現在は西暦2021年、師走の大晦日の亥の正刻。後四半刻と少し経てば盛大に鐘の音が轟き始めるだろう。
「天子天子ー。まだ登るの?フラン、もう疲れちゃった」
手足の指先から顔を除いた全身をもこもこと暖かい羊にくるまれて深紅のリュックを背負った金髪の吸血鬼が、手に膝を置いくて息を荒げている。
「アンタが綺麗な初日の出みたいって言ったんでしょうが。ったく、手引いてやるから頑張りなさいよ」
厚地の青空色のコートを着て、緋色のリュックを背負い、卯の花色の懐中電灯を片手に持った私は、氷点下を下回る世界に白く灯る息を吐いて、答える。
私達は妖怪の山のある穴場の見晴台に行く為に、紫水晶や薔薇柘榴石、玻璃、金剛石、瑠璃、そして蒼玉がごろごろ、ころころ、さらさらと散らばった風光明媚な滴る星空の下、闇がべたつく空気の中淡く銀色に輝く、白雪が奏でる鈴の音を足元に纏わせながら、凍てつく空気を押し退けて登山しに来ている。
勿論新年の太陽の初披露を眺める為だ。まあ今夜は暁月夜だから月明かりがまだ無くて少し危ないけど。
そんな御目出度いものに飛んで楽々と行くなんて縁起でもない。だから地に足着けて登っている。
いっつも虹色の羽を羽ばたかせて悠々と飛び回っていた吸血鬼にとって、その行為はとても辛いらしい。まあ雪結構積もってるし仕方ないか。
仕方なく、うっすらと紅く光る手を掴んで引っ張ってやる。手袋してないとこういう時に便利よね。まあ本当は手袋して動くとなんかむず痒くなるのが嫌だからなんだけど。
その羊の手は月光のように冷たく、儚かった。
「血〜吸わせてぇ〜〜!」
「嫌よ。登る前に吸ったばかりじゃない」
この吸血鬼は私の血が大層お気に入りだ。何か栄養満点とか言ってるが吸われるこっちからしちゃたまったもんじゃない。
「ちょっとだけ!ちょっとだけならいいでしょ!」
「アンタのちょっとはこっちにとっては大量なのよ」
フランの吸入量は尋常じゃない。ここ数年で右上がりに増え続けてる。その甲斐あってか停滞していた身長がみるみる成長し、私を越しそうにまでなってしまっている。
「吸わせろ〜!吸わせなきゃかぶりつくぞ〜!」
わざとらしく爪を立てて襲うポーズをする。…前までは間髪入れずに吸いに来てた時から成長したわね、ほんと。
「ふふ。かぶりつくのは止めなさい。他の連中の目がつく所に咬み跡付くのは嫌なのよ」
幻想郷の連中には知れ渡ってるだろうけども、天人が咬み跡を見えるようにするってのは色々と面倒事になる。だから、バレにくい頸筋にさせてる。其処なら襟で見えにくいし、近くに来る奴なら大体は知ってるからあんまし問題無いし。
「じゃあ吸わせて♪」
「はいはい。ちゃんと何時もの所にしなさいよ」
「分かってるって♪」
そう言うと、両肩に手を置いて頸筋の頸動脈に牙を突き刺し、勢い良く吸い始める。
「…!」
この始めの感触は何時になっても慣れない。身体に冷たい何かが駆け巡る感触。だけど不思議と嫌悪感は無い。
「ん〜〜美味し〜〜!!」
唇に漏れた血を舌でじっくりと舐め取り、真紅の眼を闇と白の世界の狭間で燦燦と輝かせ、歓喜に震えてるその様はまさに吸血鬼だった。
「吸いすぎよ…」
身体の半分は抜かれただろうか。力が底に抜けて、体勢を崩して雪に勢い良く膝を着けてしまう。
「だって美味しいんだもん♪」
吸血鬼は弾む声を元気よく放ちながら私の手を取って引き上げる。
「少しは我慢しなさいよ。これじゃあいずれ保たなくなるわ」
私はそう言いながら膝に着いた白色をはたいて落とす。
「は〜い。あ、見て見て!何かの足跡!」
指差す方を見上げると、丸っこい足跡が4つ、T字みたいな形をとって走っていた。
「これは兎ね。竹林のじゃないと思うけど」
まさかこんな寒い日に、明くる年の直前に、こんな森に来る理由が無いし。
「じゃあ狩っていいよね?」
そう言うやいなや、どす黒い血の色に染まった剣を足跡の方向にぶっ刺そうとする。
「はいストップ。無駄に殺生しない。アンタ食べないでしょ」
「え〜〜!つまんないんだもん!」
そう言って色とりどりの水晶を揺らしながら、頬を膨らます。
「夜の山は油断禁物よ。それに足元には雪が…」
「うわ!?」
言い終わる前に、フランは踏み込んだ雪で固まった岩にバランスを崩して、雪の毛布に顔から突っ込んだ。
「…ったく、だから言ったのに」
懐中電灯を雪に落とすと手を取って、大の字で埋まった吸血鬼を引き上げてやる。
「うう〜〜…」
雪に撫でられた頬がじんわりと真っ赤に染まってしまっている。痛そうなので手を触れて暖めてやる。
「ひゃう!?」
フランが少し軟らかいクラベスを奏でると同時に、冷えた温もりが伝わってくる。
「ほら。これで懲りたら気をつけること。いいわね?」
「う、うん。…ね、ねえ?もうちょっとあっためて貰っていい?」
何か急に温度が上がって、顔全体が赤珊瑚のように染まっていた。温もりを感じるとこんなに暖かくなるんだっけ?
「いいわよこれぐらい。それにアンタに何かあったらアンタの姉とガチバトルしなきゃなんなくなるし」
紅魔館の主は結構妹思いだしね。フランは気づいていないみたいだけど。それにアイツは結構強い。まともにやりあっても勝てるか分かんないし。だからちゃんと安全にさせないと。
「…そう」
フランは白煙の息を溜め込んで、何か不満気に呟く。
あれ何かした?してないわよね?…考えてもその意図は分からないので考えない事にする。
「ほら。もう大分あったまったようだし再開しましょうか」
ちょっと時間的に厳しいかもしれないので、懐中電灯を拾い上げてもこもことした手を引っ張って急ぐ。
「うん。ありがと!」
何時もの元気な弾ける声が返ってきて、握り返してくる。…特に問題無さそうね。
ゴーー‐‐‐……ン ゴーー‐‐‐……ン
里の方角から重厚かつ荘厳な鐘の音が突き刺さってくる。微かに乱れた音色は、全体を緑青に纏わせて幾年もの歴史を、幾人もの願いを紡いできた事を知らせてくれる。
私はこの音が好きだ。天界みたいに純粋な鐘の音を聞いた所で趣も何にも無いから。
「もうすぐ年明けだね〜!」
フランは弾んだ声色を出して喜んでいる。
「アンタ煩悩を消して貰いなさいよ」
具体的には血欲を。
「え〜〜やだ!」
フランは即答してにこやかに悪魔みたいに微笑む。あ、一応悪魔なんだっけ?
「何でよ」
「だってどんな想いだってフランを構成する要素だもん!」
「確かに…」
一理ある。自分の性格とかそういうのと密接に関わってるし。不覚にも悪魔に言い負かされてしまった。
「でも他人から見て直した方がいい事はあると思うわよ?自分だけでは生きていけないんだし」
円滑な人間関係を築くには改善した方が良い性格もあったりする。…私が言えた事じゃないけど。
「天子はどんなフランでも受け止めてくれるでしょ?」
力強く信頼しきった声。どんなに重厚な壁でも貫き通すような声。その声に振り返ると、ただ真紅の瞳が微笑んでいた。
「…ええ。勿論」
その眩しい瞳の前に、ただ私は応諾する。嘘偽りの無い答えだけど、何故か単語を文に繋げられなかった。
「天子は煩悩あるの?」
先程迄とは打って変わって、カラリと何時もの声に戻る。
「そりゃあね。108も無いけど」
ひ…ふ…み…3つ程かしら?
「確かに〜!じゃあフランがその煩悩当ててあげようか♪」
ウキウキした声色が後ろから響いてくる。
「面白いじゃない。当ててみなさいよ」
私はその挑戦を受け入れてやる。まあ良い気分転換になりそうだし。
「じゃあいっくよ〜!」
「来なさい」
「まず1つ目!血を吸う時にたまに意地悪する所!」
フランは人差し指を天に向けて、自信満々に高らかに言い放つ。まあ不正解なんですけど。
「はい外れ。それにアンタが欲張りなだけでしょ」
「むむ……!じゃあ次!フランをあんまり外に連れてってくれない所!」
「外れ。アンタの姉が五月蝿いのよ」
まあアイツの気持ちは少し分かるけどね。
「ぐぐ……!次!ちょっと厳しい所!」
「あら正解よ。もう少し自由にさせてあげたいんだけどね」
昔っから型に嵌まった考えしか出来ないのは反省すべき点だ。来年はもっと柔軟に考えられるようになりたい。
「やった〜〜!!あといくつ〜?」
フランは両手を掲げて喜ぶ。そのお陰で私の片手も釣られて天に向いてしまう。
「2つ、って所かしら」
「う〜ん…あと2つか〜」
「……あ、分かった!ちょっぴり必要以上に自信満々な所!」
とびっきりの笑顔で正解を貫いてくる。
「大正解。ちょっとじゃないけどね」
ノープランなのにさも完璧な計画を考えてるかのように振る舞った事もあるし、この悪い癖直したいわ。
「じゃああと1つか〜〜…」
フランは悶々とした、だけど何か違和感を少し感じるような声を出す。わざと遠回りしているような?そんな当てにならない気が。
「ええ。後1つよ」
その違和感の正体が分からないまま言葉が続く。
「…おっちょこちょいな所!」
24回目の追及が無を掠る。
「外れ。そんな性格だと認識してないわ」
「う〜ん…また外れかあ…」
「もう降参する?結構時間掛けてるしこれ以上思いつかないんじゃない?」
「う〜〜〜〜ん……………」
長い長い呻きが雪に溶ける。
「降参する?」
「ううん!…今思いついた」
闇夜に真紅が暗く輝く。
「じゃあ言ってみなさい」
私は19回目の台詞を放つ。
「……少し品行が悪い所」
溜まった空気を吐き出して、鉛のように重く揺らいだ声が静かに鼓膜に伝わる。
「…はあ?」
有り得ない言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「正解から限りなく遠い、天地よりも遠い回答ね。私が天人である事忘れてない?」
「そ、そうだよね!天子は天人だもんね!お、思いつかなかったからダメ元で聞いてみたの!」
真紅の瞳に渦を映しながら、聖夜を寝過ごしたクリスマスベルのように慌て出す。何で慌ててるのか皆目見当もつかない。
「へえ〜、そうなの。ならもう答え言っちゃうわね」
これ以上引き延ばしても無意味なので、さっさと解答を言おう。
「最後の答えは…相手の気持ちが分からない所よ。前に比べれば少しは改善したと思ってるけど、それでもさっきのフランの時みたいに相手の感情とか考えが分からない時が多いのよ」
儀礼的な事とか教養関係なら分かるんだけど、それ以外はさっぱり。書冊だけでは地上の相手の感情をはっきり捉える事は出来なかった。
本当に早く改善したい。利点が全く無い。
「確かに。天子ってそういう所あるもんね」
フランは心の水底から納得がいく表情をする。
「うぐ…」
私は何も返せずにただ変な声を捻り出す。
「まあでもそういう鈍い所も良いんだけどね♪」
フランはそう言って悪戯を思いついた悪魔っぽく笑う。言ったそばからもう分かんない。
「…どういう事よ」
「そのままの意味だよ♪」
吸血鬼は満面の笑みを映してくる。その悪魔の顔はほんのり林檎に染まっていた。
「…そういう事にしとく」
「そういうことなんだけどなぁ〜♪」
フランは弾む音色に安堵をアクセント、緊張をスタッカートにして奏でる。その曲調が示す意味は何だろうか。
ゴーー‐‐‐……ン ゴーー‐‐‐……ン
107回目の鐘がフランの音色に絡まる。
「あらもうそろそろ年明けね」
「そうなの?」
「そうよ。人里の鐘は108回目に新年になるように撞くのよ」
「へ〜〜、そうだ!」
フランは声をトランペットにして、元気よく何か思いつく。そして、私と横一文字になると、
「天子!」
膝に力を入れるフランに私は察した。
「さよなら、2021年!」
私達は叫びながら、片手を天に向けて白い大地を蹴り上げる。
ゴーーーーーー---‐‐‐…………ンンンンン
新年の幕開けの凱歌が湧き上がる。
「ようこそ、2022年!」
私達は歓迎を謳いながら銀色の大地を踏みしめる。
「いぇ〜〜〜〜い!!!!!!」
私達は両手でハイタッチして喜びを分かち合う。…何恥ずかしい事してんだろ、私。
「さて、新年も明けたし!新年初吸血〜〜!!」
真紅の瞳を闇夜に輝かせて、牙を頸に撃ち放ってくる。
「はいストップ」
吸血鬼の顔を押さえて牙を止める。
「何でさ〜〜!」
吸血鬼は何故か両手を掲げて抗議する。
「何でも何も。さっき吸ったばかりでしょうが。吸うなら着いてっからにしなさいよ。月が昇る前には着くから」
何せ血が回復しきってないのだ。今吸われたら登るのがキツくなってしまう。
「え〜〜!だってもう疲れたもん!」
「じゃあ彼処にある洞窟で休むわよ。勿論吸血しないからね」
右奥に見える、雪がへばり着いた崖下にぽっかりと穴が空いている。其処で小休憩するとしよう。
「は〜〜い」
間の抜けた白い空気が闇に溶けていく。その返事に若干の不安を抱えながら、吸血鬼の手を引っ張って穴へと入り込んだ。
「あ〜〜あったまる〜〜♪」
近くに転がっていた朽木や枝を緋想の剣で燃やして焚火をする。吸血鬼は火の恵みに手を当てて享受していた。
「私は小腹空いたし軽く間食するけど吸血しないでよ」
念の為繰り返す。隙を見せたら襲い掛かって来そうだし。
「分かってるって〜。それで何食べるの?」
「乾パンよ」
リュックから家で焼成した乾パンが入った袋を取り出す。
「え〜〜〜……」
吸血鬼は何故か信じ難さと呆然が入り混じったフルートを奏でる。
「何よその顔は」
「いやだってさ…新年明けた初食事が乾パンって…」
「良いじゃない。新年初めての食事が洞窟で乾パンを食すというのはとってもロマンあるじゃない?」
何せ乾パンを洞窟で食べる事自体が初めてだ。そんな記念すべき食事に何か不満でもあるのだろうか?
「料理音痴の天子にフランの素晴らしい料理をお届けしてあげる♪」
開幕から心を抉りながら、悪魔は血を呑み込んだようなリュックから檜で包まれた口が大きい水筒を取り出した。
「これ、食べてみて」
少しの緊張を含みながらフランが渡してくる。
「…何入ってるの?」
3分の2ほど入った何らかの凄くとろみがある液体がトプン…トプン…と言いながら揺れている。保温性を高める為か微かに魔法がかけられている。『食べる』という事は固体が入ってるってことよね?
「それは開けてみてのお楽しみ♪」
「期待してもいいかしら?」
自然と心が高鳴り、胸が踊ってしまう。いやだって仕方ないだろう。料理するのが下手な私にとって、誰かの手料理は尊敬と期待の塊なんだから。
「うん!」
私は柔らかくて薄い黄色い容器を力を込めて持ち、爽やかに心が和らぐ匂いを右にゆっくりと回した。
「わぁ……!!」
森の蓋を開けると、元気な湯気と共に太陽のスープに熟れた真っ赤なトマト、鮮やかな朱色の人参が顔を出し、太陽が入り込んだ玉葱と陽だまりの衣装を一粒一粒装った米が泳いでいた。
「とっても美味しそう!!トマトに人参、玉葱に御飯が暖かい空気を纏って踊ってて、その…言葉で上手く表せないんだけど、とっても素晴らしいご馳走よ!!」
私はあまりの名料理の前に、逸る気持ちを抑えられない。それ程迄に私の心を掴んでいた。
「良かった〜喜んでもらえて!天子に喜んでもらえるように咲夜に一から教わって、頑張って料理したんだよ!」
フランは破顔一笑、太陽のような暖かい笑顔を見せる。その笑顔に様々に輝く水晶の光が互いに当たって煌めく。
「それはとても嬉しいわ!ねえねえ、食べてもいいかしら?」
「もちろん!あ、これ使って」
そう言ってフランは、檜の鮮やかな木目が美しいスプーンを渡してくれる。
「ありがとう。じゃあいただくわね」
いただきます、そう言って手の皺を合わせると、私は暖かい温もりのある柄を持って勢い良く飛び出して来る湯気を掻き分けて、太陽の恵みがぎっしりと詰まったスープに檜を柔らかく、そっと入れる。
そして、陽の光をたっぷり浴びて染まった細長くて四角い白い絨毯の上に、食べやすい大きさで乱切りされた、熟れて皮が波打ったトマトと炎のように柔らかい人参を乗せて、私はゆっくりと口の中にいざなった。
「ん〜〜〜!!おいひ〜〜〜〜〜!!!!」
噛み締めた瞬間、トマトのサクッと柔らかく熟れた甘い酸味が舌の上で弾け、芯まで火が通った優しい甘味の人参が口の中に溶け出し、御飯の粘味と仄かな甘味、滑らかかつシャキシャキが絶妙に残る玉葱、そしてトマトを一粒一粒、一欠片一欠片コーティングしたあの酸味がアクセントとなって私の口の中でハーモニーを奏で出す。
暖かい幸福が五臓六腑に染み渡り、身体がぽかぽかになる。初めて感じるこの味は、控えめに言って素晴らしく絶品だった。
「やった〜〜〜!!大成功〜〜〜!!!」
私の様子をじっと見ていたフランが歓喜の凱歌を奏でる。
「本当に美味しいわ!口の中で素晴らしい味の舞踏宴が開幕してて!上手く表現出来ないんだけど、天界での物寂しい料理なんかよりも、よっぽど!!」
「そう言ってくれると嬉しいな〜〜♪」
太陽のように弾ける笑顔。興奮さめやらない羽。その様子からこの料理は途轍もない努力の結晶である事が用意に想像出来た。
「フランの分はあるの?」
「ううん。フランは天子の血があるし」
「じゃあ少しだけでいいから食べてみなさいよ!とっても美味しいわよ!」
こんなに素晴らしい料理を拵えてくれた本人が味わう事をしないなんて勿体無い。そう強く感じた私は、スプーンで掬ってフランに差し出す。
「え、えと…」
何故か水晶を逆さまにして目を逸して戸惑う。炎に照らされたフランの顔は外炎よりも濃かった。
「皆で食べるととっても美味しくなるのよ?昔っから鯛も一人はうまからずって言うじゃない!まあこの御馳走は一人でもとっても美味しいけど、それがもっと美味しくなるの!ほら試してみなさい!!」
「わ、わかっ……」
フランは穴が空いた風船のように勢い良く言葉が萎みながら、戸惑いながら口を開けて御馳走を味わった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
フランは何故か顔から湯気を出して、長月の末期の鬼灯みたいに染めて、水晶をシャラシャラ音をたてる。よっぽど美味しいのだろう。そりゃあそうよ!
「ほらだから言ったじゃない」
私はぽかぽかと暖かい笑みを零しながら、御馳走を頬張る。
「〜〜〜〜〜〜〜!!!??????」
フランはまた何故か湯気を出して、頬に手を当てて今度はくねくねしている。
???何か吸血鬼の琴線にでも触れたのだろうか。まあいい。この満ち足りた気持ちを噛みしめると…『満ち足りた』?
「…………!」
ふと、脳裏の隅に、脳の端の端に、幻想だと振り切っていた、あの有り得ない妄想が浮かんでくる。
何で?何で?それはもう何千回も、何万回も有り得ないって結論を出し切っていたのに。
擦り切れてはっきりと見えない母らしい人物が私の頭を撫で、私は白米を食べながら無邪気に元気一杯に笑っていた有り得ない夢。
母はとても厳しい人だったと『聞いている』。そんな人が当時は極上の御馳走だった白米を食べさせる事なんて無かった筈だ。いや、『筈』じゃなくて『無い』。それが正しい。
凶兆の星が手指で数え切れない程回っても、消えた太陽が何度地球を穿っても。
母の墓前に煤の川を作っても、何故か出ない涙に幾星霜と絶望しても。
母は何も答えてはくれなかった。
幻。夢。幻想。夢想。そんなのは分かってる。分かってるのにこの有り得ない感覚が、満ち足りていた感覚が、頭から離れてくれないんだ。
「…天子?」
真紅の瞳が仰いで来て、私は意識を現実に戻す。
「ううん、何でもない。ごめん、早く食べちゃうわね」
三分の一の湯気を見て、『未来』を思い出す。
「急がなくても大丈夫だよ」
「ありがとう」
私は少し速めのスピードで、僅かに冷えてしまった満足感を膨らませながら、御馳走を平らげた。
「さて、行きましょうか」
もう丑三つ時。日の出の卯の下刻まであんまり時間が無い。急がないと。
「うん!」
フランの手を繋ぐと、一段と寒くなった空気を、どんどん深くなっていく雪を押し退けながら、目的地に登っていく。
寅の正刻。星夜が西に大分傾いた頃。私達は目的地の近くまで来た。
「天子〜。まだなの〜?」
フランの声に疲労が見える。
「もう直ぐよ。ほら、あの獣道を通るのよ」
私は広い登山道を囲む大白檜曽の根本に、少しだけ雪が下がってる獣か妖怪か何かか通ってる空間を指さす。
「あそこを通るの?」
予想外だったのか、間抜けの壊れたクラリネットのような音を出す。
「そうよ」
「迷わない?」
フランは更に暗い、雪で茂った森を通るのに心配になったのだろう。戸惑いの声がする。
「目印があるから大丈夫よ」
私は手を強く握って、淡いライトを照らして雪に突き進んで行く。
「確かこの辺りに…あった」
道に沿って暫く約30度の勾配を進むと、暗闇の中で白く立ち枯れている大白檜曽の群林が見えた。
「うわ、何であそこだけいっぱい枯れてるの?」
久し振りの元気な声。その声に安心する。
「縞枯れ現象っていうやつよ。原因不明だけど」
妖怪の仕業かそれとも妖精の悪戯か。どちらにせよ森にとっては迷惑だろう。
「縞?」
「ええ。まあ朝になったら分かるわよ」
今は残念ながら闇が覆ってるからそれを確認出来ない。陽が昇ったら教えてあげよう。
「それで、此処を登ったら目的地よ」
他と何も変わらない、こんもり雪の上にそびえ立つ大白檜曽の間を指さす。
「ねえ、道じゃないよそこ?」
「穴場だって行ったでしょう?それに道は自分が通る所を言うのよ!誰かが通って無かろうが関係ないわ!!」
「ええ〜〜〜〜〜!?」
「大丈夫よ。私を信じて付いて来なさい!」
「本当に大丈夫なんだよね…」
下半身を埋める雪の壁を壊しながら、私達はゆっくりと登って行った。
卯の初刻。太陽がそろそろ空を窺う時。
雪の壁を貫いた私達は、山の端のちょうど段差がある踏板に遂に辿り着いた。
「ここが穴場なの?」
雪の壁で覆われている目的地は、誰も来ていない穴場の中の穴場だという事を証明していた。
「ええ。此処から見る日の出はとても美しいのよ」
「ふ〜ん…」
「後四半刻もすれば明るくなってくるから、それ迄テントでゆっくりしようじゃない。フランも結構疲れたでしょ?」
「やった〜〜!やっと休める!」
フランは喜びながら、雪の上に大の字に仰向けになる。
「お疲れ様。テントは私が建てるからゆっくり休んでなさい」
「ありがとう!」
緋色のリュックの中から、折り畳んだ蒲公英色のテントを取り出し、闇に染まる雪の上に広げる。
「よし、出来たわよ」
「おぉ〜〜!これがテントか〜!」
フランは初めて人間を見た吸血鬼のように感動している。
「そうよ。二人用だからあまり大きくないけど、無駄に広くする必要無いしね」
「ふ、ふ〜ん…」
フランは何故か見え見えの無表情の演技をしながら、霓光をもう帰ろうとする闇夜に揺ら揺らさせる。…相変わらず分からないわね。
「あ、暁月が顔を出してるわよ」
のんびり欠伸しながら、そろそろ有給を取れると喜んでいそうな薄い月が暗い雪を淡く照らす。
「あ、本当だ!やっと昇って来たね!」
「本当よね〜。寝過ぎて昼行性になっちゃってるじゃないの」
「裏切られた!?」
「ふふ。フランと同じで疲れてるのかもね」
「そうなのかな〜」
「そうよ」
もう天界が創られる前から存在するみたいだしね。人間に譬えたら、結構なお年寄りになっているのでは?
「寝坊助の月が出て来たって事は、もうそろそろ夜明け?」
「そうよ。そろそろ明るくなってくると思うわ」
「じゃあ日の出ももうすぐ?」
「いいえ。明るくなってから半刻以上は待つわ」
「まだか〜」
「まあまあ。長く待った方が、その分感動は大きくなるからね。後もう少しの辛抱よ」
「まあそうだけどさ〜」
フランは手持ち無沙汰なのか、闇の粉をごろごろと身体に纏わせる。
「明るくなってくるまでテントで珈琲でも飲みましょうよ」
「こーひー?」
フランは突然屋根からの落雪に埋まった犬の様な顔をする。
「ええ。少し苦いけど、それがアクセントになって美味しいのよ」
「あ、この前そう言えばお姉様が勧めてきたような…」
「ええ。最近幻想郷に入り込んで来たからね」
希少品かつ栽培方法も確立されてないから、値段は目が飛び出る程高い。そんな代物を買えるなんて、流石紅魔館の主。
「でも天子はそんなにお金持ってないでしょ?」
「ええ。だから先週外の世界で仕事して来た時に買ってきたの。外の世界だと有り触れているからね」
「え〜〜ずるいずるい!フランも連れてってよ〜!」
「何言ってんの。そんな事あのスキマが許す訳無いでしょ」
幻想郷を維持する事に腐心してる奴が、不均衡を齎す行為を見逃す筈が無いだろう。
「それは天子が何とかしてさ〜」
「無茶言わない。私は仕事で行ってるんだから」
一族が古代から営んできた地震を鎮める仕事。信仰が薄れても、まだ要石が人々の役に立つ限りは、地震の巫女として人々を救わないと。
「天子の手伝いってことで♪」
「却下。そもそも天界の連中から許可が下りないわ」
「む〜〜〜!」
「でも、何時かはフランと一緒に外の世界に行ってみたいわね」
「本当!?」
フランは年が明けた晴れ渡る蒼空を、力強くしっかりと羽撃く蒼鷹の初鳴きのような声を出す。
「ええ、本当よ。フランとなら退屈しないだろうしね」
色々と騒いだり焦ったりするだろうけど、それでもとても楽しそうだもの。
「えへへ〜。楽しみにしてる♪」
「あんまり期待しないでよ?」
「分かってる♬」
「……」
分かってないでしょそれ。その言葉は、未来を夢見る吸血鬼の笑顔の前に、只の息となって消えた。
「まあ頑張ってみるわ」
如何返せば良いか分からず、無難な言葉を呟いてしまう。
「こほん。話戻すけど」
この妙な空気を変える為に、話を半ば無理矢理引き戻す。
「うん」
「珈琲飲んでみる?」
「うん!」
「悪いけど本格的のじゃないから勘弁してちょうだい」
淡い月が輝く暁に、怪しく光るリュックから珈琲1杯分が入った袋を2つ取り出す。
「まあ天子お金無いもんね〜」
「ええそうよ!なけなしのお金で買ったんだから!」
天界の桃は上の連中から厳しい販売上限課せられてるし、地上での仕事はあんまりお金入んないし。結構火の車だ。天人だから生きていけるけど。
血色のマグカップに袋の中身を振りかける。
「あ、マグカップ用意してくれたんだ」
「ええ。フラン持ってきてないと思って」
「うん、その通りだよ!」
何故か偉そうに腰に手を当てて背を反らす。あ、昔の私がフラッシュバックしちゃう。
「やっぱりね」
「あれ?突っ込まないの?」
「嫌よ。ってあれ?もしかして私の真似?」
道理でやけにフラッシュバックしてくるわけだ。
快晴色のマグカップに中身をぶちまけながら、そんな事を思う。
「ピンポンピンポーン!大正解〜〜!!」
目の前でピースしてくる吸血鬼はまさしく悪魔だ。
「お願いだから止めて…」
恥ずかしすぎて死にたくなる。
「分かった♪」
「もう〜〜!!」
「冗談だってば。それでお湯を淹れたら終わり?」
「ええ。まあ細かく言えばスプーンで掻き混ぜないとだけど」
「ふ〜ん。何か入れないの?」
「砂糖?牛乳?」
一応どっちも持ってきてるけど。
「どっちがおすすめ?」
「まずは素を味わってみたらどうかしら?元々の基準が分かんないと上手く調整出来ないだろうし」
「じゃあそうする!」
「そういやホットで良いわよね?」
まさかこんな寒空の中アイスで飲まないと思うけど。
「勿論!」
「じゃあちょっと待っててね」
「はい、出来たわよ」
フランにマグカップの取っ手を向かせて手渡す。
「おぉ〜!真っ黒だ〜〜!」
「外の世界だと『ブラックコーヒー』っていうらしいわ」
「見たまんまだね」
「まあそんなに凝った名前じゃない方が分かりやすいんじゃない?」
詳しくは知らないけどね。
「確かに」
「じゃあ頂きますか。熱湯じゃないし火傷しないと思うけど、一応気をつけてね」
「は〜い」
フランは漆黒の液体から迸る湯気を冷ましながら、ゆっくりと一口飲んだ。
「にが〜〜…」
舌を出して顔を顰める。
「じゃあ甘くしてみましょうか。取り敢えず砂糖入れてみる?」
「天子は?」
「私はブラックよ。良薬は口に苦しって家庭だったから、苦いのは慣れてるの」
『らしい』が入るけどね。でも苦い胆を食べても平気だし、確実に真実だろう。
「じゃあフランもいらない!」
「いや無理しないでよ。もうそろそろ日の出だし、苦い気分で味わいたくないでしょ」
「大丈夫!」
そう言ってフランは珈琲を啜るけど、顰めてるし、絶対大丈夫じゃない。何で私と同じのに拘るか分からないけど。
「じゃあ私砂糖入れるから。だからフランも入れなさいな」
そう言って角砂糖を2個、自分の珈琲に転がす。
「は〜い」
これは正直に言うとおりにしてくれる。小さい子どもみたいに周りと同じ事するのに拘っているのかしら?
「お、明るくなってきたわよ。そろそろ夜明けね!」
珈琲を3分の1程啜ると、水平線の闇が光に呑まれ始め、暁が消えた。白い光の筋が空気の端を穿く。
「うわ〜〜〜〜!!綺麗な景色〜〜!!」
フランは私と出口の隙間から顔をぴょこんと覗かせて感動する。
「でしょ!?あの端っこから白く穏やかに染まってる今の景色を『東雲』って言うのよ!」
「そうなんだ〜〜!!とっても綺麗〜!!」
フランは今迄の疲れを吹き飛ばすように喜んでくれる。その笑顔を見ると、不思議とこっちまで元気になる。
私はフランが見やすいように珈琲を持ってテントから出る。その瞬間、吸血鬼は珈琲を持ちながら花火を見つけた小さな子どものように元気良く駆け抜ける。そして、切岸ギリギリの明るくなってきた雪の上に座り込んだ。
「ふふ、はしゃぎすぎよ」
私はフランのすぐ右隣に座り込む。
「だって、初日の出を雲海の上から見るのって初めてだもん!」
「そう言えばそうよね。そもそもこんな高い所から初日の出を見る人って大分限られてくるだろうし」
「そうだよそうだよ〜〜!!」
この吸血鬼の騒ぎよう。燦々とした真紅の瞳。虹の光と霓の光が傾き始めた真紅のに煌めく。それらを見て、私は心の底から連れて来て良かったと実感した。
闇夜が終わりを告げ、光の水平線が朝焼けを従えて夜明けの始まりを告げる。澄んだ寒空にほんの少しずつ陽だまりが溶けていく。
紫水晶や薔薇柘榴石、玻璃、金剛石、瑠璃、そして蒼玉達は闇に連れられて西に転がって行く。置いてかれた暁月は朝光に包まれて夜から朝に支配者が移り変わる。
私達は切岸の山肌に踵を当てて、時々笑いながら、珈琲を啜って日の出を待つ。此れは、何故か分からないけど、とても貴重な時間だと思えた。何故かまだ寒い光の中に居るのに心が暖かくなった。
…きっと、いや必ず。『今』は未来で忘れられない思い出になる。だから、今のこの気持ちを忘れないように。この二人で見た景色を忘れないように。思い出が只の記録にならないように。
目に刻み付けよう。脳に焼き付けよう。細胞の奥の奥まで。
卯の下刻のほんの手前時。初日の出まで後僅か。
すっかり空は夜明けに満ちた。東の空からはもう宝石達は身支度をして帰った。朝に焼かれた空気はほんのりと暖かくなり、この空が初日の出の歓迎の準備をしているようだった。
「もうそろそろかな?」
フランは飲み切った珈琲を後ろに置いて、脚をぶらぶら振り子にして、鮮やかな翼をシャンシャン揺らしながらその時を待っていた。
「ええ。もうすぐよ」
此処で初日の出を見るのが初めてである私も当然わくわくしている。声にその感情が見えてしまっただろうか。まあいいか。
水平線が光を帯びていく。間もなく朝が顔を出す。凍てついた結晶がほぐされていく。
私達はその瞬間を、その時を。柔らかい煙を吐いて待っていた。
そして、遂に、凱歌が訪れる。
琥珀と真珠と金糸雀の色が淀み無く混ざりあった円弧が顔を出す。その光景は風光明媚、眺望絶佳、花鳥風月、山紫水明。それらのどの言葉を使っても到底形容出来ない程美しかった。
瞳に映る光景は身体を漲らせ、元気を与えてくれる。初日の出という文化があるのも納得出来る。
私達は只只美しい光景を眺めていた。
琥珀と真珠と金糸雀の色が半分程飛び出した頃。蒼鷹が硬いクラベスと鉄が擦り合う音色を奏で、淀み無い半円に重なる。
「おぉ〜〜!!これって縁起がいい奴だよね?」
フランは蒼鷹を夢中になって目で追いかける。
「ええ、そうよ。御籤は大吉かしらね」
「うん、そうに決まってる!」
フランはそう言って元気良く右拳を天に掲げる。
「ねえ天子」
蒼鷹が見えない所まで降ると、フランが声をかけてくる。
「何?」
そう言って左を向く。すると、
「とっても綺麗な景色を見せてくれてありがとう!!」
卯の花と菜の花と女郎花が入り混じった光に黄金の髪を輝かせ、吸い込まれるような真紅の瞳を淡く優しく光る暁月のようにして、弾けた柘榴のように、弾けた石鹸玉のように。いやものに喩える事なんて出来ない程、その美しい笑顔は。あの初日の出の景色よりも、優しい穏やかな微笑みは。優美な顔の中に狂乱が入った、破壊をアクセントにしながらもそれを昇華させている笑顔はーーーーーとても美しかった。
「ーーーーーーーーっ」
その魔法の泡のような笑顔に。私は思考を。心を。不動に、身動き出来なくされる。
だけど、これは悲しむ事では不思議と無くて。それをどんな言葉で表すべきか浮かばなくて。あんなに書物を、文字の特徴、染みの具合。それらを頭に浮かぶ程読み漁ったのに。誰かの言葉は今の自分に当て嵌められない。
「天子?」
「あ、え、えと!ど、どういたしまして!」
彼女の言葉に慌てて凍った思考を働かせる。だけどエンストした思考は子どものような言葉しか吐き出せなかった。
「…?何か顔真っ赤だよ?」
「…嘘!?」
指摘されると、何故か不思議と体温が熱くなる。熱がある訳では無い。別に恥ずかしい訳では無い。気温が高い訳でも無い。この感覚が分からない。
「おでこ出して」
彼女の柔らかい涼しい額が触れて黄金色の睫毛が目の前に近づく。その瞬間に顔がもっと熱くなってしまう。何もかも固まってしまう。
「うわ、めっちゃ熱いよ!」
「だ、大丈夫!此れは大丈夫な奴だから!!」
慌てて顔を離して遠ざかる。
おかしい。何故か彼女の顔を見ただけで心が、思考が、身体が。強張る。熱くなる。固まる。凍る。分からない感情が暴れる。
おかしい。顔を見ていないのに瞼の裏からあの美しい笑顔が離れない。その笑顔の前に、思考が、身体が。強張る。熱くなる。固まる。凍る。分からない感情が揺れる。
「そうなの?」
「え、ええ!そうなのよ!!」
自分の干支が何十周もしているというのに鸚鵡返しをしてしまう。
「ふ〜ん…」
何か納得いってなさそうな言葉が私を貫く。私だって分かってる、自分が変な挙動をしている事。でも、何故か、それは自分でも制御出来なくて。まるで頭の螺子が1つ跳ねたように。
「て、天子」
彼女がまた声をかける。
「な、何かし…」
取り繕った文字を呟く前に、私は固まってしまった。
ーーーー彼女の、柔らかい紅赤の唇が、私の熱い頬にそっと触れていたから。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!???」
声にならない叫びがほんのり涼しい光に消える。触れた頬から柔らかい衝撃が、暖かい感触が、身体全体に波のように広がっていく。
「な、な、な!?」
慌てて現状を把握しようとするも、ノッキングを起こして脳が稼働しない。
「…きょ、今日のお礼」
彼女は熟れた柘榴になった顔を俯かせ、細く美し声を通らせる。
「…そ、そうな、んだ」
私は壊れた機械仕掛けの鳩時計の音のように、途切れ途切れにつっかかってしまう。
「う、うん」
「……」
「……」
「……」
「ね、ねえ!」
暫しの沈黙の後、彼女がこの静寂を撃ち破ってくれる。
「は、はい!」
それに対してまた変な言葉が飛び出てしまう。
「ち、血す、吸わせて!」
「あ、そ、そうね!暫く吸って無かったものね!」
「う、うん!」
私は襟を空けて首筋を出す。何故か今迄に無い謎の緊張感が心臓に襲い掛かり、顔を彼方に向けてしまう。
「じゃ、じゃあいただきます…」
彼女は白く輝く牙を私の頸動脈に突き刺すと、何時もと違ってゆっくりと血液を吸っていく。
その吸われている感覚は、身体中が何故かこそばゆいような、擽ったいような。そんな感じがして、全血液が、全細胞が、鐘のように煩く喚く鼓動の中で、吸われているのに力を貰っているような、何故かそんな感じがした。
「あ、ありがとう」
少しの静寂の後、彼女の食事が終わる。
「い、いえ。別にこれくらい」
寧ろこっちがエネルギーを貰ったんだから。でも、お礼はこっちがしたいわ、その言葉は辛うじて動く脳が留めてくれた。
「………」
「………」
「れ、霊夢の神社でおみくじ引きに行こっか!」
話の切り口を探していた私は、その提案に喜んで飛び付く。
「え、ええ!」
そう言うと彼女は少し大きい、真紅と緋色が穏やかに混じった色を基調に、端を彼女のような水晶に仕立てた日傘をさす。
「ちょ、ちょっと疲れちゃったから、え、エスコートして、く、下さる?」
慣れてない言葉遣い、朝焼けのような顔をしながら、うまく笑えていない美しい笑顔を見せる。
「え、エスコート!?」
エスコート。それは確かお姫様抱っことかいうやらを行って目的地迄連れて行く事。確か里の貸本屋で借りた本にそう記述してあった筈。
え!?それをやるの?今!?この顔を見ただけで不思議な感情が迸るのに!?
「そ、そう!え、エスコートだよエスコート!て、天子も知ってるでしょ!?」
「し、知ってるけど…」
拒否。出来ればそうしたいが、彼女を連れて来たのは私だ。そして、彼女は慣れない登山をしたから疲労困憊だ。更に、そうさせたのはーーーーこの私だ。
つまり、人として、彼女をエスコートするのは太陽が東から西に沈むのと同義だ。やらなくてはならない。
…やるか。喧しく鳴る鼓動を抑えて、白く息を吐く。
「わ、分かったわよ」
彼女の後ろに行くと、そのまま掬うようにして腰と腿の後ろに手を置いてお姫様抱っこをする。
彼女の柔らかく甘い匂い。僅かに鉄の匂いがする彼女の優しい匂い。彼女の暖かい温もり。卯の花と菜の花と女郎花が入り混じった光に燦々と輝く黄金の髪が肩に掛かる。
「〜〜〜〜〜〜!!!?????」
鉄琴を掻き鳴らしたような声が奏でられる。驚いて日傘がほんのり太陽に染まった雪に落ちた音がした。
「な、何よその反応!?フランがしろって言ったんでしょ!?」
口ではそう言ったものの、思考はそんな事に使う余裕なんて全く無い。彼女の匂い、体温、感触に思考が空回っている。
「お、お姫様抱っこをするとはぉ……」
途中で声が陽だまりに溶けて消えてしまう。だけど、それを追及する余力は全く無かった。
「あ、ごめん!日傘が落ちてたわ!」
そう言って日傘をさすがーーーお姫様抱っこをしている以上、日傘の下轆轤に頭がぶつかって、自然と顔が目と鼻の先になってしまう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!?????」
2人分の声にならないピッコロの顫動音が淡黄色と銀色が混じった大地の上に転がる。
やばいやばい!どうしよう。彼女の匂い、体温、感触がより濃厚に感じてしまう。心臓にガンガン大砲が轟いている。息が不自然に粗くなって、思考がどんどん役に立たなくなって。
「い、行こっか!お姉様も待ってるだろうし!!」
「そ、そうね!早く行きましょう!!」
思考放棄、現実逃避の極み。何も解決していない。だけど、天人の矜持まで思考が回らなかった。
私は甘く温もりのある美しい笑顔を持つ彼女をお姫様抱っこの姿勢で降りていく。誰かに見られたらまずい?天人の矜持?そんなものもう如何でもいい。てか如何にも出来やしない。
無言で只只降りていく。だけど全く退屈じゃなくて。だって、私の少しの動きが、彼女の僅かの身じろぎが。私の思考を空回りさせるから。
御籤は大吉に決まってる。だって、この不思議な感情が、彼女の美しい笑顔が。新しく舞い込んでくれたのだから。
下から吹き上がる明けましての風で火照る身体を何とか冷ましながら、彼女の姉に、リュウグウノツカイに。どう言い訳しようか空回りながら考えながら、私達は地上へと降りていった。
「天子天子ー。まだ登るの?フラン、もう疲れちゃった」
手足の指先から顔を除いた全身をもこもこと暖かい羊にくるまれて深紅のリュックを背負った金髪の吸血鬼が、手に膝を置いくて息を荒げている。
「アンタが綺麗な初日の出みたいって言ったんでしょうが。ったく、手引いてやるから頑張りなさいよ」
厚地の青空色のコートを着て、緋色のリュックを背負い、卯の花色の懐中電灯を片手に持った私は、氷点下を下回る世界に白く灯る息を吐いて、答える。
私達は妖怪の山のある穴場の見晴台に行く為に、紫水晶や薔薇柘榴石、玻璃、金剛石、瑠璃、そして蒼玉がごろごろ、ころころ、さらさらと散らばった風光明媚な滴る星空の下、闇がべたつく空気の中淡く銀色に輝く、白雪が奏でる鈴の音を足元に纏わせながら、凍てつく空気を押し退けて登山しに来ている。
勿論新年の太陽の初披露を眺める為だ。まあ今夜は暁月夜だから月明かりがまだ無くて少し危ないけど。
そんな御目出度いものに飛んで楽々と行くなんて縁起でもない。だから地に足着けて登っている。
いっつも虹色の羽を羽ばたかせて悠々と飛び回っていた吸血鬼にとって、その行為はとても辛いらしい。まあ雪結構積もってるし仕方ないか。
仕方なく、うっすらと紅く光る手を掴んで引っ張ってやる。手袋してないとこういう時に便利よね。まあ本当は手袋して動くとなんかむず痒くなるのが嫌だからなんだけど。
その羊の手は月光のように冷たく、儚かった。
「血〜吸わせてぇ〜〜!」
「嫌よ。登る前に吸ったばかりじゃない」
この吸血鬼は私の血が大層お気に入りだ。何か栄養満点とか言ってるが吸われるこっちからしちゃたまったもんじゃない。
「ちょっとだけ!ちょっとだけならいいでしょ!」
「アンタのちょっとはこっちにとっては大量なのよ」
フランの吸入量は尋常じゃない。ここ数年で右上がりに増え続けてる。その甲斐あってか停滞していた身長がみるみる成長し、私を越しそうにまでなってしまっている。
「吸わせろ〜!吸わせなきゃかぶりつくぞ〜!」
わざとらしく爪を立てて襲うポーズをする。…前までは間髪入れずに吸いに来てた時から成長したわね、ほんと。
「ふふ。かぶりつくのは止めなさい。他の連中の目がつく所に咬み跡付くのは嫌なのよ」
幻想郷の連中には知れ渡ってるだろうけども、天人が咬み跡を見えるようにするってのは色々と面倒事になる。だから、バレにくい頸筋にさせてる。其処なら襟で見えにくいし、近くに来る奴なら大体は知ってるからあんまし問題無いし。
「じゃあ吸わせて♪」
「はいはい。ちゃんと何時もの所にしなさいよ」
「分かってるって♪」
そう言うと、両肩に手を置いて頸筋の頸動脈に牙を突き刺し、勢い良く吸い始める。
「…!」
この始めの感触は何時になっても慣れない。身体に冷たい何かが駆け巡る感触。だけど不思議と嫌悪感は無い。
「ん〜〜美味し〜〜!!」
唇に漏れた血を舌でじっくりと舐め取り、真紅の眼を闇と白の世界の狭間で燦燦と輝かせ、歓喜に震えてるその様はまさに吸血鬼だった。
「吸いすぎよ…」
身体の半分は抜かれただろうか。力が底に抜けて、体勢を崩して雪に勢い良く膝を着けてしまう。
「だって美味しいんだもん♪」
吸血鬼は弾む声を元気よく放ちながら私の手を取って引き上げる。
「少しは我慢しなさいよ。これじゃあいずれ保たなくなるわ」
私はそう言いながら膝に着いた白色をはたいて落とす。
「は〜い。あ、見て見て!何かの足跡!」
指差す方を見上げると、丸っこい足跡が4つ、T字みたいな形をとって走っていた。
「これは兎ね。竹林のじゃないと思うけど」
まさかこんな寒い日に、明くる年の直前に、こんな森に来る理由が無いし。
「じゃあ狩っていいよね?」
そう言うやいなや、どす黒い血の色に染まった剣を足跡の方向にぶっ刺そうとする。
「はいストップ。無駄に殺生しない。アンタ食べないでしょ」
「え〜〜!つまんないんだもん!」
そう言って色とりどりの水晶を揺らしながら、頬を膨らます。
「夜の山は油断禁物よ。それに足元には雪が…」
「うわ!?」
言い終わる前に、フランは踏み込んだ雪で固まった岩にバランスを崩して、雪の毛布に顔から突っ込んだ。
「…ったく、だから言ったのに」
懐中電灯を雪に落とすと手を取って、大の字で埋まった吸血鬼を引き上げてやる。
「うう〜〜…」
雪に撫でられた頬がじんわりと真っ赤に染まってしまっている。痛そうなので手を触れて暖めてやる。
「ひゃう!?」
フランが少し軟らかいクラベスを奏でると同時に、冷えた温もりが伝わってくる。
「ほら。これで懲りたら気をつけること。いいわね?」
「う、うん。…ね、ねえ?もうちょっとあっためて貰っていい?」
何か急に温度が上がって、顔全体が赤珊瑚のように染まっていた。温もりを感じるとこんなに暖かくなるんだっけ?
「いいわよこれぐらい。それにアンタに何かあったらアンタの姉とガチバトルしなきゃなんなくなるし」
紅魔館の主は結構妹思いだしね。フランは気づいていないみたいだけど。それにアイツは結構強い。まともにやりあっても勝てるか分かんないし。だからちゃんと安全にさせないと。
「…そう」
フランは白煙の息を溜め込んで、何か不満気に呟く。
あれ何かした?してないわよね?…考えてもその意図は分からないので考えない事にする。
「ほら。もう大分あったまったようだし再開しましょうか」
ちょっと時間的に厳しいかもしれないので、懐中電灯を拾い上げてもこもことした手を引っ張って急ぐ。
「うん。ありがと!」
何時もの元気な弾ける声が返ってきて、握り返してくる。…特に問題無さそうね。
ゴーー‐‐‐……ン ゴーー‐‐‐……ン
里の方角から重厚かつ荘厳な鐘の音が突き刺さってくる。微かに乱れた音色は、全体を緑青に纏わせて幾年もの歴史を、幾人もの願いを紡いできた事を知らせてくれる。
私はこの音が好きだ。天界みたいに純粋な鐘の音を聞いた所で趣も何にも無いから。
「もうすぐ年明けだね〜!」
フランは弾んだ声色を出して喜んでいる。
「アンタ煩悩を消して貰いなさいよ」
具体的には血欲を。
「え〜〜やだ!」
フランは即答してにこやかに悪魔みたいに微笑む。あ、一応悪魔なんだっけ?
「何でよ」
「だってどんな想いだってフランを構成する要素だもん!」
「確かに…」
一理ある。自分の性格とかそういうのと密接に関わってるし。不覚にも悪魔に言い負かされてしまった。
「でも他人から見て直した方がいい事はあると思うわよ?自分だけでは生きていけないんだし」
円滑な人間関係を築くには改善した方が良い性格もあったりする。…私が言えた事じゃないけど。
「天子はどんなフランでも受け止めてくれるでしょ?」
力強く信頼しきった声。どんなに重厚な壁でも貫き通すような声。その声に振り返ると、ただ真紅の瞳が微笑んでいた。
「…ええ。勿論」
その眩しい瞳の前に、ただ私は応諾する。嘘偽りの無い答えだけど、何故か単語を文に繋げられなかった。
「天子は煩悩あるの?」
先程迄とは打って変わって、カラリと何時もの声に戻る。
「そりゃあね。108も無いけど」
ひ…ふ…み…3つ程かしら?
「確かに〜!じゃあフランがその煩悩当ててあげようか♪」
ウキウキした声色が後ろから響いてくる。
「面白いじゃない。当ててみなさいよ」
私はその挑戦を受け入れてやる。まあ良い気分転換になりそうだし。
「じゃあいっくよ〜!」
「来なさい」
「まず1つ目!血を吸う時にたまに意地悪する所!」
フランは人差し指を天に向けて、自信満々に高らかに言い放つ。まあ不正解なんですけど。
「はい外れ。それにアンタが欲張りなだけでしょ」
「むむ……!じゃあ次!フランをあんまり外に連れてってくれない所!」
「外れ。アンタの姉が五月蝿いのよ」
まあアイツの気持ちは少し分かるけどね。
「ぐぐ……!次!ちょっと厳しい所!」
「あら正解よ。もう少し自由にさせてあげたいんだけどね」
昔っから型に嵌まった考えしか出来ないのは反省すべき点だ。来年はもっと柔軟に考えられるようになりたい。
「やった〜〜!!あといくつ〜?」
フランは両手を掲げて喜ぶ。そのお陰で私の片手も釣られて天に向いてしまう。
「2つ、って所かしら」
「う〜ん…あと2つか〜」
「……あ、分かった!ちょっぴり必要以上に自信満々な所!」
とびっきりの笑顔で正解を貫いてくる。
「大正解。ちょっとじゃないけどね」
ノープランなのにさも完璧な計画を考えてるかのように振る舞った事もあるし、この悪い癖直したいわ。
「じゃああと1つか〜〜…」
フランは悶々とした、だけど何か違和感を少し感じるような声を出す。わざと遠回りしているような?そんな当てにならない気が。
「ええ。後1つよ」
その違和感の正体が分からないまま言葉が続く。
「…おっちょこちょいな所!」
24回目の追及が無を掠る。
「外れ。そんな性格だと認識してないわ」
「う〜ん…また外れかあ…」
「もう降参する?結構時間掛けてるしこれ以上思いつかないんじゃない?」
「う〜〜〜〜ん……………」
長い長い呻きが雪に溶ける。
「降参する?」
「ううん!…今思いついた」
闇夜に真紅が暗く輝く。
「じゃあ言ってみなさい」
私は19回目の台詞を放つ。
「……少し品行が悪い所」
溜まった空気を吐き出して、鉛のように重く揺らいだ声が静かに鼓膜に伝わる。
「…はあ?」
有り得ない言葉に思わず素っ頓狂な声を出してしまう。
「正解から限りなく遠い、天地よりも遠い回答ね。私が天人である事忘れてない?」
「そ、そうだよね!天子は天人だもんね!お、思いつかなかったからダメ元で聞いてみたの!」
真紅の瞳に渦を映しながら、聖夜を寝過ごしたクリスマスベルのように慌て出す。何で慌ててるのか皆目見当もつかない。
「へえ〜、そうなの。ならもう答え言っちゃうわね」
これ以上引き延ばしても無意味なので、さっさと解答を言おう。
「最後の答えは…相手の気持ちが分からない所よ。前に比べれば少しは改善したと思ってるけど、それでもさっきのフランの時みたいに相手の感情とか考えが分からない時が多いのよ」
儀礼的な事とか教養関係なら分かるんだけど、それ以外はさっぱり。書冊だけでは地上の相手の感情をはっきり捉える事は出来なかった。
本当に早く改善したい。利点が全く無い。
「確かに。天子ってそういう所あるもんね」
フランは心の水底から納得がいく表情をする。
「うぐ…」
私は何も返せずにただ変な声を捻り出す。
「まあでもそういう鈍い所も良いんだけどね♪」
フランはそう言って悪戯を思いついた悪魔っぽく笑う。言ったそばからもう分かんない。
「…どういう事よ」
「そのままの意味だよ♪」
吸血鬼は満面の笑みを映してくる。その悪魔の顔はほんのり林檎に染まっていた。
「…そういう事にしとく」
「そういうことなんだけどなぁ〜♪」
フランは弾む音色に安堵をアクセント、緊張をスタッカートにして奏でる。その曲調が示す意味は何だろうか。
ゴーー‐‐‐……ン ゴーー‐‐‐……ン
107回目の鐘がフランの音色に絡まる。
「あらもうそろそろ年明けね」
「そうなの?」
「そうよ。人里の鐘は108回目に新年になるように撞くのよ」
「へ〜〜、そうだ!」
フランは声をトランペットにして、元気よく何か思いつく。そして、私と横一文字になると、
「天子!」
膝に力を入れるフランに私は察した。
「さよなら、2021年!」
私達は叫びながら、片手を天に向けて白い大地を蹴り上げる。
ゴーーーーーー---‐‐‐…………ンンンンン
新年の幕開けの凱歌が湧き上がる。
「ようこそ、2022年!」
私達は歓迎を謳いながら銀色の大地を踏みしめる。
「いぇ〜〜〜〜い!!!!!!」
私達は両手でハイタッチして喜びを分かち合う。…何恥ずかしい事してんだろ、私。
「さて、新年も明けたし!新年初吸血〜〜!!」
真紅の瞳を闇夜に輝かせて、牙を頸に撃ち放ってくる。
「はいストップ」
吸血鬼の顔を押さえて牙を止める。
「何でさ〜〜!」
吸血鬼は何故か両手を掲げて抗議する。
「何でも何も。さっき吸ったばかりでしょうが。吸うなら着いてっからにしなさいよ。月が昇る前には着くから」
何せ血が回復しきってないのだ。今吸われたら登るのがキツくなってしまう。
「え〜〜!だってもう疲れたもん!」
「じゃあ彼処にある洞窟で休むわよ。勿論吸血しないからね」
右奥に見える、雪がへばり着いた崖下にぽっかりと穴が空いている。其処で小休憩するとしよう。
「は〜〜い」
間の抜けた白い空気が闇に溶けていく。その返事に若干の不安を抱えながら、吸血鬼の手を引っ張って穴へと入り込んだ。
「あ〜〜あったまる〜〜♪」
近くに転がっていた朽木や枝を緋想の剣で燃やして焚火をする。吸血鬼は火の恵みに手を当てて享受していた。
「私は小腹空いたし軽く間食するけど吸血しないでよ」
念の為繰り返す。隙を見せたら襲い掛かって来そうだし。
「分かってるって〜。それで何食べるの?」
「乾パンよ」
リュックから家で焼成した乾パンが入った袋を取り出す。
「え〜〜〜……」
吸血鬼は何故か信じ難さと呆然が入り混じったフルートを奏でる。
「何よその顔は」
「いやだってさ…新年明けた初食事が乾パンって…」
「良いじゃない。新年初めての食事が洞窟で乾パンを食すというのはとってもロマンあるじゃない?」
何せ乾パンを洞窟で食べる事自体が初めてだ。そんな記念すべき食事に何か不満でもあるのだろうか?
「料理音痴の天子にフランの素晴らしい料理をお届けしてあげる♪」
開幕から心を抉りながら、悪魔は血を呑み込んだようなリュックから檜で包まれた口が大きい水筒を取り出した。
「これ、食べてみて」
少しの緊張を含みながらフランが渡してくる。
「…何入ってるの?」
3分の2ほど入った何らかの凄くとろみがある液体がトプン…トプン…と言いながら揺れている。保温性を高める為か微かに魔法がかけられている。『食べる』という事は固体が入ってるってことよね?
「それは開けてみてのお楽しみ♪」
「期待してもいいかしら?」
自然と心が高鳴り、胸が踊ってしまう。いやだって仕方ないだろう。料理するのが下手な私にとって、誰かの手料理は尊敬と期待の塊なんだから。
「うん!」
私は柔らかくて薄い黄色い容器を力を込めて持ち、爽やかに心が和らぐ匂いを右にゆっくりと回した。
「わぁ……!!」
森の蓋を開けると、元気な湯気と共に太陽のスープに熟れた真っ赤なトマト、鮮やかな朱色の人参が顔を出し、太陽が入り込んだ玉葱と陽だまりの衣装を一粒一粒装った米が泳いでいた。
「とっても美味しそう!!トマトに人参、玉葱に御飯が暖かい空気を纏って踊ってて、その…言葉で上手く表せないんだけど、とっても素晴らしいご馳走よ!!」
私はあまりの名料理の前に、逸る気持ちを抑えられない。それ程迄に私の心を掴んでいた。
「良かった〜喜んでもらえて!天子に喜んでもらえるように咲夜に一から教わって、頑張って料理したんだよ!」
フランは破顔一笑、太陽のような暖かい笑顔を見せる。その笑顔に様々に輝く水晶の光が互いに当たって煌めく。
「それはとても嬉しいわ!ねえねえ、食べてもいいかしら?」
「もちろん!あ、これ使って」
そう言ってフランは、檜の鮮やかな木目が美しいスプーンを渡してくれる。
「ありがとう。じゃあいただくわね」
いただきます、そう言って手の皺を合わせると、私は暖かい温もりのある柄を持って勢い良く飛び出して来る湯気を掻き分けて、太陽の恵みがぎっしりと詰まったスープに檜を柔らかく、そっと入れる。
そして、陽の光をたっぷり浴びて染まった細長くて四角い白い絨毯の上に、食べやすい大きさで乱切りされた、熟れて皮が波打ったトマトと炎のように柔らかい人参を乗せて、私はゆっくりと口の中にいざなった。
「ん〜〜〜!!おいひ〜〜〜〜〜!!!!」
噛み締めた瞬間、トマトのサクッと柔らかく熟れた甘い酸味が舌の上で弾け、芯まで火が通った優しい甘味の人参が口の中に溶け出し、御飯の粘味と仄かな甘味、滑らかかつシャキシャキが絶妙に残る玉葱、そしてトマトを一粒一粒、一欠片一欠片コーティングしたあの酸味がアクセントとなって私の口の中でハーモニーを奏で出す。
暖かい幸福が五臓六腑に染み渡り、身体がぽかぽかになる。初めて感じるこの味は、控えめに言って素晴らしく絶品だった。
「やった〜〜〜!!大成功〜〜〜!!!」
私の様子をじっと見ていたフランが歓喜の凱歌を奏でる。
「本当に美味しいわ!口の中で素晴らしい味の舞踏宴が開幕してて!上手く表現出来ないんだけど、天界での物寂しい料理なんかよりも、よっぽど!!」
「そう言ってくれると嬉しいな〜〜♪」
太陽のように弾ける笑顔。興奮さめやらない羽。その様子からこの料理は途轍もない努力の結晶である事が用意に想像出来た。
「フランの分はあるの?」
「ううん。フランは天子の血があるし」
「じゃあ少しだけでいいから食べてみなさいよ!とっても美味しいわよ!」
こんなに素晴らしい料理を拵えてくれた本人が味わう事をしないなんて勿体無い。そう強く感じた私は、スプーンで掬ってフランに差し出す。
「え、えと…」
何故か水晶を逆さまにして目を逸して戸惑う。炎に照らされたフランの顔は外炎よりも濃かった。
「皆で食べるととっても美味しくなるのよ?昔っから鯛も一人はうまからずって言うじゃない!まあこの御馳走は一人でもとっても美味しいけど、それがもっと美味しくなるの!ほら試してみなさい!!」
「わ、わかっ……」
フランは穴が空いた風船のように勢い良く言葉が萎みながら、戸惑いながら口を開けて御馳走を味わった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!」
フランは何故か顔から湯気を出して、長月の末期の鬼灯みたいに染めて、水晶をシャラシャラ音をたてる。よっぽど美味しいのだろう。そりゃあそうよ!
「ほらだから言ったじゃない」
私はぽかぽかと暖かい笑みを零しながら、御馳走を頬張る。
「〜〜〜〜〜〜〜!!!??????」
フランはまた何故か湯気を出して、頬に手を当てて今度はくねくねしている。
???何か吸血鬼の琴線にでも触れたのだろうか。まあいい。この満ち足りた気持ちを噛みしめると…『満ち足りた』?
「…………!」
ふと、脳裏の隅に、脳の端の端に、幻想だと振り切っていた、あの有り得ない妄想が浮かんでくる。
何で?何で?それはもう何千回も、何万回も有り得ないって結論を出し切っていたのに。
擦り切れてはっきりと見えない母らしい人物が私の頭を撫で、私は白米を食べながら無邪気に元気一杯に笑っていた有り得ない夢。
母はとても厳しい人だったと『聞いている』。そんな人が当時は極上の御馳走だった白米を食べさせる事なんて無かった筈だ。いや、『筈』じゃなくて『無い』。それが正しい。
凶兆の星が手指で数え切れない程回っても、消えた太陽が何度地球を穿っても。
母の墓前に煤の川を作っても、何故か出ない涙に幾星霜と絶望しても。
母は何も答えてはくれなかった。
幻。夢。幻想。夢想。そんなのは分かってる。分かってるのにこの有り得ない感覚が、満ち足りていた感覚が、頭から離れてくれないんだ。
「…天子?」
真紅の瞳が仰いで来て、私は意識を現実に戻す。
「ううん、何でもない。ごめん、早く食べちゃうわね」
三分の一の湯気を見て、『未来』を思い出す。
「急がなくても大丈夫だよ」
「ありがとう」
私は少し速めのスピードで、僅かに冷えてしまった満足感を膨らませながら、御馳走を平らげた。
「さて、行きましょうか」
もう丑三つ時。日の出の卯の下刻まであんまり時間が無い。急がないと。
「うん!」
フランの手を繋ぐと、一段と寒くなった空気を、どんどん深くなっていく雪を押し退けながら、目的地に登っていく。
寅の正刻。星夜が西に大分傾いた頃。私達は目的地の近くまで来た。
「天子〜。まだなの〜?」
フランの声に疲労が見える。
「もう直ぐよ。ほら、あの獣道を通るのよ」
私は広い登山道を囲む大白檜曽の根本に、少しだけ雪が下がってる獣か妖怪か何かか通ってる空間を指さす。
「あそこを通るの?」
予想外だったのか、間抜けの壊れたクラリネットのような音を出す。
「そうよ」
「迷わない?」
フランは更に暗い、雪で茂った森を通るのに心配になったのだろう。戸惑いの声がする。
「目印があるから大丈夫よ」
私は手を強く握って、淡いライトを照らして雪に突き進んで行く。
「確かこの辺りに…あった」
道に沿って暫く約30度の勾配を進むと、暗闇の中で白く立ち枯れている大白檜曽の群林が見えた。
「うわ、何であそこだけいっぱい枯れてるの?」
久し振りの元気な声。その声に安心する。
「縞枯れ現象っていうやつよ。原因不明だけど」
妖怪の仕業かそれとも妖精の悪戯か。どちらにせよ森にとっては迷惑だろう。
「縞?」
「ええ。まあ朝になったら分かるわよ」
今は残念ながら闇が覆ってるからそれを確認出来ない。陽が昇ったら教えてあげよう。
「それで、此処を登ったら目的地よ」
他と何も変わらない、こんもり雪の上にそびえ立つ大白檜曽の間を指さす。
「ねえ、道じゃないよそこ?」
「穴場だって行ったでしょう?それに道は自分が通る所を言うのよ!誰かが通って無かろうが関係ないわ!!」
「ええ〜〜〜〜〜!?」
「大丈夫よ。私を信じて付いて来なさい!」
「本当に大丈夫なんだよね…」
下半身を埋める雪の壁を壊しながら、私達はゆっくりと登って行った。
卯の初刻。太陽がそろそろ空を窺う時。
雪の壁を貫いた私達は、山の端のちょうど段差がある踏板に遂に辿り着いた。
「ここが穴場なの?」
雪の壁で覆われている目的地は、誰も来ていない穴場の中の穴場だという事を証明していた。
「ええ。此処から見る日の出はとても美しいのよ」
「ふ〜ん…」
「後四半刻もすれば明るくなってくるから、それ迄テントでゆっくりしようじゃない。フランも結構疲れたでしょ?」
「やった〜〜!やっと休める!」
フランは喜びながら、雪の上に大の字に仰向けになる。
「お疲れ様。テントは私が建てるからゆっくり休んでなさい」
「ありがとう!」
緋色のリュックの中から、折り畳んだ蒲公英色のテントを取り出し、闇に染まる雪の上に広げる。
「よし、出来たわよ」
「おぉ〜〜!これがテントか〜!」
フランは初めて人間を見た吸血鬼のように感動している。
「そうよ。二人用だからあまり大きくないけど、無駄に広くする必要無いしね」
「ふ、ふ〜ん…」
フランは何故か見え見えの無表情の演技をしながら、霓光をもう帰ろうとする闇夜に揺ら揺らさせる。…相変わらず分からないわね。
「あ、暁月が顔を出してるわよ」
のんびり欠伸しながら、そろそろ有給を取れると喜んでいそうな薄い月が暗い雪を淡く照らす。
「あ、本当だ!やっと昇って来たね!」
「本当よね〜。寝過ぎて昼行性になっちゃってるじゃないの」
「裏切られた!?」
「ふふ。フランと同じで疲れてるのかもね」
「そうなのかな〜」
「そうよ」
もう天界が創られる前から存在するみたいだしね。人間に譬えたら、結構なお年寄りになっているのでは?
「寝坊助の月が出て来たって事は、もうそろそろ夜明け?」
「そうよ。そろそろ明るくなってくると思うわ」
「じゃあ日の出ももうすぐ?」
「いいえ。明るくなってから半刻以上は待つわ」
「まだか〜」
「まあまあ。長く待った方が、その分感動は大きくなるからね。後もう少しの辛抱よ」
「まあそうだけどさ〜」
フランは手持ち無沙汰なのか、闇の粉をごろごろと身体に纏わせる。
「明るくなってくるまでテントで珈琲でも飲みましょうよ」
「こーひー?」
フランは突然屋根からの落雪に埋まった犬の様な顔をする。
「ええ。少し苦いけど、それがアクセントになって美味しいのよ」
「あ、この前そう言えばお姉様が勧めてきたような…」
「ええ。最近幻想郷に入り込んで来たからね」
希少品かつ栽培方法も確立されてないから、値段は目が飛び出る程高い。そんな代物を買えるなんて、流石紅魔館の主。
「でも天子はそんなにお金持ってないでしょ?」
「ええ。だから先週外の世界で仕事して来た時に買ってきたの。外の世界だと有り触れているからね」
「え〜〜ずるいずるい!フランも連れてってよ〜!」
「何言ってんの。そんな事あのスキマが許す訳無いでしょ」
幻想郷を維持する事に腐心してる奴が、不均衡を齎す行為を見逃す筈が無いだろう。
「それは天子が何とかしてさ〜」
「無茶言わない。私は仕事で行ってるんだから」
一族が古代から営んできた地震を鎮める仕事。信仰が薄れても、まだ要石が人々の役に立つ限りは、地震の巫女として人々を救わないと。
「天子の手伝いってことで♪」
「却下。そもそも天界の連中から許可が下りないわ」
「む〜〜〜!」
「でも、何時かはフランと一緒に外の世界に行ってみたいわね」
「本当!?」
フランは年が明けた晴れ渡る蒼空を、力強くしっかりと羽撃く蒼鷹の初鳴きのような声を出す。
「ええ、本当よ。フランとなら退屈しないだろうしね」
色々と騒いだり焦ったりするだろうけど、それでもとても楽しそうだもの。
「えへへ〜。楽しみにしてる♪」
「あんまり期待しないでよ?」
「分かってる♬」
「……」
分かってないでしょそれ。その言葉は、未来を夢見る吸血鬼の笑顔の前に、只の息となって消えた。
「まあ頑張ってみるわ」
如何返せば良いか分からず、無難な言葉を呟いてしまう。
「こほん。話戻すけど」
この妙な空気を変える為に、話を半ば無理矢理引き戻す。
「うん」
「珈琲飲んでみる?」
「うん!」
「悪いけど本格的のじゃないから勘弁してちょうだい」
淡い月が輝く暁に、怪しく光るリュックから珈琲1杯分が入った袋を2つ取り出す。
「まあ天子お金無いもんね〜」
「ええそうよ!なけなしのお金で買ったんだから!」
天界の桃は上の連中から厳しい販売上限課せられてるし、地上での仕事はあんまりお金入んないし。結構火の車だ。天人だから生きていけるけど。
血色のマグカップに袋の中身を振りかける。
「あ、マグカップ用意してくれたんだ」
「ええ。フラン持ってきてないと思って」
「うん、その通りだよ!」
何故か偉そうに腰に手を当てて背を反らす。あ、昔の私がフラッシュバックしちゃう。
「やっぱりね」
「あれ?突っ込まないの?」
「嫌よ。ってあれ?もしかして私の真似?」
道理でやけにフラッシュバックしてくるわけだ。
快晴色のマグカップに中身をぶちまけながら、そんな事を思う。
「ピンポンピンポーン!大正解〜〜!!」
目の前でピースしてくる吸血鬼はまさしく悪魔だ。
「お願いだから止めて…」
恥ずかしすぎて死にたくなる。
「分かった♪」
「もう〜〜!!」
「冗談だってば。それでお湯を淹れたら終わり?」
「ええ。まあ細かく言えばスプーンで掻き混ぜないとだけど」
「ふ〜ん。何か入れないの?」
「砂糖?牛乳?」
一応どっちも持ってきてるけど。
「どっちがおすすめ?」
「まずは素を味わってみたらどうかしら?元々の基準が分かんないと上手く調整出来ないだろうし」
「じゃあそうする!」
「そういやホットで良いわよね?」
まさかこんな寒空の中アイスで飲まないと思うけど。
「勿論!」
「じゃあちょっと待っててね」
「はい、出来たわよ」
フランにマグカップの取っ手を向かせて手渡す。
「おぉ〜!真っ黒だ〜〜!」
「外の世界だと『ブラックコーヒー』っていうらしいわ」
「見たまんまだね」
「まあそんなに凝った名前じゃない方が分かりやすいんじゃない?」
詳しくは知らないけどね。
「確かに」
「じゃあ頂きますか。熱湯じゃないし火傷しないと思うけど、一応気をつけてね」
「は〜い」
フランは漆黒の液体から迸る湯気を冷ましながら、ゆっくりと一口飲んだ。
「にが〜〜…」
舌を出して顔を顰める。
「じゃあ甘くしてみましょうか。取り敢えず砂糖入れてみる?」
「天子は?」
「私はブラックよ。良薬は口に苦しって家庭だったから、苦いのは慣れてるの」
『らしい』が入るけどね。でも苦い胆を食べても平気だし、確実に真実だろう。
「じゃあフランもいらない!」
「いや無理しないでよ。もうそろそろ日の出だし、苦い気分で味わいたくないでしょ」
「大丈夫!」
そう言ってフランは珈琲を啜るけど、顰めてるし、絶対大丈夫じゃない。何で私と同じのに拘るか分からないけど。
「じゃあ私砂糖入れるから。だからフランも入れなさいな」
そう言って角砂糖を2個、自分の珈琲に転がす。
「は〜い」
これは正直に言うとおりにしてくれる。小さい子どもみたいに周りと同じ事するのに拘っているのかしら?
「お、明るくなってきたわよ。そろそろ夜明けね!」
珈琲を3分の1程啜ると、水平線の闇が光に呑まれ始め、暁が消えた。白い光の筋が空気の端を穿く。
「うわ〜〜〜〜!!綺麗な景色〜〜!!」
フランは私と出口の隙間から顔をぴょこんと覗かせて感動する。
「でしょ!?あの端っこから白く穏やかに染まってる今の景色を『東雲』って言うのよ!」
「そうなんだ〜〜!!とっても綺麗〜!!」
フランは今迄の疲れを吹き飛ばすように喜んでくれる。その笑顔を見ると、不思議とこっちまで元気になる。
私はフランが見やすいように珈琲を持ってテントから出る。その瞬間、吸血鬼は珈琲を持ちながら花火を見つけた小さな子どものように元気良く駆け抜ける。そして、切岸ギリギリの明るくなってきた雪の上に座り込んだ。
「ふふ、はしゃぎすぎよ」
私はフランのすぐ右隣に座り込む。
「だって、初日の出を雲海の上から見るのって初めてだもん!」
「そう言えばそうよね。そもそもこんな高い所から初日の出を見る人って大分限られてくるだろうし」
「そうだよそうだよ〜〜!!」
この吸血鬼の騒ぎよう。燦々とした真紅の瞳。虹の光と霓の光が傾き始めた真紅のに煌めく。それらを見て、私は心の底から連れて来て良かったと実感した。
闇夜が終わりを告げ、光の水平線が朝焼けを従えて夜明けの始まりを告げる。澄んだ寒空にほんの少しずつ陽だまりが溶けていく。
紫水晶や薔薇柘榴石、玻璃、金剛石、瑠璃、そして蒼玉達は闇に連れられて西に転がって行く。置いてかれた暁月は朝光に包まれて夜から朝に支配者が移り変わる。
私達は切岸の山肌に踵を当てて、時々笑いながら、珈琲を啜って日の出を待つ。此れは、何故か分からないけど、とても貴重な時間だと思えた。何故かまだ寒い光の中に居るのに心が暖かくなった。
…きっと、いや必ず。『今』は未来で忘れられない思い出になる。だから、今のこの気持ちを忘れないように。この二人で見た景色を忘れないように。思い出が只の記録にならないように。
目に刻み付けよう。脳に焼き付けよう。細胞の奥の奥まで。
卯の下刻のほんの手前時。初日の出まで後僅か。
すっかり空は夜明けに満ちた。東の空からはもう宝石達は身支度をして帰った。朝に焼かれた空気はほんのりと暖かくなり、この空が初日の出の歓迎の準備をしているようだった。
「もうそろそろかな?」
フランは飲み切った珈琲を後ろに置いて、脚をぶらぶら振り子にして、鮮やかな翼をシャンシャン揺らしながらその時を待っていた。
「ええ。もうすぐよ」
此処で初日の出を見るのが初めてである私も当然わくわくしている。声にその感情が見えてしまっただろうか。まあいいか。
水平線が光を帯びていく。間もなく朝が顔を出す。凍てついた結晶がほぐされていく。
私達はその瞬間を、その時を。柔らかい煙を吐いて待っていた。
そして、遂に、凱歌が訪れる。
琥珀と真珠と金糸雀の色が淀み無く混ざりあった円弧が顔を出す。その光景は風光明媚、眺望絶佳、花鳥風月、山紫水明。それらのどの言葉を使っても到底形容出来ない程美しかった。
瞳に映る光景は身体を漲らせ、元気を与えてくれる。初日の出という文化があるのも納得出来る。
私達は只只美しい光景を眺めていた。
琥珀と真珠と金糸雀の色が半分程飛び出した頃。蒼鷹が硬いクラベスと鉄が擦り合う音色を奏で、淀み無い半円に重なる。
「おぉ〜〜!!これって縁起がいい奴だよね?」
フランは蒼鷹を夢中になって目で追いかける。
「ええ、そうよ。御籤は大吉かしらね」
「うん、そうに決まってる!」
フランはそう言って元気良く右拳を天に掲げる。
「ねえ天子」
蒼鷹が見えない所まで降ると、フランが声をかけてくる。
「何?」
そう言って左を向く。すると、
「とっても綺麗な景色を見せてくれてありがとう!!」
卯の花と菜の花と女郎花が入り混じった光に黄金の髪を輝かせ、吸い込まれるような真紅の瞳を淡く優しく光る暁月のようにして、弾けた柘榴のように、弾けた石鹸玉のように。いやものに喩える事なんて出来ない程、その美しい笑顔は。あの初日の出の景色よりも、優しい穏やかな微笑みは。優美な顔の中に狂乱が入った、破壊をアクセントにしながらもそれを昇華させている笑顔はーーーーーとても美しかった。
「ーーーーーーーーっ」
その魔法の泡のような笑顔に。私は思考を。心を。不動に、身動き出来なくされる。
だけど、これは悲しむ事では不思議と無くて。それをどんな言葉で表すべきか浮かばなくて。あんなに書物を、文字の特徴、染みの具合。それらを頭に浮かぶ程読み漁ったのに。誰かの言葉は今の自分に当て嵌められない。
「天子?」
「あ、え、えと!ど、どういたしまして!」
彼女の言葉に慌てて凍った思考を働かせる。だけどエンストした思考は子どものような言葉しか吐き出せなかった。
「…?何か顔真っ赤だよ?」
「…嘘!?」
指摘されると、何故か不思議と体温が熱くなる。熱がある訳では無い。別に恥ずかしい訳では無い。気温が高い訳でも無い。この感覚が分からない。
「おでこ出して」
彼女の柔らかい涼しい額が触れて黄金色の睫毛が目の前に近づく。その瞬間に顔がもっと熱くなってしまう。何もかも固まってしまう。
「うわ、めっちゃ熱いよ!」
「だ、大丈夫!此れは大丈夫な奴だから!!」
慌てて顔を離して遠ざかる。
おかしい。何故か彼女の顔を見ただけで心が、思考が、身体が。強張る。熱くなる。固まる。凍る。分からない感情が暴れる。
おかしい。顔を見ていないのに瞼の裏からあの美しい笑顔が離れない。その笑顔の前に、思考が、身体が。強張る。熱くなる。固まる。凍る。分からない感情が揺れる。
「そうなの?」
「え、ええ!そうなのよ!!」
自分の干支が何十周もしているというのに鸚鵡返しをしてしまう。
「ふ〜ん…」
何か納得いってなさそうな言葉が私を貫く。私だって分かってる、自分が変な挙動をしている事。でも、何故か、それは自分でも制御出来なくて。まるで頭の螺子が1つ跳ねたように。
「て、天子」
彼女がまた声をかける。
「な、何かし…」
取り繕った文字を呟く前に、私は固まってしまった。
ーーーー彼女の、柔らかい紅赤の唇が、私の熱い頬にそっと触れていたから。
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!???」
声にならない叫びがほんのり涼しい光に消える。触れた頬から柔らかい衝撃が、暖かい感触が、身体全体に波のように広がっていく。
「な、な、な!?」
慌てて現状を把握しようとするも、ノッキングを起こして脳が稼働しない。
「…きょ、今日のお礼」
彼女は熟れた柘榴になった顔を俯かせ、細く美し声を通らせる。
「…そ、そうな、んだ」
私は壊れた機械仕掛けの鳩時計の音のように、途切れ途切れにつっかかってしまう。
「う、うん」
「……」
「……」
「……」
「ね、ねえ!」
暫しの沈黙の後、彼女がこの静寂を撃ち破ってくれる。
「は、はい!」
それに対してまた変な言葉が飛び出てしまう。
「ち、血す、吸わせて!」
「あ、そ、そうね!暫く吸って無かったものね!」
「う、うん!」
私は襟を空けて首筋を出す。何故か今迄に無い謎の緊張感が心臓に襲い掛かり、顔を彼方に向けてしまう。
「じゃ、じゃあいただきます…」
彼女は白く輝く牙を私の頸動脈に突き刺すと、何時もと違ってゆっくりと血液を吸っていく。
その吸われている感覚は、身体中が何故かこそばゆいような、擽ったいような。そんな感じがして、全血液が、全細胞が、鐘のように煩く喚く鼓動の中で、吸われているのに力を貰っているような、何故かそんな感じがした。
「あ、ありがとう」
少しの静寂の後、彼女の食事が終わる。
「い、いえ。別にこれくらい」
寧ろこっちがエネルギーを貰ったんだから。でも、お礼はこっちがしたいわ、その言葉は辛うじて動く脳が留めてくれた。
「………」
「………」
「れ、霊夢の神社でおみくじ引きに行こっか!」
話の切り口を探していた私は、その提案に喜んで飛び付く。
「え、ええ!」
そう言うと彼女は少し大きい、真紅と緋色が穏やかに混じった色を基調に、端を彼女のような水晶に仕立てた日傘をさす。
「ちょ、ちょっと疲れちゃったから、え、エスコートして、く、下さる?」
慣れてない言葉遣い、朝焼けのような顔をしながら、うまく笑えていない美しい笑顔を見せる。
「え、エスコート!?」
エスコート。それは確かお姫様抱っことかいうやらを行って目的地迄連れて行く事。確か里の貸本屋で借りた本にそう記述してあった筈。
え!?それをやるの?今!?この顔を見ただけで不思議な感情が迸るのに!?
「そ、そう!え、エスコートだよエスコート!て、天子も知ってるでしょ!?」
「し、知ってるけど…」
拒否。出来ればそうしたいが、彼女を連れて来たのは私だ。そして、彼女は慣れない登山をしたから疲労困憊だ。更に、そうさせたのはーーーーこの私だ。
つまり、人として、彼女をエスコートするのは太陽が東から西に沈むのと同義だ。やらなくてはならない。
…やるか。喧しく鳴る鼓動を抑えて、白く息を吐く。
「わ、分かったわよ」
彼女の後ろに行くと、そのまま掬うようにして腰と腿の後ろに手を置いてお姫様抱っこをする。
彼女の柔らかく甘い匂い。僅かに鉄の匂いがする彼女の優しい匂い。彼女の暖かい温もり。卯の花と菜の花と女郎花が入り混じった光に燦々と輝く黄金の髪が肩に掛かる。
「〜〜〜〜〜〜!!!?????」
鉄琴を掻き鳴らしたような声が奏でられる。驚いて日傘がほんのり太陽に染まった雪に落ちた音がした。
「な、何よその反応!?フランがしろって言ったんでしょ!?」
口ではそう言ったものの、思考はそんな事に使う余裕なんて全く無い。彼女の匂い、体温、感触に思考が空回っている。
「お、お姫様抱っこをするとはぉ……」
途中で声が陽だまりに溶けて消えてしまう。だけど、それを追及する余力は全く無かった。
「あ、ごめん!日傘が落ちてたわ!」
そう言って日傘をさすがーーーお姫様抱っこをしている以上、日傘の下轆轤に頭がぶつかって、自然と顔が目と鼻の先になってしまう。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!?????」
2人分の声にならないピッコロの顫動音が淡黄色と銀色が混じった大地の上に転がる。
やばいやばい!どうしよう。彼女の匂い、体温、感触がより濃厚に感じてしまう。心臓にガンガン大砲が轟いている。息が不自然に粗くなって、思考がどんどん役に立たなくなって。
「い、行こっか!お姉様も待ってるだろうし!!」
「そ、そうね!早く行きましょう!!」
思考放棄、現実逃避の極み。何も解決していない。だけど、天人の矜持まで思考が回らなかった。
私は甘く温もりのある美しい笑顔を持つ彼女をお姫様抱っこの姿勢で降りていく。誰かに見られたらまずい?天人の矜持?そんなものもう如何でもいい。てか如何にも出来やしない。
無言で只只降りていく。だけど全く退屈じゃなくて。だって、私の少しの動きが、彼女の僅かの身じろぎが。私の思考を空回りさせるから。
御籤は大吉に決まってる。だって、この不思議な感情が、彼女の美しい笑顔が。新しく舞い込んでくれたのだから。
下から吹き上がる明けましての風で火照る身体を何とか冷ましながら、彼女の姉に、リュウグウノツカイに。どう言い訳しようか空回りながら考えながら、私達は地上へと降りていった。
珍しい組み合わせでしたが、なんだかんだいい感じに歩き進んでいく二人が微笑ましかったです
仲がよさそうで何よりでした
ご馳走様でした。面白かったです。