゃなくて――」
――私は単純にマヨネーズをかけられたくないだけなのだ。
しかしメリーの目は本気だった。私が拒否しても、きっとメリーは私をマヨネーズ和えにするだろう。
――これは私の貞操の危機だ。言い換えるなら貞操クライシス。
マヨネーズに犯されるか否か、今その分岐点で私はメリーにマウントポジションを取られていた。
――あれ、これってすでに詰みでは?
いつリングサイドからタオルが投げ込まれても不思議ではないこの絶望的な状況で、私は考える。
そんな私にメリーは口を開いた。
「もう、蓮子はわがままね……どうしてそんなに嫌がるのよ」
メリーは続ける。
「これは蓮子がその淫らな欲望のために私にスモックを着せようとしたのと同じことでしょ?」
「ち、違っ、私は……」
「違う? あなたは私の都合を考えず、ただ自分の都合だけでそれを着せようとしたじゃない」
「それは……」
否定は出来なかった。
「――私はあなたの玩具じゃないわ」
メリーはそういった。
私はそんなことを思ったりはしていなかった。けれど、もしかしたらメリーはそう感じてしまったりしたのだろうか。
だとしたら、私は――。
「……ひっく……ぐす……」
「え、ちょっと蓮子……?」
予想外の反応だったのだろうか、メリーは一瞬取り乱したようにする。
――その刹那。
「隙あり!」
私は右手でメリーの右手首を掴み、左手はメリーの背中側に回す。そうしてメリーを引っ張り、くるりと回転するようにその体を入れ替えた。
仰向けに倒れたメリーの上で、私はマウントポジションを取っている。
形勢逆転だ。
「蓮子、泣き真似なんて卑怯よ!」
「ふふ、何とでも言いなさい。歴史は勝者が作るのよ。その歴史に自分が卑怯だったなんて誰も書いたりしないわ」
メリーの敗因。それはいつでもとどめをさせるという慢心だった。いつでもできるなら、さっさとやってしまうべきだったのに。けれどメリーはそうしなかった。
メリーは何も考えず、ただ欲望のままにさっさと私をその白濁で汚せばよかったのだ。そうすれば少なくともメリーの目的は達成されたはずだ。
かの英雄、アレクサンドロス大王は言った。《戦場とは、激動の状態である。ゆえに戦場でのすべての行為は激動のままになされねばならない》と。
つまり、躊躇えば負けなのだ。その点、私には情けも容赦もない。メリーの上に乗った瞬間、すでにその手にはスモック。問答無用だった。
無言のまま私はそれをメリーに着せようとする。
「……あれ?」
しかし、そこで気付く。
メリーが倒れている状態では、スモックを着せることがとても難しいということに。
「抜かったわね、蓮子。急いては事を仕損じるものよ。そして何より……私の手からマヨネーズを奪わなかったのは致命的ね」
そういったメリーは瞬時にマヨネーズの赤いキャップを外し、そして狙いを私に定めて全力でマヨネーズの容器を圧迫する。
――私がそれを把握できたのは、極限まで時間が圧縮されたような不思議な感覚があったからだ。まるでスローモーションのように物事が流れていく中で、思考と認識だけは通常の速度で動いているような。あるいは逆で、私の思考と認識こそが加速していたのかも知れない。どちらにせよ、私は確かにそれを見たのだ。
――新品のマヨネーズには、必ず付いている銀色の中蓋。
メリーはおそらく気付いていない。だからこそ全力で容器を圧迫したのだろう。その白濁で私を汚すために。
もちろんメリーはマヨネーズの容器を爆発させるような馬鹿力を持ってはいない。けれど下から私にマヨネーズをかけようとするからには、その力はそれ相応に大きいはずだった。
私は一人、静かに覚悟する――そして瞑目。
次の瞬間、爆発的な音を伴って噴出されるマヨネーズ。
しかしそのマヨネーズはメリーの狙いとは異なり、中蓋に遮られたことで四方八方に散らばるような軌道を描いた。
「ひゃっ」
私は少量のマヨネーズを顔に浴びて小さく声をあげる。生ぬるく、どろりとした粘性を持つそれは私が想像していたよりもずっと気持ちが悪かったのだ。けれど幸い目には入らずマヨネーズがかかったのは鼻から右頬にかけてだけだったので、私はすぐに目を開けることができた。
――すると、そこは大惨事だった。
散らばったマヨネーズはべたりとメリーの服を汚していた。これはさすがに拭き取ったくらいではどうにもならない。すぐに洗濯機行きだろう。マヨネーズは油汚れなのだ。
しかしそれよりも何より、メリーの顔面一帯にマヨネーズの層が出来ていた。
メリーの顔が見えない。マヨネーズで。
まるでのっぺらぼうの妖怪のようだ、と、私はどうでもいいことを考える。
――というかこれ、息はできるのだろうか?
「……メリー、さん?」
私は恐る恐るメリーに声をかける。
するとメリーはぴくぴくと痙攣したように小さく身体を動かしながら声を発した。
「……ぅ……っ」
「うん、何を言ってるのか全然分からないわメリー」
私はメリーの上から離れて、近くにあったティッシュを取ってメリーの顔を拭いた。さすがに綺麗に全部拭き取ることは出来なかったけれど、今はこれで充分だろう。
「メリー、大丈夫?」
「うぅ……マヨネーズ臭いわ」
「マヨネーズよ」
「そう、これが、マヨネーズ(注・半固体状ドレッシングのうち、卵黄または全卵を使用し、かつ必須原材料〔食用植物油脂、食酢〕、卵黄、卵白、タンパク加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料〔アミノ酸等〕及び酸味料以外の原材料を使用していないものをいう)……」
「……そうよ」
私はツッコミを入れる気も起きず、適当に返事をした。
しかしメリーはそれを気にした様子もなく、ただゆっくりと身体を起こす。
「ねえ、蓮子……ティラミスって知ってる?」
「ティラミス?」
唐突にそんなことを尋ねるメリー。
ティラミスなら私も知っていた。簡単に言えば生地にコーヒーの味を染み込ませたチーズケーキの一種。しかしそれが今何か関係あるのだろうか?
私は考える。メリーが突然そんなことを言い出した意味を――。
――多分、それが私の隙だったのだろう。
ふと、視界でメリーが動いた。
「……えっ?」
気付いたときには遅かった。
私が全てを認識したとき、メリーはすでに全てを終えていたのだ。
「ごちそうさま、蓮子」
メリーはそういった。
そうだ。今メリーは私の右頬についたマヨネーズに唇を寄せ、そして確かに舐め取ったのだ。
――油断した!
「ちょ、メリー、それは――」
私は少し顔を赤くして抗議の声をあげる。顔が赤いのは怒りか、それとも照れか、それは自分でもよく分からない。様々な感情が混ざっているせいか、抗議の声も次の言葉が上手く出てこなかった。
「言いたいことは色々あるでしょうけど、今日のところは私の勝ちよ」
確かに言いたいことは色々あった。
――まさか自分がマヨネーズまみれになることまで計算だったのか、とか。
――そもそもいつから勝負になったのだろうか、とか。
しかしそんなことに今さら意味があるとは思えなかった。
今ここで意味を持つのは、私とメリーのうち、先に目的を果たしたのはメリーだという事実だけだった。
そしてこれから重要なのは戦後処理なのだ。
「はぁ……仕方ないか」
「あら、意外と諦めがいいのね」
意外そうな声をあげるメリー。
まあ確かに、日頃の行いからすればそう思われても仕方がないのだけれど。
私は自然に本題に入ろうと、話題を転換する。
「それよりメリー、どうする? 洗濯機とシャワーなら貸すわよ?」
「そうね。さすがに気持ち悪いし、お言葉に甘えようかしら」
メリーは素直に私の提案を受けた。私は心の中で少し安堵する。
そして私たちは戦後処理を始めた。
私はまだ半分くらい残っているマヨネーズの容器を綺麗に拭き取り、メリーがくれるというのでそのまま冷蔵庫に入れた。
幸いカーペットにはほとんどこぼれていなかったので、濡れティッシュで軽く拭くだけで問題はなさそうだった。これについてはあとで臭ってきたらまたそのうち何か考えることにする。
メリーが「部屋を汚してごめん」と謝ったけれど、これは二人で悪ふざけをした結果だった。私は全く気にしていなかったので「気にしないで」とだけ言った。
――そうだ、そんなことを気にしてもらっては困るのだ。
そうして片付けも粗方済んだので、私はメリーをシャワールームに放り込む。
メリーが脱いだ紫のワンピースを私はベランダに置いた洗濯機に入れた。
私が部屋に戻ると、シャワーの水音が聞こえた。私はシャワールームの扉の前に立ち、中に声をかける。
「ねえメリー」
その声に反応してメリーがシャワーを一旦止める。
「ん、何、蓮子?」
「さっきのさ、ティラミスってどういう意味?」
「ああ、あれね……」
それはどうでもいい質問だったと思う。特別に気になったというわけでもない。ただ何か、メリーの気を逸らす話題が欲しかったのだ。まあここまで来たらそれはおそらく杞憂なのだけれど、念には念を入れて、だ。
「ティラミスの語源って、蓮子は分かるかしら?」
「語源?」
ティラミスとはどういう意味を持った言葉なのか。さすがにそこまでは分からなかった。
「ティラミスはね、《私を興奮させて》って意味になるのよ」
「へえ……そうなんだ」
私は感心したような振りをする。そして用件はそれだけだとばかりに、私は自然にその言葉を口に出す。
「じゃあタオルと着替え、ここに置いておくわね」
そう私が言うと中からお礼の言葉が聞こえ、やがてシャワーの水音がそれに続いた。
私は一度だけ振り返り、自分が置いたそれを見る。
――それは身体に巻くには幅が小さい子供用のバスタオルと、着替えのスモックだった。
そしてしばらくの時が過ぎ、シャワーを終えたメリーは私に言った。
「ちょっと蓮子! もう終わったことなのに、いくらなんでもこれはずるいわよ!」
そういったメリーの姿を私は観察する。
メリーは着替えに置いておいたスモックを着ていた。髪はまだ微妙に濡れていて、その姿には何ともいえない色気がある。
メリーの言いたいことは私にも分かる。
けれど、私は思っていた。事実として確かに先に目的を果たしたのはメリーだけれど、しかしそれで私の負けが決まるわけではないのだ、と。
何故ならここは私の部屋――いわばホームグラウンドだ。
本拠地にいる人間の方が有利なことは言うまでもない。これが勝負だったというのなら、そもそもが平等な勝負などではなかったのだ。
――メリーは私がどんな言い訳をするのか、それをじっと待っていた。
しかし私は無言でメリーに近づき、そしてメリーの頭に帽子を載せる。
濡れた金髪に帽子、そしてスモック。
それは何ともマニアックな姿だ、なんてことを思いながら私は満面の笑みで口を開く。
「――ティラミス!」
「蓮子のバカ~~!」
メリーはそう叫ぶと、部屋の隅っこの方で三角座りをした。
――あ、メリーが拗ねた。
さすがにちょっとずるかったかなと、そんなことを思いながら私はメリーのそばに座って声をかける。
「ごめん」
「ダメです。許しません」
やはり正攻法ではダメらしい。
メリーがこうなってしまったらもう理屈とかは関係なくなってしまう。メリーだって私の顔にマヨネーズを塗ってマヨネーズ越しにキスをしてほっぺたをぺろりと舐めたくせにー、とか言ってもだからメリーは聞く耳なんて持ってはいないのだ。
「ねえメリー、許してよぅ。服が乾くまでの辛抱じゃない」
「やだもん」
着ている服のせいかさっきよりも少し子供っぽくなったメリーを見ながら、さてこれをどうしたものかと私は考える。
――そういえば。
「そういえばメリー、私さっきスモックを買うついでにケーキ買ってきたんだけど、一緒に食べない?」
「…………食べる」
一瞬迷ったような雰囲気だったが、やはり甘いものの誘惑には勝てなかったらしい。
私が買ってきたケーキは初めて買うお店だったので味の方は実際のところよく分からない。けれど評判は良いみたいなので、多分これでメリーも機嫌を直してくれるだろう。
「それで……」
「ん?」
「蓮子は何のケーキを買ってきたの?」
私はメリーの質問に答えようとして――沈黙。
一つは普通のイチゴの載ったショートケーキだったはずだけど、もう一つ何を買ったのかが思い出せなかった。
「ちょっと待ってね」
私はそういって冷蔵庫まで歩いて、ケーキの入った箱を取りにいく。
そうして持ってきた箱をテーブルに置き、メリーと二人で覗き込みながら箱を開けた。
そこにはショートケーキが一つ。そしてもう一つは――。
「――ティラミス」
「最近メリーを見ていると、何故か昔のことを思い出すのよね……」
私は自宅で一人、そんなことを呟いた。
それは不思議なことだった。何故ならメリーと知り合ったのは大学に入ってからのことで、昔からの知り合いというわけではないのだから。
そんなメリーのことを見て昔のことを思い出す――はて、どうしてだろうか。
私は考える。
昔、まだ小さな頃にメリーと会っていた可能性は、おそらくないだろう。そのときメリーはまだ日本に来ていなかったはずだし、そもそもそんな経験があったなら忘れるはずもない。
しかしそうであるなら、今のメリーと私の過去の記憶には何の繋がりもないはずだった。つまり、今のメリーを見て昔のことを想起する理由はどこにもないことになる。
「考えようにも、昔を思い出す理由はない、か」
私の遠い過去の記憶に、当然ながらメリーはいない。メリーに似た誰かさえ見つからない。ということは、私が思い出しているのはメリー自身ではないのだろう。
私は考え方を変える。
そもそも私は昔と言っているが、それは具体的にいつのことを言っているのだろうか。
「あれは……小学校の教室」
小学生の頃。約十年前。
そこにメリーはいない。
代わりにいるのは、今では顔さえもおぼろげなクラスメイトたち。
ふと、先生が黒板に書いた問題の答えを尋ねる。
クラスメイトたちはみんな元気な声で「はい」と言いながら手を上げた。そうして一人の子が当てられて、黒板の前まで歩いていき即座に問題を解く。――正解だった。
その子が着席すると、ちょうどそのタイミングでチャイムがなる。
――キーン、コーン、カーン、コーン。
授業はそこで終わり、日直の号令にあわせて起立、気をつけ、礼。次の瞬間には教室中が喧騒に包まれた。
ギィギィと、机と床が擦れて音を立てる。みんながそれぞれ机の向きを変えて、班ごとにひとかたまりとなって机を向かい合うように移動させる。
――今終わった授業はどうやら四時間目だったらしい。
それは給食の準備だった。
そうして給食当番の子たちが、服の上から白いスモックを着て――。
――ああ、あれだ。
私は気付いた。
私がどうしてメリーを見て、昔のことを思い出すのか――。
その理由は単純だった。
――メリーの帽子は、給食当番のそれと似ているのだ。
「……というわけで、買ってきました純白のスモック」
買ってきたばかりのそれを私は手にとって広げてみる。
ポリエステル六十五パーセント、綿三十五パーセントのそれをどうして買ってきたのかといえば――。
「何がというわけで、なのよ……私は絶対に着ないからね」
目の前のメリーがため息をつきながら言った。
――つまり、そういうわけだった。
私はメリーに、このスモックを着せるつもりで買ってきたのである。
だからメリーもすでにばっちり呼び出し済みだった。
今私の部屋にはメリーとスモックという必要な要素が全て揃っているのだ。
「いいじゃないメリー、減るもんじゃないし。むしろこのスモックあげるから増えるわよ?」
「いらないわよ、そんなの」
そういったメリーが私を呆れたような目で見ていた。
――ああ、違う。完全に呆れているのだ。
「……蓮子って頭はいいのに、突拍子も無く馬鹿なことを思いつくわよね」
「でしょ?」
「褒めてないからそんなドヤ顔しないでくれるかしら……」
嘆息するメリー。
「というよりも蓮子、もしかして今日はそんなことのために私を呼んだのかしら?」
「さあ、どうだったかしらね」
私はそういってとぼけた振りをする。
「ところでメリー、このスモックを――」
「着ないわ」
「まだ何も言ってないわよ」
「最後まで聞かなくたって、蓮子の言いたいことなんて分かるわ」
メリーはそんなことを言った。
まあほとんど言っているようなものではあるけれど。
「えー、いいじゃない、少しくらい」
「嫌よ」
「どうして?」
「だって、子供みたいで恥ずかしいじゃない」
……ふだんから幼女みたいな帽子を被っているくせに。
「蓮子、聞こえてるわよ?」
メリーが目を細めて私を見ていた。やだ、かわいい――違う、怖いだ。
メリーの表情を観察しながら、私は言い訳のためにあれこれ思考をめぐらせる。
「いや、ほら、これはあれよ――」
「……どれよ?」
「――幼女かわいいじゃない?」
「………………はぁ」
今日何度目だろうか、メリーはまたため息をついた。さすがにこの言い訳はなかったと自分でも思う。
「メリー、ため息ばかりついてると老けるわよ?」
「誰のせいよ、誰の」
「…………?」
「蓮子のせいに決まってるでしょ!」
「あぅ」
メリーが私の額をつっついてツッコミを入れる。
――マエリベリー・ハーンは漫才コンビ「秘封倶楽部」のツッコミ担当なのだ。
「違うから。漫才コンビじゃないから」
「まあそれはそれとして、メリー」
「着ないわ」
「しかしそうはいうけどね、メリー。あなたにはこのスモックを着る必然性があるのよ」
「必然性……?」
その言葉に、メリーの表情にはにわかに緊張走る。
「ざわ……ざわ……」
「……何その効果音」
私はメリーのツッコミを無視して話を続ける。
「――そう、必然よ。メリーはこのスモックを着なければならないの。だってメリーはかわいいから。そして幼女もかわいい。つまり、《メリー+幼女=かわいい+かわいい=最強》の方程式よ!」
「……ただの加算じゃない。というか、最強?」
「そう、最強。男と生まれたからには誰でも一生のうち一度は地上最強の男を夢見るものなの。それはメリーも同じ。ほら、偶然にもこんなところにメリーが最強になるための装備がッッッ! これは着るしかないッッッ!」
「………………」
メリーが無言で立ち上がる。
そうして玄関の方へ――。
「あぁ、ごめんメリー! 冗談だから帰らないでぇ」
「ちょ、わかった、わかったからそんなひっついたら危な、きゃっ」
私がメリーに抱きついて追いすがるようにしたせいで、ふいにバランスを崩したメリーと私はカーペットの上に倒れる。私は咄嗟にメリーをかばうようにして、メリーの頭を胸に抱いたまま下敷きになっていた。
「うぅ……メリー、大丈夫?」
「私は大丈夫だけど、それより蓮子は?」
メリーは下敷きになった私の心配をする。
いや、どう考えても私の自業自得なのだけれど、それで心配されると何だかとても申し訳ない気持ちになってしまう。
「私も大丈夫……」
というよりもこんなことで怪我なんてしていたらさすがに馬鹿みたいだ。
「……本当に大丈夫なのね?」
「大丈夫だって。それよりメリー、そろそろ――」
念を押すように尋ねるメリーに再度大丈夫だと答え、それよりも私の上からそろそろ降りてもらおうとしたとき――メリーが言った。
「それなら、攻守交替ね」
「…………はい?」
メリーが何だかよく分からないことを言った気がする。
――攻守交替?
「あの、メリーさん?」
「私メリーさん、今あなたの上にいるの」
「それは見れば分かるわよ! そうじゃなくて――」
メリーは一体何をしようというのか。
それが訊きたかったというか、やっぱり聞きたくないというか。
私の上にいるメリー、しかも気付いてみればいつの間にやら彼女はマウントポジションを取っていた。
本当に、いつの間に。
「蓮子、これが何か分かるかしら?」
メリーはどこからともなく取り出した新品のそれを私に見せる。
それは私にも見覚えのある、特徴的な容器だった。
キャップは赤。透明の容器に満たされた白濁の、それ――。
「――マヨネーズ?」
「そう、マヨネーズ(注・半固体状ドレッシングのうち、卵黄または全卵を使用し、かつ必須原材料〔食用植物油脂、食酢〕、卵黄、卵白、タンパク加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料〔アミノ酸等〕及び酸味料以外の原材料を使用していないものをいう)よ」
「何そのやたら長い注釈!」
「日本農林規格、通称JASよ」
「それは知ってる――いやごめん嘘全然知らなかったけど、ってそうじゃなくて! そのマヨネーズが一体何だっていうのよ?」
「蓮子、マヨネーズはね……マヨネーズは……」
「……マヨネーズは?」
「……フランス語だったのよ」
「どうでもいいわよ!」
「むかしむかし、あるところに身長百八十センチメートルを越す大柄なママがいました」
「また突然何の話よ……」
「彼は言いました――マヨネーズは飲み物です」
「明らかにカロリー過多よ、それ……というか今彼って言ったわね、ママなのに」
「『おっはーでマヨちゅっちゅ』……寝起きにはマヨネーズをちゅっちゅしましょうというその呪文――スペル――で彼は日本を混乱の渦に巻き込んだそうよ。彼こそがメタボリックシンドロームを蔓延させたと現代の歴史家は指摘しているわ」
「そ、そう。昔の日本は色々大変だったとは聞くけど、詳しいわねメリー」
「そこで私は思いました」
「……何を?」
そう尋ねながら、私は少し嫌な予感がした。
メリーが答える。
「マヨネーズはちゅっちゅするもの。蓮子もちゅっちゅするもの。つまり……《マヨネーズ+蓮子=ちゅっちゅ+ちゅっちゅ=最強》の方程式が成り立つんじゃないかしら、って」
「ただの足し算よそれ!」
私は思わずさっきどこかで聞いたようなツッコミを入れた。
けれど、違う。重要なのはそこじゃない。
――そうだ、前提がおかしいのだ。
「というか私がちゅっちゅするものってどういうことよ?」
「そんなことは無視できる些細な問題よ。蓮子だってよくテイラー展開の二次以降のオーダーを無視してるじゃない」
「違う違う違う、絶対に違うわ。そこは重要な所よ。大きな数字の前では小さな数字は無視できる物理学と同じ扱いしちゃダメよメリー!」
「せっかくだから私はこのマクローリン展開を選ぶわ」
「それもテイラー展開の一部よ! ってそうじゃなくて!」
意味の分からないメリーの論理に学術的見地からツッコミを入れる私。しかしそんな私を無視するようにメリーは続けた。
「蓮子、大発見よ……」
「何が」
「……マクローリンとマヨネーズって何だか似ているわ」
「マしかあってないわよ! どれだけマヨネーズが好きなのよメリーは」
「もう、蓮子はマヨネーズの何がそんなに不満なのよ。私はただ蓮子のマヨネーズ和えを作ろうとしているだけなのに」
「それが不満なのよ!」
「そう、分かったわ」
「……いや、メリーは絶対分かってないって顔をしてる」
「蓮子、タルタルソース派でしょう?」
「やっぱり分かってなかった!」
確かにタルタルソースは好きだけど、そうじゃない。
「大丈夫、安心して蓮子。私はそんなあなたのことも全て受け入れるわ……タルタルソースもマヨネーズの仲間だから」
「それくらい知ってるわよ! だからそういうことじゃなくて――」
――私は単純にマヨネーズをかけられたくないだけなのだ。
しかしメリーの目は本気だった。私が拒否しても、きっとメリーは私をマヨネーズ和えにするだろう。
――これは私の貞操の危機だ。言い換えるなら貞操クライシス。
マヨネーズに犯されるか否か、今その分岐点で私はメリーにマウントポジションを取られていた。
――あれ、これってすでに詰みでは?
いつリングサイドからタオルが投げ込まれても不思議ではないこの絶望的な状況で、私は考える。
そんな私にメリーは口を開いた。
「もう、蓮子はわがままね……どうしてそんなに嫌がるのよ」
メリーは続ける。
「これは蓮子がその淫らな欲望のために私にスモックを着せようとしたのと同じことでしょ?」
「ち、違っ、私は……」
「違う? あなたは私の都合を考えず、ただ自分の都合だけでそれを着せようとしたじゃない」
「それは……」
否定は出来なかった。
「――私はあなたの玩具じゃないわ」
メリーはそういった。
私はそんなことを思ったりはしていなかった。けれど、もしかしたらメリーはそう感じてしまったりしたのだろうか。
だとしたら、私は――。
「……ひっく……ぐす……」
「え、ちょっと蓮子……?」
予想外の反応だったのだろうか、メリーは一瞬取り乱したようにする。
――その刹那。
「隙あり!」
私は右手でメリーの右手首を掴み、左手はメリーの背中側に回す。そうしてメリーを引っ張り、くるりと回転するようにその体を入れ替えた。
仰向けに倒れたメリーの上で、私はマウントポジションを取っている。
形勢逆転だ。
「蓮子、泣き真似なんて卑怯よ!」
「ふふ、何とでも言いなさい。歴史は勝者が作るのよ。その歴史に自分が卑怯だったなんて誰も書いたりしないわ」
メリーの敗因。それはいつでもとどめをさせるという慢心だった。いつでもできるなら、さっさとやってしまうべきだったのに。けれどメリーはそうしなかった。
メリーは何も考えず、ただ欲望のままにさっさと私をその白濁で汚せばよかったのだ。そうすれば少なくともメリーの目的は達成されたはずだ。
かの英雄、アレクサンドロス大王は言った。《戦場とは、激動の状態である。ゆえに戦場でのすべての行為は激動のままになされねばならない》と。
つまり、躊躇えば負けなのだ。その点、私には情けも容赦もない。メリーの上に乗った瞬間、すでにその手にはスモック。問答無用だった。
無言のまま私はそれをメリーに着せようとする。
「……あれ?」
しかし、そこで気付く。
メリーが倒れている状態では、スモックを着せることがとても難しいということに。
「抜かったわね、蓮子。急いては事を仕損じるものよ。そして何より……私の手からマヨネーズを奪わなかったのは致命的ね」
そういったメリーは瞬時にマヨネーズの赤いキャップを外し、そして狙いを私に定めて全力でマヨネーズの容器を圧迫する。
――私がそれを把握できたのは、極限まで時間が圧縮されたような不思議な感覚があったからだ。まるでスローモーションのように物事が流れていく中で、思考と認識だけは通常の速度で動いているような。あるいは逆で、私の思考と認識こそが加速していたのかも知れない。どちらにせよ、私は確かにそれを見たのだ。
――新品のマヨネーズには、必ず付いている銀色の中蓋。
メリーはおそらく気付いていない。だからこそ全力で容器を圧迫したのだろう。その白濁で私を汚すために。
もちろんメリーはマヨネーズの容器を爆発させるような馬鹿力を持ってはいない。けれど下から私にマヨネーズをかけようとするからには、その力はそれ相応に大きいはずだった。
私は一人、静かに覚悟する――そして瞑目。
次の瞬間、爆発的な音を伴って噴出されるマヨネーズ。
しかしそのマヨネーズはメリーの狙いとは異なり、中蓋に遮られたことで四方八方に散らばるような軌道を描いた。
「ひゃっ」
私は少量のマヨネーズを顔に浴びて小さく声をあげる。生ぬるく、どろりとした粘性を持つそれは私が想像していたよりもずっと気持ちが悪かったのだ。けれど幸い目には入らずマヨネーズがかかったのは鼻から右頬にかけてだけだったので、私はすぐに目を開けることができた。
――すると、そこは大惨事だった。
散らばったマヨネーズはべたりとメリーの服を汚していた。これはさすがに拭き取ったくらいではどうにもならない。すぐに洗濯機行きだろう。マヨネーズは油汚れなのだ。
しかしそれよりも何より、メリーの顔面一帯にマヨネーズの層が出来ていた。
メリーの顔が見えない。マヨネーズで。
まるでのっぺらぼうの妖怪のようだ、と、私はどうでもいいことを考える。
――というかこれ、息はできるのだろうか?
「……メリー、さん?」
私は恐る恐るメリーに声をかける。
するとメリーはぴくぴくと痙攣したように小さく身体を動かしながら声を発した。
「……ぅ……っ」
「うん、何を言ってるのか全然分からないわメリー」
私はメリーの上から離れて、近くにあったティッシュを取ってメリーの顔を拭いた。さすがに綺麗に全部拭き取ることは出来なかったけれど、今はこれで充分だろう。
「メリー、大丈夫?」
「うぅ……マヨネーズ臭いわ」
「マヨネーズよ」
「そう、これが、マヨネーズ(注・半固体状ドレッシングのうち、卵黄または全卵を使用し、かつ必須原材料〔食用植物油脂、食酢〕、卵黄、卵白、タンパク加水分解物、食塩、砂糖類、香辛料、調味料〔アミノ酸等〕及び酸味料以外の原材料を使用していないものをいう)……」
「……そうよ」
私はツッコミを入れる気も起きず、適当に返事をした。
しかしメリーはそれを気にした様子もなく、ただゆっくりと身体を起こす。
「ねえ、蓮子……ティラミスって知ってる?」
「ティラミス?」
唐突にそんなことを尋ねるメリー。
ティラミスなら私も知っていた。簡単に言えば生地にコーヒーの味を染み込ませたチーズケーキの一種。しかしそれが今何か関係あるのだろうか?
私は考える。メリーが突然そんなことを言い出した意味を――。
――多分、それが私の隙だったのだろう。
ふと、視界でメリーが動いた。
「……えっ?」
気付いたときには遅かった。
私が全てを認識したとき、メリーはすでに全てを終えていたのだ。
「ごちそうさま、蓮子」
メリーはそういった。
そうだ。今メリーは私の右頬についたマヨネーズに唇を寄せ、そして確かに舐め取ったのだ。
――油断した!
「ちょ、メリー、それは――」
私は少し顔を赤くして抗議の声をあげる。顔が赤いのは怒りか、それとも照れか、それは自分でもよく分からない。様々な感情が混ざっているせいか、抗議の声も次の言葉が上手く出てこなかった。
「言いたいことは色々あるでしょうけど、今日のところは私の勝ちよ」
確かに言いたいことは色々あった。
――まさか自分がマヨネーズまみれになることまで計算だったのか、とか。
――そもそもいつから勝負になったのだろうか、とか。
しかしそんなことに今さら意味があるとは思えなかった。
今ここで意味を持つのは、私とメリーのうち、先に目的を果たしたのはメリーだという事実だけだった。
そしてこれから重要なのは戦後処理なのだ。
「はぁ……仕方ないか」
「あら、意外と諦めがいいのね」
意外そうな声をあげるメリー。
まあ確かに、日頃の行いからすればそう思われても仕方がないのだけれど。
私は自然に本題に入ろうと、話題を転換する。
「それよりメリー、どうする? 洗濯機とシャワーなら貸すわよ?」
「そうね。さすがに気持ち悪いし、お言葉に甘えようかしら」
メリーは素直に私の提案を受けた。私は心の中で少し安堵する。
そして私たちは戦後処理を始めた。
私はまだ半分くらい残っているマヨネーズの容器を綺麗に拭き取り、メリーがくれるというのでそのまま冷蔵庫に入れた。
幸いカーペットにはほとんどこぼれていなかったので、濡れティッシュで軽く拭くだけで問題はなさそうだった。これについてはあとで臭ってきたらまたそのうち何か考えることにする。
メリーが「部屋を汚してごめん」と謝ったけれど、これは二人で悪ふざけをした結果だった。私は全く気にしていなかったので「気にしないで」とだけ言った。
――そうだ、そんなことを気にしてもらっては困るのだ。
そうして片付けも粗方済んだので、私はメリーをシャワールームに放り込む。
メリーが脱いだ紫のワンピースを私はベランダに置いた洗濯機に入れた。
私が部屋に戻ると、シャワーの水音が聞こえた。私はシャワールームの扉の前に立ち、中に声をかける。
「ねえメリー」
その声に反応してメリーがシャワーを一旦止める。
「ん、何、蓮子?」
「さっきのさ、ティラミスってどういう意味?」
「ああ、あれね……」
それはどうでもいい質問だったと思う。特別に気になったというわけでもない。ただ何か、メリーの気を逸らす話題が欲しかったのだ。まあここまで来たらそれはおそらく杞憂なのだけれど、念には念を入れて、だ。
「ティラミスの語源って、蓮子は分かるかしら?」
「語源?」
ティラミスとはどういう意味を持った言葉なのか。さすがにそこまでは分からなかった。
「ティラミスはね、《私を興奮させて》って意味になるのよ」
「へえ……そうなんだ」
私は感心したような振りをする。そして用件はそれだけだとばかりに、私は自然にその言葉を口に出す。
「じゃあタオルと着替え、ここに置いておくわね」
そう私が言うと中からお礼の言葉が聞こえ、やがてシャワーの水音がそれに続いた。
私は一度だけ振り返り、自分が置いたそれを見る。
――それは身体に巻くには幅が小さい子供用のバスタオルと、着替えのスモックだった。
そしてしばらくの時が過ぎ、シャワーを終えたメリーは私に言った。
「ちょっと蓮子! もう終わったことなのに、いくらなんでもこれはずるいわよ!」
そういったメリーの姿を私は観察する。
メリーは着替えに置いておいたスモックを着ていた。髪はまだ微妙に濡れていて、その姿には何ともいえない色気がある。
メリーの言いたいことは私にも分かる。
けれど、私は思っていた。事実として確かに先に目的を果たしたのはメリーだけれど、しかしそれで私の負けが決まるわけではないのだ、と。
何故ならここは私の部屋――いわばホームグラウンドだ。
本拠地にいる人間の方が有利なことは言うまでもない。これが勝負だったというのなら、そもそもが平等な勝負などではなかったのだ。
――メリーは私がどんな言い訳をするのか、それをじっと待っていた。
しかし私は無言でメリーに近づき、そしてメリーの頭に帽子を載せる。
濡れた金髪に帽子、そしてスモック。
それは何ともマニアックな姿だ、なんてことを思いながら私は満面の笑みで口を開く。
「――ティラミス!」
「蓮子のバカ~~!」
メリーはそう叫ぶと、部屋の隅っこの方で三角座りをした。
――あ、メリーが拗ねた。
さすがにちょっとずるかったかなと、そんなことを思いながら私はメリーのそばに座って声をかける。
「ごめん」
「ダメです。許しません」
やはり正攻法ではダメらしい。
メリーがこうなってしまったらもう理屈とかは関係なくなってしまう。メリーだって私の顔にマヨネーズを塗ってマヨネーズ越しにキスをしてほっぺたをぺろりと舐めたくせにー、とか言ってもだからメリーは聞く耳なんて持ってはいないのだ。
「ねえメリー、許してよぅ。服が乾くまでの辛抱じゃない」
「やだもん」
着ている服のせいかさっきよりも少し子供っぽくなったメリーを見ながら、さてこれをどうしたものかと私は考える。
――そういえば。
「そういえばメリー、私さっきスモックを買うついでにケーキ買ってきたんだけど、一緒に食べない?」
「…………食べる」
一瞬迷ったような雰囲気だったが、やはり甘いものの誘惑には勝てなかったらしい。
私が買ってきたケーキは初めて買うお店だったので味の方は実際のところよく分からない。けれど評判は良いみたいなので、多分これでメリーも機嫌を直してくれるだろう。
「それで……」
「ん?」
「蓮子は何のケーキを買ってきたの?」
私はメリーの質問に答えようとして――沈黙。
一つは普通のイチゴの載ったショートケーキだったはずだけど、もう一つ何を買ったのかが思い出せなかった。
「ちょっと待ってね」
私はそういって冷蔵庫まで歩いて、ケーキの入った箱を取りにいく。
そうして持ってきた箱をテーブルに置き、メリーと二人で覗き込みながら箱を開けた。
そこにはショートケーキが一つ。そしてもう一つは――。
「――ティラミス」
蓮子×メリー×ちゅっちゅ=破壊力
ご飯が欲しくなる蓮メリですね。良い広げ方だと思います。
ティラミス!
三題話とSSの融合を見た気がする。スモックとマヨネーズとティラミス。
まぁ、何にせよ美味しく読ませて頂きました、ごちそう様でした。
まあ途中途中の二人のやりとりが面白かったのでこの点数で
早く二人とも結婚すればいいのに