(前回のあらすじ)
赤蛮奇は一頭の首長を戴き、原則的にはそのただ一つが己の肉体を自由に使いつつも、大枠の意思決定には議会を招集して他八つの頭の承認を必要とする、特異な合議政体を採用していた。ある日、首長の頭が心神の失調を抱えたので、議会は首長の交代を決断した。そのままその頭は廃位され、別の頭が赤蛮奇の首長の座に就いた。
だが、新首長である別の頭は、様々な新機軸(アルバイトを辞めて個人営業の美容室を始める、それまで画一化されていた髪型を廃止する、妖怪との間に従来以上の積極的な関係を拡げていく、など)を方針として打ち出したものの、改革と変化の性急さには反発がないわけでもなかった。やがて、彼女が好んでいたタトゥーやピアスについての議論を契機にして、新首長の不信任が旧首長であった頭から行われた。
新体制の転覆を予感した別の頭は、同時期に幻想郷‐畜生界間で計画された文化事業――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに便乗して、肉体と共に境界を越えた亡命を画策したものの、旧来の首長であった頭がそれを察知し、この問題を議会に上申したうえで首長への復位にも成功して、友人である多々良小傘を頼りこれを阻んだ。
その後、ふたつの頭は意外にもあっさり和解した。失脚した別の頭の目的は、畜生界に亡命してタトゥーやピアスなど不可逆的な変化を肉体に施す事だったのだが、首長による以下の説得にあっさりと応じ、少なくとも当面の策謀はやめる事としたのだ。
「……でもさ、畜生界のそういうタトゥーやピアスをやってくれる業者って、針とか使い回してそうだし、ついでに変な病気までくれそうじゃない?」
「それもそうね……」
……正式な交流は開かれていたが、いまだに異界に対する偏見も強い時代であった。
それと。
ついでのなりゆきで、多々良小傘はプリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに帯同する羽目になっている。
(ここから本編)
それにしてもおかしみを感じるのは、あの多々良小傘――普段から持っている唐傘はおいても、身一つでぶらぶら生きているような野良妖怪が、なぜこの旅行では、ああも大量の荷物を抱える羽目になっているのだろうか、という事だ。
「いやあ、あのお、はい、仕事での越境でぇ……」
一行――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに帯同する、サポートメンバーや、裏方の少女たち――は、畜生界への入境を目前にして、関所の管理官への受け答えに特別しどろもどろにしている小傘ひとりに待たされていた。
数分前まで「大丈夫だよ、私けっこういろんなところ行ってるし」と自信ありげに言っていた小傘だったが、友人の赤蛮奇は(どうせちゃんとした入管なんか通過した事ないくせに)とも思っていた。おおらかといえばいいのかなんなのか、そうした法外の境界越えは横行していたからだ。
「あ、はい、手荷物検査ですか……こちらに……どうぞ……」
と、どうしてかかしこまったふうに、小傘は、自分の膨大な手荷物を係官にゆだねた。
それにしても、どうしてこんなゆるい関所で、こんなにも手間取るのだろう。
「……さっさとして欲しいんだけど」
他のスタッフから小さなぼやきが聞こえてきたその時、関所の警報が高らかに鳴った。
赤蛮奇は赤面している。数時間の拘束の後に関所から突き返された小傘の手荷物のひとつ、おおぶりな鞄の中に、彼女の生首が七つ――今回の出張に必要と判断された二つを除いた、七つ――、ごてごてと詰め込まれていたからだった。
そもそも、赤蛮奇がこのツアーに帯同しているのも、成り行き上そうなってしまった要素が多分にあった。ここ数ヵ月ほどの間、他の頭が主導権を握っていた時期に、そいつが美容師の真似事を始めたまでは生計を立てる事だから許すほかないものの、楽団のツアーのスタイリストの求人にまで応募するような積極性は、かつての頭には無いものだった。その後、赤蛮奇の体にはごたごたと首長の再交代があったものの、請け負った仕事は仕事だ。彼女は渋々ながら楽団の畜生界ツアー御一行に加わったし、スタイリストの仕事のため、かつて対立していた別の頭を持っていかなければならない事も了解していた――あとの七つほどは、かわいそうだが留守番させておくつもりだったのだ。
「なにやってんのあんたら……」
小傘の大きな旅行鞄たちの一つから出てきた他の頭たちからは「いやなんだか面白そうだったんで……」「よくわからないまま詰め込まれました!」と、だいたい二通りの供述が聞こえてきたが、いずれにせよ赤蛮奇は文字通り頭を抱えるしかない――しかも肉体の上に乗っかっているものも含めて、九つも。
「だいたい小傘もなにさ、あんたこないだも関所破りやらかしてたけどさ、毎回警報を鳴らしてもらうノルマでもあんの?」
と責めるように言ったが、その関所破りは他ならぬ、赤蛮奇の暴走を止めようとした赤蛮奇(ややこしい)のためだったのだ。八つ当たりでしかない。
「いや……」
と小傘は口ごもって、もごもごとなにか続けた。
「なに?」
「人を驚かせるノルマが……」
こればかりはなんともしようのない小傘の業だった。
小傘と赤蛮奇が数時間の足止めを食っている間、楽団の本隊はさっさと先に行ってしまっていたが、関所の畜生界側に居残って待ってくれている人が一人だけいた。
「ちょうどいい読書時間だったわ」
と、がらんとしたロビーで待たされていた堀川雷鼓は、それでもいらついた様子はなく、彼女のたったひとつの手荷物であるボストンバッグに、ポケット文庫を滑り込ませながら言った。
「行こうよ。どうせコンサート自体は今日明日行われるわけではないし、私らがホテルなんかでごろごろしている時間が削られるだけさ」
小傘と赤蛮奇は顔を見合わせる。
「……そうなの?」
「そうだよ?」
「そういえば私、日程とかスケジュールとか、そういうの聞いてないよ?」
「そりゃそうよ、別に教えてないもん」
二人のやりとりを聞きながら、雷鼓はバッグを肩に担いで、立ち上がると、さっさと先を何歩か歩き始めて、それからくるっと振り向いて言った。そのしぐさが、いちいちどこか芝居がかっているというか、舞台的だ。
「ま、そうやっていつまでも漫才してるのはいいんだけどさ、待たせてもいるのよ」
人を待たせているとは、先ほどと言っている事がちぐはぐではないかと小傘たちは思うのだが、違う話らしい。彼女たちがそれぞれの荷物を引きずって関所のロビーを出ると、雨模様の畜生界の下に兵士――隊伍を形成した埴輪の兵士たちが、直立不動で彼女たちを待ち続けていた――おそらく、小傘らの拘束が長引けば、何日でも雨空の下で待ってくれていただろう。無表情のおとがいから、雨のしずくがぼたぼたとたれ落ち続けていた。
「大丈夫、正規の軍隊とかじゃない――えー、今回の文化事業に協力してくれている畜生界側のホストが、普段から抱えている私兵なんだって。まだまだこっちも物情騒然だからって護衛をつけてくれたの」
なにが大丈夫なものか、といった感想しか出てこない説明を雷鼓はしてくれて、本人も発言の物騒さを理解しているのか、照れくさそうに付け加えた。
「いらないつってんのにね」
つつがなく、メトロポリスの都市圏内に案内された一行は、ホテルに宿泊している。
「……しょっぱなからやらかしてくれるわ」
小傘たちが関所から解放された、という連絡を、雷鼓から受けたルナサ・プリズムリバーは、ため息をつきながらぼやき、ぼやきながら外着を脱ぎ、シャツの首元をゆるめた。部屋に着いたばかりで荷も解いていない。
そのまま広いベッドの上に身を沈めていきたかったが、つつしみが邪魔をする。せめて旅塵を落とした方がいいだろうとも思って、彼女なりの精神力の強さでそうした。
シャワーのあと、洗面所で髪に残った水気を吹き飛ばして、ベッドに横になっても、彼女自身は別にこのホテルの部屋に気を許してはいない。むしろ、この慣れない空間を、畜生界そのもののように警戒したくもあった。
ルナサ自身はこのツアーに反対だった――積極的な拒絶というよりは、消極的な拒否だったが、それだけに本質的な懸念を含んだ反対だった。
(私たちは、この状況を自分たちでコントロールできていると言えるのかしら)
この手の愚痴が、彼女の口から妹たちに向けて漏れるようになって久しい。彼女は既にコントロールできていないと感じている。プリズムリバー楽団が、あのパーカッショニスト――堀川雷鼓――を受け容れた新体制となった時点で、もう自分たちの主導権が怪しいとも感じていたのだ。そのコントロール不能な状態が、自分たちを畜生界へと運んできている。雷鼓は今回のツアーを、幻想郷と畜生界とを結ぶ文化事業などと言っていたが、ルナサ自身は自分たちを文化などとは思っていない。自分たちは本質的にはただのちんどん屋で、地元で多少凝ったステージだとかイベントをやる事になっても、それはただ地元で一番人気の名物バンドくらいの、ルナサにとってはそんな自認だった。「あんたらはそれ以上の存在になれる」などと人様に言われても、勘弁してちょうだい、という感じだった。
(私たちがビッグステージに立つなんて、ナンセンスよ)
しかしながら、ルナサを除いたプリズムリバーの妹たちは、この提案を無邪気に喜んだ――その様子を愚かさと言うのもおかしいかもしれない。この不安が芽生えていないうちなら、チャンスなんて貰えるだけ貰っておけという功利主義に、ルナサも傾いていたはずだ。
(とはいえ、今に取り返しのつかない事になるわ……)
多々良小傘と赤蛮奇が関所で起こした騒動を思いながら、ルナサはそれでも旅の疲れには抗えず、寝息を立てはじめた。
「思ったよりはちゃんとしたホテルだわ……」
「でも荷物はベルボーイに渡さない方がいい、って」
小傘と赤蛮奇が、ようやくたどり着いたホテルのロビーにて、そうした会話を交わす最中にも、彼女たちの荷物をかすめ取ろうとしたベルボーイたち――ホテルの従業員と見分けがつかないが、非正規のものや、けちなコソ泥などが一定割合混じっている――を、埴輪の衛兵たちが威嚇して追い散らしている。
「連中、全員ちゃんとホテルの制服を着ているのは、なんだか滑稽ね」
雷鼓は、窃盗グループの存在と、そうした組織的犯罪に本来の従業員すら一部では抱きこまれている可能性を苦笑いまじりに示唆しつつ、三人分のチェックインを済ませてから、さっさと上層階へのエレベーターに入った。
「素行の良くない従業員が場所と制服を貸してるみたいなんだけど、それでいくらか割り前を受け取るというシステムが確立しちゃってるのね」
「ふーん、みんなクビにしちゃえばいいのに」
「小傘、なんだか不穏だから私の横でその単語使うのやめな?」
「あくまでグレーなやり口なのよ。労働組合の権利やら規則やらの兼ね合いもあって、潰しきれないんでしょうね……で、こういう事が予想できたから、ホテル最上階のワンフロアを、まるまる借り切る事にしちゃったんだよね」雷鼓がふんと鼻で息を吐きながら、あきれ顔で言った。「もちろんそのフロアの盗聴や盗撮などの仕掛けは、埴輪兵団の事前の捜索によって除去済みだから、安心して」
「ああ、けっこうなおもてなしね」
赤蛮奇はエレベーターの箱の天井を眺めながら、その上昇を感じていた。
コソ泥だらけのロビーから逃れて上層階にやってきても、エレベーターが開いた先のロビーには別のコソ泥がいた――といっても、一応は同じ旅の仲間だったが。
「あ、お騒がせコンビだ」
下階からやってきたエレベーターに向かって言った依神紫苑の声は、ロビーにあるテーブルを差し向いにしてジン・ラミーに興じていた、依神女苑とリリカ・プリズムリバーの注意を惹いた。
「そう、お騒がせコンビのスーパースターのご到着よ」雷鼓は冗談めかして言いながらトランプゲームを眺めた。「ところで、そのゲーム、後でまぜてよ」
「いいわよ――畜生界へようこそ」
女苑はニッと笑ってそれだけ言うと、すぐに自分の手札の方に意識を戻し、それから手元のシャンパンに手を伸ばした。対するリリカも手札から目も離さず、雷鼓に他のメンバーの様子を教える。
「姉さんたちと九十九姉妹は、それぞれの部屋。みんなゆるゆるしているんじゃないかしら」
それから、ややあって、ひとりごとのように呟いた。
「……私たちも修学旅行の学生みたいにはしゃいでいる暇があったら、休んだ方がいいんだろうけどね」
「じゃあさっさと終わらせてあげるわ」
女苑はすかさず自分の手札をノックした。
依神姉妹がプリズムリバーウィズHの手伝いに駆り出された経緯には、ある種の罪滅ぼしというか、奉仕作業的な側面がある。以前、楽団のコンサートを邪魔して、一騒動起こした事の落とし前だった。
「……って、もう何年前の話よ」
と女苑が入り浸っていた命蓮寺に話が持ち込まれた時、当人は呆れるように、楽団からの伝言を受け取った住職にぼやいた。
「何年も前の話とか、そういうのは関係ないでしょう」
聖白蓮はにこやかに言った。
「むしろ、そうした幾年もの隙間を、無かったもののようにやってくるのが、応報というものでしょうしね」
「……和尚さん的には、引き受けるべきなのね?」
「なにごとも修養だと思えば」
白蓮はそう言ったが、相手の浮かない表情を見て、ちょっと思い直しもした。世の中、そうした心持ちがどこか肌に合わない者もいるという事は――白蓮自身はまったく相容れず、いまいち理解ができない精神とはいえ――理屈の上では知っている。そうした連中には、むしろ営利の目的があった方が、よく動いてくれるのだろうという事も。
「……まあ、特に音楽イベントの裏方の経験なんて、ちょっと積んできてもらえれば喜ぶ方もいますわ」
命蓮寺も、ちょくちょく仏事をそうした方面と混合したようなイベントを行っている、住職はその前提をほのめかして、言ったのだ。
女苑は女苑で(どうしてか知らないけれど、坊主ってクラブイベントのたぐいが好きよね。本質が陽の者なのよな)などと余計な事を考えていた。ともあれ、相手も俗っぽい目論見を持っている事を知って、かえって今回の仕事に従事する気負いが軽くなった。彼女はそういう女だ。
そうした経緯で、女苑は姉の依神紫苑にも同様の話を持ちかけたが、この自堕落な姉は、屈折した妹よりは単純な心を持っていて、ある意味でわかりやすかった。
「でもさ、私たちみたいな貧乏神を興行の裏方に引っ張り回しても、ろくな事なくない?」
と、理論上は意外にまっとうなぼやきをしながら、実際のところはただひたすらに面倒臭がって渋っている、それだけなのだ。
「まあまあまあまあまあ、姉さん的にも思うところはあるだろうけどさ、ちょっとのお仕事ついでに、ただで旅行できると思えば、それでもいいじゃない」
「そりゃそうだけどさあ……」
姉のぶつくさとした不満を、女苑はとにかくそういう論旨で押し切ってしまった。不満についてはそれはそれとして、ひとたび行動に移してしまえば、この旅を満喫してやろうというどうしようもない現金さがこの姉にある事を、女苑は知っていた。
付き合いだけは無駄に長いのだった。
エレベーター前のロビーで遊んでいたリリカや女苑らといったん別れた雷鼓は、自分のただ一つの手荷物を自分の部屋に置きに行くだけで、すぐに戻ってトランプ遊びに加わるつもりだった。
「あー、ちょっとよろしい?」
部屋から出たところで声をかけられて、雷鼓はその調子に、なにかいやな――いやというのも語弊があるが、どこか今はちょっと遠慮したいものを感じた。
「……記者さんか」
とだけ言うと、相手は首から下げた証明書を――ツアーのスタッフパスを見せびらかして言った。
「公認の記者です」
「んなこたわかってるから、見せびらかすのやめな」
別に、雷鼓としても射命丸文に対してそこまで敵意があるわけではないのだが、なんとなくつっけんどんな態度を取りたくなる。
文はスタッフパスを懐に隠しながら、手短に用件を述べ始めた。
「ホテルの部屋割りの話で――」
「まあ、悪いけど相部屋になるスタッフはぼちぼちいるのよね。そこは堪忍してもらって……」
「同業他社と相部屋なんですよ」
部屋割りを担当したのは当の雷鼓なので、それもよくわかっている事だったが、天狗の報道合戦に巻き込まれるつもりはさらさらなかった。
「今回の契約を結ぶ時に、彼女との報道協定も締結したでしょ?」
「ええ。今の私たちは、文々。新聞や花果子念報といった個々の事業の枠組みを越えて、一致協力して、このツアーを宣伝して、世に知らしめる。そうした建て前ではあります」
「建て前だけではなく、実際にそうして欲しいのよ」雷鼓はお前らの鞘当てなんか知るかといった気持ちで言った。「幻想郷側のプレスとしての権利はあなたたちに独占させているし、インタビューにも快く応じてあげるから、とにかくこの期間中だけは仲良く仕事してちょうだい。それが嫌なら、私は引き留めやしないから。別のホテルに部屋を取った方がいいかもね」
文は唇を鴉のようにとがらせながらも、それでも一旦は納得した様子で引き下がった。
「……ま、はたての奴がお人好しなんでね。やってやれない事はないと思うわ」
「じゃあその方針で頼むわ」
文をその場に置き去りにして、雷鼓はトランプ遊びに加わりに向かった。
ベッドの上に複数の生首を散乱させると、だいぶと絵面が不穏だ。
「はあ……これからどうしましょ」
赤蛮奇は自分が割り当てられた客室に入って、一息ついた末にぼやいた。その言葉に対して、相部屋の多々良小傘は、友人のクロークを部屋の収納に吊るしてあげながら提案してみる。
「もともと召喚したものなんだから、還す事とかできないの?」
「こないだの一件からこいつら、全然言う事聞かないのよね」
「こいつらとはなんだー」
「そうだそうだー」
「我が頭としては――」
シンプルにうるさい。
「あんたらうるさいよ」と一喝したのは、その先だっての一件で、混乱の中心にいた頭だった。「……ごめん、荷物取って。その仕事用のバッグ」
と飾り気のないビジネスバッグを赤蛮奇に取らせて、その中の仕事道具――スタイリストとして使う様々な道具の、点検やメンテナンスをさせ始めた。赤蛮奇自身も、その指図に従って、黙々と作業をしたり、時にはメモを取ったりする。なんだかんだと仲違いはあったが、根は真面目な二つの頭だった。
他のうるさい頭たちは、小傘にまかせた。七つの頭は順番に小傘の腕に抱かれて、痒い所を掻いてもらったり、鼻をかんでもらったりすると、やがてはおとなしくなった。
「……明日は会場を見に行って、打ち合せや音出しするくらいだと思うけど、私たちのやる事ってあるの?」
赤蛮奇の問いかけに赤蛮奇が答えた。
「細かいアクセサリーなんかは現地調達するつもりだったからね。ちょい街を巡ってみたいかなって」
「でも、街中の治安悪そうだよ?」
これは小傘の弁。赤蛮奇は少し考えた末に、言った。
「スタッフに何人かチンピラみたいな奴らがいたし、そいつら誘えばいいじゃん」
翌日、一行はホテルを出て、次の日にはコンサートを行う劇場へと案内されて、リハーサルから本番に至るまでの打ち合わせを行っていた。
「席数がなんぼ、実質的な収容人数はそれよりも多くて……」といった説明を雷鼓がしていたが、小傘はちゃんと聞いていない。ただ、楽団がそれだけの観客を呼び寄せられるのだろうか、といった疑問はある。
正直なところ、彼女たちは幻想郷という田舎で、ちょっと大きなステージなんかをして客を集めて名物になっている程度のバンドで、こんな会場を満員にできる、そうした女たちではないような気もしていた――小傘は自他共に認めるお人好しだが、こうした見積もりを一歩引いた場所から眺める時、不思議なほどその感慨は突き放したものになった。
「……ま、お客が集まんなくっても知ったこっちゃないか」
小傘は、楽団がステージ上で音出しを始めるのを背に受けながら、会場のバックヤードの方へと、ぴょんともぐりこんだ。楽屋には赤蛮奇だけではなく、他の裏方らまで行き来していて、そうした人員には畜生界の舞台・音響・照明等の業者や、施設そのもののスタッフなどの方が多く、見た事の無いような顔ばかりだった。
「しっかしまあ、こうも出入りが多いと、畜生界という事を割り引いてもちょっと不安になるわね」
赤蛮奇が仕事道具を手元に寄せながらぼやいたように、幻想郷勢は楽屋の隅で小さく固まりがちであった。
「私たちも行ってくるから。荷物とか、ちゃんと見ておいてよ」
と、その中で言ったのは九十九姉妹だ。彼女たちはもちろん正規の楽団メンバーではないのだが、サポートミュージシャンとして帯同している二人だった。
「大丈夫」小傘は自分の大きな手荷物の中から赤蛮奇の生首を一つ取り出すと、九十九姉妹の荷物を監視する位置に、ぽんと置いた。「ちゃんと見ていてもらうから」
二人の少女は苦笑しながら楽屋を出ていって、後には妙に手が空いてしまった子たちだけが残った。
「……ちょっと、生の舞台の方を見に行こうかしら」
と、その中でぽつりと呟いたのは赤蛮奇の首の一つで、楽屋に備えられたモニター――舞台の様子を映すためのもの――を見ながら言った。
「こっちもヘアスタイルのプランは色々組んでるけど、舞台とのバランスの兼ね合いもあるからね」
とも付け加えた。
「小傘」本体を支配している方の赤蛮奇が、友人に声をかけた。「その子、連れていってあげな。私がみんなの荷物番してるから」
「あ、うん、わかった」
小傘が生首を抱えて楽屋から出ていった後で、赤蛮奇はたった一人になった部屋の中を見渡し、そういえば他の奴らはいつの間にか消えているな、と思った。
「金目の物、あるかなあ」
「姉さん、ついてくるならもっとしゃんとして歩きな」
通路をうろつきながらそこらへんの事務所ですり取ったスタッフジャケットを羽織り、髪をほどいてしまうと、女苑も紫苑も、どうにかこの劇場の従業員に見えなくもない。
「演奏ツアーだかなんだか知らないけど、結局こんな旅行なんて、私らの狩り場にすぎないじゃない」
「なんだかんだ言って自分のサガに忠実だよね女苑って」
「照れるわ」
「褒めてはいないからね?」
軽口を叩いているうちに、それまでどうも乗り切れなかった調子が戻ってくるのを感じた。
「しかしこういう場所って、事務所の金庫なんかをあさるより、高価な機材を奪った方がなんぼかほど金になるのよね……」
「じゃあそうするの?」
「さすがにそこは面倒になりそうだからやめときましょ」
と二人がこそこそ話し合っているのは、劇場の遺失物管理所の中で、その棚からちまちました金目の物をかすめ取りながらだった――畜生界の畜生霊の方々は様々なものを置き忘れがちらしい。十八金の入れ歯だとか、瑪瑙の義眼だとか、時には持ち主本人の物と思しき立派な角が、乱暴に断ち切られた状態で保管されていたりした。そうしたあたりが目ぼしいものといったところ。
「帰るよ」
物色にもたつく姉を引っ張って、女苑はさっさと窃盗の現場から離脱した。拝借していたスタッフジャケットも、さりげなく元の場所に投げて戻し、バックヤードの廊下を通って自分たちの楽屋へと、悠然と戻りつつある。
「ま、今日は慣らし運転といったところね」
「最近はこういう手癖もなまっちゃっていたのは、たしかね」女苑は姉のえらそな言いぐさにも特に腹を立てず、とりあえずは収穫があった事の充実を感じていた。「やっぱりね、姉さんも言ってたけれど、これこそ私のサガなんでしょうね」
と言いながら楽屋のドアを開けてみると、室内にいた赤蛮奇がじっと戸口の方に視線を向けていて、少しどきりとする。姉妹共に、そこまで嵩張ったり目立ったりするものを盗んできたわけではなかったが、それでもじろじろと見つめられるのは、あまり気分が落ち着かない。
「おかえり」
「ただいま……暇だから、ちょっと劇場の中を探検してたわ」
「ふーん」
会話はそれだけ。そのまま赤蛮奇は黙りこくって、依神姉妹もそれにつられて、黙り込んだまま、そのあたりの空いているスペースに座る。それから赤蛮奇が、自由時間にそのあたりを散策してみないかと姉妹に誘いをかけたのは、何分も後だった。
赤蛮奇としては、単にチンピラ姉妹を散策の護衛にするつもりで誘っただけなのだが、なぜか色々と人がついてきてしまっていて、ツアーメンバー御一行がぞろぞろ街に繰り出す形になっている。
「別にそう大事にするつもりじゃなかったんだけどな……」
ホテルのロビーで、そうした人々が集合するのを待つはめになっている彼女は、もう一つの懸念の方に目を向けた。その視線の先には、なんともいえない色彩の唐傘を膝に置いて、ロビーのベンチにちょこんと座っている、多々良小傘――ではなく、自分の生首たちが好き勝手にベンチを転げ回っているからだった。
「なんであんたらまでついてくるのよ」
「我々も観光を楽しむ権利はある」
「そうだぁっ」
「そうだそうだー」
「逆になぜ我々の行動に制限をかけるのか」
「与野党がどっちもうるせえのよ」
と苦笑いをしたのは、赤蛮奇の手の内にいる首で、彼女だけはヘアスタイリングに使うかもしれないアクセサリーの現地調達が目的なので、この外出に加わる理由があった。
「大変だねあんたも」
「さんざ好き勝手して、結果的に気楽な立場についたねあんたは」
と、その首が耳元にじゃらじゃらと重たそうなピアスをしているのや、後ろ髪の茂みの中にイモリのタトゥーが入っているのを、赤蛮奇本体はまじまじと眺めた。
雷鼓が集合時間のきっかり五分前にロビーにやってきたのが、意外なような、そうでもないような気もする。意外といえば、依神姉妹が――おそらくだらだらしている姉を妹が急き立てたのだろうが――多少遅れつつも約束通りの時間にやってきた事の方が意外だろうか。プリズムリバー三姉妹は仲良く十分ずつ、一行の集合を遅延させた。
「……ツアーのレポートっていうのは、こういう演奏以外の場面も切り取っていかないといけませんからね」
繁華街の中で射命丸文がカメラを構えて、楽団メンバーの写真を撮った。他の裏方や、九十九姉妹といったサポートメンバーは意図的にはけられていて、いっそ雑踏の整理さえさせられている。
「迷惑をかけてすみませんね、メンバーだけの写真が欲しくって」
「私はこういうの、裏方さんなんかまぜてあげた方がアットホームで好きだけどなぁ」
と言ったのはメルランだったが、文はそういう話ではないんですよ、といったふうに肩をすくめている。
「まあ、そういう写真も撮っていきますよ。おいおいね」
そうしたやりとりなど知らぬ顔で、赤蛮奇たちは横合いにあったちっちゃな小間物屋に入り込んでいた。
「――いいの? こんな安物売ってそうなお店で」
「言っちゃなんだけど、こういう方が畜生界らしい」
「まあわからんでもないわね」
赤蛮奇の頭たちが、あれこれ、髪の毛に編み込むビーズなどの安っぽい装飾品を物色している間、小傘は少し手持ち無沙汰になって、かたわらにあった眼鏡スタンドの回転台を、遊びでくるくると回し始めた。
「……あんたたち、みんな先に行っちゃうよ」
何分かして店内に呼びかけてくれたのは、九十九姉妹の二人だった。
「あ、はーい――色々思いつくところはあるから、買うのはまた戻りながらにしようか……小傘?」
「う、うん。うん?」
店の姿見に向かっていた小傘が、そう返事をしながら振り向くと、その鼻の上には、濃緑色のまん丸いレンズのサングラスがかかっていた。
「意外に似合うわね」
とは赤蛮奇の首の方のコメント。
「しっかし騒々しい街だわ」
と、都市の往来を歩いているうちリリカがぼやき始めるのを聞いて、それも仕方がないと、そばを歩いていた雷鼓は小さく思った。
このメトロポリスは、畜生界という世界の上でモーターが焼き切れるような音をぶんぶんいわせて、のたうち回るように活動していた。びかびかときらびやかで、けたたましい。
(幻想郷では、彼女たちより騒々しいものはなかったものねえ)
だから、今この騒々しさに、彼女たちが戸惑う気持ちもわからなくはない。しかも、この騒々しさにはなんの意味もない――やがては畜生たちなりの原風景的な意味がつけられたり、当初はありもしなかった意味が再発見される時がくるのだろうが。それまではただの機械都市のゴミ箱でしかない。
(ゴミ箱……そう、私たちはゴミ箱に飛び込んでしまったわけだ)
雷鼓はふとそんなふうに感じたが、別に、この業深い土地に敵意や嫌悪を感じてそう思ったわけではない。むしろどことなく親しみさえ感じながら思った所感だったのだ。
「世界が騒々しいのなら、私たちはもっと騒々しく、めちゃくちゃにやればいいのさ」
と、ふと呟いた。世界に対する向き合い方としては、この場合は意外と悪いやり方ではなさそうな気がした。
「……ところで、みんなちゃんとついてきてる?」
「知らなーい」
「一応は、たぶん」
気にも留めていないメルランと、手のかかる妹が無限に増えたように落ち着かない様子のルナサとが、順番に答えた。実際は、依神姉妹がいつの間にかどこか繁華街の路地裏に消えていたし、赤蛮奇と小傘は、とうに何百メートルも後ろに取り残されつつあったが、それらのものは無視している。
「ところで、どこに行くつもりなの?」
「目的っちゅうのがないのよね」雷鼓は正直に答えた。他人の用事にかこつけて外出したつもりなのに、なぜか自分たちの方が、目的あってぶらついている主流のようになっている。「どっかに飲みに行こうとは思っていたけれど」
「明日から忙しいんだから、今日くらいはそこまで飲みたい気分ではないけどね」
と、プロフェッショナルらしい事をリリカが言った。
「……でもまあいいや、むしろ明日を思うと飲みたい気分なのかも」
彼女はプロフェッショナルらしさを即座に撤回した。
「飲むなら飲むで、誰かいい店屋を知らないの?」
「そりゃ、ガイドブックに載っている店くらいはしっかり頭に入れてきていますが」新聞記者の片割れが口を挟んできた。「ガイドブックの店は所詮ガイドブックの店ですよ」
「ガイドブック嫌いなの?」
射命丸文の、ガイドブックへの負の思い入れは置いておいて、そうしたやりとりをしているうち、繁華街の先の雑踏が、最初はざわめいて、次にまっぷたつに割れた。人の流れを押しのけるようにして雷鼓たちの目の前に現れたのは、埴輪の騎兵の分隊だった。
「あなたがたの警護をしろと仰せつかりました」
埴輪の馬から下馬して、彼女たちにそう言った埴輪の騎兵隊長は、ついで自分の名前を杖刀偶磨弓と名乗った。
「……それと、この都市の案内もしましょう。我々にも多少の制約はありますが、可能な範囲で要望に応じる事もできます」
「手厚いね」
わずらわしいものを見るように雷鼓は言った――事実、わずらわしかった。だからホテルで警護にあたってくれていた埴輪の兵士たちに対して、室内の荷物を守ってくれるよう厳に頼んでおいて置き去りにして、自分たちの身を軽くしようとしていたのだから。
「こっちは飲みに行きたいだけなんだけどね……」
「了解しました。案内しましょう」
そのまま、一行は数騎の騎兵の輪の中へと巧みに囲い込まれて、畜生界の繁華街を見世物のように縦断する羽目になった。
雷鼓は鼻白むしかない。
赤蛮奇と多々良小傘だけは、一行から取り残されている。
「この染め物のスカーフとか、首元に巻くといい感じなんだけどねえ……」
「でも、ステージ衣装があるんでしょ?」
「もちろん制約は多い。ついでにクライアントの要求も」
と、繁華街の本筋から一本ずれた、古着屋街の中の小さな土産物屋で、彼女たちは妙に熱を持って議論している。
「首から下は衣装担当の領分よ」
「まあ、一応買っておけばいいでしょ」
どうせそこまで高いものではないのだからと、赤蛮奇は遠慮なく小物を買っていく、そこに、小傘は付喪神として内心ざわつくものを感じなくもないのだが、あまり指摘するのもよくないと思った。
「……ま、今回その機会がなくっても、大事に使ってあげようね」
と言うだけにとどめておく。小傘の顔には、さっき妙に気に入って購入してしまった、丸いレンズのサングラスがかかっていた。
「……それにしても完全にはぐれたわね」
「もと来た道を戻れば、ホテルには無事に帰れるでしょ、さすがに」
はぐれた事への懸念が無くはなかったが、基本的にはそんな調子なのであった。
「あの人たち、どこに行ったんだろう……」
「まあ、ああいう連中がどんちゃん騒ぐといえば、飲みでしょ」
赤蛮奇と小傘は冷静に分析しながら、意外と無事な帰路を歩んで、ホテルの自室へと戻っている。
「まあ私もお酒は嫌いじゃないけど。ルームサービスでなにか頼みましょ」
「おにぎりセットでいい?」
「なんでそんなに庶民的なのよ……」
そのような調子の小傘をおしのけて、赤蛮奇がルームサービスの受話器に向かって適当におすすめのメニューを頼むという流れがあったが、ルームサービスは、白ワインと焼きおにぎりのセットを持ってきたのだった
「やっぱり結局はおにぎりセットなんだよ」
「どうしてそうなる」
とは言うものの、カリカリの焼き加減のおにぎりは、火で炙った香味味噌や、米飯に練り込まれたツナのほぐし、梅肉といったものの風味が、芳醇な白ワインと共に、飲む前から香ばしく香っている。
「……まあ、いいや、悪かないね。ほどほどに飲みましょ」
「明日があるからね」
と、いまいち冴えないホテルの一室で、彼女たちはグラスを打ち鳴らした。
一方、雷鼓たちのバンドメンバー一行は、埴輪兵団に囲い込まれ導かれるがまま、兵団が運営している社交会館へと案内されていた。
「私ら観光するつもりだったんだよ」
と席に着きながらも、雷鼓は愚痴をこぼした。
「それがこんな将校クラブに連れ込まれるなんてさ、色気もなにもあったものじゃない」
「ご注文は?」
「……ジントニック。氷は使わず、グラスとジンは冷凍庫で冷やしたものを使いなさい。ジンはビーフィーターの四十七度、トニックウォーターはシュウェップス。ライムは小ぶりなものでいい――皮を剥いて果肉だけにして、一個丸ごと沈めて」
磨弓に向かってつっけんどんに注文してやると、すぐさまその通りのものが出てくる。もちろんカクテルを作る人間はこの兵長ではないのだが、なにかの方法でクラブのスタッフと密な連携があるらしかった。
「……みんなも頼みな。ただしほどほどに」
金属のマドラーでライムの果肉をがしがしと潰しながら、雷鼓は他の者たちにも呼びかけた。
「全員、とりあえず生ビールでいいってさ」
ルナサが不気味さに気圧されながら言うので、雷鼓は苦笑いした。
「みんなもっと変わったものを頼んで、せいぜいバックヤードを困らせてやればいいのに」
「雷鼓さんみたいに、キンキンの胃に悪そうなものを好んで飲みたがる子ばっかりじゃないのよ」
弁々が言っている間にも、楽団メンバーとスタッフへ、人数分の生ビールが行きわたった。ついで酒の肴になるような軽食も順次運び込まれてきて、その手際の良さにはいささか機械的で無機質なものを感じなくもなかったが、ともかく饗宴の準備は整えられて、誰かが一声出さなければならないような雰囲気に、なってしまっている。
「じゃあご挨拶を、雷鼓さんから」
「あ、私なんだ」
三姉妹からうながされるように、雷鼓は宴の席で立ちあがった。
「……明日からよ」
まずささやくように一同に言った。
「とにかく、明日からよ。私たちはまだなんの仕事もしていない……私個人は、あっちこっちとの調整やら交渉やらのせいで、もうここ数ヵ月はこの仕事に関わってばかりだったけどね……うう……」
おどけるようにうめくと、座からクスクス笑いが漏れる。たぶんリリカの声。
「……まあ、そんなわけだから、個人的には今日でなんだか肩の荷が降りそうな錯覚があるんだけど、そうもいかない。コンサートが始まるのは明日からよ。奴らを――えーと、畜生界の連中……いや皆様方を、楽しませてやりましょう、私たちの騒々しさでね。
「来てみてしみじみ思ったのだけれど、この世界は騒々しいくらいの音でいっぱい。けれども、おそれなくてもいいわ。本来、私たちの来し方――幻想郷の方が、何倍も騒々しかった事を思い出しましょう。たしかに、あの世界の騒々しさとは、和音と、不協和音。かわいらしい空気ばかりが混じっていて、千の楽器がもつれながら降るようにむちゃくちゃなやつで、畜生界の騒々しさとは種類が違うかもしれない。
「でも、あの世界での私たちがなんであったかを考えれば、この世界との向き合い方も、おのずとわかるでしょ。この世界の騒々しさを恐れる必要はない。だってここでも、きっと私たちが一番騒々しいんだから。あとはそれを証明するだけ。
「……さっさと飲みましょう。そして、明日からよ」
「絶対に、誰もびっくりしないよ」
酔った赤蛮奇は顔を真っ赤にして笑いながら、小傘に向かってからかうように言った。
彼女たちはエレベーター前のロビーにいて、エレベーターの階数表示は、徐々に、自分たちがいる最上階へと近づいてきている。直近でルームサービスを依頼した記憶もない(記憶が吹っ飛びそうな飲み方はしているが)。誰かが帰ってくるらしい事だけは確かだ。小傘はその出口の前で、仲間たちの帰りを張っているのだ。
「絶対びっくりしない。それは保証する」
と言いながら、赤蛮奇はそこのテーブルに拡げてある酒やつまみを、まだひろった。彼女たちは自室でひとしきり飲んで、その間に何度も酒を追加で注文していたが、夜が更けてくるにつれ、雷鼓たち一行が一向に帰って来ない事が気にかかり始めている。そのことが、二人だけの宴会を、エレベーター前へと移動させたのだった。
「まあ見てなさいよ」
小傘は気に入ったらしく、鼻の上でサングラスの真ん丸なフレームをきらめかせながら、言った。
「どうせ酔っぱらって帰ってくるのよ、これくらいの――」と言いかけたところで、もうエレベーターのドアは開き始めていた。要するに、はなっから、驚かしに必要なテンポがつき崩されているのだ。こんなところで、小傘が重心を崩されている感じの「お、おどろけー!」を言っても、そこにはなんの驚きもない。失笑は漏れるだろうが。
「……はっ、なにやってんの」
事実、依神女苑と依神紫苑の姉妹の口から漏れ出でたのは、そうした失笑だった。
「うちらも、みんなからはぐれたクチでさ……まだ帰ってきてないんだ?」
と言いながら先の二人のご相伴に預かり始めた女苑は、一応は他の方々の帰りを気にかけているふうを示して、呆れたように付け加えた。
「もう午前様になるわよ。明日からなんでしょ、本番」
「とんだパーティーピープルだわ」紫苑もちまちまとおつまみをつつきながらぼやく。「二十四時間パーティーピープル」
赤蛮奇が尋ねた。
「あんたらはなにしてたの?」
「ビズ」
気取った略語で女苑は返す。
「どうもお気楽な観光より、そういう事にご執心なのが私たちのサガらしくて」
「女苑の、ね」紫苑が訂正する。「あんまり巻き込まないで」
「でもついでに、面白い話も色々と仕入れてきたわ。特に、畜生界の世間様が、今回の彼女らのコンサートについて、どう感じているのか、とか」
「まるで新聞記者みたいな仕事ぶりね」
専属の記者がいるというのに、それ以上に仕事をやってくれているふうがあるというのは、どうなのだろうか。
「それに彼女らが演奏する劇場、怪人が出没する噂で有名らしいとか」
「めちゃくちゃ気になる情報じゃん……」
驚かしを失敗させて一人ふてくされていた小傘が、会話に戻ってきた。
翌朝、上昇してきたエレベーターの箱の中には、酔っぱらってどろどろの女たちが積載されてやってきて、ドアが開く。しかし誰もが一度は立ち止まった体を再び動かす事すら重だるくなっていて、そのせいで一度ドアが閉まりかけてしまった。
「……おっと」
雷鼓が慌ててドアの開閉ボタンに手を伸ばして、その間にプリズムリバー三姉妹や、九十九姉妹といった面々がふらふらと最上階のエレベーターホールへと降り立った。
「うわぁ、こっちでも酒盛りしてる……」
とメルランが若干引き気味に言ったのは、小傘と赤蛮奇と、そして依神姉妹がロビーで泥のように寝転がっているからだった。
「サウンドチェックは昼からだから」
雷鼓はこめかみを押さえながら、エレベーターを閉じた。
「それまで休んでなさい、全員」
「もう、私、ここで寝るわ」
「ああ、それ賛成。魅力的」
「さすがに部屋に戻りなさい」
廊下の床に寝転がり始めるメルランとリリカ、それをとがめながら自室に向かいかけて、何も無いに蹴つまずいてずっこけたまま起きようとしないルナサを見て、雷鼓はため息をついた。
「先が思いやられるわ」
彼女がそう呟いた背後で、酔っ払いどもの第二陣を満載したエレベーターが到着してドアが開き、誰も降りられないままにまた閉じて、再度階下に送られていった。
「……で、埴輪兵団の将校クラブに案内されて、そこで飲みまくってたわけ? へー」
「ごめん、あんま喋んないで」
ルナサ・プリズムリバーは渋い顔を崩せないまま楽屋の鏡に向かって座り、ヘアスタイリストの赤蛮奇に髪をいじらせている。この赤蛮奇は、日常の体を動かしている頭ではなかった。彼女の頭同士に結ばれた協定によって、このヘアメイクの仕事の時は、それを行う頭に一時的に主導権を譲る事が定められていた。
「まあ、朝まで飲んでたのは私たちの勝手なんだけどね、あそこの雰囲気が、飲まなきゃやってられない感じで……」
「でも兵団の人たちがしっかり面倒見て、朝帰りまで護衛してホテルに送ってくれたんでしょ」
「この世界の市民の皆様におかれましては、たいへん面白い見世物だったでしょうよ」
自虐的にルナサは言った。
「まあ……もうなんでもいいわ。いいようにしてちょうだい」
「あいあい」
赤蛮奇は朗らかに応えた。この頭だけは、昨晩の酒盛りでも酒量はそこそこに抑えていて、就寝時間にさっさと休んでしまっていた。体に酒が残っていてだるいのには閉口していたが、頭も体も重だるくなっている連中よりはましだ。
一方、その他の赤蛮奇の頭たちは、小傘と共に楽屋の隅で青い息を吐いていた。
「見なよ、あいつらなんか完全に使い物にならない」
雷鼓はそう言いながら、自身のエアリーな浮き感がある髪の仕上がりにご満悦で、軽くリズミカルに頭を振りながらその動きを確かめていた。
「今のうちに、またしても体を乗っ取ってみたら?」
「まあ、口うるさい頭どもの首長になるのも、あれはあれで大変なんで――失礼、こっちに頭を傾けて……」
赤蛮奇はしみじみと言いながら、メルランの髪に取り掛かり始めた。
「この耳飾りは私物?」
「いけない、昨日からつけっぱなしだったわ。外した方がいい? すぐ外すけど……」
「いや、これがいいわ」赤蛮奇はメルランのくせっ毛を持ち上げながら言った。「このあたりの髪に流れを作って、チラ見えするようにしましょ」
そうした采配を赤蛮奇が次々に決めつけるように、てきぱきとやっていくのを、その他の赤蛮奇たちと小傘は、青い顔をしながら感心して眺めていた。
この客入りの量が、この劇場で行われるコンサートにしては多いのか少ないのか、劇場の入り口に立っている女苑や紫苑には、それすらわからない。それでも会場のキャパシティは充分に埋められるのだろうと思われる。
「よくぞお越しいただきました、お荷物お持ちいたします。外套は、クロークにあずけましょうね。貴重品を外套に入れっぱなしにしているなどはございませんか?……あぁ、良い席をお取りになりましたね。あそこからは舞台全体を見通せます。邪魔っくるしいあの柱が、右半分のもう半分を遮っている以外はね。お荷物は、肌身離さず持っておきましょう。お手洗い等に行く時でもですよ。なにせここは畜生界、良からぬ輩も多い場所。あなたは、おのれのわずかばかりの財産を、後生大事に握っておいた方がいい……」
そんな調子で、女苑はやってきた観客をつかまえては、指定席に案内する役割ばかりを、劇場の係員に混じって、何度も往復して続けていた。
「あんた、本当じいちゃんばあちゃんからのウケだけはいいよね」
「だからって金くすねるんじゃないよ」女苑は姉にだけ聞こえる声で言った。「今回に限っては、自分たちの商売は無し。この公演で昔の騒動の落とし前つけたら、さっさと幻想郷に帰っちゃおう」
「わかっているってば――あ、なに? その席? それはあっちね。あの階段の方……」
熱心さはかけらもないが、紫苑も一応は業務に従事している。
「気をつけなよ、こうも混んでいるコンサート会場は、押し込み屋も出るだろうから」
「……あの、遺失物管理所にあった角とか?」
「なんかあったんだろうね」
女苑が言うところの押し込み屋とは、徒党を組み、不用心な独り身の少女や金持ちなどを包み込んで会場の隅に押し込むと好き勝手な事をしてしまう、人品の悪い連中の事だった。彼らのやりくちは巧妙で、時には何人もの女たちを雇ったりして、大時代風に着飾らせて壁役にして、大規模な傷害や強盗行為に及ぶ事すらある。
それにしても、この盛況はどういった種類のものであろうか、女苑と紫苑は(完全な正確さは望むべくもないが、少なくともある程度は)知っている。
ビズなどもっともらしく言っていたが、姉妹がやっていた事は、どんちゃん騒ぎへのただ乗り行為だ。繁華街のクラブのひとつでやっていた下品な豪遊を見つけて、その主人役に取り入って、一晩だけのご相伴に預かっていた。
もちろん、ただパーティーに紛れ込んだだけでは確実に叩き出されるだけだが、そこはとっさの値踏みがあった。パーティーの主人役がどこかのお大尽の愛人らしく、虚栄的で、金に飽かせていて、なにより思慮分別が足りない事を、クラブの外にまではみ出してきていた乱痴気騒ぎの中で察した――路上で羽目を外しすぎてぶっ飛んでいるのを見てそう判断しただけの事で、そこまで深い洞察ではなかったが。
女苑はそうした女たちにまぎれる事には慣れているし、そのような社会にはそのような社会なりの見識がある事も知っていた。
「姉さん」と女苑は姉に助言した。「頭の足りないふりをしてな」
「私いつもそういう役回りだよね」
こうして、依神女苑と依神紫苑の姉妹は、多少おつむがかわいそうな姉と、そんな姉とおのれを身一つで養っている、見てくれは派手だが根は純朴な商売女の妹というキャラクター設定で、パーティーの中にするりと紛れ込んだ。特に疑われる事も咎められる事もなく、話し相手になってやれた。真偽はどうでもよくなるほどに、女たちは退屈していたからだ。
乱痴気パーティーの中には、様々な、しかし空虚な会話が飛び交っていた。まったく中身がないというわけではないのだが、みんな自分の話しかしていないという意味での、空虚だ。
女苑はそうした好き勝手な話題の種をつなぎ合わせて、一個の話題にしてみたり、時には鋭い批評までまじえていたが、結局は退屈を認めるしかなかった。同時に、こうした人々はただそうした世界に順応してしまっただけの事で、別にはなから無思慮で無分別だったわけではない事も、いつもの事ながら感じた。
そんな中で、ふと、話の種のつもりで、プリズムリバーウィズHのコンサートを知っているだろうか、と尋ねた。
もちろん、と彼女たちは言う(彼女たちはなんでも知っているふりをする)。
「でも」と女苑は、わざと楽団を貶めてみた。「あいつら田舎者だよ。がちゃがちゃした騒音を引っ提げてきて、ここの一番いい劇場のひとつでやるつもりなんだ」
そうしたくすぐりをやってみると、様々なご意見を聞く事ができた。女苑としては、少しうんざりしたくらい。
結局、畜生界にとっては、自分たちは幻想郷からやってきた田舎者を眺めているにすぎないらしい。その物珍しさだけが原動力になっている。
(別に偏見だとか、間違った見方だとも思わない)
とも女苑は思った。この世界における自分たちは、日本からやってきた猫にすぎないのだろう。
(最初は興味深く見られるだろうけれども)と、冷静に分析する。(それだけでは一過性のものよ)
所詮、彼女たちは、辺境の・田舎の・世間に揉まれていないところで、ちんまりとまとまった感じでやっていただけの楽団だったのだから。
(そこから先こそが彼女たちの本当の価値かもね)
女苑はそんなふうに、あの姉妹たちや、それに従ったサポートミュージシャン、裏方の人々の事まで考えた。
(ま、私には関係のない話だけど)
今日が終わったらさっさと幻想郷に帰る事は、かねてから決めていたような、かと思えば今思いついた事のような気もしている。
「どうする? 円陣でも組んで“おーっ”ってやる?」
「そういうガラじゃないでしょ私たち」
「でも、まあ、やっときましょう」
「小さい声でね……せーのっ、おーっ」
舞台袖で前座のミュージシャンの演奏が終わるのを待ちながら、プリズムリバーウィズHは、小さく固まって、気合を入れていた。
「……それにしても、今ここにこぎつけるまでの準備が大変だったわ。自分で蒔いた種とはいえ、ね」
「わかってるよ」
雷鼓がぼやく横で、ルナサは頷いた。
「それが、私たちをここまで押し上げるためだった事も含めてね」
(でも、それは私たちが望んだ事だったのかしら?)
という皮肉も、ルナサはこっそりと感じている。ここ数年、雷鼓の加入などもあって楽団の活動が大がかりになっていくにつれて、彼女にはあるひとつの懸念が芽生えていたが、それが、ついに具体性を有して、目の前にあらわれている。内心ではそう思っていた。
(私たちは本当にコントロールを失いつつあるのでは?)と。
「まあ……もうなんでもいいわ」なかばやけのように、ルナサは小さく呟いた。「いいようになってちょうだい」
翌朝、射命丸文と姫海棠はたてが煤けた格好のままに幻想郷へと打電した初報は、以下のようなものだった。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
その夜、アンコールは引きも切らず、求める声は楽屋にまで聞こえてきた。
「これで何度目なの……」
と、さすがに小傘たちも辟易してくるほどに、客席の拍手が止もうとしない。むしろ、その求めがどんどんと大きく、切迫しているような気さえしてきていた。
「もう日付変わるよ……」
さすがに、この反応が望外と言えるほどの大成功であるという事と、異常な事態に発展しつつある事を、彼女たちも察している。雷鼓が、劇場の支配人に呼び止められて、楽屋の外で数分ほどやりとりを続けていた。その間にも、楽団をたたえる声がただの怒号へと変化しかけている。
「……とりあえずお色直しはしておきましょう」
赤蛮奇は一見冷静な様子に見えたが、単にやるべき仕事を持っているから冷静になれているだけにすぎない。姉妹たちの火照る頬や演奏パフォーマンスの中で乱れた髪を軽く整えてやって、それから軽く言葉かけをした。
「やばい事になってるみたいね」
「もうめちゃくちゃよ」
「さっきのアンコールでは、何人か二階席や三階席から飛び降りたりしてたわね」
「というか私たちの演奏、聴いてくれてるのかしら」
それくらいの歓声が起こっていた事は、楽屋からも聞こえていた。
「……次で終わってくれってさ」
その時、雷鼓が支配人との協議から戻ってきて、言った。
「どんなにもっともっととせがまれても、次で、終わり」
「私たちだって終わりたいわよ!」
ついにルナサが神経質に怒鳴ってしまったが、すぐに鎮静して、頷いた。
「……曲目はどうする?」
こういう場合のセットリストにはいくつかのパターンを作っていたが、雷鼓はその中でも、特に落ち着いたものを即座に選択した。
「おやすみ系のやつね。わかった」これはリリカが言った。「となると、アンサンブル的には私メインにした方がいいね」
「とにかく、特別チルい感じでやるから。入りはドラムのテンポに合わせて」
楽団がステージに呼び戻された後、楽屋ではどことなく不安な十数分が過ぎた。ホール内部の様子はモニタリングされているので確認できるのだが、赤蛮奇はあえてそれを見まいとして、化粧落とし用のクレンジング用品や蒸しタオルなど、この後も使う以外の仕事道具を、手早く片付け始めた。
小傘は、その様子を見て、かがみこんで尋ねた。
「なにやってるの?」
「さっさと退去できるように」
「なんか起こると思ってる?」
「逆に聞くけど、これで、なんにも起こらないと思ってる?」
その時、楽屋内で息をのむ声が上がった。赤蛮奇と小傘も、はっと顔を上げて、ホールを映すモニターに目を向けた。
「幕が下りたわ」
見ればわかる事を、九十九姉妹のどちらかが――たぶん八橋だったと思う――言った。
だが、異常事態が起きているのは明らかだった。興奮し、暴徒と化した聴衆によって、緞帳に向かって、なにかが投げつけられている。マッチ、発煙筒、強い生の酒の瓶、など。
緞帳には防炎加工が施されているのだろうが、意図的な放火にはどうだろうか……と誰もが思っていると、モニターの端が、ちらちらとほのめかすような光でゆらめき始めている事に、誰かが気がついた。
「めちゃくちゃだわ」
背後にステージからどうにか戻ってきた雷鼓の声を聞いて、小傘たちは振り向いた。
「あいつら劇場に火をつけ始めた」
小傘たちがふたたびモニターに目を戻した時、火災のためにカメラが断線したのか、画面はブラックアウトしていた。
「……これまずくない?」
メルランの呟きは今更のようだったが、むしろ現状を再認識するための一言だった。
「まずいわ」
自分の荷物――他の赤蛮奇の頭たちは小傘に任せている――を持ち上げながら、赤蛮奇は何遍も同じ語を呟いている。
「まずい」
「みんな、荷物は持った?」雷鼓はあくまで平静に、自分の唯一の荷物であるボストンバッグを担いだが、その口からは無造作に突っ込んだドラムスティックがはみ出していた。
「しかしどうやってここから出るのやら」
「暴動は外まで広がっているらしいわね」
「埴輪兵団が治安出動しているらしいよ」
そうした真偽不明の情報が飛び交う中で、雷鼓は劇場の支配人にかけあう。
「本来支援者にしか使えない専用の出入り口とか職員の通用口なんかから脱出すればいい、ってさ」
しかし、暴動は既に劇場の内部から表玄関、ついでその敷地を取り囲むように広がっている。この興奮にはある種の感染性があるらしい。
「どうなってんのこれ」
「ひとつ言える事があるとするなら」雷鼓は通用口にまで群衆が回り込んでいる情景を見て、うんざりと言った。「今夜はあまり人には会いたくない気分ね」
「空飛んで帰ろうか」
「目立つわ」
「兵団の騎兵隊をよびつけて、護送してもらうとか……」
「暴徒を余計に興奮させるかもしれない。――いい? 私たちは、ここはこっそりと出ていくべきよ。そうじゃない?」
「言うのは簡単だけどさぁ」と、絡むように、文句たらたらに言ったのは女苑だった。「でもどうやって――」
言いかけて、彼女は言葉を切った。
「……いや、逃げ道はあるわ」
「え、あるの?」おどろいたように言ったのは、姉の紫苑だ。
「ある。姉さんも昨日聞いたでしょ、この劇場に怪人が潜んでいるっていう、あの噂」
「え、まあ、うん……」
「……あ、そういうことか」
「へ?」
雷鼓が察しよく何かに気がついた様子に、紫苑は戸惑ったが、雷鼓は細かい説明を放棄して、劇場の消火につとめようとする支配人が通りかかったのを捕まえて、なにか話し合い始めた。
女苑は一歩引いて、姉にこそこそと解説し始める。
「姉さん。ここで重要なのは、本当に怪人が出るのかどうか、ではなく、そういう噂が形成されるようになったロジックの方よ」
「というと?」
「劇場に出没する怪人といえば、オペラ座の怪人でしょ。パリ・オペラ座の若手女優と、その歌劇場の地下水路に潜む怪人の物語」
「まあ、あの話を聞いて、真っ先にイメージしたのは、そうね」
「噂が囁かれるには、なにかしら先立つ理由があるわけじゃん。そこでこの劇場とそのオペラ座に、どこか共通点がある事を想像するのは、なにも不思議じゃない。だから……」
「だから?」
「鈍いわね。この劇場の地下にも、そういう水路があるんじゃないの?」
十分後、火は既にメインホール全体に広がっていて、積極的な消火は放棄された。楽団とそれに帯同するサポートスタッフのほとんどは、劇場の支配人や従業員たちに案内されながら、メトロポリスの地下水路――何世紀も昔の、石造りの遺跡で、墓所のような区画や宗教的な聖地の雰囲気がある場所もあった――を通って、焼け落ちる劇場から脱出した。
もっとも、正面きって脱出した者たちも、いるにはいた。
「足手まといにならないでよ」
「あんたこそね」
あくまで正確に状況を記録しようとした射命丸文と姫海棠はたては、大ホールの火が広がり、大階段のあたりにまで漏れ出して徐々に濃くなっていく煙の中を、駆け出したい衝動の中でつかつかと歩いていた。
「それにしてもまあ、すごいありさまだわ」
と言いながら、文は二、三回とカメラのシャッターを切る。
「どうしてこうなっちゃったのかしら」
はたてはぼそりと呟いたが、理由はわかっている――わかってはいるが、あまりに常識離れしすぎていた。
「プリズムリバーウィズHの演奏が、ここの畜生霊たちを狂わせるくらいに良かった」その常識離れした理由を、文はさらりと、直截に言った。「どう考えてもそういう事でしょ。そしてどうやらこのツアー、えらいことになりそうよ」
「もうなってるのよ……」
と言ったあたりで、二人は他の群衆にまじって劇場を脱出し、その本格的に燃え始めるのをぼんやりと眺めていたが、もちろん、その画を写真に残す事は忘れなかった。
「……あ、そうだ、文」
「なによ」
はたてに袖を引かれて、文は引き寄せられた。ぴろんという電子音、フラッシュ。燃え盛る劇場をバックに、はたてが文とツーショットの自撮りを撮った時、おりよく何かの可燃物が引火したらしい建物が、ぼんと爆発した。
やがて埴輪兵団の騎兵警察が治安の収拾にやってきて、この新聞記者たちを含む群衆を、何百メートルか退避させた。文とはたては、その兵士のうちの一人に声をかけて、プリズムリバーウィズHのスタッフパスを見せながら、楽団はおそらく無事に退去している事を簡単に伝えた。下っ端兵士一人に声をかけただけだが、兵団の通信連絡網にかかれば、瞬時に情報を伝達してくれるだろう。
「じゃあホテルに戻りましょう……」
二人は一旦ホテルに戻った後、翌朝になると今度は朝一に市内の通信局に行って、幻想郷向けの電報を打った。むろん、はたての携帯電話を使ってメールは送信しているのだが、これはあくまで私信扱いだ。正式な報告としてはこちらが尊重される。
それが以下の文言だった。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
「しかしショーは続く……?」
文はぼんやり言いながら、雷鼓が言っていたその言葉を、じっくり反芻した。
「むちゃくちゃだわ」
這う這うの体でホテルに戻ってきた雷鼓たちは、ひとまずシャワーを浴びて、埃を落とした。
多々良小傘などは、どういう運の悪さか、顔面に何枚もの蜘蛛の巣をべっとりと貼りつかせているのを、かきむしるように自室の浴槽で落とした。
「……この後どうなるかしら」
シャワーから出てきながら、小傘は言った。
「決まってるでしょ、こんな大惨事。中止よ中止」
赤蛮奇はほこりをかぶってくしゃみなどしている他の頭たちの世話をしながら、吐き捨てるように言った。
だが、雷鼓はエレベーター前のロビーにスタッフを集めて、告げた。
「……ショーは続けなければならない」
その言葉を呑みこみきれないスタッフたちのざわつきを鎮めるまでに時間がかかる。
「もちろん、あの劇場での第二夜第三夜といった公演は、中止にせざるを得ないけれどもね。だから、多少は今後を考える猶予はある。しかし、ショーは続けなければならない」
雷鼓は、多くは言わないまま、話を続けた。
「……ついてけないと思ったなら、幻想郷に帰った方がいい。このツアーは、これから、むちゃくちゃよ。ろくな事にならない。損得勘定をわきまえている奴らなら、今に帰ってしまうでしょうね」
事実、既に行方不明のスタッフもいた。依神姉妹だ。彼女は別に火災の火に巻かれたわけでもなく、申告無しのまま、さっさと幻想郷に帰ってしまったのだろう。
「でも私はツアーを続けるわ。ショーは続けられなければならないから」
これは別に格好つけたセリフでもなんでもない。劇場が火事に遭って、その会場での以降の公演が中止になった以上、楽団の稼ぎは大赤字になってしまうのだ。そうした損害を多少なりとも補填するには、今後も公演旅行を続行するしかない。それだけの事だった。
「少なくとも、なにかを決める余裕があるっていうのはありがたい事よ」
雷鼓には、なにがしかの決定権こそあったが、やらないという事を選択する余地はなかった。
文とはたては、幻想郷への一報を送ったのち、手近にあった喫茶店の、露天のテーブル席について、そこでペルノーと軽食による朝食を注文した。
「お互い、とんでもない事に巻き込まれたわけよ」
と、彼女たちはアブサングラスをちんと鳴らし合わせて、一息に飲み下した。
「……でも、私は下りないからね」
「おや、珍しく考えている事が一緒ですね」
はたてが言った事に対して、文が笑った。どちらかが引き下がるならば、どちらも幻想郷に帰るつもりになるだろうに、という事は当人らが一番よく察していた。
「あんたは別に帰っていいのよ」
「うん。それ、私もはたてに言ってやりたいところなんですがねえ……」
どうも妙な事に相成ったものだった。
それはともかく、市内の様子である。案外平穏だった。
「情報を収集してみた感じ、あの騒ぎも結局は劇場の周りで落ち着いたみたいね」
と、自分の携帯電話をぽちぽちしながらはたては言う。
「……というより、こっちのニュースでも、騒動の原因が伏せられているのよね。もともとこういう騒ぎがしょっちゅうなのかもしれないけど、扱いが妙に小さいし、警察組織の発表もテロの可能性だのなんだの、なんとも歯切れが悪いわ」
「緘口令ですか」
文はため息をついたあとで、言葉を継いだ。
「……まあ、彼らも信じられないのかもしれませんね。彼女たちの音楽によって、暴動が起きたって事が」
「でも、そういう伝説はたまに聞くよね。センセーショナルな音楽の初演が聴衆に暴動じみた反応で迎え入れられた、とか。アングラなロックバンドのライブが、毎回暴動の様相を呈していた、とか」
「ああいうのは誇張表現ですよ。ある程度は本当を言っているのかもしれないけれど、本当にただの伝説くらいに聞いておいた方がいい」
「そりゃわかるけどさあ……だったら、私たちが見たものだって、そういうたぐいの事の可能性もあるよね」
「だからって火までつけませんよ、普通は」
「……実は、放火に関しては本当に演奏会と関係のないテロ行為だった、みたいな可能性は無い? この畜生界は相変わらず一筋縄ではいかない情勢なんでしょ?」
「あの長ったらしいアンコールまでは必要ありませんよね」
「……ほんと!」
はたても強硬に自説を主張するつもりはない。口から感嘆符を飛び散らして、唇を尖らせながら言った。
「とんでもない伝説が生まれた割には、しょぼくれた朝だわ!」
彼女にとっては、いつもの朝の、いつものオフィス勤めだ。
その朝、吉弔八千慧は、いつも通りに自分の組のオフィスに顔を出していた。
「おはよう」
と挨拶をすると、組員が挨拶を返してくれる。礼儀正しいというよりはどこか狎れるようなところさえある組員たちの挨拶なのだが、八千慧は別に構わなかった。
オフィスに出てきて真っ先に彼女がやる事といえば、午前中の数時間をかけて、この世界の膨大な報道に一通り目を通す事。途中で急用の決裁や相談が舞い込んでくる事もあるが、これはおおむね外す事のない日課になっていた。
もっとも「さーて、本日の世界情勢は……」という感じで新聞を開いたり、ラップトップを覗き込んだりしているような具合なので、そこに一勢力の組長としての威厳はあまり無い。こうなってしまうと、畜生組織のトップといえども、普通の会社勤めとなにも変わらなかった。
(この強盗事件は勁牙組の仕業ですね。目的を達成したら風をくらって辺境に向かい、越境して収奪物を売り抜く。あいかわらずやり口が古典的というか、なんというか。……尤魔は相変わらず同盟内部の派閥調整に四苦八苦してますね。表に出るものは少ないですが、彼女が一枚噛んでいる事業の労働組合がごたついているだけでも、伝わるものはある。まあ奴がグダついてくれるぶんには願ったりかなったりなんですが……おや)
と、彼女の目の動きが止まる。昨晩、劇場で起きた火災の記事だった。
「……ふーむ?」
記事の書きようもそうだが、奇妙な暴動だと思った。
(真夜中に起きた事件の初報とはいえ、原因が判然としません。そのくせ、その日のコンサートの楽団員の安否だけはわかっている。はっきりしていそうなところがはっきりしておらず、はっきりしていなさそうなところがはっきりしている。……一応はテロ行為なのではないかともほのめかされているが、可能性は迂遠な言い回しによって遠ざけられている)
そもそも、幻想郷からやってきた田舎楽団の演奏会で、わざわざテロを行わなければならぬのか。これがわからない。文脈のないテロ行為自体は無くも無いが、だからといって小さな記事にしていい理由はない。
この演奏会を畜生界側で後援していたのが埴安神袿姫であった事も思い出して、そちらの関係の抗争だろうか……とも考えたが、あの幻想郷――あの、暴力的解決を好んで行う世界としての幻想郷――の勢力まで巻き込んだごたごたに発展しかねない事を、わざわざやらかすのは、解せない。
そんな抗争が、こんなにちんまりとした、言葉を濁した記事にされているのは、もっと解せない。どこかで情報統制が行われているにおいが感じられる。
「……どうやら、なにかが起きましたね」
八千慧は言った。まったく内情を把握していないが、この読み自体は正しい。
「――しかし、この演奏旅行は続けられます。今回被災した劇場だけでなく、この都市だけでなく、畜生界の様々な場所で、今後もコンサートの予定があります。私たちはショーを続けるでしょう」
その日、昼過ぎに行われた記者クラブでの会見は、堀川雷鼓のそうした言葉でしめくくられた。
「……ともあれ、そういう事よ」
会見後、雷鼓はバックヤードに引っ込んだ後で、自分たち専属の報道員らに言った。
「結局、原因は不明という事で今後も通すのかしら」
「まあ、私たちだって、本当にわかっているとは言い切れないしね」
雷鼓は首をすくめて、文と、はたてを、交互に見まわした。
「いつかはほんとの事を語る時は来るかもしれないけどね。我々の後援者――埴安神袿姫――だって、本気で緘口令に躍起になっているわけじゃあないと思うよ。人の口には戸が立てられない事も、よくご承知だ」
「実際、徐々に噂が広がりつつあるみたいなのよね」はたてが携帯電話のぽちぽちを続けながら言った。「今回の暴動の原因は、楽団の演奏そのものではないのか、って」
「過去の、幻想郷での事例もほじくり返されつつあるようです」これは文が言った。
「……今回はともかく、過去にそこまでの暴動起こしたおぼえはないよ私たち」
「しかし大なり小なり、そうした興奮と、どんちゃん騒ぎが観客にとって楽しみの一つだった楽団ではあるでしょ」
「……まあ、そうね」
「それと、幻想郷そのものへの偏見で、ある事ない事話に尾鰭がついている部分もありそうなのよね」
「幻想郷そのものへの偏見って、なにさ」
「諍い事はすべて決闘で決着をつける以外、法らしい法も持っていない、治安最悪の、ド田舎」
「ただ悪口並べてみただけじゃないのよ」
雷鼓はふくれてみせた後で、少し面白みも感じた。一面的でしかない見方なので実際にどうしようもなく偏見ではあるのだが、案外と実情を捉えてもいるのではないか。
(自分たちはそんな騒々しい場所からやってきたのだ)
と、ふと思った。
一方、ホテルの一室では、赤蛮奇の九つの頭による協議が続けられていた。
「冗談じゃないよ、もしこのままツアーの帯同を続けて、万一の事があったらどうすんのよ」
「少なくとも、その万が一は既にあった後でしょ」
「でも、楽団のヘアスタイリストとしてツアーについていくっていう契約は契約よ……そこはしっかり筋を通さなきゃいけないんじゃない?」
「その楽団側が、今後もツアーは続けるけれども、ついていけないなら帰ってくれてもかまわない、って言ってるんでしょ」
「そんなの試し行為よ。ほんと、来て欲しいならそう言えばいいんだ」
「いなくなっても、代わりはいるんでしょう。今日明日で私たちがいなくなっても、明日明後日の間に補充が入るようなさ」
「嫌な事を言うわね……そういえば、あんたはどう思うの?」
赤蛮奇の頭たちは、きいきいとうるさい議論を一旦やめて、一つの頭に注目した。それはもちろん、楽団のヘアスタイリストとしてツアーに帯同しているその頭であり、同時にここまでの議論を、沈黙の中で見つめていた頭でもあった。
「……楽団に狂わされているのは観客だけじゃなくて、私たちもなのかもしれないわね」
それから、その頭は、自分たちの肉体そのものに戴いている頭、他の頭たちに主導権を有している頭へと、くるりと向き直った。
「私は、あんたが決めてくれればいいと思う。あんたが正しい決定をできるかどうかはわからないけれど、それは誰だってそうよ」
「……ふむ」
赤蛮奇の上に立つ赤蛮奇は、少し考え深げに鼻を鳴らしたが、その後は少し黙考した。しかし、それも長い時間ではない。
「私は……」
言いかけたところで、部屋のドアが勢いよく開いて、多々良小傘が飛び込んできた。
「ニュースよニュース」
驚きあきれる、頭ばかりの赤蛮奇一同を差し置いて、小傘は言った。
「あのね、緊急だけど、今夜、プリズムリバーウィズHのテレビ出演が決まったらしいの」
「テレビ出演ん?」
柄にもなく驚愕したのは、ヘアスタイリストの頭だった。
「そう、たぶん、劇場の災難の埋め合わせって感じで、なんやかんや調整があったのかもね。なんだか畜生界メディアの注目も集まっているみたいだし。とにかく、すぐにロビーに集まってだって。じゃ、他の人たちにも――」
「……小傘」
と、赤蛮奇本体は、急いで外に出ようとする友人をさりげなく呼び止めて、尋ねた。
「あんた、まだ楽団についていくつもり?」
「うん、まあ、そのつもりだけど?」
小傘はそれだけ言い残して部屋の戸口から姿を消した。残された頭たちは、ぽかんと、信じられないようにお互いの顔を見合わせたりしていたが、やがて、棟梁である赤蛮奇が、くつくつと苦笑いしながら言った。
「決めたわ。私は今後も、楽団のツアーに帯同する。だってあいつ危なっかしいもん。ついてあげないとね」
ぽつぽつと同意の声が漏れ聞こえたが、一応、残留に関する採決は取った。賛成九、反対〇。この決定によって、赤蛮奇は、最後までこのショーに付き合う腹を決めた事になる。
収録スタジオまでやってきたところで、ルナサたちは不満たらたらだった。
「どうしてこんな事になってるわけ?」
「諸般の情勢や、こっちの台所事情、なにより後援者との協議の結果よ」
と、雷鼓は弁解するように言った――数時間前まで、暴動の原因は不明という事で通すつもりだったのに、何を言っているのだろう、と文とはたてまでもが訝しげに彼女を眺めていたからだ。
「私たちのパトロン様は、どうせ初日に起きた損害をペイするためにショーを続けるのなら、もっとセンセーショナルに、ショッキングにやってしまいなさいと言ってくれたんだ」雷鼓は、この独特の論理を説明するのに、いささか苦労している。「つまり、暴動が起きてしまうのなら、積極的に起こしてしまいなさい、という事だ。バンドを宣伝するに、これ以上ない伝説が生まれた。これを利用しない手はない」
「待ってよ、じゃあ、どうしてその神様は、おんなじ口で緘口令を敷いていたのよ?」
はたてが疑問を口にした。雷鼓は即座に答える。
「情報の統制は行われていたが、だからといってそうそう隠しおおせるものではない事は、私たちも理解していただろ。広告を打つまでの時間が欲しかっただけだ。あの神様ときたら、少なくとも初報を行うまでは完全なコントロール下に置きたかったんだよ。既に――」
と、雷鼓は腕に巻いていたクロノグラフを一瞥して、続ける。
「……三十五分前に最初のコマーシャルが放送されていて、私たち楽団が昨晩の暴動の原因であると、どの報道機関よりも先に、畜生界の大衆に教えている。思いつく限り最大限の宣伝効果だ。そして放送本番まであと三時間」
言いたいことはわかっているだろ、といったふうに、雷鼓はそれ以上なにも言わなかった。事ここに至った以上、体を動かさない方が悪だと言わんばかりに一人さっさと打ち合わせに行ってしまい、他のスタッフが勝手に動き出すにまかせた。
実際、もはや動き出すしか手の打ちようのない段階だった。もとより割り切ってサポートミュージシャンとして働いている九十九姉妹や、内心では腹を決めてしまっている赤蛮奇といった人々が、次に動き始めた。それに動かされるように、各々が各々の仕事をやり始めて、スタジオのその場所には最終的に三人だけが残っている。
プリズムリバー三姉妹だった。
「うん……まあ、姉さん?」
「言いたい事あるのはわかるけどさ」
と妹たちが言いかけるのを、ルナサははねのけるように答えた。
「やる事はやるわよ。仕事だから」
メルランとリリカは顔を見合わせた。今までも時々は愚痴をこぼしつつ、それでもなんだかんだと楽しく音楽活動を行ってきた姉が、演奏の事を仕事呼ばわりするのは、明らかに異常事態だ。
なにもかもが突貫の生放送だったが、スタジオがいささか殺風景すぎる事に気がつかない彼女たちではなかった。
「このスタジオをひっくり返させて、いい感じにインテリアになりそうなものをかき集めさせているんだけど、なんせコンセプトを詰め切れるか、どうか」
「センセーショナルに、ショックに」
雷鼓がスタジオを行ったり来たりして、この空間の音響の調子を確認しながら懸念をこぼしていると、ルナサが近づいてきて、言った。
「……でしょ。コンセプトはもう決まっているじゃない」
「とことん、おどろおどろしくやってやればいいわけ」
「なにより私たち、忘れちゃいけないけど騒霊なわけだしね」
メルランとリリカも、姉の提案に乗っかる形で、慌てて言った。何年も前、雷鼓が楽団の主導権を握った頃から、こんなに積極的に意見を述べるルナサは珍しいものになっていた。
「セットのデザインなんかも、そういうのに合わせちゃえ――もちろんヘアメイクも。できる?」
「できないわけがないわ」いつの間にかそばにいた――というより、ちょうど演出プランの提案とお伺いを立てにやってきた――赤蛮奇が、自信をもって言った。「それよりも、ちょこっと提案がありまして」
「誰に?――私にか」
雷鼓が尋ねる。
「なに?」
「いや、そのう、こいつらもなんか役に立ちたいみたいで」
というのは、赤蛮奇の体の上に乗っかっている生首以外の、八つの生首たちだった。
「そんなにおどろおどろしい感じのアートワークにしたいなら、こいつら、スタジオのインテリアにでもしてあげてください」
雷鼓は思わず吹き出してしまった。
「笑うなー」
「我々は本気だー」
「やめなよ、更に笑われちゃう」
「しかしまあ、よく考えてみて。突飛ではあるけれども、悪い提案ではないかもよ」
「他の機材やインテリアがスタジオ据え置きのちゃちな作り物でも、本物がいくらかあるだけで、嘘っぽさはぐっと薄れるはず」
「だがこんなやくざな仕事、なにか賞与が欲しい気分ではあるわね」
「時間給で特別賞与!」
「それも頭八っつ分よ!」
「売り込み上手ね」
雷鼓は苦笑いして頷いたので、そういう事になった。
この時の生放送を記録したマスターテープは、呪いのテープとして放送局に保管されている。
畜生界全土から放送局にあてられた鳴りやまない苦情のほとんどは、埴安神袿姫が特別回線を設けて引き受け、おのれの配下の埴輪たちに受け止めさせていた。クレームなど土師器にでも聞かせておけばいいというのは、神様らしいおおざっぱさのある判断だった。
「一行は無事ホテルに帰還しました」
兵団の通信網で知りえていた事を、真夜中に霊長園へと戻ってきた磨弓が、主の寝所までやってきて、直に伝えてきた。
「そう、囮がうまく機能したのね」
囮というのは、放送を行った放送局そのものの事だ。ライブは市街にある放送局のスタジオで行われたわけではなく、霊長園に作られた袿姫の作業工房の一スペースから中継されたものだったのだ。
「明日の朝一、彼女たちはこの都市から脱出して畜生界を巡り、ショーを続けるでしょう」
畜生界はこのメトロポリスの市域だけではない。他にも独立性の高い都市はいくつかあり、その諸都市の会場を巡るツアーは、かねてからの予定通りのものだった。
袿姫は磨弓に埴輪兵団の分隊を与えて、そんな楽団の移動に帯同するよう命じた。
「そうした場所では、この都市ほどの積極的な便宜ははかれないけれども、できる限りの事はしてあげましょう」
(しかし……)
その後、袿姫は磨弓が別室にて武具を解くのを待ちながら、少し考えさせられた。楽団のスタッフたちは、このスタジオにある彼女の製作物を“ちゃちな作り物”呼ばわりもしていた。だけれども本物がいくらかあれば、嘘っぽさが薄れるとも。
(私って、そんなに嘘っぽいかしら?)
薄絹だけをまとって戻ってきた磨弓に引き寄せられながら、彼女はそんな事をふと思った。
「悪夢みたいだわ」
と、耳元にごついピアスをつけた赤蛮奇の頭の一つがぼやいたが、それが自業自得だという事もわかっているので、小傘が抱える大ぶりなバッグの中で、おとなしく他の頭たちと共に酔いつぶれている。
「おっはよ」
早朝、ホテルのロビーで集合した時、小傘は雷鼓に話しかけられた。
「なんだかすごいつぶれまんじゅうっぷりだね、そいつら」
「今朝早いのに、飲みまくったらしくて」
と言うのは胴付きの赤蛮奇だったが、脳の酔ってなさとアルコールを摂取しまくった体のだるさのギャップとで、すごい顔になっている。
「うちと小傘は寝酒をあおるくらいで、さっさと寝たんだけどね。こいつらでめちゃくちゃ羽目を外していたのは、夢にまで出てきたからわかる」
「みんなして、スタジオライブで楽団の音を直に喰らったからかしら? ちょっとテンションやばいのかも」
プリズムリバー三姉妹が話題に割り込んできて、からかうように言った。
「人の音楽を呪いの音楽みたいにゆーな」
「……いやでも、上等じゃない? 呪いの音楽でさ」
「ついに吹っ切れたねルナサ姉さん」
ぼそりとリリカが言った。なんせ、今回に限った鬱屈ではないのを、妹たちは知っていたからだ。
文とはたては、先日と同じように幻想郷への定期連絡を行った後で、先日と同様の喫茶店で、簡単に朝食を摂った。
「……しかしまあ、吹っ切れてしまったら、正直悪い気分ではないですね。困ったことに」
「今回は大規模な暴動にならなかったみたいだけど、今度は逆に細かい事案が大量発生したみたいね。といっても、彼女たちの演奏とこの錯乱の因果関係は確認できない、といった意見も少なくない」
「ところで、はたてが言っている意見というのは、どこの誰の意見なんですか?」
「知らない。私たちからすれば、見えもしない不特定多数なのは確かね」文の質問に、はたては、がらにもなくシニカルに言い放った。「神様が情報操作を行っているのを見た後だと、どの意見もなんともだわ」
軽食のトーストを齧りながら、はたては苦笑いした。
「ま、そういう事もありえる、ってだけの話ね」
二人は黙り込んで、コーヒーを飲みながら少し時間を潰した。彼女たちは楽団よりも先にホテルからチェックアウトしていて、その足で駅まで行くつもりだった。
「――あそこのお嬢さんたちにデザートでも送ってあげて」
別の客が、店員に向けた声が聞こえてきて、その通り自分たちの前にプチケーキがやってきたので、お嬢さんたちは、訝しげに、デザートが差し向けられたその方向に目をやる。
「あぁ、あまり警戒なさらず」
吉弔八千慧は、自分に提供されたクロックマダムをナイフで切り分けて、上品にほおばりながら、その席から声をかけた。
「同席した方がいいかな? それとも……この距離感の方が気楽かしら?」
選択肢を与えられているのはいいが、いまいち恩恵を与えられているという気がしない。
「……ねえ文。あいつの目的、なに?」
「ゆすりか、たかりでしょう――あと三十分もしないうちに出立です」
と、相手に聞こえるよう言いながらも、デザートはありがたくいただく。本当は相手から貰ったものをいただく事すら迂闊だとは思ったが、この店が、あの畜生界のやくざ者の、直接的な影響下にあるとも思えない。
「目的といえば、単純です。私には、少なくともあなたがた楽団と敵対する意思はない」八千慧は言った。「しかしながら、埴安神袿姫の目的だけが知りたい。それだけですよ」
(んなもん、私たちだって知るもんか)と、ケーキの下に挟まれていた名刺を拾いながら文は思ったが、どこか滑稽なものを感じた。
「きっとあなたたち、彼女に利用されているんですよ」
八千慧の舌は、そういう論旨から始めた。
「彼女の目的は、おそらくこの畜生界に混乱をもたらす事です」
(当たらずも遠からず、とは思うんだけどね)
「しかしこのメトロポリスの統治を実質的に握っている彼女が、どうしてかえって治安の不安を煽るのだろうか、とあなたがたは思うでしょう」
(なぜなら彼女の権力の源泉は、なにより軍事にあるからだ、と言うわ)
八千慧は二人の予想通りに、そう言った。
「……だから、彼女にとっては、騒乱状態にある方が都合がいいんです。畜生界のこのメトロポリスは、そういう権力構造になっている。過去にもそういう事があった。私はその時代に戻る事を危惧している」
文とはたては、示し合わせたように各々のコーヒーカップを飲み干し、席を立った。
「……あー、もう出発時間よ。急がなきゃ」
「まあ、私らも利用されている側ですから、本人に聞いた方が早いんだけどさ」
文は、はたてに急かされながらも、相手に近づいて、名刺を出しながら言った。
「たぶん、今回はそういう、畜生界流の話じゃないと思うんですよね――あ、ところで、わたくしこういう者です」
異例の事だが、その朝の磨弓の防具は、袿姫がじかに肌を寄せて着用させていた。
「帰ってくるまで外しませんよ」
主の腕が腰に巻かれて、するすると動いていくのを感じながら、磨弓は言った。
「そういう意気なのはうれしいのですが、まあ、できる限りの問題は当人たちに処理させてあげるように」
袿姫は、ものづくりにばかり意識が向かっている者の常で、ささやくように大事な事を言った。
「畜生界流の暴力は時代遅れですもの……もちろん、私たちにも、彼らにも文化といえるものはありますが、それを文化と自覚できるだけの余裕がなかった。それは常に暴力的解決によって阻まれてきた。もっとも、彼らにしてみれば、長いこと暴力による鞘当てを続けすぎて、その過去が正しいものであったという自負がある事も確かです。どこかでその認識を変える必要があるでしょう」
と、袿姫は磨弓の胴にすがりつくようにしながら淡々と言った。
「これから、彼女たちのコンサートでは、暴動の噂を聞きつけて、暴れるためにコンサートに押しかける、といった向きも出てくるでしょう」
袿姫は、奇妙な立場からこれを肯定していた。
「近頃――というのは、私たちがこの世界にやってくる、より以前からですが――この世界にはそうした事すら無かった。外の世界の人々は、ここをおそろしい無法の世界のように見ているが、現実は真逆なのです。単純な強者が弱肉強食を成立させるなどは、とてもかなわない。組織と企業、あるいはそうしたものの複合産業体。自由な競争社会ではあるが、みんな誰かしらなにかしらの統制下にあって、がんじがらめになって、暴動など思いもよらない……そんな世界であるにもかかわらず、暴力的な組織がえらくはばを利かせてもいる。……この暴力組織から、私たちを除外させる事はできませんよ、磨弓」
袿姫は、いたずらっぽく指摘した。
「ですが、もはや暴力による解決は時代遅れだとも、私自身は思っています。これからは暴力的な音楽がこれに優越する。彼女たちがきっとそれを証明する」
磨弓が今回の任に従事する一個分隊を率いて出立していく背を、袿姫はじっと眺めていた。
足元にボストンバッグ一つだけという、きわめて身軽な荷物を置いて、雷鼓は列車を待っていた。駅ホームのベンチに座り、バッグの中からポケット文庫を取り出して、だるそうに体を傾けながら読んでいるのは、ちょっと日帰りの旅行に出かけるつもりのお嬢さんにしか見えない。
「畜生界に鉄道が通ってるなんて、初めて知った……」
と呟いたのは小傘だったが、その言葉を耳ざとく聞きつけた杖刀偶磨弓が、
「鉄道の存在は、その沿線の権益も含めて、畜生界の軍閥勢力の抗争上の戦略に非常な重要な要素でありまして、これは戦略上の重要な路線にも、弱点にも、また要衝にもなりえたものでした。そもそも畜生界の暴力組織の成り立ちは、鉄道以前からこの荒野に成立していた交易路の確保と保全から起こったもので――」
「ごめん、おしっこ行ってくるから誰か聞いてあげてて」
と、小傘は酔い潰れている赤蛮奇の首たちに話をぶん投げて、酔ってぐるぐるの首たちは、磨弓の講釈を受けて、更にぐるぐるになっている。今夜の彼女たちは、興味深い夢が見られる事だろう。きっと悪夢だろうが。
出立前にあれこれとものを買うために、駅構内のキオスクには、ちょっとした群がりができていた。九十九姉妹がそこから朝刊とガイドブックなどを持ってきて、雷鼓の元に戻ってくる。
「私たち、記事になってるよ」
「誰か買ってきて、私に見せびらかしてくれると思ってたわ」雷鼓は本をぱたんと閉じて、バッグの中にねじこんだ。「人様の評価なんか知ったこっちゃないけど、どのような受け止められ方をしているのかは、把握しておいた方がいい」
「混乱・不快・騒音。だって」
八橋は、その表現がヒステリックな感情的なものである事を言外に匂わせながら言う。「いわゆる音楽的な評価にはほど遠いわね」
「そういうもんよ。……それより」
雷鼓は彼女たちが手にしている路線ガイドブックやパンフレットのたぐいを指した。
「ああ」弁々が言った。「やっと多少は観光気分になってきてね」
「考えてみると、こっちではそういう事さっぱりできなかったもんねえ」
そこだけは心残りというふうに、ぶすりと雷鼓はぼやいた。
意外なような、そうでもないような話だが、畜生界の鉄道の運行ダイヤはかなり正確らしい。旅客列車は時刻通りに駅のホームに滑り込んできた。
それにしても、一連の騒動を幻想郷はどう受け止めていたのだろうか。つい先日――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートで暴動が起き、その初報が幻想郷に舞い込んだ時に、話を戻す。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
この簡潔かつ異様な報告が、妖怪の山の天狗たちに向けて送られてきた時、菅牧典はそれを読んだ一同の代弁を、単純な言葉で表現した。
「……なんのこっちゃ」
「別になんの暗号でもない平文よ。初演は成功した。しかしその後暴動が発生した。あとの文面のなにからなにまで、簡潔に事実しか記していない」
変に深読みしようとする典をたしなめて、飯綱丸龍は言った。
「しかし状況を知りたいな。遅かれ早かれ広まる情報だろうが、その前に探りを入れておきたい」
「どこにしましょうね。旧地獄はどうかな……いや。あのへんの連中は、こっち以上に内に籠りがちな傾向が強いわ。どんなに見積もっても、私たち以上の情報は持っていないでしょうね。それじゃあ新地獄か――?」
典は個人的に有していた外交パイプを辿りながら、事実関係の照会を求めて、数時間もすればむしろ畜生界にいる者たち以上の情報を得て、文字通りの事件が起きていたという事が判明した。
「どういう事なのよ」
「陳腐な言い回しをすると、音楽の力ってやつでしょうね」龍はうんうん頷きながらいいかげんに言った。こういう物事の原因や理論には興味がないたちだった。「なにか、畜生霊どものお気に召すところがあったんでしょう」
「ふーん、めちゃくちゃ筋の通った説明ですね」
とにかく、起こってしまった事は起こってしまった事だった。問題はこの、一旦は差し止めている情報を、どう処理していくか。まごついているうちにも、姫海棠はたての私信という形で、細かな点を説明する続報まで送られてきているのだ。
「ついでに、賢者連も独自の情報ルートから状況を把握しているみたいですぜ」
「ちっ、あたりさわりのない見解は難しくなったかもね」
しかし正午ごろになって、その妖怪の賢者たちから打診があった。そのながながとした文言を龍は読み下して、言った。
「……要は“別に嘘をつく必要は無いが、暴動についての見解はなるべくさりげなく、どうでもよい感じに表現する自由はある”と。そういう事らしい」
「考える事はみんな変わりませんね」
典は白目を剥き、舌を出してぼやいた。
幻想郷はそうした情報によって、楽団の畜生界ツアーを受け止めている。
「まあ……観光旅行みたいなもんだったよ。でも、ちょっと予想外の事故が起きちゃって、こうして戻ってきたわけ」
無断で幻想郷に帰ってきた依神女苑は、聖白蓮への報告でそう嘯いてやった。
「ええ、そうらしいですね」
白蓮も、別に無断の離脱を咎めるような事はしない。
「しかし、こちらもなにかとばたばたしているので、戻ってきてくれて助かります」
「……そういう割には、このお寺にしてはどことなく静かね」
「人がいなくなりましたので」
「人がいなくなりましたので?」
きょろきょろと白蓮の僧房を見まわし、耳をそばだてていた女苑は、素っ頓狂に言った。
「どゆこと?」
「一輪や水蜜たちは、パックツアーに参加したのです」
「パックツアー?」
「二泊三日、畜生界の旅」白蓮はほんのわずかに寂しげな顔を見せて言った。「夜にはプリズムリバーウィズHのコンサート付き。……みな、あなたには秘密にしていたようですが、いじわるだと思わないでくださいね。むしろ気を遣っていたのだと思います」
「いや、まあ、わかるよ……」
「出立は昨日でした。楽しんでくれているといいですね……どうやら向こうでのコンサートは、大反響らしいですし」
「大反響……まあ大反響と言える、か」
女苑がそう呟いていると、寺の門の外で山彦が大きく反響した。
(そういう反響では……)
白蓮が話を続けた。
「だから、いささか寂しいお寺の中だったわけです」
「そうみたいね」
女苑は小さく呟くような相槌の後で、自分でもおぞ気が立つほどに素直な言葉を、ぽろりと吐いた。
「しかし、静かなお寺でお留守番というのも、悪かないわよ」彼女はお人好しな白蓮に対して言った。「あそこ、めちゃくちゃ騒々しかったからさ」
一方、畜生界のメトロポリスに宿泊して観光を楽しんでいた村紗水蜜、雲居一輪、物部布都という奇妙な三人組が、自分たちが観られるはずだったコンサートの中止を知ったのは、その日の正午過ぎの事だった。
「一応、コンサートぶんの返金はされるらしい」
「なにが起こったのよ」
「暴動が起きて、劇場が燃えたらしいぞ」
布都は今朝の新聞で仕入れた情報を二人に教えた。
「まあ、こっちが災難なら旅行会社も災難なわけね」
「どおりで二日目から酒盛りがやけに豪勢だったのね」
「ヤケを起こしていたんだな……で、どうなるの?」
「そこ。現状ふた通りのプランがあるらしくって」
と言いかけた水蜜は、一瞬、それを説明する方法をつかみかねて、ややあって言った。
「……このまま普通に、コンサート無しのツアーを終えて帰るか、現地解散という形で返金されたお金を使って楽団を追っかけするか」
一輪が鋭く口笛を吹いた。
「狂ってるのかしら」
「どうも旅行会社の方も頭がおかしくなっているらしいわ」
「同情はするけど、むちゃくちゃよ。だいたい楽団はどこ行ったの?」
「ツアーは続けるらしいが、この街の予定はもう無くなった。別の場所だろうな」
ともかく、ホテルの一階ロビーにはツアー客がごった返していて、今後の身の振り方を各々で協議しているというので、彼女たちもそこに向かった。
ロビーの空間はざわめきで埋まっていたが、その二人が座るベンチの周りだけは、妙に静かだった。
「残念だったわね」
蓬莱山輝夜はぽつりと、隣に座っている連れ合いに言った。
「まあ、言うほど気にしてないわ」
藤原妹紅はそう答えながら、自分の髪の毛先をいじって、何本もの枝毛を見つけている。
「お前の場合、二泊三日で帰ってくる、っていうのが永琳との約束だったんだろ」
「そうね。でもあなたは、別に追っかけてもいいのよ」
「コンサートの料金が返金されたところで、余分の旅費が無い事にはどうにもならんでしょ」妹紅はいじっていた髪の毛を、散らすように払いながら言った。「私だって多少は持ち合わせがあるけど、だからってそこまで――」
ずしっ、と妹紅の膝に重いものが置かれて、その弁が中断させられた。
「……ずし?」
膝の上に目を向けてみると、そこにあるのは大和錦の巾着袋とみえる。問題はその中身の方だが……
「たしかそこの通りに貴金属店があったから、そこで換金できるはず」
はっと顔を上げて輝夜の顔を見ると、その微笑む流し目の端が、どことなく不安だ。
「これで持ち合わせはできたでしょう」
「あんた……」
「私はコンサートとかいまいち興味がないけれど」輝夜は率直に本音を言った。「刺激的な旅がしたいわ。それだけ」
「永琳との約束を破っちゃうのよ」
「でしょうね。刺激的でしょ?」
その微笑みに妹紅が答えかねていると、そこに一輪や、布都がやってきた。
「あ、不老不死ちゃんだ」
「浮浪不死ちゃん?」
「どうもとんだ事になったな」
お互いツアーに参加している事は知っていたが、あまり絡まなかった集団が寄り集まる。
「どーしたもんよ、これ」
「まあ、コンサートのチケット代を返金してもらって、おとなしく帰るっていうのが常識なんだろうけどね」
妹紅はそう言った後で、ちらりと輝夜の顔を窺う。相手は、別にそれでもいいのよと言わんばかりに、にこにこしていた。
「……だいたい、噂を聞いた感じ、楽団はもう別の街に移動しちゃったんでしょ。そりゃ、やろうと思えば追いつけない事もないだろうけどさあ」
「そこは妹紅の言う通りね。ただ急いで急いで追いつくだけだと、面白みがないわ」と言ったのは、輝夜だ。「旅行のプランとしては野暮も野暮よ」
一輪や水蜜、布都は、その言葉に顔を見合わせた。目の前のお姫様の考え方が、どうやら自分たちのように代金の返還だのなんだの、せせこましい視座にない事を察したのだった。
「……ごめん」妹紅も話がややこしくなる事を直感して、一言言い添えておいた。「こいつ、ちょっと変わってるから」
「個人的には船旅がしてみたいわ」と、輝夜は観光案内所から漁ってきたパンフレットを広げた。「ほら、河を遡って、別の街に行くクルージングなんてどうかしら」
「はっ」妹紅は鼻で笑いながら、ついつい輝夜の話に乗っかってしまった。「のろまな船旅なんてしていたら、ますます楽団に追いつけないじゃないの」
「……いや待てよ?」
そう言ったのは村紗水蜜だった。
「ちょっと拝借」
彼女は輝夜からそれら何冊ものパンフレットを借りて、それぞれの移動手段によるスケジュールを眺めて、行程時間をざっと計算しながら言った。
「……船で河を遡る、悪い考えではないかもしれないかもしれません。少なくとも楽団は、現地に到着してからなにかと準備が必要でしょうけれど、私たちは最悪、開演ぎりぎりまで時間の余裕がある。今すぐにでも出発の準備を始めて、明日の朝一に出発するなら、じゅうぶん楽団のコンサートに追いつける」
「ほら見なさいよ!」
「ただし、さすがに遊覧船ツアーのようなのんびりさで行くわけにはいきません」
勝ち誇ったように言う輝夜と苦りきっている妹紅の表情を見比べながら、水蜜は冷静に付け加えた。
「今すぐにでも優秀な快速艇をチャーターして、また同時に優秀な水先案内人を確保した方がいい」
「それはさほどの難題ではないわ」輝夜は断言した。「あなた船長なんでしょ。優秀な船長がいれば、優秀な水先案内人、優秀な船はきっと見つけられるでしょう。お金くらいなら、ほれ」
輝夜は、いつの間にか自分の手に戻していた大和錦の巾着袋をつまんだ。
「あなたがたがそれでいいなら、今から換金してくるわ」
水蜜はニッと微笑みながら、友人たち二人に向き直った。
「……今から河畔で船を探してくるわ。私のぶんも荷物をまとめておいて」
「りょーかい」
「……まあ、たまにはこういう旅もいいもんじゃよ」
布都が、呆然としている妹紅を少しでも慰めるために、ぼそりと言ってあげた。
一方、楽団の一行は昼過ぎには次の目的地へと到着していた。
(予定よりまる一日も早入りできたのが、いい事なのかどうか)
当初の予定では、あのメトロポリスで三日間の公演をしたのち、そのまま夜っぴて寝台特急で移動、朝に到着した後はすぐさまリハーサルとサウンドチェック、というハードなスケジュールが組まれていた部分に、妙に間延びしたような一日の空白ができてしまっていた。
今回の会場は野外ステージだった。そこで様々な打ち合わせをやりながら、雷鼓はぼんやりと、畜生界なりに暮れゆく空を眺めている。
と、会場の近くでライトが灯って、その方向がぼんやりと光って見える。人に尋ねてみると、近くの運動公園で野球の試合をやっているらしい。
その観戦に、雷鼓がメンバーやスタッフを誘ってみても、旅の疲れを癒したいだとか、別の用事があるだとかで、結局ついてきたのは小傘と赤蛮奇、それになぜか護衛としてついてきた杖刀偶磨弓だけだった。それだけに、雷鼓としては気前が良くなりたい気分があったらしく、
「ビールや焼き鳥くらい、好きなだけ奢るよ」
と申し出た。
試合の選手たちが、プロだったのか、学生だったのか、はたまた社会人だったのか、それすらもよくわからなかったが、観客もまばらな球場のバックネット裏で酒をかっくらって、あれこれ好き勝手言いながら語り合うのは楽しかった。
「あの配球はワルツのリズムだよ」と雷鼓は主張した。「変化球・変化球。次は直球とくるんだ――まあ見てな」
「それより、レフトスタンドの前から四段目を見てくださいって」赤蛮奇も声高に言った。「あれ、絶対やってますよ、サイン盗み」
「あのお、おふたりとも、もおちょっと声を落としていただけると……」
「不正とはけしからんわ。あいつらぶん殴ってくればいいのね」
「たのんますから、あなたもちょっとおとなしくしていてください」
小傘はひやひやしながら投球を見つめてたが、投球結果は直球が微妙に指にかかった失投で、なぜか確信ありげに直球に張っていたらしい打者がそれをひっかけてしまって、ショートゴロ。裏の事情がどうあれ、それだけが結果だった。
「……ま、どんな思惑があろうと、全員が全員ありえないへまをする事だって、無くはないってわけよね」
この試合は、万事がそういう調子で進んでいた。僅差の推移ではあったが、白熱したゲームというよりは、双方に失策やへまが多い、ぐだぐだのゲーム。
「ふーん。……こっちも仕事がなければ、ついていきたかったですね」
ホテルのロビーでツアーレポートを作成していた射命丸文は、雷鼓のそうした話を聞きながら言った。
「観戦写真くらいは撮ってもらったから、まあ出来が良ければ使ってよ。それにしてもビールと焼き鳥のお供にはちょうどよかったわ」
「焼き鳥の話はやめません?」
文は苦笑いした。
村紗水蜜がメトロポリスの河畔じゅうのドックを駆けまわって見つけてきた、とっておきの汽艇は、かつての畜生界の大動乱時代において、軍閥の上級将官の連絡艇として上流へ下流へと忙しく切り盛りしていた、らしい。
「もっとも缶は新調しているみたいだけどね。大事にメンテナンスされているのが気に入ったわ」
ホテルに戻ると、既に出立の準備を済ませている一輪に対して、上機嫌に言ってやったが、相手は少しふくれた様子で言った。
「……まあ、いずれにせよ、あんたのその目利きに、みんなベットするわけよ。今から」
明らかに思うところがある様子だった。
「……なんかあった?」
「道連れが三人増えた……」
簡潔な説明とともに、ロビーの向こうで人影がもぞもぞと動いた。
「よろしくキャプテン」歩み寄ってきた比那名居天子は不遜に言うと、水蜜に向かって、図々しくもがっしりと力強い握手さえ求めてきた。「良い船旅を期待しているわ」
あの暴動の夜の後、依神紫苑は幻想郷に舞い戻り、一緒に戻った妹がそのまま命蓮寺に向かったのとは別に、特にどこへ行こうという目的もなかった。
(ま、こういう時は天人様のところにでも行くか……)
とも考えたが、しかし天人様はしじゅう幻想郷などをぶらつき回っているので、一度離れてしまうとどうにもつかまりにくい。それが、人里の場末に行くとあっさりと出会ってしまったのが、この時の比那名居天子の(あるいは依神紫苑の)悪運と言うべきだった。
彼女は人だかりの中にあって、昆虫相撲の賭け事に熱中していた――といっても、自分で昆虫を持ち寄るとか、賭け金を張るという事はせず、ああだこうだと野次を飛ばしているだけだったが。
「天人様じゃないですかあ」
今気がついたように紫苑が声をかけると、天子はちらっと視線を寄越してきて、そのままニッと微笑みかけてくれる。
「や。最近会わなかったわね」
人だかりから離れながら、天子は言った。
「ちょっとね」紫苑は指をちびっと動かしながら言った。「ちょっとお仕事が」
「貧乏神のお仕事って、仕事をやらない事じゃない?」
「女苑のやつがしつこく誘ってきて」
(本当に、あんなに以前の事――プリズムリバー楽団に迷惑をかけた事など、うやむやのまま手打ちになったものだと認識していた)
事のあらましを聞いて、天子はしみじみ言った。
「本当に何年も前の話ねえ」
「で、畜生界まで、ちょっとね」
「畜生界」天子は驚きあきれるようにそのなんともいえない響きを口にした。「ヤバいところだと聞いてるわ」
「ヤバかったです。暴動とか起きましたし」
比那名居天子がプリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに興味を抱いたのは、その一言によってだった。
そんなこんながあって、依神紫苑は畜生界にとんぼ返りする羽目になっている。
(どうも変な事になったわね)
と思いながら、なりゆきに身を任せるのも嫌いではない。しかし畜生界に戻ってきたものの、どうすればいいのかはまったく考えていなかったが、紫苑には寺に戻った妹から教えてもらった情報があった。
「幻想郷から楽団を追っかけするツアーが組まれていたらしいんですけど、彼らが泊っているホテルに行ってみれば、もしかすると幻想郷の知り合いなんかに出会えるんじゃないかしら」
「神算鬼謀はかりしれない見事な推理よ」
その通りにホテルに行ってみると、ロビーに人がごった返していて、列をなしている。ちょうど中止になったコンサートのチケット代の返金が始まっていたのだが、二人はなんとなくのノリでその列に加わり、当然チケットなどは持っていないので追い出されるというような寸劇をやらかす。
「くっ、無理だったか……」
「私も無理だと思っていました」
天子と紫苑がロビーの隅で言い合っていると、呼びかける声があった。
「もし、総領娘様」
永江衣玖は、ひかえめに、小さく天子に声をかけた。
「なにやってるんです?」
「そりゃ私のセリフよ」
と、革製の古ぼけた分厚い旅行鞄ひとつで一人旅をしている衣玖に呆れる。
「あんた、そこまでプリズムリバー楽団のファンだったっけ?」
「最近興味が湧いてきたんですよ」
衣玖の他にも、天子たちはツアー客の中に、知った顔をちょくちょく見かけた。一輪や布都とも出会った。天子の図々しさが彼女たちの道連れを増やす事になるのは、そう難しい話ではない。
なりゆきがなりゆきを呼んで同行する羽目になった雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都、依神紫苑(以上五十音順)の珍妙な一行は、その日のうちにさっさとホテルをチェックアウトしてしまい、夜は河岸の小さな造船所で寝泊まりする事にした。造船所にはチャーター済みの汽艇が既にドック入りしていて、明日朝からの航行を前にメンテナンスが行われていた。
「事務所のソファか、がちゃがちゃやってる船のキャビンで雑魚寝みたいな事になるけど、好きに使ってくれていいってさ」
「ありがたいわね」
また、水蜜が雇った水先案内人を始めとした船のクルーは、カワウソ霊だった。畜生界のカワウソ霊といえば、この時代の風評によって吉弔八千慧率いる鬼傑組の構成員というイメージばかりが強くなってしまっている。実際に、港湾労働者を犯罪組織が取り仕切っている場合も多く、その線引きは非常にグレーなところになってくるが、ともかく畜生界のカワウソ霊には水運関係の従事者が多くいて、その荒っぽさは、たとえ堅気であっても暴力組織に引けを取らなかった。
「……妹紅?」
輝夜は、造船所の中に友人の姿がない事に気がついて、さては外でたそがれているのだろうと推理し、その予想通り、妹紅は川辺の船着き場に座り込んで、夜闇が深くなりつつある畜生界の運河の水景を、ぼんやり見つめていた。
「なるほど。悪かない夜景ね」
「とんだ事になったとは思っているけど」妹紅は輝夜のあたりさわりのない言葉選びなど無視して、自分の話ばかりを始めた。「気にしてはいないわ」
輝夜の方もマイペースなもので、自分の事ばかり話す。
「それより、おとなり座ってよろしい?」
「ご勝手に」
輝夜は妹紅と同じように、地べたに座り込む。
「……結局、普通に列車で追っかけすれば、確実に追いつけるし、安上がりだったんじゃないの?」
ぽつりと、答えのわかりきっている疑問を妹紅が述べると、輝夜はわかりきっていた答えを返してくれた。
「それじゃ楽しくないでしょ。それだけの話よ」
「……私は不満そうについてきているやつみたいになっちゃってるけど、別に楽しめるものは楽しむからね」
「そりゃあね!」輝夜は少し体を傾けて言った。「……私だって、あんたがあんなアイドルバンドにウツツを抜かす様を見たくて、ここまでやってるんだから」
「……あ?」
「コッケイよねえ、あんたみたいな世捨て人が、あんながちゃがちゃした騒音に、浮世のよすがを感じるなんて」
輝夜の言は見えすいた挑発だったが、その後ものすごい早口でプリズムリバー楽団の音楽性について語り始めた藤原妹紅に対して、彼女はニコニコ笑ったまま、いくらでも話を聞いてやった。
夜が深まるにつれ、この造船所の対岸には屋台かなにかの飲み屋街があるらしいのが知れる。河岸はいっそうきらきらと輝き始めている。
「……だからね、あんたが浮世のよすがなんて言ったのは、ぜぇーんぜん、間違っているわけよ。むしろあの楽団にあるのは彼岸の予感であって、しかもそれは別に案外悲しいものではないという――」
「見なよ、妹紅」
輝夜は、ふと気がついた船団の灯を指した。その船団は、川面を埋め尽くすほどの、はしけ、貨客船、商船などの群れで、それらを先導している小さなタグボートも相まって、かがやく輪郭だけが整然と、すべるように水の上を遡上していく。
「私はああいうきれいなものを見られただけでも、この旅の意義はあるんだとおもうけれどね?」
ただ、こうした綺麗な夜景も、見る者が見れば違う解釈になる。
「夜通しの航行とまでは言わないけど、現地の船着き場が混む可能性もあるし、出発はもうちょい前倒しした方がいいかもしれない」
汽缶の煤で体を汚しながらも楽しそうな村紗水蜜が、船のメンテナンスも終えての寝入りばなにそう説明したので、妹紅と輝夜は顔を見合わせた。
「なんかあったの?」
「うーん。あくまで水先案内人の経験則らしいんだけど」
と、ことわりを入れつつ説明した。
「どうも陸運が止まっているらしいのよね。鉄道なんかに何日単位の大幅な遅延が発生すると、ああいうふうに水運が急に忙しくなるって言うのよ」
事実、発生した鉄道襲撃事案の対処にあたるべく、杖刀偶磨弓はプリズムリバーウィズHの護衛から一時的に離れる事になっていた。
「わざわざ私が出向いて判断を下す必要があるというのが気になりますが、おそらく、この街の公演が終わるまでには戻ってこられます」
「そうかい……今すぐ行くの?」
雷鼓は体をねじりながら尋ねた。深夜、ホテル一階のバーカウンターで、いつものジントニック――氷は使わず、グラスとジンは冷凍庫で冷やしたものを使う。ジンはビーフィーターの四十七度、トニックウォーターはシュウェップス。ライムは小ぶりなものを、皮を剥いて果肉だけにして、一個丸ごと沈める――を一杯ひっかけていたところで伝えられて、少し興ざめした感じがなくもない。
「分隊は残しておきます」
「そりゃ心強いわ。行ってきなさいな」別につっけんどんに追い払うつもりはなかったのだが、結果的にそうなってしまったかなという後悔が、微妙にある。
磨弓がセラミックの甲冑をがしゃがしゃいわせながらバーから出ていくのを耳にだけとどめつつ、ふぅとため息を吐いた。
「……どうも、私らと同じくらいか、それ以上にがちゃつきすぎているわね、この土地」
「わかっていた事だったわ」
と言ったのは、同席しているプリズムリバー三姉妹の次女、メルランだった。彼女はすでにけっこう酔いが回っているらしく、オーダー通りに目の前に出されたバーボンサワーの泡立ちを、ゆらゆらと眺めるだけだ。
「だからって私は反対しなかったし」
「私は反対したかったけれど、どのみち押し切られる予感しかなかったからね」
ルナサが、フローズンカクテルにしたオレンジブロッサムのグラスを、ゆらゆら揺らしながら言った。
「でも、そこで反対しなかったのは事実だし、今更ああだこうだ言うつもりはないわ」
「じたばたしたところで、明日からまたしっちゃかめっちゃかの再演だろうしね。あれよりは上手くやるつもりだけど」
リリカは飲み干して氷だけのキューバリブレのグラスを、また口に持っていく。
「ショーは続けなければいけないんでしょ」
「そうね」
と頷いた雷鼓は、その後で、少し考え込むように復唱した。
「ショーは続けなければならない」
それから自分の酒を一気に飲み干すと、私はもう寝るわと三姉妹に言い置いて、バーを出て行った。
「……さすがのあの人もお疲れかしら」
「ま、それもあるでしょうね」
リリカがからかうように言い、メルランはそれに答えた後で、ようやく酒を口に運ぶふんぎりがついたのか、ずるずるとすすり始める。
「……それ“も”?」
「うーぁ、これ飲みきったらひどそう。……そう、お疲れなのはもちろんそうだけど、あの人、なんでも一人でできちゃうタイプだから、かえってそういう時の身の振り方を知らないのよ」
「身の振り方って、なにさ」
「“れこ”よ、“れこ”」
ルナサが小指を立てながら言った古風な言い回しは、少し声が大きすぎた。
「本人が気がついてるか知らないけど、こういう時ほどいい人がそばにいて欲しいタイプよ、あの人」
「……あー。」
三姉妹は複雑な表情で、バーカウンターに肘をついた。
永江衣玖は、自分の荷物の分厚い旅行鞄を椅子代わりに姿勢よく座りながら、まだ薄暗い朝の河を眺めている。彼女を含めた一行は既に船上にあって、汽缶にも火が入り、暖機を始めていた。
「みんな忘れ物はない?」
「むしろ忘れ物を取り返しに行くのよ」
「なんだかうまく言った感出してきたのう」
水蜜、一輪、布都は、船の操舵スペースの周りでわいわいと騒ぐ。妹紅と輝夜は、周囲の光景と同じくらい、汽船に内蔵されている機関に興味があるらしく、汽缶の周りの作業を、まじまじ見学していた。天子と紫苑は、船のキャビンで相変わらずごろごろと寝息を立てている。
そうした人たちが、どうしても各々のグループを形成してしまう中で、衣玖の居ずまいは明らかに浮いていたが、しかし当人はあまり気にしていないし、目立ちもしない。一人旅でこうして来たのですと言ってもそういうものかとなるし、わがまま天人の天子とはこの土地で偶然出会って、お目付け役としてついていく事にしたのですと言っても、そういうものだろうなと受け止められた。
「妹紅ったら、船旅を漫喫するよりもボイラーに火をくべてる方が似合うわ」
「なんだとお」
輝夜と妹紅の二人が楽しそうに言い合っている。
船はするすると畜生界の河を遡航し始めた。
別に悪い目覚めとは思わないが、気分としては毒だと思いながら、雷鼓は抱いているものを放して起き上がった。抱きついていたのはホテル据え付けの円柱形のボルスタークッションで、それに抱き枕のように縋りついて、目が覚めてから三十分ほどぐだぐだとやっていたのだ。
(一日あいたのが良くなかったかしら)
とさえ思った。ここ数日、なんだかんだと忙しさにかまけていたところに不意の暇がやってきて、それでかなにか、勘がおかしくなっている。
かぶりを振って、まどろみの中にこびりついた妄想を振り払おうとする――彼女の姿勢のいい背筋から腰まわりへの曲線、くびれ、ふくらみなど。
九十九姉妹がいわゆる裸族というやつで、プライベートな空間ではほとんど全裸に近い状態で過ごしているというのは、堀川雷鼓をはじめとした親しい友人間では比較的よく知られている奇癖だが、今回の旅でもその例に漏れず、彼女たちはホテルの個室に入ればブラもショーツも脱ぎ捨てて寝ていたし、誰かがことづてをしに部屋をノックして来たとしても、それらの下着を――どちらのものかもわからないまま――お義理程度に身に着けるか、ノーブラのままシャツを羽織る程度で、平然と個室の戸を開ける。それが別におかしな事だとも思っていないふうだった。
そしてこのツアーでは、彼女たちの宿泊の部屋割りは決まって相部屋だったので、即刻あやしい噂が広まりつつあったのだが、それはともかく別の話で。
朝、彼女たちは起き上がると、まずお互いの髪の毛を整える。特に八橋が弁々の長い髪を丹念に触ってやって、それから弁々が八橋にお返ししてあげるという流れが常だ。
それが終わると、今度はお互いに全身のマッサージをした。この行為だけでも妙な噂をあまり否定しきれないところがあるのだが、当人たちとしては特にやましい自覚はなかった。
マッサージの技術は、明らかに弁々の方が上だ。副業で按摩の先生でもやれるのではないかというくらい、指先の感覚が良い。
「そういえばさあ、姉さん」
「んー?」
姉に腰を触らせながら、八橋がふと話しかけた。
「……いや。そういえば三日目の公演、中止になったじゃん」
「ああ……雷鼓さんの“これ”ちゃんの話?」
弁々は小指を立てる。
永江衣玖の事であった。
彼女と雷鼓は、近頃ひょんなきっかけで出会って、外目には時折遊んだり飲んだりする程度の友達のように付き合っていたが、明らかにそれだけの関係ではないのは、当人らと親しい間柄ほど察せられた。
「まあ、天女様なんて結構な良物件、雷鼓さんみたいな人にはもったいないような、意外としっくりくる気もするような……(天界の身分制度上、天女と竜宮の使いには明確な区別があるようなのだが、姉妹はそうした種族問題や制度論には興味がなかった)」
色恋沙汰に関して韜晦しきっている雷鼓を、九十九姉妹は水臭いと思いつつも、それでも祝福はしていて、実は衣玖を楽団の追っかけツアーに招待したのも彼女たちだった。
しかし、そのツアーで予定されていた公演は中止して、おそらくツアー自体もそこで終わってしまっている。
「そこは惜しかったわね」
「本人にその気があれば自腹で追っかけしてくるでしょ」
余計なお世話をやらかしつつ、そういうところはやや無責任な傾向の姉妹たちだった。しかも彼女たちは、夜になると脱ぎ捨てた服を着直すのも億劫になって、部屋に閉じこもりがちだったので、鉄道襲撃があって陸路が長時間寸断されてしまっている事は知らない――それを知ったのは、マッサージを終えて衣服を身に着け、朝食のビュッフェに顔を出した時だった。
雷鼓は、バターとハーブが香る、とろとろした火加減のスクランブルエッグを、トーストに載せてかじりつきながら、そうした話を九十九姉妹にする。
姉妹は難しげに顔を見合わせた。
「……ありゃま」
「どしたの?」その反応に雷鼓は不思議そうな顔をした。「誰か友達でも誘っていたとか?」
「……ええ、まあ、そんなところ」と、姉妹はどちらからともなくそう言った。
「そんならそうと、言ってくれれば多少の便宜くらいは図ってあげたのに」
雷鼓は友人たちの気など知りもしない。
一方、水蜜たちの朝食は造船所で弁当に作ってもらったコンビーフサンドイッチで、汽艇の舵輪を握る彼女は、それを片手に河を航行していた。
「しかしこうして船旅をしてみると、昔を思い出すわね」
傍らのデッキに腰かけている一輪がしみじみと言ったので、布都はすこし興味をそそられた様子で、尋ねた。
「……昔というと、地底に封印されていた頃の事か?」
「封印つっても、多少なり利用価値があるならさんざん酷使してくれるのがあの界隈よ」
「いや、しじゅうそんな調子というわけではなかったけれどね」
これは水蜜が答えた。
「でも人使い荒くこき使われた時期もあったってだけ。特に、向こうで作っちゃった酒代のツケや、賭けの借金なんかの債務がかさんじゃって、聖輦船の甲板から銅の覆い一つに至るまで、焼きゴテを押されたり鉄針で引っかかれたりして差し押さえ番号を割り振られて、借金のカタにさせられかけていた頃もあったんだから」
「すまん、聞かない方がよかった話じゃないか? これ」
他方、衣玖も同じくぱさついたサンドイッチを口に運びながら、自分がこうして珍妙な冒険に巻き込まれている事に、戸惑ってもいる。
(別に帰ってもよかったはずです)
そもそも、ツアーに招待してくれたのは雷鼓本人ではなくその友人たちだったのだ。
(呼んでくれたのは彼女たちの好意だから、よいのです。しかし私が来てしまったのは、よかったのかどうか)
いそがしい相手の不意を打つようにやってきて、いい事が起こるわけがない、とも思った。
(自分もばかな事をやっている)
衣玖がそう思いながらデッキに立ち上がった時、ようやく目を覚ました天子がキャビンから這い出てきて、船の速さに感嘆した。
「……おー、なかなかスピード出てるわね」
と言いながら、ちょっとおぼつかない寝起きの足取りで、衣玖の横にやってきた。
「悪かないじゃない」
機嫌よく言って、そのまま船首の方に歩いていく。
「おいあんたあぶねえぞ」
舵輪を握っている水蜜は普段と口調が変わる。
「大丈夫よ」
と、構わず汽船の舳先へとずんずん進んでいき、大胆かつ繊細な感覚を持っている少女なら誰もが有している異様なバランス能力で、その突端に直立した。
「いい旅だわ! これは!」
その直後、船が急制動をかけて、天子は見事に船から落下してしまった。
(……自分たちはばかな事をやっている)
衣玖は、水面でぶざまにばちゃばちゃやっている知り合い(考えてみた事もなかったが、かなづちなのだろうか?)に、デッキから大きく身を乗り出して手を差し伸べてやりながら思った。
それよりも問題は、進む先が先を行く船で異様に混みあっていた事だ。
(……陸の道が塞がっているのが本当なら、この混みようもこんなもんなのかしら)
水蜜はそう思いながら水先案内人のカワウソ霊に相談してみたが、意外な答えが返ってきた。確かに多少のごちゃつきが起こるのは常だが、ここまでの渋滞が起きているのは異常だと言うのである。
杖刀偶磨弓は襲撃事案対処のために楽団から離れたが、そのまま襲撃事件が起こった鉄道や駅に向かったわけではなかった。
埴安神袿姫から彼女のもとには、次のような命令が届いていたからだ。
――別の襲撃計画の企図が感じられます。磨弓にはそれを探ってもらいたい。鉄道の保安に関しては、路線一キロメートルあたり十五名にまで増員できるよう動議をかけました(これは畜生界の鉄道協約によって許可された兵力配置の最大値であった)。だから、そこはそちらに任せておけばいい。
(別の企図?)
と磨弓はヘッドセットに入ってくる通信を聞きながら考えた。
――そもそもこの事案、なにが目的であるのかが、いまだにはっきりとしていません。しかも略奪にしてはやり方が中途半端すぎるのです。突然やってきて騒擾を起こし、鉄道以外にはほとんど被害も加えないまま退いていったそうです。まるで、最大の目的が鉄道の遅延にあるかのように。
そこまで言われると、磨弓にも気がつくものがあった。
――そう。目的はおそらく、プリズムリバー楽団のコンサートツアーの、妨害。
「まさかそんな」
――気持ちはわかりますが、鼻で笑える話でないのも事実です。
思わず漏れてしまった声に、主人は答えた。
――そもそもの話ですが、この世界には、いまだに、幻想郷流の係争解決方式に馴染みきれない大小の勢力も少なくない。そうした方々にとっては、幻想郷からの文物そのものが疑惑や不信の対象になる事もあるでしょう。いわんや、そんな土地からやってきて、浮ついた動物霊たちを狂わせ、連日暴動を引き起こしている楽団なんて。
そうした袿姫の弁はもちろん磨弓の耳に入っていたが、彼女は同時に思考を巡らせてもいた。
(だとしたら次は何が起こるか? どこに対策を配置すればいいのか?――いや、対策ではいけない。そもそも事前に事を収めるのがこの場合の最善であって)
――磨弓。
袿姫は言った。
――いずれにせよ、彼らは妨害をやってみたものの、楽団の都市脱出はそれより先行していました。そのため、有利は依然としてこっちが持っている。ひとつひとつ先手を打てばいい。
小さな船体は、混みあう船の間にちょこんと停止させられながらも缶の火は落とさず、もくもく長い煙を吐いている。
その煙突のかたわらに一輪はさりげなく立ちながら、言った。
「雲山によれば」と、煙とともに立ちのぼって、先の様子の物見をしてくれている入道の報告を水蜜に伝える。「河に臨時のバリケードというか、関所みたいなものが設置されてるみたい」
「関所?」
「私設の関所ね。無法時代の盗賊とかがよくやるやつ。金ふっかけるつもりよ」
「金ならいくらでも払ってやるわ」
「輝夜、それが金持ちのイヤミなのよ」
「あなただって金持ちの娘だったくせに」
「おまえ人の父親の話を……!」
輝夜と妹紅が犬も食わない喧嘩を始めたのはそれはそれと無視しておくとして、その時、近くに停まっていた大型の遊覧船に乗り移り、渋滞を持て余した世間話のていで色々と情報収集にあたっていた布都が、その高低差数メートルのデッキから汽艇の甲板に飛び降りて、船全体をぐらぐらさせた。汽缶の上で湯を沸かしていたケトルや、ココアを練るのに水蜜が使っている鍋などがあやうくひっくり返されそうになるのを、一輪がすんでのところで止める。
「ちょっとあんた――」
「読めたぞ、一連のからくりが!」
布都は勝利宣言のようにはしゃいでいたが、そのからくりとやらを友人たちに説明する節度も持っていた。
「まず、ここで足止めを食っている船団、たしかに日常的に行き来する貨客船の割合も少なくないんだが、今回、あきらかに普段よりも客の人数が多いらしい。――で、聞いて驚くなよ。その、いつもより余分な船客の種類が重要なんだ」布都はにんまり笑った。「ようするに、彼ら私たちと同類なんだよ」
「同類?」
「そう。プリズムリバーウィズHの追っかけ。熱狂的な――もしかすると本当に狂っている……それはともかく、私たちと違うところは、彼らは自分たちの判断で水路を選んだわけではないところだな。事前に、陸路が事故か襲撃によって遅延するという噂――いや、実際に起きたんだとすればリークか――があったらしいんだ。その噂のおかげで、楽団の追っかけファンはその多くが水路を使って次のコンサート会場へと向かおうとしている。これだけでも相当に変な話なんじゃが、一方で、その水路では、これまた狙ったかのように不法な関所が設置されている」
布都はニンマリと笑いながら、指を一本、つんと振り上げた。
「お察しかもしれないが、うちの推理では、これらすべて一本のライン上にある」
「まあ、仮説としては大層なもんよね」
「あるいは仕掛け網漁ね。私たち、畜生組織の商売の罠の中に泳ぎ込んでいたのよ」
水蜜は端的に表現しながら、相変わらずココアの方にかかりきりだ。
「そんな雑魚専用の網、どうとでもなるわ」
一輪はその様子を見つめて、尋ねた。
「……キャプテン、作っておこうか?」
「ん。じゃ、一口でばっちりキマるくらい、とびきり濃いやつにしといて」
水蜜はマグカップを一輪に託して、それから水先案内人と、あれこれ相談を始めた。
「雲山によれば、バリケードの位置はここ。うちらの位置はここ」
水蜜は水域の地図を広げて説明をしながら、河の横に広がる湖沼地帯が気になった。年季の入った船の、色々とメモ書きの残る図にもかかわらず、そこだけはなにひとつ記されていなかったからだ。
「このあたり、なにも書き記されていないけれど、この船が通れる水路くらいあるでしょ。だからそこに船を入れて、多少迂回しながら関所の後背に出る、というのはどうかしら」
かつて、この畜生界に様々な勢力が割拠し、動乱を起こしていた時代。この汽艇が河川を上流に下流に行き来する、高速の連絡艇として使われていたという事は先に述べたが、そうした任務に従事してきたという事は、もちろん多くの裏道や間道を知っているに違いない。水蜜はそれによって関所の向こう側に出られないだろうかと考えたのだ。
水先案内人はそれを、良しとも、悪しとも、言わない。むろん知らないわけではない。知りすぎているがゆえであった。それはある種の(この地域全体の軍事にすら絡んでくる)特殊な機密であり、それを彼女たちに教えるには取引が必要だった。
「ま、おちんぎんは上乗せしておくから」
察した輝夜が横合いから口を挟むと、何粒かの金を水先案内人の目の前に置いた。
「自分たちにとって必要かどうかもわからない関所に金を落とすのはまっぴらだけど、自分たちにとって必要な情報には金を与えるべきよ」
それですべては決まった。
船は、停滞する船団の中を器用に縫いながら、さりげなく前進を始めた。水先案内の通りに湖沼地帯へと進路を変えるには、もう数ケーブルは愚直に前に進まねばならなかったからだ。
もちろん、それは身勝手な追い越し行為にも映るので、それに気がついたいくつかの大型の貨客船からは、ブーイングのような罵声が降りかかってきた。また、彼女たちに追随しようとするちょこちょこした小船のたぐいも、なくはない。
水蜜はそれらのものを意にも介さず、どろどろとタールのようなねばっこさのココアに、ラム酒を同じくらいの量入れたものにいたく満足しながら口に運びつつ、片手で舵を細かく動かした。
「というか、酒なんかあったんじゃな?」
「私らにも飲ませなよ」
人数分のマグカップが準備されて、衣玖の手元にまで八分の一パイントのラム酒が行き渡った。――もっとも、依神紫苑だけは、この配給の恩恵に預かれていない。先ほど、彼女はみんなの昼食ぶんの弁当をすべて食べてしまい、天子を含む全員に(船員のカワウソ霊たちからも)一旦シメられて、懲罰としてキャビンの掃除用具入れの中に監禁されてしまったのだ。そのサンドイッチとて、朝と同様のぱさぱさのパン、酸化しきったマーガリン、しょっぱすぎるコンビーフ、腐敗一歩手前の芳醇なピクルスと、逆になんの風味も残っていない乾いた蝋のようなスライスチーズが挟まれているだけの代物ではあったものの、勝手に食われるとそれはそれで腹が立つものである。
「酒盛りして、無神経な与太者の旅行客のふりでもしてな」
と水蜜は指示したが、結局のところは、ふりでもなんでもなく、自分たちは無神経な与太者の旅行客そのものなのではないか。
彼女たちの汽艇は、大小の立ち往生している船の間を、器用にすり抜けていく。
関所に阻まれているのもあるだろうが、下ってくる船は少ない。そもそも、上流ではまだ陸路が止まっているという情報すらほとんど届いていないらしく、そのため下ってくるのは日常生活にこの水路を利用しているらしい小舟か、郵便船や水上バスなどの定期船舶ばかりだ。そうした船が近くをすれ違うたびに、水蜜は船乗りらしい気さくな馴れ馴れしさで「どこから?」と声をかけた。このかつてない混雑ぶりはどういう事だと問い返される事もあった。
「知らんね」水蜜はすっとぼけた。「ただ、あっちに行けば、ものすごい騒音を感じられるらしいんだけど」
「……あ。小傘ちゃん、ごめんだけど、ちょっとそこの場ミリに立って」
サウンドチェック中の雷鼓に呼び止められた小傘は、ステージ上の目印のひとつに立たされた。
「手拍子してみて」
ぱん。小傘は手を打ち合わせる。
「もっかい」
ぱん。
「……オーケイ。じゃあもういいから」
雷鼓は手にした野帳にメモを取りながら、さっさと別の場所の音響チェックに向かった。
「待ってよ」取り残された小傘は言った。「私の出番これだけ?」
忘れてならないのは、この地域の湖沼地帯の裏道は、単に使う者が少なくなり忘れ去られてしまっただけという側面もあれど、ある種の軍事機密である、という事だった。
(というわけで、他の船にはあまり気づかれないよう、さりげなく脇道に入らなければならない)
「……いっちりーん」
「あいよー」
気さくな呼びかけに応えてくれる一輪。
「どしたの?」
「どうやらこれは煙幕を張った方がいいわ」
目くらましが欲しいという話だった。
「おっけおっけ。いつものやり口でね――いや、待って」
一輪は目を細めながら言った。雲山はいまだに空に打ち上げられていて、そちらの方面を注視してくれているのだ。
「……関所に設けられたバリケード付近で、揉め事が起き始めてるってさ」
「あー……そりゃあまあ、起きるでしょうね。畜生界の、血の気の多い奴らときたら」
「……今、遊覧船がバリケードに突撃した」
「そりゃさすがに血の気が多すぎるわ」
水蜜は頭を抱えた。数秒の間を置いて、川上でなにかが激突して軋むような音が、大気中に飽和しながら、わずかに聞こえてくる。別にバリケードがぶち壊されるのは結構だが、その調子が続くとこの先の航行もままならないような事態になりかねない。
「さっさと行った方がいい」
「三分待って」一輪は自分の指をぺろりと舐めて、風向きを確認しながら言った。「雲山が“戻ってくる”から」
三分後、一行が巻き込まれている渋滞は、上流から突然流れてきた、霧とも煙ともつかぬもので、その視界がほとんど遮られてしまった。
「行こう」
抜き足差し足で出発すると同時に、水蜜は船の汽缶から重く濃い煙幕を吐かせながら、河の藪の間にある脇道へと、ゆるりと進路を変更した。
埴輪の馬にまたがりつつ、狩猟双眼鏡を片手に、運河の途中に違法な関所が設けられている事を確認した磨弓は、袿姫にその通りを報告した。
「ここで違法に料金を取って割り前を得るという、古典的な盗賊仕事に見えますね」
――なるほど。
「これはまだ、調査する必要があるのでしょうか」
と、少しいらだつように主人に言ってしまったのが、自分でも少し不思議だ。近頃はこうしたいらだちを、埴安神袿姫に感じる事が少なくない。
――そっかあ、私の見損じだったかしら。
と、主人は素直に非を認めてくれてもいるのだが、それこそがなんだか引っかかるのだ。磨弓にとっては、袿姫は無謬の主だった。
――しかし、それでは鉄道を襲撃したタイミングが解せないのですよね。彼らは、楽団があの日の朝に都市を発った事実を知らないでしょうし、そうなると、下手すると逆に都市の中に彼らを押しこめる事になりかねなかった。
「……なんらかの方法で情報を掴んだのかもしれません」
――その方法がわからないうちは、私は自分が当初案じていた考えを打ち消しかねます。あなたはばかばかしいと思うかもしれないけれど。
(別に)磨弓は、なぜだかこういう時に限って沈黙してしまうのが、近頃のくせになっていた。(ばかばかしいとは思っていない。あなたはそれでいい)
――磨弓?
「ともかく、私どもはここの封鎖を解除させる権限は持ち合わせておりませんが、どういった目的でやっているのか、問いただす事はできます」
磨弓は言った。既にそのための部下を、河畔の方まで派遣していた。
「もちろん彼らが本当の事を述べ立てる保証もありませんがね。参考になすってください」
そうして、使者から戻ってきた埴輪の兵士が、言伝てられた返答を磨弓に教えると、彼女は妙な表情になった。
――どうかしましたか。
「……“我々ノ目的ハ ぷりずむりばー楽団ノ公演ノ妨害 彼ラハ彼ノ都市ニテ暴動ヲ引キ起コシ 今マタ我々ノ都市ニ同様ノ状況ヲ齎ソウトシテイル 彼ラハ騒音ヲ発スル 混乱・無秩序・乱脈ノ徒ナリ”」
その意味をはかりかねたのか絶句したのか、袿姫は数秒、なんの反応も寄越さなかった。
「たしかに、これですべての筋は通ります」磨弓は言った。「駅の襲撃も、この違法な関所も、すべてプリズムリバー楽団の公演を妨害しようとしているだけです。たしかにそうだ。すなおに見れば見るほどそうなります」
――彼女たちの熱狂的な追っかけは、大集団を成してその水路を使って遡上している、という報告もあります。
村紗水蜜や物部布都はそうした動きを、噂を利用して不法な関所でふっかけようとする、仕掛け網のようなからくりだと読んでいたが、なにを隠そう、そうした噂が発生するきっかけは他ならぬ彼女たち自身だった。船で河を遡航する事を思いついた後、別に隠すものでもなかったこのアイデアを、誰かがぽろぽろと言いふらした――おそらくだが、途中でむりやり船旅の計画に割り込んできた、天子や紫苑あたりだろう――そのうちに風聞によくある話のねじ曲がりが始まって、そのうえ鉄道も止まった。水路を使う方が陸路以上に時間的効率が良い、というでたらめな言説が広まり始めた頃には、彼女たちはチェックアウトしたホテルから造船所へと移動しているので、そうした噂の変質を知らない。
もちろん磨弓たちも知らない話だったが、彼女は彼女で、別のものをふと連想して感慨をおぼえている。それは、先日観戦した、ぐだぐだとした流れの野球の試合だった。
(さまざまな思惑が飛び交いながら、みんな予想外の流れに巻き込まれているだけなのかもしれないわね)
こういう時、そう言葉にして袿姫をなぐさめればいいのに、近頃の磨弓は、なぜだか沈黙してしまうのがくせになっていた。
そんなわけで、決定的な部分をなんだか勘違いしているキャプテン・ムラサらの一行は、上流に向かおうとする船が列をなして停滞しているのを避けて、その脇にある沼沢地に船を向けていた。
「みんなも気をつけていて欲しいんだけど」
と、水蜜は一輪にロープを持ってこさせると、腕いっぱいに広げた長さの、それまたふたつぶんの身体尺を取るよう頼んだ。
「おおむねの指標だけど、その二尋の長さよりも沼地の泥が浅ければ、そのまま船底かスクリューかをひっかけて、座礁しちゃうと思っといて」
「マーク・トウェインってやつね」
水先案内人もあらかじめことわりを入れていたが、当然、湖沼地帯の地勢が不変であるはずがない。地形は変化するし、かつて通れていた運河が枯渇しているなどは当然考えられる。だからよくわからない素人目でも、警戒する人数は多くいてくれる方がいい。
こういうとき、衣玖はよく気がついた。沼の底に沈んだ流木や、巨大生物の死骸の存在などを濁った沼地の泥の中に指摘して、汽艇の底がガリガリと削られたり座礁するのを何度も防いだ。
もちろん、そうした事が数分ごとに起こるのだから、ひどくのろのろした道行きになる。見積もりとしては一時間にも満たない遠回りのつもりだったものが、いつの間にか正午を過ぎようとしていた。
「焦る必要はないわ」
輝夜が船中の――というよりは水蜜の――微妙な焦燥を感じたのか、ニコニコしながら言った。一番の出資者がそう言ってしまえば、誰も文句を告げようがない。そもそもプリズムリバーウィズHのコンサートなど、今日だけのものではないのだ。
「安全第一で行ってちょうだい」
「……でも、さりげなく本線に戻ったら、最大船速で逃げ足になった方がよさそう」
ぐねぐねとした航行の末、小川の静かな流れに至りながら、水蜜は言った。
彼女たちの汽艇がいったん缶の出力を落として、息をひそめて進んでいるのは、さほど遠くない後方数ケーブルで、蒸気船が関所のバリケードに突撃し、後退し、また突撃して、その船体がひしゃげ、砕ける音が響いていたからだ。既に遊覧船が一隻、すっかりぐしゃぐしゃになって、それでいて後続の道を塞がないよう幅寄せして、川岸に打ちあがっていた。そうして大破した船の乗客は、別の船へと渡り移っている。妙な一体感が船団を包んでいた――彼らの大多数の目的はひとつ、プリズムリバーウィズHのコンサートに合流する事だったからだ。
「この世界のプリズムリバー楽団ファンは過激すぎるわ」
と、さすがの妹紅もぼやいた。ぼやきながら、汽缶の罐だけは急発進を予期して高出力を維持させており、その滑るような穏やかさは、いつでも駆け出せるように緊張し、張りつめられた筋肉の穏やかさだ。
「ありゃもう異常だよ」
「妹紅だって私から見れば同類よ」
と、からかいながら身を高くしていた輝夜は、キャプテンに身を低くしてなと言われて、おとなしくデッキに座った。
「どうなるか私もわかったもんじゃないけど、たぶん振り落とされるぜ」
「封鎖は破れました」
日々の市況を概況するように、川べりに佇む磨弓たち騎馬部隊は報告した。
「下流から上流へ、どんどんと船がすり抜けていきます。そのすべてが楽団の熱狂的なファンとも思いませんが、どうやらなんらかの熱に浮かされて、こうなっているのは間違いない」
――その熱があの楽団のもたらしているものだとしたら、なおさら私たちは彼女たちを拒絶してはなりません。
磨弓が、この状況に対して多少思うところがあるのも理解してか、袿姫はぼそぼそと早口で言った。
「ともあれ我々はどうすべきでしょう」
――ふむ。一連の動きがなにを企図しているかわかった以上、本日のコンサートを予定している市内に、即時戻った方がいいでしょうね。
「コンサートそのものが妨害される可能性があると?」
それはもはやテロ行為であろう。
――無いとは言いきれないのがこの場の狂気なんです。磨弓。今、あなたはその目で、今回の騒動が生んだ、正負の狂気を見ている……この場合の正負とは、正しい間違っているではなく、対立した二極の、という意味です。楽団やそのファンを妨害するのも狂気、設けられた妨害をぶち破るのもまた狂気です。楽団を拒絶する向きが出てきましたが、拒めば拒むほどに、彼らとてそれに狂わされていくだけです。それは感情のベクトルこそ違えど、絶対量としては似通った形でムーブメントに熱狂しているにすぎません。
(その論法だと、あの楽団のなにごとかを真っ先に理解して、即座に受け入れたこの方は、誰よりもさめきっているのかしら)
案外、そういうところもあるのかもしれない。
「……ともあれ、私は楽団の護衛に戻ります」
磨弓は、本来の任務に戻るべく駒を巡らせた。ちょうどその時、河面に靄が多く出てきて、一瞬見通しが悪くなったのに気がついているが、もはやどうこうと指摘するつもりもない。
その靄――雲山が飽和して煙幕を張る中を、雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都、依神紫苑を載せた高速汽艇は、矢のように駆け抜けていた。
「――で、結局のところ、この曲の後は、私たちは袖に引っ込まない方がいいのね?」
「その後の出番は三分後とかそんなもん。休憩にもならないわよ」
段取り確認に、楽団のメンバーやサポートミュージシャンらを集めている。そんな時に上のような弁々と雷鼓のやりとりが発生して、それを横で聞いていた八橋が、ぽつりと口を挟んだ。
「早着替えには充分な時間だけどね」
「着替えたところで――」
雷鼓は九十九姉妹に言いかけて、やめた。失礼な物言いになってしまう事がわかっていたからだ。
(サポートミュージシャンにすぎないあんたたちがお色直ししたところで、どうせ誰も観ていないし、気が付いていないでしょ、って?)
「……曲が終わったら、そのまま板付きで待機しておいて」
「いいわ」
九十九姉妹は諾々と雷鼓の指示に了承した。
(どうもたがが外れかけてきている)
人知れず唇を尖らせて、雷鼓は思った。
(人に指図を出しすぎて、なにが言ってよくて、言ってはだめなのか、わからなくなりかけているわ)
一連のツアーの中では、判断を下す場面も多い。判断を下すということは、どこかでなにかしら誰かしらを査定し、値踏みしているという事に他ならない。それが当然の事になってくる。
(……今までは上手くやれているつもりだったんだけど)
実際、これまでもそういう事が無いわけではなかった。というより、この世界に発生した時から、雷鼓の立ち回りは、常に出会った相手の査定と値踏みばかりで行われてきたはずだ。やっている事自体は、変わっていないはずだった。
(このツアー終わる頃には、だいぶやな奴になってるかもね、私)
その果ての姿の良し悪しにはあまり興味がない様子で、彼女はそういうものだろうな、と思いながら、打ち合わせを続けようとする。
「……そういえばさ」
とルナサが言った。
「天狗の記者さんの片っぽが言ってたんだけど、今夜、降るらしいわよ」
「……なにが?」
まさか焼けた硫黄が降ってくるわけでもあるまいが、一応、雨が降るという確認をしたかったのだ。
「雨――」
衣玖は、自分の頬っぺたにぺちょんとついた水の粒の由来について、そうした類推を行った。
「ああ、雨だね」
水蜜がそう言ったとたん、まだ昼下がりだというのに、にわかに、畜生界の空は幕が下がるように薄暗くなりゆく。水蜜は自分の荷物の中からオイルスキンを取り出して、それを羽織りながら言った。
「こういうのも船旅の味さ。みんな雨具出しておきなよ?」
「私は最悪、雲山が傘になってくれるから」
「雲に傘になってもらうというのもなんだか変な話じゃな?」
一輪と布都が言い合う。
「いっけない、雨の心配とか考えた事もなかったわ」
「嘘でしょ……」
世間知らずのお姫様らしいうっかりを告白する輝夜と、驚愕する妹紅。
天子は、その天候が映し出されている自分のスカートを眺めながら、ぼそりと呟いた。
「衣玖はいいわよね、その羽衣、防水仕様でしょ?」
「羽衣だけですよ」衣玖はレインコートを着込みながら、しみじみと言った。「雨降りに遭ったら、他はみんなずぶ濡れ」
そう言っていると、雨の勢いが段を力強く駆け上がるように増していき、彼女たちを見る間にずぶ濡れにしていった。それでも、不思議なことには、無言でため息をつきながら雨具を着込む者はいるものの、誰もキャビンに引っ込もうとはしない。こういう時に雨から逃げるような人々が、こんな旅に身を置いているわけがなかったのだ。
「とはいえ、体を冷やしてもばかばかしいわよ」
という優しさから、またしても全員にラム酒が行き渡る。今度はその雨水割りをがぶ飲みするようになって、酒盛りになった。相変わらず煮えたぎるココアをすすりながら、水蜜はいい気分で舟歌を口ずさみ始めた。最初は囁くような声だったのだが、やがて他の者の耳にも届くようになるにつれて、ぽつぽつと唱和する者が増える。
ついで、歌のリズムが強調され始めたのは、ひょっとすると他ならぬ衣玖の仕業だったかもしれない。それに従うようにデッキがこんこんと叩かれて、それだけでも拍子が鮮明になる。
「では」と、雨具を着込みながら結局ずぶ濡れの状態で、彼女は立ち上がって言った。「ほんの余興ですが、天界の舞いでもお見せしましょう」
むろん、小船の上なのでさほど広くはないのだが、足元にほんの寸土さえあれば、それだけで踊れる程度の技量は、竜宮の使いである衣玖は持っている。ただ空の上でゆらめくように舞うだけの彼女ではなかった。
(ようやっと船旅らしくなってきたわ)
水蜜は思ったが、正直なところ、あれから汽船を全速で走らせているのだが、コンサートそのものに間に合うかどうか、かなりあやしい行程となってきている。
「一時間延期?」
楽屋での待機を命じられてじりじりとしていたルナサたちは、会場の責任者との協議から戻ってきた雷鼓の言葉をオウム返しして、しかもその言葉にはなじるような調子が含まれていた。
「もっと正確に言うなら、“今後の天候次第では中止の可能性もあり得る”し、措置としては“開場の”一時間延期よ」
雷鼓は始まる前から、疲れた顔で言った。中止になるならなれ、とも内心では思っていた。
「コンサートの可否については、一時間経つ前にもう一度話し合いに行ってくる。そこで決まるわ」
メルランも肩をすくめる。
「まだ開場していないからいいけど、中止のアナウンスとか、チケットの返金とかなんとか、想像もしたくないわ」
「私たちが演奏する以上に、よっぽどえぐい暴動が起きそうよね」
リリカ本人はユーモアたっぷりに言ったつもりなのだろうが、笑えない。
雷鼓はそこで、ぼそりと先方の内情を姉妹たちに教えた。
「もちろん、観客の安全を第一に――という建前だけど、まあその他にもぐずぐずと理由をつけられているわ」
と、特にルナサのヴァイオリンを指す。
「たとえばそのストラディバリウス。そいつは保険会社に一山いくらくらいの動産保険がかけられていて、本来こんなラフな状況の屋外コンサートに使われていいものではない」
「関係ないでしょ、私のものなんだからさ」
「まあ他にも理由はあるみたい。向こうさんも私にはあまり話したがらなかったけれど」
と、雷鼓は相手の事情をどこかで察してしまってもいる。
(私たちの演奏会を良しとしない勢力が発生しつつあるのではないか)
そういう雰囲気さえ感じた。当然だろうとも思う。自分たちは連日暴動が起きるような演奏会を繰り返している、超お騒がせ集団だ。
「……とにかく、一時間――協議時間も含めた実質だと、あと四十五分くらいだろうけど――待ってちょうだいよ」
雷鼓はそう言って、楽団メンバーのみならず楽屋内のスタッフ全員をなだめたが、当人こそ、そのいらだちにそばのものをぶん殴りそうだった。
「――あと四十五分もあれば、目的地に到着!」
「というか、目的地に着いたあとはどうすればいいのよ?」
「そりゃあれじゃろ、観光案内図に従って観光」
「当地の観光パンフレットくらいは持っておいた方がいいわよ、ほれ」
雨具をかぶりながらも体を冷やしてぐずぐず言い始めた一輪と布都に、雨でふやけたパンフレットをくばってあげる輝夜。
「とりあえず、なにはともあれ現地に着く!」
水蜜が一同の中でも一際元気が良かった。
「良い船旅だったでしょ?」
「もう一杯くらい酒がもらえると、そうとも言えるかもな」
布都が言った通りに、更に八分の一パイントのラム酒が皆に提供された。
「この船のケチ臭い配給も、これで最後かのう……」
「そんな減らず口かませるなんて、仲良くなったわねあんたら」
一輪が水蜜と布都に対して言った。
船のキャビンでは、天子がこんこんと掃除用具入れのロッカーにノックをした。
「あー、ねえ、紫苑?」
懲罰に詰め込まれている相手から、返答はない。
「そろそろ、到着するんだけどさ。あんたはどうする?」
天子は、舎弟が答えようとしない様子を認識しながら、言った。
「……現地に到着したら、この船はおとなしく帰って、元のドックに入るんだと思うのよね」と、とりあえず今後の予想を言った。「だからさ、帰りたいなら、そこでそうしてる方が楽だと思うよ、うん」
それだけを告げて、ロッカーから離れていく背に答え代わりに聞こえてきたのは、凄まじい嘔吐の声だった。そりゃそうだ。何人分というしおっからいコンビーフサンドイッチを一気に食べた上に、高速で航行する川船のロッカーの中で半日も過ごせば、紫苑くらいの奴ならそんなもんだろう。
天子は、船内(というかロッカー内部)に吐かれたものの掃除をする手当と、ついでに紫苑を幻想郷に返してやれるだけの旅費を、船員のカワウソ霊に託しておいた。
杖刀偶磨弓がプリズムリバーウィズHの護衛任務に復帰したその時、コンサート会場のフェンス周りにたむろしていた抗議団体を見かけた際の感想は、それよりも多い楽団の熱狂的なファンを目の当たりにした時と、たいした違いはなかった。たしかに埴安神袿姫が言った通り、こうした人々は、ベクトルこそ違えど似通った情熱で動いているのだろう。
雷鼓らに帰還を知らすため、普段なら入る事もない楽屋に、足を踏みいれる。
あと十数分、ひたすらに時間が過ぎるのだけを待っていた楽屋の中は、磨弓の侵入という空気の揺れにも、どこか鈍感な反応だった。
「……戻りました」
「おかえり」
自分たちに関係がある話とも思っていないので、雷鼓は磨弓の調査について、深くは聞かなかった。また、こちらからも、コンサートが雨で遅延しているという事すら教えない。教える必要があるだろうか?
それに、教えてやらずともコンサートの遅延は察せられた。磨弓も当然それに思い至っていて、ついで、河を遡航してやってくる海賊のようなファンたちの事も思い浮かんだ。
(中止か)
それもいいだろう、と思った。ここ数日、すべてが狂っているのはわかっていた。自分の主人――埴安神袿姫――は、それでもいいと言っていたが。
(彼女は芸術家気質なのだろう)
と磨弓は型に嵌めるように思った。あれはたとえこの世界に混沌や乱脈があろうともそれをこそ称えて、はちゃめちゃが起きればそれを楽しむ女であって、それは初めから――この、神もなく主人もなかった世界を、混乱をもたらす事によっておさめようとした時から――そうであった。
(はじめからあの方はそうだったんだ)
磨弓はなにかを納得しようとしていたが、それでも袿姫との感覚のずれが、耐え難いものになってきている気もしているし、なによりそれを看過できる自分でない事は自覚していた。
(あの方がわからなくなってきている)
それを素直に認めた磨弓は、不思議なことに、袿姫の気分そっくりの事を考えた。
(けんかでもしてみた方がいいのかもね)
と。
(一度、けんかをして、ぐじゃぐじゃになって、毀しかねないくらいの衝動で、こねて、ついて、整えるようにお互いの体を土のように弄んで、抱き合ってしまえばいいのよ)
磨弓は袿姫の芸術家気質が、さっぱり理解できていないと自分では思っているが、やはり誰よりも理解していたように思われる。
「協議の時間よ」
磨弓が物思いにふけっている横で、雷鼓がのろのろと立ち上がった。
「失礼」
と、埴輪兵団の兵長を、少しのけるようにして楽屋を出て行った雷鼓は、どうもうまくいかない事の多すぎる最近の自分に、憤りを通り越して苦笑いすら漏れていた。
(今、すぐそばに幸運の女神がいてくれればな)
と思ったが、彼女が思い描いていた幸運の女神とは、「種族:幸運の女神」といったものではなく、もっと具体的な存在だった。
(あなたがここにいてほしい)
雷鼓は思った。
(別に、こんなネガティブな気分、ただ気の持ちようの問題だし、自分で折り合いをつけていくしかないものね。……それに最悪ばかりが起きているわけでもない。私はいつも通り切り抜けられる。必要なのは、あなたがここにいてくれる事)
自分の荷物を手に提げて、接舷した船着き場にまっさきに上陸したのは、永江衣玖だった。彼女は雨と藻でぬるぬるの船着き場を、軽やかな舞いで駆け上がると、そのまま先に走り出してしまっていた。
「意外にせっかちねえあいつ!」
「待って。ここからどう行けばいいのよ」
「この船着き場のすぐそばに運動公園があって、野球場があるから、その近くに屋外ステージがある!」
「自分らのこの荷物、どうするんじゃよ?」
「どこかに貸しロッカーかなんかあるでしょ、きっと」
「楽しい旅だったわ!」
一同がああだこうだと言い始める中、カワウソ霊の手で離岸していく(人事不省の紫苑を残した)汽船に、輝夜がさわやかに挨拶した。全員ぐしょ濡れで、酒でごまかしてはいるが体は芯まで冷え切っていて、本当に行くべきはコンサート会場よりももっと別の場所だっただろうが、もはや段取りもなにも無いまま、上陸に成功した勢いだけが勝っていた。
「時間は?」
「――ちょうど一時間遅れ!」
「それくらいなら、いいや。まだ一時間くらいは楽しめるでしょ」
「それはそうと、当日のチケットをどうやって入手するのよ」
「ここに至るまで、ずっと目をそらし続けてきた懸案だな」
「最悪、そこらでうろついているダフ屋なんかを見つけて、締め上げて、ゆするか?」
「我々そんなにアウトローな事するのぉ?」
その時、雨の中の船着き場が、ぱあっと照らされて、彼女たちは光源に――下流から遡ってくる、無数の船に目を向けた。
大雨に濡れる船着き場を照らしたのは、爆裂の光だった。ここまで、船体や機関の寿命を無視して、熱狂と強迫の中で河を遡航してきた何百隻もの船たちは、いよいよ到着というところで、あるいはボイラーを破裂させ、あるいは焚きすぎた罐の火が船体にまで燃え移って我が身を焼き焦がしながら、この船着き場へとたどり着こうとしていた。
「よほどの――私たちが使っていた快速艇でもないかぎり、この時間内の遡航はできないと言ったよね」水蜜がぽつりと言った。「もちろん、無茶をすればやれない事もないのよ。いやしかし……嘘でしょ」
「狂ってるわ」
これは輝夜が言ったが、言葉の調子には、どこかその狂気への敬意すら感じられる。
「すっごい追っかけもあったもんよね」
呆然とする輝夜の袖を、妹紅が引いた。他の面々も、すでに逃げるように駆けだしている。ついで、燃え盛る船に乗ってやってきた、プリズムリバーウィズHの追っかけファンは、海からやってきた征服者のように、運河沿いの都市に上陸した。
(やるのか……)
(やるんだ……)
(やるの……?)
プリズムリバー三姉妹が、異口同音の感想を口には出さないが漏らす(表情に漏れている)のを見て、雷鼓はさすがに苦笑いした。
「私もなんというか、完全に中止の流れだったよね? と思ってるよ」
ただし、と話を切って、付け加えもする。
「演奏時間は短くさせられた。こちらとしてもそこに逆らうつもりはない。“なんかあった時”用の短縮版のセットリストは覚えてるでしょ?」
「ばっちり、頭に入ってる」
五分もしないうちに段取りは整えられていくが、その最中、楽屋の内線電話がけたたましく鳴り響いた。すかさず、最寄りにいた射命丸文が受話器を取った。
「はいこっち楽屋ですよー……はい、はい、はい。はぁ?」
この「はぁ?」の剣幕に、楽屋の視線が一斉に彼女へと注がれた。
「……ええ」と、一同の視線を見まわしながら文は言った。「……でも、本当ですか? その、チケットを持っていない暴徒が、ゲートを破壊して会場に侵入したって」
むろん、楽屋の一同に聞こえるように言ったのだった。
「……はい、不法侵入者の数が多すぎて、もはやチケットの確認も不可能なんですね……なので、今度こそ中止のアナウンスをすべきか、会場側と再協議が必要だと。そうですねえ」
文は、ちらりと雷鼓らの方を見た。手をひらひらさせて、身振りで伝える。
(行ってよし)
雷鼓は、ものすごい顔で微笑み返して、そのまま、内線の内容などは無視してステージへと向かう。三姉妹もそれに続いて出て行ったが、文に対してはニコニコと手を振ってくれた。
「――ああ、そうでしょうねえ。そうだと思いますよ」文は手を振り返す片手間に、ぼんやりと応対する。「楽団の方々ですか? ちょっといま、手が離せないところで」と、文はそのまま、三分ほどの時間をのらりくらりと稼いで、最後にぼそっと言葉を吐いて、叩きつけるように内線を切った。「悪いけど、もうショーは止められないのよ」
その後も演奏を阻止しようとする会場側の努力は何度か繰り返されて、ステージの設備のブレーカーが落とされるといった妨害行為にすら発展しかけたが、そうした行為は磨弓を仁王立ちで電気室の前に陣取らせるという、かなり荒っぽい対応策によって、事態の泥沼化がどうにか防がれた。
この時の演奏は、一般的な、ちゃんとした、良いコンサートではなかっただろう。コンサートの良し悪し、ことに悪い評価とは、たとえば、進行が予定通りにゆかない、アーティストが従来通りのパフォーマンスを発揮できない、予想外の事故が発生するといった事で下される(むろん、チケットが売れない、観客がいない、主催者が詐欺師といったように、それ以前の問題もあるにはあるが)。その点で言えば、この日のプリズムリバーウィズHの演奏は、実にまずいコンサートだった。
だが、そうした単純なクオリティの良し悪しだけではかれない領域が、ライブコンサートにはある。こうした悪い出来事の積み重ねが閾値に達し、それでいて熱狂だけは維持され続けている(ここが一番難しいところのはずなのだが、プリズムリバーウィズHは当然のようにその条件だけはクリアしている)と、俄然興味深い事態が起こるのだ。
主催者も、客も、バンドも、当然どこかの面では不快な経験が多かったに決まっているのに、やがては精神の高揚ばかりが記憶にこびりついて、あれはめちゃくちゃだったが、伝説的なコンサートでもあったと錯覚してしまっている。
また、演奏が終わった直後、堀川雷鼓が市の警察と司法組織に、任意同行を求められるという一幕もあった。
「別に、私たちはコンサートで、演奏してただけよ」雷鼓はその主張で押し通すしかなかった。「任意同行を求めるにも、要件は揃ってんの?」
面白いのは、楽団メンバーの方も別にこの横暴に憤るでもなく、むしろちょっと楽しむ風情すらあった事だ。
「ついに雷鼓さんにも逮捕歴が……」
というリリカの感慨深げな呟きが、端的に皆の心情をあらわしていた。
「いや、待って。たぶん逮捕までにはならないはずなのよ?」
おそらく、いやがらせに一晩ほど留置所に拘束される程度の事だろうとは、雷鼓にもわかっていた。……その一晩が問題なだけで。
「今日深夜から、明日までのざっくりした予定」
雷鼓が連行されていったあとで、ルナサがツアーの主導権を譲り受けて言った。
「予定通り、今から〇時には埴輪兵団が仕立ててくれた特別列車の寝台車で出発、明日朝九時までに次の目的地へ。目的地に着いたら、雷鼓さん抜きでも即刻サウンドチェックとリハ。開演は十五時」
手にしたスケジュール帳をぽんと閉じながら、ルナサはきっぱり言った。
「最悪雷鼓さん抜きでも今後のコンサートは続行する」
なので、特別仕立てのプルマンカーが発った時、メンバーの中には雷鼓だけがいない。
「いよいよ先が見えなくなってきた」
列車の寝台に寝転がり、動き始めた車窓の外を眺めながら、赤蛮奇は語りかけるように言った。
「なにもかもがむちゃくちゃだわ、このツアー……」
と、まだ寝入るつもりもなく、息苦しくもあった(なにせ首が九つもある)ので、通路側の遮光カーテンを開けていた赤蛮奇だが、窓の反射にも映るその通路を、我が家のような気楽さで全裸になった九十九姉妹が往復していく。
「なにもかもが……」
赤蛮奇はカーテンを閉じて、さっさと寝る事にした。
雷鼓が連行された留置所は、既に本来のキャパシティをとうに逸脱しているらしく、それでいて無秩序すぎる収容も考えものだと判断されたのか、同郷のものを同じ囲いにぶち込むという、なんとなくの規則が発生していた。なので、雷鼓が放り込まれた留置所の一房――本来は二人用らしく、寝台がふたつある他は洗面台と便所があるだけ――には、喜んでいいのか悪いのかわからないが、それなりに知った顔や、見た事のある顔がいる。
雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都らだった。雷鼓はさりげなく衣玖の方を見たが、興味なさげにつんとそっぽを向かれた。
「……えーと、別に留置所の慰問とかじゃないからね?」
と、ひとまずかまして笑いをとった後で、ずぶ濡れの一座に加わった。ひとつのベッドを四人で分けて使うような有り様だったが、これでも他の房よりはましな人口密度だった。
「どうだった? 私らのコンサート」
「最高だったよ」
「ちょっとまあ、トラブルがあったけどね」
「というか、そのトラブルの当事者なんだがな、うちら」
一瞬、緊急のファンミーティングの様相を呈する留置所だが、すぐに明日も早いからという話になって、ベッドを分け合って寝るような格好になった。
「明日早いんだよ」
雷鼓は隣り合わせになった衣玖に言った。
「……まず、出られるかどうかわかんないんだけどね」
しかし、翌朝一の釈放手続きはなげやりといえるほどにすんなり進んで、しかも雷鼓以外の人々もついでに解放された。当局も真面目に対応するのにうんざりしていたのだろう。
「まあなんせ、私たち演奏旅行やってるだけだからね」
結局、そこのところで雷鼓を拘束する理由は、なにひとつ持っていないのだ。
「うちらも別に巻き込まれただけで、自分らから会場のフェンスやゲートを破壊したわけではないしな……」
と布都がしみじみ言ったように、彼女たちの方も、どちらかといえば騒ぎに巻き込まれた方であって、留置所行きも拘束というよりは保護のようなものだった。
「……みんなこの後、どうするの?」
「面白いものも見られたし、観光しながら、帰るわ」
輝夜はそっけなっく言うと、妹紅の方をまじまじと見つめた。彼女たちはあいかわらずずぶ濡れのままで歯を鳴らして凍えており、さりげなく身を寄せ合って体をあたためあっているような感じだ。
「……ひとまず、今日は泊まれるところを探しましょうかね。……でも、このありさまの妹紅と一緒にチェックインしたら、“心中し損ねたカップルの宿泊は御遠慮しております”とか言われそう」
「これでカップルはどう見ても無理があるでしょうよ……」
ふたりはマイペースに雷鼓たちから離れていき、それから一輪、布都、水蜜も、
「私らも、いい土産話ができたよ」
と、あっさり離れていった。
後に残ったのは、衣玖、天子、雷鼓の三人。
「……さーて、これからどう楽団に追いつこうかね」
雷鼓は首をひねりながら、ぼそぼそと呟いた。もとより、旅費が潤沢にあるわけではない。
「まず稼ぎの方法を探すところからよ」
と歩きはじめると、衣玖と天子は当然のようにつき従ってきた。
留置所からさほど離れていないライブ会場の横を通りがかり、その十代の荒野のような荒れ果てようを三人は再確認した。
「はぁ、あらためてひっでえ事になっているわね」
と、天子がほとんど原形をとどめていないゲートをくぐりながら言った。
「……それにしても、こんな事を繰り返してペイできるんですか? このツアー」
「どうも無理らしい」
衣玖の質問に、雷鼓は素直に答えた。
「やればやるほどむちゃくちゃになっていく。そういう性分なのかしらね」
靴のつま先で、泥の中にまみれた、ぐちゃぐちゃなものたちを、ちょっとだけ掘り起こす。
「私は、ツアーは続けなければならないと思っていた。私たちがこの世界になにをもたらすことができるか、ちょっと気になってもいた。だがそれがもたらしたものは、これよ」
と、押し倒されるようにねじ曲がったフェンスに、蹴りを食らわせてやった。
「この、ゴミ箱みたいな、世界で!」
自分たちはなにをしているのだろうか。
衣玖はひややかに雷鼓の癇癪を眺めた。
「……それより、どうするんです」と、突き放したようにも言った。こんな癇癪は一過性のもので、滝のような彼女は、いつもみたいに切り抜ける方法を見つけるに決まっているのだから。「ふてくされるわけにもいかないでしょう。自分が世界に何をもたらす事ができるのか、わからなくなったからといって、世界に停止を要求するのですか?」
「んなわけないでしょ」
ふんと鼻を鳴らしながら、雷鼓はぼそりと尋ねる。
「……ところでその御高説、なにかの受け売り?」
「たぶん、なにかで読んだんでしょうね」衣玖は認めた。「つまるところ、この世にはパロディと受け売りしかありませんから」
「たしかに。きっと、そうなんだろうな」
雷鼓は頷いた。
「ショーは続行よ」
廃墟となったコンサート会場には、ごみ漁りの集団が大量に発生していた。そうした群れは、畜生界の社会構造からも更にドロップアウトした連中らしく、暴力組織に与する事も、かといって何かに隷属して労働するのも馬鹿馬鹿しく、嘲笑っている。こうした廃墟に残されたごみ同然のがらくたを拾い、それらを加工したり資源を抽出したりして、時には組織犯罪にも手を染めながら――暴力組織に与する事は嫌厭しているが、それとこれとは別の話のようだ――生計を立てているような手合いだ。
雷鼓がフェンスの残骸を足蹴にする音を聞きつけて、そういう群れが集まりつつあった。
「なにさ」
と、そいつらに向かって言ったが、どうやら、自分があの堀川雷鼓――プリズムリバーウィズHのコンサートでドラムをぶっ叩いていた、あの堀川雷鼓であると認知されているらしい事も知れた。
「よく知ってるね。私みたいな、取るに足らないドラマーの事なんか」
どうやら、こうした逸脱した――そしてその場しのぎの――生活を送っている連中は、ある種の自由人的な芸術家コミュニティの形成も促進しているらしい。今回のコンサートがタダで聴けた事に(それが雷鼓たちに大損害をもたらした事は無視しつつ)彼らは感謝していた。
「そりゃ嬉しいね」雷鼓は苦々しげに言いながら、ふと、尋ねた。「そりゃいいんだけど、私たち今日の(手首のクロノグラフに目をやる)……ぎりぎりでも午後三時の開演までには、次の会場に入ってないといけない。なんせ、昨晩列車に乗って出発しているところが、楽団に置いていかれてね。一晩留置所生活だったんだ」
この告白はちょっとウケた。よくよく考えなおしてみると、当人にとってもどうしてそうなったとぼやくしかない、むちゃくちゃな話だったからだ(楽団のみんなも、面白がっていないでせめてなにがしかの路銀くらいは置いていって欲しかった)。
重要なのは、このむちゃくちゃさは彼らにとっても面白かったらしい事だ。
「そのうえ財布もからっけつ――なにか、別の街に行けるいい方法がないかしら、と思っているんだけど……」
と正直に話してみると、彼らも真面目に考えてくれる。他に散らばっていた仲間たちなども集めて、額を寄せ合ってくれた。
「……ああ、でも、できるだけ、売春とかはしない方向性でね」
そんなあけすけな冗談を聞いて、衣玖は思わず雷鼓の頭をはたいたが、減らず口は止まらなかった。
「……いや、なによりの問題として、あれは時間がかかりすぎると思う――しかも、仮に時間がさほどかからないとしたら、誰にとっても余計にみじめよ」
このジョークはよりいっそうウケたが、衣玖は再度雷鼓をどつき回した。それが更に面白かったらしい。
やがて持ちかけられた稼ぎの方法は、乗用車の陸送だった。
「移動するのに金をかけたくないのなら、移動そのもので稼いでしまえばいい、というわけか」
雷鼓はそう言いながら、輸送を依頼された白のポニーカーのドアを開けて、後部座席に自分の荷を放り込んだ。
「これなら今日の昼すぎまでに目的地に到着しつつ、燃料代を含んだ費用もほとんど払わなくて済む」
「良かったですね。そんな、狙いすましたようなお仕事が見つかって」
衣玖が自分の旅行鞄を更に後部座席に放り込んだ。
「……もしかすると、なんらかの犯罪の片棒を担がされている可能性もあるな」
運転席に乗り込んだ雷鼓は、助手席の衣玖に道路地図を手渡しながら言った。
「盗難車のロンダリングかな、もしかすると、車のシャシに密輸用の麻薬なんかが隠されている可能性もあるわね」
「どのみち、確かめられる時間は残されていませんよね。……最悪、なんかあったら総領娘様に逮捕されてもらいましょうか」
「えぇ、私ぃ?」
天子は、ツードアの車体の、狭苦しい後部座席に身を置いてふんぞり返っていた。
「ともかく、この移動方法自体は悪いアイデアではないのよ。なんせ、この街から次の街まで数百キロ、ほとんど砂漠みたいな荒野とハイウェイ、鉄道駅周りの小さな集落しか無いような場所よ。だったら、こいつをかっ飛ばした方がまだ間に合う気がする」
「なるほど」
「ところであんた、こういうものを運転できるの」これは天子の質問だった。
「まかせな」
雷鼓はイグニッションコイルをひねりあげ、この古式ゆかしいポニーカーの、V型八気筒の排気音をどろどろと鳴らしながら言った。
「道具の声を丁寧に聞いてやれば、なんとかなるでしょ」
天子はひゅっと息を吐いた。
だが、めちゃくちゃな論ではあるのだが、雷鼓に限ってはそんなものなのだろうとも思われる。
奇妙な、六時間ほどの車旅だった。
単調な光景、言葉少ない車内、二度ほど、立ち寄ったガソリンスタンドで給油する以外、なんの起伏もない車旅だった。はしゃぎ屋の天子すら、初めての自動車という体験の興奮をものの二時間で使い果たしてしまい、そこからは初めて体験する車酔いに、後部座席でぐだぐだと転げまわるばかりの時間だった。
こうした単調で、退屈極まる旅から雷鼓を救ったのは、自動車のフロントパネルにマウントされていたエイトトラックの再生装置と、ダッシュボードに入っていた数本のテープ。なにより助手席の永江衣玖だった。
「売春とか、今後冗談でも言わないでくださいね」と、しばらくぷりぷりしていた――竜宮の使いや下級天女の間に横行している羽衣婚活は、ただ人間相手の売春行為の言い換えにすぎず、彼女はそれを嫌悪していた――ものの、結局はすっきりと機嫌を直してしまい、運転手の邪魔にならない程度に、適度に話し相手になってやった。
「……というか、どうやってここまで?」
雷鼓が多少の余裕をもって相手に尋ねた。一時間ほど運転して、都市の郊外に至る頃には、運転のこつを把握してきたらしい。
衣玖は、これまでの自分がここに至るまでの、だいたいの経緯を話した。プリズムリバーウィズHの追っかけツアーが計画されていたので、それについていく事にした(九十九姉妹のおせっかいについては話さなかった)、そうしているうちに、ツアーはあの騒ぎでコンサートがぽしゃって返金騒ぎになった(雷鼓は頭を掻いた)、そこで出会った人々と河を遡って次の街に向かった(「……なんで河を?」と雷鼓は尋ねたのだが、なんでなのだろうな、と衣玖は思った。ただの蓬莱山輝夜のわがままである)、それからのちょっとした冒険、その他。
「お互い色々あったみたいだね」
雷鼓も、自分の身にふりかかった事を、ぽつりぽつりと説明したが、運転に意識が向いているのもあって、衣玖ほどには上手ではなかった。
給油ついでにハイウェイ脇のガソリンスタンドで買ったコーラは、畜生界の物流を支える長距離運転手向けに売られていたもののようで、集中力を増す成分(と穏当な表現にしておくが、不穏当な薬効成分の可能性ももちろんある)が添加されていたらしく、一口飲んだ途端にものすごい動悸と、遠い場所に薄く靄がかかったような覚醒感があった。
それからはほとんど無言の数時間が過ぎた。うっかりなにか口を開いてしまえば、舌が止まらないような気もしたから。
目が冴えてしまい、ちょっとした日中の光も眩しくてたまらなくなった衣玖は、ダッシュボードの中にサングラスを見つけ、雷鼓に渡して、自分もかけた。
ハイウェイはおそろしくだらだらと長い一本道で、荒野は広大だった。畜生界にはごちゃごちゃとした都市だけではなく、こういう世界もあるのだなという事を、彼女たちは知った。
なにより、こうしただだっ広さは、小さい事でくさくさしていてもどうにもなるまいという、なかば開き直りに近い結論を雷鼓にもたらしたのだった。
意外に余裕をもった到着になった――車の陸送を先に完了させる事ができるくらい。
「ふっふっふ、バンドを失業しても、運び屋で食っていけるって太鼓判もらえたわ」
「しかし失業するつもりは無いでしょう」
「傷ひとつつけずに持って来られたのが高評価ポイントらしい」
雷鼓と衣玖は、どちらもハイな感じが未だ抜けきっておらず、話も微妙に噛み合わない。
「だが、それもこれも、あんな車酔いでシートに吐くのだけは絶対に我慢してくれた天人様のおかげだ」
「ああみえて、気合が入ってる方ではあるんですよ」
と衣玖が言っていると、天子がトイレからふらふらと戻ってきた。
「もはや出すもんもないわ」
「とにかく、後はコンサートに間に合うだけね」
今回のコンサートは、アリーナを会場にして行われる事になっていた。プリズムリバーウィズHが各所で暴動を引き起こしながらコンサートを続けてきたという“伝説”は、既にこの街にも伝わるものとなっていたので、多くの抗議団体や野次馬が押しかけていたが、雷鼓たちはそれをさりげなくかわして館内に入った。
「しかし……一仕事終えた気分になっていたけど、またぞろむちゃくちゃが始まるわけよね……」
雷鼓は頭を掻く。
「ちぇっ、あのやたらとキマるコーラ、どこかに売ってないかしら。今こそああいうものが必要なんじゃないのかって思っているんだけど……うん? どうしたの?」
「なんだか雰囲気が変です」
アリーナの構内を歩きながらぼやいていると、衣玖が袖を引いた。
「なんというか……誰もいない?」
プリズムリバー楽団はまだ到着していなかった。
半日の遅れが生じていた。列車は荒野のまっただなかにある小さな駅の待避線に停車していて、まだ砂嵐とまでは言いがたい砂塵の中に、うずくまるようにあった。
もっとも、天候が停車の理由ではない。
「多々良小傘の失踪は」
射命丸文は、食堂車に乗客――楽団の移動専用に仕立てられた特別列車なので、楽団のメンバーかサポートスタッフの一同のほかにはいない――を集めて言った。
「明け方に起きたと考えていいと思います。調査の結果、彼女が朝食に顔を出さなかった事で失踪が発覚しましたから」
(へぼ探偵が)と赤蛮奇は内心罵ったが、その感想が、この場の全員に共有されてはいない事を固く信じた。(でも、そんなあやしい推論に頼らなくても、私になにかしら質問すれば、全部わかるのに。私の頭には、睡眠の浅いやつがいくつかある。だから近くの寝台で寝ていた小傘がごそごそすれば、外の様子はわからなくても目が覚めちゃう事はある)
また、そんな朝から、小傘がなにをやらかしに行ったのかについても、赤蛮奇はだいたい予想できた――予想できたが、友人としては口に出す事もはばかられる。それは小傘のしょうがない業なのだ。
(誰かをびっくりさせたかったのだろう、と思う)
天狗たちが見当違いの捜索と推理を巡らせる中で、赤蛮奇はこっそりと頭を飛ばし、停車している客車の天面を、静かに精査させていた。この天面には、どう清掃したところで一日でこびりついてしまう荒野の砂塵がうっすらと積もっていたが、ちょうど今、彼女たちが集まっているこの食堂車の上に足を踏み外したらしい跡を見つけた時、赤蛮奇の九つの頭たちは文字通り頭を抱えたくなった。
(バカかあいつは?)
どうしてそんなにもアクロバティックな驚かしを敢行しようとしたのか、それはもはや本人をとっちめてみないとわからない事なので、赤蛮奇は小傘を見つけてとっちめようと思った。
「まあ、そうですね。……考えられる事とすれば。夜風に当たりたくて、列車の後部デッキに出た可能性があります」文はまだ自分の推理を開陳している。「それであの人、いつも傘を持っていたでしょ。その時も持参していたでしょう――荷物の中にも残っておりませんし、なによりからかさお化けだから、その点は間違いないのです。それで、なにかの拍子、あのおんぼろ傘が風にあおられて、開いてしまった。それでそのまま――」
(その推理は堅実だと思うね)と赤蛮奇も認める。もっとも、それが起きたのは後部デッキではなく、食堂車の上でだが。
いずれにせよ、赤蛮奇の脳裏に浮かんだのは、本日未明、特急列車の風にあおられて車外へと吹っ飛んでいく、多々良小傘のすっとんきょうな姿だ。
(あんた……)
と赤蛮奇は思った。
(誰も見てないところで、そんなおもろい事すな……!)
思わず笑いをこらえていると、客車内のそこここから、同様の笑いが漏れてきた。こんなもの、どういう経緯にせよ、面白さにしかならない。小傘は誰からも好かれていた。
「鉄道路線の警備は、埴輪兵団が担当しています」一人だけむっつりと、まじめくさって磨弓が言った。「我々は万全の体制で彼女を探すでしょう」
「……あー、じゃあ」と、なんとか笑いを押し殺しながら声を放ったのは、ルナサ・プリズムリバーだった。「とりあえず、そういう話なら、私たちは先に進んでいいわけかしら? このままでも予定に間に合うかはあやしいけれど、とにかく先に進まなきゃ」
じゃあ、そういう事で――と話が決まりかけた時、「待って」と手を挙げた者がいた。
他ならぬ赤蛮奇だった。
「私、残るわ」と彼女は言った後で、つけくわえる。「……より正確には、私の頭の一つが」
磨弓は、赤蛮奇の頭をひとつ抱えて、先ほどまで列車が停まっていた、小さな駅のホームに取り残されている。
「……私があなたの護衛のために残される事は、正直多少思うところがあります」
「ごめんて」
珍妙なコンビは、そのまましばらく、駅で待っていた。鉄道警備にあたる埴輪兵団の一隊が、埴輪の騎馬を磨弓のために供与しにやってきたのだった。
「ご苦労よ」磨弓は赤蛮奇の生首を抱えながら、埴輪の騎馬にひょいと飛び乗り、馬を巡らせながら言った。「……多々良小傘の捜索を続けなさい。どんなわずかな痕跡でも、見つけ次第、兵団のデータリンクを利用して報告する事」
埴輪兵団が、独自の情報運用を駆使したソフトパワーによって、この畜生界に軍事革命をもたらした事は、よく知られている。
「……簡単に言うけどさ」
磨弓の胸元でたすき掛けにした幅広の帯布に、くるまれるように収まっている赤蛮奇の首が尋ねた。
「そうして送られてくる膨大な情報を、どうやって処理するのよ……たとえば私だって、九つの頭を好きにさせたら、相応の混乱が起きるわ」
「兵隊の仕事があるなら、首脳にも仕事がある、というだけの話です」
磨弓は無機質に、しかしもってまわった言い回しで返答する。
そうした問題は、埴安神袿姫の権能がすべて解決していた。袿姫ならできるに決まっている、と磨弓は思った。あの方は神様なのだから。
「……たしかに膨大な情報を処理するにあたって苦労もありましょうが、必要な苦労ではあります。私たちが酷使されている手足だとするなら、あの方だって酷使されている脳でしかありません。誰しも、なにかしらの仕事に従事して、酷使されているだけという話にすぎない」
「たぶん、それが、畜生界的な答え、なんだろうな」
赤蛮奇はふんとため息をついた。
しばらく、沈黙のまま馬を歩ませる磨弓だった。
「……幻想郷は、そういう、組織がどうのこうのといった仕事のあり方とは、どうも縁がないのよ」赤蛮奇が続けた。「いや……天狗連中なんかはそんな調子かもな、あいつらは変わっているから。よく知らんけどね。……ただ、私らみたいなその日暮らしで里をぶらついている妖怪どもは、経済的事情からせこい生業を持たざるを得ないんだけれども、それでいてお仕事自体はけっこう嫌いじゃないのよ」
と言いながら、赤蛮奇は思いつくまま話を繋げた。
「もともと、いいかげんなゆるい世界なのもいいんだろう。多少のサボりはあっても、イヤイヤで仕事をしている奴は、一人も思い浮かばないな」
「……どういう話です?」
磨弓の口が尋ねた。
「こっちはそうしたお仕事がイヤになっちゃったクチでさ」赤蛮奇は、砂塵から我が身(頭)を守ろうとするように、少し身(頭)じろぎして言った。「まあ、別に好きでも嫌いでもないバイトなんかやって、その日暮らししていたツケがやってきたんだろうな。ある日、なんかもうやる気がなくなっちゃった。それでまあ、なんやかんやあって、他にもいくつかある、別の頭に主導権を譲る事になったわけ」
「便利な体質ですね」
「そうとばかりも言えないが、とにかくその頭はやりたい事があったらしい。それが今回のツアーのお仕事にもなっている、ヘアスタイリストの仕事だった。で、そいつは、今だって実に要領よく、自分のお仕事を楽しんでる。イヤイヤ仕事をしている奴なんて一人もいない。幻想郷っていうのは、基本的にそういう場所なんだよな」
赤蛮奇は、そうした変化によって自分を見舞った騒動――その頭が勝手を行い始めて、首から下の肉体にまでタトゥーだのピアスだの不可逆的な干渉を行いかけたので、他の頭たちは大激論の末にそれを阻止する羽目になった――までは話さない。文字通り、身内の恥だったからだ。
ただ、その騒動の中で彼女を援けてくれたのが多々良小傘であった事を、しみじみ考えさせられた。
(あいつ、だいぶむちゃくちゃな生き方してるよな)と、ふと思う。(きっと、むちゃくちゃをやるような性分に生きているんだな。私なんか、そりゃそれぞれの頭の方針の違いとかでケンカを起こしたりはするけれど、結局はそこまで道を外すような事は、しないと思うんだ。それがあいつときたら……)
物思いにふけっている赤蛮奇を胸元に抱えながら、杖刀偶磨弓は内心で戸惑っていた。
――それはそうと。
と、磨弓のヘッドセット越しに埴安神袿姫が言う。その言葉が、さっきから磨弓の喉を通して出力されていたのだ。
「私どもはとりあえず、鉄道沿線の数百メートル以内といった捜索の方法を取っていますが、あなたのお友達はその圏内では見つかっておりません」
「ふーむ、ものすごく吹っ飛ばされたもんだね」
「そうしたのんきな状況の可能性ももちろんありますし、捜索範囲は広げようと思いますが、別の考えが私には思い浮かびますね」
磨弓の声を借りた袿姫が言った。
「この地域には強盗団が潜伏しているんですよ。数日前に街中で大きい襲撃事件を起こしていて、ね」
「いい天気だ」
驪駒早鬼は、荒野の中のさびれた農場の囲い場から、空に舞い上がる砂塵を見上げながら、手に下げたウイスキーの瓶をあけて、そのまま口に運ぶ。
砂嵐が来ようとしていた。
「本当にいい天気」
一口飲んだ後で、瓶を振り、酒をぴっぴと飛ばして、いくらか大地への捧げものに飲ませた。それからもう一度酒を自分の口に運ぶと、酒が撒かれた地面を考え深げにしばらく眺めた後で、つと踵を返す。
「出発よ! 今から、今から!」
かつて人が住んでいた頃の姿からはひからびてひと回り縮んだような、そんな農家の建物へと駆け出しながら、早鬼は部下のオオカミ霊たちに号令をかけた。
「あのつむじ風の巻き上がりは、けっこうな砂嵐になるわ! 境界の警備隊をかわしながら越境するには、ちょうどいい日頃よ!」
そう言いながらも、屋内に飛び込んで同様の事を一様に叫んだあとで、ふと黙り込み、階段の下から二階の方を見上げた。
「……お前らは準備してな」早鬼は部下たちに言った。「私は、あの拾ったおんぼろ傘のお嬢さんの始末をつけてくる」
階段をぎしぎしと鳴らして一段一段上がりながら、早鬼は思った。
(さて、どうしたものかしら)
そもそも、多々良小傘を早鬼たちが拾ったのは、一個の出来事としては単なる偶然だが、意外に因果関係が巡っている話でもあった。埴輪兵団は、プリズムリバー楽団を護送するにあたって、鉄道警備を強化していたが、それは潜伏中の早鬼の警戒心を刺激した。勁牙組の組長を、未明の――若干の危険さえある――偵察行為に走らせたのはそういう経緯があったわけだが、その因果が、なぜか列車から「おわーっ」と叫びながら吹き飛ばされて地に落ちた多々良小傘を拾わせたのだった。
「――嬢ちゃん?」
「うぅ……いやだぁ……」
小傘はすでに人事不省から回復していて、部屋の隅でうめいていた。
「きっと私はこのまま辱めを受けて精神的に抵抗できなくなった上で口に出すのもはばかられるような調教をされたあげく肉体に不可逆的なタグ付けをされて堕落と放蕩に耽る闇の権力者や暗黒大富豪なんかの奴隷として売られて一生監禁された状態で少女としての尊厳を失ったおもちゃにされるんだぁ……」
「見た目に似合わずやたらとハードコアな世界観をお持ちのようね……」
早鬼は呆れながら言った。
「……残念だが、ふたつにひとつを選んでもらわなきゃいけない。私たちについてくるか、ここに居残るか」
「残る事を選んでも、飢えと渇きでひからびて死ぬんだあ……」
「……だがここの井戸はまだ枯れていないし、いくらか食糧は置いていってやれるわ」
早鬼はやさしく、諭すように言って、それから鉄道の沿線や駅のある方角も教えた。
「助けは来るだろうし、私らについていきたくないなら、それでもいいや。こっちも忙しいからな。ただ、ついてきたら、人の多い場所で解放してやる。どちらか選びな」
「…………」
小傘は沈黙している。
(助けは来るだろう)
早鬼はぼんやり考えた。埴輪兵団は、早鬼と勁牙組がこの地域に潜伏している事を、その素晴らしい情報網でおそらく察知しているだろう。それでいて目こぼしをして、見逃してくれている。理由は単純だった。
彼女たちは対立した勢力図を有しているが、一致している方向性もある。かつての騒動で、畜生界における幻想郷の政治介入を積極的に肯定した経験によって、いわば親幻想郷(もっとも、こうした幻想郷への接近には地上侵攻というよからぬ目論見も含まれていて、一概に親幻想郷と表現するのもやや誤解を招くが)といえた。この立場を明確にしている畜生界勢力に、鬼傑組・勁牙組・剛欲同盟といった名だたる巨大畜生組織、そして埴安神袿姫率いる埴輪兵団があるのはよく知られた話だが、当時としてもこの姿勢は相当にラディカルなものであって、これ自体はどうやら畜生界の政局の主流ではなかったのではないかと思しい(これら四勢力がこの時代の畜生界を代表しているように感じるのは、幻想郷側の記録に彼らの名前が残ったからだ。畜生界は、自分たちの歴史を残す事をほとんどしなかった。記録はすべて幻想郷視点からのものとなり、必然として、幻想郷との交流がしげくあった勢力の名前ばかりが残る事になる)。
もちろん、彼女たちが畜生界内でも図抜けて強大な諸勢力であった事は間違いなく、またその勢力間に対立や抗争があった事も確かだ。しかし、どこかの接点では彼女たちは同じ秩序の中に身を寄せ合っていて、互いの便宜をはかる協力関係も有していた。
(色々あるけど、ともかく幻想郷からやってきた遭難者を無碍に扱う理由はねえのよ)
と早鬼は思った。多々良小傘のみょうちきりんな幻想郷的ファッションだけでもわかりきっていた話だが、あの特別列車が、幻想郷から演奏旅行にやってきた楽団を運ぶものであった事までは調べをつけていた。
(ただ、私らが埴輪兵団に見つかると、それはそれで話がややこしくなるのよね)
彼女たちは犯罪行為をしていて、良い機会をみて越境しようとしている最中だった。そこを埴輪兵団に見つかってしまっても、埴安神袿姫は目こぼししてくれるだろうが、それによって貸しをひとつ作る事になる。
(あぁ、めんどくさ)
率直な感想だったが、早鬼はとりあえず小傘に意思決定を委ねるほかない。
「……たぶん、助けはくるぜ。忘れ傘さん」早鬼は言った。「あの兵団は優秀だからな。いまいましい事に」
それとて微妙な予測ではあった。もちろん彼らだって非情なわけはないので捜索の手は割くのだろうが、物事の優先順位の問題で、後回しにされる事はあり得る。
しかし小傘は即答した。
「待つわ」彼女は身を縮こませながらも、きっぱりと言った。「私、待つのは慣れてるから」
「じゃあお別れだな」
早鬼はおそろしくさっぱりと、小傘を置いていった。小傘は農家の二階から、荒野に巻き上がる砂塵が徐々に激しくなっていくのを、勁牙組の一隊がその中におぼろに消えていくのを、ぼんやり見つめていた。
「……戸締り、しなくっちゃ」
小傘は二階の窓をぱたんと締めて、それから一階に駆け下りた。誰もいないらしい。こういう犯罪集団の拠点には家主が平時から住んでいて、家屋を管理していそうなものだが、それすらいない。本当に一時の宿だったのだろう。
屋内からはあらかたのものが引き払われていたが、テーブルの上に、ひどく堅いハードタックの包み一抱え、それに輪をかけてかちかちの干し肉が一束、赤い蝋で表面が保存されているチーズが何切れか、それにマーマレードの瓶だけが、目立つ場所に残されている。ストーブ用の薪も、いくつか積まれていた。
(取り残された割には、ずいぶんとまあ手厚いわね)
と小傘は呆れたが、水は外の井戸を使わなければならないようだ。かつては井戸の水をくみ上げるポンプが働いていたらしく、屋内にも水道を引いていた形跡があったが、その蛇口は渇ききっていた。
家の扉を開けて、屋外で数分間の作業。
戻ってきた時には砂まみれで、汲みだした水にも同様のものが浮いていた。漉し取るような道具もないので、手ですくってなるべく取り除いてやかんにいくらか注ぎ込み、ストーブにかける。ストーブに火を入れるのは野良鍛冶をしているだけあって、さすがにお手の物だった。
(さて)
人心地ついたところで、小傘はつらつら考える時間を持ってしまった。
(本当に誰か、拾いに来てくれるのかしら)
と小傘は疑念を持つ。
(まあ、砂嵐が止めば、外に出て、近くの駅とか見つける事もできるのかな……のんきすぎる気もするけど、これが一番よね)
のんきすぎるとは彼女も自覚していたが、かといって焦燥が、生活そのもののテンポに勝てるわけではない事も知っている。やかんの湯が沸くのすら、じっくりと時間がかかるのだ。
やがて頃合いを見て、小傘はストーブのダンパーを操作して、煙突の蓋を閉じた。
「……煙が止まりました。煙突を閉めましたね」
「いやもうほんっと、あんたよくこんな砂嵐で目を開けていられるね……」
赤蛮奇はぶつくさと言いながら顔を伏せて、それでも、ともすれば目鼻口耳に吹き込んでくる砂塵に辟易していた。
「泣きそうよ」
「こういう場合、泣くのはとてもいい事です。眼球が塵で傷つくのを防げますから」
磨弓はまじめくさって言った。
「それにしても、煙が上がっていたのが不思議ですね。見張りや警戒の様子がない。勁牙組はもうあそこにはいない気がする」
「けっこうな事じゃないの。……しかし奴ら、こんな先もわからん状態で、よく外出するよね」
「動物霊は、あまり、こうした砂嵐を気にせず行動できますから」
磨弓は乗騎を並足にして、荒野にぽつんとある農家に近づいていく。
「……畜生界でも有名な大組織の割には、せこいアジトね」
「驪駒早鬼は畜生界各地に無数の支隊を置いていて、それによって官憲の捜査を攪乱しているんです」
と磨弓が――正確には、磨弓の声を借りた袿姫が――言った。
「支隊と言いましたが、正確にはそのどれもが本隊になりえるという性質も有しています。……驪駒早鬼という、行動力の塊のような頭がそこにいるならね。もちろん、彼女たちは、我々埴輪兵団の戦術データリンクのような有機的な連携を取る事はできない、きわめて単純な組織ではあります。でも驪駒の行動は、時として私たちの情報網すら出し抜く事もある。ただの強盗団だと侮らない方がいい」
(めっちゃ早口で言うじゃん)と赤蛮奇は内心で思いながら、ふと言った。
「小傘は本当にあそこにいると思う?」
「驪駒早鬼はあらあらとした方ですが、幻想郷の者とみれば、まず保護するでしょう」
その点は、袿姫も早鬼に信頼を置いている様子だったが、赤蛮奇は「わからん話ねえ」と、ありもしない肩から下を仮定して、首をひねった。
崩れかけた垣を、埴輪の騎馬はひょいと飛び越えて、農場の敷地内に入る。
「……ともかく、この建物で砂嵐をやりすごす必要はありそうですね」
これは磨弓自身の声だった。
「わかってくれてうれしいよ」と言った赤蛮奇の生首は、ついに鼻をぐずぐずいわせ始めて、大きなくしゃみをした。
このくしゃみが、屋内の小傘にも伝わるほどの、大きなものだった。彼女はぎくりと身をすくめて、それから、砂嵐に備えて閉じていた窓の、鎧戸の部分からちらりと外を窺った。
激しくなりつつある砂嵐でも、確かな足取りでその騎兵が近づいてきているのがわかる――むろんこれが誰あろう杖刀偶磨弓の、あのおなじみの特徴的なシルエットをなしていた。
(思ったよりもあっさり救助がきたわねえ)
小傘は、家のどこかに隠れて救助に来た人たちをびっくりさせようという目論見も忘れて――別に忘れてよかったが――家の扉を開けて、来訪者を差し招いた。
「こっち、こっち……」
すかさず磨弓は馬から降りて、それを引きながら駆けてきて、それから、胸元に抱えていた、なにか丸いものを渡す。
赤蛮奇の生首だった。
「……なにしにきたの?」
「お前を助けにきたんじゃい! このバカ!」
「すぐに戻りますが、私以外の相手には扉を開けないように」
磨弓が家には入ろうとせず、まず埴輪の騎馬を農場の納屋の方に引いていきながら、家の周辺の警戒も怠らず、一通りぐるりと巡るつもりのようだ。それを確認した後で、赤蛮奇はちょっと声を低くして尋ねた。
「……ところで、あんた何をやらかそうとして今回のような仕儀に相成ったのよ?」
「うん。朝食の時間に、食堂車の天井から窓にぶらさがって、おどろけーって……」
「それ私以外の奴に言わない方がいいよ」
プリズムリバー楽団を乗せた特別列車が、本日のコンサートを行う現地へと、滑るように到着したのは十六時――本来の開演時間から一時間遅れての事だった。
「……でも、今回の公演中止の直接的な理由は、そこではないわ」
そう雷鼓が言った場所は、本日のコンサート会場であるアリーナの楽屋ではない。彼女は駅のホームに立って特別列車を待ち、その到着後に降車しようとする楽団メンバーやスタッフを押し留めて、車庫へと回送される列車の食堂車の中で言い放ったのだ。
「この都市の議会は、プリズムリバーウィズHを市の公共施設から出禁にする事を決定しました」
その意味が一同に伝わるのを、雷鼓はじっと待った。
「つまり……それは?」
「予想される騒ぎを未然に防ぐという名目らしいわ。向こうとしてもぎりぎりの滑り込みだったらしくって――午前中に緊急議会の招集、正午に議決、三十分かけて決議の案文の作成、その後の交付まで、おっそろしくスムーズにやられたらしい」
「……ま、それだけの事をされてもしょうがない集団ではあります」
あろうことか、射命丸文が言った。
「私たちが、これまでのコンサート会場でもたらしたものを考えるとね」
プリズムリバー三姉妹が、それに応えるようにそれぞれ言った。
「熱狂」
「狂騒」
「騒音」
「どうにかできないかしら?」
姫海棠はたては言った。
「それこそ、あの神様(埴安神袿姫)の権力なんかで、どうにか――」
「畜生界の各都市は、それぞれの自治が少なくとも表面上は認められている」雷鼓は遮るように否定した。「彼女が率いている兵団は強力な軍事組織だが、あの神様とやらの直接的な勢力範囲は、あくまであのメトロポリス近郊にすぎない。軍団が出張るような話でもない。別の都市の決議に反対できるほどのものではない」
「じゃあ、ショーは終わりってわけ?」
「それはそれでなんだか気に食わないわ」
「でも、どうするの?」
バンドメンバーたちのそうした意見に対して、雷鼓は少し皮肉っぽく笑いながら応じた。
「じゃあ、やる気はあるのね?」
雷鼓は少し考えながら言った。三姉妹が頷くので、更に念を押す。
「――どんな場所であろうと?」
「……はっ、私たちは昔っから、場所を選ばなかったわ」
ルナサが鼻で笑って言った。
「そう。求められがまま、どこでもドサ回りして演奏していた」
とメルラン。
「今更そんな事を聞かれても、基本に立ち返る以上の事ではないでしょうよ」
リリカがニンマリと笑って、雷鼓に微笑みかけた。
「……で、どこでやるの?」
雷鼓は少し言葉を選ぶ様子を見せたが、結局率直な表現をするほかない。
「……剛欲同盟がケツ持ちしてる政治集会」
食堂車の中の面々は一様に(マジかよ)という顔をした。
夜遅く、列車が格納された車庫に、来訪者があった。
「饕餮尤魔だ」
雷鼓たちは食堂車に来客を通した。
「このたびのコンサートの中止、気の毒だったね。私も議会に撤回を求めて、色々努力はしたんだけど」
尤魔のような人物が言う色々の努力とは、彼女が有する武力や暴力を背景にした恫喝や威圧でしかなかっただろうが、雷鼓はその後ろ暗さを無視して話を進めた。
「……たとえそれがかなわなかったとしても、今までの援助が無になる事はありません」雷鼓はにこりともせず言った。「もともと、この演奏旅行自体が、あなたたちのように幻想郷に理解を示してくれている、勢力や派閥の助力なしには、成しえなかった事ですからね」
「だが、様々な想定外の事態があったようね」
「ええ。私たちは、この畜生界という一世界に、思った以上に熱狂的に迎え入れられた。熱狂的すぎた」
雷鼓の背後で、ぶーっと唇を鳴らす音が聞こえた。別のテーブルについてやりとりを聞いているプリズムリバー三姉妹が、一斉にブーイングを鳴らしたのだった。
「……なんにせよ、私たちはこういう反応自体は、別に悪いものだとは思っていない」雷鼓は言った。「それに対する反動もね。あっていいものだと思う。ただ困るのは、演奏ができないという事だけ」
「場所を提供しよう」尤魔は言った。「なに、ちょっとした野外集会があってね。ステージが設けられているんだ。何時間でもとは言えないが、一時間くらいなら枠をねじ込める」
「厳密には、労働者の権利を求める政治集会ですね」
尤魔は声がした方向を訝しげに眺めた。そちらのテーブルの上では、射命丸文と姫海棠はたてが、ここ数日分の新聞――客車のラックから取ったもの――を広げている。
「あなたがたの政治に巻き込まれるのはまっぴらですよ」
「まあ、私たちは基本的に、純粋に音楽的なだけの集団でありたい、という事は言える」雷鼓は穏当に言い換えた。「……演奏の権利を奪われている側、とは言えなくもないけどね」
「待ってくれよ。……あの、そういうややこしい話は抜きにしようや」尤魔の方が困った顔になった。「あんたらは場所がなくて困っている。私はその場所を貸すだけ。それだけのシンプルな話だろ?」
「私たちの事情はシンプルですが、あなた方の事情がシンプルではない可能性はある」
「どういう意味だそれは」
またしても妙な事を言った文に、尤魔はざわつくものを感じた。
「言った通りの言葉ですよ」文はずるい避け方をしながら、ベルを鳴らして給仕を呼んだ。「今のはただの外野の野次です。あなた方は、一杯飲んでよしみを結んだがいい」
尤魔は苦い顔をして赤ワインを頼んだ。文が指の間に挟んでいる紙片を、さりげなく、ちらりと示してきたのだが、それは彼女も見覚えがあったからだ――吉弔八千慧の名刺。
「……実を言うと、これは明日のステージだけのお誘いではないんだ」
「ほう?」
尤魔の言に、雷鼓は目を細めた。
「今からパーティーがあるんだよ。ホームパーティーなんだが」
「ふむ、幻想郷でもお屋敷なんか呼ばれて、よく演奏してるわ」
メルランが言った。
「ステージの音響は保証するよ、バーカウンターはあるし、DJだっている」
「なかなかはっちゃけたホームパーティーをしているみたいね」
そう言ったルナサに対して、尤魔は肩をすくめた。
「はっちゃけているかはっちゃけていないかは各々の判断に任せたいところだけど、サプライズゲストという事でご招待したい。礼金もたんまり」
「そりゃ魅力的ね」
「……たしかに、そこの新聞記者さんが野次ったように、私たちはシンプルではないかもしれないな」
尤魔は認めながら席を立ち、バンドメンバーとその付き添いは少人数で、なるべく急いで準備をして欲しいと言った。
九十九姉妹は、夜半のホームパーティーについていくのは御遠慮しとこうかしら、とあくびまじりに言った。
「明日に備えるわ」
「そう」雷鼓はそれよりもひとつ、姉妹に言っておきたい事があった。「寝台はともかく、車内では下着くらいは履いておきな」
「え、やっぱダメなの?」
「それと、他のスタッフにも、できるだけ今夜は休んでおくように言っといて。こっちは地獄巡りみたいなもんだろうしね」雷鼓は苦笑いして、八橋と弁々に言った。「お楽しみパーティーだとは思わない方がいい」
結局、駅舎を出た停車場で尤魔が待つリムジンに乗り込む。プリズムリバーウィズHの四人のメンバー、他に二名が加わった計六名――後者の二人が、ひどく奇妙な人選だった。
「なんか飲むものある?」
比那名居天子は傍若無人に言って、リムジンの中の冷蔵庫を勝手に開けた。「ふん、まあまあのものがあるじゃん」
と、そこから取り出したシャンパンの蓋をぽんと飛ばすと、その蓋は、永江衣玖の鼻先をかすめて勢いよく飛んでいき、リムジンの窓にひびを入れた。
衣玖が不機嫌そうに鼻を鳴らす隣で、雷鼓が言う。
「それ、私も貰っていいかい?――グラスは左から二番目のやつを使って」
「……彼女はいったい?」
「天人様さ」
尤魔が訝しげに尋ねたのに対して、雷鼓はシャンパンの後味のようにさっぱりと答えた。
「ご招待を受けたホームパーティーは、どうやらそれなりの方々の集まりらしい。でもそうなると、幻想郷の私たちはいささかお行儀が悪い与太者。私たちは “諍い事はすべて決闘で決着をつける以外、法らしい法も持っていない、治安最悪の、ド田舎”からやってきたものでね」
ダブルクォーテーションでくくられた部分を強調しながら、雷鼓は皮肉っぽく言った。
「……どういう悪口を言われたか知らないけど、そこは畜生界も変わらんさ」
尤魔は鼻を鳴らした。
「そして、そこの天人様も、正直とてもお行儀がよろしいとは思えない。つまり、幻想郷だろうと、畜生界だろうと、天界だろうと。世界はどこだってどこかしらそうなんだな。今夜のパーティー会場にはふさわしいかもしれないけどな」
「こんなでも、一通りのしつけは一応なっているらしいのですよ」
衣玖も、天子に対してフォローになっているのかなっていないのか、わからない一言を添えてやる。
「楽団がサプライズゲストとして裏で待機している間、総領娘様はあなたに誘われてパーティーにやって来たお客様役、わたくしがその従者役をしましょう」
「まあ、こっちとしても、別にそうしてくれて困る事はないんだけどさ……」尤魔はぽりぽりと頬を掻いた。「ともかく、粗相のないようにね」
ところが、このホームパーティーでの比那名居天子の所作は、おそらく出席者の中でもっとも礼にかない、それでいて場の雰囲気を堅苦しくするものではなく、むしろパーティーのノリには溶け込みながら、しかし尤魔の顔を潰すような逸脱行為をするわけでもなかった。彼女が天界のお嬢様である事も(やや誇張気味に伝わっているふしもあったが、当人らは見過ごした)、どうやら尤魔の社交活動にとっては有利に働いたらしい。
衣玖はそのお嬢様の影のように、目立たないように付き従った。彼女にとっては多少眉をしかめたくなるような場面、露骨なハラスメントにも遭いかけたが、泳ぐようにそれを避けるあしらい方を知っている彼女にとっては、なにほどでもない――天人と袖を接するような生活をしていれば慣れっこだった。天界はなんでも地上より優れているのだ。ハラスメントの手練手管でさえ。
衣玖はシャンパンを――得体の知れないリラクゼーションドリンクを勧められるよりは、誰もが飲んでいる酒を無作為に手に取って、無造作に飲んだ方がまだ安全なのだ――口に運びながら、パーティー会場のステージの方を見やった。
「そして天界からやってきたお嬢様のほかに、もう一組――」
頃を見た尤魔がステージに上がって、ご挨拶ついでに言っている。
「実は秘密のゲストがいる」
尤魔の背後には幕が引かれていて、その奥には楽団が待機しているのだろう。
(楽団の演奏を聞いたら、このパーティーはいっそうひどい事になるのかしら)
パーティーのいかがわしさに神経を尖らせながら、衣玖はぼんやり考えた。自分たちもその乱痴気に飲み込まれて、熱狂の中に転がされる羽目になるのかもしれないのだ。もう、そうなっている可能性すらある。
(そうなったら、私たちが畜生たちに蹂躙され、おかされるのを、楽団はさめた目で見下ろしてくれるのでしょうかね)
「じゃあ紹介しよう――」
ステージの上の尤魔がそう言いかけたところで、衣玖はびりびりとした電撃のようなものを肌に感じて、我にかえった。あのドラム――堀川雷鼓のドラムだ。鎮静よりは興奮、催眠よりは覚醒をもたらしてくれる、スウィングのきいたビートが、会場に蹴り込むような音となって満たした。この入りは尤魔にとっても意外だったようで、彼女は慌ててカーテンを開けさせる。
プリズムリバーウィズHの出現は劇的なものになって、最初、なにが起きているのかをパーティーの参加者に理解させかねた。
(……ああ、これは素直にリズムに乗った方がいいやつか)
と、妙に冷静に理解したのは、永江衣玖だけだった。
(だって、ほら、こういうのって、いちばん最初に踊り始めた人が、自然にイニシアチブを獲得するものですしね)
それがフロアの原則だろう。
なにより、演奏者がプリズムリバー楽団と堀川雷鼓である事を、衣玖は知っている。それだけでも変な興味を抱く必要がなかった。
衣玖は、自分が被っているつば広の帽子を、粋に着崩すようちょんと傾けて、それから、ふわふわ身にまとっている羽衣を形よく整えて、舞い始めた。
(……おー)天子はシャンパン片手に、衣玖のその様を眺めて、のんきに感心している。(あいつ、やっぱり上手いのよねえ)
リズムが彼女を支配しているかと思いきや、彼女の舞いがリズムに影響を与えているのではないかと錯覚させられる、そんな瞬間さえある。
手癖の悪い誘惑はびりびりと電流が走る袖や羽衣の端ではねつけながら、衣玖はフロアで舞っている。
帰りのリムジンの中で、饕餮尤魔は言葉少なに、楽団に対して礼を言った。
「いいものが見られたよ」と、当人は何杯でもシャンパンをかっくらいながら言った。「それに噂で聞いたような暴動もなかったしな」
「ようやく加減がわかってきたのかもね」
雷鼓はもう酒を口に運ぶ事はないが、それでも気を張っているらしく、シートにしゃんと座っていて、それは隣に座る衣玖も同様だった。
他の四人は、すっかりはしゃぎ疲れた子供のように眠ってしまっていた。天子などは「ほんっと、ああいうのはさっぱり慣れないわ……」とぼやきながらシートにふんぞり返ってそのまま不用心に寝息を立てはじめるし、プリズムリバー三姉妹はそれより多少用心していたが、結局姉妹仲良く身を寄せ合って眠っている。
「ともかく、あんたらの演奏そのものに、そこまでの危険が無い事は、彼らのような社会的に影響力のある方々にもアピールできたぜ」
(貸しのつもりか)
と雷鼓は思う。
「……もう、ツアーの予定はむちゃくちゃなんだけど」と彼女は言った。「今後の参考にはなりそうで、そりゃ心強いね」
「このままツアーは終了?」
「いいや、まだまだ各都市を巡る。当初の予定だと、畜生界を一巡して、千秋楽は初演の劇場に戻ってやるつもりだった」
雷鼓はぶすっと不機嫌そうに言った。
「でも、もはやあの場所でやっていいものかもわからない。どのみち焼け野原だしね」
別に、埴安神袿姫の権能をもってすればどうとでもなる話なのだろうが、それでもなんだか気が向かないのも事実だった。
尤魔は、そんな雷鼓の弁を聞きながら、シャンパングラスを見つめる。シャンパンの泡がはじけるのを、まるで超新星爆発の観測のように興味深げに眺めた後で、言った。
「……私たちは、君らの演奏旅行の成功を願っているよ」
「願うだけでなく、多くを援けてもらったわ」
「地域によっては、それも難しい事になるかもしれない。幻想郷に馴染もうとしない人々も少なくないから」
リムジンが、信号待ちで広場の前に止まった。
「……ここでも処刑が行われた事がある。あろうことか私を――饕餮の苗裔を称して動物霊どもを束ねようとする偽物が、動乱の中で発生したんだね――こう見えて、私もちょっとは由緒ある系統なんで、僭称のし甲斐がある立場なんだな――で、そういう連中は鎮圧された後、ガソリン缶を担がせて市中を引き回したんだ。燃えかすはあそこに放り込まれて」
と、広場の近くにある噴水を指す。
「――なにが言いたいかというと、この世界はたしかにシンプルではない、って事だな。でも私としてはなんでもいいんだ。明日の集会のステージは枠をあけさせておく。好きにやりな」
リムジンは駅の車庫のそばに停車し、六人はそこに降ろされた。そこから、彼女たちは線路のフェンス沿いに、少し歩かなければならない。
歩くのは悪い気分ではなかった。
「……本当に、今後の予定は全部おじゃんなんです?」
と衣玖はその道行きの中で尋ねた。
「この街の議会がうちらの出禁を宣言できたという事は、他の会場もそれができないとは思えないからね」
「ですが、その出禁の根拠は、実は非常に足元があやしい」衣玖は言った。「バンドが聴衆の暴動を煽るような音楽をしただなんてね。ナンセンスですよ。暴動は暴動。演奏は演奏です」
「――君は」
雷鼓はそう言いながら、半分寝ぼけながら道を歩くプリズムリバー三姉妹に気を遣っている。ルナサは真っすぐにしか歩こうとしないし、メルランはあちらこちらに行こうとする。リリカは、よくわからないがすぐに後ろを振り返って、立ち止まろうとした。
天子はというと、わりあい意識はしゃっきりしているらしく、先に先にと勝手に歩いてしまっていた。
「……君は、聴衆として私たちのライブを聴いただろ。どうだった?」
「たしかに、いわゆるバンドの魔法というか、化学反応のようなものはありました」衣玖は率直に言った。「なにより、ビートがね。めちゃくちゃよかったです」
「暴動を起こしたいくらい?」
「さあ、それはどうでしょう」
衣玖は雷鼓の質問に、意味深な微笑みをしながら答えた。
「暴れたい、って感じではありませんでしたね。むしろ、あの騒々しさをもっと感じていたい、という」と言いかけて、やめた。「……いや、この話はやめておきましょう」自分がどこかに抱いている性衝動の話に突っ込みそうな気がしたからだ。
「……とにかく、ライブを体験してみてやはり思うのは、それが暴力だとか、そういったものに繋がるようなものではない、という事ですね。もちろん多少羽目を外してみたくはなりましたし、ものすごくいいライブだったのも確かですが」
「さっきのホームパーティーもそんな感じだったな」
「だからたぶん、関係ないんですよ。本当のところ」衣玖はそう断じた。「問題は、畜生界の方々がそうは思っていない、という点でしょうね」
「そこなんだな」
と言ったところで、彼女たちはフェンスの切れ目、車庫への搬入口にたどり着いて、曲がった。
「最初の暴動はいざ知らず、今となっては暴れるのが目的で集まっている連中すらいるだろうし」
「そういうものが求められる事も、まああるでしょう」
結局、自分たちの評判を元に――せめてゼロ位置に――戻すには、地道にコンサートを続けていくしかないのだろう、と雷鼓は思った。
「……多少予定が狂ってはいるけど、どうにか帳尻を合わせる事はできる、か?」
「今度からは、そうしたペイできるかできないかの問題は、専門のエージェントを雇う事をおすすめしますね」
衣玖は実用的なアドバイスをした。
長椅子の上で毛布をかぶって、ストーブの火にあたりながら眠るだけの一夜を過ごしたために、目が覚めたのは未明よりもやや早い時間だった。小傘は、胸に抱いていた赤蛮奇の生首をやさしくかたわらに置くと、そろそろと外の様子を窺う。
砂嵐は未明には収まっているだろう、と磨弓が予報したとおりだった。砂塵は落ち着いていて、荒れ野は落ち着き払っていた。
やかんの水を火にかけて、それが沸くまでの間、また横になる。
「もう、朝?」
赤蛮奇に声をかけられたので「ううん」と答えた。「まだ、もう少しは寝ていられる……」
しゅんしゅんとやかんの湯が沸いた時、結局小傘は二度寝に寝入ってしまっていたが、磨弓が起きていて、無言でその湯をストーブから外しておいた。
結局小傘が起きたのは、明け方頃だった。
「私が知り得る情報によれば」と、ハードタックに干し肉、チーズ、マーマレードとお湯の朝食を摂っている中で、磨弓は他の二人に説明した。「楽団は諸事情により昨日の目的地に留まっているらしい」
「それじゃあ、今日中には追いつけるね」
どうにも食べ方が判じかねるくらい堅いクラッカーを、ちょんちょんとお湯につけてふやかしながら小傘が言った。
やがて、磨弓は埴輪の騎馬に小傘と赤蛮奇の生首を乗せて、楽団の本隊との合流を目指し始めたが、その急ぎ足は、騎乗に慣れていない小傘の尻を、がんがんと跳ね上げながら移動するような種類のものだったので「このままだと到着する頃にはお尻が割れてるわ」「もう割れとるだろアホ」というありがちなやりとりを、小傘と赤蛮奇の間に生じさせた。
「このまま、市内まで言った方が列車等を使うより早い」と磨弓は説明した。「楽団は、採掘労働者の組合の集会で演奏をやる予定になったそうです」
「また変な場所で演奏する事になったのねえ」
小傘としては、その程度の感想しかわいてこない。
正午に市内に入る頃には、小傘の尻は割れるだけにとどまらず、激しい股ずれで出血すらしてしまっていた。
「ごめんなさい、気がつかなかった……」
磨弓はいつになく慌てて、血がべっとりとついた埴輪の馬の尻と、長時間の騎行がもたらした足腰の麻痺で腰を抜かしてしまっている小傘とを、交互に眺める。
「いや、まあ大丈夫だけどね。というか、下半身になんの感覚もないのよ」
と、肩だけは貸してもらいながらなんとか立ち上がった。
「……それにしても、本当にこんなところで演奏するのかな?」
小傘は集会場となっている広場の群衆を見まわしながら言った。
「本来の会場を出禁になったって聞いたし、ここくらいしか無かったんでしょ」
赤蛮奇はその腕の中で言った。
「ここに座って、ライブを見せてもらおうよ」
と、小傘は広場に集まった群衆の後ろの方の、それでも設けられていたステージに対しては真正面のいい位置にある、噴水の場所に腰を下ろした。
けがをさせてしまった手前、磨弓も小傘の提案に従う。
「……そういえば、楽団のライブ、こうしてツアーが始まってからちゃんと見るのは、初めてかも」
と赤蛮奇が言った。
「それもそうなのよね」
小傘が、血の滲んだスカートをちょっと気にしつつ、それでも相変わらず痺れたようになっている下半身を自分の拳で殴りながら答える。
「プリズムリバー楽団って、私もまあまあ好きだけど、そんなに暴動を起こすようなものだったのかなあ?」
と、幻想郷で見かけた時の演奏を思い返しながら呟く小傘だった。
集会は始まっていて、ステージの上も進行している。なんらかの功績がある組合員へのバッジの授与式、政党の議員による演説、セレブリティ(小傘たちは知る由もないが、雷鼓、プリズムリバー三姉妹、天子、衣玖らにとっては、昨晩のパーティーで見た顔)によるチャリティーショー、など……たしかに舞台は整っているが、あのプリズムリバーウィズHが壇上に上がるなんて、つゆほども感じさせられない。
昼過ぎ、訪れそうにもないプログラムは、さりげなくあっさりとやってきた。
気がつくと、舞台下手からルナサ・プリズムリバー、メルラン・プリズムリバー、リリカ・プリズムリバーの三姉妹、そして堀川雷鼓が現れていたので、彼女たちに興味がなければ、そうと認識する事は難しかっただろう。
イベントの司会進行役さえも、彼女たちをプリズムリバーウィズHだと紹介したのは、一曲目の演奏を終えてからだった。
(皮肉な話だけど)
と雷鼓はハイハットを踏んで拍子を刻みながら思った。既にいくつかの曲の演奏を聴いた聴衆は、サプライズの戸惑いを乗り越えて、彼女たちの演奏を享受しようとしている。
(私たちは、ここ数日で作られてきた自分たちの伝説を帳消しにする事でしか、先に進めないらしいのよね)
もちろん、それでも最高の演奏はしてやるつもりだが。
(ひとまずの結論はそういう事になる。いい演奏をやって、聴衆を楽しませて、興行としてもなるべくペイできるようにする。騒動も、めちゃくちゃも、トラブルも、無し。なぜならそれは悪いものだから)
雷鼓は拍子を維持したまま、ドラムパターンを楽団に提示した。なぜだかその時の三姉妹が、一個人ではなく人形のように見える。
(あれは――コンサートで連日の暴動を起こすようなお騒がせ楽団という評判は――私たちの本質ではないのだろうから、そこを殺したところで、別に問題はない)
なにより、それを殺す事で、自分たちの魔法が終わるとも思えない。
(おかしくなってたのよ、私たちこそが)
雷鼓は結論付けるように思って、裁断を下すようにドラムを打ち鳴らした――が、それは曲を締めくくる一撃ではない。別の曲の始まりだった。
(なにより、ショーは続けなければならない)
もうプリズムリバーウィズHの演奏で暴動が起きる事はなかった。
――このツアーも、残すところの公演が少なくなりました。
雷鼓:……正直なところ、先の予定というものをあまり考えないようにしているのよね。最初の方がむちゃくちゃすぎたのもあって。
三姉妹:(笑)
雷鼓:あそこの段階で、スケジュールが大崩れしちゃったのは、そうなのよね。私たちのコンサートを拒否する自治体も続出していたし……。それでも、現地に到着したら、なるべく代替できる会場を押さえて、なんとか演奏にこぎ着けていたけれど。
――舞台もなんにもない、がらんどうの体育館で演奏した事もあった。
ルナサ:あれは興味深かったわね。施設の規則で、バンドも観客も、全員体育館シューズを履く事が義務付けられて……。
雷鼓:本当はリノリウムの上張りだけは敷いてたから、土足でもよかったんだけどね。
メルラン:表向き、エアロビクス教室のオリエンテーションを名目に施設を借りたんだっけ?
リリカ:いや。本当にエアロビクスのイベントだったのよ。なぜか、そこに居合わせたバンドが演奏し始めただけでさ。
雷鼓:ま、そういう事になってるわけよ……。
――そうしたコンサートもあった。
雷鼓:どれもこれも、そのうち笑い話になるようなエピソードばかりよ……このツアーのごたごたって、そんなのばっかり。たぶん、旅が終わって落ち着いた後に思い返してみて、どうしてそんなにむちゃくちゃばかりだったのか、わかんなくなってるだろうね。
射命丸文はハンディレコーダーの録音を再生し続けながら、数十分前にホテルの一室で行ったインタビューの書き起こしを、グラスに注いだ酒片手に、黙々と行っていた。
「ニュースよニュース」
と、姫海棠はたてが(珍しくも新聞記者らしく)ニュースを持ち込んできた時も、どこか反応がにぶい。
「今夜の公演で、序盤の負債をペイできる見通しが立ったみたいよ」
「そりゃけっこうな事ですね」
文は心の底からの祝福で言ったつもりだが、どこか突き放してしまった響きもある。そもそも、ツアーの収支が赤から黒へと転じた理由については、バンドに対する賠償請求が司法の手で棄却された事の方が大きい。
プリズムリバーウィズHの演奏と、その公演旅行の序盤に起きた一連の暴動との因果関係は、誰にも見いだせなかった。あの集会でのコンサートが、特に騒動もなく――妙な政治性を深読みする向きは無くもなかったが――おおむね好意的に受け入れられた後、もう彼女たちのコンサートで暴動が起こる事はなかった。
とはいえ、暴動をおそれてコンサートを拒否する自治体や施設は、その後もいくつか現れた。しかし、やがて楽団が各地の公演を無事に成功させていくうちに、畜生界世論の向きが徐々に変わりつつある。プリズムリバーウィズHの出入り禁止という対応についての評価は、いまや百八十度転換し、早とちりと誤り、根拠のない無知に踊らされた愚行、もしくは市政の横暴としか見られなくなった。
(そうした連中も、結局はあのバンドに狂わされた一員でしかなかったみたい)
文はシニカルに思う。
雷鼓:……でもまあ、そういう暴動とかが起きなくても、バンドのツアーっていうのはむちゃくちゃなものなのよね。
リリカ:奴隷船のようにすし詰めになったバンドワゴンとかね。
メルラン:奴隷船より、単純な人口密度で言えばひどかったはずよ、あれは。
ルナサ:奴隷船よりもましだった要素といえば、全員に酒だけは行き渡っていた。
雷鼓:なけなしの福利厚生だったわね。
――私もそこに居合わせていましたが……
と自分の声が言いかけたところで、文はレコーダーを一旦止めた。
「いいニュースです、それは」
はたてが持ち寄ったニュースについて、彼女はそう意見を言った。
(でも、それを我が事のように喜ぶのも、なんだか変な気がする)
文はただ、バンドに随行しただけの記者なのだ。もちろん、その中で感じたバンドとの連帯感や仲間意識等は、あってもいいと思う。よくある事だ。なのに今、ふと(状況を客観視しろ)という情動が、発作のようにあらわれては、消えた。
「……あんなどたばたは、楽団の本分ではありませんしね」
しかし、雷鼓がインタビューで答えていたように、バンドのツアーというものはどんなに上手く、順調に進行していても、めちゃくちゃで、破天荒で、騒々しかった。
今だって、そうだ。
「いったいどうしたっていうのよ?」
朝一でホテルの一室に呼びつけられた赤蛮奇は、呆れかえりながらルナサの顔面に見事に残っている青あざをつついてみる。
「今日明日じゃ消えないわね」
「雷鼓さんたちと遊びに行ったクラブで、喧嘩ふっかけられたのよ」ルナサは端的に言った。「私たちが幻想郷から来た子猫だっていうのが、いざこざのもとよ。で、幻想郷流の応答をしてあげたわけ」
決闘を、やったという意味だ。
「負けたの?」リリカは余計な部分を気にする。
「勝ったに決まってるでしょ」ルナサはふんと鼻を鳴らしながら言った。「でもまあ、ちょっと酔っぱらいすぎていたのも確かなのよね。いい気になってホテルに帰る途中で、何も無いに蹴つまずいて、ずっこけた」
「姉さんの事、今日から間抜けって呼んでいい?」
「……それはそうと、これメイクでごまかせる?」
メルランの辛辣なコメントは受け流して、ルナサは尋ねた。
「そりゃどうとでもなるだろうけどさ」赤蛮奇は渋い顔をした。「あまり羽目を外しすぎない方がいいよ」
「それはそうよね……」
ルナサも、心底申し訳なさそうに言った。
赤蛮奇が自分の個室に戻ると、小傘が待っている。
「なんだ、朝ごはん先に食べてきたらよかったのに」
「うーん、そうなんだけど。待とうかなって」
どうやら待つのが小傘の性分らしかった。
二人はホテルの食堂に向かう。
「そういえばあんた、もう怪我は大丈夫そうね」
深刻な股ずれで負傷した小傘は、違和感のために奇妙ながに股で歩かざるを得ない二、三日を過ごした(そのため、様々な憶測や噂を生みもした)が、今は普段通りの歩き方に戻っている。
「うん、まだちょっとお股がじゃりじゃりするけど、大丈夫」
「あんたそれ人に言わない方がいいよ」
「訊かれたから答えたのに……」
(そこまで訊いとらんのよ)
ホテルの食堂について、和定食――おかわり自由のご飯、味噌汁、焼き魚、お新香、小鉢、味付け海苔。納豆と生卵は選択制――をつついていると、遅めの起床の人々の中にも、知った顔がちらほらと見える。
「おはよ……」
と、テーブルの差し向いの席に座ってきたのは、堀川雷鼓だ。それについてきて、その隣に座ったのが永江衣玖なのが、なんだか示唆的なような気もするが、赤蛮奇はあまり詮索しないようにする。首は多いが余計な事には突っ込まないのが彼女の信条であった。
「みんなよく寝てる?」
「コンサートの終わりが午後十時、ホテルに戻ったのが午前様」赤蛮奇は、納豆をがしゃがしゃとかき混ぜ続けながら皮肉っぽく言った。「とはいえ何時間かは寝られたからね。健康で、幸せで、生産的な生活」
「そう。よかった」
雷鼓は自分が話題を振った事にも興味が失せた様子で、黙々と朝食を摂り始める。
(というかこの人たち、あのコンサートの後でクラブ遊びしてたんだな)
と、赤蛮奇はルナサの喧嘩騒ぎの証言と照合しながら思う。
「……雷鼓さんはいつ寝たの?」
「それが、うん、寝られてないんだな」
「は?」
「クラブで遊んで帰ってきたのが朝の四時、そこから昨晩のライブの映像を見返して、おさらいや反省点を洗い出していたら六時過ぎ。ようやくちょっと横になったけど、すぐに起きちゃって、今ここで朝ご飯」
と横合いから口を挟んできたのは衣玖だった。
「――そんなところでしょう。私はクラブから帰った後は、割とすぐに寝ましたが」
(あんたも遊びの一員かいっ)
口にこそ出さないが、赤蛮奇はこうしたツッコミを内心でしじゅうやっている。
「……あ、いたいた、衣玖」
比那名居天子がやってきて、自分の朝食を手に取る事もなく、席の方にやってきた。
「あんたいつ帰ってきていたの?」
いつの間にかツアーの帯同スタッフのようになっている彼女たちだったが、スタッフに欠員(具体的に言えば依神姉妹)が出ていたので、ちょうどその空いた一室に泊めてもらう形になっていた。衣玖などは、周囲からは天人のお嬢様のわがままに巻き込まれている従者程度にしか思われていない――どうにも目立てない彼女の損な性分は、今回ばかりは得になった――のだが、それでも気を利かせて、ちょっとした仕事を見つけては楽団の役に立とうとしている。
「朝の、四時頃だったでしょうか。雷鼓さんの部屋でマッサージをやって差し上げていて」
「あんたがそんなに遊び屋だとは知らなかったわ。悪い友達を持ったのね」
「もともとこんなですよ。なにより、悪いお友達がたくさんという点では総領娘様に負けます」
(どちらも大差ねえわ、天人さんたち)
赤蛮奇は、素知らぬ顔で相変わらず納豆をかき混ぜている。
「んな事より、私の帽子の桃食ったやつ、知らない?」
と、天子がテーブルの上に叩きつけるように置いたのは、彼女の帽子だ。そこには、いつもの通りの桃の実がついていない。
「あれって食べられたのね……」
雷鼓が小さく呟いた。
「衣玖はなんか知らない? 帰ってきた時、部屋の帽子掛けを見たでしょ」
「……そこまでちゃんと見てませんよ、そんなもの」
「本当ね?」
「寝ぼけて自分で食べたんじゃないです?」
(くそしょーもない事でケンカしよる……)
赤蛮奇はまだ納豆をかき混ぜ続けている。
その隣で味噌汁の中の黄身――どういうこだわりなのか、生卵をごはんにかけるのではなく、汁中に落としていた――を啜った小傘の目は、食堂に備えつけられたテレビに向かっている。畜生界らしからぬのどかな朝。天気予報、トップニュース、特集、スポーツと芸能。
そして緊急速報。
このたび勃発した畜生界の軍事勢力間の戦争は、幻想郷によく知られていて関係が深い諸勢力――鬼傑組・勁牙組・剛欲同盟・埴輪兵団――とは、あまり関係のないところで発生していた。ゆえに事前に得られる情報には相当な偏りと疎密があり、妖怪の山の情報部は戦闘の発生の兆候を取りこぼしていた。
「新地獄の有力な情報源も、今回ばかりは役に立ちませんでしたね」
「そういう事もあるわ。本当に昔ながらの、内向きに相争っていた頃の畜生界の戦争なのでしょう」
菅牧典と飯綱丸龍は、山の薄暗い地下壕に、順次入ってくる電文情報を眺めながら言った。
「しかし、その軍事勢力の動員計画が発動した時点で、埴輪兵団あたりはなにかしら察知できていそうなもんですけどね」
「できるのと動けるのとは違うわ。なんにせよどちらに与するというところもない戦争だし……で、これ……どう思うよ?」
「えーっと……なにがです?」
「プリズムリバー楽団のツアーの千秋楽は明日だ」
典はぱちくりとまばたきをした。
「そして千秋楽の舞台は、最初に公演を行ったメトロポリス。予定通りとんぼ返りするには、紛争地帯を突っ切る必要がある」
「いや……そこまでの無茶をする必要はないでしょ……というか連中もやらんでしょ……たぶん……」
しかし、彼女たちにぼんやりと芽生えた懸念通りの電文は、数時間後、射命丸文と姫海棠はたての連名で、平文で送りつけられてきた。
「……『千秋楽は予定通り決行』」当地の情勢を報告する文章の末尾に、無造作に付け加えられた一言を、典は呆れて吐き捨てた。「『我々はショーを続けられる』!」
「やると思ったわ」
龍は頬を膨らせながら言った。
妖怪の山の情報部が予想した通り、埴輪兵団は戦闘の始まりを正確に察知していた。
「だからあなたを呼び戻したのですよ」
埴安神袿姫は、杖刀偶磨弓との久方ぶりの再会にも、あまり目に見える喜びは現わさず――いつもの事だ――言った。
「もちろんわたくしも楽団の旅程の安全を願っておりますが、護衛は配置しております。あなたにはこちらの対応の方にあたってもらいたい」
「新しく設営したステージの警備とテロの警戒ですか」
道中で楽団のバンドワゴンが襲撃される危険以上に、そちらの方があり得る話だった。袿姫が楽団の依頼を受け、霊長園の敷地内に(前回焼け落ちてしまった劇場に代わる)ステージを新設し、その工程がはやばやと完了したのが数日前。すでに楽団の受け入れ態勢は整ったわけだが、直後からツアーの千秋楽を狙ったテロの噂が立ち始めている。
もっとも、この方面の対策は既に行われていた。
「このテロリズムの予感を、どう受け止めて良いものか」
数日前、吉弔八千慧は珍しく袿姫と対面していて、持ち寄り方式の会食を行いながら言った。彼女も彼女なりの裏社会の情報網で、メトロポリスにうごめく不穏な情勢を察知していた。
「単に反幻想郷的なものと見るべきなのか、もっと別に目的があるのかも、私たちにはわからない」
という事を、八千慧はスモークサーモンとクリームチーズのベーグルサンドにかじりつきながら言う。
「あるいは、本当に狂わされている方々がいるだけなのやもしれません」
「……よく、事情は知らないんだけどさ」
驪駒早鬼が、トマト仕立てのレンズ豆のスープを貪りながら尋ねた。彼女は収奪物を無事に新地獄で売り抜き、そこでしばらくの休暇を享受しようとしていたところで、この会合に呼びつけられて大急ぎで畜生界に戻ってきていたのだ。
「その楽団の演奏って、本当に畜生界の動物霊を狂わせるようなものだったのかな?」
「だから言っただろ。司法の判断としては、因果関係は無かった」饕餮尤魔が、幾本目かのチョコレートバーを齧りながら言う。「……事になっている」
尤魔は含みを持たせたが、別に、あったという確証があるわけでもない。正確なところを言うと「責任問題があったのかどうか、誰にもわからないし、もはやそこのところは重要な問題ではない」だった。
「彼女たちが私たちの世界に、なにをもたらしてくれるのか」袿姫は自分の食事というものは摂らず、ただぼんやりと会食の席に座っていたが、ふと言った。「私はそれがずっと気にかかっています。だから彼女たちが最後までショーをやり遂げるところを見てみたい」
「面白い事を言ってくれますが、現実的な話をしたいですね」
「そのためには、不穏の動きをどうにか排除しなきゃな」
「強権を振るえず、制約の多い公的な組織には無理な話だろうが」
三者三様の言い様だったが、自分たちが呼び出された理由は、わかっている。
袿姫も彼女たちの理解の早さを喜んだ。
「力を貸していただきたい。やり方はバーリトゥードで、なんでもあり。スパイ、密告の誘い、弾圧。後ろ暗く正義のないやり口だろうと、なんでもいい。あと数日のうちに、私たちにとって不穏な可能性はすべて潰しましょう」
「……あいつ自身、あの楽団に狂わされているひとりなのかもな」
会食を終えた後で、誰かがぽつりと言った。
楽団がまずこうむった不都合といえば、鉄道路線の運航休止だった。
「鉄道が止まった以上、またしてもツアーバンに乗って靴を枕に、あんたたちを布団代わりにする生活かもね」
「私、ああいうの意外と嫌いじゃないよ」
姉のぼやきに対して、メルランが告白した。
「いろんな匂いとか、体温が混じってる感じがね」
「そりゃあ素質あると思うわ」
リリカが褒めているようなそうでもないような返しをした。
「なるべくそうならないように移動手段のチャーターは努力するけど」雷鼓が、三姉妹の私語に向かって言った。「検問は設置されるだろうけど、まさか拘束されるような事はないと思う……ただまあ、いつもの通り、ハードな日々の夜、八日もある一週間になってしまう事は否めない。終演したらすぐに出発、夜通し半日はぶっとばさなきゃ」
なにはともあれ「とりあえず目の前の公演に集中しましょう」という事で、彼女たちは会場入り直後のミーティングを終了した。今回のコンサート会場は市民会館の大ホールで、控え室の楽屋の構成要素は白い壁と白いテーブル、白い内線電話だ。
解散の後、雷鼓はなぜか天子だけを呼び止めて、興味深いものを見せびらかした。それは一枚のカードで、記されている個人情報や顔写真から、偽造の運転免許証である事が察せられる。
「こないだ、のっぴきならない事情で車を運転した時、ハイウェイパトロールに一度も呼び止められなかったのは奇跡だったと思うんだけど」と苦笑いしながら雷鼓は言った。「ああいう事が今後も無いとは言えないし、同様の奇跡が起こるとも限らない。……なによりこわいのは、なにかのインタビューの口の端で、あの時の運転の話が出る可能性はもっとある……で、私たちの友人方が骨折ってくれたのさ」
もちろん犯罪であり、違法行為である。
「二度と使う機会が無い事を祈るわ」天子はやや戸惑いながら、一言コメントしてやった。「そんな事より、私の桃は……いや、まさか――?」
「よく覚えていないんだけど、そういえばなんだかホテルに帰った後、夜食に食べさせられた気がしてね」
雷鼓はいけしゃあしゃあと本題を言った。免許証のくだりは、単なる噺の枕だったわけだ。
「天界の桃は美味しいな。おかげで今はだいぶ調子が良い」
「衣玖の奴ったら!」
「私が謝るのも変な話なんだがな」
「いや、あんたはしょうがないわ。とにかくあいつは――」
「私が謝るのは筋違いだが、許してやってちょうだいと頼むのは筋が通っているんだ」
雷鼓が困った顔で微笑むのを見て、天子はぎくりとなった。
「ここは私の顔に免じて、こらえてちょうだい」
(ずるい女どもだわ)
天子は鼻を鳴らしたが、別に、目の前にいる女と知り合いの女がどうなっていようが、どうでもいい話だった。
「……あんなしなびた桃を食べて、天界の桃を食べた気にならない事ね」
「そうだな、きっとそうなんだろうね……」
「くれてやるわ、あんなもん」
天子は、そこだけはさわやかに言った。
開演にはまだ時間がある。その時間の中で、天子は別にやる事もない――衣玖のようにこまめな気働きをするようなたちではないし、むしろあの女のそうした気立ての良さを心底バカにしてもいる――ので、控え室のドアを蹴るように出ていくと、箱物施設らしい薄暗い通路を抜けて、外へと出ていった。
本日の公演の開催地は、畜生界のよくある街中だ。文化程度はいささか違うが、その人品は幻想郷の人里と大差なかった。天界と比べれば、なんでも大差ないとも言える。
横丁に酒場街があったので、そこでビールを注文する。一緒に出てきたつまみは鶏の砂肝のせんじがらだった。
こうして市井の酒場で酒を飲んでいると、彼女個人も街の日常と生活に飲み込まれてしまいそうだ――今朝、畜生界の一地方に小競り合いの戦争が勃発したという事は話題の端にものぼらないし、あの悪名高いプリズムリバーウィズHがやってきた事だって、誰も気にかけていない。
(てめえらなんか所詮それだけの存在よ)
一杯目のビールをスカッと飲み干した天子は、少し痛快に思った。
(どいつもこいつも、どんなに暴れて、騒々しくいようたって、興味ない人々にとっては、所詮そんなもんよ)
しかし、その調子で(一軒目で四、五杯は飲んだ)二軒目の酒場に立ち寄ったところ、そこの壁に、プリズムリバーウィズHの公演を告知するポスターがでかでかと貼られていたのを見て、天子はなんだか不機嫌になってしまう。この二軒目は一杯と満足に飲めなかった。というのも、楽団の公演がやってきた今夜ばかりは、酒場も軒並み閉めてしまうかららしい。そこで気がついて横丁を出てみれば、市民会館の周りはちょっとしたお祭りのような騒ぎだ。天子はそういう事に馴染む気分ではない。
(といって、別にあいつらに怒っているわけでもないのよね)
と、勝手に桃を盗まれた事については、別にこざっぱりと割り切ってしまっている。比那名居天子には、異様な執拗さがあるかと思えば、無造作に恨みを捨てるところもあった。
いよいよ市民会館の表玄関が開場し、ごみごみした状況に巻き込まれかけたが、天子はなんとかその場から離れた。
(どうせ裏口から入ればいいのだから)
というところで、自分がスタッフパスなど持っていなかった事に気がつく。もはやツアーも最終盤にさしかかり、顔パスやセキュリティを買収しての楽屋への侵入(そうした不埒者を見つけて追い払うのが、天子の無自覚の仕事といえば仕事だった)などが横行している状況ではあったが、この時は本番直前という事もあってか天子の顔見知りが裏口近くを通りがかるという事が無く、彼女は締め出されてしまった。
「なんなのよ、もう……」
舌打ちをしながら、またしても建物をぐるりと回って、開場して人ごみもすっかり収まった市民会館のエントランスに入る。人ごみのざわめきが天子の耳を覆った。
(そういえば、ちゃんと楽団の演奏を見た事がないわ)と思った。一度は見たはずなのだが、あれはただの暴動と彼女の中では分類されている。
ごちゃごちゃとしたどさくさ紛れに、会場の大ホールの一番後ろ側に入った。立ち見くらいなら咎められないだろうと思った――というより、ここにいる何割が、正当に金を払ってここにいるのだろう、というような人の混みようだ。
おかしい事に気がついたのは、楽団の演奏が始まった後だ――それ以前から、なんだか周囲の圧が妙な気はしていた。しかし、いつの間にか押し込み屋の集団に囲まれて、客席後方の小便臭い隅っこに数人がかりで追い詰められて、全身をまさぐられた時、パニックにはなったが同時に(マジかこいつら)という感想もあった。
ホールの天井が見える。ステージの照明は夕暮れの残光のようにかたよっていて、薄明るく、その天を照らしている。そんな光から、彼女をなにかこの世界の恥部として、こそこそ隠そうとするように覆いかぶさってくる、畜生どもの影。
(こいつら、あの子たちの演奏会で、マジか?)
と天子は思ったが、その時、ファンファーレのように騒がしい音が会場を満たす。口をふさがれて大声も出なかったが、どのみちかき消されていただろう。
(ああ、まあ、理にはかなっているわけか……)
妙に冷静な気分で状況を受け止めながら、なすすべもなく受け容れるつもりはないので、まずは一匹の頭をぶちのめし、他の一匹の咽頭を指先で潰した。足蹴にしてやったまた一匹は、客席の方へと転がり落ちていく。
そこから先は乱闘騒ぎになった。
(きっと、初演の時もこういう事があったんだろう)
天子は客席を飛び越えながら思った。
(完全には同じではないだろうけど、同じようなむちゃくちゃが、私たちの知らないところで起きたのではないか)
シャツのボタンは引きちぎられ、スカートは切り裂かれかけて――最初から身ぐるみ剥いで辱めるつもりだったろうし、そうしない理由がない――ぼろぼろの衣服を引きずりながら、蟻地獄の巣を転がり落ちるように大ホール客席の斜面を駆け下りた。
ステージ上のバンドは、この客席で起きた、さざ波のような騒ぎに気がついているだろうか――おそらく、少なくとも雷鼓は、気がついている。このたびのツアーを経て、彼女は観客の逐次的な反応にナーバスなほどに気を配るようになっていた。
(しかし、なにかが起きたのだけはわかるでしょうけど、なにが起こったのかは、ついぞわからないでしょうね)
天子は駆け下りかけた段を、反転して、駆け上がり始めた。面白いことに――この手の乱闘騒ぎではよくある事だが――現場から逃げ出していたのはお互い様で、相手の集団は、既にホール後方の出入り口から逃走していた。残っていたのは、最初の一撃で人事不省にした連中くらいのもので、天子はそれを会場のセキュリティに突き出すと、楽屋近くの救護室に連れて行かれた。
そこで、なにかちまちまとした雑用の手伝いに勤しんでいる衣玖に、ばったり出会った。彼女は人がよく聡いので、天子のぼろぼろのありさまが何を意味しているのか瞬時に察して、手当てをしてくれた。
「太鼓のおねーさんから聞いたよ。あんたが私の桃を盗ったんでしょ」
ここで話すには不適当で、ずるい話題だとも天子は思った。衣玖は詫びるだろう(実際、心から詫びてくれた)が、こんなところでその話をしてしまうと、まったく別件と言っていい天子の災難に対してすらも、なぜか責任というか負い目を感じてしまうのではないか。
「……ま、今回のこれとは関係ないし、いいのよ」
と言っても、永江衣玖は心のどこかで引っかかりを残すのだろう――事実、この後から、彼女はたびたび天子に利する立ち回りを(なんの権力も持たず、それでいて天界におわす天帝にはいくらか近い、特殊な下層階級――竜宮の使い――なりにだが)天界において行うようになっていく。
奇しくも。
このような方法で人間関係の主導権を握っていく手管は、かつての比那名居一族――名居守が天界の雲閣に昇るのについていく形で天人の末席に居座った、あの悪名高い不良天人の一族――が得意とした手段だった。
一応ことわっておかねばならないだろうが、夜通しの移動を行うツアーバスの運転手は、もちろん雷鼓ではなかった。ちゃんと専属のドライバーを雇っている。
「全員、乗った?」
「私の首が一つも忘れられていなければ……」
赤蛮奇は雷鼓の問いかけに答えた。
「大丈夫だと思うわ」
「待った、待ったー!」
彼女たちがはっと振り返ると、多々良小傘が膨大な手荷物と、その中に収まっている生首どもを抱えて、よたよたと奇妙な歩きようでやってきていた。
「……友人と一緒に八つとも忘れるところだった」
「君ら本当に友達なの?」
雷鼓は眉と目と口を真一文字にしながら尋ねた。
「信頼しているがゆえのトラブル、ってやつよ……」
「そりゃ美しい友情だけどもね」
赤蛮奇がもごもごと弁解したのを聞いて、雷鼓は言い返した。ともかく、今度こそ置き去りは無いらしい。
ツアーのバスは発車した――プリズムリバーウィズHが千秋楽を行う場所、畜生界でいちばんのメトロポリスへ。
楽団のメンバーは、バスの中で眠ろうとしている――本当に、眠ろうとはしている。
眠れていないというよりは、ぶつ切りの目覚めを感じさせられている、という調子だった。おそらく、眠れてはいるのだろう。しかし、本来満足にあるはずの睡眠の、五分のうち一、二分ほどを、ぼんやりとした現実に引き戻される。そんな妙な感じだった。
(神経が昂っているのね)
まどろみの中で、雷鼓はごうごうとした騒音を聞いた。バスのエンジン音か、自分の中を流れているものの音か、それともこの世界そのものの音か。
(騒々しいわ、世界も、私も、この旅も)
これは騒々しさにばかり引きずり回された旅で――あるいは、自分たちが騒々しさを引きずり回していたのかもしれない。
(そこはもう、どちらでもいいか。どちらででも正解なんだろうし)
いつもこうだ、とも思った。いつも彼女はコントロールを失っている。どんなに完璧にやれたと思える時だって、そうだ。妙な事、変な事、おかしな事は、そんな時でも必ず起きた。
(でもまあ世の中そういうものよねえ)
と思う心はもちろんあるのだが、それでも雷鼓は、誰かや何かを完全なコントロール下に置きたいという欲望をどこかに持っていたし、それがナンセンスでありながら抗いがたい欲望である、という事もわかってはいた。
ほとんど夢か現かもわからないまま肩に重みを感じるのは、車中の眠りで寄りかかってきた、彼女の重みだ――彼女とて、一度だって雷鼓の思い通りになった事はないが、それでいてこの少女を、自分の思い通りになるおもちゃにしてやりたいという気分が、一度も無かったわけではない。ただ、それが不可能だという事と、できたところで幼稚な欲望を満たせるだけで、なにも面白くはないという直感が働いただけだ。
今は、寄りかかってきた人の小さな寝息や、体温や、拍動。微妙に伝わってくるそうしたリズムが、自分個人と世界の対峙にすぎなかった騒々しさに、新たな騒音を付け加えてくれるのを感じる。
楽団はそうした落ち着かないまどろみの中で、夜明けの内には、紛争地帯を抜けているつもりだった――たとえ検問等が設置されて足止めを食ったとしても、朝方には開放されて、そこを抜けられているだろう、と。
そうなっていないのは、どうも穏やかではない。
「このぶんじゃ、正午に現地入りできるかすらあやしいわけよ」
雷鼓がおおっぴらに言ったのは、臨時に検問所が設置された、ガソリンスタンドの公衆電話の受話器に対してだった――通信網の切断などは現状行われていないが、夜が明けた今では、それもそろそろ怪しいのではないか。ガソリンスタンドの事務所は検問のみならずなにか出先の指揮所としても使われているようで、雷鼓の会話だって丸聞こえであった。
(かまうものか。いっそ、いくらか愚痴っぽくなった方が、それらしい)
「まいっちまうよな、なあ」
気さくに話しかけているが、電話の相手は杖刀偶磨弓だった。電話の向こうの彼女は相変わらずまじめくさっていて、ともあれ霊長園の会場は受け入れ準備ができている事、幻想郷も今回の戦役に巻き込まれた邦人救出を検討していそうだという事を、筋道立てて説明してくれた。
(邦人救出……?)
立案できるとすれば妖怪の賢者たちか、その他どこかの大勢力だろうが、そんな事をしてくれる幻想郷ではない事は幻想郷の住人こそが一番よく知っている。雷鼓は鼻で笑い飛ばした。
「まあ……そうしてくれるならありがたいよね」
お義理にそう言ったものの、こんな別世界のおもしろくもない小競り合いに、余計な首を突っ込む幻想郷ではあるまい。おそらく、雷鼓たち楽団ではなく、戦争を行っている勢力に対して向けた単なるはったりだろう。電話が盗聴され内容を傍受されている可能性は、極めて高かった。
また、磨弓は他にも重要な情報を提供してくれた。剛欲同盟のオオワシ霊たちが空中から観測したところによれば、現地の戦線は(畜生界の戦争が多くそうであるように)睨み合いの膠着状態が続いていて、漫然と、いっそ穏やかさすらある。今のところ、交戦が起こりそうな危険な地帯は直線距離にして数キロほどで、封鎖範囲を突破する事自体は可能だ。
(かなり危ない橋を渡って伝えてきている情報ね)
と感じた雷鼓は、ちらりとと軍事勢力の指揮所になっている事務所を見回した。繰り返すが、盗聴の可能性は極めて高い。
「あの、それはいったい」
――個人的な情報提供よ。本日朝には戦端が開かれる。戦闘の間、おそらく検問が開かれる事はない。しかしながら、戦闘自体はごく短い戦線の中で収まる可能性が高い。
磨弓の声は、相変わらず、いつも通り、まじめくさっている。
「……数キロね」
思わず声に出して呟いてしまったその時、ぶつんと電話が切れた。雷鼓は用を失った受話器を珍しげに眺めて、それからまた手首のクロノグラフで時間を確認してから、公衆電話から離れた。
ガソリンスタンドの事務所から出ていく時、周囲の視線が自分に注がれている事に、雷鼓は気がついた。
「……ご苦労さんな事です」
戦争に対してそんな事を言うのも変だが、適当な言葉がそれくらいしか思い浮かばない。
(危険なのは数キロ――たかが数キロ。今からなら遅くはない)
バスへと戻る道すがら、思う。
「ひとつ相談したい事があるんだけど」
と、座席に戻ると、隣の席でつまらなさそうに車窓の外を眺めている衣玖に尋ねた。
「この前、私がふてくされていた時、君は言ったよね。世界に停止を要求してはならないと」
「……ええ、言いましたね」
「じゃあ逆に、この世界がふてくされたとして、それは私たちに停止を要求できるの?」
衣玖はちょっとだけ考えた。
(身も蓋もない話をしてしまうと、できるでしょう。簡単な話です。なぜなら世界は大きく、私たちはちっぽけだから。世界の身勝手は大きすぎ、ちっぽけな個人を飲み込む事ができて、動くも止まるも思いのままにしてしまう。これは良い悪いの問題ではなく、そういうものだとしか言いようがありません)
しかし衣玖は空気を呼んだ。雷鼓が求めている答えを知っていたからだ。
「……たとえ世界がふてくされていようが、世界は私たちに停止を要求してはなりません」
(じゃあ、やるか)
「おい、ちんどん屋ども」雷鼓は、バスの最後部の席に陣取っている三姉妹に荒っぽく言った。「そろそろ漫然とツアーバスに揺られるだけじゃなく、自分たちの本分に戻りたくないか?」
数分後、楽団のメンバーとスタッフは各々の荷物を抱えながら、足止めを食ったバスを置いてけぼりにして、検問の制止も振り切り、畜生界の空へと蹴り出していた。
集団の道行きは、よたよた、ふらふらと、そのうえ騒々しい。
よたよたしているのは、彼女たちが荷物を抱えていたからだ。ボストンバッグひとつ、旅行鞄ひとつを手に提げてやってきた雷鼓や衣玖はともかく、どちらかといえばこざっぱりしている赤蛮奇でさえ、仕事道具がかさんで、左右に抱えた荷物の間で釣り合いを取りながら難渋して先に進んでいたし、多々良小傘に至っては脱落寸前のありさまを、手荷物にしていたはずの赤蛮奇の生首に引かれて助けられながら進んでいた。
ふらふらしているのは、全員酒を体の中に入れていたからだ。誰かが自分の荷物の中から酒瓶を出して、そのまま回し飲みした。もっとも、全員がそれぞれ、なにかしらの酒をバッグの中や懐に、こっそり携えていたので、それらを延々と回し飲みするような形になってしまった。
騒々しいのは、もちろんこの一行がちんどん屋だったからだ。音楽は彼女たちに憑き物だった。この道中でも、半ばやけまじり半ば打算――これだけ騒がしくしておけば、無言での襲撃はおそらく無いだろうという打算――で演奏を行っていたが、ルナサのヴァイオリン、メルランのトランペット、リリカのキーボード、すべてが騒がしく、それら三姉妹の好き勝手な音を、どうにか繋ぎとめようとする(そしておそらくいくらか失敗している)堀川雷鼓のドラムで、なんとか音楽の体裁を保っている(失敗している可能性もある)。そんなものが戦場――畜生界でありがちな、宣戦布告はしたものの、末端の士気はどうにも低く、ぐだぐだとした示威行動と狎れ合いばかりが意外と目立つ戦場――に、無遠慮に降り注いだ。
要するに戦場の空をふらふらと通過しているのは、異様にあぶなかっしく、酔っぱらっていて、騒々しい、そういう少女たちの群れだった。
当然、こうした動きは戦争が勃発したばかりの前線に刺激を与えたが、こんなものを敵と認識するのも愚かだ。また、素朴な政治的状況からも、不用意な攻撃は躊躇せざるを得なかった。
さすがに慌てて飛び上がってきた軍事勢力に誰何されるような場面もあったが、そのあまりな傍若無人ぶりと、ついでに彼女たちが近頃有名な、お騒がせ集団のプリズムリバーウィズHである事を知ると、相手もどうとも手出しをしかねるようだった(いっそ護衛の申し出すらあったが、どちらかの陣営に肩入れするような形になりたくないという打算だけは働いて、丁重にお断りしておいた)。
だからといって、これが別に秘策というわけでも、なんらかのデモンストレーションというわけでもない。彼女たちはただあるがままの彼女たちだった。
(あの騒々しさも、こんなもんだったわ)
あの騒々しさとは、どの騒々しさだったのか。雷鼓自身もその参照元はよくわからない。騒々しい行為全般の事を思っていたかもしれない。
やがて、だしぬけに戦場――本当に戦闘状態になっている戦場――の上空に飛び出してしまったらしく、こういう場所では、さすがに地上からぽんぽんと狙撃されたり、弾幕を張られるようになったが、彼女たちはほとんど本能だけで避けた。もとより、袖や耳元を弾がかすめるほどに巧妙な避け方をするくらいが粋とされる、特殊な決闘文化が根付いている幻想郷の女の子たちだ。こうしたものには慣れっこであった。
ただ、自分の荷物で膨れ上がっていた多々良小傘だけは、そこまで幸運ではなかった。うんしょうんしょと引いていたキャリーバッグのラッチが撃ち抜かれて、そこから自身の荷物や、行った先々で購入した――最初の頃に買ったサングラスを始めとした――思い出の品、幻想郷のみんなへのお土産に買ったものなどが、ばらばら地面へと落ちていく。
「あ……」
無言で集団から脱落して地面に落っこちたものを拾いに行こうとした小傘を、赤蛮奇がすべての首と体を使って、引きずるように引き留めた。
「あんたの性分だとつらいだろうけどさ」と赤蛮奇は付喪神の友人に対して言った。「今はもうそれどころじゃないのよ」
実際それどころではなく、戦場では畜生界らしからぬ激しい戦闘が勃発していて、しかもなぜそうなったのか、誰にもわかっていない。幻想郷からやってきた楽団の、千の楽器がもつれながら降るようにむちゃくちゃな騒々しさが、戦線の神経に障ったのかもしれない。
(もっとやれ)
しかし、雷鼓は身振り手振りで指示した。
(もっとでかい音で、むちゃくちゃにやってやれ。最近のコンサートみたいにお行儀のいい、サウンドチェックを重ねて、バランスが取れた音ではない。それぞれのパートがめちゃくちゃに張り合うような音をぶちかましてやれ。)
地面の上では、ぼん、ぼんという爆発音が轟いて、眼下の道路では黒々とした煙が上がっている。一帯に煙幕を張る事で部隊の移動などを偽装するためなのか、集められた一般の乗用車などが焼き払われているのだ。すべてのものを油っぽく汚してしまう黒い煙が、少女たちのいるところまで立ちのぼっていた。
彼女たちはその煙幕も突破したものの、ルナサ・プリズムリバーのストラディバリウスの資産価値は低下している。
這うようになんとか紛争地帯を抜けた後の事を、雷鼓自身なにも考えていなかったが、それでもなんとか開演には間に合うという算段だけは立てて、楽団は手早く鈍行列車の切符を集団で買い、その鉄道を日常で使う人々に混じって、粛々と列に並んで乗り込む。
文はその様子を興味深げに写真に撮った。
「畜生界のディープなところを満喫する旅はどうだった?」
席に座る事はかなわなかったが、なんとか客車の一角に体を預けるスペースを確保した雷鼓は、皮肉っぽく言う。するとリリカが言い返した。
「紛争地帯ひとつ抜ければこんなにまともなのは、なんだか拍子抜けだわ」
「そここそがディープな一面なのさ」
ぶっきらぼうに言い返しながら、自分たちの煤けて、ガソリン臭いなりは、まるで難民のようだなと思う――同時に、紛争地帯から疎開する様子の乗客すら、さほど多くはないのにも気がついた。日常生活を堅持している乗客たちも、雷鼓たちを好奇の目でじろじろと眺めたりはしない。畜生界とは、そういう世界らしい。
「楽団が、検問を無視して、紛争地帯を突破している?」
(まあ、やるよね。あいつらなら)
埴安神袿姫が数時間遅れの報告を聞いて、さすがに狼狽しているのに対して、杖刀偶磨弓はあいつらならやって当然だろ、という気持ちになっている。このあたりは、ずっと孤独に霊長園にあった側と、なんだかんだとツアーに帯同してきた側、その付き合いの差なのだろう。
(しかし面白いのは、私たちが護衛につけていた埴輪兵団の分隊も、足止めをくらった検問所で、ずっと待機させられている事よね)
ともあれ彼女たちは、ついに埴輪兵団の制御からすら離れたわけだ。
「――あなた」
袿姫が、磨弓の澄まし顔を眺めて言った。
「なにか、勝手したでしょ」
「個人的な情報提供をしただけですよ」
「それが勝手な事と言うのよ。いい? あなたは私の――」
磨弓は主人の小言を、馬耳東風に聞き流している。それが態度にもあらわれていた。
「……まあいいわ。それで今、彼女たちは?」
「実を言うと、現状では埴輪兵団でも楽団を捕捉不可能でして」
磨弓は、痛快そうに主に言ってやった。
「彼女たちがあなたの制御下から離れるのもまた、あなたが望んでいた彼女たちのむちゃくちゃさの、総仕上げとは言えないですかね?」
「杖刀偶磨弓」
袿姫は一喝し、詰め寄り、ねっとりとみだらに、懲罰をにおわせて磨弓に告げた。
「冗談がとてもお上手になったのは嬉しいけれど、もっとやるべき事があるでしょ」
(あなたのコントロールからもっと逸脱する事、とか?)
磨弓の感情をよそに、袿姫は言葉を続けた。
「邦人救出の名目で幻想郷からやってきてくれた方々を、すぐさま呼び戻して差し上げなさい」
陰陽玉がなにやらガリガリと言っているが、周囲が騒々しくって、よく聞こえない。
「なあ霊夢!」
騒々しさの構成要素の一つでもある、霧雨魔理沙が言った。
「本当に、この鉄道の路線に沿って進めばいいんだよな?」
「たぶんね」
その時、畜生界の上空を行く彼女たちの真下を、なんて事のない鈍行列車がメトロポリスへと運ばれていった。そこにプリズムリバーウィズHが乗っている事を彼女たちは知らない。
博麗霊夢はため息をついた。
「プリズムリバー楽団のツアーの千秋楽を、VIP待遇で、ただで見せてもらえるって紫にチケット貰ってやってきたら、これよ」
「ま、うまい話には裏があるわけだよな。いつもの事だよ――ところでさっきから、その陰陽玉はなんて?」
「よく聞こえないのよね」
霊夢はうんざりと言った。
「思うんだけど、この世界は騒々しすぎるわ!」
がたん、ごとんと、一定のリズム。雷鼓たちは揺れる電車の隅にかたまって、時に床にへたり込みながら、待ち続けていた。移動している側なのに待ち続けているというのも変な話だが、気分としては、自分たちが目的地に近づいているのではなく、目的地が自分たちに近づいているのだ。
「……年を取ったわ」
雷鼓がそう言ったのを、耳ざとく、射命丸文が聞きつけた。
「なに?」
「ツアーが終わった後のインタビューの受け答えを考えていたのよ」雷鼓がニヤリと笑うと、できたえくぼが煤けて、妙に強い陰影になる。「とりあえず、このツアーの総括を尋ねられた時の受け答えが決まったわ。“年を取ったわ”ってね」
一同は笑った。
「このツアーが終わったら……」雷鼓は思いつきを言った。「スタッフも含めたみんなに、感想文を提出してもらおうかしら。それぞれ色々あったでしょ」
「なんだか修学旅行みたいですね」
「それ、新聞に掲載していいですか?」
「じゃあ、あまり人には言えないような事は書けないね」ルナサがほほ笑んだ。「コンプライアンス的に書けないような事が多い人、いるでしょ?」
「コンプラ云々を言うなら、そもそも私たちのコンサートが適切だったのかという問題があるわね」と、メルランがいつになく刺すような指摘をした。
「まあ、そりゃそうね」リリカは渋い顔をした。「どうやら、かなりのお騒がせ集団として畜生界には認知されたみたいだし」
でもそれが、彼女たちのどうしようもない業のひとつなのだろう。
「それにしても……いつになったら着くの?」
「他の乗客の方に訊いてみましょうか」
「そこまではせんでええでしょ……」
「到着したところで、ぐっすりおやすみというわけには、いかないのよね」
「眠たいなら、ちょっとでも寝といた方がいいよ」
「床に座って?」
「狭苦しいバンドワゴンの中で、誰かの靴やお姉ちゃんのお尻なんかを枕にしてきたなら、それ以上嫌なものはそこまでないでしょ」
「それもそうか……?」
「……お言葉に甘えてちょっと落ちるから、荷物頼むわ」
「おっけー。荷物はまかせといて」
「これは本人が置いていかれる展開のフリね」
「ろくでもない事言わないで」
「……あ、ごめん。もう着いたわ」
「ろくでもない事言わないで……!」
最後の最後に、わずかに残された休憩の機会が奪われる。彼女たちはショーの最後へと到達しようとしていた。
「実は、彼女たちの演奏を観るのはこれが初めてなんですよ」
八千慧が、招待されたVIP用のボックス席に着きながらそう言うのを、袿姫は聞いた。
「あまり、こういう不特定多数が集う場所というものに、顔を出さないのでね」
「日頃の行いのせいだな」
その隣にいる早鬼がからかった。
「私はこないだ見たけど、いいバンドだったよ」
尤魔がぽつりと言った。
「急なお誘いになりましたが、おそろいただけて嬉しいですわ。そして、楽団が無事千秋楽を迎えられる事、あなた方にも感謝しなくてはならないでしょう」
主人役の袿姫が、にこやかに、含みをもたせたあいさつをした。
と、その時、磨弓が袿姫の耳元までやってきて、招待していた霊夢や魔理沙の到着がいささか遅れそうな事を伝える。
袿姫は鼻を鳴らす。
「……そんなどうでもいい事を、私に?」
(では、どうでもよくない事を囁きます)
そのまま、磨弓は神であり主人でもある方の耳の中に、卑猥な告白をいくつか流し込んだ。袿姫はびくりと体をこわばらせて、大きく見開いた瞳で、磨弓を見返した。従者の手が力強く、自分の腕を掴んで離さず、そのままそこらへんの陰に連れ込まれそうな予感をおぼえて、それでも抗えず、ボックス席を飾るたっぷりしたカーテンの中に引きずり込まれた。
「それにしても――」八千慧が手首の時計を見て言う。「少々遅れていますね」
「なんかあったんだろう」早鬼が言った。「袿姫のやつがどっか行っちゃった」
「なにかしら起こるんだよな」尤魔は訳知り顔だった。「こういうのはさ……」
やがて、もう少し待った頃に、舞台と席とで、それぞれの変化があった。前座のバンドを長引かせてようやく舞台上に現われたのは、もちろんのことプリズムリバーウィズH。そして、畜生界の名だたる勢力の長が集っているボックス席に現われたのは、博麗霊夢と霧雨魔理沙だった。
「……まったく、とんだご招待だわ」
「たしかにいただけないな」霊夢の愚痴に魔理沙も和している。「私たちのVIP待遇なんか聞いていない、って受付に言われちゃあな」
「ちゃんと報連相できていないのかしら――うわ、あんたらか」
やってきた席の近くで待ち受けていたのが、八千慧・早鬼・尤魔のお三方だったので、霊夢はうんざりと舌を出した。
「ギャングのボスどもにご同席させてもらうほどになったおぼえはないんだけどな」
魔理沙はそう言いつつ、ずうずうしく自分の席に着いた。霊夢もぶつくさこぼしながらも、コンサート自体はたっぷり楽しむつもりでいた。
やがて、袿姫も乱れた肩紐を直しながら戻ってきて、新たなゲストたちの到着を歓迎する。
霊夢は、この神様に対して様々な文句があったが、とりあえずの質問があった。
「……VIP席ってなにができるかわかんないんだけど、お酒とか出てこないの?」
そうこうしているうちに、プリズムリバーウィズHのツアー最後の演奏は始まった。
『楽団の千秋楽は大成功 ショーはひとまず終わる』
「……ひとまず?」
「ショーは終わっても人生は続く、ってやつです」
姫海棠はたての疑問に、射命丸文は答える。千秋楽が明けた朝、市内の通信局で、簡易の電文報告を起草しながらの事だった。
「それ以上の意図はありませんよ」
「大天狗様たちに、まだまだやらかす意図があるように取られるかもよ」
「それはそれで……」文はにんまりと笑った。「面白いじゃないですか」
なにより面白いことに、はたての懸念通りの事態が起きた。この電文を受け取った妖怪の山は、読まなくてもいい言葉の裏を読んでしまって、ツアー終了後の楽団の動向について、妖怪の賢者や、その他の外交方面に至るまで、けたたましく照会をしなければならなくなった。そして、結局、楽団は畜生界のメトロポリスで、数日の滞在と観光を楽しんで、それだけで幻想郷に帰ってくるつもりだという事実関係を確認するまでに、ちょっとした混乱が起きたのだった。
「あ……これ」
多々良小傘は赤蛮奇とともに市内の道具屋街をぶらついていて、その店先にあった眼鏡スタンドの回転台を見やって言った。
「こないだ、あんたが買ったのと一緒のやつだね」
安物のサングラスは、どこにでもあるような、ちゃちなものだった。
「……買い直す?」
「うぅん」
小傘は、その真ん丸いフレームや、濃緑色のレンズを眺めながら言う。
「私が落としたのはあのサングラスだからさ」
「そう言うと思ったわ」
代わりに、赤蛮奇がそのサングラスを買った。すると他の頭たちもなんか買えと主張し始めて、そのまま頭九つ分、まったく同じ安物を買う羽目になる。
「どう、私だって似合うでしょ?」かける九。
「……使い回せばよくない?」
とは小傘も指摘できなかった。
最終公演が終わった翌日の時点で、実質的にはツアーのメンバーやスタッフは解散しているが、その後も観光を楽しんで、二、三日の滞在の後、幻想郷に帰る者が多い。
プリズムリバー三姉妹や九十九姉妹、赤蛮奇、多々良小傘もそうしたくちで、同日の同時にホテルをチェックアウトした。
「お世話になりました」
堀川雷鼓は、そうしたメンバーやスタッフの帰郷に際しては、なるべくホテルのロビーまでには顔を出して、頬にキスをし、ハグをやって送り出していた。
「私はまだ、こっちで処理しなきゃいけない事務仕事が色々あるからね」
「終わっても大変なもんだね」
赤蛮奇は同情した。
「まあ、わかっていた事だった」雷鼓は口を尖らせたが、本気の不満というよりは、苦笑いまじりだった。「結局、コンサートの売り上げでペイできるかできないか、だいぶ微妙なラインになっちゃったからね」
「お金を稼ぐのだけは、向いてないんでしょうね」
なぜか、そのそばに侍している永江衣玖がからかった。彼女は、比那名居天子がこっちに長逗留するつもりらしいので、そのお目付け役として留められている。……というのが表向きの認識だったが、さて実際のところ、長逗留をするつもりなのは衣玖と天子のどちらで、お目付け役は衣玖と天子のどちらなのだろう。
「むちゃくちゃな事態を起こす才能だけはあるみたい」
「私たちが起こしたわけじゃないよ」
雷鼓は言った。
「ただ、世界がコントロール不能なだけさ」
「……あ。そうだ」
それから、少女たちがいよいよホテルのロビーからも出立する段になって、雷鼓は赤蛮奇を呼び止め、特別に言った。
「大変だろうけど、ツアーの感想文は九人分提出してね」
「マジかよ」
(ここまで本編)
赤蛮奇は一頭の首長を戴き、原則的にはそのただ一つが己の肉体を自由に使いつつも、大枠の意思決定には議会を招集して他八つの頭の承認を必要とする、特異な合議政体を採用していた。ある日、首長の頭が心神の失調を抱えたので、議会は首長の交代を決断した。そのままその頭は廃位され、別の頭が赤蛮奇の首長の座に就いた。
だが、新首長である別の頭は、様々な新機軸(アルバイトを辞めて個人営業の美容室を始める、それまで画一化されていた髪型を廃止する、妖怪との間に従来以上の積極的な関係を拡げていく、など)を方針として打ち出したものの、改革と変化の性急さには反発がないわけでもなかった。やがて、彼女が好んでいたタトゥーやピアスについての議論を契機にして、新首長の不信任が旧首長であった頭から行われた。
新体制の転覆を予感した別の頭は、同時期に幻想郷‐畜生界間で計画された文化事業――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに便乗して、肉体と共に境界を越えた亡命を画策したものの、旧来の首長であった頭がそれを察知し、この問題を議会に上申したうえで首長への復位にも成功して、友人である多々良小傘を頼りこれを阻んだ。
その後、ふたつの頭は意外にもあっさり和解した。失脚した別の頭の目的は、畜生界に亡命してタトゥーやピアスなど不可逆的な変化を肉体に施す事だったのだが、首長による以下の説得にあっさりと応じ、少なくとも当面の策謀はやめる事としたのだ。
「……でもさ、畜生界のそういうタトゥーやピアスをやってくれる業者って、針とか使い回してそうだし、ついでに変な病気までくれそうじゃない?」
「それもそうね……」
……正式な交流は開かれていたが、いまだに異界に対する偏見も強い時代であった。
それと。
ついでのなりゆきで、多々良小傘はプリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに帯同する羽目になっている。
(ここから本編)
それにしてもおかしみを感じるのは、あの多々良小傘――普段から持っている唐傘はおいても、身一つでぶらぶら生きているような野良妖怪が、なぜこの旅行では、ああも大量の荷物を抱える羽目になっているのだろうか、という事だ。
「いやあ、あのお、はい、仕事での越境でぇ……」
一行――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに帯同する、サポートメンバーや、裏方の少女たち――は、畜生界への入境を目前にして、関所の管理官への受け答えに特別しどろもどろにしている小傘ひとりに待たされていた。
数分前まで「大丈夫だよ、私けっこういろんなところ行ってるし」と自信ありげに言っていた小傘だったが、友人の赤蛮奇は(どうせちゃんとした入管なんか通過した事ないくせに)とも思っていた。おおらかといえばいいのかなんなのか、そうした法外の境界越えは横行していたからだ。
「あ、はい、手荷物検査ですか……こちらに……どうぞ……」
と、どうしてかかしこまったふうに、小傘は、自分の膨大な手荷物を係官にゆだねた。
それにしても、どうしてこんなゆるい関所で、こんなにも手間取るのだろう。
「……さっさとして欲しいんだけど」
他のスタッフから小さなぼやきが聞こえてきたその時、関所の警報が高らかに鳴った。
赤蛮奇は赤面している。数時間の拘束の後に関所から突き返された小傘の手荷物のひとつ、おおぶりな鞄の中に、彼女の生首が七つ――今回の出張に必要と判断された二つを除いた、七つ――、ごてごてと詰め込まれていたからだった。
そもそも、赤蛮奇がこのツアーに帯同しているのも、成り行き上そうなってしまった要素が多分にあった。ここ数ヵ月ほどの間、他の頭が主導権を握っていた時期に、そいつが美容師の真似事を始めたまでは生計を立てる事だから許すほかないものの、楽団のツアーのスタイリストの求人にまで応募するような積極性は、かつての頭には無いものだった。その後、赤蛮奇の体にはごたごたと首長の再交代があったものの、請け負った仕事は仕事だ。彼女は渋々ながら楽団の畜生界ツアー御一行に加わったし、スタイリストの仕事のため、かつて対立していた別の頭を持っていかなければならない事も了解していた――あとの七つほどは、かわいそうだが留守番させておくつもりだったのだ。
「なにやってんのあんたら……」
小傘の大きな旅行鞄たちの一つから出てきた他の頭たちからは「いやなんだか面白そうだったんで……」「よくわからないまま詰め込まれました!」と、だいたい二通りの供述が聞こえてきたが、いずれにせよ赤蛮奇は文字通り頭を抱えるしかない――しかも肉体の上に乗っかっているものも含めて、九つも。
「だいたい小傘もなにさ、あんたこないだも関所破りやらかしてたけどさ、毎回警報を鳴らしてもらうノルマでもあんの?」
と責めるように言ったが、その関所破りは他ならぬ、赤蛮奇の暴走を止めようとした赤蛮奇(ややこしい)のためだったのだ。八つ当たりでしかない。
「いや……」
と小傘は口ごもって、もごもごとなにか続けた。
「なに?」
「人を驚かせるノルマが……」
こればかりはなんともしようのない小傘の業だった。
小傘と赤蛮奇が数時間の足止めを食っている間、楽団の本隊はさっさと先に行ってしまっていたが、関所の畜生界側に居残って待ってくれている人が一人だけいた。
「ちょうどいい読書時間だったわ」
と、がらんとしたロビーで待たされていた堀川雷鼓は、それでもいらついた様子はなく、彼女のたったひとつの手荷物であるボストンバッグに、ポケット文庫を滑り込ませながら言った。
「行こうよ。どうせコンサート自体は今日明日行われるわけではないし、私らがホテルなんかでごろごろしている時間が削られるだけさ」
小傘と赤蛮奇は顔を見合わせる。
「……そうなの?」
「そうだよ?」
「そういえば私、日程とかスケジュールとか、そういうの聞いてないよ?」
「そりゃそうよ、別に教えてないもん」
二人のやりとりを聞きながら、雷鼓はバッグを肩に担いで、立ち上がると、さっさと先を何歩か歩き始めて、それからくるっと振り向いて言った。そのしぐさが、いちいちどこか芝居がかっているというか、舞台的だ。
「ま、そうやっていつまでも漫才してるのはいいんだけどさ、待たせてもいるのよ」
人を待たせているとは、先ほどと言っている事がちぐはぐではないかと小傘たちは思うのだが、違う話らしい。彼女たちがそれぞれの荷物を引きずって関所のロビーを出ると、雨模様の畜生界の下に兵士――隊伍を形成した埴輪の兵士たちが、直立不動で彼女たちを待ち続けていた――おそらく、小傘らの拘束が長引けば、何日でも雨空の下で待ってくれていただろう。無表情のおとがいから、雨のしずくがぼたぼたとたれ落ち続けていた。
「大丈夫、正規の軍隊とかじゃない――えー、今回の文化事業に協力してくれている畜生界側のホストが、普段から抱えている私兵なんだって。まだまだこっちも物情騒然だからって護衛をつけてくれたの」
なにが大丈夫なものか、といった感想しか出てこない説明を雷鼓はしてくれて、本人も発言の物騒さを理解しているのか、照れくさそうに付け加えた。
「いらないつってんのにね」
つつがなく、メトロポリスの都市圏内に案内された一行は、ホテルに宿泊している。
「……しょっぱなからやらかしてくれるわ」
小傘たちが関所から解放された、という連絡を、雷鼓から受けたルナサ・プリズムリバーは、ため息をつきながらぼやき、ぼやきながら外着を脱ぎ、シャツの首元をゆるめた。部屋に着いたばかりで荷も解いていない。
そのまま広いベッドの上に身を沈めていきたかったが、つつしみが邪魔をする。せめて旅塵を落とした方がいいだろうとも思って、彼女なりの精神力の強さでそうした。
シャワーのあと、洗面所で髪に残った水気を吹き飛ばして、ベッドに横になっても、彼女自身は別にこのホテルの部屋に気を許してはいない。むしろ、この慣れない空間を、畜生界そのもののように警戒したくもあった。
ルナサ自身はこのツアーに反対だった――積極的な拒絶というよりは、消極的な拒否だったが、それだけに本質的な懸念を含んだ反対だった。
(私たちは、この状況を自分たちでコントロールできていると言えるのかしら)
この手の愚痴が、彼女の口から妹たちに向けて漏れるようになって久しい。彼女は既にコントロールできていないと感じている。プリズムリバー楽団が、あのパーカッショニスト――堀川雷鼓――を受け容れた新体制となった時点で、もう自分たちの主導権が怪しいとも感じていたのだ。そのコントロール不能な状態が、自分たちを畜生界へと運んできている。雷鼓は今回のツアーを、幻想郷と畜生界とを結ぶ文化事業などと言っていたが、ルナサ自身は自分たちを文化などとは思っていない。自分たちは本質的にはただのちんどん屋で、地元で多少凝ったステージだとかイベントをやる事になっても、それはただ地元で一番人気の名物バンドくらいの、ルナサにとってはそんな自認だった。「あんたらはそれ以上の存在になれる」などと人様に言われても、勘弁してちょうだい、という感じだった。
(私たちがビッグステージに立つなんて、ナンセンスよ)
しかしながら、ルナサを除いたプリズムリバーの妹たちは、この提案を無邪気に喜んだ――その様子を愚かさと言うのもおかしいかもしれない。この不安が芽生えていないうちなら、チャンスなんて貰えるだけ貰っておけという功利主義に、ルナサも傾いていたはずだ。
(とはいえ、今に取り返しのつかない事になるわ……)
多々良小傘と赤蛮奇が関所で起こした騒動を思いながら、ルナサはそれでも旅の疲れには抗えず、寝息を立てはじめた。
「思ったよりはちゃんとしたホテルだわ……」
「でも荷物はベルボーイに渡さない方がいい、って」
小傘と赤蛮奇が、ようやくたどり着いたホテルのロビーにて、そうした会話を交わす最中にも、彼女たちの荷物をかすめ取ろうとしたベルボーイたち――ホテルの従業員と見分けがつかないが、非正規のものや、けちなコソ泥などが一定割合混じっている――を、埴輪の衛兵たちが威嚇して追い散らしている。
「連中、全員ちゃんとホテルの制服を着ているのは、なんだか滑稽ね」
雷鼓は、窃盗グループの存在と、そうした組織的犯罪に本来の従業員すら一部では抱きこまれている可能性を苦笑いまじりに示唆しつつ、三人分のチェックインを済ませてから、さっさと上層階へのエレベーターに入った。
「素行の良くない従業員が場所と制服を貸してるみたいなんだけど、それでいくらか割り前を受け取るというシステムが確立しちゃってるのね」
「ふーん、みんなクビにしちゃえばいいのに」
「小傘、なんだか不穏だから私の横でその単語使うのやめな?」
「あくまでグレーなやり口なのよ。労働組合の権利やら規則やらの兼ね合いもあって、潰しきれないんでしょうね……で、こういう事が予想できたから、ホテル最上階のワンフロアを、まるまる借り切る事にしちゃったんだよね」雷鼓がふんと鼻で息を吐きながら、あきれ顔で言った。「もちろんそのフロアの盗聴や盗撮などの仕掛けは、埴輪兵団の事前の捜索によって除去済みだから、安心して」
「ああ、けっこうなおもてなしね」
赤蛮奇はエレベーターの箱の天井を眺めながら、その上昇を感じていた。
コソ泥だらけのロビーから逃れて上層階にやってきても、エレベーターが開いた先のロビーには別のコソ泥がいた――といっても、一応は同じ旅の仲間だったが。
「あ、お騒がせコンビだ」
下階からやってきたエレベーターに向かって言った依神紫苑の声は、ロビーにあるテーブルを差し向いにしてジン・ラミーに興じていた、依神女苑とリリカ・プリズムリバーの注意を惹いた。
「そう、お騒がせコンビのスーパースターのご到着よ」雷鼓は冗談めかして言いながらトランプゲームを眺めた。「ところで、そのゲーム、後でまぜてよ」
「いいわよ――畜生界へようこそ」
女苑はニッと笑ってそれだけ言うと、すぐに自分の手札の方に意識を戻し、それから手元のシャンパンに手を伸ばした。対するリリカも手札から目も離さず、雷鼓に他のメンバーの様子を教える。
「姉さんたちと九十九姉妹は、それぞれの部屋。みんなゆるゆるしているんじゃないかしら」
それから、ややあって、ひとりごとのように呟いた。
「……私たちも修学旅行の学生みたいにはしゃいでいる暇があったら、休んだ方がいいんだろうけどね」
「じゃあさっさと終わらせてあげるわ」
女苑はすかさず自分の手札をノックした。
依神姉妹がプリズムリバーウィズHの手伝いに駆り出された経緯には、ある種の罪滅ぼしというか、奉仕作業的な側面がある。以前、楽団のコンサートを邪魔して、一騒動起こした事の落とし前だった。
「……って、もう何年前の話よ」
と女苑が入り浸っていた命蓮寺に話が持ち込まれた時、当人は呆れるように、楽団からの伝言を受け取った住職にぼやいた。
「何年も前の話とか、そういうのは関係ないでしょう」
聖白蓮はにこやかに言った。
「むしろ、そうした幾年もの隙間を、無かったもののようにやってくるのが、応報というものでしょうしね」
「……和尚さん的には、引き受けるべきなのね?」
「なにごとも修養だと思えば」
白蓮はそう言ったが、相手の浮かない表情を見て、ちょっと思い直しもした。世の中、そうした心持ちがどこか肌に合わない者もいるという事は――白蓮自身はまったく相容れず、いまいち理解ができない精神とはいえ――理屈の上では知っている。そうした連中には、むしろ営利の目的があった方が、よく動いてくれるのだろうという事も。
「……まあ、特に音楽イベントの裏方の経験なんて、ちょっと積んできてもらえれば喜ぶ方もいますわ」
命蓮寺も、ちょくちょく仏事をそうした方面と混合したようなイベントを行っている、住職はその前提をほのめかして、言ったのだ。
女苑は女苑で(どうしてか知らないけれど、坊主ってクラブイベントのたぐいが好きよね。本質が陽の者なのよな)などと余計な事を考えていた。ともあれ、相手も俗っぽい目論見を持っている事を知って、かえって今回の仕事に従事する気負いが軽くなった。彼女はそういう女だ。
そうした経緯で、女苑は姉の依神紫苑にも同様の話を持ちかけたが、この自堕落な姉は、屈折した妹よりは単純な心を持っていて、ある意味でわかりやすかった。
「でもさ、私たちみたいな貧乏神を興行の裏方に引っ張り回しても、ろくな事なくない?」
と、理論上は意外にまっとうなぼやきをしながら、実際のところはただひたすらに面倒臭がって渋っている、それだけなのだ。
「まあまあまあまあまあ、姉さん的にも思うところはあるだろうけどさ、ちょっとのお仕事ついでに、ただで旅行できると思えば、それでもいいじゃない」
「そりゃそうだけどさあ……」
姉のぶつくさとした不満を、女苑はとにかくそういう論旨で押し切ってしまった。不満についてはそれはそれとして、ひとたび行動に移してしまえば、この旅を満喫してやろうというどうしようもない現金さがこの姉にある事を、女苑は知っていた。
付き合いだけは無駄に長いのだった。
エレベーター前のロビーで遊んでいたリリカや女苑らといったん別れた雷鼓は、自分のただ一つの手荷物を自分の部屋に置きに行くだけで、すぐに戻ってトランプ遊びに加わるつもりだった。
「あー、ちょっとよろしい?」
部屋から出たところで声をかけられて、雷鼓はその調子に、なにかいやな――いやというのも語弊があるが、どこか今はちょっと遠慮したいものを感じた。
「……記者さんか」
とだけ言うと、相手は首から下げた証明書を――ツアーのスタッフパスを見せびらかして言った。
「公認の記者です」
「んなこたわかってるから、見せびらかすのやめな」
別に、雷鼓としても射命丸文に対してそこまで敵意があるわけではないのだが、なんとなくつっけんどんな態度を取りたくなる。
文はスタッフパスを懐に隠しながら、手短に用件を述べ始めた。
「ホテルの部屋割りの話で――」
「まあ、悪いけど相部屋になるスタッフはぼちぼちいるのよね。そこは堪忍してもらって……」
「同業他社と相部屋なんですよ」
部屋割りを担当したのは当の雷鼓なので、それもよくわかっている事だったが、天狗の報道合戦に巻き込まれるつもりはさらさらなかった。
「今回の契約を結ぶ時に、彼女との報道協定も締結したでしょ?」
「ええ。今の私たちは、文々。新聞や花果子念報といった個々の事業の枠組みを越えて、一致協力して、このツアーを宣伝して、世に知らしめる。そうした建て前ではあります」
「建て前だけではなく、実際にそうして欲しいのよ」雷鼓はお前らの鞘当てなんか知るかといった気持ちで言った。「幻想郷側のプレスとしての権利はあなたたちに独占させているし、インタビューにも快く応じてあげるから、とにかくこの期間中だけは仲良く仕事してちょうだい。それが嫌なら、私は引き留めやしないから。別のホテルに部屋を取った方がいいかもね」
文は唇を鴉のようにとがらせながらも、それでも一旦は納得した様子で引き下がった。
「……ま、はたての奴がお人好しなんでね。やってやれない事はないと思うわ」
「じゃあその方針で頼むわ」
文をその場に置き去りにして、雷鼓はトランプ遊びに加わりに向かった。
ベッドの上に複数の生首を散乱させると、だいぶと絵面が不穏だ。
「はあ……これからどうしましょ」
赤蛮奇は自分が割り当てられた客室に入って、一息ついた末にぼやいた。その言葉に対して、相部屋の多々良小傘は、友人のクロークを部屋の収納に吊るしてあげながら提案してみる。
「もともと召喚したものなんだから、還す事とかできないの?」
「こないだの一件からこいつら、全然言う事聞かないのよね」
「こいつらとはなんだー」
「そうだそうだー」
「我が頭としては――」
シンプルにうるさい。
「あんたらうるさいよ」と一喝したのは、その先だっての一件で、混乱の中心にいた頭だった。「……ごめん、荷物取って。その仕事用のバッグ」
と飾り気のないビジネスバッグを赤蛮奇に取らせて、その中の仕事道具――スタイリストとして使う様々な道具の、点検やメンテナンスをさせ始めた。赤蛮奇自身も、その指図に従って、黙々と作業をしたり、時にはメモを取ったりする。なんだかんだと仲違いはあったが、根は真面目な二つの頭だった。
他のうるさい頭たちは、小傘にまかせた。七つの頭は順番に小傘の腕に抱かれて、痒い所を掻いてもらったり、鼻をかんでもらったりすると、やがてはおとなしくなった。
「……明日は会場を見に行って、打ち合せや音出しするくらいだと思うけど、私たちのやる事ってあるの?」
赤蛮奇の問いかけに赤蛮奇が答えた。
「細かいアクセサリーなんかは現地調達するつもりだったからね。ちょい街を巡ってみたいかなって」
「でも、街中の治安悪そうだよ?」
これは小傘の弁。赤蛮奇は少し考えた末に、言った。
「スタッフに何人かチンピラみたいな奴らがいたし、そいつら誘えばいいじゃん」
翌日、一行はホテルを出て、次の日にはコンサートを行う劇場へと案内されて、リハーサルから本番に至るまでの打ち合わせを行っていた。
「席数がなんぼ、実質的な収容人数はそれよりも多くて……」といった説明を雷鼓がしていたが、小傘はちゃんと聞いていない。ただ、楽団がそれだけの観客を呼び寄せられるのだろうか、といった疑問はある。
正直なところ、彼女たちは幻想郷という田舎で、ちょっと大きなステージなんかをして客を集めて名物になっている程度のバンドで、こんな会場を満員にできる、そうした女たちではないような気もしていた――小傘は自他共に認めるお人好しだが、こうした見積もりを一歩引いた場所から眺める時、不思議なほどその感慨は突き放したものになった。
「……ま、お客が集まんなくっても知ったこっちゃないか」
小傘は、楽団がステージ上で音出しを始めるのを背に受けながら、会場のバックヤードの方へと、ぴょんともぐりこんだ。楽屋には赤蛮奇だけではなく、他の裏方らまで行き来していて、そうした人員には畜生界の舞台・音響・照明等の業者や、施設そのもののスタッフなどの方が多く、見た事の無いような顔ばかりだった。
「しっかしまあ、こうも出入りが多いと、畜生界という事を割り引いてもちょっと不安になるわね」
赤蛮奇が仕事道具を手元に寄せながらぼやいたように、幻想郷勢は楽屋の隅で小さく固まりがちであった。
「私たちも行ってくるから。荷物とか、ちゃんと見ておいてよ」
と、その中で言ったのは九十九姉妹だ。彼女たちはもちろん正規の楽団メンバーではないのだが、サポートミュージシャンとして帯同している二人だった。
「大丈夫」小傘は自分の大きな手荷物の中から赤蛮奇の生首を一つ取り出すと、九十九姉妹の荷物を監視する位置に、ぽんと置いた。「ちゃんと見ていてもらうから」
二人の少女は苦笑しながら楽屋を出ていって、後には妙に手が空いてしまった子たちだけが残った。
「……ちょっと、生の舞台の方を見に行こうかしら」
と、その中でぽつりと呟いたのは赤蛮奇の首の一つで、楽屋に備えられたモニター――舞台の様子を映すためのもの――を見ながら言った。
「こっちもヘアスタイルのプランは色々組んでるけど、舞台とのバランスの兼ね合いもあるからね」
とも付け加えた。
「小傘」本体を支配している方の赤蛮奇が、友人に声をかけた。「その子、連れていってあげな。私がみんなの荷物番してるから」
「あ、うん、わかった」
小傘が生首を抱えて楽屋から出ていった後で、赤蛮奇はたった一人になった部屋の中を見渡し、そういえば他の奴らはいつの間にか消えているな、と思った。
「金目の物、あるかなあ」
「姉さん、ついてくるならもっとしゃんとして歩きな」
通路をうろつきながらそこらへんの事務所ですり取ったスタッフジャケットを羽織り、髪をほどいてしまうと、女苑も紫苑も、どうにかこの劇場の従業員に見えなくもない。
「演奏ツアーだかなんだか知らないけど、結局こんな旅行なんて、私らの狩り場にすぎないじゃない」
「なんだかんだ言って自分のサガに忠実だよね女苑って」
「照れるわ」
「褒めてはいないからね?」
軽口を叩いているうちに、それまでどうも乗り切れなかった調子が戻ってくるのを感じた。
「しかしこういう場所って、事務所の金庫なんかをあさるより、高価な機材を奪った方がなんぼかほど金になるのよね……」
「じゃあそうするの?」
「さすがにそこは面倒になりそうだからやめときましょ」
と二人がこそこそ話し合っているのは、劇場の遺失物管理所の中で、その棚からちまちました金目の物をかすめ取りながらだった――畜生界の畜生霊の方々は様々なものを置き忘れがちらしい。十八金の入れ歯だとか、瑪瑙の義眼だとか、時には持ち主本人の物と思しき立派な角が、乱暴に断ち切られた状態で保管されていたりした。そうしたあたりが目ぼしいものといったところ。
「帰るよ」
物色にもたつく姉を引っ張って、女苑はさっさと窃盗の現場から離脱した。拝借していたスタッフジャケットも、さりげなく元の場所に投げて戻し、バックヤードの廊下を通って自分たちの楽屋へと、悠然と戻りつつある。
「ま、今日は慣らし運転といったところね」
「最近はこういう手癖もなまっちゃっていたのは、たしかね」女苑は姉のえらそな言いぐさにも特に腹を立てず、とりあえずは収穫があった事の充実を感じていた。「やっぱりね、姉さんも言ってたけれど、これこそ私のサガなんでしょうね」
と言いながら楽屋のドアを開けてみると、室内にいた赤蛮奇がじっと戸口の方に視線を向けていて、少しどきりとする。姉妹共に、そこまで嵩張ったり目立ったりするものを盗んできたわけではなかったが、それでもじろじろと見つめられるのは、あまり気分が落ち着かない。
「おかえり」
「ただいま……暇だから、ちょっと劇場の中を探検してたわ」
「ふーん」
会話はそれだけ。そのまま赤蛮奇は黙りこくって、依神姉妹もそれにつられて、黙り込んだまま、そのあたりの空いているスペースに座る。それから赤蛮奇が、自由時間にそのあたりを散策してみないかと姉妹に誘いをかけたのは、何分も後だった。
赤蛮奇としては、単にチンピラ姉妹を散策の護衛にするつもりで誘っただけなのだが、なぜか色々と人がついてきてしまっていて、ツアーメンバー御一行がぞろぞろ街に繰り出す形になっている。
「別にそう大事にするつもりじゃなかったんだけどな……」
ホテルのロビーで、そうした人々が集合するのを待つはめになっている彼女は、もう一つの懸念の方に目を向けた。その視線の先には、なんともいえない色彩の唐傘を膝に置いて、ロビーのベンチにちょこんと座っている、多々良小傘――ではなく、自分の生首たちが好き勝手にベンチを転げ回っているからだった。
「なんであんたらまでついてくるのよ」
「我々も観光を楽しむ権利はある」
「そうだぁっ」
「そうだそうだー」
「逆になぜ我々の行動に制限をかけるのか」
「与野党がどっちもうるせえのよ」
と苦笑いをしたのは、赤蛮奇の手の内にいる首で、彼女だけはヘアスタイリングに使うかもしれないアクセサリーの現地調達が目的なので、この外出に加わる理由があった。
「大変だねあんたも」
「さんざ好き勝手して、結果的に気楽な立場についたねあんたは」
と、その首が耳元にじゃらじゃらと重たそうなピアスをしているのや、後ろ髪の茂みの中にイモリのタトゥーが入っているのを、赤蛮奇本体はまじまじと眺めた。
雷鼓が集合時間のきっかり五分前にロビーにやってきたのが、意外なような、そうでもないような気もする。意外といえば、依神姉妹が――おそらくだらだらしている姉を妹が急き立てたのだろうが――多少遅れつつも約束通りの時間にやってきた事の方が意外だろうか。プリズムリバー三姉妹は仲良く十分ずつ、一行の集合を遅延させた。
「……ツアーのレポートっていうのは、こういう演奏以外の場面も切り取っていかないといけませんからね」
繁華街の中で射命丸文がカメラを構えて、楽団メンバーの写真を撮った。他の裏方や、九十九姉妹といったサポートメンバーは意図的にはけられていて、いっそ雑踏の整理さえさせられている。
「迷惑をかけてすみませんね、メンバーだけの写真が欲しくって」
「私はこういうの、裏方さんなんかまぜてあげた方がアットホームで好きだけどなぁ」
と言ったのはメルランだったが、文はそういう話ではないんですよ、といったふうに肩をすくめている。
「まあ、そういう写真も撮っていきますよ。おいおいね」
そうしたやりとりなど知らぬ顔で、赤蛮奇たちは横合いにあったちっちゃな小間物屋に入り込んでいた。
「――いいの? こんな安物売ってそうなお店で」
「言っちゃなんだけど、こういう方が畜生界らしい」
「まあわからんでもないわね」
赤蛮奇の頭たちが、あれこれ、髪の毛に編み込むビーズなどの安っぽい装飾品を物色している間、小傘は少し手持ち無沙汰になって、かたわらにあった眼鏡スタンドの回転台を、遊びでくるくると回し始めた。
「……あんたたち、みんな先に行っちゃうよ」
何分かして店内に呼びかけてくれたのは、九十九姉妹の二人だった。
「あ、はーい――色々思いつくところはあるから、買うのはまた戻りながらにしようか……小傘?」
「う、うん。うん?」
店の姿見に向かっていた小傘が、そう返事をしながら振り向くと、その鼻の上には、濃緑色のまん丸いレンズのサングラスがかかっていた。
「意外に似合うわね」
とは赤蛮奇の首の方のコメント。
「しっかし騒々しい街だわ」
と、都市の往来を歩いているうちリリカがぼやき始めるのを聞いて、それも仕方がないと、そばを歩いていた雷鼓は小さく思った。
このメトロポリスは、畜生界という世界の上でモーターが焼き切れるような音をぶんぶんいわせて、のたうち回るように活動していた。びかびかときらびやかで、けたたましい。
(幻想郷では、彼女たちより騒々しいものはなかったものねえ)
だから、今この騒々しさに、彼女たちが戸惑う気持ちもわからなくはない。しかも、この騒々しさにはなんの意味もない――やがては畜生たちなりの原風景的な意味がつけられたり、当初はありもしなかった意味が再発見される時がくるのだろうが。それまではただの機械都市のゴミ箱でしかない。
(ゴミ箱……そう、私たちはゴミ箱に飛び込んでしまったわけだ)
雷鼓はふとそんなふうに感じたが、別に、この業深い土地に敵意や嫌悪を感じてそう思ったわけではない。むしろどことなく親しみさえ感じながら思った所感だったのだ。
「世界が騒々しいのなら、私たちはもっと騒々しく、めちゃくちゃにやればいいのさ」
と、ふと呟いた。世界に対する向き合い方としては、この場合は意外と悪いやり方ではなさそうな気がした。
「……ところで、みんなちゃんとついてきてる?」
「知らなーい」
「一応は、たぶん」
気にも留めていないメルランと、手のかかる妹が無限に増えたように落ち着かない様子のルナサとが、順番に答えた。実際は、依神姉妹がいつの間にかどこか繁華街の路地裏に消えていたし、赤蛮奇と小傘は、とうに何百メートルも後ろに取り残されつつあったが、それらのものは無視している。
「ところで、どこに行くつもりなの?」
「目的っちゅうのがないのよね」雷鼓は正直に答えた。他人の用事にかこつけて外出したつもりなのに、なぜか自分たちの方が、目的あってぶらついている主流のようになっている。「どっかに飲みに行こうとは思っていたけれど」
「明日から忙しいんだから、今日くらいはそこまで飲みたい気分ではないけどね」
と、プロフェッショナルらしい事をリリカが言った。
「……でもまあいいや、むしろ明日を思うと飲みたい気分なのかも」
彼女はプロフェッショナルらしさを即座に撤回した。
「飲むなら飲むで、誰かいい店屋を知らないの?」
「そりゃ、ガイドブックに載っている店くらいはしっかり頭に入れてきていますが」新聞記者の片割れが口を挟んできた。「ガイドブックの店は所詮ガイドブックの店ですよ」
「ガイドブック嫌いなの?」
射命丸文の、ガイドブックへの負の思い入れは置いておいて、そうしたやりとりをしているうち、繁華街の先の雑踏が、最初はざわめいて、次にまっぷたつに割れた。人の流れを押しのけるようにして雷鼓たちの目の前に現れたのは、埴輪の騎兵の分隊だった。
「あなたがたの警護をしろと仰せつかりました」
埴輪の馬から下馬して、彼女たちにそう言った埴輪の騎兵隊長は、ついで自分の名前を杖刀偶磨弓と名乗った。
「……それと、この都市の案内もしましょう。我々にも多少の制約はありますが、可能な範囲で要望に応じる事もできます」
「手厚いね」
わずらわしいものを見るように雷鼓は言った――事実、わずらわしかった。だからホテルで警護にあたってくれていた埴輪の兵士たちに対して、室内の荷物を守ってくれるよう厳に頼んでおいて置き去りにして、自分たちの身を軽くしようとしていたのだから。
「こっちは飲みに行きたいだけなんだけどね……」
「了解しました。案内しましょう」
そのまま、一行は数騎の騎兵の輪の中へと巧みに囲い込まれて、畜生界の繁華街を見世物のように縦断する羽目になった。
雷鼓は鼻白むしかない。
赤蛮奇と多々良小傘だけは、一行から取り残されている。
「この染め物のスカーフとか、首元に巻くといい感じなんだけどねえ……」
「でも、ステージ衣装があるんでしょ?」
「もちろん制約は多い。ついでにクライアントの要求も」
と、繁華街の本筋から一本ずれた、古着屋街の中の小さな土産物屋で、彼女たちは妙に熱を持って議論している。
「首から下は衣装担当の領分よ」
「まあ、一応買っておけばいいでしょ」
どうせそこまで高いものではないのだからと、赤蛮奇は遠慮なく小物を買っていく、そこに、小傘は付喪神として内心ざわつくものを感じなくもないのだが、あまり指摘するのもよくないと思った。
「……ま、今回その機会がなくっても、大事に使ってあげようね」
と言うだけにとどめておく。小傘の顔には、さっき妙に気に入って購入してしまった、丸いレンズのサングラスがかかっていた。
「……それにしても完全にはぐれたわね」
「もと来た道を戻れば、ホテルには無事に帰れるでしょ、さすがに」
はぐれた事への懸念が無くはなかったが、基本的にはそんな調子なのであった。
「あの人たち、どこに行ったんだろう……」
「まあ、ああいう連中がどんちゃん騒ぐといえば、飲みでしょ」
赤蛮奇と小傘は冷静に分析しながら、意外と無事な帰路を歩んで、ホテルの自室へと戻っている。
「まあ私もお酒は嫌いじゃないけど。ルームサービスでなにか頼みましょ」
「おにぎりセットでいい?」
「なんでそんなに庶民的なのよ……」
そのような調子の小傘をおしのけて、赤蛮奇がルームサービスの受話器に向かって適当におすすめのメニューを頼むという流れがあったが、ルームサービスは、白ワインと焼きおにぎりのセットを持ってきたのだった
「やっぱり結局はおにぎりセットなんだよ」
「どうしてそうなる」
とは言うものの、カリカリの焼き加減のおにぎりは、火で炙った香味味噌や、米飯に練り込まれたツナのほぐし、梅肉といったものの風味が、芳醇な白ワインと共に、飲む前から香ばしく香っている。
「……まあ、いいや、悪かないね。ほどほどに飲みましょ」
「明日があるからね」
と、いまいち冴えないホテルの一室で、彼女たちはグラスを打ち鳴らした。
一方、雷鼓たちのバンドメンバー一行は、埴輪兵団に囲い込まれ導かれるがまま、兵団が運営している社交会館へと案内されていた。
「私ら観光するつもりだったんだよ」
と席に着きながらも、雷鼓は愚痴をこぼした。
「それがこんな将校クラブに連れ込まれるなんてさ、色気もなにもあったものじゃない」
「ご注文は?」
「……ジントニック。氷は使わず、グラスとジンは冷凍庫で冷やしたものを使いなさい。ジンはビーフィーターの四十七度、トニックウォーターはシュウェップス。ライムは小ぶりなものでいい――皮を剥いて果肉だけにして、一個丸ごと沈めて」
磨弓に向かってつっけんどんに注文してやると、すぐさまその通りのものが出てくる。もちろんカクテルを作る人間はこの兵長ではないのだが、なにかの方法でクラブのスタッフと密な連携があるらしかった。
「……みんなも頼みな。ただしほどほどに」
金属のマドラーでライムの果肉をがしがしと潰しながら、雷鼓は他の者たちにも呼びかけた。
「全員、とりあえず生ビールでいいってさ」
ルナサが不気味さに気圧されながら言うので、雷鼓は苦笑いした。
「みんなもっと変わったものを頼んで、せいぜいバックヤードを困らせてやればいいのに」
「雷鼓さんみたいに、キンキンの胃に悪そうなものを好んで飲みたがる子ばっかりじゃないのよ」
弁々が言っている間にも、楽団メンバーとスタッフへ、人数分の生ビールが行きわたった。ついで酒の肴になるような軽食も順次運び込まれてきて、その手際の良さにはいささか機械的で無機質なものを感じなくもなかったが、ともかく饗宴の準備は整えられて、誰かが一声出さなければならないような雰囲気に、なってしまっている。
「じゃあご挨拶を、雷鼓さんから」
「あ、私なんだ」
三姉妹からうながされるように、雷鼓は宴の席で立ちあがった。
「……明日からよ」
まずささやくように一同に言った。
「とにかく、明日からよ。私たちはまだなんの仕事もしていない……私個人は、あっちこっちとの調整やら交渉やらのせいで、もうここ数ヵ月はこの仕事に関わってばかりだったけどね……うう……」
おどけるようにうめくと、座からクスクス笑いが漏れる。たぶんリリカの声。
「……まあ、そんなわけだから、個人的には今日でなんだか肩の荷が降りそうな錯覚があるんだけど、そうもいかない。コンサートが始まるのは明日からよ。奴らを――えーと、畜生界の連中……いや皆様方を、楽しませてやりましょう、私たちの騒々しさでね。
「来てみてしみじみ思ったのだけれど、この世界は騒々しいくらいの音でいっぱい。けれども、おそれなくてもいいわ。本来、私たちの来し方――幻想郷の方が、何倍も騒々しかった事を思い出しましょう。たしかに、あの世界の騒々しさとは、和音と、不協和音。かわいらしい空気ばかりが混じっていて、千の楽器がもつれながら降るようにむちゃくちゃなやつで、畜生界の騒々しさとは種類が違うかもしれない。
「でも、あの世界での私たちがなんであったかを考えれば、この世界との向き合い方も、おのずとわかるでしょ。この世界の騒々しさを恐れる必要はない。だってここでも、きっと私たちが一番騒々しいんだから。あとはそれを証明するだけ。
「……さっさと飲みましょう。そして、明日からよ」
「絶対に、誰もびっくりしないよ」
酔った赤蛮奇は顔を真っ赤にして笑いながら、小傘に向かってからかうように言った。
彼女たちはエレベーター前のロビーにいて、エレベーターの階数表示は、徐々に、自分たちがいる最上階へと近づいてきている。直近でルームサービスを依頼した記憶もない(記憶が吹っ飛びそうな飲み方はしているが)。誰かが帰ってくるらしい事だけは確かだ。小傘はその出口の前で、仲間たちの帰りを張っているのだ。
「絶対びっくりしない。それは保証する」
と言いながら、赤蛮奇はそこのテーブルに拡げてある酒やつまみを、まだひろった。彼女たちは自室でひとしきり飲んで、その間に何度も酒を追加で注文していたが、夜が更けてくるにつれ、雷鼓たち一行が一向に帰って来ない事が気にかかり始めている。そのことが、二人だけの宴会を、エレベーター前へと移動させたのだった。
「まあ見てなさいよ」
小傘は気に入ったらしく、鼻の上でサングラスの真ん丸なフレームをきらめかせながら、言った。
「どうせ酔っぱらって帰ってくるのよ、これくらいの――」と言いかけたところで、もうエレベーターのドアは開き始めていた。要するに、はなっから、驚かしに必要なテンポがつき崩されているのだ。こんなところで、小傘が重心を崩されている感じの「お、おどろけー!」を言っても、そこにはなんの驚きもない。失笑は漏れるだろうが。
「……はっ、なにやってんの」
事実、依神女苑と依神紫苑の姉妹の口から漏れ出でたのは、そうした失笑だった。
「うちらも、みんなからはぐれたクチでさ……まだ帰ってきてないんだ?」
と言いながら先の二人のご相伴に預かり始めた女苑は、一応は他の方々の帰りを気にかけているふうを示して、呆れたように付け加えた。
「もう午前様になるわよ。明日からなんでしょ、本番」
「とんだパーティーピープルだわ」紫苑もちまちまとおつまみをつつきながらぼやく。「二十四時間パーティーピープル」
赤蛮奇が尋ねた。
「あんたらはなにしてたの?」
「ビズ」
気取った略語で女苑は返す。
「どうもお気楽な観光より、そういう事にご執心なのが私たちのサガらしくて」
「女苑の、ね」紫苑が訂正する。「あんまり巻き込まないで」
「でもついでに、面白い話も色々と仕入れてきたわ。特に、畜生界の世間様が、今回の彼女らのコンサートについて、どう感じているのか、とか」
「まるで新聞記者みたいな仕事ぶりね」
専属の記者がいるというのに、それ以上に仕事をやってくれているふうがあるというのは、どうなのだろうか。
「それに彼女らが演奏する劇場、怪人が出没する噂で有名らしいとか」
「めちゃくちゃ気になる情報じゃん……」
驚かしを失敗させて一人ふてくされていた小傘が、会話に戻ってきた。
翌朝、上昇してきたエレベーターの箱の中には、酔っぱらってどろどろの女たちが積載されてやってきて、ドアが開く。しかし誰もが一度は立ち止まった体を再び動かす事すら重だるくなっていて、そのせいで一度ドアが閉まりかけてしまった。
「……おっと」
雷鼓が慌ててドアの開閉ボタンに手を伸ばして、その間にプリズムリバー三姉妹や、九十九姉妹といった面々がふらふらと最上階のエレベーターホールへと降り立った。
「うわぁ、こっちでも酒盛りしてる……」
とメルランが若干引き気味に言ったのは、小傘と赤蛮奇と、そして依神姉妹がロビーで泥のように寝転がっているからだった。
「サウンドチェックは昼からだから」
雷鼓はこめかみを押さえながら、エレベーターを閉じた。
「それまで休んでなさい、全員」
「もう、私、ここで寝るわ」
「ああ、それ賛成。魅力的」
「さすがに部屋に戻りなさい」
廊下の床に寝転がり始めるメルランとリリカ、それをとがめながら自室に向かいかけて、何も無いに蹴つまずいてずっこけたまま起きようとしないルナサを見て、雷鼓はため息をついた。
「先が思いやられるわ」
彼女がそう呟いた背後で、酔っ払いどもの第二陣を満載したエレベーターが到着してドアが開き、誰も降りられないままにまた閉じて、再度階下に送られていった。
「……で、埴輪兵団の将校クラブに案内されて、そこで飲みまくってたわけ? へー」
「ごめん、あんま喋んないで」
ルナサ・プリズムリバーは渋い顔を崩せないまま楽屋の鏡に向かって座り、ヘアスタイリストの赤蛮奇に髪をいじらせている。この赤蛮奇は、日常の体を動かしている頭ではなかった。彼女の頭同士に結ばれた協定によって、このヘアメイクの仕事の時は、それを行う頭に一時的に主導権を譲る事が定められていた。
「まあ、朝まで飲んでたのは私たちの勝手なんだけどね、あそこの雰囲気が、飲まなきゃやってられない感じで……」
「でも兵団の人たちがしっかり面倒見て、朝帰りまで護衛してホテルに送ってくれたんでしょ」
「この世界の市民の皆様におかれましては、たいへん面白い見世物だったでしょうよ」
自虐的にルナサは言った。
「まあ……もうなんでもいいわ。いいようにしてちょうだい」
「あいあい」
赤蛮奇は朗らかに応えた。この頭だけは、昨晩の酒盛りでも酒量はそこそこに抑えていて、就寝時間にさっさと休んでしまっていた。体に酒が残っていてだるいのには閉口していたが、頭も体も重だるくなっている連中よりはましだ。
一方、その他の赤蛮奇の頭たちは、小傘と共に楽屋の隅で青い息を吐いていた。
「見なよ、あいつらなんか完全に使い物にならない」
雷鼓はそう言いながら、自身のエアリーな浮き感がある髪の仕上がりにご満悦で、軽くリズミカルに頭を振りながらその動きを確かめていた。
「今のうちに、またしても体を乗っ取ってみたら?」
「まあ、口うるさい頭どもの首長になるのも、あれはあれで大変なんで――失礼、こっちに頭を傾けて……」
赤蛮奇はしみじみと言いながら、メルランの髪に取り掛かり始めた。
「この耳飾りは私物?」
「いけない、昨日からつけっぱなしだったわ。外した方がいい? すぐ外すけど……」
「いや、これがいいわ」赤蛮奇はメルランのくせっ毛を持ち上げながら言った。「このあたりの髪に流れを作って、チラ見えするようにしましょ」
そうした采配を赤蛮奇が次々に決めつけるように、てきぱきとやっていくのを、その他の赤蛮奇たちと小傘は、青い顔をしながら感心して眺めていた。
この客入りの量が、この劇場で行われるコンサートにしては多いのか少ないのか、劇場の入り口に立っている女苑や紫苑には、それすらわからない。それでも会場のキャパシティは充分に埋められるのだろうと思われる。
「よくぞお越しいただきました、お荷物お持ちいたします。外套は、クロークにあずけましょうね。貴重品を外套に入れっぱなしにしているなどはございませんか?……あぁ、良い席をお取りになりましたね。あそこからは舞台全体を見通せます。邪魔っくるしいあの柱が、右半分のもう半分を遮っている以外はね。お荷物は、肌身離さず持っておきましょう。お手洗い等に行く時でもですよ。なにせここは畜生界、良からぬ輩も多い場所。あなたは、おのれのわずかばかりの財産を、後生大事に握っておいた方がいい……」
そんな調子で、女苑はやってきた観客をつかまえては、指定席に案内する役割ばかりを、劇場の係員に混じって、何度も往復して続けていた。
「あんた、本当じいちゃんばあちゃんからのウケだけはいいよね」
「だからって金くすねるんじゃないよ」女苑は姉にだけ聞こえる声で言った。「今回に限っては、自分たちの商売は無し。この公演で昔の騒動の落とし前つけたら、さっさと幻想郷に帰っちゃおう」
「わかっているってば――あ、なに? その席? それはあっちね。あの階段の方……」
熱心さはかけらもないが、紫苑も一応は業務に従事している。
「気をつけなよ、こうも混んでいるコンサート会場は、押し込み屋も出るだろうから」
「……あの、遺失物管理所にあった角とか?」
「なんかあったんだろうね」
女苑が言うところの押し込み屋とは、徒党を組み、不用心な独り身の少女や金持ちなどを包み込んで会場の隅に押し込むと好き勝手な事をしてしまう、人品の悪い連中の事だった。彼らのやりくちは巧妙で、時には何人もの女たちを雇ったりして、大時代風に着飾らせて壁役にして、大規模な傷害や強盗行為に及ぶ事すらある。
それにしても、この盛況はどういった種類のものであろうか、女苑と紫苑は(完全な正確さは望むべくもないが、少なくともある程度は)知っている。
ビズなどもっともらしく言っていたが、姉妹がやっていた事は、どんちゃん騒ぎへのただ乗り行為だ。繁華街のクラブのひとつでやっていた下品な豪遊を見つけて、その主人役に取り入って、一晩だけのご相伴に預かっていた。
もちろん、ただパーティーに紛れ込んだだけでは確実に叩き出されるだけだが、そこはとっさの値踏みがあった。パーティーの主人役がどこかのお大尽の愛人らしく、虚栄的で、金に飽かせていて、なにより思慮分別が足りない事を、クラブの外にまではみ出してきていた乱痴気騒ぎの中で察した――路上で羽目を外しすぎてぶっ飛んでいるのを見てそう判断しただけの事で、そこまで深い洞察ではなかったが。
女苑はそうした女たちにまぎれる事には慣れているし、そのような社会にはそのような社会なりの見識がある事も知っていた。
「姉さん」と女苑は姉に助言した。「頭の足りないふりをしてな」
「私いつもそういう役回りだよね」
こうして、依神女苑と依神紫苑の姉妹は、多少おつむがかわいそうな姉と、そんな姉とおのれを身一つで養っている、見てくれは派手だが根は純朴な商売女の妹というキャラクター設定で、パーティーの中にするりと紛れ込んだ。特に疑われる事も咎められる事もなく、話し相手になってやれた。真偽はどうでもよくなるほどに、女たちは退屈していたからだ。
乱痴気パーティーの中には、様々な、しかし空虚な会話が飛び交っていた。まったく中身がないというわけではないのだが、みんな自分の話しかしていないという意味での、空虚だ。
女苑はそうした好き勝手な話題の種をつなぎ合わせて、一個の話題にしてみたり、時には鋭い批評までまじえていたが、結局は退屈を認めるしかなかった。同時に、こうした人々はただそうした世界に順応してしまっただけの事で、別にはなから無思慮で無分別だったわけではない事も、いつもの事ながら感じた。
そんな中で、ふと、話の種のつもりで、プリズムリバーウィズHのコンサートを知っているだろうか、と尋ねた。
もちろん、と彼女たちは言う(彼女たちはなんでも知っているふりをする)。
「でも」と女苑は、わざと楽団を貶めてみた。「あいつら田舎者だよ。がちゃがちゃした騒音を引っ提げてきて、ここの一番いい劇場のひとつでやるつもりなんだ」
そうしたくすぐりをやってみると、様々なご意見を聞く事ができた。女苑としては、少しうんざりしたくらい。
結局、畜生界にとっては、自分たちは幻想郷からやってきた田舎者を眺めているにすぎないらしい。その物珍しさだけが原動力になっている。
(別に偏見だとか、間違った見方だとも思わない)
とも女苑は思った。この世界における自分たちは、日本からやってきた猫にすぎないのだろう。
(最初は興味深く見られるだろうけれども)と、冷静に分析する。(それだけでは一過性のものよ)
所詮、彼女たちは、辺境の・田舎の・世間に揉まれていないところで、ちんまりとまとまった感じでやっていただけの楽団だったのだから。
(そこから先こそが彼女たちの本当の価値かもね)
女苑はそんなふうに、あの姉妹たちや、それに従ったサポートミュージシャン、裏方の人々の事まで考えた。
(ま、私には関係のない話だけど)
今日が終わったらさっさと幻想郷に帰る事は、かねてから決めていたような、かと思えば今思いついた事のような気もしている。
「どうする? 円陣でも組んで“おーっ”ってやる?」
「そういうガラじゃないでしょ私たち」
「でも、まあ、やっときましょう」
「小さい声でね……せーのっ、おーっ」
舞台袖で前座のミュージシャンの演奏が終わるのを待ちながら、プリズムリバーウィズHは、小さく固まって、気合を入れていた。
「……それにしても、今ここにこぎつけるまでの準備が大変だったわ。自分で蒔いた種とはいえ、ね」
「わかってるよ」
雷鼓がぼやく横で、ルナサは頷いた。
「それが、私たちをここまで押し上げるためだった事も含めてね」
(でも、それは私たちが望んだ事だったのかしら?)
という皮肉も、ルナサはこっそりと感じている。ここ数年、雷鼓の加入などもあって楽団の活動が大がかりになっていくにつれて、彼女にはあるひとつの懸念が芽生えていたが、それが、ついに具体性を有して、目の前にあらわれている。内心ではそう思っていた。
(私たちは本当にコントロールを失いつつあるのでは?)と。
「まあ……もうなんでもいいわ」なかばやけのように、ルナサは小さく呟いた。「いいようになってちょうだい」
翌朝、射命丸文と姫海棠はたてが煤けた格好のままに幻想郷へと打電した初報は、以下のようなものだった。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
その夜、アンコールは引きも切らず、求める声は楽屋にまで聞こえてきた。
「これで何度目なの……」
と、さすがに小傘たちも辟易してくるほどに、客席の拍手が止もうとしない。むしろ、その求めがどんどんと大きく、切迫しているような気さえしてきていた。
「もう日付変わるよ……」
さすがに、この反応が望外と言えるほどの大成功であるという事と、異常な事態に発展しつつある事を、彼女たちも察している。雷鼓が、劇場の支配人に呼び止められて、楽屋の外で数分ほどやりとりを続けていた。その間にも、楽団をたたえる声がただの怒号へと変化しかけている。
「……とりあえずお色直しはしておきましょう」
赤蛮奇は一見冷静な様子に見えたが、単にやるべき仕事を持っているから冷静になれているだけにすぎない。姉妹たちの火照る頬や演奏パフォーマンスの中で乱れた髪を軽く整えてやって、それから軽く言葉かけをした。
「やばい事になってるみたいね」
「もうめちゃくちゃよ」
「さっきのアンコールでは、何人か二階席や三階席から飛び降りたりしてたわね」
「というか私たちの演奏、聴いてくれてるのかしら」
それくらいの歓声が起こっていた事は、楽屋からも聞こえていた。
「……次で終わってくれってさ」
その時、雷鼓が支配人との協議から戻ってきて、言った。
「どんなにもっともっととせがまれても、次で、終わり」
「私たちだって終わりたいわよ!」
ついにルナサが神経質に怒鳴ってしまったが、すぐに鎮静して、頷いた。
「……曲目はどうする?」
こういう場合のセットリストにはいくつかのパターンを作っていたが、雷鼓はその中でも、特に落ち着いたものを即座に選択した。
「おやすみ系のやつね。わかった」これはリリカが言った。「となると、アンサンブル的には私メインにした方がいいね」
「とにかく、特別チルい感じでやるから。入りはドラムのテンポに合わせて」
楽団がステージに呼び戻された後、楽屋ではどことなく不安な十数分が過ぎた。ホール内部の様子はモニタリングされているので確認できるのだが、赤蛮奇はあえてそれを見まいとして、化粧落とし用のクレンジング用品や蒸しタオルなど、この後も使う以外の仕事道具を、手早く片付け始めた。
小傘は、その様子を見て、かがみこんで尋ねた。
「なにやってるの?」
「さっさと退去できるように」
「なんか起こると思ってる?」
「逆に聞くけど、これで、なんにも起こらないと思ってる?」
その時、楽屋内で息をのむ声が上がった。赤蛮奇と小傘も、はっと顔を上げて、ホールを映すモニターに目を向けた。
「幕が下りたわ」
見ればわかる事を、九十九姉妹のどちらかが――たぶん八橋だったと思う――言った。
だが、異常事態が起きているのは明らかだった。興奮し、暴徒と化した聴衆によって、緞帳に向かって、なにかが投げつけられている。マッチ、発煙筒、強い生の酒の瓶、など。
緞帳には防炎加工が施されているのだろうが、意図的な放火にはどうだろうか……と誰もが思っていると、モニターの端が、ちらちらとほのめかすような光でゆらめき始めている事に、誰かが気がついた。
「めちゃくちゃだわ」
背後にステージからどうにか戻ってきた雷鼓の声を聞いて、小傘たちは振り向いた。
「あいつら劇場に火をつけ始めた」
小傘たちがふたたびモニターに目を戻した時、火災のためにカメラが断線したのか、画面はブラックアウトしていた。
「……これまずくない?」
メルランの呟きは今更のようだったが、むしろ現状を再認識するための一言だった。
「まずいわ」
自分の荷物――他の赤蛮奇の頭たちは小傘に任せている――を持ち上げながら、赤蛮奇は何遍も同じ語を呟いている。
「まずい」
「みんな、荷物は持った?」雷鼓はあくまで平静に、自分の唯一の荷物であるボストンバッグを担いだが、その口からは無造作に突っ込んだドラムスティックがはみ出していた。
「しかしどうやってここから出るのやら」
「暴動は外まで広がっているらしいわね」
「埴輪兵団が治安出動しているらしいよ」
そうした真偽不明の情報が飛び交う中で、雷鼓は劇場の支配人にかけあう。
「本来支援者にしか使えない専用の出入り口とか職員の通用口なんかから脱出すればいい、ってさ」
しかし、暴動は既に劇場の内部から表玄関、ついでその敷地を取り囲むように広がっている。この興奮にはある種の感染性があるらしい。
「どうなってんのこれ」
「ひとつ言える事があるとするなら」雷鼓は通用口にまで群衆が回り込んでいる情景を見て、うんざりと言った。「今夜はあまり人には会いたくない気分ね」
「空飛んで帰ろうか」
「目立つわ」
「兵団の騎兵隊をよびつけて、護送してもらうとか……」
「暴徒を余計に興奮させるかもしれない。――いい? 私たちは、ここはこっそりと出ていくべきよ。そうじゃない?」
「言うのは簡単だけどさぁ」と、絡むように、文句たらたらに言ったのは女苑だった。「でもどうやって――」
言いかけて、彼女は言葉を切った。
「……いや、逃げ道はあるわ」
「え、あるの?」おどろいたように言ったのは、姉の紫苑だ。
「ある。姉さんも昨日聞いたでしょ、この劇場に怪人が潜んでいるっていう、あの噂」
「え、まあ、うん……」
「……あ、そういうことか」
「へ?」
雷鼓が察しよく何かに気がついた様子に、紫苑は戸惑ったが、雷鼓は細かい説明を放棄して、劇場の消火につとめようとする支配人が通りかかったのを捕まえて、なにか話し合い始めた。
女苑は一歩引いて、姉にこそこそと解説し始める。
「姉さん。ここで重要なのは、本当に怪人が出るのかどうか、ではなく、そういう噂が形成されるようになったロジックの方よ」
「というと?」
「劇場に出没する怪人といえば、オペラ座の怪人でしょ。パリ・オペラ座の若手女優と、その歌劇場の地下水路に潜む怪人の物語」
「まあ、あの話を聞いて、真っ先にイメージしたのは、そうね」
「噂が囁かれるには、なにかしら先立つ理由があるわけじゃん。そこでこの劇場とそのオペラ座に、どこか共通点がある事を想像するのは、なにも不思議じゃない。だから……」
「だから?」
「鈍いわね。この劇場の地下にも、そういう水路があるんじゃないの?」
十分後、火は既にメインホール全体に広がっていて、積極的な消火は放棄された。楽団とそれに帯同するサポートスタッフのほとんどは、劇場の支配人や従業員たちに案内されながら、メトロポリスの地下水路――何世紀も昔の、石造りの遺跡で、墓所のような区画や宗教的な聖地の雰囲気がある場所もあった――を通って、焼け落ちる劇場から脱出した。
もっとも、正面きって脱出した者たちも、いるにはいた。
「足手まといにならないでよ」
「あんたこそね」
あくまで正確に状況を記録しようとした射命丸文と姫海棠はたては、大ホールの火が広がり、大階段のあたりにまで漏れ出して徐々に濃くなっていく煙の中を、駆け出したい衝動の中でつかつかと歩いていた。
「それにしてもまあ、すごいありさまだわ」
と言いながら、文は二、三回とカメラのシャッターを切る。
「どうしてこうなっちゃったのかしら」
はたてはぼそりと呟いたが、理由はわかっている――わかってはいるが、あまりに常識離れしすぎていた。
「プリズムリバーウィズHの演奏が、ここの畜生霊たちを狂わせるくらいに良かった」その常識離れした理由を、文はさらりと、直截に言った。「どう考えてもそういう事でしょ。そしてどうやらこのツアー、えらいことになりそうよ」
「もうなってるのよ……」
と言ったあたりで、二人は他の群衆にまじって劇場を脱出し、その本格的に燃え始めるのをぼんやりと眺めていたが、もちろん、その画を写真に残す事は忘れなかった。
「……あ、そうだ、文」
「なによ」
はたてに袖を引かれて、文は引き寄せられた。ぴろんという電子音、フラッシュ。燃え盛る劇場をバックに、はたてが文とツーショットの自撮りを撮った時、おりよく何かの可燃物が引火したらしい建物が、ぼんと爆発した。
やがて埴輪兵団の騎兵警察が治安の収拾にやってきて、この新聞記者たちを含む群衆を、何百メートルか退避させた。文とはたては、その兵士のうちの一人に声をかけて、プリズムリバーウィズHのスタッフパスを見せながら、楽団はおそらく無事に退去している事を簡単に伝えた。下っ端兵士一人に声をかけただけだが、兵団の通信連絡網にかかれば、瞬時に情報を伝達してくれるだろう。
「じゃあホテルに戻りましょう……」
二人は一旦ホテルに戻った後、翌朝になると今度は朝一に市内の通信局に行って、幻想郷向けの電報を打った。むろん、はたての携帯電話を使ってメールは送信しているのだが、これはあくまで私信扱いだ。正式な報告としてはこちらが尊重される。
それが以下の文言だった。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
「しかしショーは続く……?」
文はぼんやり言いながら、雷鼓が言っていたその言葉を、じっくり反芻した。
「むちゃくちゃだわ」
這う這うの体でホテルに戻ってきた雷鼓たちは、ひとまずシャワーを浴びて、埃を落とした。
多々良小傘などは、どういう運の悪さか、顔面に何枚もの蜘蛛の巣をべっとりと貼りつかせているのを、かきむしるように自室の浴槽で落とした。
「……この後どうなるかしら」
シャワーから出てきながら、小傘は言った。
「決まってるでしょ、こんな大惨事。中止よ中止」
赤蛮奇はほこりをかぶってくしゃみなどしている他の頭たちの世話をしながら、吐き捨てるように言った。
だが、雷鼓はエレベーター前のロビーにスタッフを集めて、告げた。
「……ショーは続けなければならない」
その言葉を呑みこみきれないスタッフたちのざわつきを鎮めるまでに時間がかかる。
「もちろん、あの劇場での第二夜第三夜といった公演は、中止にせざるを得ないけれどもね。だから、多少は今後を考える猶予はある。しかし、ショーは続けなければならない」
雷鼓は、多くは言わないまま、話を続けた。
「……ついてけないと思ったなら、幻想郷に帰った方がいい。このツアーは、これから、むちゃくちゃよ。ろくな事にならない。損得勘定をわきまえている奴らなら、今に帰ってしまうでしょうね」
事実、既に行方不明のスタッフもいた。依神姉妹だ。彼女は別に火災の火に巻かれたわけでもなく、申告無しのまま、さっさと幻想郷に帰ってしまったのだろう。
「でも私はツアーを続けるわ。ショーは続けられなければならないから」
これは別に格好つけたセリフでもなんでもない。劇場が火事に遭って、その会場での以降の公演が中止になった以上、楽団の稼ぎは大赤字になってしまうのだ。そうした損害を多少なりとも補填するには、今後も公演旅行を続行するしかない。それだけの事だった。
「少なくとも、なにかを決める余裕があるっていうのはありがたい事よ」
雷鼓には、なにがしかの決定権こそあったが、やらないという事を選択する余地はなかった。
文とはたては、幻想郷への一報を送ったのち、手近にあった喫茶店の、露天のテーブル席について、そこでペルノーと軽食による朝食を注文した。
「お互い、とんでもない事に巻き込まれたわけよ」
と、彼女たちはアブサングラスをちんと鳴らし合わせて、一息に飲み下した。
「……でも、私は下りないからね」
「おや、珍しく考えている事が一緒ですね」
はたてが言った事に対して、文が笑った。どちらかが引き下がるならば、どちらも幻想郷に帰るつもりになるだろうに、という事は当人らが一番よく察していた。
「あんたは別に帰っていいのよ」
「うん。それ、私もはたてに言ってやりたいところなんですがねえ……」
どうも妙な事に相成ったものだった。
それはともかく、市内の様子である。案外平穏だった。
「情報を収集してみた感じ、あの騒ぎも結局は劇場の周りで落ち着いたみたいね」
と、自分の携帯電話をぽちぽちしながらはたては言う。
「……というより、こっちのニュースでも、騒動の原因が伏せられているのよね。もともとこういう騒ぎがしょっちゅうなのかもしれないけど、扱いが妙に小さいし、警察組織の発表もテロの可能性だのなんだの、なんとも歯切れが悪いわ」
「緘口令ですか」
文はため息をついたあとで、言葉を継いだ。
「……まあ、彼らも信じられないのかもしれませんね。彼女たちの音楽によって、暴動が起きたって事が」
「でも、そういう伝説はたまに聞くよね。センセーショナルな音楽の初演が聴衆に暴動じみた反応で迎え入れられた、とか。アングラなロックバンドのライブが、毎回暴動の様相を呈していた、とか」
「ああいうのは誇張表現ですよ。ある程度は本当を言っているのかもしれないけれど、本当にただの伝説くらいに聞いておいた方がいい」
「そりゃわかるけどさあ……だったら、私たちが見たものだって、そういうたぐいの事の可能性もあるよね」
「だからって火までつけませんよ、普通は」
「……実は、放火に関しては本当に演奏会と関係のないテロ行為だった、みたいな可能性は無い? この畜生界は相変わらず一筋縄ではいかない情勢なんでしょ?」
「あの長ったらしいアンコールまでは必要ありませんよね」
「……ほんと!」
はたても強硬に自説を主張するつもりはない。口から感嘆符を飛び散らして、唇を尖らせながら言った。
「とんでもない伝説が生まれた割には、しょぼくれた朝だわ!」
彼女にとっては、いつもの朝の、いつものオフィス勤めだ。
その朝、吉弔八千慧は、いつも通りに自分の組のオフィスに顔を出していた。
「おはよう」
と挨拶をすると、組員が挨拶を返してくれる。礼儀正しいというよりはどこか狎れるようなところさえある組員たちの挨拶なのだが、八千慧は別に構わなかった。
オフィスに出てきて真っ先に彼女がやる事といえば、午前中の数時間をかけて、この世界の膨大な報道に一通り目を通す事。途中で急用の決裁や相談が舞い込んでくる事もあるが、これはおおむね外す事のない日課になっていた。
もっとも「さーて、本日の世界情勢は……」という感じで新聞を開いたり、ラップトップを覗き込んだりしているような具合なので、そこに一勢力の組長としての威厳はあまり無い。こうなってしまうと、畜生組織のトップといえども、普通の会社勤めとなにも変わらなかった。
(この強盗事件は勁牙組の仕業ですね。目的を達成したら風をくらって辺境に向かい、越境して収奪物を売り抜く。あいかわらずやり口が古典的というか、なんというか。……尤魔は相変わらず同盟内部の派閥調整に四苦八苦してますね。表に出るものは少ないですが、彼女が一枚噛んでいる事業の労働組合がごたついているだけでも、伝わるものはある。まあ奴がグダついてくれるぶんには願ったりかなったりなんですが……おや)
と、彼女の目の動きが止まる。昨晩、劇場で起きた火災の記事だった。
「……ふーむ?」
記事の書きようもそうだが、奇妙な暴動だと思った。
(真夜中に起きた事件の初報とはいえ、原因が判然としません。そのくせ、その日のコンサートの楽団員の安否だけはわかっている。はっきりしていそうなところがはっきりしておらず、はっきりしていなさそうなところがはっきりしている。……一応はテロ行為なのではないかともほのめかされているが、可能性は迂遠な言い回しによって遠ざけられている)
そもそも、幻想郷からやってきた田舎楽団の演奏会で、わざわざテロを行わなければならぬのか。これがわからない。文脈のないテロ行為自体は無くも無いが、だからといって小さな記事にしていい理由はない。
この演奏会を畜生界側で後援していたのが埴安神袿姫であった事も思い出して、そちらの関係の抗争だろうか……とも考えたが、あの幻想郷――あの、暴力的解決を好んで行う世界としての幻想郷――の勢力まで巻き込んだごたごたに発展しかねない事を、わざわざやらかすのは、解せない。
そんな抗争が、こんなにちんまりとした、言葉を濁した記事にされているのは、もっと解せない。どこかで情報統制が行われているにおいが感じられる。
「……どうやら、なにかが起きましたね」
八千慧は言った。まったく内情を把握していないが、この読み自体は正しい。
「――しかし、この演奏旅行は続けられます。今回被災した劇場だけでなく、この都市だけでなく、畜生界の様々な場所で、今後もコンサートの予定があります。私たちはショーを続けるでしょう」
その日、昼過ぎに行われた記者クラブでの会見は、堀川雷鼓のそうした言葉でしめくくられた。
「……ともあれ、そういう事よ」
会見後、雷鼓はバックヤードに引っ込んだ後で、自分たち専属の報道員らに言った。
「結局、原因は不明という事で今後も通すのかしら」
「まあ、私たちだって、本当にわかっているとは言い切れないしね」
雷鼓は首をすくめて、文と、はたてを、交互に見まわした。
「いつかはほんとの事を語る時は来るかもしれないけどね。我々の後援者――埴安神袿姫――だって、本気で緘口令に躍起になっているわけじゃあないと思うよ。人の口には戸が立てられない事も、よくご承知だ」
「実際、徐々に噂が広がりつつあるみたいなのよね」はたてが携帯電話のぽちぽちを続けながら言った。「今回の暴動の原因は、楽団の演奏そのものではないのか、って」
「過去の、幻想郷での事例もほじくり返されつつあるようです」これは文が言った。
「……今回はともかく、過去にそこまでの暴動起こしたおぼえはないよ私たち」
「しかし大なり小なり、そうした興奮と、どんちゃん騒ぎが観客にとって楽しみの一つだった楽団ではあるでしょ」
「……まあ、そうね」
「それと、幻想郷そのものへの偏見で、ある事ない事話に尾鰭がついている部分もありそうなのよね」
「幻想郷そのものへの偏見って、なにさ」
「諍い事はすべて決闘で決着をつける以外、法らしい法も持っていない、治安最悪の、ド田舎」
「ただ悪口並べてみただけじゃないのよ」
雷鼓はふくれてみせた後で、少し面白みも感じた。一面的でしかない見方なので実際にどうしようもなく偏見ではあるのだが、案外と実情を捉えてもいるのではないか。
(自分たちはそんな騒々しい場所からやってきたのだ)
と、ふと思った。
一方、ホテルの一室では、赤蛮奇の九つの頭による協議が続けられていた。
「冗談じゃないよ、もしこのままツアーの帯同を続けて、万一の事があったらどうすんのよ」
「少なくとも、その万が一は既にあった後でしょ」
「でも、楽団のヘアスタイリストとしてツアーについていくっていう契約は契約よ……そこはしっかり筋を通さなきゃいけないんじゃない?」
「その楽団側が、今後もツアーは続けるけれども、ついていけないなら帰ってくれてもかまわない、って言ってるんでしょ」
「そんなの試し行為よ。ほんと、来て欲しいならそう言えばいいんだ」
「いなくなっても、代わりはいるんでしょう。今日明日で私たちがいなくなっても、明日明後日の間に補充が入るようなさ」
「嫌な事を言うわね……そういえば、あんたはどう思うの?」
赤蛮奇の頭たちは、きいきいとうるさい議論を一旦やめて、一つの頭に注目した。それはもちろん、楽団のヘアスタイリストとしてツアーに帯同しているその頭であり、同時にここまでの議論を、沈黙の中で見つめていた頭でもあった。
「……楽団に狂わされているのは観客だけじゃなくて、私たちもなのかもしれないわね」
それから、その頭は、自分たちの肉体そのものに戴いている頭、他の頭たちに主導権を有している頭へと、くるりと向き直った。
「私は、あんたが決めてくれればいいと思う。あんたが正しい決定をできるかどうかはわからないけれど、それは誰だってそうよ」
「……ふむ」
赤蛮奇の上に立つ赤蛮奇は、少し考え深げに鼻を鳴らしたが、その後は少し黙考した。しかし、それも長い時間ではない。
「私は……」
言いかけたところで、部屋のドアが勢いよく開いて、多々良小傘が飛び込んできた。
「ニュースよニュース」
驚きあきれる、頭ばかりの赤蛮奇一同を差し置いて、小傘は言った。
「あのね、緊急だけど、今夜、プリズムリバーウィズHのテレビ出演が決まったらしいの」
「テレビ出演ん?」
柄にもなく驚愕したのは、ヘアスタイリストの頭だった。
「そう、たぶん、劇場の災難の埋め合わせって感じで、なんやかんや調整があったのかもね。なんだか畜生界メディアの注目も集まっているみたいだし。とにかく、すぐにロビーに集まってだって。じゃ、他の人たちにも――」
「……小傘」
と、赤蛮奇本体は、急いで外に出ようとする友人をさりげなく呼び止めて、尋ねた。
「あんた、まだ楽団についていくつもり?」
「うん、まあ、そのつもりだけど?」
小傘はそれだけ言い残して部屋の戸口から姿を消した。残された頭たちは、ぽかんと、信じられないようにお互いの顔を見合わせたりしていたが、やがて、棟梁である赤蛮奇が、くつくつと苦笑いしながら言った。
「決めたわ。私は今後も、楽団のツアーに帯同する。だってあいつ危なっかしいもん。ついてあげないとね」
ぽつぽつと同意の声が漏れ聞こえたが、一応、残留に関する採決は取った。賛成九、反対〇。この決定によって、赤蛮奇は、最後までこのショーに付き合う腹を決めた事になる。
収録スタジオまでやってきたところで、ルナサたちは不満たらたらだった。
「どうしてこんな事になってるわけ?」
「諸般の情勢や、こっちの台所事情、なにより後援者との協議の結果よ」
と、雷鼓は弁解するように言った――数時間前まで、暴動の原因は不明という事で通すつもりだったのに、何を言っているのだろう、と文とはたてまでもが訝しげに彼女を眺めていたからだ。
「私たちのパトロン様は、どうせ初日に起きた損害をペイするためにショーを続けるのなら、もっとセンセーショナルに、ショッキングにやってしまいなさいと言ってくれたんだ」雷鼓は、この独特の論理を説明するのに、いささか苦労している。「つまり、暴動が起きてしまうのなら、積極的に起こしてしまいなさい、という事だ。バンドを宣伝するに、これ以上ない伝説が生まれた。これを利用しない手はない」
「待ってよ、じゃあ、どうしてその神様は、おんなじ口で緘口令を敷いていたのよ?」
はたてが疑問を口にした。雷鼓は即座に答える。
「情報の統制は行われていたが、だからといってそうそう隠しおおせるものではない事は、私たちも理解していただろ。広告を打つまでの時間が欲しかっただけだ。あの神様ときたら、少なくとも初報を行うまでは完全なコントロール下に置きたかったんだよ。既に――」
と、雷鼓は腕に巻いていたクロノグラフを一瞥して、続ける。
「……三十五分前に最初のコマーシャルが放送されていて、私たち楽団が昨晩の暴動の原因であると、どの報道機関よりも先に、畜生界の大衆に教えている。思いつく限り最大限の宣伝効果だ。そして放送本番まであと三時間」
言いたいことはわかっているだろ、といったふうに、雷鼓はそれ以上なにも言わなかった。事ここに至った以上、体を動かさない方が悪だと言わんばかりに一人さっさと打ち合わせに行ってしまい、他のスタッフが勝手に動き出すにまかせた。
実際、もはや動き出すしか手の打ちようのない段階だった。もとより割り切ってサポートミュージシャンとして働いている九十九姉妹や、内心では腹を決めてしまっている赤蛮奇といった人々が、次に動き始めた。それに動かされるように、各々が各々の仕事をやり始めて、スタジオのその場所には最終的に三人だけが残っている。
プリズムリバー三姉妹だった。
「うん……まあ、姉さん?」
「言いたい事あるのはわかるけどさ」
と妹たちが言いかけるのを、ルナサははねのけるように答えた。
「やる事はやるわよ。仕事だから」
メルランとリリカは顔を見合わせた。今までも時々は愚痴をこぼしつつ、それでもなんだかんだと楽しく音楽活動を行ってきた姉が、演奏の事を仕事呼ばわりするのは、明らかに異常事態だ。
なにもかもが突貫の生放送だったが、スタジオがいささか殺風景すぎる事に気がつかない彼女たちではなかった。
「このスタジオをひっくり返させて、いい感じにインテリアになりそうなものをかき集めさせているんだけど、なんせコンセプトを詰め切れるか、どうか」
「センセーショナルに、ショックに」
雷鼓がスタジオを行ったり来たりして、この空間の音響の調子を確認しながら懸念をこぼしていると、ルナサが近づいてきて、言った。
「……でしょ。コンセプトはもう決まっているじゃない」
「とことん、おどろおどろしくやってやればいいわけ」
「なにより私たち、忘れちゃいけないけど騒霊なわけだしね」
メルランとリリカも、姉の提案に乗っかる形で、慌てて言った。何年も前、雷鼓が楽団の主導権を握った頃から、こんなに積極的に意見を述べるルナサは珍しいものになっていた。
「セットのデザインなんかも、そういうのに合わせちゃえ――もちろんヘアメイクも。できる?」
「できないわけがないわ」いつの間にかそばにいた――というより、ちょうど演出プランの提案とお伺いを立てにやってきた――赤蛮奇が、自信をもって言った。「それよりも、ちょこっと提案がありまして」
「誰に?――私にか」
雷鼓が尋ねる。
「なに?」
「いや、そのう、こいつらもなんか役に立ちたいみたいで」
というのは、赤蛮奇の体の上に乗っかっている生首以外の、八つの生首たちだった。
「そんなにおどろおどろしい感じのアートワークにしたいなら、こいつら、スタジオのインテリアにでもしてあげてください」
雷鼓は思わず吹き出してしまった。
「笑うなー」
「我々は本気だー」
「やめなよ、更に笑われちゃう」
「しかしまあ、よく考えてみて。突飛ではあるけれども、悪い提案ではないかもよ」
「他の機材やインテリアがスタジオ据え置きのちゃちな作り物でも、本物がいくらかあるだけで、嘘っぽさはぐっと薄れるはず」
「だがこんなやくざな仕事、なにか賞与が欲しい気分ではあるわね」
「時間給で特別賞与!」
「それも頭八っつ分よ!」
「売り込み上手ね」
雷鼓は苦笑いして頷いたので、そういう事になった。
この時の生放送を記録したマスターテープは、呪いのテープとして放送局に保管されている。
畜生界全土から放送局にあてられた鳴りやまない苦情のほとんどは、埴安神袿姫が特別回線を設けて引き受け、おのれの配下の埴輪たちに受け止めさせていた。クレームなど土師器にでも聞かせておけばいいというのは、神様らしいおおざっぱさのある判断だった。
「一行は無事ホテルに帰還しました」
兵団の通信網で知りえていた事を、真夜中に霊長園へと戻ってきた磨弓が、主の寝所までやってきて、直に伝えてきた。
「そう、囮がうまく機能したのね」
囮というのは、放送を行った放送局そのものの事だ。ライブは市街にある放送局のスタジオで行われたわけではなく、霊長園に作られた袿姫の作業工房の一スペースから中継されたものだったのだ。
「明日の朝一、彼女たちはこの都市から脱出して畜生界を巡り、ショーを続けるでしょう」
畜生界はこのメトロポリスの市域だけではない。他にも独立性の高い都市はいくつかあり、その諸都市の会場を巡るツアーは、かねてからの予定通りのものだった。
袿姫は磨弓に埴輪兵団の分隊を与えて、そんな楽団の移動に帯同するよう命じた。
「そうした場所では、この都市ほどの積極的な便宜ははかれないけれども、できる限りの事はしてあげましょう」
(しかし……)
その後、袿姫は磨弓が別室にて武具を解くのを待ちながら、少し考えさせられた。楽団のスタッフたちは、このスタジオにある彼女の製作物を“ちゃちな作り物”呼ばわりもしていた。だけれども本物がいくらかあれば、嘘っぽさが薄れるとも。
(私って、そんなに嘘っぽいかしら?)
薄絹だけをまとって戻ってきた磨弓に引き寄せられながら、彼女はそんな事をふと思った。
「悪夢みたいだわ」
と、耳元にごついピアスをつけた赤蛮奇の頭の一つがぼやいたが、それが自業自得だという事もわかっているので、小傘が抱える大ぶりなバッグの中で、おとなしく他の頭たちと共に酔いつぶれている。
「おっはよ」
早朝、ホテルのロビーで集合した時、小傘は雷鼓に話しかけられた。
「なんだかすごいつぶれまんじゅうっぷりだね、そいつら」
「今朝早いのに、飲みまくったらしくて」
と言うのは胴付きの赤蛮奇だったが、脳の酔ってなさとアルコールを摂取しまくった体のだるさのギャップとで、すごい顔になっている。
「うちと小傘は寝酒をあおるくらいで、さっさと寝たんだけどね。こいつらでめちゃくちゃ羽目を外していたのは、夢にまで出てきたからわかる」
「みんなして、スタジオライブで楽団の音を直に喰らったからかしら? ちょっとテンションやばいのかも」
プリズムリバー三姉妹が話題に割り込んできて、からかうように言った。
「人の音楽を呪いの音楽みたいにゆーな」
「……いやでも、上等じゃない? 呪いの音楽でさ」
「ついに吹っ切れたねルナサ姉さん」
ぼそりとリリカが言った。なんせ、今回に限った鬱屈ではないのを、妹たちは知っていたからだ。
文とはたては、先日と同じように幻想郷への定期連絡を行った後で、先日と同様の喫茶店で、簡単に朝食を摂った。
「……しかしまあ、吹っ切れてしまったら、正直悪い気分ではないですね。困ったことに」
「今回は大規模な暴動にならなかったみたいだけど、今度は逆に細かい事案が大量発生したみたいね。といっても、彼女たちの演奏とこの錯乱の因果関係は確認できない、といった意見も少なくない」
「ところで、はたてが言っている意見というのは、どこの誰の意見なんですか?」
「知らない。私たちからすれば、見えもしない不特定多数なのは確かね」文の質問に、はたては、がらにもなくシニカルに言い放った。「神様が情報操作を行っているのを見た後だと、どの意見もなんともだわ」
軽食のトーストを齧りながら、はたては苦笑いした。
「ま、そういう事もありえる、ってだけの話ね」
二人は黙り込んで、コーヒーを飲みながら少し時間を潰した。彼女たちは楽団よりも先にホテルからチェックアウトしていて、その足で駅まで行くつもりだった。
「――あそこのお嬢さんたちにデザートでも送ってあげて」
別の客が、店員に向けた声が聞こえてきて、その通り自分たちの前にプチケーキがやってきたので、お嬢さんたちは、訝しげに、デザートが差し向けられたその方向に目をやる。
「あぁ、あまり警戒なさらず」
吉弔八千慧は、自分に提供されたクロックマダムをナイフで切り分けて、上品にほおばりながら、その席から声をかけた。
「同席した方がいいかな? それとも……この距離感の方が気楽かしら?」
選択肢を与えられているのはいいが、いまいち恩恵を与えられているという気がしない。
「……ねえ文。あいつの目的、なに?」
「ゆすりか、たかりでしょう――あと三十分もしないうちに出立です」
と、相手に聞こえるよう言いながらも、デザートはありがたくいただく。本当は相手から貰ったものをいただく事すら迂闊だとは思ったが、この店が、あの畜生界のやくざ者の、直接的な影響下にあるとも思えない。
「目的といえば、単純です。私には、少なくともあなたがた楽団と敵対する意思はない」八千慧は言った。「しかしながら、埴安神袿姫の目的だけが知りたい。それだけですよ」
(んなもん、私たちだって知るもんか)と、ケーキの下に挟まれていた名刺を拾いながら文は思ったが、どこか滑稽なものを感じた。
「きっとあなたたち、彼女に利用されているんですよ」
八千慧の舌は、そういう論旨から始めた。
「彼女の目的は、おそらくこの畜生界に混乱をもたらす事です」
(当たらずも遠からず、とは思うんだけどね)
「しかしこのメトロポリスの統治を実質的に握っている彼女が、どうしてかえって治安の不安を煽るのだろうか、とあなたがたは思うでしょう」
(なぜなら彼女の権力の源泉は、なにより軍事にあるからだ、と言うわ)
八千慧は二人の予想通りに、そう言った。
「……だから、彼女にとっては、騒乱状態にある方が都合がいいんです。畜生界のこのメトロポリスは、そういう権力構造になっている。過去にもそういう事があった。私はその時代に戻る事を危惧している」
文とはたては、示し合わせたように各々のコーヒーカップを飲み干し、席を立った。
「……あー、もう出発時間よ。急がなきゃ」
「まあ、私らも利用されている側ですから、本人に聞いた方が早いんだけどさ」
文は、はたてに急かされながらも、相手に近づいて、名刺を出しながら言った。
「たぶん、今回はそういう、畜生界流の話じゃないと思うんですよね――あ、ところで、わたくしこういう者です」
異例の事だが、その朝の磨弓の防具は、袿姫がじかに肌を寄せて着用させていた。
「帰ってくるまで外しませんよ」
主の腕が腰に巻かれて、するすると動いていくのを感じながら、磨弓は言った。
「そういう意気なのはうれしいのですが、まあ、できる限りの問題は当人たちに処理させてあげるように」
袿姫は、ものづくりにばかり意識が向かっている者の常で、ささやくように大事な事を言った。
「畜生界流の暴力は時代遅れですもの……もちろん、私たちにも、彼らにも文化といえるものはありますが、それを文化と自覚できるだけの余裕がなかった。それは常に暴力的解決によって阻まれてきた。もっとも、彼らにしてみれば、長いこと暴力による鞘当てを続けすぎて、その過去が正しいものであったという自負がある事も確かです。どこかでその認識を変える必要があるでしょう」
と、袿姫は磨弓の胴にすがりつくようにしながら淡々と言った。
「これから、彼女たちのコンサートでは、暴動の噂を聞きつけて、暴れるためにコンサートに押しかける、といった向きも出てくるでしょう」
袿姫は、奇妙な立場からこれを肯定していた。
「近頃――というのは、私たちがこの世界にやってくる、より以前からですが――この世界にはそうした事すら無かった。外の世界の人々は、ここをおそろしい無法の世界のように見ているが、現実は真逆なのです。単純な強者が弱肉強食を成立させるなどは、とてもかなわない。組織と企業、あるいはそうしたものの複合産業体。自由な競争社会ではあるが、みんな誰かしらなにかしらの統制下にあって、がんじがらめになって、暴動など思いもよらない……そんな世界であるにもかかわらず、暴力的な組織がえらくはばを利かせてもいる。……この暴力組織から、私たちを除外させる事はできませんよ、磨弓」
袿姫は、いたずらっぽく指摘した。
「ですが、もはや暴力による解決は時代遅れだとも、私自身は思っています。これからは暴力的な音楽がこれに優越する。彼女たちがきっとそれを証明する」
磨弓が今回の任に従事する一個分隊を率いて出立していく背を、袿姫はじっと眺めていた。
足元にボストンバッグ一つだけという、きわめて身軽な荷物を置いて、雷鼓は列車を待っていた。駅ホームのベンチに座り、バッグの中からポケット文庫を取り出して、だるそうに体を傾けながら読んでいるのは、ちょっと日帰りの旅行に出かけるつもりのお嬢さんにしか見えない。
「畜生界に鉄道が通ってるなんて、初めて知った……」
と呟いたのは小傘だったが、その言葉を耳ざとく聞きつけた杖刀偶磨弓が、
「鉄道の存在は、その沿線の権益も含めて、畜生界の軍閥勢力の抗争上の戦略に非常な重要な要素でありまして、これは戦略上の重要な路線にも、弱点にも、また要衝にもなりえたものでした。そもそも畜生界の暴力組織の成り立ちは、鉄道以前からこの荒野に成立していた交易路の確保と保全から起こったもので――」
「ごめん、おしっこ行ってくるから誰か聞いてあげてて」
と、小傘は酔い潰れている赤蛮奇の首たちに話をぶん投げて、酔ってぐるぐるの首たちは、磨弓の講釈を受けて、更にぐるぐるになっている。今夜の彼女たちは、興味深い夢が見られる事だろう。きっと悪夢だろうが。
出立前にあれこれとものを買うために、駅構内のキオスクには、ちょっとした群がりができていた。九十九姉妹がそこから朝刊とガイドブックなどを持ってきて、雷鼓の元に戻ってくる。
「私たち、記事になってるよ」
「誰か買ってきて、私に見せびらかしてくれると思ってたわ」雷鼓は本をぱたんと閉じて、バッグの中にねじこんだ。「人様の評価なんか知ったこっちゃないけど、どのような受け止められ方をしているのかは、把握しておいた方がいい」
「混乱・不快・騒音。だって」
八橋は、その表現がヒステリックな感情的なものである事を言外に匂わせながら言う。「いわゆる音楽的な評価にはほど遠いわね」
「そういうもんよ。……それより」
雷鼓は彼女たちが手にしている路線ガイドブックやパンフレットのたぐいを指した。
「ああ」弁々が言った。「やっと多少は観光気分になってきてね」
「考えてみると、こっちではそういう事さっぱりできなかったもんねえ」
そこだけは心残りというふうに、ぶすりと雷鼓はぼやいた。
意外なような、そうでもないような話だが、畜生界の鉄道の運行ダイヤはかなり正確らしい。旅客列車は時刻通りに駅のホームに滑り込んできた。
それにしても、一連の騒動を幻想郷はどう受け止めていたのだろうか。つい先日――プリズムリバーウィズHの畜生界コンサートで暴動が起き、その初報が幻想郷に舞い込んだ時に、話を戻す。
『初日の公演は大成功 終演後に暴動が発生 劇場は焼け落ち 楽団のメンバーは全員無事 スタッフ若干名の安否が不明 しかしショーは続く』
この簡潔かつ異様な報告が、妖怪の山の天狗たちに向けて送られてきた時、菅牧典はそれを読んだ一同の代弁を、単純な言葉で表現した。
「……なんのこっちゃ」
「別になんの暗号でもない平文よ。初演は成功した。しかしその後暴動が発生した。あとの文面のなにからなにまで、簡潔に事実しか記していない」
変に深読みしようとする典をたしなめて、飯綱丸龍は言った。
「しかし状況を知りたいな。遅かれ早かれ広まる情報だろうが、その前に探りを入れておきたい」
「どこにしましょうね。旧地獄はどうかな……いや。あのへんの連中は、こっち以上に内に籠りがちな傾向が強いわ。どんなに見積もっても、私たち以上の情報は持っていないでしょうね。それじゃあ新地獄か――?」
典は個人的に有していた外交パイプを辿りながら、事実関係の照会を求めて、数時間もすればむしろ畜生界にいる者たち以上の情報を得て、文字通りの事件が起きていたという事が判明した。
「どういう事なのよ」
「陳腐な言い回しをすると、音楽の力ってやつでしょうね」龍はうんうん頷きながらいいかげんに言った。こういう物事の原因や理論には興味がないたちだった。「なにか、畜生霊どものお気に召すところがあったんでしょう」
「ふーん、めちゃくちゃ筋の通った説明ですね」
とにかく、起こってしまった事は起こってしまった事だった。問題はこの、一旦は差し止めている情報を、どう処理していくか。まごついているうちにも、姫海棠はたての私信という形で、細かな点を説明する続報まで送られてきているのだ。
「ついでに、賢者連も独自の情報ルートから状況を把握しているみたいですぜ」
「ちっ、あたりさわりのない見解は難しくなったかもね」
しかし正午ごろになって、その妖怪の賢者たちから打診があった。そのながながとした文言を龍は読み下して、言った。
「……要は“別に嘘をつく必要は無いが、暴動についての見解はなるべくさりげなく、どうでもよい感じに表現する自由はある”と。そういう事らしい」
「考える事はみんな変わりませんね」
典は白目を剥き、舌を出してぼやいた。
幻想郷はそうした情報によって、楽団の畜生界ツアーを受け止めている。
「まあ……観光旅行みたいなもんだったよ。でも、ちょっと予想外の事故が起きちゃって、こうして戻ってきたわけ」
無断で幻想郷に帰ってきた依神女苑は、聖白蓮への報告でそう嘯いてやった。
「ええ、そうらしいですね」
白蓮も、別に無断の離脱を咎めるような事はしない。
「しかし、こちらもなにかとばたばたしているので、戻ってきてくれて助かります」
「……そういう割には、このお寺にしてはどことなく静かね」
「人がいなくなりましたので」
「人がいなくなりましたので?」
きょろきょろと白蓮の僧房を見まわし、耳をそばだてていた女苑は、素っ頓狂に言った。
「どゆこと?」
「一輪や水蜜たちは、パックツアーに参加したのです」
「パックツアー?」
「二泊三日、畜生界の旅」白蓮はほんのわずかに寂しげな顔を見せて言った。「夜にはプリズムリバーウィズHのコンサート付き。……みな、あなたには秘密にしていたようですが、いじわるだと思わないでくださいね。むしろ気を遣っていたのだと思います」
「いや、まあ、わかるよ……」
「出立は昨日でした。楽しんでくれているといいですね……どうやら向こうでのコンサートは、大反響らしいですし」
「大反響……まあ大反響と言える、か」
女苑がそう呟いていると、寺の門の外で山彦が大きく反響した。
(そういう反響では……)
白蓮が話を続けた。
「だから、いささか寂しいお寺の中だったわけです」
「そうみたいね」
女苑は小さく呟くような相槌の後で、自分でもおぞ気が立つほどに素直な言葉を、ぽろりと吐いた。
「しかし、静かなお寺でお留守番というのも、悪かないわよ」彼女はお人好しな白蓮に対して言った。「あそこ、めちゃくちゃ騒々しかったからさ」
一方、畜生界のメトロポリスに宿泊して観光を楽しんでいた村紗水蜜、雲居一輪、物部布都という奇妙な三人組が、自分たちが観られるはずだったコンサートの中止を知ったのは、その日の正午過ぎの事だった。
「一応、コンサートぶんの返金はされるらしい」
「なにが起こったのよ」
「暴動が起きて、劇場が燃えたらしいぞ」
布都は今朝の新聞で仕入れた情報を二人に教えた。
「まあ、こっちが災難なら旅行会社も災難なわけね」
「どおりで二日目から酒盛りがやけに豪勢だったのね」
「ヤケを起こしていたんだな……で、どうなるの?」
「そこ。現状ふた通りのプランがあるらしくって」
と言いかけた水蜜は、一瞬、それを説明する方法をつかみかねて、ややあって言った。
「……このまま普通に、コンサート無しのツアーを終えて帰るか、現地解散という形で返金されたお金を使って楽団を追っかけするか」
一輪が鋭く口笛を吹いた。
「狂ってるのかしら」
「どうも旅行会社の方も頭がおかしくなっているらしいわ」
「同情はするけど、むちゃくちゃよ。だいたい楽団はどこ行ったの?」
「ツアーは続けるらしいが、この街の予定はもう無くなった。別の場所だろうな」
ともかく、ホテルの一階ロビーにはツアー客がごった返していて、今後の身の振り方を各々で協議しているというので、彼女たちもそこに向かった。
ロビーの空間はざわめきで埋まっていたが、その二人が座るベンチの周りだけは、妙に静かだった。
「残念だったわね」
蓬莱山輝夜はぽつりと、隣に座っている連れ合いに言った。
「まあ、言うほど気にしてないわ」
藤原妹紅はそう答えながら、自分の髪の毛先をいじって、何本もの枝毛を見つけている。
「お前の場合、二泊三日で帰ってくる、っていうのが永琳との約束だったんだろ」
「そうね。でもあなたは、別に追っかけてもいいのよ」
「コンサートの料金が返金されたところで、余分の旅費が無い事にはどうにもならんでしょ」妹紅はいじっていた髪の毛を、散らすように払いながら言った。「私だって多少は持ち合わせがあるけど、だからってそこまで――」
ずしっ、と妹紅の膝に重いものが置かれて、その弁が中断させられた。
「……ずし?」
膝の上に目を向けてみると、そこにあるのは大和錦の巾着袋とみえる。問題はその中身の方だが……
「たしかそこの通りに貴金属店があったから、そこで換金できるはず」
はっと顔を上げて輝夜の顔を見ると、その微笑む流し目の端が、どことなく不安だ。
「これで持ち合わせはできたでしょう」
「あんた……」
「私はコンサートとかいまいち興味がないけれど」輝夜は率直に本音を言った。「刺激的な旅がしたいわ。それだけ」
「永琳との約束を破っちゃうのよ」
「でしょうね。刺激的でしょ?」
その微笑みに妹紅が答えかねていると、そこに一輪や、布都がやってきた。
「あ、不老不死ちゃんだ」
「浮浪不死ちゃん?」
「どうもとんだ事になったな」
お互いツアーに参加している事は知っていたが、あまり絡まなかった集団が寄り集まる。
「どーしたもんよ、これ」
「まあ、コンサートのチケット代を返金してもらって、おとなしく帰るっていうのが常識なんだろうけどね」
妹紅はそう言った後で、ちらりと輝夜の顔を窺う。相手は、別にそれでもいいのよと言わんばかりに、にこにこしていた。
「……だいたい、噂を聞いた感じ、楽団はもう別の街に移動しちゃったんでしょ。そりゃ、やろうと思えば追いつけない事もないだろうけどさあ」
「そこは妹紅の言う通りね。ただ急いで急いで追いつくだけだと、面白みがないわ」と言ったのは、輝夜だ。「旅行のプランとしては野暮も野暮よ」
一輪や水蜜、布都は、その言葉に顔を見合わせた。目の前のお姫様の考え方が、どうやら自分たちのように代金の返還だのなんだの、せせこましい視座にない事を察したのだった。
「……ごめん」妹紅も話がややこしくなる事を直感して、一言言い添えておいた。「こいつ、ちょっと変わってるから」
「個人的には船旅がしてみたいわ」と、輝夜は観光案内所から漁ってきたパンフレットを広げた。「ほら、河を遡って、別の街に行くクルージングなんてどうかしら」
「はっ」妹紅は鼻で笑いながら、ついつい輝夜の話に乗っかってしまった。「のろまな船旅なんてしていたら、ますます楽団に追いつけないじゃないの」
「……いや待てよ?」
そう言ったのは村紗水蜜だった。
「ちょっと拝借」
彼女は輝夜からそれら何冊ものパンフレットを借りて、それぞれの移動手段によるスケジュールを眺めて、行程時間をざっと計算しながら言った。
「……船で河を遡る、悪い考えではないかもしれないかもしれません。少なくとも楽団は、現地に到着してからなにかと準備が必要でしょうけれど、私たちは最悪、開演ぎりぎりまで時間の余裕がある。今すぐにでも出発の準備を始めて、明日の朝一に出発するなら、じゅうぶん楽団のコンサートに追いつける」
「ほら見なさいよ!」
「ただし、さすがに遊覧船ツアーのようなのんびりさで行くわけにはいきません」
勝ち誇ったように言う輝夜と苦りきっている妹紅の表情を見比べながら、水蜜は冷静に付け加えた。
「今すぐにでも優秀な快速艇をチャーターして、また同時に優秀な水先案内人を確保した方がいい」
「それはさほどの難題ではないわ」輝夜は断言した。「あなた船長なんでしょ。優秀な船長がいれば、優秀な水先案内人、優秀な船はきっと見つけられるでしょう。お金くらいなら、ほれ」
輝夜は、いつの間にか自分の手に戻していた大和錦の巾着袋をつまんだ。
「あなたがたがそれでいいなら、今から換金してくるわ」
水蜜はニッと微笑みながら、友人たち二人に向き直った。
「……今から河畔で船を探してくるわ。私のぶんも荷物をまとめておいて」
「りょーかい」
「……まあ、たまにはこういう旅もいいもんじゃよ」
布都が、呆然としている妹紅を少しでも慰めるために、ぼそりと言ってあげた。
一方、楽団の一行は昼過ぎには次の目的地へと到着していた。
(予定よりまる一日も早入りできたのが、いい事なのかどうか)
当初の予定では、あのメトロポリスで三日間の公演をしたのち、そのまま夜っぴて寝台特急で移動、朝に到着した後はすぐさまリハーサルとサウンドチェック、というハードなスケジュールが組まれていた部分に、妙に間延びしたような一日の空白ができてしまっていた。
今回の会場は野外ステージだった。そこで様々な打ち合わせをやりながら、雷鼓はぼんやりと、畜生界なりに暮れゆく空を眺めている。
と、会場の近くでライトが灯って、その方向がぼんやりと光って見える。人に尋ねてみると、近くの運動公園で野球の試合をやっているらしい。
その観戦に、雷鼓がメンバーやスタッフを誘ってみても、旅の疲れを癒したいだとか、別の用事があるだとかで、結局ついてきたのは小傘と赤蛮奇、それになぜか護衛としてついてきた杖刀偶磨弓だけだった。それだけに、雷鼓としては気前が良くなりたい気分があったらしく、
「ビールや焼き鳥くらい、好きなだけ奢るよ」
と申し出た。
試合の選手たちが、プロだったのか、学生だったのか、はたまた社会人だったのか、それすらもよくわからなかったが、観客もまばらな球場のバックネット裏で酒をかっくらって、あれこれ好き勝手言いながら語り合うのは楽しかった。
「あの配球はワルツのリズムだよ」と雷鼓は主張した。「変化球・変化球。次は直球とくるんだ――まあ見てな」
「それより、レフトスタンドの前から四段目を見てくださいって」赤蛮奇も声高に言った。「あれ、絶対やってますよ、サイン盗み」
「あのお、おふたりとも、もおちょっと声を落としていただけると……」
「不正とはけしからんわ。あいつらぶん殴ってくればいいのね」
「たのんますから、あなたもちょっとおとなしくしていてください」
小傘はひやひやしながら投球を見つめてたが、投球結果は直球が微妙に指にかかった失投で、なぜか確信ありげに直球に張っていたらしい打者がそれをひっかけてしまって、ショートゴロ。裏の事情がどうあれ、それだけが結果だった。
「……ま、どんな思惑があろうと、全員が全員ありえないへまをする事だって、無くはないってわけよね」
この試合は、万事がそういう調子で進んでいた。僅差の推移ではあったが、白熱したゲームというよりは、双方に失策やへまが多い、ぐだぐだのゲーム。
「ふーん。……こっちも仕事がなければ、ついていきたかったですね」
ホテルのロビーでツアーレポートを作成していた射命丸文は、雷鼓のそうした話を聞きながら言った。
「観戦写真くらいは撮ってもらったから、まあ出来が良ければ使ってよ。それにしてもビールと焼き鳥のお供にはちょうどよかったわ」
「焼き鳥の話はやめません?」
文は苦笑いした。
村紗水蜜がメトロポリスの河畔じゅうのドックを駆けまわって見つけてきた、とっておきの汽艇は、かつての畜生界の大動乱時代において、軍閥の上級将官の連絡艇として上流へ下流へと忙しく切り盛りしていた、らしい。
「もっとも缶は新調しているみたいだけどね。大事にメンテナンスされているのが気に入ったわ」
ホテルに戻ると、既に出立の準備を済ませている一輪に対して、上機嫌に言ってやったが、相手は少しふくれた様子で言った。
「……まあ、いずれにせよ、あんたのその目利きに、みんなベットするわけよ。今から」
明らかに思うところがある様子だった。
「……なんかあった?」
「道連れが三人増えた……」
簡潔な説明とともに、ロビーの向こうで人影がもぞもぞと動いた。
「よろしくキャプテン」歩み寄ってきた比那名居天子は不遜に言うと、水蜜に向かって、図々しくもがっしりと力強い握手さえ求めてきた。「良い船旅を期待しているわ」
あの暴動の夜の後、依神紫苑は幻想郷に舞い戻り、一緒に戻った妹がそのまま命蓮寺に向かったのとは別に、特にどこへ行こうという目的もなかった。
(ま、こういう時は天人様のところにでも行くか……)
とも考えたが、しかし天人様はしじゅう幻想郷などをぶらつき回っているので、一度離れてしまうとどうにもつかまりにくい。それが、人里の場末に行くとあっさりと出会ってしまったのが、この時の比那名居天子の(あるいは依神紫苑の)悪運と言うべきだった。
彼女は人だかりの中にあって、昆虫相撲の賭け事に熱中していた――といっても、自分で昆虫を持ち寄るとか、賭け金を張るという事はせず、ああだこうだと野次を飛ばしているだけだったが。
「天人様じゃないですかあ」
今気がついたように紫苑が声をかけると、天子はちらっと視線を寄越してきて、そのままニッと微笑みかけてくれる。
「や。最近会わなかったわね」
人だかりから離れながら、天子は言った。
「ちょっとね」紫苑は指をちびっと動かしながら言った。「ちょっとお仕事が」
「貧乏神のお仕事って、仕事をやらない事じゃない?」
「女苑のやつがしつこく誘ってきて」
(本当に、あんなに以前の事――プリズムリバー楽団に迷惑をかけた事など、うやむやのまま手打ちになったものだと認識していた)
事のあらましを聞いて、天子はしみじみ言った。
「本当に何年も前の話ねえ」
「で、畜生界まで、ちょっとね」
「畜生界」天子は驚きあきれるようにそのなんともいえない響きを口にした。「ヤバいところだと聞いてるわ」
「ヤバかったです。暴動とか起きましたし」
比那名居天子がプリズムリバーウィズHの畜生界コンサートツアーに興味を抱いたのは、その一言によってだった。
そんなこんながあって、依神紫苑は畜生界にとんぼ返りする羽目になっている。
(どうも変な事になったわね)
と思いながら、なりゆきに身を任せるのも嫌いではない。しかし畜生界に戻ってきたものの、どうすればいいのかはまったく考えていなかったが、紫苑には寺に戻った妹から教えてもらった情報があった。
「幻想郷から楽団を追っかけするツアーが組まれていたらしいんですけど、彼らが泊っているホテルに行ってみれば、もしかすると幻想郷の知り合いなんかに出会えるんじゃないかしら」
「神算鬼謀はかりしれない見事な推理よ」
その通りにホテルに行ってみると、ロビーに人がごった返していて、列をなしている。ちょうど中止になったコンサートのチケット代の返金が始まっていたのだが、二人はなんとなくのノリでその列に加わり、当然チケットなどは持っていないので追い出されるというような寸劇をやらかす。
「くっ、無理だったか……」
「私も無理だと思っていました」
天子と紫苑がロビーの隅で言い合っていると、呼びかける声があった。
「もし、総領娘様」
永江衣玖は、ひかえめに、小さく天子に声をかけた。
「なにやってるんです?」
「そりゃ私のセリフよ」
と、革製の古ぼけた分厚い旅行鞄ひとつで一人旅をしている衣玖に呆れる。
「あんた、そこまでプリズムリバー楽団のファンだったっけ?」
「最近興味が湧いてきたんですよ」
衣玖の他にも、天子たちはツアー客の中に、知った顔をちょくちょく見かけた。一輪や布都とも出会った。天子の図々しさが彼女たちの道連れを増やす事になるのは、そう難しい話ではない。
なりゆきがなりゆきを呼んで同行する羽目になった雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都、依神紫苑(以上五十音順)の珍妙な一行は、その日のうちにさっさとホテルをチェックアウトしてしまい、夜は河岸の小さな造船所で寝泊まりする事にした。造船所にはチャーター済みの汽艇が既にドック入りしていて、明日朝からの航行を前にメンテナンスが行われていた。
「事務所のソファか、がちゃがちゃやってる船のキャビンで雑魚寝みたいな事になるけど、好きに使ってくれていいってさ」
「ありがたいわね」
また、水蜜が雇った水先案内人を始めとした船のクルーは、カワウソ霊だった。畜生界のカワウソ霊といえば、この時代の風評によって吉弔八千慧率いる鬼傑組の構成員というイメージばかりが強くなってしまっている。実際に、港湾労働者を犯罪組織が取り仕切っている場合も多く、その線引きは非常にグレーなところになってくるが、ともかく畜生界のカワウソ霊には水運関係の従事者が多くいて、その荒っぽさは、たとえ堅気であっても暴力組織に引けを取らなかった。
「……妹紅?」
輝夜は、造船所の中に友人の姿がない事に気がついて、さては外でたそがれているのだろうと推理し、その予想通り、妹紅は川辺の船着き場に座り込んで、夜闇が深くなりつつある畜生界の運河の水景を、ぼんやり見つめていた。
「なるほど。悪かない夜景ね」
「とんだ事になったとは思っているけど」妹紅は輝夜のあたりさわりのない言葉選びなど無視して、自分の話ばかりを始めた。「気にしてはいないわ」
輝夜の方もマイペースなもので、自分の事ばかり話す。
「それより、おとなり座ってよろしい?」
「ご勝手に」
輝夜は妹紅と同じように、地べたに座り込む。
「……結局、普通に列車で追っかけすれば、確実に追いつけるし、安上がりだったんじゃないの?」
ぽつりと、答えのわかりきっている疑問を妹紅が述べると、輝夜はわかりきっていた答えを返してくれた。
「それじゃ楽しくないでしょ。それだけの話よ」
「……私は不満そうについてきているやつみたいになっちゃってるけど、別に楽しめるものは楽しむからね」
「そりゃあね!」輝夜は少し体を傾けて言った。「……私だって、あんたがあんなアイドルバンドにウツツを抜かす様を見たくて、ここまでやってるんだから」
「……あ?」
「コッケイよねえ、あんたみたいな世捨て人が、あんながちゃがちゃした騒音に、浮世のよすがを感じるなんて」
輝夜の言は見えすいた挑発だったが、その後ものすごい早口でプリズムリバー楽団の音楽性について語り始めた藤原妹紅に対して、彼女はニコニコ笑ったまま、いくらでも話を聞いてやった。
夜が深まるにつれ、この造船所の対岸には屋台かなにかの飲み屋街があるらしいのが知れる。河岸はいっそうきらきらと輝き始めている。
「……だからね、あんたが浮世のよすがなんて言ったのは、ぜぇーんぜん、間違っているわけよ。むしろあの楽団にあるのは彼岸の予感であって、しかもそれは別に案外悲しいものではないという――」
「見なよ、妹紅」
輝夜は、ふと気がついた船団の灯を指した。その船団は、川面を埋め尽くすほどの、はしけ、貨客船、商船などの群れで、それらを先導している小さなタグボートも相まって、かがやく輪郭だけが整然と、すべるように水の上を遡上していく。
「私はああいうきれいなものを見られただけでも、この旅の意義はあるんだとおもうけれどね?」
ただ、こうした綺麗な夜景も、見る者が見れば違う解釈になる。
「夜通しの航行とまでは言わないけど、現地の船着き場が混む可能性もあるし、出発はもうちょい前倒しした方がいいかもしれない」
汽缶の煤で体を汚しながらも楽しそうな村紗水蜜が、船のメンテナンスも終えての寝入りばなにそう説明したので、妹紅と輝夜は顔を見合わせた。
「なんかあったの?」
「うーん。あくまで水先案内人の経験則らしいんだけど」
と、ことわりを入れつつ説明した。
「どうも陸運が止まっているらしいのよね。鉄道なんかに何日単位の大幅な遅延が発生すると、ああいうふうに水運が急に忙しくなるって言うのよ」
事実、発生した鉄道襲撃事案の対処にあたるべく、杖刀偶磨弓はプリズムリバーウィズHの護衛から一時的に離れる事になっていた。
「わざわざ私が出向いて判断を下す必要があるというのが気になりますが、おそらく、この街の公演が終わるまでには戻ってこられます」
「そうかい……今すぐ行くの?」
雷鼓は体をねじりながら尋ねた。深夜、ホテル一階のバーカウンターで、いつものジントニック――氷は使わず、グラスとジンは冷凍庫で冷やしたものを使う。ジンはビーフィーターの四十七度、トニックウォーターはシュウェップス。ライムは小ぶりなものを、皮を剥いて果肉だけにして、一個丸ごと沈める――を一杯ひっかけていたところで伝えられて、少し興ざめした感じがなくもない。
「分隊は残しておきます」
「そりゃ心強いわ。行ってきなさいな」別につっけんどんに追い払うつもりはなかったのだが、結果的にそうなってしまったかなという後悔が、微妙にある。
磨弓がセラミックの甲冑をがしゃがしゃいわせながらバーから出ていくのを耳にだけとどめつつ、ふぅとため息を吐いた。
「……どうも、私らと同じくらいか、それ以上にがちゃつきすぎているわね、この土地」
「わかっていた事だったわ」
と言ったのは、同席しているプリズムリバー三姉妹の次女、メルランだった。彼女はすでにけっこう酔いが回っているらしく、オーダー通りに目の前に出されたバーボンサワーの泡立ちを、ゆらゆらと眺めるだけだ。
「だからって私は反対しなかったし」
「私は反対したかったけれど、どのみち押し切られる予感しかなかったからね」
ルナサが、フローズンカクテルにしたオレンジブロッサムのグラスを、ゆらゆら揺らしながら言った。
「でも、そこで反対しなかったのは事実だし、今更ああだこうだ言うつもりはないわ」
「じたばたしたところで、明日からまたしっちゃかめっちゃかの再演だろうしね。あれよりは上手くやるつもりだけど」
リリカは飲み干して氷だけのキューバリブレのグラスを、また口に持っていく。
「ショーは続けなければいけないんでしょ」
「そうね」
と頷いた雷鼓は、その後で、少し考え込むように復唱した。
「ショーは続けなければならない」
それから自分の酒を一気に飲み干すと、私はもう寝るわと三姉妹に言い置いて、バーを出て行った。
「……さすがのあの人もお疲れかしら」
「ま、それもあるでしょうね」
リリカがからかうように言い、メルランはそれに答えた後で、ようやく酒を口に運ぶふんぎりがついたのか、ずるずるとすすり始める。
「……それ“も”?」
「うーぁ、これ飲みきったらひどそう。……そう、お疲れなのはもちろんそうだけど、あの人、なんでも一人でできちゃうタイプだから、かえってそういう時の身の振り方を知らないのよ」
「身の振り方って、なにさ」
「“れこ”よ、“れこ”」
ルナサが小指を立てながら言った古風な言い回しは、少し声が大きすぎた。
「本人が気がついてるか知らないけど、こういう時ほどいい人がそばにいて欲しいタイプよ、あの人」
「……あー。」
三姉妹は複雑な表情で、バーカウンターに肘をついた。
永江衣玖は、自分の荷物の分厚い旅行鞄を椅子代わりに姿勢よく座りながら、まだ薄暗い朝の河を眺めている。彼女を含めた一行は既に船上にあって、汽缶にも火が入り、暖機を始めていた。
「みんな忘れ物はない?」
「むしろ忘れ物を取り返しに行くのよ」
「なんだかうまく言った感出してきたのう」
水蜜、一輪、布都は、船の操舵スペースの周りでわいわいと騒ぐ。妹紅と輝夜は、周囲の光景と同じくらい、汽船に内蔵されている機関に興味があるらしく、汽缶の周りの作業を、まじまじ見学していた。天子と紫苑は、船のキャビンで相変わらずごろごろと寝息を立てている。
そうした人たちが、どうしても各々のグループを形成してしまう中で、衣玖の居ずまいは明らかに浮いていたが、しかし当人はあまり気にしていないし、目立ちもしない。一人旅でこうして来たのですと言ってもそういうものかとなるし、わがまま天人の天子とはこの土地で偶然出会って、お目付け役としてついていく事にしたのですと言っても、そういうものだろうなと受け止められた。
「妹紅ったら、船旅を漫喫するよりもボイラーに火をくべてる方が似合うわ」
「なんだとお」
輝夜と妹紅の二人が楽しそうに言い合っている。
船はするすると畜生界の河を遡航し始めた。
別に悪い目覚めとは思わないが、気分としては毒だと思いながら、雷鼓は抱いているものを放して起き上がった。抱きついていたのはホテル据え付けの円柱形のボルスタークッションで、それに抱き枕のように縋りついて、目が覚めてから三十分ほどぐだぐだとやっていたのだ。
(一日あいたのが良くなかったかしら)
とさえ思った。ここ数日、なんだかんだと忙しさにかまけていたところに不意の暇がやってきて、それでかなにか、勘がおかしくなっている。
かぶりを振って、まどろみの中にこびりついた妄想を振り払おうとする――彼女の姿勢のいい背筋から腰まわりへの曲線、くびれ、ふくらみなど。
九十九姉妹がいわゆる裸族というやつで、プライベートな空間ではほとんど全裸に近い状態で過ごしているというのは、堀川雷鼓をはじめとした親しい友人間では比較的よく知られている奇癖だが、今回の旅でもその例に漏れず、彼女たちはホテルの個室に入ればブラもショーツも脱ぎ捨てて寝ていたし、誰かがことづてをしに部屋をノックして来たとしても、それらの下着を――どちらのものかもわからないまま――お義理程度に身に着けるか、ノーブラのままシャツを羽織る程度で、平然と個室の戸を開ける。それが別におかしな事だとも思っていないふうだった。
そしてこのツアーでは、彼女たちの宿泊の部屋割りは決まって相部屋だったので、即刻あやしい噂が広まりつつあったのだが、それはともかく別の話で。
朝、彼女たちは起き上がると、まずお互いの髪の毛を整える。特に八橋が弁々の長い髪を丹念に触ってやって、それから弁々が八橋にお返ししてあげるという流れが常だ。
それが終わると、今度はお互いに全身のマッサージをした。この行為だけでも妙な噂をあまり否定しきれないところがあるのだが、当人たちとしては特にやましい自覚はなかった。
マッサージの技術は、明らかに弁々の方が上だ。副業で按摩の先生でもやれるのではないかというくらい、指先の感覚が良い。
「そういえばさあ、姉さん」
「んー?」
姉に腰を触らせながら、八橋がふと話しかけた。
「……いや。そういえば三日目の公演、中止になったじゃん」
「ああ……雷鼓さんの“これ”ちゃんの話?」
弁々は小指を立てる。
永江衣玖の事であった。
彼女と雷鼓は、近頃ひょんなきっかけで出会って、外目には時折遊んだり飲んだりする程度の友達のように付き合っていたが、明らかにそれだけの関係ではないのは、当人らと親しい間柄ほど察せられた。
「まあ、天女様なんて結構な良物件、雷鼓さんみたいな人にはもったいないような、意外としっくりくる気もするような……(天界の身分制度上、天女と竜宮の使いには明確な区別があるようなのだが、姉妹はそうした種族問題や制度論には興味がなかった)」
色恋沙汰に関して韜晦しきっている雷鼓を、九十九姉妹は水臭いと思いつつも、それでも祝福はしていて、実は衣玖を楽団の追っかけツアーに招待したのも彼女たちだった。
しかし、そのツアーで予定されていた公演は中止して、おそらくツアー自体もそこで終わってしまっている。
「そこは惜しかったわね」
「本人にその気があれば自腹で追っかけしてくるでしょ」
余計なお世話をやらかしつつ、そういうところはやや無責任な傾向の姉妹たちだった。しかも彼女たちは、夜になると脱ぎ捨てた服を着直すのも億劫になって、部屋に閉じこもりがちだったので、鉄道襲撃があって陸路が長時間寸断されてしまっている事は知らない――それを知ったのは、マッサージを終えて衣服を身に着け、朝食のビュッフェに顔を出した時だった。
雷鼓は、バターとハーブが香る、とろとろした火加減のスクランブルエッグを、トーストに載せてかじりつきながら、そうした話を九十九姉妹にする。
姉妹は難しげに顔を見合わせた。
「……ありゃま」
「どしたの?」その反応に雷鼓は不思議そうな顔をした。「誰か友達でも誘っていたとか?」
「……ええ、まあ、そんなところ」と、姉妹はどちらからともなくそう言った。
「そんならそうと、言ってくれれば多少の便宜くらいは図ってあげたのに」
雷鼓は友人たちの気など知りもしない。
一方、水蜜たちの朝食は造船所で弁当に作ってもらったコンビーフサンドイッチで、汽艇の舵輪を握る彼女は、それを片手に河を航行していた。
「しかしこうして船旅をしてみると、昔を思い出すわね」
傍らのデッキに腰かけている一輪がしみじみと言ったので、布都はすこし興味をそそられた様子で、尋ねた。
「……昔というと、地底に封印されていた頃の事か?」
「封印つっても、多少なり利用価値があるならさんざん酷使してくれるのがあの界隈よ」
「いや、しじゅうそんな調子というわけではなかったけれどね」
これは水蜜が答えた。
「でも人使い荒くこき使われた時期もあったってだけ。特に、向こうで作っちゃった酒代のツケや、賭けの借金なんかの債務がかさんじゃって、聖輦船の甲板から銅の覆い一つに至るまで、焼きゴテを押されたり鉄針で引っかかれたりして差し押さえ番号を割り振られて、借金のカタにさせられかけていた頃もあったんだから」
「すまん、聞かない方がよかった話じゃないか? これ」
他方、衣玖も同じくぱさついたサンドイッチを口に運びながら、自分がこうして珍妙な冒険に巻き込まれている事に、戸惑ってもいる。
(別に帰ってもよかったはずです)
そもそも、ツアーに招待してくれたのは雷鼓本人ではなくその友人たちだったのだ。
(呼んでくれたのは彼女たちの好意だから、よいのです。しかし私が来てしまったのは、よかったのかどうか)
いそがしい相手の不意を打つようにやってきて、いい事が起こるわけがない、とも思った。
(自分もばかな事をやっている)
衣玖がそう思いながらデッキに立ち上がった時、ようやく目を覚ました天子がキャビンから這い出てきて、船の速さに感嘆した。
「……おー、なかなかスピード出てるわね」
と言いながら、ちょっとおぼつかない寝起きの足取りで、衣玖の横にやってきた。
「悪かないじゃない」
機嫌よく言って、そのまま船首の方に歩いていく。
「おいあんたあぶねえぞ」
舵輪を握っている水蜜は普段と口調が変わる。
「大丈夫よ」
と、構わず汽船の舳先へとずんずん進んでいき、大胆かつ繊細な感覚を持っている少女なら誰もが有している異様なバランス能力で、その突端に直立した。
「いい旅だわ! これは!」
その直後、船が急制動をかけて、天子は見事に船から落下してしまった。
(……自分たちはばかな事をやっている)
衣玖は、水面でぶざまにばちゃばちゃやっている知り合い(考えてみた事もなかったが、かなづちなのだろうか?)に、デッキから大きく身を乗り出して手を差し伸べてやりながら思った。
それよりも問題は、進む先が先を行く船で異様に混みあっていた事だ。
(……陸の道が塞がっているのが本当なら、この混みようもこんなもんなのかしら)
水蜜はそう思いながら水先案内人のカワウソ霊に相談してみたが、意外な答えが返ってきた。確かに多少のごちゃつきが起こるのは常だが、ここまでの渋滞が起きているのは異常だと言うのである。
杖刀偶磨弓は襲撃事案対処のために楽団から離れたが、そのまま襲撃事件が起こった鉄道や駅に向かったわけではなかった。
埴安神袿姫から彼女のもとには、次のような命令が届いていたからだ。
――別の襲撃計画の企図が感じられます。磨弓にはそれを探ってもらいたい。鉄道の保安に関しては、路線一キロメートルあたり十五名にまで増員できるよう動議をかけました(これは畜生界の鉄道協約によって許可された兵力配置の最大値であった)。だから、そこはそちらに任せておけばいい。
(別の企図?)
と磨弓はヘッドセットに入ってくる通信を聞きながら考えた。
――そもそもこの事案、なにが目的であるのかが、いまだにはっきりとしていません。しかも略奪にしてはやり方が中途半端すぎるのです。突然やってきて騒擾を起こし、鉄道以外にはほとんど被害も加えないまま退いていったそうです。まるで、最大の目的が鉄道の遅延にあるかのように。
そこまで言われると、磨弓にも気がつくものがあった。
――そう。目的はおそらく、プリズムリバー楽団のコンサートツアーの、妨害。
「まさかそんな」
――気持ちはわかりますが、鼻で笑える話でないのも事実です。
思わず漏れてしまった声に、主人は答えた。
――そもそもの話ですが、この世界には、いまだに、幻想郷流の係争解決方式に馴染みきれない大小の勢力も少なくない。そうした方々にとっては、幻想郷からの文物そのものが疑惑や不信の対象になる事もあるでしょう。いわんや、そんな土地からやってきて、浮ついた動物霊たちを狂わせ、連日暴動を引き起こしている楽団なんて。
そうした袿姫の弁はもちろん磨弓の耳に入っていたが、彼女は同時に思考を巡らせてもいた。
(だとしたら次は何が起こるか? どこに対策を配置すればいいのか?――いや、対策ではいけない。そもそも事前に事を収めるのがこの場合の最善であって)
――磨弓。
袿姫は言った。
――いずれにせよ、彼らは妨害をやってみたものの、楽団の都市脱出はそれより先行していました。そのため、有利は依然としてこっちが持っている。ひとつひとつ先手を打てばいい。
小さな船体は、混みあう船の間にちょこんと停止させられながらも缶の火は落とさず、もくもく長い煙を吐いている。
その煙突のかたわらに一輪はさりげなく立ちながら、言った。
「雲山によれば」と、煙とともに立ちのぼって、先の様子の物見をしてくれている入道の報告を水蜜に伝える。「河に臨時のバリケードというか、関所みたいなものが設置されてるみたい」
「関所?」
「私設の関所ね。無法時代の盗賊とかがよくやるやつ。金ふっかけるつもりよ」
「金ならいくらでも払ってやるわ」
「輝夜、それが金持ちのイヤミなのよ」
「あなただって金持ちの娘だったくせに」
「おまえ人の父親の話を……!」
輝夜と妹紅が犬も食わない喧嘩を始めたのはそれはそれと無視しておくとして、その時、近くに停まっていた大型の遊覧船に乗り移り、渋滞を持て余した世間話のていで色々と情報収集にあたっていた布都が、その高低差数メートルのデッキから汽艇の甲板に飛び降りて、船全体をぐらぐらさせた。汽缶の上で湯を沸かしていたケトルや、ココアを練るのに水蜜が使っている鍋などがあやうくひっくり返されそうになるのを、一輪がすんでのところで止める。
「ちょっとあんた――」
「読めたぞ、一連のからくりが!」
布都は勝利宣言のようにはしゃいでいたが、そのからくりとやらを友人たちに説明する節度も持っていた。
「まず、ここで足止めを食っている船団、たしかに日常的に行き来する貨客船の割合も少なくないんだが、今回、あきらかに普段よりも客の人数が多いらしい。――で、聞いて驚くなよ。その、いつもより余分な船客の種類が重要なんだ」布都はにんまり笑った。「ようするに、彼ら私たちと同類なんだよ」
「同類?」
「そう。プリズムリバーウィズHの追っかけ。熱狂的な――もしかすると本当に狂っている……それはともかく、私たちと違うところは、彼らは自分たちの判断で水路を選んだわけではないところだな。事前に、陸路が事故か襲撃によって遅延するという噂――いや、実際に起きたんだとすればリークか――があったらしいんだ。その噂のおかげで、楽団の追っかけファンはその多くが水路を使って次のコンサート会場へと向かおうとしている。これだけでも相当に変な話なんじゃが、一方で、その水路では、これまた狙ったかのように不法な関所が設置されている」
布都はニンマリと笑いながら、指を一本、つんと振り上げた。
「お察しかもしれないが、うちの推理では、これらすべて一本のライン上にある」
「まあ、仮説としては大層なもんよね」
「あるいは仕掛け網漁ね。私たち、畜生組織の商売の罠の中に泳ぎ込んでいたのよ」
水蜜は端的に表現しながら、相変わらずココアの方にかかりきりだ。
「そんな雑魚専用の網、どうとでもなるわ」
一輪はその様子を見つめて、尋ねた。
「……キャプテン、作っておこうか?」
「ん。じゃ、一口でばっちりキマるくらい、とびきり濃いやつにしといて」
水蜜はマグカップを一輪に託して、それから水先案内人と、あれこれ相談を始めた。
「雲山によれば、バリケードの位置はここ。うちらの位置はここ」
水蜜は水域の地図を広げて説明をしながら、河の横に広がる湖沼地帯が気になった。年季の入った船の、色々とメモ書きの残る図にもかかわらず、そこだけはなにひとつ記されていなかったからだ。
「このあたり、なにも書き記されていないけれど、この船が通れる水路くらいあるでしょ。だからそこに船を入れて、多少迂回しながら関所の後背に出る、というのはどうかしら」
かつて、この畜生界に様々な勢力が割拠し、動乱を起こしていた時代。この汽艇が河川を上流に下流に行き来する、高速の連絡艇として使われていたという事は先に述べたが、そうした任務に従事してきたという事は、もちろん多くの裏道や間道を知っているに違いない。水蜜はそれによって関所の向こう側に出られないだろうかと考えたのだ。
水先案内人はそれを、良しとも、悪しとも、言わない。むろん知らないわけではない。知りすぎているがゆえであった。それはある種の(この地域全体の軍事にすら絡んでくる)特殊な機密であり、それを彼女たちに教えるには取引が必要だった。
「ま、おちんぎんは上乗せしておくから」
察した輝夜が横合いから口を挟むと、何粒かの金を水先案内人の目の前に置いた。
「自分たちにとって必要かどうかもわからない関所に金を落とすのはまっぴらだけど、自分たちにとって必要な情報には金を与えるべきよ」
それですべては決まった。
船は、停滞する船団の中を器用に縫いながら、さりげなく前進を始めた。水先案内の通りに湖沼地帯へと進路を変えるには、もう数ケーブルは愚直に前に進まねばならなかったからだ。
もちろん、それは身勝手な追い越し行為にも映るので、それに気がついたいくつかの大型の貨客船からは、ブーイングのような罵声が降りかかってきた。また、彼女たちに追随しようとするちょこちょこした小船のたぐいも、なくはない。
水蜜はそれらのものを意にも介さず、どろどろとタールのようなねばっこさのココアに、ラム酒を同じくらいの量入れたものにいたく満足しながら口に運びつつ、片手で舵を細かく動かした。
「というか、酒なんかあったんじゃな?」
「私らにも飲ませなよ」
人数分のマグカップが準備されて、衣玖の手元にまで八分の一パイントのラム酒が行き渡った。――もっとも、依神紫苑だけは、この配給の恩恵に預かれていない。先ほど、彼女はみんなの昼食ぶんの弁当をすべて食べてしまい、天子を含む全員に(船員のカワウソ霊たちからも)一旦シメられて、懲罰としてキャビンの掃除用具入れの中に監禁されてしまったのだ。そのサンドイッチとて、朝と同様のぱさぱさのパン、酸化しきったマーガリン、しょっぱすぎるコンビーフ、腐敗一歩手前の芳醇なピクルスと、逆になんの風味も残っていない乾いた蝋のようなスライスチーズが挟まれているだけの代物ではあったものの、勝手に食われるとそれはそれで腹が立つものである。
「酒盛りして、無神経な与太者の旅行客のふりでもしてな」
と水蜜は指示したが、結局のところは、ふりでもなんでもなく、自分たちは無神経な与太者の旅行客そのものなのではないか。
彼女たちの汽艇は、大小の立ち往生している船の間を、器用にすり抜けていく。
関所に阻まれているのもあるだろうが、下ってくる船は少ない。そもそも、上流ではまだ陸路が止まっているという情報すらほとんど届いていないらしく、そのため下ってくるのは日常生活にこの水路を利用しているらしい小舟か、郵便船や水上バスなどの定期船舶ばかりだ。そうした船が近くをすれ違うたびに、水蜜は船乗りらしい気さくな馴れ馴れしさで「どこから?」と声をかけた。このかつてない混雑ぶりはどういう事だと問い返される事もあった。
「知らんね」水蜜はすっとぼけた。「ただ、あっちに行けば、ものすごい騒音を感じられるらしいんだけど」
「……あ。小傘ちゃん、ごめんだけど、ちょっとそこの場ミリに立って」
サウンドチェック中の雷鼓に呼び止められた小傘は、ステージ上の目印のひとつに立たされた。
「手拍子してみて」
ぱん。小傘は手を打ち合わせる。
「もっかい」
ぱん。
「……オーケイ。じゃあもういいから」
雷鼓は手にした野帳にメモを取りながら、さっさと別の場所の音響チェックに向かった。
「待ってよ」取り残された小傘は言った。「私の出番これだけ?」
忘れてならないのは、この地域の湖沼地帯の裏道は、単に使う者が少なくなり忘れ去られてしまっただけという側面もあれど、ある種の軍事機密である、という事だった。
(というわけで、他の船にはあまり気づかれないよう、さりげなく脇道に入らなければならない)
「……いっちりーん」
「あいよー」
気さくな呼びかけに応えてくれる一輪。
「どしたの?」
「どうやらこれは煙幕を張った方がいいわ」
目くらましが欲しいという話だった。
「おっけおっけ。いつものやり口でね――いや、待って」
一輪は目を細めながら言った。雲山はいまだに空に打ち上げられていて、そちらの方面を注視してくれているのだ。
「……関所に設けられたバリケード付近で、揉め事が起き始めてるってさ」
「あー……そりゃあまあ、起きるでしょうね。畜生界の、血の気の多い奴らときたら」
「……今、遊覧船がバリケードに突撃した」
「そりゃさすがに血の気が多すぎるわ」
水蜜は頭を抱えた。数秒の間を置いて、川上でなにかが激突して軋むような音が、大気中に飽和しながら、わずかに聞こえてくる。別にバリケードがぶち壊されるのは結構だが、その調子が続くとこの先の航行もままならないような事態になりかねない。
「さっさと行った方がいい」
「三分待って」一輪は自分の指をぺろりと舐めて、風向きを確認しながら言った。「雲山が“戻ってくる”から」
三分後、一行が巻き込まれている渋滞は、上流から突然流れてきた、霧とも煙ともつかぬもので、その視界がほとんど遮られてしまった。
「行こう」
抜き足差し足で出発すると同時に、水蜜は船の汽缶から重く濃い煙幕を吐かせながら、河の藪の間にある脇道へと、ゆるりと進路を変更した。
埴輪の馬にまたがりつつ、狩猟双眼鏡を片手に、運河の途中に違法な関所が設けられている事を確認した磨弓は、袿姫にその通りを報告した。
「ここで違法に料金を取って割り前を得るという、古典的な盗賊仕事に見えますね」
――なるほど。
「これはまだ、調査する必要があるのでしょうか」
と、少しいらだつように主人に言ってしまったのが、自分でも少し不思議だ。近頃はこうしたいらだちを、埴安神袿姫に感じる事が少なくない。
――そっかあ、私の見損じだったかしら。
と、主人は素直に非を認めてくれてもいるのだが、それこそがなんだか引っかかるのだ。磨弓にとっては、袿姫は無謬の主だった。
――しかし、それでは鉄道を襲撃したタイミングが解せないのですよね。彼らは、楽団があの日の朝に都市を発った事実を知らないでしょうし、そうなると、下手すると逆に都市の中に彼らを押しこめる事になりかねなかった。
「……なんらかの方法で情報を掴んだのかもしれません」
――その方法がわからないうちは、私は自分が当初案じていた考えを打ち消しかねます。あなたはばかばかしいと思うかもしれないけれど。
(別に)磨弓は、なぜだかこういう時に限って沈黙してしまうのが、近頃のくせになっていた。(ばかばかしいとは思っていない。あなたはそれでいい)
――磨弓?
「ともかく、私どもはここの封鎖を解除させる権限は持ち合わせておりませんが、どういった目的でやっているのか、問いただす事はできます」
磨弓は言った。既にそのための部下を、河畔の方まで派遣していた。
「もちろん彼らが本当の事を述べ立てる保証もありませんがね。参考になすってください」
そうして、使者から戻ってきた埴輪の兵士が、言伝てられた返答を磨弓に教えると、彼女は妙な表情になった。
――どうかしましたか。
「……“我々ノ目的ハ ぷりずむりばー楽団ノ公演ノ妨害 彼ラハ彼ノ都市ニテ暴動ヲ引キ起コシ 今マタ我々ノ都市ニ同様ノ状況ヲ齎ソウトシテイル 彼ラハ騒音ヲ発スル 混乱・無秩序・乱脈ノ徒ナリ”」
その意味をはかりかねたのか絶句したのか、袿姫は数秒、なんの反応も寄越さなかった。
「たしかに、これですべての筋は通ります」磨弓は言った。「駅の襲撃も、この違法な関所も、すべてプリズムリバー楽団の公演を妨害しようとしているだけです。たしかにそうだ。すなおに見れば見るほどそうなります」
――彼女たちの熱狂的な追っかけは、大集団を成してその水路を使って遡上している、という報告もあります。
村紗水蜜や物部布都はそうした動きを、噂を利用して不法な関所でふっかけようとする、仕掛け網のようなからくりだと読んでいたが、なにを隠そう、そうした噂が発生するきっかけは他ならぬ彼女たち自身だった。船で河を遡航する事を思いついた後、別に隠すものでもなかったこのアイデアを、誰かがぽろぽろと言いふらした――おそらくだが、途中でむりやり船旅の計画に割り込んできた、天子や紫苑あたりだろう――そのうちに風聞によくある話のねじ曲がりが始まって、そのうえ鉄道も止まった。水路を使う方が陸路以上に時間的効率が良い、というでたらめな言説が広まり始めた頃には、彼女たちはチェックアウトしたホテルから造船所へと移動しているので、そうした噂の変質を知らない。
もちろん磨弓たちも知らない話だったが、彼女は彼女で、別のものをふと連想して感慨をおぼえている。それは、先日観戦した、ぐだぐだとした流れの野球の試合だった。
(さまざまな思惑が飛び交いながら、みんな予想外の流れに巻き込まれているだけなのかもしれないわね)
こういう時、そう言葉にして袿姫をなぐさめればいいのに、近頃の磨弓は、なぜだか沈黙してしまうのがくせになっていた。
そんなわけで、決定的な部分をなんだか勘違いしているキャプテン・ムラサらの一行は、上流に向かおうとする船が列をなして停滞しているのを避けて、その脇にある沼沢地に船を向けていた。
「みんなも気をつけていて欲しいんだけど」
と、水蜜は一輪にロープを持ってこさせると、腕いっぱいに広げた長さの、それまたふたつぶんの身体尺を取るよう頼んだ。
「おおむねの指標だけど、その二尋の長さよりも沼地の泥が浅ければ、そのまま船底かスクリューかをひっかけて、座礁しちゃうと思っといて」
「マーク・トウェインってやつね」
水先案内人もあらかじめことわりを入れていたが、当然、湖沼地帯の地勢が不変であるはずがない。地形は変化するし、かつて通れていた運河が枯渇しているなどは当然考えられる。だからよくわからない素人目でも、警戒する人数は多くいてくれる方がいい。
こういうとき、衣玖はよく気がついた。沼の底に沈んだ流木や、巨大生物の死骸の存在などを濁った沼地の泥の中に指摘して、汽艇の底がガリガリと削られたり座礁するのを何度も防いだ。
もちろん、そうした事が数分ごとに起こるのだから、ひどくのろのろした道行きになる。見積もりとしては一時間にも満たない遠回りのつもりだったものが、いつの間にか正午を過ぎようとしていた。
「焦る必要はないわ」
輝夜が船中の――というよりは水蜜の――微妙な焦燥を感じたのか、ニコニコしながら言った。一番の出資者がそう言ってしまえば、誰も文句を告げようがない。そもそもプリズムリバーウィズHのコンサートなど、今日だけのものではないのだ。
「安全第一で行ってちょうだい」
「……でも、さりげなく本線に戻ったら、最大船速で逃げ足になった方がよさそう」
ぐねぐねとした航行の末、小川の静かな流れに至りながら、水蜜は言った。
彼女たちの汽艇がいったん缶の出力を落として、息をひそめて進んでいるのは、さほど遠くない後方数ケーブルで、蒸気船が関所のバリケードに突撃し、後退し、また突撃して、その船体がひしゃげ、砕ける音が響いていたからだ。既に遊覧船が一隻、すっかりぐしゃぐしゃになって、それでいて後続の道を塞がないよう幅寄せして、川岸に打ちあがっていた。そうして大破した船の乗客は、別の船へと渡り移っている。妙な一体感が船団を包んでいた――彼らの大多数の目的はひとつ、プリズムリバーウィズHのコンサートに合流する事だったからだ。
「この世界のプリズムリバー楽団ファンは過激すぎるわ」
と、さすがの妹紅もぼやいた。ぼやきながら、汽缶の罐だけは急発進を予期して高出力を維持させており、その滑るような穏やかさは、いつでも駆け出せるように緊張し、張りつめられた筋肉の穏やかさだ。
「ありゃもう異常だよ」
「妹紅だって私から見れば同類よ」
と、からかいながら身を高くしていた輝夜は、キャプテンに身を低くしてなと言われて、おとなしくデッキに座った。
「どうなるか私もわかったもんじゃないけど、たぶん振り落とされるぜ」
「封鎖は破れました」
日々の市況を概況するように、川べりに佇む磨弓たち騎馬部隊は報告した。
「下流から上流へ、どんどんと船がすり抜けていきます。そのすべてが楽団の熱狂的なファンとも思いませんが、どうやらなんらかの熱に浮かされて、こうなっているのは間違いない」
――その熱があの楽団のもたらしているものだとしたら、なおさら私たちは彼女たちを拒絶してはなりません。
磨弓が、この状況に対して多少思うところがあるのも理解してか、袿姫はぼそぼそと早口で言った。
「ともあれ我々はどうすべきでしょう」
――ふむ。一連の動きがなにを企図しているかわかった以上、本日のコンサートを予定している市内に、即時戻った方がいいでしょうね。
「コンサートそのものが妨害される可能性があると?」
それはもはやテロ行為であろう。
――無いとは言いきれないのがこの場の狂気なんです。磨弓。今、あなたはその目で、今回の騒動が生んだ、正負の狂気を見ている……この場合の正負とは、正しい間違っているではなく、対立した二極の、という意味です。楽団やそのファンを妨害するのも狂気、設けられた妨害をぶち破るのもまた狂気です。楽団を拒絶する向きが出てきましたが、拒めば拒むほどに、彼らとてそれに狂わされていくだけです。それは感情のベクトルこそ違えど、絶対量としては似通った形でムーブメントに熱狂しているにすぎません。
(その論法だと、あの楽団のなにごとかを真っ先に理解して、即座に受け入れたこの方は、誰よりもさめきっているのかしら)
案外、そういうところもあるのかもしれない。
「……ともあれ、私は楽団の護衛に戻ります」
磨弓は、本来の任務に戻るべく駒を巡らせた。ちょうどその時、河面に靄が多く出てきて、一瞬見通しが悪くなったのに気がついているが、もはやどうこうと指摘するつもりもない。
その靄――雲山が飽和して煙幕を張る中を、雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都、依神紫苑を載せた高速汽艇は、矢のように駆け抜けていた。
「――で、結局のところ、この曲の後は、私たちは袖に引っ込まない方がいいのね?」
「その後の出番は三分後とかそんなもん。休憩にもならないわよ」
段取り確認に、楽団のメンバーやサポートミュージシャンらを集めている。そんな時に上のような弁々と雷鼓のやりとりが発生して、それを横で聞いていた八橋が、ぽつりと口を挟んだ。
「早着替えには充分な時間だけどね」
「着替えたところで――」
雷鼓は九十九姉妹に言いかけて、やめた。失礼な物言いになってしまう事がわかっていたからだ。
(サポートミュージシャンにすぎないあんたたちがお色直ししたところで、どうせ誰も観ていないし、気が付いていないでしょ、って?)
「……曲が終わったら、そのまま板付きで待機しておいて」
「いいわ」
九十九姉妹は諾々と雷鼓の指示に了承した。
(どうもたがが外れかけてきている)
人知れず唇を尖らせて、雷鼓は思った。
(人に指図を出しすぎて、なにが言ってよくて、言ってはだめなのか、わからなくなりかけているわ)
一連のツアーの中では、判断を下す場面も多い。判断を下すということは、どこかでなにかしら誰かしらを査定し、値踏みしているという事に他ならない。それが当然の事になってくる。
(……今までは上手くやれているつもりだったんだけど)
実際、これまでもそういう事が無いわけではなかった。というより、この世界に発生した時から、雷鼓の立ち回りは、常に出会った相手の査定と値踏みばかりで行われてきたはずだ。やっている事自体は、変わっていないはずだった。
(このツアー終わる頃には、だいぶやな奴になってるかもね、私)
その果ての姿の良し悪しにはあまり興味がない様子で、彼女はそういうものだろうな、と思いながら、打ち合わせを続けようとする。
「……そういえばさ」
とルナサが言った。
「天狗の記者さんの片っぽが言ってたんだけど、今夜、降るらしいわよ」
「……なにが?」
まさか焼けた硫黄が降ってくるわけでもあるまいが、一応、雨が降るという確認をしたかったのだ。
「雨――」
衣玖は、自分の頬っぺたにぺちょんとついた水の粒の由来について、そうした類推を行った。
「ああ、雨だね」
水蜜がそう言ったとたん、まだ昼下がりだというのに、にわかに、畜生界の空は幕が下がるように薄暗くなりゆく。水蜜は自分の荷物の中からオイルスキンを取り出して、それを羽織りながら言った。
「こういうのも船旅の味さ。みんな雨具出しておきなよ?」
「私は最悪、雲山が傘になってくれるから」
「雲に傘になってもらうというのもなんだか変な話じゃな?」
一輪と布都が言い合う。
「いっけない、雨の心配とか考えた事もなかったわ」
「嘘でしょ……」
世間知らずのお姫様らしいうっかりを告白する輝夜と、驚愕する妹紅。
天子は、その天候が映し出されている自分のスカートを眺めながら、ぼそりと呟いた。
「衣玖はいいわよね、その羽衣、防水仕様でしょ?」
「羽衣だけですよ」衣玖はレインコートを着込みながら、しみじみと言った。「雨降りに遭ったら、他はみんなずぶ濡れ」
そう言っていると、雨の勢いが段を力強く駆け上がるように増していき、彼女たちを見る間にずぶ濡れにしていった。それでも、不思議なことには、無言でため息をつきながら雨具を着込む者はいるものの、誰もキャビンに引っ込もうとはしない。こういう時に雨から逃げるような人々が、こんな旅に身を置いているわけがなかったのだ。
「とはいえ、体を冷やしてもばかばかしいわよ」
という優しさから、またしても全員にラム酒が行き渡る。今度はその雨水割りをがぶ飲みするようになって、酒盛りになった。相変わらず煮えたぎるココアをすすりながら、水蜜はいい気分で舟歌を口ずさみ始めた。最初は囁くような声だったのだが、やがて他の者の耳にも届くようになるにつれて、ぽつぽつと唱和する者が増える。
ついで、歌のリズムが強調され始めたのは、ひょっとすると他ならぬ衣玖の仕業だったかもしれない。それに従うようにデッキがこんこんと叩かれて、それだけでも拍子が鮮明になる。
「では」と、雨具を着込みながら結局ずぶ濡れの状態で、彼女は立ち上がって言った。「ほんの余興ですが、天界の舞いでもお見せしましょう」
むろん、小船の上なのでさほど広くはないのだが、足元にほんの寸土さえあれば、それだけで踊れる程度の技量は、竜宮の使いである衣玖は持っている。ただ空の上でゆらめくように舞うだけの彼女ではなかった。
(ようやっと船旅らしくなってきたわ)
水蜜は思ったが、正直なところ、あれから汽船を全速で走らせているのだが、コンサートそのものに間に合うかどうか、かなりあやしい行程となってきている。
「一時間延期?」
楽屋での待機を命じられてじりじりとしていたルナサたちは、会場の責任者との協議から戻ってきた雷鼓の言葉をオウム返しして、しかもその言葉にはなじるような調子が含まれていた。
「もっと正確に言うなら、“今後の天候次第では中止の可能性もあり得る”し、措置としては“開場の”一時間延期よ」
雷鼓は始まる前から、疲れた顔で言った。中止になるならなれ、とも内心では思っていた。
「コンサートの可否については、一時間経つ前にもう一度話し合いに行ってくる。そこで決まるわ」
メルランも肩をすくめる。
「まだ開場していないからいいけど、中止のアナウンスとか、チケットの返金とかなんとか、想像もしたくないわ」
「私たちが演奏する以上に、よっぽどえぐい暴動が起きそうよね」
リリカ本人はユーモアたっぷりに言ったつもりなのだろうが、笑えない。
雷鼓はそこで、ぼそりと先方の内情を姉妹たちに教えた。
「もちろん、観客の安全を第一に――という建前だけど、まあその他にもぐずぐずと理由をつけられているわ」
と、特にルナサのヴァイオリンを指す。
「たとえばそのストラディバリウス。そいつは保険会社に一山いくらくらいの動産保険がかけられていて、本来こんなラフな状況の屋外コンサートに使われていいものではない」
「関係ないでしょ、私のものなんだからさ」
「まあ他にも理由はあるみたい。向こうさんも私にはあまり話したがらなかったけれど」
と、雷鼓は相手の事情をどこかで察してしまってもいる。
(私たちの演奏会を良しとしない勢力が発生しつつあるのではないか)
そういう雰囲気さえ感じた。当然だろうとも思う。自分たちは連日暴動が起きるような演奏会を繰り返している、超お騒がせ集団だ。
「……とにかく、一時間――協議時間も含めた実質だと、あと四十五分くらいだろうけど――待ってちょうだいよ」
雷鼓はそう言って、楽団メンバーのみならず楽屋内のスタッフ全員をなだめたが、当人こそ、そのいらだちにそばのものをぶん殴りそうだった。
「――あと四十五分もあれば、目的地に到着!」
「というか、目的地に着いたあとはどうすればいいのよ?」
「そりゃあれじゃろ、観光案内図に従って観光」
「当地の観光パンフレットくらいは持っておいた方がいいわよ、ほれ」
雨具をかぶりながらも体を冷やしてぐずぐず言い始めた一輪と布都に、雨でふやけたパンフレットをくばってあげる輝夜。
「とりあえず、なにはともあれ現地に着く!」
水蜜が一同の中でも一際元気が良かった。
「良い船旅だったでしょ?」
「もう一杯くらい酒がもらえると、そうとも言えるかもな」
布都が言った通りに、更に八分の一パイントのラム酒が皆に提供された。
「この船のケチ臭い配給も、これで最後かのう……」
「そんな減らず口かませるなんて、仲良くなったわねあんたら」
一輪が水蜜と布都に対して言った。
船のキャビンでは、天子がこんこんと掃除用具入れのロッカーにノックをした。
「あー、ねえ、紫苑?」
懲罰に詰め込まれている相手から、返答はない。
「そろそろ、到着するんだけどさ。あんたはどうする?」
天子は、舎弟が答えようとしない様子を認識しながら、言った。
「……現地に到着したら、この船はおとなしく帰って、元のドックに入るんだと思うのよね」と、とりあえず今後の予想を言った。「だからさ、帰りたいなら、そこでそうしてる方が楽だと思うよ、うん」
それだけを告げて、ロッカーから離れていく背に答え代わりに聞こえてきたのは、凄まじい嘔吐の声だった。そりゃそうだ。何人分というしおっからいコンビーフサンドイッチを一気に食べた上に、高速で航行する川船のロッカーの中で半日も過ごせば、紫苑くらいの奴ならそんなもんだろう。
天子は、船内(というかロッカー内部)に吐かれたものの掃除をする手当と、ついでに紫苑を幻想郷に返してやれるだけの旅費を、船員のカワウソ霊に託しておいた。
杖刀偶磨弓がプリズムリバーウィズHの護衛任務に復帰したその時、コンサート会場のフェンス周りにたむろしていた抗議団体を見かけた際の感想は、それよりも多い楽団の熱狂的なファンを目の当たりにした時と、たいした違いはなかった。たしかに埴安神袿姫が言った通り、こうした人々は、ベクトルこそ違えど似通った情熱で動いているのだろう。
雷鼓らに帰還を知らすため、普段なら入る事もない楽屋に、足を踏みいれる。
あと十数分、ひたすらに時間が過ぎるのだけを待っていた楽屋の中は、磨弓の侵入という空気の揺れにも、どこか鈍感な反応だった。
「……戻りました」
「おかえり」
自分たちに関係がある話とも思っていないので、雷鼓は磨弓の調査について、深くは聞かなかった。また、こちらからも、コンサートが雨で遅延しているという事すら教えない。教える必要があるだろうか?
それに、教えてやらずともコンサートの遅延は察せられた。磨弓も当然それに思い至っていて、ついで、河を遡航してやってくる海賊のようなファンたちの事も思い浮かんだ。
(中止か)
それもいいだろう、と思った。ここ数日、すべてが狂っているのはわかっていた。自分の主人――埴安神袿姫――は、それでもいいと言っていたが。
(彼女は芸術家気質なのだろう)
と磨弓は型に嵌めるように思った。あれはたとえこの世界に混沌や乱脈があろうともそれをこそ称えて、はちゃめちゃが起きればそれを楽しむ女であって、それは初めから――この、神もなく主人もなかった世界を、混乱をもたらす事によっておさめようとした時から――そうであった。
(はじめからあの方はそうだったんだ)
磨弓はなにかを納得しようとしていたが、それでも袿姫との感覚のずれが、耐え難いものになってきている気もしているし、なによりそれを看過できる自分でない事は自覚していた。
(あの方がわからなくなってきている)
それを素直に認めた磨弓は、不思議なことに、袿姫の気分そっくりの事を考えた。
(けんかでもしてみた方がいいのかもね)
と。
(一度、けんかをして、ぐじゃぐじゃになって、毀しかねないくらいの衝動で、こねて、ついて、整えるようにお互いの体を土のように弄んで、抱き合ってしまえばいいのよ)
磨弓は袿姫の芸術家気質が、さっぱり理解できていないと自分では思っているが、やはり誰よりも理解していたように思われる。
「協議の時間よ」
磨弓が物思いにふけっている横で、雷鼓がのろのろと立ち上がった。
「失礼」
と、埴輪兵団の兵長を、少しのけるようにして楽屋を出て行った雷鼓は、どうもうまくいかない事の多すぎる最近の自分に、憤りを通り越して苦笑いすら漏れていた。
(今、すぐそばに幸運の女神がいてくれればな)
と思ったが、彼女が思い描いていた幸運の女神とは、「種族:幸運の女神」といったものではなく、もっと具体的な存在だった。
(あなたがここにいてほしい)
雷鼓は思った。
(別に、こんなネガティブな気分、ただ気の持ちようの問題だし、自分で折り合いをつけていくしかないものね。……それに最悪ばかりが起きているわけでもない。私はいつも通り切り抜けられる。必要なのは、あなたがここにいてくれる事)
自分の荷物を手に提げて、接舷した船着き場にまっさきに上陸したのは、永江衣玖だった。彼女は雨と藻でぬるぬるの船着き場を、軽やかな舞いで駆け上がると、そのまま先に走り出してしまっていた。
「意外にせっかちねえあいつ!」
「待って。ここからどう行けばいいのよ」
「この船着き場のすぐそばに運動公園があって、野球場があるから、その近くに屋外ステージがある!」
「自分らのこの荷物、どうするんじゃよ?」
「どこかに貸しロッカーかなんかあるでしょ、きっと」
「楽しい旅だったわ!」
一同がああだこうだと言い始める中、カワウソ霊の手で離岸していく(人事不省の紫苑を残した)汽船に、輝夜がさわやかに挨拶した。全員ぐしょ濡れで、酒でごまかしてはいるが体は芯まで冷え切っていて、本当に行くべきはコンサート会場よりももっと別の場所だっただろうが、もはや段取りもなにも無いまま、上陸に成功した勢いだけが勝っていた。
「時間は?」
「――ちょうど一時間遅れ!」
「それくらいなら、いいや。まだ一時間くらいは楽しめるでしょ」
「それはそうと、当日のチケットをどうやって入手するのよ」
「ここに至るまで、ずっと目をそらし続けてきた懸案だな」
「最悪、そこらでうろついているダフ屋なんかを見つけて、締め上げて、ゆするか?」
「我々そんなにアウトローな事するのぉ?」
その時、雨の中の船着き場が、ぱあっと照らされて、彼女たちは光源に――下流から遡ってくる、無数の船に目を向けた。
大雨に濡れる船着き場を照らしたのは、爆裂の光だった。ここまで、船体や機関の寿命を無視して、熱狂と強迫の中で河を遡航してきた何百隻もの船たちは、いよいよ到着というところで、あるいはボイラーを破裂させ、あるいは焚きすぎた罐の火が船体にまで燃え移って我が身を焼き焦がしながら、この船着き場へとたどり着こうとしていた。
「よほどの――私たちが使っていた快速艇でもないかぎり、この時間内の遡航はできないと言ったよね」水蜜がぽつりと言った。「もちろん、無茶をすればやれない事もないのよ。いやしかし……嘘でしょ」
「狂ってるわ」
これは輝夜が言ったが、言葉の調子には、どこかその狂気への敬意すら感じられる。
「すっごい追っかけもあったもんよね」
呆然とする輝夜の袖を、妹紅が引いた。他の面々も、すでに逃げるように駆けだしている。ついで、燃え盛る船に乗ってやってきた、プリズムリバーウィズHの追っかけファンは、海からやってきた征服者のように、運河沿いの都市に上陸した。
(やるのか……)
(やるんだ……)
(やるの……?)
プリズムリバー三姉妹が、異口同音の感想を口には出さないが漏らす(表情に漏れている)のを見て、雷鼓はさすがに苦笑いした。
「私もなんというか、完全に中止の流れだったよね? と思ってるよ」
ただし、と話を切って、付け加えもする。
「演奏時間は短くさせられた。こちらとしてもそこに逆らうつもりはない。“なんかあった時”用の短縮版のセットリストは覚えてるでしょ?」
「ばっちり、頭に入ってる」
五分もしないうちに段取りは整えられていくが、その最中、楽屋の内線電話がけたたましく鳴り響いた。すかさず、最寄りにいた射命丸文が受話器を取った。
「はいこっち楽屋ですよー……はい、はい、はい。はぁ?」
この「はぁ?」の剣幕に、楽屋の視線が一斉に彼女へと注がれた。
「……ええ」と、一同の視線を見まわしながら文は言った。「……でも、本当ですか? その、チケットを持っていない暴徒が、ゲートを破壊して会場に侵入したって」
むろん、楽屋の一同に聞こえるように言ったのだった。
「……はい、不法侵入者の数が多すぎて、もはやチケットの確認も不可能なんですね……なので、今度こそ中止のアナウンスをすべきか、会場側と再協議が必要だと。そうですねえ」
文は、ちらりと雷鼓らの方を見た。手をひらひらさせて、身振りで伝える。
(行ってよし)
雷鼓は、ものすごい顔で微笑み返して、そのまま、内線の内容などは無視してステージへと向かう。三姉妹もそれに続いて出て行ったが、文に対してはニコニコと手を振ってくれた。
「――ああ、そうでしょうねえ。そうだと思いますよ」文は手を振り返す片手間に、ぼんやりと応対する。「楽団の方々ですか? ちょっといま、手が離せないところで」と、文はそのまま、三分ほどの時間をのらりくらりと稼いで、最後にぼそっと言葉を吐いて、叩きつけるように内線を切った。「悪いけど、もうショーは止められないのよ」
その後も演奏を阻止しようとする会場側の努力は何度か繰り返されて、ステージの設備のブレーカーが落とされるといった妨害行為にすら発展しかけたが、そうした行為は磨弓を仁王立ちで電気室の前に陣取らせるという、かなり荒っぽい対応策によって、事態の泥沼化がどうにか防がれた。
この時の演奏は、一般的な、ちゃんとした、良いコンサートではなかっただろう。コンサートの良し悪し、ことに悪い評価とは、たとえば、進行が予定通りにゆかない、アーティストが従来通りのパフォーマンスを発揮できない、予想外の事故が発生するといった事で下される(むろん、チケットが売れない、観客がいない、主催者が詐欺師といったように、それ以前の問題もあるにはあるが)。その点で言えば、この日のプリズムリバーウィズHの演奏は、実にまずいコンサートだった。
だが、そうした単純なクオリティの良し悪しだけではかれない領域が、ライブコンサートにはある。こうした悪い出来事の積み重ねが閾値に達し、それでいて熱狂だけは維持され続けている(ここが一番難しいところのはずなのだが、プリズムリバーウィズHは当然のようにその条件だけはクリアしている)と、俄然興味深い事態が起こるのだ。
主催者も、客も、バンドも、当然どこかの面では不快な経験が多かったに決まっているのに、やがては精神の高揚ばかりが記憶にこびりついて、あれはめちゃくちゃだったが、伝説的なコンサートでもあったと錯覚してしまっている。
また、演奏が終わった直後、堀川雷鼓が市の警察と司法組織に、任意同行を求められるという一幕もあった。
「別に、私たちはコンサートで、演奏してただけよ」雷鼓はその主張で押し通すしかなかった。「任意同行を求めるにも、要件は揃ってんの?」
面白いのは、楽団メンバーの方も別にこの横暴に憤るでもなく、むしろちょっと楽しむ風情すらあった事だ。
「ついに雷鼓さんにも逮捕歴が……」
というリリカの感慨深げな呟きが、端的に皆の心情をあらわしていた。
「いや、待って。たぶん逮捕までにはならないはずなのよ?」
おそらく、いやがらせに一晩ほど留置所に拘束される程度の事だろうとは、雷鼓にもわかっていた。……その一晩が問題なだけで。
「今日深夜から、明日までのざっくりした予定」
雷鼓が連行されていったあとで、ルナサがツアーの主導権を譲り受けて言った。
「予定通り、今から〇時には埴輪兵団が仕立ててくれた特別列車の寝台車で出発、明日朝九時までに次の目的地へ。目的地に着いたら、雷鼓さん抜きでも即刻サウンドチェックとリハ。開演は十五時」
手にしたスケジュール帳をぽんと閉じながら、ルナサはきっぱり言った。
「最悪雷鼓さん抜きでも今後のコンサートは続行する」
なので、特別仕立てのプルマンカーが発った時、メンバーの中には雷鼓だけがいない。
「いよいよ先が見えなくなってきた」
列車の寝台に寝転がり、動き始めた車窓の外を眺めながら、赤蛮奇は語りかけるように言った。
「なにもかもがむちゃくちゃだわ、このツアー……」
と、まだ寝入るつもりもなく、息苦しくもあった(なにせ首が九つもある)ので、通路側の遮光カーテンを開けていた赤蛮奇だが、窓の反射にも映るその通路を、我が家のような気楽さで全裸になった九十九姉妹が往復していく。
「なにもかもが……」
赤蛮奇はカーテンを閉じて、さっさと寝る事にした。
雷鼓が連行された留置所は、既に本来のキャパシティをとうに逸脱しているらしく、それでいて無秩序すぎる収容も考えものだと判断されたのか、同郷のものを同じ囲いにぶち込むという、なんとなくの規則が発生していた。なので、雷鼓が放り込まれた留置所の一房――本来は二人用らしく、寝台がふたつある他は洗面台と便所があるだけ――には、喜んでいいのか悪いのかわからないが、それなりに知った顔や、見た事のある顔がいる。
雲居一輪、永江衣玖、比那名居天子、藤原妹紅、蓬莱山輝夜、村紗水蜜、物部布都らだった。雷鼓はさりげなく衣玖の方を見たが、興味なさげにつんとそっぽを向かれた。
「……えーと、別に留置所の慰問とかじゃないからね?」
と、ひとまずかまして笑いをとった後で、ずぶ濡れの一座に加わった。ひとつのベッドを四人で分けて使うような有り様だったが、これでも他の房よりはましな人口密度だった。
「どうだった? 私らのコンサート」
「最高だったよ」
「ちょっとまあ、トラブルがあったけどね」
「というか、そのトラブルの当事者なんだがな、うちら」
一瞬、緊急のファンミーティングの様相を呈する留置所だが、すぐに明日も早いからという話になって、ベッドを分け合って寝るような格好になった。
「明日早いんだよ」
雷鼓は隣り合わせになった衣玖に言った。
「……まず、出られるかどうかわかんないんだけどね」
しかし、翌朝一の釈放手続きはなげやりといえるほどにすんなり進んで、しかも雷鼓以外の人々もついでに解放された。当局も真面目に対応するのにうんざりしていたのだろう。
「まあなんせ、私たち演奏旅行やってるだけだからね」
結局、そこのところで雷鼓を拘束する理由は、なにひとつ持っていないのだ。
「うちらも別に巻き込まれただけで、自分らから会場のフェンスやゲートを破壊したわけではないしな……」
と布都がしみじみ言ったように、彼女たちの方も、どちらかといえば騒ぎに巻き込まれた方であって、留置所行きも拘束というよりは保護のようなものだった。
「……みんなこの後、どうするの?」
「面白いものも見られたし、観光しながら、帰るわ」
輝夜はそっけなっく言うと、妹紅の方をまじまじと見つめた。彼女たちはあいかわらずずぶ濡れのままで歯を鳴らして凍えており、さりげなく身を寄せ合って体をあたためあっているような感じだ。
「……ひとまず、今日は泊まれるところを探しましょうかね。……でも、このありさまの妹紅と一緒にチェックインしたら、“心中し損ねたカップルの宿泊は御遠慮しております”とか言われそう」
「これでカップルはどう見ても無理があるでしょうよ……」
ふたりはマイペースに雷鼓たちから離れていき、それから一輪、布都、水蜜も、
「私らも、いい土産話ができたよ」
と、あっさり離れていった。
後に残ったのは、衣玖、天子、雷鼓の三人。
「……さーて、これからどう楽団に追いつこうかね」
雷鼓は首をひねりながら、ぼそぼそと呟いた。もとより、旅費が潤沢にあるわけではない。
「まず稼ぎの方法を探すところからよ」
と歩きはじめると、衣玖と天子は当然のようにつき従ってきた。
留置所からさほど離れていないライブ会場の横を通りがかり、その十代の荒野のような荒れ果てようを三人は再確認した。
「はぁ、あらためてひっでえ事になっているわね」
と、天子がほとんど原形をとどめていないゲートをくぐりながら言った。
「……それにしても、こんな事を繰り返してペイできるんですか? このツアー」
「どうも無理らしい」
衣玖の質問に、雷鼓は素直に答えた。
「やればやるほどむちゃくちゃになっていく。そういう性分なのかしらね」
靴のつま先で、泥の中にまみれた、ぐちゃぐちゃなものたちを、ちょっとだけ掘り起こす。
「私は、ツアーは続けなければならないと思っていた。私たちがこの世界になにをもたらすことができるか、ちょっと気になってもいた。だがそれがもたらしたものは、これよ」
と、押し倒されるようにねじ曲がったフェンスに、蹴りを食らわせてやった。
「この、ゴミ箱みたいな、世界で!」
自分たちはなにをしているのだろうか。
衣玖はひややかに雷鼓の癇癪を眺めた。
「……それより、どうするんです」と、突き放したようにも言った。こんな癇癪は一過性のもので、滝のような彼女は、いつもみたいに切り抜ける方法を見つけるに決まっているのだから。「ふてくされるわけにもいかないでしょう。自分が世界に何をもたらす事ができるのか、わからなくなったからといって、世界に停止を要求するのですか?」
「んなわけないでしょ」
ふんと鼻を鳴らしながら、雷鼓はぼそりと尋ねる。
「……ところでその御高説、なにかの受け売り?」
「たぶん、なにかで読んだんでしょうね」衣玖は認めた。「つまるところ、この世にはパロディと受け売りしかありませんから」
「たしかに。きっと、そうなんだろうな」
雷鼓は頷いた。
「ショーは続行よ」
廃墟となったコンサート会場には、ごみ漁りの集団が大量に発生していた。そうした群れは、畜生界の社会構造からも更にドロップアウトした連中らしく、暴力組織に与する事も、かといって何かに隷属して労働するのも馬鹿馬鹿しく、嘲笑っている。こうした廃墟に残されたごみ同然のがらくたを拾い、それらを加工したり資源を抽出したりして、時には組織犯罪にも手を染めながら――暴力組織に与する事は嫌厭しているが、それとこれとは別の話のようだ――生計を立てているような手合いだ。
雷鼓がフェンスの残骸を足蹴にする音を聞きつけて、そういう群れが集まりつつあった。
「なにさ」
と、そいつらに向かって言ったが、どうやら、自分があの堀川雷鼓――プリズムリバーウィズHのコンサートでドラムをぶっ叩いていた、あの堀川雷鼓であると認知されているらしい事も知れた。
「よく知ってるね。私みたいな、取るに足らないドラマーの事なんか」
どうやら、こうした逸脱した――そしてその場しのぎの――生活を送っている連中は、ある種の自由人的な芸術家コミュニティの形成も促進しているらしい。今回のコンサートがタダで聴けた事に(それが雷鼓たちに大損害をもたらした事は無視しつつ)彼らは感謝していた。
「そりゃ嬉しいね」雷鼓は苦々しげに言いながら、ふと、尋ねた。「そりゃいいんだけど、私たち今日の(手首のクロノグラフに目をやる)……ぎりぎりでも午後三時の開演までには、次の会場に入ってないといけない。なんせ、昨晩列車に乗って出発しているところが、楽団に置いていかれてね。一晩留置所生活だったんだ」
この告白はちょっとウケた。よくよく考えなおしてみると、当人にとってもどうしてそうなったとぼやくしかない、むちゃくちゃな話だったからだ(楽団のみんなも、面白がっていないでせめてなにがしかの路銀くらいは置いていって欲しかった)。
重要なのは、このむちゃくちゃさは彼らにとっても面白かったらしい事だ。
「そのうえ財布もからっけつ――なにか、別の街に行けるいい方法がないかしら、と思っているんだけど……」
と正直に話してみると、彼らも真面目に考えてくれる。他に散らばっていた仲間たちなども集めて、額を寄せ合ってくれた。
「……ああ、でも、できるだけ、売春とかはしない方向性でね」
そんなあけすけな冗談を聞いて、衣玖は思わず雷鼓の頭をはたいたが、減らず口は止まらなかった。
「……いや、なによりの問題として、あれは時間がかかりすぎると思う――しかも、仮に時間がさほどかからないとしたら、誰にとっても余計にみじめよ」
このジョークはよりいっそうウケたが、衣玖は再度雷鼓をどつき回した。それが更に面白かったらしい。
やがて持ちかけられた稼ぎの方法は、乗用車の陸送だった。
「移動するのに金をかけたくないのなら、移動そのもので稼いでしまえばいい、というわけか」
雷鼓はそう言いながら、輸送を依頼された白のポニーカーのドアを開けて、後部座席に自分の荷を放り込んだ。
「これなら今日の昼すぎまでに目的地に到着しつつ、燃料代を含んだ費用もほとんど払わなくて済む」
「良かったですね。そんな、狙いすましたようなお仕事が見つかって」
衣玖が自分の旅行鞄を更に後部座席に放り込んだ。
「……もしかすると、なんらかの犯罪の片棒を担がされている可能性もあるな」
運転席に乗り込んだ雷鼓は、助手席の衣玖に道路地図を手渡しながら言った。
「盗難車のロンダリングかな、もしかすると、車のシャシに密輸用の麻薬なんかが隠されている可能性もあるわね」
「どのみち、確かめられる時間は残されていませんよね。……最悪、なんかあったら総領娘様に逮捕されてもらいましょうか」
「えぇ、私ぃ?」
天子は、ツードアの車体の、狭苦しい後部座席に身を置いてふんぞり返っていた。
「ともかく、この移動方法自体は悪いアイデアではないのよ。なんせ、この街から次の街まで数百キロ、ほとんど砂漠みたいな荒野とハイウェイ、鉄道駅周りの小さな集落しか無いような場所よ。だったら、こいつをかっ飛ばした方がまだ間に合う気がする」
「なるほど」
「ところであんた、こういうものを運転できるの」これは天子の質問だった。
「まかせな」
雷鼓はイグニッションコイルをひねりあげ、この古式ゆかしいポニーカーの、V型八気筒の排気音をどろどろと鳴らしながら言った。
「道具の声を丁寧に聞いてやれば、なんとかなるでしょ」
天子はひゅっと息を吐いた。
だが、めちゃくちゃな論ではあるのだが、雷鼓に限ってはそんなものなのだろうとも思われる。
奇妙な、六時間ほどの車旅だった。
単調な光景、言葉少ない車内、二度ほど、立ち寄ったガソリンスタンドで給油する以外、なんの起伏もない車旅だった。はしゃぎ屋の天子すら、初めての自動車という体験の興奮をものの二時間で使い果たしてしまい、そこからは初めて体験する車酔いに、後部座席でぐだぐだと転げまわるばかりの時間だった。
こうした単調で、退屈極まる旅から雷鼓を救ったのは、自動車のフロントパネルにマウントされていたエイトトラックの再生装置と、ダッシュボードに入っていた数本のテープ。なにより助手席の永江衣玖だった。
「売春とか、今後冗談でも言わないでくださいね」と、しばらくぷりぷりしていた――竜宮の使いや下級天女の間に横行している羽衣婚活は、ただ人間相手の売春行為の言い換えにすぎず、彼女はそれを嫌悪していた――ものの、結局はすっきりと機嫌を直してしまい、運転手の邪魔にならない程度に、適度に話し相手になってやった。
「……というか、どうやってここまで?」
雷鼓が多少の余裕をもって相手に尋ねた。一時間ほど運転して、都市の郊外に至る頃には、運転のこつを把握してきたらしい。
衣玖は、これまでの自分がここに至るまでの、だいたいの経緯を話した。プリズムリバーウィズHの追っかけツアーが計画されていたので、それについていく事にした(九十九姉妹のおせっかいについては話さなかった)、そうしているうちに、ツアーはあの騒ぎでコンサートがぽしゃって返金騒ぎになった(雷鼓は頭を掻いた)、そこで出会った人々と河を遡って次の街に向かった(「……なんで河を?」と雷鼓は尋ねたのだが、なんでなのだろうな、と衣玖は思った。ただの蓬莱山輝夜のわがままである)、それからのちょっとした冒険、その他。
「お互い色々あったみたいだね」
雷鼓も、自分の身にふりかかった事を、ぽつりぽつりと説明したが、運転に意識が向いているのもあって、衣玖ほどには上手ではなかった。
給油ついでにハイウェイ脇のガソリンスタンドで買ったコーラは、畜生界の物流を支える長距離運転手向けに売られていたもののようで、集中力を増す成分(と穏当な表現にしておくが、不穏当な薬効成分の可能性ももちろんある)が添加されていたらしく、一口飲んだ途端にものすごい動悸と、遠い場所に薄く靄がかかったような覚醒感があった。
それからはほとんど無言の数時間が過ぎた。うっかりなにか口を開いてしまえば、舌が止まらないような気もしたから。
目が冴えてしまい、ちょっとした日中の光も眩しくてたまらなくなった衣玖は、ダッシュボードの中にサングラスを見つけ、雷鼓に渡して、自分もかけた。
ハイウェイはおそろしくだらだらと長い一本道で、荒野は広大だった。畜生界にはごちゃごちゃとした都市だけではなく、こういう世界もあるのだなという事を、彼女たちは知った。
なにより、こうしただだっ広さは、小さい事でくさくさしていてもどうにもなるまいという、なかば開き直りに近い結論を雷鼓にもたらしたのだった。
意外に余裕をもった到着になった――車の陸送を先に完了させる事ができるくらい。
「ふっふっふ、バンドを失業しても、運び屋で食っていけるって太鼓判もらえたわ」
「しかし失業するつもりは無いでしょう」
「傷ひとつつけずに持って来られたのが高評価ポイントらしい」
雷鼓と衣玖は、どちらもハイな感じが未だ抜けきっておらず、話も微妙に噛み合わない。
「だが、それもこれも、あんな車酔いでシートに吐くのだけは絶対に我慢してくれた天人様のおかげだ」
「ああみえて、気合が入ってる方ではあるんですよ」
と衣玖が言っていると、天子がトイレからふらふらと戻ってきた。
「もはや出すもんもないわ」
「とにかく、後はコンサートに間に合うだけね」
今回のコンサートは、アリーナを会場にして行われる事になっていた。プリズムリバーウィズHが各所で暴動を引き起こしながらコンサートを続けてきたという“伝説”は、既にこの街にも伝わるものとなっていたので、多くの抗議団体や野次馬が押しかけていたが、雷鼓たちはそれをさりげなくかわして館内に入った。
「しかし……一仕事終えた気分になっていたけど、またぞろむちゃくちゃが始まるわけよね……」
雷鼓は頭を掻く。
「ちぇっ、あのやたらとキマるコーラ、どこかに売ってないかしら。今こそああいうものが必要なんじゃないのかって思っているんだけど……うん? どうしたの?」
「なんだか雰囲気が変です」
アリーナの構内を歩きながらぼやいていると、衣玖が袖を引いた。
「なんというか……誰もいない?」
プリズムリバー楽団はまだ到着していなかった。
半日の遅れが生じていた。列車は荒野のまっただなかにある小さな駅の待避線に停車していて、まだ砂嵐とまでは言いがたい砂塵の中に、うずくまるようにあった。
もっとも、天候が停車の理由ではない。
「多々良小傘の失踪は」
射命丸文は、食堂車に乗客――楽団の移動専用に仕立てられた特別列車なので、楽団のメンバーかサポートスタッフの一同のほかにはいない――を集めて言った。
「明け方に起きたと考えていいと思います。調査の結果、彼女が朝食に顔を出さなかった事で失踪が発覚しましたから」
(へぼ探偵が)と赤蛮奇は内心罵ったが、その感想が、この場の全員に共有されてはいない事を固く信じた。(でも、そんなあやしい推論に頼らなくても、私になにかしら質問すれば、全部わかるのに。私の頭には、睡眠の浅いやつがいくつかある。だから近くの寝台で寝ていた小傘がごそごそすれば、外の様子はわからなくても目が覚めちゃう事はある)
また、そんな朝から、小傘がなにをやらかしに行ったのかについても、赤蛮奇はだいたい予想できた――予想できたが、友人としては口に出す事もはばかられる。それは小傘のしょうがない業なのだ。
(誰かをびっくりさせたかったのだろう、と思う)
天狗たちが見当違いの捜索と推理を巡らせる中で、赤蛮奇はこっそりと頭を飛ばし、停車している客車の天面を、静かに精査させていた。この天面には、どう清掃したところで一日でこびりついてしまう荒野の砂塵がうっすらと積もっていたが、ちょうど今、彼女たちが集まっているこの食堂車の上に足を踏み外したらしい跡を見つけた時、赤蛮奇の九つの頭たちは文字通り頭を抱えたくなった。
(バカかあいつは?)
どうしてそんなにもアクロバティックな驚かしを敢行しようとしたのか、それはもはや本人をとっちめてみないとわからない事なので、赤蛮奇は小傘を見つけてとっちめようと思った。
「まあ、そうですね。……考えられる事とすれば。夜風に当たりたくて、列車の後部デッキに出た可能性があります」文はまだ自分の推理を開陳している。「それであの人、いつも傘を持っていたでしょ。その時も持参していたでしょう――荷物の中にも残っておりませんし、なによりからかさお化けだから、その点は間違いないのです。それで、なにかの拍子、あのおんぼろ傘が風にあおられて、開いてしまった。それでそのまま――」
(その推理は堅実だと思うね)と赤蛮奇も認める。もっとも、それが起きたのは後部デッキではなく、食堂車の上でだが。
いずれにせよ、赤蛮奇の脳裏に浮かんだのは、本日未明、特急列車の風にあおられて車外へと吹っ飛んでいく、多々良小傘のすっとんきょうな姿だ。
(あんた……)
と赤蛮奇は思った。
(誰も見てないところで、そんなおもろい事すな……!)
思わず笑いをこらえていると、客車内のそこここから、同様の笑いが漏れてきた。こんなもの、どういう経緯にせよ、面白さにしかならない。小傘は誰からも好かれていた。
「鉄道路線の警備は、埴輪兵団が担当しています」一人だけむっつりと、まじめくさって磨弓が言った。「我々は万全の体制で彼女を探すでしょう」
「……あー、じゃあ」と、なんとか笑いを押し殺しながら声を放ったのは、ルナサ・プリズムリバーだった。「とりあえず、そういう話なら、私たちは先に進んでいいわけかしら? このままでも予定に間に合うかはあやしいけれど、とにかく先に進まなきゃ」
じゃあ、そういう事で――と話が決まりかけた時、「待って」と手を挙げた者がいた。
他ならぬ赤蛮奇だった。
「私、残るわ」と彼女は言った後で、つけくわえる。「……より正確には、私の頭の一つが」
磨弓は、赤蛮奇の頭をひとつ抱えて、先ほどまで列車が停まっていた、小さな駅のホームに取り残されている。
「……私があなたの護衛のために残される事は、正直多少思うところがあります」
「ごめんて」
珍妙なコンビは、そのまましばらく、駅で待っていた。鉄道警備にあたる埴輪兵団の一隊が、埴輪の騎馬を磨弓のために供与しにやってきたのだった。
「ご苦労よ」磨弓は赤蛮奇の生首を抱えながら、埴輪の騎馬にひょいと飛び乗り、馬を巡らせながら言った。「……多々良小傘の捜索を続けなさい。どんなわずかな痕跡でも、見つけ次第、兵団のデータリンクを利用して報告する事」
埴輪兵団が、独自の情報運用を駆使したソフトパワーによって、この畜生界に軍事革命をもたらした事は、よく知られている。
「……簡単に言うけどさ」
磨弓の胸元でたすき掛けにした幅広の帯布に、くるまれるように収まっている赤蛮奇の首が尋ねた。
「そうして送られてくる膨大な情報を、どうやって処理するのよ……たとえば私だって、九つの頭を好きにさせたら、相応の混乱が起きるわ」
「兵隊の仕事があるなら、首脳にも仕事がある、というだけの話です」
磨弓は無機質に、しかしもってまわった言い回しで返答する。
そうした問題は、埴安神袿姫の権能がすべて解決していた。袿姫ならできるに決まっている、と磨弓は思った。あの方は神様なのだから。
「……たしかに膨大な情報を処理するにあたって苦労もありましょうが、必要な苦労ではあります。私たちが酷使されている手足だとするなら、あの方だって酷使されている脳でしかありません。誰しも、なにかしらの仕事に従事して、酷使されているだけという話にすぎない」
「たぶん、それが、畜生界的な答え、なんだろうな」
赤蛮奇はふんとため息をついた。
しばらく、沈黙のまま馬を歩ませる磨弓だった。
「……幻想郷は、そういう、組織がどうのこうのといった仕事のあり方とは、どうも縁がないのよ」赤蛮奇が続けた。「いや……天狗連中なんかはそんな調子かもな、あいつらは変わっているから。よく知らんけどね。……ただ、私らみたいなその日暮らしで里をぶらついている妖怪どもは、経済的事情からせこい生業を持たざるを得ないんだけれども、それでいてお仕事自体はけっこう嫌いじゃないのよ」
と言いながら、赤蛮奇は思いつくまま話を繋げた。
「もともと、いいかげんなゆるい世界なのもいいんだろう。多少のサボりはあっても、イヤイヤで仕事をしている奴は、一人も思い浮かばないな」
「……どういう話です?」
磨弓の口が尋ねた。
「こっちはそうしたお仕事がイヤになっちゃったクチでさ」赤蛮奇は、砂塵から我が身(頭)を守ろうとするように、少し身(頭)じろぎして言った。「まあ、別に好きでも嫌いでもないバイトなんかやって、その日暮らししていたツケがやってきたんだろうな。ある日、なんかもうやる気がなくなっちゃった。それでまあ、なんやかんやあって、他にもいくつかある、別の頭に主導権を譲る事になったわけ」
「便利な体質ですね」
「そうとばかりも言えないが、とにかくその頭はやりたい事があったらしい。それが今回のツアーのお仕事にもなっている、ヘアスタイリストの仕事だった。で、そいつは、今だって実に要領よく、自分のお仕事を楽しんでる。イヤイヤ仕事をしている奴なんて一人もいない。幻想郷っていうのは、基本的にそういう場所なんだよな」
赤蛮奇は、そうした変化によって自分を見舞った騒動――その頭が勝手を行い始めて、首から下の肉体にまでタトゥーだのピアスだの不可逆的な干渉を行いかけたので、他の頭たちは大激論の末にそれを阻止する羽目になった――までは話さない。文字通り、身内の恥だったからだ。
ただ、その騒動の中で彼女を援けてくれたのが多々良小傘であった事を、しみじみ考えさせられた。
(あいつ、だいぶむちゃくちゃな生き方してるよな)と、ふと思う。(きっと、むちゃくちゃをやるような性分に生きているんだな。私なんか、そりゃそれぞれの頭の方針の違いとかでケンカを起こしたりはするけれど、結局はそこまで道を外すような事は、しないと思うんだ。それがあいつときたら……)
物思いにふけっている赤蛮奇を胸元に抱えながら、杖刀偶磨弓は内心で戸惑っていた。
――それはそうと。
と、磨弓のヘッドセット越しに埴安神袿姫が言う。その言葉が、さっきから磨弓の喉を通して出力されていたのだ。
「私どもはとりあえず、鉄道沿線の数百メートル以内といった捜索の方法を取っていますが、あなたのお友達はその圏内では見つかっておりません」
「ふーむ、ものすごく吹っ飛ばされたもんだね」
「そうしたのんきな状況の可能性ももちろんありますし、捜索範囲は広げようと思いますが、別の考えが私には思い浮かびますね」
磨弓の声を借りた袿姫が言った。
「この地域には強盗団が潜伏しているんですよ。数日前に街中で大きい襲撃事件を起こしていて、ね」
「いい天気だ」
驪駒早鬼は、荒野の中のさびれた農場の囲い場から、空に舞い上がる砂塵を見上げながら、手に下げたウイスキーの瓶をあけて、そのまま口に運ぶ。
砂嵐が来ようとしていた。
「本当にいい天気」
一口飲んだ後で、瓶を振り、酒をぴっぴと飛ばして、いくらか大地への捧げものに飲ませた。それからもう一度酒を自分の口に運ぶと、酒が撒かれた地面を考え深げにしばらく眺めた後で、つと踵を返す。
「出発よ! 今から、今から!」
かつて人が住んでいた頃の姿からはひからびてひと回り縮んだような、そんな農家の建物へと駆け出しながら、早鬼は部下のオオカミ霊たちに号令をかけた。
「あのつむじ風の巻き上がりは、けっこうな砂嵐になるわ! 境界の警備隊をかわしながら越境するには、ちょうどいい日頃よ!」
そう言いながらも、屋内に飛び込んで同様の事を一様に叫んだあとで、ふと黙り込み、階段の下から二階の方を見上げた。
「……お前らは準備してな」早鬼は部下たちに言った。「私は、あの拾ったおんぼろ傘のお嬢さんの始末をつけてくる」
階段をぎしぎしと鳴らして一段一段上がりながら、早鬼は思った。
(さて、どうしたものかしら)
そもそも、多々良小傘を早鬼たちが拾ったのは、一個の出来事としては単なる偶然だが、意外に因果関係が巡っている話でもあった。埴輪兵団は、プリズムリバー楽団を護送するにあたって、鉄道警備を強化していたが、それは潜伏中の早鬼の警戒心を刺激した。勁牙組の組長を、未明の――若干の危険さえある――偵察行為に走らせたのはそういう経緯があったわけだが、その因果が、なぜか列車から「おわーっ」と叫びながら吹き飛ばされて地に落ちた多々良小傘を拾わせたのだった。
「――嬢ちゃん?」
「うぅ……いやだぁ……」
小傘はすでに人事不省から回復していて、部屋の隅でうめいていた。
「きっと私はこのまま辱めを受けて精神的に抵抗できなくなった上で口に出すのもはばかられるような調教をされたあげく肉体に不可逆的なタグ付けをされて堕落と放蕩に耽る闇の権力者や暗黒大富豪なんかの奴隷として売られて一生監禁された状態で少女としての尊厳を失ったおもちゃにされるんだぁ……」
「見た目に似合わずやたらとハードコアな世界観をお持ちのようね……」
早鬼は呆れながら言った。
「……残念だが、ふたつにひとつを選んでもらわなきゃいけない。私たちについてくるか、ここに居残るか」
「残る事を選んでも、飢えと渇きでひからびて死ぬんだあ……」
「……だがここの井戸はまだ枯れていないし、いくらか食糧は置いていってやれるわ」
早鬼はやさしく、諭すように言って、それから鉄道の沿線や駅のある方角も教えた。
「助けは来るだろうし、私らについていきたくないなら、それでもいいや。こっちも忙しいからな。ただ、ついてきたら、人の多い場所で解放してやる。どちらか選びな」
「…………」
小傘は沈黙している。
(助けは来るだろう)
早鬼はぼんやり考えた。埴輪兵団は、早鬼と勁牙組がこの地域に潜伏している事を、その素晴らしい情報網でおそらく察知しているだろう。それでいて目こぼしをして、見逃してくれている。理由は単純だった。
彼女たちは対立した勢力図を有しているが、一致している方向性もある。かつての騒動で、畜生界における幻想郷の政治介入を積極的に肯定した経験によって、いわば親幻想郷(もっとも、こうした幻想郷への接近には地上侵攻というよからぬ目論見も含まれていて、一概に親幻想郷と表現するのもやや誤解を招くが)といえた。この立場を明確にしている畜生界勢力に、鬼傑組・勁牙組・剛欲同盟といった名だたる巨大畜生組織、そして埴安神袿姫率いる埴輪兵団があるのはよく知られた話だが、当時としてもこの姿勢は相当にラディカルなものであって、これ自体はどうやら畜生界の政局の主流ではなかったのではないかと思しい(これら四勢力がこの時代の畜生界を代表しているように感じるのは、幻想郷側の記録に彼らの名前が残ったからだ。畜生界は、自分たちの歴史を残す事をほとんどしなかった。記録はすべて幻想郷視点からのものとなり、必然として、幻想郷との交流がしげくあった勢力の名前ばかりが残る事になる)。
もちろん、彼女たちが畜生界内でも図抜けて強大な諸勢力であった事は間違いなく、またその勢力間に対立や抗争があった事も確かだ。しかし、どこかの接点では彼女たちは同じ秩序の中に身を寄せ合っていて、互いの便宜をはかる協力関係も有していた。
(色々あるけど、ともかく幻想郷からやってきた遭難者を無碍に扱う理由はねえのよ)
と早鬼は思った。多々良小傘のみょうちきりんな幻想郷的ファッションだけでもわかりきっていた話だが、あの特別列車が、幻想郷から演奏旅行にやってきた楽団を運ぶものであった事までは調べをつけていた。
(ただ、私らが埴輪兵団に見つかると、それはそれで話がややこしくなるのよね)
彼女たちは犯罪行為をしていて、良い機会をみて越境しようとしている最中だった。そこを埴輪兵団に見つかってしまっても、埴安神袿姫は目こぼししてくれるだろうが、それによって貸しをひとつ作る事になる。
(あぁ、めんどくさ)
率直な感想だったが、早鬼はとりあえず小傘に意思決定を委ねるほかない。
「……たぶん、助けはくるぜ。忘れ傘さん」早鬼は言った。「あの兵団は優秀だからな。いまいましい事に」
それとて微妙な予測ではあった。もちろん彼らだって非情なわけはないので捜索の手は割くのだろうが、物事の優先順位の問題で、後回しにされる事はあり得る。
しかし小傘は即答した。
「待つわ」彼女は身を縮こませながらも、きっぱりと言った。「私、待つのは慣れてるから」
「じゃあお別れだな」
早鬼はおそろしくさっぱりと、小傘を置いていった。小傘は農家の二階から、荒野に巻き上がる砂塵が徐々に激しくなっていくのを、勁牙組の一隊がその中におぼろに消えていくのを、ぼんやり見つめていた。
「……戸締り、しなくっちゃ」
小傘は二階の窓をぱたんと締めて、それから一階に駆け下りた。誰もいないらしい。こういう犯罪集団の拠点には家主が平時から住んでいて、家屋を管理していそうなものだが、それすらいない。本当に一時の宿だったのだろう。
屋内からはあらかたのものが引き払われていたが、テーブルの上に、ひどく堅いハードタックの包み一抱え、それに輪をかけてかちかちの干し肉が一束、赤い蝋で表面が保存されているチーズが何切れか、それにマーマレードの瓶だけが、目立つ場所に残されている。ストーブ用の薪も、いくつか積まれていた。
(取り残された割には、ずいぶんとまあ手厚いわね)
と小傘は呆れたが、水は外の井戸を使わなければならないようだ。かつては井戸の水をくみ上げるポンプが働いていたらしく、屋内にも水道を引いていた形跡があったが、その蛇口は渇ききっていた。
家の扉を開けて、屋外で数分間の作業。
戻ってきた時には砂まみれで、汲みだした水にも同様のものが浮いていた。漉し取るような道具もないので、手ですくってなるべく取り除いてやかんにいくらか注ぎ込み、ストーブにかける。ストーブに火を入れるのは野良鍛冶をしているだけあって、さすがにお手の物だった。
(さて)
人心地ついたところで、小傘はつらつら考える時間を持ってしまった。
(本当に誰か、拾いに来てくれるのかしら)
と小傘は疑念を持つ。
(まあ、砂嵐が止めば、外に出て、近くの駅とか見つける事もできるのかな……のんきすぎる気もするけど、これが一番よね)
のんきすぎるとは彼女も自覚していたが、かといって焦燥が、生活そのもののテンポに勝てるわけではない事も知っている。やかんの湯が沸くのすら、じっくりと時間がかかるのだ。
やがて頃合いを見て、小傘はストーブのダンパーを操作して、煙突の蓋を閉じた。
「……煙が止まりました。煙突を閉めましたね」
「いやもうほんっと、あんたよくこんな砂嵐で目を開けていられるね……」
赤蛮奇はぶつくさと言いながら顔を伏せて、それでも、ともすれば目鼻口耳に吹き込んでくる砂塵に辟易していた。
「泣きそうよ」
「こういう場合、泣くのはとてもいい事です。眼球が塵で傷つくのを防げますから」
磨弓はまじめくさって言った。
「それにしても、煙が上がっていたのが不思議ですね。見張りや警戒の様子がない。勁牙組はもうあそこにはいない気がする」
「けっこうな事じゃないの。……しかし奴ら、こんな先もわからん状態で、よく外出するよね」
「動物霊は、あまり、こうした砂嵐を気にせず行動できますから」
磨弓は乗騎を並足にして、荒野にぽつんとある農家に近づいていく。
「……畜生界でも有名な大組織の割には、せこいアジトね」
「驪駒早鬼は畜生界各地に無数の支隊を置いていて、それによって官憲の捜査を攪乱しているんです」
と磨弓が――正確には、磨弓の声を借りた袿姫が――言った。
「支隊と言いましたが、正確にはそのどれもが本隊になりえるという性質も有しています。……驪駒早鬼という、行動力の塊のような頭がそこにいるならね。もちろん、彼女たちは、我々埴輪兵団の戦術データリンクのような有機的な連携を取る事はできない、きわめて単純な組織ではあります。でも驪駒の行動は、時として私たちの情報網すら出し抜く事もある。ただの強盗団だと侮らない方がいい」
(めっちゃ早口で言うじゃん)と赤蛮奇は内心で思いながら、ふと言った。
「小傘は本当にあそこにいると思う?」
「驪駒早鬼はあらあらとした方ですが、幻想郷の者とみれば、まず保護するでしょう」
その点は、袿姫も早鬼に信頼を置いている様子だったが、赤蛮奇は「わからん話ねえ」と、ありもしない肩から下を仮定して、首をひねった。
崩れかけた垣を、埴輪の騎馬はひょいと飛び越えて、農場の敷地内に入る。
「……ともかく、この建物で砂嵐をやりすごす必要はありそうですね」
これは磨弓自身の声だった。
「わかってくれてうれしいよ」と言った赤蛮奇の生首は、ついに鼻をぐずぐずいわせ始めて、大きなくしゃみをした。
このくしゃみが、屋内の小傘にも伝わるほどの、大きなものだった。彼女はぎくりと身をすくめて、それから、砂嵐に備えて閉じていた窓の、鎧戸の部分からちらりと外を窺った。
激しくなりつつある砂嵐でも、確かな足取りでその騎兵が近づいてきているのがわかる――むろんこれが誰あろう杖刀偶磨弓の、あのおなじみの特徴的なシルエットをなしていた。
(思ったよりもあっさり救助がきたわねえ)
小傘は、家のどこかに隠れて救助に来た人たちをびっくりさせようという目論見も忘れて――別に忘れてよかったが――家の扉を開けて、来訪者を差し招いた。
「こっち、こっち……」
すかさず磨弓は馬から降りて、それを引きながら駆けてきて、それから、胸元に抱えていた、なにか丸いものを渡す。
赤蛮奇の生首だった。
「……なにしにきたの?」
「お前を助けにきたんじゃい! このバカ!」
「すぐに戻りますが、私以外の相手には扉を開けないように」
磨弓が家には入ろうとせず、まず埴輪の騎馬を農場の納屋の方に引いていきながら、家の周辺の警戒も怠らず、一通りぐるりと巡るつもりのようだ。それを確認した後で、赤蛮奇はちょっと声を低くして尋ねた。
「……ところで、あんた何をやらかそうとして今回のような仕儀に相成ったのよ?」
「うん。朝食の時間に、食堂車の天井から窓にぶらさがって、おどろけーって……」
「それ私以外の奴に言わない方がいいよ」
プリズムリバー楽団を乗せた特別列車が、本日のコンサートを行う現地へと、滑るように到着したのは十六時――本来の開演時間から一時間遅れての事だった。
「……でも、今回の公演中止の直接的な理由は、そこではないわ」
そう雷鼓が言った場所は、本日のコンサート会場であるアリーナの楽屋ではない。彼女は駅のホームに立って特別列車を待ち、その到着後に降車しようとする楽団メンバーやスタッフを押し留めて、車庫へと回送される列車の食堂車の中で言い放ったのだ。
「この都市の議会は、プリズムリバーウィズHを市の公共施設から出禁にする事を決定しました」
その意味が一同に伝わるのを、雷鼓はじっと待った。
「つまり……それは?」
「予想される騒ぎを未然に防ぐという名目らしいわ。向こうとしてもぎりぎりの滑り込みだったらしくって――午前中に緊急議会の招集、正午に議決、三十分かけて決議の案文の作成、その後の交付まで、おっそろしくスムーズにやられたらしい」
「……ま、それだけの事をされてもしょうがない集団ではあります」
あろうことか、射命丸文が言った。
「私たちが、これまでのコンサート会場でもたらしたものを考えるとね」
プリズムリバー三姉妹が、それに応えるようにそれぞれ言った。
「熱狂」
「狂騒」
「騒音」
「どうにかできないかしら?」
姫海棠はたては言った。
「それこそ、あの神様(埴安神袿姫)の権力なんかで、どうにか――」
「畜生界の各都市は、それぞれの自治が少なくとも表面上は認められている」雷鼓は遮るように否定した。「彼女が率いている兵団は強力な軍事組織だが、あの神様とやらの直接的な勢力範囲は、あくまであのメトロポリス近郊にすぎない。軍団が出張るような話でもない。別の都市の決議に反対できるほどのものではない」
「じゃあ、ショーは終わりってわけ?」
「それはそれでなんだか気に食わないわ」
「でも、どうするの?」
バンドメンバーたちのそうした意見に対して、雷鼓は少し皮肉っぽく笑いながら応じた。
「じゃあ、やる気はあるのね?」
雷鼓は少し考えながら言った。三姉妹が頷くので、更に念を押す。
「――どんな場所であろうと?」
「……はっ、私たちは昔っから、場所を選ばなかったわ」
ルナサが鼻で笑って言った。
「そう。求められがまま、どこでもドサ回りして演奏していた」
とメルラン。
「今更そんな事を聞かれても、基本に立ち返る以上の事ではないでしょうよ」
リリカがニンマリと笑って、雷鼓に微笑みかけた。
「……で、どこでやるの?」
雷鼓は少し言葉を選ぶ様子を見せたが、結局率直な表現をするほかない。
「……剛欲同盟がケツ持ちしてる政治集会」
食堂車の中の面々は一様に(マジかよ)という顔をした。
夜遅く、列車が格納された車庫に、来訪者があった。
「饕餮尤魔だ」
雷鼓たちは食堂車に来客を通した。
「このたびのコンサートの中止、気の毒だったね。私も議会に撤回を求めて、色々努力はしたんだけど」
尤魔のような人物が言う色々の努力とは、彼女が有する武力や暴力を背景にした恫喝や威圧でしかなかっただろうが、雷鼓はその後ろ暗さを無視して話を進めた。
「……たとえそれがかなわなかったとしても、今までの援助が無になる事はありません」雷鼓はにこりともせず言った。「もともと、この演奏旅行自体が、あなたたちのように幻想郷に理解を示してくれている、勢力や派閥の助力なしには、成しえなかった事ですからね」
「だが、様々な想定外の事態があったようね」
「ええ。私たちは、この畜生界という一世界に、思った以上に熱狂的に迎え入れられた。熱狂的すぎた」
雷鼓の背後で、ぶーっと唇を鳴らす音が聞こえた。別のテーブルについてやりとりを聞いているプリズムリバー三姉妹が、一斉にブーイングを鳴らしたのだった。
「……なんにせよ、私たちはこういう反応自体は、別に悪いものだとは思っていない」雷鼓は言った。「それに対する反動もね。あっていいものだと思う。ただ困るのは、演奏ができないという事だけ」
「場所を提供しよう」尤魔は言った。「なに、ちょっとした野外集会があってね。ステージが設けられているんだ。何時間でもとは言えないが、一時間くらいなら枠をねじ込める」
「厳密には、労働者の権利を求める政治集会ですね」
尤魔は声がした方向を訝しげに眺めた。そちらのテーブルの上では、射命丸文と姫海棠はたてが、ここ数日分の新聞――客車のラックから取ったもの――を広げている。
「あなたがたの政治に巻き込まれるのはまっぴらですよ」
「まあ、私たちは基本的に、純粋に音楽的なだけの集団でありたい、という事は言える」雷鼓は穏当に言い換えた。「……演奏の権利を奪われている側、とは言えなくもないけどね」
「待ってくれよ。……あの、そういうややこしい話は抜きにしようや」尤魔の方が困った顔になった。「あんたらは場所がなくて困っている。私はその場所を貸すだけ。それだけのシンプルな話だろ?」
「私たちの事情はシンプルですが、あなた方の事情がシンプルではない可能性はある」
「どういう意味だそれは」
またしても妙な事を言った文に、尤魔はざわつくものを感じた。
「言った通りの言葉ですよ」文はずるい避け方をしながら、ベルを鳴らして給仕を呼んだ。「今のはただの外野の野次です。あなた方は、一杯飲んでよしみを結んだがいい」
尤魔は苦い顔をして赤ワインを頼んだ。文が指の間に挟んでいる紙片を、さりげなく、ちらりと示してきたのだが、それは彼女も見覚えがあったからだ――吉弔八千慧の名刺。
「……実を言うと、これは明日のステージだけのお誘いではないんだ」
「ほう?」
尤魔の言に、雷鼓は目を細めた。
「今からパーティーがあるんだよ。ホームパーティーなんだが」
「ふむ、幻想郷でもお屋敷なんか呼ばれて、よく演奏してるわ」
メルランが言った。
「ステージの音響は保証するよ、バーカウンターはあるし、DJだっている」
「なかなかはっちゃけたホームパーティーをしているみたいね」
そう言ったルナサに対して、尤魔は肩をすくめた。
「はっちゃけているかはっちゃけていないかは各々の判断に任せたいところだけど、サプライズゲストという事でご招待したい。礼金もたんまり」
「そりゃ魅力的ね」
「……たしかに、そこの新聞記者さんが野次ったように、私たちはシンプルではないかもしれないな」
尤魔は認めながら席を立ち、バンドメンバーとその付き添いは少人数で、なるべく急いで準備をして欲しいと言った。
九十九姉妹は、夜半のホームパーティーについていくのは御遠慮しとこうかしら、とあくびまじりに言った。
「明日に備えるわ」
「そう」雷鼓はそれよりもひとつ、姉妹に言っておきたい事があった。「寝台はともかく、車内では下着くらいは履いておきな」
「え、やっぱダメなの?」
「それと、他のスタッフにも、できるだけ今夜は休んでおくように言っといて。こっちは地獄巡りみたいなもんだろうしね」雷鼓は苦笑いして、八橋と弁々に言った。「お楽しみパーティーだとは思わない方がいい」
結局、駅舎を出た停車場で尤魔が待つリムジンに乗り込む。プリズムリバーウィズHの四人のメンバー、他に二名が加わった計六名――後者の二人が、ひどく奇妙な人選だった。
「なんか飲むものある?」
比那名居天子は傍若無人に言って、リムジンの中の冷蔵庫を勝手に開けた。「ふん、まあまあのものがあるじゃん」
と、そこから取り出したシャンパンの蓋をぽんと飛ばすと、その蓋は、永江衣玖の鼻先をかすめて勢いよく飛んでいき、リムジンの窓にひびを入れた。
衣玖が不機嫌そうに鼻を鳴らす隣で、雷鼓が言う。
「それ、私も貰っていいかい?――グラスは左から二番目のやつを使って」
「……彼女はいったい?」
「天人様さ」
尤魔が訝しげに尋ねたのに対して、雷鼓はシャンパンの後味のようにさっぱりと答えた。
「ご招待を受けたホームパーティーは、どうやらそれなりの方々の集まりらしい。でもそうなると、幻想郷の私たちはいささかお行儀が悪い与太者。私たちは “諍い事はすべて決闘で決着をつける以外、法らしい法も持っていない、治安最悪の、ド田舎”からやってきたものでね」
ダブルクォーテーションでくくられた部分を強調しながら、雷鼓は皮肉っぽく言った。
「……どういう悪口を言われたか知らないけど、そこは畜生界も変わらんさ」
尤魔は鼻を鳴らした。
「そして、そこの天人様も、正直とてもお行儀がよろしいとは思えない。つまり、幻想郷だろうと、畜生界だろうと、天界だろうと。世界はどこだってどこかしらそうなんだな。今夜のパーティー会場にはふさわしいかもしれないけどな」
「こんなでも、一通りのしつけは一応なっているらしいのですよ」
衣玖も、天子に対してフォローになっているのかなっていないのか、わからない一言を添えてやる。
「楽団がサプライズゲストとして裏で待機している間、総領娘様はあなたに誘われてパーティーにやって来たお客様役、わたくしがその従者役をしましょう」
「まあ、こっちとしても、別にそうしてくれて困る事はないんだけどさ……」尤魔はぽりぽりと頬を掻いた。「ともかく、粗相のないようにね」
ところが、このホームパーティーでの比那名居天子の所作は、おそらく出席者の中でもっとも礼にかない、それでいて場の雰囲気を堅苦しくするものではなく、むしろパーティーのノリには溶け込みながら、しかし尤魔の顔を潰すような逸脱行為をするわけでもなかった。彼女が天界のお嬢様である事も(やや誇張気味に伝わっているふしもあったが、当人らは見過ごした)、どうやら尤魔の社交活動にとっては有利に働いたらしい。
衣玖はそのお嬢様の影のように、目立たないように付き従った。彼女にとっては多少眉をしかめたくなるような場面、露骨なハラスメントにも遭いかけたが、泳ぐようにそれを避けるあしらい方を知っている彼女にとっては、なにほどでもない――天人と袖を接するような生活をしていれば慣れっこだった。天界はなんでも地上より優れているのだ。ハラスメントの手練手管でさえ。
衣玖はシャンパンを――得体の知れないリラクゼーションドリンクを勧められるよりは、誰もが飲んでいる酒を無作為に手に取って、無造作に飲んだ方がまだ安全なのだ――口に運びながら、パーティー会場のステージの方を見やった。
「そして天界からやってきたお嬢様のほかに、もう一組――」
頃を見た尤魔がステージに上がって、ご挨拶ついでに言っている。
「実は秘密のゲストがいる」
尤魔の背後には幕が引かれていて、その奥には楽団が待機しているのだろう。
(楽団の演奏を聞いたら、このパーティーはいっそうひどい事になるのかしら)
パーティーのいかがわしさに神経を尖らせながら、衣玖はぼんやり考えた。自分たちもその乱痴気に飲み込まれて、熱狂の中に転がされる羽目になるのかもしれないのだ。もう、そうなっている可能性すらある。
(そうなったら、私たちが畜生たちに蹂躙され、おかされるのを、楽団はさめた目で見下ろしてくれるのでしょうかね)
「じゃあ紹介しよう――」
ステージの上の尤魔がそう言いかけたところで、衣玖はびりびりとした電撃のようなものを肌に感じて、我にかえった。あのドラム――堀川雷鼓のドラムだ。鎮静よりは興奮、催眠よりは覚醒をもたらしてくれる、スウィングのきいたビートが、会場に蹴り込むような音となって満たした。この入りは尤魔にとっても意外だったようで、彼女は慌ててカーテンを開けさせる。
プリズムリバーウィズHの出現は劇的なものになって、最初、なにが起きているのかをパーティーの参加者に理解させかねた。
(……ああ、これは素直にリズムに乗った方がいいやつか)
と、妙に冷静に理解したのは、永江衣玖だけだった。
(だって、ほら、こういうのって、いちばん最初に踊り始めた人が、自然にイニシアチブを獲得するものですしね)
それがフロアの原則だろう。
なにより、演奏者がプリズムリバー楽団と堀川雷鼓である事を、衣玖は知っている。それだけでも変な興味を抱く必要がなかった。
衣玖は、自分が被っているつば広の帽子を、粋に着崩すようちょんと傾けて、それから、ふわふわ身にまとっている羽衣を形よく整えて、舞い始めた。
(……おー)天子はシャンパン片手に、衣玖のその様を眺めて、のんきに感心している。(あいつ、やっぱり上手いのよねえ)
リズムが彼女を支配しているかと思いきや、彼女の舞いがリズムに影響を与えているのではないかと錯覚させられる、そんな瞬間さえある。
手癖の悪い誘惑はびりびりと電流が走る袖や羽衣の端ではねつけながら、衣玖はフロアで舞っている。
帰りのリムジンの中で、饕餮尤魔は言葉少なに、楽団に対して礼を言った。
「いいものが見られたよ」と、当人は何杯でもシャンパンをかっくらいながら言った。「それに噂で聞いたような暴動もなかったしな」
「ようやく加減がわかってきたのかもね」
雷鼓はもう酒を口に運ぶ事はないが、それでも気を張っているらしく、シートにしゃんと座っていて、それは隣に座る衣玖も同様だった。
他の四人は、すっかりはしゃぎ疲れた子供のように眠ってしまっていた。天子などは「ほんっと、ああいうのはさっぱり慣れないわ……」とぼやきながらシートにふんぞり返ってそのまま不用心に寝息を立てはじめるし、プリズムリバー三姉妹はそれより多少用心していたが、結局姉妹仲良く身を寄せ合って眠っている。
「ともかく、あんたらの演奏そのものに、そこまでの危険が無い事は、彼らのような社会的に影響力のある方々にもアピールできたぜ」
(貸しのつもりか)
と雷鼓は思う。
「……もう、ツアーの予定はむちゃくちゃなんだけど」と彼女は言った。「今後の参考にはなりそうで、そりゃ心強いね」
「このままツアーは終了?」
「いいや、まだまだ各都市を巡る。当初の予定だと、畜生界を一巡して、千秋楽は初演の劇場に戻ってやるつもりだった」
雷鼓はぶすっと不機嫌そうに言った。
「でも、もはやあの場所でやっていいものかもわからない。どのみち焼け野原だしね」
別に、埴安神袿姫の権能をもってすればどうとでもなる話なのだろうが、それでもなんだか気が向かないのも事実だった。
尤魔は、そんな雷鼓の弁を聞きながら、シャンパングラスを見つめる。シャンパンの泡がはじけるのを、まるで超新星爆発の観測のように興味深げに眺めた後で、言った。
「……私たちは、君らの演奏旅行の成功を願っているよ」
「願うだけでなく、多くを援けてもらったわ」
「地域によっては、それも難しい事になるかもしれない。幻想郷に馴染もうとしない人々も少なくないから」
リムジンが、信号待ちで広場の前に止まった。
「……ここでも処刑が行われた事がある。あろうことか私を――饕餮の苗裔を称して動物霊どもを束ねようとする偽物が、動乱の中で発生したんだね――こう見えて、私もちょっとは由緒ある系統なんで、僭称のし甲斐がある立場なんだな――で、そういう連中は鎮圧された後、ガソリン缶を担がせて市中を引き回したんだ。燃えかすはあそこに放り込まれて」
と、広場の近くにある噴水を指す。
「――なにが言いたいかというと、この世界はたしかにシンプルではない、って事だな。でも私としてはなんでもいいんだ。明日の集会のステージは枠をあけさせておく。好きにやりな」
リムジンは駅の車庫のそばに停車し、六人はそこに降ろされた。そこから、彼女たちは線路のフェンス沿いに、少し歩かなければならない。
歩くのは悪い気分ではなかった。
「……本当に、今後の予定は全部おじゃんなんです?」
と衣玖はその道行きの中で尋ねた。
「この街の議会がうちらの出禁を宣言できたという事は、他の会場もそれができないとは思えないからね」
「ですが、その出禁の根拠は、実は非常に足元があやしい」衣玖は言った。「バンドが聴衆の暴動を煽るような音楽をしただなんてね。ナンセンスですよ。暴動は暴動。演奏は演奏です」
「――君は」
雷鼓はそう言いながら、半分寝ぼけながら道を歩くプリズムリバー三姉妹に気を遣っている。ルナサは真っすぐにしか歩こうとしないし、メルランはあちらこちらに行こうとする。リリカは、よくわからないがすぐに後ろを振り返って、立ち止まろうとした。
天子はというと、わりあい意識はしゃっきりしているらしく、先に先にと勝手に歩いてしまっていた。
「……君は、聴衆として私たちのライブを聴いただろ。どうだった?」
「たしかに、いわゆるバンドの魔法というか、化学反応のようなものはありました」衣玖は率直に言った。「なにより、ビートがね。めちゃくちゃよかったです」
「暴動を起こしたいくらい?」
「さあ、それはどうでしょう」
衣玖は雷鼓の質問に、意味深な微笑みをしながら答えた。
「暴れたい、って感じではありませんでしたね。むしろ、あの騒々しさをもっと感じていたい、という」と言いかけて、やめた。「……いや、この話はやめておきましょう」自分がどこかに抱いている性衝動の話に突っ込みそうな気がしたからだ。
「……とにかく、ライブを体験してみてやはり思うのは、それが暴力だとか、そういったものに繋がるようなものではない、という事ですね。もちろん多少羽目を外してみたくはなりましたし、ものすごくいいライブだったのも確かですが」
「さっきのホームパーティーもそんな感じだったな」
「だからたぶん、関係ないんですよ。本当のところ」衣玖はそう断じた。「問題は、畜生界の方々がそうは思っていない、という点でしょうね」
「そこなんだな」
と言ったところで、彼女たちはフェンスの切れ目、車庫への搬入口にたどり着いて、曲がった。
「最初の暴動はいざ知らず、今となっては暴れるのが目的で集まっている連中すらいるだろうし」
「そういうものが求められる事も、まああるでしょう」
結局、自分たちの評判を元に――せめてゼロ位置に――戻すには、地道にコンサートを続けていくしかないのだろう、と雷鼓は思った。
「……多少予定が狂ってはいるけど、どうにか帳尻を合わせる事はできる、か?」
「今度からは、そうしたペイできるかできないかの問題は、専門のエージェントを雇う事をおすすめしますね」
衣玖は実用的なアドバイスをした。
長椅子の上で毛布をかぶって、ストーブの火にあたりながら眠るだけの一夜を過ごしたために、目が覚めたのは未明よりもやや早い時間だった。小傘は、胸に抱いていた赤蛮奇の生首をやさしくかたわらに置くと、そろそろと外の様子を窺う。
砂嵐は未明には収まっているだろう、と磨弓が予報したとおりだった。砂塵は落ち着いていて、荒れ野は落ち着き払っていた。
やかんの水を火にかけて、それが沸くまでの間、また横になる。
「もう、朝?」
赤蛮奇に声をかけられたので「ううん」と答えた。「まだ、もう少しは寝ていられる……」
しゅんしゅんとやかんの湯が沸いた時、結局小傘は二度寝に寝入ってしまっていたが、磨弓が起きていて、無言でその湯をストーブから外しておいた。
結局小傘が起きたのは、明け方頃だった。
「私が知り得る情報によれば」と、ハードタックに干し肉、チーズ、マーマレードとお湯の朝食を摂っている中で、磨弓は他の二人に説明した。「楽団は諸事情により昨日の目的地に留まっているらしい」
「それじゃあ、今日中には追いつけるね」
どうにも食べ方が判じかねるくらい堅いクラッカーを、ちょんちょんとお湯につけてふやかしながら小傘が言った。
やがて、磨弓は埴輪の騎馬に小傘と赤蛮奇の生首を乗せて、楽団の本隊との合流を目指し始めたが、その急ぎ足は、騎乗に慣れていない小傘の尻を、がんがんと跳ね上げながら移動するような種類のものだったので「このままだと到着する頃にはお尻が割れてるわ」「もう割れとるだろアホ」というありがちなやりとりを、小傘と赤蛮奇の間に生じさせた。
「このまま、市内まで言った方が列車等を使うより早い」と磨弓は説明した。「楽団は、採掘労働者の組合の集会で演奏をやる予定になったそうです」
「また変な場所で演奏する事になったのねえ」
小傘としては、その程度の感想しかわいてこない。
正午に市内に入る頃には、小傘の尻は割れるだけにとどまらず、激しい股ずれで出血すらしてしまっていた。
「ごめんなさい、気がつかなかった……」
磨弓はいつになく慌てて、血がべっとりとついた埴輪の馬の尻と、長時間の騎行がもたらした足腰の麻痺で腰を抜かしてしまっている小傘とを、交互に眺める。
「いや、まあ大丈夫だけどね。というか、下半身になんの感覚もないのよ」
と、肩だけは貸してもらいながらなんとか立ち上がった。
「……それにしても、本当にこんなところで演奏するのかな?」
小傘は集会場となっている広場の群衆を見まわしながら言った。
「本来の会場を出禁になったって聞いたし、ここくらいしか無かったんでしょ」
赤蛮奇はその腕の中で言った。
「ここに座って、ライブを見せてもらおうよ」
と、小傘は広場に集まった群衆の後ろの方の、それでも設けられていたステージに対しては真正面のいい位置にある、噴水の場所に腰を下ろした。
けがをさせてしまった手前、磨弓も小傘の提案に従う。
「……そういえば、楽団のライブ、こうしてツアーが始まってからちゃんと見るのは、初めてかも」
と赤蛮奇が言った。
「それもそうなのよね」
小傘が、血の滲んだスカートをちょっと気にしつつ、それでも相変わらず痺れたようになっている下半身を自分の拳で殴りながら答える。
「プリズムリバー楽団って、私もまあまあ好きだけど、そんなに暴動を起こすようなものだったのかなあ?」
と、幻想郷で見かけた時の演奏を思い返しながら呟く小傘だった。
集会は始まっていて、ステージの上も進行している。なんらかの功績がある組合員へのバッジの授与式、政党の議員による演説、セレブリティ(小傘たちは知る由もないが、雷鼓、プリズムリバー三姉妹、天子、衣玖らにとっては、昨晩のパーティーで見た顔)によるチャリティーショー、など……たしかに舞台は整っているが、あのプリズムリバーウィズHが壇上に上がるなんて、つゆほども感じさせられない。
昼過ぎ、訪れそうにもないプログラムは、さりげなくあっさりとやってきた。
気がつくと、舞台下手からルナサ・プリズムリバー、メルラン・プリズムリバー、リリカ・プリズムリバーの三姉妹、そして堀川雷鼓が現れていたので、彼女たちに興味がなければ、そうと認識する事は難しかっただろう。
イベントの司会進行役さえも、彼女たちをプリズムリバーウィズHだと紹介したのは、一曲目の演奏を終えてからだった。
(皮肉な話だけど)
と雷鼓はハイハットを踏んで拍子を刻みながら思った。既にいくつかの曲の演奏を聴いた聴衆は、サプライズの戸惑いを乗り越えて、彼女たちの演奏を享受しようとしている。
(私たちは、ここ数日で作られてきた自分たちの伝説を帳消しにする事でしか、先に進めないらしいのよね)
もちろん、それでも最高の演奏はしてやるつもりだが。
(ひとまずの結論はそういう事になる。いい演奏をやって、聴衆を楽しませて、興行としてもなるべくペイできるようにする。騒動も、めちゃくちゃも、トラブルも、無し。なぜならそれは悪いものだから)
雷鼓は拍子を維持したまま、ドラムパターンを楽団に提示した。なぜだかその時の三姉妹が、一個人ではなく人形のように見える。
(あれは――コンサートで連日の暴動を起こすようなお騒がせ楽団という評判は――私たちの本質ではないのだろうから、そこを殺したところで、別に問題はない)
なにより、それを殺す事で、自分たちの魔法が終わるとも思えない。
(おかしくなってたのよ、私たちこそが)
雷鼓は結論付けるように思って、裁断を下すようにドラムを打ち鳴らした――が、それは曲を締めくくる一撃ではない。別の曲の始まりだった。
(なにより、ショーは続けなければならない)
もうプリズムリバーウィズHの演奏で暴動が起きる事はなかった。
――このツアーも、残すところの公演が少なくなりました。
雷鼓:……正直なところ、先の予定というものをあまり考えないようにしているのよね。最初の方がむちゃくちゃすぎたのもあって。
三姉妹:(笑)
雷鼓:あそこの段階で、スケジュールが大崩れしちゃったのは、そうなのよね。私たちのコンサートを拒否する自治体も続出していたし……。それでも、現地に到着したら、なるべく代替できる会場を押さえて、なんとか演奏にこぎ着けていたけれど。
――舞台もなんにもない、がらんどうの体育館で演奏した事もあった。
ルナサ:あれは興味深かったわね。施設の規則で、バンドも観客も、全員体育館シューズを履く事が義務付けられて……。
雷鼓:本当はリノリウムの上張りだけは敷いてたから、土足でもよかったんだけどね。
メルラン:表向き、エアロビクス教室のオリエンテーションを名目に施設を借りたんだっけ?
リリカ:いや。本当にエアロビクスのイベントだったのよ。なぜか、そこに居合わせたバンドが演奏し始めただけでさ。
雷鼓:ま、そういう事になってるわけよ……。
――そうしたコンサートもあった。
雷鼓:どれもこれも、そのうち笑い話になるようなエピソードばかりよ……このツアーのごたごたって、そんなのばっかり。たぶん、旅が終わって落ち着いた後に思い返してみて、どうしてそんなにむちゃくちゃばかりだったのか、わかんなくなってるだろうね。
射命丸文はハンディレコーダーの録音を再生し続けながら、数十分前にホテルの一室で行ったインタビューの書き起こしを、グラスに注いだ酒片手に、黙々と行っていた。
「ニュースよニュース」
と、姫海棠はたてが(珍しくも新聞記者らしく)ニュースを持ち込んできた時も、どこか反応がにぶい。
「今夜の公演で、序盤の負債をペイできる見通しが立ったみたいよ」
「そりゃけっこうな事ですね」
文は心の底からの祝福で言ったつもりだが、どこか突き放してしまった響きもある。そもそも、ツアーの収支が赤から黒へと転じた理由については、バンドに対する賠償請求が司法の手で棄却された事の方が大きい。
プリズムリバーウィズHの演奏と、その公演旅行の序盤に起きた一連の暴動との因果関係は、誰にも見いだせなかった。あの集会でのコンサートが、特に騒動もなく――妙な政治性を深読みする向きは無くもなかったが――おおむね好意的に受け入れられた後、もう彼女たちのコンサートで暴動が起こる事はなかった。
とはいえ、暴動をおそれてコンサートを拒否する自治体や施設は、その後もいくつか現れた。しかし、やがて楽団が各地の公演を無事に成功させていくうちに、畜生界世論の向きが徐々に変わりつつある。プリズムリバーウィズHの出入り禁止という対応についての評価は、いまや百八十度転換し、早とちりと誤り、根拠のない無知に踊らされた愚行、もしくは市政の横暴としか見られなくなった。
(そうした連中も、結局はあのバンドに狂わされた一員でしかなかったみたい)
文はシニカルに思う。
雷鼓:……でもまあ、そういう暴動とかが起きなくても、バンドのツアーっていうのはむちゃくちゃなものなのよね。
リリカ:奴隷船のようにすし詰めになったバンドワゴンとかね。
メルラン:奴隷船より、単純な人口密度で言えばひどかったはずよ、あれは。
ルナサ:奴隷船よりもましだった要素といえば、全員に酒だけは行き渡っていた。
雷鼓:なけなしの福利厚生だったわね。
――私もそこに居合わせていましたが……
と自分の声が言いかけたところで、文はレコーダーを一旦止めた。
「いいニュースです、それは」
はたてが持ち寄ったニュースについて、彼女はそう意見を言った。
(でも、それを我が事のように喜ぶのも、なんだか変な気がする)
文はただ、バンドに随行しただけの記者なのだ。もちろん、その中で感じたバンドとの連帯感や仲間意識等は、あってもいいと思う。よくある事だ。なのに今、ふと(状況を客観視しろ)という情動が、発作のようにあらわれては、消えた。
「……あんなどたばたは、楽団の本分ではありませんしね」
しかし、雷鼓がインタビューで答えていたように、バンドのツアーというものはどんなに上手く、順調に進行していても、めちゃくちゃで、破天荒で、騒々しかった。
今だって、そうだ。
「いったいどうしたっていうのよ?」
朝一でホテルの一室に呼びつけられた赤蛮奇は、呆れかえりながらルナサの顔面に見事に残っている青あざをつついてみる。
「今日明日じゃ消えないわね」
「雷鼓さんたちと遊びに行ったクラブで、喧嘩ふっかけられたのよ」ルナサは端的に言った。「私たちが幻想郷から来た子猫だっていうのが、いざこざのもとよ。で、幻想郷流の応答をしてあげたわけ」
決闘を、やったという意味だ。
「負けたの?」リリカは余計な部分を気にする。
「勝ったに決まってるでしょ」ルナサはふんと鼻を鳴らしながら言った。「でもまあ、ちょっと酔っぱらいすぎていたのも確かなのよね。いい気になってホテルに帰る途中で、何も無いに蹴つまずいて、ずっこけた」
「姉さんの事、今日から間抜けって呼んでいい?」
「……それはそうと、これメイクでごまかせる?」
メルランの辛辣なコメントは受け流して、ルナサは尋ねた。
「そりゃどうとでもなるだろうけどさ」赤蛮奇は渋い顔をした。「あまり羽目を外しすぎない方がいいよ」
「それはそうよね……」
ルナサも、心底申し訳なさそうに言った。
赤蛮奇が自分の個室に戻ると、小傘が待っている。
「なんだ、朝ごはん先に食べてきたらよかったのに」
「うーん、そうなんだけど。待とうかなって」
どうやら待つのが小傘の性分らしかった。
二人はホテルの食堂に向かう。
「そういえばあんた、もう怪我は大丈夫そうね」
深刻な股ずれで負傷した小傘は、違和感のために奇妙ながに股で歩かざるを得ない二、三日を過ごした(そのため、様々な憶測や噂を生みもした)が、今は普段通りの歩き方に戻っている。
「うん、まだちょっとお股がじゃりじゃりするけど、大丈夫」
「あんたそれ人に言わない方がいいよ」
「訊かれたから答えたのに……」
(そこまで訊いとらんのよ)
ホテルの食堂について、和定食――おかわり自由のご飯、味噌汁、焼き魚、お新香、小鉢、味付け海苔。納豆と生卵は選択制――をつついていると、遅めの起床の人々の中にも、知った顔がちらほらと見える。
「おはよ……」
と、テーブルの差し向いの席に座ってきたのは、堀川雷鼓だ。それについてきて、その隣に座ったのが永江衣玖なのが、なんだか示唆的なような気もするが、赤蛮奇はあまり詮索しないようにする。首は多いが余計な事には突っ込まないのが彼女の信条であった。
「みんなよく寝てる?」
「コンサートの終わりが午後十時、ホテルに戻ったのが午前様」赤蛮奇は、納豆をがしゃがしゃとかき混ぜ続けながら皮肉っぽく言った。「とはいえ何時間かは寝られたからね。健康で、幸せで、生産的な生活」
「そう。よかった」
雷鼓は自分が話題を振った事にも興味が失せた様子で、黙々と朝食を摂り始める。
(というかこの人たち、あのコンサートの後でクラブ遊びしてたんだな)
と、赤蛮奇はルナサの喧嘩騒ぎの証言と照合しながら思う。
「……雷鼓さんはいつ寝たの?」
「それが、うん、寝られてないんだな」
「は?」
「クラブで遊んで帰ってきたのが朝の四時、そこから昨晩のライブの映像を見返して、おさらいや反省点を洗い出していたら六時過ぎ。ようやくちょっと横になったけど、すぐに起きちゃって、今ここで朝ご飯」
と横合いから口を挟んできたのは衣玖だった。
「――そんなところでしょう。私はクラブから帰った後は、割とすぐに寝ましたが」
(あんたも遊びの一員かいっ)
口にこそ出さないが、赤蛮奇はこうしたツッコミを内心でしじゅうやっている。
「……あ、いたいた、衣玖」
比那名居天子がやってきて、自分の朝食を手に取る事もなく、席の方にやってきた。
「あんたいつ帰ってきていたの?」
いつの間にかツアーの帯同スタッフのようになっている彼女たちだったが、スタッフに欠員(具体的に言えば依神姉妹)が出ていたので、ちょうどその空いた一室に泊めてもらう形になっていた。衣玖などは、周囲からは天人のお嬢様のわがままに巻き込まれている従者程度にしか思われていない――どうにも目立てない彼女の損な性分は、今回ばかりは得になった――のだが、それでも気を利かせて、ちょっとした仕事を見つけては楽団の役に立とうとしている。
「朝の、四時頃だったでしょうか。雷鼓さんの部屋でマッサージをやって差し上げていて」
「あんたがそんなに遊び屋だとは知らなかったわ。悪い友達を持ったのね」
「もともとこんなですよ。なにより、悪いお友達がたくさんという点では総領娘様に負けます」
(どちらも大差ねえわ、天人さんたち)
赤蛮奇は、素知らぬ顔で相変わらず納豆をかき混ぜている。
「んな事より、私の帽子の桃食ったやつ、知らない?」
と、天子がテーブルの上に叩きつけるように置いたのは、彼女の帽子だ。そこには、いつもの通りの桃の実がついていない。
「あれって食べられたのね……」
雷鼓が小さく呟いた。
「衣玖はなんか知らない? 帰ってきた時、部屋の帽子掛けを見たでしょ」
「……そこまでちゃんと見てませんよ、そんなもの」
「本当ね?」
「寝ぼけて自分で食べたんじゃないです?」
(くそしょーもない事でケンカしよる……)
赤蛮奇はまだ納豆をかき混ぜ続けている。
その隣で味噌汁の中の黄身――どういうこだわりなのか、生卵をごはんにかけるのではなく、汁中に落としていた――を啜った小傘の目は、食堂に備えつけられたテレビに向かっている。畜生界らしからぬのどかな朝。天気予報、トップニュース、特集、スポーツと芸能。
そして緊急速報。
このたび勃発した畜生界の軍事勢力間の戦争は、幻想郷によく知られていて関係が深い諸勢力――鬼傑組・勁牙組・剛欲同盟・埴輪兵団――とは、あまり関係のないところで発生していた。ゆえに事前に得られる情報には相当な偏りと疎密があり、妖怪の山の情報部は戦闘の発生の兆候を取りこぼしていた。
「新地獄の有力な情報源も、今回ばかりは役に立ちませんでしたね」
「そういう事もあるわ。本当に昔ながらの、内向きに相争っていた頃の畜生界の戦争なのでしょう」
菅牧典と飯綱丸龍は、山の薄暗い地下壕に、順次入ってくる電文情報を眺めながら言った。
「しかし、その軍事勢力の動員計画が発動した時点で、埴輪兵団あたりはなにかしら察知できていそうなもんですけどね」
「できるのと動けるのとは違うわ。なんにせよどちらに与するというところもない戦争だし……で、これ……どう思うよ?」
「えーっと……なにがです?」
「プリズムリバー楽団のツアーの千秋楽は明日だ」
典はぱちくりとまばたきをした。
「そして千秋楽の舞台は、最初に公演を行ったメトロポリス。予定通りとんぼ返りするには、紛争地帯を突っ切る必要がある」
「いや……そこまでの無茶をする必要はないでしょ……というか連中もやらんでしょ……たぶん……」
しかし、彼女たちにぼんやりと芽生えた懸念通りの電文は、数時間後、射命丸文と姫海棠はたての連名で、平文で送りつけられてきた。
「……『千秋楽は予定通り決行』」当地の情勢を報告する文章の末尾に、無造作に付け加えられた一言を、典は呆れて吐き捨てた。「『我々はショーを続けられる』!」
「やると思ったわ」
龍は頬を膨らせながら言った。
妖怪の山の情報部が予想した通り、埴輪兵団は戦闘の始まりを正確に察知していた。
「だからあなたを呼び戻したのですよ」
埴安神袿姫は、杖刀偶磨弓との久方ぶりの再会にも、あまり目に見える喜びは現わさず――いつもの事だ――言った。
「もちろんわたくしも楽団の旅程の安全を願っておりますが、護衛は配置しております。あなたにはこちらの対応の方にあたってもらいたい」
「新しく設営したステージの警備とテロの警戒ですか」
道中で楽団のバンドワゴンが襲撃される危険以上に、そちらの方があり得る話だった。袿姫が楽団の依頼を受け、霊長園の敷地内に(前回焼け落ちてしまった劇場に代わる)ステージを新設し、その工程がはやばやと完了したのが数日前。すでに楽団の受け入れ態勢は整ったわけだが、直後からツアーの千秋楽を狙ったテロの噂が立ち始めている。
もっとも、この方面の対策は既に行われていた。
「このテロリズムの予感を、どう受け止めて良いものか」
数日前、吉弔八千慧は珍しく袿姫と対面していて、持ち寄り方式の会食を行いながら言った。彼女も彼女なりの裏社会の情報網で、メトロポリスにうごめく不穏な情勢を察知していた。
「単に反幻想郷的なものと見るべきなのか、もっと別に目的があるのかも、私たちにはわからない」
という事を、八千慧はスモークサーモンとクリームチーズのベーグルサンドにかじりつきながら言う。
「あるいは、本当に狂わされている方々がいるだけなのやもしれません」
「……よく、事情は知らないんだけどさ」
驪駒早鬼が、トマト仕立てのレンズ豆のスープを貪りながら尋ねた。彼女は収奪物を無事に新地獄で売り抜き、そこでしばらくの休暇を享受しようとしていたところで、この会合に呼びつけられて大急ぎで畜生界に戻ってきていたのだ。
「その楽団の演奏って、本当に畜生界の動物霊を狂わせるようなものだったのかな?」
「だから言っただろ。司法の判断としては、因果関係は無かった」饕餮尤魔が、幾本目かのチョコレートバーを齧りながら言う。「……事になっている」
尤魔は含みを持たせたが、別に、あったという確証があるわけでもない。正確なところを言うと「責任問題があったのかどうか、誰にもわからないし、もはやそこのところは重要な問題ではない」だった。
「彼女たちが私たちの世界に、なにをもたらしてくれるのか」袿姫は自分の食事というものは摂らず、ただぼんやりと会食の席に座っていたが、ふと言った。「私はそれがずっと気にかかっています。だから彼女たちが最後までショーをやり遂げるところを見てみたい」
「面白い事を言ってくれますが、現実的な話をしたいですね」
「そのためには、不穏の動きをどうにか排除しなきゃな」
「強権を振るえず、制約の多い公的な組織には無理な話だろうが」
三者三様の言い様だったが、自分たちが呼び出された理由は、わかっている。
袿姫も彼女たちの理解の早さを喜んだ。
「力を貸していただきたい。やり方はバーリトゥードで、なんでもあり。スパイ、密告の誘い、弾圧。後ろ暗く正義のないやり口だろうと、なんでもいい。あと数日のうちに、私たちにとって不穏な可能性はすべて潰しましょう」
「……あいつ自身、あの楽団に狂わされているひとりなのかもな」
会食を終えた後で、誰かがぽつりと言った。
楽団がまずこうむった不都合といえば、鉄道路線の運航休止だった。
「鉄道が止まった以上、またしてもツアーバンに乗って靴を枕に、あんたたちを布団代わりにする生活かもね」
「私、ああいうの意外と嫌いじゃないよ」
姉のぼやきに対して、メルランが告白した。
「いろんな匂いとか、体温が混じってる感じがね」
「そりゃあ素質あると思うわ」
リリカが褒めているようなそうでもないような返しをした。
「なるべくそうならないように移動手段のチャーターは努力するけど」雷鼓が、三姉妹の私語に向かって言った。「検問は設置されるだろうけど、まさか拘束されるような事はないと思う……ただまあ、いつもの通り、ハードな日々の夜、八日もある一週間になってしまう事は否めない。終演したらすぐに出発、夜通し半日はぶっとばさなきゃ」
なにはともあれ「とりあえず目の前の公演に集中しましょう」という事で、彼女たちは会場入り直後のミーティングを終了した。今回のコンサート会場は市民会館の大ホールで、控え室の楽屋の構成要素は白い壁と白いテーブル、白い内線電話だ。
解散の後、雷鼓はなぜか天子だけを呼び止めて、興味深いものを見せびらかした。それは一枚のカードで、記されている個人情報や顔写真から、偽造の運転免許証である事が察せられる。
「こないだ、のっぴきならない事情で車を運転した時、ハイウェイパトロールに一度も呼び止められなかったのは奇跡だったと思うんだけど」と苦笑いしながら雷鼓は言った。「ああいう事が今後も無いとは言えないし、同様の奇跡が起こるとも限らない。……なによりこわいのは、なにかのインタビューの口の端で、あの時の運転の話が出る可能性はもっとある……で、私たちの友人方が骨折ってくれたのさ」
もちろん犯罪であり、違法行為である。
「二度と使う機会が無い事を祈るわ」天子はやや戸惑いながら、一言コメントしてやった。「そんな事より、私の桃は……いや、まさか――?」
「よく覚えていないんだけど、そういえばなんだかホテルに帰った後、夜食に食べさせられた気がしてね」
雷鼓はいけしゃあしゃあと本題を言った。免許証のくだりは、単なる噺の枕だったわけだ。
「天界の桃は美味しいな。おかげで今はだいぶ調子が良い」
「衣玖の奴ったら!」
「私が謝るのも変な話なんだがな」
「いや、あんたはしょうがないわ。とにかくあいつは――」
「私が謝るのは筋違いだが、許してやってちょうだいと頼むのは筋が通っているんだ」
雷鼓が困った顔で微笑むのを見て、天子はぎくりとなった。
「ここは私の顔に免じて、こらえてちょうだい」
(ずるい女どもだわ)
天子は鼻を鳴らしたが、別に、目の前にいる女と知り合いの女がどうなっていようが、どうでもいい話だった。
「……あんなしなびた桃を食べて、天界の桃を食べた気にならない事ね」
「そうだな、きっとそうなんだろうね……」
「くれてやるわ、あんなもん」
天子は、そこだけはさわやかに言った。
開演にはまだ時間がある。その時間の中で、天子は別にやる事もない――衣玖のようにこまめな気働きをするようなたちではないし、むしろあの女のそうした気立ての良さを心底バカにしてもいる――ので、控え室のドアを蹴るように出ていくと、箱物施設らしい薄暗い通路を抜けて、外へと出ていった。
本日の公演の開催地は、畜生界のよくある街中だ。文化程度はいささか違うが、その人品は幻想郷の人里と大差なかった。天界と比べれば、なんでも大差ないとも言える。
横丁に酒場街があったので、そこでビールを注文する。一緒に出てきたつまみは鶏の砂肝のせんじがらだった。
こうして市井の酒場で酒を飲んでいると、彼女個人も街の日常と生活に飲み込まれてしまいそうだ――今朝、畜生界の一地方に小競り合いの戦争が勃発したという事は話題の端にものぼらないし、あの悪名高いプリズムリバーウィズHがやってきた事だって、誰も気にかけていない。
(てめえらなんか所詮それだけの存在よ)
一杯目のビールをスカッと飲み干した天子は、少し痛快に思った。
(どいつもこいつも、どんなに暴れて、騒々しくいようたって、興味ない人々にとっては、所詮そんなもんよ)
しかし、その調子で(一軒目で四、五杯は飲んだ)二軒目の酒場に立ち寄ったところ、そこの壁に、プリズムリバーウィズHの公演を告知するポスターがでかでかと貼られていたのを見て、天子はなんだか不機嫌になってしまう。この二軒目は一杯と満足に飲めなかった。というのも、楽団の公演がやってきた今夜ばかりは、酒場も軒並み閉めてしまうかららしい。そこで気がついて横丁を出てみれば、市民会館の周りはちょっとしたお祭りのような騒ぎだ。天子はそういう事に馴染む気分ではない。
(といって、別にあいつらに怒っているわけでもないのよね)
と、勝手に桃を盗まれた事については、別にこざっぱりと割り切ってしまっている。比那名居天子には、異様な執拗さがあるかと思えば、無造作に恨みを捨てるところもあった。
いよいよ市民会館の表玄関が開場し、ごみごみした状況に巻き込まれかけたが、天子はなんとかその場から離れた。
(どうせ裏口から入ればいいのだから)
というところで、自分がスタッフパスなど持っていなかった事に気がつく。もはやツアーも最終盤にさしかかり、顔パスやセキュリティを買収しての楽屋への侵入(そうした不埒者を見つけて追い払うのが、天子の無自覚の仕事といえば仕事だった)などが横行している状況ではあったが、この時は本番直前という事もあってか天子の顔見知りが裏口近くを通りがかるという事が無く、彼女は締め出されてしまった。
「なんなのよ、もう……」
舌打ちをしながら、またしても建物をぐるりと回って、開場して人ごみもすっかり収まった市民会館のエントランスに入る。人ごみのざわめきが天子の耳を覆った。
(そういえば、ちゃんと楽団の演奏を見た事がないわ)と思った。一度は見たはずなのだが、あれはただの暴動と彼女の中では分類されている。
ごちゃごちゃとしたどさくさ紛れに、会場の大ホールの一番後ろ側に入った。立ち見くらいなら咎められないだろうと思った――というより、ここにいる何割が、正当に金を払ってここにいるのだろう、というような人の混みようだ。
おかしい事に気がついたのは、楽団の演奏が始まった後だ――それ以前から、なんだか周囲の圧が妙な気はしていた。しかし、いつの間にか押し込み屋の集団に囲まれて、客席後方の小便臭い隅っこに数人がかりで追い詰められて、全身をまさぐられた時、パニックにはなったが同時に(マジかこいつら)という感想もあった。
ホールの天井が見える。ステージの照明は夕暮れの残光のようにかたよっていて、薄明るく、その天を照らしている。そんな光から、彼女をなにかこの世界の恥部として、こそこそ隠そうとするように覆いかぶさってくる、畜生どもの影。
(こいつら、あの子たちの演奏会で、マジか?)
と天子は思ったが、その時、ファンファーレのように騒がしい音が会場を満たす。口をふさがれて大声も出なかったが、どのみちかき消されていただろう。
(ああ、まあ、理にはかなっているわけか……)
妙に冷静な気分で状況を受け止めながら、なすすべもなく受け容れるつもりはないので、まずは一匹の頭をぶちのめし、他の一匹の咽頭を指先で潰した。足蹴にしてやったまた一匹は、客席の方へと転がり落ちていく。
そこから先は乱闘騒ぎになった。
(きっと、初演の時もこういう事があったんだろう)
天子は客席を飛び越えながら思った。
(完全には同じではないだろうけど、同じようなむちゃくちゃが、私たちの知らないところで起きたのではないか)
シャツのボタンは引きちぎられ、スカートは切り裂かれかけて――最初から身ぐるみ剥いで辱めるつもりだったろうし、そうしない理由がない――ぼろぼろの衣服を引きずりながら、蟻地獄の巣を転がり落ちるように大ホール客席の斜面を駆け下りた。
ステージ上のバンドは、この客席で起きた、さざ波のような騒ぎに気がついているだろうか――おそらく、少なくとも雷鼓は、気がついている。このたびのツアーを経て、彼女は観客の逐次的な反応にナーバスなほどに気を配るようになっていた。
(しかし、なにかが起きたのだけはわかるでしょうけど、なにが起こったのかは、ついぞわからないでしょうね)
天子は駆け下りかけた段を、反転して、駆け上がり始めた。面白いことに――この手の乱闘騒ぎではよくある事だが――現場から逃げ出していたのはお互い様で、相手の集団は、既にホール後方の出入り口から逃走していた。残っていたのは、最初の一撃で人事不省にした連中くらいのもので、天子はそれを会場のセキュリティに突き出すと、楽屋近くの救護室に連れて行かれた。
そこで、なにかちまちまとした雑用の手伝いに勤しんでいる衣玖に、ばったり出会った。彼女は人がよく聡いので、天子のぼろぼろのありさまが何を意味しているのか瞬時に察して、手当てをしてくれた。
「太鼓のおねーさんから聞いたよ。あんたが私の桃を盗ったんでしょ」
ここで話すには不適当で、ずるい話題だとも天子は思った。衣玖は詫びるだろう(実際、心から詫びてくれた)が、こんなところでその話をしてしまうと、まったく別件と言っていい天子の災難に対してすらも、なぜか責任というか負い目を感じてしまうのではないか。
「……ま、今回のこれとは関係ないし、いいのよ」
と言っても、永江衣玖は心のどこかで引っかかりを残すのだろう――事実、この後から、彼女はたびたび天子に利する立ち回りを(なんの権力も持たず、それでいて天界におわす天帝にはいくらか近い、特殊な下層階級――竜宮の使い――なりにだが)天界において行うようになっていく。
奇しくも。
このような方法で人間関係の主導権を握っていく手管は、かつての比那名居一族――名居守が天界の雲閣に昇るのについていく形で天人の末席に居座った、あの悪名高い不良天人の一族――が得意とした手段だった。
一応ことわっておかねばならないだろうが、夜通しの移動を行うツアーバスの運転手は、もちろん雷鼓ではなかった。ちゃんと専属のドライバーを雇っている。
「全員、乗った?」
「私の首が一つも忘れられていなければ……」
赤蛮奇は雷鼓の問いかけに答えた。
「大丈夫だと思うわ」
「待った、待ったー!」
彼女たちがはっと振り返ると、多々良小傘が膨大な手荷物と、その中に収まっている生首どもを抱えて、よたよたと奇妙な歩きようでやってきていた。
「……友人と一緒に八つとも忘れるところだった」
「君ら本当に友達なの?」
雷鼓は眉と目と口を真一文字にしながら尋ねた。
「信頼しているがゆえのトラブル、ってやつよ……」
「そりゃ美しい友情だけどもね」
赤蛮奇がもごもごと弁解したのを聞いて、雷鼓は言い返した。ともかく、今度こそ置き去りは無いらしい。
ツアーのバスは発車した――プリズムリバーウィズHが千秋楽を行う場所、畜生界でいちばんのメトロポリスへ。
楽団のメンバーは、バスの中で眠ろうとしている――本当に、眠ろうとはしている。
眠れていないというよりは、ぶつ切りの目覚めを感じさせられている、という調子だった。おそらく、眠れてはいるのだろう。しかし、本来満足にあるはずの睡眠の、五分のうち一、二分ほどを、ぼんやりとした現実に引き戻される。そんな妙な感じだった。
(神経が昂っているのね)
まどろみの中で、雷鼓はごうごうとした騒音を聞いた。バスのエンジン音か、自分の中を流れているものの音か、それともこの世界そのものの音か。
(騒々しいわ、世界も、私も、この旅も)
これは騒々しさにばかり引きずり回された旅で――あるいは、自分たちが騒々しさを引きずり回していたのかもしれない。
(そこはもう、どちらでもいいか。どちらででも正解なんだろうし)
いつもこうだ、とも思った。いつも彼女はコントロールを失っている。どんなに完璧にやれたと思える時だって、そうだ。妙な事、変な事、おかしな事は、そんな時でも必ず起きた。
(でもまあ世の中そういうものよねえ)
と思う心はもちろんあるのだが、それでも雷鼓は、誰かや何かを完全なコントロール下に置きたいという欲望をどこかに持っていたし、それがナンセンスでありながら抗いがたい欲望である、という事もわかってはいた。
ほとんど夢か現かもわからないまま肩に重みを感じるのは、車中の眠りで寄りかかってきた、彼女の重みだ――彼女とて、一度だって雷鼓の思い通りになった事はないが、それでいてこの少女を、自分の思い通りになるおもちゃにしてやりたいという気分が、一度も無かったわけではない。ただ、それが不可能だという事と、できたところで幼稚な欲望を満たせるだけで、なにも面白くはないという直感が働いただけだ。
今は、寄りかかってきた人の小さな寝息や、体温や、拍動。微妙に伝わってくるそうしたリズムが、自分個人と世界の対峙にすぎなかった騒々しさに、新たな騒音を付け加えてくれるのを感じる。
楽団はそうした落ち着かないまどろみの中で、夜明けの内には、紛争地帯を抜けているつもりだった――たとえ検問等が設置されて足止めを食ったとしても、朝方には開放されて、そこを抜けられているだろう、と。
そうなっていないのは、どうも穏やかではない。
「このぶんじゃ、正午に現地入りできるかすらあやしいわけよ」
雷鼓がおおっぴらに言ったのは、臨時に検問所が設置された、ガソリンスタンドの公衆電話の受話器に対してだった――通信網の切断などは現状行われていないが、夜が明けた今では、それもそろそろ怪しいのではないか。ガソリンスタンドの事務所は検問のみならずなにか出先の指揮所としても使われているようで、雷鼓の会話だって丸聞こえであった。
(かまうものか。いっそ、いくらか愚痴っぽくなった方が、それらしい)
「まいっちまうよな、なあ」
気さくに話しかけているが、電話の相手は杖刀偶磨弓だった。電話の向こうの彼女は相変わらずまじめくさっていて、ともあれ霊長園の会場は受け入れ準備ができている事、幻想郷も今回の戦役に巻き込まれた邦人救出を検討していそうだという事を、筋道立てて説明してくれた。
(邦人救出……?)
立案できるとすれば妖怪の賢者たちか、その他どこかの大勢力だろうが、そんな事をしてくれる幻想郷ではない事は幻想郷の住人こそが一番よく知っている。雷鼓は鼻で笑い飛ばした。
「まあ……そうしてくれるならありがたいよね」
お義理にそう言ったものの、こんな別世界のおもしろくもない小競り合いに、余計な首を突っ込む幻想郷ではあるまい。おそらく、雷鼓たち楽団ではなく、戦争を行っている勢力に対して向けた単なるはったりだろう。電話が盗聴され内容を傍受されている可能性は、極めて高かった。
また、磨弓は他にも重要な情報を提供してくれた。剛欲同盟のオオワシ霊たちが空中から観測したところによれば、現地の戦線は(畜生界の戦争が多くそうであるように)睨み合いの膠着状態が続いていて、漫然と、いっそ穏やかさすらある。今のところ、交戦が起こりそうな危険な地帯は直線距離にして数キロほどで、封鎖範囲を突破する事自体は可能だ。
(かなり危ない橋を渡って伝えてきている情報ね)
と感じた雷鼓は、ちらりとと軍事勢力の指揮所になっている事務所を見回した。繰り返すが、盗聴の可能性は極めて高い。
「あの、それはいったい」
――個人的な情報提供よ。本日朝には戦端が開かれる。戦闘の間、おそらく検問が開かれる事はない。しかしながら、戦闘自体はごく短い戦線の中で収まる可能性が高い。
磨弓の声は、相変わらず、いつも通り、まじめくさっている。
「……数キロね」
思わず声に出して呟いてしまったその時、ぶつんと電話が切れた。雷鼓は用を失った受話器を珍しげに眺めて、それからまた手首のクロノグラフで時間を確認してから、公衆電話から離れた。
ガソリンスタンドの事務所から出ていく時、周囲の視線が自分に注がれている事に、雷鼓は気がついた。
「……ご苦労さんな事です」
戦争に対してそんな事を言うのも変だが、適当な言葉がそれくらいしか思い浮かばない。
(危険なのは数キロ――たかが数キロ。今からなら遅くはない)
バスへと戻る道すがら、思う。
「ひとつ相談したい事があるんだけど」
と、座席に戻ると、隣の席でつまらなさそうに車窓の外を眺めている衣玖に尋ねた。
「この前、私がふてくされていた時、君は言ったよね。世界に停止を要求してはならないと」
「……ええ、言いましたね」
「じゃあ逆に、この世界がふてくされたとして、それは私たちに停止を要求できるの?」
衣玖はちょっとだけ考えた。
(身も蓋もない話をしてしまうと、できるでしょう。簡単な話です。なぜなら世界は大きく、私たちはちっぽけだから。世界の身勝手は大きすぎ、ちっぽけな個人を飲み込む事ができて、動くも止まるも思いのままにしてしまう。これは良い悪いの問題ではなく、そういうものだとしか言いようがありません)
しかし衣玖は空気を呼んだ。雷鼓が求めている答えを知っていたからだ。
「……たとえ世界がふてくされていようが、世界は私たちに停止を要求してはなりません」
(じゃあ、やるか)
「おい、ちんどん屋ども」雷鼓は、バスの最後部の席に陣取っている三姉妹に荒っぽく言った。「そろそろ漫然とツアーバスに揺られるだけじゃなく、自分たちの本分に戻りたくないか?」
数分後、楽団のメンバーとスタッフは各々の荷物を抱えながら、足止めを食ったバスを置いてけぼりにして、検問の制止も振り切り、畜生界の空へと蹴り出していた。
集団の道行きは、よたよた、ふらふらと、そのうえ騒々しい。
よたよたしているのは、彼女たちが荷物を抱えていたからだ。ボストンバッグひとつ、旅行鞄ひとつを手に提げてやってきた雷鼓や衣玖はともかく、どちらかといえばこざっぱりしている赤蛮奇でさえ、仕事道具がかさんで、左右に抱えた荷物の間で釣り合いを取りながら難渋して先に進んでいたし、多々良小傘に至っては脱落寸前のありさまを、手荷物にしていたはずの赤蛮奇の生首に引かれて助けられながら進んでいた。
ふらふらしているのは、全員酒を体の中に入れていたからだ。誰かが自分の荷物の中から酒瓶を出して、そのまま回し飲みした。もっとも、全員がそれぞれ、なにかしらの酒をバッグの中や懐に、こっそり携えていたので、それらを延々と回し飲みするような形になってしまった。
騒々しいのは、もちろんこの一行がちんどん屋だったからだ。音楽は彼女たちに憑き物だった。この道中でも、半ばやけまじり半ば打算――これだけ騒がしくしておけば、無言での襲撃はおそらく無いだろうという打算――で演奏を行っていたが、ルナサのヴァイオリン、メルランのトランペット、リリカのキーボード、すべてが騒がしく、それら三姉妹の好き勝手な音を、どうにか繋ぎとめようとする(そしておそらくいくらか失敗している)堀川雷鼓のドラムで、なんとか音楽の体裁を保っている(失敗している可能性もある)。そんなものが戦場――畜生界でありがちな、宣戦布告はしたものの、末端の士気はどうにも低く、ぐだぐだとした示威行動と狎れ合いばかりが意外と目立つ戦場――に、無遠慮に降り注いだ。
要するに戦場の空をふらふらと通過しているのは、異様にあぶなかっしく、酔っぱらっていて、騒々しい、そういう少女たちの群れだった。
当然、こうした動きは戦争が勃発したばかりの前線に刺激を与えたが、こんなものを敵と認識するのも愚かだ。また、素朴な政治的状況からも、不用意な攻撃は躊躇せざるを得なかった。
さすがに慌てて飛び上がってきた軍事勢力に誰何されるような場面もあったが、そのあまりな傍若無人ぶりと、ついでに彼女たちが近頃有名な、お騒がせ集団のプリズムリバーウィズHである事を知ると、相手もどうとも手出しをしかねるようだった(いっそ護衛の申し出すらあったが、どちらかの陣営に肩入れするような形になりたくないという打算だけは働いて、丁重にお断りしておいた)。
だからといって、これが別に秘策というわけでも、なんらかのデモンストレーションというわけでもない。彼女たちはただあるがままの彼女たちだった。
(あの騒々しさも、こんなもんだったわ)
あの騒々しさとは、どの騒々しさだったのか。雷鼓自身もその参照元はよくわからない。騒々しい行為全般の事を思っていたかもしれない。
やがて、だしぬけに戦場――本当に戦闘状態になっている戦場――の上空に飛び出してしまったらしく、こういう場所では、さすがに地上からぽんぽんと狙撃されたり、弾幕を張られるようになったが、彼女たちはほとんど本能だけで避けた。もとより、袖や耳元を弾がかすめるほどに巧妙な避け方をするくらいが粋とされる、特殊な決闘文化が根付いている幻想郷の女の子たちだ。こうしたものには慣れっこであった。
ただ、自分の荷物で膨れ上がっていた多々良小傘だけは、そこまで幸運ではなかった。うんしょうんしょと引いていたキャリーバッグのラッチが撃ち抜かれて、そこから自身の荷物や、行った先々で購入した――最初の頃に買ったサングラスを始めとした――思い出の品、幻想郷のみんなへのお土産に買ったものなどが、ばらばら地面へと落ちていく。
「あ……」
無言で集団から脱落して地面に落っこちたものを拾いに行こうとした小傘を、赤蛮奇がすべての首と体を使って、引きずるように引き留めた。
「あんたの性分だとつらいだろうけどさ」と赤蛮奇は付喪神の友人に対して言った。「今はもうそれどころじゃないのよ」
実際それどころではなく、戦場では畜生界らしからぬ激しい戦闘が勃発していて、しかもなぜそうなったのか、誰にもわかっていない。幻想郷からやってきた楽団の、千の楽器がもつれながら降るようにむちゃくちゃな騒々しさが、戦線の神経に障ったのかもしれない。
(もっとやれ)
しかし、雷鼓は身振り手振りで指示した。
(もっとでかい音で、むちゃくちゃにやってやれ。最近のコンサートみたいにお行儀のいい、サウンドチェックを重ねて、バランスが取れた音ではない。それぞれのパートがめちゃくちゃに張り合うような音をぶちかましてやれ。)
地面の上では、ぼん、ぼんという爆発音が轟いて、眼下の道路では黒々とした煙が上がっている。一帯に煙幕を張る事で部隊の移動などを偽装するためなのか、集められた一般の乗用車などが焼き払われているのだ。すべてのものを油っぽく汚してしまう黒い煙が、少女たちのいるところまで立ちのぼっていた。
彼女たちはその煙幕も突破したものの、ルナサ・プリズムリバーのストラディバリウスの資産価値は低下している。
這うようになんとか紛争地帯を抜けた後の事を、雷鼓自身なにも考えていなかったが、それでもなんとか開演には間に合うという算段だけは立てて、楽団は手早く鈍行列車の切符を集団で買い、その鉄道を日常で使う人々に混じって、粛々と列に並んで乗り込む。
文はその様子を興味深げに写真に撮った。
「畜生界のディープなところを満喫する旅はどうだった?」
席に座る事はかなわなかったが、なんとか客車の一角に体を預けるスペースを確保した雷鼓は、皮肉っぽく言う。するとリリカが言い返した。
「紛争地帯ひとつ抜ければこんなにまともなのは、なんだか拍子抜けだわ」
「そここそがディープな一面なのさ」
ぶっきらぼうに言い返しながら、自分たちの煤けて、ガソリン臭いなりは、まるで難民のようだなと思う――同時に、紛争地帯から疎開する様子の乗客すら、さほど多くはないのにも気がついた。日常生活を堅持している乗客たちも、雷鼓たちを好奇の目でじろじろと眺めたりはしない。畜生界とは、そういう世界らしい。
「楽団が、検問を無視して、紛争地帯を突破している?」
(まあ、やるよね。あいつらなら)
埴安神袿姫が数時間遅れの報告を聞いて、さすがに狼狽しているのに対して、杖刀偶磨弓はあいつらならやって当然だろ、という気持ちになっている。このあたりは、ずっと孤独に霊長園にあった側と、なんだかんだとツアーに帯同してきた側、その付き合いの差なのだろう。
(しかし面白いのは、私たちが護衛につけていた埴輪兵団の分隊も、足止めをくらった検問所で、ずっと待機させられている事よね)
ともあれ彼女たちは、ついに埴輪兵団の制御からすら離れたわけだ。
「――あなた」
袿姫が、磨弓の澄まし顔を眺めて言った。
「なにか、勝手したでしょ」
「個人的な情報提供をしただけですよ」
「それが勝手な事と言うのよ。いい? あなたは私の――」
磨弓は主人の小言を、馬耳東風に聞き流している。それが態度にもあらわれていた。
「……まあいいわ。それで今、彼女たちは?」
「実を言うと、現状では埴輪兵団でも楽団を捕捉不可能でして」
磨弓は、痛快そうに主に言ってやった。
「彼女たちがあなたの制御下から離れるのもまた、あなたが望んでいた彼女たちのむちゃくちゃさの、総仕上げとは言えないですかね?」
「杖刀偶磨弓」
袿姫は一喝し、詰め寄り、ねっとりとみだらに、懲罰をにおわせて磨弓に告げた。
「冗談がとてもお上手になったのは嬉しいけれど、もっとやるべき事があるでしょ」
(あなたのコントロールからもっと逸脱する事、とか?)
磨弓の感情をよそに、袿姫は言葉を続けた。
「邦人救出の名目で幻想郷からやってきてくれた方々を、すぐさま呼び戻して差し上げなさい」
陰陽玉がなにやらガリガリと言っているが、周囲が騒々しくって、よく聞こえない。
「なあ霊夢!」
騒々しさの構成要素の一つでもある、霧雨魔理沙が言った。
「本当に、この鉄道の路線に沿って進めばいいんだよな?」
「たぶんね」
その時、畜生界の上空を行く彼女たちの真下を、なんて事のない鈍行列車がメトロポリスへと運ばれていった。そこにプリズムリバーウィズHが乗っている事を彼女たちは知らない。
博麗霊夢はため息をついた。
「プリズムリバー楽団のツアーの千秋楽を、VIP待遇で、ただで見せてもらえるって紫にチケット貰ってやってきたら、これよ」
「ま、うまい話には裏があるわけだよな。いつもの事だよ――ところでさっきから、その陰陽玉はなんて?」
「よく聞こえないのよね」
霊夢はうんざりと言った。
「思うんだけど、この世界は騒々しすぎるわ!」
がたん、ごとんと、一定のリズム。雷鼓たちは揺れる電車の隅にかたまって、時に床にへたり込みながら、待ち続けていた。移動している側なのに待ち続けているというのも変な話だが、気分としては、自分たちが目的地に近づいているのではなく、目的地が自分たちに近づいているのだ。
「……年を取ったわ」
雷鼓がそう言ったのを、耳ざとく、射命丸文が聞きつけた。
「なに?」
「ツアーが終わった後のインタビューの受け答えを考えていたのよ」雷鼓がニヤリと笑うと、できたえくぼが煤けて、妙に強い陰影になる。「とりあえず、このツアーの総括を尋ねられた時の受け答えが決まったわ。“年を取ったわ”ってね」
一同は笑った。
「このツアーが終わったら……」雷鼓は思いつきを言った。「スタッフも含めたみんなに、感想文を提出してもらおうかしら。それぞれ色々あったでしょ」
「なんだか修学旅行みたいですね」
「それ、新聞に掲載していいですか?」
「じゃあ、あまり人には言えないような事は書けないね」ルナサがほほ笑んだ。「コンプライアンス的に書けないような事が多い人、いるでしょ?」
「コンプラ云々を言うなら、そもそも私たちのコンサートが適切だったのかという問題があるわね」と、メルランがいつになく刺すような指摘をした。
「まあ、そりゃそうね」リリカは渋い顔をした。「どうやら、かなりのお騒がせ集団として畜生界には認知されたみたいだし」
でもそれが、彼女たちのどうしようもない業のひとつなのだろう。
「それにしても……いつになったら着くの?」
「他の乗客の方に訊いてみましょうか」
「そこまではせんでええでしょ……」
「到着したところで、ぐっすりおやすみというわけには、いかないのよね」
「眠たいなら、ちょっとでも寝といた方がいいよ」
「床に座って?」
「狭苦しいバンドワゴンの中で、誰かの靴やお姉ちゃんのお尻なんかを枕にしてきたなら、それ以上嫌なものはそこまでないでしょ」
「それもそうか……?」
「……お言葉に甘えてちょっと落ちるから、荷物頼むわ」
「おっけー。荷物はまかせといて」
「これは本人が置いていかれる展開のフリね」
「ろくでもない事言わないで」
「……あ、ごめん。もう着いたわ」
「ろくでもない事言わないで……!」
最後の最後に、わずかに残された休憩の機会が奪われる。彼女たちはショーの最後へと到達しようとしていた。
「実は、彼女たちの演奏を観るのはこれが初めてなんですよ」
八千慧が、招待されたVIP用のボックス席に着きながらそう言うのを、袿姫は聞いた。
「あまり、こういう不特定多数が集う場所というものに、顔を出さないのでね」
「日頃の行いのせいだな」
その隣にいる早鬼がからかった。
「私はこないだ見たけど、いいバンドだったよ」
尤魔がぽつりと言った。
「急なお誘いになりましたが、おそろいただけて嬉しいですわ。そして、楽団が無事千秋楽を迎えられる事、あなた方にも感謝しなくてはならないでしょう」
主人役の袿姫が、にこやかに、含みをもたせたあいさつをした。
と、その時、磨弓が袿姫の耳元までやってきて、招待していた霊夢や魔理沙の到着がいささか遅れそうな事を伝える。
袿姫は鼻を鳴らす。
「……そんなどうでもいい事を、私に?」
(では、どうでもよくない事を囁きます)
そのまま、磨弓は神であり主人でもある方の耳の中に、卑猥な告白をいくつか流し込んだ。袿姫はびくりと体をこわばらせて、大きく見開いた瞳で、磨弓を見返した。従者の手が力強く、自分の腕を掴んで離さず、そのままそこらへんの陰に連れ込まれそうな予感をおぼえて、それでも抗えず、ボックス席を飾るたっぷりしたカーテンの中に引きずり込まれた。
「それにしても――」八千慧が手首の時計を見て言う。「少々遅れていますね」
「なんかあったんだろう」早鬼が言った。「袿姫のやつがどっか行っちゃった」
「なにかしら起こるんだよな」尤魔は訳知り顔だった。「こういうのはさ……」
やがて、もう少し待った頃に、舞台と席とで、それぞれの変化があった。前座のバンドを長引かせてようやく舞台上に現われたのは、もちろんのことプリズムリバーウィズH。そして、畜生界の名だたる勢力の長が集っているボックス席に現われたのは、博麗霊夢と霧雨魔理沙だった。
「……まったく、とんだご招待だわ」
「たしかにいただけないな」霊夢の愚痴に魔理沙も和している。「私たちのVIP待遇なんか聞いていない、って受付に言われちゃあな」
「ちゃんと報連相できていないのかしら――うわ、あんたらか」
やってきた席の近くで待ち受けていたのが、八千慧・早鬼・尤魔のお三方だったので、霊夢はうんざりと舌を出した。
「ギャングのボスどもにご同席させてもらうほどになったおぼえはないんだけどな」
魔理沙はそう言いつつ、ずうずうしく自分の席に着いた。霊夢もぶつくさこぼしながらも、コンサート自体はたっぷり楽しむつもりでいた。
やがて、袿姫も乱れた肩紐を直しながら戻ってきて、新たなゲストたちの到着を歓迎する。
霊夢は、この神様に対して様々な文句があったが、とりあえずの質問があった。
「……VIP席ってなにができるかわかんないんだけど、お酒とか出てこないの?」
そうこうしているうちに、プリズムリバーウィズHのツアー最後の演奏は始まった。
『楽団の千秋楽は大成功 ショーはひとまず終わる』
「……ひとまず?」
「ショーは終わっても人生は続く、ってやつです」
姫海棠はたての疑問に、射命丸文は答える。千秋楽が明けた朝、市内の通信局で、簡易の電文報告を起草しながらの事だった。
「それ以上の意図はありませんよ」
「大天狗様たちに、まだまだやらかす意図があるように取られるかもよ」
「それはそれで……」文はにんまりと笑った。「面白いじゃないですか」
なにより面白いことに、はたての懸念通りの事態が起きた。この電文を受け取った妖怪の山は、読まなくてもいい言葉の裏を読んでしまって、ツアー終了後の楽団の動向について、妖怪の賢者や、その他の外交方面に至るまで、けたたましく照会をしなければならなくなった。そして、結局、楽団は畜生界のメトロポリスで、数日の滞在と観光を楽しんで、それだけで幻想郷に帰ってくるつもりだという事実関係を確認するまでに、ちょっとした混乱が起きたのだった。
「あ……これ」
多々良小傘は赤蛮奇とともに市内の道具屋街をぶらついていて、その店先にあった眼鏡スタンドの回転台を見やって言った。
「こないだ、あんたが買ったのと一緒のやつだね」
安物のサングラスは、どこにでもあるような、ちゃちなものだった。
「……買い直す?」
「うぅん」
小傘は、その真ん丸いフレームや、濃緑色のレンズを眺めながら言う。
「私が落としたのはあのサングラスだからさ」
「そう言うと思ったわ」
代わりに、赤蛮奇がそのサングラスを買った。すると他の頭たちもなんか買えと主張し始めて、そのまま頭九つ分、まったく同じ安物を買う羽目になる。
「どう、私だって似合うでしょ?」かける九。
「……使い回せばよくない?」
とは小傘も指摘できなかった。
最終公演が終わった翌日の時点で、実質的にはツアーのメンバーやスタッフは解散しているが、その後も観光を楽しんで、二、三日の滞在の後、幻想郷に帰る者が多い。
プリズムリバー三姉妹や九十九姉妹、赤蛮奇、多々良小傘もそうしたくちで、同日の同時にホテルをチェックアウトした。
「お世話になりました」
堀川雷鼓は、そうしたメンバーやスタッフの帰郷に際しては、なるべくホテルのロビーまでには顔を出して、頬にキスをし、ハグをやって送り出していた。
「私はまだ、こっちで処理しなきゃいけない事務仕事が色々あるからね」
「終わっても大変なもんだね」
赤蛮奇は同情した。
「まあ、わかっていた事だった」雷鼓は口を尖らせたが、本気の不満というよりは、苦笑いまじりだった。「結局、コンサートの売り上げでペイできるかできないか、だいぶ微妙なラインになっちゃったからね」
「お金を稼ぐのだけは、向いてないんでしょうね」
なぜか、そのそばに侍している永江衣玖がからかった。彼女は、比那名居天子がこっちに長逗留するつもりらしいので、そのお目付け役として留められている。……というのが表向きの認識だったが、さて実際のところ、長逗留をするつもりなのは衣玖と天子のどちらで、お目付け役は衣玖と天子のどちらなのだろう。
「むちゃくちゃな事態を起こす才能だけはあるみたい」
「私たちが起こしたわけじゃないよ」
雷鼓は言った。
「ただ、世界がコントロール不能なだけさ」
「……あ。そうだ」
それから、少女たちがいよいよホテルのロビーからも出立する段になって、雷鼓は赤蛮奇を呼び止め、特別に言った。
「大変だろうけど、ツアーの感想文は九人分提出してね」
「マジかよ」
(ここまで本編)