ドロワーズ(drawers)
――それは19世紀に出現した下着の一種。装飾としての役割も兼ねたこの下着は、登場するやいなやヨーロッパ各地で一大ムーブメントを巻き起こした。
この愛らしい下着の大躍進はそれだけに留まらず20世紀には東洋のある島国の人々をも魅了し、老いも若きも関係なく身に付ける正に国民的下着となったのである。
しかしながら、そんな栄華を誇ったのも今や昔。新たに登場したパンティ、そのコンパクトなフォルムと下半身をピタリと包む安定感、更にはパンツルックの普及により、ドロワーズはかつての地位を追いやられてしまった。
歴史の片隅に葬り去られたドロワーズ。そんな彼女らが最後に辿り着いた楽園がここ幻想郷である。
この地に降り立つやいなや瞬く間に少女たちの心を鷲掴みにしたドロワーズは再び栄華を取り戻し、歴史の表舞台に返り咲いたのであった。
だが、光ある所に陰は付き物。この無垢な下着が持つ魅力に惑わされ、人生を狂わされた者も少なからず存在したのである。
今からここに記すのは、ドロワーズをきっかけとして巻き起こされたある騒動の顛末である。
プロローグ
「だーかーらっ! 離しなさいっての!」
「絶対に嫌ですわ!」
暖かな日射しが降り注ぎ、柔らかな風が草木を揺らしていく。軒先ではスズメがせわしなく跳び回り、縁側では猫がとぐろを巻いて昼寝する。
そんな長閑な光景があちこちで繰り広げられていたある冬の日であった。
幻想郷全土を望む高台に建つここ博麗神社は、辺りを包む長閑な空気と相反する不穏なムードに彩られていた。
その源は憤怒の相でお払い棒を握りしめ床に転がる妖怪を打ち倒さんとする巫女と、何かを握りしめたままゴロゴロと転がり、振り下ろされる棒を避ける妖怪――八雲紫であった。
なぜ幻想郷一のんびりとした神社でこのような事態が起こったのか。それを知るには少々時間をさかのぼる必要がある。
~四半刻程前、博麗神社縁側にて~
「ふぅ。あなたとこんな風にお茶を頂くのも久しぶりね、霊夢」
「ん、そうだっけ? まあここんとこあんたも結界の整備やらなんやらで忙しかったみたいだしね」
「ねえ霊夢、今日はせっかくだから晩御飯も一緒にいかが? 私、腕によりをかけて御馳走しますわよ?」
久しぶりに愛しい霊夢とゆっくり過ごせる一日。八雲紫はこの休日を有意義なものにすべく、幾日も前から計画を練っていた。
まずは幻想卿を一望する神社裏手の縁側でまったりと茶を楽しみ、日が傾き始めたら共に食材の買い出しへ赴く。そして夕飯は愛情たっぷりの手料理をふるまい、食後はこたつでぬくぬく温まりながら秘蔵の日本酒を熱燗でキュー。
(そして炬燵の熱と酒にあてられ頬を染めた霊夢は『ねえ紫、なんか私、体が火照ってしょうがないの……』なんて言いながら身に付けた衣服を一枚二枚と脱ぎ捨てて……。なんてなに考えてるのよゆかりんったら!イケない子!うふふふふふふふふふ)
一人妄想で頬を赤らめクネクネと悶える紫。しかしそのバラ色の計画は霊夢の一言であっさりと砕かれた。
「あー、今夜はちょっと無理なんだよね」
「もう霊夢、嫌よ嫌よも好きのうち……え?」
上気した頬を一瞬にして土気色へと変化させる紫。ショックが大きかったのか体を小刻みに震わせている。さながら亡霊に捕食される夜雀である。
「ちょっと2泊3日地霊殿満喫ツアーていうのに招待されてさ。家のペットが迷惑掛けたお詫びとかで。めんどいなーって思ったんだけど地熱で作った焼肉やら芋やらが食べ放題で、しかも普通に焼いたのとはまた違う味わいがあるとか」
「そんなもの! 私の愛情で熱く焼き上げた肉や芋の方が数倍美味しいわよ!」
「なんか呪われそうね、それ。あと地熱を利用して、ん、なんだっけ。ああ! 床暖っていうのもやってるらしいのよ。それが家中どこでもポカポカだとか。
まぁ、あの辺りは暑いから更に暖房ってどうかなとは思ったけどね。そこは上手い具合に調整するみたい。どっちにしろこの季節だし、寒いよりは暖かい方がいいし。
そんなわけでたまには旅行もいいかと思ってね」
紫は暖かな地底へ思いを馳せる霊夢を切なげに見つめていた。すでに自分の事など眼中にないようである。紫は決心した。失われた関心を取り戻すべく、自ら禁じ手としたあの技を使うことを。
「霊夢、こちらをごらんなさい」
耳へ飛び込む凛とした声によって、霊夢は百万本の焼き芋が敷かれた部屋で寝るという妄想から連れ戻された。帰還した彼女は飛び込んできた映像に思わず目を疑った。
優美な裸体を惜しげなく陽光の下へさらす八雲紫。そこだけ見れば西洋神話の一場面の様でもあるが、いかんせんここは神社である。ひなびた社と曲線を描く裸体が相まって、最早変態という次元を飛び越えたある種のシュールさが醸し出されていた。
「さあ、いらっしゃい」
両手を広げて迫りくる年増妖怪。顔に張り付く慈愛に満ちた笑みが余計にその不気味さを増幅させている。食虫植物の如く襲ってくる白い腕を霊夢は必死に押し戻す。ここで捕まったが最後、二度と朝日を拝むことは出来ない。そんな予感がした。
「急に何始めてんのよ。とうとうボケた!? あんたのストリップなんて見たくないっての!」
「私が温めてあげるわ。地熱なんかより人肌のほうがずっとヌクモリティなのよ? 肉や芋だって人肌くらいが丁度いいと思うの。試しに肉を私の肌へ乗せてごらんなさい? 俗にいう紫盛りというやつよ。
さあ霊夢! 遠慮はいらないわ。ほらほらほらほらほら!」
思わず『全裸紫生肉和えイモソース風味』を脳裏に浮かべた霊夢は、反射的に迫りくる食虫植物を地面へ叩き伏せていた。一体どこからそんな力が出たのか、彼女自身も不思議であっただろう。
「とにかく、もう行くから!」
そうキッパリと言い放った霊夢は部屋へ駆け込むと、パンパンに膨らんだリュックサックを背負って庭へ飛び出す。
「さっさと服着なさいよね」
未だ全裸で自分を包みこまんと奮闘する大妖怪へそう言い放つと、霊夢は地底で自らを待つであろうイモ肉パラダイスへ飛び立とうとしたのである。
そして場面は冒頭のシーンへ移り変わる
「いい加減にしなさいっての!」
「絶対に離しません。あんな暗くてジメジメしてその上辛気臭い所に可愛い霊夢を行かせてなるものですか!」
「この間自分で行かせたじゃん!? あーっもう本当に気持ち悪い!」
ふと拘束が緩まった隙をつき、霊夢は大空へと飛び立った。紫へは目もくれず、一目散に目的地を目指す。
残された紫は呆然とその場にへたりこみ、やがてエグエグと嗚咽を漏らし始めた。
「ひっひどい! いくらなんでも気持ち悪いだなんて。いくら……霊夢でも……」
多少の自業自得感はあるが、霊夢の一言になけなしの乙女心を傷つけられた紫は地面をガリガリと削り、涙を流し続けた。
しかし数分もするとキッと顔を上げて立ち上がり、神社内へ向かった。その瞳には深い決意と邪まな念を感じさせる暗い炎が宿っている。
「こうなったら、何か霊夢の恥ずかしいものを探し出してお持ち帰りしてやりますわ! そうでもしないと気が済まないんだから!」
転んでもタダでは起き上がらない強い精神。彼女が賢者とまで謳われる大妖と成りえたのも、それがあってのことだろう。
しかしその強靭な精神力、今回はかなり間違えた方向へ使用されている。
黒い炎を胸に抱えた賢者、八雲紫は霊夢の寝室へと歩を進めた。乾いた障子を開け中を覗くと、古びた箪笥が目に飛び込んでくる。
(寝室の箪笥に何かあるっていうのは、最早セオリーよね)
母親の化粧台をあさる少女のトキメキを抱えながら、紫は引き出しへ手を掛けた。彼女の心に燃えていた復讐心は最早消え去り、代わりに好奇心という名の新たな炎が勢いよく広がっていた。
逸る心を押さえながら、引き出しをそっとのぞく。
その瞬間彼女は、春爛漫の花畑へ迷い込んだかのような錯覚を覚えた。
「まあ、霊夢ったら……」
古びた箪笥の底部に詰められていたのは、色取り取りのドロワであった。
純白の定番品はもちろん、桜色に染められた乙女らしいもの、新緑の様な若々しさと恥じらいを醸し出す萌黄色、少しアダルトな雰囲気を纏った紫色まである。様々なドロワーズが一堂に会したそこは、まさに乙女の、いや全人全妖の桃源郷と呼ぶにふさわしいオーラを放出していた。
そのえもいわれぬ芳醇な空気に紫はクラクラと心地よい酩酊を覚える。
「やだ、霊夢ったらこんなにたくさん。女の子らしいところもあるのねぇ」
どちらかというと男勝りな少女の意外な一面を垣間見た紫は、嬉しいような恥ずかしいようなくすぐったい気持ちに準ずるがまま、頬を蕩かせている。そしてうっとりとした心持ちのまま、咲き誇るドロワーズ畑から純白のものをそっと摘み取る。
風に揺れるスズランを彷彿とさせるそれをくるくると弄び、逆さまにしてブラブラ揺すってみる。
(眩しい、眩しすぎるわ。ただの布がこんな光を発するなんて! 今だかつてない発見ね。そうだ、この光をドロワー波と名付けましょう。ああそれにしても……)
「何だかこうやって見ると、藍の耳当てみたいねぇ。ふふふ」
ドロワの形から式が愛用する帽子を連想した瞬間、彼女に新たな欲求が芽生えた。
(こんなに帽子そっくりなら、被っても問題はないわよね)
帽子とドロワを結ぶ等式が形成されるやいなや、彼女は純白のドロワを頭へ装着した。
「こっこれは一体!? ふっふふふふふふふ……あははははははははははははははは!」
帽子としてはややサイズに問題があったのか、ドロワは紫の顔までも覆い尽くしていた。
純白の布地から発せられるドロワー波を至近距離で浴びた紫は、大妖怪としての威厳尊厳を完全に失い、引き換えに無限に広がる白きコスモへその心身を投じていった。
楽しい。楽しすぎる。
何も見えない。
白い、白い。 どこまでも。
うっすらと、光だけが、私を包む。
ああ、この匂い。
鼻腔にじんわり広がる、この……。
これは、霊夢の、髪の?
あの子ったら、シャンプーで、洗濯、してる?
それとも、洗剤で、シャンプー?
いえ、そんなこと、どうだって、いい。
私は、
私は今……!
「アイ! ゲット! トゥルーー!!!ハピネ―――ぎゃっふぅ!!!?? 」
両腕を振り上げ歓喜の雄叫びをいざあげん!とした矢先、恍惚に打ち震える紫の体は何者かによって固い畳の上へ投げつけられていた。
その衝撃で頭部全体を優しく包み込んでいたドロワはするりと抜け、八雲紫の視界から白きコスモは消え去った。
霧散したコスモの代わりに彼女の視界に現れたのは、仁王立ちでこちらを見下ろし、憤怒の相をその顔に湛えた聖なるドロワの所有主、博麗霊夢であった。
「でっでひむ!?だんでごごに!?」
したたかに打ちつけ赤くなった鼻を押さえながら紫は問うた。
ついさっきまで離すまいと体を張って引きとめていた彼女の帰還が、何故だか、あまり、嬉しくなかった。
「あんたね、人が……心配して……戻ってくればぁぁああああ!」
半裸の妖怪隙間ババアを振り払い意気揚々と旅立った霊夢であったが、その途中ふと泣き崩れる紫の姿を思い出し、次いで自分がそんな彼女へ放った一言に少々の罪悪を感じた。
(気持ち悪いのは事実だけど、さすがに面と向かって言うのは悪かったかな。紫、傷ついたよね……)
ふと芽生えた罪悪感はどんどんと肥大し、彼女の心に根を張っていった。
(戻って謝ろう。すっきりしてからの方が肉も美味しいだろうし)
恐らくは今なお境内でハンカチ噛み噛み泣き震えているであろう友の姿を瞼に浮かべつつ、そんな彼女の悲しみを癒すため、(あと心おきなく肉を貪るため)霊夢は神社へと引き返して来たのだ。
そんな彼女を出迎えたのは、自分の下着を頭に被り、存分に息を吸い吐きしながらウフウフアハハと身の毛のよだつ笑いを発する、一匹の妖怪。
その姿を目にした瞬間、霊夢の体は光もかくやというスピードでその妖怪を殴り倒していた。
「ひっひがうんでふ!!ごかひなんでふぅぅぅぅ!!!!!!!!!!!」
「あー?何いってんのかわかんないわよ。もっとも、何をほざいてようが私にはまったく関係ないけどねぇぇぇぇぇ!!!!!!」
這いつくばる紫の胸倉を掴み立ち上がらせた霊夢は、渾身の右平手打ちを紫の頬へと叩き込む。よもや始まる一方的な肉弾戦。
もはやスペカルール?何それ?美味しいの?状態である。
「ひゃふう」と情けない声をあげて再び倒れる紫。しかし霊夢の怒りはなお収まらず、その鉄槌は騒ぎを聞きつけてやって来た妖怪ら数十名に止められるまで、振り下ろされ続けたという。
ケース 1 某式神 R・Yの場合
帰宅した主の姿を見て、八雲藍は目を疑った。
次にその姿へメタモルフォーゼした原因を聞き、今度は耳を疑った。そして口からは反射的にこんな一言が漏れ出した。
「すみません。式、やめていいですか?」
自らに仕える式の切実な退職願いをあっさり聞き流し、紫は今日体験した未知なる幸福について語り続けた。
「もうね、すっごいの。何がすごいって聞かれてもわからないけど、本当にね、すっごいの」
赤く腫れあがった頬に氷嚢をあてがいながら、しかし痛みに顔をしかめることもなく、呆けた瞳で同じ言葉を繰り返す主人を見つめているうちに藍は式神として生を受けて初めて、『このババア、ぶん殴りてぇ』。そう思った。
翌朝、「霊夢に蹴られた所が痛いからまだ寝てる」とのたまう主人を放置し、藍は自らの式が住む山へと向かっていた。
普段は例え主人が惰眠を貪り続けてもその周辺で家事をこなし、いつ彼女が目覚めても良いように食事の支度も整えているのだが、今朝はそんなやる気も起きず何もかも放り投げ、半ば飛び出すかのように家を出ていた。
式としてあるまじき行為であることは理解していた。しかし昨晩の主人の姿、変態じみた行為の余韻にどっぷりひたり、その代償に享けた肉体的損傷さえも「むしろ快感」などとほざきウフウフ笑い続けるあの姿。あんなものを見せられて尚、素直に忠誠を捧げられる式がいるだろうか?いや、いない。
(ま、気の変わりやすいお方だからな。明日には元のオーラ溢れる賢者然としたお姿に戻っているはず……いや本当に戻って下さいお願いします)
脳内に浮かべた主の像へ頭を下げる藍。その姿を目撃したものは人妖怪問わず、皆気まずそうに目を伏せたという。
そうこうしている内に、いつのまにやら小さな式の家へ辿り着く。突然の主の訪問に驚き喜ぶ可愛い橙、耳をピコピコ尻尾をクネクネ。その無邪気な姿に藍のみっちり生えそろった9本の尻尾もわっさわっさと揺れ動く。
「藍様! こんな朝早くにどうされたんですか!?」
「いや、急に橙の顔が見たくなってね。元気にしてるかい」
「はい、藍様もお変わりないようで!」
「はは、変わってないよ。私はね」
主の意味深な呟きに少し小首を傾げながらも、橙は主の手を引き部屋の奥へと案内する。
「今、朝食の準備をしていたんです。藍様の分のお魚もすぐ焼くので、少し待っていて下さいね」
そう言うと、台所へ駆け込み障子をピタリと閉める。煙が居間へ流れないようにとの配慮であろう。
手間を掛けさせてすまないね、と障子の向こうで火を起こしている橙に労いの言葉をかけ、藍はちゃぶ台の横に腰を据えた。
部屋はあるべき場所にあるべき物が収納され、掃除もまめにしているらしく、塵一つ落ちていない。
わが子ともいうべき愛式の品行方正な生活を垣間見た藍は、満足げにうんうんと頷いていたが、ふとある一角に眼を止めた。
部屋の片隅に造られた衣服の山。どうやら、取り込んでから畳むのを忘れていたようだ。
「いやー、橙もまだまだだなぁ」
セリフとは裏腹に顔を綻ばせ、衣類を手に取り畳み始める。
慣れた手つきでリズムよく洗濯物を片づけていた藍であったが、あるものを目にした瞬間ピタリとその手を止めた。
彼女をくぎ付けにしたのは、眩しいほどに輝く純白のドロワ。
昨夜の一件が脳裏を掠め手に取ることを躊躇うが、だからといってこの一枚だけ放置するというわけにもいくまい。
整然と揃えられた衣服の横に、無造作に置かれたドロワ。そんな光景を見せられれば、橙は二度と自分に、いや全人妖に心を閉ざしてしまうかもしれない。
(藍様、橙の下着はお嫌いですか? 小汚い黒猫の履いたものなんて汚らわしくて触れたくもないんですか……)
(何を言うんだ橙! 可愛いお前の下着であれば、私は同じタライで洗うことも出来ればこの手で畳むことも可能、むしろ是非そうさせて欲しいくらいだ。むろん、それだけではないぞ! むしろ……)
「被ることだってぇぇぇぇぇぇぇ可能だぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
主譲りの妄想力を存分に発揮した藍は勢い余って妄想と現実の境を飛び越えるどころか粉々にブチ砕いた。溢れ出でた妄想エネルギーは藍の体へ隈なく行きわたり、先ほどまで嫌悪していた筈の行為へ彼女を駆り立てた。
脳内橙が繰り出す至高の笑みに藍はだらしなく口元を緩めていたが、陶器と床がぶつかるけたたましい音によってはっと我に帰った。
音がした方向を見ると、そこにはまるで夜中にふと両親の寝室を覗いてしまった子供のような表情でこちらを見つめる橙がいた。両手は皿を持った形のまま凝固している。
愛故のその行動は脳内橙を幸福にしたが、現実の彼女へはまったく正反対の作用をもたらすこととなってしまったようだ。
「藍様? 何でそんなことを……」
「ちっちがうんだ橙! これはだな!」
この場をいかに乗り切るか、計算に秀でた彼女の脳は瞬時にその回答を提供した。それはたった一つのシンプルな答え。下手な弁解は誤解の元、正直でいることがお互いの絆を保ち、強めるのだ。
「橙、よく聞きなさい。これはね」
「私の愛の形なんだよ」
ケース2 人形作家M・Aの場合
透明なポットの中をクルクルと回る茶葉を見つめながら、アリス・マーガトロイドは深いため息をついた。手元には所々破られた跡の残る白紙のノートとインク壺に浸かったまま所在なさげに揺ら揺ら動く愛用の羽ペン。
「どうしたものかしらねぇ」
往来を行きかう人々へ視線を移し、本日何度目かも分らぬため息をつく。
彼女を悩ませているもの、それは明後日に迫った人形劇の公演であった。普段から里の子供たちを相手に劇を興じ好評を博している彼女であったが、次の公演はそれまでのものとは少し毛色が違った。
それは、『大人のための人形劇』
依頼主である酒場の店長いわく、人生経験を積み酸いも甘いも知り尽くした男女に新鮮な感動を与えるもの、主題はズバリ『愛』らしい。
今までにない試みに創作者魂をくすぐられ二つ返事で引き受けたものの、この『愛』というテーマが思いのほか曲者であった。
『愛』といっても色々ある。恋愛に親愛、友愛に情愛。大人の男女相手ということで、当初は恋愛物の作成に取り掛かったのだが、何度書いても出来上がるのはどこかで見たような話ばかりで新鮮な感動とは程遠い。上演したところで見向きもされないだろう。
己の恋愛に関する引出しの少なさに若干の侘しさを感じつつ、アリスは他の形式の愛をテーマに執筆を続けた。しかし出来上がるのはどれも型にはまったものばかり。人づきあいに関しては常識的な彼女の性格が今回は裏目にでたのかもしれない。
そんなわけで新しい愛の形を発見できぬまま、本番まで2日を切ってしまったのだ。
「人のいる場所にくれば何かヒントが見つかるかと思ったけど、やっぱりそう上手くはいかないみたいね」
5杯分の茶の代金を店員へ渡し、席を立つ。
寒風吹きすさぶ中、より間近で人々を観察し脚本のヒントを見つけ出そうとねばったが、どうやら徒労に終わりそうだ。
白紙のままのノートを見つめ、ペンをクルクルと弄びながら彼女は帰路へ着いた。
しかし、背後から生まれたどよどよというざわめき、その只ならぬ雰囲気に足を止められ思わず振り返った。
往来の人々は皆一様に通りの向こうに揚がる正体不明の砂煙を見つめ、何やら囁き合っている。
「何あれ?」
「あれって確か八雲の?」
「何でこんなところに?」
「うわっ! こっち来る!!」
謎の砂煙の正体、それは溢れる涙を拭いもせずに猛スピードで駆ける猫又の少女橙と、彼女の後方をこれまた泣きながら、そして何故か頭に下着のようなものを被って激走する八雲藍であった。
周囲を顧みず爆走する式とその式。思いもよらぬ光景に唖然とするアリスであったが、砂煙が横を駆け抜けたそのとき、彼女にとって天恵ともいうべき瞬間が訪れた。
「そんなの愛じゃありません! 藍様のバカッ!! へんたいいいいいいいいいいい!」
「待つんだ橙! 話せばわかるっ! 愛といっても色々あるんだ! とにかく話を聞いてくれ!」
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁん!」
「ちぇええええええええええええええん!」
砂煙の中から聞こえた二人のやりとり。それを耳にしたとき、アリスの体にスピリチュアルな感覚が駆け巡った。
「愛……色々……ドロワ……?ふふ、ふふふふふふふふ! 書ける、書けるわ! 新鮮な愛! 爛れた大人共をうち震えさせる至高の愛! 書ける、今の私には書けるわ! うふ……うっふふ……あははははははははははははははは!」
ケース3 敏腕記者A・Sさんと気苦労の多そうな白狼天狗の場合
「もーみじちゃんっ♪」
ドロドロに溶けた砂糖菓子の様な上司の声音に、自他共に認める使いっパシリの白狼天狗、犬走椛は体中の毛という毛を逆立てた。嫌、生理反応なのだから逆立てたというより逆立ったと言った方が正しいのかもしれない。
とにかく、そこしれぬ怖気を感じつつも強張る表情筋を出来るだけ微笑んだ状態へと持って行き、椛は声の主へと振り向いた。
「何でしょうか……文さん?」
「うふふ~実はですねぇ」
聞くまでもない。わかっている。文がこの様な甘ったるい声音と態度を取るのは決まって自分への新しいイジメを思いついた時なのだ。
口元がピクピクと蠢くのを感じながら、椛は天使の笑みを浮かべた悪魔の託宣を待つ。
しかし文の口からは思いもよらぬ一言が飛び出してきた。
「私、あなたのことが大好きです」
「何ですかもう勘弁してくださいよ。山頂の巫女の袖取ってこいだなんて無茶過ぎますよってええ!?」
「あやや、聞こえませんでした? ではもう一度、私は椛が」
「のああああああ!? どうしたんですか文さん、とうとう取材先で恨みを買った誰かに鈍器の様なものでブン殴られましたか」
「あなたも大概失礼ですね。清く正しいこの私が誰の恨みを買うというのです。ま、それはさておき。私の気持ち、受け取ってくれるんですか?」
「ええっ! そんな……えっと、はい!」
「そっ即答ですか」
愚直なまでに素直な部下に少し苦笑を浮かべながらも、文は再び砂糖菓子のような笑みと声音で椛の方へ向き直った。
「ではささやかながら、私たちの愛の記念です。どうぞ」
「いやはや文さんから物を頂くだなんてそんなー。ってこれ私の!?」
文から差し出された愛の記念に本日2度目となるノリ突っ込みを披露する椛であった。文が黒目がちな瞳をウルウルと滲ませながら渡したもの。それはフリルこそ控え目ながらも艶やかな紅葉色に染められた一枚のドロワであった。
「ちょっと! これ私のドロワじゃないですか! いつのまに持ち出したんです?」
「椛ったら大人しい顔してこんな派手なモン付けてたんですねぇ。や~らし~」
「やらしくないです! これは私のテーマカラーなんです! とにかく、質問に答えてください!」
「細かいことにこだわってると出世できませんよ? ま、とにかくそれ、被って下さい」
「何で!?」
「今流行ってるんですよ。新しい愛の形ってやつです」
「いっ嫌です! いくら文さんの命令だからってそんな変態じみたマネはごめんです!」
「ありゃ、そうですか。ならば仕方ないですねぇ」
椛の抵抗に文はあっさりと引き下がった。その姿にホッと胸を撫で下ろしながらも、椛は胸騒ぎを感じずにはいられなかった。普段の文ならばどんなに椛が抵抗しようとも無理やり押さえ付け、修行と称して自らの気晴らしのために無茶な行為を強要する筈である。その筈であるのに、今回、彼女は『ドロワを被れ』という命令をあっさりと撤回した。
「あの、文さん。……何を考えてるんですか?」
「何ですかその目は。何も考えてなんかいませんよ。ただ、行き場を失ったドロワは返らず、ただ被られるのみなのです」
「まさか……文さん!?」
意味深に目を細めた文は手にしていた鮮やかなドロワを自らの頭へ被せた。
「なんでそうなるんですか!?」
「ふふふ、どうですか椛さん? 自分の下着を被られる気分は!!」
予想をしていたとはいえ、文の行動に椛は動揺を隠せなかった。いくらなんでも自分で下着を被るとは、最早ドSなのかドMなのかも定かではない。
唖然とする椛へにじり寄りながら、文は呪詛のように何かを囁いていた。
「ああ、いい表情です。また新たな椛の一面を垣間見ることが出来ました。いいですか、椛。SMというものは探究心の元になりたつのです。どうすればお互いがより気持ち良くなれるか、これを追求することを怠ってはSMという行為は成り立たないんです。考えることを忘れたSMはそれ即ちただの……」
「すみません文さん、ドロワが邪魔でよく聞こえません。いやでも、聞きたいわけじゃないですよ。ああでもドロワは取って欲しい……しかしドロワを取ったら……ああーっ」
視覚を犠牲にするか、聴覚を犠牲にするか。ジレンマに陥る若き天狗の苦悩をよそに、山の夜は静かにふけていった。
エピローグ
高台に建つ博麗神社からは幻想郷一帯を見渡すことが出来る。
木々はまだ冬の色を残しつつも、春の気配を感じてか、その枝に生命をたぎらせる準備を始めているようであった。
「それで、里の様子はどうだったの? 魔理沙」
「ひどいもんだ……目も当てられないぜ」
人里の方角を見つめたまま、博麗霊夢は箒にまたがって庭へ降り立った友人に声をかけた。
「そんなに?」
「ああ。なにせ、幻想郷中にこんなものがばら撒かれたんだ。当然といえば当然なのかもしれないな」
「具体的には?……あまり聞きたくないけど」
「八雲は全滅だ。紫を筆頭にドロワを被ってへらへら踊っている」
「式は使役者の影響を強くうけるから、当然といえば当然ね」
「それを見た妖怪がこぞって真似をしている。そして人里ではアリスが人形にドロワを被せて劇をやっている。大好評だったぜ」
「どいつもこいつも……」
「ドロワ劇に感動した人間まで被りだす始末だしな……」
友人の報告を聞いた巫女は、手に握りしめていた新聞をばさりと広げ、深いため息をついた。新聞の一面にはドロワを被った大妖怪の写真がでかでかと載っている。
「昨日の今日でこんなことになるなんてね」
「人も妖怪も好奇心の強い生き物だ。当然と言えば当然かもしれないぜ?」
「そうね。でも……放ってはおけないわ」
巫女はお払い棒を強く握りしめた。暢気さの欠片も感じられないその様子に、魔理沙は否が応にも事態の深刻さを実感せずにはいられなかった。
「やっぱり、行くのか?」
「ええ。これは異変よ。幻想郷中の人妖がドロワを被りだすなんて、こんなの尋常じゃない。幻想郷のあるべき姿はこんなものではないわ」
「霊夢……お前にそんな使命感があったとはな」
「当たり前でしょう?だって、私は、博麗の巫女だもの」
そういってほほ笑む霊夢の姿に、魔理沙は神性ともいうべきものを見た。
「わかった。私もいくぜ!!」
「魔理沙……いいの?この異変はこれまでとは訳が違うのよ?」
「何言ってるんだ?これまでどんな異変も二人で乗り越えてきたんだ。私と霊夢は今までもこれからも一心同体だぜ!!」
「魔理沙……ありがとう。」
「なんだよ。照れるじゃないか」
「ふふ……ところで、一つ聞いていい?」
「あー? どうかしたか?」
「帽子が少し浮いてるみたいなんだけど、何で?」
霊夢の言葉に反射的に魔理沙は帽子を押さえようと手を伸ばす。
しかし、本気の巫女に生半可なスピードで太刀打ち出来ようはずもなく、光の早さでスイングされたお払い棒によって、魔理沙の帽子は地へ落とされた。
「魔理沙……これは何かしら」
「あっ、違う! 違うんだ!」
帽子の中からは薄ピンクのドロワーズがちらりと、その可憐な一部を覗かせている。
「残念だわ、魔理沙。この手であなたを討つ日がくるなんてね」
「違う! これはけしてやましい気持ちじゃ……」
「ええい! うるさい!!」
魔理沙の必死の弁解にも耳を傾けず、巫女は全力でスペルカードを宣言した。
その威力はこれまでに例を見ないほど凄まじく、ドロワ騒ぎを見物にいそいそと降りてくる途中であった某天人をも巻き込んだと言われている。
世にいうドロワ異変。このあとこの騒動がどのような顛末を迎えたのか。それはこの記録を読む者の想像に任せようと思う。何故なら、歴史を楽しむ醍醐味の一つには、想象を働かせるということがあるというのが私の持論だからである。
「ん……こんなものかな」
墨に濡れた筆をコトリと硯へ掛けると、上白沢慧音は大きく伸びをした。
今宵は満月。ワーハクタクと化した慧音は溜まりに溜まった歴史の記録、編纂作業を行っていた。
「そろそろ妹紅がくるころだな。さて、つまみの準備でもするか」
友人と酒盛りの約束をしている彼女は、作業をキリの良いところで終わらせると、宴の支度に取りかかり始めた。といっても、昼にあらかた造り終えてしまっているので、後は温め直すだけである。
コトコトと揺れる鍋を見つめながら、慧音は先ほど取りかかっていた歴史について思いを馳せていた。
(あの騒動は果たして記録に残すべきであったのか?確かに幻想郷中を巻き込んだ事件ではあったが、内容が内容だ。……いやしかし、果たして歴史の重要性に優劣など付けることが出来るのだろうか。一見どうでもよいと感じられる所に真理が隠されている場合も多々ある。後世になって評価が変わることだって往々にある。それを考えると……ん!?)
慧音の思考作業は何かが割れる音によって中断された。振り返ると、そこには、顔面を蒼白にして立ちすくむ友人の姿。足元には酒を入れて来たのであろう瓢箪型の陶器が見るも無残な状態で転がっている。
「妹紅! どうしたんだ、何かあったのか?」
尋常ではない友の様子に、慧音も警戒の色を強める。千年を生き、数々の修羅場を潜ってきた彼女が怯えるほどの何か。もしかしたら、今までに確認されていない危険な妖怪が現れたのかもしれない。
慧音は妹紅へと駆け寄り、そっと肩に手を掛ける。
「どうしたんだ妹紅? 何があったのか話してくれないか?」
「け……慧音、それ……頭に被ってるの……」
「っあ!?こっこれは……」
慧音は思わず頭部を手で覆おうとした。しかし、今宵は満月。頭に生えた2本の大きな角と、それを覆う白いドロワを隠しきるには、慧音の両手はあまりに非力だった。最も、例え隠せたとしても、根本的な解決にはまったくなってはいない。
「慧音……そんな趣味が?」
「違うんだ妹紅! これは決して変態的な趣味や興味から起こした行動ではないんだ! より詳しく、より生々しく歴史を記述するには当事者の感情に肉薄することも重要といえば重要でな! それに……」
「しかもそれ……私のドロワ……」
「ん? あっ!いや、どうりで少し小さいと……」
「けっけーねの……けーねのばかぁぁぁぁぁぁ!!」
「まっ待ってくれ! もこぉ! もこぉぉぉぉ!!」
妹紅が絶叫と共に立ち去った後、慧音は一人取り残された家の玄関でしばし呆然と立ちすくんだのち、その場へ座り込んだ。なみなみと零れ、水溜まりをつくった酒に、満月がただ煌々と写り込んでいた。
酒に浮かぶ月を見つめながら、慧音は誰へともなく呟いた。
「……今度は、ちゃんと自分のを被ろう」
個人的にはアリスの人形劇の内容が知りたいところです。
読解力がないせいか、前者が何で後者が何なのか読み取れなったのですが・・・
すみません、削除したつもりの部分が残ってしまっていました。
ご指摘ありがとうございました!
霊夢が気づくの遅いってことは、地底は無事なのですな。
ああ!本当ですね……
ご指摘ありがとうございます!すぐに訂正させて頂きます。
>なみなみと零れ
なみなみと、というのは器から溢れそうな様を表しているので
言い回しがおかしいと思います。