※オリジナルの設定などが多分に含まれております。苦手な方はご注意ください。
また、若干長いものになっております。
冬になると幻想郷だって寒い。
早朝だと水溜まりは凍るし、積もった雪も溶けようとしない。
だから、井戸の水だって凍ってもおかしくないくらい冷たかった。
「うぅっ……つべたい」
恐る恐る眺めるのは水がいっぱいに張られたタライ。
張った水は今汲んだばかりの、それはもう新鮮な井戸水だ。
井戸に貯めてあった物だと言われても新鮮なのだ。
とても冷たい。
移すときに跳ね返って、手足にかかっただけでも身が縮むようだった。
「……よしっ」
私は意を決して、その中に宝塔をつけた。
一緒に指先が入って、全身に鳥肌が走る。
身を引っ込めたい思いにかられるが、ナズーリンの恐ろしい顔が頭をよぎった。
『いつまで、ぼさっとしているのかっ、さっさと落書きを落としてきなさいっ!!』
宝塔に落書きされたと知って、毘沙門天様もびっくりするような顔で怒るのだ。
それはもう本当に恐ろしかった。
庇おうとしてくれた聖でさえ、一言で黙らされてしまっていたし。
「うぅ、あんなに怒らなくてもいいのに」
そもそも、書いたのはぬえで。
みんなはどうして解るのかと不思議がっていたけれど、これはどう見てもぬえの字。
決して私が酔っ払って書いたわけではない。
「確かに、書かれた私が悪いんだけど……」
文句を言っても始まらない。
実際、あまり時間はかけていられなかった。
私は早急に宝塔の底に書かれた文字――――『星』という私自身の名前をなんとしてでも消さなければならない。
でなければ、お腹がぺこぺこな現状が解決されることはないのだ。
濡れた宝塔を引き上げ、布で擦る。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
撫でるように軽く擦ってみる。
予想してはいたけれど、墨ではない黒い文字は全く落ちていなかった。
ゴシゴシ、ゴシゴシゴシゴシ。
今度は水につけて力を加えて擦ってみた。
しかし、先ほどと変わりなく文字は消えないばかり。
タワシがあったら、そっちの方がよかっ…………いやいやいやいや。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ、ゴッ、キュッ、キュッ。
「……消えない」
消えないどころか、薄くなることもないのだった。
そう言えば、一輪は魔法の道具によって書かれたのではないかと言っていた気がする。
となれば、こんなことをしていても何刻経っても消えないのではないだろうか。
「う~ん」
書くものがあるのだから、消すものもあるんだろうけど……。
知識の薄い私では、魔法の道具なんて、まったくもって見当がつかなかった。
消す道具を探しに行くにしろ、それが何なのかわからなければナズーリンは探索自体許してくれないだろう。
何よりも言いに行くこと自体が、
「……怖いしなぁ」
きっと、私を射殺さんばかりに睨みつけてくるに違いない。
…………もうちょっと頑張ってみよ。
あーっと息を吐き出して、作業を再開した。
ゴッシゴシッ。
先程よりも強く宝塔の底を擦る。
冷たいことなんか恐れるものか。
私は毘沙門天代理、寅丸星。
なかなか落ちない文字ごときで屈するとでも思っているのか、この文字めっ。
なにより、ナズの方がよっぽど恐ろしいのだ。
ご飯抜きにされてしまうし、お昼寝も、おやつだって抜きにされてしまうかもしれない。
…………それだけは、避けたいっ。
「ぬぅぅぅぅぅぅぅ」
冷たさで指の感覚が薄れる中、ひたすらに擦り続けた結果、
「……落ちない」
落ちてはいなかった。
「はぁ……、ぬえ、消す道具持ってないのかなぁ」
途方に暮れて深々とため息をついた。
「……なんだってこんなことを……」
一度、手を休めて宝塔を置く。
水に濡れた宝塔は、朝露みたいに光を弾くばかり。
こうして見てる分にはいつもの通りだった。
けれど、朝、いつものように宝塔を手にしたら裏面はこの有様。
昨日の夜どこに置いていたか定かでないため、言い訳すらまともにできない私だった。
「……はぁ、ぬえの奴め」
最近はよくイタズラをされていた。
以前もあったけれど、頻度が増えている。
例えば。
一、服に正体不明の種を仕込ませる。
二、食事に正体不明の種を仕込ませる。
三、道行く私に獣に正体不明の種を仕込ませた獣を向かわせる。
四、…………えっと。
五、……………………あれ?
…………以上。
「少なっ」
そんなに増えていなかった。
それにしても、手口の幅も少な過ぎるものだ。
毎回毎回、引っかかっている私も私なんだけれど。
まあ、なんだ、それにしてみれば、今回は名前を書くというものだったのだ。
だからこそ、イタズラだとしたら単純にしてとても困ったものではある。
……けれど、なんとなく気になった。
イタズラではないのではないか、と、
……名前。
名前か。
そう、名前だからか……。
『星』という文字をじっと見つめてみる。
よく見知った癖のある字。
やはり、ぬえの書いた文字に違いなかった。
見覚えのあるのは当然か。
ずっとずっと前から、目にしてきている。
聖が封印されるよりももっと前。
私がまだ毘沙門天代理としてそんなに時間が経っていない頃から、あったものだから。
ふと、昔々のことを思い出した。
◇ ◆ ◇
「おーい、寅」
早朝。
ひんやりとした部屋の中、身支度を整え終えた私に、いつもの妖怪の呼ぶ声が聞こえてきた。
毎回、障子の向こうで木にぶら下がって、私を呼ぶのだ。
呼び方はいつも『寅』。
確かに名前に寅はあるけれど、略称ではなく妖怪の本質的意味で呼んでいるに違いない。
寅の妖獣、ということなんだろう。
だから、私もコイツのことはこう呼んでやっている。
頭も身体も尻尾もどこもかしこも混ざった妖怪という人の言われから、
「混ぜ者、か」
と。
なんともひねりのない、ぶっきら棒な呼び方だ。
そんなだから、お互いいつまで経ってもどこか落ち着かないような、気を使うようなところが見え隠れしているように思える。
「……はぁ」
思えば、二人の出会い自体最悪だったのかもしれない。
彼女も私もまったくもって反りが合わなかったのだ。
なにかにつけて喧嘩をしていたし、顔を合わせれば喧嘩腰。
意見だって、価値観だって合った例はひとつもなかった。
それで、やはりというかなんというか、結局、大きな揉め事を起こすことになった。
それはもうひどい泥仕合みたいで、二度とあんなことは御免である。
まぁ、落ち着いて、じっくりと腰を据えて話をしてみれば、ああ、なんだコイツも同じようなことを考えていたんだなと、解決したわけなんだけど。
その後は、どこか二人とも納得していた。
喧嘩腰で見るようなこともなくなっていたし。
むしろ、すれ違っていた時間を取り戻す勢いで話しをしたものだ。
現在は気の置けない友人のはず、なのだが。
それでも彼女がよく訪ねてくるようになったのは、ここ最近のことだった。
「お~い、とらぁ~」
「わかった、わかった」
障子を開けてやると、予想通り混ぜ者が木に足を引っ掛けてぶら下がっていた。
「どうかしたのか?」
ちらりと視線を送り問う。
人間の信仰する寺に妖怪がいると知られてはまずい。
殺生まではいかないが妖怪退治と銘打って戦闘をすることもしばしあるのだ。
しかし、彼女はそんなことお構いなしにからからと笑った。
「暇だからね、私は」
「お前という奴は……」
「ん~、ほいっと」
そうして、内心はらはらする私を置いて、するりと部屋へ上がりこんだ。
器用にひとっ飛びし室内へ、畳に足を付く前に空中で停滞してみせる。
今度はあぐらをかいて、ふわふわ揺れはじめた。ゆっくりと傾いてときどき一回転したりもしていた。
「久しぶり~、でもないね」
逆さまになって、混ぜ者は言った。
「昨日も会っただろう」
「う~ん、そうだっけ」
「ここのところ毎日のようにきていると思うけど」
「あ~、そうかも」
私の言葉をはぐらかして、彼女は再び楽しげに笑った。
本当に楽しそうに笑うのだ。
困ったものだと思いながらも、憎めないヤツ。
「ここは、人間が信仰する寺なんだぞ。その、な、妖怪が出入りしていると噂になったら、聖殿とて、平気ではいられないだろうに……」
だから、いまいち強く言えないのだ。
「は~いはい」
そんな歯切れの悪さに悪態をつくこともなく、彼女はくるくる笑っていた。
「……本当にわかっているんだか」
やれやれ、この友人をどうしてやったものだろうか。
考えただけで、大きな大きな息が身体から抜け出ていった。
「それで、何しに来たんだ?」
こうして混ぜ者が来た理由はわかっていた。
いや、理由なんて無いんだろう。
自然に足が向くとでもいうのか。
話をしても意見はいつまでも合わない。
けれど、こうやって他愛もなく話をするのは日常だった。
わかっていながら、尋ねるのもいつものこと。
「別に……なぁんにも。……暇、だったから、ね」
しかし、混ぜ者の返答はいつもと違っていた。
ゆっくりとした動きでいるものの、急にそわそわと、落ち着きのない様子を見せ始めた。
あっちを見たり、そっちを見たり。
これでは一向に話が進まなそうである。
……ふむ、どうしたものか。
「私はこれから仕事なんだが」
「そりゃ……、知ってるけどさ~」
様子を確認するような一言に、彼女は駄々をこねる子供のように声を上げた。
珍しいこともあるものだ。
「…………何か用があって来たのだろうか?」
「ん?あ~、あー、その……」
「?」
いや、もしかすると調子が悪いのだろうか。
まさか悪い物でも拾い食いしたとか。
「……厠なら、外だぞ?」
「ちっ、違っ!!」
すごい勢いで否定されてしまった。
彼女はぷいとそっぽを向いて、
「…………こ、これ」
ポツリと言うと何かを投げてよこした。
「うん?」
私は落としそうになりながらも受けとめ、目を移してみる。
それは簪(かんざし)だった。
耳かき状の棒に丸い玉が差し込まれた玉簪というやつだ。
よく見かける形の物だったが、玉は小ぶりで可愛らしく、とても綺麗な琥珀色をしていた。
本当に琥珀が使われているのかもしれない。
軸の棒は玉を止めるためなのか、玉の下で平たくなった作りをされている。
単純な組み合わせであるが、甘色の玉と銀色の棒はなんとも美しかった。
「これは?」
「……人間を、た、助けるつもりなんかじゃなかったのに、構ってやったら成り行きで……。『命を救ってくれたお礼です』だとか、なんとか言ってさ、うううるさいから……」
そっぽを向いたまま、彼女は早口で告げた。
表情は見て取ることはできなかったが、耳が赤くなってきているのは確かだった。
「……へぇ」
思わず目を丸くしてしまったが、私の表情はすぐに口元が緩む形で変わっていた。
「……なに?」
「いや、お前はお前で変わったなと思って」
「か、変わってなんかないっ、この馬鹿虎っ。わ、私は単純に人間に私という妖怪をだなぁ」
掴みかかる勢いで顔を近づける混ぜ者は迫力がない。
なんだか可笑しいやらほほえましいやらで、彼女の意外な一面が楽しかった。
「照れることじゃないだろう。善い事をしたのだから」
「う、うるさいなぁ!」
「そうやって、変わっていくのもいいだろう、混ぜも」
「うっさいっ!!」
「――――あ痛ぁっ」
ぴちっと音がして、額が弾かれた。
思わぬ痛みと小さな衝撃に頭部が後方に揺れる。
混ぜ者は額を指で弾くようにして叩いたらしい。
先ほどと顔の赤みは変わっていないのに、頬を膨らませて、空中を回転していた。
なにか悪いことを言っただろうか。
ひりひりする額を抑えながら考えるが、彼女が怒っている理由がわからなかった。
頬を膨らませたり戻したりして怒っていた混ぜ者は、宙を緩やかに一回転していく。
姿勢が真っ直ぐになったところで停止。
「ん、でだ、寅」
わずかに姿勢を直して、切り出した。
「これ、どう思う」
「は?」
突然の質問の意図が読み取れず、間の抜けた声が抜け出ていった。
彼女の視線から『これ』とは簪のことだろう。
しかし、それをどう思うと言われても……。
「えっと……」
簪と混ぜ者を交互に見比べる。
「……」
彼女は不安げな瞳でじっと私を見つめるばかり。
何が言いたいのか見当もつかない私は、押され気味に言葉を探していた。
「………………きれいだと、思う」
迷った挙句、率直な意見を述べると、混ぜ者はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、決まり。それ、あげる」
「なっ」
彼女は、さも満足そうに笑うと「にっ」と歯を向けた。
「お、お前が貰った物だろう」
「私はよくわかんなかったから、別にいいんだ」
何を考えているのやら。
屈託のない表情で、惚けてみせるのだ。
「な、何がよくわからないだ。持ち主は大切な物をお前にくれたというのに、そんな簡単にあげるじゃな」
「いいでしょ、別に」
「良くないっ」
「私がいいって言ってるんだ」
「それはそうだが、それでは」
「あ~もう、面倒臭いっ、アンタみたいだって思ったのっ」
「え」
彼女も私もピタリと動きを止めた。
言い争っていた姿勢はそのままに、混ぜ者は「あ」と口をわずかに開けていた。
……混ぜ者は今、なんと言っただろうか。
口から出た言葉を思い返してみる。
「……アンタみたいだって思っ」
「う、うるさいっ」
思わず口から出てしまっていたらしい。
混ぜ者は顔を真っ赤にして私の言葉を遮った。
「……いいでしょ。持っててよ」
「…………わ、わかった」
彼女の我儘に押し切られる形で、結局、簪は私の手元へ。
「……ふん」
そっぽを向きながらも、彼女は確認するように視線を向けていた。
「はじめっから、受け取ってよ……」ごにょごにょとした声が後を引いていた。
驚き半分、彼女の様子に苦笑する。
本当に、ひねくれたヤツだ。
私は簪をまじまじと見やった。
簪は、銀色の棒に琥珀色の玉がついただけの簡単な作りをしたものだ。
しかし、光を反射する棒の様は金でも銀でもない輝きで、甘色の宝石を射止めたように思える。
目を奪われるほど、綺麗だった。
その輝きから、容易に元の持ち主が大切にしていたということが伝わってくる。
本当に私が貰っていい物だろうか。
混ぜ者の方に視線を送ると、彼女はいつの間にか私のことを見据えていた。
「ど、どうかしたか?」
「……ん、やっぱり、寅みたいだと思って」
「は?」
「その簪。貰った時から、なんか見たことあるなぁって思ってたんだけどね」
「わ、私みたい?」
「そう」
あんまり真っ直ぐに見つめてくるものだから、思わず簪へと目を逸らしていた。
似ているとはどういうことなんだろうか。
確かに玉の色はそうだけれど。
髪?いや、目の色ということなのか?
顔を上げれない私には彼女の真意は突き止めれそうにない。
けれど、それはそれで悪い気はしなかった。
「……ありがと、う」
「うん」
彼女は、笑ったんだろう。声だけで満足そうな表情が浮かんだ。
眩い光のような明るい顔。
なんだか気恥ずかしくて、私はよりうつむいてしまった。
下を向くと、手がもにょもにょと動いて簪を波打たせていることに気がついた。
揺れ動く簪。
それは、光を弾いて時にピカッと発光しているようで。
「…………」
「どうかした?」
「あ」
どうやら、ぼんやりとしてしまっていたらしい。
気が付くと、混ぜ者が顔を覗き込んできていた。
くりっとした瞳が私を捉え、また、私もその瞳に魅せられる。
慌てて顔を仰け反らせ距離を取ったけれど、顔がじわりと熱くなった気がした。
「あ、い、いや……、綺麗だったから」
「ふ~ん」
「な、なんだ?」
「いやいや、そんな顔もするんだなと思って」
「うっ」
「い~もの見た」
混ぜものは実に楽しそうに笑った。
「わ、私だって、綺麗だ、美しいだと感じることはいくらでもあるに決まっている」
「わかってるわかってる、寅もちゃんと女の子だもんね~」
「私は毘沙門天様の代理だぞ、そういうものとは関係が、聞いているのか混ぜ者っ」
「いいんだよ~、そんなに無理しなくても」
先ほどと打って変わって相当な悪意が感じられる笑みをしていた。
こうなると彼女の方が強い。
なんと言おうが、難なく切り返されて、私を追い立ていくのだ。
毎回毎回、必死の抵抗虚しく弄ばれ続ける。
何も言わなかったとして、おかしな情報を振りまかれたらたまったものではないわけだし。
「私は無理なんかしていない」
「そうかなぁ、私生活はだらしないところあるし、仕事だって従者のなんだっけ、ナズーリン?がいないと、まともな話し合いでも後れを取りそうだけどなぁ」
「た、確かに、そうかもしれないが、無理していると言う訳では」
「――――ご主人、支度は終わっているだろうか?」
反論しようとしたとき、外からナズーリンの声がした。
がっちり硬い仕事口調に思わず、障子の方を見やる。
いつもより時間が経ってしまっていたらしい。
障子の向こうにはナズーリンの気配が確かにあった。
「ああ、す、すまない、今」
言い終わるより先に、混ぜ者の姿が消えていることに気が付いた。
入ってきた窓もしっかりと閉まっていて、そこに居た者の痕跡は微塵も感じられなかった。
……本当に神出鬼没なヤツだ。
「……今、行く」
彼女が確かにいたことを確認しつつ、貰った玉簪を懐へしまう。
しまっておいても光を放ちそうだなと考えて思わず笑ってしまった。
混ぜ者がくれた物だ。
何か可笑しな仕掛けをしてくれていなければいいけれど、なんて思う。
私はわずかに笑った顔を戻せないまま、宝塔を手にして部屋を後にした。
それから、混ぜ者は時々やって来るものの、いつものように私をからかうばかりだった。
あの日のことは何も言わず、夢だったのではないかと思うほどだ。
妙な仕掛けもなく、本当にただの簪だった。
しかし、これは紛れもなく彼女から貰ったものだ。
信じられないくらい確信があった。
暇さえあれば、琥珀色の簪を取り出しては眺めていた。
小さな玉を通して見る景色は、格別だった。
晴れの日には御仏の光で世界が覆われるように。
曇りの日には薄闇を照らす光のように。
雨の日には光を注ぐように。
夜には星の光が満ちるように。
美しかった。
そして。
何よりも光の玉を貫く銀色。
一筋の眩い閃光のような軌跡が世界の中心に写っていた。
「……きれいだ」
それは本当に綺麗だった。
ぼんやりと眺める。
生憎、今日は雨だ。
さあさあと降る雨。
湿気た匂いが広がっている。
一番綺麗とは言えないけれど。
ほら。
片目を閉じて覗いてみれば、そこは光が降る絶景だった。
「……」
すっと目を開けてしまえば、絶景は元の姿を取り戻してしまうんだろう。
雨。
湿気た匂いに、さあさあと降る、雨だ。
雨だからと言って、何かあるわけでもない。
妖怪が少し動きやすいくらいか。
それに合わせて仏の助けを求める者が現れるのはいつものこととして。
なにかあるわけでも、ない。
こんな日は決まって友人はやってこないだろう。
雷でも呼んで、誰かを困らせているかもしれない。
混ぜ者はそういうことにも長けていたはずだ。
「……まぁ、だからといって、私は仕事をするだけだし」
ポツリと口から言葉が出ていた。
……。
まぁ、言ったとおり、私は仕事をするだけだ。
そろそろ、本堂に戻らなければいけない。
私は玉簪を懐にしまおうとして。
――――やめた。
その前にもう一度、景色を見たくなったのだ。
簪を少し掲げる。
片目ではなく両の目で見上げると、それはぴかっと白く光って稲光を起こしたようにも思えた。
ずずっと、お茶をすする。
熱々の茶柱つきのお茶をナズーリンと二人、縁側でいただいていた。
彼女が入れてくれたお茶は渋くて目が覚めるようだったけれど、心地の良い味だった。
もう一度、短く吸い上げると、じんわりとした熱が再び体内へと落ちていく。
「……はぁ」
手が空いて、ようやくの休憩だった。
日を跨いでも跨いでも、休まらない手足はもう棒のよう。
いや、棒もびっくりするくらいだろうか。
そろそろ鉄になりつつある身体を揉むと、驚くことにまだ石くらいだった。
もっと働けというのか。
今度はお茶を飲まずとも息が出た。
わずかに開いた口から、ふわりと舞い上がっていくのを、そのままの姿勢で眺めていた。透明な呼気の行方を追いかけてみるけれど、どこへ行くのやら見当もつかない。
よし、もう一度。
「ご主人」
「んあ?」
「最近はどうかい?」
口を開いた所で声をかけられたものだから、私は間の抜けた声で返事をしてしまった。
そんなことも気にせず、隣でお茶をふぅふぅ冷ましながら、ナズーリンは問いかけてきた。
彼女は身体の向きを変えることも目配せすることもない。
興味なさそうに、いつもの通り。
しかし、彼女から話を振ってくることは珍しかった。
普段でも仕事中でも、ずっと固い口調の彼女は自発的に話題を振るなんてことは殆ど無い。
嫌われているかと思うほどだったけれど、そうでもないとなんとなく感じていた。
彼女は良い意味で真面目過ぎるのだ。
私はあんぐりと垂れていた顎と折れ曲がった背筋をゆっくりと正して、彼女の方を見た。
「どうと言われても。まぁ、忙しくて何よりというところだろうか」
「それは仕事のことだろう?それ以外でどうかと聞いているのだけど」
「えっ、そ、それ以外って」
今日は雨が降るのだろうか。
こんなことを言う彼女は初めてだった。
初めて会った時も「ナズーリンと言う。よろしく頼む」くらいのものだったし、話すことと言えば仕事のことばかり。
鉄の女というやつは彼女のことなんだろうなぁと思っていたほどなのに。
う~んと悩む私を見かねてか、ナズーリンは口を開いた。
「仕事の合間も少ないのに、よく頑張っていると思って」
お茶を冷ますのを続けながら、彼女はちらりとこちらを見ていた。
小さく丸まっている感じがなんとも可愛らしいなどと口が裂けても言えない。
そんなことを言えば、私は毒舌的な方法で心を抉られるに決まっている。
今度は私が視線をお茶の方へと移していた。
「や、やはり、どう、と言われても、別段なにかあるわけではないよ、ナズーリン」
「そうか……」
「あぁ、そうとも、合間の息抜きといっても、本当に少ないから何をしに行くこともできないだろう?」
「まぁ、そうではあるけど、以前のような怠慢さが無くなっているなと思ってね。行動も落ち着いているし、精神的にも安定しているような気がする。要因と言ったら、その合間しかないと踏んでいたのだけど」
「た、怠慢って」
手厳しいのは相変わらずだった。
けれど、よく見ているんだなぁと、他人事のように思ってしまった。
お茶を飲みながら、盗み見ると、ナズーリンは考えるようにして話を続けた。
「例えば、あの妖怪のことはどうだろう?」
「いっ!?」
危うく口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
堪えてみせたものの、今度は器官の方へと入り込む始末。
ゴホゴホっと大げさに咳たって、胸を叩く。
ヒューッと言う呼吸音になりながら、ようやく彼女に目を向けた。
「ぬえ、と言ったかな。私が来るときにはいつも帰ってしまっているようだけど」
「さ、最近は来てない」
「知っているよ」
「……」
全てお見通しらしい。
どうしてこうも優秀なのかと、呆れてしまうほどだ。
私よりも良い代行になるに違いないのだけど。
「一悶着あった時には心配させられたが、今の関係は良好のようだし、様子を見させてもらっていた」
「そ、そう」
「少しばかり長居されることが問題なだけで、特に気にしていないので大丈夫さ」
「そ、それは、どうも」
「……咎められるかと思って心配だったかい?」
「あ、いや、そ、そんなことないっ。な、長居する混ぜ者が悪いのだ」
「ふ~ん」
汗々する私に、ナズーリンは愉快そうに視線を送ってきていた。
そうして、ようやく冷めたお茶を盗み見るかの如くすすった。
「……ご主人は変わった」
「え?」
「彼女との一件以来、日に日に変わっている。もちろん、良い方向にだよ。私が保証しているんだから」
「……」
私が、変わった?
ナズーリンの言ったことがよくわからなかった。
私は私のまま、今まで通りだ。
変わったのは、混ぜ者の方だろう。
奇想天外にも程があるのだ、アイツは。
残ったお茶を燻らせると茶柱がゆらゆら揺れる。
変哲もない動きなのに、そんなことをさせたことがないのに気がついて、なんだか可笑しかった。
「さて、そろそろ休憩も終わりにしようか、ご主人」
いつの間にかお茶を飲み終えて、ナズーリンは立ち上がった。
私も急いでお茶を飲み干して、……また少しむせた。
彼女は見下ろしながら呆れたように笑って、湯のみを私の手から奪うと長い廊下を歩いていった。
コホコホと咳き込みが続く中、一人残された私は、胸を軽く叩いて落ち着くのを待つ。
次第に薄れるのは、むせた苦しさだけでなく、ナズーリンの質問によって出た汗も一緒のような気がした。
「ふぅ」
少し楽に姿勢を取って、一息ついてみた。
ふわりと呼気が軽やかに舞う中、身体が油の抜けた絡繰のように軋んだ。
疲れはやはりある。
しかし、ナズーリンが言っていたように精神的に疲れてはいなかった。
身体までが軽い感覚だ。
とは言うものの、寺の人間の出入りが世話しなくなってきていることに限界を感じるこの頃ではあった。
毘沙門天として信仰を集める一方、聖に付き添って妖怪の説得に当たる日々も手一杯なのかと思う節もある。
「……ふぅ」
もう一度、息をつくと、呼気は緩やかに落ちていった。
あまりの日程に意識的に息をつくなんて言うのが何十年振りかに思えるほどだった。
ふと、手が懐へ向いていた。
それは、もう習慣だった。
無意識にそれを取り出そうとしていることもあるほどだった。
彼女から貰った簪はいつもそうして持ち歩いている。
……忙しいから、置く暇がないのだ。
好んで持っているかと聞かれれば、まぁ、どちらかと言えばくらいなもので。
決して思いれがどうとかではない。
ただ、懐にしまっているだけのただの簪だ。
「――――あ、あれ?」
慣れた感触が今日はそこになかった。
大きくはないけれど、意識すれば邪魔になりそうな簪が、どこにもない。
「ど、どこへ、やったのかっ……」
袖の中も帯の間も調べるけれど、簪は影も形もなかった。
立ち上がって周囲を見渡す。
足元も少し先の廊下も何も落ちてはいなかった。
私は裸足のまま中庭へ降りると縁側の下、隙間ができている石板の間、はたまたそこから室内を蟻一匹を探すように探っていた。
しかし、簪はどこにもなかった。
「……どうしよう」
思い浮かんだのは、アイツの姿だった。
自由奔放な妖怪。
玉簪の美しさよりもなによりも、真っ先に彼女のことを思い出していた。
『アンタみたいだって思ったのっ』
「……どう、しよう……」
言葉がこぼれ落ちていった。
気が付けば肩だって下がって、全身が脱力しているようだった。
簪が、無い。
そんな…………些細なこと、で。
彼女は決して簪のことを聞かない。
そう思った。
全く興味無い様子で、いつもの調子で話し掛けてくるに違いない。
だから、無くなったからといって彼女は気に止めないのではないか……。
「いや、……いや、私は、何を考えて……」
湧いてくる思いを、ぶんぶんと首を振って追いやる。
浮かぶ息のように掻き消えてくれればいいものを、思ってしまったという事実が消えることはなかった。
どんな顔して話せばいいんだろうか。
「……」
いつもどんな顔をして話しているかも思い出せなかった。
「………探そ」
「ご主人っ」
口に出そうとした言葉は、横から遮られてしまった。
「……あ」
休憩はお終いだった。
余程のことがあったのだろうか、ナズーリンが慌てた様子で駆けつけてきた。
「ご主人、緊急だ。本殿の方へ早く来てくれ、聖はもう向かっている」
妖怪絡みの仕事だろうか。
大きな被害が予測されるといった感じだ。
行かなければ……。
わかっていても……どうしてだろう。
私の足は地面にぴったりとくっついて動こうとしてくれなかった。
「どうかしたかい?」
私の元に辿り着いたナズーリンは首を傾げた。
それは、裸足のまま庭先に立ち尽くしているからか、俯いたまま返事をしないからか。
「……い、いいや、どうも……していないよ」
真っ直ぐに聞き返すナズーリンから私は目を逸らしていた。
行かないと……。
……他でもない、私は毘沙門天様の代理になったんだから。
「ご主人、急いでくれ。先に行っている」
「……わかった、すぐに…………行くよ」
私は、土を払うこともなく縁側に戻ると、先行し始めたナズーリンの小さな後ろ姿をのそのそと追った。
どんどん小さくなっていく彼女の背中を呆然と視覚だけが追っている感覚。
振り返ることなく前に前にと進んでいくことが、とても、とても恐ろしかった。
その場所から、引き剥がされるのに後ろ髪を惹かれないわけがない。
せめて――――。
せめて、心だけでも置いていきたかった。
仕事は途切れることなく続いていた。
一体、今何時で何日なのだろうか。
感覚が無くなってもなお、寺のことも妖怪のことも終わる気配は一向になかった。
「あ~、駄目だ」
宵闇の中、私は畳に座った姿勢から倒れこんだ。
軽く風が起こり、周囲を揺らす。
仕事の山が崩れる心配もしないまま、畳特有の匂いに包まれた。
「こんなにたくさんの、終わるわけないだろう」
机には紙やら巻物やらの山、山、山。
机だけでは収まりきらず、畳の部屋は一面が紙で占拠されていた。
一本立てられた蝋燭の火が本当に心許無い。
どうせなら、いっそ、燃えてくれないだろうか。
「ご主人、どうかしただろうか?」
障子の向こうからナズーリンの声がして、ビクッとした。
思いを読み取られたのだろうか、なんてドキドキしつつも、そのまま声の方を見やる。
「……ご主人?」
恐らく、私の動きと書類が動いた音を察知してのものだったのだろう。
彼女は座ったまま振り返っただけだった。
ほっと胸を撫で下ろす。
小さな愚痴だったとしても、彼女が聞いたなら、喝を入れられかねない。
聞かれていなかったのは幸いだった。
「あ~、いや、なんでもない」
もう少し気を付けるよう心に決めながら、私は姿勢を直さずに言った。
身体はへとへと、書き物を続けていた腕も疲労困憊なのだ。
少しくらいは、このままでいさせてもらおう。
布団もないけれど、寝転がるだけのことが楽園のように思えた。
「……」
障子の向こうで姿勢を直す影が見えた。
ナズーリンはそのまま何も言わなかった。
今はただただ、じっと私のことを監視しているのだろう。
それが彼女の役目、仕事だ。
「……」
少し休んだら、私も仕事に戻ろう。
「…………」
そう思っても、いつまでも起き上がれない私がいた。
あれから、何日が経っただろうか。
目を開けたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
先には木目がぼんやりとあるだけ。
眼のようになった模様が私を見ているように思えなくもなかった。
私の何を見るのだろうか。
……あ。
気が付けば、手が懐に伸びていた。
習慣とは恐ろしいものだ。
手は簡単に懐をまさぐるけれど、
「……ない、なぁ」
すぐに先程よりも小さなつぶやきを漏らした。
誰に言うでもないのは、いつものことだ。
毎日のように懐に手をやっては、言葉を漏らしていた。
そうして、無いと知って次に思い浮かぶのは決まって混ぜ者のことだった。
「……どうしよう」
あれから、彼女には会っていない。
人間が多くなったからか、忙しさの空気を読んでか、はたまた知ってか知らずか。
本当に気紛れなやつだ。
いつも勝手にやってきては、去っていく。
それで、またふらりとやってくるのだ。
そういえば、私から彼女に会いに行ったことは一度もなかったな。
忙しいからとか、寺の勤めがあるからとか、神の代理で人間の見方だから、とか…………。
そんな建前を並べる。
会いに行こうと思えば、できたはずなのだ。
例え短くても時間なんていくらでもあったんだから。
ただ。
機を逸したと言おうか。
今更と言おうか。
彼女のあの性格が嫌いだった。
勝手に敵視してくるし、自由で我儘、迷惑をかけて楽しむというどうしようもないやつで。
邪魔をして何が楽しいのだろうか。
一体何がしたいのだろうか。
どうしようもないやつを聖殿はどうして許しているのか。
彼女の居る空間はなんとも面白くなかった。
そうして、疑問だらけでありながら話すこともなく、勝手に思い込んでいた。
コイツは信用ならない、と。
売られた喧嘩に買う喧嘩。
私の態度だって彼女から見れば、同じようなものだったに違いない。
それらの疑問も居心地の悪さも、彼女を知る度に変化していった。
でも、あんな態度をとっていた私がどんな風にして会いに行ったら良いのか。
いつもやってくる彼女に対して、私は答えるばかり。
都合の良いように過ごしていた。
だから、自分から会いに行くなんて考えもなく、一歩踏み出すこともなかった。
「……会いに行ってみるのも面白かったかもしれないな……」
ああ、でも、アイツはどこにいるのかも知らなかったな。
『おい、虎っ!』
よく言われたものだったなぁ。
なんだか、可笑しかった。
けれど、思い出す度にため息が出て、胸につっかえたものがぐりぐりと中から押してくるような感覚があった。
「…………アイツは……なにしてるんだろう」
どこかで人様に迷惑を掛けているのかもしれない。
そうしたら、思いっきり怒ってやれるのに。
でも、アイツは私の行動なんてわかったようにおどけて、飛んでいくに違いない。
捉えどころのない彼女は、本当に自分勝手で、気ままで、あやふやで正体不明。
こうしている今でさえ、わけがわからないまま、私を揺らす。
そう、確かなものといえば、彼女から貰った簪だけだった。
その証さえ、私は……。
…………。
「ぬえ」
…………初めて、彼女の名前を呼んだ。
誰もいない、一人きりだったけれど。
私の口から、微かに浮かされた言葉は直接、耳に溶ける。
鼓膜が捉えた小さな振動は、悪くない響きだった。
短くて覚えやすいし、何より飽きそうにない響き。
混ぜ者なんて煩わしさも、ない。
心をぐりぐりしていたものが少し弱まった気がした。
なんでもないことのはずなのに。
ぼんやりとしていた天井が、今ははっきりと見えた。
木目は縦に広がる。
生き物のように、液体のように、気体のようにぐねぐね。
輪になろうとして、渦巻いて。
それらは、私の視界から次第に滲んで、再びぼんやりとなってしまった。
湧いた液体が風景を滲ませていた。
じわりじわりと、どこからともなく発生するそれは、あっさり目の端からこぼれ落ちていった。
頬を滑って、耳の辺りを伝ってゆっくりと降下していくのを感じて、私は目を閉じた。
「……ごめん」
続いて漏れ出たのは、そんな言葉だった。
たった一人。
独り言、だ。
何もしなかった私。
踏み出せない私。
何者にも委ねる私。
ずっと、責任を押し付けている私が、いる。
彼女は、ぬえは怒るだろうか。
そうなっても仕方ない。
ぬえに伝える言葉は、全部言い訳になってしまうだろうから。
…………怒ってくれたら、どんなにいいだろう。
怒っている彼女のことを想像してみる。
身を乗り出して、薄い眉を吊り上げて、刺すくらいの勢いで指を突き付けて言うんだ。
『この馬鹿虎っ』
『そんなだから、信用できないんだっ』
そうして。
そうして…………。
………………………違う。
それは聞きなれた台詞で、声だったけれど、本当に怒った彼女ではなかった。
あんなに見てきたのに、あんなにぶつかり合った仲なのに、どうしても彼女の怒った姿は形成されなかった。
それどころか、私の想像は一瞬で塗り替わって、いつものように微笑んでみせる。
イタズラに、屈託なく笑う彼女に。
「……どうしてっ」
どうして、そうやって笑うんだ。
今は、その笑顔がひどく私を抉っていた。
本気で怒った彼女は、どんな風に怒るのだろうか。
どうやって、私を叱るのだろうか。
考えても考えても、ぬえは笑っていた。
「…………」
変わらない状況に私は堪らず、目を開けた。
どのくらい経っていたのかしれない。
滲んでいた視界は正常に戻っていた。
それでも、目から耳、首筋のあたりまで、涙が線を引いた後がぴりぴりとして触覚を刺激している。
けれども、やはり見上げる天井に変化はないままだった。
ふと、誰かの手が視界に入った。
掲げるように伸びた手。
……これは、私の手か。
どうして……。
いつの間にか手を掲げるように挙げていた。
物を摘むようにして軽く握り、太陽に、夜空に透かすようにする。
それは、いつも簪を眺めるような仕草だった。
玉になった甘色。
反射してキラキラ見せる不思議な玉。
それを綺麗だと思った。
いや、向こうにある光を綺麗だと思ったのだ。
なによりも眩かったから。
目を奪われて、もっと見ていたいと思っていた。
それは――――今も浮かぶ笑顔のようで。
無くさなければ、直視できただろうか。
探しに行っていれば、取り繕うことができただろうか。
思うことができれば、触れることができただろうか。
もし、なんて後悔が浮かんでは消えていった。
ああ……。
それら全てが、ぬえという存在に繋がっていく。
そうか、私は……。
心をぐりぐりしていたものが、ふわりと軽くなった。
存在を放つそれは、ゆっくりと、飲み込まれるように沈んでいった。
簪を通して…………彼女のことを…見……。
同時に、私の意識も一緒に暗闇に沈んでいった……。
……………。
「あれ?」
目が覚めると、布団の中にいた。
掛けられた分厚い布団が、心地の良い温度で私を包み込んでいる。
「う~ん」
その誘惑の中からは到底抜けられそうにない。
このままでは、また寝てしまいそうだ……。
「……ふりゃっ」
どうにかゴロリと寝返りを打って抵抗を見せてみる。
右を向いて――――左を向いて、と。
「なにやってるんですか」
「うわぁっ!?」
左にはナズーリンがちょこんと正座していた。
少し眉を上げて、訝しそうに見下ろしている。
「あ、いや、これは」
私は急に恥ずかしくなって、慌てて反対に転がった。
熱くなる顔とは裏腹に、頭は氷を入れられたように冷え冷えとしていく。
そうなって、ようやく状況の整理をしようと脳が動き出した。
ここはどこだろうか。
確か私は、遅くまで仕事をしていて、疲れて横になって……それから。
「寝てたので、運びました」
「えっ?」
ナズーリンが答えたのに驚いて、私は再びナズーリンの方へ寝転がった。
むっくりとした塊が向きだけを変える形だろうか。
「……ご主人、いつまでそうしているんです?」
目が合って、彼女は言った。
顔は不機嫌そうで、眼は皿のよう。
けれど、言っただけで、布団を剥ぎ取ろうなんてことはしない様子だった。
「……怒ってる?」
「さて、どう見えます?」
「……ごめんなさ」
「勝手に謝らないでくれますかね」
「……はい」
布団に顔をうずめて、おずおずとナズーリンを見上げる。
やはり、怒った顔をしてるように見える。
じっと、じーっと二つの眼が私を捉えていた。
「……」
やがて彼女は「はぁ」と大きく息を吐き出して表情を緩めた。
「あー、全くご主人は、倒れてしまうとは情けない」
そうして、急に一回り大きな声で喋り始めた。
「過労で倒れる神様なんて初めて耳にしたよ。自己管理もこちらでしなければならないなんて、本当に手のかかることだ」
「あ、あの、ナズーリン?」
「身体も仕事も私が調節しないと駄目なんだな、ご主人は」
「……」
「しかも、未だに目が覚めないときたら、今日は私が代理の代理を務めるしかないじゃあないか。全く、忙しい忙しい。都では正体不明の妖怪が何か探し回っていたとかなんとかだし」
「ナズーリ」
「さて、私は行くとしよう」
ナズーリンは言い終えると立ち上がって、踵を返した。
そのまま襖まで歩を進め、
「――――しっかり休んでくださいね」
静かに言って、室内を後にした。
「……えっと」
お暇を貰ったということなのだろうか。
布団の中でぽつんとしながら、呆然とする私がいた。
一人になると、ぽかぽかという暖かさがより一層強く感じられた。
だんだん眠気が近づいてくる。
「う~ん」
私は再び抵抗するためにゴロゴロ転がった。
ゴロ。
ゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ。
ゴロゴロ……。
「何してるんだ?」
「うぉぅっ」
居なかったはずの人物が居て、思わず変な声が出た。
大きく身体が跳ねたものの、布団の重さがそれを小さく見せてくれた、と思う。
「お、おぉ、……ひ、久しぶり」
ナズーリンが正座していたところに、いつの間にかぬえがあぐらをかいて座っていた。
私は平静を装って、なんとか返事をしてみせる。
けれど、そんな様子なんて気にしないで、これまた訝しむような視線を向けて、彼女は言った。
「倒れたとかって聞いたけど、元気そうだね」
「あ、あぁ。実際、倒れていなかったから……」
「あ、そなんだ。な~んだ、弱ってるとこ、来ようとしたのに」
彼女はカラカラと笑った。
「……お前は」
いつもと変わらない屈託のない笑みが、そこにある。
ズキリッとした痛みが走った。
胸を押さえつけるような、鋭くて、鈍い痛み。
思わず、彼女から目を切る。
そうしている自分の行動すら、後ろめたかった。
「……どうかした?」
「…………でもない」
「ん?」
「………………なんでもない」
私は呼吸も忘れて、言葉を紡いでいた。
言わないと。
鼓動がやけに早い。
全身に、脳に酸素は行き渡っているはずだ。
思考は冷えたように良好。
けれど、私は一点を見据えたまま止まっていた。
口を動かすことが、こんなに難しいことだっただろうか。
布団に潜り込んでしまうのは、きっと乱雑に投げ捨てるように簡単にできるはずなのに。
それでも、私は彼女に伝えなければいけない。
長い長い沈黙は、ぬえにしてみれば大したことない、だろう。
私は意を決すると、がばっと布団から身を起こして、やっとの思いで声帯を震わせた。
「なぁ、実は」
「そうそう、これ」
しかし、それは、あっさりと遮られてしまった。
居住まいを直したこともお構いなしだ。
本当に間の悪いヤツ。
ようやく発した言葉を消されたものの、彼女の間の悪さにどこかほっとしている自分がいる。
それは、いつもそうな気がした。
「な、なんだ?」
「これ、落し物」
彼女がひょいと投げてみせる。
物体は宙を舞うと私の膝辺りの布団の上にぽすっと落下した。
「あ」
落し物というそれは、間違いなく玉簪だった。
手に取ってみても、間違えることなくぬえから貰った簪の手触りだった。
どこにでもありそうな装飾の少ない、玉の下が平べったくなった簪。何度も見た黄色の玉が、わずかに光る。
「私があげたものを落とすなんて何事?」
彼女はイタズラそうに言った。
よくよく彼女を見れば、少し髪が焦げているだろうか。服の端も焦げているのか、焼け焦げた臭いが微かにしていた。
それに、あぐらを掻いて膝を押さえる手の下から、ほんの少しだけ擦りむいたような傷が見て取れた。
『都に正体不明の妖怪が――――』
ナズーリンが去り際に言っていたことを思い出した。
「……都」
「ん?」
「……都まで行って、くれたのか?」
「な、ち、違う。私は、遊びに行っただけで、探してなんかない」
「…………」
「なに?」
「…………探して、くれたんだな……」
「あっ……ま、まぁ、そんな、とこ……」
口を滑らしたことに気がついて、彼女は口を塞ぐようにしていた。
「……」
ぬえは、知っていたのか。
「…………ぬえ」
「え?」
自分が恨めしくて仕方なかった。
隠すつもりなんてない、なんて思っていたのに、その実、彼女が知っているとわかれば、この様なんて。
俯く私を、ぬえは静かに待っているようだった。
唇が、重たい。
今まで開いていたことが嘘のよう。
それら全ては自分の意思なのだと、自覚していた。
「……………………ごめん」
静寂を挟んで、私はようやく口を開いた。
「あ、いや、謝らないでよ、そんなつもりじゃなくって……さ」
「……ずっと、探しに行かなかったんだ」
彼女が慌てたように答えてくれたけれど、私は言葉を続けた。
そうしなければ、細い糸のような言葉の綴りはぷつりと切れてしまいそうだったから。
「無くしたことをわかっていても、探しに行かなかったんだ」
「……うん」
「本当は、真っ先に探したかったのに、私は……駄目だな」
弄んでいた簪を私は握りこんだ。
「大切な物を手放しても、しなきゃいけないことなんてなかったのに……」
手に強く力を込める。
掌に伝わる感覚はみるみる強くなっていった。
簪は簡単に折れてしまいそうだ。
それは、大切な物だったはずだ。
大切な、一方的な、絆の。
「……これを持っている……資格はない、な」
私にとって、この場は仮初。
この職務も代理。
ならば、何を躊躇うことがあったのだろうか。
本当に大切だと思うことを置き去りにして、私は何がしたかったのだろうか。
全て放り出して、探せばよかったのに。
「……違うよ」
「――――」
私の思いを読み取ったようにぬえは言った。
「お前は、……しょ、は、全部大切なんだ。大きいとか小さいとか、そんなんじゃなくて、さ。その……抜けたとこっていうか、だらしないとこあるけど、優しいし、責任感も強いから、みんな頼りにしてるし、全部応えようとしてくれる。私みたいだったら、みんなが困っちゃうからさ、代わりなんていないんだから……しょうがないよ」
「……」
「だ、大事にしてくれてたこと、知ってる。毎日、眺めてたの……見てたから」
「…………」
「見てたこと、怒ってるなら、謝るし。……で、でもさ、星が大切にしてくれてたの…………、う、嬉しかった、からさ……」
彼女の口から私の名前が出るのは初めてだったかもしれない。
けれど、そこに喜びは感じなかった。
彼女の思うような存在では、ない。
そう呼んでくれる彼女に誇れるものが私にはなかった。
「だからっ、だからさ、いいんだ。大切に思ってくれてたから。それで、私は充分。……それで、いいんだ」
「……」
「……」
お互い沈黙していた。
お互いに俯いて、目線は膝の上。
お互いが握った掌を捉える感覚。
映るのは握られた手。
私に映るのは小さく丸め込まれた手だった。
それは、矮小な私自身であるようで、どこまでも本質を包み隠して、隠せれなくて、そこにあった。
「……よくないだろう」
私自身を握りこんだのは私だ。
ぬえの前でも、きっと、そうだったに違いない。
私の想いは、建前で隠してしまっていた。
自分が身を委ねたものを盾にして、心も覆ってしまっているのだ。
強く強く、爪が食い込むくらいにして、守るつもりで、傷つく。
そうまでして、私は何がしたいのだろうか。
「よくないだろうっ!!私は、私が、選んだことなのに、それすら、貫く覚悟も、信念もっ、影響されて、簡単に、本当に簡単に、どうすることもできないなんてっ!!」
何を言っているのか、わからなかった。
ただただ、声を張り上げる。
泣く赤子同然、いや、性質の悪いことに自分勝手で、何もしないのに求める。
……私は、どこまでも…………どこまでも、愚かで……。
握り締めた手に力を込める。
その本質ごと握り潰してしまいたかった。
痛みが刺さって、血が滲んだ。
しかし、薄皮を破き、到達するのは少し奥。
数日で回復するような生易しい、傷だ。
到底、壊せそうにない。
更に力を込めて、込めて、込めてみせても、私自身がそうさせてくれない事実がそこにあるだけだった。
「星」
小さく声が聞こえた。
膝の上の私に、二つの手が添えられる。
軽くのしかかるように、包みこむように、置かれた感触。
私より小さなその手は、親指の付け根の骨の無骨さも、少し固い掌の厚みも、ぷくりとした指の柔らかさも、彼女を連想させるものだった。
彼女は私の手をゆっくり、自然に開いてみせて――――しっかりと両手で抱きしめた。
寄りかかるのは、簡単なんだろう。
けれど、こんな私には、寄りかかる資格は無い。
誰かと共有し分かち合って進む先に、私は居続けれない。
信用を勝ち得ようとも、本当の意味で仲間ではないのだ。
信念が……ない。
誰かのためにと、願うほどの心がない。
流されるまま、中途半端に在り続ける。
これはまるで……見せかけ、張り子だ。
他の妖怪たちと山にいても、ここの寺にいても。
変わらない私は、そうとしか言い切れなかった。
彼女の手を返そうと、目を閉じ、
「星」
それを、またしても遮られた。
映る視界は血でわずかに汚れた二人の手。
どんな顔で彼女は私を見ているんだろうか。
諦めるように思った。
だから。
顔を上げたのだって、終わりのつもりで…………。
そこには。
その先には。
微笑むぬえが、いた。
少し泣いているのだろうか。
目尻が光って見えるし、顔は赤みを帯びている。
手を握る彼女は願うような姿勢で、私を見つめていた。
視線が重なると、彼女はお願いが叶った少女のように、口元を綻ばせた。
「いいんだ」
たった一言、ゆったりとした口調に乗せて言った。
握られた手は確かに暖かだった。
掴んでみたいと、思った。
私に触れる確かな存在を。
不思議なことにあれほど強く握っていた手は、思うように動かなかった。
笑ってしまう。
どこまでも、矮小な私。
本当に踏み出す心すら持ち合わせていないとは。
……私の日常は、いつもそうか。
自分自身の意思さえ放り出して、手足を動かすだけの……。
…………そうか。
本質が動かないけれど、末端の手足が動くのならば。
――――抵抗する方法はいくらでもあったんだ。
私は、弱く、本当に弱々しく、痛みで痺れた指で輪を創るようにして、彼女の指に捕まった。
これが、今できる精一杯の一歩だった。
そんな小さなことでも、ぬえは何も言わずに微笑んでくれたのだった。
「……ぬえ」
「うん?」
「私は、本当に至らないから……また無くしてしまうかもしれないぞ。それでも本当に」
「名前」
「名前?」
「そう。無くしてもわかるように、名前、書いといたからさ」
彼女はイタズラそうに笑ってみせた。
二人の手の上に乗る簪。
玉の下のほんの少し広がった部分に、小さく『星』と掘りこまれていることに気が付いた。
こんな小さい字をどうやって書いたのだろうか。
それも結構うまい字だ。
「先に言っとくけど、無くしてくれってわけじゃないからね」
「……うん」
釘を刺された。
こうやって誰かに名前を書かれたのは初めてかもしれない。
私の名前はなんだか、滲んでしまってうまく見えないけれど、こんな小さなことが、とても、とても嬉しかった。
「……なんで、泣く?」
「え……あ」
本当だ。
どうしてかわからなかったけれど、ポロポロと涙が零れていった。
「さぁ、どうしてかな」
「べ、別にいいけど、ね」
「ぬえ」
「ん~?」
「ありがとう」
「……うん」
いつもならば、恥ずかしそうにして行ってしまう彼女。
けれど、今この時は、私の指を解くこともなく、そうして頷いてくれた。
その手を、離さないでいよう。
決して私から離さないように。
今はそう思っていようと、これまた小さく思って、私は泣いたまま笑ってみせた。
私は彼女を変わったと言った。
ナズーリンは私を変わったと言っていた。
一体どちらが、変わったのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいいのか。
――――変わりゆく、その先があると知ったのだから。
◇ ◆ ◇
「……どうしてこうなったのか」
過去の思い出も束の間、私は書類の山に囲まれていた。
過去の量を超えるような紙の山だ。
宝塔の名前をなんとか落として戻ったものの、待っていたのは自室でも書類審査だった。
腕組みしたナズーリンが「入れ」と、親指を指すのだから入らないわけにはいかないだろうに。
彼女の怒りはまだまだ収まらなかったらしい。
あまりの書類の量に呆然としてしまいながらも、いそいそと席についた結果がこれである。
すっぽりと収まるように私がいる感じだ。
実際、こうして私より身長の高い紙の山々を見上げる。
もう本当に紙なのかと不思議でしょうがなかった。
呆れた笑みが浮かぶが、それも一瞬。
終わることのない質量はなんとも息苦しく、精神的に圧力をかけてきた。
「……はぁ」
自然とため息をひとつ。
ぐうぅぅぅぅぅっ。
同時に腹の虫がなった。
なんとも切ない現実が展開されていた。
外の陽の光がなんとも恨めしく思えて仕方がない。
それでも、これ以上ナズーリンを刺激しない方がいいのは確かなので、真面目に取り組むとしよう。
「……ふぅ」
部屋を埋め尽くす書類の中、ちっぽけな机で一枚の巻物を開ける。
仰々しく丸まった紙は、なんのことはない。
ただの説明文やらだ。
ちらちらと別の紙に目を向けても、似たような物ばかりである。
目を通せばいいのやら、署名をすればいいのやら、さっぱり要領を得ない物まであるところを見ると、ナズーリンは貯めに貯めた書類を持ちだしてきたらしい。
つまりこれらは、後回しでも良かった物ということか。
必要なものを確実に管理しているあたり、彼女が有能であると改めて認識しなければならないだろう。
……いや、もちろん、いつも思っているよ?ナズ、すごいって。
と、まあ、後に残された書類はこのような形になってしまっているけれど、私がやることと言えば、黙って読んで署名することくらいだった。
更にため息をひとつついて、再び巻物に目を移す。
内容は何度見直しても大したものではない。しかし、待っている人がいるのであればやらなければ。
机に常設された硯から筆を取り、最後の空白に名前を書き込む。
そして一つ横に移し、乾くのを待ちながら次の書類へ。
積まれていた書類の山が少しずつ動き始めた。
本当、ナズーリンはしっかりしている。
途中で気がついたことがあった。
ナズーリンはこれらの書類を適当に扱いながらも、しっかりと分別をして順に並べていてくれたこと。
読む速度と書く速度が昔ほど、早くなくなっていたこと。
そして、障子の向こう。姿こそ見せていないけれど、背を向けてあぐらをかいている人物がいること。
その人物は、すぐに誰か分かった。
朝方の犯人、ぬえだ。
「入ってこないのか?」
「ん~?」
先に声が現れてから、障子に影が投影された。
そいつはゴロンっと仰向けになって、器用に戸を開ける。
指が辛うじて届いているだけなのか開き方はあまりにもゆっくりでぎこちなかった。
「邪魔しちゃ悪いかと思ってさ」
「待っていられても、終わるかわからないぞ」
顔を出したのは、やはりぬえだった。
私は目配せもしないで、彼女を確認して書類へと向かう。
「待ってたわけじゃないんだけどね」
「それにしては、ずっと居たみたいじゃないか」
「あー、そうだったかも」
気の無いように言ってぬえは楽しそうに笑った。
「何が面白いんだか…」
「まさか気が付かれているとは思わなかったから」
「それと、なんの関係があるんだ?」
「こういうのはバレてこそ、面白いのさ」
「……相変わらずわからないやつだな、お前は」
「そうともっ」
掛け声を混じえて、ぬえは文字通り跳ね起きた。
上体がしなるようになって、そのまま勢いに任せて空中へ飛ぶ。
一回転して着地すると、飛んだりするのに役に立ちそうにない赤と青の羽がふわっと余韻を残して身体に続いていた。
彼女は鼻歌でも歌い出しそうな様子で、敷居を踏み鳴らして部屋と侵入し、私の正面であぐらをかいた。
「正体不明が売りなのさ」
「……知っているよ」
ぬえはまた楽しそうに笑った。
私はようやく彼女の様子に目をやると、その笑みにため息をひとつついてやる。
「まったく、お前のお陰で、こんなに仕事ができてしまったんだぞ」
「ん~?」
当の本人は、心当たりがないと首を傾けるばかりだ。
「……宝塔に、私の名前を書いていっただろう。今日」
「あ~、うん、書いた書いた」
「しかも、墨とも違う魔法の類の道具で」
「これ?香霖堂で名前を書くのに適してるとかって、墨もいらないし便利そうだったからさ~。買ってみた」
「買ってみたじゃないだろう?ナズは本気で怒るし、字もなかなか消えなくて手が凍りそうだったんだぞ」
ぬえはどこからともなく黒い棒状のものを取り出して、得意げにしてみせる。
香霖堂で買ったという魔法の筆なんだろう。
側面に『○ッキー』と書かれた、先端がどちらかもわからない怪しげな筆だった。
私の抗議の声も、ぬえは楽しそうに返答をしてきていた。
「あんな所に、置きっぱなしだったから無くさないようにしたんだけどね~」
「置きっぱなっ!?お、お、置いてあっただけで、そういうわけじゃなかったんだが」
「だって、星がお腹出して寝てる横で転がって、挙句には蹴られて」
「――――ああ、わかったわかった。書かれた私が悪いんだ、きっと」
「そうそ、ほっぽりだして寝てる星が悪いんだ」
「……まったく」
息を吐き出して、彼女を見る。
ぬえは相も変わらずにイタズラそうに笑うのだ。
それをじっと見ていると、なんだか可笑しくって。
こんな呆れきった状況も相まって、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「……くくっ」
堪えていたものの、どうにも限界だ。
「――――ぶはっ、くっ、くぁあははははっ!なんなんだ、それは!?」
「っふっ――――!?ほ、ホントなんなのこのお笑いみたいな状態っ、あははははっ」
特に理由もなく、私たちは声を出して笑いあった。
私は背を反らして、彼女は床に伏すようにして、お腹がよじれるまで笑っていた。
「くっ、ふぅく、結局、何が、面白いんだろうね」
「お、お前が、変に笑うから、だろぉう」
本当に意味もなく笑い合っていた。
一しきり笑った後は、よじれた腹部の痛みだけが残っていた。
大きく呼吸をしながら、口元にはいつまでも笑いの余韻がある。
「あ~、久しぶりにこんなに笑った」
「ふふ、私も」
そうして、同じような姿勢をして、息を整えるのだった。
ふと、思った。
こうして笑っていられるのは、彼女のお陰なんだろうと。
あの時、手を握ってくれたから。
長い間、離れてしまったけれど、こうしていられるのは、きっと。
「なぁ、ぬえ」
「うん?」
「……これ、覚えているか?」
「?」
そう言って私は懐から玉簪を取り出した。
輝きは少しくすんでしまっているけれど、あの時のまま甘い色だ。
私は、適当に、乗せるように髪の毛の間に通して見せる。
持ってはいたものの、つけるのは実に数回目の数百年ぶりだった。
本当は通し方すらわかっていないのだ。
ただ眺めているばかりだったから。
それに、
「似合うだろうか?」
「……んにゃ、全然」
「私もそう思う」
似合ってはいないだろうし。
私は落胆もなく、わずかに笑った。
「星に似てるってだけで、星には敵わないね」
ぬえが続けた言葉は、過去の言葉を思い起こさせた。
『アンタみたいだと思ったから』
なんだかこそばゆい。
思わずうつむいてしまった。
「まだ、そんなの持ってたんだ」
「……まぁ」
「なくさなかったんだね」
「……まぁ」
下を向いてしまったため、彼女の表情は知ることが出来なかった。
目を逸らしたら、もう一度見るのが、恥ずかしくてしょうがなかった。
「よくなくさなかったじゃん」
「……お前が、名前を書いてくれたから……な」
「そだっけ?」
「……うん、探さなくてもいいようにだけど」
「あ~、そっか」
そう言って私たちは沈黙した。
気恥ずかしい沈黙。
髪に差したままの簪が妙に強く重く感じられた。
「こ、今回のことだって、そういうことだったんじゃないのか?」
沈黙に耐えかねて、私は噛みそうになりながら言った。
「ん~?」
「宝塔に、名前書いたこと」
「あ~、無くさないようにするには、まぁ、有りかなと思ったんだけど」
「ありがたいけれど、さすがに宝塔に書かれるのは困る」
「うん、わかった」
少し反省したような口調でぬえは答えた。
いつも無くす私が悪いのに、彼女は言う。
「でもさ、わかるようにしておかないとさ。星は無くしちゃダメなものがいっぱいでしょ」
「……昔ほど、無くしてないぞ」
「え~、そうかなぁ」
「そ、それより、ぬえは、どうなんだ?」
「私?」
苦し紛れに言っただけだった。
けれど、ぬえはキョトンとして、腕組みをして考え始めた。
「色々あったんだし、何かあるだろ?それこそ、名前書く道具まで買ったんだし……自分の物に書かなくていいのか」
「う~ん、私は……」
少ししてぬえは言った。
「―――私には、特に無くしちゃダメなものなんてないから大丈夫かな」
ずいぶんと明るい声に私は顔を上げた。
そこには、おどけたでも沈んだでもない表情をしたぬえがいた。
本気で言って、笑っていた。
何もないから大丈夫なんて、彼女らしい。
そうして呆れるくらいに彼女は笑う。
笑う彼女に私は、心底呆れてしまった。
――――まったく。
私は手元を確認して、筆を取った。
「どうかした?」
私が反応を示さなかったことが不思議だったのだろうか。
ぬえは前のめりになって、私の動きを追った。
筆が、硯から離れ、宙へ。
「星、紙は横だけど」
ぬえがつぶやくのも聞かずに私は筆を動かした。
『しょう』
ぬえの左の頬に。
私はさっと、繋がったような字で書き上げた。
墨が冷たかったためか、ぬえは身を引いたものの書き上がる方が早かった。
「な、なにっ?なんて書いた!?」
ペタペタと頬を触って、ぬえが抗議の声を上げる。
墨が移って、手も真っ黒、頬の字もぶれてしまった。
正月でもないのに、墨でべったりになる様子に私は笑った。
「名前」
「なまえ?」
ぬえの手が止まった。
「私の名前を書いた」
「な、なんで!?」
「無くしては困る者、だからかな」
「よ、よくわかんない……」
「私は、ぬえがいなくなっては困ると思っているよ」
「……なにそれ」
「これで、どこかに行っても大丈夫だろう?そうしないと」
自分自身まで無くしても笑っていそうだから。
彼女が笑ったとき、そう思ってしまった。
無くしたくないと、そう思った。
何百年と離れていて、そう思っていた。
ぬえがなんと言おうと、私には彼女が必要だ。
こんな馬鹿なやり取りができるのは彼女だけだから。
だから、書こうと思った。
彼女が無くしてしまっても、私が無くさないようにするために。
私は本当に至らないから、また全部無くしてしまうかもしれないけれど、彼女を見つけることができるように。
「正体不明でも私には見抜けるな」
私はもう一度笑ってやった。
彼女が呆れるくらいに笑おう。
何も言い返せないくらいにしてやるんだ。
案の定、ぬえはうつむいて顔を赤くしていた。
頬から浮かしたままだった手を、膝に落とし、きゅっと結ぶ。
恥ずかしさに耐える表情を連想して、私は更に笑った。
「―――っさい!この虎っ!!」
耐えかねて、ぬえは顔を上げた。
真っ赤な顔に少し涙が滲んでいるように思える。
あまりに恥ずかしかったのだろうか、それとも。
「ふ、古い物なんか持ちだしてっ、言うことが恥ずかしいんだよ!」
べぇっと舌を出して立ち上がると、大股で歩く。
勢いよく障子を開け放ったあと、思い出したように振り向いて、
「べぇ~だ」
もう一度舌を出して見せた。
そのまま飛び立つといつものようにどこへともなく行ってしまった。
「……」
ぬえがいなくなると室内は急速に静けさを取り戻した。
残ったのは一向に進んでいない書類の山と、私だけ。
昔のような光景が広がっていた。
違うのは場所と時間と、心だろうか。
考えてみて、自分に呆れてしまった。
なんとも目出度い頭になったものだなぁ。
私は大きなため息を吐き出したけれど、緩んだ口元は元に戻ろうとはしてくれなかった。
「さて、仕事仕事」
切り替えて私は書類へと向き直った。
これ以上放置していては確実にナズーリンに叱られてしまう。
ご飯抜きを敢行させられてしまうかもしれない。
それは勘弁願いたいので、まじめに取り組もう。
抜け落ちそうな玉の簪はもう少しそのままに、私はせっせと手を動かし始めた。
翌日。
「おはよーございまーすっ!!!」
鶏が鳴くよりも早く、地鳴りのするような大きな声で寺は目を覚ました。
鳥たちが一斉に飛び去っていく羽音で私も叩き起こされる。
「……」
机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
ぼやけた視界の中、目についたのは机に残った一枚の書類だった。
頬をついて寝ていたせいか、少し皺ができてしまっている。
……どうにか、よだれはかかっていないようだ。
「……これで、終わりだったのに」
寝ぼけたままで、昨日のことを振り返ってみる。
ぬえが去ってから、黙々と書類整理を進めた。
書類の山は減っていったものの、底である畳が見えるまで相当な時間がかかってしまっていた。
なんとか半分減った頃に一輪が夕飯を持ってきてくれて、再び缶詰状態で……。
そうして、蝋燭も短くなった頃、「最後っ」と書類を手に取ったところまでは記憶があるのだけれど。
私はもう一度、最後の一枚を見やった。
あー、そうそう、確かこんな内容だった気がする。
あまりにうろ覚えであった。
労働を超えた業務内容に、心身ともに後一歩届かなかったらしい。
結構な苦行だったと本当に思ってしまう。
一人で書類をこなすのは、半年は遠慮願いたいところだ。
「……よしっ」
残るはこれだけなのだから、すぐに済ませてしまおう。
向き直ろうと、姿勢を正した所で身体が思ったよりも硬くなっていることに気がついた。
どこもかしこも、はまりきらない節のよう。
全体がすっきりしないのだ。
「う~ん」
私は大きく伸びをして固まった身体引き伸ばした。
高く上に伸びる腕も、少し反らした首も、垂直になる背中も一斉に小気味のいい音を鳴らしていく。
パキという破裂音とは裏腹に、関節は元に戻っていくようだ。
音が鳴らなくなるまで軽い痛みに耐えていると、最後には欠伸が出た。
それは関節の音なんかよりも大きな長い欠伸だった。
顎が垂れて、涙が滲む。
同時に全身に酸素が行き渡り、寒々するように頭が冴えてきた。
欠伸が切れるころには、すっかり目が覚めているほどだった。
涙目のまま、周りの状況に耳をすませてみる。
遠くからは未だに響子の挨拶や経文が響いて騒がしく、他の音を妨害していた。
けれど、そんな中、私の耳ははっきりとある音を捕らえた。
室内から伝わってくるトントンッという軽快な音とクツクツと湧き立つわずかな音を。
鼻を効かせてみれば、味噌汁の良い香りが漂ってきていた。
赤だしの味噌汁だろうか。
ほんのり香ばしい香りが脳を刺激していく。
思えば、昨日の夕食はおにぎり三つにたくあん二切れが笹に乗せられていただけだった。
一輪が持ってきてくれていなければ、「旅にでも出すつもりかっ」と思わず突っ込んでいたことだろう。
持ってくるだけ持ってきて去っていく一輪を恨めしく思いながら、一人、蝋燭の明かりを頼りにかじるおにぎりの冷たいことと言ったら。
それはもう、しょっぱくて涙がチョチョ切れんばかりだった。
だからこそ、今、漂ってくる味噌汁の香りは紛れもない出来立ての温かな食事を期待させる。
朝食に思いを馳せていると、ぐぅっとお腹がなった。
……こうしてはいられない。
パッと目を開いて、机に向き直った。
最後の一枚。
本当に最後になった一枚の紙切れを、憎き敵のように睨みつける。
心もとなく取り残された用紙は、風前の灯、舞い散る一葉のようである。
これで終わりだ。
腕まくりをしつつ、筆を走らせる。
空欄にこれでもかと言うくらいの勢い余った名前を記す。
最後の一筆は止まることなく、びしっと飛んで浮かび上がると、一滴の墨を机に飛散させていった。
「よしっ」
そうして墨が乾くのを待たずに、書類の山の頂上に乗せて全てが終了した。
机に残ったのは硯と筆だけ。
「はぁ~」
どこか清々しい気分の息が流れでていった。
本来ならば余韻に浸って、更に息を付いているところだ。
しかし、私は直ぐ様、立ち上がった。
……もう、限界だ。
朝食の誘惑によって、理性は限界を超えようとしていた。
指を咥えて待っているなんてできそうにない。
もし余裕があったとしたら、威厳満々、座禅でも組んでナズが呼んでくれるのを待っているところだ。
けれど、この現状では、いつ呼んでくれるかわからないのだ。
待っているだけでは何も始まらないと、偉い方は言っていた気がする。
それに、仕事の後の食事はいつだって美味しいのだ。
腹の虫も「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ」と鳴いて賛成の意を示してくれた。
急いで行こう……走らないようにして。
私は、最低限の節度を残しつつ、一歩、足を踏み出した。
「…………?」
しかし、その一歩に違和感があった。
ジンとした痛みともとれる感覚と、足が浮いたような地に着かない感覚があるのだ。
わずかに力を込めてみると、痛みが足全体に広がるのがわかる。
……これは、一体?
思ったとたんに弱電流が両足を走り抜けた。
「くっ、くぉぅっ…」
一瞬にして、膝が落ちた。
勢い良く畳についた膝が、同じような勢いで脳天まで痛みを響かせる。
「――――つっぁぁ」
声にならない悲鳴と目がチカチカとする中、この感覚をようやく思い出した。
過去、座禅の度に何度も味わったことのあるものだ。
立ち上がることはできるが、動きを制限される、これは……。
そう、痺れだ。
考えても見れば、座って寝ていたのだから、こうなっても不思議ではなかった。
けれど、足が痺れるなんてもう何百年も無い事で、すっかり忘れていたのである。
膝をついた姿勢のまま、足を掴んで唇を噛んだ。
こんなことで止まっているわけにはいかない、そうだろう?
私は言い聞かせるようにして、立ち上がった。
いつもは何時間という座禅をこなしてきている私だ、こんなことくらいなんともない。
治るのを待てばいいものを、半ば呆れるが、そうも言っていられなかった。
なんといっても、温かい朝食と団欒が待っているのだ。
「ぬぐぐぐぐぅ」
一歩、一歩と足にビーンと痛みが走る。
足首の角度を変えることもできない状態でカクカクした動きだった。
まるで、痛みを確認しながら歩いているようである。
障子を開け、壁を伝いヘコヘコと歩き続けるが、痺れは一向に取れない。
それは異変か魔法か呪いのように思えてしょうがなかった。
足の痺れが取れない異変……。
いや、考えるのはやめておこう。
誰も彼もヘコヘコと歩いている姿の想像を一瞬で捨てる。
脳内は再び、朝食の想像でいっぱいになった。
居間に近づくにつれて、味噌汁の香りが濃くなり、想像をより一層高ぶらせてくれる。
キラキラ輝く白いご飯に、香り高い湯気の立つ味噌汁、鈍く光る黒豆、金に色づいたタレのかかった胡麻豆腐…………。
そのどれもが魔力が込められたように私を魅了していた。
「――――あとぉ、ちょっとぉ」
変な声を漏らしながら、私はようやく居間へと辿り着いた。
ほっとした途端に、
ぐううううううぅぅぅぅ。
盛大にお腹が鳴った。
「…………」
他の誰からでもわかる大きな音に、急に今までしてきたことが恥ずかしくなった。
気が付けば、足の痺れも取れてしまっている。
あんなに必死に何をしていたのだろうか。
誰にも見られていなかったのが、唯一の救いだった。
私は姿勢を正すと、咳払いを一つついて、襖を開けた。
「……おはようございます」
顔が赤くなっていなければいいけれど。
変な心配を他所に、居間に人の姿はなかった。
数人がすっぽり収まる居間の中央にチャブ台が置かれているだけ。
チャブ台の上には箸と湯のみが並べられている。
視線を巡らせれば、台所へと続く引き戸は開け放たれ、いつもの面々の声が聞こえてきていた。
ちょうど朝食を運んでくるところなんだろう。
私も手伝いに行こうと居間に足を踏み入れると、
「あ、星、おはよう」
「あら、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「ご主人、おはようございます」
台所の方から村紗、聖、一輪、ナズーリンが縦に並んで顔を出した。
ぬえが遅いのはいつものこととして、今日は私が最後だったらしい。
そういえば、いつもより長く寝てしまっていた気がする。
まぁ、働いた時間はいつもの倍以上あった気がするけれど。
「おはよう。遅くなってしまってすまない」
一言かけて歩を進めた。
そこへナズーリンが汁椀を乗せたお盆を持ってチャブ台にやってきた。
「おはようございます、ご主人」
「ああ、おはよう、ナズーリン」
彼女はそのまま汁椀を並べながら、ちらりと私の方を見やった。
「……あ、あの、昨日は、申し訳無いことを」
「うん?」
「その……、宝塔のことで……」
「あ、あぁ、いや、書かれた私も気が抜けていたことだし、た、大変ではあったけれど、別に気にしてはいないよ」
良かった、もう怒ってはいないようだ。
自然と安堵の息が漏れた。
「――――お~い、ナズーリン、すまないがこれも頼む」
「あっ、すぐ行くよ」
台所の方から一輪に呼ばれて、ナズーリンは立ち上がった。
「……ご主人?」
立ち上がって、彼女はピタリと停止した。
私の顔を横から覗き込むようにして、視線を向けてくる。
「な、なんだろうか?」
目を細くするナズーリンの表情はなんとも仏頂面だった。
怒られるのではないかと、半身を引きながら聞き返したけれど、彼女は思いも寄らないことを言った。
「顔に……何か書いてありますけど」
じ~っとした視線が私の頬に集まっていた。
「……え?」
「左の頬に……、え~っと、なんですか『ぬえ』とありますけど」
「……?」
細められた視線の先、左の頬に手をやってみる。
何の感触も移りつくものもない。
私の肌は至って普通のようだけど。
何を言っているのだろうか。
疑問符を浮かべたままでいると、一輪が手に茶碗を持ってやってきた。
「どうした、ナズーリン。お盆を持ってきてもらわないと一度に食事が運べな」
続いて、一輪が動きを止めた。
ナズーリンと同じように目を細めて、私の頬をじーっと見つめる。
……本当に何かあるのだろうか。
「……星、今度は顔に『ぬえ』書かれているようだけど、落ちるのだろうか?」
しみじみとした口調で一輪が口を開いた。
「…………あ」
二人が同じように言って、私はようやく思い出した。
昨日、ぬえが得意そうにして持っていた筆のことを。
宝塔に名前を書くのに使われたあの『マッ○ー』というもの、あれは墨を用いない魔法の道具。
色移りしない、なかなか消えないものだったはずだ。
「……ひょっとして、書いてある?」
「ええ、はっきり『ぬえ』と」
二人が首を立てに振った。
その動作がとてつもなく大きく感じられた。
「――――ま、まさかっ、そんなっ!?」
私は愕然とした。
二人が言っていることが本当だとすれば、今、私の顔には『ぬえ』とはっきり書かれていることになる。
こんなのを他の者に見られ――――。
「どったの、みんな」
「星がどうかしたのですか?」
「うぁ」
頭を抱えるよりも早く、村紗と聖が顔を覗かせた。
二人は私の顔を確認すると、すぐさま動きを止め、疑問と驚きを表したような表情で固まっていた。
み、みみ、見られてしまっ……た。
驚いた顔をした村紗だったが、すぐににやぁっと口元を歪めた。
そして、とてもとても楽しそうに疑問を投げかけた。
「なになに、星。なんで、『ぬえ』なんて書いてあるの?」
「ち、違っ、こ、これはっその」
左の頬を隠しつつ、身を引いたけれど狭い室内では逃れることはできないようだ。
私一人では、この現状を切り抜けられない。
村紗を止めてくれっと、聖に視線を向けたものの、
「ぬえが書いていったのでしょうか?」
一方の聖は、いつもの様子で大層不思議そうに首を傾げているだけだった。
純粋に疑問を持つ彼女の後ろから、村紗の相当の悪意が見え隠れしていた。
「どどど、どうしてこんなことになっているのか、わ私も知らな」
「あ、簪まで刺してお洒落してるし」
「えっ、あっ!!」
しまった、昨日ずっと付けたまま仕事を続けていたんだっけ。
慌てて簪も隠したものの、もはや後の祭り。
ああ、もう。
なんで大事なことはいつも忘れるのかと、後悔の念が溢れ出した。
そんな私を村紗はにやにやとした顔つきで、捉えていた。
「……ひ、聖、これはですね」
いつまでも、疑問符を浮かべている聖に直接助けを求めよう。
彼女ならば、なんとかこの事態を……。
「そう言えば、昨日はぬえの左頬に『しょう』と書いてあったような気がしたけれど」
収拾、できそうにない。
ぬえに繋がることを思い出したのだろうけど、それは最悪だった。
村紗はその言葉を逃さずに拾うと、聖に向き直る。
また私の前に立っていた一輪もナズーリンも同様に聖に視線を向けた。
「そうなの?」
「ちらっと見ただけだから、はっきりとは覚えていませんが。星が仕事をしていた方から、真っ赤な顔をして飛んでいったところを見たわ」
……しかも、どうしてそういう時は、目立つように行動を起こすんだ、アイツは。
「そ、それは見間違いじゃないだろうか、聖」
「ああ、私は、井戸の所でぬえを見たな。顔を赤くして顔を洗っていたので聞いてみたら、『星に変なことされた~』と言っていたけど」
「え゛っ」
聖の言葉をやんわり弁解しようとすると、今度は一輪が思い出したように口を開いた。
「へぇ~」
「い、いや、私は、な何も…」
わざとやっているんだろうか、アレは。
狼狽する中、視線を巡らすと村紗は完全に楽しそうに私を見ていた。
一つ下からはナズーリンのじっとりとした視線を感じるし。
「ご主人……仕事中に……」
「こ、これは、ぬえのイタ、イタズラで」
「なに、なんか呼んだ?」
「―――お前は、タイミングが悪いっ!」
「ああん?」
挙句、最後には張本人のぬえがやってきた。
彼女は悪びれるでも楽しがるでもない様子で、惨状の真っ只中へ。
全員の視線が集まったのは言うまでもない。
この真相を知るのはぬえに他ならないのだ。
「ぬえ、どうしてお前はこういうイタズラをっ」
だからこそ、私はぬえが口を開く前に慌てて掴みかかった。
この場でなんの気もなく「書いたよ。昨日、書かれたから」とか言われたら変なイタズラよりもイタズラらしくなってしまう。
そうなる前にうまいことはぐらかさなければ、村紗の格好の餌食、そしてナズーリンからは昨日よりも過酷な労働を招く恐れが―――。
「昨日のアレは……イタズラ……だったの……?」
「―――っ」
私の掴まれたぬえは、くねっと身体をよじって恥ずかしそうに俯いた。
今までに見せたことのない被害者女性の様相に、後方の視線が今度は私に集まるのを感じる。
掴んでいた手が、じわじわと汗ばんでくるのが意識しなくてもわかった。
こ、こ、ここで……うまいこと、はぐらかさ……なけれ……ば…………。
心の中で必死に抵抗をしてみせようと試みた結果、
「い、いいぃぃや、……ちっ、ちが、わ……ない……です」
否定で返すことができない私は、がっくりと頭を垂らすだけだった。
拷問的。
なんとも拷問的な状況だった。
間髪を入れずに村紗とナズーリンの目が光った。
「聞きました、聖さん、寅丸さんたら仕事中で人が来ないことをいいことに……」
「え、どういうことですか?」
「そりゃ、二人っきりで、ねぇ」
後ろでヒソヒソと話しを展開する村紗。
いやいや、確実に聞こえるように話をしている。
一輪も混ざって、うんうんと頷いているのはなんともならないものか。
それよりもなによりも、下からものすごい怒気を感じるんだけれど……。
恐る恐る、下方へ目をやると。
「ご・主・人。昨日は夜遅くまで頑張っていると思ったら、そういうことだったのだろうか?」
ああ、毘沙門天様がここにもおられました。
「ち、違うっ、そうじゃないっ、これは、そのぅ」
「……やっぱり、違うんだね、星……」
言い訳をするよりも早く、ぬえは目に涙を貯めて泣き出しそうな表情をした。
広くない居間で、私一人、前後至近距離で板挟みにされていた。
「――――だから、人が来ないのを利用して、ぬえを呼んで、あ~んなことや、こ~んなことを」
「え、なな、星がそんなことを?」
「まぁ、仕方ないな。理不尽な怒りをぶつけずに発散するとなると……」
おいっ、後ろっ、後ろの方々は話を盛り上げるんじゃないっ。
本当に、まずい状況になりかねな、
「――――ご主人」
「ひっ、は、はいっ」
と、とにかく、ナズを止めなければ。
説得を試みようとナズーリンを真正面に捉える。
「ナズ、待て、これは、ぬえが私をはめようと」
身振り手振りを加えれば、きっとわかってもらえるはず、だ。
「だ、だから、これはぬえが寝ているときにしただけのことで、仕事の時は別になにもしてなくって……」
バタバタと落ち着かない私を、ナズーリンは死んだ魚の目で眺めているようだった。
ど、どうしたら。
そ、そうだっ。
ぬえに全て吐いてもらえばいいん――――。
「―――昨日のお返し」
「なっ」
極小の声が私のひらめきを瞬時に消し去った。
声の主はもちろん、ぬえだ。
ちらりと見てみれば、昨日の去り際のように、べぇっと舌を出している彼女がそこにいた。
私以外の誰にも見えない絶妙な角度。
それを知って、私にまざまざと晒しているのだ。
「くっ、ぬ、ぬえぇぇぇっ」
全部わかってやっているに違いない。
なんてヤツだろうか。
ぐっと手に力を込めようとした瞬間、それよりも強い力で肩を握りしめられた。
「あ……」
そ、うだ、気が動転していた。
今はぬえを懲らしめようなんて、場合では……ない。
こ、こ、この毘沙門天様の力を彷彿とさせるような力量でもって私の肩を掴むのはただ一人しか、いない。
ゆっくりと振り返った私を待っていたのは、微笑を浮かべるナズーリンその人だった。
ニコニコとした表情なのに威光ともとれる怒気が、発せられているのは気のせいではないだろう。
ゆっくり…………ゆっくりと彼女の口元が……裂けた。
「ご主人は、コマネズミのように働きたいと言っておられるようだ」
たったそれだけ。
ただ単に仕事口調で言うそれだけで、私の心臓は死なない程度ギリギリで握りしめられている感覚に陥っていた。
「ぁ、あ、あの、ね、ナズ……?」
「何かな、ご主人?」
にこり。
あ、もう……ダメっぽい……。
満面の笑みの裏側でナズーリンは静かに心臓を握ったようだった。
呼吸もままならないのに、手足が震えているのだけがはっきりとわかる。
だんだん視界も滲んできた。
けれど、諦めたらそこで終わりだ。
「ナ、ナナナ、ナズウリィンさん、おお落ち、落つ着いてはなすあいまし」
ナズーリンの瞳がカッと見開かれ。
「す・み・や・か・にっ、自室で待機っ!!私が行くまでに、額が擦れるまで土下座っ!!!毘沙門天様に最高最上位の敬意と煉獄的反省をしていなさいっっ!!!!」
恐ろしい声色と、目が眩むほどの怒気の暴風が私を射ぬくように流れた。
「っい!!」
避けようのない威光を前に私はその場から飛ぶように、いや、光のように駆け出していた。
何かを考える間もなく、一心不乱に突き進みながら、
「――――――ぬえのばかぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!!?」
口から出たのは、そんな情けない声だった。
命蓮寺の早朝。
私の悲鳴は、尾を持ってどこまでも、どこまでも反響していった。
終
また、若干長いものになっております。
冬になると幻想郷だって寒い。
早朝だと水溜まりは凍るし、積もった雪も溶けようとしない。
だから、井戸の水だって凍ってもおかしくないくらい冷たかった。
「うぅっ……つべたい」
恐る恐る眺めるのは水がいっぱいに張られたタライ。
張った水は今汲んだばかりの、それはもう新鮮な井戸水だ。
井戸に貯めてあった物だと言われても新鮮なのだ。
とても冷たい。
移すときに跳ね返って、手足にかかっただけでも身が縮むようだった。
「……よしっ」
私は意を決して、その中に宝塔をつけた。
一緒に指先が入って、全身に鳥肌が走る。
身を引っ込めたい思いにかられるが、ナズーリンの恐ろしい顔が頭をよぎった。
『いつまで、ぼさっとしているのかっ、さっさと落書きを落としてきなさいっ!!』
宝塔に落書きされたと知って、毘沙門天様もびっくりするような顔で怒るのだ。
それはもう本当に恐ろしかった。
庇おうとしてくれた聖でさえ、一言で黙らされてしまっていたし。
「うぅ、あんなに怒らなくてもいいのに」
そもそも、書いたのはぬえで。
みんなはどうして解るのかと不思議がっていたけれど、これはどう見てもぬえの字。
決して私が酔っ払って書いたわけではない。
「確かに、書かれた私が悪いんだけど……」
文句を言っても始まらない。
実際、あまり時間はかけていられなかった。
私は早急に宝塔の底に書かれた文字――――『星』という私自身の名前をなんとしてでも消さなければならない。
でなければ、お腹がぺこぺこな現状が解決されることはないのだ。
濡れた宝塔を引き上げ、布で擦る。
ゴシゴシ、ゴシゴシ。
撫でるように軽く擦ってみる。
予想してはいたけれど、墨ではない黒い文字は全く落ちていなかった。
ゴシゴシ、ゴシゴシゴシゴシ。
今度は水につけて力を加えて擦ってみた。
しかし、先ほどと変わりなく文字は消えないばかり。
タワシがあったら、そっちの方がよかっ…………いやいやいやいや。
ゴシゴシゴシゴシゴシゴシ、ゴッ、キュッ、キュッ。
「……消えない」
消えないどころか、薄くなることもないのだった。
そう言えば、一輪は魔法の道具によって書かれたのではないかと言っていた気がする。
となれば、こんなことをしていても何刻経っても消えないのではないだろうか。
「う~ん」
書くものがあるのだから、消すものもあるんだろうけど……。
知識の薄い私では、魔法の道具なんて、まったくもって見当がつかなかった。
消す道具を探しに行くにしろ、それが何なのかわからなければナズーリンは探索自体許してくれないだろう。
何よりも言いに行くこと自体が、
「……怖いしなぁ」
きっと、私を射殺さんばかりに睨みつけてくるに違いない。
…………もうちょっと頑張ってみよ。
あーっと息を吐き出して、作業を再開した。
ゴッシゴシッ。
先程よりも強く宝塔の底を擦る。
冷たいことなんか恐れるものか。
私は毘沙門天代理、寅丸星。
なかなか落ちない文字ごときで屈するとでも思っているのか、この文字めっ。
なにより、ナズの方がよっぽど恐ろしいのだ。
ご飯抜きにされてしまうし、お昼寝も、おやつだって抜きにされてしまうかもしれない。
…………それだけは、避けたいっ。
「ぬぅぅぅぅぅぅぅ」
冷たさで指の感覚が薄れる中、ひたすらに擦り続けた結果、
「……落ちない」
落ちてはいなかった。
「はぁ……、ぬえ、消す道具持ってないのかなぁ」
途方に暮れて深々とため息をついた。
「……なんだってこんなことを……」
一度、手を休めて宝塔を置く。
水に濡れた宝塔は、朝露みたいに光を弾くばかり。
こうして見てる分にはいつもの通りだった。
けれど、朝、いつものように宝塔を手にしたら裏面はこの有様。
昨日の夜どこに置いていたか定かでないため、言い訳すらまともにできない私だった。
「……はぁ、ぬえの奴め」
最近はよくイタズラをされていた。
以前もあったけれど、頻度が増えている。
例えば。
一、服に正体不明の種を仕込ませる。
二、食事に正体不明の種を仕込ませる。
三、道行く私に獣に正体不明の種を仕込ませた獣を向かわせる。
四、…………えっと。
五、……………………あれ?
…………以上。
「少なっ」
そんなに増えていなかった。
それにしても、手口の幅も少な過ぎるものだ。
毎回毎回、引っかかっている私も私なんだけれど。
まあ、なんだ、それにしてみれば、今回は名前を書くというものだったのだ。
だからこそ、イタズラだとしたら単純にしてとても困ったものではある。
……けれど、なんとなく気になった。
イタズラではないのではないか、と、
……名前。
名前か。
そう、名前だからか……。
『星』という文字をじっと見つめてみる。
よく見知った癖のある字。
やはり、ぬえの書いた文字に違いなかった。
見覚えのあるのは当然か。
ずっとずっと前から、目にしてきている。
聖が封印されるよりももっと前。
私がまだ毘沙門天代理としてそんなに時間が経っていない頃から、あったものだから。
ふと、昔々のことを思い出した。
◇ ◆ ◇
「おーい、寅」
早朝。
ひんやりとした部屋の中、身支度を整え終えた私に、いつもの妖怪の呼ぶ声が聞こえてきた。
毎回、障子の向こうで木にぶら下がって、私を呼ぶのだ。
呼び方はいつも『寅』。
確かに名前に寅はあるけれど、略称ではなく妖怪の本質的意味で呼んでいるに違いない。
寅の妖獣、ということなんだろう。
だから、私もコイツのことはこう呼んでやっている。
頭も身体も尻尾もどこもかしこも混ざった妖怪という人の言われから、
「混ぜ者、か」
と。
なんともひねりのない、ぶっきら棒な呼び方だ。
そんなだから、お互いいつまで経ってもどこか落ち着かないような、気を使うようなところが見え隠れしているように思える。
「……はぁ」
思えば、二人の出会い自体最悪だったのかもしれない。
彼女も私もまったくもって反りが合わなかったのだ。
なにかにつけて喧嘩をしていたし、顔を合わせれば喧嘩腰。
意見だって、価値観だって合った例はひとつもなかった。
それで、やはりというかなんというか、結局、大きな揉め事を起こすことになった。
それはもうひどい泥仕合みたいで、二度とあんなことは御免である。
まぁ、落ち着いて、じっくりと腰を据えて話をしてみれば、ああ、なんだコイツも同じようなことを考えていたんだなと、解決したわけなんだけど。
その後は、どこか二人とも納得していた。
喧嘩腰で見るようなこともなくなっていたし。
むしろ、すれ違っていた時間を取り戻す勢いで話しをしたものだ。
現在は気の置けない友人のはず、なのだが。
それでも彼女がよく訪ねてくるようになったのは、ここ最近のことだった。
「お~い、とらぁ~」
「わかった、わかった」
障子を開けてやると、予想通り混ぜ者が木に足を引っ掛けてぶら下がっていた。
「どうかしたのか?」
ちらりと視線を送り問う。
人間の信仰する寺に妖怪がいると知られてはまずい。
殺生まではいかないが妖怪退治と銘打って戦闘をすることもしばしあるのだ。
しかし、彼女はそんなことお構いなしにからからと笑った。
「暇だからね、私は」
「お前という奴は……」
「ん~、ほいっと」
そうして、内心はらはらする私を置いて、するりと部屋へ上がりこんだ。
器用にひとっ飛びし室内へ、畳に足を付く前に空中で停滞してみせる。
今度はあぐらをかいて、ふわふわ揺れはじめた。ゆっくりと傾いてときどき一回転したりもしていた。
「久しぶり~、でもないね」
逆さまになって、混ぜ者は言った。
「昨日も会っただろう」
「う~ん、そうだっけ」
「ここのところ毎日のようにきていると思うけど」
「あ~、そうかも」
私の言葉をはぐらかして、彼女は再び楽しげに笑った。
本当に楽しそうに笑うのだ。
困ったものだと思いながらも、憎めないヤツ。
「ここは、人間が信仰する寺なんだぞ。その、な、妖怪が出入りしていると噂になったら、聖殿とて、平気ではいられないだろうに……」
だから、いまいち強く言えないのだ。
「は~いはい」
そんな歯切れの悪さに悪態をつくこともなく、彼女はくるくる笑っていた。
「……本当にわかっているんだか」
やれやれ、この友人をどうしてやったものだろうか。
考えただけで、大きな大きな息が身体から抜け出ていった。
「それで、何しに来たんだ?」
こうして混ぜ者が来た理由はわかっていた。
いや、理由なんて無いんだろう。
自然に足が向くとでもいうのか。
話をしても意見はいつまでも合わない。
けれど、こうやって他愛もなく話をするのは日常だった。
わかっていながら、尋ねるのもいつものこと。
「別に……なぁんにも。……暇、だったから、ね」
しかし、混ぜ者の返答はいつもと違っていた。
ゆっくりとした動きでいるものの、急にそわそわと、落ち着きのない様子を見せ始めた。
あっちを見たり、そっちを見たり。
これでは一向に話が進まなそうである。
……ふむ、どうしたものか。
「私はこれから仕事なんだが」
「そりゃ……、知ってるけどさ~」
様子を確認するような一言に、彼女は駄々をこねる子供のように声を上げた。
珍しいこともあるものだ。
「…………何か用があって来たのだろうか?」
「ん?あ~、あー、その……」
「?」
いや、もしかすると調子が悪いのだろうか。
まさか悪い物でも拾い食いしたとか。
「……厠なら、外だぞ?」
「ちっ、違っ!!」
すごい勢いで否定されてしまった。
彼女はぷいとそっぽを向いて、
「…………こ、これ」
ポツリと言うと何かを投げてよこした。
「うん?」
私は落としそうになりながらも受けとめ、目を移してみる。
それは簪(かんざし)だった。
耳かき状の棒に丸い玉が差し込まれた玉簪というやつだ。
よく見かける形の物だったが、玉は小ぶりで可愛らしく、とても綺麗な琥珀色をしていた。
本当に琥珀が使われているのかもしれない。
軸の棒は玉を止めるためなのか、玉の下で平たくなった作りをされている。
単純な組み合わせであるが、甘色の玉と銀色の棒はなんとも美しかった。
「これは?」
「……人間を、た、助けるつもりなんかじゃなかったのに、構ってやったら成り行きで……。『命を救ってくれたお礼です』だとか、なんとか言ってさ、うううるさいから……」
そっぽを向いたまま、彼女は早口で告げた。
表情は見て取ることはできなかったが、耳が赤くなってきているのは確かだった。
「……へぇ」
思わず目を丸くしてしまったが、私の表情はすぐに口元が緩む形で変わっていた。
「……なに?」
「いや、お前はお前で変わったなと思って」
「か、変わってなんかないっ、この馬鹿虎っ。わ、私は単純に人間に私という妖怪をだなぁ」
掴みかかる勢いで顔を近づける混ぜ者は迫力がない。
なんだか可笑しいやらほほえましいやらで、彼女の意外な一面が楽しかった。
「照れることじゃないだろう。善い事をしたのだから」
「う、うるさいなぁ!」
「そうやって、変わっていくのもいいだろう、混ぜも」
「うっさいっ!!」
「――――あ痛ぁっ」
ぴちっと音がして、額が弾かれた。
思わぬ痛みと小さな衝撃に頭部が後方に揺れる。
混ぜ者は額を指で弾くようにして叩いたらしい。
先ほどと顔の赤みは変わっていないのに、頬を膨らませて、空中を回転していた。
なにか悪いことを言っただろうか。
ひりひりする額を抑えながら考えるが、彼女が怒っている理由がわからなかった。
頬を膨らませたり戻したりして怒っていた混ぜ者は、宙を緩やかに一回転していく。
姿勢が真っ直ぐになったところで停止。
「ん、でだ、寅」
わずかに姿勢を直して、切り出した。
「これ、どう思う」
「は?」
突然の質問の意図が読み取れず、間の抜けた声が抜け出ていった。
彼女の視線から『これ』とは簪のことだろう。
しかし、それをどう思うと言われても……。
「えっと……」
簪と混ぜ者を交互に見比べる。
「……」
彼女は不安げな瞳でじっと私を見つめるばかり。
何が言いたいのか見当もつかない私は、押され気味に言葉を探していた。
「………………きれいだと、思う」
迷った挙句、率直な意見を述べると、混ぜ者はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、決まり。それ、あげる」
「なっ」
彼女は、さも満足そうに笑うと「にっ」と歯を向けた。
「お、お前が貰った物だろう」
「私はよくわかんなかったから、別にいいんだ」
何を考えているのやら。
屈託のない表情で、惚けてみせるのだ。
「な、何がよくわからないだ。持ち主は大切な物をお前にくれたというのに、そんな簡単にあげるじゃな」
「いいでしょ、別に」
「良くないっ」
「私がいいって言ってるんだ」
「それはそうだが、それでは」
「あ~もう、面倒臭いっ、アンタみたいだって思ったのっ」
「え」
彼女も私もピタリと動きを止めた。
言い争っていた姿勢はそのままに、混ぜ者は「あ」と口をわずかに開けていた。
……混ぜ者は今、なんと言っただろうか。
口から出た言葉を思い返してみる。
「……アンタみたいだって思っ」
「う、うるさいっ」
思わず口から出てしまっていたらしい。
混ぜ者は顔を真っ赤にして私の言葉を遮った。
「……いいでしょ。持っててよ」
「…………わ、わかった」
彼女の我儘に押し切られる形で、結局、簪は私の手元へ。
「……ふん」
そっぽを向きながらも、彼女は確認するように視線を向けていた。
「はじめっから、受け取ってよ……」ごにょごにょとした声が後を引いていた。
驚き半分、彼女の様子に苦笑する。
本当に、ひねくれたヤツだ。
私は簪をまじまじと見やった。
簪は、銀色の棒に琥珀色の玉がついただけの簡単な作りをしたものだ。
しかし、光を反射する棒の様は金でも銀でもない輝きで、甘色の宝石を射止めたように思える。
目を奪われるほど、綺麗だった。
その輝きから、容易に元の持ち主が大切にしていたということが伝わってくる。
本当に私が貰っていい物だろうか。
混ぜ者の方に視線を送ると、彼女はいつの間にか私のことを見据えていた。
「ど、どうかしたか?」
「……ん、やっぱり、寅みたいだと思って」
「は?」
「その簪。貰った時から、なんか見たことあるなぁって思ってたんだけどね」
「わ、私みたい?」
「そう」
あんまり真っ直ぐに見つめてくるものだから、思わず簪へと目を逸らしていた。
似ているとはどういうことなんだろうか。
確かに玉の色はそうだけれど。
髪?いや、目の色ということなのか?
顔を上げれない私には彼女の真意は突き止めれそうにない。
けれど、それはそれで悪い気はしなかった。
「……ありがと、う」
「うん」
彼女は、笑ったんだろう。声だけで満足そうな表情が浮かんだ。
眩い光のような明るい顔。
なんだか気恥ずかしくて、私はよりうつむいてしまった。
下を向くと、手がもにょもにょと動いて簪を波打たせていることに気がついた。
揺れ動く簪。
それは、光を弾いて時にピカッと発光しているようで。
「…………」
「どうかした?」
「あ」
どうやら、ぼんやりとしてしまっていたらしい。
気が付くと、混ぜ者が顔を覗き込んできていた。
くりっとした瞳が私を捉え、また、私もその瞳に魅せられる。
慌てて顔を仰け反らせ距離を取ったけれど、顔がじわりと熱くなった気がした。
「あ、い、いや……、綺麗だったから」
「ふ~ん」
「な、なんだ?」
「いやいや、そんな顔もするんだなと思って」
「うっ」
「い~もの見た」
混ぜものは実に楽しそうに笑った。
「わ、私だって、綺麗だ、美しいだと感じることはいくらでもあるに決まっている」
「わかってるわかってる、寅もちゃんと女の子だもんね~」
「私は毘沙門天様の代理だぞ、そういうものとは関係が、聞いているのか混ぜ者っ」
「いいんだよ~、そんなに無理しなくても」
先ほどと打って変わって相当な悪意が感じられる笑みをしていた。
こうなると彼女の方が強い。
なんと言おうが、難なく切り返されて、私を追い立ていくのだ。
毎回毎回、必死の抵抗虚しく弄ばれ続ける。
何も言わなかったとして、おかしな情報を振りまかれたらたまったものではないわけだし。
「私は無理なんかしていない」
「そうかなぁ、私生活はだらしないところあるし、仕事だって従者のなんだっけ、ナズーリン?がいないと、まともな話し合いでも後れを取りそうだけどなぁ」
「た、確かに、そうかもしれないが、無理していると言う訳では」
「――――ご主人、支度は終わっているだろうか?」
反論しようとしたとき、外からナズーリンの声がした。
がっちり硬い仕事口調に思わず、障子の方を見やる。
いつもより時間が経ってしまっていたらしい。
障子の向こうにはナズーリンの気配が確かにあった。
「ああ、す、すまない、今」
言い終わるより先に、混ぜ者の姿が消えていることに気が付いた。
入ってきた窓もしっかりと閉まっていて、そこに居た者の痕跡は微塵も感じられなかった。
……本当に神出鬼没なヤツだ。
「……今、行く」
彼女が確かにいたことを確認しつつ、貰った玉簪を懐へしまう。
しまっておいても光を放ちそうだなと考えて思わず笑ってしまった。
混ぜ者がくれた物だ。
何か可笑しな仕掛けをしてくれていなければいいけれど、なんて思う。
私はわずかに笑った顔を戻せないまま、宝塔を手にして部屋を後にした。
それから、混ぜ者は時々やって来るものの、いつものように私をからかうばかりだった。
あの日のことは何も言わず、夢だったのではないかと思うほどだ。
妙な仕掛けもなく、本当にただの簪だった。
しかし、これは紛れもなく彼女から貰ったものだ。
信じられないくらい確信があった。
暇さえあれば、琥珀色の簪を取り出しては眺めていた。
小さな玉を通して見る景色は、格別だった。
晴れの日には御仏の光で世界が覆われるように。
曇りの日には薄闇を照らす光のように。
雨の日には光を注ぐように。
夜には星の光が満ちるように。
美しかった。
そして。
何よりも光の玉を貫く銀色。
一筋の眩い閃光のような軌跡が世界の中心に写っていた。
「……きれいだ」
それは本当に綺麗だった。
ぼんやりと眺める。
生憎、今日は雨だ。
さあさあと降る雨。
湿気た匂いが広がっている。
一番綺麗とは言えないけれど。
ほら。
片目を閉じて覗いてみれば、そこは光が降る絶景だった。
「……」
すっと目を開けてしまえば、絶景は元の姿を取り戻してしまうんだろう。
雨。
湿気た匂いに、さあさあと降る、雨だ。
雨だからと言って、何かあるわけでもない。
妖怪が少し動きやすいくらいか。
それに合わせて仏の助けを求める者が現れるのはいつものこととして。
なにかあるわけでも、ない。
こんな日は決まって友人はやってこないだろう。
雷でも呼んで、誰かを困らせているかもしれない。
混ぜ者はそういうことにも長けていたはずだ。
「……まぁ、だからといって、私は仕事をするだけだし」
ポツリと口から言葉が出ていた。
……。
まぁ、言ったとおり、私は仕事をするだけだ。
そろそろ、本堂に戻らなければいけない。
私は玉簪を懐にしまおうとして。
――――やめた。
その前にもう一度、景色を見たくなったのだ。
簪を少し掲げる。
片目ではなく両の目で見上げると、それはぴかっと白く光って稲光を起こしたようにも思えた。
ずずっと、お茶をすする。
熱々の茶柱つきのお茶をナズーリンと二人、縁側でいただいていた。
彼女が入れてくれたお茶は渋くて目が覚めるようだったけれど、心地の良い味だった。
もう一度、短く吸い上げると、じんわりとした熱が再び体内へと落ちていく。
「……はぁ」
手が空いて、ようやくの休憩だった。
日を跨いでも跨いでも、休まらない手足はもう棒のよう。
いや、棒もびっくりするくらいだろうか。
そろそろ鉄になりつつある身体を揉むと、驚くことにまだ石くらいだった。
もっと働けというのか。
今度はお茶を飲まずとも息が出た。
わずかに開いた口から、ふわりと舞い上がっていくのを、そのままの姿勢で眺めていた。透明な呼気の行方を追いかけてみるけれど、どこへ行くのやら見当もつかない。
よし、もう一度。
「ご主人」
「んあ?」
「最近はどうかい?」
口を開いた所で声をかけられたものだから、私は間の抜けた声で返事をしてしまった。
そんなことも気にせず、隣でお茶をふぅふぅ冷ましながら、ナズーリンは問いかけてきた。
彼女は身体の向きを変えることも目配せすることもない。
興味なさそうに、いつもの通り。
しかし、彼女から話を振ってくることは珍しかった。
普段でも仕事中でも、ずっと固い口調の彼女は自発的に話題を振るなんてことは殆ど無い。
嫌われているかと思うほどだったけれど、そうでもないとなんとなく感じていた。
彼女は良い意味で真面目過ぎるのだ。
私はあんぐりと垂れていた顎と折れ曲がった背筋をゆっくりと正して、彼女の方を見た。
「どうと言われても。まぁ、忙しくて何よりというところだろうか」
「それは仕事のことだろう?それ以外でどうかと聞いているのだけど」
「えっ、そ、それ以外って」
今日は雨が降るのだろうか。
こんなことを言う彼女は初めてだった。
初めて会った時も「ナズーリンと言う。よろしく頼む」くらいのものだったし、話すことと言えば仕事のことばかり。
鉄の女というやつは彼女のことなんだろうなぁと思っていたほどなのに。
う~んと悩む私を見かねてか、ナズーリンは口を開いた。
「仕事の合間も少ないのに、よく頑張っていると思って」
お茶を冷ますのを続けながら、彼女はちらりとこちらを見ていた。
小さく丸まっている感じがなんとも可愛らしいなどと口が裂けても言えない。
そんなことを言えば、私は毒舌的な方法で心を抉られるに決まっている。
今度は私が視線をお茶の方へと移していた。
「や、やはり、どう、と言われても、別段なにかあるわけではないよ、ナズーリン」
「そうか……」
「あぁ、そうとも、合間の息抜きといっても、本当に少ないから何をしに行くこともできないだろう?」
「まぁ、そうではあるけど、以前のような怠慢さが無くなっているなと思ってね。行動も落ち着いているし、精神的にも安定しているような気がする。要因と言ったら、その合間しかないと踏んでいたのだけど」
「た、怠慢って」
手厳しいのは相変わらずだった。
けれど、よく見ているんだなぁと、他人事のように思ってしまった。
お茶を飲みながら、盗み見ると、ナズーリンは考えるようにして話を続けた。
「例えば、あの妖怪のことはどうだろう?」
「いっ!?」
危うく口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
堪えてみせたものの、今度は器官の方へと入り込む始末。
ゴホゴホっと大げさに咳たって、胸を叩く。
ヒューッと言う呼吸音になりながら、ようやく彼女に目を向けた。
「ぬえ、と言ったかな。私が来るときにはいつも帰ってしまっているようだけど」
「さ、最近は来てない」
「知っているよ」
「……」
全てお見通しらしい。
どうしてこうも優秀なのかと、呆れてしまうほどだ。
私よりも良い代行になるに違いないのだけど。
「一悶着あった時には心配させられたが、今の関係は良好のようだし、様子を見させてもらっていた」
「そ、そう」
「少しばかり長居されることが問題なだけで、特に気にしていないので大丈夫さ」
「そ、それは、どうも」
「……咎められるかと思って心配だったかい?」
「あ、いや、そ、そんなことないっ。な、長居する混ぜ者が悪いのだ」
「ふ~ん」
汗々する私に、ナズーリンは愉快そうに視線を送ってきていた。
そうして、ようやく冷めたお茶を盗み見るかの如くすすった。
「……ご主人は変わった」
「え?」
「彼女との一件以来、日に日に変わっている。もちろん、良い方向にだよ。私が保証しているんだから」
「……」
私が、変わった?
ナズーリンの言ったことがよくわからなかった。
私は私のまま、今まで通りだ。
変わったのは、混ぜ者の方だろう。
奇想天外にも程があるのだ、アイツは。
残ったお茶を燻らせると茶柱がゆらゆら揺れる。
変哲もない動きなのに、そんなことをさせたことがないのに気がついて、なんだか可笑しかった。
「さて、そろそろ休憩も終わりにしようか、ご主人」
いつの間にかお茶を飲み終えて、ナズーリンは立ち上がった。
私も急いでお茶を飲み干して、……また少しむせた。
彼女は見下ろしながら呆れたように笑って、湯のみを私の手から奪うと長い廊下を歩いていった。
コホコホと咳き込みが続く中、一人残された私は、胸を軽く叩いて落ち着くのを待つ。
次第に薄れるのは、むせた苦しさだけでなく、ナズーリンの質問によって出た汗も一緒のような気がした。
「ふぅ」
少し楽に姿勢を取って、一息ついてみた。
ふわりと呼気が軽やかに舞う中、身体が油の抜けた絡繰のように軋んだ。
疲れはやはりある。
しかし、ナズーリンが言っていたように精神的に疲れてはいなかった。
身体までが軽い感覚だ。
とは言うものの、寺の人間の出入りが世話しなくなってきていることに限界を感じるこの頃ではあった。
毘沙門天として信仰を集める一方、聖に付き添って妖怪の説得に当たる日々も手一杯なのかと思う節もある。
「……ふぅ」
もう一度、息をつくと、呼気は緩やかに落ちていった。
あまりの日程に意識的に息をつくなんて言うのが何十年振りかに思えるほどだった。
ふと、手が懐へ向いていた。
それは、もう習慣だった。
無意識にそれを取り出そうとしていることもあるほどだった。
彼女から貰った簪はいつもそうして持ち歩いている。
……忙しいから、置く暇がないのだ。
好んで持っているかと聞かれれば、まぁ、どちらかと言えばくらいなもので。
決して思いれがどうとかではない。
ただ、懐にしまっているだけのただの簪だ。
「――――あ、あれ?」
慣れた感触が今日はそこになかった。
大きくはないけれど、意識すれば邪魔になりそうな簪が、どこにもない。
「ど、どこへ、やったのかっ……」
袖の中も帯の間も調べるけれど、簪は影も形もなかった。
立ち上がって周囲を見渡す。
足元も少し先の廊下も何も落ちてはいなかった。
私は裸足のまま中庭へ降りると縁側の下、隙間ができている石板の間、はたまたそこから室内を蟻一匹を探すように探っていた。
しかし、簪はどこにもなかった。
「……どうしよう」
思い浮かんだのは、アイツの姿だった。
自由奔放な妖怪。
玉簪の美しさよりもなによりも、真っ先に彼女のことを思い出していた。
『アンタみたいだって思ったのっ』
「……どう、しよう……」
言葉がこぼれ落ちていった。
気が付けば肩だって下がって、全身が脱力しているようだった。
簪が、無い。
そんな…………些細なこと、で。
彼女は決して簪のことを聞かない。
そう思った。
全く興味無い様子で、いつもの調子で話し掛けてくるに違いない。
だから、無くなったからといって彼女は気に止めないのではないか……。
「いや、……いや、私は、何を考えて……」
湧いてくる思いを、ぶんぶんと首を振って追いやる。
浮かぶ息のように掻き消えてくれればいいものを、思ってしまったという事実が消えることはなかった。
どんな顔して話せばいいんだろうか。
「……」
いつもどんな顔をして話しているかも思い出せなかった。
「………探そ」
「ご主人っ」
口に出そうとした言葉は、横から遮られてしまった。
「……あ」
休憩はお終いだった。
余程のことがあったのだろうか、ナズーリンが慌てた様子で駆けつけてきた。
「ご主人、緊急だ。本殿の方へ早く来てくれ、聖はもう向かっている」
妖怪絡みの仕事だろうか。
大きな被害が予測されるといった感じだ。
行かなければ……。
わかっていても……どうしてだろう。
私の足は地面にぴったりとくっついて動こうとしてくれなかった。
「どうかしたかい?」
私の元に辿り着いたナズーリンは首を傾げた。
それは、裸足のまま庭先に立ち尽くしているからか、俯いたまま返事をしないからか。
「……い、いいや、どうも……していないよ」
真っ直ぐに聞き返すナズーリンから私は目を逸らしていた。
行かないと……。
……他でもない、私は毘沙門天様の代理になったんだから。
「ご主人、急いでくれ。先に行っている」
「……わかった、すぐに…………行くよ」
私は、土を払うこともなく縁側に戻ると、先行し始めたナズーリンの小さな後ろ姿をのそのそと追った。
どんどん小さくなっていく彼女の背中を呆然と視覚だけが追っている感覚。
振り返ることなく前に前にと進んでいくことが、とても、とても恐ろしかった。
その場所から、引き剥がされるのに後ろ髪を惹かれないわけがない。
せめて――――。
せめて、心だけでも置いていきたかった。
仕事は途切れることなく続いていた。
一体、今何時で何日なのだろうか。
感覚が無くなってもなお、寺のことも妖怪のことも終わる気配は一向になかった。
「あ~、駄目だ」
宵闇の中、私は畳に座った姿勢から倒れこんだ。
軽く風が起こり、周囲を揺らす。
仕事の山が崩れる心配もしないまま、畳特有の匂いに包まれた。
「こんなにたくさんの、終わるわけないだろう」
机には紙やら巻物やらの山、山、山。
机だけでは収まりきらず、畳の部屋は一面が紙で占拠されていた。
一本立てられた蝋燭の火が本当に心許無い。
どうせなら、いっそ、燃えてくれないだろうか。
「ご主人、どうかしただろうか?」
障子の向こうからナズーリンの声がして、ビクッとした。
思いを読み取られたのだろうか、なんてドキドキしつつも、そのまま声の方を見やる。
「……ご主人?」
恐らく、私の動きと書類が動いた音を察知してのものだったのだろう。
彼女は座ったまま振り返っただけだった。
ほっと胸を撫で下ろす。
小さな愚痴だったとしても、彼女が聞いたなら、喝を入れられかねない。
聞かれていなかったのは幸いだった。
「あ~、いや、なんでもない」
もう少し気を付けるよう心に決めながら、私は姿勢を直さずに言った。
身体はへとへと、書き物を続けていた腕も疲労困憊なのだ。
少しくらいは、このままでいさせてもらおう。
布団もないけれど、寝転がるだけのことが楽園のように思えた。
「……」
障子の向こうで姿勢を直す影が見えた。
ナズーリンはそのまま何も言わなかった。
今はただただ、じっと私のことを監視しているのだろう。
それが彼女の役目、仕事だ。
「……」
少し休んだら、私も仕事に戻ろう。
「…………」
そう思っても、いつまでも起き上がれない私がいた。
あれから、何日が経っただろうか。
目を開けたまま、ぼんやりと天井を見つめる。
先には木目がぼんやりとあるだけ。
眼のようになった模様が私を見ているように思えなくもなかった。
私の何を見るのだろうか。
……あ。
気が付けば、手が懐に伸びていた。
習慣とは恐ろしいものだ。
手は簡単に懐をまさぐるけれど、
「……ない、なぁ」
すぐに先程よりも小さなつぶやきを漏らした。
誰に言うでもないのは、いつものことだ。
毎日のように懐に手をやっては、言葉を漏らしていた。
そうして、無いと知って次に思い浮かぶのは決まって混ぜ者のことだった。
「……どうしよう」
あれから、彼女には会っていない。
人間が多くなったからか、忙しさの空気を読んでか、はたまた知ってか知らずか。
本当に気紛れなやつだ。
いつも勝手にやってきては、去っていく。
それで、またふらりとやってくるのだ。
そういえば、私から彼女に会いに行ったことは一度もなかったな。
忙しいからとか、寺の勤めがあるからとか、神の代理で人間の見方だから、とか…………。
そんな建前を並べる。
会いに行こうと思えば、できたはずなのだ。
例え短くても時間なんていくらでもあったんだから。
ただ。
機を逸したと言おうか。
今更と言おうか。
彼女のあの性格が嫌いだった。
勝手に敵視してくるし、自由で我儘、迷惑をかけて楽しむというどうしようもないやつで。
邪魔をして何が楽しいのだろうか。
一体何がしたいのだろうか。
どうしようもないやつを聖殿はどうして許しているのか。
彼女の居る空間はなんとも面白くなかった。
そうして、疑問だらけでありながら話すこともなく、勝手に思い込んでいた。
コイツは信用ならない、と。
売られた喧嘩に買う喧嘩。
私の態度だって彼女から見れば、同じようなものだったに違いない。
それらの疑問も居心地の悪さも、彼女を知る度に変化していった。
でも、あんな態度をとっていた私がどんな風にして会いに行ったら良いのか。
いつもやってくる彼女に対して、私は答えるばかり。
都合の良いように過ごしていた。
だから、自分から会いに行くなんて考えもなく、一歩踏み出すこともなかった。
「……会いに行ってみるのも面白かったかもしれないな……」
ああ、でも、アイツはどこにいるのかも知らなかったな。
『おい、虎っ!』
よく言われたものだったなぁ。
なんだか、可笑しかった。
けれど、思い出す度にため息が出て、胸につっかえたものがぐりぐりと中から押してくるような感覚があった。
「…………アイツは……なにしてるんだろう」
どこかで人様に迷惑を掛けているのかもしれない。
そうしたら、思いっきり怒ってやれるのに。
でも、アイツは私の行動なんてわかったようにおどけて、飛んでいくに違いない。
捉えどころのない彼女は、本当に自分勝手で、気ままで、あやふやで正体不明。
こうしている今でさえ、わけがわからないまま、私を揺らす。
そう、確かなものといえば、彼女から貰った簪だけだった。
その証さえ、私は……。
…………。
「ぬえ」
…………初めて、彼女の名前を呼んだ。
誰もいない、一人きりだったけれど。
私の口から、微かに浮かされた言葉は直接、耳に溶ける。
鼓膜が捉えた小さな振動は、悪くない響きだった。
短くて覚えやすいし、何より飽きそうにない響き。
混ぜ者なんて煩わしさも、ない。
心をぐりぐりしていたものが少し弱まった気がした。
なんでもないことのはずなのに。
ぼんやりとしていた天井が、今ははっきりと見えた。
木目は縦に広がる。
生き物のように、液体のように、気体のようにぐねぐね。
輪になろうとして、渦巻いて。
それらは、私の視界から次第に滲んで、再びぼんやりとなってしまった。
湧いた液体が風景を滲ませていた。
じわりじわりと、どこからともなく発生するそれは、あっさり目の端からこぼれ落ちていった。
頬を滑って、耳の辺りを伝ってゆっくりと降下していくのを感じて、私は目を閉じた。
「……ごめん」
続いて漏れ出たのは、そんな言葉だった。
たった一人。
独り言、だ。
何もしなかった私。
踏み出せない私。
何者にも委ねる私。
ずっと、責任を押し付けている私が、いる。
彼女は、ぬえは怒るだろうか。
そうなっても仕方ない。
ぬえに伝える言葉は、全部言い訳になってしまうだろうから。
…………怒ってくれたら、どんなにいいだろう。
怒っている彼女のことを想像してみる。
身を乗り出して、薄い眉を吊り上げて、刺すくらいの勢いで指を突き付けて言うんだ。
『この馬鹿虎っ』
『そんなだから、信用できないんだっ』
そうして。
そうして…………。
………………………違う。
それは聞きなれた台詞で、声だったけれど、本当に怒った彼女ではなかった。
あんなに見てきたのに、あんなにぶつかり合った仲なのに、どうしても彼女の怒った姿は形成されなかった。
それどころか、私の想像は一瞬で塗り替わって、いつものように微笑んでみせる。
イタズラに、屈託なく笑う彼女に。
「……どうしてっ」
どうして、そうやって笑うんだ。
今は、その笑顔がひどく私を抉っていた。
本気で怒った彼女は、どんな風に怒るのだろうか。
どうやって、私を叱るのだろうか。
考えても考えても、ぬえは笑っていた。
「…………」
変わらない状況に私は堪らず、目を開けた。
どのくらい経っていたのかしれない。
滲んでいた視界は正常に戻っていた。
それでも、目から耳、首筋のあたりまで、涙が線を引いた後がぴりぴりとして触覚を刺激している。
けれども、やはり見上げる天井に変化はないままだった。
ふと、誰かの手が視界に入った。
掲げるように伸びた手。
……これは、私の手か。
どうして……。
いつの間にか手を掲げるように挙げていた。
物を摘むようにして軽く握り、太陽に、夜空に透かすようにする。
それは、いつも簪を眺めるような仕草だった。
玉になった甘色。
反射してキラキラ見せる不思議な玉。
それを綺麗だと思った。
いや、向こうにある光を綺麗だと思ったのだ。
なによりも眩かったから。
目を奪われて、もっと見ていたいと思っていた。
それは――――今も浮かぶ笑顔のようで。
無くさなければ、直視できただろうか。
探しに行っていれば、取り繕うことができただろうか。
思うことができれば、触れることができただろうか。
もし、なんて後悔が浮かんでは消えていった。
ああ……。
それら全てが、ぬえという存在に繋がっていく。
そうか、私は……。
心をぐりぐりしていたものが、ふわりと軽くなった。
存在を放つそれは、ゆっくりと、飲み込まれるように沈んでいった。
簪を通して…………彼女のことを…見……。
同時に、私の意識も一緒に暗闇に沈んでいった……。
……………。
「あれ?」
目が覚めると、布団の中にいた。
掛けられた分厚い布団が、心地の良い温度で私を包み込んでいる。
「う~ん」
その誘惑の中からは到底抜けられそうにない。
このままでは、また寝てしまいそうだ……。
「……ふりゃっ」
どうにかゴロリと寝返りを打って抵抗を見せてみる。
右を向いて――――左を向いて、と。
「なにやってるんですか」
「うわぁっ!?」
左にはナズーリンがちょこんと正座していた。
少し眉を上げて、訝しそうに見下ろしている。
「あ、いや、これは」
私は急に恥ずかしくなって、慌てて反対に転がった。
熱くなる顔とは裏腹に、頭は氷を入れられたように冷え冷えとしていく。
そうなって、ようやく状況の整理をしようと脳が動き出した。
ここはどこだろうか。
確か私は、遅くまで仕事をしていて、疲れて横になって……それから。
「寝てたので、運びました」
「えっ?」
ナズーリンが答えたのに驚いて、私は再びナズーリンの方へ寝転がった。
むっくりとした塊が向きだけを変える形だろうか。
「……ご主人、いつまでそうしているんです?」
目が合って、彼女は言った。
顔は不機嫌そうで、眼は皿のよう。
けれど、言っただけで、布団を剥ぎ取ろうなんてことはしない様子だった。
「……怒ってる?」
「さて、どう見えます?」
「……ごめんなさ」
「勝手に謝らないでくれますかね」
「……はい」
布団に顔をうずめて、おずおずとナズーリンを見上げる。
やはり、怒った顔をしてるように見える。
じっと、じーっと二つの眼が私を捉えていた。
「……」
やがて彼女は「はぁ」と大きく息を吐き出して表情を緩めた。
「あー、全くご主人は、倒れてしまうとは情けない」
そうして、急に一回り大きな声で喋り始めた。
「過労で倒れる神様なんて初めて耳にしたよ。自己管理もこちらでしなければならないなんて、本当に手のかかることだ」
「あ、あの、ナズーリン?」
「身体も仕事も私が調節しないと駄目なんだな、ご主人は」
「……」
「しかも、未だに目が覚めないときたら、今日は私が代理の代理を務めるしかないじゃあないか。全く、忙しい忙しい。都では正体不明の妖怪が何か探し回っていたとかなんとかだし」
「ナズーリ」
「さて、私は行くとしよう」
ナズーリンは言い終えると立ち上がって、踵を返した。
そのまま襖まで歩を進め、
「――――しっかり休んでくださいね」
静かに言って、室内を後にした。
「……えっと」
お暇を貰ったということなのだろうか。
布団の中でぽつんとしながら、呆然とする私がいた。
一人になると、ぽかぽかという暖かさがより一層強く感じられた。
だんだん眠気が近づいてくる。
「う~ん」
私は再び抵抗するためにゴロゴロ転がった。
ゴロ。
ゴロゴロ。
ゴロゴロゴロ。
ゴロゴロ……。
「何してるんだ?」
「うぉぅっ」
居なかったはずの人物が居て、思わず変な声が出た。
大きく身体が跳ねたものの、布団の重さがそれを小さく見せてくれた、と思う。
「お、おぉ、……ひ、久しぶり」
ナズーリンが正座していたところに、いつの間にかぬえがあぐらをかいて座っていた。
私は平静を装って、なんとか返事をしてみせる。
けれど、そんな様子なんて気にしないで、これまた訝しむような視線を向けて、彼女は言った。
「倒れたとかって聞いたけど、元気そうだね」
「あ、あぁ。実際、倒れていなかったから……」
「あ、そなんだ。な~んだ、弱ってるとこ、来ようとしたのに」
彼女はカラカラと笑った。
「……お前は」
いつもと変わらない屈託のない笑みが、そこにある。
ズキリッとした痛みが走った。
胸を押さえつけるような、鋭くて、鈍い痛み。
思わず、彼女から目を切る。
そうしている自分の行動すら、後ろめたかった。
「……どうかした?」
「…………でもない」
「ん?」
「………………なんでもない」
私は呼吸も忘れて、言葉を紡いでいた。
言わないと。
鼓動がやけに早い。
全身に、脳に酸素は行き渡っているはずだ。
思考は冷えたように良好。
けれど、私は一点を見据えたまま止まっていた。
口を動かすことが、こんなに難しいことだっただろうか。
布団に潜り込んでしまうのは、きっと乱雑に投げ捨てるように簡単にできるはずなのに。
それでも、私は彼女に伝えなければいけない。
長い長い沈黙は、ぬえにしてみれば大したことない、だろう。
私は意を決すると、がばっと布団から身を起こして、やっとの思いで声帯を震わせた。
「なぁ、実は」
「そうそう、これ」
しかし、それは、あっさりと遮られてしまった。
居住まいを直したこともお構いなしだ。
本当に間の悪いヤツ。
ようやく発した言葉を消されたものの、彼女の間の悪さにどこかほっとしている自分がいる。
それは、いつもそうな気がした。
「な、なんだ?」
「これ、落し物」
彼女がひょいと投げてみせる。
物体は宙を舞うと私の膝辺りの布団の上にぽすっと落下した。
「あ」
落し物というそれは、間違いなく玉簪だった。
手に取ってみても、間違えることなくぬえから貰った簪の手触りだった。
どこにでもありそうな装飾の少ない、玉の下が平べったくなった簪。何度も見た黄色の玉が、わずかに光る。
「私があげたものを落とすなんて何事?」
彼女はイタズラそうに言った。
よくよく彼女を見れば、少し髪が焦げているだろうか。服の端も焦げているのか、焼け焦げた臭いが微かにしていた。
それに、あぐらを掻いて膝を押さえる手の下から、ほんの少しだけ擦りむいたような傷が見て取れた。
『都に正体不明の妖怪が――――』
ナズーリンが去り際に言っていたことを思い出した。
「……都」
「ん?」
「……都まで行って、くれたのか?」
「な、ち、違う。私は、遊びに行っただけで、探してなんかない」
「…………」
「なに?」
「…………探して、くれたんだな……」
「あっ……ま、まぁ、そんな、とこ……」
口を滑らしたことに気がついて、彼女は口を塞ぐようにしていた。
「……」
ぬえは、知っていたのか。
「…………ぬえ」
「え?」
自分が恨めしくて仕方なかった。
隠すつもりなんてない、なんて思っていたのに、その実、彼女が知っているとわかれば、この様なんて。
俯く私を、ぬえは静かに待っているようだった。
唇が、重たい。
今まで開いていたことが嘘のよう。
それら全ては自分の意思なのだと、自覚していた。
「……………………ごめん」
静寂を挟んで、私はようやく口を開いた。
「あ、いや、謝らないでよ、そんなつもりじゃなくって……さ」
「……ずっと、探しに行かなかったんだ」
彼女が慌てたように答えてくれたけれど、私は言葉を続けた。
そうしなければ、細い糸のような言葉の綴りはぷつりと切れてしまいそうだったから。
「無くしたことをわかっていても、探しに行かなかったんだ」
「……うん」
「本当は、真っ先に探したかったのに、私は……駄目だな」
弄んでいた簪を私は握りこんだ。
「大切な物を手放しても、しなきゃいけないことなんてなかったのに……」
手に強く力を込める。
掌に伝わる感覚はみるみる強くなっていった。
簪は簡単に折れてしまいそうだ。
それは、大切な物だったはずだ。
大切な、一方的な、絆の。
「……これを持っている……資格はない、な」
私にとって、この場は仮初。
この職務も代理。
ならば、何を躊躇うことがあったのだろうか。
本当に大切だと思うことを置き去りにして、私は何がしたかったのだろうか。
全て放り出して、探せばよかったのに。
「……違うよ」
「――――」
私の思いを読み取ったようにぬえは言った。
「お前は、……しょ、は、全部大切なんだ。大きいとか小さいとか、そんなんじゃなくて、さ。その……抜けたとこっていうか、だらしないとこあるけど、優しいし、責任感も強いから、みんな頼りにしてるし、全部応えようとしてくれる。私みたいだったら、みんなが困っちゃうからさ、代わりなんていないんだから……しょうがないよ」
「……」
「だ、大事にしてくれてたこと、知ってる。毎日、眺めてたの……見てたから」
「…………」
「見てたこと、怒ってるなら、謝るし。……で、でもさ、星が大切にしてくれてたの…………、う、嬉しかった、からさ……」
彼女の口から私の名前が出るのは初めてだったかもしれない。
けれど、そこに喜びは感じなかった。
彼女の思うような存在では、ない。
そう呼んでくれる彼女に誇れるものが私にはなかった。
「だからっ、だからさ、いいんだ。大切に思ってくれてたから。それで、私は充分。……それで、いいんだ」
「……」
「……」
お互い沈黙していた。
お互いに俯いて、目線は膝の上。
お互いが握った掌を捉える感覚。
映るのは握られた手。
私に映るのは小さく丸め込まれた手だった。
それは、矮小な私自身であるようで、どこまでも本質を包み隠して、隠せれなくて、そこにあった。
「……よくないだろう」
私自身を握りこんだのは私だ。
ぬえの前でも、きっと、そうだったに違いない。
私の想いは、建前で隠してしまっていた。
自分が身を委ねたものを盾にして、心も覆ってしまっているのだ。
強く強く、爪が食い込むくらいにして、守るつもりで、傷つく。
そうまでして、私は何がしたいのだろうか。
「よくないだろうっ!!私は、私が、選んだことなのに、それすら、貫く覚悟も、信念もっ、影響されて、簡単に、本当に簡単に、どうすることもできないなんてっ!!」
何を言っているのか、わからなかった。
ただただ、声を張り上げる。
泣く赤子同然、いや、性質の悪いことに自分勝手で、何もしないのに求める。
……私は、どこまでも…………どこまでも、愚かで……。
握り締めた手に力を込める。
その本質ごと握り潰してしまいたかった。
痛みが刺さって、血が滲んだ。
しかし、薄皮を破き、到達するのは少し奥。
数日で回復するような生易しい、傷だ。
到底、壊せそうにない。
更に力を込めて、込めて、込めてみせても、私自身がそうさせてくれない事実がそこにあるだけだった。
「星」
小さく声が聞こえた。
膝の上の私に、二つの手が添えられる。
軽くのしかかるように、包みこむように、置かれた感触。
私より小さなその手は、親指の付け根の骨の無骨さも、少し固い掌の厚みも、ぷくりとした指の柔らかさも、彼女を連想させるものだった。
彼女は私の手をゆっくり、自然に開いてみせて――――しっかりと両手で抱きしめた。
寄りかかるのは、簡単なんだろう。
けれど、こんな私には、寄りかかる資格は無い。
誰かと共有し分かち合って進む先に、私は居続けれない。
信用を勝ち得ようとも、本当の意味で仲間ではないのだ。
信念が……ない。
誰かのためにと、願うほどの心がない。
流されるまま、中途半端に在り続ける。
これはまるで……見せかけ、張り子だ。
他の妖怪たちと山にいても、ここの寺にいても。
変わらない私は、そうとしか言い切れなかった。
彼女の手を返そうと、目を閉じ、
「星」
それを、またしても遮られた。
映る視界は血でわずかに汚れた二人の手。
どんな顔で彼女は私を見ているんだろうか。
諦めるように思った。
だから。
顔を上げたのだって、終わりのつもりで…………。
そこには。
その先には。
微笑むぬえが、いた。
少し泣いているのだろうか。
目尻が光って見えるし、顔は赤みを帯びている。
手を握る彼女は願うような姿勢で、私を見つめていた。
視線が重なると、彼女はお願いが叶った少女のように、口元を綻ばせた。
「いいんだ」
たった一言、ゆったりとした口調に乗せて言った。
握られた手は確かに暖かだった。
掴んでみたいと、思った。
私に触れる確かな存在を。
不思議なことにあれほど強く握っていた手は、思うように動かなかった。
笑ってしまう。
どこまでも、矮小な私。
本当に踏み出す心すら持ち合わせていないとは。
……私の日常は、いつもそうか。
自分自身の意思さえ放り出して、手足を動かすだけの……。
…………そうか。
本質が動かないけれど、末端の手足が動くのならば。
――――抵抗する方法はいくらでもあったんだ。
私は、弱く、本当に弱々しく、痛みで痺れた指で輪を創るようにして、彼女の指に捕まった。
これが、今できる精一杯の一歩だった。
そんな小さなことでも、ぬえは何も言わずに微笑んでくれたのだった。
「……ぬえ」
「うん?」
「私は、本当に至らないから……また無くしてしまうかもしれないぞ。それでも本当に」
「名前」
「名前?」
「そう。無くしてもわかるように、名前、書いといたからさ」
彼女はイタズラそうに笑ってみせた。
二人の手の上に乗る簪。
玉の下のほんの少し広がった部分に、小さく『星』と掘りこまれていることに気が付いた。
こんな小さい字をどうやって書いたのだろうか。
それも結構うまい字だ。
「先に言っとくけど、無くしてくれってわけじゃないからね」
「……うん」
釘を刺された。
こうやって誰かに名前を書かれたのは初めてかもしれない。
私の名前はなんだか、滲んでしまってうまく見えないけれど、こんな小さなことが、とても、とても嬉しかった。
「……なんで、泣く?」
「え……あ」
本当だ。
どうしてかわからなかったけれど、ポロポロと涙が零れていった。
「さぁ、どうしてかな」
「べ、別にいいけど、ね」
「ぬえ」
「ん~?」
「ありがとう」
「……うん」
いつもならば、恥ずかしそうにして行ってしまう彼女。
けれど、今この時は、私の指を解くこともなく、そうして頷いてくれた。
その手を、離さないでいよう。
決して私から離さないように。
今はそう思っていようと、これまた小さく思って、私は泣いたまま笑ってみせた。
私は彼女を変わったと言った。
ナズーリンは私を変わったと言っていた。
一体どちらが、変わったのだろうか。
いや、そんなことはどうでもいいのか。
――――変わりゆく、その先があると知ったのだから。
◇ ◆ ◇
「……どうしてこうなったのか」
過去の思い出も束の間、私は書類の山に囲まれていた。
過去の量を超えるような紙の山だ。
宝塔の名前をなんとか落として戻ったものの、待っていたのは自室でも書類審査だった。
腕組みしたナズーリンが「入れ」と、親指を指すのだから入らないわけにはいかないだろうに。
彼女の怒りはまだまだ収まらなかったらしい。
あまりの書類の量に呆然としてしまいながらも、いそいそと席についた結果がこれである。
すっぽりと収まるように私がいる感じだ。
実際、こうして私より身長の高い紙の山々を見上げる。
もう本当に紙なのかと不思議でしょうがなかった。
呆れた笑みが浮かぶが、それも一瞬。
終わることのない質量はなんとも息苦しく、精神的に圧力をかけてきた。
「……はぁ」
自然とため息をひとつ。
ぐうぅぅぅぅぅっ。
同時に腹の虫がなった。
なんとも切ない現実が展開されていた。
外の陽の光がなんとも恨めしく思えて仕方がない。
それでも、これ以上ナズーリンを刺激しない方がいいのは確かなので、真面目に取り組むとしよう。
「……ふぅ」
部屋を埋め尽くす書類の中、ちっぽけな机で一枚の巻物を開ける。
仰々しく丸まった紙は、なんのことはない。
ただの説明文やらだ。
ちらちらと別の紙に目を向けても、似たような物ばかりである。
目を通せばいいのやら、署名をすればいいのやら、さっぱり要領を得ない物まであるところを見ると、ナズーリンは貯めに貯めた書類を持ちだしてきたらしい。
つまりこれらは、後回しでも良かった物ということか。
必要なものを確実に管理しているあたり、彼女が有能であると改めて認識しなければならないだろう。
……いや、もちろん、いつも思っているよ?ナズ、すごいって。
と、まあ、後に残された書類はこのような形になってしまっているけれど、私がやることと言えば、黙って読んで署名することくらいだった。
更にため息をひとつついて、再び巻物に目を移す。
内容は何度見直しても大したものではない。しかし、待っている人がいるのであればやらなければ。
机に常設された硯から筆を取り、最後の空白に名前を書き込む。
そして一つ横に移し、乾くのを待ちながら次の書類へ。
積まれていた書類の山が少しずつ動き始めた。
本当、ナズーリンはしっかりしている。
途中で気がついたことがあった。
ナズーリンはこれらの書類を適当に扱いながらも、しっかりと分別をして順に並べていてくれたこと。
読む速度と書く速度が昔ほど、早くなくなっていたこと。
そして、障子の向こう。姿こそ見せていないけれど、背を向けてあぐらをかいている人物がいること。
その人物は、すぐに誰か分かった。
朝方の犯人、ぬえだ。
「入ってこないのか?」
「ん~?」
先に声が現れてから、障子に影が投影された。
そいつはゴロンっと仰向けになって、器用に戸を開ける。
指が辛うじて届いているだけなのか開き方はあまりにもゆっくりでぎこちなかった。
「邪魔しちゃ悪いかと思ってさ」
「待っていられても、終わるかわからないぞ」
顔を出したのは、やはりぬえだった。
私は目配せもしないで、彼女を確認して書類へと向かう。
「待ってたわけじゃないんだけどね」
「それにしては、ずっと居たみたいじゃないか」
「あー、そうだったかも」
気の無いように言ってぬえは楽しそうに笑った。
「何が面白いんだか…」
「まさか気が付かれているとは思わなかったから」
「それと、なんの関係があるんだ?」
「こういうのはバレてこそ、面白いのさ」
「……相変わらずわからないやつだな、お前は」
「そうともっ」
掛け声を混じえて、ぬえは文字通り跳ね起きた。
上体がしなるようになって、そのまま勢いに任せて空中へ飛ぶ。
一回転して着地すると、飛んだりするのに役に立ちそうにない赤と青の羽がふわっと余韻を残して身体に続いていた。
彼女は鼻歌でも歌い出しそうな様子で、敷居を踏み鳴らして部屋と侵入し、私の正面であぐらをかいた。
「正体不明が売りなのさ」
「……知っているよ」
ぬえはまた楽しそうに笑った。
私はようやく彼女の様子に目をやると、その笑みにため息をひとつついてやる。
「まったく、お前のお陰で、こんなに仕事ができてしまったんだぞ」
「ん~?」
当の本人は、心当たりがないと首を傾けるばかりだ。
「……宝塔に、私の名前を書いていっただろう。今日」
「あ~、うん、書いた書いた」
「しかも、墨とも違う魔法の類の道具で」
「これ?香霖堂で名前を書くのに適してるとかって、墨もいらないし便利そうだったからさ~。買ってみた」
「買ってみたじゃないだろう?ナズは本気で怒るし、字もなかなか消えなくて手が凍りそうだったんだぞ」
ぬえはどこからともなく黒い棒状のものを取り出して、得意げにしてみせる。
香霖堂で買ったという魔法の筆なんだろう。
側面に『○ッキー』と書かれた、先端がどちらかもわからない怪しげな筆だった。
私の抗議の声も、ぬえは楽しそうに返答をしてきていた。
「あんな所に、置きっぱなしだったから無くさないようにしたんだけどね~」
「置きっぱなっ!?お、お、置いてあっただけで、そういうわけじゃなかったんだが」
「だって、星がお腹出して寝てる横で転がって、挙句には蹴られて」
「――――ああ、わかったわかった。書かれた私が悪いんだ、きっと」
「そうそ、ほっぽりだして寝てる星が悪いんだ」
「……まったく」
息を吐き出して、彼女を見る。
ぬえは相も変わらずにイタズラそうに笑うのだ。
それをじっと見ていると、なんだか可笑しくって。
こんな呆れきった状況も相まって、腹の底から笑いがこみ上げてきた。
「……くくっ」
堪えていたものの、どうにも限界だ。
「――――ぶはっ、くっ、くぁあははははっ!なんなんだ、それは!?」
「っふっ――――!?ほ、ホントなんなのこのお笑いみたいな状態っ、あははははっ」
特に理由もなく、私たちは声を出して笑いあった。
私は背を反らして、彼女は床に伏すようにして、お腹がよじれるまで笑っていた。
「くっ、ふぅく、結局、何が、面白いんだろうね」
「お、お前が、変に笑うから、だろぉう」
本当に意味もなく笑い合っていた。
一しきり笑った後は、よじれた腹部の痛みだけが残っていた。
大きく呼吸をしながら、口元にはいつまでも笑いの余韻がある。
「あ~、久しぶりにこんなに笑った」
「ふふ、私も」
そうして、同じような姿勢をして、息を整えるのだった。
ふと、思った。
こうして笑っていられるのは、彼女のお陰なんだろうと。
あの時、手を握ってくれたから。
長い間、離れてしまったけれど、こうしていられるのは、きっと。
「なぁ、ぬえ」
「うん?」
「……これ、覚えているか?」
「?」
そう言って私は懐から玉簪を取り出した。
輝きは少しくすんでしまっているけれど、あの時のまま甘い色だ。
私は、適当に、乗せるように髪の毛の間に通して見せる。
持ってはいたものの、つけるのは実に数回目の数百年ぶりだった。
本当は通し方すらわかっていないのだ。
ただ眺めているばかりだったから。
それに、
「似合うだろうか?」
「……んにゃ、全然」
「私もそう思う」
似合ってはいないだろうし。
私は落胆もなく、わずかに笑った。
「星に似てるってだけで、星には敵わないね」
ぬえが続けた言葉は、過去の言葉を思い起こさせた。
『アンタみたいだと思ったから』
なんだかこそばゆい。
思わずうつむいてしまった。
「まだ、そんなの持ってたんだ」
「……まぁ」
「なくさなかったんだね」
「……まぁ」
下を向いてしまったため、彼女の表情は知ることが出来なかった。
目を逸らしたら、もう一度見るのが、恥ずかしくてしょうがなかった。
「よくなくさなかったじゃん」
「……お前が、名前を書いてくれたから……な」
「そだっけ?」
「……うん、探さなくてもいいようにだけど」
「あ~、そっか」
そう言って私たちは沈黙した。
気恥ずかしい沈黙。
髪に差したままの簪が妙に強く重く感じられた。
「こ、今回のことだって、そういうことだったんじゃないのか?」
沈黙に耐えかねて、私は噛みそうになりながら言った。
「ん~?」
「宝塔に、名前書いたこと」
「あ~、無くさないようにするには、まぁ、有りかなと思ったんだけど」
「ありがたいけれど、さすがに宝塔に書かれるのは困る」
「うん、わかった」
少し反省したような口調でぬえは答えた。
いつも無くす私が悪いのに、彼女は言う。
「でもさ、わかるようにしておかないとさ。星は無くしちゃダメなものがいっぱいでしょ」
「……昔ほど、無くしてないぞ」
「え~、そうかなぁ」
「そ、それより、ぬえは、どうなんだ?」
「私?」
苦し紛れに言っただけだった。
けれど、ぬえはキョトンとして、腕組みをして考え始めた。
「色々あったんだし、何かあるだろ?それこそ、名前書く道具まで買ったんだし……自分の物に書かなくていいのか」
「う~ん、私は……」
少ししてぬえは言った。
「―――私には、特に無くしちゃダメなものなんてないから大丈夫かな」
ずいぶんと明るい声に私は顔を上げた。
そこには、おどけたでも沈んだでもない表情をしたぬえがいた。
本気で言って、笑っていた。
何もないから大丈夫なんて、彼女らしい。
そうして呆れるくらいに彼女は笑う。
笑う彼女に私は、心底呆れてしまった。
――――まったく。
私は手元を確認して、筆を取った。
「どうかした?」
私が反応を示さなかったことが不思議だったのだろうか。
ぬえは前のめりになって、私の動きを追った。
筆が、硯から離れ、宙へ。
「星、紙は横だけど」
ぬえがつぶやくのも聞かずに私は筆を動かした。
『しょう』
ぬえの左の頬に。
私はさっと、繋がったような字で書き上げた。
墨が冷たかったためか、ぬえは身を引いたものの書き上がる方が早かった。
「な、なにっ?なんて書いた!?」
ペタペタと頬を触って、ぬえが抗議の声を上げる。
墨が移って、手も真っ黒、頬の字もぶれてしまった。
正月でもないのに、墨でべったりになる様子に私は笑った。
「名前」
「なまえ?」
ぬえの手が止まった。
「私の名前を書いた」
「な、なんで!?」
「無くしては困る者、だからかな」
「よ、よくわかんない……」
「私は、ぬえがいなくなっては困ると思っているよ」
「……なにそれ」
「これで、どこかに行っても大丈夫だろう?そうしないと」
自分自身まで無くしても笑っていそうだから。
彼女が笑ったとき、そう思ってしまった。
無くしたくないと、そう思った。
何百年と離れていて、そう思っていた。
ぬえがなんと言おうと、私には彼女が必要だ。
こんな馬鹿なやり取りができるのは彼女だけだから。
だから、書こうと思った。
彼女が無くしてしまっても、私が無くさないようにするために。
私は本当に至らないから、また全部無くしてしまうかもしれないけれど、彼女を見つけることができるように。
「正体不明でも私には見抜けるな」
私はもう一度笑ってやった。
彼女が呆れるくらいに笑おう。
何も言い返せないくらいにしてやるんだ。
案の定、ぬえはうつむいて顔を赤くしていた。
頬から浮かしたままだった手を、膝に落とし、きゅっと結ぶ。
恥ずかしさに耐える表情を連想して、私は更に笑った。
「―――っさい!この虎っ!!」
耐えかねて、ぬえは顔を上げた。
真っ赤な顔に少し涙が滲んでいるように思える。
あまりに恥ずかしかったのだろうか、それとも。
「ふ、古い物なんか持ちだしてっ、言うことが恥ずかしいんだよ!」
べぇっと舌を出して立ち上がると、大股で歩く。
勢いよく障子を開け放ったあと、思い出したように振り向いて、
「べぇ~だ」
もう一度舌を出して見せた。
そのまま飛び立つといつものようにどこへともなく行ってしまった。
「……」
ぬえがいなくなると室内は急速に静けさを取り戻した。
残ったのは一向に進んでいない書類の山と、私だけ。
昔のような光景が広がっていた。
違うのは場所と時間と、心だろうか。
考えてみて、自分に呆れてしまった。
なんとも目出度い頭になったものだなぁ。
私は大きなため息を吐き出したけれど、緩んだ口元は元に戻ろうとはしてくれなかった。
「さて、仕事仕事」
切り替えて私は書類へと向き直った。
これ以上放置していては確実にナズーリンに叱られてしまう。
ご飯抜きを敢行させられてしまうかもしれない。
それは勘弁願いたいので、まじめに取り組もう。
抜け落ちそうな玉の簪はもう少しそのままに、私はせっせと手を動かし始めた。
翌日。
「おはよーございまーすっ!!!」
鶏が鳴くよりも早く、地鳴りのするような大きな声で寺は目を覚ました。
鳥たちが一斉に飛び去っていく羽音で私も叩き起こされる。
「……」
机に突っ伏して寝てしまっていたらしい。
ぼやけた視界の中、目についたのは机に残った一枚の書類だった。
頬をついて寝ていたせいか、少し皺ができてしまっている。
……どうにか、よだれはかかっていないようだ。
「……これで、終わりだったのに」
寝ぼけたままで、昨日のことを振り返ってみる。
ぬえが去ってから、黙々と書類整理を進めた。
書類の山は減っていったものの、底である畳が見えるまで相当な時間がかかってしまっていた。
なんとか半分減った頃に一輪が夕飯を持ってきてくれて、再び缶詰状態で……。
そうして、蝋燭も短くなった頃、「最後っ」と書類を手に取ったところまでは記憶があるのだけれど。
私はもう一度、最後の一枚を見やった。
あー、そうそう、確かこんな内容だった気がする。
あまりにうろ覚えであった。
労働を超えた業務内容に、心身ともに後一歩届かなかったらしい。
結構な苦行だったと本当に思ってしまう。
一人で書類をこなすのは、半年は遠慮願いたいところだ。
「……よしっ」
残るはこれだけなのだから、すぐに済ませてしまおう。
向き直ろうと、姿勢を正した所で身体が思ったよりも硬くなっていることに気がついた。
どこもかしこも、はまりきらない節のよう。
全体がすっきりしないのだ。
「う~ん」
私は大きく伸びをして固まった身体引き伸ばした。
高く上に伸びる腕も、少し反らした首も、垂直になる背中も一斉に小気味のいい音を鳴らしていく。
パキという破裂音とは裏腹に、関節は元に戻っていくようだ。
音が鳴らなくなるまで軽い痛みに耐えていると、最後には欠伸が出た。
それは関節の音なんかよりも大きな長い欠伸だった。
顎が垂れて、涙が滲む。
同時に全身に酸素が行き渡り、寒々するように頭が冴えてきた。
欠伸が切れるころには、すっかり目が覚めているほどだった。
涙目のまま、周りの状況に耳をすませてみる。
遠くからは未だに響子の挨拶や経文が響いて騒がしく、他の音を妨害していた。
けれど、そんな中、私の耳ははっきりとある音を捕らえた。
室内から伝わってくるトントンッという軽快な音とクツクツと湧き立つわずかな音を。
鼻を効かせてみれば、味噌汁の良い香りが漂ってきていた。
赤だしの味噌汁だろうか。
ほんのり香ばしい香りが脳を刺激していく。
思えば、昨日の夕食はおにぎり三つにたくあん二切れが笹に乗せられていただけだった。
一輪が持ってきてくれていなければ、「旅にでも出すつもりかっ」と思わず突っ込んでいたことだろう。
持ってくるだけ持ってきて去っていく一輪を恨めしく思いながら、一人、蝋燭の明かりを頼りにかじるおにぎりの冷たいことと言ったら。
それはもう、しょっぱくて涙がチョチョ切れんばかりだった。
だからこそ、今、漂ってくる味噌汁の香りは紛れもない出来立ての温かな食事を期待させる。
朝食に思いを馳せていると、ぐぅっとお腹がなった。
……こうしてはいられない。
パッと目を開いて、机に向き直った。
最後の一枚。
本当に最後になった一枚の紙切れを、憎き敵のように睨みつける。
心もとなく取り残された用紙は、風前の灯、舞い散る一葉のようである。
これで終わりだ。
腕まくりをしつつ、筆を走らせる。
空欄にこれでもかと言うくらいの勢い余った名前を記す。
最後の一筆は止まることなく、びしっと飛んで浮かび上がると、一滴の墨を机に飛散させていった。
「よしっ」
そうして墨が乾くのを待たずに、書類の山の頂上に乗せて全てが終了した。
机に残ったのは硯と筆だけ。
「はぁ~」
どこか清々しい気分の息が流れでていった。
本来ならば余韻に浸って、更に息を付いているところだ。
しかし、私は直ぐ様、立ち上がった。
……もう、限界だ。
朝食の誘惑によって、理性は限界を超えようとしていた。
指を咥えて待っているなんてできそうにない。
もし余裕があったとしたら、威厳満々、座禅でも組んでナズが呼んでくれるのを待っているところだ。
けれど、この現状では、いつ呼んでくれるかわからないのだ。
待っているだけでは何も始まらないと、偉い方は言っていた気がする。
それに、仕事の後の食事はいつだって美味しいのだ。
腹の虫も「ぐぅぅぅぅぅぅぅぅ」と鳴いて賛成の意を示してくれた。
急いで行こう……走らないようにして。
私は、最低限の節度を残しつつ、一歩、足を踏み出した。
「…………?」
しかし、その一歩に違和感があった。
ジンとした痛みともとれる感覚と、足が浮いたような地に着かない感覚があるのだ。
わずかに力を込めてみると、痛みが足全体に広がるのがわかる。
……これは、一体?
思ったとたんに弱電流が両足を走り抜けた。
「くっ、くぉぅっ…」
一瞬にして、膝が落ちた。
勢い良く畳についた膝が、同じような勢いで脳天まで痛みを響かせる。
「――――つっぁぁ」
声にならない悲鳴と目がチカチカとする中、この感覚をようやく思い出した。
過去、座禅の度に何度も味わったことのあるものだ。
立ち上がることはできるが、動きを制限される、これは……。
そう、痺れだ。
考えても見れば、座って寝ていたのだから、こうなっても不思議ではなかった。
けれど、足が痺れるなんてもう何百年も無い事で、すっかり忘れていたのである。
膝をついた姿勢のまま、足を掴んで唇を噛んだ。
こんなことで止まっているわけにはいかない、そうだろう?
私は言い聞かせるようにして、立ち上がった。
いつもは何時間という座禅をこなしてきている私だ、こんなことくらいなんともない。
治るのを待てばいいものを、半ば呆れるが、そうも言っていられなかった。
なんといっても、温かい朝食と団欒が待っているのだ。
「ぬぐぐぐぐぅ」
一歩、一歩と足にビーンと痛みが走る。
足首の角度を変えることもできない状態でカクカクした動きだった。
まるで、痛みを確認しながら歩いているようである。
障子を開け、壁を伝いヘコヘコと歩き続けるが、痺れは一向に取れない。
それは異変か魔法か呪いのように思えてしょうがなかった。
足の痺れが取れない異変……。
いや、考えるのはやめておこう。
誰も彼もヘコヘコと歩いている姿の想像を一瞬で捨てる。
脳内は再び、朝食の想像でいっぱいになった。
居間に近づくにつれて、味噌汁の香りが濃くなり、想像をより一層高ぶらせてくれる。
キラキラ輝く白いご飯に、香り高い湯気の立つ味噌汁、鈍く光る黒豆、金に色づいたタレのかかった胡麻豆腐…………。
そのどれもが魔力が込められたように私を魅了していた。
「――――あとぉ、ちょっとぉ」
変な声を漏らしながら、私はようやく居間へと辿り着いた。
ほっとした途端に、
ぐううううううぅぅぅぅ。
盛大にお腹が鳴った。
「…………」
他の誰からでもわかる大きな音に、急に今までしてきたことが恥ずかしくなった。
気が付けば、足の痺れも取れてしまっている。
あんなに必死に何をしていたのだろうか。
誰にも見られていなかったのが、唯一の救いだった。
私は姿勢を正すと、咳払いを一つついて、襖を開けた。
「……おはようございます」
顔が赤くなっていなければいいけれど。
変な心配を他所に、居間に人の姿はなかった。
数人がすっぽり収まる居間の中央にチャブ台が置かれているだけ。
チャブ台の上には箸と湯のみが並べられている。
視線を巡らせれば、台所へと続く引き戸は開け放たれ、いつもの面々の声が聞こえてきていた。
ちょうど朝食を運んでくるところなんだろう。
私も手伝いに行こうと居間に足を踏み入れると、
「あ、星、おはよう」
「あら、おはようございます」
「ああ、おはよう」
「ご主人、おはようございます」
台所の方から村紗、聖、一輪、ナズーリンが縦に並んで顔を出した。
ぬえが遅いのはいつものこととして、今日は私が最後だったらしい。
そういえば、いつもより長く寝てしまっていた気がする。
まぁ、働いた時間はいつもの倍以上あった気がするけれど。
「おはよう。遅くなってしまってすまない」
一言かけて歩を進めた。
そこへナズーリンが汁椀を乗せたお盆を持ってチャブ台にやってきた。
「おはようございます、ご主人」
「ああ、おはよう、ナズーリン」
彼女はそのまま汁椀を並べながら、ちらりと私の方を見やった。
「……あ、あの、昨日は、申し訳無いことを」
「うん?」
「その……、宝塔のことで……」
「あ、あぁ、いや、書かれた私も気が抜けていたことだし、た、大変ではあったけれど、別に気にしてはいないよ」
良かった、もう怒ってはいないようだ。
自然と安堵の息が漏れた。
「――――お~い、ナズーリン、すまないがこれも頼む」
「あっ、すぐ行くよ」
台所の方から一輪に呼ばれて、ナズーリンは立ち上がった。
「……ご主人?」
立ち上がって、彼女はピタリと停止した。
私の顔を横から覗き込むようにして、視線を向けてくる。
「な、なんだろうか?」
目を細くするナズーリンの表情はなんとも仏頂面だった。
怒られるのではないかと、半身を引きながら聞き返したけれど、彼女は思いも寄らないことを言った。
「顔に……何か書いてありますけど」
じ~っとした視線が私の頬に集まっていた。
「……え?」
「左の頬に……、え~っと、なんですか『ぬえ』とありますけど」
「……?」
細められた視線の先、左の頬に手をやってみる。
何の感触も移りつくものもない。
私の肌は至って普通のようだけど。
何を言っているのだろうか。
疑問符を浮かべたままでいると、一輪が手に茶碗を持ってやってきた。
「どうした、ナズーリン。お盆を持ってきてもらわないと一度に食事が運べな」
続いて、一輪が動きを止めた。
ナズーリンと同じように目を細めて、私の頬をじーっと見つめる。
……本当に何かあるのだろうか。
「……星、今度は顔に『ぬえ』書かれているようだけど、落ちるのだろうか?」
しみじみとした口調で一輪が口を開いた。
「…………あ」
二人が同じように言って、私はようやく思い出した。
昨日、ぬえが得意そうにして持っていた筆のことを。
宝塔に名前を書くのに使われたあの『マッ○ー』というもの、あれは墨を用いない魔法の道具。
色移りしない、なかなか消えないものだったはずだ。
「……ひょっとして、書いてある?」
「ええ、はっきり『ぬえ』と」
二人が首を立てに振った。
その動作がとてつもなく大きく感じられた。
「――――ま、まさかっ、そんなっ!?」
私は愕然とした。
二人が言っていることが本当だとすれば、今、私の顔には『ぬえ』とはっきり書かれていることになる。
こんなのを他の者に見られ――――。
「どったの、みんな」
「星がどうかしたのですか?」
「うぁ」
頭を抱えるよりも早く、村紗と聖が顔を覗かせた。
二人は私の顔を確認すると、すぐさま動きを止め、疑問と驚きを表したような表情で固まっていた。
み、みみ、見られてしまっ……た。
驚いた顔をした村紗だったが、すぐににやぁっと口元を歪めた。
そして、とてもとても楽しそうに疑問を投げかけた。
「なになに、星。なんで、『ぬえ』なんて書いてあるの?」
「ち、違っ、こ、これはっその」
左の頬を隠しつつ、身を引いたけれど狭い室内では逃れることはできないようだ。
私一人では、この現状を切り抜けられない。
村紗を止めてくれっと、聖に視線を向けたものの、
「ぬえが書いていったのでしょうか?」
一方の聖は、いつもの様子で大層不思議そうに首を傾げているだけだった。
純粋に疑問を持つ彼女の後ろから、村紗の相当の悪意が見え隠れしていた。
「どどど、どうしてこんなことになっているのか、わ私も知らな」
「あ、簪まで刺してお洒落してるし」
「えっ、あっ!!」
しまった、昨日ずっと付けたまま仕事を続けていたんだっけ。
慌てて簪も隠したものの、もはや後の祭り。
ああ、もう。
なんで大事なことはいつも忘れるのかと、後悔の念が溢れ出した。
そんな私を村紗はにやにやとした顔つきで、捉えていた。
「……ひ、聖、これはですね」
いつまでも、疑問符を浮かべている聖に直接助けを求めよう。
彼女ならば、なんとかこの事態を……。
「そう言えば、昨日はぬえの左頬に『しょう』と書いてあったような気がしたけれど」
収拾、できそうにない。
ぬえに繋がることを思い出したのだろうけど、それは最悪だった。
村紗はその言葉を逃さずに拾うと、聖に向き直る。
また私の前に立っていた一輪もナズーリンも同様に聖に視線を向けた。
「そうなの?」
「ちらっと見ただけだから、はっきりとは覚えていませんが。星が仕事をしていた方から、真っ赤な顔をして飛んでいったところを見たわ」
……しかも、どうしてそういう時は、目立つように行動を起こすんだ、アイツは。
「そ、それは見間違いじゃないだろうか、聖」
「ああ、私は、井戸の所でぬえを見たな。顔を赤くして顔を洗っていたので聞いてみたら、『星に変なことされた~』と言っていたけど」
「え゛っ」
聖の言葉をやんわり弁解しようとすると、今度は一輪が思い出したように口を開いた。
「へぇ~」
「い、いや、私は、な何も…」
わざとやっているんだろうか、アレは。
狼狽する中、視線を巡らすと村紗は完全に楽しそうに私を見ていた。
一つ下からはナズーリンのじっとりとした視線を感じるし。
「ご主人……仕事中に……」
「こ、これは、ぬえのイタ、イタズラで」
「なに、なんか呼んだ?」
「―――お前は、タイミングが悪いっ!」
「ああん?」
挙句、最後には張本人のぬえがやってきた。
彼女は悪びれるでも楽しがるでもない様子で、惨状の真っ只中へ。
全員の視線が集まったのは言うまでもない。
この真相を知るのはぬえに他ならないのだ。
「ぬえ、どうしてお前はこういうイタズラをっ」
だからこそ、私はぬえが口を開く前に慌てて掴みかかった。
この場でなんの気もなく「書いたよ。昨日、書かれたから」とか言われたら変なイタズラよりもイタズラらしくなってしまう。
そうなる前にうまいことはぐらかさなければ、村紗の格好の餌食、そしてナズーリンからは昨日よりも過酷な労働を招く恐れが―――。
「昨日のアレは……イタズラ……だったの……?」
「―――っ」
私の掴まれたぬえは、くねっと身体をよじって恥ずかしそうに俯いた。
今までに見せたことのない被害者女性の様相に、後方の視線が今度は私に集まるのを感じる。
掴んでいた手が、じわじわと汗ばんでくるのが意識しなくてもわかった。
こ、こ、ここで……うまいこと、はぐらかさ……なけれ……ば…………。
心の中で必死に抵抗をしてみせようと試みた結果、
「い、いいぃぃや、……ちっ、ちが、わ……ない……です」
否定で返すことができない私は、がっくりと頭を垂らすだけだった。
拷問的。
なんとも拷問的な状況だった。
間髪を入れずに村紗とナズーリンの目が光った。
「聞きました、聖さん、寅丸さんたら仕事中で人が来ないことをいいことに……」
「え、どういうことですか?」
「そりゃ、二人っきりで、ねぇ」
後ろでヒソヒソと話しを展開する村紗。
いやいや、確実に聞こえるように話をしている。
一輪も混ざって、うんうんと頷いているのはなんともならないものか。
それよりもなによりも、下からものすごい怒気を感じるんだけれど……。
恐る恐る、下方へ目をやると。
「ご・主・人。昨日は夜遅くまで頑張っていると思ったら、そういうことだったのだろうか?」
ああ、毘沙門天様がここにもおられました。
「ち、違うっ、そうじゃないっ、これは、そのぅ」
「……やっぱり、違うんだね、星……」
言い訳をするよりも早く、ぬえは目に涙を貯めて泣き出しそうな表情をした。
広くない居間で、私一人、前後至近距離で板挟みにされていた。
「――――だから、人が来ないのを利用して、ぬえを呼んで、あ~んなことや、こ~んなことを」
「え、なな、星がそんなことを?」
「まぁ、仕方ないな。理不尽な怒りをぶつけずに発散するとなると……」
おいっ、後ろっ、後ろの方々は話を盛り上げるんじゃないっ。
本当に、まずい状況になりかねな、
「――――ご主人」
「ひっ、は、はいっ」
と、とにかく、ナズを止めなければ。
説得を試みようとナズーリンを真正面に捉える。
「ナズ、待て、これは、ぬえが私をはめようと」
身振り手振りを加えれば、きっとわかってもらえるはず、だ。
「だ、だから、これはぬえが寝ているときにしただけのことで、仕事の時は別になにもしてなくって……」
バタバタと落ち着かない私を、ナズーリンは死んだ魚の目で眺めているようだった。
ど、どうしたら。
そ、そうだっ。
ぬえに全て吐いてもらえばいいん――――。
「―――昨日のお返し」
「なっ」
極小の声が私のひらめきを瞬時に消し去った。
声の主はもちろん、ぬえだ。
ちらりと見てみれば、昨日の去り際のように、べぇっと舌を出している彼女がそこにいた。
私以外の誰にも見えない絶妙な角度。
それを知って、私にまざまざと晒しているのだ。
「くっ、ぬ、ぬえぇぇぇっ」
全部わかってやっているに違いない。
なんてヤツだろうか。
ぐっと手に力を込めようとした瞬間、それよりも強い力で肩を握りしめられた。
「あ……」
そ、うだ、気が動転していた。
今はぬえを懲らしめようなんて、場合では……ない。
こ、こ、この毘沙門天様の力を彷彿とさせるような力量でもって私の肩を掴むのはただ一人しか、いない。
ゆっくりと振り返った私を待っていたのは、微笑を浮かべるナズーリンその人だった。
ニコニコとした表情なのに威光ともとれる怒気が、発せられているのは気のせいではないだろう。
ゆっくり…………ゆっくりと彼女の口元が……裂けた。
「ご主人は、コマネズミのように働きたいと言っておられるようだ」
たったそれだけ。
ただ単に仕事口調で言うそれだけで、私の心臓は死なない程度ギリギリで握りしめられている感覚に陥っていた。
「ぁ、あ、あの、ね、ナズ……?」
「何かな、ご主人?」
にこり。
あ、もう……ダメっぽい……。
満面の笑みの裏側でナズーリンは静かに心臓を握ったようだった。
呼吸もままならないのに、手足が震えているのだけがはっきりとわかる。
だんだん視界も滲んできた。
けれど、諦めたらそこで終わりだ。
「ナ、ナナナ、ナズウリィンさん、おお落ち、落つ着いてはなすあいまし」
ナズーリンの瞳がカッと見開かれ。
「す・み・や・か・にっ、自室で待機っ!!私が行くまでに、額が擦れるまで土下座っ!!!毘沙門天様に最高最上位の敬意と煉獄的反省をしていなさいっっ!!!!」
恐ろしい声色と、目が眩むほどの怒気の暴風が私を射ぬくように流れた。
「っい!!」
避けようのない威光を前に私はその場から飛ぶように、いや、光のように駆け出していた。
何かを考える間もなく、一心不乱に突き進みながら、
「――――――ぬえのばかぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁっ!!!?」
口から出たのは、そんな情けない声だった。
命蓮寺の早朝。
私の悲鳴は、尾を持ってどこまでも、どこまでも反響していった。
終
星とぬえ、異色の組み合わせでしたが、きちっと二人のやり取りが書かれているため、自然になじんできたように感じます。いじらしいぬえがとても可愛らしい。
ただ、やっぱりちょっと長め、かな。回想部分が中心部分であり、それだけできちんとまとまった内容になっている分、そこを読み切っただけで満足してしまったこともあり、それ以降が蛇足気味に感じてしまった。スクロールバーを全く意識してなかったこともあり、「あとはエピローグだな」と思っていたのに、読んでいて以外にボリュームがあってちょっとだれてしまった。もちろん、ラストの星とぬえのやり取りも好きでしたけどね。
ただ、長い割に起承転結の構成が間延びしていた気がするので、そこが改善されればもっと良い出来になると思います。