Coolier - 新生・東方創想話

溶けう

2013/07/03 17:22:29
最終更新
サイズ
48.21KB
ページ数
1
閲覧数
2408
評価数
11/19
POINT
1200
Rate
12.25

分類タグ

 肌を這う舌の感触に、肩が小さく跳ねた。ここが地下だという事を思い出す。無遠慮に私を貪ろうとするこの少女を見つめ、その肩を押し返そうと勝手に両手が浮いた。相手の肩に両手を置いたところで、私に覆い被さる少女が自分の妹である事を認識し、力が抜けてしまう。
 湿った水音が耳朶を振るわせる。金髪のサイドテールが私の顔にかかり、唇を擽るようにさわさわと揺れていた。両手は肩に置かれたまま、妹を拒む素振りも見せない。私の身体は、鉛のように重たかった。
 柔らかい吐息が首筋にかかり、自然と目を細める。灯りの無い地下室の天井を映す瞳は、妹の表情を見る事もなく、虚空ばかりを捉えている。両手を力無くベッドに下ろすと、妹の身体がより密着してきた。小さく、細く、幼い体躯。
 妹の両手が背中に回される。胸を突き出すような姿勢になり、ベッドと背中の間に幼い掌を迎えると、翼を付け根からゆっくりと撫でられた。腱に沿って先端に向かう艶かしい指先に、喉奥から溜息のような吐息を吐かされる。
 唾液でふやけそうになる耳が解放され、妹の舌が首を経由して反対側へ移動した。顎を震わせ、無言の言葉に言い成りになってしまう。私の指先に力がこもり、彼女に気付かれないようひっそりとシーツに食い込まれた。
 抵抗の意思を微塵も感じさせない翼が無防備に弄ばれる。互いの衣擦れの音が暗闇に溶けていく。押し殺した声は鼓膜を通して頭に響き、全身を身動ぎさせた。
 妹の物欲しそうな吐息が身体を焦がそうとする。耳を嬲っていた舌が離れると、目を合わせた少女の唇が少しだけ開き、隙間から糸を引いて雫が降ってきた。光の灯らない部屋で艶かしい輝きを放つそれは、何の障害もなく私の舌に垂れ、奥へと侵入する。
 角砂糖をお湯に浸した時のように、翼が根元からぐずぐずになって溶け落ちる錯覚を覚える。しかし確実にそれは私の背に在り、現実と想像の境が曖昧になり始めた意識が溺れないようにともがき続ける。震える両手が、妹の身体を抱き締めた。



 長い、真紅の廊下を歩いていると、数少ない窓から陽光が入り込んでいるのを見付けた。窓際から反対の壁際いっぱいまで、そこだけ結界を張るかのように太陽の光で照らされている。陽の入り方からして、もう「朝」とは呼べぬ時間帯である事を知り、昨夜から妹と共にいた時間の長さに目を細めた。
 朝日が昇る瞬間は、見た事が無い。
 吸血鬼がそんな事を考えるなんて、誰が思うだろうか。その吸血鬼である自分自身でさえ、こんな事を考えるとは思ってもいなかったというのに。
 足を止め、窓を見る。遮光カーテンは無い。洗濯だろうか。
 このまま待っていても、この廊下を歩けるようになるのはずっと先になるだろう。踵を返して、元来た道を歩き始めた。
 太陽は吸血鬼の弱点だが、果たして太陽を見た事が無い吸血鬼は存在するのだろうか。この幻想郷には自分と妹の二人しか吸血鬼がいないから、自分以外にそんな馬鹿な事をする奴がいるのか分からない。少なくとも妹は「そんな馬鹿」な奴ではないが、禁忌とは得てして、欲求を強くするものだ。自分なら大丈夫、そんな浅慮と呼ぶにも阿呆らしい理由で、実際に太陽の下に出た吸血鬼。身が焦げる、という比喩表現も鼻で笑ってしまう、あの暴力的な光は正に百害あって一利無しだった。
 それでも日傘一つで太陽の光を防げるようになったのだから、人間という種族には感謝しなければいけない。感謝と尊敬の念を持って、毎日美味しく頂くのだ。何も考えずにただ貪るのは愚者がする事、私達吸血鬼は愚者ではない。その心根を妹に教える日が、いつか来るのだろうか。想像しようとして、そんな光景を全く映し出せなかった私は頬を歪めた。
 益体の無い思慮ほど、無意味な物は無い。
教えるつもりも、無いくせに。
 心の中で呟いた、自分への嘲りの言葉が辛辣だった。思っていた以上に胸が痛み、私は一歩も動きたくなくなってしまう。そのまま、錆付いた機械が悲鳴を上げて力を出し尽くしたかのように、緩慢な歩みがゆっくりと止まる。
 歩くにはあまりにも長い廊下の向こうから、誰かが飛んでくるのが見えたのは、その時だった。
 妖精メイドが一目散に私へ駆けてくる。目を細めてそれを見つめた私は、その数が一つでは無い事に気付いた。
 先陣を切っている妖精は今のメイド長だったか。妖精には似つかわしくない気質の彼女は、常に冷静であろうとしている。それが空回るのが面白くて、たまにからかって遊ぶのだ。
 今も彼女の表情は恐々としていて、直視出来ない何かを目の当たりにしてしまった、そんな焦燥と躊躇いが窺える。それは彼女に続く他の妖精達も同じなようで、皆一様にして青褪めているようだ。
 何がそこまで、彼女達を追い詰めたのか。
 考えようとして、直ぐに思い至る。それを仕向けたのは他ならぬこの自分であり、それを成してみせたのが他ならぬこの自分の妹なのだ。そう、考えるまでも無かったのに。私は今の今まで、彼女達の必死な形相を見るまで、すっかりその事を失念していたのだ。
 妖精メイド長が部下を引き連れ、私の前で急停止したかと思えば、身振り手振りを交えて慌しく報告を始めた。
 妹様が。人間が。あの子が。
 感情を露にした、まるで論理的ではないただの単語の羅列。説明にすらなっていない説明を聞いていると、耳元で小鳥が囀っているかのように錯覚してしまう。
 私が表情も変えずに沈黙しているのを、彼女はどう受け取ったのだろうか。メイド長は喋るのを止めると他の者達にも口を閉ざすように言い、少しだけ落ち着いた様子で私の手を取った。掴まれた私の手は、何の嫌悪も抵抗も見せる事無く、彼女によって目の高さまで持ち上げられる。
 ゆっくりとした動作を追う、私の視界。それは見事に誘導されて、ここにきて初めて彼女と目が会った。

 「お嬢様。妹様が、あの人間の子を、殺そうとしています」

 今までとは打って変わった、澄んだ滝のように凛とした、はっきりした声。
 それが彼女の口から発せられたものだと認識してから、私は小さく小さく頷いた。

 「分かっているよ。パチェを呼んで来てくれ」
 「パチュリー様は、既に、地下へ、向かっております」

 そうか。最後まで言い切る事無く、頭だけが理解したかのようにかくんと垂れる。これは自分の身体では無い。そんな奇妙な思い込みが胸を埋めたが、それも一瞬だけ。
 彼女の手はいつの間にか私から離れていた。空っぽになった事に気が付いた手が、事切れるように落ちていく。
 妖精達に見守られながら、私は地下へと向かって歩きだした。



 図書館から続く妹の部屋までは、何も見通せない程に暗く、破れそうにない程空気が重く、躊躇う程の圧力を持っている。暴虐的な冷気を孕んでいる、そう私に伝えるかのように肌が慄く。この道を通る時は、いつもそうだった。
 パチェにそうと言った時、その表情は変えずにじっと瞳の奥を覗き込まれた事があった。胸の奥深くまでを暴いてしまうような、乱暴な視線では無い。かといって、慈愛や友愛の籠められた、暖かく包み込むような視線でも無かった。そんな彼女の視線を浴びて私が感じた事は少ない。言葉すら返してくれなかったその時、私はなぜだか彼女の目が怖くて怖くて、仕方なかったのだ。
 その時目を逸らしたかどうかは、覚えていない。

 「レミィ。遅い」

 妹の部屋の前まで来た時、魔女は常と変わらぬ様子でそこに立っていた。
 その足元では黒ずんだ血溜まりが鈍く光っている。光源など、こんな地下にある筈が無い。そう思って視線を魔女に向けると、彼女の手にした本が淡く輝いているのを私の目が捉えた。それだけで光源の説明が付いてしまう。魔法とはつくづく便利なものだ。
 こちらを見たまま微動だにしない彼女は、それっきり口を開こうとしなかった。目だけはしっかりと私を見つめているのに、縫いとめられた布切れの如く唇は固まっている。
 批難がましい彼女の雰囲気から意識を外し、彼女の足元に転がる、妖精に報告された人間に近付く為私は歩みを進めた。ぱしゃり、と音を立てて真っ赤な靴が黒く染まる。

 「レミィ。遅い」

 再度、彼女の声が全く同じ口調、声量で紡がれた。
 足は止めずに、短い返事だけを返す。

 「悪かったわ」

 それだけ聞くと、魔女は私から興味を失い、気を失っている人間に目を移す。釣られて、私も再び人間を見下ろした。
 銀髪のショートヘアは私がよく知る誰かを彷彿とさせ、その体型も私の幻視に拍車をかけようとする。細くきれいな指はその一本一本が頼りなく、悪魔の館にあっては異物にしか見えない。ただ、メイド服を着ている事からかろうじて私の従者なのだと判別出来る。うつ伏せに寝かされた体勢のせいで顔が見えず、本当に私の知っている人間がこの死にかけた肉塊なのかと疑ってしまう。
 その体形は一見すると正常に見えたが、これだけの出血を考えると、腹に穴でも開けられたのかもしれない。それなら何故仰向けにしないのか理解出来なかったが、魔女が考える事を察しようとしても無駄だ。私は魔女ではない。当然、その知識も無いのだから。
 顔を上げると、ちょうどパチェが私に向かって何事か喋っていた。彼女にしては早口な言葉は私の耳に留まらず、掌からすり抜ける水のように捕らえる事が出来なかった。

 「パチェ、悪いけどもう一回言ってくれないかしら」

 まだ喋っている途中だった彼女を遮る。一瞬目を剥いて驚いてみせた彼女は、何かを思い出したのか納得したように頷くと、いつもと同じリズムで話始めた。

 「この人間は、見ての通り、死にかけてる。貴方が、望んだ通り、吸血鬼の、力によって。今は、私の魔法で、無理矢理、魂と、身体を、結び付けてる。契約するなら、さっさとしなさい」

 重要な単語を、私が聞き漏らさないように一区切りづつ話す魔女。短く簡素な内容だったが、話終えた彼女はひどく疲れたのか、眉をしかめて私から目を逸らした。
 聞き間違いが無かったか、一度自分の頭の中でその言葉を反芻し、事が私の望んだ通りの展開になっているのを確信してから、私は続きを促した。

 「準備は出来てるわ。彼女の意識を、私と会話出来る程度に戻してあげて」

 嘆息が聞こえる。あまり乗り気ではないのか、億劫そうな魔女は手にした魔道書を開く動作も遅かった。
 その間に、私は懐から懐中時計を取り出す。濁り、色褪せた銀色の時計はその質量に反して重かった。
 かつてこれを手に、縦横無尽の強さを誇った従者を思い起こす。その頃は普通の魔法使いを名乗る人間もいて退屈しなかったのだが、気が付くと彼女達は私の前からいなくなっていた。
 懐中時計が、そのチェーンを揺らす。鎖まで醜くなってしまったこれは、本当にあの従者の持ち物だったのだろうか。彼女は死の間際までこれを大切にしていたのか、いつ見せて貰ってもその姿は磨かれ、美しかった。

 「レミィ」

 魔女の呼ぶ声が、私を現実へと引き戻す。見れば、従者の姿をした人間は仰向けにされ弱々しく私を見つめていた。気を抜けば直ぐにでもその瞳が反転しそうな憔悴した表情が、この私を見ている。その姿から、パチェが目を逸らす。この人間の、そんな姿は見たくない。そう、その表情が語っている気がした。
 私は彼女の頭、直ぐ隣に膝を付き、懐中時計がその目に映るように眼前に翳した。床と接した膝に、血が染み込んでいく。

 「人間。お前は私に永遠の忠誠を誓った存在だ。永久なる従者を、お前の主が見捨てる事は無い。ただ、選択を与えよう」

 彼女は私の言葉が聞こえているのかいないのか、かろうじて焦点を合わせている瞳で懐中時計を見つめている。

 「死んで魂だけの存在となり、主が滅ぶまでその隣に無言のまま寄り添うか。生きて化け物となり、主の傍で恒久なる忠誠に身を捧げるか」

 私の背後、パチェが身じろぐ気配がしたが、無視する。今は大切な時。私にとっても、この人間にとっても。
 懐中時計を揺さぶる。

 「前者なら目を閉ざし、後者ならばこれを掴み取れ」

 人間が目を見開き、死力を振り絞って右手を浮かそうとしている。
 会話が出来る程度にしか回復していないのだから、普通に考えればそんな力は彼女に残っていない。私は黙ってその行為を見続けた。
 ひゅーっ、ひゅーっ、と風が吹く音がする。しかしここは地下、風が吹く道理などない。耳を澄ませて、その風がどこから吹いてくるのか感じ取る。言葉に出来ぬ表情で懐中時計を睨み付ける彼女の首。そこに鋭く小さな孔が開けられていた。妹の如何なる仕業なのか、即死しないように調整されたその傷跡はきれいな円を描いている。
 悲鳴を上げる事も出来ず、命乞いをする事も許されず。生かさず殺さず嬲られただろう彼女は、それ故になのか生きる事に執着しているようだった。
 その姿を見た人間は、果たして何と彼女を評するだろう。私には、化け物にしか見えない。
 人間が化け物へと成るのに必要な物は、その土台だけだ。この人間は、それを十分有しているようにも見える。
 十六夜咲夜という化け物に成る為の、この儀式。何人もの骸を築いてきた黒魔術は、やがて無念を溜め込んで他人を蝕む呪法となる。その前に、そうなる前に、それを受け止める器が必要だ。
 吸血鬼を滅ぼす力、それを身に宿す為の魔術に耐えられる人間は殆どいない。この人間も、またその一人となるのだろうか。
 彼女の再来を望む私に、その姿を見せてくれ。
 一際大きく、風が吹き荒ぶ音が響いた。
 チェーンを握っていた私の手から、それが零れ落ちる。
 懐中時計を手にした人間が、神に祈るが如く私を見上げていた。
 肌が粟立つ感触。その刹那、私の翼が悲鳴を上げる。太陽の光を浴びて根元から蒸発していくような焦燥と不安定感。このまま何の処置もしなければ私の存在が翼ごと溶けて無くなってしまいそうな、そんな危うい予感が背中を焼き焦がそうとする。翼の感触が完全に消える、その一歩手前で私は翼を大きく広げた。
 風を切る音と共に、正常な姿で翼は私の背に在った。

 「今からお前の名は、十六夜咲夜だ。人間」

 少女に告げた自分の声はあまりに遠く、自分の発した声だとは到底思えなかった。



 夜が近い。紙の上に赤の絵の具をぶちまけたような色の空。紅魔館よりも不気味な鮮明色を放つ夕暮れは、私の身を焦がす神の色だった。
 身体が軽くなったような気がする。長い間、肌身離さず持っていた懐中時計を手離したからだろうか。
 ふわふわとした浮遊感などではない、地に足が根付くように立っている感覚が全身を覆っていた。
 あの懐中時計は、私にとって重荷だったのだろうか。それとも、次へと進む為の必然的な喪失感なのだろうか。
 うろんげな思考を働かせようとして、木が軋む音に首を巡らした。
 私の手元、テラスの手摺がひしゃげていた。これは、元からこういう形だっただろうか。
 当然そんな事は無い。きっとこれも、私が引き起こした一つの結果なのだろう。これは自分の身体では無い。そんな夢幻が、また私の中に浮かんでは直ぐに消える。
 日が沈む。夜が広がるのだ。
 翼を広げ、庭へと羽ばたく。真紅に染まった庭園は真っ赤な薔薇が作り出した魔の光景だった。赤い館に赤い庭園が栄える事は無く、ただただ我侭で自己中心な想いがそこには詰め込まれている。
 もうそろそろ、花が枯れるかもしれない。
 いや、きっとまだまだ咲き続ける。
 私の大切な大切な、たった一つきりの宝物よ。私が貴方と共にいる事を、貴方は許してくれるだろうか。
 花は応えず、ゆらゆらとその身を静かに揺らしていた。
 当たり前の反応が期待を裏切る事無く返されて、私はそれ以上見下ろす気になれなくなる。地に足を下ろし、翼をたたむ。
 石造りの道が足音を響かせた。響く程も狭くないのに、しっかりと耳に届くのは自分の足音だからか。手入れの行き届いた様子から、妖精と美鈴がよく仕事をこなしているのが窺える。泥の跡も雑草の抜き残しも見られないこの道を、足音だけを響かせて歩く。
 鉄格子の門の向こうに、美鈴の肩が覗いていた。何と声をかけようか、そう思う間にも距離を詰めて、結局鉄格子を目前にして無言のまま停止してしまう。
 目の前の黒い棒を掴む。冷たい鉄の感触が心地良かった。美鈴に声をかける。

 「咲夜が出来たわ」

 門番という仕事柄だろうか、それとも格闘家という妖怪性からか、彼女は驚く様子も無く私の方へと向きを変え、朗らかに微笑んだ。

 「おめでとうございます、お嬢様」
 「ええ、ありがとう」

 その表情に、憂いは無い。少なくても、私の目からは無いように映った。その心の内ではどんな罵詈雑言が私へ向けられていても不思議ではない。
 彼女は結局、最初から最後まで私に従順であった。おそらく彼女の最も大切であろう思い出を踏みにじろうとしている私を、彼女は責めようとしない。その素振りも見せない。前の咲夜が殺された時も、彼女は恨み言一つ零さなかった。
 血で染まった記憶。地下室で切り裂かれるように息を引き取った私の従者には、抵抗した形跡がしっかりと刻まれていた。あまり思い出したい記憶では無く、しかしそれも妹の行動の結果だと思えば私には瑣末な時事でしかなくなる。それが申し訳なく、また誇り高くもあり、従者の死と妹の存在が切っても切り離せぬ関係だと知った時、翼に酷く痛みを覚えたのを思い出した。
 いつからか、私の翼は意思とは関係なしに、また外的要因が皆無であれ、謎の発作を起こすようになった。それが仮に、妹が消し飛ばした数々の命への無意識の贖罪であったのなら、こんなに嬉しい事は他に無い。

 「明日には動けるようになると思う。門番の代わりを寄越そうか?」
 「いえ。それには、及ばないですよ。私の、仕事は、この紅魔館を、守る事ですから。いつかまた、機会があれば、改めて、自己紹介します」

 変わらぬ笑顔でそう口にした彼女が門を開く。鉄の擦れる音が閑々と門を揺らし、私を外へと向けて誘った。
 紅魔館から一歩踏み出すと、視界から溢れる程の景色が広がっている。これらは全て幻想郷の内側であり、元いた世界と比べればずっと狭く偏執的である筈なのに、私の世界はそれより遥かに小さくて、固執的だ。
 こんなにも私を囲む空間が無限のように続いていると思うと、目眩が込み上げてくる。空を見上げ、湖を眺め、森を視界に映す。それだけの行為では到底量れない私がいるこの世界は、小さな私には大きすぎるのだ。それでも、ここから拒絶された妹の身の上を思うと、私がここにいつまでも立っていなければならない気がしてくるから不思議だ。妹の精神と私の存在理由は繋がっていないのだから、私がいつまでもここに立っている理由は本当は微塵も無いのに。だから私は、紅魔館を囲む赤茶けた壁に背を預け、草地に腰を下ろした。
 一方の美鈴は門を閉めると、わざわざ私の隣で番を再開する。当て付けだろうか。そんな思考が頭を過ぎり、ここが元々美鈴が門番をしていた場所だと思い至る。彼女の邪魔にならぬよう、門を挟んだ、隣の館壁へとその身を移し、再び座り込んだ。

 「お嬢様、私の、隣は、嫌なんですか?」

 移動してから直ぐに哀しそうな声が聞こえ、私は三度場所を移すことになった。
 正面ばかりを見つめていた彼女の瞳が、私を映し込む。

 「風除け、くらいには、なれますよ」

 風なんて吹いていただろうか。そう思い、神経を澄ませるとわずかにながら肌に感じる程度で確かに吹いていた。しかし、どう考えても風除けが必要な程では無い。
 そんな私の思考を読んだのだろう、彼女は私の返事を待たずに言葉を続けた。

 「吹く風では、ありません。お嬢様が、感じてる、不安の、風です」
 「私が?」

 不安を、感じていると、そう言いたいのだろうか。

 「わざわざ、咲夜さんが、『出来た』、なんて言い方。私に、気を、遣ってるんじゃ、ないですか?」

 私の身体と壁に挟まれた翼がもがいた。まるで、ここから飛び去ってしまいたいと主張するかのように、翼はもがき続ける。

 「人は、放っておいても、勝手に、死んでいくんです。妖怪は、放っておいても、人を、殺すんです。あるべき流れが、あるがままに、起こった。ただ、それだけの事なんですよ?」

 彼女の言葉を聞きながら、私は背中を強く壁に押し付けた。暴れる翼を、これ以上抑えられそうになかったのだ。
 けれど、その翼は一瞬にして嘘のように沈黙する。

 「お嬢様は、あの時、救えなかった、咲夜さんを。救いたかったんですか?」

 彼女の言葉を聞いて、弾かれたように顔をそちらへ向けた。そんな事、そんな事、そんなおこがましい事、私は考えた事なんて無い。
 そう言おうとした言葉は喉に張り付き、あたかも彼女に聞かせたくないとでも言うかのように、頑固なまでに喉奥でへばり付いたまま、最後まで私の意思に逆らい続けた。まるでそれが、私の本当の意思だとでも主張するかのように。
 私は何も言えずに彼女の顔を見つめ続けた。あの時救えなかった咲夜。私が駆け付けた時には既に彼女は死んでいて、床に転がる肉片と壁にこびり付いた内臓と血管が毒々しく、そして返り血で染まった妹はただ静かに微笑み佇んでいた。
 あの時も何も言えなかった私は震える膝を黙らせる事も出来ないまま、目の前の惨状を口を開けて阿呆のように見つめているだけだった。やがてその後、動けないでいる私の代わりに妖精を従えた魔女が迅速に遺体を外へと運び出し、不気味なまでに何も行動を起こそうとしない妹の動きを魔法で封じ、出ていった。
 静寂が包み込んだ地下で正真正銘私と二人っきりになった彼女は初めてその唇を動かした。事も無く魔女の封印を破ると悠々とした足取りで私の目と鼻の先まで近付き、そして舌を突き出す。真っ赤な舌の上に乗っていた物は死んだ咲夜の心臓の一部に見え、私がそうだと認識する前にそれは再び彼女の口内へと収められる。
 見つめる以外に、何かすれば良かったのだろうか。彼女は黙って私に口付けるとその舌を口腔へと侵入させ、口移しで咲夜の心臓を私に含ませた。私は細切れにされたそれを飲み込んで、彼女の唇から離れ。彼女は妖しく微笑んだかと思うと私の唇を求め、私はそれに対して何も言えずに受け入れた。
 人間の心臓が美味いとその時に知り、以来、私は妹の度重なる求めに応じ続け、この身を貶め続けている。
 この私が、そんな私が、咲夜の心臓を食して美味いと評した私が、愚かにも咲夜を救いたかったと、そんな事が言えるのだろうか。
 死んだ者の為に涙すら流せない吸血鬼が、未だに死者を求めて怪しい儀式を行っているように。私が咲夜の為に何かをしてやる事など、一切在り得ない。
 追憶が治まると、翼はその荒々しい高ぶりが気のせいだったとでも言わんばかりに落ち着いていた。

 「美鈴」
 「はい」
 「さっきまで、私の翼はどうなっていた?」

 壁から背を離し、己の背中を彼女に晒す。いつまで経っても帰って来ない返事に頭だけ振り返ると、彼女は変わらぬ笑顔で悲しそうに呟いた。

 「……そろそろ、風が、強くなります。館に、お戻り、下さい、お嬢様」

 いつの頃からだったか。
 そう、力無く零す彼女に促されて、私は門を潜る。後ろを振り返る事など、最早私には許されていないように感じてしまい、私は美鈴の顔を見る事も無いまま、館へ戻った。
 いつの頃からだったか。そうして、私は心を通わす相手を失いつつあった。



冷たい私の肌を、冷えた彼女の指が艶かしく這っていく。
 私はベッドの上でうつ伏せにされ、馬乗りになった彼女の成すがままとなっていた。
 うなじに暖かい吐息が吐きかけられる。身体を震わせる暇も無く、生ぬるい舌が肌を撫でる。唇の感触を感じると、そのまま貪るように啄ばまれた。唾液に濡れた首筋に玉の汗が浮かんでいき、それも一緒に吸われると私の身体の全てが彼女に支配されているかのように感じてしまう。
 柔らかな妹の身体を服越しに感じ、肌が剥き出している場所にしか手を出さない彼女の意図を探ろうとして、指に指を絡められる。揉み込むような動きに絆されて、全身が弛緩していく。耳の後ろで喉が鳴る音がして、目を閉じた。
 花弁を摘むように耳垂を摘まれ、指先でくりくりと弄ぶ仕種に腰が小さく跳ねてしまう。上から抑え付けられるように身体を重ねられ、私が大人しくなると両耳に彼女の指が伸びてきた。耳介に沿って指の腹が中心へと近付き、孔へと這入り込む指の大きさに唇から吐息が零れ落ちる。
 湿った私の声に反応して、彼女の吐息が顔に接近する。頬と頬を擦り合わせ、彼女の唇がある方へ私のその顔が向きを変えさせられると、頬を吸われ、鼻先に口付けられる。舌を出した彼女に閉じた目蓋を執拗に弄られて、私はゆっくりとその目を開き、彼女の目を見た。
 視線が合うと唾液で濡れた私の顔を舐め始め、彼女の舌の動きを感じる度に身を捩じらせてしまう。髪を指で梳かれ、頭を撫でる仕種に震えが止まり、私が落ち着くと彼女は顎に唇を重ねた。甘く噛まれる感触が輪郭を辿り、指を挿れられた耳孔でその位置が入れ替わると、彼女が奏でる水音が私の鼓膜を響かせる。指が唾液を広げるように顎を擦り、半開きになった私の唇を摘むと指を挿し込んできた。
 細く、けれども太いそれは私の歯茎を撫で、舌を擦り、唇を摩擦して抽送を繰り返す。第二間接までしか入り込まないそれは催促するように私の裏頬を突き、私の舌は彼女の指にその身を絡ませた。
 たどたどしく躊躇う動きの私とは違い、彼女の舌は迷う事無く私の耳を唾液で染めていく。足を擦り合わせた私を叱るように耳朶を噛んだ彼女に、翼が痺れた。
 途端、私の感覚の全てが翼に集中する。それは晴れた夜に雨が降るかのように突然で、理不尽な熱だった。熱さによる熱ではない、雨で蒸発していくような熱が翼を襲い、しかしそうかと思えばその熱は急速に冷め、どろどろとした半固形物が掌で潰されるように形を変えていった。やがて翼を形成する骨格が溶けて無くなり、飛膜までもが溶け落ちていく。
 私が悲鳴を上げようとした直前、彼女に翼を撫でられた。それは赤子が母親に抱き締められて泣き止むように私を安堵で包み、私の意識はそのまま暗く深い底へと沈んでいった。



 朝日が昇ったのだろう、廊下のどこかしこもに暗幕が張られているのを見て、私は溜息を吐いた。
 地下から戻った私を迎えたのは、昨日出来たばかりの十六夜咲夜だった。

 「おはよう、ございます。お嬢様」
 「おはよう」
 「朝食の、準備が、できていますわ」

 その口調、身なりは、紛れも無く私の知る咲夜だった。
 私は気分が悪くなり、吐き気を催す不快感に襲われたがそれをこの咲夜に悟られるような真似はしたくなかった。平静を装いただ頷いて、いつものように食堂に向かう。
 その足取りはきっといつものように軽快で、彼女が疑いをかける余地なんて無かった筈なのに、私は彼女に呼び止められてしまった。

 「お嬢様、お待ち下さい」

 止めたくも無い足を止める。聞こえたのだから、仕方が無い。けれども振り返る事はせず、私は背中を向けたまま彼女に対応した。

 「食事の準備が出来ているんじゃないの?」
 「ですが、ご気分が、優れなさそう、でしたので」
 「それを判断するのは、貴方の仕事?」

 一拍置いて、頭を下げる気配がした。

 「失礼、しました」
 「いい」

 一言だけ許しの返事を出して、私は今度こそ食堂へ行った。
 朝食と言っても、大した事は無い。私が小食故に、テーブルに並べられているのはコップ一杯の血液だけだった。
 準備も何もない食事を前に目を細め、あまり喉を通す気にならないそれを見つめる。胸から喉にかけての不快感は未だにしこりのように残っていて、今も私の背後で突っ立ったまま待機しているであろう少女を気味悪く思う自分に辟易した。
 それが咲夜としてそこに在るのは、全て自分のせいだというのに。
 気を取り直して、私はコップを手に取った。中の血液が揺れるのを見つめ、合わせて気持ち悪くなる事を自覚する。さすがにこんな経験は今までに無く、どうにも喉を通らないだろうそれは今の私には飲めそうになかった。
 後ろに控えていた少女に、声をかける。

 「咲夜。下げていいわ」

 私の言葉に従ってコップを片付けようとした彼女の手が止まる。一口も付けられていないのを見て、手を引っ込めた。

 「咲夜?」
 「お言葉ですが、お食事が、まだ、終わって、いません」

 従順とは程遠い言葉。主が下げていいと言えば黙って下げればいいのだ。それをこれは全部食せと言う。
 気分が悪くなるのを通り越してむかむかとしてきた私は両手を机の下に引っ込めた。テーブルの上に残されたコップから視線を外し、私の正面やや右に立つ反抗的な少女を睨み付ける。
 彼女は私の視線に動じる事無く、寧ろ睨み返す勢いで見つめ返してきた。これでは意地の張り合い、不毛な時間を過ごす事になる。そんな無駄な時間はご免被りたい。
 私と彼女の間で暫く静かな時間が流れた。こうしてよくよく見てみると、彼女が前の咲夜とは全くの別物である事が殊更によく分かる。髪の色は同じだが、顔がずっと幼い。ように感じる。つぶらな目はまだまだ少女を思わせ、濡れていない唇も前の性格を考えると気の使い方が違う。胸を張るような立ち方もそう、彼女は真っ直ぐぴしゃりと立っていたが、この咲夜は少し背を反らせているようだ。一目で分かるのは身長か、私より少し背が高い程度のこの少女が彼女と並ぶと、きっと子供にしか見えないだろう。
 不快感が少しだけ薄くなった気がした。これは咲夜であって咲夜でない。咲夜ではあるのだが、別の咲夜なのだ。名付けたのは私であり、これにその罪は無い。私は視線を逸らし、テーブルに片肘を付く。

 「彼女の、名前は、何と、言うのですか?」

 私が血を飲む気がさらさら無いと悟ったのか、咲夜が話題を変える。一瞬誰の事を指しているのか分からなかったが、咲夜と面識があって、咲夜が名前を知らない存在が一人だけいた。
 妹の顔が頭に浮かぶ。その表情までは、浮かばなかったが。

 「貴方が知る必要は無いことよ」

 私は短く答え、それで会話の終わりを示した。が、それでは納得出来ないのか、咲夜の表情は問う色を崩さない。

 「いいえ。私が、仕える、お嬢様の、ご家族、なのですから」

 家族。
 頭が痛んだ。骨の芯から身体を砕かれるような激痛。呻き声を上げそうになり、顔を伏せる事でそれを堪えた。
 家族という言葉が、酷く空々しく聞こえる。私は既に、彼女の事を家族として、妹として見ていないのだろうか。不安が頭を過ぎり、それを肯定するように毎夜の行為を思い出し、自身の彼女に対する想いを振り返ってみて、否定した。
 ここ数十年、私から彼女に声をかけた事は無い。不思議な事に、彼女の方も私に声をかける事はしなかった。毎日顔を合わせているというのに、お互いに名前を呼び合う事も無く、私達姉妹は互いを想い合っている。歪んでいる、という声がどこからか聞こえ、これが私達の正常だ、という叫びがどこからか轟いた。そんな事は、どっちでもいい。
 顔を上げると、咲夜が焦燥感を漂わせて私を見ていた。私の頭痛を察したのだろう。手を出さなかった所を見ると、忠誠心はちゃんとあるようだ。

 「貴方が言っているのは、私の妹の事よね」

 私の言葉を聞いて、これ以上この話を続けてもいいのか迷ったのだろう、眉を顰め逡巡する気配があったが、結局彼女は頷いた。私は頭を押さえながら、口を開く。

 「あの子は私の大切な妹よ。他にない、私だけの私の宝物よ。そう、貴方よりも大切なの。貴方の命一つじゃ天秤にかからない程、あの子は大切なの。私のたった一人の妹よ」

 分かった?
 頭を押さえて呟いた私の言葉をどう受け取ったのだろう、彼女は頷く事もなく、首を振る事もしなかった。
 咲夜は戸惑いを隠せない様子だった。会話を続けるべきか、それとも私の体調を診るべきか、判断が付かず困っている。そんな表情だ。私がこの体調不良の事に対して何も訴えないからだろうが、まだまだ従者としての質は低い。
 私は椅子に背を深く預け、吐息を大きく吐いた。頭痛は大分治まってきている。

 「気にしなくていい」

 妹の話題の事か、それとも私の体調の事か。まだ迷っているのだろう、曖昧に頷いた彼女を見るに、分かっていなさそうだと私は目を細めた。
 テーブルの向かい側を指で指す。

 「座れ」

 無言のまま、彼女はそれに従った。こういう素直な所は、前の咲夜には無かった部分だ。何かに付けて直ぐに従者だメイドだと文句を付ける彼女は、今思うと案外扱いにくかったかもしれない。
 向かい合う形で座る咲夜の表情は、どことなくいつもよりも硬い。露骨に拒絶したつもりは無かったけど、それも彼女がそうと捉えてくれないのなら私が無神経だった、という事なのだろう。

 「私は別に、身体を悪くしてない。強いて言えば少しだけ頭痛を感じてるけど、気にする程のものでもない。それと、咲夜が妹の事を気にする必要も無い。今は、ね」

 私の言葉に引っかかりを覚えてくれた咲夜に、努めて優しく見えるよう微笑んだ。

 「そのうち、嫌でも分かるようになる。少しずつ。お前は私達の、家族なんだから」

 寒い言葉だ。自分で言っていて、笑い出したくなるような白々しさが私の言葉にはあった。その場しのぎ以外の何でもない怠惰な言い訳だ。自分の内を曝け出したくなくて、もっともらしい言葉を並べてるだけの臆病な建前だ。
 そう自分では感じながらも、目の前の咲夜の、納得したような、嬉しそうな顔を見ているとそれでもいいか、と思えてくる。嘘でも偽りでも偽善でも、本人がその事に気付かないでいる内は幸せを感じていられるのだから。
 もう私の頭痛は随分なりを潜めていた。今ならこの忘れられた血も飲めるかもしれない。そう思って手を伸ばしかけた時、咲夜が私に問いかけてきた。

 「もう一つ、よろしい、でしょうか」
 「言ってみなさい」

 私の手は机の下と、テーブルの上で肘付いたままだった。

 「私の、前の、十六夜咲夜は、どんな人、だったのでしょう」

 それは彼女にしてみれば当然の疑問だろう。自分の知らない誰かになる事を求められ、それも比喩ではなく実際に命掛けでさせられたのだ。そこまでして無理難題を遂げさせる理由が、「十六夜咲夜」という人物に秘められている、と。そう誤解するのは不思議じゃないし、こんなふうに疑問を抱くのが寧ろ当たり前。

 「ん……」

 どう答えたものか。聞かれる覚悟はあった筈なのに、いざこうして聞かれてみると彼女にまつわる一切の事が説明出来ない。
 あれは生意気な従者だった。あれは猫舌だった。あれは掃除が上手かった。飄々としていて、そのくせしっかり忠誠心を見せてくる。永遠に傍にいる事を、拒まれた事もあった。まさか本人も、あんな形で死ぬ事になるとは思っていなかっただろう。
 お腹をさする。まだ胃のあたりに咲夜だった物の一部があるような気がしたが、そんなものは一時の気の迷いが起こすただの気のせいに過ぎない。
 私は咲夜を見つめ、言える事だけを言った。

 「あれは、生意気だったよ。お前のように素直な女じゃないし、主の我侭は聞いてくれたが、あまり積極的では無い時が常々あったな。きれいな女だった。人間にしておくには勿体無いと思えるくらいには器量が良かった。紅魔館を代表する、幻想郷の住人でもあった」

 実際、彼女がいなくなってからは、この幻想郷で紅魔館の存在は一気に薄れた。誰も彼もが率先して交流しないのだから、それも必然。人の心から置き去りにされ、時の流れに取り残された悪魔の館。それでも、新聞だけはしっかりと届くのだから、外との繋がりは簡単に断ち切れるものでは無い。

 「後は、そうだな、一番記憶に残ってる事がある。それだけはお前にも出来るようになって貰わないと困る」

 そう言って薄く笑った私に、咲夜が肩を張る。可愛い奴だ。素直にそう思った。

 「あいつはとびきり、紅茶を淹れるのが上手かった。時々変な物を混ぜる習性だけはどうにもならなかったが、味は確かだったから結局そのままにさせてた。いいか、紅茶に何を混ぜてもいい。前の咲夜より旨い紅茶を、お前が淹れろ。咲夜」
 「はい」
 「今のところ、それがお前に望む、唯一にして最大の仕事だ」
 「分かりました」

 力強く頷く彼女を見て、どこか懐かしい気持ちになる自分を感じた。真っ先に頭に浮かんだのは、血液入りの紅茶。血液入りのケーキ。今のようにただ摂取するだけでもいいのだが、少し洒落てる方が味があっていいだろう。

 「もう一つ。咲夜」
 「はい」
 「瀟洒でいろ」

 これには、返事に少しだけ間があった。

 「分かりました」

 瀟洒なんて言葉、この人間は知らないかもな。そう思って説明しようか、という気持ちが湧き上がるものの、瀟洒とは何かと聞いてこなかったのだ。きっと自分で調べ、自分なりに解釈するだろう。
 彼女という新しい住人が、これからどんな風を紅魔館に吹き込むのか。珍しく、私にしては本当に珍しい事に、それを思うと少しだけ楽しみだった。
 久しぶりに有意義な時間を過ごせたかもしれない。私は席を立とうとして、まだ食事を取っていない事に気付く。今度こそそれを飲もうとして、ちら、と咲夜に視線を飛ばす。まだ何か言いたげな表情がそこにあり、食事はそれを全て受け止めてからにしようと決めた。

 「まだ何か、聞きたい事はある?」

 私は彼女にとって、自分を、吸血鬼を殺せる化け物にした張本人なのだ。恨み辛みもあるかもしれない。抱いていない方がおかしいだろう。そんな私を前に、聞きたくても聞けない事など、幾らでもあるに違いない。
 だから私の方からこんな質問をしたのだが、果たして、咲夜は私にとって甚だ見当違いな事を聞いてきた。

 「前の、咲夜が、いた時は、ここは、活気に、溢れていた、と聞きます。交友関係も、今より、ずっと、あったとか。以前は、どんな人達が、この幻想郷に、いたんですか」

 それはおかしな質問だった。そんな事を聞いてどうするのだろう。もっと他に聞きたい事があるんじゃないのか。
 まだ私に引け目を感じているのかもしれない。そう結論付けた私は、彼女の質問に答える為に出来るだけ思い出して昔の話を語った。
 当時の博麗の巫女が、いかに横暴だったか。理知的ではなく、勘に頼るような彼女は力ずくで物事を解決する事に長けていて、どちらかといえば妖怪側と似通った性質が私には好ましかった。
 自身を普通の魔法使いと名乗る人間がいて、そいつがよく図書館から本を盗んで行った。本人は借りるだけと言っていたが、彼女が死ぬまで回収出来なかった大量の書物を考えると、限度という言葉を噛み締めたくなる。
 いずれも今はどこで何をしているのか、ようとして知れないが他にも色んな奴がいた。
 半人半霊という存在は幻想郷でも珍しく、純粋な幽霊とは別種の曰く言い難い何かは実に生真面目だった。月から来たというおかしな服を着た兎はどこか自信無さ気に見え、からかうと楽しそうな気質を持っていた。大鎌を持った死神は掴み所の無い奴だったが、その一癖も二癖もある人格が私は好きだった。今でもたまに新聞を届けに来る鴉天狗とは、実はまだ少しだけ交流がある。たまの雑談は楽しい。逆に魔法の森の魔女とは、あまり話をした事が無いかもしれない。面と向かって会話らしい会話をしたのは、とある異変の時くらいだったか。妖怪の山に神社を建てた奇抜な信仰集団もいた。あそこの巫女は人間では無いというから、きっとまだ現役なのだろう。騒がしい印象しか持っていないが。
 それに、八雲紫か。

 「あいつはね、絡むもんじゃない」
 「幻想郷の、管理者、と聞きました」
 「管理者だろうが何だろうが、あいつとだけは絡みたくない。正確に言えば、関わりたくない。直接にしろ間接的にしろ、ろくな事にならないからな。まず被害を被るのは決まってこっち側だし、何をしようとしてるのか、協力を求めておいてその内容までは語らない。気に入らない奴さ」

 敵意を剥きだした私の言葉に、咲夜が目を丸くしていた。そういえば、こいつはその八雲紫に連れられてこっちに来たんだったか。
 あまり悪く言わない方がいいか、そう思った時。

 「何もそこまで言わなくてもいいと思います。彼女は彼女なりに、貴方の事を心配しているんですよ? 私が紅魔館に連れられた時の事は今でも鮮明に思い出せる、行き場を無くした私を受け入れてくれるのがここだと、そう彼女から言われた私を笑顔で優しく向かえてくれたのは、貴方だったじゃないですか! あの時は彼女とも仲良さそうに話していたのに、どうしてそんな事が言えるんです!」

 突然、堰を切ったような彼女の叫びに当てられた。今までの遠慮した風な、馴染もう馴染もうとする他人行儀な態度では無い。本物の感情が籠められた、紛れも無い彼女本人自身の言葉全てが私にぶつけられる。本来なら、往来の私なら、感情の発露を受け流したりはしないだろう。身内となる人間の感情を受け止めれずして、何が家族か。そう、本来なら、私にはその言葉の一語一句を、余す事無く捉え吟味する事が出来たというのに。
 今の私では、最早彼女の言葉を聞き取る事すら出来ないのだ。

 「……ごめんなさい。今のが、貴方の本音だというのは分かるの。でも、私にはそれを聞き取る事が出来ない」

 聴力の低下、なんて生易しいものじゃない。そもそもが、認識する力自体が衰退していっているのだ。
 人から話して貰う時は、聞き取りやすいよう、単語単語を一つ一つ、丁寧に話して貰わなければ何を言っているのか分からない。私の身体は齢三桁にして、既にガタが来ているのだ。
 彼女に謝罪したい気持ちで胸の内が溢れていた。視線を合わせられない私の目に映ったのは彼女が用意してくれた私の朝食で、口を付けられていないコップは酷く孤独で寂しそうだ。
 対面に座る彼女は、今どんな表情をしているのだろう。私にそれを知る事は出来なくて、またその勇気も無かった。

 「お嬢様が、いつから、そのような、お身体に、なってしまったのか、私は、知りません。ですが、私にとっては、そんなこと。そんなことは、瑣末な事に、過ぎないのです! お嬢様は、お嬢様は……いつからか、変わって、しまいました」

 彼女の言葉が私を貫く。私が変わった事など、他ならぬ私自身が一番知っている。だというのに、どうして彼女の言葉はこんなにも強く私の胸を打つのだろうか。

 「私に、居場所を、与えてくれた、貴方は。私の、名前を、知ろうとも、しませんでした。家畜であった、私の、名前など、興味ないと、そう仰った、貴方は、私が、いつか、自分自身で、名前を、もぎ取ると、そう言って、名乗ろうとする、私の、口を、塞いだんです」

 なのに。そう続ける彼女の言葉が、あまりに哀しそうであったから、私は思わず彼女の顔を見てしまった。涙を流す誰かを見たのは、いつ以来だったか。

 「私は、貴方から、十六夜咲夜という、過去の、人物の、名前を、頂きました。私に、自分の力で、自分の居場所を、示せ、そう言ったと思っていたのに、貴方は、私を、誰かの、代わりにして。私の事など、本当は、見ていないんじゃないかと」

 嗚咽の音は聞こえない。頼り無いこの耳では信じるにべも無かったが、それでも彼女は泣いているのだ。私に裏切られたと、そう告白する彼女の顔は、とても美しい。

 「答えて、下さい。私は、貴方にとって、何なのですか?」

 それっきり、私の目を見つめたまま、黙してしまった彼女。私はその質問に解する答えを持っておらずただその純な瞳を見つめ返す事しか出来なかった。
 その質問自体に返答するのは、至極簡単な事だった。けれど、彼女が求めているのはそういう事ではないのだろう。
 彼女が言う通り、私は昔、八雲紫とそれなりの交流があった。仲が良かった、と、そう表現してもいいかもしれない。その時の私は押し付けという形で紹介された彼女を持て余していて、当然彼女を亡くなった十六夜咲夜の代わりに仕立てようとも思っていなかった。
 気が付いたら、こうなっていたのだ。私はかつての従者をいつしか求めていたのか、その影を日常の中で追うようになっていた。妖精の仕事の仕方、日々食卓に並ぶ料理、起き抜けの挨拶。そんな行為に何の意味も無い事を知っていながら、名残を見つけては一喜一憂し、そして喪失感に胸を焦がす。
 だからといって、私が既に亡くした咲夜を再び求めるだろうか。確かに彼女は有能で、身の丈に合わぬ便利な能力を持っていたが、その程度で誰かにその役を押し付けようとするだろうか。
 私という存在がこの世に求める事など、私しか知りえないというのに、私はそれを把握していない。どうして私は、他人に負担をかけるような真似をしているのだろう。
 目の前の少女を見る。彼女は私の答えを待っているようで、一文字に引き締められた唇が震えている。今にも何かを言ってこの沈黙を終わらせたい空気がそこにはあり、それを感じて私の思考はまた複雑に絡まっていく。
 ああ、翼が、疼く。
 思えば、この変調も気が付いた時には私と共にあった。確かに翼はここに生えているというのに、確固とした存在の主張を放っているのに、私にはそれが自分の物とは思えず、突然それを失ってしまいそうな感覚に襲われるのだ。
 唐突にやってくるその正体が分からず、持て余す私には荷が重い。傍らに一つの象徴としてそこにあった物が、得も知れぬ何かによって全く別の物に変質されてしまったかのよう。
 この翼が何かを主張する時、決まって私は自覚させられる。もう、元には戻れないのだと。
 そうしていつまで黙っていたのか、返答の無い私に愛想を尽かしたか痺れを切らしたか、何事かを彼女が呟いた。

 「それでも、私にとっては貴方が命の恩人で、私のかけがえのない存在なんです。貴方が望むのなら、この名を返上する事も無く、私は私に求められただろう役割をこなしてみせます」

 私には聞き取れない言葉で紡がれたそれは、風のように私を通り過ぎていく。思わず後ろを振り返った。

 「お嬢様が元に戻る事を信じているのは、私以外にもたくさんいるんです。貴方さえ諦めなければ、私達はいつまでだって希望を捨てず、貴方の傍でその時を待ち続けます。だから、どうかせめて」

 ご自愛を。
 私が正面を向いた時、彼女の姿はそこには無かった。
 彼女が座っていた椅子も元通りに片付けられ、彼女がここにいた形跡はわずかしか無い。テーブルの上に残された泣いた跡だけが染みとなってそこにあり、確かに今この瞬間、この空間には私だけしかいないのだと感じさせられた。
 最後の最後まで減る事は無かったコップの中身をぼんやりと眺め、私は人間の宗教でいう懺悔というものをしてみたい衝動に駆られた。きっと、結果は何も得られず、馬鹿な自分を以前よりずっと強く自覚出来るだろう。



 こうして地下への、妹の部屋へ向かうのは何度目だろうか。狭く細い地下階段に足音が反響し、私の身体が奥へ奥へ引き込まれていく。このまま進んでいくと、もう地上には帰ってこられないような錯覚。それでも足を進めずにはいられない強迫観念はどこから来るのだろうか。
 もう習慣と言ってもいいかもしれない、妹との邂逅。それを私が求めていなくても、妹がそれを求めていなくても、関係なく私達は顔を付き合わせる。大した理由などそこには無く、ただ姉妹だから、と理由だけで私は彼女の元へ向かい、そして彼女は如何なる理由からか、私と会い、私を貪る。
 螺旋状に下へと続く階段が、前人未到の魔界へ繋がる道だと聞いたら、私は疑う事無く納得しただろう。
 昔パチェに話した時の事を、再び思い出していた。妹へ会いに行く度に私が感じる圧迫感。それを話した時の、彼女の私を見る目。私はその目を知っていた。昨日は美鈴にもその目を向けられ、そして今日は咲夜にもその目を向けられた。
 あれは、哀れみの目だ。私はその目を、知っていたのだ。
 地下を降りていくと、一番底には扉がある。鉄の扉はそれだけで冷たい印象を受けるのに、幾度と無く内側から血飛沫を浴びたせいか、接合部が血で錆びているせいで殊更に人の不安を煽っていた。
 私は鉄の扉を押す。厳かな音が響き、真っ暗な部屋が視界を覆う。やがて目が慣れてくると、部屋の隅に配置されたベッドに腰掛ける妹の姿が映った。背後で扉が荘厳な音を立てて閉まった。妹はこちらを見て、何がそんなに嬉しいのか微笑を絶やさず愛らしい眼差しを私に向けていた。
 顔を合わせても、互いに挨拶などしない。私からしてもいいのだが、どうしてかそんな気分にはなれない。きっと妹も同じなのだろう。
 こちらを見つめたまま動かない妹を前に、いつものように私から彼女の元へ歩いていく。殺風景な部屋は血生臭い。掃除をさせようとメイドを寄越せば、大抵メイドだったものが臭いの元を床に広げるからだ。
 ベッドに着くまでに、何度か靴が柔らかい物を踏ん付けた。それが何だったかのは深く考えず、私は妹の前で立ち止まる。
 不意に、彼女は右手を差し出してきた。座る彼女が立っている私に、まるで足元に跪けとでも言うように、その手は床に向けられている。
 私は特に反発を覚える事も無くそれに従い、彼女を仰ぎ見る。見た目相応の愛らしい笑顔が私を見つめていた。
 彼女は私を見つめたまま舌を出す仕種をすると、私に向けた手、その指先を私の唇に押し当てた。何をしろと求められているのか、言われるまでもなく理解した私は彼女の手を両手で恭しく受け、その細く可憐な指先に口付ける。少し甘い匂いを感じて、そんな事を考えている内に私の舌は這うように彼女の指を舐め始めていた。
 人差し指から順番に、一本一本丁寧に、目に見えない汚れを拭うように舌を動かす。指の付け根まで舐めると彼女は擽ったそうに笑い、私はそんな妹をもっと見たくて行為に熱を帯びさせてしまう。
 舌を引っ込め、唇で爪の先に吸い付く。指の形をなぞる様に唇を滑らせ、時折唾液を乗せると妹の濡れた声が返り私の脳髄を喜ばせた。私が積極的に彼女の指に奉仕すれば、彼女は褒めるように私の頭を撫でてくれる。
 唾液を絡め、舌を絡め、それに吸い付く唇の湿った音が木霊する。私は目を閉じてそれを味わい、彼女が求めるままに彼女を求め、彼女が求める私になろうとした。妹とこうした行為を重ねるに連れ、私はこの時間の間だけは他の全てを忘れていられる事を自覚していたのだ。
 指がふやけてしまう程彼女を味わうと、その手が私から離れていく。名残惜しい物を感じながらそれを見送ると、私の唾液に塗れた指を自ら舐め取る彼女が扇情的にこちらを見下ろしていた。ふるりと腰が震えるのを感じ、私は膝立ちになって彼女に向けて舌を突き出す。
 妖しく笑う妹がそれに応え、反対の手を伸ばしてきた。指先で舌を摘まれ、その腹を舌上に擦り付けられる。目を細めて私が鳴くと、彼女はよく出来ましたと言わんばかりに私の舌を執拗に弄んだ。私の唾液がその指を伝い、手首から床に向けて落下していく。
 それが済むと、彼女は身を乗り出して私の額に口付けを落とした。膝立ちのまま動けない私の動きを縛るその行為は続けられ、額から目蓋へ、鼻先へ、頬へと落ちていく。唇の真横でそれは止まり、一旦離れると真っ赤な唇は私の耳を租借し出した。
 身を捩じらせると、肩を掴まれる。膝が痛くなり始め、私は両手をベッドに置き、身体を支える。
 これまでの行為で最も長く耳を責められ、私が力尽きた様に腰を落としてしまうと、ようやくそれは解放された。
 じっとりと唾液で濡れた両の耳を意識して、私の身体は震えを抑える事が出来なくなっていた。
 彼女がベッドに横たわる。掌で求められ、私は靴を脱いで彼女の隣へ寝転んだ。
 互いの顔を突き合わせ、暫く視線を絡めると妹は私の上に跨り、両手を封じた。抵抗の素振りも見せずに彼女に従うと、私の首筋に口付けられ、彼女はそのまま無理矢理口でアクセサリーを外してしまう。
 暴かれた胸元が風を受けて涼しく、また彼女の暖かい息遣いを感じて高潮する。私の胸元に顔を埋める妹の頭を眺め、透き通るような金髪の持ち主であるこの子が、本当に私の妹なのか疑問を抱いた。
 胸元に甘噛みされたのは、その直後だった。喉奥から搾り出すような吐息が私の唇から漏れる。知らず涎が顎を伝い、自分が頭を仰け反らせていた事を知った。
 肌を吸われる擬似的な吸血行為に、全身の血が沸騰するかのようだ。
 剥き出しになっている肌以外を彼女が貪るのは、決まってこの程度だった。服を剥いでまで彼女が私を求める事は無く、私は不満と期待を募らせて彼女の瞳を覗き込む。これまでも私が果てた経験が無い事を鑑みると、これは妹なりの私への復讐かもしれない、とさえ思えた。
 妹が顔を起こす、その目が私をじっと捉え、私の唇に彼女の唇が重なった。甘い匂いが鼻孔を突き、柔らかく硬い感触が口内を満たす。唇が幾度もその形を変えさせられ、彼女の唾液なのか私の唾液なのか分からない程湿り気で一杯になると、妹の舌が挿し込まれてきた。
 その頃になると私は目を閉じて、彼女の舌を全身で感じようと意識を澄ませていた。妹の唾液が流し込まれ、喉を鳴らしてそれを飲んでいく。
 舌と舌が絡み合う音と質感が私を支配し、頭に霞がかかったように意識がぼやけ出す。掴まれた両手から力が抜けていくと、おもむろに身体を抱き締められ、そのまま互いに向き合って座る形にさせられる。
 私の両腕はだらりと垂れ下がり意思が感じられず、今や私の感覚は口の中と絡められる舌だけとなっていた。
 このまま全身を妹に預け、私の存在が掻き消される想像をした時。突然妹から身体を突き飛ばされた。
 ベッドから転げ落ちる。
 頭を床で打ち、鈍い痛みを感じながらも突然の事に着いて行けず、彼女の方を仰ぎ見ようとした時、その声が聞こえた。

 「だいっきらい」
 「――――」

 言葉にならぬ程の衝撃。言い表せぬ歓喜が私の全身を包み、気だるげな今までの倦怠感が吹き飛んでいた。
 彼女が、妹が。私のたった一つのきりの、大切な宝物が。
 今、私の目の前に在る。意思を交わせる存在として、私の前にいた。
 何年、何十年振りに聞いた彼女の肉声は記憶と色褪せない鮮明な美しさを持って私を陶酔させる。怒気を孕んだ声音を甘んじて受け、私はただ一人だけの姉妹へと手を伸ばそうとして、そして気付いた。
 彼女は私を見ていない。目を逸らし、顔を背け、背中を見せている。その姿は拒絶だけを物語っていて、私が声をかける事を許さないでいる。
 当然だ。私は一体、今までどれだけの苦痛を彼女に与えただろう。急速に、私の思考が落ち着いていく。
 ご自愛を。咲夜の言葉が甦る。
 そんな心配はいらないよ、咲夜。私は自分の事しか考えていないんだから。
 その証明がこれであり、その結果がこの結末なのだ。
 最愛の妹と会話を望んでも、それは到底叶えられないのだ。全ては彼女が生れ落ちた時から決定していた事で、全ては私が彼女を閉じ込めると決断した時から終わっていたのだ。
 幽鬼のように、私は立ち上がる。唾液で濡れた身体が寒さを訴え、私はそれ以上この空間にいてはいけない気がしてきて、鉛よりも重い足を軽快に扉へ向けた。
 彼女はきっと、私が彼女の事を嫌っていると思い込んでいるだろう。事実はどうであれ、それが妹にとっての真実であるならば、せめて私は姉として、妹の望む通りに振舞いたい。
 身体が重い。もっと妹といたい。正気に戻った彼女に会うのは、もしかしたらこれが最後になるかもしれない。この部屋から出たくない。臓物が散らばり、壁に枯れた血管が走るこの地下室に、妹だけを残して行きたくない。
 でもそれは、私が引き起こした事なのだ。そう思うと、笑いが込み上げてくる。
 渇いた身体は、もう扉の前に立っていた。
 四肢を切り落としてもいい。眼球をくり貫いてもいい。鼓膜を突き破ってもいい。何を感じられなくなってもいい、この部屋にこの身を埋めたい。
 叶わない夢に想いを馳せ、私は扉を開けた。物寂しい音が耳朶を打つ。鉄の扉を潜り、後ろを振り返らないまま、慣性で少しずつ閉まっていく扉。
 その向こう、妹のいる所から、視線を感じた。気のせいだろう。
 まだ妹がいるこの部屋から、妹の「私」という言葉が聞こえた。独り言だろう。
 妹が私に何かをする事など、在り得ないのだ。
 やがて扉は閉まり、虚しく音を響かせる。
 今夜は寒い。
 身体中の熱を失ってしまった気がする。
 顔を上げられない私を、その場から一歩たりとも踏み出せない私を、突然灼熱の業火を思わせる激痛が襲った。
 翼が、焼けている。骨をも焼き尽くす勢いで燃えているのだ。
 太陽がじりじりとこの身を焦がすような、そんな生半可な物では無い。この熱は、確固たる標的を捉えて、殺意を持ってどこからか放たれている炎だ。
 私はその場にうずくまった。それ以上立っていられなかったのだ。こんなにも苦しい熱は感じた事が無い。動けない。翼が言う事を聞かず、私の存在事全てを巻き込んで燃え散りそうだった。
 火の勢いが増す。腹の底から轟かすような、言葉にすらならない悲鳴が喉から迸った。
 焼ける。燃える。翼が、無くなる。
 のた打ち回る力も無く、私は翼が燃え尽きる衝撃にただ叫び続けた。
 それは太陽に当てられて灰になる吸血鬼のように、ゆっくりと、確実に、溶けていく。








 「お姉様は知らないだろうけど。お姉様の事大好きなのよ、私」

 部屋から出て行く後姿を眺めながら、そう、聞こえるように呟いた。
 お姉様は何の反応も返す事無く、そのまま扉は閉ざされてしまう。
 聞こえただろうか。いや、聞こえた筈が無い。お姉様の耳は壊されたのだ、他ならぬ意識の無い私によって。
 だから私は呟いたのだ。
 今はもういない、私が殺してしまった人間の少女を思い出す。

 「妹様はお嬢様に支えられているんですね。ご存知でしたか? お嬢様もまた、妹様に支えられているんですよ。いつまでも姉妹仲良くいて下さいね」

 よく私にそう語りかけていた彼女に、私は何も言えなかった。
 今はもういないのだから、私が今さら何を言っても致命的に遅くて無駄なんだろうけど、今の私にならこう答えられる。
 もう全部、遅いんだよ。
 意識を無くした私は、私の衝動のままに活動する。
 お姉様の耳が聞こえくなってきているのは、その私が耳を少しずつ壊しているせい。
 副次的に、他の感覚にまで影響が出てきているけど、きっと私ならそんな事は意に介さず今の行為を続けていくんだろう。
 私にはそれを止める事が出来ない。だってそれは、私の無意識がやっている、衝動的な行動なんだもの。
 お姉様は、きっと永遠に気付かない。
 かわいそうなお姉様。
 私はベッドに残るお姉様の香りを嗅いで、悦に入る。汗を吸ったシーツに頬を擦り付けた。
 かわいそうなお姉様。
 私はそんな貴方を、だんだんと見ているのが辛くなってきました。
 だから、ごめんなさい。私は先に逃げます。
 私はゆっくりと目を閉ざす。ゆっくりと目を開き、それを繰り返す。
 やがて私の意識は曖昧な物へとなっていき、深い泥の底へと落ちていく感覚がやってくる。
 世界が薄らいでいく。このまま私が消えてなくなっていく、ゆらゆらとしたまどろみが私を包んだ。
 世界が溶けて消えていく。この既知だけが、私に安らかなまどろみを与えてくれるのだ。











こんにちは、ぬえすけです。
まずは、これまでに投稿したSSを読んでくれた方々に、厚くお礼を。
コメントはいつも楽しく読ませて頂いております。参考になる意見など、とても助かっています。

今作はタグがタグなので、閲覧数が300もいけばいいかなぁ、と思っているのですが。
こんなタグ付けでも開いてくれた方、ここまで根気良く読んでくれた方、共にありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。
ぬえすけ
簡易評価

点数のボタンをクリックしコメントなしで評価します。

コメント



0.220簡易評価
4.80名前が無い程度の能力削除
なるほど。うん。なるほど。
端的に言おう。よく分からなかった。
かなり書き込んであって、たぶん注意深く読めば分かるのだろうけど。
俺の読解力では苦しい内容だった。なので話の構成については言及しない。
ミクロな観点で言えば、言葉の選び方には作者様の慎重さと吟味した様子を感じた。いいセンスだ。
5.100vai削除
溶けう これは怖い
6.90名前が無い程度の能力削除
むしろこのタグだから開きました
こういうのが好きな読者、嫌いな読者に配慮されてて良い事だと思います
内容は十分に面白い、満足いくものでした
8.90名前が無い程度の能力削除
読みにくい
ので
同人書籍として出版希望
9.90奇声を発する程度の能力削除
良い
11.90名前が無い程度の能力削除
作者の確たる世界を小出しにして興味を煽るという手法は開示側の作為が強すぎて正直あんまり好きではない
しかしこの物語はそうしつつもきちんと伝えたい情景が伝える事ができる文章であると思う。そしてほの暗く後ろ暗いその情景もベネ。
12.100名前が無い程度の能力削除
退廃的でエロい
15.90名前が無い程度の能力削除
good
16.70tのひと削除
確かに難しかった。
でも、話はすごい好きですし、描写もよく考えられてるなぁと思いました。
17.803削除
正直に言いますとタグを見てかなりびびりました。
全体を通して一つの作品になっている……当たり前のことなんですがこの言葉がぴったりくるような気がしました。
退廃的というのはこんな感じなのかなぁと思ったり。
19.100名前が無い程度の能力削除
翼は何の比喩なんだろ