「本当は、不安で仕方ないのかもしれないわね。私」
純狐のそんな言葉を聞いたとき、ヘカーティアは自分の持っていた彼女のイメージに、一筋のヒビが入ったのを認めざるを得なかった。そしてそれは同時に、純狐に対する自分の興味をより惹かせる要素になったということも、ヘカーティアは自覚していた。
知り合ってそんなに時間は経っていなかったが、ヘカーティアの純狐に対するイメージは、その性質通りの毅然とした純たる神霊で固まりつつあった。宿敵である嫦娥への怨みを前面に押し出して退かない、その意志の強さが如何ほどかを、ヘカーティアはこれまでの純狐の姿勢から見出していた。だから純狐はそういう神霊なのだと、ヘカーティアはもはや当然のように受け止め、理解していたつもりだったのだ。純狐は自分の存在すらも、純粋として規定しているのだと。
それが何のきっかけか、突然自分の知らぬ一面を彼女の方からさらけ出したのだ。それは今までの純狐には感じられなかった、人間性を持った者らしい一面だった。完全に純ではない、揺らぎを認める純狐のその言葉は、これまでの彼女のイメージには似つかわしくないものだったが、ヘカーティアにはそれもむしろ魅力的に見えていた。初めて純狐に会って、嫦娥への怨みで意気投合した時とは全く別の、しかしそれ以上の胸の高鳴りを、ヘカーティアは感じずにはいられなくなっていた。
二人は表の月が見える異界と顕界の縁に腰掛けていた。生命を全く感じさせない、穢れのない月の闇が二人の足元に広がっている。その静かさを前にしながら「へぇ。あなたにもそういう面があったなんてね」とヘカーティアは茶化すように呟いていた。冗談交じりだが、半分は本気だ。正直、純狐が弱音とも取れそうな意思表示をすること自体が、ヘカーティアには驚きだった。すると隣に座る純狐は寂しげな微笑を浮かべて、まるで甘えてくるかのようにヘカーティアを見つめてきたのだ。その笑みがヘカーティアの胸をときめかせて、彼女を一層純狐の虜にしていった。
「嫦娥に対する怒りと憎しみが、今の私を形作っている。その想い自体が、私そのものだと言っていい。それ無くして、私は私で有り得ない」
「私も、あなたはそういう奴だって、今まで思ってきたわ。違うの?」
「違わない。私はこのまま、私であり続けるでしょう。それしかないのですから」
「そうよねぇ。でも、そういう在り方が不安になった?」
ヘカーティアの言葉に、純狐は目を伏せて「半分、正解でしょうね」と曖昧に頷いていた。
ヘカーティアは自身の首から伸びる鎖を弄びつつ、純狐の一挙一動を視線に捉えて離さなかった。漆黒と紅の下地に金の刺繍が施された冕冠と旗袍、それらに身を包んだ純狐は煌びやかだ。格調高いその出立ちは、見る者に威厳と威圧を与えるものであったが、今は却って純狐の揺らぎを引き立ててしまっている。
それがヘカーティアには堪らない。格式ばった固い装飾と服装の中に、どこか疲れた表情を見せる純狐には、ある種のしどけなさすら感じられるのだ。ヘカーティアは思わず横から腕を伸ばして純狐を引き寄せ、その身体を抱きしめていた。
「きゃっ、ちょっとヘカーティア……どうしたの」
「それはこっちのセリフよ純狐。あぁ、もう純狐、あなたこそどうしちゃったのよん。あなたを見ていると私、たまらないわ」
「ヘカーティア……」
「ねぇ、聞かせて? 今日のあなたは、いつもと違うわ。だから私は知りたいのよ。あなたがこうなっている理由、私は興味あるわ」
ヘカーティアは歌う様に口ずさみながら、純狐の身体に触れていた。頬に掌を添え、割れ物に触れる様に、優しく指先を首筋へ這わせていく。そうしないと今の純狐は壊れかねないと、ヘカーティアは本気で思っていた。純狐の肌を通して得た実感だった。同時に、そうやって割れ物に触れるようにしている事実が、ヘカーティアの庇護欲と支配欲をかき立て、どうしようもなく心を震わせているのだ。ヘカーティアは、純狐がこの先どのような一面を見せてくれるか、楽しみで仕方がなかった。
ヘカーティアの愛撫を、純狐はそのままに受け入れていた。ヘカーティアの気の済むように為すがままにされていることは、彼女にとって不満ではないらしかった。やがて純狐はふっと小さく息を吐くと、ぽつぽつと語りだした。
「私の純化する能力、分かる? その力は、私の怨みをも純化していった」
「えぇ。あなたに聞かせてもらったのよね。それが純狐の存在意義でもある」
「そう。感情は、想いは、形の見えない不定のもの。手に取って示せるものではない。でもそれらが純化していくと、感情は雲のような形をとって具現化するのです。まるで綿のように……そこから一本の細い糸が紡がれていくのです。
それは私だけに見える世界。糸は、方向性を持った線……一本の道筋となって、ある一つの場所へと向かっていく」
「それは何処に?」
「無よ」
こぽり、と常闇の中にヘカーティアは音を聞いた。純狐の瞳の輝きが、陰っていく。
「喜びも、怒りも、哀しみも……極限まで純化しきった先に行き着くのは、全て同じ場所なのです」
ヘカーティアはさっきの音が、純狐の中からしたのだと気付いた。泡が切なく弾けるように聞こえた、あれは純狐の存在が薄らぐ音だったのだ。
あぁ、とヘカーティアは溜息を吐いた。こうも詩的で、センチな一面を見せる純狐のことを、ヘカーティアは察していた。
戦いののちに捕らえられた虜囚に対する、月の都の賢者のやり方を聞いたことがある。賢者たちは陰湿で、死にかけの者に嗜虐することを厭わない。特に怨みの深い者は、散々に責め苦を負わされた挙句、狭く小さな檻に閉じ込められ、賢者たちから懇々と説教をされるのだという。賢者たちの言葉は力強く、それでいて優しげな口調でもって、渾身の愛念を囚人に鞭打つのだ。心身ともに疲弊し、逃げ場を持たない囚人は、その言葉に耳をふさぐことも、否定することも出来ない。
その囚人が純狐だったのだとしたら。正論を、愛の言葉を、怨みを失わせる優しさを与えられ続けたのだとしたら。それは純狐にとって、どれほどに耐えがたい苦痛であっただろうか。
ヘカーティアが静かの海で行き倒れている純狐を見つけたとき、彼女は生死の境を彷徨うほどの状態だった。身体的な問題ではない。精神的な、いや、存在そのもの脅かすほどの責め苦を、純狐は負わされていたのだ。その最中に、純化の行き着く深淵を覗き込んでしまって、純狐は今揺らいでいる。
純狐の頬に流れた涙の跡が、星々の輝きにあてられて薄く光った。ヘカーティアはそっと頬に指を添えて、涙の跡を拭った。「怖いことなのね」ヘカーティアの言葉に、純狐は頷く。
「奴らを、月の賢者のことを、恐ろしいと思ったことなど一度もない。だけど……私は……」
いつしか純狐は、ヘカーティアの腕の中で小さく縮こまっていた。自らの腕の中で背を預ける純狐をヘカーティアは自然と、母親が子供にそうするように抱きしめ、あやしていた。純狐の身体は、驚くほどに華奢だった。何人も寄せ付けぬ黒衣の内側で、純狐は今まで精一杯の虚勢を張っていたのだと、ヘカーティアは初めて知った。
これまでにあったであろう純狐と月の賢者との闘争を、ヘカーティアは想像する。幾度となく行われたぶつかり合いは、両者の性質を思えば苛烈なものであっただろう。だがその中に純狐が賢者を圧した歴史は一度たりとて無く、今回のような敗北と屈辱を、純狐はその度に味わわされてきたに違いなかった。それでも純狐の怨みは戦いになればより一層激しく、全力を以って進み、決して退くことはないのだ。それがやがて、限界のやってくるものであったとしても。
「純狐。あなた、また月の都を襲うのでしょう? でもこのままだとあなたの怨みが擦り減って、いいえ、純化し過ぎてあなた自身が消えてしまうわよ」
「ヘカーティア、それでも私はそうすることしかできないのです。そうしないとならないのです。憎き嫦娥を討つ為に」
そう言って純狐は、真っ赤に泣き腫らした目でヘカーティアを見つめ返し、諦めたように薄く笑みを浮かべるのだ。
なんて勿体ないことなのだろうと、ヘカーティアは心底思う。
己の存在意義に全てを賭け、結果として自分が消滅するならばそれもまた定めと純狐は受け入れている。そしてヘカーティアは、その在り方を尊いと納得さえしていた。だが納得しているが故に、勿体ないと感じて止まないのだ。その在り方の魅力に、そしてその在り方を揺らぎながらも体現する純狐の存在に、ヘカーティアは魅せられているのだ。
怨みのままに純狐を失ってしまうこと、それはヘカーティアにとってあまりにも寂しいことに感じられてならなかった。なればこそ「だったら」と、ヘカーティアは強い口調で言い返すのだ。
「そうならないための方法を考えるのよ。憎き嫦娥を討つ為に、そしてあなたが消えないために」
「ヘカーティア……」
「純狐。それはあなたが考え、あなたが実行するのよ。私はそれに手を貸してあげるわ。私たちの願いが、なによりあなたの悲願が、成就するように。
いい? 楽しむのよ。復讐を」
「復讐を、楽しむ?」
「余裕を持つってこと、大事なのよ」
それは純狐にとって今までになかった考えであり、そして救いになった事なのかもしれなかった。一瞬戸惑いを見せた純狐の表情は、徐々にその意味を察して和らいだものになっていった。それはヘカーティアがこれまで見てきた純狐のどの表情よりも、安らいだ顔だった。
ふっ、とヘカーティアは小さく笑う。雰囲気に中てられ、ヘカーティアの頬もまた朱に染まっていた。
「純狐。あなた、そんな良い表情も出来たのね」
ヘカーティアは純狐の側に、ヘカーティアを認識する確かなものが生まれたことを感じていた。言葉の派手さや奇抜さが、言葉の意味を大きくするのではない。相手を一心に想うことが、最も適切な言葉を紡ぎ出すのだ。そのことをヘカーティアは分かっていた。
へカーティアは純狐に伝えたいと願ってやまなかった。純狐に惹かれる想いを。それによって生まれた信頼を。そしてそれは今、確かに純狐に伝わっているのだ。自らの言葉が純狐と繋がったこと、それはへカーティアにとって間違いなく喜ぶべきことだった。
今なら手に取るようにわかる。純狐が何を想い、何を感じているのかを。
そして純狐も同じように、自分のことをわかっているのだということを。
「あぁ、ヘカーティア……あなたが友人で良かった。こんな感覚を、私は今まで知らなかったのですから」
「それは私も感じていることよ。純狐は今、とても魅力的だもの」
「……私はずっと、独りだった。友を持つことを、信頼の置ける者がそばにいる安堵を、私はこれまでずっと忘れていた。
私はあなたに助けられたのです。ヘカーティア、私はあなたに礼が言いたいのよ」
「ふふ。礼だなんて……」
気恥ずかしさに、ヘカーティアは純狐から視線を外した。そして純狐と出会ってから今までを、ヘカーティアは思い返していた。「……礼を言うのはこっちの方よ」その言葉を、ヘカーティアは避けた視線を再び戻して、純狐の目を見てはっきりと言った。
純狐が現れるまで、ヘカーティアの日々はまったく退屈で不満に満ちたものだった。嫦娥の夫に太陽を撃ち落とされてからこの方、その日常は地獄の妖精と戯れ、彼女らを弄繰り回すだけの退屈なものになった。仕事も満足なものではなく、女神としての性質も、人間性を充足させる部分も満たされることのない、鬱々とした日々を送るしかなくなっていたのだ。虚構がヘカーティアを支配し、体面はなんとか保たせていても、彼女の内面はやさぐれ、荒れきっていた。
だが純狐と出会ったことで、ヘカーティアの運命は変わっていった。まともな話し相手すらおぼつかなかったヘカーティアにとって、純狐の存在は地獄に咲いた一輪の花のようだった。嫦娥への怨みで意気投合すると、ヘカーティアの中で純狐は一気にその存在感を増し、心の確かな部分を捕らえて離さなくなっていった。美しく気高き花は愛でられるの通り、ヘカーティアは純狐にこの上なく惹かれていったのだ。
そのことがヘカーティアに与えた影響は計り知れない。なまくらだったヘカーティアの姿勢は鋭さを取り戻し、より一層罪人たちから怖れられるようになった。一方で、高圧的で恐怖を与えるものでしかなかった口調は、対等に接する様な丁寧さと、元々素で持っていた若干はっちゃけた調子も入り混じる様になりつつあった。彼女の精神にメリハリと柔軟性が表れてきたのである。ヘカーティアがけばけばしいだけの女神の正装から、ルールをあえて無視したカジュアルな服装でいられるようになったのも、全ては純狐のおかげなのだ。そんなヘカーティアの感謝を込めた語りを、純狐は静かに聴いていた。
「……互いに良きものを、かけがえのないものを得ることが出来た。私たちの出会いは、運命だったのかもしれないわね。
ヘカーティア、今なら何だってやれそうなのです。嫦娥を倒すことだって、簡単なことかもしれない」
「えぇ、そうねぇ。私だって、そう思えるわ。でもその前に、純狐はしなくちゃいけないことがあるんじゃないかしら?」
腕の中に抱かれながらにこやかに言う純狐に、ヘカーティアは指摘する。安堵した表情の中で、純狐の意識が遠のきつつあるのを、ヘカーティアは見抜いていた。
いつしか二人の前に広がる景色は、月の闇を見渡すものから月の闇そのものへと変わっていた。二人が腰掛ける異界の境目は月面に広がる広大な影と繋がり、その巨大な口を二人の足元に広げていた。ヘカーティアはゆるゆると降り立つと、暗黒の水面に半身を浸らせ、抱いた純狐を境界面に浮かばせた。ほぅ、と漏れた純狐の溶ける様な息づかいが、ヘカーティアを耳から幸せにしていっていた。
「眠りなさい、純狐。今のあなたに必要なのは休息よ。その後で、今後のことを一緒に考えましょう?」
「ヘカーティア、どうか眠るまで一緒にいて……」
「えぇ、もちろん。一緒にいるわよ」
星の光すらも届かない闇の中で、二人の世界は最高の形で完成しようとしていた。良い眠りを、とヘカーティアは純狐のために祈った。夢の国の住民も、安眠を望む者に邪魔立てしようとは思うまい。
最後に純狐の伸ばした手が、そっとヘカーティアの頬に触れた。消え入るように呟かれた彼女の独白を、ヘカーティアは一言も聞き洩らさなかった。
「子供がいたの。とても可愛らしい子だったのよ。私は心から、あの子のことを愛していたのです……」
一人だけになった世界の静けさが、辺りを支配していた。
だが今のヘカーティアに、孤独感は無かった。隣には、もはやかけがえのない友人になった存在がいるのだから。
異界の闇に抱かれて穏やかに眠る純狐のそばに、ヘカーティアは佇んでいた。水中に有るかのように揺れる純狐の金色の髪を柔らかに梳き、そしてその内の一房を集めて、ヘカーティアは自らの口と鼻に押し当て、深く息を吸った。純狐の持つ純化の香りに、ヘカーティアは酔いしれていった。
子供のこと。夫のこと。嫦娥のこと。
そして、純狐のこと。
怨みの念が湧き上がる。純狐によって解放された積年の怨みと、純狐自身の怨みが合わさり、そして生まれた一本の槍が、宿敵の身を貫かんと飛翔した。嫦娥への憎しみがヘカーティアの中で炎のように燃え上がり、その身を激しく焦がして、怨みを満たしていく。
ふぁさと髪が散り、ヘカーティアは夢見心地の気分のまま、ただ一つ天面に浮かぶ月を睨みつけた。それは今まで二人が居た表の月ではなく、宿敵のいる都がある裏の月だ。ヘカーティアの頭上で異界を示す紅い球体が、彼女の意志を反映するかのように煌々と輝きを放っていた。
「見てなさいよ、嫦娥! いずれその首貰い受ける日、そう遠くはないわよ」
ヘカーティアは高らかに嗤う。いつか宿敵を討てる、その日を夢見て。
純狐のそんな言葉を聞いたとき、ヘカーティアは自分の持っていた彼女のイメージに、一筋のヒビが入ったのを認めざるを得なかった。そしてそれは同時に、純狐に対する自分の興味をより惹かせる要素になったということも、ヘカーティアは自覚していた。
知り合ってそんなに時間は経っていなかったが、ヘカーティアの純狐に対するイメージは、その性質通りの毅然とした純たる神霊で固まりつつあった。宿敵である嫦娥への怨みを前面に押し出して退かない、その意志の強さが如何ほどかを、ヘカーティアはこれまでの純狐の姿勢から見出していた。だから純狐はそういう神霊なのだと、ヘカーティアはもはや当然のように受け止め、理解していたつもりだったのだ。純狐は自分の存在すらも、純粋として規定しているのだと。
それが何のきっかけか、突然自分の知らぬ一面を彼女の方からさらけ出したのだ。それは今までの純狐には感じられなかった、人間性を持った者らしい一面だった。完全に純ではない、揺らぎを認める純狐のその言葉は、これまでの彼女のイメージには似つかわしくないものだったが、ヘカーティアにはそれもむしろ魅力的に見えていた。初めて純狐に会って、嫦娥への怨みで意気投合した時とは全く別の、しかしそれ以上の胸の高鳴りを、ヘカーティアは感じずにはいられなくなっていた。
二人は表の月が見える異界と顕界の縁に腰掛けていた。生命を全く感じさせない、穢れのない月の闇が二人の足元に広がっている。その静かさを前にしながら「へぇ。あなたにもそういう面があったなんてね」とヘカーティアは茶化すように呟いていた。冗談交じりだが、半分は本気だ。正直、純狐が弱音とも取れそうな意思表示をすること自体が、ヘカーティアには驚きだった。すると隣に座る純狐は寂しげな微笑を浮かべて、まるで甘えてくるかのようにヘカーティアを見つめてきたのだ。その笑みがヘカーティアの胸をときめかせて、彼女を一層純狐の虜にしていった。
「嫦娥に対する怒りと憎しみが、今の私を形作っている。その想い自体が、私そのものだと言っていい。それ無くして、私は私で有り得ない」
「私も、あなたはそういう奴だって、今まで思ってきたわ。違うの?」
「違わない。私はこのまま、私であり続けるでしょう。それしかないのですから」
「そうよねぇ。でも、そういう在り方が不安になった?」
ヘカーティアの言葉に、純狐は目を伏せて「半分、正解でしょうね」と曖昧に頷いていた。
ヘカーティアは自身の首から伸びる鎖を弄びつつ、純狐の一挙一動を視線に捉えて離さなかった。漆黒と紅の下地に金の刺繍が施された冕冠と旗袍、それらに身を包んだ純狐は煌びやかだ。格調高いその出立ちは、見る者に威厳と威圧を与えるものであったが、今は却って純狐の揺らぎを引き立ててしまっている。
それがヘカーティアには堪らない。格式ばった固い装飾と服装の中に、どこか疲れた表情を見せる純狐には、ある種のしどけなさすら感じられるのだ。ヘカーティアは思わず横から腕を伸ばして純狐を引き寄せ、その身体を抱きしめていた。
「きゃっ、ちょっとヘカーティア……どうしたの」
「それはこっちのセリフよ純狐。あぁ、もう純狐、あなたこそどうしちゃったのよん。あなたを見ていると私、たまらないわ」
「ヘカーティア……」
「ねぇ、聞かせて? 今日のあなたは、いつもと違うわ。だから私は知りたいのよ。あなたがこうなっている理由、私は興味あるわ」
ヘカーティアは歌う様に口ずさみながら、純狐の身体に触れていた。頬に掌を添え、割れ物に触れる様に、優しく指先を首筋へ這わせていく。そうしないと今の純狐は壊れかねないと、ヘカーティアは本気で思っていた。純狐の肌を通して得た実感だった。同時に、そうやって割れ物に触れるようにしている事実が、ヘカーティアの庇護欲と支配欲をかき立て、どうしようもなく心を震わせているのだ。ヘカーティアは、純狐がこの先どのような一面を見せてくれるか、楽しみで仕方がなかった。
ヘカーティアの愛撫を、純狐はそのままに受け入れていた。ヘカーティアの気の済むように為すがままにされていることは、彼女にとって不満ではないらしかった。やがて純狐はふっと小さく息を吐くと、ぽつぽつと語りだした。
「私の純化する能力、分かる? その力は、私の怨みをも純化していった」
「えぇ。あなたに聞かせてもらったのよね。それが純狐の存在意義でもある」
「そう。感情は、想いは、形の見えない不定のもの。手に取って示せるものではない。でもそれらが純化していくと、感情は雲のような形をとって具現化するのです。まるで綿のように……そこから一本の細い糸が紡がれていくのです。
それは私だけに見える世界。糸は、方向性を持った線……一本の道筋となって、ある一つの場所へと向かっていく」
「それは何処に?」
「無よ」
こぽり、と常闇の中にヘカーティアは音を聞いた。純狐の瞳の輝きが、陰っていく。
「喜びも、怒りも、哀しみも……極限まで純化しきった先に行き着くのは、全て同じ場所なのです」
ヘカーティアはさっきの音が、純狐の中からしたのだと気付いた。泡が切なく弾けるように聞こえた、あれは純狐の存在が薄らぐ音だったのだ。
あぁ、とヘカーティアは溜息を吐いた。こうも詩的で、センチな一面を見せる純狐のことを、ヘカーティアは察していた。
戦いののちに捕らえられた虜囚に対する、月の都の賢者のやり方を聞いたことがある。賢者たちは陰湿で、死にかけの者に嗜虐することを厭わない。特に怨みの深い者は、散々に責め苦を負わされた挙句、狭く小さな檻に閉じ込められ、賢者たちから懇々と説教をされるのだという。賢者たちの言葉は力強く、それでいて優しげな口調でもって、渾身の愛念を囚人に鞭打つのだ。心身ともに疲弊し、逃げ場を持たない囚人は、その言葉に耳をふさぐことも、否定することも出来ない。
その囚人が純狐だったのだとしたら。正論を、愛の言葉を、怨みを失わせる優しさを与えられ続けたのだとしたら。それは純狐にとって、どれほどに耐えがたい苦痛であっただろうか。
ヘカーティアが静かの海で行き倒れている純狐を見つけたとき、彼女は生死の境を彷徨うほどの状態だった。身体的な問題ではない。精神的な、いや、存在そのもの脅かすほどの責め苦を、純狐は負わされていたのだ。その最中に、純化の行き着く深淵を覗き込んでしまって、純狐は今揺らいでいる。
純狐の頬に流れた涙の跡が、星々の輝きにあてられて薄く光った。ヘカーティアはそっと頬に指を添えて、涙の跡を拭った。「怖いことなのね」ヘカーティアの言葉に、純狐は頷く。
「奴らを、月の賢者のことを、恐ろしいと思ったことなど一度もない。だけど……私は……」
いつしか純狐は、ヘカーティアの腕の中で小さく縮こまっていた。自らの腕の中で背を預ける純狐をヘカーティアは自然と、母親が子供にそうするように抱きしめ、あやしていた。純狐の身体は、驚くほどに華奢だった。何人も寄せ付けぬ黒衣の内側で、純狐は今まで精一杯の虚勢を張っていたのだと、ヘカーティアは初めて知った。
これまでにあったであろう純狐と月の賢者との闘争を、ヘカーティアは想像する。幾度となく行われたぶつかり合いは、両者の性質を思えば苛烈なものであっただろう。だがその中に純狐が賢者を圧した歴史は一度たりとて無く、今回のような敗北と屈辱を、純狐はその度に味わわされてきたに違いなかった。それでも純狐の怨みは戦いになればより一層激しく、全力を以って進み、決して退くことはないのだ。それがやがて、限界のやってくるものであったとしても。
「純狐。あなた、また月の都を襲うのでしょう? でもこのままだとあなたの怨みが擦り減って、いいえ、純化し過ぎてあなた自身が消えてしまうわよ」
「ヘカーティア、それでも私はそうすることしかできないのです。そうしないとならないのです。憎き嫦娥を討つ為に」
そう言って純狐は、真っ赤に泣き腫らした目でヘカーティアを見つめ返し、諦めたように薄く笑みを浮かべるのだ。
なんて勿体ないことなのだろうと、ヘカーティアは心底思う。
己の存在意義に全てを賭け、結果として自分が消滅するならばそれもまた定めと純狐は受け入れている。そしてヘカーティアは、その在り方を尊いと納得さえしていた。だが納得しているが故に、勿体ないと感じて止まないのだ。その在り方の魅力に、そしてその在り方を揺らぎながらも体現する純狐の存在に、ヘカーティアは魅せられているのだ。
怨みのままに純狐を失ってしまうこと、それはヘカーティアにとってあまりにも寂しいことに感じられてならなかった。なればこそ「だったら」と、ヘカーティアは強い口調で言い返すのだ。
「そうならないための方法を考えるのよ。憎き嫦娥を討つ為に、そしてあなたが消えないために」
「ヘカーティア……」
「純狐。それはあなたが考え、あなたが実行するのよ。私はそれに手を貸してあげるわ。私たちの願いが、なによりあなたの悲願が、成就するように。
いい? 楽しむのよ。復讐を」
「復讐を、楽しむ?」
「余裕を持つってこと、大事なのよ」
それは純狐にとって今までになかった考えであり、そして救いになった事なのかもしれなかった。一瞬戸惑いを見せた純狐の表情は、徐々にその意味を察して和らいだものになっていった。それはヘカーティアがこれまで見てきた純狐のどの表情よりも、安らいだ顔だった。
ふっ、とヘカーティアは小さく笑う。雰囲気に中てられ、ヘカーティアの頬もまた朱に染まっていた。
「純狐。あなた、そんな良い表情も出来たのね」
ヘカーティアは純狐の側に、ヘカーティアを認識する確かなものが生まれたことを感じていた。言葉の派手さや奇抜さが、言葉の意味を大きくするのではない。相手を一心に想うことが、最も適切な言葉を紡ぎ出すのだ。そのことをヘカーティアは分かっていた。
へカーティアは純狐に伝えたいと願ってやまなかった。純狐に惹かれる想いを。それによって生まれた信頼を。そしてそれは今、確かに純狐に伝わっているのだ。自らの言葉が純狐と繋がったこと、それはへカーティアにとって間違いなく喜ぶべきことだった。
今なら手に取るようにわかる。純狐が何を想い、何を感じているのかを。
そして純狐も同じように、自分のことをわかっているのだということを。
「あぁ、ヘカーティア……あなたが友人で良かった。こんな感覚を、私は今まで知らなかったのですから」
「それは私も感じていることよ。純狐は今、とても魅力的だもの」
「……私はずっと、独りだった。友を持つことを、信頼の置ける者がそばにいる安堵を、私はこれまでずっと忘れていた。
私はあなたに助けられたのです。ヘカーティア、私はあなたに礼が言いたいのよ」
「ふふ。礼だなんて……」
気恥ずかしさに、ヘカーティアは純狐から視線を外した。そして純狐と出会ってから今までを、ヘカーティアは思い返していた。「……礼を言うのはこっちの方よ」その言葉を、ヘカーティアは避けた視線を再び戻して、純狐の目を見てはっきりと言った。
純狐が現れるまで、ヘカーティアの日々はまったく退屈で不満に満ちたものだった。嫦娥の夫に太陽を撃ち落とされてからこの方、その日常は地獄の妖精と戯れ、彼女らを弄繰り回すだけの退屈なものになった。仕事も満足なものではなく、女神としての性質も、人間性を充足させる部分も満たされることのない、鬱々とした日々を送るしかなくなっていたのだ。虚構がヘカーティアを支配し、体面はなんとか保たせていても、彼女の内面はやさぐれ、荒れきっていた。
だが純狐と出会ったことで、ヘカーティアの運命は変わっていった。まともな話し相手すらおぼつかなかったヘカーティアにとって、純狐の存在は地獄に咲いた一輪の花のようだった。嫦娥への怨みで意気投合すると、ヘカーティアの中で純狐は一気にその存在感を増し、心の確かな部分を捕らえて離さなくなっていった。美しく気高き花は愛でられるの通り、ヘカーティアは純狐にこの上なく惹かれていったのだ。
そのことがヘカーティアに与えた影響は計り知れない。なまくらだったヘカーティアの姿勢は鋭さを取り戻し、より一層罪人たちから怖れられるようになった。一方で、高圧的で恐怖を与えるものでしかなかった口調は、対等に接する様な丁寧さと、元々素で持っていた若干はっちゃけた調子も入り混じる様になりつつあった。彼女の精神にメリハリと柔軟性が表れてきたのである。ヘカーティアがけばけばしいだけの女神の正装から、ルールをあえて無視したカジュアルな服装でいられるようになったのも、全ては純狐のおかげなのだ。そんなヘカーティアの感謝を込めた語りを、純狐は静かに聴いていた。
「……互いに良きものを、かけがえのないものを得ることが出来た。私たちの出会いは、運命だったのかもしれないわね。
ヘカーティア、今なら何だってやれそうなのです。嫦娥を倒すことだって、簡単なことかもしれない」
「えぇ、そうねぇ。私だって、そう思えるわ。でもその前に、純狐はしなくちゃいけないことがあるんじゃないかしら?」
腕の中に抱かれながらにこやかに言う純狐に、ヘカーティアは指摘する。安堵した表情の中で、純狐の意識が遠のきつつあるのを、ヘカーティアは見抜いていた。
いつしか二人の前に広がる景色は、月の闇を見渡すものから月の闇そのものへと変わっていた。二人が腰掛ける異界の境目は月面に広がる広大な影と繋がり、その巨大な口を二人の足元に広げていた。ヘカーティアはゆるゆると降り立つと、暗黒の水面に半身を浸らせ、抱いた純狐を境界面に浮かばせた。ほぅ、と漏れた純狐の溶ける様な息づかいが、ヘカーティアを耳から幸せにしていっていた。
「眠りなさい、純狐。今のあなたに必要なのは休息よ。その後で、今後のことを一緒に考えましょう?」
「ヘカーティア、どうか眠るまで一緒にいて……」
「えぇ、もちろん。一緒にいるわよ」
星の光すらも届かない闇の中で、二人の世界は最高の形で完成しようとしていた。良い眠りを、とヘカーティアは純狐のために祈った。夢の国の住民も、安眠を望む者に邪魔立てしようとは思うまい。
最後に純狐の伸ばした手が、そっとヘカーティアの頬に触れた。消え入るように呟かれた彼女の独白を、ヘカーティアは一言も聞き洩らさなかった。
「子供がいたの。とても可愛らしい子だったのよ。私は心から、あの子のことを愛していたのです……」
一人だけになった世界の静けさが、辺りを支配していた。
だが今のヘカーティアに、孤独感は無かった。隣には、もはやかけがえのない友人になった存在がいるのだから。
異界の闇に抱かれて穏やかに眠る純狐のそばに、ヘカーティアは佇んでいた。水中に有るかのように揺れる純狐の金色の髪を柔らかに梳き、そしてその内の一房を集めて、ヘカーティアは自らの口と鼻に押し当て、深く息を吸った。純狐の持つ純化の香りに、ヘカーティアは酔いしれていった。
子供のこと。夫のこと。嫦娥のこと。
そして、純狐のこと。
怨みの念が湧き上がる。純狐によって解放された積年の怨みと、純狐自身の怨みが合わさり、そして生まれた一本の槍が、宿敵の身を貫かんと飛翔した。嫦娥への憎しみがヘカーティアの中で炎のように燃え上がり、その身を激しく焦がして、怨みを満たしていく。
ふぁさと髪が散り、ヘカーティアは夢見心地の気分のまま、ただ一つ天面に浮かぶ月を睨みつけた。それは今まで二人が居た表の月ではなく、宿敵のいる都がある裏の月だ。ヘカーティアの頭上で異界を示す紅い球体が、彼女の意志を反映するかのように煌々と輝きを放っていた。
「見てなさいよ、嫦娥! いずれその首貰い受ける日、そう遠くはないわよ」
ヘカーティアは高らかに嗤う。いつか宿敵を討てる、その日を夢見て。
いやぁ深いと言うか考えさせられる内容でした。
ヘカ様のセリフ一つ一つが良い味出してますね。
短く上手くまとまっていると思います。
紺のキャラは皆魅力的で良いですねぇ。
……このSSの最初のやり取りを見て、
へカーティアさんクラブのママか何か? と思ってしまったのは内緒です。
同時に語られる、純狐という友を得て救われたヘカーティアもまた。
復讐とお互いへの依存も感じさせる雰囲気が良かったです、
純化に対する解釈と、ゆらぎという表現で純狐の感情を表現したのも素晴らしいと思います。
ヘカから純狐を思う気持ちがぐいぐい伝わってきてよかったです。
ヘカ、ゲームの初見ではネタ要員にしか見えなかったのに、二次創作では何故こうも魅力的なのか。作家さん達に愛されてるからかなあ。日々新たなキャラの魅力を引き出してくれる作家さん達には頭が上がりません。