四角いドーナツの形をした文学部東館の、青天井になっている中央部分には小さな噴水があって、そこに境目があるそうだ。
夏休み前の最後の試験が終わり、帰り支度をしている私に、隣の席で同じくテストを受けていたマエリベリー・ハーンはそう言った。
ふうんと私は唸って帽子を被る。
「文学部ってどこだっけ?」
「あなた、もう少し学内を歩いたら?」
大教室の前方では集まってくる答案を哲学科の教授が慌ただしく回収している。
教養科目の名物講義で、教授の本を買って試験を受けさえすればまず間違いなく単位がもらえるという評判だ。
メリーは真面目に授業を受けていたが、私は芸術の話となるととんと興味が出ず、教授の話に聞き入って板書を熱心に取っている彼女の横顔と大教室の大きな窓から見える山の風景とを交互に眺めながら半年を過ごした。
授業の度に生徒の数が減っていくので、蝉が鳴き出す季節には人間社会から取り残されたような気持ちになった。
彼女は時折、恨めし気に私の様子を見ては鼻を鳴らし、ますますむきになって板書に励んだ。
「一体何を書いてるの?」と私は訊いてみた。
「見せてあげないわよ」
「いや、別に良いけど」
今日になって実際に試験を受けに来てみると、大教室はどこからこんなにたくさん湧いてきたのだろうというくらいの量の学生たちでごった返していた。
がやがやとざわめく教室に、いつも通り定刻から十分遅れて入ってきた教授は二回手を叩いて乾いた音を出し、学生たちを黙らせた。
テストは教授の本を参照しつつ規定量の文章を書けばよろしいというもので、学生たちからは待っていましたとばかりに拍手と歓声が上がった。
メリーは少し涙目で試験中も私をちらちらと睨んでいたが、私は元からそういう触れ込みを聞いて授業を取ったのだからそんなの理不尽だ。
そういう試験が終わった後のメリーの話だったので、彼女は自身の熱意が空回りした腹いせに私を担いでいるのではないかと思って、私は半笑いで聞いていたのだが、彼女はどうやら真剣だった。
大集団をやりすごしてからゆっくりと教室を出て、駐輪場の脇を並んで歩いている時にメリーはもう一度同じことを言った。
「あなた、どうせ夏の予定なんかないでしょう?」と彼女は言った。
「何を失礼な。ないけど」
「じゃあ明日三時半に楠の前に集合ね」
「今日は?」
メリーは少し先に歩いていって振り返って私をじっと見た。
「私は昨日勉強してたのよ、あなたと違って。帰って寝ます」
「おやすみなさい」
§
正門を入ってすぐのところにある大きな楠の前に四時頃に着くと、木を取り囲むように置かれている椅子にメリーが一人でふわりと座っていた。
他には誰もいない。
昨日まではあんなにたくさんの学生で溢れていたのに、試験が終わるとこんなにもすぐにいなくなるものかと閉口してしまう。
彼女は半分眠っていたのか俯いていて、近づいていくと色彩と現実感の薄い目を上げて私を見た。
「遅い」
「ごめん」
メリーは伸びをして立ち上がり、傍らに置いていた袋を取り上げ、先に立って歩き始めた。
陽はやや西に傾いていたけれど、夏の構内はまだまだ暑くて空気が揺らめいた。
私は軽やかな足取りのメリーの後をふらふらと辿る。
食堂の傍を通り過ぎ、しばらく歩くと不意にメリーが立ち止まった。
「ここよ」
四角いドーナツの形をした文学部東館は、時の流れから忘れ去られたようにしてひっそりとそびえていた。
建物の西側は、一階部分が通路のようになっていて、そこからドーナツの穴が覗ける。
先に中に入っていくメリーを私は慌てて追いかけた。
通路の左側には掲示板があって、何かの思想や催し物を喧伝するビラが所狭しと貼ってある。
ドーナツの穴は、建物に囲まれているのに樹が好き放題に生い茂っていて、そのせいか外とは切り離されたまったく別の空間のように思えた。
他の場所とは気温が五度ほども低く感じられる。
空気が妙な質量をまとって音が幾分鈍く聞こえ、どこからか懐かしい匂いがした。
また、その空間には幾つか野外には場違いなものも存在していた。
古ぼけたソファがそこにはあった。
旧式の(それこそ教科書でしか見たことがないような)ファックス付きの電話機が転がっていた。
赤い郵便受けらしきものが打ち捨てられていた。
この大学にはそういう、何と言うか、奇妙なところがあるというのは耳にしていたけれど、実際目の前にしてみるとあまりに無秩序なので私はだんだん目眩がしてきた。
メリーが私を呼ぶのでそちらを見ると、彼女はその空間の真ん中に立っている。
近づいていくと、目の前にある黒い塊を指差した。
「これがその噴水」
イメージしていたものとは少々違ったが、確かにそれは弱々しく水を噴いて、ささやかな潤いを器にもたらしていた。
私は辺りをぐるりと見渡してみる。
確かに奇妙な場所で、大学の中にこんなところがあるだなんて知らなかった。
けれど、メリーの言うような不思議な出来事が起こるのかというと、今のところなんとも言い難かった。
「ここにそれがあるの?」と私は訊いた。
「今はまだ」とメリーは言った。彼女の表情から私は何も読み取れなかった。「ゆっくり待ちましょう」
彼女の持っていた袋の中身はお茶やお菓子だった。
私たちは古いソファに並んで腰かけて、遠くから聴こえる蝉の声に耳をすませながらビスケットやウェハースを齧った。
古い文明の味がした。
「専門科目はどう?」と私は訊いてみた。
「テストは簡単だったわ」と彼女は言った。「でも、夏の間に勉強しないと」
思えば彼女が何を勉強しようとしているのかちゃんと知らなかった。
留学するというのは、彼女は博士まで行くつもりなのだろうか。
そうだとしても、こちらで取るのか母国で取るのか。
それとも単に留学するということ自体が母国での就職に有利なのだろうか。
それはないだろうな、と何となく思った。
必ずしも世事に疎いというわけではないのかもしれないが、彼女はそういった打算とか、世渡りとか、そういうものとはことごとく無縁のような感じがした。
頭は良いはずなのに、昨日の試験のように、びっくりするほど要領の悪いところがある。
文系で研究職を目指すのだろうか。
正直なところ、一体何をするのか見当もつかなかった。
そのため、それ以上何も訊きようがなくて、その話題はそれきりになってしまった。
私たちのいる場所は一応陰になっているとはいうものの、三方を建物に囲まれているので風も吹かなくて、夏の熱気が次第に溜まっていった。
一時間もすると、私は夏休みが始まったばかりなのにこんなところで一体何をしているのだろうと考え始めた。
少なくとも、数年前の私にはこういう大学生活は予想しえなかっただろう。
じゃあ何をしたかったのかと問われると答えに窮してしまうけれど……。
傍らに座っている留学生を見ると、すっかり寛いでこの奇妙な空間に同化している。
急ぎも焦りもせずに、庭の朝顔を見るような顔をして噴水を見ている。
私はその横顔をついついぼうっと見つめてしまい、彼女に不審そうな顔で「……どうしたの?」と訊かれてしまう。
どうしたの……本当にどうしたんだろう。
彼女の問い掛けに答えることが出来なくて私はただ俯いた。
それを知りたいのは私の方だ。
メリーはまったく気づいていないようだけれど、私はこの風変わりな同級生が何を考えているのか知りたくて、興味のない芸術学の講義にも通ったのだ。
そうでなければ、授業に出ずとも単位が自動で降りてくるような授業に誰が半年も付き合うものか。
四月、サークルの新歓に幾つも行ったけれど、どれ一つとして私の心には響かなかった。
集まって酒を飲んだり、スポーツをしたり、恋愛ごっこをしたり、ボランティアをしたり、そんなことをしにわざわざ東京からやって来たんじゃない。
大学にはもっと刺激的な、蠱惑的な、心躍るような何かがあるはずだと思っていた。
でも、どこに行ってもそんなものは見つからなかった。
そのうちに、私は身の丈に合わない高望みをしているのかなと考え始めた。
どこにも馴染めていない、居場所を見つけられていない自分にちゃんと向き合うことから逃げて、何か自分は高邁な理想を抱いている、そんな風に思うことで自身を誤魔化しているのではないかと。
私は単にプライドが肥大化しただけのつまらない人間なのではないかと。
そんな時にメリーと出会ったのだ。
彼女は、彼女だけは何か纏う雰囲気が違った。
もしかすると、彼女の中には私の求めていたものが本当にあるのかもしれない。
そう思った。
しばらく一緒にいると、ある日彼女は「境目が見えるの」と打ち明けた。
他の誰がそんなことを言っても私は鼻で笑い飛ばしたけれど、彼女の口から聞いた以上、私はこれは嘘でも何でも最後まで付き合って確かめるしかないと思った。
しかし、それからしばらく経っても、彼女は彼女の中にあるという、その何かを取り出して私に見せてはくれなかった。
ある程度の時間を共に行動しても、それはただ一緒にいるというだけのことで、境目の話も、それに準ずる何かも、彼女の口からは出てこない。
彼女は真面目で優秀な学生であったけれども、それ以上の何かではないように見えた。
私はやきもきして、こんなはずじゃないじゃないかと思った。
ある時点から自分の嗅覚を疑い出した。
私は相手が外国人だという、それだけのことに惑わされて彼女を特別視しているのではないかと考えた。
彼女のただならぬ雰囲気も、聡明さも、行動の突拍子もなさも、彼女が留学生だという事実のみによって都合よく味付けされた、人間誰しもが持っている個体差の表出に過ぎないのではないか、と思い始めた。
ともあれ、いずれにせよ今日を一つの節目にするつもりでいた。
新しい環境に飛び込んだ若者に特有の、他者を値踏みする傲慢さと性急さでもって私はそのように決めた。
今日一日付き合って、何も面白いことが起こらなければ、もう彼女からは離れよう。
結局のところ、学問が大学で一番やりたかったことのはずだ。
始めの目標に帰るだけのこと。
そう自分に言い聞かせると、私は何か冷え冷えとした安心感に覆われた。
それから、メリーに対して罪悪感を覚えた。
自分は本当に嫌な人間だと思った。
自分の中に溜まった汚いものを出すような気持ちでゆっくりと息を吐き、私はソファに身体を沈めた。
§
腕を何度か軽く叩かれて目が覚める。
少し眠ってしまったようだ。
日が西に傾き、光が入り口から差し込んで、ドーナツの穴は見事に赤く染まっていた。
夕焼けの中で私はゆっくりと息を吸った。
何とも言えず甘い匂いがした。
私は身じろぎして、メリーを見て、息を呑んだ。
眠気がいっぺんに吹き飛んだ。
赤のフィルターが幾重にもかかり、輪郭をぼやけさせていて、しかしその中で彼女の二つの目だけが夕焼けに埋もれずに浮かび上がっていた。
全身の毛が逆立つ。
眠る前に考えたことも、抱いていた罪悪感も、都合良く綺麗に忘れていた。
大学に入って、初めて心が熱を帯びて沸き立っていた。
「何が起こるの」と私は訊いた。
声が少し震えていた。
メリーは静かに右手の人差し指を口の前に当てた。
私は頷いて口を噤む。
ごくりと喉が鳴った。
メリーは立ち上がって、前に歩いて行った。
行く先には噴水があった。
そうだ……噴水に裂け目があると彼女は言っていたのだった。
それは噴き出す水ごと夕焼けに赤く染め上げられていた。
彼女は歩いていき、それに手をかざした。
私は立ち上がって彼女の背中に近づく。
噴水は相変わらず弱々しく水を吹いていた。
すうっとメリーは空間に指で線を引く。
時間が止まった気がした。
風が吹いているのに気付いた。
おかしい。
ここは三方向が壁で囲まれているのに。
風の出処を確かめる間もなく、メリーが指を引いた空間がぱっくりと裂けた。
それは文字通り宙に穴が開いたといった風で、私は思わず一歩後ずさった。
メリーは魅入られたようにその裂け目を見つめていた。
彼女は手を出した。
「危ない!」と私が叫んだ時には既に彼女は穴の中に右手を突っ込んでいた。
メリーが引きずり込まれたらどうしよう、と思って咄嗟に私は彼女の左手を両手で握る。
突風が正面から吹いてきた。
裂け目から黒い……なんだろう、蝶?
蝶だ。
蝶が群れを成して湧き出てきた。
斑点が羽ばたくごとにちらちらと光る。
夕焼けで輪郭がぼやけて煙のように見えた蝶たちは、私たち二人の方に真っ直ぐ向かってきた。
私はどうすれば良いのか分からなくて、メリーの横顔を見て名前を呼ぶ。
びくり、とメリーの身体が跳ねて我に返ったように私の方を見る。
目が爛々と輝いて浮かび上がっていた。
「どうしよう!」と私は蝶の群れを指さして叫ぶ。
メリーは正面を向いた。
蝶たちは真っ直ぐメリーの正面に突っ込んでくる。
私が何をする間もなかった。
メリーがおののいたように口を開けると、その中に何百匹という蝶が飛び込んでいった。
私は慌てて蝶の群れを押しのけてメリーの正面に回り込み、彼女の口を手で塞ぐ。
両肩を掴んで、大声で彼女の名前を呼んだ。
彼女の両目は大きく開いたままだったが、がらんどうの様に光を吸ったり吐いたりしているだけで意志がこもっていない。
気絶しているのではないか。
私は何回も彼女の名前を呼んだ。
突然、彼女の身体が力を失って前に倒れてくる。
身体を地面に打ち付けないようにと慌てて抱きとめた。
膝をつかせてやる。
私はパニック寸前で、ああでも、今私しか動ける人間がいない、文学部棟には誰もいないし……周りにはまだ何十匹もの黒い蝶が……そうだ、蝶だ。
彼女の口を開けると蝶がもろもろと崩れながら溶岩の様に流れ出してきた。
斑点が妙に光って、粉っぽくて、気持ち悪いことこの上なかったが、しょうがない。
私は左腕を彼女の首の後ろに回して手で横顔を支え、彼女の顔をやや俯かせる。
右の人差し指と中指を彼女の口の中に突っ込んで蝶のスープを掻き出した。
蝶は出しても出しても溢れてきて、私はだんだん泣きそうになってきた。
地面に黒い禍々しい液体が溜まっていく。
もっと悪いことに、相変わらず周りを飛んでいた蝶たちが地面に集まってきて、管を伸ばして同胞たちのエキスを吸い始めた。
見ているとあまりにおぞましくて、気持ちが悪くて、吐きそうになった。
その時、ああ、そうだ、酔った同級生を介抱するように、えずかせて一遍に出させた方が良いのではと思って、私は二本の指をゆっくりとメリーの喉の奥の上の方に近づけていった。
喉の奥を探り当てると、メリーは肩を大きく震わせ始める。
何回目かの脈動の後で、彼女が一段と大きく身を引いて、ああようやく、と思ったその瞬間、指先に今までとは違う何か生温かいものが触れた。
引っかかり、纏わりつく。
それが何なのか考える間もなく、メリーが黒いどろどろとした蝶たちを吐き出し、吐瀉物に押し流されて私の指も彼女の口から飛び出た。
そうしてそれは姿を見せた。
人の手が私の人差し指と中指を握っていた。
手がメリーの口から飛び出ていた。
動いて、私の指の上を這い上がってくる。
私は悲鳴を上げた。
メリーの上半身を支えている左手を離しそうになって、ぎりぎりのところで、今離したら彼女が頭を地面に打ち付けてしまう、という判断ができて、両目をぎゅっと瞑って彼女の身体を支えた。
何が何なのか分からなかった。
とにかくこれが早く終わって欲しい。
私はメリーの両肩を支え、目を瞑ったままで、起きて、起きてと何度も大声で呼ぶ。
メリーの口から飛び出る手を見るのが怖くて、目を開ける勇気がなかった。
彼女の背中に顔を押しつけて何度も荒い息をついて、過呼吸のような状態になってきて、意識が朦朧として、がんがんがんがんと頭の裏が脈打って、ああ、気を失っては駄目、駄目なのに……。
§
腕を叩かれて目が覚める。
目を瞑ったまま、私は深く息を吸い、吐く。
「ちょっと、ねえ、痛いわ」とメリーが言う。
思った以上に強い力を込めて彼女の両肩を握りしめていたことに気付き、力を抜く。
「あなた、口から手が出てない?」と私は思わず訊く。
「なあにそれ。日本のことわざ?」
私は目を開けて背中からメリーに抱きついた。
「ああ、良かった」と私は言った。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「どこまで覚えてるの?」
「いっぱい蝶が飛んできたくらいかな」
「そうだ、蝶が」
私は彼女の肩越しに周りを見た。
蝶たちが共食いをしていたあの場所を。
しかし、そこには夕焼けに照らされたコンクリートの床が最初と同じようにあるだけで、あのグロテスクな事象の痕跡となるものは何も残っていなかった。
「なに……夢?」
「ある意味ではね」とメリーは言った。
「あなたも同じ夢を?」
「そう。だけど」と言ってメリーは左手で何かを握ったまま私にも見えるように上にかざした。
メリーはゆっくりと手を開く。
私は息を飲んだ。
彼女の手の中からあの蝶が一匹飛び出して、不気味な斑点をひらひらさせながら夕暮れ空へと羽ばたいていったのだ。
「すべてが夢ってわけじゃない」と彼女は言った。
「……どういうことなの」
「どういうことなんだろう。私にもさっぱり分からない、本当に。あなたはどう思う? 夢と現実って本当に別のものなのかな。私たちが今いるのは本当に現実なのかな。もしそうだったとして、それは夢の中とどう違うのかな。どちらにいる時も私なのかな。私はどこからどこまでが私なのかな。意識ってなんだろう。私には分からないわ。どう思う? 私、それを勉強しにこの国に来たのよ」
「ねえ、本当にごめんなさい」と私は小さな声で言った。「あなたのこと疑ってた」
「良いのよ、そんなこと」と彼女は言った。「見るまでは誰も信じない。見せたのはあなたが初めてだけど。どう思う? 私、あなたの意見が聞きたいの。ねえ、夢の中での自分の行動に責任を取れる?」
私はメリーをじっと見た。
「どうだろう」と私は言った。「私は現実の中でさえ覚束ないかもしれない」
見事な夕焼けの中で、メリーの二つの目がきらりと光った。
私はこの光景をいつまでも忘れないだろうと思った。
§
夏休みが終わって、意を決して独りで文学部を覗いてみると、いつの間にかあの噴水は埋め立てられてしまっていた。
ソファとファックスと郵便受けは百年前からそこにいたのだというような顔をして相変わらずそこにいたが、あの夕方の異様な静けさと寒気のするような空気はもはや消え失せていた。
授業の合間に煙草を吸いにくる文学部の学生たちが訝しげな表情でちらちらとこちらを見始めたので、私はそこから退散することにした。
ともかくあの時、文学部東棟での一件から、私にとってメリーはただの頭の良い不思議な雰囲気を纏った留学生の女の子ではなく、私を得体の知れぬ世界へと誘うきざはしに、そしてもちろん私のかけがえのない友人になった。
自分の目について彼女に打ち明けるのも、二人だけのオカルトサークルを作るのも、もう少しだけ後のことだけど。
夏休み前の最後の試験が終わり、帰り支度をしている私に、隣の席で同じくテストを受けていたマエリベリー・ハーンはそう言った。
ふうんと私は唸って帽子を被る。
「文学部ってどこだっけ?」
「あなた、もう少し学内を歩いたら?」
大教室の前方では集まってくる答案を哲学科の教授が慌ただしく回収している。
教養科目の名物講義で、教授の本を買って試験を受けさえすればまず間違いなく単位がもらえるという評判だ。
メリーは真面目に授業を受けていたが、私は芸術の話となるととんと興味が出ず、教授の話に聞き入って板書を熱心に取っている彼女の横顔と大教室の大きな窓から見える山の風景とを交互に眺めながら半年を過ごした。
授業の度に生徒の数が減っていくので、蝉が鳴き出す季節には人間社会から取り残されたような気持ちになった。
彼女は時折、恨めし気に私の様子を見ては鼻を鳴らし、ますますむきになって板書に励んだ。
「一体何を書いてるの?」と私は訊いてみた。
「見せてあげないわよ」
「いや、別に良いけど」
今日になって実際に試験を受けに来てみると、大教室はどこからこんなにたくさん湧いてきたのだろうというくらいの量の学生たちでごった返していた。
がやがやとざわめく教室に、いつも通り定刻から十分遅れて入ってきた教授は二回手を叩いて乾いた音を出し、学生たちを黙らせた。
テストは教授の本を参照しつつ規定量の文章を書けばよろしいというもので、学生たちからは待っていましたとばかりに拍手と歓声が上がった。
メリーは少し涙目で試験中も私をちらちらと睨んでいたが、私は元からそういう触れ込みを聞いて授業を取ったのだからそんなの理不尽だ。
そういう試験が終わった後のメリーの話だったので、彼女は自身の熱意が空回りした腹いせに私を担いでいるのではないかと思って、私は半笑いで聞いていたのだが、彼女はどうやら真剣だった。
大集団をやりすごしてからゆっくりと教室を出て、駐輪場の脇を並んで歩いている時にメリーはもう一度同じことを言った。
「あなた、どうせ夏の予定なんかないでしょう?」と彼女は言った。
「何を失礼な。ないけど」
「じゃあ明日三時半に楠の前に集合ね」
「今日は?」
メリーは少し先に歩いていって振り返って私をじっと見た。
「私は昨日勉強してたのよ、あなたと違って。帰って寝ます」
「おやすみなさい」
§
正門を入ってすぐのところにある大きな楠の前に四時頃に着くと、木を取り囲むように置かれている椅子にメリーが一人でふわりと座っていた。
他には誰もいない。
昨日まではあんなにたくさんの学生で溢れていたのに、試験が終わるとこんなにもすぐにいなくなるものかと閉口してしまう。
彼女は半分眠っていたのか俯いていて、近づいていくと色彩と現実感の薄い目を上げて私を見た。
「遅い」
「ごめん」
メリーは伸びをして立ち上がり、傍らに置いていた袋を取り上げ、先に立って歩き始めた。
陽はやや西に傾いていたけれど、夏の構内はまだまだ暑くて空気が揺らめいた。
私は軽やかな足取りのメリーの後をふらふらと辿る。
食堂の傍を通り過ぎ、しばらく歩くと不意にメリーが立ち止まった。
「ここよ」
四角いドーナツの形をした文学部東館は、時の流れから忘れ去られたようにしてひっそりとそびえていた。
建物の西側は、一階部分が通路のようになっていて、そこからドーナツの穴が覗ける。
先に中に入っていくメリーを私は慌てて追いかけた。
通路の左側には掲示板があって、何かの思想や催し物を喧伝するビラが所狭しと貼ってある。
ドーナツの穴は、建物に囲まれているのに樹が好き放題に生い茂っていて、そのせいか外とは切り離されたまったく別の空間のように思えた。
他の場所とは気温が五度ほども低く感じられる。
空気が妙な質量をまとって音が幾分鈍く聞こえ、どこからか懐かしい匂いがした。
また、その空間には幾つか野外には場違いなものも存在していた。
古ぼけたソファがそこにはあった。
旧式の(それこそ教科書でしか見たことがないような)ファックス付きの電話機が転がっていた。
赤い郵便受けらしきものが打ち捨てられていた。
この大学にはそういう、何と言うか、奇妙なところがあるというのは耳にしていたけれど、実際目の前にしてみるとあまりに無秩序なので私はだんだん目眩がしてきた。
メリーが私を呼ぶのでそちらを見ると、彼女はその空間の真ん中に立っている。
近づいていくと、目の前にある黒い塊を指差した。
「これがその噴水」
イメージしていたものとは少々違ったが、確かにそれは弱々しく水を噴いて、ささやかな潤いを器にもたらしていた。
私は辺りをぐるりと見渡してみる。
確かに奇妙な場所で、大学の中にこんなところがあるだなんて知らなかった。
けれど、メリーの言うような不思議な出来事が起こるのかというと、今のところなんとも言い難かった。
「ここにそれがあるの?」と私は訊いた。
「今はまだ」とメリーは言った。彼女の表情から私は何も読み取れなかった。「ゆっくり待ちましょう」
彼女の持っていた袋の中身はお茶やお菓子だった。
私たちは古いソファに並んで腰かけて、遠くから聴こえる蝉の声に耳をすませながらビスケットやウェハースを齧った。
古い文明の味がした。
「専門科目はどう?」と私は訊いてみた。
「テストは簡単だったわ」と彼女は言った。「でも、夏の間に勉強しないと」
思えば彼女が何を勉強しようとしているのかちゃんと知らなかった。
留学するというのは、彼女は博士まで行くつもりなのだろうか。
そうだとしても、こちらで取るのか母国で取るのか。
それとも単に留学するということ自体が母国での就職に有利なのだろうか。
それはないだろうな、と何となく思った。
必ずしも世事に疎いというわけではないのかもしれないが、彼女はそういった打算とか、世渡りとか、そういうものとはことごとく無縁のような感じがした。
頭は良いはずなのに、昨日の試験のように、びっくりするほど要領の悪いところがある。
文系で研究職を目指すのだろうか。
正直なところ、一体何をするのか見当もつかなかった。
そのため、それ以上何も訊きようがなくて、その話題はそれきりになってしまった。
私たちのいる場所は一応陰になっているとはいうものの、三方を建物に囲まれているので風も吹かなくて、夏の熱気が次第に溜まっていった。
一時間もすると、私は夏休みが始まったばかりなのにこんなところで一体何をしているのだろうと考え始めた。
少なくとも、数年前の私にはこういう大学生活は予想しえなかっただろう。
じゃあ何をしたかったのかと問われると答えに窮してしまうけれど……。
傍らに座っている留学生を見ると、すっかり寛いでこの奇妙な空間に同化している。
急ぎも焦りもせずに、庭の朝顔を見るような顔をして噴水を見ている。
私はその横顔をついついぼうっと見つめてしまい、彼女に不審そうな顔で「……どうしたの?」と訊かれてしまう。
どうしたの……本当にどうしたんだろう。
彼女の問い掛けに答えることが出来なくて私はただ俯いた。
それを知りたいのは私の方だ。
メリーはまったく気づいていないようだけれど、私はこの風変わりな同級生が何を考えているのか知りたくて、興味のない芸術学の講義にも通ったのだ。
そうでなければ、授業に出ずとも単位が自動で降りてくるような授業に誰が半年も付き合うものか。
四月、サークルの新歓に幾つも行ったけれど、どれ一つとして私の心には響かなかった。
集まって酒を飲んだり、スポーツをしたり、恋愛ごっこをしたり、ボランティアをしたり、そんなことをしにわざわざ東京からやって来たんじゃない。
大学にはもっと刺激的な、蠱惑的な、心躍るような何かがあるはずだと思っていた。
でも、どこに行ってもそんなものは見つからなかった。
そのうちに、私は身の丈に合わない高望みをしているのかなと考え始めた。
どこにも馴染めていない、居場所を見つけられていない自分にちゃんと向き合うことから逃げて、何か自分は高邁な理想を抱いている、そんな風に思うことで自身を誤魔化しているのではないかと。
私は単にプライドが肥大化しただけのつまらない人間なのではないかと。
そんな時にメリーと出会ったのだ。
彼女は、彼女だけは何か纏う雰囲気が違った。
もしかすると、彼女の中には私の求めていたものが本当にあるのかもしれない。
そう思った。
しばらく一緒にいると、ある日彼女は「境目が見えるの」と打ち明けた。
他の誰がそんなことを言っても私は鼻で笑い飛ばしたけれど、彼女の口から聞いた以上、私はこれは嘘でも何でも最後まで付き合って確かめるしかないと思った。
しかし、それからしばらく経っても、彼女は彼女の中にあるという、その何かを取り出して私に見せてはくれなかった。
ある程度の時間を共に行動しても、それはただ一緒にいるというだけのことで、境目の話も、それに準ずる何かも、彼女の口からは出てこない。
彼女は真面目で優秀な学生であったけれども、それ以上の何かではないように見えた。
私はやきもきして、こんなはずじゃないじゃないかと思った。
ある時点から自分の嗅覚を疑い出した。
私は相手が外国人だという、それだけのことに惑わされて彼女を特別視しているのではないかと考えた。
彼女のただならぬ雰囲気も、聡明さも、行動の突拍子もなさも、彼女が留学生だという事実のみによって都合よく味付けされた、人間誰しもが持っている個体差の表出に過ぎないのではないか、と思い始めた。
ともあれ、いずれにせよ今日を一つの節目にするつもりでいた。
新しい環境に飛び込んだ若者に特有の、他者を値踏みする傲慢さと性急さでもって私はそのように決めた。
今日一日付き合って、何も面白いことが起こらなければ、もう彼女からは離れよう。
結局のところ、学問が大学で一番やりたかったことのはずだ。
始めの目標に帰るだけのこと。
そう自分に言い聞かせると、私は何か冷え冷えとした安心感に覆われた。
それから、メリーに対して罪悪感を覚えた。
自分は本当に嫌な人間だと思った。
自分の中に溜まった汚いものを出すような気持ちでゆっくりと息を吐き、私はソファに身体を沈めた。
§
腕を何度か軽く叩かれて目が覚める。
少し眠ってしまったようだ。
日が西に傾き、光が入り口から差し込んで、ドーナツの穴は見事に赤く染まっていた。
夕焼けの中で私はゆっくりと息を吸った。
何とも言えず甘い匂いがした。
私は身じろぎして、メリーを見て、息を呑んだ。
眠気がいっぺんに吹き飛んだ。
赤のフィルターが幾重にもかかり、輪郭をぼやけさせていて、しかしその中で彼女の二つの目だけが夕焼けに埋もれずに浮かび上がっていた。
全身の毛が逆立つ。
眠る前に考えたことも、抱いていた罪悪感も、都合良く綺麗に忘れていた。
大学に入って、初めて心が熱を帯びて沸き立っていた。
「何が起こるの」と私は訊いた。
声が少し震えていた。
メリーは静かに右手の人差し指を口の前に当てた。
私は頷いて口を噤む。
ごくりと喉が鳴った。
メリーは立ち上がって、前に歩いて行った。
行く先には噴水があった。
そうだ……噴水に裂け目があると彼女は言っていたのだった。
それは噴き出す水ごと夕焼けに赤く染め上げられていた。
彼女は歩いていき、それに手をかざした。
私は立ち上がって彼女の背中に近づく。
噴水は相変わらず弱々しく水を吹いていた。
すうっとメリーは空間に指で線を引く。
時間が止まった気がした。
風が吹いているのに気付いた。
おかしい。
ここは三方向が壁で囲まれているのに。
風の出処を確かめる間もなく、メリーが指を引いた空間がぱっくりと裂けた。
それは文字通り宙に穴が開いたといった風で、私は思わず一歩後ずさった。
メリーは魅入られたようにその裂け目を見つめていた。
彼女は手を出した。
「危ない!」と私が叫んだ時には既に彼女は穴の中に右手を突っ込んでいた。
メリーが引きずり込まれたらどうしよう、と思って咄嗟に私は彼女の左手を両手で握る。
突風が正面から吹いてきた。
裂け目から黒い……なんだろう、蝶?
蝶だ。
蝶が群れを成して湧き出てきた。
斑点が羽ばたくごとにちらちらと光る。
夕焼けで輪郭がぼやけて煙のように見えた蝶たちは、私たち二人の方に真っ直ぐ向かってきた。
私はどうすれば良いのか分からなくて、メリーの横顔を見て名前を呼ぶ。
びくり、とメリーの身体が跳ねて我に返ったように私の方を見る。
目が爛々と輝いて浮かび上がっていた。
「どうしよう!」と私は蝶の群れを指さして叫ぶ。
メリーは正面を向いた。
蝶たちは真っ直ぐメリーの正面に突っ込んでくる。
私が何をする間もなかった。
メリーがおののいたように口を開けると、その中に何百匹という蝶が飛び込んでいった。
私は慌てて蝶の群れを押しのけてメリーの正面に回り込み、彼女の口を手で塞ぐ。
両肩を掴んで、大声で彼女の名前を呼んだ。
彼女の両目は大きく開いたままだったが、がらんどうの様に光を吸ったり吐いたりしているだけで意志がこもっていない。
気絶しているのではないか。
私は何回も彼女の名前を呼んだ。
突然、彼女の身体が力を失って前に倒れてくる。
身体を地面に打ち付けないようにと慌てて抱きとめた。
膝をつかせてやる。
私はパニック寸前で、ああでも、今私しか動ける人間がいない、文学部棟には誰もいないし……周りにはまだ何十匹もの黒い蝶が……そうだ、蝶だ。
彼女の口を開けると蝶がもろもろと崩れながら溶岩の様に流れ出してきた。
斑点が妙に光って、粉っぽくて、気持ち悪いことこの上なかったが、しょうがない。
私は左腕を彼女の首の後ろに回して手で横顔を支え、彼女の顔をやや俯かせる。
右の人差し指と中指を彼女の口の中に突っ込んで蝶のスープを掻き出した。
蝶は出しても出しても溢れてきて、私はだんだん泣きそうになってきた。
地面に黒い禍々しい液体が溜まっていく。
もっと悪いことに、相変わらず周りを飛んでいた蝶たちが地面に集まってきて、管を伸ばして同胞たちのエキスを吸い始めた。
見ているとあまりにおぞましくて、気持ちが悪くて、吐きそうになった。
その時、ああ、そうだ、酔った同級生を介抱するように、えずかせて一遍に出させた方が良いのではと思って、私は二本の指をゆっくりとメリーの喉の奥の上の方に近づけていった。
喉の奥を探り当てると、メリーは肩を大きく震わせ始める。
何回目かの脈動の後で、彼女が一段と大きく身を引いて、ああようやく、と思ったその瞬間、指先に今までとは違う何か生温かいものが触れた。
引っかかり、纏わりつく。
それが何なのか考える間もなく、メリーが黒いどろどろとした蝶たちを吐き出し、吐瀉物に押し流されて私の指も彼女の口から飛び出た。
そうしてそれは姿を見せた。
人の手が私の人差し指と中指を握っていた。
手がメリーの口から飛び出ていた。
動いて、私の指の上を這い上がってくる。
私は悲鳴を上げた。
メリーの上半身を支えている左手を離しそうになって、ぎりぎりのところで、今離したら彼女が頭を地面に打ち付けてしまう、という判断ができて、両目をぎゅっと瞑って彼女の身体を支えた。
何が何なのか分からなかった。
とにかくこれが早く終わって欲しい。
私はメリーの両肩を支え、目を瞑ったままで、起きて、起きてと何度も大声で呼ぶ。
メリーの口から飛び出る手を見るのが怖くて、目を開ける勇気がなかった。
彼女の背中に顔を押しつけて何度も荒い息をついて、過呼吸のような状態になってきて、意識が朦朧として、がんがんがんがんと頭の裏が脈打って、ああ、気を失っては駄目、駄目なのに……。
§
腕を叩かれて目が覚める。
目を瞑ったまま、私は深く息を吸い、吐く。
「ちょっと、ねえ、痛いわ」とメリーが言う。
思った以上に強い力を込めて彼女の両肩を握りしめていたことに気付き、力を抜く。
「あなた、口から手が出てない?」と私は思わず訊く。
「なあにそれ。日本のことわざ?」
私は目を開けて背中からメリーに抱きついた。
「ああ、良かった」と私は言った。
「ごめんね、巻き込んじゃって」
「どこまで覚えてるの?」
「いっぱい蝶が飛んできたくらいかな」
「そうだ、蝶が」
私は彼女の肩越しに周りを見た。
蝶たちが共食いをしていたあの場所を。
しかし、そこには夕焼けに照らされたコンクリートの床が最初と同じようにあるだけで、あのグロテスクな事象の痕跡となるものは何も残っていなかった。
「なに……夢?」
「ある意味ではね」とメリーは言った。
「あなたも同じ夢を?」
「そう。だけど」と言ってメリーは左手で何かを握ったまま私にも見えるように上にかざした。
メリーはゆっくりと手を開く。
私は息を飲んだ。
彼女の手の中からあの蝶が一匹飛び出して、不気味な斑点をひらひらさせながら夕暮れ空へと羽ばたいていったのだ。
「すべてが夢ってわけじゃない」と彼女は言った。
「……どういうことなの」
「どういうことなんだろう。私にもさっぱり分からない、本当に。あなたはどう思う? 夢と現実って本当に別のものなのかな。私たちが今いるのは本当に現実なのかな。もしそうだったとして、それは夢の中とどう違うのかな。どちらにいる時も私なのかな。私はどこからどこまでが私なのかな。意識ってなんだろう。私には分からないわ。どう思う? 私、それを勉強しにこの国に来たのよ」
「ねえ、本当にごめんなさい」と私は小さな声で言った。「あなたのこと疑ってた」
「良いのよ、そんなこと」と彼女は言った。「見るまでは誰も信じない。見せたのはあなたが初めてだけど。どう思う? 私、あなたの意見が聞きたいの。ねえ、夢の中での自分の行動に責任を取れる?」
私はメリーをじっと見た。
「どうだろう」と私は言った。「私は現実の中でさえ覚束ないかもしれない」
見事な夕焼けの中で、メリーの二つの目がきらりと光った。
私はこの光景をいつまでも忘れないだろうと思った。
§
夏休みが終わって、意を決して独りで文学部を覗いてみると、いつの間にかあの噴水は埋め立てられてしまっていた。
ソファとファックスと郵便受けは百年前からそこにいたのだというような顔をして相変わらずそこにいたが、あの夕方の異様な静けさと寒気のするような空気はもはや消え失せていた。
授業の合間に煙草を吸いにくる文学部の学生たちが訝しげな表情でちらちらとこちらを見始めたので、私はそこから退散することにした。
ともかくあの時、文学部東棟での一件から、私にとってメリーはただの頭の良い不思議な雰囲気を纏った留学生の女の子ではなく、私を得体の知れぬ世界へと誘うきざはしに、そしてもちろん私のかけがえのない友人になった。
自分の目について彼女に打ち明けるのも、二人だけのオカルトサークルを作るのも、もう少しだけ後のことだけど。
蝶のスープのところが良かったです。
こんな出会いがあればなぁ
静かに進んでいく展開が、読んでいてとても心地良かったです。