何か、違和感がある。鈴仙・優曇華院・イナバは、いつものように月の兎との交信を終えると、一度、小さく首を傾げた。
何がおかしいのか、自分ですらよく分からないのだが……その大きく特徴的な耳は、頭脳では理解できないことですら、敏感に捉えられるだけの能力を有していたのだ。
「雑音……なのかなあ……」
例えば、誰かに電話をかけたとしよう。相手がもしも栄えている遊園地の行列に並んでいたとしたら、相手の周りには、様々な音声が満ち溢れていることだろう。現代の科学技術の進化はめざましいから、ノイズを断ち切って相手の通話音声だけを伝えるという荒業を、小さな携帯用の端末でありながらいとも容易くやってのけることができるのだが、鈴仙・優曇華院・イナバの耳には、そんな便利機能はなかった。
ただしアンテナとしてはいたく優秀で、彼女がとっておいた氷菓子を因幡てゐが冷蔵庫から取り出す音を人里から聞きつけてダッシュで戻ってくる、なんていう事件も何度かあった。
その場合、彼女が帰ってきた頃にはもう氷菓子は因幡てゐの胃の中に収まってしまっているのが常なのだけれど。
とにかく。
鈴仙・優曇華院・イナバは、その違和感が相手の兎の周囲の雑音によるものだと、一番最初に推測した。それに取り立てて根拠はなかったのだが、しかし、そこそこの説得力はあるだろうと、自画自賛をしながら腕を組む。
何が聞こえたんだろう?
彼女はそう思ったのだろう、もう一度月に向かって耳を澄ませた。
「ねえねえ、貴女」
もちろん声に出しているわけではない、隣に人間がいたとしても、その超能力の賜物は、きっと感じ取れないだろう。
「な、なんですか優曇華院さん……もう交信は一通り終わったでしょう?」
先程まで彼女と交信していた月の兎は、突然の最接続に驚いてぴょんと一つ跳ねた。しかしその行動までは鈴仙・優曇華院・イナバには伝わらない、彼女にわかるのはその時何かの着地音がした、というただそれだけのこと。
「いや、なーんかそっちに嫌な予感というか……違和感というか……そういうの、私に言ってないことはない?」
「昨日、友人に男装趣味疑惑が浮上しましたが」
「関係ない」
聞いておいて目的にそぐわなければ一蹴、逃げ出した尖兵であるにも関わらず、先輩風を吹かせたいのか天性なのか、彼女は聞く立場においても尊大な態度を改める気はないらしかった。
「うーん。私の周りには、そんな嫌な感じのする噂なんかは届いていませんね……」
不可解な尋問に対して、月の兎は困ったふうに頭を掻きながら答えた。
「なんかない? こういう時って大体依姫様や豊姫様が絡んでると思うんだけど」
「依姫様……むむむ」
鈴仙・優曇華院・イナバは諦めない。もう一歩踏み込んで、月の様子を探ろうと考えを巡らす。声の周りの不協和音を、精一杯聞き分けようと尽力しながら、である。聖徳太子ではないから限界こそあるものの、ある程度の音の判別くらいは、彼女にできないことではなかった。逃亡の前科はあれど、性格に難あれど、すぐ調子に乗って痛い目を見ることもあれど。単純にその能力に関してだけ考えるならば、強者揃い、群雄割拠の幻想郷においても強者と名乗れるレベルのものだ。
「そういえば」
月の兎が、数秒のラグの後、口を開いた。
「依姫様を、最近見かけないとか。親衛隊の方々が心配されておりました」
「それめっちゃ重要事項じゃない! なんでそういうことを先に言わないのかしら!?」
「ご、ごめんなさい!」
思わず怒鳴る鈴仙・優曇華院・イナバ。彼女の言い分ももっともで、月の兎のどうも抜けた頭は最近では月の社会問題にすら発展しているらしく、教育面を強化する計画も出ているのである。
ゆとらない兎へ。
月の兎は身体を縮こめて、大声が敏感な耳に響いたらしく耳を手で塞ぎながら暫くぷるぷると身震いしていたのだが、鈴仙・優曇華院・イナバが何やら言って通信を切ったことを確認すると、はあ、と溜息をついて帰路についた。
「依姫様が……? もしかして、第三次月面戦争……? いやいや、悪い方向に考えすぎだわ。せいぜいまたこの永遠亭にお邪魔しにきてる、とか。じゃあなんで数日も……ああ、豊姫様に知られたくなくて羽衣を使ってこっちにやってくるのね。ならすぐには来られない。ゆえに、ただのお忍び旅行よね」
二回目の交信にて耳を神経を集中しても、何が鳴っていたのかはわからなかったらしい。何が自分をこうも訝しませるのか、ノイズに気を配ってもやはり理解できないので、彼女は、結局そんなものはなかったのだと結論付けるに至った。つまり、何か引っかかったのは気のせいで、それによって新しい情報を手に入れることができたというつまらない幸運だったのだ、と、彼女は、そう思ったのである。
「でも、気になる」
夜中に一人でぺらぺらと永遠亭の裏手で饒舌に喋るその姿は、ただの徘徊する変人だと間違われても仕方のない様相であった。
発する内容も、月とか兎とか穢れとか戦争とか、頭のネジが一本外れているのではないかと思われるような事象であるのだけれど、彼女はそんなことに気付くような常識を持ち合わせてはいないから、独りごちるのを止める気配はない。
「依姫様がいない?」
いや、正確にはいる。しかし親衛隊が見つけられないということは、秘密裏に何かしらの行動パターンの変化が起こっているということに他ならない。たとえ親衛隊であっても姫様たちの屋敷には滅多に入ることはできないのだから、ずっと部屋に篭ってなにかの準備に精を出しているということも充分ありえた。
「例えば、月が落ちてくるとか」
あまりにも荒唐無稽な自分の想像を、彼女は首を振って振り払う。
「例えば、地上侵略計画とか」
いや、それも馬鹿馬鹿しい。彼女は腕を組んで暫く考え込んでいたのだが、結局お忍び旅行以外にそれらしい仮説は浮かんでこなかったらしい、一つ大きな唸り声を上げて、次の点に考えを移動させた。
まず師である八意永琳に協力を仰いでみようかと考えてみた。いやでもしかし、まだいいだろうと彼女はその考えを即座に捨てる。彼女にそれを伝えれば、おそらく彼女が全てを解決するであろうことは目に見えていた。
それにそもそも、まだ問題があると決まったわけではないのだ。
下手に八意永琳の手を煩わせれば、また彼女は酷い目に遭って三日三晩寝込むことになってしまうのだろう。自身でもそれに気付いたらしく、青ざめた顔で身震いをした。
「そういえば」
数日前の、八意永琳との会話を、彼女はふと思い出した。自分の深層的な記憶能力に対して拍手を送りながら、永遠亭に向かって走り出した。
未来に何が起こるかわからないなら、未来に行って確認すればいいのである。
「今回の新薬は自信作よ」
「それはそれは、是非実験台は辞退させていただきます」
「……未来を見る薬よ? 一粒飲めば五年後の世界を五分間、二粒飲めば十年後の世界を十分間、未来へと旅立って目にすることができるわ」
「それはまた突拍子もなくわけのわからないものを作りましたね」
「この瓶には百粒、とりあえず作ったものを入れてあるの。副作用はないわ、理論上はね」
「賭け事の時には使わせていただくかもしれません」
鈴仙・優曇華院・イナバはそろりそろりと足音を立てないよう厳重に注意を払いながら、なおかつできる限り素早く、障子を開け、廊下を滑り込み、また障子を開けて、八意永琳の研究室へと足を踏み入れた。かれこれ長い付き合いの師匠の行動パターンを読むのは容易かった。この時間帯は、大抵夜更かしな兎を一匹捕まえてもふもふしていることを、彼女は知っていたのだ。
「そう、確か、黄色いラベルに、名前はFから始まって、中身は小さな若草色の錠剤で……」
ぶつぶつと呟きながら、彼女は薬棚の上から二段目、右端の瓶を一つ手にとって、一瞬の躊躇いの後、それを開けて一粒を左の掌に載せた。そして、その瓶をこっそりと元の場所へと置いて、生唾を飲み込んだ。
次の瞬間、鈴仙・優曇華院・イナバの姿は、永遠亭から消えた。
次に彼女が気付いたとき、彼女の周りに広がっていたのは、廃墟、であった。
足元に転がっている燃えカス。
乾ききった血痕。
崩落した屋根の木材。
完璧に漆黒な空。
彼女はここに来るまで、今回の事件は自分が事前に解決して皆からの尊敬の眼差しを一心に受け、これまでの弄られキャラを払拭したいと考えていたのだが――今では、馬鹿げた思想を掲げたさっきまでの自分を殴りたいとさえ、考えているようだった。
腰を抜かしそうになって壁によりかかる。
肩を上下させながら、意外にも彼女は数回の呼吸で精神を鎮めることができたらしく、とにかく外へと走り出した。
人の気配はない。
しかし、彼女は、自らのいる場所が永遠亭であることを、視界の端に映った薬の瓶の残骸から、悟っていた。もともと人が少ない竹林では生き残りがいる可能性は低いと考えることは容易く、だから彼女はスムーズに、竹林から人里方向へと向かい、全力疾走を始めることができたのである。例え夜中で光が全く無くても、彼女にとって竹林は庭のようなものであった。
しかしやはり、人里に出たところで人など見つかるわけがなかった。暗くてよく見えないが、物音がまずしないのである。幻想郷は、もはや端から端まで破壊し尽くされたように思われた。
目の前に広がる荒廃した景色は、狂気を操る彼女にとってさえ、異様で信じ難いものであった。その両目に狂気を宿しているからこそ、彼女は狂気に対して限りなく敏感であったのだ。そしてその彼女は、周囲に狂気を感じないことに気付く。
とっくの昔に終わっているのだ。
鈴仙・優曇華院・イナバも、直ぐに真実に到達して、乾いた笑い声を発した。
起こったのは月の落下でも第三次月面戦争でもなく、第一次地面戦争だったのである。
大量殺戮でもなく、不気味な虐殺でもなく、そこで行われたのは至極当たり前の戦争だった。狂気を纏わない、武力的な対立だったのだ。
「はは……未来って、こんなにも色褪せているんだね」
虚ろな目の彼女が見上げる空に、月はもうなかった。
「……って、月が無い……?」
月が落ちているのならば、幻想郷など一瞬にして霧散するだろう。むしろ、この星自体の存続も危うい。それが今、ここに壊れた民家が立ち並んでいるということは、月は落下していないという証拠であった。
「つまり、消えた……って、こと……?」
八意永琳の薬を作る技術は、尋常ではないほどに卓越している。そんな彼女が五年後だと言ったのだ、鈴仙・優曇華院・イナバは確実にぴったり五年後に飛ばされたはずだ。彼女は、五年前の月の形をゆっくりと思い出す。
下弦の月。
「じゃあ、やっぱり、月はもうない」
消えたのか、消されたのか、何処かに飛んでいってしまったのか、彼女には知る由もない。
「……もう、時間もないのよね」
彼女は一旦考えることをやめ、くるりと、方向を変えて走り出す。幻想郷が壊れる時であろうと、きっと最後まで残っているであろう聖域へ。幻想郷の守り人がいるはずの砦へ。
「残り数十秒ってところかな」
石段を一気に駆け上っても、彼女の息は乱れない。引退したとはいえ前線を生き抜く兵士だった彼女の実力は、未だに衰えていなかったのだ。
博麗神社の方はといえば、しかしこちらも荒れ、荒み、人の気配も妖怪の気配も、彼女の凄まじい耳ですら感じ取ることはできなかった。
「ここも、か。どうしようもないのね、この未来」
そこに座って惚けた顔のままお茶を啜っているはずの博麗霊夢すらも。そこに座って朗らかに笑っているはずの霧雨魔理沙すらも。そしてきっと、この世界を統治して不敵な笑みを浮かべているはずの八雲紫も、もう。
そうなってしまえば、死なないだけの姫様や藤原妹紅あたりも、きっと何かしらの対策――例えば、深く生き埋めにされているとか――を打たれているか、或いは、連れ去られたはずだというのが、大抵の者の考える妥当な到達点であろう。
彼女は、その想像をした後、ぞっとしたらしかった。
延久の苦しみなんて、主の主たる彼女に味わわせてたまるものかと。
数回、彼女は深呼吸を繰り返す。穢れに穢れた五年後の空気を、嫌と言う程、体内に取り込んでいく。
そして最後に。かっと、彼女の誇る、最も力が力たるその両の赤い目を、見開いた。
「未来を、変えてやる」
廃れた世界に、コンマ数秒だけ、彼女の声が響いていた。
いつもの幻想郷に戻ってきた鈴仙・優曇華院・イナバは、真っ先にその部屋を出ようとした。見つかれば八意永琳に酷い目に遭わされるからか? 否。それもまた真実ではあるが、彼女はそんなことを気にしてはいなかった。
少なくとも五年の間に、未曾有の大戦争が起こる。それがわかっていてじっとしていられるほど、彼女は安穏とはしていなかった。
振り返った瞬間、扉のそばの机の上に、彼女は見たことのない銃を見つける。
これは神の思し召しか、銃さえあれば私の独擅場だ。これは運命が私を救世主としようと後押ししてくれていることの証拠なのだ、そんな風なことを、彼女は何の裏付けもなく思い込んだ。
客観的に見て、それは明らかに八意永琳が何らかの理由で作ったものなのだろうし、そもそも鈴仙・優曇華院・イナバのために作ったものなのかどうかもわからないのだ。けれど今回に限っては、その思い込みは彼女を強くして、事態を好転させる材料になるのだろう。
開けっ放しの障子から飛び出して、二歩ほど踏み込む。
迷いを欠片も見せることなく、鈴仙・優曇華院・イナバは月の方角へと飛び立っていった。
何がおかしいのか、自分ですらよく分からないのだが……その大きく特徴的な耳は、頭脳では理解できないことですら、敏感に捉えられるだけの能力を有していたのだ。
「雑音……なのかなあ……」
例えば、誰かに電話をかけたとしよう。相手がもしも栄えている遊園地の行列に並んでいたとしたら、相手の周りには、様々な音声が満ち溢れていることだろう。現代の科学技術の進化はめざましいから、ノイズを断ち切って相手の通話音声だけを伝えるという荒業を、小さな携帯用の端末でありながらいとも容易くやってのけることができるのだが、鈴仙・優曇華院・イナバの耳には、そんな便利機能はなかった。
ただしアンテナとしてはいたく優秀で、彼女がとっておいた氷菓子を因幡てゐが冷蔵庫から取り出す音を人里から聞きつけてダッシュで戻ってくる、なんていう事件も何度かあった。
その場合、彼女が帰ってきた頃にはもう氷菓子は因幡てゐの胃の中に収まってしまっているのが常なのだけれど。
とにかく。
鈴仙・優曇華院・イナバは、その違和感が相手の兎の周囲の雑音によるものだと、一番最初に推測した。それに取り立てて根拠はなかったのだが、しかし、そこそこの説得力はあるだろうと、自画自賛をしながら腕を組む。
何が聞こえたんだろう?
彼女はそう思ったのだろう、もう一度月に向かって耳を澄ませた。
「ねえねえ、貴女」
もちろん声に出しているわけではない、隣に人間がいたとしても、その超能力の賜物は、きっと感じ取れないだろう。
「な、なんですか優曇華院さん……もう交信は一通り終わったでしょう?」
先程まで彼女と交信していた月の兎は、突然の最接続に驚いてぴょんと一つ跳ねた。しかしその行動までは鈴仙・優曇華院・イナバには伝わらない、彼女にわかるのはその時何かの着地音がした、というただそれだけのこと。
「いや、なーんかそっちに嫌な予感というか……違和感というか……そういうの、私に言ってないことはない?」
「昨日、友人に男装趣味疑惑が浮上しましたが」
「関係ない」
聞いておいて目的にそぐわなければ一蹴、逃げ出した尖兵であるにも関わらず、先輩風を吹かせたいのか天性なのか、彼女は聞く立場においても尊大な態度を改める気はないらしかった。
「うーん。私の周りには、そんな嫌な感じのする噂なんかは届いていませんね……」
不可解な尋問に対して、月の兎は困ったふうに頭を掻きながら答えた。
「なんかない? こういう時って大体依姫様や豊姫様が絡んでると思うんだけど」
「依姫様……むむむ」
鈴仙・優曇華院・イナバは諦めない。もう一歩踏み込んで、月の様子を探ろうと考えを巡らす。声の周りの不協和音を、精一杯聞き分けようと尽力しながら、である。聖徳太子ではないから限界こそあるものの、ある程度の音の判別くらいは、彼女にできないことではなかった。逃亡の前科はあれど、性格に難あれど、すぐ調子に乗って痛い目を見ることもあれど。単純にその能力に関してだけ考えるならば、強者揃い、群雄割拠の幻想郷においても強者と名乗れるレベルのものだ。
「そういえば」
月の兎が、数秒のラグの後、口を開いた。
「依姫様を、最近見かけないとか。親衛隊の方々が心配されておりました」
「それめっちゃ重要事項じゃない! なんでそういうことを先に言わないのかしら!?」
「ご、ごめんなさい!」
思わず怒鳴る鈴仙・優曇華院・イナバ。彼女の言い分ももっともで、月の兎のどうも抜けた頭は最近では月の社会問題にすら発展しているらしく、教育面を強化する計画も出ているのである。
ゆとらない兎へ。
月の兎は身体を縮こめて、大声が敏感な耳に響いたらしく耳を手で塞ぎながら暫くぷるぷると身震いしていたのだが、鈴仙・優曇華院・イナバが何やら言って通信を切ったことを確認すると、はあ、と溜息をついて帰路についた。
「依姫様が……? もしかして、第三次月面戦争……? いやいや、悪い方向に考えすぎだわ。せいぜいまたこの永遠亭にお邪魔しにきてる、とか。じゃあなんで数日も……ああ、豊姫様に知られたくなくて羽衣を使ってこっちにやってくるのね。ならすぐには来られない。ゆえに、ただのお忍び旅行よね」
二回目の交信にて耳を神経を集中しても、何が鳴っていたのかはわからなかったらしい。何が自分をこうも訝しませるのか、ノイズに気を配ってもやはり理解できないので、彼女は、結局そんなものはなかったのだと結論付けるに至った。つまり、何か引っかかったのは気のせいで、それによって新しい情報を手に入れることができたというつまらない幸運だったのだ、と、彼女は、そう思ったのである。
「でも、気になる」
夜中に一人でぺらぺらと永遠亭の裏手で饒舌に喋るその姿は、ただの徘徊する変人だと間違われても仕方のない様相であった。
発する内容も、月とか兎とか穢れとか戦争とか、頭のネジが一本外れているのではないかと思われるような事象であるのだけれど、彼女はそんなことに気付くような常識を持ち合わせてはいないから、独りごちるのを止める気配はない。
「依姫様がいない?」
いや、正確にはいる。しかし親衛隊が見つけられないということは、秘密裏に何かしらの行動パターンの変化が起こっているということに他ならない。たとえ親衛隊であっても姫様たちの屋敷には滅多に入ることはできないのだから、ずっと部屋に篭ってなにかの準備に精を出しているということも充分ありえた。
「例えば、月が落ちてくるとか」
あまりにも荒唐無稽な自分の想像を、彼女は首を振って振り払う。
「例えば、地上侵略計画とか」
いや、それも馬鹿馬鹿しい。彼女は腕を組んで暫く考え込んでいたのだが、結局お忍び旅行以外にそれらしい仮説は浮かんでこなかったらしい、一つ大きな唸り声を上げて、次の点に考えを移動させた。
まず師である八意永琳に協力を仰いでみようかと考えてみた。いやでもしかし、まだいいだろうと彼女はその考えを即座に捨てる。彼女にそれを伝えれば、おそらく彼女が全てを解決するであろうことは目に見えていた。
それにそもそも、まだ問題があると決まったわけではないのだ。
下手に八意永琳の手を煩わせれば、また彼女は酷い目に遭って三日三晩寝込むことになってしまうのだろう。自身でもそれに気付いたらしく、青ざめた顔で身震いをした。
「そういえば」
数日前の、八意永琳との会話を、彼女はふと思い出した。自分の深層的な記憶能力に対して拍手を送りながら、永遠亭に向かって走り出した。
未来に何が起こるかわからないなら、未来に行って確認すればいいのである。
「今回の新薬は自信作よ」
「それはそれは、是非実験台は辞退させていただきます」
「……未来を見る薬よ? 一粒飲めば五年後の世界を五分間、二粒飲めば十年後の世界を十分間、未来へと旅立って目にすることができるわ」
「それはまた突拍子もなくわけのわからないものを作りましたね」
「この瓶には百粒、とりあえず作ったものを入れてあるの。副作用はないわ、理論上はね」
「賭け事の時には使わせていただくかもしれません」
鈴仙・優曇華院・イナバはそろりそろりと足音を立てないよう厳重に注意を払いながら、なおかつできる限り素早く、障子を開け、廊下を滑り込み、また障子を開けて、八意永琳の研究室へと足を踏み入れた。かれこれ長い付き合いの師匠の行動パターンを読むのは容易かった。この時間帯は、大抵夜更かしな兎を一匹捕まえてもふもふしていることを、彼女は知っていたのだ。
「そう、確か、黄色いラベルに、名前はFから始まって、中身は小さな若草色の錠剤で……」
ぶつぶつと呟きながら、彼女は薬棚の上から二段目、右端の瓶を一つ手にとって、一瞬の躊躇いの後、それを開けて一粒を左の掌に載せた。そして、その瓶をこっそりと元の場所へと置いて、生唾を飲み込んだ。
次の瞬間、鈴仙・優曇華院・イナバの姿は、永遠亭から消えた。
次に彼女が気付いたとき、彼女の周りに広がっていたのは、廃墟、であった。
足元に転がっている燃えカス。
乾ききった血痕。
崩落した屋根の木材。
完璧に漆黒な空。
彼女はここに来るまで、今回の事件は自分が事前に解決して皆からの尊敬の眼差しを一心に受け、これまでの弄られキャラを払拭したいと考えていたのだが――今では、馬鹿げた思想を掲げたさっきまでの自分を殴りたいとさえ、考えているようだった。
腰を抜かしそうになって壁によりかかる。
肩を上下させながら、意外にも彼女は数回の呼吸で精神を鎮めることができたらしく、とにかく外へと走り出した。
人の気配はない。
しかし、彼女は、自らのいる場所が永遠亭であることを、視界の端に映った薬の瓶の残骸から、悟っていた。もともと人が少ない竹林では生き残りがいる可能性は低いと考えることは容易く、だから彼女はスムーズに、竹林から人里方向へと向かい、全力疾走を始めることができたのである。例え夜中で光が全く無くても、彼女にとって竹林は庭のようなものであった。
しかしやはり、人里に出たところで人など見つかるわけがなかった。暗くてよく見えないが、物音がまずしないのである。幻想郷は、もはや端から端まで破壊し尽くされたように思われた。
目の前に広がる荒廃した景色は、狂気を操る彼女にとってさえ、異様で信じ難いものであった。その両目に狂気を宿しているからこそ、彼女は狂気に対して限りなく敏感であったのだ。そしてその彼女は、周囲に狂気を感じないことに気付く。
とっくの昔に終わっているのだ。
鈴仙・優曇華院・イナバも、直ぐに真実に到達して、乾いた笑い声を発した。
起こったのは月の落下でも第三次月面戦争でもなく、第一次地面戦争だったのである。
大量殺戮でもなく、不気味な虐殺でもなく、そこで行われたのは至極当たり前の戦争だった。狂気を纏わない、武力的な対立だったのだ。
「はは……未来って、こんなにも色褪せているんだね」
虚ろな目の彼女が見上げる空に、月はもうなかった。
「……って、月が無い……?」
月が落ちているのならば、幻想郷など一瞬にして霧散するだろう。むしろ、この星自体の存続も危うい。それが今、ここに壊れた民家が立ち並んでいるということは、月は落下していないという証拠であった。
「つまり、消えた……って、こと……?」
八意永琳の薬を作る技術は、尋常ではないほどに卓越している。そんな彼女が五年後だと言ったのだ、鈴仙・優曇華院・イナバは確実にぴったり五年後に飛ばされたはずだ。彼女は、五年前の月の形をゆっくりと思い出す。
下弦の月。
「じゃあ、やっぱり、月はもうない」
消えたのか、消されたのか、何処かに飛んでいってしまったのか、彼女には知る由もない。
「……もう、時間もないのよね」
彼女は一旦考えることをやめ、くるりと、方向を変えて走り出す。幻想郷が壊れる時であろうと、きっと最後まで残っているであろう聖域へ。幻想郷の守り人がいるはずの砦へ。
「残り数十秒ってところかな」
石段を一気に駆け上っても、彼女の息は乱れない。引退したとはいえ前線を生き抜く兵士だった彼女の実力は、未だに衰えていなかったのだ。
博麗神社の方はといえば、しかしこちらも荒れ、荒み、人の気配も妖怪の気配も、彼女の凄まじい耳ですら感じ取ることはできなかった。
「ここも、か。どうしようもないのね、この未来」
そこに座って惚けた顔のままお茶を啜っているはずの博麗霊夢すらも。そこに座って朗らかに笑っているはずの霧雨魔理沙すらも。そしてきっと、この世界を統治して不敵な笑みを浮かべているはずの八雲紫も、もう。
そうなってしまえば、死なないだけの姫様や藤原妹紅あたりも、きっと何かしらの対策――例えば、深く生き埋めにされているとか――を打たれているか、或いは、連れ去られたはずだというのが、大抵の者の考える妥当な到達点であろう。
彼女は、その想像をした後、ぞっとしたらしかった。
延久の苦しみなんて、主の主たる彼女に味わわせてたまるものかと。
数回、彼女は深呼吸を繰り返す。穢れに穢れた五年後の空気を、嫌と言う程、体内に取り込んでいく。
そして最後に。かっと、彼女の誇る、最も力が力たるその両の赤い目を、見開いた。
「未来を、変えてやる」
廃れた世界に、コンマ数秒だけ、彼女の声が響いていた。
いつもの幻想郷に戻ってきた鈴仙・優曇華院・イナバは、真っ先にその部屋を出ようとした。見つかれば八意永琳に酷い目に遭わされるからか? 否。それもまた真実ではあるが、彼女はそんなことを気にしてはいなかった。
少なくとも五年の間に、未曾有の大戦争が起こる。それがわかっていてじっとしていられるほど、彼女は安穏とはしていなかった。
振り返った瞬間、扉のそばの机の上に、彼女は見たことのない銃を見つける。
これは神の思し召しか、銃さえあれば私の独擅場だ。これは運命が私を救世主としようと後押ししてくれていることの証拠なのだ、そんな風なことを、彼女は何の裏付けもなく思い込んだ。
客観的に見て、それは明らかに八意永琳が何らかの理由で作ったものなのだろうし、そもそも鈴仙・優曇華院・イナバのために作ったものなのかどうかもわからないのだ。けれど今回に限っては、その思い込みは彼女を強くして、事態を好転させる材料になるのだろう。
開けっ放しの障子から飛び出して、二歩ほど踏み込む。
迷いを欠片も見せることなく、鈴仙・優曇華院・イナバは月の方角へと飛び立っていった。
新作、楽しみですね。
Fateの凛みたいに何でもこなせる自信家だけど詰めが甘いとなお良い