Coolier - 新生・東方創想話

ソレハ忘レタ筈ノ記憶

2025/07/21 23:58:44
最終更新
サイズ
95.75KB
ページ数
1
閲覧数
621
評価数
4/6
POINT
480
Rate
14.43

分類タグ

…やられた。それもただの人間に。博麗の御札がまるで私の行動を封じるかのように体に貼り付き力が抜け地面に倒れてしまう。
「まさか妖怪を倒せるなんてな」
声が聞こえる。見上げると勝ち誇った笑みを浮かべる人間の青年がいた。人間に倒されたのは何度目だっけ。でもこんなのはいつものことだしそれに面倒くさい。
「やられちゃったのか〜」
冗談めかして言ってみるけど何かがおかしい。
違和感。
指先に変な感覚がある。ふと手元を見てみるといつも髪に結んでいたリボンがあった。どんなに頑張っても触ることのできなかったあのリボン。
どうしてこれが?
その瞬間、張り詰めた糸が突然ハサミで切られてしまったような気がした。闇のようなものが体を包みこんでいく。
意識が闇に溶けていきそうになった。しかしそこにあったのはどこか懐かしい感覚だった。
「…なんだか、いつもと違うわね…」
先程まで御札の効果で動けなかったのに、腕や足が自由に動くようになっていた。頬から御札をペリッと剥がすと、それは灰のように消えてしまった。
ゆっくりと立ち上がる。やっぱり、この感覚はとても懐かしい。
スカートの裾が足元を覆うように伸び髪が背中に触れ風に揺れる。
そして…いつもの目線よりも高い。
一体私の体は...。
その時、先程私を倒したと喜んでいた青年と目が合う。彼の顔は青白く引きつっていた。
「…ルーミア…なのか…?」
唇が震え、声にならない声を何とかひねり出すように呟いている。
「何?」
首を傾げると彼の顔がさらに引きつった。
「ば、化け物…!」
その声には本能的な恐怖が滲んでいた、ような気がした。
「え?」
「化け物だ…!うわぁぁぁぁぁ!」
男は悲鳴を上げると背を向け何処かへと逃げ出してしまった。
困惑と動揺が広がる。しかし何故だろう、どこか高揚感が広がっていく。
「ふふ、私ってやっぱり妖怪なんだ〜妖怪は人間を襲うのが仕事、だからね〜」
手の中のリボンをスカートのポケットに入れ日の落ちた道を歩き出した。
今日は、いい夜。


なんとか家に辿り着いた。
とにかく今の私の姿がどうなっているのか知りたいし確かめないと。
震える指で扉を開き鏡の前に立つ。
「何よ…これ…」
割れた小さな鏡に映っていたのはいつもの小さな私ではなかった。髪は腰まで伸び瞳は赤く輝いていて顔立ちも大人びている…それに体が大きくなっている。
月明かりに照らされた見たことのない私、知らない私だった。
「はは…夢みたい」
夢かどうか頬をつねる。痛い。どうやら夢ではなさそうだ。
「一体何が…うぅ…っ!」
思考を巡らせようとした瞬間、ズキズキと激しい痛みが頭を襲った。
何かが頭の中に流れ込んでくる。それもドス黒い、思い出したくもないような、何かを。
私の中にあったもので封じられていた記憶。
ぼんやりとした記憶が段々とモノクロからカラーになり、より鮮明になっていく。
血。悲鳴。焦げ臭い匂い。
「嫌…!思い出したくない…!私じゃ…いられなくなっちゃう…!」
しかし、そのナニカは解き放たれていく。
「(Dreharbeiten und Vorbereitung!(撃ち方用意!)」
「Bereit zum Schießen!(構え!)」
「Schieß los!(撃て!)」
服が血に染まり、臓器が切り裂かれ骨が砕かれ、痛みで何も考えられなくなっていく。
「……」
意識が現実へ引き戻されていく。
ワルシャワでの惨劇。血に染まったあの空。仲間の笑い声。
ゆっくりとリボン、もとい御札をポケットから出す。
自ら望んだ。闇に消えてしまわないように、過去を忘れるために、自ら望んで作ってもらった拘束具。
思い出した。いや、思い出してしまった。
「Szła dzieweczka do laseczka…(森へ行きましょう娘さん…)」
かつて生きた国の歌。
小さな私。
それは偽りの私に過ぎない。苦しみ、過去、そして、あの人から逃げ続けた私。
一度は背を向けた私を…彼は許してくれるのかな。
ロザリオに触る。
意味も分からず着けていたこれも今では何故着けていたのか、彼が何故これを託したのかも、全て思い出すことができた。
長い髪が風に揺れる。これから私はどこへ向かえばいいのだろうか?


1878年、当時はドイツ帝国領だったルミアという小さな町。
私は人間ではなく妖怪として生を受けた。
生まれた瞬間から闇を操る力を持っていた。…といっても最初はそんな力が私にあるなんて知らなかったんだけど。だって生まれたばかりだったんだもの。
「ここは…一体…」
森の中、霧が立ち込めていたので私は不安に駆られて必死に歩く。
「…っ!」
迷い込んだ道で足を滑らせてしまい転んでしまった。地面に思い切り体が叩きつけられ、長いスカートの上から小石が膝を裂く。膝からは血が滲む。
どうすればいいのか分からなくなり動けなくなる。震えが止まらない。
そんな時だった。
「お嬢さん、大丈夫?」
ふと聞こえてくる男の声。手が差し伸べられ顔を上げるとそこにいたのは背が高く鋭いオオカミのような目をした金髪で端正な顔立ちをした男。
「貴方は…?」
「…生まれたばかりの妖怪だね」
男は私を見下ろしながら静かに言った。
「よ、妖怪…?」
「どこへ行けばいいのか分からないのだろう」
何も答えられなかった。
「なら僕の家へ来るといい」
そう言うと彼は背を向けしゃがんだ。
「さあ、おんぶするから」
仕方なく彼の背中にしがみつく。
「…私生まれたばかりで何も分からないの」
「それなら幸運だったな」
「え?」
「この世界には生まれたばかりの妖怪を手駒にしようとする悪い人間がいる」
彼の言葉で背中に緊張が走る。
最初に出会ったのが彼ではなかったら私はどうなっていたのか。
考えたくもなかった。

住宅街の一角にある古びた木造の家。玄関には猟銃、狩猟で捕まえたであろう猟銃が飾られている。壁には見たこともないような不気味な絵画が飾られ、天井には場違いなシャンデリアがぶら下がっていた。
「…変な家」
そう呟く私に、彼は言い放った。それもあっさりと。
「汚い、風呂に入れ」
「はっ!?」
「い、いきなり何よ!失礼ね…」
「自分の格好を見てみろ。スカートは泥まみれだし血も滲んでる。そんな状態で家に上がるな」
改めて自分の姿を見てみる。転んだ際にスカートが泥だらけになり膝を擦りむいたのか血が滲んでいた。これじゃそう言われても仕方ない…。
「…でも着替えがないわ」
そう言うと彼は近くの箪笥から一着のドレスと女物の下着を取り出した。
前開き、襟ぐりの深い短い袖なしの白い胴衣、襟を深く刳ったブラウス、くるぶしまで覆われている黒いスカート、緑のエプロン。…にしてもこれは。
「胸元が露出しすぎ…」
胸元が大きく開いているデザイン。正直かなり恥ずかしい。
「仕方ないだろ、女物だとこれしかないんだから」
「…分かったわよ」
渋々了承する。がしかし、彼の目が一瞬泳いだことに気付く。
「今変な詮索したな?」
「し、してない…」
「妹が昔着てたものだ。僕に変な趣味はない」
「妹?」
「…今はベルリンにいるんだ」
「……」
彼は淋しげに微笑む。
「そ、そう…」
それ以上は何も聞けなかった。でもこの人は悪い人ではないと思う。多分。
服を脇に抱え脱衣所に向かった。
脱衣所に入りドアを閉めると素早く服を脱ぐ。泥と血で汚れた衣服が床に落ちる。
思わず鏡を見てしまう。全身を映す大きな鏡は私の裸をはっきりと映し出す。
浴室に入ると湯気が肌を包み安心感を与えてくれる。タオルで石鹸を泡立て、丁寧にゆっくりと体を洗う。シャンプーを泡立てて長い髪をなんとか指で梳かす。シャワーで泡を落としていく度に更なる安心感に包まれる気がした。バスタブの蓋を開け、熱い湯に身を沈めると自然と声が漏れる。
「ふぅ…」
全身が温かさでいっぱいになり疲れが取れていく気がした。脱衣所から着替えを準備しているであろう彼の声が聞こえる。
「そういえば、君の名前聞いてなかったね」
やはり聞かれるか…。
「…ないの」
「へ?」
「だから!ないのよ!名前…」
沈黙。恐らく彼は困惑しているのだろう。でも本当だ。
私は人間に恐れられる存在、妖怪として生まれた。親はいない。名前なんて誰も与えてくれなかった。
「じゃあ僕が名前を決めるよ」
「え?」
「この町の名前とラテン語で『光』を意味する単語を合わせて…ルーミアでどうかな」
ルーミア...。口の中で転がしてみる。どこか力強くて希望あふれる名前。
少し考える。しかし直ぐに結論は出た。
「うん…じゃあそれでいいわ」
浴槽から上がり、体を軽くタオルで拭き、浴室を後にする。更衣室のカゴの中にはディアンドルとドロワーズが置かれていた。
「やっぱり胸の部分が少し窮屈ね……」
文句を言いながら袖を通し鏡を再び見る。
更衣室のドアを開けると、彼が目の前にいた。
「似合ってるよ」
「…っ!」
突然の褒め言葉に顔が少し赤くなってしまう。「な、何よ…」耳を掻き目線を逸らす。
「ほら膝、消毒してやるから」
「うん…」
私はスカートをたくし上げ膝小僧を彼に見せる。消毒液をつけられ「ひっ…!」と声が出てしまうが彼は気にせずタオルで拭いて絆創膏を貼った。
「その…ありがとう」
「気にすんな、これぐらい」
そして私は気になったことを聞いてみることにした。
「そういえば貴方の名前聞いてなかったのだけど」
「僕はラインハルト・ウルリッヒだ」
「ラインハルト…」
「そういや、君の出生届を役所に出さないといけないけどどうする?」
「…妖怪でもそんなの出せるの?」
「妖怪にも市民権があるからね。人狼の僕にもあるよ。これはパスポート」
彼はパスポートを見せる。種族欄に”Werwolf"としっかり書かれていた。
「貴方、人狼だったんだ…」
「そうだね。今度変身するところを見せてあげようか?」
「…それはいいかな」
ため息をつきながら答える。
この人の隣なら淋しい思いをしなくてもいいかもしれない。そう思えた。私は思い切ってある提案をした。
「ここに住んでもいい?」
彼は一瞬驚いた様子を見せたがすぐ優しく微笑んだ。
「勿論」
私に居場所ができた瞬間だった。


ラインハルトが真剣な表情で私に問う。彼は私の保護者の代わりのような存在だ。
「ルーミア、君はそろそろ学校に通わなくちゃいけないな」
「学校…?」
私のような妖怪が学校に通う。考えたこともなかった。
「妖怪も通えるの?」
「偏見もあるが…法律上は可能だ」
「…ちょっと嫌かも。妖怪が人間の社会に混じったとしてもきっと浮いてしまうよ…」
人間社会は怖い。人間全員が彼のように優しい存在だとは限らない。
「でも社会に馴染むためには必要なことだよ」
「……」
彼の言葉を軽く聞き流しながら腕を広げる。
影が集まり溶け出していく。周囲の光がブラックホールに吸い込まれるように消え、そこに現れたのは漆黒の球体、夜、そのものだった。
「ところで、君は今何を?」
「これはね。私の能力だよ」
「闇を作り出すことができるの」
彼が目を細める。
「…闇を操る能力ってやつか」
「もしかしたら君は凄い妖怪なのかもしれないな」
「そ、そう?」
彼の目はどこか冗談には見えなかった。
私は一体どんな存在なのだろう。


教室の隅で社会の授業を受けている私。教師が黒板にチョークを走らせる。
「皆さんが住んでいるこの地、ルミアは10世紀のポーランド国家成立以来、ポーランドの一部でした」
「この地が文献に初めて登場したのは1227年で、1309年まではポーランドの一部であり続けましたが、その後ドイツ騎士団国に併合されました」
「しかし1454年、ヤギェウォ朝のカジミェシュ四世によってポーランドに再統合され54年から66年までの13年戦争を経てドイツ騎士団国は請求権を放棄することになりました」
「1772年の第一次ポーランド分割でプロイセンに併合され1871年にはドイツ統一によってドイツ帝国の領土になりました。それでもポーランド人はいまだにこの地に住み続けています」
「19世紀に入ると列強諸国では産業革命をきっかけとして妖怪等の存在は弱体化していきました。殆どの妖怪は人間に協力する代わりに科学技術の発展を抑えてほしいと交渉を持ちかけました。殆どの国はそれを受け入れ共存の道を選択しました。プロイセンもそうでした」
しかしプロイセンとドイツ帝国は違った。オットー・フォン・ビスマルクの文化闘争により妖怪とポーランド人への抑圧政策が行われたのだ。
それでも、ポーランド人と妖怪は独自の文化を守り抜き徹底的に抵抗し続けていた。
カトリック教徒が多いこの地において彼らは私たちのような妖怪という存在を信仰の一部ではなく古くより文化的な存在として受け入れていた。奇異な目で見られることはありながらも幸運なことに迫害されることはなかった。
私が学校に通うことができているのもこれが理由だ。


いつもの丘の上で腕を広げ十字のポーズで横になっていた。こうしているとウトウトして眠くなってくる。
「ルーミア!」
ラインハルトが本を抱えながら私の元へ駆け寄ってきた。私は体を起こし彼の方を向く。
「見てくれよ、この神智学についての...」
「またそれ?」
どうも彼はこのような分野に興味を持っていたようだった。以前から目立つようになった彼の若干オカルト好きな姿勢には少しばかり困惑していた。
「私、分からないよ」
「本当に興味ないのかい?」
「この前カトリックに入信したから」
「妖怪である君が?」
彼は不思議そうな表情をする。妖怪である私がキリスト教、それもカトリックの信徒となることは普通ならば考えられないだろう。
でも私には魅力的に見えたのだ。教会の神父に相談した結果、私のような存在でも入信することが許されることが分かった。そしてつい先日無事に洗礼を終えた。
「『人間の魂は神によって直接創造され、不滅であり、死後も存続する。妖怪の魂もまた神によって創造された』そう言われたわ。洗礼を受けることができたのもそれが理由よ」
「...貴方も信仰しなさい、とまでは言わないけどね」
「なんだよつれないなぁ」
「俺は人間に近い存在だけどさ、人間の信仰ってのはなんだか合わなくて」
「私はもっと人間というものを知りたい、かな」
誰にも話したことはない秘めたる思い。夢見ていた人間と妖怪が共存する世界。その為に何よりも人間を理解することが必要だと考えていた。
「仲良くするにはまず最初にその人のことを理解しないといけないわ。それが何よりも大切」
「それに私は人間という存在が好きなの、それこそ食べてしまいたいくらいには」
「おいおい、それは流石に…」
「冗談よ。私は食べたことはないしこれからも食べるようなことはしないと思うけどね」
「冗談に聞こえなかったぞ…」
くすりと笑う私を見ながら彼は困ったようにため息をついた。
「人間はとっても面白いの。自分自身ですらも意識の対象になるのよ。怠惰な人間が勤勉な人間になることを目指して」
「それって凄いことだと思わない?」
「絶えず乗り越えていけるからこそ人間は自由なの」
「でも、それは妖怪も同じなんじゃないのか?」
「ふふ…そうかもね。でもね人間は限られた時間しか生きることができない。だからこそ挑戦し続けることができると思うのよ」
「なるほど。妖怪は実質、死ぬことはないからな」
「…そうね。それが人間との大きな違いよ」
私は少しばかり遠い目をしながら背伸びをした。
「んっ〜と。…自由といってもね、人間は自由という刑に処されていると思うの。要するに挫折を宿命付けられている」
「そしてその自由には責任が伴う」
「私は性善説を信じているから生まれながらの悪人はいないと思っているわ。自由意志の中で悪行を積み重ねて悪人になるの。…って、ラインハルト、聞いてる?」
「…すまん。ちょっと寝てた」
「もう!」
私は不満そうに頬を膨らませる。
「でね、自分の行為によって作り出してきた自己に対する責任を引き受けなければならない、それが人間なのよ」
「なんだか哲学者みたいだな、ルーミア」
「ふふ…プラトン・ルーミアと呼んでもいいのよ?」
「調子に乗りすぎだ」
彼が頭を軽く小突く。
「いだっ…」
「お前は妖怪基準だとまだまだ赤ん坊だろ」
「そうね…」
「あ、そうだ」
私は思いついたかのように両手を広げ十字架のようなポーズをしてみせる。
「ねぇ、ラインハルト」
「何をそんなに手を広げてるんだ」
「聖者は十字架に磔られたの」
「キリスト教徒ではない僕にはこう見えるな。人類は十進法を採用しました、って」
「人間の気持ちは何となく分かるようになってきたけど貴方のことはやっぱりよくわからないわ」
「僕は別のものを信じているからね、突然こんなことをするしむしろ君の方が」
そりゃそうかとお互いに顔を見合わせクスリと笑った。
「ねぇ。私のような妖怪が自由に生きることができる場所ってあると思う?」
「そうだなぁ…。あっ思い出した」
「?」
「極東の日本にはゲンソウキョウという妖怪たちの楽園があるらしいぞ」
「ゲンソウキョウ…?何それ」
「詳しいことは分からないが…まあルーミア、いざとなったらそこに住んでみるのもいいんじゃないか?」
「そうね」
私は空を見上げながら人間と妖怪が共存する世界を想像することにした。
そのゲンソウキョウには私の居場所はあるのだろうか。


1914年6月28日
19歳の青年が放った弾丸。これが欧州の運命を狂わせるとは誰も思いもしなかっただろう。
サライェヴォでガヴリロ・プリンツィプがオーストリア・ハンガリー帝国の帝位継承者であったフランツ・フェルディナンド、その妻であるソフィーを暗殺した。
7月23日、オーストリア・ハンガリー、セルビアに最後通牒。
28日、オーストリア・ハンガリーがセルビアに宣戦布告。
8月1日、ドイツがロシアに宣戦布告。
3日、フランスに宣戦布告
4日、ベルギーへ侵攻、イギリスの参戦。
戦火はあっという間に燃え広がり、欧州中を巻き込んでいった。

駅では兵士を見送る家族が涙を流していた。兵士たちはお互いを鼓舞しながら列車に乗り込むが、その顔には不安が滲む。
ここルミアもまた、戦争という名の狂気に飲み込まれていた。
私は丘の上に座って、遠くの街を眺めていた。
背後で足音がする。
「ルーミア」
振り返るとそこにはドイツ国軍の軍服を着たラインハルトが立っていた。
「召集令状が届いた。今日出発しなければいけない」
私は彼を静かに見つめる。ラインハルトは覚悟を決めた一人の戦士の顔をしていた。
「ドイツに尽くすことを決めた以上、従うのは義務だ。お前もそうだろう?」
しかし、私は首を横に振った。
「私はワルシャワへ行く」
「お前は帝国の国民ではなかったんだな」
「…私は確かにドイツで生まれた。でもね、ドイツ政府は私たち妖怪を異端と見なしたの」
「ビスマルクの政策を忘れたの?」
「文化闘争…」
「そう、ラインハルトも知ってるでしょう?」
「ルミアのポルカ(ポーランド人)たちは私たちを受け入れてくれたの。今の私はニェムツィ(ドイツ人)じゃない。ポルカよ」
「貴方のように優しくしてくれるニェムツィがどれぐらいいるのか分からない。なら私は…」
「妖怪も人間も…誰もが共存した国を作りたいの」
私は微笑む。
「妖怪であっても運動家というのは死を宣告された生き物なのよ?」
「……」
静寂。
彼に腕時計を見せる。
「さ、あと一時間。行かなくちゃいけないのでしょう?ほら行かないと」
「…お前は頑固だな」
「それはお互い様でしょ?」
「…分かった。受け入れる」
「ありがとう」
彼は私の肩に静かにポンと手を置いた。
「生きろよ」
「貴方こそ」
戦争という魔物が私たちの運命を無慈悲に切り裂いていく。どうなるかなんて誰にも分からなかった。

14年8月11日。
この日、私はワルシャワに降り立った。駅のホームや街角には銃を肩にかけた兵士が行き交っていて戦争の影響を感じられる。
鞄に志願兵の書類が入った封筒があるかどうかを確認しポーランド軍の事務所へと向かった。自分が妖怪であることも女であることも隠さずに。
事務所に入ると、受付の兵士から書類の提出を求められ鞄から封筒を取り出しその男に手渡した。男はすぐに封筒から書類を取り出しじっくりと吟味する。心臓の鼓動が早くなる気がした。
「性別、女。種族、妖怪…」
男は書類と私を何度か見比べながら、
「本気なんですか?」
「ええ、本気よ。私なら能力を使って後方から支援できる。戦況によるけどね」
暫く沈黙が流れ、男はため息をつき立ち上がって言った。
「…分かりました。ではこちらへ」
言われるがままに奥の部屋へ通される。扉を開けると髭を生やした軍服の男が椅子に腰かけていた。
「志願兵のルーミアさんです。種族は妖怪」
受付の男が私を紹介する。
「珍しいな。女の妖怪が自ら志願するとは」
「…ところで貴方は誰?」
「ユゼフ・ピウスツキ。階級は大佐だ」
ピウスツキは立ち上がり右手を差し出す。私もそれに応じる。
ユゼフ・ピウスツキ、ポーランド軍の創設者。でも本人を目の前にして何を話して良いのか分からなかった私は軽く嘘をつくことにした。
「…ごめんなさい、大佐。政治には疎くて…貴方のことは知らないの」
すると、隣にいた男が驚愕した表情を浮かべ立ち上がり私に詰め寄る。
「お、お前!大佐はポーランド軍団の…!」
「まあまあ、ヴィグムント中隊長。落ち着いて」
「まあとにかく、ルーミアさん。入隊は貴女の能力次第です。見せていただけますか?」
ピウスツキが尋ねる。
「私は闇を操ることができる。そうね…」
両手を広げると闇が集まり球体を成す。そこだけ存在が消えてしまったかのように光が存在しない。まさに虚無のような空間。
「これは...」
ピウスツキが息を吞む。
「ふふ、でも味方はちゃんと見えるようにするわよ?」
パチンと指を鳴らすと部屋全体に暗闇が広がった。だが二人の視界は保たれていた。
「暗闇のはずなのに我々からははっきりと見えるな」
「この部屋は勿論、半径百メートルを闇に包むことだってできる。長くて一時間ぐらいはずっとこの状態を保つことができる」
「ね?分かったでしょう?」
もう一度指を鳴らすと、部屋に広がっていた闇が霧のように消えた。
ピウスツキは少し悩みながら呟いた。
「未知数かもしれない、が。この力は使える。それに君は妖怪だ、君ならあの武器が使えるかもしれない」
「中隊長、彼女を例の部屋へ」
「分かりました。『あの』兵器ですね?」
「そうだ、例の兵器を彼女に」
「では、ルーミアさん、こちらへ」
そう言われ私はさらに奥の部屋へと通される。
「ズィグムントさん、一体何ですか?」
私がそう言うと、ズィグムントはおもむろに大きな布を取り払う。そこにはそこそこ大きいガンケースがあった。ズィグムントは静かに開くとそこには筒の長いライフルが入っていた。
「ライフル...だけど筒がとんでもなく長い」
「このライフルの名前はソビエスキ。最大射程は4キロ」
兵器に詳しくない私にもこの兵器の性能が従来の兵器よりも高いということは察しがついた。
「妖怪である君になら反動に耐えられるはずだ」
「で、でも…一体何故」
「ロシア軍には人狼部隊が存在する。従来の武器では太刀打ちなどできない。そこである機関から設計図を取り寄せ、私たちの部隊に所属する技師が作ったんだ。…だが、作ったはいいものの使う人が見つからなくてね」
「早速使えるかどうか、地下の射撃場で試してみよう」
私はソビエスキの入ったガンケースを肩に担ぎジィグムントについていく。階段を下りていくとそこには縦に広い射撃場があった。
「ここはかつて使っていた地下水道を再利用して作られた射撃場だ」
「標的は1キロ先のあの木製の的だ。人間には難しいが君なら見ることができるだろう」
私は目を凝らしてその標的を見る。確かに頑張ればなんとか見ることができた。
「見れる...けどあまりにも無茶じゃないかしら?」
「...ポーランドが独立するには君の力が必要だ」
そう言われると困ってしまう。人間に必要とされる存在になるのはうれしいけど...。
「分かった。やるだけ、やってみる」
私はソビエスキの銃床を頬にあてスコープを覗いてみる。視界の先には木製の的がくっきりと浮かび上がった。
安全装置のロックを解除してゆっくりと引き金を引いた。
銃声というよりかは爆発音。標的は砕け散り破壊音が響き渡った。
「まさかここまでやれるとは」
「もしかして期待してなかった?」
「正直、妖怪の力を舐めていた」
「私、凄いのよ?」
笑って見せるが手の震えが止まらなかった。戦場では人を殺すことになる。私にその覚悟があるのだろうか?まだ、分からなかった。


「おーい、ルーミア!写真撮るぞ」
若い兵士が私に向かって手を振る。
「いや、私はいいわよ」
「…写真は魂を吸い取られるから嫌いなの」
「どっかのサムライみたいなこと言うなお前」
「ふふ、まぁそんな感じよ」
冗談めかして笑って見せる。本当はそんなの嘘。でも妖怪兵士が実在したなんて分かったら大佐がどう言われてしまうから分からない。...だから。


14年10月。
私はピウスツキの指揮する第一歩兵連隊に配属されソビエスキと共に軍用トラックで戦場へ向かっていた。場所はアニエリン近郊。
トラックの振動がどこか身に沁みて不安が芽生える予感がした。
運転手の兵士が話しかける。
「ルーミア、着いたぞ。どうやら偵察隊が戻ってきていないらしい。あの噂通りロシア軍は人狼部隊を投入しているかもな」
後にアニエリン及びラスキの戦いと呼ばれるオーストリア・ハンガリー軍、ポーランド軍団とロシア軍のこの戦いはオーストリア・ハンガリー軍がデンブリン要塞を攻略しヴィスワ川を渡河しようとする『イヴァンゴロド作戦』の一環として行われた。
ポーランド軍団はロシア軍の防衛戦を突破し戦局を有利にする為に投入されたのだ。
闇を操るただの妖怪に過ぎなかった私が戦場にいる。それもポーランドの希望と呼ばれている部隊の一員として。後方からの支援だけだと思っていたのもつかの間、今、私は人間には決して扱うことのできない兵器を肩に担いでいる。
「人狼、ね」
ヴェアヴォルフ。人ならざる者、その点で言えば妖怪である私も同じだ。
ソビエスキ。それはこの身に闇を宿し操ることのできる私にしか使えない。でもだからといって私に託すなんてあまりにも馬鹿げている。
でも、誰かに必要とされているのは悪くない。都合が良い存在だったとしても私を必要としてくれる人たちがいる。それだけで私は十分だった。
「ルーミア、そろそろ行くぞ。お前の役割は陽動だ。闇を作り出して相手の視界を奪え。その隙にソビエスキで一網打尽だ」
「了解、した」
ゆっくりと荷台から降りる。足元の土は昨日の雨のせいかぬかるんでいた。
「人狼部隊が来たら頼むぞ」
そう兵士が指示を出す。
目を凝らすと怪物たちが塹壕の中で準備を始めているのが分かった。
「私は貴方たちみたいに力に溺れたりなんかしない」
「銃弾が効かない!化け物だ!ルーミア!」
闇の中から兵士たちの声が聞こえる。やはり人狼に普通の銃弾は効かないようだ。
…このソビエスキには儀礼済みの銃弾が装填されている。これは人狼の弱点だ。
「一度撤退しなさい。私が全部相手するから」
「無茶な!」
「行きなさい!化け物には化け物!」
「…わ、分かった」
兵士たちが後退を始め闇の中から出てくる。私はふぅと息を吐き、遠くを見つめる。
30人…いや40人?それも二メートル以上はある。
「ソビエスキ。行くわよ」
いつものように安全装置を解除し床を頬にあてスコープを覗き静かに引き金を引く。その瞬間、轟音が響いた。

人狼部隊は私の射撃により壊滅したがロシア軍の反撃は続いた。結局、26日夜に私たちは包囲されることを避ける為、撤退を余儀なくされた。
その後各地を転戦する中で私の心の中に違和感のようなモノ、しこりを感じるようになった。化け物と言っても人だ。そんな人を殺すのが当たり前になっている自分を信じることができなくなっていた。


16年11月。ドイツとオーストリアはロシアから奪った土地に「ポーランド世襲王国」を建設することを宣言した。私は一瞬ようやく独立したと喜んだけどそれがぬか喜びだとすぐに気付いた。
実際はオーストリアがドイツに譲歩しポーランド人を西部戦線へ送る為の方便に過ぎなかった。
ユゼフ・ピウスツキ…大佐はこのことを誰よりも早くに察していた。私たちはドイツ・オーストリア軍の指揮下に入ることを拒否した。
しかし、それは許されなかった。

17年7月、大佐は逮捕されマグデブルク要塞に収監されてしまった。
部隊の皆がその知らせを無力さを噛み締めながら受け取り、私はワルシャワに戻ることになってしまった。
9月には王国の執行機関、摂政会議が設けられた。が、ドイツの敗北は決定的なものになっていた。

そして1918年、同盟国軍は軍こと作戦を停止し、摂政会議は出獄していたピウスツキにポーランド軍の指揮権を委ね、11月7日には臨時政府が樹立。11日にはドイツ国と連合国の間で停戦協定が結ばれ、所謂第一次世界大戦が終結した。
ポーランドは123年ぶりに独立を回復したのだ。


「ルーミア、軍に残る気はないのか?」
ピウスツキから言われるが私は即座に首を横に振った。
「…ごめんなさい。私、もう耐えられそうに、ない」
「そうか…悪かったな。君の傷に気付けなくて」
「違うわ。私は…隠してた、から」
戦争が終わった翌日、私は軍を除隊し一般人となった。

20年5月、私は独立したばかりのポーランドの首都、ワルシャワに移り住んでいた。あれからラインハルトがどうなったのか分からない。生きているのか、それとも…。最悪の可能性も考えながら生活していた。
しかし私は国民の熱狂の渦には入り込むことはできなかった。ラインハルトが一体どうなってしまったのか、そのことばかり考えてしまうのだ。

22年2月、ワルシャワ郊外の小さなアパートの一室で暮らしていた。身の丈に合った静かな生活。
その日も、いつもの日課である散歩を済ませ帰路についていた。冷たい風が吹き雪が降る中、歩いていると、後ろから声をかけられる。
「ルーミア」
振り向くとそこには私よりも身長が高い見覚えのある男が立っていた。
「ラインハルト...?」
不器用に笑う彼の笑顔はどこか懐かしい。しかしどこかぎごちない。胸の奥に違和感を感じる。
「久しぶりね」
「まさか、ここで君と再会できるとは」
「ドイツで色々あったけど大丈夫だった?」
「革命騒ぎとかあったけどね。フライコーアに参加して色々やって…今はオーバーラント同盟にいるよ」
「フライコーア...」
フライコーア、ドイツ義勇軍。グスタフ・ノスケの支援を得てドイツ革命の鎮圧やスパルタクス団の壊滅、ブレーメンやバイエルンのレーテ共和国や政府の打倒をしていった組織。反共産主義で反共和国であるフライコーアという組織は愛国的な彼にとってはもしかしたら魅力的だったのかもしれない。何か返そうと思ったがうまく言葉が出てこなかった。
「ここで話すのも何だし、どこか話ができる場所に行こう」
「…なら」
近くにあったある建物を指さす。そこはいつも時間がある時に訪ねていたバーだった。
バーに入ると長テーブルの椅子に座る。仕切り直しとばかりに彼に話しかけようとする。
「ちょっと待った」
「流石に何も頼まずにってのは店主に失礼だと思うよ?」
確かに、それもそうだ。パン屋でトイレを借りて何も買わずに店から出ていくのと同じだと変な喩えをしそうになる。
彼は店員を呼んで赤ワインを二つと注文する。…私はあまりお酒は飲めないのだが、彼の機嫌を損ねてしまっても仕方ないので黙っておくことにした。
暫くするとワイングラスが運ばれてきた。
「とりあえず乾杯しようよ」
「そう、ね」
グラスを突き合わせカチャンと音が鳴る。
「うっ…」
やはり酒というのは苦手だ。この独特の後味がなんとも慣れない。特に度数が高いものは飲むと後で頭がズキズキと痛む。
「お互いにこれまで何があったのか話そうじゃないか」
ラインハルトは流暢に話し始めた。
東部戦線に送られロシア軍と戦ったこと。沢山の兵士を撃ち殺したこと。フライコーアのエアハルト海兵旅団でバイエルン・レーテ共和国の蜂起鎮圧を行ったこと。極右組織であるオーバーラント同盟で様々な活動に従事していること。
自慢げに語っていたのを見てどこか不思議な気持ちになっていた。そこにはかつての優しかった彼はいなかった。戦場で死線を切り抜けてきた彼の顔は老けているように見えてしまった。戦争はこうも人を変えてしまうのか。
私も何か話そうとするも酒のせいか受動的になってしまい話をずっと聞く羽目になってしまった。私だってこの戦争を経験したけど…彼とは全く違うものだったから。
「急に話を変えるけど…背後の一突きって知ってるか?」
陰謀論みたいな話。そんな噂、あまりにも荒唐無稽だ。
彼の目が憎悪の炎に燃え始める。かつての優しさはそこにはもう無かった。
いきなり、彼は大声を張り上げた。
「ドイツは……と妖怪のせいで負けた!」
信じられない。彼がこんなことを口走るなんて。
「そんな話、でっちあげよ!」
憎悪しかない発言に恐怖と怒りが混ざりきった感情が溢れ出す。
「俺の妹はあの戦争が起きて暫くした後に妖怪に殺されたんだよ!無惨に!犯されて!」
そう言う彼の表情から狂気じみた憎悪が感じられた。
「ルーミア!お前だって殺したいほど憎いさ!」
そう言うと彼は立ち上がり胸ぐらを強く掴み、体が持ち上げられ、グラスが机から落ちガチャンと割れる。
視界が揺れる。鈍い音が店内に響く。鋭い痛み。口内を舌で転がすと鉄の味が広がった。
彼はもはや別人だった。荒い息を吐きながら私を見つめるその目は血走り、人間の顔をした悪魔のようだ。
「何やってんだ!」
奥から店員たちが現れ羽交い締めにし店内の外へ出そうとする。
「警察を呼べ!」
「お前は出禁だ!」
「離せ!」
暴れ出し抵抗しようとするが数人がかりの力には勝てず店から放り出されようとしていた。
「殺してやるからな!妖怪のクソ野郎共が!」
最後にこう叫び、外へ消えていった。
店内はようやく静まり返ったが私は彼の信じられない行動にすっかり怖気づいてしまい床に倒れたまま立ち上がれないでいた。
「お嬢さん、大丈夫?」
オーナーが手を差し伸べる。
「ありがとう」
その手を取ろうとするも、指先が震えてしまい上手く握れないでいると、オーナーはそっと抱き起こし、椅子に座らせてくれた。
「医者を呼んだ方がいいかな?」
「いや、いい…」
「そうか…なら、せめて冷やしたほうがいいな」
そう言うとオーナーは奥へ消え、暫くすると冷たいタオルを持って現れ、渡してくれた。
「……」
私は頬をタオルで押さえながら何故彼がここまで変わってしまったのかを考えていた。
生きろよとまで言ってくれた彼が私を殺したいほど憎むようになったこと。何故という感情が脳内を駆け巡ったが一向に答えは出なかった。
オーナーの計らいで会計は免除されたが外に出た瞬間足がふらついてしまう。
涙が溢れ膝に力が入らなくなってしまい店の前に座り込んでしまう。街を歩く人間たちはそれを怪訝な顔で見つめながら通り過ぎていく。


どうすればいいのか…そう考えていた時に声をかけられた。
「お嬢さん」
顔を見上げるとそこにいたのは茶髪で背の高い伊達男。
「なんでも…ないのよ」
「泣いてる人がなんでもないわけないじゃないですか!ほら!」
彼が私に手を差し伸べる。私は先程のことで何を信じたら良いのか分からなくなっていて、彼の優しさに素直に応じることができなくなっていた。
「…何かあったんですね」
「……」
「ここじゃなんですし、僕の家に来ませんか?」
「は、初めて会った女をいきなり…?」
「ち、違うんです!私の家は医者なんです。見た感じ、傷もあるみたいだし診てもらうってのはどうですか?」
「医者…?」
「はい。父が医者をしているんです。…信じてもらえますか?」
彼は困ったように笑う。しかしそこには優しさがあった。私は少し考えて答えることにした。
「なら…ちょっとだけね」


「軽い打撲ですね。ではこちらを」
そう言うと医者は氷水にタオルを浸して絞り手渡す。
「これを暫く患部に当ててください」
「お大事に」
「…ありがとう」
診察室を出ると、椅子に座っていた彼が立ち上がり私のもとに駆け寄ってくる。
「軽い打撲よ。暫くこれを患部に当てろって」
「それなら良かった」
「…もし良かったら何があったのか聞かせてもらえませんか?」
「……」
「…僕じゃダメですか?」
「…まず名前を教えてもらってもいいかしら。私はルーミア」
「僕はカジミェシュ・セラツキっていいます。ミェシュって呼んでください」
「ミェシュ、ね」
私は少しだけ悩んだが、覚悟を決めてゆっくりと口を開いた。
「…他の人には言わないでね」
「勿論ですよ」
「久しぶりに知り合いに会ったの。彼は先の大戦にドイツ国軍の一員として従軍していた」
そして核心に迫るあの言葉。
「貴方は背後の一突きって知ってる?」
「知ってますよ…なんというか荒唐無稽な話ですよね」
「彼は…それを信じていたの」
「嘘だろ、そんなことが…」
「そして、私を殺したい程、憎いって言ってきて…」
「...殴られた」
ミェシュは唇を噛み締め拳をぎゅっと握り締めた。
彼の目、声が震える。
「それで…それでその後は…」
「殴られておしまいよ。あとは店員に連れ出されて…」
「…ミェシュ」
「…怖いよ、私」
ミェシュは真剣な表情で私をじっと見つめる。怒り、私を気遣う優しさが宿っていた。
「もし良かったら…」
「安心するまで僕と一緒に暮らしませんか?」
「え?」
「貴女の力になりたかったんです」
「…ルーミアさん。貴女が安心するまでここにいて良いんですよ」
ミェシュは手を取り握り締めた。
「もう二度とあんなことはさせませんから」
「ま、待って!私は…!」
「妖怪、でしょう?何となく分かりますよ」
「…いいの?」
「勿論です。それに貴女はとても美しい」
「艶やかな金色の髪に、宝石のような瞳。さらに優しい性格」
こんなことを言われたのは初めてだ。しかし彼の言葉からはいやらしさを感じない。そこにあったのは優しさだった。
「あぅ…」
「ミェシュ…」
私は彼の瞳を見つめる。
「何ですか?」
「荷物…取りに行かなきゃ…」
彼は照れながら笑った。
「僕も行きますよ」


「よくこんなところに住んでましたね…」
彼は部屋を見渡しながら静かに呟く。
彼の手には私の衣服の入った鞄があった。私は化粧台から化粧道具を取り出しているところだった。
「住めば都って言うでしょ?」
無理に明るく言ったつもりだったが彼にはその虚勢はバレていたようで。
「…それにしても無理し過ぎだと思いますけどね」
「この部屋ね、家賃安いから風は入ってくるし冬は寒くて…。でも仕ことはないからここに住み続けるしかなかった。昔いたところは妖怪が受け入れられていたけど…ワルシャワでは、ね」
「一体どうやって暮らしていたんですか…」
「呆れてる?」
「いや、凄いなって」
「ミェシュ…」
私は化粧道具を鞄に入れ息をついた。
「もう、これでおしまい」
彼は困惑したような表情を浮かべる。
「…これだけですか?」
「ええ、大丈夫よ」
「行きましょうか、ルーミアさん」
彼は笑い、手を差し伸べる。
それに応えるように私はその手に触れ立ち上がる。彼がドアを押さえ早く行こうと急かすが、私は足を止める。
振り返ると、この部屋で過ごした日々が思い出された。
「じゃあね」
そう小さく呟き、静かにドアを閉じた。


彼の借りているアパートに住むことになった。今まで住んでいた所よりも2倍も3倍も広く日当たりも良く暖かい。
そして彼の実家の医者は直ぐ近くにあり、もし何かがあったら頼ることができる安心感がそこにはあった。
私は荷物を置くとくるりと身を翻す。彼は緊張した面持ちで立っていた。
「一緒に住むのなら敬語はやめてほしいな」
彼はたじろいだ。
「し、しかし…」
「禁止。分かったわね?ミェシュ?」
彼は困惑した表情を浮かべ小さく呟いた。
「…ル、ルーミア」
「うん、上出来」
その言葉でここが私の居場所になりつつある予感がした。


思わず目を見開く。クシャリという音が部屋に響く。
それは、朝刊の1面だった
『ドイツ国のラーテナウ外務大臣が暗殺』
大戦での敗北から立ち直れない隣国での血腥い知らせ。
「な、なんで…」
「物騒な世の中だな」
「ミェシュ…」
ミェシュがコーヒーを飲みながら私の肩に手を置く。
「ラーテナウが殺されたのはソ連と条約を結んだ…と言われているがユダヤ系だったからとも言われている」
「背後の一突き…」
ラインハルトが言ったあの言葉を思い出していた。憎悪に塗れたあの目を…。
「どうやらドイツではある連中がユダヤ人や妖怪を敵に仕立て上げて暴れているって噂だ。ポーランドでもロマン・ドモフスキへの支持が広まればもしかしたら…」
「私たちが一体何をしたというのよ…」
「噂によれば軍の上層部が責任から逃れるために流したって話もある」
「…信じられない」
「現実を受け入れられない者たちの最後の足掻きってやつだな」
彼は私の肩を少しだけ、ほんの少しだけ強く握った。
「ポーランドまでこの波が来なければいいんだが」
私はただ新聞を見つめ続けることしかできなかった。


私は朝刊の求人欄の一角を彼に見せる。そこには家庭教師募集と書かれていた。
「へぇ、ルーミア。家庭教師やりたいのか」
「これでも数学はかなりできるのよ?」
「それは知らなかった。僕はさっぱりだから凄いな」
「で、応募したのか?」
「ええ。で、昨日手紙が届いて採用が決まった」
「…だいぶ決まるのが早いな。担当する生徒は誰なんだ?」
「…ウルバノヴィチ。アグニェシュカ・ウルバノヴィチさん」
「あぁ、僕の知り合いだ」
「知ってるのね」
「実家の医者にかかっていたからな」


「はじめまして、アグニェシュカ、さん?」
「ルーミアさん、よろしくお願いします」
アグニェシュカ・ウルバノヴィチ。私が家庭教師をすることになったポーランド系ユダヤ人。
「母親のアリツィアです。ルーミアさんよろしくね」
「はい、よろしくお願いします」
「この子は小学生なのだけど…数学が苦手で。履歴書によればルーミアさんは数学が得意だそうで...娘に教えてほしいんです」
「私に任せてください」
胸元に手を置き、背中をピンを伸ばす。そしてにこりと笑った。


「家庭教師の仕事はどう?」
ミェシュの優しい声。彼と過ごす中でその声はどこか愛おしいものになっていった。
「アグニェシュカちゃんね、学校のテストで高得点とれるようになったって喜んでいたわ」
「そう、か。君にとってこの職業は天職かもしれないな」
「そうかもしれないわね。ねぇミェシュ?」
「?」
「私...そろそろ貴方との関係進展させたいな。ずっと前から言わなきゃいけないと思っていたんだけど中々言えなくて...」
「ル、ルーミア!?」
「私が疲れていた時、そっとコーヒーを差し出してくれたこと。私ね、貴方のその何気ない仕草が愛おしくてたまらないの」
「...好きって言えば良いのか?」
「ふふ...本当不器用ね...でもそんな貴方が大好き」
私は彼の身を抱きよせ彼の唇に自らの唇をそっと重ねた。
ずっと心の中にあった霧が晴れていく、そんな感じがした。


「ルーミア、いつもありがとうね」
アグニェシュカの母親であるアリツィアがコーヒーカップを2杯机に置く。
「はい、二人共コーヒーよ」
「「ありがとうお母さん!(アリツィア!)」」
この幸せがいつまでも続く…そう思っていた。


33年、ドイツで急進的な政策を掲げる政党が政権を掌握した。
極端な思想を掲げている彼らの存在はポーランド人の間にも不安を抱かせることになった。
それに乗じてドモフスキ率いる国民民主党が勢いを増すことは避けられなかった。
彼らが妖怪、つまり私のような存在をも迫害の対象としていること実は冷たく私に突き刺さった。幸せと思われていた日々に忍び寄る闇。その闇を薙ぎ払うことは私だけでは無理だった。失業率も年々高まる中、街中で浮浪者を見かけることも増えていった。
以前よりこの国の外交方針はフランスとの同盟関係の優先だったが32年以降、ドイツとソ連という大国との間に等距離を保つ姿勢へと切り替わった。


同年、外務大臣がアウグスト・ザレツキからユゼフ・ベックに交代した。彼の下でソ連と不可侵条約、34年にはドイツと不可侵条約を締結した。
ピウスツキによるサナツィア体制は、35年の憲法改正、所謂4月憲法成立でさらに強大なものとなった。国会の権限を縮小させ、大統領に絶大な権限を与えるこの憲法によってさらにピウスツキに権力が集中していった。彼は独裁者なのだろうか?それは私にも判断できない。
しかしこの状況は長く続かなかった。同年、ピウスツキが死去した。
「この2つの条約がある状態というのは、ポーランドが2つの椅子に両脚を乗せているようなものだ」
彼は生前にこう語っていたそうだ。不可侵条約による平和はいずれ崩壊する。そのことを予感していたのだろうか。
ピウスツキの死後、ベックを中心とする彼の部下たちが集団体制で政権を運営することになった。


ドイツは早速ポーランドに襲い掛かった。
38年10月24日、ヨアヒム・フォン・リッベントロップ外務大臣が駐独ポーランド大使ユゼフ・リプスキに対して要求を提示した。
当時はこの要求は詳しく明かされることはなかったが後年、明らかになった。それはあまりにも一方的な要求だった。
1. グダンスク(ダンツィヒ)のドイツへの併合を認めること
2. ポモジェを経由して東プロイセンと繋がる高速道路ならびに鉄道の敷設を認めること
3. ポーランドの防共協定への参加を求める
しかしこの時、ポーランドは要求を退けた。


翌39年1月下旬にリッベントロップは再びリプスキの元を訪れ要求を再び繰り返した。しかし、ポーランドの回答は変わらなかった。
3月にも再度要求が突きつけられたが、また要求は退けられた。
このような状況はミェシュの知り合いの外交官のつてで私の耳に入ってきていた。国外に逃れる選択肢もあった。しかし私はポーランド語とドイツ語しか話せない。それにコネもない。どこにも行くことなんてできなかった。


39年9月1日未明、グダンスクを親善訪問中のドイツの戦艦、シュレスヴィヒ・ホルシュタインがポーランド守備隊に突如として攻撃を開始した。これは後に第二次世界大戦と呼ばれる悲惨な戦いの幕開けとなった。同日、ポーランドにドイツ国防軍とスロバキア軍が侵攻した。
ユダヤ人を排斥する彼らがアグニェシュカとアリツィアの二人を見つけたら…どうなるかは明白だった。
「貴女たちにはこれを」
私は今まで貯めたお金の入った袋を二人に渡した。
「これぐらいしかできないから...」
「でも...!」
「受け取りなさい。これが最後になるかもしれないから」


17日には赤軍が攻め込んできた。同日からはドイツ軍の包囲攻撃が始まりポーランド軍は挟み撃ちにされてしまった。
28日、ワルシャワが降伏、一部の都市ではなおも戦闘が続いたが翌10月5日、コツクの降伏をもってドイツによるポーランド侵攻は終結し、総統と呼ばれた男がワルシャワでパレードを行った。
国防軍の兵士が行進する様子をミェシュと見ながら私は故郷が崩れ落ちていくような感覚に襲われていた。翻る赤白の旗。
「もはやここはポーランドじゃない。21年前に戻ってしまった」
私は静かにそう呟いた。

26日、かつてポーランドが存在したこの地にドイツによる統治機関、総督府が設立された。
ポーランド総督であるハンス・フランクの下、総督府全体が『強制収容所』と化していったのだ。


『ワルシャワ地区の妖怪の腕章に関する布告
ワルシャワ地区に在住する妖怪は全員、外出の際、妖怪と刻まれた白い腕章を着けること。この規則は1939年12月1日以降、12 歳以上の全妖怪に適用される。腕章は右腕に着けるものとする。この命令に従わない妖怪は厳重に罰せられる。
総督府ワルシャワ地区長官、フィッシャー』
家に届いた新聞に載っている布告を見た瞬間、私とミェシュは絶句した。
彼らだけではなく妖怪にまで腕章の着用を強制するなんて...。
「狂っているよこんなの」
「嫌よ...着けたくない。こんなのただの烙印じゃない」
「でも...」
窓から街並みを見る。そこには腕章を着けて歩く妖怪の姿があった。
「仕方がないのね...」
私は静かに腕章を右腕に巻いた。白い布に刻まれたGespenst(妖怪)の文字が恐ろしかった。


腕章を着けワルシャワの街を歩く。
何気ない道も安心して歩くことができる道ではなかった。誰かの視線が突き刺さる予感がした。
向こうからドイツ軍の兵士が歩いてくるのが見えた。目を伏せ、その場を通り過ぎようとする。
一瞬その兵士が私の方を見た気がした。
「Du!(お前!)」
鋭い声。ちゃんと腕章を着けているのに...。
「Kommen(来い)」
兵士は指でこちらに来いと指図する。
本当は嫌で嫌で仕方ない。しかし反抗したところでどうしようもない状況。
後ろにいた貴婦人二人が素早く離れていく、 まるで汚物を見るかの如く。
「Warum grüßt du nicht?(なぜ挨拶しないんだ?)」
挨拶?そんなこと一言も言われていないはずだが、仕方ない。
「Ich bitte um Verzeihung(失礼しました)」
そう言い終わった瞬間だった。
頬に痛みが走る。
「...っ!」
平手打ち。体がよろめき倒れてしまう。理不尽な暴力に深く傷ついた。
「Gehen Sie nicht auf dem Bürgersteig(舗道を歩くな)」
「Gehen Sie den Graben entlang(溝を歩け)」
「......」
頬に熱が帯びる。動かなければまた叩かれるかもしれない。私は静かに立ち上がり、溝へと足を運ぼうとした。
ふと、いつも行っていたパン屋を見かける。店先に掲げられた看板には
『妖怪お断り』
そのパン屋は戦前には一週間に一度は行くほどの常連だった。店主のおじさんから「ルーミア、新しいパンだよ。買ってみるかい?」と言われたことを思い出す。
…しかし今では私をまるで、罪人に向けるような目で見ている。
「…なんで私たちがこんな思いしなきゃいけないのよ」
ただ妖怪に生まれた、それだけでなぜこんな仕打ちを受けなければならないの?
拳を握りしめる。でも今のポーランドでは私は無力。
静かに涙を流すことしかできなかった。


「...ルーミアさん、これ」
その日の夜、隣人のカミルが新聞を手渡してきた。
しわしわの紙面を震える手で何とか掴む。私はそこに書かれた文字を読んだ。
「フィッシャー、ワルシャワ地区長官が発令した命令に基づき、ワルシャワ市内の……と妖怪の居住区を設置する」
「指定区域外に住んでいる……と妖怪は居住区に移ること。期限は1940年10月31日まで」
「...ふざけてる」
怒りで拳を握り締める。
「ワルシャワには妖怪がかなり住んでいるわ。それを全部...?」
「らしいな。馬鹿げているよ」
ミェシュはユダヤ人であるカミルと妖怪の私をどう見ていいのか分からないようだった。


移動の日
「ミェシュ、今日行く日だから...その...」
「そうだな」
彼は私を力強く抱きしめた。そして軽いバードキス。
「行かなきゃ」
「生きろよ」
「貴方も…」


「Schnell weitergehen!(早く進め!)」
銃を構えたドイツ軍の兵士が怒鳴りつける。
肩を落として歩く者、嗚咽を漏らしながら歩く者、泣き叫ぶ赤ん坊の声。
「大丈夫、こんなのすぐ終わる」
荷物をまとめ『居住区』へと向かう。きっとすぐに終わる…そう信じていた。
「うっ…」
部屋に入った瞬間、声が漏れる。鼻を突くかびと鉄の混ざった独特な匂い。染み出してくるその匂いに吐き気を覚える。
部屋の中には7人程詰め込まれていた。男女、妖怪の気配を漂わせる男。皆抜け殻のようだった。
「お前も…か?」
虚ろな目をした男が私に話しかける。
「いいえ、私は妖怪です」
「…そうか」
男はそれ以上、何も話さなかった。
独特な匂いに耐え切れず、部屋の窓へ向かう。窓を開けると目の前には...
「…壁?」
ここは墓場なのだ。そう、私たちはここで一生を過ごすのだ。


ワルシャワ・ゲットー、そこは壁に囲まれもはや逃げ出すことは不可能に思えた。
人間が倒れそのまま亡くなるなんてことは日常茶飯事。衛生環境も最悪だった。
私は日銭を稼ぐために持っていた本を売りに出していたが、全くといっていいほど売れない。こんな状況では誰も文学に勤しむなんてできないのだ。
本が売れず仕方なく家路につこうとする。その時だった。
ドイツ軍の兵士が私をじっと見ていた。
「Was ist mit der Maske?(その面はなんだ?)」
「Du, zeig mir, wie du tanzt(お前、踊ってみせろ)」
「...え?」
「Na los, tanz(さあ、踊れ!)」
その命令にその命令に意味なんてないのだろう。兵士たちはにやりと笑っている。彼らにとってこれは遊戯にすぎない。
踊る。いや、踊らざるを得なかったのだ。
踊りは得意ではない。人生の中で一度もやったことがない。兵士たちは私が辱めを受ける姿、命令に従う姿、それを見たかっただけなのだ。
「Lächerlich!Was für ein Scherbenhaufen!(笑えるな!なんて無様だ!)」
私のぎこちないダンスに彼らは笑う。
悔しくて仕方なかった、でも黙ることしかできなかった。奴らの対妖怪用の拳銃には法儀式済の銃弾が仕込まれているのだ。本能でそれを感じ取った。もし反抗しようものなら即座に撃ち殺されてしまうだろう。


42年3月15日。
私たちは列車に乗る為に道を歩いていた。足を引きずるたびに土埃が舞った。
どこへ行くのかは分からない。いや、考えたくもなかった。
「ルーミア...ルーミア...」
どこからともなく私の名前が聞こえてくる。
「誰...?」
星の紋章が描かれた腕章を巻いた警察官が突然私を引き寄せる。
私はよろめきその場に倒れこんでしまう。
「貴方は...!」
その顔には見覚えがあった。かつて住んでいたアパートの隣人だったカミルだった。まさか彼が警察官、ドイツ側の協力者になっていたなんて。
「何をしているんだ!早く行くんだ!」
そう言われる中、私は人混みの中にあの二人を見つけた。
アグニェシュカ…!アリツィア......!
「待って...!アグニェシュ…」
叫ぼうとするがカミルが制止する。
二人は私の声が聞こえないようでどんどん先へ行ってしまう。
行っちゃ嫌...!待って...!
なおも叫ぼうとする私の胸ぐらをカミルは激しく掴んだ。
「助けてやったのに何をやってるんだ!早く逃げろ!」
彼の声には怒りと悲しみの二つの感情が入り混じっていた。
私は走り出そうとした。しかし...。
「歩け!」
私は涙を堪え歩き出す。
列車の汽笛が響いていた。


2人はいなくなってしまった。人がいなくなったゲットーには死体が転がっている。あまりにも凄惨だ。先程転んだ時に痛めた足を引きずりながら家に着く。
沢山の人が目の前で殺されていく。それも無造作に。
地面に仰向けにさせられ拳銃で頭を撃ち抜かれる。その様子を目の前で見ていた。
私は強制労働に従事させられ毎日足が棒になるまで働いた。時折無慈悲な言葉の暴力が私に襲いかかる。妖怪にとっては精神的な攻撃が一番辛いのだ。
しかし…私は逃げ出すチャンスを常に伺っていた。
戦争が始まってから使う機会が無くなったせいか私の能力は全くと言っていいほど制御できなくなっていた。
自らの能力を上手く制御する練習を宵闇の中で繰り返す。最初は全くと言っていいほど上手くいかなかった。しかし慣れていくものだ。少しずつ、着実に、制御する術を身に着けていった。


決行の日。時計の針が0時を回る。この時間は監視が緩まる時間帯だ。チャンスだ。
闇の中に身を任せる。空中に浮かび音を出さないように壁へと向かっていく。そして誰も見ていないのを確認し静かに乗り越える。
「もう…待てない…!」
私は急いで能力を解除し地面に降り立つと必死に走った。…運が良かったことに脱出したことに誰も気づいていないようだった。
助かった。


誰もいなくなったアパートの一室で過ごす日々。しかしいつ追手が来るのか分からず恐怖で震える日々を過ごす。もし捕まったら妖怪だとしても確実に殺されてしまうだろう。
…束の間の平和。しかしその平和も直ぐに終わりを告げてしまうのだった。
戸棚から皿を取ろうとした時に落としてしまい皿が割れて激しく音がする。
暫くするとドアを激しくノックする音が聞こえる。心臓が凍りついた。
「開けなさい!」
「開けないと警察呼ぶわよ!」
女の声だ。急いで荷物をまとめ、出る準備を進める。
静かにドアを開けると私と同じ金髪の女が目の前に立っていた。
「ここの住人じゃないわね?」
「そ、その…知り合いの家に住まわせてもらっているんです」
「身分証を見せて」
「え?」
「だから身分証」
もしそんなものを見られてしまえば妖怪だと直ぐにばれて通報されてしまうだろう。
選択の余地はなかった。私は飛び出した。
「妖怪よ!ここから出さないで!」
女の甲高い声が夜を切り裂く。振り向く暇はなくひたすらに駆け抜けた。人々の視線が容赦なく突き刺さる中、路地を曲がり建物の影に身を潜める。
ようやくアパートの中に逃げ込むことができた。はぁはぁと荒い息を吐きながら壁にもたれかかる。
安心しきっていた。


「何をするの!離して!」
叫び声が部屋の中で反響する。
黒い軍服の男に捕まり連行された私は黒い軍服の男たちが管理する簡易収容所の独房の中にいた。
男は嘲笑しながら私の顎を掴み上げる。
「Ich wusste nicht, dass die von der japanischen Armee zur Verfügung gestellten Schilder so wirkungsvoll sein würden.(日本軍から支給された札がここまで効果絶大とは)」
「(Das ist zu schön, um ein Tribut zu sein. Sie hat große Brüste und ist sehr schön.)これは貢物にするにはもったいない上物だな。胸も大きく非常に美しい」
いやらしい指が首をなぞる。
「Niemand wird sich beschweren, wenn Sie ein bisschen schmutzig werden.(少しばかり穢しても誰も文句は言わないだろう)」
私の服を男が引き裂こうとした。その時だった。
独房のドアが開かれ、黒い軍服を着たもう1人の男が入ってきた。
彼は軍帽を深く被っていて目元が見えなかった。
「Schande(恥知らずが)」
心臓が跳ねる。ドイツ語。しかしそれは懐かしい、でも冷たい声。
彼はすぐさま男の胸ぐらを掴み、思い切り殴りつけた。
「Tun Sie so etwas nie wieder(二度とそのようなことをするなよ)」
「J, Ja…(は、はい…)」
男はたじろぎながら立ち上がると、怯えながら独房から出ていった。
彼は胸ポケットから写真を取り出し、写真と私を見比べていた。
「Ich werde für Ihre Hinrichtung verantwortlich sein.(私が貴様の処刑を担当することになった)」
そう言うと彼は拳銃を私に向けた。
カチャ
しかし銃弾は放たれない。どうやら弾詰まりを起こしたようだ。
「Die Kugel hat geklemmt, hm(弾詰まり、か)」
「Huh, keine Wahl... lass ihn gehen, nimm seine Marken. Du bist ein totaler... Glückspilz.(はぁ仕方ない…解放してやる、札を取ってやれ。全く…幸運な妖怪だ)」
「Wie auch immer! Dieser Typ ist ein Gespenst!(しかし!こいつは妖怪ですよ!)」
独房に入ってきた部下の男が抗議する。
「Ich sage, lasst sie gehen. Ich übernehme die Verantwortung.(解放せよと言っているんだ。責任は私が取る)」
「...tsk! Ja, ja, ich verstehe, Hauptsturmführer.(…ちっ!はいはい、分かりましたよ、大尉)」
黒い軍服の男は舌打ちをしながら札を剥がしていった。
「Sie müssen dem Hauptsturmführer für seine Freundlichkeit danken!!(大尉殿の優しさに感謝するんだな!)」
札を剥がされ自由になった私は、独房を出ていった彼を追いかけようとした。
だが、隊員たちがすかさず止めにかかる。
「Warten Sie!(待て!)」
隊員たちが私の方を掴み押さえ込んだ
「Hauptsturmführer Ulrich ist beschäftigt! Komm schon, mach weiter.」
ウルリッヒ…?
「Reinhard…?(ラインハルト…?)」
声が震える。
彼は足を止め、ゆっくりとこちらを向き近寄ってくる。
その時、初めて目元を見ることができた。青白く虚ろで何も考えていないような目。まるで過去を封じ込めてしまったかのような目。
「Sie wurden entlassen, also gehen Sie(お前は解放されたのだから早く行け)」
一瞬だった。私は気づいてしまった。彼の目が泳いだのを。
「Wa... warum...(な、なんで…)」
「Ich kenne dich nicht. Geh jetzt.(お前のことは知らない。さあ行け)」
「……」
彼は静かに背を向けた。私はこれ以上言葉を発することができなかった。


「Hauptsturmführer!(大尉!)」
詰所に若い隊員の声が響く
「Es wäre eine Lüge zu sagen, dass die Kugeln blockiert sind!(弾詰まりなんて嘘なんでしょう!)」
「……」
「Wir haben gerade das Gewehr des Hauptsturmführer überprüft. Es waren keine Kugeln ... drin.(先程大尉の銃を確認しました。銃弾は…入っていませんでした)」
「Hauptsturmführer, ich habe gehört, dass Sie ein Werwolf sind. Sagen wir einfach, du hast die Freundin deines Gespensterkollegen verpasst…(大尉、貴方は人狼だと聞きました。言ってしまえば仲間である妖怪の彼女を見逃したのは…)」
「Dann können Sie dem Reichsführer Himmler Bericht erstatten.(ならヒムラー長官にでも報告するか?)」
「Nee…!(なっ…!)」
「Ihr habt gesehen, wie ich oft vor euren Augen Gespenster getötet habe.(お前は目の前で私が妖怪を殺す様子を何度も見ただろう)」
「Sie wurde als unserer Bedrohung nicht würdig erachtet. Das ist alles, was es dazu zu sagen gibt. Verklemmte Kugeln? Das muss ein Zufall sein.(彼女は我々の脅威に値しないと判断した。ただそれだけのことだ。弾詰まり?偶然だろう)」
隊員はラインハルトの言葉に何も返すことができなかった。


あれからワルシャワでの暮らしは以前より少しだけ安全になった。
黒い軍服の男たちやドイツ軍の兵士に見つかっても見逃されるようになった。ウルリッヒ、いやラインハルトが根回ししてくれたおかげか。
暫くは穏やかに暮らすことができる…はずだ。


「お前さんは妖怪だな?」
ベンチに座っていると帽子を深く被った男が話しかけてきた。
「な、なんで……?」
「妖怪ってのは独特の雰囲気があるんだよ。匂いってやつかな」
「…はぁ。そうよ、私は妖怪。名前はルーミア」
「俺はゲットーから逃げ出してきた。名前はサムエル、サムエル・ゴールドバーグ。戦前は大工をしていた」
「何か気になってる様子だな?」
「なんでそれも分かるの?」
「勘ってやつだよ」
少しばかりの沈黙。私は思い切ってあることを聞いてみることにした。
「あの…その…ワルシャワから列車に乗った人たちは一体どこへ…」
「…あぁ、それか」
男はバツが悪そうに顔を歪める。
「……だな。あそこに行ったやつは地獄さ。二度と戻ってこれやしない」
「…え?」
これ以上聞いてしまったら、私はどうにかなってしまうのではないか…そう思いながらも続きを聞かずにはいられなかった。
「この前逃げ出してきたやつと偶然話をする機会に恵まれてな」
彼はため息交じりにさらに続ける。
「そいつは囚人労務班の一員で、逃げ出してきたんだ」
「仕事が与えられるなんて嘘っぱち。そこに着いた奴は服を脱ぐことを強いられ、男、女関係なく詰め込まれる」
「立ったままぎゅうぎゅう詰めにされて頭の上に子どもが投げ入れられるんだ」
「そして扉が閉まると....。そこからは、話さなくても分かるな。聞こえるのはあまりにも恐ろしい、人間とは思えない叫び声さ」
「嘘よ…そんな…」
脳が理解を拒む。嫌だ。そんなこと受け入れたくない。
「そして死体からは金歯が抜き取られ窪地に積み重ねられて火葬される」
「……」
「…その様子だと君の知り合いも行ったんだろう?」
胸が締め付けられる。理解したくない。
「もう死んだと思ったほうがいい。その方が寧ろ気が楽になるだろう」
目の前が真っ白になった。世界が…崩れ落ちていく。
しかし、その時私には一つ気になることがあった。
「それでその逃げ出してきたって人は…」
彼の目が一瞬泳いだ気がした。
「…さぁな。どっか行っちまったから分かんねぇな」
彼は頭を掻きながら答える。しかし私はどこか引っかかることがあった。
彼は知りすぎている。あまりにも知りすぎているのだ。
私は確信した。
そこから逃げ出してきた男というのは目の前にいるゴールドバーグ自身なのだと。
「もしかしてその逃げ出してきた人間ってのは…」
「…さぁ、どうだろうな。お嬢さんのご想像にお任せするよ」


それから私は、復讐の鬼となった。
夜な夜な、軍服を着たニェムツィを見つけ後ろから静かに忍び寄り半殺しにするまでいたぶり続ける。
「Was zum Teufel bist du?(なんだお前は…!)」
「Halt die Klappe! Schlachter!(黙れ!虐殺者が!)」
その後は闇に紛れいつもの場所に戻る。その繰り返し。


「ルーミア、君のしていることは分かっている。だがこのままでいいのか?」
ゴールドバーグが悲しそうな顔をしながら私に話しかける。
「私だってこのままじゃいけないことぐらいわかってるわよ…」

「でもこのままでは…」
彼の言葉が胸に突き刺さる。そんなことは分かっている…。
「そうだな…ならいい居場所があるんだ?興味はあるか?」


ゴールドバーグはポーランド国内軍の一員だった。彼はいつか来るであろう一斉蜂起に備えていた。
彼の手引きでレジスタンスの地下組織に接触を図った。
兵士を無差別に襲っていた私の噂は国内軍にも広まっていたようで、その行動から信頼できないと考えていた兵士が数多くいた。
「あの女を信じることなんてできるか?」
周囲の疑いの目が突き刺さる。
抗議するかのように腕を広げる。闇があっという間に広がり部屋全体を覆い尽くした。
「これが私の力」
闇の中で赤い瞳がキラリと輝く。誰もが後ずさりし言葉を失っていた。
皆、その力に圧倒されていた。
「貴方が司令官?」
指をパチンと鳴らし闇を解除する。目の前にいた司令官、タデウシュ・コモロフスキに話しかける。
「私を使いなさい。コモロフスキ。ポーランドを解放するために」
沈黙。
その静寂を破ったのは一人の兵士、ヴィトルト・ピレツキだった
「ルーミア、君の力があれば…!」
数少ない女性兵士であるマリア・ヴィッテクも同様に
「闇そのものだったわ…もし貴女がいれば…」
二人の目はかつてのピウスツキにとてもよく似ていた。
周りの兵士の表情が変わっていく。
コモロフスキが一歩前に出て、私の手を掴む。
「君の力は一個中隊に相当するだろう。こちらこそよろしく頼む」
私の他にも何人か妖怪がいた。彼らも同様に特別な能力を示し、隊員たちが納得して入隊が許可された者たちばかりだった。
この瞬間、私は殺戮者からパルチザンへと変わった。
私は自分のために戦うのではない。無残に散っていったあの人たちのために。


様々な手続きが済み部隊に正式に入隊することができた。
「さて改めて挨拶するが私はサムエル・ゴールドバーグ。基本的にはビルと呼ぶように。所謂コードネーム」
「分かった。ビル」
「ルーミア、君が住むのはここだ」
ゴールドバーグが地図のある場所を指で指す。
「そして君のコードネームはテネブラエ」
私はその言葉に無意識に拳を握りしめていた。テネブラエ…ラテン語で闇を表すその名前は私そのものだ。
「一緒に住んでもらう教育係はカジミエシュ・セラ…」
「…!」
「ど、どうしたんだ…」
「い、いいわ。続けて」
「カジミェシュ・セラツキ。コードネームはショス」
ミェシュ…!いや、そんなはずはない。彼はあまりにも優しすぎるのだ。こんなパルチザンに参加できるとは思えない。きっと同姓同名なのだろう。
「…もしかして知ってるのか?」
「違う…わ。そんな人は知らない」
私は必死に震える手を抑えようとしていた。
「合言葉は黄昏に生きる、宵に友なし。聞かれるから忘れるなよ」


帽子を深く被って、指定されたアパートへ向かう。
ドアをノックすると、奥から声が聞こえた。
「黄昏に友なし」
「宵に友なし」
返答を終えたその瞬間、ドタドタと足跡が聞こえドアが勢いよく開かれる。
私は強引に腕を引っ張られ、力強く抱き締められる。目の前にいるのはとても愛おしいあの人だった。本当に参加していたなんて。
「…生きていたんだな。ルー...じゃないテネブラエ」
「私が死ぬわけないじゃない」
「…ゲットーから逃げ出してきたの」
「良かった…本当に…」
さらに力が強くなる。愛おしい。
ミェシュの顔を見つめる。
気づけば私たちは長年の習慣のように接吻を交わしていた。
「んっ…」
「ぷはっ…」
「もうお前を手放すもんか」
「私もだよ。貴方のことを全力で守る」
ポケットから小さな手帳が取り出され、手にそっと乗せられる。
「これが偽の証明書だ。絶対なくすなよ?」
ページをめくると、私の顔写真、そしてローザ・テレサという偽名が記されていた。
「もし警備隊に声をかけられたらこれを見せるように」
「また会えてよかったよ」
私と彼は協力者の保有する隠れ家のアパートで寝食を共に過ごすことになった。失った時間を取り戻すかのように…この平穏の中で静かに暮らしていた。


「たまには教育係として教えないとな」
「まず気をつけるべきは証拠になるような書類は持ち歩かないことだ」
「警備隊がいるから…?」
「その通りだ」
「警備隊と会った時は不安そうな素振りを示したり、急に行き先を変えようとするなよ?どんな者でも取り押さえることが奴等の任務だからな」
そして彼は冷静な表情で四本の指をこちらに見せる。
「そして4人以上が同時に一箇所に集まることは禁止だ」
「市民、特に守衛にバレないようにする為、ね」
彼は静かに頷く。
「よく知ってるな」
「見つかったら逮捕される可能性があるからな、気を抜くなよ?」
「分かってる…私たちはパルチザン、でしょ?」


「〜♪〜♪」
その夜、私はシャワーを浴びて脱衣所で髪をタオルで拭きながら着替えていた。濡れた髪を指で梳かし下着を着けようとしたその時。
ガチャ
「…!?」
思わず身構える。
不意にドアが開きミェシュが入ってきた。
彼の目は私の素肌をとらえ、目線の先には…。
私は咄嗟に能力を発動させ部屋が一瞬で暗闇に包まれた。
「…見たわね?」
「…見てないよ」
「嘘つき」
暗闇の中で静かに囁く。
今、私からは彼の姿は見えるが彼からは何も見えない。
私は知っている。彼の耳が真っ赤に染まっていること、目を逸らして誤魔化そうとしていること。それを観た瞬間、私は笑ってしまった
ブラジャーとパンツを身につけ背後に回る。
「どこにいるんだ?」
「ここよ?」
胸を軽く背中に押し付け、耳元で囁く。
「ル、ルーミア!?」
彼の体がビクンと跳ねる。そんな姿に母性がくすぐられる。
「今回は許してあげる」
能力を解除し、部屋に光が戻った。
「本当にごめん」
彼は顔を真っ赤にしながら俯くだけだった。
まるで小説のワンシーンのようだなとどこか他人ことな考えが頭の中に浮かんでいた。
着替えを済ませるとリビングにいる彼の前に立った。私は腕を組み彼を見下ろす。
「次、したらどうなるか分かるわよね?」
「勿論、分かっているさ…」
頭を下げる彼の耳は相変わらず真っ赤に染まっていたのだった。
この一件以来お互いを意識するようになっていった。ただの教育係と部下という関係が少しずつ変わっていくのを感じた。妖怪だとしても私は女なのだと強く認識させられる。


いつ仲間が密告されるのか、連行されるのか分からない、そんな日々。
ある夜、私たちは一線を越えた。
ミェシュに抱かれながら目を閉じる。
「ごめん」
「…なんで?」
「お前を感じたかった。生きてるって実感したかった」
そう言う彼の頬に口づけをする。
「気にしなくていいのよ。私だって同じ」
彼の手が再び私の身体をなぞり熱が高まっていく
絶望的な状況でも私たちは愛を育む…不思議なものだ。人間と妖怪が愛し合っているのだ。
私たちはもう一度接吻をする。舌が絡まる程の深いキス。
「...ねぇ」
「ん?」
「戦争が終わったらさ...貴方の子供を産みたいな」
彼はふふっと笑った。
「そうだな、きっと幸せな家族になれるさ」
私はそっと彼の手を握った。
時々夢を見た。彼と結婚して家庭を築く夢を。叶わない幸せかもしれないけど、たとえそれが小さな小さな幸せだとしても…欲しかったのだ。


44年7月末、外では遠くから銃声のような音が聞こえてきていた。最近国防軍が赤軍の攻撃で壊滅し敗走を重ねているらしい。
彼はブリスカヴィカを布で拭きながら、
「ソ連軍が東部まで来ているらしい。蜂起もそろそろだろうな」
「覚悟はできてる、よね?」
「勿論。ポーランドを解放する為ならばこの身の全てを捧げても…」
「…ミェシュ。こんなことを今言うべきではないかもしれないけど…」
言葉が詰まる。しかし言わなければならない。
「生きることを最優先にして」
彼は顔を上げ、次の瞬間には苦笑いをし、首を横に振った。
「すまないが、無理だな」
「そう…よね」
そんなことを言うのは分かっていた。しかし言わずにはいられなかった。
私は机の上の古びたラジオに目を向ける。
「ラジオが気になるのかい?」
スイッチを入れるとけたたましい音が部屋に響く。
「…っ!」
急いで音量を絞る。
『国内軍よ蜂起せよ。繰り返す国内軍よ...』
電波は乱れていたがその知らせは私たちの運命を告げる瞬間だった。
「そろそろ…だな」
「ミェシュ…」
「やっぱり、貴方には生きていてほしいよ…!」
私は抱きついていた。手が震える。胸が苦しい。こんな時にこんなことを考えるべきではないのは知っている。しかし私にとっては初めてできた恋人なのだ。死んでほしくないと思ってしまうのは当然だろう。
「運動家には死が宣告されている」
「そうだろう?」


「1944年、8月1日午後5時、時間だ」
赤白の腕章をつけた男女たちが緊張した面持ちをしている。私は地下工場で作られたブリスカヴィカを握り締めていた。
隣にいたミェシュが、私の手を握る。
「俺たちの国を絶対に取り戻そう」
「…うん」
…自由の光が私たちを照らしていたような気がした。
ミェシュはポケットからロザリオを取り出し私の手の中に置いた。
「君は確かカトリックだったな」
「…最期まで、諦めるなよ」
静かにロザリオを首にかけた。
私たちは壁から姿を現しドイツ軍の兵士たちを取り囲んだ。
「Aufstand!(蜂起だ!)」
そう兵士が叫ぶと同時に銃弾を兵士の胸に撃ち込んだ。


44年8月中旬、蜂起から三週間程過ぎた。私たちの部隊は非常に士気が高くなんとか鎮圧軍の進撃を食い止めていた。
私は闇を操る力を使い進軍を食い止めながら、一人、また一人と敵を倒していく。もはやそこに常識や慈悲なんてものは存在しなかった。
これは仲間から教えてもらったのだが蜂起から数日後に鎮圧軍の攻撃部隊に加わった2つの部隊があったらしい。彼らは蜂起の鎮圧をよそに民間人の殺害に勤しんでいた。仲間だけではなく何もしていない人まで殺されていく光景に私は言葉を失った。
そして …。


「ビル…!」
頭や胸を銃で撃たれている捕虜たちの死体。彼らは後ろに手を縛られたままであり戦闘で倒されたのではなく、明らかにその場で処刑されたのが分かった。
「クソ野郎どもにはこれでいいじゃないか」
「まさか報復で殺したの?」
「今殺しておかないと後でどんなことをされるか分からないだろう。もし生かしておけばいずれみんなやられる」
「そう、ね…」
すんなり受け入れた私が恐ろしかった。命を奪うことが当たり前になっていく、感覚は日を増すごとに麻痺し私の中で復讐心は極限まで高まっていった。
人間性という名の皮がぺりぺりと剥がれていく音がした。


8月下旬、廃墟と化した一室の中でミェシュと共に更なる抵抗の準備を行っていた時だった。
ドアが開かれるとマリアがいた。きっとソ連軍が助けに来てくれたことを知らせに来たのだろう。…しかし彼女の顔はどこか青白かった。
「一体何があったんですか?」
「悪い知らせがあるわ」
「ソ連軍が侵攻を停止した」
私たちはその言葉に耳を疑った。
「え?」
「…間違いないんですか?」
「ヴィスワ川の向こうでただ見ているだけ…。私たちは見捨てられたも同然…」
「ソ連軍は私たちを助けてくれるはずじゃなかったんですか!」
「司令部から聞いた話よ、間違いないわ」
「…クソッ!奴らを信じなければ良かった!」
目の前が滲み世界が真っ赤に染まった。怒りが身体を突き動かす。
気づけば、ブリスカヴィカを掴んで外に出ようとしていた。
「ダメ!今出たら!」
「止まれ!」
マリアとミェシュが必死に私を抑え込む。私はその手を振りほどこうと暴れた…しかし何故か力が入らない。
「私に構わないで!直接言ってきてやる!」
「ダメ!死ぬわよ!」
「みんなもう死んだ!」
廃墟に悲痛な叫びが響いた。
力が抜けてしまい膝から崩れ視界が滲む。いつの間にか、涙がこぼれ落ちていた。
「うぅ…!」
「まだ…まだ…諦めちゃいけないよ」
ミェシュの優しい声が心の中に響く。彼は必死に私を震える手で抱き締めていた。
もう何も信じることができなかった。
「ねぇ…奇跡って起こると思う?」
「え…?」
「海を割ったり水をワインに変えたり...。私たちはこれから勝てると思う?」
「答えて!」
「……」


44年9月下旬。
「ポーランドは見捨てられた。降伏せよ」
頭上を敵機が旋回し降伏を求めるビラが撒かれる。それはまるで死神のようだった。
蜂起の開始から約2カ月が経ったが、戦況は最悪だ。
包囲網は日を追うごとに狭まり弾薬も食糧も尽きかけていた。目の前には沢山の死体が転がっている。どれも赤白の腕章を着けた兵士たち。
ゴールドバーグは眼球を撃ち抜かれ目から血を流していた。他にも足や腕を吹き飛ばされた者、爆発に巻き込まれ焼け焦げた者。もはや人だったのかさえ分からない死体ばかりだった。仲間たちが銃弾で次々に屍と化していく。
私は銃弾が尽きたブリスカヴィカを持ちながら必死にまだ生きている仲間の姿を探していた。
「危ない!」
その声と同時に銃声が響く。
「!!」
私を守るようにミェシュが立ちふさがり体が撃ち抜かれる。血飛沫が舞い、ゆっくりと倒れた。その瞬間はまるでスローモーションのように…。
「そんな...!」
私は駆け寄り抱きしめていた。ミェシュの胸には銃創が3つ刻まれ、そこからは赤黒い血が流れ続けている。息は絶え絶えで顔は青白く、今直ぐにでもその儚い命が終わってしまいそうに見えた。
「嫌!死んじゃ嫌!」
ミェシュは口から血を噴き出しながら
「…ルーミア、君は妖怪だけど僕は人間なんだよ」
「でも…!」
「なら…」
「僕を食べてくれ」
「!」
「君とは結婚したかった。子供だって作りたかった…でも…もうダメだ…。」
「そんな…」
かすれた声が私の中に響く。
「もう一度言うよ?僕を食べてくれ」
「君の一部になれるなら本望だ」
「ルーミア、お願いだ」
そう話すと最後の力を振り絞るように私の頬に手を触れた。生温かい血が頬につく。
そして静かに目を閉じた。
「…なんで…どうして…!」
涙が溢れ視界が歪む。
「誰か…!助けて…!」
…叫んでしまった。
しかし、ここは戦場だ。一瞬の気の緩みも許されない。
コツコツと軍靴の音が聞こえる。
「Weibliche Soldaten, sehr selten. (女兵士か、珍しい)」
「……」
「Sie haben ihn erschossen, Dirlewanger(貴方が撃ったのね、ディルレヴァンガー)」
ギョロッとした目つき、トーテンコップのような顔、親衛隊の特徴的な黒い軍服。間違いない。
虐殺、略奪、婦女暴行、死の象徴。今回の蜂起で特に警戒されている人物。それがO・ディルレヴァンガーだった。
私はミェシュのまだ温かい顔を優しく撫で立ち上がる。
「Schau nicht so ängstlich, blonde schwester(そんな怖い顔をするなよ、金髪の姉ちゃん)」
なんて腹立たしい。この顔を見るだけでぞっとする。私は怒りに任せて彼に言い放つ。
「Verdammter Mistkerl…(クソ野郎…)」
「…Was haben Du gerade gesagt?(…今なんて言ったんだ?)」
「Verdammter Mistkerl,Mann!(クソ野郎、よ!)」
その言葉を聞いた奴の顔が怒りで真っ赤に染まる。
「Du…!(貴様…!)」
「Halt die Klappe!(黙れ!)」
この男のせいで沢山の人間や妖怪が死んだ。この男のせいで...!視界があの時のように真っ赤に染まった。
そんな私にディルレヴァンガーは拳銃を向ける。
「Es ist aus…!Hexe!(終わりだ…魔女め!)」
3発の銃弾が私の体を貫いた。軽くよろめく。
しかし何故だか痛みを感じない。傷が塞がり元に戻っていく、なんとも不思議だ。これが…復讐心。
笑みを浮かべながらディルレヴァンガーの元へ歩みを進める。
「Haha…Ahahahaha!(はは…あはははは!)」
「Was ist so lustig!(何がおかしい!)」
「Ich bin ein Gespenst, schon vergessen? Sag bloß, du kennst nicht mal den Unterschied zwischen einer Hexe und einem Gespenst?(私は妖怪よ?まさか魔女と妖怪の違いさえ分からないの?)」
「Ha…Ha…(だ、だ…)」
「Ha?(だ?)」
「Halt die Klappe! Schlampe!(黙れ!クソビッチ!)」
肩に、胸に、頬に、3発。しかしどうってことはない。さらに歩みを進める。
「Es ist ein Monster...! (化け物だ...!)」
奴の顔は恐怖で真っ青になっていた。装填し、さらに銃弾を撃ち込もうとするが手が震え、引き金を引けないようだ。
「Du Schlächter(この屠殺者が)」
「Sieht so aus, als ob Sie derjenige sind, der am Ende ist(終わりなのは貴方の方だったようね)」
奴の頭を鷲掴みにする。
「Was machst du denn…das…!(何をするんだ…この…!)」
「Das Sie verdienen, Das ist das Ende(お前にふさわしい、最期よ)」
奴の顔がさらに恐怖に歪んでいく。
「Nicht…nicht…!(やめろ…やめてくれ…!)」
「Du hast mir alles genommen! Meine Geliebte, sogar meine Seele!(お前は私から全てを奪った!恋人、魂までも!)」
こいつは感情のままに沢山のポーランド人やユダヤ人を殺してきた。今度はお前の番だとばかりに手に力を込め思い切り、握り潰す。
その瞬間、断末魔のようなものが聞こえた気がした。
グシャッと音がして脳髄と血液が飛び散る。顔と軍服に返り血がついたが気にしない。暴虐非道の限りを尽くした男にはこんな最期がお似合いだ。
ミェシュの亡骸を背負い安全な場所へ運ぶ。
彼の最期の願いを叶えるために。

「…ご馳走様」
口についた血を綺麗に拭き取り、ミェシュの血に染まった上着を抱きしめる。
「大好きだよ」
今更言ったところでもう遅い。でも…。
「思い、きちんと受け取ったよ」
カニバリズムは国内軍の中でも御法度とされていた。しかし自ら食べられることを望んだ彼の思いを無下にすることなんてできなかった。
「これからはずっと一緒だよ…ってあれ?」
彼の軍服の胸ポケットが膨らんでいた。中に手を入れると小さな紙とペンダントが出てきた。
『ルーミア、君には生きていてほしい。我儘かもしれないがとにかく生きるんだ』
「ミェシュ…」
嗚咽を漏らすことしか私にはできなかった。
私は妖怪。死ぬことも老いることもない存在。
それでも、前を向いて彼の分まで….。
私はミェシュの上着を羽織り血に染まったワルシャワの空を見上げた。
状況は絶望的だった。


蜂起は失敗した。いや、最初からこうなることは予想できていたのかもしれない。
銃声と悲鳴が街を支配し蜂起に参加していた人間たちが次々と処刑されていく。
腕章をポケットに押し込みながらふと考える。
私服に着替えるという選択肢もあった。民間人になりすませば生き延びることもできるかもしれない。
だがミェシュの上着を脱ぐことだけはできなかった。彼の形見を捨て去る、それだけはできなかった。
…足音。
漆黒の制服を着た集団。
私は息を潜めて、瓦礫に身を隠した。
彼らはこれまで聴いたことがない不気味なドイツ語の歌を口ずさんでいた。
…marschiert in Feindesland und singt ein Teufelslied…(...は敵地を進み、 そして悪魔の唄を歌う...)
どこか恐ろしい旋律。
隙間から覗くと彼らは国内軍の兵士の遺体を蹴り飛ばしていた。笑みを浮かべる兵士もおり、底しれぬ恐怖を感じた。
瓦礫に身を潜め通り過ぎるのを待った。足音が遠ざかり、息を吐き立ち上がって走り出そうとする。
「今だ…!」
その瞬間、背後から懐かしい声が聞こえた。
「ルーミア」
名を呼ばれ背筋が凍る。
振り向くとそこには黒い軍服を着た血まみれの男が立っていた。
「ラインハルト…」
彼は銃弾を受けたのか、胸元からは血が留めなく流れ続けていた。
そして震える血に染まった手で私に一丁の拳銃を握らせようとしていた。
「さっきパルチザンに撃たれてな…はは…そいつ銀の弾丸を撃ち込みやがった…」
「僕はもう長くないさ」
彼は私の頬を優しく撫でる。ベッタリと生暖かい血が頬につく。
「…!」
「あの戦争で僕は狂ってしまったんだ。ユダヤ人と妖怪を憎むようになり、帝国を滅ぼした癌だと思うようになった」
「気づけば、殺しを楽しむようになっていた」
「ルーミア、僕は地獄へ行くのかな」
彼の問いに私は答えることができなかった。
決して許すとは言えない。しかし今私の目の前にいるのは、かつて私を助けた青年の姿だった。
何故だろう。憎いはずなのに涙が出てしまう。同胞を殺した敵なのに。
「君が逃げたことは誰にも報告しない。生きろ」
私は彼の言葉を受け入れ涙を堪えながら瓦礫の影を駆け抜けた。振り返ってはいけない、戻ってしまいたくなるから。


ラインハルトはルーミアの姿を見送るとふぅと息を吐いた。
「Hauptsturmführer(大尉!)」
ラインハルトの背後から隊員の怒声が響いた。意識は朦朧としていたが彼にはやるべきことがあった。
「Obersturmbannführer Reinefarth(ラインファルト中将)」
「Ich war ein Idiot.(僕がバカだった)」
ラインハルトは振り返ると仲間であるはずの隊員に拳銃を向け発砲したが、震える手では命中などするはずがなかった。
「Verräter!(裏切り者!)」
ラインファルトがラインハルト目掛けて銃弾を三発撃ち込む。
ラインハルトの体がぐらりと揺れ、瓦礫に血の花が咲いた。
彼は笑っていた。それは自嘲かそれとも安堵からか。
そして震える左手で自らの銃をこめかみに当てた。
「Ich bin ein Dämon geworden. Ein Dämon mit einem menschlichen Gesicht... wir sehen uns in der Hölle.(僕は悪魔になったんだ。人間の顔をした悪魔に…地獄で会おう)」
右手をゆっくりと大きく掲げる。
叫ぼうとした瞬間、銃声が響いた。
その銃声は彼の銃によるものではなかった。
「Ich kann nicht glauben, dass sie nicht einmal Selbstmord zulassen...(自殺すら許されないとは…な)」
手から拳銃がこぼれ落ちる。
「Wenn du ein Streikbrecher bist, bist du ein Streikbrecher, bist du dem Führer treu, stirbst du wie ein Streikbrecher…(クズならクズらしく総統閣下に忠誠を尽くしクズのように死ぬ…か)」
そう言うとラインハルトは目を瞑りこと切れた。


ラインファルトに歩み寄る影があった。
「Ich habe Sie beobachtet, Obersturmbannführer Reinefarth(見ていたぞ、ラインファルト中将)」
「Das ist Obergruppenführer Zelewski(これは、ツェレウスキー大将)」
「Wie ist der Name dieses Mannes?(この男の名前は?)」
「Reinhard Ulrich. Sein Rang ist Hauptsturmführer.(ラインハルト・ウルリッヒ。階級は大尉です)」
「…Sagen wir es mal so. Der Hauptsturmführer wurde von polnischen Partisanen ermordet. Ist das richtig?(…こうしよう。大尉はポーランド人のパルチザンに殺害された。そうだな?)」
「Ja(はい)」
「Machen Sie sich nichts draus. Sie haben einen Verräter sanktioniert, das ist alles.(気にしなくていい。お前は裏切り者に制裁を加えたのだ、それだけのことだ)」
「Ich habe Sie beobachtet, Generalleutnant Reinfeldt(では残党狩りを続けるように)」
「…Heil(…ハイル)」
ラインファルトは右腕を掲げ敬礼をする。
ラインハルトの血塗られた銃が太陽に照らされキラキラと輝いていた。


「はぁ…はぁ…」
息を切らしながら必死に駆けていた。鉛のように思い足を引きずりながら。淀む視界、心臓がバクバクと脈打つ。どこまで逃げれば助かるのか、そんなことを考えていた。
しかし、運命は私に味方などしなかった。
「Da ist er!(いたぞ!)」
逃げた先には銃を構える国防軍の兵士がいた。
血のついた拳銃をポケットから取り出そうとするが焦りからか手元が狂ってしまい足元に落ちてしまう。
強引に取り押さえられ、引きずられるように連れていかれてしまった。
「Nimm sie!(連れていけ!)」


蜂起に参加した人間、妖怪が並ばされ1人、また1人、銃弾にその身を散らしていく。
もちろん、私もその一人。後ろ手に縛られ身動きが取れない。取れたとしても即座に殺されてしまうだろうけど。
「自由万歳!」
直後、隣の仲間の額に銃弾が撃ち込まれた。
…しかし何かがおかしい、断末魔が…笑い声のように聞こえる。…いや、そうだ。確かに彼は笑っていた。幻聴なんかじゃない。
若い兵士が私の前に立つ。
じっと兵士を見つめる。兵士の目が泳ぎ、震えながら銃口を向ける。
ふふ…可哀想に。震えてる。でも殺されるのはわたし。何故あなたは怖がっているの?
中々銃弾が発射されない。待ちかねたわたしは狂気的に笑ってみせる。SSが歌っていたあの歌のように。
「あははは…あははははははは!」
「なっ…!こ、こいつ…!(Nee...! Dieser Typ…!)」
「Erschießt sie! Erschießt mich! He, du! Los, kommt schon! Erschießt ihn gleich hier!(撃ちなさいよ!撃ちなさいよ!ねぇ!ねぇってば!この場で撃ち殺しなさいよ!)」
「く、狂っている…!自ら殺されることを願うのか…!?(Du bist verrückt...! Du willst selbst getötet werden…!?)」
「中尉、何故撃たない?(Leutnant, warum erschießen Sie sie nicht?)」
そこに現れたのは黒い軍服を着た細身の男だった。どこか冷徹で狂気を帯びているかのような。
「……」
「Dies ist die "Abendhexe". Viele Menschen sind durch ihre Dunkelheit getötet worden.(こいつは『宵闇の魔女』。何人もこいつの闇に飲まれて殺されてきた)」
「Hexe…(魔女…)」
「Ja, Satanisten, Satanist(そうだ、悪魔崇拝者、サタニスト)」
「Geh und versammle die Soldaten! Ein Mann ist nicht genug für diesen Kerl!
(…兵士を集めてこい!こいつには一人だけでは足りない!)」
「Das ist zu viel…!(それはあまりにも…!)」
「Obersturmführer. Was glauben Sie, wie viele Menschen wir getötet haben? Wir, die wir die Hölle selbst sind, reden über Ethik? Das ist alles zu lächerlich(中尉。我々は一体何人殺してきたと思う?地獄そのものである我々が倫理を語る?あまりにも馬鹿馬鹿しい)」
「……」
…暫くすると小銃を持った兵士が十人程現れ、横に並んだ。
「えへへ…私にはふさわしい最期…」
「Obersturmführer, er lacht. Er ist ein größeres Ungeheuer als wir(中尉、奴は笑っている。我々以上の怪物だ)」
「Gebt dem Monster ein ordentliches Ende, wie das Monster, das es ist(化け物に化け物らしく、ふさわしい最期を味あわせてやるといい)」
彼らの会話を聞いていたがどこか現実味がない。きっと夢なんだ。ミェシュが死んだことも多分夢。彼を食べたのも…。
…もうどうでもよくなってしまった。
「vanitas vanitatum, et omnia vanitas…(空の空、一切は空である)」
腕を広げ、十字架のようなポーズをしてみせる。
最期ぐらいは、惨たらしく殺された、あの神の子のように。
「Dreharbeiten und Vorbereitung!(撃ち方、用意!)」
「Bereit zum Schießen!(構え!)」
「Schieß los!(撃て!)」
世界が赤く染まる。銃弾が降り注ぎ肉体を喰らい尽くす。
いくつもの銃弾が私の体を襲い首からかけたロザリオが銃弾に反射し輝く。
「ロザリオ…きらきら…きれい…えへへ…」
しかしまだ意識はあった。辛うじて立つことができていた。
「神の子は十字架に召された。ならあた…あた…あたしは…」
「Er ist noch am Leben! Schießt!(まだ生きているぞ!撃て!)」
「主よ。罰して…殺して…グチャグチャに…殺しなさいよ!」
「Ungeheuer!(化け物だ!)」
兵士が即座に拳銃を取り出した。
額に1発、左肩に1発、左足に1発
世界が暗くなっていく。光などなかった。私の意識は闇に溶けていった。


気がつくと死体の山の中にいた。
「…あぅ…」
生きているだけでも奇跡と言ってもいい状況の中、恐怖が胃の奥からこみ上げ、吐き気がする
今度は何をされるのだろうか。
「Verbrennen Sie es, nur für den Fall(念の為、燃やすように)」
「Natürlich,Obergruppenführer Zelewski(勿論です、ツェレウスキー大将)」
兵士がマッチに火をつけ山に投げると炎があっという間に体を覆い尽くした
息を吸うと肺と喉の奥が焼き尽くされる。
「……!」
しかし恐怖心は拭えなかった。人間性なんて崩壊したはずなのに。
体が震え、脳が焼ける音がした。次の瞬間、何かが決壊するような音が体内で響く。太腿に生暖かい感触が伝う。
恥辱にまみれ情けなくなり涙が出る。もうこんなの嫌だ。
「ミェシュ…」
もうこの世にいない男の名前を叫ぶ。手を伸ばす。彼はもういないのに。
燃え盛る炎の中で私は再び気を失った。


目覚めた時には夜になっていた。
「…生きてる」
重い体を引きずりながら死体の山を這い出す。焦げ臭い血の匂いが鼻を突く。何か柔らかいものを踏んだような感触。それがかつて人間だったモノかなんて確認する余裕もなく。
「もう誰もいない…」
気づけば必死の思いで駆け出していた。
廃墟に着いた時には疲労で倒れてしまった。もはやこれ以上生きたいという感情は消え伏せていた。痛みに悶える体を壁にもたれかけ、静かに笑う。
「生きてる…のになんで嬉しくないんだろ…あはは…」
廃墟の中で見つけた拳銃を拾い上げる。
「これさえあれば私も...」
「ミェシュ、ごめんね」
足元に落ちていた弾を拾いカチャリと装填する音が響く。
静かに口を開け、ゆっくりと喉奥に銃口を押し当てる。冷たい感触。
目を閉じる。
「…!」
鋭い痛みと共に壁に血と脳髄が飛び散る。意識が再び闇に飲まれていく。


「…っ!はぁ…はぁ...」
死んだはず、だった。
しかし傷は塞がっていて体は元通りになっていた。どこも痛くない。
「はは…忘れてた」
「私、死ねないんだ…」
私は死ぬことすら許されない『妖怪』
老いることも死ぬこともまずない。
「なんで…なんで…私は…人間じゃないのよ…!」
その叫びは誰にも届かなかった。


廃墟と化したワルシャワを歩く。そこら中に放置された死体から漂う腐臭で顔が歪む。
「そして…誰もいなくなった、か」
「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題だ...…なんてね」
英国の有名な作家が作った戯曲の台詞を呟くが、石に足を取られて転んでしまう。どうやら膝を擦りむいてしまったようだ。
「…どうすれば」
手が震えつつもなんとか立ち上がる。もうどうでもよくなってしまった私は目の前の廃墟の中に立つ一軒家に入った。
「誰か…いるの…?」
どうやら食べ物を漁っている男がいるようだった。しかし足元に缶があるとは気づかず蹴って音を出してしまった。
「誰だ…?」
男は振り返り私の方をじっと見つめる。
「『ポルカ』よ。妖怪のルーミア」
一瞬、男は驚くがすぐに元の表情に戻る。
「貴方は...」
「ピアニストをやっていた」
ぼさぼさの髪に髭が印象的な男。
「ウワディスワフ・シュピルマン。ウワデクと呼んでくれ」


「私はある程度食べなくても大丈夫だけど貴方は」
「あぁ、数日前から全く食べていない」
彼の足元を見ると足を怪我しているようだった。これでは食べ物を探すのも大変だろう。
「私が探してくるわ」
「しかし…」
「私たち、妖怪は足や手を引きちぎられても少し時間が経ったら回復する。もし撃たれても平気」
私はすぐに闇に溶け込むように夜の中に消えていった。


能力を使いつつ上手く隠れながらひたすら食べ物を探す。しかしどこを探しても見つからない。これでは彼に顔向けできない。
諦めて闇に紛れながら彼の元へ急ぐ。しかしそこには車が止まっていた。
「まさか…!」
体を浮かせ彼のいる部屋へ…。近づくと部屋の中からピアノの音が聞こえてくる。
彼はピアノを演奏している。その様子を見る一人のドイツ軍兵士…。
演奏が終わると同時に窓から部屋に入り込む。
兵士は驚いたような表情をしていた。が直ぐに冷静になり私たちに話しかける。
「Sind Sie hier?(ここにいるのか?)」
シュピルマンと私は首を縦に振る。
「Juden und... Gespenster?(ユダヤ人と…妖怪か?)」
「Ja(そうよ)」
「Wo verstecken sie sich?(どこに隠れているんだ?)」
今度はシュピルマンが答える。
「Auf dem Dachboden.(屋根裏です)」
「Zeig ihn uns.(案内しろ)」


シュピルマンを隣で支えながら私たちは兵士の男を潜伏場所へ案内する。「Essen?(食べ物は?)」
シュピルマンはいつの間にか手に入れていた缶詰を見つめる。私は首を横に振った。
兵士は去り、暫くすると車のエンジン音が聞こえた。
緊張が解けシュピルマンは泣いてしまった。私は隣で彼を慰め続けていた。兵士に見つかってしまった今、私たちがこれからどうなるかなんて分からなかった。


夜が明け朝になった。
兵士が私たちの元を訪れ、新聞紙に包まれた物を私たちに投げ渡す。
外からは砲撃音が聞こえる。
「Was zum Teufel war das für ein Schussgeräusch...?
(あの砲撃音は一体...?)」
シュピルマンが尋ねる。
「Die Rote Armee nähert sich(赤軍が迫っている)」
「In zwei Wochen ist es soweit.I(あと2週間もすれば...)」
そう話すと部屋から出て行ってしまう。
新聞紙を開けるとジャム、パンが入っていた。
「私は大丈夫…いや少しだけ欲しいかも」
彼が目を瞑りながら食べていたのが印象的だった。
そして缶切りが静かに床に落ちた。


数日後、兵士が忙しそうな様子で部屋に入ってきた。
シュピルマンが何があったのか聞いていた。
「Was ist los?(どうしたんですか)」
「Es wurde beschlossen, sich aus diesem
(これから撤退することが決まった)」
そう話すと私たちに大量の食料を手渡す。
「Wo sind die sowjetischen Truppen?(ソ連軍は?)」
「Noch nicht(まだだ)」
シュピルマンは兵士に向かって、
「Ich weiß nicht, wie ich Ihnen danken soll...(貴方にどう感謝すればいいのかわからない...)」
「Wir sollten glauben, dass Gott uns am Leben erhalten hat, und dankbar dafür sein.
(神に自分が生かされていると信じ、感謝するべきだ)」
そう話すと兵士はコートをおもむろに脱ぎシュピルマンに渡す。私にはマフラーが渡された。
「Das ist für Sie.(貴方にはこれを)」
「Danke(ありがとう)」
「Sie sind es.(貴方は…)」
「Das ist in Ordnung. Machen Sie sich keine Gedanken darüber.
(大丈夫。気にする必要はない)」
「Was wirst du nach dem Krieg machen?(終戦後はどうするんだ?)」
「Ich werde wieder Klavier im Radio spielen.(またラジオでピアノを)」
「Ich werde... Nachhilfe geben(私は…家庭教師を)」
「Also…(そうか…)」
「Wie heißt ihr denn, ihr beiden?(二人とも名前を教えてくれ)」
「Szpilman(シュピルマン)」
「Rumia(ルーミア)」
「Szpilman…Rumia…(シュピルマン…ルーミア…)」
「Beides gute Namen.(二人とも良い名前だ)」
数時間後、私たちが潜伏していた場所から国防軍の兵士が乗ったトラックや車が出発していった。


毛布に包まりながら寝ていると外からポーランドの国歌が聞こえてくる。急いで立ち上がり窓から覗くとそこにはポーランド国旗のついたトラックが道を走っていた。
気づいた時にはシュピルマンは外へ出ようとしていた。
「ダメ!そのコートを着ていたら!」
止めようとするが間に合わない。気付けば彼は外に出てしまい、足を引きずりながらポーランド軍兵士の元へ行こうとしていた。
「ドイツ兵だ!」
怒号と銃声が響く。
「待ってくれ!僕はポーランド人だ!なんで撃つんだ!」
銃弾を躱しながらシュピルマンが廃墟の中へ戻って来る。入れ替わるように私は外へ駆け出していた。
「待って!彼はポーランド人よ!」
「国内軍にいた私が保証する!」
ポケットから焼けてボロボロになってしまった国内軍の腕章を出し兵士に見せるように掲げた。
兵士は最初は疑っていたが私の主張が届いたのか銃を降ろした。
「国内軍…まさか、生きていたのか」
「さあ、ウワデク、出てきて…」
そう言うと彼は両手を掲げながら出てきた。
「何故そんな物を着ているんだ」
「寒かったんです...仕方なかったんです...」


数日後、解放されたワルシャワの病院に私たちはいた。ベッドに横たわるシュピルマンの手をそっと握り締めた。
「ウワデック…ありがとう。貴方のお陰で私は生き延びることができた。」
彼は天井を見つめながら静かに答えた。
「いやこちらこそ。…でももしあの兵士がいなければ僕は死んでいただろうな」
「国防軍…今のポーランドでは誰も信じてくれないでしょうね」
「僕はいずれ、このことについて本を書くと思う。もし良かったら…」
「もちろん買うわ。でもまずは…」
「?」
「貴方のピアノを聞きたいな」
「きっとその日は来るさ」
窓の外には廃墟と化した街の景色が広がっている。しかしその中には光が差していた。


45年5月7日
ドイツが無条件降伏を受諾しヨーロッパにおける第二次世界大戦が終了した。
「党と国民の団結は既に存在しない。党は既にその意義を失ったのである。ドイツは戦勝国によって占領された」
ラジオからはデーニッツの声が聞こえる。
人々は終わったと話す。だが私からすれば何も終わっていない。寧ろこれは始まり。
愛する人を失った私の心は空っぽ。
「…私には何も残らなかった」
崩れた街の中で私は静かに嗚咽を漏らした。


48年5月
私はクラクフの教会を訪れていた。シュピルマンと別れ、戦争が終わってから早3年。未だに戦争の記憶は私を蝕み続けていた。石畳を歩き、深く息を吸い静かに教会のドアを開く。
教会のステンドグラスからは光が差し込んでいて神秘的な雰囲気を醸し出す。そこには若い司祭が立っていた。彼は祈りを終えたばかりのようでゆっくりとこちらを振り返った。
「初めまして、司祭さん」
「こんにちは。ようこそ教会へ」
どこか不思議な空気を感じさせる司祭。私は思わず名前を聞いてみたくなった。
「もしよろしければ名前を伺っても?」
「カロル。カロル・ヴォイティワといいます」
その名前を聞いた瞬間どこか体に電撃が走ったような感じがした。しかし気のせいだろうと思い、話を続ける。
「私はルーミア。妖怪です」
「妖怪…ですか」
「もしかして…嫌でしたか?」
「いえ、そんなことはないんです。ただ、妖怪で教会に来る人は物凄く珍しくて」
妖怪のキリスト教徒自体が少ないのだ。彼が驚いてしまうのも仕方ない。
「あの…相談したいことがあるんですが」
「勿論、ではこちらにどうぞ」
司祭は静かに立ち上がり私を教会椅子の元に案内し隣に座った。
「…私には戦争で亡くなった恋人がいたんです。その人のことを忘れることができなくて」
「彼は目の前で撃たれて死んでしまったんです。ずっとそのことが頭から離れないんです」
「そう、ですか」
カロルは静かに私の言葉を受け止め、ゆっくりと話し始めた。
「ローマ人への手紙にこのようなものがあります」
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」
「私は貴女の悲しみを深く理解しています。悲しみを共にすることが癒しの一部になるのです」
「貴女の心の中には、恋人との思い出が輝いています。その思い出を愛することは、失った苦しみを乗り越えて新たな光を見出す力にもなりえるんです」
「カロルさん...ありがとうございます。少しだけ気が楽になりました」
私は静かに立ち上がり扉へ向かった。ここに来て良かったと思うと同時にカロルという男がこれから偉大な存在になることを静かに祈った。
「また、いつか。いつの日か、貴方の祈りが世界を照らす光となりますように」


52年11月、シュピルマンのコンサートを聴くために再びクラクフまで来た時のこと。
不意にコートを引っ張られる感触を感じた私は後ろを振り向いた。
そこには私より身長が小さな翼と羽の耳が生えているジャンパースカートを履いた妖怪が私に話しかけてきた。
私はポルカかと思いポーランド語で話しかける。
「どうかしたの?」
「…?」
彼女は不思議そうに私を見つめていた。どうやらポーランド語が分からないらしい。
「Es tut mir leid. Hätten Sie Deutsch oder Englisch vorgezogen?(ごめんなさいね。ドイツ語の方がよかったかしら?)」
「…Deutsch, bitte.(…ドイツ語でお願いします)」
「Also gut. Ich bin Rumia. Wie ist dein Name?(分かった。私はルーミア。貴方の名前は?)」
「Mein Name ist Mystia Lorelei.(私はミスティア・ローレライといいます)」


「Ich sehe, Sie sind gekommen, um das Konzert von Spielmann zu hören(なるほど、貴女もシュピルマンのコンサートを聴きに来たのね)
「Ja…(はい…)」
「Du musst nicht so verklemmt sein ... und du kannst mit mir reden, als wäre ich dein Freund.(そんな気張らなくていいわよ…友達みたいに話してちょうだい)」
「Okay...…Rumia.(分かった……ルーミア)」
「Sie müssen eine Menge durchgemacht haben. Ich kann das irgendwie verstehen.
(貴女も色々あったのでしょう。なんとなく分かるわ)」
「Ich weiß nicht, was ich jetzt tun soll.(これからどうすればいいのか分からないの)」
「Dann habe ich ein gutes Angebot für Sie.(なら私にいい話があるわ)」
「In Japan, im Fernen Osten, gibt es ein Paradies, in dem Monster wie wir frei leben können. Wenn ihr euch uns anschließen wollt...(極東のヤーパンに私たちのような妖怪が自由に生きることができる楽園があるの。もしよかったら一緒に...)」
ミスティアは私の言葉に大きく目を見開く。ドイツ語しか分からないということはドイツに住んでいたのだろうか。あの地獄のような環境を懸命に生き抜いたであろう彼女にとってゲンソウキョウは魅力的に映るのも当然だ。
「Japan…?(ヤーパン...?)」
「Ein Inselstaat auf der anderen Seite des Meeres in Asien. Dort gibt es keine solchen Menschen. Ein Paradies, in dem Ungeheuer wie wir frei leben können.(アジアの海の向こうにある島国。そこにはあんな奴らなんていない。私たちのような妖怪が自由に暮らせる楽園)」
ミスティアは暫く黙っていたが、ゆっくりと口を開いた。
「Mein Volk wurde von ihnen getötet. Und ich selbst habe sündige Dinge getan,Ich weiß nicht, ob das die richtigen Worte sind, aber ich möchte fliehen.(私の仲間は奴らに殺されていった。そして私自身も罪深いことをしてきた。こんな言葉があっているのかは分からないけど、逃げ出したい)」
「Dann komm mit mir... Aber(なら私と一緒に来なさい。...でも)」
「Aber?(でも?)」
「Das könnte das letzte Mal sein, dass ich dich in dieser Form sehe.(この姿で貴女と会うのはこれが最後になるかもしれない)」
「Eh…(え...)」
「Schau, das Konzert fängt gleich an.(ほら、そろそろコンサート始まるわよ)」
私たちはそっと手を取り合ってコンサートホールへ歩き出した。戦争の痛みがまだ消えないこの街で。


幻想郷に降り立った時、後ろから声が聞こえてきた。
「来たばかりの妖怪さんかしら?」
振り返るとそこには日傘をさした金髪の女性が立っていた。
「…にほんごがまだふなれだから、ごめんなさいね」
「お気になさらず」
「わたしの、なまえは、るーみあ」
「…私は八雲紫。それにしても貴女、かなり強いんじゃない?」
「ソウ、ネ。センソウニモサンカシタカラ」
「…で、何か頼みたいことがありそうね?」
「さすが、げんそうきょうのけんじゃ、やくもゆかり」
「あら、私を知ってるなんて」
「じゅんびを、それだけていねいにしたってことよ」
「頼みたいことは何?」
「わたしが、ひとぐいのようかい、といううわさをながしてほしい」
「…正気?」
「ええ、しょうきよ?」
「できないことはないけど…貴女そんなことしたら」
「いいのよ。もうにんげんとは、かかわりたくないから」
「…そう。分かったわ。天狗の記者さんに頼んでみるから安心しなさい。あの子なら面白おかしく書いてくれるはずだから」
「ありがとう、ゆかり」
「あと…」
「?」
「じんじゃはどっち?」
「退治されに行くのかしら?」
「ちがうわよ。みこさんにたのみたいことがあるから」
「…そう。博麗神社はここから北の方向にあるわ。この道をそのまま進めば辿り着く」
「ありがとう、もうこのすがたで、あうことはもう、ないかもね」
「…貴方が何をするつもりなのか分かったわ 」
「とめないの?」
「それが貴女の選択なのでしょう?なら行きなさい」
「…そっか。じゃあいくわね。...さようなら、ゆかり」
「今度は違う姿で会いましょう。ルーミア」


「あなたがこのじんじゃのみこ?」
巫女服を着た女ははぁと溜息をつきながら、
「ええ、そうよ。妖怪が自らノコノコ現れるとは…退治されたいの?」
「…いや、ちがう。わたしののうりょくを、ふうじてほしい」
「どうしてそんなことを?」
「かこからにげたい」
「…そうね、なら」
巫女はポケットからリボンのようなものを取り出した。
「これはリボンに見える御札よ。これを髪につければ貴女の力は封印される」
「そうか、なら…」
私はそのお札に触れた。視界がぐにゃりと歪んでいく。ああこれで楽になれる...。


そして現在。
…全て思い出した。いや思い出してしまった。
「失われた記憶」
そう呟くと目の前に闇のようなものが現れそれはいつしか人の形になった。
それは、赤白の腕章をつけた血だらけの軍服姿の私だった。
「!!」
「貴女はミェシュを殺したも同然」
もう1人の私は悲しそうな顔で私を見つめる。
「違う…!」
「ルーミア、貴女は過去からは逃げられないわ。私は貴女をいつまでも追い続ける」
「嫌!嫌!私は逃げたわけじゃ…!」
「なら何故、巫女に封印してもらったの?この姿を見たくない、そうでしょう?」
「違う!私はこれ以上人間を傷つけたくなくて!」
「方便ね」
そう言うともう1人の私は肩を両手で掴んだ。
「正直になりなさい」
「……」
「でもどうすればいいのか分からない…!」
「なら、時々でもこの姿になることね」
「…!」
「最初は辛いかもしれないけど…逃げちゃダメよ?」
もう1人の私はそう言うとふっと笑い、霧のように消えてしまった。
「……」


あれから私は不眠気味になった。睡眠薬が欲しくて永遠亭を訪れた際には珍しい客だと言われてしまった。
眠剤を水で流し込みベッドに横になる。暫くすると薬の効果が出てきたのか眠気に襲われ眠りについた。
夢のようなものを見ていた。私は巨大な十字架を背中に背負い小さな丘を登っている。イエスがゴルゴダの丘に登った時のように。
重さに耐えきれなくなり倒れてしまう。そして意識を失った。
今度は白い世界にいた。目の前に誰かが立っていた。
「ルーミアさん」
丸眼鏡を掛けた司祭服の男。私はこの男に見覚えがあった。いつか新聞で見た…。
マキシミリアノ・コルベ。餓死刑に選ばれたフランツィシェク・ガヨウィニチェクの身代わりになった司祭。
「コルベさん、何故…」
聞きたいことは沢山あったが
「何故貴方がここに?」
コルベは眼鏡を外しながら答える。
「天国よりこの地に舞い降りた理由は1つ。未だに成仏できず現世に留まっているある人…貴女に会いたいと願う方の願いに応えて来たのです」
「…まさか」
コルベが手をかざす。そうすると光が集まりそれは人の形になった。
「ルーミア!」
涙が溢れ出してくる。思わず走り出していた。彼を抱きしめずにはいられなかった。
「ミェシュ…!」
忘れもしないその名前。ずっと会いたかった人。
「僕のせいで重い重い十字架を背負わせてしまったね」
「違う!私は貴方の願いを叶えたかった!だから…!」
隣に立っているコルベは厳粛な眼差しを私たちに向けながら静かに話す。
「ルーミアさん、貴女が人食という禁忌を犯したことは決して許されることではないのです。カジミェシュさん、貴方がルーミアさんに重い十字架を背負わせてしまったことも。しかし…」
「本当の闇に包まれてしまう前に悔い改め自らの過去の過ちと向き合うことができるのならば、慈悲が届くかもしれません」
「希望は残されています。だからこそ再び立ち上がる勇気が必要なのです」
「でも私は堕天使のような存在…ですから」
私は俯く。私はルシファーのような存在だ。ラテン語で光を掲げるものという意味。そして私は光という意味。あまりにも皮肉なことだ。
そしてこの罪が消えることなどないのだから。
「ならこれはどうでしょう?」
「ルーミアさんには贖罪の道を。そしてカジミェシュさんには魂の救済を」
世界が眩い光に包まれていく。


「…夢?」
ベッドから起き上がる。
しかしどことなく違和感。
枕を持ち上げる。するとそこには、
「紙…?」
寝る前には無かった一枚の紙。
Droga Rumia. Nie używaj swoich zdolności w noc nowiu księżyca. I zrobić krzyż i modlić się codziennie(ルーミアさんへ。新月の夜には能力を使わないこと。そして十字架を作り毎日祈りを捧げること)
「…はは、夢だったはずなのに……不思議なこともあるのね」
私は森で拾った2本の太い木の棒を十字に組んで縄で縛り十字架を作った。
そして部屋に飾り、祈りを捧げた。
贖罪。
しかしこれだけでは足りない気がした。
そして家の近くにはカジミェシュ、そしてアグニェシュカとアリツィアの小さな墓を作り毎日墓参りをすることにした。
魂が救われることを信じ…。
私が彼ら、彼女たちを覚えている限りは彼の存在は消えやしないのだから。人が本当に死ぬのはその人が忘れられてしまった、あるアフリカの国ではそのような文化があるらしい。
闇の中に光が差し込んでくる気がした。
深く息を吸う。少しだけ…ほんの少しだけだけど心が軽くなった、そんな気がする。
…そうだ。ミスティアの屋台にでも行こうか。この話をしたら彼女はどんな顔をするのかな。


夜の帳も下り、確かに存在感を示す提灯が屋台にぶら下がっていた。ミスティア・ローレライの八目鰻の屋台。遅い時間だからか人気はない。
暖簾を潜り椅子に座る。
「大根3つ、あと玉子も」
「いらっしゃいませ…って、えっ?ルーミア…?ルーミア!?」
「長い髪にその顔立ち…それに…」
「ふふ、いつもと違う姿に驚いたかしら?」
「そ、そりゃ驚くわよ…!今の貴女まるで…!」
「…色々あってね、時々昔の格好に戻ることにしたの」
「となると…」
「ええ、そうね。記憶も戻ったわ…」
「その…あの時は…」
「い、良いの…貴方が記憶を失っていたことは知らなかったんだから。…でも、寂しかったな」
「…なら、今日はその時の話でもしましょうか」


「そーなのかー」
「わはー」
当時の私は何も考えていないような妖怪でいつもお腹をすかせていた。その日は暗闇を纏いながら夜の獣道を散歩していた。そんな時、遠くに人影があった。
「お腹すいた〜」
何も考えずにその人影に向かって走っていく。距離感もよく分からずぶつかって転んでしまった。
「いてて…」
私とぶつかった少女は羽を持った妖怪のような姿をしていた。
私は闇を消して立ち上がった。
「貴方は妖怪〜?」
「I Ich bin neu hier und spreche noch nicht viel Japanisch…(私は此処に来たばかりでまだ日本語もあまり話せない…)」
聞いたことがあるような言葉、何か思い出せそうだけど…やっぱり思い出せない。
「変な言葉」
「…あなた、の、名前、は?」
「私はルーミア」
「…ルーミア?」
「そう、ルーミア。それがどうしたの?」
その時だった。彼女が立ち上がりこちらに向かってきたのは。
「…あなた…なんで、こんなことを…!」
そう言うと少女は私をぎゅっと抱きしめた。
「…なんで…なんで…自らを、封印、するような真似を…!」
「…?」
少女は私から離れ目元を手で拭いながら、
「ごめんなさい、その、昔の仲間に、よく、似ていたから…」
そして少女は名前を名乗った。
「私は、ミスティア、ミスティア・ローレライ」
「ミスティア。覚えておくわ」
「今度は、忘れさせない、から」
「?とにかくよろしくなのだ、ミスティア〜」


「…お互い色々あったものね」
「ほんと、そうね」
ミスティアは手慣れた手つきで大根と玉子をさっと皿に盛り付ける。
「はい、大根と玉子」
「ありがとう、ミスティア。貴女の屋台には初めて来たけど落ち着くわ」
「ふふ、ありがとう」
湯気が立っているお皿を見ながら私はふと思い出す。
「そういえば、貴女が住んでいたドイツには八目鰻があったわね。だから八目鰻を出しているのかしら?」
「ええ、そうね。やっぱり故郷を忘れることができないのかも」
「そうねぇ…私もポーランドを忘れることはできない、かな。また行けるなら行ってみたいけどね…」
「そうだ。貴女が屋台を始めた理由も聞きたいわ」
「きっかけはね…竹林の兎に屋台を始めないか、って言われて始めたのよ」
「あのずる賢いイタズラ好きの?」
「正解、よく分かったわね」
笑い合う、ようやく私たちは以前の関係に戻ることができたのだ。
「そうだ、この花を持ってきたのよ」
「これは…シオン?」
「花言葉は『追憶』『あなたを忘れない』」
「…ルーミア」
「?」
「今度は忘れさせない」
「ふふ、そうね」
参考文献
戦場のピアニスト (ロマン・ポランスキー)
物語 ポーランドの歴史 - 東欧の「大国」の苦難と再生 (渡辺 克義/中公新書)
戦後フランス思想 (伊藤直/中公新書)

問題のありそうな表現がいくつかありますので場合によっては削除します。
Lucy
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.100簡易評価
1.90奇声を発する程度の能力削除
面白かったです
2.90東ノ目削除
舞台が近代ポーランドということで自由と独立を求める者達というのもテーマの一つとしてあるのかなと思いつつ、結局自由なんかねえよという史実が残酷。19世紀末から20世紀半ばまで、この時代だと人の寿命分駆け抜けたなあという感じでした
4.100南条削除
面白かったです
歴史の荒波に揉まれてきたルーミアが気丈にも見えて健気にも見えて、とても素晴らしかったです
5.100名前が無い程度の能力削除
よかったです。戦時中という極めて流動的な状況の中にごく普通にいる妖怪という構造が面白く、作中のルーミアは兵となり差別を受け、歴史そのものに飲まれてもがいていたように思えます。そしてそんな中でも穏やかでどこまでも人間的な生活を求めているように見えました。あと物語が戦場のピアニストと合流したり、そこからミスティアとの関係につながったりする部分も面白かったです。