※ひたすら運命って何よについて語る電波的かつ長い内容のパートとなりました。お時間に余裕のある時にでもどうぞ。
「物事の根本原因には普遍の原理がある。たとえ何ら因果関係がないように見える事象どうしの間にも、奥深いところで密接なつながりがあるのだ」
――ショーペンハウエル『個人の運命に宿る意図らしきものについての超越的思弁』より
――――東京
中央線を利用し都心から遠ざかっていく際、一番最初に到達する23区外の駅が吉祥寺駅である。
下北沢や渋谷といった街と直結しているからだろうか、総じてそこから繋がる街路には若者が多く、景観もそれに合わせるように今風のものが目立つ。
他方で街の歴史をひも解いてみると、もともと一帯は玉川上水を利用した農村地帯であったのだが、江戸明暦の大火、大正の関東大震災、そして太平洋戦争といった東都の大事の折に発生した避難民を受け入れるという形で徐々に街の姿を変容させてきたという経緯を持つ。特に終戦直後はヤミ市が盛んであり、その面影は今も稀に街の片隅に姿を現すことがある。
だから新しい場所はとことん新しいが、埃臭くて薄暗い都の生活の歴史をそのままに残している部分もあって、素直に若者の街と表現してしまうには少々複層的な街となっているのだった。
混淆――都心と郊外の境に位置するこの街は、そういう言葉が良く合うのだとしばしば住人は表する。
そんな街を駅より出て少し歩いたところに現れるのが井の頭公園である。
「いきなり神隠しに遭うとか……予想外だってば」
その園内に設けられた木製のベンチに腰を下ろすと、岡崎夢美は安堵の吐息を漏らした。
肩より少し下まで伸びた赤茶色の髪に、好奇心の強そうな大きな瞳――全体にあどけなさの残る顔立ちをしている。地味な小豆色のTシャツにジーンズという飾り気のあまり感じられない格好がその様を余計に際立たせている。帽子はベージュのキャスケットで、総じて色味の抑えられた茶系統が目立つ服装をしている。
「ここは東京――よね?」
ぶつぶつ漏らす夢美の目に映るのは、武蔵野の面影を色濃く残す豊かな緑と、カモやらアヒルやらが呑気そうに泳ぐ井の頭の池だ。案外知られていないが、これが神田川の源流となっている。
園内を行くのは家族連れや絵描き、ストリートパフォーマー、有名なボートのジンクスを恐れない若いカップルに長年連れ添ってきたであろう老夫婦――
風景もそこを行く人々も、実にいつも通りの井の頭公園である。
開園は1917年へとさかのぼる。三鷹市と武蔵野市にまたがる、総面積約38万平方メートルに及ぶ広大な公園である。園内の池は杉並の善福寺公園や練馬の石神井公園と並び武蔵野三大湧水池として知られている。
「うーん……」
ベンチに座り天を仰ぐと、五月の緑と空の青とが、互いに染み入るかのようにその境目を滲ませている。
東京の空だ。
それも23区外の、少しだけ山の手の喧騒が薄れた郊外の空。
――なのに
つい先ほどまでの夢美はたしかにここではない場所に立ち、束の間ではあるが幻想の空を見ていたのだ。
幻想郷――そう呼ばれる場所に夢美はいた。そこで妖怪だろうかと思われる何かによって襲われ、そして金と緑の髪をした二人の少女に助けられたのである。
「日本のどこにいても接続する可能性はあるってことかしら?」
一歩先は非日常――何だかファンタジー小説か何かのような話だと夢美は思う。
友人の早苗がいまいち説明下手なせいか、夢美はまだ詳しい状況が呑み込めてはいないのだが――
「日本に限ったことではないわ」
夢美の隣に座りノートパソコンをいじくりつつそう漏らすのは洩矢諏訪子である。その外見の印象に反してタイピングがやたらと速い。安否の気遣われたパソコンではあったが、どうやら無事だったようだ。
「世界中のどこにあってもあの場所に至ってしまう可能性はあるの」
夢美が適当な格好で済ませているのに対し、諏訪子の方は相変わらずインパクトに溢れる格好をしている。
幻想郷に一時的に迷い込んだ夢美だったが、すぐさま後を追った諏訪子に導かれこうして無事に帰って来られたのだった。
ただそもそも夢美が幻想郷に迷い込む破目になったのは、諏訪子が夢美のノートパソコンを使ってよく分からない場所にアクセスをしようとしたことに起因する。それについて諏訪子は、常識の側から幻想の側へと強制アクセスを仕掛けた結果が云々と言っていたが、夢美にはその言葉の意味は理解できなかった。諏訪子もそれ以上の説明をすることはなかったから、それは知らずとも良いということなのだろう(単に説明が面倒くさかっただけなのかもしれない)。
その諏訪子と夢美の関係は、子どもの頃に神遊びとやらに付き合わされたところから始まる。
参拝に来いと早苗に誘われて山を上った先にこのカエル帽子(および柱、注連縄)が待ち構えていたのだから、その時はかなりたじろいだものだった。
「見境のない結界よね。お、解除成功っと」
無邪気な顔で諏訪子は手を叩いた。だがすぐさまその顔は曇る。
「重い。時間がかかるな、こりゃ」
そう言うと諏訪子はパソコンをベンチの上に置き、一つ背伸びをした。余った感じのする袖が都会の風に少しはためく。
「ところで夢美さあ……」
池のアヒルを眺めながら諏訪子は呟く。背が低いからだろうか、隣に座られるとちょうど帽子と話をしているかのような按配になる。
「何です、洩矢さま?」
「何で帰国子女とかしちゃってるの? 親御さんまだ向こうでしょ?」
夢美と早苗は、変わり者どうしだったからか――互いに自覚は無かったが――、小学生の頃から仲が良かった。
ただ中学年の折に夢美は家庭の事情で渡米し、早苗とは手紙のやりとりをしつつ、盆や正月で帰国した折に会うばかりとなっていた。早苗が色々と艱難を強いられたのは夢美の渡米の後のことである。それについては夢美も思うところはかなりある。
ちなみにアメリカは教育制度に関しては飛び級制が認められているから、夢美は15歳までに修士課程を適当に済ませてそのまま博士課程へと進もうとしたのだが――
「師事させていただいた教授からね、貴女は普通の学生生活を送っておいた方がいいって言われたんです。両親も賛成してくれましたし。あとはまあ日本の土恋しいで」
「普通の?」
「飛び級で進んできた学生って――何て言うんでしょうか、途中で『潰れて』しまうことが多いんだそうです」
「勉強ばっかしてもダメってことかい?」
「私もそうですけど――飛んで進むような子ってね、何ていうことはない、学習好きなだけなんです。机に向かって本読んでペンを走らせるのが楽しくて楽しくて仕方がない――それだけなんです。もちろん止まれぬ事情を抱えた子だっているし、野心家な人だっていますけど、でも大半はいま言った通り。だけど――ほら勉強って、勉め強いられると書くでしょう? だからそれは通常は修養としての側面を持っているはずなんです。でも、私みたいなのはそこに何ら修養の要素を見出すことが出来ない。辛くないし、苦しくもない。面倒でもない。ただ好きなこと、楽しいことをずっとやっているだけでしかない」
ああ、と諏訪子は納得の声を上げた。
「でも大学院ともなると、学ぶことに学ぶこと以外の要素が絡んできてしまうんですよ。教授や他のメンバーとの関係だとか、学会がどうしただとか、そういった勉強とは直接的には関わらない要素がわらわらと湧いて出て、しかもその辺りのこともきちんとこなさないと学習を続けること自体も困難になってくる。変なこと言って学会追放されました、とか偉い先生の間違いを若輩が指摘してしまって面倒なことになるとか――そういうことがままあるんです」
「それで学問自体に幻滅する――という感じかい?」
「ええ。後はまあ、プレッシャーに耐えられないとか、奇異な目線で見られて苦しいとか――何にしたってほとんどは人間関係で手詰まりになるみたいです。そんなわけで帰ってきちゃいました」
そういって夢美ははにかんでみせる。
帰国したのは今年の三月のことである。郵便番号がそれまでの三桁から七桁に移行した頃だ。
「ま、アレだ。あんたの協力には感謝するよ。例のブツもきちんと送らせてもらう。『とちおとめ』だったっけ?」
「えへへ~、いちごいちご。『とちおとめ』は今はまだ知名度も低いですけど、きっともう何年かすれば全国的に有名になることでしょう。ところで洩矢さま」
「ん、どうした?」
あまり苺のことばかり考えていても口が寂しくなるだけなので、それはいったん忘れて気になっていたことをたずねてみる。つい先ほど迷い込んだ土地についてのことである。
「さっき私を助けてくれた二人――あれが幻想郷の住人なんですよね?」
「そうだよ。思ったより全然大したことないだろう?」
夢美の言い淀んでいたことを諏訪子はあっさり言ってのけてしまった。
たしかに――助けてもらっておいて何だが――あの二人なら夢美の力でも簡単にいなせるのではないかという気はする。まして早苗なら相手にすらならないのではないだろうか。
「あの子らくらいがちょうど幻想郷のスタンダードなんだと思っていいよ。べらぼうな力を持った奴もそれなりにいるが、そいつ等にしても場を乱さない程度に上手く暴れ回っている。いたって平和な場所なのさね」
諏訪子の言葉と入れ替わるようにして、風が吹いた。
塵界を渡る風――埃臭くも涼やかなその風に乗って公園がざわめく。池の水鳥がばさばさと飛び立つ。
そしてその水鳥を目で追いながら、やがて諏訪子は一言つぶやいた。
「フランのお姉さんだって、踏み込んだ瞬間に分かっただろうさ」
――え?
さも当たり前のように諏訪子が言うから夢美は危うくそれを聞き流してしまいそうになったが――
「いやー、拍子抜けだろうねえ。気合いを入れて乗り込んでみればそこはすこぶる平和な場所でした、ってわけ。戦わずともあの地が自分たちを受け入れてくれるであろうことぐらい、フランのお姉さんはとっくに分かっているだろうさ。戦場には戦場の空気というものがあるからね」
「ま、待ってよ、洩矢さま」
それはおかしいと夢美は思う。
「どったの?」
「それなら――どうしてそのフランとかいう子のお姉さんは戦いなんて吹っ掛けたんですか? 意味ないじゃないですか!」
夢美が言いきったところでパソコンの画面に変化が生じた。
「意味はある」
「ないように見えますけど……示威行為か何かですか?」
「美鈴はそう言っていたね。実際の話あの場所に足を踏み入れるその直前まで、お嬢ちゃんは幻想郷を超危険地帯か何かと勘違いしていた節がある。それはパチュリーやフランドールも一緒なんだが……なあ夢美、おかしいと思わない?」
「何がです? おかしいというならおかしなことだらけな気がしますが」
「幻想郷の情報をどうやってあの子たちは手に入れた?」
「それは……」
言われてみればそれはその通りなのだが、いま自分の部屋で寝込んでいる紫の髪の少女は相当な量の知識を内に有していると聞いていたから、きっと自分には預かり知らない方法でもって幻想郷についての情報を入手したのだと勝手に夢美は思い込んでいた。
ため息混じりで諏訪子は言う。
「九分九厘、彼女たちに情報をリークしたのは八雲紫っていう奴だろうね。直接の接触があったかどうかは分からないが、例によってあることないこと吹き込んだんだろう。パチュリーの奴が目を覚ましたらきいてみようか」
そのパチュリー・ノーレッジは道中の大半を気を失ったままで過ごしていたらしく、そしていま現在も寝込んだままだった。
揺れる船の中でも目を覚ますことがなかったらしいが、海上での船の揺れはやはり相当なものがあったらしく、かえって眠ったままでいた方が良かったのだと付人の紅美鈴は暗い笑みを浮かべて語っていた。
――そういえば
一つ妙に思っていたことがある。
「その八雲というヒトは――ひょっとして結界について一定の権限を持っているとか、そういう感じの立ち位置のヒトなんじゃないですか?」
「およ? よく分かったね。確かにその通りだけど」
「ちょっと前から考えていたんです。どうやって衰弱したパチュリーさんが結界を突破したのかって。でも情報の提供者と、結界の制御を行っている人物とが同一であるのなら、そんな問題は一気に解決してしまう」
そしてそうであるなら、件の吸血鬼の姉妹たちは――
「意図して幻想郷に引き込まれた――あんたの推測通りよ。ついでに言うなら――」
「洩矢さまたちもグルなわけね? さっき金髪の子にそんなようなことを言っていた」
「それも正解さね。まあ私らは巻き込まれただけなんだが」
あれほど都合よくあちらとこちらが繋がったというのに、諏訪子はそそくさとそこから出て行ってしまっていた。
ただ送り届けることだけが目的なら、あの何やら育ちの良さそうな感じのする黒服の女の子が言っていたように、あの通路を使ってパチュリーたちを向こうに置いてくればそれで済んだはずなのである。
「あんたがあっち側に迷い込んだのは正真正銘の予定外だったんだけどね……八雲という奴はね、ひと暴れさせることを目的に嬢ちゃんをほいほいと誘いこんだわけ。理由はまあ太平の眠りを覚ます何とやらってところ。そんでもって適当に炊きつけて暴走させようとした。でも結局はその予定は狂いに狂ってしまったわ」
パチュリーが襲撃を受けたこと。
フランドール・スカーレットと東風谷早苗の間に思わぬコネクションが存在していたこと。
この二つが合わさり、八坂と洩矢の両柱が状況に関わってしまったことで八雲紫は当初の予定を大幅に変更せざるを得なくなってしまった。なぜなら――
「私と神奈子の奴でかかれば、あの結界はすぐに破れる。神様なんで。あの壁のセキュリティはね、『そこに壁があること』そのものが常識の側に立つ者にはそうそう悟られないという点においては、極めて優秀よ。ただね、逆に言うのならその存在を感知できるような輩であれば想い一つで、何の道具も力もなしに突破することも可能なわけ。パチュリーが館の転送に苦労したのは、なんてことはない、あの子たちがまだ完全には幻想となっていなかったから。そしてそれでもなお結界を破ることが出来たのは、あんたの言った通り、管理人があらかじめ細工をしておいたから」
「洩矢さまたちがやっているのは、じゃあ時間稼ぎなわけ? レミリアさんから戦う理由を奪わないための」
「うーん、そういう理解でも構わないけどさ……」
諏訪子は幾分か不服そうな顔をした。
「夢美、覚えておくこと。結界というのはね、ほいほいと暴き立てていいものでは決してないの。何かの理に従い何かの要素が隔てられているのなら、それを見る者はそこに作用する理を弁えてそこより先には踏み入らないようにしなければならない。理が事を割る――結界を無視してしまうってのはね、あちらのためにもこちらのためにもなりはしないえらく無粋で危険な行為なのよ。昔の人間はその辺りの事はきっちりと弁えていて、だから山だの海だのの異界の領域とは距離を置いて暮らしていたのだけど、現代人はそういう約束事には滅法疎いからね。ならば最初から隠しておいてしまった方が良いわけで――」
「分かんない」
「お約束――お断りは弁えなさいということ」
例えば神事の行われている場所に縄が張り巡らせてあったとして――それをおいそれと踏み越えるようなことはやはりあってはならないのだろう。
踏み入ったら即座に天罰が落ちて死ぬということではない。その縄が有刺鉄線であったとか、電気が通されていて触れると感電するだとかということでもない。剪定用の鋏でも持参すれば、きっとそれはいとも簡単に断ち切ることが出来るのだ。
「破れるはずの結界をいつまでも自分では破らないで、挙句あんたや早苗にはその結界を破るための準備をさせる……私らがやっているのはそういうことだ。茶番だと思うかい?」
「思いませんよ」
「あり? わたしゃてっきり文句を垂れると思ったんだけど」
「失敬な。そこまで馬鹿じゃないですよ。要は侵すべからずの場所ならそっとしとけってことでしょう? それに無駄はなくせ、余計な手続きは省けで何もかも押し通したら結局人間は機械と変わらなくなるじゃないですか。そんなの真っ平ごめんだし、私が勉強していることだって合理的な思考に則るのなら、きっとあっさり否定されてしまうし、そういうのはイヤ。必要以上に合理性を追求するのって非合理的だわ」
――ただし
この一連の行為が幻想郷における現在の混乱を持続させることへと繋がるのは明白だ。幻想郷には普通の人間も暮らしているのだそうで、その人々のことを考えると夢美は少し罪悪感を抱いてしまうのだった。
「八雲紫は暴れるお嬢ちゃんを異変の鋳型にはめ込む気だった。そこに納まっている限りにおいて、幻想郷の人里はほぼ安全地帯だし、第一人間の数が減ることは妖怪にとってはほとんどプラスにはならないんだ。でも上手くいかないもんでね――」
想定外の強い力をもって、吸血鬼は八雲紫の制御下を外れた。
つまり、初期の段階での異変の首謀者は八雲紫であり、また異変を制御していたのも彼女だったのだが、その権限とでも言うべきものが今やレミリア・スカーレットに移動してしまっていて、八雲紫はそれに対処する側に回らざるを得なくなった、といったことであるらしい。いかんせん夢美は幻想郷についてはごくごくわずかなことしか知らないので、どのような思考においても具体的なイメージというものが欠如してしまうのだが。
「でもですよ、洩矢さま。それにしたってレミリアさんとやらはもう争いは必要ないってことには気が付いているんでしょう?」
「ええ、そうだけど」
「なら今の彼女はいったい全体何と戦っているっていうんですか。平和な場所で、それを知りつつも暴れ回って――それじゃあまるで道化です。空回りしちゃってるわ」
「そうだねえ、ここに大事な家族を人質に取られてしまった奴がいたとしよう。例え話ね? いや、例え話になっていないか……まあいいや。そいつがさ、当の本人にとっては少しの益にもならないであろう行動に及んでいたとして――あんたはそれ見てこう思うんじゃないか? ああ、そうするように相手から命じられているんだな、って」
「人質って……それはあれですか、あのなんちゃら言う中学生が考えた設定みたいな組織の話ですか?」
「セリヌンティウスを助けたければがむしゃらに走るしかないってこと。脚がどれほどに痛もうとも、行きついた果てで己が大衆に嘲り笑われながら刑に処されようとも――走って走って走り抜くしかメロスに選択肢はない」
「日本語しゃべってよケロちゃん」
「ケロいうな。ま、それについては順繰りに説明してあげる。ちょうどロードが終わったしさ」
夢美としては早苗に関してもいくつかたずねておきたいことがあったのだが、たずねそびれてしまった。
諏訪子がパソコンを膝の上に置くと、ディスプレイに白い光の帯のようなものが現れる。映画のフィルムのようにも見えるそれには、梵字やら何やらでびっしりと文字が書き込まれている。フォントだの解像度だのはまるで無視しているが、使用者が神様なのだからそんなものなのだろう。
「とりあえずはこの異変にまつわる部分を前後して取り出してみたんだが――」
是非曲直庁という名の組織があるのだそうだ。
その組織は寿命の算定だの幽霊数の調節だのと、ある程度精度を持った未来予測を行わなければ成り立たないような業務を行っているのだそうで、これはそうした場合にその組織が照覧する年代記の類であるらしい。
「ま、いわゆるアカシックレコードという奴さね。ファンタジーものじゃあ嫌ってくらい目にするお馴染みの代物」
「あっさり言ってますけど、こんなの簡単にアクセスしていいんですか? なんだか後ろめたい感じが……」
「そういうあんたこそあっさり信じるかね」
「だって神様じゃないですか」
「う……それはそうなんだけど……アクセス権限についてはまあこれはハッキングという感じなんだけども、ここは外だし、いいんじゃないかしら」
「さっきお約束だの理だのと散々言っていたような」
「わ、私がいいって言ったらいいの」
むくれて言った諏訪子に対し、夢美はため息をつく。上手く表現できないのだが、何だか掟破りだという感じがするのだ。仮にこれがもし何かの物語であり、その定石に従うならば、通例こういったものは様々な妨害にあったり苦労をしたり、あるいは研鑽を積んだりして、その果てに到達するものなのであって――
「物語だったら、ではないわね。いま進行しているこの状況は、ある意味じゃ物語そのものだから」
「はい?」
一転し、やけに深刻そうな面構えをして小さな神は言う。
「私も貴女も――誰かが紡いだ物語の登場人物なのかもしれないよ? 私らに主体性なんて奴は実は微塵も備わってはいなくって、このディスプレイに映った代物が登場人物としての私たちの行動を制御している脚本なんだとしたら、夢美はどうする?」
そして諏訪子は言葉を区切り、ベンチに背を預けた。
まるでそれに合わせたかのようにして、パフォーマーたちがその手を緩め、また不思議なことに風も止んで、それで都会の公園はほんの一時音を失う。
喧騒に挟まれたひと時の静けさ――都会というのはたまにそういう顔をのぞかせる。大都市の擁する騒がしさや賑々しさの内には、しかしいつだってそういう細分化された静寂が潜んでいるという気がしてならない。
「あるいは――貴女自身の、何者にも干渉され得ないと思っているその意思が、その実別の誰かのそれと繋がっているとしたら? そして単にその接続先の情報をダウンロードして実行しているだけなのだとしたら、どうする?」
「ユングちっくだなあ、と思いますけど?」
その一言で諏訪子はがくりと肩を落とした。
「あーうー……あのね、こちらがせっかくミステリアスかつメタ目線じみた問いかけを行っているんだからもっとそれらしい反応をしなさいよ」
「具体例をお願いします」
「ぐ、具体例って……『そ、そんなことあるわけないじゃないですか、強くて素敵な洩矢様』とか『嘘よ。そんなことは信じませんわ。可愛くて頼りになる洩矢様』とか……」
「あ、ウメズ先生だわ。相変わらず素敵なファッションセンスですわ」
「話を聞けー! ……って、ウメズ先生!? そ、そうかここはチキンジョージの吉祥寺! どこどこ、どこにいるの? サインが欲しい。『漂流教室』も『わたしは真悟』も好きだったけど、それよりなによりやっぱり『14歳』が好きだった! 人間の脳内のどこをどう弄ると鶏肉工場から鳥頭の天才博士が生まれてくるという発想に繋がるのかぜひたずねてみたいっ! 芋虫が死にかけておるわ!」
「カエル頭だって似たようなもんだと思いますけど? で、その格好付けたメタっぽい発言の真意は?」
「地味にひどいことを言われた気がする……あれだ、少々口が寂しい。ほれ、あそこのお店やさんでアイスでも買ってきなさい。私はバニラね」
諏訪子の指さす先には公園の出入り口があって、そのすぐ脇には一軒のカフェがある。そこでアイスクリームのテイクアウトが可能となっているのだった。
「『第四の壁』という概念は知っているかしら?」
夢美が買ってきたアイスを食べながら諏訪子は話を再開する。
話しながら食べるのだからカップにしておいた方がいいと夢美は言ったのだが、当の神様が絶対コーンがいいと言って譲らなかったので、仕方なく二人揃えてコーンである。諏訪子はバニラ、夢美は言わずもがなでストロベリーを注文したのだが、ストックがないのだそうで、仕方なくチョコレートを選択していた。
「なんでよりによっていちご味が切れているのだろう。もう生きていくのが嫌になった」
「チョコも美味しいじゃん。ていうか話を聞け」
「えっと……演劇か何かの用語でしたっけ? 詳しくは知りませんが」
「額縁型の舞台があったとする。要するに後ろと左右を仕切られた一般的な舞台のことさね。この後ろと左右が三つの壁。だが、もう一つだけ、何にもまして重要な壁が一枚存在する。分かるかしら? 目には見えないけれど、客席と舞台との境目にそれはしっかと立っている」
客席と舞台とを分かつ、目に見えぬ壁――
「現実とフィクションの境界――ですか?」
「ご名答。ミュージカルを見て、『何でこいつらはいきなり歌い出すんだ、おかしいじゃないか』とぬかす阿呆はいないだろ? そういう暗黙の了解事が生み出す壁。でもってあの場所を覆う結界とはそういうものだと理解してもそれほどの齟齬は生じないよ。だからあの場所では物語のお約束はまかり通る。というより、意地でも押し通す。それこそが秩序の源。だからそれは皆が労して守り通さねばならないことであり、それ即ち古き良き理のことでもある。異変は必ず終わる。終わりよければ全て良し、ではない。そうではなくて、全ての終わりは必ず良い方向へと向かうということ。シリアスは嫌いなのさ、あの場所自体がね」
「分かんないです」
「分からんでも良いよ、困らないから。私らはあくまでこっち側でやることがあるわけだし」
「三人目の確保ですか?」
「イエス。失われた絆と、そして破壊の果てに新たに生まれた縁――それを無事嬢ちゃんの指先に結び付けてやらなきゃ、この演目は終了しないわ。私たちは脚本家不在の行き当たりばったりなこのお話に強制的に幕を引く神様の役回り。そのためにまず神奈子はおつかい。正直フェムトファイバーなんぞに頼るのは癪だが、相手が時間干渉者である以上はあれぐらいしか捕縛手段が思いつかん」
そのフェムト何とかというのは一体何だと夢美は思ったが、諏訪子が珍しく不機嫌そうな顔をしているのでたずねそびれてしまった。
「ま、あっちのコンダクトはフランのお姉さんが執るだろうさ。運命無理やり捻じ曲げてさ」
その運命云々というのもやはり良く分からない(分からないことだらけだ)。夢美の想像ならばそれは世界を意のままに操る絶対的な神の権能ということになるのだが――
「違う違う。そんなややこしいもんではない」
苦笑いを浮かべつつ、諏訪子はディスプレイを夢美の方へと向けた。
「まずさっきの話にも絡むことだけれどね――これはね、とある代物に関する観測記録であって、さっき言ったような台本脚本の類ではない。全部が全部ここに記されたとおりに推移するわけではないし、違えることもままある。事象の生成は常に観測者の予測を裏切っていくものよ。大体あんたが幻想郷に迷い込んだことだって、ここにはまったく記されちゃいなかったしね」
そこで諏訪子は一息つき、持っていたアイスを一気にたいらげた。溶けてきていたのだろう。
「ともかくあくまでただの受け身な記録よ。記載内容は結構ぽんぽん変わるし、強固な意志によってそれが覆されるということだってある。英雄や革命家というのはそうやって運命を覆してきた人間のことを言う――のかも知れないね」
そういうこともあってか、その是非曲直庁とやらによる寿命の管理は結構いい加減な代物なのだそうである。迎えに赴いた死神が追い払われてしまったり、いったん死んだはずなのに三途の川原で持ち直して戻ってきたりといったことが頻繁にあるらしい。
「ただし確定して揺るがない因果の収束点とでもいうべき個所というのもあるにはあるんだが――あんたと早苗の安否は正直気がかりでさ、それでまあこうしてカンニングしちゃったわけ。本来ならこれはあんたの言う通りルール違反だし、第一つまらん。攻略本をすべて読んでからゲームをプレイするような状況になってしまう。だから今回は特別。でもって結果は良かったからあんたは巻き込ませてもらった」
「都合のいい話だなあ……」
「ま、焦らず弛まず事に当たってよ」
「えっと、じゃあたとえばですよ? 私がここでもう早苗たちに協力するのは止めた、しーらないって決意したら――どうなりますか?」
「そんな気ないでしょ?」
「ないけど、仮にって話ですよ」
「そうだな……それがどう足掻いても揺り動かすことのできない到達点であるのなら、あんたがどういった意思を持って事に当ろうと何らかの形で修正が加えられるよ」
急に諏訪子の声が押し下げられたものとなる。普段が明朗なだけに、時折見せるそうした貌はいつも夢美を戸惑わせるのだ。
「修正?」
「たとえば……詳しくは言わないけどさ、歴史上のある時を境にして人間の世界では六十年周期で大規模な人死が生じるというサイクルが構築されてしまっているの」
「え?」
「以前の周期が今から数えて五十数年前。だからあと何年かすれば、その六十年が一巡りする。たぶんその時また大量に死ぬんだろうね」
――今から五十数年前の出来事
はっとすると、夢美は公園の入り口に目をやる。
その向こうには吉祥寺の街が広がる。ヤミ市の栄えた吉祥寺の街が――
「この記録に関わる者はみな、それが起こるということをあらかじめ知っていた。それでもね、それは回避のしようがなかったわ。誰がどう動いても、如何に情勢に干渉しようとも、不可避的に六十年周期の禍事は起きる。揺るがない個所というのはそういうものなんだ」
そう言うと諏訪子は大きな帽子のつばをそっと押し下げた。
「さてと……」
しばらくして諏訪子は話を再開した。
「さっきのは特殊なケースね。大半の場合において未来というのは当たり前に流動的だし、意志と努力でもって切り開いていける。別に良い台詞を言おうってんじゃなくて、それは普通の事実。んでもってさっきのあんたの話」
「何の話でしたっけ?」
「あんたが協力を拒んだ場合、だよ。夢美、意志の力ってのはね、別にプラス方向に働くのものばかりじゃあないの。マイナスに作用するものもあれば、その場に頑として留まって変化を拒むという意志もある。この場合はあんたの『動かない』という意志が反映されるのさ。要するにそれっぽい未来がここに記されていたとしたって、そこに至るための努力をしなけりゃあ結局は何にもならん。怠惰はいつだって禁物よ。怠けてしまえば怠けた通りに未来は変わる。どこまで行ったって、やっぱりそれは未だ到来せぬものでしかないの」
――分かるような分からないような……
「合格祈願はいっぱいしたけれど、受験勉強はあんまりしませんでした――という感じでしょうか」
「そうそう、分かりやすい。合格という結果をもたらすのはね、人の努力よ。合格祈願ってのはその努力をそっと後押しするもの。祈願がもたらすのは熱心かつ平静な努力心なのであって、結果は自分で手繰り寄せるものでしかありません。ちなみにこれはこの記録の管理をやっている方が言っていたこと。求聞持の修法で有名な方さね」
要はちゃきちゃき勉強しなさいよってことだ――諏訪子は脚をぶらぶらさせながらそう言った。
その子どもっぽい行動と話している内容とがまるで合致していないと夢美は思う。
――ただ
ひょっとすると今のは諏訪子なりの方便であったのかもしれない。
その記録というのは実は磐石で揺るがないものなのであり、未来はすべてあらかじめ定まっている――仮にそのようであったとしても諏訪子は夢美に対して今と同じことを告げたのではないのかという気がするのだ。覆り得る未来ならば知ってもあまり意味がないのであり、覆すことのままならない未来ならば知ろうと知るまいと結果が変じ得ないのだから――結局のところ未来などは未知数であってちっとも構わないのだろうと夢美は思う(というかそれが当たり前である)。
「ただね……ちょっと見てみなさいな」
顔を上げた諏訪子がディスプレイをこちらに向けた。
「見ても分からないかも知れないけど、今は大半のデータが破損しているんだわ、これが」
「データが破損?」
「不明な個所だらけってこと。是非曲直庁も一部はちょっくら招集がかかっているだろうね。この先の記録がほとんど壊れちゃってるんだから。台本を焼かれてアドリブで劇を続けるみたいなものよ。予測できていたはずの未来が、今はほぼ白紙に戻っている」
「それは――運命を覆したとか?」
「筋書きに変更を加えたってことさ。まあお嬢ちゃんがそんなことを意識してやっているとは思えないけど、でもおそらくこうして破壊される前の記録は間違いなくお嬢ちゃんにとってはこの上なく都合の悪いものだったんだと思うよ。たとえば……パチュリーと美鈴にもう会えなくなる、とかね」
幾分か抑えた声で諏訪子は言った。
武蔵野の木々がざわざわと鳴る。止んでいた風が再び吹いたのだ。
「ひょっとしてさっきの人質云々っていうのはそのことなんですか?」
「あってはならない未来を、お嬢ちゃんは全力で拒んだ。これはね、我侭なのよ」
「わがまま?」
「そ。世界を相手どった究極のわがまま。運命を操るってのはそういうこと。ただね……これは予測でしかないけどさ、これだけ派手に壊れたとなると案外これはお姉さんだけの力ではなくて、フランも意識せぬ間に一枚かんでいるような気がするのよね……何とも言えないが、そっちの方がなんか良いからそういうことにしておこう」
そのフランという人物については後から早苗にきいてみようと思っている。早苗のペンパルだったのだそうだ。
「いまお嬢ちゃんがやっていることは、身も蓋もなく言うならパズルみたいなもんだわね。そのピースの内に、何の不運か戦という途轍もなくややこしい形をしたピースがあった。だから彼女はこの傍から見れば愚か極まりない道を選んだのよ」
少し言葉を区切って諏訪子はパソコンに別の操作を加えた。ディスプレイの様相がまた変化するのがちらりと見える。
「これはそんな整合性もへったくれもないお話なのさ。そうでもなけりゃこんな無体な戦争を仕掛ける必然性はない。常識に囚われても、囚われなくても、今のお嬢ちゃんが幻想郷で暴れ回らなきゃならない理由なんてものは微塵も見付からないはずだよ」
「じゃあ、戦いそのものによってそのレミリアというヒトが得るものは――何も無い?」
「無いよ。皆無だ。少なくとも戦利品だとか名誉だとかといった、『勝利そのものに対する直接の対価』というのはこの戦いには一切存在しないわ。家族が元通りになるってだけ。だから、はっきり言ってこの戦いは嬢ちゃんにとっては単なる通過点に過ぎん。望みはその先にこそある。さっきからたとえ話ばっかりだけど――RPGってあるでしょ?」
「ルチノーイ・プラチヴァターンカヴィイ・グラナタみょ――」
「それは対戦車兵器。私が言ってるのはロールプレイングゲームのほう。ほれ、あれだって最終的なエンディング条件は魔王を倒すことだったりするが、中途でそれとはなんも関係ないイベントこなすだろ? 山賊退治とかペット探しとか」
「でもそういう無関係に見えるイベントだってこなしていかなきゃエンディングにはたどり着けない、と?」
「そういうこと。ま、一見何の関係もないように見えるこの戦いが、あの子が家族を取り戻すための儀式ってとこなのかね。話の筋書きとしちゃあ支離滅裂もいいところだが、生憎と物事なんてそんなものよ」
事実は小説よりもずっと予測し難いわと諏訪子は語る。
「因果の小径というのは、時に到底予測し得ない接続の仕方を見せる時がある。小手先の理論や理屈などまるで通用しない大きなうねりを見せる時がある。今がそれよ。私もあんたたちも幻想郷も――もしかしたら私を縛りつけた連中ですら――それに巻き込まれてしまっているのかもしれないな」
「でも洩矢さま、それって――何ていうんでしょう――大丈夫なんですか? なんかすごく重たそうな感じがするというか、いろいろと負担がかかりそうというか……」
「駄目だろうね。あまりに大きすぎる。実際いまお嬢ちゃんは相当きつい局面にあるだろう。なんてったって、世界とサシで向かい合っているんだもん。並大抵の精神力じゃあもたんよ」
強い子なんだろうねと、しんみりとした口調で諏訪子は言ったあと、いや弱いのかと言い直した。
その一言は、なぜそう感じたのかは分からないけれど、今までで一番神様らしいと感じるものだった。
池の対岸を家族連れが歩いて行く。井の頭の日常風景である。
「ま、こんなことをお嬢ちゃんがやってのけるのはおそらくは今回に限ったことだろうし、それでいいんだ。子どもに重い荷物なんか持たせちゃあいけない」
諏訪子の表情はいつの間にか少し曇っていた。
たぶん――早苗のことを考えているのだろう。
「ちょっと待ってなさいな、いま画像を出力中だから」
「洩矢さま……」
「ん? どうした?」
「早苗のことなんですけど――」
「貴女は気にしなさんな」
夢美の言わんとしていることを察したのだろうか、諏訪子は穏やかな口調で言った。
「あの子が誰にも助けを求められなかったのは、私らのやり方が悪かったからだよ。こうして運命がどうの未来がどうのとのたまってる割に、そんなことにも気が付けなかったんだもの。だから、それは夢美が気負うことじゃない。早苗はただ貴女に心配をかけたくなかっただけだよ」
早苗はあれでかなりプライドが高い。
そしてそうであるが故に、人に何かを頼るという選択肢をあまり自分の内に用意していないという一面がある。辛ければ辛いほど、逆にそれをため込んでほほ笑もうとするタイプの人間だ。
そういうのはあまり良くない――と思う。もっと言いたいことを言って、やりたいことをやって、そしてあの奇跡的な才能を存分に振るえる――そんな場所の方が早苗には合っていると夢美には思えるのだ。
――いつかお別れになるのかしらね……
何となく、近い将来早苗は幻想郷へと渡っていくのではないかという予感がある。
早苗はあの場所にいた方が輝くのではないか、そして自ずとあの場所に引き寄せられていくのではないのか――あの地を実際に踏みしめ夢美はそう感じたのだ。
「夢美、早苗のことを真剣に考えてくれるのはありがたいけどさ、むしろあんたは普通の友だちでいてやっておくれよ」
「普通の……」
「そういうのがあの子にゃ一番必要なはずさ」
自分が教授から言われた言葉をそのまま思い出す。
普通であること、一般的であること――そういう当たり前の態様を選ぶことが難しい人間というのはいるものだ。結構な変わり者でもある夢美は、しかし適当にのらりくらりと同輩たちともやっているが、早苗にはそれが少しだけ難しかったのだろう。
「ま、あれだ。私がそう言ったってのは内緒だぞ?」
照れくさそうに諏訪子は言うと、再びパソコンをいじり始めた。そして画面には徐々に一枚の映像が表示されていく。
「あ、そうそう。早苗は後から御苑の方に行くだろうから、あんたも付いて行くといい。おやつでも食べてきなさい」
「御苑って――新宿御苑ですか?」
新宿御苑というのは新宿区と渋谷区にまたがる巨大な公園の名称である。山の手の一大ターミナルである新宿の街の隣にありながら非常に豊かな緑を有する場所として都民には知られている。憩いの場という奴である。
コンクリートの建物だらけな新宿近辺にあって、しかし新宿御苑と明治神宮の叢林一帯にかけてはむしろ23区内有数の緑地となっている。そのことは都庁舎の展望台から確認すれば一目瞭然だ。
「ちょっと知り合いの遣いの子が来る予定でね、待ち合わせってやつ。お、出力が終わったわ」
ディスプレイに映し出された一枚の、写真のような映像。
それこそがフランドールの姉がこうまでして望んだものということなのだが――
――たったこれだけ?
そう思った。
幻想郷を敵に回して、あり得ないくらいに強い力を振るって、そうして彼女が望んだ未来というのは実にシンプルなものだった。
「あの一家も私たちも、そして御苑に遣いを寄越してくる『彼女』も、目指すべきはここ。早苗は邁進するだろうから、面倒かもしれないけどあんたもそれとなく手伝ってやっておくれ」
それが欲しかったから――
元通りに直したかったから――
幼い吸血鬼は、この無意味きわまりない戦いに身を投じた。
「くっくっく……全力出しちゃっていいわよ、吸血鬼のお嬢ちゃん」
暴れちゃえ暴れちゃえ、とこの上ないくらい不敵な笑みを浮かべつつ諏訪子は言った。
その手前でディスプレイに表示された映像では少女たちが笑っている。
背景にあるのは赤い館と晴れた月夜、そして鏡のようにそれを映す湖――
それはごくごく普通の、当たり前過ぎるくらいに当たり前な家族の絵だった。
――― 第七章 気質海域 ―――
彼女は月を見ていた。
その夜空に穿った小穴から覗くような弱々しい光が照らすのは、水平線の彼方まで無間に広がる砂の大海である。それら全てをくまなく照らすにはその光は弱すぎて、だから砂漠は空の色に似て暗く、青白く、連なる丘陵の背後一つ一つには光を拒む黒が映えている。
コバルトの大地が絶えずきらきらと煌めいているのは、砂に含まれた飛礫が乱反射を起こしているからだろう。
砂粒、と一つ言葉で括ってしまうことにためらいを覚える変幻の輝きがそこにはあって、その小さな輝きを水平線の彼方までたどっていくと、空と砂の色が似ているから、いつの間にか大地の砂の輝きは空の星のそれへと緩やかに変化していくのだった。
「本当、随分と妙な模様替えをしたものね……」
砂漠のただ中で、一人彼女は呟く。
彼女がこうしてこの場所を訪れるのは実に久方ぶりのことで、そして以前に彼女が見たのとはまるで異なった風景が目の前には広がっているのである。
「まあ、もともとこの場所に定まったカタチなどは存在しないのだけれど……」
彼女はどこかを目指してとぼとぼと歩いて行く。独り言が多いのには理由があって、それらは一種の気付けを目的として放たれている。とある理由からこの場所においてはそうしたことが必要になるのだ。
そうして歩む砂の世界に風は吹かない。
だから辺りの煌めきを除いてしまえば、動いているものは彼女だけだ。風景も変わり映えはなく、似たような要素が連続して、歩いても歩いても一つ所から動くことがかなわないかのような気分になる。
ただこの場所をたびたび訪れていた彼女にとってはそれはいつものことであり常識だ。これといって動ずることも厭うこともしない。
「上弦」
呟く彼女の目線の先に、左側が欠落した弓張りの月が空に浮かんでいる。
「そしてあちらは下弦か。妙なものね」
右を隠された弦月が見える。
「……初月、二十六夜」
三日月と、それとは反対の、少し歪な形をした眉の月。
「あそこは新月ね」
空に映えるのは新月を含む八つの月相である。それが天に輪を描くようにして並び浮かんでいるのだ。
そして彼女は眼を凝らし八つの月をもう一度見つめる。
特殊な力を持つその眼を通じて見る風景は、その構成要素を一種類増やしていた。五本の赤いラインが月から大地に向かって真っすぐに、空を分割するかのように伸びているのだ。
「鎖?」
それは真っ赤な五本の長大な鎖だった。月を地面に繋ぎとめるかのようにして、砂漠の彼方のとある一点に向かって集束している。
二本は対照を描くそれぞれの弦月から、二本は弓の形をした繊月と二十六夜の月からそれぞれ伸びている。
そして最後の一本は満月のすぐ隣の――
「十六夜」
ただそこに月は見えない。朔の夜のように、何も輝いてはいない。
他の鎖の先には月が弱々しくも輝いているというのに、既望の月のあるであろうそこには何も無いのだ。それが落ち着かないと感じてしまう。そこにあるべき姿を嵌めこんで、欠落した月夜の秩序を回復してしまいたい――そう思う。
――いや
「そう思うのは――私ではなく貴女なのかしらね」
吸血鬼さん、と鎖の収束点に向かって彼女は呟いた。
彼女の立つ位置からそこまでは結構な距離が開いている。いかんせん砂ばかりが連続しているから測りづらいが、半日かけて歩き続けても到達できるかどうかは怪しいだけの隔たりがありそうである。
彼女は身体の周囲に張り巡らされた管の様なものを指で整える。その管の先に接続しているのは、見開かれた大きな眼である。
「黄粱の炊き上がる頃にはたどり着けるでしょう」
ゆったりとした口調でそう言うと、古明地さとりは遥か彼方まで続く砂の大地を歩いて行くのだった。
◇◆◇
――――紅魔館
いつもの図書室で、フランドールは本と睨めっこをしていた。
来ている服は普段の赤いものではなく、黒いスーツのような礼服である。少し前に『来客』があったのだ。小悪魔の古い知り合いで、召喚に用いられる専用の通路とやらを通って来たのだそうである。先の隙間といい、抜け穴というのはそこかしこにあるものであるらしい。
「邪眼ねえ……」
一人フランドールは漏らす。その客人について思い出しているのである。
「『死海文書』が発見されたのはいつだったか……」
この礼服は美鈴とおそろいになるようにサイズを合わせて特注した代物だ。スラックスは細い脚にフィットし、また全体の配色はフランドールの持つ幼さを覆い隠している。
いつも片側でまとめている髪は今は下ろしていた。お気に入りの帽子もない。
両側には二人の天狗が控えている。森でチルノとやらが倒した相手なのだそうだ。そのときに出来た傷については治療が施されている。
その胸元は少しだけはだけていて、そこに赤黒い蝙蝠の形の刻印が浮かび上がっている。レミリアの制御下にあることを示す印だ。あの鎖を受けた妖怪たちにはみな同じ代物が刻まれているはずである。
そしてフランドールの向かいの席には別の天狗が座らされている。
活動的な印象のある濡羽色の髪に、スカートから伸びる健康的な脚。肩には天狗たちの制服を示す白い綿の塊のような飾りがあしらわれている。
「射命丸さん、だったかな? 思ったより早く確保できたわね」
机の上には無数の書籍とともに、何号分かの『文々。新聞』が乗せられている。その内の一冊を手に取りながらフランドールは呟く。
その文の身体には特殊な銀の鎖が巻かれていて、身動きは出来ないよう封じてある。眼は固く閉ざされていて、今しばらくは目を覚まさないだろう。
「それにしても……変てこりんな場所」
新聞を卓上に戻し、そこに並べられた本へとフランドールは視線を移す。
『幻想郷縁起』『博麗神社風土記』
『一刻で判る山川文化』『実録 三途の川』――
机の上に並んでいるのは、いずれもこの幻想郷と呼ばれる世界にまつわる資料の類である。それらを介し、フランドールはこの場所がどのような理に則り、またどのような価値観に従って動いているのかを探っている。外の世界において、家の外に出ることなく高いレベルで外部の価値観について理解を示したフランドールだから、この作業はお手の物である。要するに、物語を読んでその世界設定や世界観を理解するというのと同じことなのだ。
「ふっふっふ。卓上旅行で世界一周、余すことなく楽しみきる自信が私にはある。引きこもりを舐めてもらっちゃあこま――」
「わっ!」
「ひゃうっ!?」
驚かそうとする声とともにフランドールは突然背後から抱きつかれて悲鳴を上げる。
袖の余った細い腕がフランドールの首に回され、軽い身体が背後から乗りかかっている。
そして小洒落た帽子に、フランドールとは対照的な銀の髪――それらと無邪気な横顔とがフランドールの肩に乗せられる。その身体の周囲には奇妙な管が廻り、その先には大きな瞳が接続している。
「こ、こいしちゃん?」
「びっくりした? びっくりしたねっ!」
楽しげな、凡そ毒気といったものをはらまない口調で古明池こいしは言った。
この状況下にあってはその態度はどことなく異質なものがある。ともかく行動律の読めない存在なのである。変わっているというのならフランドールも大概なのだが、こいしのそれはフランドールのそれとはまた質が異なっていた。
「心臓に悪いなあ……気配がないんだからやめてよね」
「えへへー、ごめんごめん」
「あごをぐりぐりしないの。ま、何はともあれおかえり」
「ただいま、フランちゃん。扼殺してもいい?」
脈絡の感じられない発言とともに、フランドールの細い首にこいしの両の指が絡み付く。冷たい指である。
「やれるもんならやってみなさい」
「ぎゅー」
「本当にやるのはやめてほしい。くすぐったいよ」
彼女は無意識で行動する――のだそうだ。
それは即ち、干渉し操作すべき心の領域がそもそも存在していないということを表している。
そしてそうであるからこそ、着弾による爆発を受けた文がこれといった大怪我を負うこともなく、こうして図書館の椅子に座らされているのである。相応の加減はしたということだ(もっとも妖怪は身体は頑強で治癒力にも優れるから、四肢が飛散しようが身体を焼き尽くされようがすぐさま癒えてしまうのだが)。
「そうそう、サニーとルナは置いてけ堀になっちゃったけど、西行寺さんとやらは無事に確保したよ」
「へえ、上出来だね。正直そのまま冥界に移り住んでしまうかもと案じていたところよ」
「実際命辛々だったけどね。お姫様はさほど苦労しなかったけれど、問題は庭師さんの方でさー」
「庭師?」
冥界での顛末をこいしは語り始める。
フランドールはそれに耳を傾けつつ、机の上にあった『図説地獄極楽』なる本を手に取る。発行元は是非曲直庁編集部とある。
「お庭番、ってやつかしら? 亡霊のお姫様を守るお侍さんがいたの。渋い感じのおじいちゃんだったんだけど……あー、ほんとツイてないわー」
聞けばそのお侍とやらはとっくの昔に幽居しており、ふだん冥界にはいない身の上であったらしい。それが偶さか――というよりはこの騒動を受けてということなのだろうが――冥界に詰めていたものだから、こいしと二匹の妖精はその老御庭番と一戦交えることとなったのだそうだ。
「かくれんぼに失敗するなんて、すっごい久しぶり」
そう語るこいしの様子は、珍しいものを見てはしゃぐ子どものそれである。
ちなみに妖精の二人は老兵による喝の一声で早々に伸びてしまったのだそうで、こいしは実質孤軍奮闘といった状態だったらしい。
「そんなに凄かったの? こいしちゃんも大概怖いもの知らずに見えるんだけど……あ、ひょっとしてタツジンてやつ?」
「きっとそうだよ。あのおじいちゃん、時間を斬っちゃったもの」
――時間を斬る?
「時間への干渉ってこと? 私もそういう能力を持った人間を一人知っているけれど」
「違う。能力じゃない。持ってる刀はただの刀だった。特殊な力も使ってなかったよ。でも――」
そのときのことを思い出しているのだろうか、こいしの目線は少し上の方を向いている。その目付きは少しだけ、熱をはらんでいるようにも感じられる。
「綺麗な剣だったよ」
美しい剣撃というのがフランドールにはいまいち想像出来なかったのだが、そういえば武勇を揮う美鈴の姿もそれはそれは美しいものだったから、さしずめそれらは動作そのものに機能美が宿るといった状態なのだろう。武と舞の境界は至極曖昧なものなのだそうだ。
ともあれこいしは二体の妖精を失い、庭番の老人に苦戦しつつも辛うじて亡霊姫――西行寺幽々子の確保には成功したらしい。そんな手強そうな老剣客をどういなしたのか気になったが、何ということはない、戦いのさなかに当の亡霊姫が姿を見せたので、こいしは強引にその確保に乗り出したということだったらしい。
「でもね、何よりあのおじいちゃんは腕がなまっていなかったの。丹念に磨かれて、欠かさず手入れされてきた刀そのものだよ。単に強いっていうんなら、そこで寝てる天狗さんも相当だけど――でも彼女は残念ながらなまっていた。元のスペックはとても高いのにさ。だからあの時はけっこう簡単に仕留められたわ。ただ――」
次に目を覚ましたときはそうはいかないだろうね、とこいしは呟いた。
「天狗さんだけじゃない。この『異変』が終わったとき、幻想郷そのものがやんわりのそのそ目覚める。フランちゃんたちはそれを――そうなるであろう道を選択したんだよ」
「選択したのはお姉さまよ。私は従っただけ」
「小悪魔さんもだね。でもそれってけっこう茨の道だと思うよ? あのヒトは相当ムリしているみたいだったし」
「まあ――どいつもこいつも無理をしているんだろうね。歪よ、この状況。仕方がないことではあるけれど、こんなシリアスぶった話はこれっきりにしたいわ、ほんと」
「ね、ね、フランちゃん」
腰をかけたフランドールの顔を覗き込むようにしてこいしが話しかける。
「フランちゃんはさ、なんで人間が神話なんてものに思いを馳せなくちゃいけなくなったのか――分かる?」
「藪から棒だなあ」
無意識で行動するせいなのか、それとも少女だからか、問いが少々唐突だ。
「えへへ、だってフランちゃんそっちの方は得意そうなんだもん。それにもうあんまり時間がない。もちろん答えを絞ることなんてできないだろうけど」
「妖怪がそんなことを知りたがるなんて珍しい」
「えへへ、ちょっとね。まあいいじゃない」
こいしはそう言ってはにかんでみせた。その様は無意識により導き出されたものとは思えない可愛らしさがある。
「神様が実在したから、それについて感じ取ったことを語った――ここに在ってはそう言うべきなんだろうね」
「ひと月前の貴女ならどう答える?」
「外の考え方ってこと? そうだなあ、私の考えたことではないけれど――ヒトには因果律を希求して止まない本能ともいうべきものが備わっている、ってのはどう?」
並んだ資料から目を放し、フランドールはそう答えた。
対してこいしは嬉しそうに微笑む。その笑顔はやっぱり無邪気で可愛らしかったから、フランドールは何だか羨ましくなってしまった。
「ハルトマン博士あたりかな? ここだとそういう話ができるヒト少ないから嬉しいな」
嬉しい嬉しいとこいしは繰り返し、裏表のない表情で――正確に表現するなら裏という名の表しかない表情で――はにかんでみせた。
「そういうこいしちゃんはなんでそんなことを知っているのさ?」
「地下は外の世界で人間やってたヒトも多くいるからね。そういうヒトたちから聞いたの。地下には地上のような常識非常識の境界云々なんていうややこしい問題はあんまり絡んでこないから。実際地下世界のY座標をプラスしていってやれば、端っこらへんなら外の世界に出てしまうと思う。大事なのは上か下かということだけなのだよ、フランドールくん」
「そうなのかい、こいしくん」
二人は同時にくすくすと笑った。そしてこいしは続ける。
「卵か先か鶏が先か――そうやって因果を次々に辿っていったとき、どうしてもそれ以上は因果関係を遡ることができない領域が浮かび上がってきちゃう。つまり、因果の先頭――いわば一番最初の鶏、もしくは一番最初の卵とでも言うべき厄介なモノが顔を出してくる。具体的に言うなら――」
「この世の始まり、とかだね。あるいはミクロコスモスなレベルで言うなら、己はなぜ存在しているのかとか……」
「そう。そういった理性や認識を越えた先にある、ある種根源的な領域に関する問いを発さざるを得なくなってしまう。そうした世界がどうの己がどうのといった理性の埒外にある問いを、分かりもしないのになぜだか発したがる本能が人間には、いや、高等な意識を持った生き物には備わっている。その問いへの一つの答えが神話、あるいは神というもの。いま言った卵ってのになぞらえて言うのなら、卵の中から黄身みたいな天と地が混じり合った代物が現れて、やがてそれが分かれて世界が始まった――とかそういうようなことを言う」
「例えばインドのプラフナマ文献なら、『原初の水から生まれた黄金の卵』とか表するね。ここから創造神が生まれて今の世界が始まるわ。同じような記述は『リグ・ヴェーダ』にもある。またフィンランドの『カレワラ』では大気の乙女と呼ばれる存在がちょこんと座っていたところ、その膝にカモが卵を生んでいく。その卵を暖めていたら、三日後に卵がすっごく熱くなって、彼女は思わずそれを地面に落とした。あとは割れた殻が天地に、黄身が太陽に、白身が月にと説く。あと中国の『三五歴紀』や『述異記』に記述のある盤古という存在も、天地の混じった卵の中身の様なものから生まれてきたとされる。これはそのあと徐々に別れていった天と地が再びくっついちゃわないようにと空と大地の境目に入り込んだということになっている。つまりすごく大きいのね。時系列上その後に登場するフッキとジョカのコンビが有名なせいかあんまり知られていないし、そもそも文献もあまり残っていないけれど、描かれる場合は巨人の姿か、あるいは龍のような姿で描かれる。ただ盤古の話は神話類型としては宇宙卵タイプよりも死体化成のタイプに分類した方が――」
「フランちゃん」
「ん?」
「話が長いとかえって馬鹿っぽく見えるなー」
「う……振ったのはそっちじゃないのさ」
「んー? そうだっけ? それでさ、もっとお話ししていたいけれどあいにく時間がないみたい。お姉ちゃんのお手伝いに行かないといけないみたいでね」
「帰る? 構わないけれど、こいしちゃんはこれからどうするの?」
「潜るよ」
「も、潜る? どこに?」
予想していなかった表現が飛び出し、おやとフランは思う。対してこいしが浮かべた笑みはどことなく翳りの感じられるものだった。
そして囁きかけるかのように、一番最初の卵の中だよ、と告げた。
その声が何だか妙に妖しくて、フランドールは少しだけ気圧されたような気がした。
「卵の中って――こいしちゃん、一体何をする気なのさ?」
「まあ一番最初っていうのはちょっぴり大げさだよね。せいぜいが半径6356――」
「質問に答えてってば。どこに潜るっていうのよ?」
「ん? ああ、三途の河の底だよ」
急かすフランドールに対してこいしはペースを崩すことなく答える。
「なんで? ていうか大丈夫なの、それ? たしか沈むと魂が溶けちゃうってそこの本に書いてあったわ」
机の上をフランドールは指す。
私たちなら大丈夫、とこいしは軽快に答え、そして舞台に上った役者にも似た芝居がかった調子で語り始めた。
「『地は死せる肉体ではなく、内には生命であり魂である霊が棲んでいる。あらゆる被造物は、従ってまた諸々の鉱物も、地の霊から己の活力を享ける。霊は生命、霊は星々から養分を与えられ、己の胎内に宿す生きとし生ける者に活力を与える』」
朗々と発されるその一連の文言はフランドールには聞き覚えのあるものだったのだが、どこで耳にしたものなのかは思い出せなかった。
「ふふふ、いろんなヒトがさ、『あれ』のほんの上層部分だけを見て三途の川なんて呼んでいるけれど、笑っちゃうの。アルカエストでもあるまいにただの川で魂が溶けるもんか。フランちゃん、一ついいことを教えてあげる。三途の川っていうのはね、気質の川なんだよ」
「気質の――川?」
「つまりは幽霊の川ということでもあるわ。通常では認識し得ないとある領域に存在する、巨大な気質の塊――その上澄み部分が幻想郷を覆う結界に反応して露呈しているのが、通常人間たちが三途の川と呼んでいるものの正体。あそこに沈んだ魂がロストするのはね、厳密にいえば消滅するということではなくて、元あった場所に回帰しているというだけのことなの。砂漠からすくいあげられた砂が、また砂漠へと帰っていくのと同じことよ」
気質の海、ということだろうか。その気質というものについての理解がフランドールはまだ追いついていないから、こいしが何をほのめかしているのかは分からない。
「海ね……うん、そんな感じ。塩水の海が『魄』の海なら、私がこれから向かうところはさながら『魂』の海。まあ私は海って見たことないんだけどさ。フランちゃんは見たことがある?」
「あるけど……」
日本へと渡る際にフランドールは海というものを、端末越しにではあるが一度だけその目で見ていた。それを思い出す。
――海ねえ……
怖い、というのが第一印象だったように思う。
そこに存在する計り知れない質量の水。一つの巨大な生き物のように脈打つ海面。
上から見る限りは中の様相は見えないけれど、きっとそこには地上を凌駕する数の生命たちがぞわぞわと蠢いているに違いなく、そしてその蠢きが遥か下方、一万メートルの海淵に至るまで幾重もの階層を成しながら続いているのだ。
母であるとか雄大であるとか、そういう形容を海に対して行う人がいるけれど、フランドールにはその気が知れない。
怖い。
大き過ぎる。
そういう感想しか出てこなかった。
沈んだらどうしようだとか、もしこの海が意思のようなものを持っていて自分を呑み込まんと口を広げてきたら一体どうすればいいのだろうかとか、そういうことしか考えることが出来なくて、ただひたすら塩の匂いのする風の中を陸地目指して飛んでいた記憶がある。
だから海に恐怖しないでいられる海鳥が、その中を悠々と泳ぎ回っているであろう魚たちが、羨ましかった。
自分はただその圧倒的なまでの大きさが怖くて、まともに海と向かい合うことも出来なかった。図書館の、書物の海の中の方がずっと居心地が良くて、早くそこに帰りたいとばかり祈っていたのだ。
――友だちに会いに行く途中だったってのに……
「ちなみに姉さまは普通の海すら見たことはない」
「ほえ? 外の出なのに海を知らないの? 海水浴とかは? 外の世界では川から生活排水がわらわら流れ込むようなところで塩水と紫外線に肌を傷ませながら海にちゃぷちゃぷ浸るのがアニュアルイベントなんだって聞いたよ?」
「サングラスとパラソルに、チャーミングな水着を着て――ってそういうのかい? そりゃあそういうふうに呑気にしていられたならそれが一番良かったんだけどね、生憎とそんな余裕はなかったの」
私のせいで――とフランドールは口走りそうになり、その言葉を呑みこんだ。
自分がいるから家族は苦しむ、迷惑ばかりの自分なんか消え失せてしまえばいい――そういう思いを抱くことがフランドールにはままある。自己愛という感情を、実のところフランドールは上手く固着させることが出来ないでいるのだ。
「……こいしちゃん?」
いつの間にかこいしは席を立っていて、フランドールの顔を覗き込んでいるのだった。
表層レベルでの意識を伴わないその暗い虹彩がフランドールを見つめる。何も見ていないような、何もかもを見透かすような、不思議な色をした瞳だ。
「自分を否定したね?」
身に刺さるような鋭い声だった。
「……どうしてそう思った?」
「貴女わかりやすいから。この目を閉ざしていてもそれぐらいは分かる。ねえ、フランドール、知がヒトを苛む――そんなこともあるよ? 経験や運動に見合った知識を摂取することが肝要、それをせずに知識だけが肥大化していったのなら、それは重荷になって貴女を縛り傷つける」
「はん、余計なお世話だよ。そうでもしなけりゃ、私は私を壊していたさ。知識があるから苦しいんじゃない。それがなかったなら、苦しむことすらできずに終わっていただけだよ」
「存在することに苦しみを覚える程度に自意識が発達した者には、むしろ宗教の持つ迷妄さが、世俗の持つ楽観さこそが必要よ。見たところ貴女は貴女を否定する材料になるような知識ばっかり仕入れてしまっているような気がするな」
「そんなことは――ないよ」
刺激に乏しかった日常においては感情が激しく動くことはそれほどなかったけれど、それでもこうして生きて呼吸をしていることがどことなく恥ずかしく、後ろめたくて、居た堪れなくなってしまうときというのはあった。特にまだあの図書館でたくさんの言葉を知る以前の、何も知らないでいた頃のフランドールはそうだった。幾度か己の内の不安を上手く言葉にして整理することが出来なくて、呑み込まれて、自分を壊しかけていた。そのつど美鈴には叱られたものだった。
言葉は癒しだ。
最後の哲学者は言葉の持つ限界性を指摘したけれど、そんなことはヒトの内においてはちっとも関係はなくて、今でも言葉は最大の治療薬として不明の闇からヒトを守り続けている――そう思う。言説のもたらす秩序の光がなければ、自分などはあっという間に内側から滲み出るやり場のない破壊衝動に負けて、他人も自分も滅多やたらに傷つけて、あらゆる現実という現実から背を向け敗走していたはずだ。
だから、ひょんな好奇心から知り合った早苗の事情を知るにつけ、フランドールはこう思ったのだ。
――似ていたんだよね
フランドールが早苗に対して紡いだ言葉というのは、何ということはない、フランドール自身に対して向けられた言葉でもあったのだろうと思う。
己を見失っていた早苗と、しばしば己を無くしてしまいたくなるフランドール――
「ま、タナトスに喰われてしまわないことだね」
「貴女がそれを言うのかい?」
「他人のことならヒトはいくらでも高潔でまとまりの良いことを言えるもの。ま、私だって貴女に箴言を垂れられるほどこの世界を真っ向から見据えているわけではないけれどね」
サロメの首を抱くようにこいしはフランドールの頭に手をかけると、それを自分の口先へと近付けた。
こいしの銀色がかった髪と、フランドールの金の髪がやんわりと絡まり合う。
甘ったるいような不思議な匂いをフランドールは感じた。
「……心を読むって、辛いの?」
「……ちょっとね」
「お姉さんは瞳を開けているんでしょう?」
「それはお姉ちゃんが強いからだよ。悔しいから本人には絶対言わないけど」
「なんだ、偉そうなこと言って結局は似た者同士じゃないか」
視界を拒絶する閉ざされた瞳と、まっすぐに飛ぶことが困難そうな歪な翼――
そんなものをその身に備えた二人は、少しの間無言で本の海の中で身を寄せ合っていた。
しばらくするとこいしは机の上の、是非曲直庁の刊行した書籍を手に取りながら話し始めた。その調子はもう元の無邪気なそれへと戻っている。
「えへへ、実を言うとね、うちのお姉ちゃんはもとはここに所属していたのよ」
表紙を指し、幾分か誇らしげにしてこいしは言った。
「ここって――え? ひょっとしてその是非曲直庁とかいうとこ?」
思わずフランドールは聞き返した。
「うん」
「それ普通に驚いたよ? さっきより驚いた。本当に?」
「ほんとだよ。だから旧地獄なんて遺物を任されている。まあそれ知っているヒトはほとんどいないし、うちのペットたちだってたぶん知りはしないと思うから、いまのお姉ちゃんしか知らないヒトに言ったら妄想扱いされるだろうけれど。今のお姉ちゃんはほんと、ただの根暗少女だからさ」
そして、お燐やお空は元気かなあとこいしは呟いた。
それがこいしのペットの名前であるらしいが、その他にも地霊殿には大量のペットがいるのだそうである。
「だから地霊殿は地上から地下へと住人が移転してくる以前からあの場所にあるんだ。是非曲直庁でお姉ちゃんに任せられていた仕事は、あの領域への潜行、および記録の採取。それを分析班が波形や数値として受け取って是非曲直庁は未来予測のための資料を作成するの。それが寿命の算定等の業務において活用されることになる。その辺りのシステムが今どうなってるのかはさっぱり分かんないけど。ま、私たちは私たちで上手くやるから、フランちゃんたちも上手くやりなよ? 神様も味方に付いていることだし大丈夫だろうけれど」
「まあね。とりあえず現時点で『三体』の神様たちが協力してくれてはいるよ。そのうち二柱は信州、州羽に……あ、現人神サマを入れれば全部で四か」
こいしが到着する半刻ほど前、フランドールが礼服を着て会っていたとある人物こそが、残る第三の神とのコネクションを持つ存在であった。
「こいしちゃんたちも大変そうだね」
「いや、フランちゃんたちの方がたぶんよっぽどきついと思うよ?」
応援してるから、と言うとこいしは踊るようにして一回りし、図書館の全景を見渡した。
飴細工のような銀色の髪が、清閑を堅持した書物の海に煌めく。ステップの奏でる靴音が、本の背表紙でできた壁に呑まれていく。
「……『ツァラトゥストラは変わった、ツァラトゥストラは幼子になった』」
第三の目に繋がる管に細い小指をひっかけ、こいしは歌でも歌うかのように語る。
「『ツァラトゥストラはいま目覚めた。さて――』」
気取った仕草で目深に帽子をかぶり直す無意識の少女。
その影からのぞく瞳が、時を積み重ねた妖怪のそれへと一瞬変じる。
「『その君はいま眠っている者たちのところへ行って、何をしようとするのか』」
「私は私の身体を引きずって歩くよ」
フランドールは簡潔にそう答え、それを聞いたこいしは満足げにほほ笑んだ。
そして彼女は図書館の出口に向かって飛び上がり、ふわりとスカートをはためかせ、三階分ほど上方にあるテラスへと降り立った。
「ばいばーい、フランちゃん。またねっ」
こいしはテラスの上から身を乗り出し、もと通りの無邪気な顔でぶんぶんと手を振った。フランドールも控えめに手を振ってそれに答えた。
そして重い扉の閉まる音が図書館に響き渡り、再び図書館は無音に近しい状態へと戻り、フランドールはまた一人で本を読みはじめるのだった。
◇◆◇
――――博麗神社
「霊夢は寝てしまいましたよ」
くうくうと寝息を立てて眠る霊夢を背中に乗せ、のそのそと軒をはい上がってきた玄爺がそう言うと、当代の巫女はそうですかと気のない返事をした。
紅白の、いたって普通の巫女の装いをしている。何やら腋の部分が露出した珍妙な衣装もあるにはあるのだが、そういうものを堂々と着ていられるほど彼女は若くはないし――といってもまだ二十歳ではあるが――、何より羞恥心がある。若い時分も含めて、その衣装を身にまとう機会はそれほどなかった。
居間の卓袱台の上に置かれた茶碗には、出涸らしの、ほとんど白湯と化した液体が半分ほど残っている。茶請けの類はない。
「ひと雨きそうですな」
空を見て玄爺は言う。
その空はついさっきまで晴れ渡っていたというのに、今はどんよりとした灰色に覆われている。空気に少し湿り気が出てきたようだから、もう少しすれば雨が降り出すのだろう。何だか急に天気が思わしくなくなってしまったようである。
「大丈夫ですかの?」
隣の寝所に霊夢を寝かしつけて巫女が戻ってくると、玄爺は心配そうな声で軒先からたずねた。
「……おじいちゃん」
「あまり無理をしては――」
「大丈夫、最後までやるわ。いや――最後まで何もしないでいるわ」
何かを諦めたような口調で巫女は言う。
青い桜の葉が母屋からは見える。半月ばかり前には幻想郷一とも言われる博麗神社の桜は満開に咲き誇っていたのだった。今は今で新緑が鮮やかだが、背景の空が仄暗いからいまいちその爽やかさは損なわれてしまっていた。
「私は出来の悪い巫女だったね」
唐突に巫女は呟いた。
「そんなことは……」
「いま辛い。それが何より私が巫女に不向きな証拠なの」
いま自分の意識は随分と人里の方に――つまり人間たちの方へと向いてしまっている。中立でいてほしいと紫から頼まれていたというのに、その役割を投げ出して、今すぐ里へと駆け付けたいという衝動が内にある。
「はあ……」
境界線の上に立ちつづけることがこれ以上は困難であると、この騒ぎは厭というほどに痛感させてくれた。だから八雲紫に見込まれて連れて来られた花屋の娘は、この騒ぎが終わったら還俗しようと決心していた。
「霊夢は違う。怠け癖はあるけれどきっといい巫女になる。勘で分かるんだ」
「巫女の勘ですか?」
「女の勘、かなあ。よく分からないけどね、あの子は傾いてないから。玄爺、そもそもね、共同体の内においては子どもは人として数えないのが古くからの慣わしです。子どもは一定の年齢に達するまでは、共同体の外部――『神』の側の存在として、共同体の住人とは異なる扱いを受けたもの」
たとえば山村であれば、山の者として――
たとえば漁村であれば、海の者として――
その外部的存在たる子どもが、一定の齢に達し、人として『こちら側』へと参入するための儀式が通過儀礼ということになる。彼岸から此岸へ――少年少女はその存在自体がマージナルなのである。
そしてそこには外から内へ、あるいは神の側から人の側へといったライフスペースの変遷や自身の同一性にまつわる意識の変移等が伴う。外の世界ならば――
――セイジン式とかニュウガク式とか……
紫の話では、そう言った儀式が形骸化しつつも通過儀礼の体を残しているのだそうだ。
子どもが端から大人たちと同じ位相の世界にいるのならば、そのような大層な儀式などは必要ないはずなのである。そして神社とは――
「神社とは人の領域と神の領域とが交じり合い、また同時に別たれる場所――だから巫女というのは究極的に境界上の存在なのであり、またそうでなければならないのです。神社は山や森と同様、人里の外にある。でもね……私はなんかもう駄目な気がする。なんかさ、ああ私は人間だったんだなって思ってしまったの。だから……もう潮時なんだと思う。こうやって里から離れて、人とそうでないものたちとの境目に立っているのも辛くなってきた」
「それは――大人になった、ということですかな?」
「そう――なのかしら? 慧音先生ならもっと分かりやすく説明してくれると思うんだけど……なんにせよこれが巫女としての最後の仕事になるはずだわ」
己の限界を痛感し、巫女はうな垂れた。
どうも、八雲紫の要請に自分が最後まで応えられるのだろうかという不安が巫女の内にはあるのだ。
「そうですか……ただ、出来が悪いと言いましたがの……そんなことはないと思いますぞ」
齢を重ねたが故の慈愛の情が、年老いた亀の言葉の端々から伝わってくる。
「それなりに多くの巫女を見てはきましたが、実のところ貴女のような悩みを抱えていた方も多かった。でもね、みな葛藤はあったのでしょうが、それにしたって今回のような大きな岐路に立たされている方はいなかったのです。こんな複雑極まりない状況に置かれた巫女は、貴女を除けば大結界設立のときの巫女だけでした。なのに――貴女はこの状況下にあって、いまだこの場所に踏み止まっている」
恥ずべきことなどありません、と穏やかな口調で言うと、玄爺は裏の池へと向かってのそのそと這っていった。
その背を見て、巫女は昔の自分を思い浮かべようとする。
己にも玄爺の背に乗って遊んでいた頃があった。妖怪たちと何ら構えることなく、そして隔たりもなく接することが出来た時代があった。
「はあ……」
その頃のことを思い出そうとしても、霞がかったかのように模糊とした記憶しか蘇っては来ない。
少しだけ寂しい気持ちになる。
何だか、いつまでも妖怪の少女たちと弾を撃ち合って戯れていられるような気もしていたのに、そんな気持ちなどはまるで無視して身体は勝手に齢を重ねてしまった。
小さかった背も、今では紫や幽香を追い抜いてしまっている。その差がどうしようもなく寂しかった。
「どうしたものかしらね……」
今はもう、誰かが喰われたり命を落としたりするのが厭わしくて仕方がない。そういうまったく人間的な感情が溢れ出てしまっている。
ただ振り返ってみるとそういったしこりの様な物思いは、いつだって巫女の内には存在していた。深く考えないようにしていたというだけのことである。
だがこうしてこの場所の緩々とした日常を支えていた諸々の要因が崩れ、幻想郷が非日常へと突入したとき、何となく――己の内で誤魔化しが効かなくなった。
昔に比べて激減したとはいえ、この場所は外の世界の人間をかどわかし、そして喰らって成り立っている場所なのである。そういう場所を構えることなく受容することは、齢を重ねてしまうとどうにも難しくなってくるらしい。
「悪霊はいるかしら?」
そのとき聞き慣れた胡散臭い声が響き、居間の中の空間が裂けた。
「紫……」
スキマ妖怪が、裂け目の中から現れる。
洋の東西が錯綜したかのような奇妙なドレスらしき衣装。
そして閉じられた日傘に、不思議と神社にあっても違和感のない豊かな金髪――その姿が巫女の物思いを中断させた。
「いないか……では待つとしましょう」
勝手知ったる人の家と言わんばかりに紫は座布団を引き出してくるとそれに座った。
「霊夢は?」
「寝てる。大したもんだわ。この子はたとえ宇宙に行こうがぐうぐう寝ているわよ」
苦笑いを浮かべつつ巫女は色付きの白湯を紫に差し出した。
「出涸らしじゃないの。前に良いお茶あげたじゃない」
「とっくに底をついたわよ。霊夢が気に入ったみたいで、がぶがぶ呑んでしまったの」
「へえ……次の巫女はお茶が好物っと」
紫はとんとんとこめかみを突付いた。覚えた、ということなのだろう。
そして巫女の方を見て言う。
「口調が変わったわね。地が出ているわよ?」
「ん? ああ、そうね……いや、違った。そうでしたね」
改めて言い直すと、紫は苦笑いを浮かべた。
「まあ無理に巫女っぽくしないでもいいですわ」
「ねえ、紫」
そろそろ色すら出なくなってきた茶を自身の湯飲みに継ぎ足しつつ、巫女は言った。
「なあに?」
「静かね」
「そうね」
まるで何も起こってなどいないかのように、いま幻想郷は静かだ。
水面下では緊張感を孕んだ空気が流れているのだとは感じるが、表向きはどうにも静かなのである。
「どうしてこんなに静かなの? あの日の晩はあんなにも暴れていたというのに」
「吸血鬼が最も力を発揮するのは満月、その満月に限界まで力をふるえば相応の充電期間は必要になるということです。要するに疲れて寝ちゃったの。ただねえ……」
「なに?」
「あの霧――隠さずに言うならあれは予想外でした」
ドーム上に立ちこめた赤黒い霧を巫女は思い出す。神社からでも遠くにその姿は確認できる。
「あれは殻よ。未熟な雛鳥を守る卵殻。そう、あの霧のドームはその形通り、卵なのです」
説明など求めていないのに勝手に説明をはじめる上に、その説明自体がわかりにくい。
「分からない」
「起こるはずだった事象、それをあの霧は拒んでいるの。だからあの霧は攻撃を防いでいるのではないし、そもそも守備や防御といった問題ではない。それこそまさに拒絶しているのよ。大嫌いなピーマンを周りの連中が食べなさいよと強引に押し付けるから、いやいやって抗っているというわけ」
「でもあんたでも破れない?」
「さあ、どうかしら? 私の勧めるピーマンはとても甘いですから」
右手側に小さなスキマをつくると、紫はそこから何かを取り出した。かりんとうである。
「じゃーん。紫のかりんとう、略してゆかりん」
「なにわけの分からないことを言ってるんですか」
「ねえ、さっちゃん」
「誰がさっちゃんよ? 今の私は博麗、名前のどこにもさの字はないですよ」
博麗を名乗るほど今の自分が巫女として及第点にあるとも思えなかったが、とりあえずはそう答えた。
「幻想の生き物の強さとは、想いの強さ。譲れぬ何かがあるのなら、たとえ齢500の子どもだろうが世界を覆すだけの力を振るうことはある」
「いきなりだなあ。しかも珍しく熱っぽいことを言う。らしくないわ。私の知ってる紫はもっと斜に構えたイヤな奴だったはずよ」
「ただの事実ですもの。無敵スターを取ったということね」
その比喩の意味は良く分からなかった。
「もちろん、それは今回に限ったことだけどね。あの娘はまだまだ若輩、本来は面倒見のいい保護者さんが必要なレベルよ」
「とてもそうは思えない」
「でもそうなのよ。だから、そんな子どもがあんな力を振るっているということがすでに歪だということなの」
「その歪なことを始めさせたのは貴女でしょう?」
そして巫女は深々とため息をつくと、再び小さな声で紫の名を呼んだ。
「もう何年も経つけどさ……紫はあの異変覚えてる? 私と貴女が初めて一緒に解決に向かった――」
昼が終わらない――そんな異変だった。巫女はきちんと覚えている。
その頃は紫のことはただの胡散臭い妖怪程度にしか思っていなかった(今もだが)。手を組んだのだって半ば言われるがまま、嫌々半分だったのだ。
「ふふ、結局犯人は師匠だったのよね。ずっと昼なら幻想郷中を向日葵で埋め尽くせるわ! とか言ってさ」
そう言って巫女はくすくすと笑う。
師匠というのは風見幽香のことである。一応名ばかりではあるが、彼女は巫女にとってはそんな立ち位置の人物だったりする。そのせいなのか、それとも当人が花屋の出だからか、彼女の用いる術は花に因むものが妙に多いのだった。
「それで私とあんた――というか私と藍さんとで師匠をとっちめてやったのよ。あれはけっこう気分が良かったわ」
「……もう忘れてしまいましたわ、そんな昔のこと」
どことなくぶっきらぼうな調子で紫は言った。そして茶のお代わりを要求する。
その空の茶碗に、いよいよ色のなくなってきた茶を注ぎながら巫女はもう一度紫の名前を呼んだ。
「ねえ、紫」
「なに?」
「これ終わったら、私は里に帰るよ。これを見届けるのが私の最後の仕事。それで……もう巫女はやめる」
きっぱりと巫女はそう言って、そして紫はそうですかと感情の籠っていなさそうな声で答えた。
「貴女はさ、胡散臭くてぐうたらで傍迷惑で――幻想郷一ダメな妖怪よ。私は師匠とあんたがここの二大ダメ妖怪だって思ってる」
「あんなのと一緒にしてほしくはないですわね」
巫女は紫の取り出したかりん糖を一本かじった。
障子戸がかたりと鳴る。風が吹いたのだろう。向きからすると大結界の外から流れて来た風のはずだ。かすかに桜の葉のざわめきも聞こえる。
「でもさ、紫。貴女はいつだってここぞってときには、必ず結果を出してきたわ。それは信じているの」
「お褒めにあずかり光栄ですわ」
「でも……ごめん。もう私じゃ貴女には付いていけないみたい」
それなりの時間を共に過ごしながらも、常々紫との間にはある種の距離を感じていた。それはひょっとすると妖怪と人間との間の隔たりだったのかもしれないし、あるいはもっと別の何かであったのかもしれない。
「何もしないってのがこんなに辛いとは思わなかったよ。私はさ、やっぱりどうしようもないくらい人間側だったみたいなの。巨視的な視野というものがどうしても持てない。これ以上この場所を秤に乗せるような危ういことは――」
「別に構いはしませんよ? 巫女をやめてしまっても。そろそろ貴女は潮時だと思っていましたから。それに……」
紫は霊夢が眠っているであろう寝室の方を一瞥した。
「替えはもう用意してあるのだし、その替えの替えだって目星はついている。巫女なんて何人でも、何代でも、簡単に工面できますわ」
「そうね、貴女にとっては私は……替えの利くパーツでしかないものね」
「それはそうですよ。私にとって巫女なんてものは――貴女にしたって、霊夢にしたって――数式を構成する一要素にすぎませんから。重要なのは巫女という器の型なのであって、その内部の値は重要ではありません。それとも――」
紫の眼差しが酷薄な感じのするものとなり、その口元は白い扇で隠された。
「妖怪である私に何か情の類でも期待した? ごめんねえ、生憎とそんな無駄なモノは私の内には無いのですよ」
柔らかな口調で紫は言い、そしてそれを聞いた巫女は寂しさと安堵とが入り混じった複雑な表情をした。
その後、二三の他愛もない言葉を交わし、紫は隙間をくぐって巫女のいる母屋を後にした。移動先はすぐ近く、神社の境内である。
いつもと変わらない拝殿。掃除の行き届いた石畳。朱塗りの鳥居に、それとは対照的に青い桜の葉。
空は灰の雲に覆われ、鳥の姿はなく、やはりどうにも静かだ。
少し深めに息を吸う。湿り気を帯びた空気が紫の中に流れ込んだ。
「浮かない顔をしているじゃないか」
あまり中身は振るわないと思われる賽銭箱の上に魅魔が座っていた。自分の神社だとでも言いたげな態度である。
足先は相も変わらずゆらゆらと揺らめいている。
「……別に」
不機嫌な声で紫は答えた。
「そうかい? まあそれはいいや。それよりさ――」
そこで魅魔はいったん言葉を区切ると、思わしくない色をした空を見つめた。深い緑の髪が少しだけ風に揺れる。
「静かだねえ」
魅魔は賽銭箱を降り、揺らぐ足で横滑りするかのように境内を行く。
紫の眼の中で、ゆっくりと浮かぶ緑の髪と周囲の桜の葉との境目が揺らいだ。
「私にはこの曇り空は曇り空に見えるわ」
唐突に魅魔はそんなことを言った。
「そして大地は大地でしかない。乾坤の境は改めて考えるまでもなく、明瞭だ。だが――貴女には一体どう見えているのかしらね?」
目線は空より下げられ、そしてその眼は急に憂いを帯びて紫の方へと向けられる。
青々とした桜の葉と、そよぐ髪とが風景の中で絡まり合う。
「たぶんあんたにとっちゃこの世界ってのは、境界線でできた織物のように見えるんだろうな」
「いきなり何を言って――」
「織物を織物として、一個のものと見るか、それとも経糸と緯糸の連なりからなる構造物と見るのか……あんたは徹底的に後者なんだろう? 私の言葉じゃこの程度の平易な表現が限界ラインだが」
魅魔が何を言わんとしているのか紫は察する。
「『易有太極 是生兩儀 兩儀生四象 四象生八卦』――」
唐突に放たれた大陸の言葉は、紫にとってはあまり気分の良いものではなかった。
むかむかとした思いが胸の内に芽生え、心がささくれ立っていく。
「世界が綻んでしまうのが――怖いか?」
「そんなの怖いに決まっているでしょうに」
自然と返す声音が険をはらむ。
「私は、私自身がどの程度の力を持っているのか、それだけはどうしても完全な答えを出すことが出来ないのよ。ならば――慎重になるべきですわ」
「神々ですら勝手気ままにやっているんだ。お前さんが動いた程度でこの場所は揺るがんよ。あんたとてここの一構成員にすぎないさ」
「違うわね、私は厳密に言うなら幻想郷の者ではない。それに極小の領域における事象が、思わぬ形で極大の領域の在り方を変じてしまうことというのはある。初期条件段階での僅差が時間の経過とともに拡大され、結果に多大な影響を及ぼすということもある。観測者が観測対象に与える影響は平等ではない。大した影響力を持たない者もいれば、逆に強い影響力を有する者もいる。私は――否応なく後者でしょうよ」
その紫の言葉には答えず、古き悪霊は鳥居の彼方の空を見やる。考えているのだろうか。
見つめる空は、幻想の大空――
そしてしばしの無言の後、魅魔はゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「己の羽ばたきが嵐を生み出しうると知った蝶々は、自由に飛ぶことを止めた――とかそんな感じの話かい?」
「蝶々なんて可愛らしいものだったら、いくらでも羽ばたいてくれて結構ですけどね」
「まあねえ……あんたがさ、自分が動くことにつき慎重にならなければならない理由も、いつだって回り道しか選択し得ない理由も、一応わかってはいるつもりよ」
「ふん、貴女の空は一枚だけでしかないでしょうに」
魅魔が見ているのは幻想郷の空だけだ。そうに決まっている。
だが紫の目にはその下に広がる幻想郷の風景と、外の世界のとある都市との風景が重なり合って見えている。
二重に映し出された、幻想と現実の光景。
もしもその両者の境を反故にしてしまえば――
「まあそうだな。貴女の見る世界と私が見る世界は、随分と異なったものではあるんだろうさ。あんたの世界は複層で、私の世界は単層だ。でもなあ八雲の、そういう理屈は今はいいんだ」
ゆらゆら揺らいでいた脚ははっきりとした形を成し、そうして悪霊とスキマ妖怪は森閑とした境内にて向かい合う。
その目線に紫はほんの少しだけ気押された。
「そろそろ終わりにしないか? あんたも厭なんだろ? この場所をこうやって危険に晒すのは」
「管理行為の一環として行ったまでですわ」
「本当ならずっと産湯に浸けておいてやりたかったはずだ。結局あんたも――巫女と一緒じゃないか」
「管理者として判断したのですよ。これは幻想郷にとって必要なプロセスで――」
「貴女の話をしろ。貴女がどう思っているのかを聞いているんだ」
ぴしゃりと魅魔は紫の物言いを跳ねのける。
「面倒なのはやめようさ。幻想郷は全てを受け入れる――残酷なことにね。だからあんたが動いたって、きっと何も変わりはしないさ。あんただって異変の当事者になる資格はあるぞ」
こんな状況、さっさと終わらせてしまえ――余裕の感じられる態度で魅魔は言う。その態度が少し苛立たしく感じられて、紫はきつい眼で彼女を睨み返した。
「まだよ。まだ足りない。まだたった一度の攻撃がなされただけ……危懼の刻はいま暫し継続されなければなりません。そうでなければ変わるものも変わりやしない。平和も、それによりもたらされる整然とした秩序も、度を逸すれば魂を腐食させる危険物にしかならないわ。遊びの中にすら雑駁さや蛮性の類がなくなってしまったのなら、それはまったく高尚で美しいことなのでしょうけれど、遠からず心は廃れてしまう。日の光に逆らい生きる妖怪にとって、それはあってはならないことよ」
「だから理屈はいいんだってば。あんたがどう思うのかって訊いているの。言葉の向こうに感情を塗り込めるなよ?」
「……馬鹿馬鹿しい」
吐き捨てるように、そして軽蔑するかのようにして紫は言った。
「感情感情って……それに従って動きなさいとでも言うつもりかしら? 生憎とそんな器用なこと私には出来やしないし、そうするだけの確たるものも私の内にはありませんわ」
「あの子にもそう言ったのか? ふん、あくまで拘るか。まあいい。そんなに動くのが怖いなら、私が動かしてやる」
そう言い放った魅魔の手に三日月の矛が現れ、そして八つの球体がその身体の周囲を回転し出す。
オーレリーズの名を冠した、最上級の魔法――場は言葉の応酬とはまた色を異にした緊迫感に覆われる。
「大方そのために来たんだろうしな。だから、私の小言はここまで。そろそろ脚本家も舞台に上がる頃合いだ。異変の輪の内に入ってもらうわよ、八雲の」
そして紫も傘を構える。余裕の生じ得る余地などない相手であることは、百も承知だ。
紫の内で高速の演算が開始され、その眼は厭になるくらいにはっきりと物事の境界を映しだし、そして八雲紫の見る世界は継ぎはぎだらけになる。その継ぎはぎが揺らいでしまうのが怖いから――愚かなスキマ妖怪はいつだって遠回りな道を選択させられてしまう。八雲紫の前に、爾き道などは端から存在しないのである。
――おかしな話
矛盾している。
感情で動いてみたらという魅魔の言に――というよりここに至るまでの彼女との問答全てに対し、紫はまったく感情的に応えてしまっているのだった。
売り言葉に買い言葉という奴だ。思いのほか魅魔に突っ込まれた言葉を浴びせられて、それでついムキになって交わす必要のないはずの押し問答を繰り広げることになった――それだけの話である。
そもそも紫は彼女と一戦交えることを目的に神社を訪れたのだ。
この騒動の内側へと自身が介入するための手続き――自分が本腰を入れて動き出す時にはいつも行っている、定例の敗北イベント。
この悪霊ならば、決して役不足にはならない。
――まったく
今回は何もかもが上手くいかない。
計算も当初の予定も、何もかもがことごとく覆ってしまって、そうして今の自分は異変の首謀者という立場でなく、異変を解決する側として動きだそうとしている。
――バカみたいだわ
火遊びで小火を起こして、さらにそれが思わぬ延焼を見せ、紫は必死で火を消そうと躍起になっているのだ。
魅魔の言うとおり紫もまたこの場の一構成員に過ぎない。
紫だけが幻想郷を背負って立っているわけではないし、紫がこの場所を代表するような存在であるというわけでもない。あくまでただの、少しだけ権限の強い一妖怪にすぎない身なのである。
だがそれでもやはり、紫は然るべきプロセスを経ずして動くことにためらいがある。完全なる自由というものに対し、紫は一種の恐怖感に近しい感情を抱いているといっても過言ではない。何らかの形での制約が必要なのだ。
それは外界における交通法規のようなものだろうか。然るべきルールと、それを順守する意思――それを欠いて車が道を行くことは、乗り手にとってもそうでない者にとっても脅威にしかならない。
そして八雲紫という歪な形の車が自由に走りだしたとき、幻想郷が被るであろう影響は未知数だ。不自由でいる方が八雲紫は八雲紫として安定しているのである。
――いや……
そうではない。
ここでそういう理屈をこねてしまうことに対して魅魔は憤っているのかもしれない。不自由を愛するがあまり自由の大切さを忘れてしまってはお笑い草だと、そう言いたいのかもしれない。
――そう
これは自分で始めたことだ。責任を取って――そんな殊勝な言葉を用いるのはひどく久しぶりのことだが――自分が終わらせなければならない。それだけで理屈としては事足りるものであったのかもしれない。
ただ、どうあれここが一つの転換期になるのだろう。少なくとも紫にとってはそうだ。
「本当に――呆れるくらいに回りくどいよ、あんたは。それに天の邪鬼って奴だ」
「ふん……大口叩いているけれど貴女本当に私をどうこう出来ると思っているの?」
「私を誰だと思っている」
自身に満ち溢れた表情で魅魔は言い、そして周囲を回る球体が発光を開始し、同時に加速する。それに合わせるようにして三日月の矛の先端もまた輝きだした。
その輝きが紫の方へと向けられる。
「安心しな。きっちり負かして任してやる」
その言葉遊びのような軽い調子の一言とともに、八つの球体はひと際に眩く煌めきだし、一帯は無辺の魔力の内へと呑み込まれた。
◇◆◇
――――人里、南西区画
「急に天気が崩れましたね……」
午後を回った時分、小雨の注ぐ中、中途で仕事を終えて早々に戻ってきた筍採りたちとすれ違いつつ、エリーは目的の花屋を目指していた。幽香の部屋に飾る花がほしいのである。
幽香の近くにあって、花はなかなか枯れることはない。むしろただ土にあるとき以上に鮮やかに健やかに育っていく。
ただ幽香当人が、一定の期間が過ぎるとその花たちを自然の土のもとへと植え移してしまうのである。どういった思いで彼女がそうしているのかはエリーには分からないのだが、そうやって育てた花を見送る時、幽香は嬉しさと寂しさとが入り混じったやけに優しそうな貌を見せる。
子を送る親のような気持ちなのだろうかと思う反面、その笑顔こそが怖いのだとも思う。
「着いた着いた」
人里の南西の外れ付近に目的の花屋はある。仏花等も扱うが故の立地なのだそうだ。
『さつき』と銘打たれた色あせた木の看板がかかっている。実は漢字で表記するとまったく花屋らしからぬ字面であったりもするのだが、平仮名で書く限りではそこそこにマッチしているようである。
――おや?
その店先に二人の人物が立っている。店先に並んだ植物を見ているらしい。
一人は秋静葉だ。
いつもと同じ、落ち着いた感じのするオレンジ色を身にまとっている。妹の穣子もかなり小柄な方だが、姉はそれにも増して小さく、細い。
エリーに気が付くと彼女はぺこりと礼をした。言葉はなく、ただ穏やかな笑顔を浮かべている。あまり口数は多くなく、よくしゃべる妹とは好対照であるとエリーは感じる。
そして口を開かない彼女とは違い、その隣にいた女性の方は柔らかな物腰でエリーに話しかけてきた。
「こんにちは。や、おはようございますかしら? でもお昼ごはんは食べてしまったし――」
「貴女たしか――小兎姫さん、でしたっけ?」
エリーよりも少し低い背。
ところどころに桜の模様が施された紫紺の羽織。そのゆったりと撓んだ服地の合間からは冴えた紺青色の着物がのぞいている。
長く伸びた赤茶の髪は、項の後ろが黄の髪紐でまとめられている以外はざんばら髪のようになっているのだが、それがこれといってふしだらな感じを見る者に与えないでいるのは浮かべた笑顔やその口ぶりからどことなく稚気のようなものが感じられるからだろう。
エリーの記憶が確かならば、この女性は稗田家と並んで人里の中心をなす屋敷の現在の当主であったはずだ。
――というか
正確に表すると、そもそも大結界が張られる以前から小兎家の当主は彼女だったわけで、そういう意味では現当主という表現には何だか違和感がある。
「やーですよう、姫だなんて」
くすくすと笑いながら専ら変わり者と評される女性は答える。
「ちょっとおうちが大きいだけですし、そもそも半分くらい公共物ですし。貴女は幽香さんのところの門兵さんだったよね? 幽香さんのお使い?」
軽い口ぶりで年齢の知れない女性はたずねてくる。そうですよとエリーは答えた。
そのエリーの横では静葉がポトスの葉をなでている。エリーはかなり上背のある方なので、静葉と並ぶと随分と目線が下がってしまう。
「ところで幽香さんどこかに行ってしまったそうね? 静葉さんからそう聞いたわ」
小兎姫の言うとおり、八雲紫と別れたその少し後に幽香はとある場所へと迷い込んでしまっていた。幻想郷には不在なのである。
――いえ
正確に表現するのなら、身体はいまだ夢幻館の私室にて眠っている。
だが中身が欠けているのだ。
もともと眠り出したら数日は目を覚まさないということもざらにある幽香だったから、エリーは館の住人である夢月幻月の姉妹にそう指摘されるまでまったく気が付かなかったのだが、たしかに注視してみると何かが欠けていた。幽香は稀に遊び半分で分身することがあるが、その際に感じるのと同様の気配の変化が見受けられたのだ。
寝ている最中に精神だけが別の場所へと飛んでいった、ということなのだろう。
ただ自身で能動的に行う分身とは異なり、外的な力により強制的に精神の大半を引き抜かれてしまったのだそうで――夢幻姉妹の弁である――、今の幽香はさながら眠り姫のような有様で目を覚まさないでいるのだった。
幽香のことだから安否自体はこれといって案ずることもないとエリーは思っているが、ただこの状況であまり長い間幻想郷を空けてしまうのは得策ではないという気がする。
――まあ待つしかないのですが
ちなみに静葉がそのことを知っているのは彼女が季節の運行にかかわる存在だからなのだろうか。エリーにはよく分からなかった。
「とりあえず今回は仙人掌エネルギーがどうのこうのとかそういう話ではないです」
「カクタスカンパニーの件? 結構引き戻すのに苦労したんですってね」
なんでそんなことを知っているのかとエリーがたずねようとしたところで、店の奥から鉢植えを抱えた店主が現れた。
花屋とは思えないがっしりとした体躯と穏やかな顔立ちとが好対照な、不惑半ばごろの男性である。いかにも人のいいおじさんといった風貌をしている――そんなすこぶるいい加減な感想をエリーは抱く。
もともとこの花屋は彼の妻が営んでいたものだったそうなのだが、一人娘を生して早々に三途を渡ってしまったので、その後を引き継いで今の形になったのだそうである。鰥夫というやつだ。
「おお、小兎姫様。それにエリー様も」
鉢植えを床に置くと、土いじりのための手袋をはずしながら店主はぺこりとこうべを垂れた。そしてエリーの背後からひょいと顔をのぞかせた静葉に対しても慌てて挨拶をした。小さいからエリーの背後に隠れてしまっていたのだろう。
――それにしても
「様はよして下さいよう、そんな大層なものではないのですから」
先ほどの小兎姫と同じようなことをエリーは言った。
店主はいやいやと言って首を振る。
「幽香様には娘もお世話になっていますし、大事なお得意様ですから」
娘、というのは当代の博麗の巫女のことだろう。ここが今の巫女の生家なのである。
ただ幽香がまともに他人の面倒を見るとも思えないから、こうしてエリーに対してまで畏まらなければならない程の義理はおそらくないだろうなと思う。
その幽香曰く、この店の土がいちばん状態が良いのだそうである。
――そういえば
むかしくるみが幽香にたずねたことがあった。
本来自然の内にある花たちを、こうして鉢植えという限られた領域に囲い込んでしまうのは幽香としてはどうなのか――そんなニュアンスの問いだったはずである。
――『不自然などという不自然な言葉を用いるのはヒトだけよ。植物は、いついかなる場所にあろうが自然なのです。ただ土に還すことだけは忘れずにね』
鉢の中だろうが、硬い石の合間であろうが、植物たちというのは己の居場所には頓着をしない。だからあの博麗大結界も、風に舞うタンポポの綿毛を退けることは出来ないのだ。
存在するということが、存在するということとして完結している――植物というのはそういうものなのだと幽香は言った。分かるような分からないようなといったところである。
そんなことをおぼろながらに思い出しつつ、エリーは店主に適当に花を見繕うよう頼む。店主はしばしお待ちをと言って再び店の奥へと引っ込んだ。
「花を見ていらしたんですか?」
「うん。先生、無理をしているみたいだったから」
「先生……ああ、白澤の」
こくりと小兎姫はうなずき、そして小さな声でぽそりと呟く。
「平静と結束――」
「朝顔の花言葉ですか?」
「先生に似合う花は何かって考えていたんです。ただ『私では花を選ぶことが出来ない』から、静葉さんにお願いをして」
――私では選べない?
なぜそういうことになるのだろうか、とエリーが疑問に思っているとそれを察したのか小兎姫がその答えを言った。
「色がね、認識できないんですよ」
さらりと、特に気負った様子もなく彼女はそう答えた。
「色盲ってやつですか?」
「ええ。それも完全な。赤も青も緑も、私は区別が出来なくて」
人間の眼には専ら明るい光を識別するための部分と、その逆で暗い光だけを識別する部分があるのだそうで、彼女の場合はその明るい光を感知する部分がほぼ機能していないとのことだ。
それはつまり明るい場所では物が良く見えないということも意味しているのだが、その辺りのことは魔法でカバーをしているらしい。
「世界が灰色に見えている――のだそうです、人の表現によると。私自身はそもそもそれ意外に色を知らないから灰色って言われてもピンと来ないんですけどね」
それならたしかに花を選ぶことは難しいだろう。ただ――
「大事なのは花を届けようという心持ちです。品種は何でもいいんじゃないでしょうか? 菊とかでなければ」
「あらあら。ふふ、ありがとうございます」
「ところで……静葉さん」
ポトスのマーブル模様をなぞる静葉に声をかける。
「幽香様、どうなんでしょうか? 何か知りません?」
そうエリーが問うと、静葉は少し首をかしげ、人差し指を顎に当てた。考えているのだろう。
そして小さな声でエリーの予想していなかった単語を発した。
「ツチノコさんがね――」
「はい?」
その予期せぬ言葉にエリーは面食らい、小兎姫は面白そうにほほ笑んだ。
「つ、ツチノコって……え? ごめん、さっぱりわかんないですけど」
「ツチノコというのは草野姫様のお子さんです」
求めていたのとは違う箇所にまつわる説明が小兎姫からなされる。それは知ってますってばとエリーは答えた。
「ふふ、さっき静葉さんに聞いたところによるとね、幽香さんは間違えられたらしいわよ?」
「間違えられた?」
「その草野姫様と。性質が似ているから。ツチノコさんを迎えに来るようにってことで。たしかにあの蔦の力はかなり厄介でしょうしね……あの星の住人にとっては。草木にも命はある。無造作に刈り取れば、少なからず彼らの忌み嫌う穢れも湧いてくることでしょう」
そうそうと言うと小兎姫は説明を続ける。
「そもそも『神降ろし』というのはね、神楽と祝詞と神名とがセットで一つの情報を成しているんです。だからそのどれかを省いてしまうと違うものが呼び出されてしまう可能性があるし、手段としては不正なものとなってしまう。幽香さんが目を覚まさないのはそのせいもあるかもね」
「ちょっと待って下さい、静葉さんがそんなことを知ってるってことは――」
「ん? ああ、彼女も呼び出されたみたいよ? 蔦を枯らすために、ね」
楽しそうに小兎姫は笑い、静葉は相変わらずちょこんとたたずんで、そしてエリーは一人唖然とした。
「つまり静葉さんは――」
「いま静葉様の神霊は『幽香さん同様』セレナに在るということですわ、門番さん」
そう言うと小兎姫は朝顔を包むよう店の奥の主人に向かって声をかけるのだった。
◇◆◇
――――幻想郷上空
繭のようにまとまった暗雲が、幻想郷の上空を漂っていた。
その内部と周囲で稲光が迸る。それにより雲が明滅する。
そしてそのすぐ後、雲の端から数個の火炎の塊が飛び出し、繭のようだった雲の形は一気に乱れた。火炎の飛んだ後に沿い雲を構成する水分は蒸発し、その内がうかがい知れるようになる。
内部では二つの人影が妖怪の群れに囲まれていた。
「まったく、なんでこんないきなり集まってくるのよ!」
一人は妹紅である。
空に刺さった永琳の目印を見付け、そこで発煙筒を使ったまでは良かったのだが――その結果こうして妙な輩たちに取り囲まれてしまったのだった。
どれも妹紅があまり見たことのないタイプの妖怪や妖獣の類である。地上で見かけるような者たちではないということだ。
「貴女があの発煙筒を炊いたからですが」
妹紅に背を合わせる形で宙に立つもう一方の人物が平淡な調子で答える。
緋色の衣。触角のようなリボンのあしらわれた黒の帽子――永江衣玖である。
妹紅が発煙筒を使った目的は彼女ら竜宮の使いに出会うことだったのだが、結果余計なものまで大量に呼び寄せ、妹紅と衣玖は雲中にて共同戦線を張ることとなったのだった。
「面倒だ……衣玖さんとやら」
「はいはい」
「まとめて吹っ飛ばす。支援よろしく。あとあんまり動かないでいてくれると助かる」
そう言うと妹紅は天に向かって腕をかざす。
するとそこに一握の火球が生まれ、やがてそれは膨大な熱量を秘めた炎の塊へと変じていく。雲中に小さな太陽が生まれたかのようである。その熱で雲がさらに細かい水蒸気となって薄れていく。
「実は私も同じことを考えていたのですが」
対する衣玖も同様に腕をかざし、人差し指でもって天を衝くような姿勢をとった。
その先端から青い稲光が起こり、雲の内を無尽に駆け巡る。それが襲い来る者たちを阻み、撃ち落とす。ちょうど巨大な火球が同時に雷光をも伴っているような形となる。
「まるで合体技ね……」
「名前でもつけてみましょうか?」
渦巻く炎。走る霹靂。
背を合わせ、天を指す二人の少女。
ちなみに互いが互いを傷つけあわないでいられるのは、そういうふうに効果範囲を定めてあるからなのだが、妹紅はこの設定を行うのを怠り自分の炎で焼け死ぬことが多い。
そうして空に稲光を伴った炎が解き放たれ、二人を包んでいた灰色の雲は瞬く間に消え去った。
「なあ、衣玖さんとやら」
「何か?」
「何であいつらはあそこを漂っている?」
下を方を指さしながら妹紅は問う。そこには二人が落とした妖怪やら妖獣やらが気絶してふよふよと漂っているのだが、不思議なことにそれらは全て同じ高さの位置に浮かんでいるのだった。まるで空気中に見えない網でも張ってあるかのようである。
「ああ、あれは『水面』ですよ」
にこやかに衣玖は答えた。
「水面?」
「普通の水中に暮らす魚たちだって、水を抜け出して空へと飛び出すことはないでしょう? それと同じです。私たち空を泳ぐ者たちだけに作用する空気の面が空一面に敷かれているのです。だから私たちは雲の中で眠ったとしても地上に落ちることはない」
「じゃああいつらは酸欠で水面にぷかぷか浮かんだ魚か……水に空が映るのは常だが、空にも水面があるとは思わなかったわ」
長く生きた身だが、初耳である。
「そんなことより参りましょう。天界に用向きなのでしょう? 私だってそう動き回って良いというわけでもありませんから」
「比那名居家だ。知っているかい?」
「ええ。ただですねえ……」
衣玖は考える仕草を見せる。それで妹紅は少し不安になる。
「何か不都合が?」
「天界というのは物事への執着を持たない方々の住まう場所です」
「俗界の由無し事には興味がない、ってことかしら?」
「ええ。ですから……いや……」
ぶつぶつと衣玖は何かを言っている。総領娘というあまり馴染みのない単語が妹紅の耳に入った。
「一人、動いてくれそうな方がいます。好奇心旺盛で退屈屋な」
「おいおい、それは本当に天人なのか?」
「天界に住んでいるのだから天人ですよ」
そんなものだろうかと妹紅は思いつつ、空を泳ぐ衣玖の後について行った。
「本当にこれが要石なのか? なんて大きい……」
天界の端に降り立つと、妹紅は改めて嘆息の声を上げた。
空に浮かぶ、あまりにも巨大な要石――それが天界の正体であるのだと道中で衣玖は説明し、妹紅自身もその眼で全容を確かめてもいた。それは注連縄こそ巻かれてはいなかったが、たしかに妹紅の知る要石の形に非常に近いものだった。
ただ、余りにも大きく実物を見てもいまだに信じられないという気持ちがある。妹紅にとって要石とはどちらかというと地面に埋まった小さな石といったイメージしかないのだが、しかし彼女の降り立ったそれはもうほとんど島と表現しても差支えがないほどに巨大なのである。
「およ、要石をご存知で?」
「ん? ああ、私の家――と言ってももう私と何の関係もないんだが――、その氏神様とやらを祀った神社にも要石が刺さっていてね……常陸国の方だったはずだが。鹿島様というんだ」
「知らないですねえ」
「日本の国号が出来る前の話だからなあ……もう神社自体無くなっているかもしれない。長く生きたけど、東国近域にはあまり寄り付かないようにしていたからわからんが」
701年の大宝律令を境にしてこの国は律令制へと移行してゆく形となるが、日本という国号が生まれたのはこの頃であったとされている。そして妹紅が今の生を歩むこととなった一連の出来事が起きたのもその時代である。
「日本……ああ、そういえばこの国はそんな名前でしたね」
衣玖が思い出したように呟く。幻想郷に住んでいれば、どうしても国という概念は希薄になってくるものだ。
「まあそれはいいとして……それにしても綺麗なところね」
天界の風景を眺めながら妹紅はため息を漏らす。
要石の形は遠目に見れば、ということなのであって実際に降り立ってみると、雲をまとった岩山が槍のようにそびえている。土や植物は総じて少なく、山水画の世界をそのまま風景へと再び落とし込んだような景観ではあるが、しかし広がる空はどこまでも、突き抜けるように青い。
空気は澄み切って清浄であり、またあの妖怪の山すらが下方に見えるほど高さがあるから陽光が地上よりも眩く感じられる。下界は雨なのだろうが、天界は晴れ渡っていた。
「静かだな」
喧騒とは無縁のような――いや、そもそも生き物の気配すらが希薄な場所である。
綺麗な場所だと感じるのは生き物が少ないからなのかもしれない。だから――その情景はたしかに美しくはあるのだけど、どことなく欠落感めいたものも同時に感じてしまう。それは妹紅が地上に住む者だからなのだろう。
妹紅の記憶が確かならば、天界はその大半が冥界の上空に位置しているのだそうだから、ひょっとしたらそれも関係しているのかもしれない。そうでなければ大地と見紛うようなこんな巨大な物体が浮遊していながら幻想郷の大地に影一つないのはおかしいというものだ。
「ところで衣玖さんとやら。貴女たしか警備中だって言ったわね?」
「ええ。ですから早く戻らなければなりません」
歩くより泳ぐ方が楽なのか、衣玖は天界に足を着くことなくふよふよと漂っている。
現在衣玖をはじめとする雲中の者は、龍の領域とやらに不逞の輩が入り込まぬよう見張っている最中なのだそうだ。
「龍宮ねえ……」
海のような空を眺めながら妹紅は呟く。
「龍宮が何か?」
「いやね、『海人』という能楽を知らないか? 妖怪は興味はないか」
ちょっとした理由から妹紅は能の類は嫌いではない。
「知りませんねえ」
「私の兄君さまが――もう死んじゃったけど――登場する曲でね、まあそこに龍宮の話も出て来るのさ。といっても海の方のだが」
能の主役(シテ)が演じる役回りは、そのほとんどが亡霊だの神仙だのといった、死者の世界の側に属する存在である。生者が演じられることもあるが、比率としては少なく、曲の大半は死者の世界に属する者の語りに生者役の演じ手(ワキ)が耳を傾けるという構図を取っている。シテがそうした幽玄の存在を演じる場合を夢幻能と呼び、生者を演じる場合を現在能という。
その夢幻能から漂う『死』の情感とでも言うべきものに妹紅は惹かれてしまうのだ(幻想郷にあっては能を見る機会などは皆無だが)。
妹紅には瞬間的な体験としての死はあっても、継続的な経験としての死は存在しない。それは普通の人間も同様なのだが、妹紅の場合はその死への無知とでもいうべき状態が永遠に続くのである。
そうすると、自分でも気が付かないうちに何かが『ずれて』しまうのではないかという漠とした不安が芽生えて来る。
人がどう言うかは知らないが、妹紅は人間を止めたつもりはさらさらない。ただ死ななくなっただけであり、だからこそ『普通の死生観』というものを捨てたくはなかった。それを学習して、定着させておきたいから能に引き寄せられたのだろうと妹紅は考えている。不老不死であるが故の性である。
ちなみに『海人』ならばワキは妹紅の兄、藤原房前であり、シテはその亡き母である名も知れぬ讃岐の海女である。その亡き母の房前への想いが曲の大きな柱となっている。もちろん史実における兄の母はたしか蘇我氏から嫁いできた人だったはずだから『海人』の物語は後世の創作ではあるのだが、人は実際に起きた出来事にばかり心惹かれるというわけでなく、多くのありもしないことに思いを馳せて歴史を紡いできたのだから、史実と違えているからといって曲の価値だの魅力だのが下がるなどといったことはない。
そんなことを天界の地を歩きながら妹紅はつらつら語ったのだが、衣玖はいまいち興味がないようだった。当然と言えば当然である。
「うん、まあ妖怪にするような話ではなかったわね」
「私はもう帰ってもいいでしょうか?」
「露骨に興味なさそうだな」
その妹紅の小言めいた一言もまったく無視して、衣玖は雲海の彼方を見つめている。
「何だろう……何かがおかしい」
緋色の羽衣が尾を引くように天界の風になびく。
「どうした?」
「雲の流れが歪だわ。こんな動きがあるはずはない」
「雲の流れ? なんだい、それは?」
「地上にいる何者かが雲に干渉している。雲を――空から大地へ降ろそうとしている」
「意味が分からん」
「害意は無いようですが――それにしたって、一体何のために?」
いけませんね、と言うと衣玖は泳ぐ向きを変え来た道を引き返し始めた。妹紅は慌ててその羽衣をむんずと引っ掴む。
「ちょい待ち」
「は、離してください。大事があっては困ってしまう~」
「天つ風は吹いている。忙しいのは分かるが私はここの地理を知らないのよ。投げ出されても困るんだってば」
「よよよ、羽衣を奪われると私たちはその人の元に嫁がなければならないという決まりが――」
「な、何の話だ!」
「……私のこと、娶って下さいます?」
「いやいや、そんな切なそうな目をされても困るってば。というか展開がおかしい」
「まあ、冗談はさておき――」
「冗談かい」
「案内でしたら『あちらの方』にお願いしてみてはいかがでしょうか」
そう言った衣玖の視点は、方向こそ妹紅の方を向いてはいるが、焦点はその背後に合わせられているようで――
――あちらの?
背後を振り向く。
しゃん、という錫杖の音が聞こえた。
その音色と、目に飛び込んできた一つの姿が、妹紅の時間を乱す。何だかひどく時間がゆっくりと流れていくような、そんな感覚に囚われたのだ。
「そうした話もそちらの方でしたらお詳しいかも知れませんし」
そう言って衣玖は去って行くが、その言葉はすでに妹紅の耳に届いてはいなかった。
白き綿津見の狭間に伸びた天道を、一人の僧形の男が歩いてくる。
白雲の風景からは隔絶した墨染の緇衣。それとは逆に辺りの岩の色に似た地味な灰色の袈裟。
歩く姿は静々として、歪みがない。錫杖すらがほとんど音を発さず、だからこの距離まで妹紅もその気配に気が付かなかったのである。
「あんたは……」
絶句する。
妹紅はこの僧衣の男性のことを鮮明に覚えている。この男性の生前を妹紅は知っているのだ。
千年の昔に出会い別れた、忘れようにも忘れ得ぬ人物――
「お久しゅうございます、妹紅殿」
黒衣の雲水と、真っ白な髪をした蓬莱人――天の列石とたゆたう雲とを背景にして二人は対峙する。
そして僧侶は軽く礼をし、大分雰囲気が柔らかくなりましたな、と続けた。
「貴方は――生きていた頃より幾分か若く見えるよ」
そう返す妹紅の胸の内には、旧懐の情と、そしてあまり思い出したくはない苦い記憶とが同時に去来していた。
舞散る季節はずれの雪――
辺りを満たした紫の霧――
そして色の無い真っ白な桜と、それとは反対に真っ赤に染まった一人の少女――
記憶は妹紅の内にて断片的な映像となり、そして妹紅はそれをすぐさま打ち払う。
昔のことなど今は関係は無い。過去に囚われるべき時ではない。そういうことはあの竹林のあばら家で、浅い眠りに浸りながらすればいい。
だから、正にも負にも傾かない心持ちで妹紅は僧侶を見据える。
「久しぶりね……西行寺」
想起された記憶は頑なに仕舞い込み、その生前の名を妹紅は静かに呼んだ。
◇◆◇
――――三途の川
幻想郷から見るとこの川は地続きであるように見えるのだが、その実やはり厳然たる境目が水と河原の間には存在しているようで、そこより先は薄暗く昼も夜も無いし、流れているはずの川のせせらぎも一切聞こえることはない。
渡った先は彼岸ということになるのだが、川の上には常に妖しい霧が立ちこめていて、此岸からは決して彼方の様相はうかがい知れない。
紅魔館を後にした古明地こいしは、しばし空を飛んで、人気どころか生き物の気配すらまるでないこの川原へとたどり着いていた。
ここに至るまでに本格的に天気が崩れ、その身体は濡れていたが、やはり彼岸が近いからだろうか、不思議とこの場所に雨は降ってはこないのだった。
こいしの隣では奇妙なことに井戸桶がふよふよと漂っている。
その中に腰を掛けて納まっているのは、白い着物を身に付けた小柄な少女である。内気そうな表情でこいしの方を見上げている。髪は雨中の苔のような濃い緑色をしていて、それがまとった襦袢や素肌の白さとは対照的なものとなっている。
「ふふふ、キスメちゃん。二つばかり問題を出すよー?」
悪戯っぽく笑うこいしに対し、キスメと呼ばれた小さな少女はおずおずとした視線を寄せる。
「それでは第一問」
若干音の外れた自前の効果音を発しつつこいしは言う。
「ヒトを壊しても、鉱物を壊しても、植物を壊しても――同じ形をした気質の塊が浮かび上がってくる。これは何でだろうね?」
第二問、とこいしは同じ効果音を当てる。
「私たち妖怪は、どうして人の心に影響を受けるのか。一体どういう経緯でもって、人々の意識の在り様が妖怪や神様たちの存在に影響を及ぼしているのか」
わからないよ、とでも言いたげな顔でキスメはこいしの方を見上げる。
その頭をこいしはよしよしといってなでると、これは宿題ねと告げた。
そして三途の川面を見ながら、こいしは少し真剣な面持ちを見せる。次に彼女は紅魔館があるであろう方角を振り向き、帽子のつばをすっと直した。
「潜るのかい、お嬢さん?」
突然威勢のいい感じのする声がこいしにかけられた。
その方角に向ってこいしは手を振るう。すると薔薇の形にも似た青色の爆発がいくつも巻き起こり、三途の川原にクレーターのような穴が複数出来上がった。
爆風でこいしの髪がふわりとする。
「おいおい、いきなり何をする」
爆発が起きたのとはまるで異なる方向から再び声がかけられる。
「ただの条件反射だよ。お姉さんは誰なのかな?」
小首をかしげこいしは問う。キスメは現れた人物を警戒するようにして、桶の中から半分だけ顔を出して状況をうかがっている。
面倒くさそうな仕草で頭の後ろで手を組んだ一人の少女。
三途の川原の大石に腰をかけ、手元で古銭を弄んでいる。
赤い髪は左右で二つの房を成し、手には歪な形で湾曲した大鎌を携えている。こいしに比べかなり背が高い。
「類心的領域への深深度潜行……ふん、あたいは絶対にご免だわな。無事に帰ってくる自信がない」
「死神さんかな、その得物は」
「そういうこと。小野塚小町ってんだ」
「ああ、前にヤマさんが愚痴っていたな。まるで仕事をしないって。うちのペットを見習って粉骨砕身するといいよ?」
「そのうちの上司があんたら姉妹のことを気にかけていてね。さとりサンとやらはすでにこの下だろう? 下という表現が有効かどうかは知らんが」
三途の川を指しながら小町は言った。
「で、あんたも潜るのかい?」
「潜るよ。お姉ちゃんならどこからでも『自分経由で』潜れるみたいだけれど、あいにく私はそれができない。ここからダイレクトで行く」
「そうかい。ま、可能な限りあんたの肉体は守護しておいてやろう」
「おりょ? それは普通に助かるわ。ありがとう、お姉さん」
「ただしあくまであたいのボランティアだ。一仕事入りそうならその時は空けるぞ? まあそっちの嬢ちゃんも地下の出だから大丈夫だろう。そもそもここはあまりヒトが寄り付かん」
小町が指をさすと、キスメはすっと頭を桶の中へと引っ込めてしまった。
「キスメちゃん、危なくなったら何かしら分かるようなサインは出すからさ、その時は頭に一発お願いね」
そう言うとこいしは適当な大きさの石に向かって寄りかかる。
その首に小町の歪な鎌が添えられた。キスメが焦ったようにして跳ねる。
「あー、安心しろ。泣く泣く首をぞかいてんげる、とかではない」
「切り離し、手伝ってくれるの?」
「あたいは船頭だからな、お迎え組のようにはいかんかもしれないぞ」
「構わない。ヤっちゃって」
そうかい、と一言いうと、こまちはこいしの頭を鎌の刃に向かってゆっくりと押し当てた。
そして息を呑むキスメの目の前で、小町は鎌を引く。
次の瞬間には、こいしの肉体は石にもたれかかるようにしてがくりと崩れ、そしてその前にはその肉体と同じ姿をした何かが立っていた。
「生霊――とか人間ならいうのかねえ? ま、気をつけてな」
そっけない態度で小町は言い、キスメはぴょんぴょんと跳ねる。跳ね方の違いでおおよその感情は分かる。この場合は小町と同じことを伝えようとしている。
その二人と横たわる自分の魄とを背後にし、こいしは三途の川に向き直った。
霧の浮かぶ魂の川。
そこに向かって無意識の少女はゆっくり歩を進める。
「二階層下……サイコイドレベル」
水際に至ると、こいしは深呼吸を一つした
身体を取り巻く管を指で直し、帽子を落とさないよう押さえ込む。
「それじゃあ、ちゃちゃっと蟲退治よっ」
霧の彼方に向けて言い放ち、覚の少女は魂を溶かすと言われる三途の川に思い切りよく跳び込んでいった。
◇◆◇
――ここは?
目を覚ました文の眼に数々の本が散りばめられた壁面と、無数に立ち並ぶ本棚とが飛び込んでくる。威圧感すら感じる書物の城塞である。
そして文自身は身体を鎖で縛られ、上等な椅子に腰掛けさせられている。
対面には黒い礼服に身を包んだ小さな少女が座っていた。
「お目覚めかしら、天狗のお姉さん」
その少女が朦朧とする文に話しかけた。服装は大人びているが、声はまったく子どものそれである。かん高く、耳をくすぐる感じがする。
そして少しずつ文は記憶を手繰る。たしか自分は森であの鎖を原に受けて――
「お姉さんレベルの妖となると肉体への攻撃で御せるとは思えなくてね、多少えげつないとは思ったのだけれど、心の方を突かせてもらった――と部下が言っていた」
それで完全に文は覚醒した。そしてあのときの空寒い感覚を思い出し、少し身震いする。
少女の隣にはあのとき倒れた二人の仲間が控えていた。
「私はフランドール。フランドール・スカーレットよ。やむを得なかったとは言え、部下が犯した非礼の数々――お詫び致しますわ」
座ったままこちらをまっすぐに見据え、少女はそう言った。流暢な日本語である。
「ま、警戒するなとは言わないけれど、ここからは一部の特殊なヒトを除いては出られないからそのつもりで」
「なぜ――私を解放したの?」
警戒は解かずに文はたずねる。
あの時は自分も他の妖怪たちと同じく敵の傀儡となることを覚悟したのだが――
「んー……この先起きる戦いは私たちにとっては単なる私闘であって、それ自体は是も非もないのだけれど――居場所が『また』なくなるってのも困るからねえ」
「何を言っているのか分かりませんね」
「然るべき戦記でも残そうかなって思っただけ。結論から先に言うと、貴女に頼みたいのは目の役回りだよ。適任でしょう?」
フランドールなる少女は机の上に置いてあった文の新聞を手にとった。おそらくは当代の御阿礼の子が現れたときの号だろう。写真で分かる。
「貴女の新聞はかなり良かった。まあ新聞としては正直まだまだだけれど、でも他の天狗の新聞に比べれば――誇張表現が多いだの、主観が入り過ぎだの云々といった難点こそあれ――、一応はしっかりと事実に根ざした紙面づくりをしている。だから、うってつけかと思ってね。人にも妖怪にもある程度訴えかけるものがあるはずだから」
こちらの出方を伺うような視線を向けつつ、フランドールは言った。
そして椅子にふんぞり返ると片手をひらひらさせる妙な仕草を見せた。
「それにしても貴女が小悪魔に後れをとったってのが信じられないの。ずいぶんと鋭い目をしているのに。私だって『壊さずに』止めるのは難しいだろうし……」
おかしいなあとフランドールは首を傾げた。
――壊さずに?
「別の協力者が言っていたけれど――貴女はやっぱりなまっていたのかしら? 油断大敵だよ、お姉さん。飼犬にだって身を守る牙はあるべきなの」
無邪気な笑顔で痛いところをフランドールは突いてきた。
そうなのだ。今なら文自身はっきりと分かる。
射命丸文は、確実に大結界ができる以前に比して弱体化してしまっていた。
平和故のことである。
それは意識を失う前の森での悶着にも現れてはいたのだが、その予兆とでも言うべき出来事はこの騒ぎが起きる少し前に既に起きていた。
――あれも名前のない子でしたか……
つい最近外から流れ着いたとされる妖精――その彼女を取材したとき文は警戒心を抱いた彼女から側面を取られていた。短剣を突き付けられたのだ。
その時は相手の少女こそがこちらの約束事を知らない新参者だったから、と思って大して省みることもしなかったのだが――思えば外から入ってくる輩がこちら側のルールをわきまえて、それにきちんと従ってくれるなどという保証はどこにもなかったのだ。
「体裁や形態はなんでもいい。貴女には記録を取ってほしいの。悪い話じゃあないと思うよ? 敵地に単身乗り込んだジャーナリスト――格好いいじゃない。独占密着取材、数字も取れる。貴女は単に記録をまとめ、それを新聞でも手記でもなんでもいいから発刊してくれれば、こちらは願ったりかなったり」
そしてフランドールはすっと右手を地面に水平に引き上げると、何かを握りつぶすような仕草を見せた。その刹那、火花のような光が起きて、文の身を縛っていた鎖はいくつにも寸断された。
「何をした?」
分断された個所はまるで万力を込めて捻じ切ったかのように歪んでいた。切断しただとか、焼き切っただとかといった類の壊れ方ではない。
「えへへ、秘密。まあ、あれだね」
席を立つとフランドールは螺旋階段に向かって歩き出した。
思っていた以上にその背は小さい。ほんの子どもである。
「お姉さんが協力してくれるかどうかは知らないけれど、もし話に乗ってくれるなら、ここで私と貴女とは出会わなかったってことにしようか。その方が情報の価値が上がる。どうせ私はあまり出歩かないし……うん、そうだ。貴女は偶然にも吸血鬼の支配からは免れ、そこでジャーナリストとしての天命を果たすべく潜入取材をしていた、という設定で行こう」
楽しそうに語るその姿は、どうも文が抱いている吸血鬼像との間にギャップがある。ませた子ども――まさにそういう感じだ。
「そういうことなので、貴女と私はここでは出会わなかったということでよろしくね」
そう言うとフランドールは螺旋階段を上りながら手招きをした。
操られた天狗の二人がまず進み、その後ろから文も警戒心を抱きつつも付いて行く。
文の内にはいったん操り人形になりかけた身であるが故の開き直りと、文屋として先ほどのフランドールの提案に惹かれる思いとが混在している。
螺旋階段を上り、本棚と壁が同化した奇妙な壁に穿たれた扉をあけると、そこは赤色の廊下になっていた。その色彩の思い切りの良さは一種の子どもっぽさを匂わせるものとなっている。窓の類はまったくない。聞けばここは地下なのだそうだ。
小さな吸血鬼と、人形のようになってしまった同僚とに従って文は廊下を歩いていく。
文には余りなじみのない西洋の意匠が続く。本に見る古城の内部のようである。ともかく広く、建物のスケールがまるで掴めない。
その廊下の途中、フランドールは文以外の二人の天狗に何かの文を渡し、そして二人を下がらせた。
「とりあえずあの二人は山とやらに返すわ。メッセンジャーも兼ねてね」
しばらく進み、また螺旋状の階段を一つ上る。
こうした螺旋階段というのは、前にあるものが中心の柱の陰になってほとんど見えないから、どことなく落ち着かないものがある。
待ち伏せでもされていたら対応できるだろうかと文はつらつら考えていた。
「外に出るのは危険だから止した方がいいけれど、それ以外の場所については姉様の寝室以外は自由に動き回ってくれて構わないよ」
空間が螺旋を描いているから、音が妙な按配で反響していて、それがどうにも耳慣れない。
「私たちを襲うってのも、選択肢としては当然あり。お姉さんはそんな馬鹿な選択はしないと思うけどね」
そして階段を上りきると、再び赤い廊下が現れる。
そこを左手に向かって進む途中でフランドールは立ち止まった。
「どうしたの?」
「ん? ああ、ここがさっき言ったお姉様のお部屋なの。ちょっと待っていて下さいな」
仰々しい細工の施された両開きの扉をフランドールが押し開く。ぎいという古びた音がした、
「お姉様」
そう言ってフランドールは部屋の中へと入っていく。文も、特にそうしなければならない理由はなかったのだが、持ち前の好奇心と状況把握に役立つかもしれないという判断から後を追う。
フランドールが何も言わないところを見ると、同伴であれば入室しても良いといったところなのだろうかと文は思う。
そうしたことを考えられる程度には『文々。新聞』記者としての文は復活している。後の取材に関するルールをそれとなく確認しているのだ。
踏み入った部屋の内部は薄暗く、照明は入口付近の一つをのぞいて灯っていないので内部の詳しい様相は知れない。ただ天蓋の付いた大きなベッドだけは見て取れた。
そのベッドの上に薄い肌着に身をくるんで眠る少女がいた。
フランドールの礼服とは対照的に、その少女のまとう白い衣は仄暗い空間に儚く映えている。
「お姉様」
屈みこみ、眠る少女の手をそっと取るとフランドールは呟いた。
フランドールの姉――
つまり、この少女こそがこの騒ぎの元凶ということなのだろうが――
――これが?
この目の前の、寄る辺のない感じのする少女が――あの満月の晩の吸血鬼なのだろうか?
文にはそれがにわかには信じられない。
華奢な肩は、少し強めに攻めてしまえば壊れてしまいそうだ。細く白い首は、両手を使わなくたって縊ることが出来るに違いない。
小さな小さな女の子――魘されるかのように彼女はうわ言を漏らす。
「離さないから……」
その手は固く握り締められていて、おおよそ安らかな眠りというものには程遠い様相をしている。何か悪い夢を見ているのだろうか。
「絶対に……」
フランドールは祈るようにして、ただ無言のまま小さな手で小さな手を包み込んでいる。
そうするうちに、手は頑ななままではあったけれど、レミリアの表情が少しだけ和らいだように文には見えた。
手を離し、フランドールはそっと立ち上がった。
「たぶん……こいしちゃんの向かったところで姉様は戦っているんだろうな」
物憂げな表情でフランドールは呟いた。
「全てが無駄だった――そんな結末は私は嫌よ……」
「どういう意味ですか?」
「きっと――私たちの本当の敵は貴女たちなんかではないんだろうね」
「何を言っているのか分かりません。はっきり言って私も含めて、ここの連中はみんなあんたたちのことは敵視していると思うけど?」
「それはそれでいいよ。貴女たちは私たちを敵として認識してくれてちっとも構わない。というより、そうでなくては困るわ」
「困る?」
「悪役がいなければ異変は成立しない――そういうふうになっているんでしょう、住人さん」
首を傾げる文に向かって行こうかと言うと、フランドールは後ろ髪を引かれるような顔を見せつつも、姉の部屋を出ていった。
文もフランドールの言葉の意味することを考えつつ、部屋の戸を閉めてフランドールの後を追った。
◇◆◇
砂漠に一本の銀の十字架が突き立てられていた。
その根元には小さな白い花が何輪か生えていて、広漠とした砂漠の中で唯一そこだけが緑だ。小さくも、しっかりと色をもって砂の世界に抗っている。
「磔刑……ではないわね。貴女は望んで括りつけられている」
月を受ける十字架を見ながらさとりは呟く。
淡い青色の髪をした少女が十字架に括りつけられていた。
束縛するのは五本の赤い鎖だ。それが何もまとわない幼く危うい白肌を十字架へと縛り付けている。
その肌の青白さは、砂漠やその上に広がる夜空との境を揺らめかせ、ひどく不安定な印象をさとりに与えている。
「鎖が貴女を手放さないのか、貴女が鎖を手放さないのか……」
両方ですね、とさとりは静かに呟いた。
天から伸びる鎖は、マリオネットの四肢に括りつけられた糸の様なものだ。きっと、その糸を解いた先にあるのは晴れ晴れとした自由などではなくて、ただの空寒い劇場の床でしかないのだろう。
瞳は固く閉ざされている。
そこに僅かばかりに華を添える長いまつ毛。照らす陰光をそのまま取り込んで暗く輝く細い髪。
肢体は砂漠に比して余りに小さい。身体に刻まれているのは張り詰めた鎖の痕だ。
「う……」
その時苦しそうに少女は身をよじらせた。鎖が身体を絞め上げているのだろうか。
だが苦悶の表情はすぐさま消える。奥歯をきつく噛み締めて耐えているのだ。
「痛みがあるなら――まだ大丈夫」
自分は自分――
自分はここにいる――
普通であればこれといった思考も必要とせず心に抱いていられるであろうそうした感覚が、しかしこの場所ではひどく曖昧になる。この場所はあらゆる物事の境目が、極めて流動的になっているのだ。
気を抜けば溶ける。
この場所そのものに取り込まれて、消える。
ここはそういう場所だ。
そこにあって痛みだとか苦しみだとかといった、乱暴に自分をこの場所へとつなぎ止めてくれる感情や感覚は実に重要だ。決して投げ出してはいけないものなのだ。
痛みから逃げ、痛みを忘れて、それでどこかを目指しても、そこには何も無い。自分すらもいない。
ここはそういう領域だ。
――魅力的ではあるんだけどね、その選択肢は
痛くて、痛くて、もう後のことが考えられなくて、自分を取り巻く周囲のすべてから遁走したくなる。
これまでの道程も来歴も、何もかもを白紙にして、世界の全てに背を向けてしまいたくなる。
そんなときがヒトには訪れ得るものであるとさとりは知っている。覚だからだ。
そしてさとりは気が付く。
「カード、かしら? 一体何の――」
十字架の下の砂地に何か紙きれの様なものが埋まっているのだ。
さとりがそれが何であるのかを確かめるべく身をかがめ、紙切れを手に取ろうとしたその時だった。
――『見付けたわよ』
細く尖ったナイフのような、鋭さと危うさとが入り混じった声――それがさとりに向け発される。
それは十字架の少女が発したものではない。
いつの間にかどす黒い色をした靄のような何かがさとりの背後に立ち込めていて、声はその内から響いているのだった。
「……『長』ですか」
見付かってしまったか、とさとりは小さく舌打ちをする。
「巻き込むわけにはいかないわね……」
呟くとさとりは十字架の方へと向けて手をかざす。
すると十字架も鎖も少女も花も、全て消え失せる。それは正確に表現するのなら、現れた黒い靄とさとり自身とを十字架の元から遠ざけたということであって、十字架自体の場所が移動したわけではない。平素のさとりはそのようにものを遠くへ転送したりするような類の能力は有していないのだが、この場所であれば話は別である。
この場所は思い一つで何かが変わる――そういう場所だ。強く念ずれば、大概のことは起こり得る場所なのだ。
――『貴女、邪魔だわ』
尖鋭な声がさとりに向かって投げかけられる。
さとりがこうしてこの場所にいるのは、実のところ先ほどの十字架の少女とまみえるためではなくて、この靄の向こう側にいる存在をこの場所へと縛り付けておくためだった。
直接対峙するのは面倒だから、これまでそれとなく距離を置きつつ抑止してきたのだが、ふと歩みを止めてしまったことで追い付かれてしまったのだ。
「さすがにもう鬼ごっこは終わりでしょうかね」
――『そうよ、もう逃がさない。ここで貴女を無力化して、私たちは暗き地底より這い出でる。陽の下へと帰るのよ』
「地上に貴方たちを受け容れるほどのキャパシティがあるとは思えませんが」
漆黒の靄――その向こう側にいる存在は、十字架に縛りつけられた吸血鬼と非常に似通った感情を抱いている。
――悲しみ
ただ、たしかにそれは似通ってはいるけれど、前提となるものがまるで異なっている。
吸血鬼が抱くのは悲しみへの予感だ。それは失って『しまう』ことへの恐怖であり、未来において予測される悲しみのことであり、そしてまたその未来へと至るであろう道としての『今』に対し抱く不安感だ。
だがさとりが対峙するその強固な思念の塊は、そこから感じる色合いこそ似てはいるものの、根の部分では吸血鬼の抱くそれと性質を異にしている。
レミリア・スカーレットはまだ全てを失ったわけではない。まだ、大切なものを守り、取り戻せる場所に彼女は立っている。だからこうして鎖に縛られながら踏み止まっているのだ。
――でも
「貴女の大切なものはもう戻っては来ない……貴女の抱くそれは悲憤ですか」
失って『しまった』ことに対する、悲しみと怒り。それもこの領域にまで影響を及ぼすような、苛烈な負の情念。
炎のように逆巻き、焦がし、そして劇薬のように心の芯を糜爛させていくそれは、向き合う者の心までをも軽く呑み込んでしまいそうな暗さを持っている。
すでに起こってしまったこと――
過去の出来事――
そのことに対する忌むべき感情としてこの場所に堆積している想念――
「でも、同時に今この瞬間にもそれは起こり続けている。今も、そしてこれから先もずっと、貴女はその悲しみを抱え続けていくことになる」
――『うるさい!』
黒い靄の中から慟哭するような少女の声が聞こえる。
この声音はか細く、どことなく儚くて、声の主が本来は繊細で穏やかな気性を持っていることが伝わってくるけれど、今は激情に侵され強い憎しみの念を八方に迸らせている。
そして向かい合うさとりの肩口の辺りに何かの力が作用して、そこから鮮血が迸った。
それはあっという間に霧のように薄れ散っていく。
微塵も表情を変えることなく彼女は靄の向こうに語りかける。
「けれど――長でもあり王でもある者よ。貴女は地を往く全ての者に箒で大地を掃きながら歩めと命ずるのですか? そんなことは出来やしない。多すぎる命の、そのすべてに手を差し伸べることなど不可能です。世界とは、その多様性への対価として内に必然的かつ恒常的に犠牲を孕むもの。そしてたしかに貴方たちは誰からも顧みられることもなく死に行く存在ではあります。貴方たちの命とヒトの命との間に差などはないけれど、でも貴方たちの死は鑑みられることはない。貴方たちの命は不相応に軽く見積もられている。見縊られている。誰も彼も貴方たちの死を悼むことすらしない」
長たる貴女を除いては――と彼女は憐憫と敬意とが入り混じった声で続ける。
「ですが――だからといって、怒りに心を任せて周りを傷つけて良いなどということにはならないわよ。どのような深い悲しみも、忘れられないくらいに激しい怒りも――認めたくない過去も、嵐のような今も、怯え縮こまりたくなる不明の未来も、みな暴力の理由になどなりはしない。そんなこと貴女だって分かっているはずです。なぜ今になってそのように慟哭するのですか」
そして彼女は鎖に繋がれた吸血鬼の姿を思い浮かべる。
「彼女のせいか……でもね、貴女がそうして地の裏と表とに戦いを挑むのであれば私はそれを阻むまで。貴女の意思がここに留まり続けている限りにおいて、古きモノたちは動くことはないでしょうから」
黒い靄の向こうから声が聞こえる。それはどことなく怯え惑う幼い少女の声のようで、放つ激情とは不釣り合いなものだとさとりは感じる。
――『嫌われ者の貴女なら、世界が抱える残酷さは理解できるでしょう? 貴女は地下でも忌み嫌われて後ろ指をさされているじゃない』
靄の色をそのまま声へと落とし込んだような暗い響きが砂漠の世界に吸い込まれていく。
「さっき言ったでしょう。どんな苦しみや痛みも、それと同じものを誰かに与えるための大義名分にはなり得ません」
――『日々、どれだけの仲間が理不尽に死を与えられ、そしてそれを潔く受け入れること強いられているか、貴女は知ってる? 私はね――腹が立って腹が立ってしょうがないの。その死を知りもせず、悼むこともせず、挙句の果てに今は平和な時代だこの地は楽園だなんて能天気に語る奴らがね、憎くて憎くてしょうがない。貴女は言ったわね、世界は必然的に犠牲を孕んでいるのだと。それは正しいことであり、抗い得ぬ真実よ。でもね……そのことを余りに誰もが思い出さないでいる。都合よく記憶の埒外に追いやって忘れてしまっている。そして――私たちの骸の上に茣蓙を敷いて醜く酔っ払っているんだよ。死骸の上に酒と反吐とをばらまいて、享楽的な言葉を飛び交わせているのさ。死への悼みも何もあったものじゃない。そんなの……そんなのはさあ……』
もう我慢できない、という声とともに靄はその黒さを増して漆黒へと変じる。
負の情念を帯びた言葉というのは次々に結び付いて連鎖していくものなのだ。怒りの言葉はさらなる怒りへの呼び水となる。傷を負った心を吐露することがそのままその傷を抉るように押し広げてしまうことだってある。
「言わんとすることは分かりますよ。酩酊した心なんて、死ぬほど無秩序で、そのくせその無秩序な状態を回復しようという思考すらが抜け落ちていて――馬鹿馬鹿しくって見ていられない。貴女がいかに仲間の命を尊ぶよう訴えかけてみたところで――きっと嘲られるだけでしょうね。説得などは到底無理な話でしょう」
――『そうよ。だから、私は思い知らせてやろうと思ったのさ。この世界の裏側で死んでいく私の仲間たちのこと、忌み嫌われて空を羽ばたくことすら許されなかった仲間たちのこと、みんなみんな思い出させてやるんだ。世界の孕む悲しみと犠牲を、のうのうと暮らす阿呆どもに痛感させてやりたいのさ』
「それは――貴女自身に対しても、ですか?」
――『ええ。仕方がないんだ当然のことなんだと賢しらぶって日々の犠牲を受け入れている『表の私』――私はそいつのことが許せない。私は私が、大嫌いよ』
その言葉が鍵となるかのようにして、どす黒い靄は急速に収斂し、凝り、やがて一人の少女の形を成す。
その姿は小さいけれど、怒りと悲しみそのものであるかのような暗い気配を帯びて砂の世界に立っている。
向かい合うのは薄桃色の髪と儚げな青をまとう、淡彩色の少女である。
その双眸と胸元に光る第三の目は、決して臆することなく凛として、現れた少女の形を見据えている。
「貴女には貴女の理由があるというのは分かります。でもね、私たちは私たちで守るべきものがある。それを壊されるなんてごめんだわ」
――『守る? 何を守るの? 貴女だって嫌われているよ。薄気味悪い、気持ち悪い、一緒にいたくない――みんなそう思ってる。そういう下らないこと、貴女なら読めるんでしょう?』
「それがどうかした? 思いたい奴には思わせておけばよい。まったく、大半の輩が勘違いするのだけどね……この目は確かに心の奥底にある醜い思いや、目を背けたくなるくらいの厭わしい情念を私に見せてくることがある。ですが――同時にその内に宿る美しいものだって見せてくれるわ。倦み疲れて摩耗した心の中にだって、綺麗なものはある。敬い、丁重に扱うべきものがきちんとある。ただ心に埃が積もってそれが見えにくくなっているというだけのこと。私は、それらをきちんと知っている。だからこの目を私は閉ざさないし、貴女のその激情に付き合うつもりもない」
きっぱりと古明地さとりは漆黒の靄に向かって告げた。
対する少女は何も言葉は返さず、再び黒い靄へと戻ったかと思うと、すっと薄れてその姿を消した。
退散したということではない。
拡散したのだ。
一瞬の静寂を差し挟み、さとりの前方で砂が間欠泉のように舞い上がった。
そこから靄同様に黒い色をした無数の影たちが這い出してくる。
――虫……
真っ黒く巨大な、幾種もの蟲たち。
鍬形、百足、鋏虫、蟷螂、飛蝗、馬陸、甲虫――ありとあらゆる種類の蟲たちと、さらにはそれらが混じり合ったキメラのような形相をしたもの。
有機的な律動を見せる体節に、毛の生えた生々しい節足。
砂を荒々しく巻き上げ次々に這い現われてくるその蠢動の様相を、八つの月輪がグロテスクに照らし出している。
「蠱毒でもあるまいに……」
内心でその虫たちの姿に嫌悪感を催しつつもさとりはそこから目をそらすことはしない。
――これは実体を持たないモノ
第三の目を介せば分かる。
眼前の虫の群れは、先ほどの少女の情念が凝って形を成したものなのだ。ある意味では目の前の虫全てが、彼女の分身であるのだとも言える。
四方を壁のように蟲たちが覆い、水平線はもはや見えない。この生きた壁が、一体幾重に連なってさとりを取り囲んでいるのかも分からない。空にも無数の蟲が舞い、完全に包囲されている。
こうして忌まわしい蟲たちを生み出している先ほどの少女の想い――それをここに食い止めておくことに失敗したとき、今のさとりが直面しているのと同じ状況が地下、引いては地上にて生じることとなるのだ。
「一人は……さすがに辛いわね」
鋸のように幾重も突起の連なった蟷螂の鎌が空を裂く。
さとりはそれを屈みこんでかわすが、蟲は通常の動物とは重心の取り方がまるで異なる。人間であれば打撃斬撃の類を繰りだそうとすれば、円運動を基礎として身体の力を伝える必要があるが、虫にそれはない。左の鎌が外れても、すぐさま右による攻撃へと転ずることが可能だ。
屈んださとりの脳天にもう片方の鎌が振り下ろされる。
そしてさとりがすんでのところでそれをかわしたところで、砂と蟲ばかりの情景に劇的な変化が生じた。
――薔薇?
青いバラのような形をした爆発が、さとりの周囲を薙ぎ払う。それでさとりに攻撃を加えた蟷螂を含む幾体もの蟲たちが飛散した。倒れた蟲の身体はそのまま砂となって崩れて大地に帰っていく。
「夢枕に――」
無数の薄紫の光の帯――大地から伸び、天へと昇る。その過程で多くの蟲を巻き込んでいく。
「ご先祖総立ちっ!」
てんで頓珍漢な言葉とともに、天に昇った光の帯は折り返して下降し、再び大地へと注いだ。
そうして幾体もの蟲が砂と散る中で、さとりの目の前に一人の少女が降り立つ。
さとりと同じ、しかし閉ざされた第三の眼――
「こいし……」
「いやっほー、こいしちゃんだよ。お姉ちゃん」
「貴女どうやってここに?」
「三途の川からダイレクトアプローチ。どぼーんって」
こいしはさとりに向かって指を鳴らす。さとりはそれとは対照的にこいしに向って手首を返す仕草をする。
さとりの背後で青い爆発が、こいしの背後でオレンジ色の爆発がそれぞれに起きて、背後から襲い掛からんとしていた蟲たちを退けた。
そして古明地の姉妹は蟲に蹂躙されようとしている砂の世界で、背中を合わせ立った。
「こいつらを倒していけばいいの、お姉ちゃん?」
状況にはいささか不釣り合いなはしゃいだ声でこいしは姉にたずねる。
「ええ。攻撃衝動は外には出さない、心中で完結させる――基本よ」
「あいあいさ。まったく、お姉ちゃんを傷つけていいのは私だけだってのに、調子に乗ってくれちゃって」
「貴女も調子に乗り過ぎてミスしないようにね。はっきり言って、久しぶりに眼を閉じたくなったわよ。あんな黒いのは久しぶりに見たわ」
その黒の凝った異形たちが再び集い、覚の姉妹を包囲する。
姉の胸元のサードアイはひと際に大きく見開かれ、こいしはすっと帽子を押さえる。
そうして心と密なつながりを持った妖怪姉妹は、毅然とし、深淵を蠢く虫たちの群れと対峙するのだった。
◇◆◇
同種の妖獣どうしでしか感知できない救命信号というものがある。
同族からのそれを感知した橙は、黄色いビニール傘を片手にそれをたどっていた。
そうしてどこぞの背の高い森の中を進むうちに、いつの間にか幻想郷の外れ近くまで歩いて来てしまっていた。
紫や藍の言うことには、幻想郷は余りものの空間の寄せ集めなのだそうで、それが故に外の世界のどこであっても幻想郷に通路が開けてしまうことはあり、また逆に幻想郷から逸脱した場合は地理的にどの地点に至るのかは判然としないのだそうである。ことによっては外国へと飛び出てしまうこともあるらしい。
だから不用意に結界に近付いてはいけないよ、と藍からは口を酸っぱくして言われていた。ただ幻想郷育ちの橙にはそもそも自国他国といった概念は希薄だから、そう言われてもいま一つ危機感が募らないというのが本音である。
――どこだろう?
同族からの微弱な救命信号はこの辺りから発されている。どうもかなり弱っているようである。
森が少し開ける。
円状に森に囲まれた小さな草むらに――何だか無縁塚のようである――、一本だけ梅の木が植わっている。古く傷んだ枯れ木で、高さは人の身長ほどである。
枝は向かって右の方向に偏って伸びていて、左の方にはあまり枝はない。梅というのは得てしてそういう伸び方をするものである。
枯れているのだから、当然ながら花は無い。
――見つけた!
救命信号の主は梅の木の下に横たわっていた。橙はそれに近寄る。
一匹の黒猫――尾は橙同様二股になっているから、化け猫である。
その隣には一羽のカラスがぐったりとしていた。どうも黒猫の仲間であるらしい。どちらもおそらくは橙よりも高位の存在だろうが、今はぐっしょりとその身を濡らして横たわっている。
そしてその傍らには雨水のたまった手押し車と思しき代物が倒れていた。
誰のものかは知らないが――
――ちょっと使わせてもらおう
獣たちは怪我をしていて、そのせいか人化が解けてしまっていた。
橙は応急処置用の霊符をそれぞれの患部に貼付すると、車の荷台にカラスと猫を乗せる。その荷車は不思議と手に馴染むものだった。
――さて
きちんとした治療のために妖怪の山へ帰らなければならない。河童の軟膏あたりならばじきに傷も癒えるだろう。
何か厄介事がある場合、藍は決まって妖怪の山を出るなという命令を残していく。今回もそれである。あの山が幻想郷で最も強固な防衛体制を敷いているからだ。
ただこういう場合の式の束縛はあまり強くない。それは何かあった際に柔軟な対応が出来るようにとあそびを設けてあるからなのだが、ともあれ橙は同族の助けを求める声に応じてこうして山を離れてしまっているのだった。
――ごめんなさい、藍さま。すぐ帰ります。
そう心の中で詫びると、橙はその場を遠ざかろうと踵を返し、進む。
そのときだった。
――っ!
背中に冷水を浴びせられたような感覚を橙は覚えた。
気配が一つ増えている。
背後だ。背後に何かがいる。
その何かが発しているのは――
――殺気……
素早く身を反転させ、戦闘用の構えに移行する。
毛が逆巻く。
傘を投げ捨て、弱った同朋を乗せた車は邪魔にならないように持ち替える。
だがそうやって背後を振り向いた橙の目に飛び込んできたのは、予想もしなかった光景だった。
「梅が……咲いてる?」
濡れそぼった草むらの中心に生えた、一本の梅の枯れ木――そのもう花を付けることなどなかったであろう古木に、しかし薄紅色の梅の花が鮮やかに咲いているのだった。
色は儚いのに、どことなく毒気のようなものすら感じる花だ。見てはならないという故の知れない思いが去来する。
そして――
――なんだ、あれ
右傾した枯れ枝。
その乾いた枝どうしの間に、細く、黒く輝く糸が幾本も交差しながら渡されている。
――蜘蛛の巣?
その蜘蛛の巣と思しき形状をした黒糸は、中心部にて絡まり合って、艶やかな黒い房を成している。
――女のヒトだ……
黒い房は、女の長い後ろ髪だった。
先端で束ねられた膨らみのある後ろ髪に、蜘蛛の巣が繋がっている。
髪の毛が蜘蛛の巣へと変じているのか――
それとも蜘蛛の巣が髪の毛へと変じているのか――
その境目が揺らいでいる。
そしてその巣なのか髪なのか判然としない黒い繊維が、ゆらりと動く。
ぞくりとした。
獣の本能が騒ぐ。
出会ってはならないものに出会ってしまった――そう感じた。
古く、古く、そして忌まわしいモノ――
咲いたと思っていた梅の花は、その女がまとっている友禅の背の模様だ。
それがゆらりと蠢いて、花の風景が、風景ごと動く。
友禅をまとった女が、枯れ木の後ろに背を向け立っている。
そしてその次に橙が見たのは、華やかな着物の合間から飛び出す禍々しい八本の脚だった。
(続く)
よくここまでいろんなアイデアが浮かぶもんだ……
次回作も期待して待っておりますぞ。
ねむねむで仕事なのに一気に読んでしまった・・・
番外編も楽しみにしておりまする。
相変わらず設定多いですね…何も書かなくてもいいんじゃないかと個人的に思うんですよね(設定多いと読み難くなるし)
まぁ人のことは言えないんですけど。
星蓮船のキャラは出さないと約束してください…
相変わらず走りまくりで良かったです。投下時の文章量は読者さんのことを思ってくれるのは嬉しいですけどごんじりさんの納得いく量で落としてください。
では次回も楽しみにしています。
早起きはするものです
ほんと最高 ごんじりさん大好き
完結まで何年かかろうが待ち続けますよw
ところでさとりんが是非曲直庁勤務って事はさとりの同属はそこに居るんでしょうか?
それとも一人一種(二人一種?)妖怪なんでしょうか?
これほどの量の設定とそれに係わる説明が満載なのにとにかく読むことが楽しくて仕方がありません。
……衣玖さんいい味出しすぎです。魚だけに。
いやもう 最高
番外編も楽しみにしていますぜ
流石と言うべきか恐るべき文量ですね
それはさて置き早くお嬢様は起きないかな
先制攻撃仕掛けてからずっと眠ったままだからなぁ…
知的なフランちゃんはいいものだ……
もう新作が本当に心待ちですが、完結まで待ち続けますので、ご自分のペースで無理せず書かれてくださいな♪
霊夢、魔理沙、霖之助組の話も少々気になるところですね・・・
次回も楽しみにしてます!
一つだけ要望を言わせて貰えるなら、ごんじりさんの思うがままに話を作り、そして完成させてほしい、と言う事だけです。続きを楽しみにしてますね^^
ヒギィ
そのー……なんだ、書きたい要素をこの作品に全部詰め込まなくてもいいんだぞ?
しかし、色々と詰め込み過ぎているので若干冗長な気がします。
正直、読むのが苦痛な箇所が複数……
一つだけ。
> 見の蓋もなく言うなら
身も蓋もなく、では?
後から後から足したい要素と足りない要素とがぽんぽん出てきて結果間延びぎみです。ぐだぐだですとも。
ここと次の番外編を通過すれば元の流れに戻れるかと思うのですが、いかんせん人喰いは難しいです。どの程度行われているのかからして確証になるものが全然ない……実はゼロだったりして。とりあえずこの話はある程度ぱくぱくされているという前提で行かせていただきます。なので次回はひたすら「で、人間喰われちまってるわけだが巫女さんはどうすんの? しぬの?」みたいな内容になるかと思います。誰得。
>>52の方
ご指摘ありがとうございます。修正しました。
冗長ですよね……一応出した情報は何らかの形では使うことになるかとは思います。
ただ正直に言うと切り裂きジャック周りの話は完全に死に設定になりました。当初は時をかける早苗さん in 大英帝国とかわけの分からん展開になるはずだったのですが、本州に引きこもりっきりのごんじりに海外の話(しかも昔)は無理なのであった。
>>46の方
やめて、第三の眼をこっちに向けないで。
いや、まあ死ぬことはないと思いますが……むしゃむしゃ
>>49の方
本当はあれなんて読むんでしょうかね? とりあえずよく見る『さつき』で行かせていただきます。
ゆうかりんを師匠と呼ぶ辺りメアリー臭が鼻をつきますが、オリキャラじゃないと出来ないこと――正確に言うとお馴染みのキャラ達にはやらせたくないこと――というのもありまして、彼女はたぶんそのためのポジになりそうです。実は番外編の主役。名前だけのオリキャラが主役って、大丈夫なのか……
あなたの言っていることの半分以上は分からないけど、それでも面白い。
よくこんなもん書けんな!(←褒め言葉ッス)
次も楽しみにしてます。
相も変わらず素晴らしい世界観に圧倒されます。
番外編も楽しみにしています!
ずっと待ってます
命尽き果てるまで待ち続けます・・・!
圧倒的な世界観や細かく練られた設定には脱帽の一言です・・・
特に、物語の根幹に関わってくるような重要人物だけでなく、脇役的な人物(言い方がアレですが…)にもしっかりと見せ場を作り、それぞれの意志や心象をしっかり描いている点が大好きです!
多くの意思や行動が絡み合い、ぶつかり合い、物語が収束していく・・・そんなお話に弱いんですよ自分(イミフなこと言ってすみません;)
続き楽しみにしています
どれだけかかっても絶対に読ませて頂きますので、どうかじっくり考え、自分のペースで書き上げていってくださいね~
追記:いや~、いくつになっても厨二展開や設定には燃えますね~
これからもどんどんお願いしますw
長文失礼しました
皆カッコいい!
こちらの読解力不足かもしれませんが、後々になるにつれオリジナル要素が増えてきて場景がうまく想像できなくなる所が多々ありました。
細かく設定をなされているのは良い所なのですが、そのせいで表現されていない描写があったりしたら勿体無いなと思いますね。
待ってるよ……ごんじりさん……もう1話から9話まで20回くらい読み返しちゃったよ……
自分は定期的にここをチェックしてるので、この場で定期的に報告してくだされば十分ですが・・・
ブログがあれば今までの作品をまとめたりできるのであってもいいかもですね
そろそろ左腕さえもが最終奥義放ったあとのネテロみたいになってきた 早急にごんじり分の供給が必要である
と近日中に更新が来ると見た!
今回も楽しませていただきました。
あとは番外編で追いつける!