「うーむ、そうか、やっぱりそうか」
犬走椛は、一枚の紙切れをつまむと、そいつをしげしげと眺めた。
自分で書いておきながらしげしげもクソもないものだが、改めて見るとなんだか不安な気持ちになる。
『報告者: 犬走椛』
『 1 来訪者: 二名 東風谷早苗 霧雨魔理沙 以上』
『 2 許可無く進入した者: なし 』
『 3 2に対しての対応: (空欄) 』
『 4 河川の状況
○○渓谷、 特に変化なし
××渓谷、 特に変化なし
△△渓谷、 特に変化なし
□□急流 特に変化なし
☆☆滝周辺 特に変化なし』
・・・・・・・・・・・・・
『 13 特筆すべき事項: 桜が少しずつ開花しています』
平たく言ってしまえば『今日も何もありませんでした』であり、それ以上の内容はない。いったい、自分は誇り高き哨戒兵なのか、このスッカラカンの報告書をわざわざ書くだけの人なのか、そのあたりどうも分からなくなってくる部分が椛にはある。
そんなもんだから、昔はあれだけパタパタと元気に振っていた尻尾も、ここしばらくはしょんぼり加減でうなだれているのだ。
「うぬぬ、一日の成果がこれか。なんというか、毎日のことながら呆れるな」
この山は、近頃とんと寂れてきた。
いや、昔からさほど事件が起こる山ではなかったのだが、ずいぶん前に起こった例の異変で注目を浴び賑やかになったのを最後に、パタリと人が途絶えてしまった。一時ヘタに忙しくなったせいだろうか、ヒマが常の哨戒兵の仕事の、そのヒマの部分が余計に強調される結果となったような気がする。
「首筋が、首筋が痒いなぁ、ばりばり」
気付けばその首筋は引っ掻き傷だらけになっていた。悪くすると血が出ることもある。
単純にむず痒いだけではないだろう。『こんな癖を持つ私ってヤバいんじゃないのか』と薄々分かっていながらも繰り返してしまうあたり、なんだか神経症の気配がする。ヒマというのは忙殺よりもゆっくりと首を締め上げてゆく。椛はその絡み付いた見えない縄を解こうとしているのかもしれない。
そんなこんなで、今日も報告書を提出しに事務所へ向かうのだ。
行くと言っても、『報告書だピョン』などと、とうに精神をやってしまった者が書いたであろう紙が貼り付けられた段ボール箱に、投函するのみなのだが。
自然は人の心を癒す、というが、それは嘘である。
そんな言説はせいぜい、忙しい都会から出てきた者か、もしくは故郷に帰ってきた者が唱えるばかりであり、実際にそこに住む者にとっては田舎の風景とは空々しいものでしかない。椛も例に違わず、この山の眺めというものに飽き飽きしており、川のせせらぎがどうだの木々のざわめきがどうだのには、まったく興味が無い。興味が無いし、そもそも知覚していない。そんなものをいちいち知覚していては山なんぞ煩くてたまらないではないか。田舎者をナメるなと椛は言いたい。
ノンビリと暮らす日々というものも悪くない、たしかにそうかもしれない。だが、彼らはすでに知っているのだ。ここ以外のどこかでは日々何事かに熱心に勤しんでいる者たちがいることを。
そうなってくると、このノンビリ加減が急に人間としての怠慢に思えてきて、ある日ひゃあと叫んで飛び出したくなる衝動に駆られる。その焦燥感の凄まじさというものは、寂れた農村から若者が逃げ出してゆくことからも察して分かるだろう。なので、たまに街から出てきたリュックサック担いだ行楽客連中が『うわー何も無くていいところですねー』と言っているのを聞くと、椛は発作的にそいつらをぶん殴りたくなる。『何もない』だなんて所詮は『何かある』土地から出てきた者の言い草であって、その言葉を聞くたびに、妬ましさに気が狂いそうになり、己が棲家の物質的欠乏を嫌でも思い知らされるのだ。しかし、一部の者は『そうでしょ、都会じゃあまりこういう自然って見られないでしょ』などと、都会人の言い草に乗せられた発言をするのだが、椛はそれを心から嫌っている。
数年前のことだっただろうか。椛はそれをきっかけとして同僚の天狗の首を絞めたことがある。
『バカヤロウ!てめぇバカにされてんのが分からねぇのか!』と叫んで取っ組み合い、ぎゅうぎゅうと頚部を圧迫させて失神させ、おまけに全身に牙と爪の傷を残してしまったのだ。ふだん、わりと品行方正で通っている椛のこの蛮行に周囲はひゃあと叫び、以来、これを記事にした新聞屋の射命丸文などは未だに椛のことを狂犬病扱いしている。目覚めた同僚は恐怖のあまり尻尾を股間に巻いてプルプルと震え、その姿を見た椛は『ああ、私はなんてことを』と後悔し、それ以来であろうか、首筋を引っ掻き回すようになった。
同僚に対する罪悪感もあるのかもしれないが、そのとき初めてヒマという病理が症候として表に出てきてしまったのかもしれない。
ちなみに、その同僚は未だに椛と顔を合わせるとチワワのように小刻みに震える。
小刻みに震える同僚を見て、他の同僚たちもチワワのように震える。かくして椛の周りにはチワワばかりになってしまった。要するに、椛の気持ちを少しでも理解できる者は、いなかったのだ。白狼天狗がチワワの集団だと気付いた瞬間、椛はなんだか嫌になってしまった。
それからというもの、椛は報告書に『特に変化なし』と記入するようになった。
以前は、どんなに何事も起こらなくても、何事かを蛇行する蛇の如くつらつらと書き連ねていたのだが、その気概というのもバカバカしく思えてしまったのだ。一度萎えた気力を取り戻すのは難しく、『特に変化なし』は癖となってしまい、日々の勤めを『特に変化なし』で終わらせてしまうのが常となった。尻尾もしばらく振っていない。
ところが、そこに躊躇いが無いかといったらそうではない。
時折正気になったが如く、『アホか私は』としげしげと自分の報告書を眺めてしまうことがある。するとあのばりばりが止まらなくなり、首筋を真っ赤に染めてしまうのだ。命知らずの同僚、例の『報告書だピョン』を書いた頭のおかしい同僚は、それを見て『椛さん、秋でもないのに色付いてますね!』などと言ってきたが、これには怒りを通り越して閉口した。
さて、今日も変化の無い一日を終え、椛は報告書を出すため事務所へ戻った。
事務所といっても古びた山小屋であり、上の天狗達が如何に哨戒兵を軽んじているかが嫌でも分かる。下っ端だ下っ端だと言われ続けてきて、さらにこの仕打ちとなると椛、忸怩たる思いでキリキリと牙を噛み締めたのであった。その表情のまま事務所内に入ったものだから、同僚たちはひゃあと叫んだ。
「お、おお、お疲れ様でした椛さん」
チワワ一号、否、椛の犠牲者は涙目になりながら挨拶をしてきた。
ちょっと可愛い顔をしているなぁと思っていた天狗少女なだけあって、この痛ましい姿を見るたびに椛も心が痛む。心が痛むし、あれだけのことが起こっていながらも配置換えすらも行われないあたり、どうやら上はとことんまで哨戒兵に興味が無いらしい。いったい、この安っぽい段ボール箱は何年使われているのだろう?『報告書だピョン』と書かれた箱に、椛は自分の報告書をペラリと重ねた。
「えー、それでは終礼を兼ねました報告会を行います。どなたか異変を見付けた人はいますか。はい、いない。それでは終わります。起立、気を付け、礼」
わざわざ事務所に戻る時間のほうが長いという有様であった。
誰もがこの仕事に対してとことんまでに意欲を無くしており、人間の世界の企業であれば死臭が隠し切れないといった状況であるが、山はそれでも哨戒兵を撤廃しない。一応格好付けのために用意しておかねばならない部署なので、存続だけはさせているといったところである。よくも、まぁ、こんなロクデモナイ部署なんぞ残しておくものだと呆れるが、きっと呆れているのは上も同じで、よくも、まぁ、こんなロクデモナイ連中が集まったものだと言っているに違いがない。
「ああ、首筋が、首筋が痒いよう、ばりばり、」
この見えざる縄を解かねば窒息してしまうぞ、とばかりに首筋を引っ掻く椛の周囲には、人がいなくなった。
代わりに、座敷のほうに天狗大将棋の盤がドスンと音を立てて置かれたのであった。仕事終わりにさっそく一局、といったところだろうか。この手の娯楽が平然と置かれている事務所は末期なので、自分の勤め先に囲碁や将棋が置かれてるのを見た読者諸氏は万が一を考えたほうがいい。ちなみに今だと、モンスターハンターシリーズあたりが実に危ない。上司がモンスターハンターを始めたという読者諸氏はすぐに辞表の書き方を検索するといい。一方、上司が動物の森を始めたという読者諸氏、それは女性社員に近付こうというスケベ心の現われなので、別の意味での注意が必要である。
閑話休題。天狗大将棋、それは一局終わるのに途方も無い時間がかかる狂気のゲームである。ヒマを潰すためにヒマなことをするヒマ人のみに与えられたゲーム。
椛もつい最近までこれに熱心になり、河城にとりと遊んでいたりもしたのだが、とある日、対局を持ちかけた椛に対し、にとりが心底面倒くさそうな顔をしたのを切っ掛けとして、二度とやらなくなった。あのとき聞こえた『あのねぇ、いくら私もそこまでヒマじゃないんだよ、アンタと違って』という声は、にとりのものだったのかそれとも幻聴だったのか、その区別すらも曖昧な自分に鳥肌が立った。そんな忌まわしい思い出を持つ天狗大将棋がパチパチと並べられる音を聞いて、首筋を引っ掻くのが、これはもう捗ったこと捗ったこと。
「こ、これは、これは捗るぞぉ、ばりばり、」
もはや事務所内は地獄絵図であった。
閑職のストレス、というと羨む者もいるかもしれないが、己の無価値さに気付かされると大抵は発狂を始める。たとえば、急な体調不良等により欠勤を申し出て『ん、はい、分かりました、お大事に』とだけ言われてあっさり通ってしまったとき、人は自分の存在がいかに希薄かを思い知るのだ。とはいえ性根がどうしようもなく鈍感にできている者はそれを喜び、当分の間出勤しなくなることがある。そんな輩は土に埋めておくのが一等一番なので、椛も何度か怠惰な同僚を埋めるための穴を掘ったことがある。
もちろん、いくらか真面目にやろうとしている若者であっても、やがて椛のように情熱が擦り切れるのは目に見えている。
チワワ一号ちゃんはせっせと報告書の手直しなどしているが、あれも長くは続かないだろう。なにしろ暖簾に腕押し、いくら精力をつぎ込んでも反応は一切返ってこないのだから。そう思うと椛、頼りなさげなチワワちゃんの背中をきゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られることがある。額に浮かぶ可憐な汗を舐め取ってやりたくなる。あのとき襲った際に刻まれた牙の痕、爪の痕は、未だに消えていないのだろうか?すっ裸にして傷の経過を逐一確かめてみたくなる。いっそ、事務所内に二人きりになったとき、怖い先輩のイメージを使い、難癖でも付けてお仕置きでもしてやろうかしら。そう、涙を目にいっぱい湛えプルプルと震えるチワワちゃんの服を脱がせ、尻尾の付け根から近いいちばんチワワな部分を、チワチワして…。
「ひゃあ!」
正気に戻った椛の奇声に、同僚たちがずっこけた。
大将棋は裏返り、崩壊し、事務所内に報告書が舞った。
ああ、なんてこった、これでは変態じゃないか。
椛は先ほどのイカガワシイ妄想を掻き消すが如く、首筋をバリバリと引っ掻いた。溜まりに溜まった精力を日々の業務にぶつけることができないせいだろうか、椛の中に、今までにない変態的欲望が渦巻いている。ヒリヒリしたうなじのあたりから、次第に前の方へ爪を移動させて、喉のほうまでもバリバリと引っ掻くと、バリバリの二週目がスタートした。例のチワワちゃんなんぞは、椛の奇声で脚が竦んだのか、へたりと座り込んだまま立てず、信じられないものを見るような目付きで椛の奇行を眺めているではないか。再びうなじのほうへ手が伸びて、一度掻き毟ったあたりを二度引っ掻くと血が滲んでヌルヌルしてきた。
「なんだってんだ、もう、ばりばり、ばりばり、ああ、ばりばり、」
ふと、冷静になり指先を見てみれば、血に染まっているではないか。
なるほど、ふむふむ、血液は案外にもベトベトするのだなと指でコネコネしてみると、なぜだか尻尾がパタパタした。椛の精神状態は次第に脈絡というものが失われ、混沌としてきている。そんな椛の手を止めたのは、あのキチガイ、否、『椛さん、秋でもないのに色付いてますね!』の同僚であった。
「椛さん、大丈夫ですか」
「あ、ああ、そんなに大した傷じゃないし、大丈夫」
「傷の深さのことじゃないですよ。そうやって自分で自分を傷付けておいて、大丈夫なわけがないじゃないですか。立派な自傷行為ですよ。精神的にどっかおかしくなってる証拠です」
このキチガイ、否、同僚は意外にも真剣な目付きをしているではないか。マトモなことも言っている。
その態度に椛はかえってどこかギョッとし、冷静になった。
「それに、なんというかですね、その、」
「それになんというか?」
「椛さんが大丈夫でも、それを見ている人が平気じゃないんです」
「そ、そういうもんかな」
「それに、それに、それにですよ?なんというか、なんというか、」
「一遍に言ってよ。何がどうしたっていうのさ」
「その傷跡、まるで首吊った痕みたいだ!いひひ!きひひひひひ!」
ガサガサと、真っ暗な夜道を逃げるように走る影、犬走椛である。
あの同僚の笑いは確かに怖ろしかった、白狼でありながら鳥肌が立った、思わず尻尾が丸まった、いや、それよりも自分自身が何よりも怖ろしい。いったいなんだというのだろうか、あれだけ周囲を見下していた割には、自分が一等一番の頭のおかしい奴だったのではないか。あのチワワちゃんが恐れていたのはあの暴行のせいだけだろうか?いやいや、きっとそればかりではない。首吊り痕らしきものが刻まれながらも平然と現れる椛が怖ろしかったのだろう。
「ひゃあ!」
ひゃあと叫んで椛は山を逃げ回った。どこへ行くでもなく、ただ逃げ回った。
ひょっとしたら逃げ回るこの行動こそ異常者の最たるかもしらんぞ、と気付いてからは、またもひゃあと叫んで、もっともっと逃げ回った。
逃げ回れば逃げ回るほど自分の頭のおかしさにひゃあと叫ぶのだ。これが恐慌状態というものかと思うと余計に怖ろしくなった。この恐怖のループ状態、なんだか尻尾を追いかけてグルグルと回っていた子犬のころの幼少期を思い出す。あのピュアだった頃の自分を思い出すと今度は涙が止まらなくなった。それはきっと、可哀想に、今の自分、という涙である。こうなってくると、もはや自我がどこにあるのか椛自身でもよく分からなくなってきた。
「ひゃあ!ひゃあ!」
自分を観測する『椛カメラ』は背後のほうにある気がしてきた。
『椛カメラ』は山奥をひたすら暴れ走る一匹のキチガイ天狗の無残な姿を映していたのであった…。
そんなこんなで、夜が白んできた。
いったいあの狂乱はなんだったのだろうか、椛はちょっとだけ冷静さを取り戻していた。一時は水場で顔を洗おうとしたが、水面に映った自らの惨状を見て吐き気がしたのでやめた。首筋の出血は思ったよりもすさまじく、絞首刑のあとに蝋燭責めに遭ったような様相を呈していた。そんな、頭上に爆弾でも直撃したかのような風貌と表情でフラフラと歩く椛の目の前に、文の職場があった。
するとどうだろうか、まだ夜も明けきらないというのに、印刷機が音を立てているではないか。窓の向こうには朝から忙しく働く文自身のシルエットが見える。
「大変だなぁ、文様は」
漏れたのは月並みな感想であったが、椛はそこが人間らしいエネルギーに満ち溢れた場のように見えた。
これは偶然か導きか、脚が運ぶままに走り続けていたということは、ひょっとしたら肉体がここに活路を見出したのかもしれない。そうだ、そうとも、響き渡るあのガッシャンコガッシャンコという機械音こそが人を動かす原動力ではなかったのか。無機質?バカ言え、あれを聞かずに生きていればいずれ動物に成り下がってしまう。暇殺しの大自然なんて、くそったれだ。
「出版かぁ、印刷かぁ、やってしまおうかしら」
そう思うと、椛、突如として尻尾がパタパタと元気になってきた。腹の底から湧いて出てくる熱い何某かを感じた。
以前からというもの、文には何度か助手を依頼されたこともあったし、実際に何度も助手として働いたことがある。そのときの凄まじい忙しさと精神的なピキピキに辟易としたが、今考えればあの熱中時代こそが、椛の生命のもっとも燃えていた瞬間だったのではないか。一時はとことんにまで懲りて、しばらく誘いを断っていたこともあった。だが、今こそ飛び込むチャンスなのかもしれない。
「うむむ、なんだか奮えてきた、奮えてきたぞぉ。このまま暇殺しになんて、されてたまるか」
活力はそこにあり。椛は決意した。その勢いが萎まないうちに、文のドアノブに手をかけたのであった。
それは勇気なのだろうか、それとも自暴自棄だろうか。熟慮をしないあたり、後者であるような気がするのだが。
ちなみに付け加えるなら、椛の姿を見た文はひゃあと悲鳴を上げたのであった。
それから気付けば数年が経っていた。
今、椛は思う。思い返してみれば、あの暇な職場でも、一応はメシが食えていたわけである。
それは実は得難いことなのだ。しかも哨戒兵という仕事は消えることがない為、地盤もガッチリと安定している。少なくとも出版やら編集やら印刷やらという価値が変動しがちな業界よりは。それなのに、どうしてあのときの自分はこんな道を選んだのであろう?やはり狂人だったのだろうか?今では暇殺しどころか忙殺の憂き目に遭いそうだ。しかも、哨戒兵としてなら私はベテランだったではないか。周囲からはキチガイと思われていたかもしれないが、一定の権威は保っていたはずである。それが、くそぉ、この性悪の文のヤツは、事あるごとに私の頭をひっ叩きやがって。おまけにどれだけ精力に溢れているというのか、これほど忙しいというのに、暇さえあればセクハラをしおって。業界人は屈折した欲望を持つ連中ばかりだ。お前らはどんだけイジメられてきというのだ。そんでもってどういう神経で次の世代をイジメるのか。体育会系はこれだから害悪だというのだ。ちくしょう、一刻も早く文のやつより偉くなってやる。いつか、いつか、喉笛に噛み付いてやるんだから。かならず食い千切ってやるんだから。
二枚のカードが目の前にあるとき、人はどちらかがアタリだと思いがちである。
しかし、ひょっとしたら、どっちもアタリであるかもしれないし、どちらもハズレであるかもしれない。
さて、椛が選んだカードは、アタリだろうか、ハズレだろうか。
当の本人はハズレだと思い込んでいるし、しばらく洗えていない尻尾が脂でベトベトとしているあたり、傍から見てもハズレとしか見えないのだが。ちなみに、文のいる世界がどんなものかについては『下品で下賤で下世話で下劣で下等で低俗で低脳で底辺で不潔で不徳で不憫で不幸で不摂生で不衛生で不感症な新聞記者』を参照して頂きたい。
「川の、川のせせらぎが呼んでいる、木々のささやきが手招いている。ああ、チワワちゃん、会いたいよぅ」
夏頃になると時折見えるチワワちゃんの胸元の隙間を思い浮かべて、椛は涙した。
刻まれた首吊り様痕は治癒しているが、代わりに本物の首輪が文の悪意によって付けられている。
この椛の境遇は、アタリかハズレか、読者諸氏はどう見るだろうか。ちなみに仕事が終わったら悪鬼羅刹が蔓延る呑み会という地獄が待っているのだが。
犬走椛は、一枚の紙切れをつまむと、そいつをしげしげと眺めた。
自分で書いておきながらしげしげもクソもないものだが、改めて見るとなんだか不安な気持ちになる。
『報告者: 犬走椛』
『 1 来訪者: 二名 東風谷早苗 霧雨魔理沙 以上』
『 2 許可無く進入した者: なし 』
『 3 2に対しての対応: (空欄) 』
『 4 河川の状況
○○渓谷、 特に変化なし
××渓谷、 特に変化なし
△△渓谷、 特に変化なし
□□急流 特に変化なし
☆☆滝周辺 特に変化なし』
・・・・・・・・・・・・・
『 13 特筆すべき事項: 桜が少しずつ開花しています』
平たく言ってしまえば『今日も何もありませんでした』であり、それ以上の内容はない。いったい、自分は誇り高き哨戒兵なのか、このスッカラカンの報告書をわざわざ書くだけの人なのか、そのあたりどうも分からなくなってくる部分が椛にはある。
そんなもんだから、昔はあれだけパタパタと元気に振っていた尻尾も、ここしばらくはしょんぼり加減でうなだれているのだ。
「うぬぬ、一日の成果がこれか。なんというか、毎日のことながら呆れるな」
この山は、近頃とんと寂れてきた。
いや、昔からさほど事件が起こる山ではなかったのだが、ずいぶん前に起こった例の異変で注目を浴び賑やかになったのを最後に、パタリと人が途絶えてしまった。一時ヘタに忙しくなったせいだろうか、ヒマが常の哨戒兵の仕事の、そのヒマの部分が余計に強調される結果となったような気がする。
「首筋が、首筋が痒いなぁ、ばりばり」
気付けばその首筋は引っ掻き傷だらけになっていた。悪くすると血が出ることもある。
単純にむず痒いだけではないだろう。『こんな癖を持つ私ってヤバいんじゃないのか』と薄々分かっていながらも繰り返してしまうあたり、なんだか神経症の気配がする。ヒマというのは忙殺よりもゆっくりと首を締め上げてゆく。椛はその絡み付いた見えない縄を解こうとしているのかもしれない。
そんなこんなで、今日も報告書を提出しに事務所へ向かうのだ。
行くと言っても、『報告書だピョン』などと、とうに精神をやってしまった者が書いたであろう紙が貼り付けられた段ボール箱に、投函するのみなのだが。
自然は人の心を癒す、というが、それは嘘である。
そんな言説はせいぜい、忙しい都会から出てきた者か、もしくは故郷に帰ってきた者が唱えるばかりであり、実際にそこに住む者にとっては田舎の風景とは空々しいものでしかない。椛も例に違わず、この山の眺めというものに飽き飽きしており、川のせせらぎがどうだの木々のざわめきがどうだのには、まったく興味が無い。興味が無いし、そもそも知覚していない。そんなものをいちいち知覚していては山なんぞ煩くてたまらないではないか。田舎者をナメるなと椛は言いたい。
ノンビリと暮らす日々というものも悪くない、たしかにそうかもしれない。だが、彼らはすでに知っているのだ。ここ以外のどこかでは日々何事かに熱心に勤しんでいる者たちがいることを。
そうなってくると、このノンビリ加減が急に人間としての怠慢に思えてきて、ある日ひゃあと叫んで飛び出したくなる衝動に駆られる。その焦燥感の凄まじさというものは、寂れた農村から若者が逃げ出してゆくことからも察して分かるだろう。なので、たまに街から出てきたリュックサック担いだ行楽客連中が『うわー何も無くていいところですねー』と言っているのを聞くと、椛は発作的にそいつらをぶん殴りたくなる。『何もない』だなんて所詮は『何かある』土地から出てきた者の言い草であって、その言葉を聞くたびに、妬ましさに気が狂いそうになり、己が棲家の物質的欠乏を嫌でも思い知らされるのだ。しかし、一部の者は『そうでしょ、都会じゃあまりこういう自然って見られないでしょ』などと、都会人の言い草に乗せられた発言をするのだが、椛はそれを心から嫌っている。
数年前のことだっただろうか。椛はそれをきっかけとして同僚の天狗の首を絞めたことがある。
『バカヤロウ!てめぇバカにされてんのが分からねぇのか!』と叫んで取っ組み合い、ぎゅうぎゅうと頚部を圧迫させて失神させ、おまけに全身に牙と爪の傷を残してしまったのだ。ふだん、わりと品行方正で通っている椛のこの蛮行に周囲はひゃあと叫び、以来、これを記事にした新聞屋の射命丸文などは未だに椛のことを狂犬病扱いしている。目覚めた同僚は恐怖のあまり尻尾を股間に巻いてプルプルと震え、その姿を見た椛は『ああ、私はなんてことを』と後悔し、それ以来であろうか、首筋を引っ掻き回すようになった。
同僚に対する罪悪感もあるのかもしれないが、そのとき初めてヒマという病理が症候として表に出てきてしまったのかもしれない。
ちなみに、その同僚は未だに椛と顔を合わせるとチワワのように小刻みに震える。
小刻みに震える同僚を見て、他の同僚たちもチワワのように震える。かくして椛の周りにはチワワばかりになってしまった。要するに、椛の気持ちを少しでも理解できる者は、いなかったのだ。白狼天狗がチワワの集団だと気付いた瞬間、椛はなんだか嫌になってしまった。
それからというもの、椛は報告書に『特に変化なし』と記入するようになった。
以前は、どんなに何事も起こらなくても、何事かを蛇行する蛇の如くつらつらと書き連ねていたのだが、その気概というのもバカバカしく思えてしまったのだ。一度萎えた気力を取り戻すのは難しく、『特に変化なし』は癖となってしまい、日々の勤めを『特に変化なし』で終わらせてしまうのが常となった。尻尾もしばらく振っていない。
ところが、そこに躊躇いが無いかといったらそうではない。
時折正気になったが如く、『アホか私は』としげしげと自分の報告書を眺めてしまうことがある。するとあのばりばりが止まらなくなり、首筋を真っ赤に染めてしまうのだ。命知らずの同僚、例の『報告書だピョン』を書いた頭のおかしい同僚は、それを見て『椛さん、秋でもないのに色付いてますね!』などと言ってきたが、これには怒りを通り越して閉口した。
さて、今日も変化の無い一日を終え、椛は報告書を出すため事務所へ戻った。
事務所といっても古びた山小屋であり、上の天狗達が如何に哨戒兵を軽んじているかが嫌でも分かる。下っ端だ下っ端だと言われ続けてきて、さらにこの仕打ちとなると椛、忸怩たる思いでキリキリと牙を噛み締めたのであった。その表情のまま事務所内に入ったものだから、同僚たちはひゃあと叫んだ。
「お、おお、お疲れ様でした椛さん」
チワワ一号、否、椛の犠牲者は涙目になりながら挨拶をしてきた。
ちょっと可愛い顔をしているなぁと思っていた天狗少女なだけあって、この痛ましい姿を見るたびに椛も心が痛む。心が痛むし、あれだけのことが起こっていながらも配置換えすらも行われないあたり、どうやら上はとことんまで哨戒兵に興味が無いらしい。いったい、この安っぽい段ボール箱は何年使われているのだろう?『報告書だピョン』と書かれた箱に、椛は自分の報告書をペラリと重ねた。
「えー、それでは終礼を兼ねました報告会を行います。どなたか異変を見付けた人はいますか。はい、いない。それでは終わります。起立、気を付け、礼」
わざわざ事務所に戻る時間のほうが長いという有様であった。
誰もがこの仕事に対してとことんまでに意欲を無くしており、人間の世界の企業であれば死臭が隠し切れないといった状況であるが、山はそれでも哨戒兵を撤廃しない。一応格好付けのために用意しておかねばならない部署なので、存続だけはさせているといったところである。よくも、まぁ、こんなロクデモナイ部署なんぞ残しておくものだと呆れるが、きっと呆れているのは上も同じで、よくも、まぁ、こんなロクデモナイ連中が集まったものだと言っているに違いがない。
「ああ、首筋が、首筋が痒いよう、ばりばり、」
この見えざる縄を解かねば窒息してしまうぞ、とばかりに首筋を引っ掻く椛の周囲には、人がいなくなった。
代わりに、座敷のほうに天狗大将棋の盤がドスンと音を立てて置かれたのであった。仕事終わりにさっそく一局、といったところだろうか。この手の娯楽が平然と置かれている事務所は末期なので、自分の勤め先に囲碁や将棋が置かれてるのを見た読者諸氏は万が一を考えたほうがいい。ちなみに今だと、モンスターハンターシリーズあたりが実に危ない。上司がモンスターハンターを始めたという読者諸氏はすぐに辞表の書き方を検索するといい。一方、上司が動物の森を始めたという読者諸氏、それは女性社員に近付こうというスケベ心の現われなので、別の意味での注意が必要である。
閑話休題。天狗大将棋、それは一局終わるのに途方も無い時間がかかる狂気のゲームである。ヒマを潰すためにヒマなことをするヒマ人のみに与えられたゲーム。
椛もつい最近までこれに熱心になり、河城にとりと遊んでいたりもしたのだが、とある日、対局を持ちかけた椛に対し、にとりが心底面倒くさそうな顔をしたのを切っ掛けとして、二度とやらなくなった。あのとき聞こえた『あのねぇ、いくら私もそこまでヒマじゃないんだよ、アンタと違って』という声は、にとりのものだったのかそれとも幻聴だったのか、その区別すらも曖昧な自分に鳥肌が立った。そんな忌まわしい思い出を持つ天狗大将棋がパチパチと並べられる音を聞いて、首筋を引っ掻くのが、これはもう捗ったこと捗ったこと。
「こ、これは、これは捗るぞぉ、ばりばり、」
もはや事務所内は地獄絵図であった。
閑職のストレス、というと羨む者もいるかもしれないが、己の無価値さに気付かされると大抵は発狂を始める。たとえば、急な体調不良等により欠勤を申し出て『ん、はい、分かりました、お大事に』とだけ言われてあっさり通ってしまったとき、人は自分の存在がいかに希薄かを思い知るのだ。とはいえ性根がどうしようもなく鈍感にできている者はそれを喜び、当分の間出勤しなくなることがある。そんな輩は土に埋めておくのが一等一番なので、椛も何度か怠惰な同僚を埋めるための穴を掘ったことがある。
もちろん、いくらか真面目にやろうとしている若者であっても、やがて椛のように情熱が擦り切れるのは目に見えている。
チワワ一号ちゃんはせっせと報告書の手直しなどしているが、あれも長くは続かないだろう。なにしろ暖簾に腕押し、いくら精力をつぎ込んでも反応は一切返ってこないのだから。そう思うと椛、頼りなさげなチワワちゃんの背中をきゅっと抱きしめたくなる衝動に駆られることがある。額に浮かぶ可憐な汗を舐め取ってやりたくなる。あのとき襲った際に刻まれた牙の痕、爪の痕は、未だに消えていないのだろうか?すっ裸にして傷の経過を逐一確かめてみたくなる。いっそ、事務所内に二人きりになったとき、怖い先輩のイメージを使い、難癖でも付けてお仕置きでもしてやろうかしら。そう、涙を目にいっぱい湛えプルプルと震えるチワワちゃんの服を脱がせ、尻尾の付け根から近いいちばんチワワな部分を、チワチワして…。
「ひゃあ!」
正気に戻った椛の奇声に、同僚たちがずっこけた。
大将棋は裏返り、崩壊し、事務所内に報告書が舞った。
ああ、なんてこった、これでは変態じゃないか。
椛は先ほどのイカガワシイ妄想を掻き消すが如く、首筋をバリバリと引っ掻いた。溜まりに溜まった精力を日々の業務にぶつけることができないせいだろうか、椛の中に、今までにない変態的欲望が渦巻いている。ヒリヒリしたうなじのあたりから、次第に前の方へ爪を移動させて、喉のほうまでもバリバリと引っ掻くと、バリバリの二週目がスタートした。例のチワワちゃんなんぞは、椛の奇声で脚が竦んだのか、へたりと座り込んだまま立てず、信じられないものを見るような目付きで椛の奇行を眺めているではないか。再びうなじのほうへ手が伸びて、一度掻き毟ったあたりを二度引っ掻くと血が滲んでヌルヌルしてきた。
「なんだってんだ、もう、ばりばり、ばりばり、ああ、ばりばり、」
ふと、冷静になり指先を見てみれば、血に染まっているではないか。
なるほど、ふむふむ、血液は案外にもベトベトするのだなと指でコネコネしてみると、なぜだか尻尾がパタパタした。椛の精神状態は次第に脈絡というものが失われ、混沌としてきている。そんな椛の手を止めたのは、あのキチガイ、否、『椛さん、秋でもないのに色付いてますね!』の同僚であった。
「椛さん、大丈夫ですか」
「あ、ああ、そんなに大した傷じゃないし、大丈夫」
「傷の深さのことじゃないですよ。そうやって自分で自分を傷付けておいて、大丈夫なわけがないじゃないですか。立派な自傷行為ですよ。精神的にどっかおかしくなってる証拠です」
このキチガイ、否、同僚は意外にも真剣な目付きをしているではないか。マトモなことも言っている。
その態度に椛はかえってどこかギョッとし、冷静になった。
「それに、なんというかですね、その、」
「それになんというか?」
「椛さんが大丈夫でも、それを見ている人が平気じゃないんです」
「そ、そういうもんかな」
「それに、それに、それにですよ?なんというか、なんというか、」
「一遍に言ってよ。何がどうしたっていうのさ」
「その傷跡、まるで首吊った痕みたいだ!いひひ!きひひひひひ!」
ガサガサと、真っ暗な夜道を逃げるように走る影、犬走椛である。
あの同僚の笑いは確かに怖ろしかった、白狼でありながら鳥肌が立った、思わず尻尾が丸まった、いや、それよりも自分自身が何よりも怖ろしい。いったいなんだというのだろうか、あれだけ周囲を見下していた割には、自分が一等一番の頭のおかしい奴だったのではないか。あのチワワちゃんが恐れていたのはあの暴行のせいだけだろうか?いやいや、きっとそればかりではない。首吊り痕らしきものが刻まれながらも平然と現れる椛が怖ろしかったのだろう。
「ひゃあ!」
ひゃあと叫んで椛は山を逃げ回った。どこへ行くでもなく、ただ逃げ回った。
ひょっとしたら逃げ回るこの行動こそ異常者の最たるかもしらんぞ、と気付いてからは、またもひゃあと叫んで、もっともっと逃げ回った。
逃げ回れば逃げ回るほど自分の頭のおかしさにひゃあと叫ぶのだ。これが恐慌状態というものかと思うと余計に怖ろしくなった。この恐怖のループ状態、なんだか尻尾を追いかけてグルグルと回っていた子犬のころの幼少期を思い出す。あのピュアだった頃の自分を思い出すと今度は涙が止まらなくなった。それはきっと、可哀想に、今の自分、という涙である。こうなってくると、もはや自我がどこにあるのか椛自身でもよく分からなくなってきた。
「ひゃあ!ひゃあ!」
自分を観測する『椛カメラ』は背後のほうにある気がしてきた。
『椛カメラ』は山奥をひたすら暴れ走る一匹のキチガイ天狗の無残な姿を映していたのであった…。
そんなこんなで、夜が白んできた。
いったいあの狂乱はなんだったのだろうか、椛はちょっとだけ冷静さを取り戻していた。一時は水場で顔を洗おうとしたが、水面に映った自らの惨状を見て吐き気がしたのでやめた。首筋の出血は思ったよりもすさまじく、絞首刑のあとに蝋燭責めに遭ったような様相を呈していた。そんな、頭上に爆弾でも直撃したかのような風貌と表情でフラフラと歩く椛の目の前に、文の職場があった。
するとどうだろうか、まだ夜も明けきらないというのに、印刷機が音を立てているではないか。窓の向こうには朝から忙しく働く文自身のシルエットが見える。
「大変だなぁ、文様は」
漏れたのは月並みな感想であったが、椛はそこが人間らしいエネルギーに満ち溢れた場のように見えた。
これは偶然か導きか、脚が運ぶままに走り続けていたということは、ひょっとしたら肉体がここに活路を見出したのかもしれない。そうだ、そうとも、響き渡るあのガッシャンコガッシャンコという機械音こそが人を動かす原動力ではなかったのか。無機質?バカ言え、あれを聞かずに生きていればいずれ動物に成り下がってしまう。暇殺しの大自然なんて、くそったれだ。
「出版かぁ、印刷かぁ、やってしまおうかしら」
そう思うと、椛、突如として尻尾がパタパタと元気になってきた。腹の底から湧いて出てくる熱い何某かを感じた。
以前からというもの、文には何度か助手を依頼されたこともあったし、実際に何度も助手として働いたことがある。そのときの凄まじい忙しさと精神的なピキピキに辟易としたが、今考えればあの熱中時代こそが、椛の生命のもっとも燃えていた瞬間だったのではないか。一時はとことんにまで懲りて、しばらく誘いを断っていたこともあった。だが、今こそ飛び込むチャンスなのかもしれない。
「うむむ、なんだか奮えてきた、奮えてきたぞぉ。このまま暇殺しになんて、されてたまるか」
活力はそこにあり。椛は決意した。その勢いが萎まないうちに、文のドアノブに手をかけたのであった。
それは勇気なのだろうか、それとも自暴自棄だろうか。熟慮をしないあたり、後者であるような気がするのだが。
ちなみに付け加えるなら、椛の姿を見た文はひゃあと悲鳴を上げたのであった。
それから気付けば数年が経っていた。
今、椛は思う。思い返してみれば、あの暇な職場でも、一応はメシが食えていたわけである。
それは実は得難いことなのだ。しかも哨戒兵という仕事は消えることがない為、地盤もガッチリと安定している。少なくとも出版やら編集やら印刷やらという価値が変動しがちな業界よりは。それなのに、どうしてあのときの自分はこんな道を選んだのであろう?やはり狂人だったのだろうか?今では暇殺しどころか忙殺の憂き目に遭いそうだ。しかも、哨戒兵としてなら私はベテランだったではないか。周囲からはキチガイと思われていたかもしれないが、一定の権威は保っていたはずである。それが、くそぉ、この性悪の文のヤツは、事あるごとに私の頭をひっ叩きやがって。おまけにどれだけ精力に溢れているというのか、これほど忙しいというのに、暇さえあればセクハラをしおって。業界人は屈折した欲望を持つ連中ばかりだ。お前らはどんだけイジメられてきというのだ。そんでもってどういう神経で次の世代をイジメるのか。体育会系はこれだから害悪だというのだ。ちくしょう、一刻も早く文のやつより偉くなってやる。いつか、いつか、喉笛に噛み付いてやるんだから。かならず食い千切ってやるんだから。
二枚のカードが目の前にあるとき、人はどちらかがアタリだと思いがちである。
しかし、ひょっとしたら、どっちもアタリであるかもしれないし、どちらもハズレであるかもしれない。
さて、椛が選んだカードは、アタリだろうか、ハズレだろうか。
当の本人はハズレだと思い込んでいるし、しばらく洗えていない尻尾が脂でベトベトとしているあたり、傍から見てもハズレとしか見えないのだが。ちなみに、文のいる世界がどんなものかについては『下品で下賤で下世話で下劣で下等で低俗で低脳で底辺で不潔で不徳で不憫で不幸で不摂生で不衛生で不感症な新聞記者』を参照して頂きたい。
「川の、川のせせらぎが呼んでいる、木々のささやきが手招いている。ああ、チワワちゃん、会いたいよぅ」
夏頃になると時折見えるチワワちゃんの胸元の隙間を思い浮かべて、椛は涙した。
刻まれた首吊り様痕は治癒しているが、代わりに本物の首輪が文の悪意によって付けられている。
この椛の境遇は、アタリかハズレか、読者諸氏はどう見るだろうか。ちなみに仕事が終わったら悪鬼羅刹が蔓延る呑み会という地獄が待っているのだが。
大天狗と言い天狗社会は一体どうなっているんだ
確かにスタミナ、と言うか長さは今までより多少短いですが、いつもの面白さは相変わらずだと自分は思いました
単純にフハハと笑える部分もありましたし、同僚の台詞には少しゾッとしました
正直な所、椛がチワワと交流を図るのかと思いこの作品を開いてみればそれは縮こまった同僚の事であり、チワワをチワチワすると言う文章にはやはり「君ハイセンス」としか言い様がありません
>立派な自傷行為ですよ。精神的にどっかおかしくなってる証拠です
少し病んでるな、と序盤からそんな感想をもっていたらまことその通りであり、どうでも良い話としてウチの猫もクビをバリバリやってケガをし、医者へgoと言う事態になったのでウチの猫と椛を重ねて見てしまい何とも言い難い気分になったのは事実なのですがやはり面白い文章はそれらをどうでもよくさせますね
確かにスタミナが落ちた感は否めませんが、そのゴリゴリと書き続けられるパワーは羨ましい。長編も読んでみたいです。
こういう捻くれた作品、大好きです。
少しづつ語彙を増やしてゆくと良いかも。すればもっと楽しいものが出来ます。
ひゃあ!それは無自覚的でした。
逆接の多様ですか、そいつはきっと文章に変化をもたらそうとした結果でしょうと自己分析します。それがかえって単調になっているor本当の意味で読みにくくなっているとは、いやいや、ご指摘ありがとうございます。その部分を好意的に見てくれる人もいればそうでない人もいるということ、覚えておきます。
たまにはそうやってビシッと言ってくれるコメントがあると、こちらも投稿のし甲斐があるというものです。
「自分で書いて自分で読み返す」っていうことを繰り返していては、必ずどこかで定型的な部分に陥ってしまいますものね。他者の目は必要です。椛と同じように。
面白かったです。氏の作品は初めて読みましたが…、どれ他のものも読んでみようかしら。
妖怪は長寿だから暇なんでしょうが…
とてもカオスでした……。
狂ったように首をかく犬を幻視して、なんとも言えない渇いた笑みが浮かびました。
きっと、文から逃げ出して戻ったら、更なる高みに登り詰めたチワワちゃんがいるんですね。それはある意味アタリなのかも
椛はなんだかんだいって自分で状況を打破する力を持った賢しい子です。ひゃあ。
恐慌状態に陥って走り回るさまを読んだとき高熱で倒れて2日くらい悪夢を見ながら夢と現の間をさまよった時のことを思い出しました。筆力すげい。ひゃあ。
これは氏の作品を遡らねばなるまい。ひゃあ。
貴方の描くこの世界観、奇妙に現実の苦しみをなぞった世界観
でもこれは人を選ぶ。百も承知とは、こういうものを指すのだろう
思うままに書い欲しい
これが私の感想
決して褒められたもんじゃないんだけど、でも面白かったです。好き。
御山のロンリーウルフ犬走さんはチワワ天狗に囲まれながら転職エレジィに身を落として行くのですね。誰も彼もが何だかおかしい。ホント妖怪の山は地獄やで。
もみじさんの一番ちわわな部分をちわちわしてry
結局現状に満足できないのが性なのか、そもカードが両極端すぎるだけなのか。
しかしこの世界は一体なんなのだろう。都会と呼べるほどの街、リュックサックの観光客、天狗なのに人間としての怠慢が云々・・・。
幻想と現実が崩壊を起こした末法の世なのかこれは…
ところで氏の長編読みたいなぁ(チラッチラッ
短編書きながら、気が向いたときに長編を書き進める感じはいかが?
あなたの作品はまさにあなたにしか書けない味を持っていますね。
リズムの良い文章で心地よかったです