「釈明をどうぞ」
自分の家で昼寝をしていたら、いつのまにか紫の家に拉致られていた。
そのことは別に天子としてはどうでもいい、むしろ遊びに行く暇が省けてラッキーというものだ。
天子の恨みがましい視線が向かう先は、紫が見せつけてくる手鏡にあった。
「いやね、最近めっきり冷めこんできたじゃない? それで橙がよく藍の尻尾に抱きついてるから」
「それで?」
「私も天子で温まりたいなーと思って、生やした」
「湯たんぽ代わりで昼寝してる人の肉体魔改造すなー!!!」
声を張る天子のお尻から伸びているのは、青色の毛がモッフモッフした犬っぽい尻尾。
同じ色合いのフサフサした耳を頭に付けた天子は、可愛い顔を膨らませてプリプリと可愛らしく怒った。可愛い。
「かわいい~!」
「コラー! 許可無く尻尾に抱きつくの禁止―!」
頬を緩ませた紫が紫のドレスを翻し飛びついてきたのを、天子は軽やかな身のこなしでかわすと間合いを取る。
天子に生やされたなりきり犬コスセットは、まぎれもなく身体の一部分と化しており、天子の感情に合わせて尻尾がフリフリ、耳がピコピコと反応している。
ご丁寧にもスカートには尻尾を通すために穴まで開けられており、衣装の外に伸ばされた尻尾は思う存分ツヤツヤの毛を披露していた。
天子の紫に対する警戒が、水平にピンと張り詰めた尻尾からも見て取れる。
「ねえ、ねえ、天子、首輪も付けて? ケージの中に入れてこっちにキャンキャン鳴いてくるのをずっと見てたいわ」
「するか! 噛みつくわよバカ!」
スキマから取り出された赤い首輪を天子はすかさずはたき落とし、犬らしく喉をガルルと震わせながら犬歯を見せて威嚇する。
本人は怒りを露わにしているつもりなのだろうが、元々の子供らしい丸っこい顔と合わさったところで可愛いだけだった。
それを見て更に頬をとろけさせる紫に、天子は思わず足を引いた。紫の台詞がいちいち犯罪的なのは慣れっこだが、このまま流されるのは癇に障る。
天子は自分の腰元に顔を向け、尾てい骨から生えた尻尾をブンブン振り回してみて感触を確かめる。
毛の一本一本が風を切って、慣れない感覚に思わず身悶えした。
「うーん、感覚が本当にザ・尻尾って感じだわ。無駄な技術力」
「ふふふ、長い時間を掛けて積み重ねてきた術式をふんだんに使わせてもらったわ」
「努力の方向性が間違ってるわよもう。いきなり生やされたから変な感じね」
尻尾もそうだが頭のイヌミミも気になる、何もしなくてもくすぐったく感じる。
天子が頭に手をやって新しい耳元を掻いていると、紫の手が伸びてきて耳の間をワシワシと撫でた。
「あっ、コラちょっと勝手に!」
「撫でるくらいいいでしょう? 耳が付くと撫でる方の感触も変わるわね」
紫はよく身長差のある天子を上から撫で付けているが、横に動かした手が耳のフサフサにくすぐられる感触は新鮮で、その触り心地に浸って和やかな気持ちで目を細める。
橙に加え、昔は藍のことも撫でることが多かった紫だが、天子の耳は二人に比べても毛の量が多い上に癖が強く、紫の手をしっかりと受け止めてくれる。なかなか面白い感触だ。
「天子の方はどうかしら? ほら、ここなんてどう?」
「あーもう! なんであんたは自分が攻められるとすぐヘタれるのに……あん、や、そこはダメッ」
紫は手を繋いだりだとかの恋人的スキンシップは恥ずかしがってどこまでも奥手なのだが、こうして欲望を開放した時の行動力は天井知らずだ。
身を捩らせて逃げようとする天子を片手で抱き寄せて、耳の根本を優しく指先で撫で上げた。
耳の裏側から両脇に抜け出るように指先でなぞり、そこから小刻みに逆方向へ掻きあげて刺激してみせる。
優しく温かく、それでいて屈辱的な未知の気持ち良さに、天子は顔を赤らめさせて肩を震わせた。
「あ、あふ……あんっ! ちょ、ちょっと紫……!!」
「はあー、天子のイヌミミ気持ちいいわぁ、ハァハァハア…………!!! ヤバイ脳内物質流れすぎて死にそう」
だがすっかりトリップしてしまった紫は、天子の声は欲情を煽るスパイス程度にしかならず言葉は届かないようだ。
どうにもならないと悟った天子は、快感に震える手で緋想の剣を手にとって、部屋の畳に突き刺した。
「せ、先憂後楽の剣!」
緋想の剣は床を突き破って剣先を大地にまで届かせると、数秒の間を置いて地震が発生し屋敷を揺らした。
だがスペルカードまで使って天子が起こした地震としては随分と程度が低い、せいぜい震度2くらいの小さな地震だ。
恐らく震源はここではないどこか、そのことに気付いた紫に嫌な予感が走り、思わず正気に返った。
「……あれ、今の地震って…………まさか!?」
慌てて紫がどこぞへとスキマを開いて、向こう側を覗き見る。
「きゃああああああああ!!! 地脈揺らされて大結界にヒビ入ってるううううう!!?」
「今よ脱出!」
「あっ、天子待ちなさい!?」
すかさず靴下だけ履いたまま屋敷を飛び出した天子を紫は止めようとするが、大結界のことを考えるとそれどころではなく、結局言葉を投げかける以上のことはできなかった。
◇ ◆ ◇
「それで紫のところから飛び出してきたってわけかい」
「まったくもう、冗談じゃないわよあのババア」
一旦家に帰って靴を履いてきた天子は、天界で管を巻いていた萃香と衣玖を捕まえてグチグチと機嫌悪そうな声を漏らしていた。
その頭では今でもふさふさのイヌミミが鎮座し、天子の機嫌に合わせて伏せられ、先っぽが地面を向いていた。
「しかし大結界まで揺らすのはやり過ぎでは?」
「良いのよ。霊夢のやつだって紫を釣るためにたまに緩めてるらしいし」
衣玖の苦言に言い訳する天子だが、実際のところ結界を局所的に緩めるのと地震で崩すのではまったく規模が違うことは言わないでおいた。
まあたまにしかやらなければ問題無いだろう、多分。
「でもけっこう似合ってるんじゃんかそのイヌコス」
「ふふん、それは当然よ。なんたって私だからね」
「すさまじい自意識過剰っぷりですが、それなら別に逃げ出さなくても良かったんじゃ」
「一方的に良いようにされるのはむかつく!」
「まあ天子ならそうなるだろうね」
とは言え天子でなくともあの可愛がりようでは逃げ出したくなって当然だろうが。
しかしただ逃げるだけで終わらないからこその比那名居天子だ。
「というわけで紫にも同じことをしてやるわ」
ニンマリと悪巧みの笑顔を浮かべて、楽しげに尻尾をゆっくりと揺らした。
「同じこととは?」
「実はここに飲み込むとケモミミと尻尾が生えてくる不思議なおクスリがあります」
「ブフッ!?」
天子から取り出された小瓶に、思わず萃香が飲んでいた酒を噴き出した。
「なんでそんな都合のいいものが」
「ゲホ、何だい永遠亭でも行ってきたの?」
「いや、天人ってこれでけっこうエロ方面も盛んだから、天界じゃそういうプレイ用のが結構流通してて簡単に手に入って」
「うわぁ、これが天界の闇か」
「もしかして総領娘様もそっちの遊びを……」
「してないわよ、こちとらファーストキスもまだよ」
「良かった、これで経験済みとかだったら紫のやつ憤死してた」
「というか紫さんとすらやってないんですか」
「あいつ肝心なとこでヘタレだし……」
「ああ……」
衣玖と萃香が腕を組んで納得して頷く。
衣玖は思い浮かべる、ちょっと空気を読んで二人きりにして様子を見てると、最初はおちゃらけていたのに段々と天子のことを意識してしどろもどろになって行った紫の姿を。
萃香は思い浮かべる、普段天子にちょっかいかけまくって恥ずかしいことしまくってる癖して、どこまで進んだんだと聞いたら真っ赤な顔で「こ、このまえ手を繋いじゃったわ……!」と嬉しそうに語った紫の姿を。
「まあそれは置いといて、あいつはそんな簡単に一服盛られるようなやつじゃないよ」
「そこはまあ知恵と勇気とパワーよ。ちょっと二人とも耳貸しなさい」
周りに誰か居るわけでもないが、雰囲気重視で顔を寄せ合う。
萃香の角がイヌミミにこすれて天子は顔をしかめたが、そのまま二人に策を伝えた。
「知恵と勇気とパワーというか、パワーとパワーとパワーなんですがそれは」
「と言うかそれ私まで被害受けるんだけど」
「萃香だって頑丈だかそれくらい大丈夫でしょ。今度いいお酒持ってくるからさ~、お願い!」
「うーん、しょうがないねえ。じゃあこれで」
少しばかり悩んだ萃香は五本の指を立てて天子に見せ付けた。
萃香のことだから何を求めているのかはすぐにわかった、問題はそれの単位だ。
「……五升?」
「いや五樽」
「くっ、足元見やがって……わかったわよ、なんとかしてやるわよ!」
「毎度アリ~」
「衣玖の分は欲しかったら萃香に貰いなさいよ。一番楽な仕事なんだし」
「まああの妖怪に思いっきりぶっ放せる機会なんてそうないですし、それでいいでしょう」
「なんだかんだで衣玖も相当バイオレンスよね」
「幻想郷に常識人などいないよ」
◇ ◆ ◇
空の上で悪巧み終わって少し経った頃、地上では紫がくたびれた表情で畳に突っ伏していた。
「天子ったら、無茶苦茶やってくれて……お陰でものすっごく疲れたじゃないの、藍にも痴話喧嘩で何やってるんだって叱られるし」
あの後はてんてこ舞いだった。急いで藍を呼びつけて、大結界が崩壊しないように速攻で修復を終わらせたのだ。
すぐに修復が終わったのであれば簡単な作業だったのかと思うかもしれないが、むしろその逆だ。
地脈のズレによって急激に結界は崩壊を始めており、崩壊を上回る速度で強引に修復していくという凄まじいスピード勝負だった。
その苦労のほどは、修復作業の手伝いとして呼び出した藍が熱暴走で倒れて、隣の部屋で橙の看病を受けている辺りから察して欲しい。九尾がそこまで疲弊する作業に、すっごく疲れた程度で済む紫がどちらかと言えばおかしい。
「だがこの程度で諦めきれないわ。天子の尻尾をモフモフしながら最高の睡眠を得る!! その後でおしおきねあの子」
予想外のストレスで妙なテンションが維持されたままの紫は、ガバリと畳から起き上がって天界へとスキマを開いた。
まずはスキマ越しに向こう側を覗いて状況を確認。萃香と衣玖と輪を作るようにわんこ天子が上機嫌にお酒を飲んでいる。
天子が楽しそうに笑うのに連動してふりふり振られる尻尾を見て我慢できなくなった紫は、意を決してスキマから飛び出し、その蒼く艶やかな尻尾に抱き着いた。
「てんし~!」
「うひゃあ!!」
突然抱きつかれ一瞬驚く天子であったが、すぐに目が真剣なものに変わり、アイコンタクトを周囲に送った。
すかさず衣玖は羽衣を揺らして浮き上がると、その場から距離を取る。
「今よ萃香!」
「うおっしゃい。イエーイ、ブラックホール!」
「えっ、きゃあ!?」
衣玖が安全圏に離脱したのを確認したと同時に号令が上がり、萃香を中心として周囲の物体が萃められた。
気流が乱れて風が騒ぎ立てる中を、天子と紫が二人仲良く吸い寄せられ、萃香にガッシリと捕まえられた。
「ゆかりんゲットだぜ! ついでに天子も」
「す、萃香何を……」
「最大出力ぅぅぅ……大(DIE)!! フィーバアアアアアアアアアアアアア!!!」
いきなりの急展開に困惑する紫だったが、その疑問が解ける前にフィーバーダンサー衣玖の渾身の電撃が三人を見舞った。
「あばばばばばばばばば!!!」
「しびびびびびびびびび!!!」
「うきゃあああああああ!!?」
紫をハメるための秘策、天子を囮として萃香すら犠牲とした捨て身のゴリ押し。
天子、萃香、そして紫の三人はフルパワーの放電を受けて、悲鳴を上げた。五体は痺れ、動きを封じられる。
だが先に心の準備を済ませていた天子は、電撃が続く中で痺れを振りきってポケットから例の小瓶を取り出した。
「紫ぃ! 覚悟!!!」
中の丸薬を自らの口に含んだ天子は、引っ付いていた紫に向き直り、その無防備な唇に熱い接吻を交わした。
空気に合わせて電撃は止み、同時に「ズキュウウウン!」という効果音が衣玖の口から発せられる
「やった! さすが天子!」
「なんてロマンもへったくれもないファーストキス!」
「そこにシビれないし軽蔑するゥ!」
天子たちから離れた萃香が、衣玖と一緒に囃し立てる。
二転三転する展開に混乱していた紫が、ようやく状況に思考が追いつき目を丸くした。
至近距離で天子と目が合って喉の奥へと押し込まれた何かから、反射的に天子を突き飛ばして距離を取る。
天子はニヤニヤと笑みを浮かべておとなしく引き下がると、紫が地面にへたり込んで口元を手で覆うのを見下ろした。
「げ、ゲホゴホ、私の初めてが……いや、それより何を飲ませたのあなた!?」
「アッハッハッハ、すぐにわかるわよ!」
天子がそう言うや否や、紫の身に異変が起こった。
肌が急激に熱を帯びていき、身体の奥底から例え難い疼きが四肢を奔る。
異常を前に体は震えだし、紫は堪えられなさそうに自らの肩を抱きしめた。
「うっ……ぐぅ、やぁ……はぁんっ!」
「エロいな」
「言うんじゃないわよ、エロいけど」
「はしたないですよ総領娘様、そこは淫靡だとか奸濫だとかそういう言葉で」
「余計エロいわ」
鑑賞する御三方の前で紫はうずくまって震えていたが、やがて疼きは収まり、地面に手を突いて上体を起こした。
そこで感じる頭部とお尻に感じる違和感。
「うっ、なにこのかゆい感じ……まさか!?」
紫は気持ち悪さに思わず帽子を脱いだところで天子のやりそうなことを思い描き、慌ててスキマから手鏡を取り出して自分の姿を確認する。
ピカピカの鏡に映る、しなやかな金毛のネコミミを見て驚愕した。
「にゃ……にゃにこれー!?」
「よっしゃあ! 上手くいったわ!」
いぬの尻尾をばたつかせながら歓声を上げる天子の前にいたのは、まごうごとなきネコミミスタイルの大妖怪やくもゆかりんだった。
自身の状態を理解した紫は、先ほどの比ではない混乱した様を見せ、言葉が紡げない口をパクパクと動かしていた。
「あ、あわわわわわ、ネコミミ!? 私にネコミミって……」
「うへへへへ、よく似合ってるわよ紫。さてどうしてやろうかしら!? おら、まずはそのスカートの下の尻尾出さんかい!」
「完全に悪漢ですね」
「板につきすぎててちょっと引く」
気を良くした天子が緋想の剣を構えて、紫のドレスのスカートを後ろから切り裂いた。
切れ目から隠れていた猫の尻尾が天子の前に姿を現す、そこでようやく我に返った紫は遅まきながら悲鳴を上げて拳を振るった。
「きゃ、きゃあああああああ!!!」
「へぶしっ!?」
「おっ、これは素晴らしい右ストレート」
紫は天子の顔面を凹ませて、視線から逃れるようにネコミミを手で隠して身を捩った。
冷静に考えれば帽子をかぶり直すかスキマから逃げ出せばいいのに、それがわからないほど困惑しているようだった。
「や、やめて! 見ないでこんな姿!!」
「ちょ、どうしたのよ紫。そんなにガチで狼狽えてらしくもない」
羞恥に顔を歪ませる紫を見て、天子は攻め立てるのを止めて気を落ち着かせようとする。
「だ、だってこんなネコミミだなんて。私みたいなのにこんなの似合うわけないじゃない!」
「は?」
「こういうのは天子みたいな可愛い女の子にだけ許されるのよ!? 藍みたいに最初からそういう種族ならまだしも、年寄りが可愛い動物気取ったって痛々しいだけよ!」
紫の口から悲鳴のように語られた言葉に、天子は唖然とする他なかった。
一瞬いつもの冗談か何かと思ったが、依然として頭のネコミミを押さえて背中を丸めた紫を見るに本気で言っていることらしい。
固まる天子の後ろから、非難の視線が浴びせかけられた。
「あーあー、いつも総領娘様が紫さんにババアだとか言ってるからですよ」
「わ、私が言ったからってこんなのならないでしょ! きっと私が会う前からよ、前から!」
「でも天子の影響は少なからずあるんじゃない? そりゃあ仲の良い相手からババアババア言われてれば悲しくなってくるよ」
「うぐぐ」
天子も負い目を感じて、胸の奥で罪悪感がひょっこり顔を出し始める。
「ほら、総領娘様、早くフォローを」
「……わかったわよ」
衣玖に催促され、天子は改めて紫に声をかけた。
「紫! そんなに恥ずかしがらなくってもさ、似合ってるわよそのネコミミ」
「嘘よ! またいつもみたいに私の事をだまくらかそうとして!」
「嘘じゃないわよ! こんなことで騙したリしないって!」
続く言葉が気恥ずかしくて引っ込みそうになるのを、頬を指で掻いて誤魔化しながらゆっくり口を動かす。
「そりゃあさ、いつもは意地っ張りと当て付けで、歳の差を引き合いに出してるけどさ、ほ、本当は歳なんて気にならないくらい紫だって可愛いわよ。私にも負けないくらい」
「年寄りなのは否定しないのね……」
「この、あーもう! ちょっとこっち向きなさい紫! 私の尻尾見なさい、あんたには私がどう感じてるようにどう見える?」
紫は恐る恐るうつむかせていた顔を上げ、上目遣いで天子の方を見やった。
愛らしいイヌミミを生やした愛くるしい天子の顔が、強気な表情を保ちながらも赤みが差しているのが目に入る。
その可愛らしい顔立ちにしばし見とれるが、視界の端で尻尾がバタバタと音を鳴らして振り回されているのに意識が移った。
「……すごく、その、嬉しそう」
「そうよ滅茶苦茶嬉しいっていうか、興奮してるわよ。涙目のネコミミの紫が可愛いから、見てるだけで滾ってくるわよ」
少しばかり危ない発言だが、天子はあえて本心からさらけ出して紫にぶつかっていった。
それを受けて紫は心が揺れ動いたらしく、頭にかぶせていた手をどけた。
陽の光を受けて鮮やかに輝くネコミミがピンと反り立って、上目遣いのネコミミゆかりんというシチュエーションに天子は生唾を飲み込んだ。
改めて見る紫の姿は、元来の美しさはネコミミによってそのまま可愛らしさに転化され、涙目の背徳感も合わさって今すぐにでも抱きしめて、ネコミミの生えた頭を思う存分撫で回したい。
小動物感の溢れる紫というのも中々見れないレアショットだ、これだけでもイヌミミを付けられた甲斐があったと天子は思う。
とは言え、やはり紫に落ち込まれたままでは、天子としてはいつものように調子に乗れない。
「泣き顔もすっごく可愛いけど、自分のこと貶して落ち込むなんて、紫らしくない惨めなことしてないでよ」
「か、可愛い? 私が、本当に……?」
そもそもネコミミなんてなくとも、紫は時折可愛らしい表情を見せつけていたものだ。
美味しいものを食べた時の頬を押さえて味を堪能する時のうっとりとした表情、手を繋いだ時の僅かに肩を震わせて何かを抑えようとする恥じらいの表情、いつもと違う服装を着てきた時にそれを褒めると見せてくれた胸いっぱいに幸せを抱きしめたような喜びの表情。
「そうよ可愛いわよ。あんたみたいな綺麗で可愛いやつに、ネコミミが似合わないわけないじゃないの」
「ガンガン攻めますね。これが天人流の口説き方ですか……!」
「いや参考になるねえ」
「あんたら見世物じゃないわよ! しっし!」
そう言えばこいつらがいたなと思い出した天子が、振り向きざまにイヌミミを立てて吠え散らした。
「ちょっと紫、もう落ち着いてきたでしょ、スキマでどっか連れて行ってよ」
「え、えぇ……」
天子は開けっぴろげの本心を第三者に聞かれた恥ずかしさを振り払おうと、逆に胸を張ってハッキリと声を出す。
説得のお陰でかなり平静に戻ってきた紫は、天子に言われたとおり自宅に通じるスキマを二人のあいだに開いた。
「送られ狼頑張って下さいねー」
「うるさい!」
外野の声援に怒鳴り返して、天子はスキマに飛び込んだ。
その後から紫もスキマに身を投じ、二人して八雲の屋敷へと戻ってきた。
庭に降り立った二人は、縁側から家に上がればそこは、先ほど天子が紫に思う存分可愛がられた場所だ。紫が取り出した首輪がまだ片付けられず残っている。
二人っきりになって一旦会話が中断してしまうと気恥ずかしさから言葉を失ってしまい、二人は何も言えないまま目線を反らして畳の上で座り込んでいた。
時折チラリと相手の様子を――より正確には、相手に生えた獣の耳や尻尾を伺うが、すぐまたそっぽを向いて、しばし静寂が二人のあいだに流れる。
やがて戸惑いがちに口を開いたのは紫の方だった。
「……天子、本当に、似合ってる?」
「何度だって言ってあげるわよ。紫はその、私が知ってる誰よりも可愛いわよ」
「なら、本当に可愛いって思ってくれてるなら、はしたないお願いをしてみていいかしら?」
「いいわよ、何でも来なさいよ」
ここは紫のためにも受けてやるべきだろうと天子はドンと構えたように見せかけたが、内心何を言われるか少しヒヤヒヤものだった。
まさか冬眠中ずっと尻尾を抱かせてとか言われるんじゃと思いながら、紫の続く言葉を待つ。
「あ、頭を撫でてくれない……?」
ネコミミは恥ずかしさに震え、うつむいた顔から見上げてきた瞳は拒絶される不安から悩ましげに揺れ動く。
天子から見る紫の姿は、どこまでも乙女で可愛すぎてどうにかなりそうだった。
「どこがはしたないのよそれが!」
「だ、だって私みたいな年寄りがこんな甘え方!」
「また歳か! そんなのいくらだってしてあげるからこっち来なさいよ!」
沸き立つ気持ちから声を荒げておおげさに話す天子が、紫をそばに招き寄せる。
差し出された紫の頭に細い指を重ねた。
「ん……あふぅ」
「どうよ紫」
「あ、すごっ、天子の手あったかい……」
天子から頭を撫でてもらうという未知に加えて、ネコミミの感触が合わさって紫は恍惚とした表情を浮かべながらも身悶えする。
尻尾も動揺に、天子の手の動きに合わせて小刻みに揺れ動いていた。
「耳も尻尾も、すっごくピクピクしてる」
「天子も、尻尾すごく振り回してるわ」
薄く開けた目から紫が覗き見る先には、蒼い毛で風を切る尻尾があった。
「……イヤじゃ、ないのね」
「嫌なわけないじゃない、バーカ」
天子は泣く子に言い聞かせるように、優しい口調で紫の不安に言葉を返した。
「こんなことくらい、言えばいつでもやってあげるのに」
「だってこんなはしたないところ、藍たちに見られたらって思うと……」
「えー、いいじゃない見せてあげれば」
「そ、それはダメよ!」
恥ずかしいと言うよりもどこか焦った風な言葉を聞いて、天子は紫らしくないなと感じて頭をかしげる。
少し考えてみて、紫は自分の立場から誰かに甘えたりするのを自制しているのではないかと思い当たった。
紫がこの幻想郷で担う役割は重大だ、それを考えれば確かにあまり誰かに甘えるような姿を晒すのは良くないことかもしれない。
しかし、ならばなおのこと紫が普段見せない一面を引き出してやりたいという気になってきた。
すぐに決心した天子は、そばに転がっていた赤い首輪を手に取った。
「はい、紫じっとしてて」
「えっ、天子?」
天子は素早く首輪を巻きつける。
紫の細く美しい首筋に頑丈な革が覆いかぶさって、権利と尊厳をその下に封じ込めた。
「なにこれ、まさか首輪!?」
「やっぱりこれも似合う、さすが紫ね」
「見ちゃやあっ!」
「隠しちゃダメよ、今の紫は私のペットなんだから」
うろたえた紫が両腕を交差させ首元を隠そうとするが、天子がその腕を力づくで引き剥がす。
この首輪自体に何らかの妖力が込められているわけではない、だが今は存在を貶める楔として紫の精神に食い込んでいた。
「可愛いにゃんこに立場も何もない、だから何をしたって良いのよ」
「またそういう、強引に……」
普段の紫ならこのくらいの言葉は跳ね返せるだろうが、心が揺らいでいる今なら通用する。
言霊が浸透して紫の自我の殻を引き剥がし、抑圧されていた気持ちを開放させていく。
「さあ紫、ご主人様に可愛くおねだりしてみてよ。全部受け止めてあげるからさ」
天子が細めた眼で見下ろし、中指で紫の首元から顎の先までをなぞった。
いつになく圧倒された紫が顔を真赤にして目を逸らすが、正直におねだりを口にした。
「じゃ、じゃあ……今度は、耳を撫でて?」
「お安い御用よ」
得意気になった天子が、紫のネコミミに手を這わす。
耳の先から根本までなでつけた後、今度は逆に根本から先っぽまで親指と人差し指で挟むようになぞった。
紫はこそばゆい感覚に快感を感じて目を瞑る。
「んぅっ……」
「すっごいサラサラで良い毛並み、撫でてる方も気持ちいいなんて嫉妬しちゃうわよもう」
「そんな、天子だって」
「ふぅー」
「あひゃん!」
反論しようとした先から、天子がネコミミに息を吹きかけて言葉を封じる。
有無を言わさぬ攻勢だが、紫の尻尾の先っちょが嬉しそうにくねくねと揺れ動く。
天子はそれに目をつけると、すかさず尻尾を掴みとし毛の上からしごくように身を揉み解した。
「今の紫は私に可愛がられとけばいいのよ。たまには愛するよりも愛されなさい」
「やあ、だめ天子! 尻尾はダメ、ほんとにダメ!」
「どうせならダメになっちゃいなさいよ、このこのっ」
「うぅ、だから……ダメ!」
「うわっ!?」
優勢に立っていた天子であったが、突如として声を張り上げた紫に突き飛ばされ、畳の上に仰向けで倒れこむ。
起き上がろうとした身体に、紫がお尻からのしかかって動きを封じてしまった。
「よくもやってくたわね天子ぃぃ……!!」
馬乗りになった紫は、ネコミミを小刻みに動かしながらも口から生暖かそうな息を漏らし、得体のしれない眼光で天子を見下ろした。
「あっ、これヤバイやつだわ」と天子が思った時には、紫は細長い指を首元へと伸ばしてきた。
急所を触られ一瞬首を絞められるんじゃないかと本能的な危機感が過ぎるが、堅い革の感触とカチャカチャという金属がこすれる音がしただけで紫の手は離れていった。
しかし首周りに残った感触を不思議に思った天子に、紫は満面の笑みで手鏡をスキマから持ちだして見せつける。
「はぁーい、これは天子の分の首輪」
「アァーッ!?」
天子は自分の首に巻かれた紫色の首輪を見て悲鳴を上げた。
「私にまで着ける必要ないじゃない!」
「だって、元々は天子にもっと甘えて欲しくて、その耳と尻尾を付けたのよ?」
「そ、そうだったの? 尻尾で抱きまくらは?」
「それは勿論やるわ!」
それもやるんかいと、天子はげんなりとした表情を見せる。
「天子って意地っ張りで、いつも私と張り合ってくれて、それはとっても嬉しいけどたまに甘えて欲しいのよ」
「いや、今は紫が甘えるべきっていうか」
「なら聞くけど、天子は私から一方的にご主人様面されるのはどう思う?」
紫に言われてみて天子は想像してみる。
一年中三百六十五日、自身の首元に輪っかを付けられ、そこから伸びたリードを紫が掴んでいる。
紫は満面の笑みを浮かべていて、自分も屈辱を感じながら内心まんざらでもないのだが、これだけでは足りない、足りないのだ。
のほほんとした紫に噛みつきたい。互いに主導権を求めて牽制しあって、立場が入れ代わり立ち代わり、そうした流動の中にこそ八雲紫と比那名居天子独特の『愛』がある。
「……いや、もっと対等がいい」
「私も同じなのよ。だから私が天子のペットなら、天子も私のペットにしなくちゃ」
「何その無茶苦茶」
「無茶苦茶のほうが合ってるでしょう?」
今度は天子が顎に指を這わされた。
紫の理屈は天子にもなんとなくわかった。しかしこれで彼女も強情で、中々紫に従わない。
「さあ、今度は天子が甘える番よ。ほら、何でも言ってご覧なさい」
「うぅ、イヤよぉ……」
紫は横たわる天子の胸元を指先でなぞり、印象づけるように紫色の首輪を弾く。
自分がされら時と同じように耳元に息を吹きかけたり、フサフサの尻尾をこすってみたりするが天子はギュッと目を閉じて我慢するばかりでどうにも動かない。
やり方を変えるべきだなと判断した紫は、身体の上から降りて天子を起き上がらせると、手の平を上に向けて差し出した。
「じゃあ天子、お手」
「は?」
「だからお手よ。ワンちゃんらしくお手、しなさい。ね?」
「いや、イヌミミ付けたからって……」
「ね?」
ニッコリと笑う紫から、有無を言わさぬ大妖怪のプレッシャーが天子に押し寄せる。
いつもならこれくらいに怯む天子ではないが、流れに飲まれつい呻きが漏れた。
状況が状況であるし、従わなければ収まらなさそうなので仕方なく手を重ねる。
「はい、やったわよ」
「あらダメよ、ワンちゃんなんだからワンって言わなきゃ」
「何でそこまでやらなくちゃいけないのよ!?」
「はい、ワーン♪ ワーン♪」
「わかったわよ、ワン! ワン! これでいい!?」
天子はヤケクソに声を張り上げて紫の手を叩く。
すると紫は満足気にうなずいて、天子の頭のてっぺんを撫でてイヌミミを左右に揺らした。
「よーしよし、よくできたわ、偉いわね天子」
「ちょっ、やっ、こんなことぐらいでそんな褒めないでよっ」
「はいもう一度、お手!」
再び紫の手が差し出される。
どうするか迷った天子だったが、一度従ったことで抵抗感が薄れてきたようで、渋々ながらも優しく手を重ねた。
「……ワン」
「うふふ、いい子いい子」
紫の持ちだした策は褒め殺しだった。
とにかく言われたとおりのことをしていれば、頭を撫でて褒め称え、天子の殻を丁寧に剥がしていく。
こんな風に照れさせられるのは天子には新鮮で強烈だった。顔を真赤にされながらも、まるで抵抗できない。
段々と自分が従順にさせられるのを感じながらも、言う通りにするしかできなかった。
「今度は三回ワンって鳴いてみて」
「……ワン、ワン、ワン!」
「ああ、本当に賢い子だわ。偉いわよー、よしよしよし。それじゃあ次は三秒伏せたら、お腹見せて寝転がって、最後にお座りしてお辞儀よ」
「ワン!」
「ああん、もう可愛いわね天子ったら。よーしよしよし」
「くぅーん、くぅーん」
子供にだってできる簡単な注文にも、紫は満面の笑みを見せてくれる。
天子はこんなことで喜んではいけないとわかってるのに、隠し切れない嬉しさが鳴き声になって口から出た。
ヤバい、これは堕落する、完全に犬畜生まで貶められると、甘く蕩ける天子の脳内で警鐘が鳴った。
このまま戻れなくなる前に、天子は残った力を振り絞って紫の手を跳ね除けた。
「あーもう、今度は紫の番よ!」
「きゃあっ!?」
「そこはきゃあじゃなくてにゃん! ネコちゃんなんだから」
紫が押し倒され、再び天子に主導権が移る。
「ネコ言葉まで使えだなんて言われても、恥ずかしいわよ!」
「大丈夫だって、絶対! 可愛いから! 私だってワンワン言ってたんだから、紫も言わなきゃ、対等でしょ?」
「うぅ……」
まず自分から天子に似たようなことをさせていたということもあり、紫も従わなければならないような気がしてきた。
やがて意を決して、恥ずかしさに目をつぶりながらも両手を曲げてそれらしいポーズを取って鳴き声を上げた。
「にゃ、にゃあ~ん……」
「…………」
「…………天子?」
「かわいいー!!!」
一瞬黙っていた天子だがすぐに堰が切れ、両手を合わせて瞳をキラキラと輝かせながら歓声を上げた。
「ゆかりんにゃんこかわいいー! 大人っぽいのに可愛いなんて反則でしょ!」
「やあ、そんな可愛いばっかり言わないでよ!」
「だって可愛いだもん、かわいい可愛いカ・ワ・イ・イ!!」
「ちょ、まっ…………や、やめてー! かわいくないー!」
「かわいいわよ!」
どうやら紫も紫で褒め殺しには弱いようで、またまたネコミミを両手で隠してうずくまってしまった。
「そのままにゃんこ言葉で甘えてみて! お願い、お願い!」
「それじゃどっちが甘えてるのかわからないじゃないの」
紫は恨めしそうなジト目で睨めあげてきたが、天子のほうはお構い無しだ。
結局押し切られてしまうが、いい加減紫もこのノリに慣れてきて少し大胆な要望を出してみた。
「じゃあ、今度はギュッとして?」
「んー、もっちろん! ギュー!」
待ってましたと言わんばかりに、天子は飛びついて紫の頭をギュッと胸元に抱きしめた。
てっきり普通にハグしてもらえると思っていた紫は驚きで固まる。
「やあ!? 天子、頭じゃなくてっ」
「こっちのほうが甘やかしてる感じがするからこっちでいいの」
四の五の言おうとした紫を黙らせて、天子は撫で回しながら紫の抱き心地を堪能する。
更に目の前でピコピコ動くネコミミを口に咥えて、欲望のまま甘噛して舐めしゃぶったりしてみた。
「あむあむ、じゅるり」
「ん、それすごすぎっ……こ、今度は私よ天子!」
「きゃっ!」
抱き着いていた天子を跳ね飛ばして、紫がその上に伸し掛かろうとする。
しかし天子は咄嗟に畳の上で転がると紫のお尻から逃れ、逆に紫を御してやろうと飛びかかった。
「まだよ! まだ物足りないもんね!」
「こら次は私の番でしょ! っていうかもうずっと私のターンでいなさいよ!」
「それはこっちのセリフよ、こんな機会滅多にないんだから今日くらい私が!」
「何言ってるの、いつも何だかんだであなたも好き勝手楽しんでるくせに!」
「あんただっていつも私のことボコって得意気にうふうふ言ってんじゃないのよ!」
互いに罵詈雑言喚き散らして取っ組み合い、くんずほぐれつのまま転げまわった。
背中が壁にぶつかって音を立て家を揺らし、蹴飛ばしたふすまが敷居からズレる。
散々暴れまわった二人は、起き上がって互いの手を合わせたまま五指に力を込め、手四つの形で睨み合った。
「私が!」
「いいやここは私が!」
その時だった、半分壊れた襖が力づくで開け放たれ、廊下から現れた影があった。
凶兆の黒猫こと橙が、過労で熱を出してブッ倒れた藍のために、氷水とタオルの入った桶を抱えたままそこに立っていた。
取っ組み合っていた二人が「あっ……」と声を漏らし、騒がしかった部屋を静寂が包む。
「藍様寝てるんだから黙りやがってください」
「「ひゃ、ひゃい…………」」
式の式の今までに例を見ない高圧的な笑顔を前に、獣畜生は思わず身を寄せあって震えた。
◇ ◆ ◇
「ご、ごめんなさいね、騒がしくしちゃって」
「まったく、天子が好きなのはわかりましたから、もうちょっと冷静になってくださいよ」
呆れ顔で布団に包まった藍の前で、紫は必死に誤魔化しの笑顔を浮かべながら、冷たいタオルを絞る。
首輪を外し、破れた服も着替えてあるが、未だに頭の上には可憐なネコミミが揺れている。
あの後、紫は天子と二人揃って正座して、橙から「藍様のこと扱き使って倒れさせといて、すぐそばの部屋でギャーギャー喚き散らすなんて何考えてるんですか!」と説教され、その償いとしてこうやって藍の看病をしている。
「八雲家の主なのですから、橙に叱られるなんて情けないことはよしてください」
「め、面目ございません……」
普段飄々とした紫も、式の式相手に反論もできないまま説教されたという事実にはかなり凹んでいるようだった。まあ自業自得であるが。
藍は額に乗せられたタオルの冷たさを感じながら溜息をついて、どうもこの主は天子相手だと行動がちぐはぐになるなと思った。
歪んだ欲望をさらけ出したり、かと思えば純情を恥ずかしそうに隠したり、まったく恋する乙女とは度し難い。
「まあでもいい格好じゃないですかそれ」
藍は寝転がったまま、紫の頭で揺れるネコミミを目で追った。
だが紫は相変わらず、視線から逃れるようにそっぽを向いて口をとがらせる。
「お、お世辞はよしてちょうだい」
「世辞なんかじゃありませんよ」
本心からの言葉だと伝えるが、どうにも紫には伝わっていないようだ。
天子みたいにぶち当たれない自分じゃ無理か。
藍は仕方なさそうにため息をつくと、天井に視線を戻す。
「いい機会だったかもしれませんね、たまには紫様も素直になったほうがいい」
「私が素直じゃないというの?」
「十分普段からひねくれてるじゃないですか」
紫は何も言い返せず、ぐぅと唸りを漏らして黙ってしまう。
「本当はまだ天子にして欲しいこと、言いたいことがあるんじゃないですか?」
紫は驚いた顔をして、今度こそ何も言えず黙ってしまった。
「その姿のまま、もう一度天子とゆっくり話してみてはいかがですか」
「いいの? 今日は藍に、けっこうな負担を強いたけれど」
「今更この程度でグダグダ言うほど優しい扱いじゃなかったですよ。まあまた騒がれるのはなしにして欲しいですけどね」
迷いに耳を揺らす紫を、藍がもう一度見上げた。
「かわいい式に熱を出させたぶん、楽しんできてくださいな」
◇ ◆ ◇
「ね、ねぇー橙、私に掃除とかやらされても効率悪いと思うんだけど。ほらもうお日様も沈みそうだし」
「ダメ! ちゃんと家の掃除全部終わらせないと帰さないんだからね!」
雑巾を持って廊下で四つん這いになっていたイヌミミ天子が、苦笑いとともに振り返って出した提案を、仁王立ちした橙が有無をいわさず押さえこむ。
大好きな藍に負担を掛けたのがよほど頭に来たらしく、この怒り具合を見るにここで下手に逃げ出したりしたら後で厄介そうだ。
「そもそもここの掃除だって今日のうちに藍様がやるはずだったものよ。それを天子が地震で結界を崩すなんてバカな真似したせいで、熱出してできなくなっちゃったんだから! 天子が償うのは当然でしょ!」
「それはまあ、そうかもしんないけど。絶対これ橙がやったほうが早い……」
「ほらさっさとやる!」
言い訳しようとすれば、尻を蹴飛ばされて「ひゃん!」と鳴き声が出た。尻尾の付け根に刺激を与えられるのは辛い。
ずっと後ろから見張ってくる橙の視線を背負いながら、渋々天子は手を動かす。
掃除が終わった頃にはすっかり空は暗くなっていた。
「はぁー、疲れたー……」
ようやく開放された天子は縁側でうつ伏せで寝転がっていた。
紫につけられたイヌミミと尻尾をぺたんと倒し、全身から力を抜く。
部屋の灯りは消されており、雲にかかった月の微弱な光だけが照らす縁側は、疲れた身体にはいい塩梅の静けさだ。
「うぅ~、家のことやるって言うのもちょっと面白かったけど、後ろから蹴られながらじゃ楽しめないわよー……おのれ橙、こうなったらあいつがいるマヨヒガに大雨を降らしてやる」
「そんなことしたら藍を連れて殴りこみかけるわよ」
「ハハハ、冗談よ冗談」
紫がスキマから上半身だけ現れていきなり声をかけてくるのにも、天子も慣れたもので特に驚きもせずあしらった。
起き上がって紫のほうを見ようとしてみるが、わずかな月明かりを屋根が遮っていてぼんやりとしかわからない。
ただそこにいることはわかったので、話をしようと縁側に腰を据えたまま庭に足を投げ出した。
「お疲れさま紫。そっちももう終わり?」
「えぇ、晩ごはんのおかゆも用意してあげたし、食べさせるのは橙がやりたがってたから任せたわ」
「そっちは楽そうでいいわねまったく」
紫はスキマから這い出ると、天子に並んで腰掛ける。
そこで天子はようやく紫の姿のある特徴に気がついた。
「――まだ付いてるのねそれ」
雲越しに届く月の光が、紫の頭に付いたネコミミを浮かび上がらせていた
尻尾もまだ健在らしく、天子が紫の背後に目を向ければ、尾先が少しスカートの裾からはみ出ているのが暗闇の中で辛うじてわかった。
「あなたが付けたんでしょうに。いつ消えるのよこれ?」
「さあねぇ、天人なら一晩寝れば自然に消えてるそうだけど、妖怪相手に使ってどうなるか聞いてないし。もしかしたら一生そのままかもね」
「もしそうだったらあなたの首に輪っかをはめて宴会会場に引っ張りだしてやるわよ」
ケラケラと無責任極まりなく笑う天子に、紫は青筋立てて言い放つが、すぐに気を取り直した。
「……まあ、もしそうだとしても、冷静になればこのくらい解呪できるわ。調べたところ呪いに似たようなもののようだし」
「できるって、だったら今もその姿なのはなんで?」
「それは……」
紫は痛いところを突かれたと言うように、天子から顔をそらす。
不思議に思った天子がじっと見つめていると、分厚い雲が風に流され、月明かりが二人の元まで届いてきた。
暗闇から段々と浮かび上がってくる紫の身体、その手元に赤い輪が握られているのを見て、天子は目を丸くした。
「それって……」
先程まで、紫の首につけられていた首輪だった。
紫の両手の中で、月明かりに照らされたそれがそっと差し出され、天子は思わず尋ねてしまった。
「いいの?」
紫の手はかすかに震えていた。
緊張で服の下が汗ばみ、早鐘を打つ鼓動が耳の中に重く響く。
妖怪の賢者、幻想郷の管理者、それらの責が心を締め付けるが、紫は重圧に負けず奥底の気持を引きずりだした。
「あなたに、付けて欲しいのよ」
何にとは、天子も言われずともわかる。
天子は首輪を受け取って手に収めるととまじまじと見つめ、やがて目の前の首筋に持って行った。
首元からカチャカチャと金具の音が響くのを、紫は目を閉じて聞いていた。
その音が静まった時には、赤い革の首輪が賢者とまで呼ばれた妖怪の首に巻き付けられていた。
天子の目が嬉しさに見開かれる。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。紫が自分をこうまで求めてきてくれたことが嬉しい、紫の望みに触れられることが嬉しい。
溢れる喜びで叫びだしたくなるのをこらえながら、天子は努めて静かな声色で語りかけて。
「それで、どんな風に甘えたいの子猫ちゃんは?」
どんなことでも受け止めてあげるよと、そう言い聞かせるような優しい音色。。
それを聞き、首輪という枷を付けられたはずの紫は、むしろ心を解き放たれたような気持ちになり、紫は閉じていた瞳をそっと開かせる。
「そうね、まずは……」
紫の身体が寄せられ、天子の肩に頭が寝かせられる。
揺れるネコミミから漂ってくる匂いに、天子は嬉しそうにイヌミミを揺らし、頬をこすりつけた。
紫は自分が受け入れられのか不安でドキドキしながらも、密着した天子の熱に信頼関係を感じて、そっと望みを口にした。
「ずっと一緒にいてくれるかしら……?」
二人の影に隠れて、スカートからはみ出た猫と犬の尻尾が絡み合っていた。
自分の家で昼寝をしていたら、いつのまにか紫の家に拉致られていた。
そのことは別に天子としてはどうでもいい、むしろ遊びに行く暇が省けてラッキーというものだ。
天子の恨みがましい視線が向かう先は、紫が見せつけてくる手鏡にあった。
「いやね、最近めっきり冷めこんできたじゃない? それで橙がよく藍の尻尾に抱きついてるから」
「それで?」
「私も天子で温まりたいなーと思って、生やした」
「湯たんぽ代わりで昼寝してる人の肉体魔改造すなー!!!」
声を張る天子のお尻から伸びているのは、青色の毛がモッフモッフした犬っぽい尻尾。
同じ色合いのフサフサした耳を頭に付けた天子は、可愛い顔を膨らませてプリプリと可愛らしく怒った。可愛い。
「かわいい~!」
「コラー! 許可無く尻尾に抱きつくの禁止―!」
頬を緩ませた紫が紫のドレスを翻し飛びついてきたのを、天子は軽やかな身のこなしでかわすと間合いを取る。
天子に生やされたなりきり犬コスセットは、まぎれもなく身体の一部分と化しており、天子の感情に合わせて尻尾がフリフリ、耳がピコピコと反応している。
ご丁寧にもスカートには尻尾を通すために穴まで開けられており、衣装の外に伸ばされた尻尾は思う存分ツヤツヤの毛を披露していた。
天子の紫に対する警戒が、水平にピンと張り詰めた尻尾からも見て取れる。
「ねえ、ねえ、天子、首輪も付けて? ケージの中に入れてこっちにキャンキャン鳴いてくるのをずっと見てたいわ」
「するか! 噛みつくわよバカ!」
スキマから取り出された赤い首輪を天子はすかさずはたき落とし、犬らしく喉をガルルと震わせながら犬歯を見せて威嚇する。
本人は怒りを露わにしているつもりなのだろうが、元々の子供らしい丸っこい顔と合わさったところで可愛いだけだった。
それを見て更に頬をとろけさせる紫に、天子は思わず足を引いた。紫の台詞がいちいち犯罪的なのは慣れっこだが、このまま流されるのは癇に障る。
天子は自分の腰元に顔を向け、尾てい骨から生えた尻尾をブンブン振り回してみて感触を確かめる。
毛の一本一本が風を切って、慣れない感覚に思わず身悶えした。
「うーん、感覚が本当にザ・尻尾って感じだわ。無駄な技術力」
「ふふふ、長い時間を掛けて積み重ねてきた術式をふんだんに使わせてもらったわ」
「努力の方向性が間違ってるわよもう。いきなり生やされたから変な感じね」
尻尾もそうだが頭のイヌミミも気になる、何もしなくてもくすぐったく感じる。
天子が頭に手をやって新しい耳元を掻いていると、紫の手が伸びてきて耳の間をワシワシと撫でた。
「あっ、コラちょっと勝手に!」
「撫でるくらいいいでしょう? 耳が付くと撫でる方の感触も変わるわね」
紫はよく身長差のある天子を上から撫で付けているが、横に動かした手が耳のフサフサにくすぐられる感触は新鮮で、その触り心地に浸って和やかな気持ちで目を細める。
橙に加え、昔は藍のことも撫でることが多かった紫だが、天子の耳は二人に比べても毛の量が多い上に癖が強く、紫の手をしっかりと受け止めてくれる。なかなか面白い感触だ。
「天子の方はどうかしら? ほら、ここなんてどう?」
「あーもう! なんであんたは自分が攻められるとすぐヘタれるのに……あん、や、そこはダメッ」
紫は手を繋いだりだとかの恋人的スキンシップは恥ずかしがってどこまでも奥手なのだが、こうして欲望を開放した時の行動力は天井知らずだ。
身を捩らせて逃げようとする天子を片手で抱き寄せて、耳の根本を優しく指先で撫で上げた。
耳の裏側から両脇に抜け出るように指先でなぞり、そこから小刻みに逆方向へ掻きあげて刺激してみせる。
優しく温かく、それでいて屈辱的な未知の気持ち良さに、天子は顔を赤らめさせて肩を震わせた。
「あ、あふ……あんっ! ちょ、ちょっと紫……!!」
「はあー、天子のイヌミミ気持ちいいわぁ、ハァハァハア…………!!! ヤバイ脳内物質流れすぎて死にそう」
だがすっかりトリップしてしまった紫は、天子の声は欲情を煽るスパイス程度にしかならず言葉は届かないようだ。
どうにもならないと悟った天子は、快感に震える手で緋想の剣を手にとって、部屋の畳に突き刺した。
「せ、先憂後楽の剣!」
緋想の剣は床を突き破って剣先を大地にまで届かせると、数秒の間を置いて地震が発生し屋敷を揺らした。
だがスペルカードまで使って天子が起こした地震としては随分と程度が低い、せいぜい震度2くらいの小さな地震だ。
恐らく震源はここではないどこか、そのことに気付いた紫に嫌な予感が走り、思わず正気に返った。
「……あれ、今の地震って…………まさか!?」
慌てて紫がどこぞへとスキマを開いて、向こう側を覗き見る。
「きゃああああああああ!!! 地脈揺らされて大結界にヒビ入ってるううううう!!?」
「今よ脱出!」
「あっ、天子待ちなさい!?」
すかさず靴下だけ履いたまま屋敷を飛び出した天子を紫は止めようとするが、大結界のことを考えるとそれどころではなく、結局言葉を投げかける以上のことはできなかった。
◇ ◆ ◇
「それで紫のところから飛び出してきたってわけかい」
「まったくもう、冗談じゃないわよあのババア」
一旦家に帰って靴を履いてきた天子は、天界で管を巻いていた萃香と衣玖を捕まえてグチグチと機嫌悪そうな声を漏らしていた。
その頭では今でもふさふさのイヌミミが鎮座し、天子の機嫌に合わせて伏せられ、先っぽが地面を向いていた。
「しかし大結界まで揺らすのはやり過ぎでは?」
「良いのよ。霊夢のやつだって紫を釣るためにたまに緩めてるらしいし」
衣玖の苦言に言い訳する天子だが、実際のところ結界を局所的に緩めるのと地震で崩すのではまったく規模が違うことは言わないでおいた。
まあたまにしかやらなければ問題無いだろう、多分。
「でもけっこう似合ってるんじゃんかそのイヌコス」
「ふふん、それは当然よ。なんたって私だからね」
「すさまじい自意識過剰っぷりですが、それなら別に逃げ出さなくても良かったんじゃ」
「一方的に良いようにされるのはむかつく!」
「まあ天子ならそうなるだろうね」
とは言え天子でなくともあの可愛がりようでは逃げ出したくなって当然だろうが。
しかしただ逃げるだけで終わらないからこその比那名居天子だ。
「というわけで紫にも同じことをしてやるわ」
ニンマリと悪巧みの笑顔を浮かべて、楽しげに尻尾をゆっくりと揺らした。
「同じこととは?」
「実はここに飲み込むとケモミミと尻尾が生えてくる不思議なおクスリがあります」
「ブフッ!?」
天子から取り出された小瓶に、思わず萃香が飲んでいた酒を噴き出した。
「なんでそんな都合のいいものが」
「ゲホ、何だい永遠亭でも行ってきたの?」
「いや、天人ってこれでけっこうエロ方面も盛んだから、天界じゃそういうプレイ用のが結構流通してて簡単に手に入って」
「うわぁ、これが天界の闇か」
「もしかして総領娘様もそっちの遊びを……」
「してないわよ、こちとらファーストキスもまだよ」
「良かった、これで経験済みとかだったら紫のやつ憤死してた」
「というか紫さんとすらやってないんですか」
「あいつ肝心なとこでヘタレだし……」
「ああ……」
衣玖と萃香が腕を組んで納得して頷く。
衣玖は思い浮かべる、ちょっと空気を読んで二人きりにして様子を見てると、最初はおちゃらけていたのに段々と天子のことを意識してしどろもどろになって行った紫の姿を。
萃香は思い浮かべる、普段天子にちょっかいかけまくって恥ずかしいことしまくってる癖して、どこまで進んだんだと聞いたら真っ赤な顔で「こ、このまえ手を繋いじゃったわ……!」と嬉しそうに語った紫の姿を。
「まあそれは置いといて、あいつはそんな簡単に一服盛られるようなやつじゃないよ」
「そこはまあ知恵と勇気とパワーよ。ちょっと二人とも耳貸しなさい」
周りに誰か居るわけでもないが、雰囲気重視で顔を寄せ合う。
萃香の角がイヌミミにこすれて天子は顔をしかめたが、そのまま二人に策を伝えた。
「知恵と勇気とパワーというか、パワーとパワーとパワーなんですがそれは」
「と言うかそれ私まで被害受けるんだけど」
「萃香だって頑丈だかそれくらい大丈夫でしょ。今度いいお酒持ってくるからさ~、お願い!」
「うーん、しょうがないねえ。じゃあこれで」
少しばかり悩んだ萃香は五本の指を立てて天子に見せ付けた。
萃香のことだから何を求めているのかはすぐにわかった、問題はそれの単位だ。
「……五升?」
「いや五樽」
「くっ、足元見やがって……わかったわよ、なんとかしてやるわよ!」
「毎度アリ~」
「衣玖の分は欲しかったら萃香に貰いなさいよ。一番楽な仕事なんだし」
「まああの妖怪に思いっきりぶっ放せる機会なんてそうないですし、それでいいでしょう」
「なんだかんだで衣玖も相当バイオレンスよね」
「幻想郷に常識人などいないよ」
◇ ◆ ◇
空の上で悪巧み終わって少し経った頃、地上では紫がくたびれた表情で畳に突っ伏していた。
「天子ったら、無茶苦茶やってくれて……お陰でものすっごく疲れたじゃないの、藍にも痴話喧嘩で何やってるんだって叱られるし」
あの後はてんてこ舞いだった。急いで藍を呼びつけて、大結界が崩壊しないように速攻で修復を終わらせたのだ。
すぐに修復が終わったのであれば簡単な作業だったのかと思うかもしれないが、むしろその逆だ。
地脈のズレによって急激に結界は崩壊を始めており、崩壊を上回る速度で強引に修復していくという凄まじいスピード勝負だった。
その苦労のほどは、修復作業の手伝いとして呼び出した藍が熱暴走で倒れて、隣の部屋で橙の看病を受けている辺りから察して欲しい。九尾がそこまで疲弊する作業に、すっごく疲れた程度で済む紫がどちらかと言えばおかしい。
「だがこの程度で諦めきれないわ。天子の尻尾をモフモフしながら最高の睡眠を得る!! その後でおしおきねあの子」
予想外のストレスで妙なテンションが維持されたままの紫は、ガバリと畳から起き上がって天界へとスキマを開いた。
まずはスキマ越しに向こう側を覗いて状況を確認。萃香と衣玖と輪を作るようにわんこ天子が上機嫌にお酒を飲んでいる。
天子が楽しそうに笑うのに連動してふりふり振られる尻尾を見て我慢できなくなった紫は、意を決してスキマから飛び出し、その蒼く艶やかな尻尾に抱き着いた。
「てんし~!」
「うひゃあ!!」
突然抱きつかれ一瞬驚く天子であったが、すぐに目が真剣なものに変わり、アイコンタクトを周囲に送った。
すかさず衣玖は羽衣を揺らして浮き上がると、その場から距離を取る。
「今よ萃香!」
「うおっしゃい。イエーイ、ブラックホール!」
「えっ、きゃあ!?」
衣玖が安全圏に離脱したのを確認したと同時に号令が上がり、萃香を中心として周囲の物体が萃められた。
気流が乱れて風が騒ぎ立てる中を、天子と紫が二人仲良く吸い寄せられ、萃香にガッシリと捕まえられた。
「ゆかりんゲットだぜ! ついでに天子も」
「す、萃香何を……」
「最大出力ぅぅぅ……大(DIE)!! フィーバアアアアアアアアアアアアア!!!」
いきなりの急展開に困惑する紫だったが、その疑問が解ける前にフィーバーダンサー衣玖の渾身の電撃が三人を見舞った。
「あばばばばばばばばば!!!」
「しびびびびびびびびび!!!」
「うきゃあああああああ!!?」
紫をハメるための秘策、天子を囮として萃香すら犠牲とした捨て身のゴリ押し。
天子、萃香、そして紫の三人はフルパワーの放電を受けて、悲鳴を上げた。五体は痺れ、動きを封じられる。
だが先に心の準備を済ませていた天子は、電撃が続く中で痺れを振りきってポケットから例の小瓶を取り出した。
「紫ぃ! 覚悟!!!」
中の丸薬を自らの口に含んだ天子は、引っ付いていた紫に向き直り、その無防備な唇に熱い接吻を交わした。
空気に合わせて電撃は止み、同時に「ズキュウウウン!」という効果音が衣玖の口から発せられる
「やった! さすが天子!」
「なんてロマンもへったくれもないファーストキス!」
「そこにシビれないし軽蔑するゥ!」
天子たちから離れた萃香が、衣玖と一緒に囃し立てる。
二転三転する展開に混乱していた紫が、ようやく状況に思考が追いつき目を丸くした。
至近距離で天子と目が合って喉の奥へと押し込まれた何かから、反射的に天子を突き飛ばして距離を取る。
天子はニヤニヤと笑みを浮かべておとなしく引き下がると、紫が地面にへたり込んで口元を手で覆うのを見下ろした。
「げ、ゲホゴホ、私の初めてが……いや、それより何を飲ませたのあなた!?」
「アッハッハッハ、すぐにわかるわよ!」
天子がそう言うや否や、紫の身に異変が起こった。
肌が急激に熱を帯びていき、身体の奥底から例え難い疼きが四肢を奔る。
異常を前に体は震えだし、紫は堪えられなさそうに自らの肩を抱きしめた。
「うっ……ぐぅ、やぁ……はぁんっ!」
「エロいな」
「言うんじゃないわよ、エロいけど」
「はしたないですよ総領娘様、そこは淫靡だとか奸濫だとかそういう言葉で」
「余計エロいわ」
鑑賞する御三方の前で紫はうずくまって震えていたが、やがて疼きは収まり、地面に手を突いて上体を起こした。
そこで感じる頭部とお尻に感じる違和感。
「うっ、なにこのかゆい感じ……まさか!?」
紫は気持ち悪さに思わず帽子を脱いだところで天子のやりそうなことを思い描き、慌ててスキマから手鏡を取り出して自分の姿を確認する。
ピカピカの鏡に映る、しなやかな金毛のネコミミを見て驚愕した。
「にゃ……にゃにこれー!?」
「よっしゃあ! 上手くいったわ!」
いぬの尻尾をばたつかせながら歓声を上げる天子の前にいたのは、まごうごとなきネコミミスタイルの大妖怪やくもゆかりんだった。
自身の状態を理解した紫は、先ほどの比ではない混乱した様を見せ、言葉が紡げない口をパクパクと動かしていた。
「あ、あわわわわわ、ネコミミ!? 私にネコミミって……」
「うへへへへ、よく似合ってるわよ紫。さてどうしてやろうかしら!? おら、まずはそのスカートの下の尻尾出さんかい!」
「完全に悪漢ですね」
「板につきすぎててちょっと引く」
気を良くした天子が緋想の剣を構えて、紫のドレスのスカートを後ろから切り裂いた。
切れ目から隠れていた猫の尻尾が天子の前に姿を現す、そこでようやく我に返った紫は遅まきながら悲鳴を上げて拳を振るった。
「きゃ、きゃあああああああ!!!」
「へぶしっ!?」
「おっ、これは素晴らしい右ストレート」
紫は天子の顔面を凹ませて、視線から逃れるようにネコミミを手で隠して身を捩った。
冷静に考えれば帽子をかぶり直すかスキマから逃げ出せばいいのに、それがわからないほど困惑しているようだった。
「や、やめて! 見ないでこんな姿!!」
「ちょ、どうしたのよ紫。そんなにガチで狼狽えてらしくもない」
羞恥に顔を歪ませる紫を見て、天子は攻め立てるのを止めて気を落ち着かせようとする。
「だ、だってこんなネコミミだなんて。私みたいなのにこんなの似合うわけないじゃない!」
「は?」
「こういうのは天子みたいな可愛い女の子にだけ許されるのよ!? 藍みたいに最初からそういう種族ならまだしも、年寄りが可愛い動物気取ったって痛々しいだけよ!」
紫の口から悲鳴のように語られた言葉に、天子は唖然とする他なかった。
一瞬いつもの冗談か何かと思ったが、依然として頭のネコミミを押さえて背中を丸めた紫を見るに本気で言っていることらしい。
固まる天子の後ろから、非難の視線が浴びせかけられた。
「あーあー、いつも総領娘様が紫さんにババアだとか言ってるからですよ」
「わ、私が言ったからってこんなのならないでしょ! きっと私が会う前からよ、前から!」
「でも天子の影響は少なからずあるんじゃない? そりゃあ仲の良い相手からババアババア言われてれば悲しくなってくるよ」
「うぐぐ」
天子も負い目を感じて、胸の奥で罪悪感がひょっこり顔を出し始める。
「ほら、総領娘様、早くフォローを」
「……わかったわよ」
衣玖に催促され、天子は改めて紫に声をかけた。
「紫! そんなに恥ずかしがらなくってもさ、似合ってるわよそのネコミミ」
「嘘よ! またいつもみたいに私の事をだまくらかそうとして!」
「嘘じゃないわよ! こんなことで騙したリしないって!」
続く言葉が気恥ずかしくて引っ込みそうになるのを、頬を指で掻いて誤魔化しながらゆっくり口を動かす。
「そりゃあさ、いつもは意地っ張りと当て付けで、歳の差を引き合いに出してるけどさ、ほ、本当は歳なんて気にならないくらい紫だって可愛いわよ。私にも負けないくらい」
「年寄りなのは否定しないのね……」
「この、あーもう! ちょっとこっち向きなさい紫! 私の尻尾見なさい、あんたには私がどう感じてるようにどう見える?」
紫は恐る恐るうつむかせていた顔を上げ、上目遣いで天子の方を見やった。
愛らしいイヌミミを生やした愛くるしい天子の顔が、強気な表情を保ちながらも赤みが差しているのが目に入る。
その可愛らしい顔立ちにしばし見とれるが、視界の端で尻尾がバタバタと音を鳴らして振り回されているのに意識が移った。
「……すごく、その、嬉しそう」
「そうよ滅茶苦茶嬉しいっていうか、興奮してるわよ。涙目のネコミミの紫が可愛いから、見てるだけで滾ってくるわよ」
少しばかり危ない発言だが、天子はあえて本心からさらけ出して紫にぶつかっていった。
それを受けて紫は心が揺れ動いたらしく、頭にかぶせていた手をどけた。
陽の光を受けて鮮やかに輝くネコミミがピンと反り立って、上目遣いのネコミミゆかりんというシチュエーションに天子は生唾を飲み込んだ。
改めて見る紫の姿は、元来の美しさはネコミミによってそのまま可愛らしさに転化され、涙目の背徳感も合わさって今すぐにでも抱きしめて、ネコミミの生えた頭を思う存分撫で回したい。
小動物感の溢れる紫というのも中々見れないレアショットだ、これだけでもイヌミミを付けられた甲斐があったと天子は思う。
とは言え、やはり紫に落ち込まれたままでは、天子としてはいつものように調子に乗れない。
「泣き顔もすっごく可愛いけど、自分のこと貶して落ち込むなんて、紫らしくない惨めなことしてないでよ」
「か、可愛い? 私が、本当に……?」
そもそもネコミミなんてなくとも、紫は時折可愛らしい表情を見せつけていたものだ。
美味しいものを食べた時の頬を押さえて味を堪能する時のうっとりとした表情、手を繋いだ時の僅かに肩を震わせて何かを抑えようとする恥じらいの表情、いつもと違う服装を着てきた時にそれを褒めると見せてくれた胸いっぱいに幸せを抱きしめたような喜びの表情。
「そうよ可愛いわよ。あんたみたいな綺麗で可愛いやつに、ネコミミが似合わないわけないじゃないの」
「ガンガン攻めますね。これが天人流の口説き方ですか……!」
「いや参考になるねえ」
「あんたら見世物じゃないわよ! しっし!」
そう言えばこいつらがいたなと思い出した天子が、振り向きざまにイヌミミを立てて吠え散らした。
「ちょっと紫、もう落ち着いてきたでしょ、スキマでどっか連れて行ってよ」
「え、えぇ……」
天子は開けっぴろげの本心を第三者に聞かれた恥ずかしさを振り払おうと、逆に胸を張ってハッキリと声を出す。
説得のお陰でかなり平静に戻ってきた紫は、天子に言われたとおり自宅に通じるスキマを二人のあいだに開いた。
「送られ狼頑張って下さいねー」
「うるさい!」
外野の声援に怒鳴り返して、天子はスキマに飛び込んだ。
その後から紫もスキマに身を投じ、二人して八雲の屋敷へと戻ってきた。
庭に降り立った二人は、縁側から家に上がればそこは、先ほど天子が紫に思う存分可愛がられた場所だ。紫が取り出した首輪がまだ片付けられず残っている。
二人っきりになって一旦会話が中断してしまうと気恥ずかしさから言葉を失ってしまい、二人は何も言えないまま目線を反らして畳の上で座り込んでいた。
時折チラリと相手の様子を――より正確には、相手に生えた獣の耳や尻尾を伺うが、すぐまたそっぽを向いて、しばし静寂が二人のあいだに流れる。
やがて戸惑いがちに口を開いたのは紫の方だった。
「……天子、本当に、似合ってる?」
「何度だって言ってあげるわよ。紫はその、私が知ってる誰よりも可愛いわよ」
「なら、本当に可愛いって思ってくれてるなら、はしたないお願いをしてみていいかしら?」
「いいわよ、何でも来なさいよ」
ここは紫のためにも受けてやるべきだろうと天子はドンと構えたように見せかけたが、内心何を言われるか少しヒヤヒヤものだった。
まさか冬眠中ずっと尻尾を抱かせてとか言われるんじゃと思いながら、紫の続く言葉を待つ。
「あ、頭を撫でてくれない……?」
ネコミミは恥ずかしさに震え、うつむいた顔から見上げてきた瞳は拒絶される不安から悩ましげに揺れ動く。
天子から見る紫の姿は、どこまでも乙女で可愛すぎてどうにかなりそうだった。
「どこがはしたないのよそれが!」
「だ、だって私みたいな年寄りがこんな甘え方!」
「また歳か! そんなのいくらだってしてあげるからこっち来なさいよ!」
沸き立つ気持ちから声を荒げておおげさに話す天子が、紫をそばに招き寄せる。
差し出された紫の頭に細い指を重ねた。
「ん……あふぅ」
「どうよ紫」
「あ、すごっ、天子の手あったかい……」
天子から頭を撫でてもらうという未知に加えて、ネコミミの感触が合わさって紫は恍惚とした表情を浮かべながらも身悶えする。
尻尾も動揺に、天子の手の動きに合わせて小刻みに揺れ動いていた。
「耳も尻尾も、すっごくピクピクしてる」
「天子も、尻尾すごく振り回してるわ」
薄く開けた目から紫が覗き見る先には、蒼い毛で風を切る尻尾があった。
「……イヤじゃ、ないのね」
「嫌なわけないじゃない、バーカ」
天子は泣く子に言い聞かせるように、優しい口調で紫の不安に言葉を返した。
「こんなことくらい、言えばいつでもやってあげるのに」
「だってこんなはしたないところ、藍たちに見られたらって思うと……」
「えー、いいじゃない見せてあげれば」
「そ、それはダメよ!」
恥ずかしいと言うよりもどこか焦った風な言葉を聞いて、天子は紫らしくないなと感じて頭をかしげる。
少し考えてみて、紫は自分の立場から誰かに甘えたりするのを自制しているのではないかと思い当たった。
紫がこの幻想郷で担う役割は重大だ、それを考えれば確かにあまり誰かに甘えるような姿を晒すのは良くないことかもしれない。
しかし、ならばなおのこと紫が普段見せない一面を引き出してやりたいという気になってきた。
すぐに決心した天子は、そばに転がっていた赤い首輪を手に取った。
「はい、紫じっとしてて」
「えっ、天子?」
天子は素早く首輪を巻きつける。
紫の細く美しい首筋に頑丈な革が覆いかぶさって、権利と尊厳をその下に封じ込めた。
「なにこれ、まさか首輪!?」
「やっぱりこれも似合う、さすが紫ね」
「見ちゃやあっ!」
「隠しちゃダメよ、今の紫は私のペットなんだから」
うろたえた紫が両腕を交差させ首元を隠そうとするが、天子がその腕を力づくで引き剥がす。
この首輪自体に何らかの妖力が込められているわけではない、だが今は存在を貶める楔として紫の精神に食い込んでいた。
「可愛いにゃんこに立場も何もない、だから何をしたって良いのよ」
「またそういう、強引に……」
普段の紫ならこのくらいの言葉は跳ね返せるだろうが、心が揺らいでいる今なら通用する。
言霊が浸透して紫の自我の殻を引き剥がし、抑圧されていた気持ちを開放させていく。
「さあ紫、ご主人様に可愛くおねだりしてみてよ。全部受け止めてあげるからさ」
天子が細めた眼で見下ろし、中指で紫の首元から顎の先までをなぞった。
いつになく圧倒された紫が顔を真赤にして目を逸らすが、正直におねだりを口にした。
「じゃ、じゃあ……今度は、耳を撫でて?」
「お安い御用よ」
得意気になった天子が、紫のネコミミに手を這わす。
耳の先から根本までなでつけた後、今度は逆に根本から先っぽまで親指と人差し指で挟むようになぞった。
紫はこそばゆい感覚に快感を感じて目を瞑る。
「んぅっ……」
「すっごいサラサラで良い毛並み、撫でてる方も気持ちいいなんて嫉妬しちゃうわよもう」
「そんな、天子だって」
「ふぅー」
「あひゃん!」
反論しようとした先から、天子がネコミミに息を吹きかけて言葉を封じる。
有無を言わさぬ攻勢だが、紫の尻尾の先っちょが嬉しそうにくねくねと揺れ動く。
天子はそれに目をつけると、すかさず尻尾を掴みとし毛の上からしごくように身を揉み解した。
「今の紫は私に可愛がられとけばいいのよ。たまには愛するよりも愛されなさい」
「やあ、だめ天子! 尻尾はダメ、ほんとにダメ!」
「どうせならダメになっちゃいなさいよ、このこのっ」
「うぅ、だから……ダメ!」
「うわっ!?」
優勢に立っていた天子であったが、突如として声を張り上げた紫に突き飛ばされ、畳の上に仰向けで倒れこむ。
起き上がろうとした身体に、紫がお尻からのしかかって動きを封じてしまった。
「よくもやってくたわね天子ぃぃ……!!」
馬乗りになった紫は、ネコミミを小刻みに動かしながらも口から生暖かそうな息を漏らし、得体のしれない眼光で天子を見下ろした。
「あっ、これヤバイやつだわ」と天子が思った時には、紫は細長い指を首元へと伸ばしてきた。
急所を触られ一瞬首を絞められるんじゃないかと本能的な危機感が過ぎるが、堅い革の感触とカチャカチャという金属がこすれる音がしただけで紫の手は離れていった。
しかし首周りに残った感触を不思議に思った天子に、紫は満面の笑みで手鏡をスキマから持ちだして見せつける。
「はぁーい、これは天子の分の首輪」
「アァーッ!?」
天子は自分の首に巻かれた紫色の首輪を見て悲鳴を上げた。
「私にまで着ける必要ないじゃない!」
「だって、元々は天子にもっと甘えて欲しくて、その耳と尻尾を付けたのよ?」
「そ、そうだったの? 尻尾で抱きまくらは?」
「それは勿論やるわ!」
それもやるんかいと、天子はげんなりとした表情を見せる。
「天子って意地っ張りで、いつも私と張り合ってくれて、それはとっても嬉しいけどたまに甘えて欲しいのよ」
「いや、今は紫が甘えるべきっていうか」
「なら聞くけど、天子は私から一方的にご主人様面されるのはどう思う?」
紫に言われてみて天子は想像してみる。
一年中三百六十五日、自身の首元に輪っかを付けられ、そこから伸びたリードを紫が掴んでいる。
紫は満面の笑みを浮かべていて、自分も屈辱を感じながら内心まんざらでもないのだが、これだけでは足りない、足りないのだ。
のほほんとした紫に噛みつきたい。互いに主導権を求めて牽制しあって、立場が入れ代わり立ち代わり、そうした流動の中にこそ八雲紫と比那名居天子独特の『愛』がある。
「……いや、もっと対等がいい」
「私も同じなのよ。だから私が天子のペットなら、天子も私のペットにしなくちゃ」
「何その無茶苦茶」
「無茶苦茶のほうが合ってるでしょう?」
今度は天子が顎に指を這わされた。
紫の理屈は天子にもなんとなくわかった。しかしこれで彼女も強情で、中々紫に従わない。
「さあ、今度は天子が甘える番よ。ほら、何でも言ってご覧なさい」
「うぅ、イヤよぉ……」
紫は横たわる天子の胸元を指先でなぞり、印象づけるように紫色の首輪を弾く。
自分がされら時と同じように耳元に息を吹きかけたり、フサフサの尻尾をこすってみたりするが天子はギュッと目を閉じて我慢するばかりでどうにも動かない。
やり方を変えるべきだなと判断した紫は、身体の上から降りて天子を起き上がらせると、手の平を上に向けて差し出した。
「じゃあ天子、お手」
「は?」
「だからお手よ。ワンちゃんらしくお手、しなさい。ね?」
「いや、イヌミミ付けたからって……」
「ね?」
ニッコリと笑う紫から、有無を言わさぬ大妖怪のプレッシャーが天子に押し寄せる。
いつもならこれくらいに怯む天子ではないが、流れに飲まれつい呻きが漏れた。
状況が状況であるし、従わなければ収まらなさそうなので仕方なく手を重ねる。
「はい、やったわよ」
「あらダメよ、ワンちゃんなんだからワンって言わなきゃ」
「何でそこまでやらなくちゃいけないのよ!?」
「はい、ワーン♪ ワーン♪」
「わかったわよ、ワン! ワン! これでいい!?」
天子はヤケクソに声を張り上げて紫の手を叩く。
すると紫は満足気にうなずいて、天子の頭のてっぺんを撫でてイヌミミを左右に揺らした。
「よーしよし、よくできたわ、偉いわね天子」
「ちょっ、やっ、こんなことぐらいでそんな褒めないでよっ」
「はいもう一度、お手!」
再び紫の手が差し出される。
どうするか迷った天子だったが、一度従ったことで抵抗感が薄れてきたようで、渋々ながらも優しく手を重ねた。
「……ワン」
「うふふ、いい子いい子」
紫の持ちだした策は褒め殺しだった。
とにかく言われたとおりのことをしていれば、頭を撫でて褒め称え、天子の殻を丁寧に剥がしていく。
こんな風に照れさせられるのは天子には新鮮で強烈だった。顔を真赤にされながらも、まるで抵抗できない。
段々と自分が従順にさせられるのを感じながらも、言う通りにするしかできなかった。
「今度は三回ワンって鳴いてみて」
「……ワン、ワン、ワン!」
「ああ、本当に賢い子だわ。偉いわよー、よしよしよし。それじゃあ次は三秒伏せたら、お腹見せて寝転がって、最後にお座りしてお辞儀よ」
「ワン!」
「ああん、もう可愛いわね天子ったら。よーしよしよし」
「くぅーん、くぅーん」
子供にだってできる簡単な注文にも、紫は満面の笑みを見せてくれる。
天子はこんなことで喜んではいけないとわかってるのに、隠し切れない嬉しさが鳴き声になって口から出た。
ヤバい、これは堕落する、完全に犬畜生まで貶められると、甘く蕩ける天子の脳内で警鐘が鳴った。
このまま戻れなくなる前に、天子は残った力を振り絞って紫の手を跳ね除けた。
「あーもう、今度は紫の番よ!」
「きゃあっ!?」
「そこはきゃあじゃなくてにゃん! ネコちゃんなんだから」
紫が押し倒され、再び天子に主導権が移る。
「ネコ言葉まで使えだなんて言われても、恥ずかしいわよ!」
「大丈夫だって、絶対! 可愛いから! 私だってワンワン言ってたんだから、紫も言わなきゃ、対等でしょ?」
「うぅ……」
まず自分から天子に似たようなことをさせていたということもあり、紫も従わなければならないような気がしてきた。
やがて意を決して、恥ずかしさに目をつぶりながらも両手を曲げてそれらしいポーズを取って鳴き声を上げた。
「にゃ、にゃあ~ん……」
「…………」
「…………天子?」
「かわいいー!!!」
一瞬黙っていた天子だがすぐに堰が切れ、両手を合わせて瞳をキラキラと輝かせながら歓声を上げた。
「ゆかりんにゃんこかわいいー! 大人っぽいのに可愛いなんて反則でしょ!」
「やあ、そんな可愛いばっかり言わないでよ!」
「だって可愛いだもん、かわいい可愛いカ・ワ・イ・イ!!」
「ちょ、まっ…………や、やめてー! かわいくないー!」
「かわいいわよ!」
どうやら紫も紫で褒め殺しには弱いようで、またまたネコミミを両手で隠してうずくまってしまった。
「そのままにゃんこ言葉で甘えてみて! お願い、お願い!」
「それじゃどっちが甘えてるのかわからないじゃないの」
紫は恨めしそうなジト目で睨めあげてきたが、天子のほうはお構い無しだ。
結局押し切られてしまうが、いい加減紫もこのノリに慣れてきて少し大胆な要望を出してみた。
「じゃあ、今度はギュッとして?」
「んー、もっちろん! ギュー!」
待ってましたと言わんばかりに、天子は飛びついて紫の頭をギュッと胸元に抱きしめた。
てっきり普通にハグしてもらえると思っていた紫は驚きで固まる。
「やあ!? 天子、頭じゃなくてっ」
「こっちのほうが甘やかしてる感じがするからこっちでいいの」
四の五の言おうとした紫を黙らせて、天子は撫で回しながら紫の抱き心地を堪能する。
更に目の前でピコピコ動くネコミミを口に咥えて、欲望のまま甘噛して舐めしゃぶったりしてみた。
「あむあむ、じゅるり」
「ん、それすごすぎっ……こ、今度は私よ天子!」
「きゃっ!」
抱き着いていた天子を跳ね飛ばして、紫がその上に伸し掛かろうとする。
しかし天子は咄嗟に畳の上で転がると紫のお尻から逃れ、逆に紫を御してやろうと飛びかかった。
「まだよ! まだ物足りないもんね!」
「こら次は私の番でしょ! っていうかもうずっと私のターンでいなさいよ!」
「それはこっちのセリフよ、こんな機会滅多にないんだから今日くらい私が!」
「何言ってるの、いつも何だかんだであなたも好き勝手楽しんでるくせに!」
「あんただっていつも私のことボコって得意気にうふうふ言ってんじゃないのよ!」
互いに罵詈雑言喚き散らして取っ組み合い、くんずほぐれつのまま転げまわった。
背中が壁にぶつかって音を立て家を揺らし、蹴飛ばしたふすまが敷居からズレる。
散々暴れまわった二人は、起き上がって互いの手を合わせたまま五指に力を込め、手四つの形で睨み合った。
「私が!」
「いいやここは私が!」
その時だった、半分壊れた襖が力づくで開け放たれ、廊下から現れた影があった。
凶兆の黒猫こと橙が、過労で熱を出してブッ倒れた藍のために、氷水とタオルの入った桶を抱えたままそこに立っていた。
取っ組み合っていた二人が「あっ……」と声を漏らし、騒がしかった部屋を静寂が包む。
「藍様寝てるんだから黙りやがってください」
「「ひゃ、ひゃい…………」」
式の式の今までに例を見ない高圧的な笑顔を前に、獣畜生は思わず身を寄せあって震えた。
◇ ◆ ◇
「ご、ごめんなさいね、騒がしくしちゃって」
「まったく、天子が好きなのはわかりましたから、もうちょっと冷静になってくださいよ」
呆れ顔で布団に包まった藍の前で、紫は必死に誤魔化しの笑顔を浮かべながら、冷たいタオルを絞る。
首輪を外し、破れた服も着替えてあるが、未だに頭の上には可憐なネコミミが揺れている。
あの後、紫は天子と二人揃って正座して、橙から「藍様のこと扱き使って倒れさせといて、すぐそばの部屋でギャーギャー喚き散らすなんて何考えてるんですか!」と説教され、その償いとしてこうやって藍の看病をしている。
「八雲家の主なのですから、橙に叱られるなんて情けないことはよしてください」
「め、面目ございません……」
普段飄々とした紫も、式の式相手に反論もできないまま説教されたという事実にはかなり凹んでいるようだった。まあ自業自得であるが。
藍は額に乗せられたタオルの冷たさを感じながら溜息をついて、どうもこの主は天子相手だと行動がちぐはぐになるなと思った。
歪んだ欲望をさらけ出したり、かと思えば純情を恥ずかしそうに隠したり、まったく恋する乙女とは度し難い。
「まあでもいい格好じゃないですかそれ」
藍は寝転がったまま、紫の頭で揺れるネコミミを目で追った。
だが紫は相変わらず、視線から逃れるようにそっぽを向いて口をとがらせる。
「お、お世辞はよしてちょうだい」
「世辞なんかじゃありませんよ」
本心からの言葉だと伝えるが、どうにも紫には伝わっていないようだ。
天子みたいにぶち当たれない自分じゃ無理か。
藍は仕方なさそうにため息をつくと、天井に視線を戻す。
「いい機会だったかもしれませんね、たまには紫様も素直になったほうがいい」
「私が素直じゃないというの?」
「十分普段からひねくれてるじゃないですか」
紫は何も言い返せず、ぐぅと唸りを漏らして黙ってしまう。
「本当はまだ天子にして欲しいこと、言いたいことがあるんじゃないですか?」
紫は驚いた顔をして、今度こそ何も言えず黙ってしまった。
「その姿のまま、もう一度天子とゆっくり話してみてはいかがですか」
「いいの? 今日は藍に、けっこうな負担を強いたけれど」
「今更この程度でグダグダ言うほど優しい扱いじゃなかったですよ。まあまた騒がれるのはなしにして欲しいですけどね」
迷いに耳を揺らす紫を、藍がもう一度見上げた。
「かわいい式に熱を出させたぶん、楽しんできてくださいな」
◇ ◆ ◇
「ね、ねぇー橙、私に掃除とかやらされても効率悪いと思うんだけど。ほらもうお日様も沈みそうだし」
「ダメ! ちゃんと家の掃除全部終わらせないと帰さないんだからね!」
雑巾を持って廊下で四つん這いになっていたイヌミミ天子が、苦笑いとともに振り返って出した提案を、仁王立ちした橙が有無をいわさず押さえこむ。
大好きな藍に負担を掛けたのがよほど頭に来たらしく、この怒り具合を見るにここで下手に逃げ出したりしたら後で厄介そうだ。
「そもそもここの掃除だって今日のうちに藍様がやるはずだったものよ。それを天子が地震で結界を崩すなんてバカな真似したせいで、熱出してできなくなっちゃったんだから! 天子が償うのは当然でしょ!」
「それはまあ、そうかもしんないけど。絶対これ橙がやったほうが早い……」
「ほらさっさとやる!」
言い訳しようとすれば、尻を蹴飛ばされて「ひゃん!」と鳴き声が出た。尻尾の付け根に刺激を与えられるのは辛い。
ずっと後ろから見張ってくる橙の視線を背負いながら、渋々天子は手を動かす。
掃除が終わった頃にはすっかり空は暗くなっていた。
「はぁー、疲れたー……」
ようやく開放された天子は縁側でうつ伏せで寝転がっていた。
紫につけられたイヌミミと尻尾をぺたんと倒し、全身から力を抜く。
部屋の灯りは消されており、雲にかかった月の微弱な光だけが照らす縁側は、疲れた身体にはいい塩梅の静けさだ。
「うぅ~、家のことやるって言うのもちょっと面白かったけど、後ろから蹴られながらじゃ楽しめないわよー……おのれ橙、こうなったらあいつがいるマヨヒガに大雨を降らしてやる」
「そんなことしたら藍を連れて殴りこみかけるわよ」
「ハハハ、冗談よ冗談」
紫がスキマから上半身だけ現れていきなり声をかけてくるのにも、天子も慣れたもので特に驚きもせずあしらった。
起き上がって紫のほうを見ようとしてみるが、わずかな月明かりを屋根が遮っていてぼんやりとしかわからない。
ただそこにいることはわかったので、話をしようと縁側に腰を据えたまま庭に足を投げ出した。
「お疲れさま紫。そっちももう終わり?」
「えぇ、晩ごはんのおかゆも用意してあげたし、食べさせるのは橙がやりたがってたから任せたわ」
「そっちは楽そうでいいわねまったく」
紫はスキマから這い出ると、天子に並んで腰掛ける。
そこで天子はようやく紫の姿のある特徴に気がついた。
「――まだ付いてるのねそれ」
雲越しに届く月の光が、紫の頭に付いたネコミミを浮かび上がらせていた
尻尾もまだ健在らしく、天子が紫の背後に目を向ければ、尾先が少しスカートの裾からはみ出ているのが暗闇の中で辛うじてわかった。
「あなたが付けたんでしょうに。いつ消えるのよこれ?」
「さあねぇ、天人なら一晩寝れば自然に消えてるそうだけど、妖怪相手に使ってどうなるか聞いてないし。もしかしたら一生そのままかもね」
「もしそうだったらあなたの首に輪っかをはめて宴会会場に引っ張りだしてやるわよ」
ケラケラと無責任極まりなく笑う天子に、紫は青筋立てて言い放つが、すぐに気を取り直した。
「……まあ、もしそうだとしても、冷静になればこのくらい解呪できるわ。調べたところ呪いに似たようなもののようだし」
「できるって、だったら今もその姿なのはなんで?」
「それは……」
紫は痛いところを突かれたと言うように、天子から顔をそらす。
不思議に思った天子がじっと見つめていると、分厚い雲が風に流され、月明かりが二人の元まで届いてきた。
暗闇から段々と浮かび上がってくる紫の身体、その手元に赤い輪が握られているのを見て、天子は目を丸くした。
「それって……」
先程まで、紫の首につけられていた首輪だった。
紫の両手の中で、月明かりに照らされたそれがそっと差し出され、天子は思わず尋ねてしまった。
「いいの?」
紫の手はかすかに震えていた。
緊張で服の下が汗ばみ、早鐘を打つ鼓動が耳の中に重く響く。
妖怪の賢者、幻想郷の管理者、それらの責が心を締め付けるが、紫は重圧に負けず奥底の気持を引きずりだした。
「あなたに、付けて欲しいのよ」
何にとは、天子も言われずともわかる。
天子は首輪を受け取って手に収めるととまじまじと見つめ、やがて目の前の首筋に持って行った。
首元からカチャカチャと金具の音が響くのを、紫は目を閉じて聞いていた。
その音が静まった時には、赤い革の首輪が賢者とまで呼ばれた妖怪の首に巻き付けられていた。
天子の目が嬉しさに見開かれる。
嬉しい、嬉しい、嬉しい。紫が自分をこうまで求めてきてくれたことが嬉しい、紫の望みに触れられることが嬉しい。
溢れる喜びで叫びだしたくなるのをこらえながら、天子は努めて静かな声色で語りかけて。
「それで、どんな風に甘えたいの子猫ちゃんは?」
どんなことでも受け止めてあげるよと、そう言い聞かせるような優しい音色。。
それを聞き、首輪という枷を付けられたはずの紫は、むしろ心を解き放たれたような気持ちになり、紫は閉じていた瞳をそっと開かせる。
「そうね、まずは……」
紫の身体が寄せられ、天子の肩に頭が寝かせられる。
揺れるネコミミから漂ってくる匂いに、天子は嬉しそうにイヌミミを揺らし、頬をこすりつけた。
紫は自分が受け入れられのか不安でドキドキしながらも、密着した天子の熱に信頼関係を感じて、そっと望みを口にした。
「ずっと一緒にいてくれるかしら……?」
二人の影に隠れて、スカートからはみ出た猫と犬の尻尾が絡み合っていた。
順調にエスカレートされているようでなによりです。
幻想郷に常識人などいないよ(至言)
「いつもと服装を着てきた」とありますが「いつもと違う服装を着てきた」ではないでしょうか
「己橙」とありましたが、「おのれ橙」ではないでしょうか?