「ナズーリン?」
「何だい、主」
「いや、何だかぼうっとしていたから。私の話、聞いていました?」
聞いていなかった。
何だったか。また何か無くしたか。あるいは寺の運営の話? それとも天部の話だったろうか。もしかしたら天気の話かもしれない。
「いえ、ですから今日は寒くなりそうでしょう? お寺に泊まったらどうですか?」
天気の話だった。
「でも、最近は弟子も増えてきて、空き部屋が無いだろう」
「そんな事ありませんよ。この前も改築しましたし、女性宿舎はまだまだ。それに私の部屋に泊まれば良いじゃないですか。いつもみたいに。毎度毎度遠慮する事はありませんよ」
お泊りに誘われてしまった。
「どうしました? ナズーリン?」
頭が火照る。ぼうっとする。ふやけた顔を見せたくなくて、私は俯いた。身の回りが落ち着いてきた最近、外界との交流であったり、お宝探しであったり、色色な事に目が向く様になって、その色色な内の一つに主の事がある。主に誘われる度に、ぼうっとしてしまう。一緒の部屋に泊まったからと言って何がある訳でもない。今までだって何度も泊まってきた。けれど今まで何もなかったそこに、特別な意味を見出そうとする私が、私自身を駄目にしている。
主と仲良くなりたい。
そういう感情に最近気が付いた。
「じゃあ、そうする」
では決まりですと主は手を叩き歩き出した。私はその後を追う。主は歩く時、あまり私の方を見ない。いつも前を向いて、私は主の背中に向かって話す事になる。それは単に、主は常に前を向いて歩いているというだけの事だけれど、最近は何だかもやもやとしてしまう。そんな自分が嫌だ。
主にはいつも私の事を見てもらいたい。
「雪が降りそうですね、ナズーリン」
「どうだろう。湿度が高いから、降るとしても雨じゃないかな」
言ってから、可愛気の無い答えだと思った。何が湿度だ。何故そこで主に同意しない。私から出てくる言葉はいつだって私のもので、決して相手に歩み寄ろうとしない。今まではそれで良かった。顕界する上で己を確立する事は何にも勝る。
だが今は違う。
歩み寄りたい相手が居る。自分を押し殺してでも好かれたい相手が居る。だが私の気質がそれを許そうとしない。私の心が幾ら柔らかく温かい言葉を吐こうとしても、私の口は鋭利で冷たい言葉ばかり吐く。まるで心と体が分かれたみたいに。こんな事じゃ毘沙門天様に顔向け出来無い。
「そうですか? ナズーリンには悪いですけど、私は雪が降ると思います。そんな気がするんです」
「そうかもしれないね。私は私の思った事を言ったまでで未来を言い当てた訳じゃない」
ほら可愛くない。
こんな言葉ばかり吐いていたらいずれは嫌われてしまう。主の顔色を窺おうと顔を上げたが、主は前を向いて歩いている為、今の私の言葉をどう受け取ったのか分からない。思わず溜息が出る。
「あ、馬鹿にしています?」
「いいや。私が主を馬鹿にする訳無いだろう」
「やっぱり馬鹿にしていますね? ならば賭けましょうか。雪が降るのかどうか」
「それは今夜の事かい?」
空を見上げる。雲一つ無い晴れ渡った空だ。雪どころか雨も降りそうにない。主もそれに気が付いた様で、一瞬立ち止まったかと思うと乾いた声で笑った。
「三日間にしましょう。三日以内に雪が降ったら私の勝ち、降らなかったらあなたの勝ち。どうですか?」
「良いけど。私が戦いの神と神格付けされた毘沙門天様の部下と知っての挑戦かい?」
「何をそれを言うなら、私は毘沙門天様の代理です。勝負勝負」
それは自称だろうと言う言葉を、すんでの所で飲み込んだ。駄目だ駄目だ。幾ら私の口が愚かでも、それだけは言っちゃいけない。それは主が一番気にしている事だから。それを言えば主は決定的に傷付いてしまう。
主は毘沙門天様の本物の代理ではない。あくまで教えを広める為に有用であるからそう名乗る事をお目こぼししてもらっているだけで、毘沙門天様の代理というのは所詮自称でしかないのだ。私の様な目付けがついているのがその証拠。天部に認められた代理に監視をつける等、天の力と神格を疑う行為であり、何者にも許されざる禁忌である。勿論、主の様に名乗る事を黙認され、監視を付けられる事自体、稀な事であり、主と白蓮の活動が天部に高く評価されている証左であるが、主自身はその事を気にしている。それは触れてはならない腫れ物の部分だ。
私が命蓮寺から離れた場所に住んでいるのだって、上下の順序が食い違ってしまうからという事よりも、監視役の私が纏わり付いていると鬱陶しく思われるんじゃないかと怖くなったからに他ならない。
私は主に嫌われたくない。
「良いだろう。毘沙門天様の部下と、毘沙門天様の代理。良い勝負になりそうだ。それで何を賭けるんだい?」
「賭ける?」
「勝負なら何かを賭けるものだろう」
「そういうものですか」
主はうーんと唸って考えだした。これは寺につくまでずっと考えていそうだ。一つの事に熱中すると周りが見えなくなる。そんな主が嫌いじゃない。それに周りが見えなくてよく物を失くせば、私にはそれを見つけ出すという形で主の役に立てる。いや、それ位しか私が主の役に立てる事が無いから。
「なあ、主。私は主の使い魔だ」
「ええ、その様になっていますね」
「なら私は使い魔として主の役に立っているかい?」
「はい! それはもう! 宝塔を無くした時もそうですし、あなたには助けて貰いっぱなしです」
「主は私を特別に思ってくれているという訳か?」
唐突な質問に驚いた様子で、主の言葉は一瞬歩みを止めたが、すぐに私の望む言葉をくれた。
「ええ、勿論です」
主はそう言ってくれる。
それを私は嬉しく思う。
だが喜んでいる私の心とは裏腹に、私の口は要らぬ事を言う。
「主がそう言うのは、私が毘沙門天様の部下だからだろう? 私がなんでもないただの鼠なら」
「それでも私にとってあなたは掛け替えの無い存在ですよ」
そう言って主は振り返り、笑顔をくれた。
私はその晴れやかな笑顔を見ていられなくて、目を逸らした。
何でこんな意味の無い質問をしてしまったんだ。
仲間であり、使い魔であり、毘沙門天様の下で働く同僚であり、そして何より毘沙門天様から遣わされた監視役である私に対して、大切じゃないなんて言える訳が無い。もしも主が私を嫌っていたって、好きだと言わざるを得ない。だから主は必ず大切だと言ってくれると分かっていた。
分かっているのに。主にとっての特別な存在だと、主に慕われている存在だと信じたくて、主の口からそれを聞きたくて、殆ど無理矢理言わせただけなのに、それでも主の言った掛け替えの無い存在という言葉を嬉しく思う私が居る。
「ですから、二人にとって嬉しい事にしませんか? 一方ばかりが喜ぶ様なのは」
気鬱を払って顔を上げると、主はまた私に背を向けて、空を見上げていた。
「何の話だい?」
「賭け事の話です。どちらが勝っても、二人が幸せになれる様な賭けにしましょうよ」
そうだね。
私は素直になれず、口も悪く、監視役なんていう立場で、主にとって良い存在ではないけれど、主を幸せに出来たらと思う。主を幸せにしてあげられる存在になれたらと思う。それから私の願いが叶って、二人で幸せになれたらと思う。
私の心はいつだって主と私の幸せを願っている。
今日は久久のお泊りだし、この機会にもっと仲良くなりたいと思っている。
こんな風に、私はあれこれと主の事を考えて、少しでも良い印象を抱かれたいと思っている。
それなのに私の口はこう言うのだ。
「あのね、主、それじゃあ賭けにならないだろう。真面目に考えてくれよ」
本当に何て可愛くない奴だろう。
「寅丸様だ」
「今日も格好良い」
境内を歩いていると黄色い声が微かに聞こえた。振り返るとお堂の扉の陰に隠れて弟子達が覗いているのが見える。
あれはまだ可愛い方だ。
「星様!」
続いて、甲高い声が聞こえて、主の下に門弟達がわらわらと寄ってきた。
私はその内の一人にぶつかり地面に転んだ。
痛い。
私を押し飛ばしたそいつは謝罪もそこそこに、主を囲う輪に加わった。
苛立ちを覚えたが、怒りを露わにするのは小人のする事である。毘沙門天様の部下としてその様なはしたない事は出来無い。それに、この程度の事で怒ればきっと周りの連中から白い目で見られるだろうし、何より主を幻滅させてしまう。
やれやれと溜息を吐いて、主を囲む門弟達を見ると、白蓮の書いた文物を手にして騒いでいる。
「すみません、経典で分からない事があるんですけど」
「ここが難しくて」
主の中性的で整った容姿は人を惹きつけるらしくファンが多い。
さっきの様に隠れてきゃーきゃー言っているのも居れば、こうやって近付いてくる奴等も居る。当然男も居る。私の後方で掃き掃除の振りをしているのが三人。さっきから主の胸の大きさばかり話している。人間なら聞こえない位の小声だが、主も私も耳が良いから聞こえているぞ。その証拠に主の顔は少し赤くなっている。
別にこういった弟子達の行為は悪い事じゃない。
憧れるのは結構だし、恋愛だって自由だ。
天部は恋愛を禁止していない。教えの最終目的は解脱であり、恋愛という感情がその妨げになるのは知れているが、だからといって恋愛を禁止したから悟れる様になるかというとそんな訳が無い。悟りを一代で成し遂げるのは至難なのだ。人間の一生等長くとも百二十年。三百年生きれば頑張った方だろう。そんな時間、梵天様の瞬きにすら遥かに及ばない。天部だって悟っていないのにそんな短かな時間の中で悟るというのは、お題目としては結構だが、現実の問題として不可能に近い。
だから如来部だって悟りを強要したりはしない。教えは畢竟皆を苦しみから救う為にあり、無理に悟ろうとして苦しむのでは本末転倒である。繰り返す輪廻の中で少しずつ徳を積み理解を深め、そしていずれ解脱出来れば良いのだ。だから教えに従う事を強要はしないし、ましてどっかの教えの様に、この世界は苦界だから子供を産んで苦しみを増やすな、なんて事は言わない。増やしたいなら増やせば良い。むしろ悟る為の器として、増えた方が良い位だし、例えそれが結果的に過ちであったとしても、須臾の極みでしかないそれに、一一目くじら立てる必要はないのである。
だから天部は恋愛を禁じない。自らの徳と智を高める為に禁欲に耽るのも良いが、未来の為に生物として営む事だって認められてしかるべきだ。如来部からも恋愛禁止のお達しが来た事なんてない。教えは皆を救う事が出来る。そしてそれは時間を掛ければいずれ必ず成し遂げられる。だから教えを広め、悟りの為の土壌を用意するだけで十分なのだ。どうせいずれは悟る筈だから、個人個人に何かの戒律を強制する必要は無い。
だから主や白蓮に憧れて帰依してきたり、寺が一部出会いの場になっていたり、こうやって主を取り囲むのだって、教えを知るきっかけなのだから、良い事なのだ。
良い事なのだ。
なのだが。
「星様、もう一度教えてくれません。良く分からなかったので」
「私も教えて頂きたい事が」
「ちょっと。皆さん、待って下さい。勉強熱心なのは嬉しいのですが、そんな一辺に。ここは一人ずつ」
まず主も含めて全員でれでれするのを止めろ。
そして集まっている女共、この寒いのに服をはだけるな。ちゃんと着ろ。
それから陰できゃーきゃ言っている奴等もいつまで作業を止めているつもりだ。
後、男共好い加減乳の話から離れろ。
そしてそれから。
「主」
私が先約だったのに。私と歩いていたのに。
そんな恨みを込めて主を呼んでみる。
そんな奴等良いから、早く行こうと言いたいのを飲み込んで、主の言葉を待つ。主を囲う者達の邪魔者を見るみたいな目付きが怖いから、主の事だけを見つめて立っていると、やがて主は振り返って笑顔を見せてくれた。
その笑みを見て、私は安堵した。主は私の事を忘れていなかった。
だが主の笑みが申し訳無さそうなものだと気が付いて、絶望する。
「すみません、ナズーリン。ちょっと時間がかかりそうです」
「そうか」
嫌だ。
一緒に居たい。
そんな奴等放っておいて、私と一緒に来てくれ。
そう叫びたかった。
でも臆病な私は自分の心に気が付かれない様、あくまで平静を装う。震えそうな声を抑え、必死で呆れた表情を作り、主に手を振る。
「じゃあ、外も寒いし、私は先に行っているよ」
「あ、ナズーリン、それじゃあまた後で、私の部屋で」
私は振り返らずに手を振ってその場を離れた。背後から主の取り巻き共に睨まれている気もするが、気にしてもしょうがない。
ああ、嫌だ嫌だと心の中で呟いた。
何だか今日はやけに自分の心がどす黒い。へどろの様に腐っている。
きっと、主に群がる人数がいつも以上に多く、そして群がった門弟達の様子がいつも以上に熱心だったからだ。
そんな程度の事で腐る自分が嫌で仕方無い。
「ナズーリン様」
「ん?」
横から声を掛けられたので見ると、数人の男女が私の横を並んで歩いていた。主の取り巻きが私を恨んで文句を言いに来たのかと警戒したが、何やら嬉しそうな顔をしている。
「なんだい?」
「お久しぶりですね」
「ああ、そうだね。元気にしていたかい?」
話し掛けてきたのは来る度にちょっと挨拶している顔見知り程度の者達だ。一体何の用だろう。話し掛けられる様な用事は無い筈だが。
「はい! それはもう!」
全員が何度も頷いた。元気なのは結構な事だ。肉体の健康は精神の健全に関わる。精神が健全でなければ、悟りなんて夢のまた夢だ。そう考えてから、私が言うなと思わず心の中で突っ込んだ。さっきまで心が乱れに乱れていたのは一体誰だ。
「それで何か用かな?」
「あの、つまり、私達に毘沙門天様の教えを。つまり教授して頂きたいと」
その言葉に合わせて後ろの者達が頷いた。勉強熱心なのは結構な事だ。しかし、私よりももっと適任が居るだろう。
「それなら毘沙門天様の代理である寅丸星様に聞きなさい」
「ですが、ナズーリン様も毘沙門天様のお弟子様ですし」
いつの間にこの話が広まったのか。稗田阿求という者のインタヴュに答えてから、主が毘沙門天様の代理であり、私がその監視役であるという話が広まってしまった。別に隠さなければならない事でも無ければ、弟子が減った訳でも無いから広まった事自体は構わない。幸い毘沙門天様の代理というのが主の自称である事はばれていないから問題無い。と思っていたが、こうして主を差し置いて私の下に教えを乞いに来る者が居るのは問題だ。私が毘沙門天様の弟子だとはいえ、使い魔である私に聞くのでは順序が違う。やはり主か白蓮に聞くべきだ。
「そうは言え、毘沙門天様の教えを乞うのであれば、その代理である寅丸星様にお願いをしなさい。主をおいて私がおいそれと答えるのは、分別を逸脱している」
私が優しく告げると納得した様で、引き下がってくれた。聞き分けがあるのは良い事である。主を取り巻く有象無象もあれ位素直なら、もう少し可愛げもあるのだが。
手を振りながら去って行った弟子達を見送り、さてと呟いて主の部屋を目指す。
だがすぐに阻まれた。
「よっす、ナズーリン」
突然背後から抱きつかれて、足のもつれた私は傍の柱に頭をぶつけた。痛みを堪えながら、抱きついてきた奴の顔を拝むと満面の笑みを浮かべていた。私の頭に瘤をこさえたというのに、そいつの顔からは罪悪感の欠片も見いだせない。
「村紗か。どうした? 今日は一層うかれとんちきだな」
「そりゃそうよ。明日が何の日か知っている?」
「明日?」
何かあっただろうかと考えてみるが分からない。村紗の誕生日はもっと先だった気がする。
悩んでいると、村紗の更に後ろからまた別のうかれた声がやって来た。
「明日はバレンタインデーだろ? 乙女なら浮かれるっきゃないだろ」
ああ、そういえばそんなのあったな。自分とあまりに縁がないから忘れていた。
二人が自分の事を乙女と称する事に敢えて異論を挟もうとは思わないが、あまり他者へ吹聴しない方が良いだろうとは思った。お笑いである。
「君達に、チョコレートを渡す相手が居るとは知らなんだ」
「居るわけないっつーの!」
大声で言って、ぬえと村紗が私の頭を軽く叩き、二人してけたけたと笑いだした。それは笑い所なのか?
「まあ、そうは言ってもさ、チョコ作るだけでも楽しいでしょ?」
「ナズーリンだってやってみたいだろ?」
何だか妙にぐいぐいと迫ってくる。
「手伝ってよ」
「一緒に作ろ!」
面倒である。
どうせ板チョコ溶かして飾り付けるだけだろ?
一体何が楽しいのだか分からない。
そういうのは渡す相手が居るから楽しいんだ。
「別に本命しか渡しちゃいけない訳じゃないしね」
「聖とか寅丸とかさ、ナズーリンが日頃お世話になっている人に渡すとか」
私は二人にお世話をされているという訳ではない。
まあ、他者との繋がりを大事にするのは決して悪い事ではないが。
何にせよ、感謝の気持ちを伝えるのに、チョコレートを作る意味はないだろう。口で言えば良い。
「丁度バレンタインデーっていうイベントがあるんだし」
「そう普段とはちょっと違う事してさ。二人も喜ぶと思うよ? 他の人達も喜ぶ! ナズーリン人気あるし」
私が人気者とは思えないし、まして私が主に贈り物をすれば、周囲から凄まじい怨嗟が襲ってきそうだ。しかし主が喜ぶ事は良い事だ。
けれどバレンタインデーともなれば、どうせ色んな者が主にチョコレートを渡すだろう。考えてみればあの取り巻き達のいつにないはしゃぎ様はそういう事だったのだ。そうするとわざわざ私が渡す必要は。
「やっぱナズーリンっていうさ、二人が絶対の信頼を置いている方から渡されるチョコレートって特別でしょ」
「そうそう。ナズーリンが居ないとバレンタインデーって始まらないんじゃない?」
意味が分からない。
呆れる他無い。あまりにも杜撰な考えだ。私が主にチョコレートを渡すなんて。
「本当に私が渡したら、白蓮や、それから、ついでに主も喜ぶと思うのか?」
喜ばなかったらどうするつもりだ。
「そりゃね! 喜ぶよ!」
「うん! 喜び過ぎて卒倒するよ!」
卒倒されても困る。
それに、バレンタインデーという世俗の行事に乗る事も癪だ。
わざわざ私が白蓮や、それから主の為にチョコレートを作る必要は無い。あの様子だとどうせ沢山貰う。
だが、有象無象の門徒達から渡されるチョコレートの中には美味しくないのが混じっているから口直しが必要かもしれないし、皆があげているのに主人と使い魔という深い関係にある私だけがあげないというのも変な話だし、別にチョコレートを作るなんて溶かして固めるだけだから大した手間にはならないし、皆が楽しみにしている行事を詰まらないと切って捨てるのは衆生を導く者としてどうかと思うし。別に私が主にチョコレートを渡したって全然変じゃないし。
まあ、作ってやっても良いかなと思った。
「仕方無い。私も作るとするか」
「さっすが話が分かる」
「よ、ナズーリン!」
二人の浮かれ具合が伝染しそうなので、私は少し距離を取った。
「材料はあるんだろうね?」
「勿論! もう山の様だよ」
「だからちょっと摘み食いしても大丈夫」
「山の様?」
そんなに用意してどうするつもりだ?
「寺に関わる全員分だからね」
「いやあ経費で落ちたとはいえ、金額見た時は目が飛び出るかと思ったわ、まあ結構良いチョコを選んじゃった所為でもあるんだけど」
「全員?」
「そ、全員。人間も妖怪もその他にも」
それは話が違うのでは無いか?
「白蓮と主のだけじゃなくて?」
「勿論みんなにだよ。面倒だけどね。不公平でしょ?」
まあ能く能く思い出してみれば、二人にだけあげるとは言っていなかった様な気もする。私が勘違いしていただけで。
それにしてもそれだけ大量の材料を用意したという事は。
「全員? 数百人居る弟子全員?」
「そう」
一個一分で作っても、八時間程度掛かるのだが。
「正気か君達?」
「それは企画した白蓮に言ってよ」
そういう事か。
二人はその面倒な仕事を、私に手伝わせたくてあれだけおだてていたのだ。上手く嵌ってしまった。自分から嵌っただけの様な気もするが、ここは二人の話術の巧みさを褒めるべきだろう。上手く主を引き合いに出しやがって、と。まあ、主を引き合いにだしたのは意図しての事じゃないだろうが。
という事で、私はチョコレートを溶かしている。数百人分作るのだ。手間なんて掛けていられないから、本当に溶かして型に流して固めるだけだ。
村紗が砕き、私が溶かし、ぬえが型に入れる。型はハート型である。最初、ぬえと村紗は男性器の形をした型にしようと計画していたが、様子を見に来た白蓮がぐっと拳を握ったら、ハート型にするという方向で決定した。
三人でやると意外に早く終るもので、途中から来た一輪と雲山がラッピングを担い、夕方になる前には十分な量のチョコレートが包装された状態で山積みになった。後は明日配るだけである。
その山の中に、白蓮と主へのチョコレートも含まれているが、あくまでそれは命蓮寺という集団からのもので、それとは別に私個人として、余った生クリームで、主に渡すトリュフを作った。箱の中に収めたトリュフ達はちょこなんと小さくて、可愛らしいけれど、何か頼りない。いやいやきっと喜んでくれる。包装をして、リボンで結ぶ。心を込めて、主を思って、丁寧に作った。可愛らしく作れた筈だ。だからきっと、喜んでくれる筈だ。
他の者達も余った材料を使って各各自分達の為にチョコレートを作り、それが一段落すると今度は食べ物で遊び始めて、板チョコの早食いをしたり、生クリームで攻撃しあったり、バターで一発芸を演じたりと収拾の付かない程荒れだしたが、様子を見に来た白蓮がぐっと拳を握ったら収まった。白蓮と一緒に主もやって来ていたので、私は慌ててトリュフを背中に隠す。見られてまずい物でもないが、明日渡そうと思っている物を今日見せてしまうのはルール違反の様な気がした。
「ナズーリンも手伝ってくれたんですね。ありがとうございます」
「別に。チョコレートを溶かしただけだよ」
「それも大事な役割です。良い匂いですね。明日が楽しみ」
「主はチョコレートを食べても大丈夫なのかい?」
「勿論です。そんじょそこらのネコ科と一緒にされちゃ困ります」
そう言って主は胸を張った。
良かったと安堵する。
折角作ったのに食べてもらえないのではあまりに悲しい。
「そんな事で偉ぶられても困るよ。私だってチョコレートを食べられる。主は、そうだな、猫じゃらしに引っ掛からなくなってから言ってくれ」
「そこまで子供じゃありませんよ!」
「疑わしいな」
むきになった主をからかいながら、チョコレートを隠しつつ、私は台所から出て、主の部屋に向かった。明日主に渡すまで、チョコレートを隠して置かなければならない。ただ命蓮寺は何処にも人の出入りがあって、上手い隠し場所といえば、主の部屋しか思いつかなかった。今日は主の部屋に止まるから目の届く場所だし、灯台下暗しとも言う、悪い隠し場所ではない筈だ。
部屋の隅に積まれた本の山の中に隠して安心した私は、明日喜んでくれたら良いなと改めて思った。
夜は久しぶりに賑やかな夕食だった。やはり皆で囲う食事は良い。村紗やぬえ達の馬鹿話は面白いし、白蓮や一輪、そして門弟達の語る日常も一興、そして主と同じ空間を過ごすというのは、嬉しく気恥ずかしい。
夕飯と団欒、そして修行を終えると、眠る時間だ。主の部屋で、日課となっている天部への報告文書を書いていると、布団に潜った主が私に声を掛けてきた。
「明日は楽しみですね」
「あまりはしゃぎ過ぎない様に」
「さっきの様な失敗はしませんよ」
ちなみに主はお風呂に入る時に、明日のイベントに思いを馳せすぎて足を滑らせ、頭から湯桶に突っ込んでいた。
「ナズーリンは楽しみじゃないんですか?」
とても楽しみだ。
「皆が楽しみにしている事は快く思うよ」
「そうではなく、あなた自身は楽しみじゃないんですか?」
そうはっきりと聞かれると正直に答えるしかない。
「楽しみにしているよ」
だがきっぱりと言い切る事が恥ずかしくて、声から抑揚が失われていた。
案の定、主は私が嘘を吐いたと判断した様子で、溜息を吐いた。
「残念です。ナズーリンと一緒に楽しみたかったのですが。でも私は、あなたが作ったチョコを食べられると、楽しみにしていますよ」
一瞬、私の作ったチョコレートを見つけられたのかと思って、どきりとした。
主が続けて、皆さんもきっと楽しみでしょうね、と言ったので、あの山の様に作ったチョコレートの事だと分かる。
「主」
不意に、隠してあるチョコレートを持ちだして、主に渡してしまいたい衝動に駆られた。今すぐに主の喜ぶ顔を見たかった。私だって本当は楽しみにしている事を知ってもらいたかった。
すんでの所で口を閉じる。それでは意味が無い。明日渡すから意味があるのに、それを我慢が出来無いからと今日渡すなんて、あまりにも情けない。
「良いんです、ナズーリン。すみませんでした。何だか強要する様な事を言って。本来私も、チョコレート等に現を抜かさず、一心不乱に修行するべき身であるのに」
「楽しむべき事を楽しむのは悪でないさ。私達は苦行を推奨していない」
「そう、ですね。私は修行する事を苦行だと考えていた様です。これは、精進が足りませんでした」
何だか主が落ち込んでしまった。そういう意味で言ったのではなかったのだが。
このままこの話をしていると泥沼に入りそうなので、話を逸らす事にする。
「主、明日は楽しみにしているイベントだろう。あまり夜更かしをしてはいけないよ」
まだそこまで遅い時間でもないが、寺内の規則では寝る時間だ。何より主には早起きをしてもらって、早く私のチョコレートを受け取って貰いたい。偶にあるのだが、主に寝坊をされてもらっては困る。
「ええ、そうですね。そうします。ナズーリンはまだ?」
「ああ、これを書いてから」
「何を書いているのですか、ナズーリン」
主の振る舞いを上に報告している、とはっきり言うのも憚られたので、ぼかして答える事にした。
「日誌だよ。この幻想郷にはお仕事で来ているんだからね」
「私の素行について書いているんですね」
あっさりとばれた。
「まあ、そういう事も書いてある。私は君の監視役だからね」
主従の衣を脱ぎ着捨ててはっきりとそう言って振り返ると、主はいつの間にか正座をして私の事をじっと見つめていた。
「ナズーリン、はっきりと伺いたい。いや、これをあなたに聞くのは筋違いかもしれませんが」
「何かな?」
「私は正式な代理になれるでしょうか」
どうやらさっきの会話がまだ尾を引いているらしい。
なれるさ、勿論。落ち込んでいる主にそうと言ってあげたい。だがそんな気休めの言葉を主が求めていない事は分かる。
「私が代理となってから、もう随分と時間が経ちました。しかしあなたが遣わされて以来、その後は一向に。私は何か間違っているのでしょうか」
「少なくとも私が上げている報告に、君が間違った事をしている等と書いた事はない。もしも君が何か重大な過ちを犯していれば、自称とはいえ、代理等名乗れぬさ」
「ならば何故」
「分からないね。それは私の管轄から外れている。ただ一つ、私にも分かる間違いがある。それは正しい行いをしていれば天部の代理になれるという考えだ」
ああ、嫌な事を言ったな、私。
これじゃあ益益主を落ち込ませるだけだ。
「詰まり、時間感覚が異なっているのだよ。私達の今住む宇宙の起源から消滅までが、梵天様の瞬き一度だという喩えは君だって知っているだろう? どれだけ悩み苦しみ抜いたとしても、それ等は全て些事なんだ。苦しみから逃れるには悟るしか無いんだよ」
「詰まり、私は正式な代理にはなれないという事でしょうか」
「そうは言っていない。私が言いたいのは、こうすれば代理になれるなんて私や君が考えたってしょうがないって事さ。少なくとも私は、天部の代理になった者を知らない。恐らく数える程しかいなかっただろう。それどころか君の様に、天部から監視役がついた者だって私は数える程しか知らない。いつ正式な代理になれるのかは知らないが、それだけ君は天部から目を掛けられているって事ははっきり分かる。君は特別なんだ」
私は主を睨む様にして見つめた。別に睨みたい訳ではない。感情が昂って涙が溢れてきそうだったので、それを堪えただけだ。主に無様な泣き顔なんて見せられない。
主は私の事を無表情で見つめている。感情の表れていない主の顔なんて初めて見たから、何だか怖い。もしかしたら偉そうな事を言ったから嫌われたのかもしれない。もしそうだったら、どうしよう。
不安で一杯になっているとそれを吹き飛ばす様に、主がふっと笑った。
「ありがとうございます、ナズーリン」
いつもの主に戻ってくれた。
安堵して私も息を吐く。
「そうなんです。白蓮に見出され、皆慕ってくれて、天にはナズーリンを遣わして頂いて。私は大変恵まれている。それは分かっている事の筈なんですが、ふと不安に思ってしまうんです。皆を騙し続けている私は、本当に正しい事をしているのかと」
主の表情にまた陰りが見える。
「騙しているのとは違うだろう」
「いいえ、騙している事に変わりはありません。けど私は、今のナズーリンの言葉で気が付きました。私は騙している事が嫌なのではなく、騙している事が知られて、皆に責められるのが嫌なのですね。思い出してみれば白蓮の誘いを受けた時もそうだった。私はただ皆に認められたいが為に、正式な代理になりたいと思っている。浅ましい。これでは毘沙門天様が認めてくださる訳がありません」
「それは違うよ、主。主は皆を助け、救い、導いているじゃないか。皆に慕われて教えを広める。天部が望んでいるままの事だよ。そして、皆が主を慕うのは、主が毘沙門天様の代理を名乗っているからだけじゃない。主が今まで行ってきた事に感謝しているから、そして主のその優しい性格が好きだから、皆が主の傍に寄ってくるんだ」
まあ一部はそのおっぱいに惹かれているみたいだけどね、と肩を竦めると、主が笑ってくれた。
「ありがとう。本当に。私はナズーリンにいつも救われています。さっき特別だと言ってくれた事、本当に嬉しかった」
私は慌てて主から目を逸し、机に向かった。
「主が喜んでくれたのなら私も嬉しいよ」
背中を向けたままそう言って、また日誌に目を落とす。
駄目だ。
主の顔をまともに見られない。
主に喜んでもらえたのが嬉しい。
嬉しすぎて、感情がぐちゃぐちゃになっている。
泣きたくなる位、満たされている。
主が私と同じ様な悩みを持っている事を知る事が出来たから。
主が嬉しいと言ってくれた特別という言葉は、私にとっても大切な言葉だったから。
衝動的な喜びを堪えていると、背後で布団に潜り込む音が聞こえた。
「すみません、ナズーリン。お仕事中なのに、こんな愚痴を。面倒だったでしょ」
「そんな事は無いさ。主が悩みを言ってくれる事なんてあまりないからね。物を失くして泣きついてくる事は良くあるけれど。主は、信仰に対して真面目過ぎる。肩肘張らなくても、世の理は整然と動くものだよ」
「そうですね。あの宗教家同士が争っていた一件から、この所、少し気を張り続けていたかもしれません」
「明日思いっきり楽しめば良い。息抜きになるだろう」
「そうですね」
そう言って、静かになった。眠りに入ったのか。それなら日誌に集中しよう。
私が一つ気合を入れて、袖まくり、日誌に目を落とす。まあ書く事なんて大してない。ただ下手な事を書けば、主に迷惑が掛かる。いつもであれば出来る限り無難に、当たり障り無く、主を褒める文章を書いている。今日もそうしようと考えていたが、正式な代理になりたいと切望している主の為にも、ここは何か情感に訴える様な文章を書いた方がいいかもしれない。
いや、でも別に読んだ者が感動しようと、それで主が代理になれる訳でも無いしなぁ。読むのは下っ端だし。日誌にちょっと良い事を書いたからと言って代理になれるのなら、初めから私が直接上に訴えている。恐れ多くて、というより、主に対する心証が悪くなるだけなので、そんな事出来無いが。いや、でも天部の方方がそんな些細な事に拘る訳も無いし、ここは自分が出来る精一杯という事で、やっぱり訴えかける様な文章を。
「ナズーリン、さっきから何を悩んでいるんですか? もしかしてさっきの事を日誌に書こうと?」
まだ起きていた事に驚いて振り返ると主が布団の中で不安そうな顔をしていた。
「安心してくれ。さっきのは主の個人的な悩みだろ。書く訳が無いよ」
「悩みがあると、代理になるのに不利になるとか」
「悩みが無いのは、悟った者だけだよ。天部の方方だって私達の理解は及ばぬ高みだが、悩みがあるそうだ。だからそれが不利に働くなんて事はない」
「そうですか。安心しました」
「そりゃ結構。単に、今日は何も無かったから何を書こうかなと悩んでいただけだよ」
「なら何も無かったで良いじゃないですか」
「うん、まあね。本当にそれでも良いんだけど。何か少しでも書いた方が見栄えがするだろう?」
すると主がくすくすと笑った。
「ナズーリンは日誌に対して真面目すぎです。肩肘を張らなくても大丈夫ですよ」
「あっそう」
意趣返しをされた。
「今日はもう良いでしょう? 疲れたのならもう睡眠を取るべきです」
そう言って、主が微笑んでいる。卑怯である。そんな風に布団に包まってぬくぬくとしている様を見ていると、私も布団の中に入りたくなった。
「じゃあ、そうしようかな」
日誌を虚空に消して、油の明かりも消す。
月明かりの中で、布団に入り、欠伸をしていると、主がもぞもぞと近寄ってきた。
「ささ、こちらの布団の方が温かいですよ。折角なんですから一緒の布団で眠りましょう」
気恥ずかしくて逃げようとしたがあっさりと捕まり、主の布団に引き摺り込まれた。主に抱き締められて体が緊張する。
「やっぱり二人だと温かさが違いますね。どうです、ナズーリン。冬の間、ずっと私の部屋に居ませんか? 今のお家じゃ冬は寒いでしょう」
気を遣ってくれているらしい。
ありがたい事であり、願ってもない事である。
「考えておく」
だがあまりにも私の願望に合致していて、何だかあっさり承諾するのが怖かった。自分の欲望があけすけになって、主にばれてしまう様な気がした。
「考えておいて下さい。それから、明日のバレンタインデー、ナズーリンも楽しみましょうよ。良い息抜きになりますよ」
主の浮かれた声からして、多分あまり考えて喋っていない。とにかく気を張っている私が息抜きできたらと思いつつ、具体的な事は考えずに思いついた言葉を口にしている。
「楽しみにすると言っても、私は作る側で、もう作ってしまったしね」
バレンタインデーで楽しみなのは、誰にあげるとか誰がくれるとか、後はチョコレートを作るのだったり、食べて美味しかったりという部分だろう。だけど私がやったのは、顔も知らない者も含めた全員に対してのチョコレートを作っただけであり、作るのだってお湯でチョコレートを溶かし続けるばかりだった。完全に作業である。
「まだ渡すというのが残っています。それを楽しみにするんです」
「考えておく」
本当は考えるまでもない。
主に言われるまでもなく、明日の朝が来る事を楽しみにしている。
私には大量に作ったチョコレートとは別に、主の為に作ったトリュフがあるのだから。
明日の朝一番に、主へ渡す。
その時の反応を想像するのは怖いけれど、抱きしめてくれている主の温もりに身を委ねていると、どうしても楽観視してしまう。
早く明日が来てくれないかと願ってやまないまま主の温かさに包まれつつ意識がまどろんでいった。
目を覚ますと、妙に寒寒しい思いがして、身動ぎをすると主が居ない事に気が付いた。慌てて辺りを見回し、飛び起きると、主の姿が無い。どうしたんだと慌てて着替え、部屋の外に飛び出すと、辺りは真っ赤で日が落ちかけていた。
「おはよう、ナズーリン。お寝坊さんね」
「ああ、一輪。おはよう。主は?」
「本堂の方に居るわ」
「そうか。ありがとう。起こしてくれれば良かったのに」
「起こしたらしいわよ。ただあんたがもう少しもう少し言って起きなかったって」
全く覚えがない。
その時、くうとお腹が鳴った。
一輪が笑う。
「残念だけど、もうお昼も過ぎちゃったし、夕飯まで待っててね。ああ、後は、チョコが余っているから、我慢できないならそれを食べると良いわ。太るけど」
折角勧めてくれたのはありがたいが、語尾に太るけど、と付けられては食べる気も起きない。そもそもご飯を食べる事よりも重要な事が私を待っている。
早く主にチョコレートを渡さねば。
「じゃ、あんたも起きた様だし、私は戻るわよ」
「起こしに来てくれたのか、すまない」
こんな夕方にという事は、今までも何度か様子を見に来てくれていたのだろう。
「別に。今日はもうどうしようもないからね」
「どういう意味だ?」
「行ってみれば分かるわ」
意味が分からず、首を傾げている内に一輪は行ってしまった。
私は大きく伸びをして気怠い気を払い、隠してあったチョコレートを取り出し、気合を入れる。何だか緊張して体が強張るのを、思いっきり息を吐きだして鎮め、私は主の居る本堂へ向かった。
空を見上げると赤焼けた空が晴れ渡っている。そう言えば、主と賭け事をしていたなと思い出す。三日目までに雪が降るかという賭けだった。まだ賭けるものは決まっていないが、二日目の夕方でこれだけ晴れているのなら、あっても驟雨や細雨が降るだけで、もう雪が降る事は無いだろう。私の勝ちだ。これは賭けるものを考えておいた方が良いだろう。
勝負に勝つというのはどんな時でも楽しいもので、何だか陽気な気持ちになって角を曲がり、境内を覗いた瞬間、感情が一転して呆れた声が出た。
「うわ」
凄い人集りが出来ていた。かつて見た成田山の混雑もかくやと言う程だ。命蓮寺で学んでいる僧だけでなく、山や人里からやって来た様なのも居て、人も妖も入り混じった凄まじい坩堝になっている。
そしてその向こう側に、主が居た。
どうやらこの集まりは、主に押しかけている様だ。
主は笑顔で、一人ずつプレゼントを受け取り、それをプレゼントが山の様に積まれた荷車の上へ丁寧に載せては、次の者からまたプレゼントを受け取っている。プレゼントの積まれた荷車は既に四つあり、丁度今、馬鹿笑いしているぬえが五台目を牽いてきた。
「いやあ、凄いね、寅丸の人気」
「あれは何だい?」
近づいて来た村紗は人混みを手を指し示して、くつくつと笑った。
「いや、最初は何人かが、バレンタインデーだからって寅丸にチョコを渡していたんだけど、それを見た奴等が私も私もと、私達が配ったチョコを渡しだして、それを見た奴等が何だ何だご利益でもあるのかとチョコを渡しだして、それがいつの間にか寺の外にまで知れ渡ったみたいで、参拝客がやって来ているって話。試しに賽銭箱を入り口近くにも置いてみたら、これがたんまりで笑いが止まらないんだけど」
「煩悩渦巻いているな」
村紗がげらげらと笑う。
「幸運てものは貰える時に飛びつかないと。私達は聖人君子じゃないからね。聖も急に来た参拝客に喜んで、向こうでせっせと説法しているよ」
事情は分かった。
だがそうすると、私のチョコレートを渡すという計画はどうなる。
「これは夜まで収まりそうにないね。一日忙しくなりそう」
村紗が笑いながら去って行った。
残された私は手の内のチョコレートに目を落として考える。
夜まで待つ?
とんでもない。
昨日の夜だって渡したくて我慢していたのに、もうこれ以上我慢するのは嫌だ。だがここに集まっている者達の様に列に並び一人一人に渡していくなんてのも嫌だ。そんなんじゃ折角のトリュフが埋もれてしまう。
どうにかして主を連れ出し、二人っきりで渡せないかと思案して、主を連れだそうと思い立った。
大きく人混みを迂回して、主の下まで行くと、荷車の中身が良く見えて、何だか仏像やら数珠やら大根やら葱やらチョコレートとは関係の無いものまで入っている。
呆れながら主に近付くと、振り返った主と目が合った。
「あ、ナズーリン。起きたんですね」
「うん、おはよう」
「もう夕方ですよ」
主は笑い、かと思うと参拝客に呼び掛けられて、プレゼントを受け取る作業に戻った。列は蛇行しながら延延続いている。この分じゃ、本当に夜まで終わりそうにない。
「なあ、主、話があるんだが良いかな?」
「え? すみません、ナズーリン。今はこの通りでして。待っていて貰えませんか」
「いつまで掛かるか分からないだろう。少しの間で良いから、ちょっと来てくれないか」
「いえ、ですが」
また参拝客に呼ばれて、プレゼントを受け取りだした。
見れば参拝客達が私の事を睨んでいる。向こうからすれば私は主を連れ去ろうとする敵なのだろう。怖い。怖くてこの場を離れたかったが、ここで逃げては主が。
「ナズーリン、すみませんが」
だがその主も気がそぞろで、こちらの事に構っていられないという様子だ。
何だかそれが我慢出来なくて、思わず感情が昂った。
周囲の突き刺さる様な視線を恐れる心も相まって、思わず声を荒らげてしまう。
「主!」
「すみません。夜まで待って下さい」
はっきりと言われてしまった。
自分の中の何かがすとんと落ち込んでしまった気がした。
昨日あれだけ大切だと言ってくれたのに、所詮はこの程度の扱いなのか。
「主にとっては、そっちの方が特別みたいだね」
聞こえているのかいないのか、主はもうこちらを見もしない。
それが悲しくて悔しかった。
プレゼントを受け取る主の笑顔がこちらに向いていないというのが我慢出来なくて、見ているのが辛かった。
喪失感を覚えたが、どうしようもない。
主がそういう態度なら良いさ、と帰ろうと背を向けた時、背後から凄まじい嬌声があがった。何だと思って振り返ろうとした時、背後からぶつかられて、地面に投げ出された。
「あ、すみません」
振り仰ぐと、耳まで真っ赤になった女性が居た。尼僧じゃない。外部の妖怪だ。様子を見ると、どうやら主の過剰なファンらしい。主を前にすると正気を失う手合が中には居る。そういうのは最終的に一悶着合って寺を追い出されるが、もしかしたらこいつも追い出された一人なのかもしれない。そいつは謝罪もそこそこに、顔を覆って走り去ってしまった。
「大丈夫ですか、ナズーリン」
背後からの主の声に、ああと答えて立ち上がろうとして、少し先の地面に落ちたそれを見て、一瞬思考を失った。
私が作って包装したチョコレートが地面に落ちていて、大きくひしゃげて地面にへばりついていた。さっきの奴が逃げ去る時に踏んでいったに違いない。
私は慌てて這い寄り、どうにか出来ないかと、拾い上げてみた。だが包み紙は崩れ、中から覗くトリュフも潰れてしまっていた。
「ナズーリン、何処か怪我を?」
主が近付てきたのを感じて、私は慌てて起き上がる。
「いや、大丈夫だよ」
振り返って主を安心させたかったが、駄目だ。今の泣きそうな顔を主に見せられない。
とにかくこの場から去ろうと歩き出すと、後ろから主に腕を掴まれた。
「待って下さい。本当に大丈夫ですか?」
振り向かされそうになって、私は慌てて腕を払った。
「大丈夫だって言っているんだから、放っておいてくれ」
喋っている内にも涙が出てきそうになる。
折角作ったチョコレート。
手の中でぐちゃぐちゃになったそれが涙で滲み出す。
「ナズーリン、それは?」
私の視線に気が付いたのだろう、主が覗きこんでくる。
何でもないと答えようとしたが、涙で詰まった声を聞かれなくて、私は黙って主を突き飛ばした。
そうして逃げ去ろうとしたが、また主に腕を掴まれる。
「待って下さい!」
しつこい。
放っておいてくれと言っているんだから放っておけば良いのに。
私なんかよりも、向こうで並んでいる参拝客の方が大事なんだろ。
再び腕を振って引き剥がそうとしたが、今度は放してくれなかった。
「ナズーリン、黙っていては分かりません。何処か痛いんでしょう? 向こうにぬえが居ますから、手当を頼んで」
ぬえに手当を頼めという言葉で、どうしてか分からないけど耐え切れなくなった。
頭に血がのぼるのが自分で分かった。
気が付くと叫んでいた。
「うるさいな! 大丈夫だと言っているだろ!」
「ですが……泣いているんですか?」
思わず声を出してしまった。
泣いている事がばれてしまった。
恥ずかしくて、私は袖で顔を覆い、何とか逃げ出そうとしたが、前に回り込んだ主に止められた。
「ナズーリン、どうしたというんですか?」
その心配そうな顔を見ると何だか急に心が萎み、主の口から私の名が漏れたのを聞くとその胸に飛び込みたくなる衝動に駆られた。私の気持ちを正直に伝えて、自分の事をずっと見てもらいたいという欲望が強烈に湧いてきた。
だが私の口からは、その思いとは別の言葉が吐き出される。
「何だ? 今更私の心配か? 気にするなって言っているんだから、気にするな! 主には向こうにもっと大切な方方が居るんだろう? そちらに行ってやれば良い! 私の事なんかどうだって良いんだろ!」
「そんな事はありません。ナズーリン、気が動転しているのは分かりますが、一旦落ち着いて下さい」
「分かる? 何が分かるんだよ! 良いからあっちへ行っていろ。そこで色呆けていろ! 欲に溺れてへらへら笑っていれば良い」
そして最悪の言葉が飛び出した。
「そんな俗っぽいから、主はいつまで経っても認められていないんだ!」
それを言った次の瞬間、一気に冷や汗が吹き出した。何かが切り替わったかの様に、私の中で燃えていた嫉妬が消えて、代わりに取り返しのつかない事を行ってしまった後悔と罪悪感が心の底に淀んだ。
最悪の言葉だ。
主が気にしているもっとも言われたくない言葉だろう。
昨日の夜もそんな主の悩みを聞いたばかりだというのに。
「主」
謝ろうと思って顔を上げる。
そして息が止まった。
主の絶望した顔がそこにあった。
今にも泣き出しそうで、それを必死に堪えながら、けれど明らかに傷付き、苦しそうな表情をしていた。
私の心から溢れた罪悪感が私の胸と喉を締め付ける。
言葉が出てこず、主の顔を見ていられない。
目を逸らしてこちらが黙っていると、主も何も言ってくれなかった。
その沈黙が耐えられない。
だが私にはどうする事も出来無い。
主の絶望した表情を思い返すと、後悔が湧いて出るばかりで、主に掛ける言葉が思いつかない。
結局私にはその場から逃げる事しか出来なかった。
主ももう、私を引き止めてはくれなかった。
何処をどう走ったのか分からないが、気が付くと私は山の中に流れる小川を覗きこんでいた。以前、白蓮達とピクニックに来た場所だ。あの時は夏で実に涼やかだったが、冬の今は身を切る様な寒さしかない。川の中に沈んだぐちゃぐちゃの包装紙に気がつくと、寒寒しさがいや増した。
最悪だ。
勝手な嫉妬に駆られて主を傷つけてしまった。
本当ならチョコレートを渡して、主に喜んでもらいたかったのに、結果はその逆になってしまった。
もう主と顔を合わす事は出来そうに無い。
あれだけ酷い事を言ったのだ。主だって私に会いたくはないだろう。
次第に夕暮れが退いて、夜が来ようとしている。
小川の中のチョコレートが闇に隠れて段段と見えなくなる。
私も同じ様に、闇に紛れて消えられたらと自虐的な事を考えた。
小川の流れが耳の中に入り込んで、私の思考を奪っていく。
寒くて体が震えた。
気がつくと夜になっていた。
もう辺りは闇夜で真っ暗になり、月の光で辛うじて先が見えるものの、森の奥なんて夜目を効かせてもすっかり何も見えなくなっていた。
駄目だ。思考が片付かない。
家に帰ろう。
ここでこうして居ても仕方無い。寺に戻る事も出来ないし。
立ち上がって、振り返り、歩き出そうとした。
その瞬間、何かにぶつかって弾き飛ばされた。
驚いて目を見張り、思わず声が漏れた。
「主。いつの間に」
「実はさっきからずっと」
いつからだ。全然気が付かなかった。
「すみません。声を掛けようとは思っていたのですが、何て声を掛ければ良いのか分からなくて」
私は息を飲む。
何て言っていいのか分からないなんて当たり前だ。あんな酷い事を言ってしまったんだから。
もしも私だったら口を利こうとも思わない。
一体主は何をしに来たんだろう。
一瞬希望を思い浮かべてしまい、そんな自分を責める。
もしかしたら主は私を許しにきてくれたのではないかと思ってしまった。あんな言葉気にしていませんよと言ってくれるんじゃないかと。あんな事を言っておきながら。
そう期待している。
だが当然そんな訳がない。
「私は、ナズーリン、あなたに恨み言を言いに来ました」
「だろうね」
分かっていた事なのに失望している自分が憎らしい。
あれだけ酷い事を言っておいて、主に許しを求めるなんて、あまりにも度し難い。
「ナズーリン、私は酷く傷付きました」
気が付くと足が震えている。今にもこの場から逃げ出したい。
だがそれをじっと耐える。ここで逃げ、主に恨み事一つ言わせないのなら、私はきっと今まで生きてきた事すら後悔する。
「ナズーリン、あなたの目に私はさぞや愚かに映っていたのでしょう。使命を忘れ、俗習に現を抜かしていた私は。昨日慰めてくれた時も、私の悩みなんて、あなたが言っていた通り、さぞや下らないものだと思っていたのでしょう」
「そんな事は無い」
「あなたはバレンタインデーに参加しなかったではありませんか。下らないと思っていたからでしょう? 昨日誘っても、はっきり答えてくれなかった」
参加したかった。チョコレートだって作っていたんだ。主にあげたくて、喜んでもらいたくて。でもそれを証明する物は水の中に沈んでいる。
「参加しなかったのは、寝坊しただけさ」
私が俯いてそう言うと、主に肩を掴まれた。顔を上げると、主の怒った様な顔がそこにある。私は、もう駄目だ、と思った。もう二度と主が私に笑顔を向けてくれる事は無い。
「俗習にかまけるなと何故言ってくれなかったんですか? 悩みが下らないのならどうしてそれをそう言ってくれないんですか? 昨日誘った時だって考えておくなんて曖昧な事を言わないではっきり言ってくれればよかったのに。昨日の夜だってはっきりそんな悩みを持ってはいけないと言ってくれればよかったのに。下手な慰めなんて」
そう絞りだす様に言われた。私は何も答えられない。
全ては私の主に対する思いが原因にある。私がはっきりした態度を取れないのは、そして言動に食い違いが出ているのは、主に対する思いを隠しているからだ。でもそれを今この状況で説明したって拒絶されるに決まっている。
そう考え、私はまだ自分の身が可愛いのかと呆れ果てた。
私が主からどう思われたって良いじゃないか。嫌われたって、離れていかれたって、それは仕方の無い事じゃないか。主に酷い事を言って悲しませてしまったんだから。いや、そもそも、もう完全に嫌われている。主が離れていくのは決定している。
ならもう良いじゃないか。
本当の事を言ったって。
「主、私は」
「ええ、あなたは監視役。私の間違いを正すのは役目違いかもしれない。でも」
違う。そうじゃない。私が言いたかったのは。
主の顔が私の鼻先まで迫ってきた。
月の光が照って、その瞳から涙が溢れるのが見えた。
「でも私は言って欲しいんです。我儘ですけど、私に間違っているところがあるなら言って欲しい」
だってと、主の言葉が途切れた。
月光の中で涙を零す主があまりにも静謐で、私が身動ぎをしただけで壊れてしまいそうで。
私が何も言えずに居ると、主が涙を拭った。
それでその静謐さは壊れ、代わりに主の声が聞こえた。
「私はナズーリンに嫌われたくない」
その言葉の意味が一瞬理解出来なかった。やがて理解した瞬間、私の中に衝撃が走る。
主が私に嫌われたくない?
私が主に嫌われたくないじゃなくて?
信じられない。
主が私の事を嫌う事はあれ、私が主を嫌うなんてあり得る筈が無い。
だから嘘だと思った。
だがどうしてそんな嘘を言うのか分からない。
やがて一瞬の衝撃が去り、じっと見つめてくる主の瞳を見ていると内に、ようやく理解した。
私の所為だ。
私は主に嫌われたくなかった。拒絶されたくなかった。だから自分の心を隠して、主と過ごしてきた。そして主は私が心を隠していると気が付いていたのだ。心を隠しているという事は、どんな理由があれ、相手への歩み寄りを拒絶している事に他ならない。私の嫌われたくないという臆病さは、確かに主との関係を決定的に壊す事は無かったが、冷淡な印象を与え主を悩ませて続けていたのだ。その事にようやく気が付いた。
何て、何て愚かなんだろう。
「ごめん」
私は怖がるばかりで、本当にどうしようもない。
さっきまで私は自分の罪を洗い流したくて仕方が無かった。主に酷い事を言ってしまったという罪悪感に押し潰されそうで、早くそれから逃れる事ばかりを考えていた。主に嫌われても良いと、自暴自棄になって。
そうじゃないだろう。
その前に言うべき事があるだろう。
「ごめん、主」
どうしてこんな当たり前の事を言う事にすら気が付かなかったのか。
自分の保身ばかり考える臆病な自分が本当に嫌になる。
頭を下げる。
涙が溢れてくる。
「本当にごめんなさい。酷い事を言って」
「いいえ、ナズーリン、あの言葉は」
「あんなの本当の事じゃない。私はあんな事を言いたかった訳じゃないんだ。本当はもっと別の事を言おうとしていたのに、かっとなって、ただ主を傷付けようとしてあんな事を言ったんだ。主は悪くないのに」
涙が次から次へと溢れてくる。
ずっと隠し続けていた言葉も一緒に溢れてくる。
そしてそれを止めようとは思わない。
はっきりと言わなくちゃいけない。
「私は主と一緒に居たいんだ。さっきだって、他の奴等とじゃなくて、私と居て欲しかったんだ。それを言いたくて、言わなくちゃいけなかったのに、私は素直になれなくて、あんな事を言って。ごめん、主。あれは本心じゃない。だって」
川を指さす。指さすが、もうそこには闇があるだけで何も見えない。
「川の中に捨てちゃって、今はもう見えないけど、本当はチョコレートだって作っていたんだ。主に渡そうと思って、でも恥ずかしくて、言えなくて。渡そうと思って持っていったのに、踏まれてぐちゃぐちゃになったから渡せなくて。私だってみんなと同じ様にバレンタインを楽しみにしていたんだ」
言葉が次から次へと溢れてくる。
それと一緒に力が抜けて、立っていられなくなった。
座り込み、それでも言葉は流れ出る。
「本当は主と一緒にもっと楽しくおしゃべりとかしたいんだ。それなのに、私はいつも素っ気無い態度ばかりとって、主に嫌われているんじゃないかっていつだって怖くて怖くて仕方無かった」
それからと続けようとした時に、主の手が私の頭に置かれた。溢れていた言葉が止まる。涙を拭って顔を上げると、主に抱き締められた。
「すみません、ナズーリン。一度に沢山の事を言われて、ちゃんと処理しきれていませんが」
そう言いながら主の手が私の頭を撫でる。
「ナズーリンが苦しんでいたという事は分かりました。ずっと気が付いてあげられなくてすみません」
主が謝る事じゃない。
そう言いたかったが言葉が出てこない。代わりに主の中で私は首を横に振る。
「私ばかりが悩んでいると思い込んでいました。ナズーリンは、傍から見るとしっかり者でいつも私を助けてくれて、強そうでしたから、私の様に思い悩む事は無いと思い込んでいました。ずっと一緒に居たのに。これでは主人失格ですね」
また私は首を横に振る。
主が更に強く抱きしめてくれた。
「きっと私達の間には誤解があったんです。それだけ。何て事はありません。そうでしょう?」
そうであって欲しい。
だがあんな事を言って主を傷つけてしまったのだから、単なる誤解じゃ済まない。
「喧嘩なんて誰だってするものです。思えば、私とナズーリンは喧嘩らしい喧嘩をしませんでした。それはきっと仲が良いからというより、お互い悩みや不満をぶつけなかったからなんです。だから今日ようやくその第一歩を踏み出せた。これはきっと喜ばしい事なんですよ。初めての喧嘩記念! ね?」
喜ばしい事だなんてあるものか。私は主を傷付けてしまった自分が嫌で嫌で仕方が無い。
「喧嘩なんてものじゃないだろう。私がさっき言った事は、主を傷つけてしまったのは、もっとずっと酷い事だ」
「そんな事はありません。確かに傷付きましたけど、そんな、大袈裟ですよ。ナズーリン。あなたも私の事を誤解しているんです」
主が笑みを浮かべる。
「思えば、私はナズーリンに助けられてばっかりで、ナズーリンからすれば私は随分情けない主かもしれない」
「そんな事無い! 私は主の事を立派だと思っている」
「だったらもう少し信じて下さい。あまり過保護にならなくても大丈夫。そんな、代理がどうだと言われただけで、そこまで落ち込んだりしませんよ」
その言葉で初めて私が主を侮っている事に気が付いた。
ずっと代理というのが主にとって何よりも優先される事で、それを気にし続けていると思っていた。それは腫れ物の様なもので、あまり触れてはいけない部分だと思っていた。そこを刺激すれば主が深い悲しみに襲われると思っていた。
けれどそれは勘違いだったらしい。
いや勘違いだったんじゃない、進んでそう思い込もうとしていたんだ。
主と私の関係は、その代理と自称している部分に起因しているから、それが何よりも大切であって欲しいと思い込んでいたんだ。
そのあまりの厚顔無恥な思い込みに気が付いて呆然としていると、また主が私の頭を撫でながら抱きしめてくれた。それだけで一瞬前の悩みが何処かへ行った。
「むしろ私にはこうやってナズーリンを悲しませてしまった事の方がずっと辛い事です。ナズーリンがこうやって泣くのなんて今日が初めてで、しかも二回。さっきも今もどうやってナズーリンを慰めれば良いのか分かりません。まして私が泣かせてしまったなんて」
主に包まれていると、さっきまでの苦しさがお湯で溶かした様に溶けていく。
口から勝手に言葉が漏れる。
けれどそれはいつもと違い、素直な言葉だった。
「私はこうしているだけで慰められている。いつも一緒に寝ている時、安心出来る。私は素直じゃないけど、単純だから」
そう言うと、主がくすくす笑った。
「そうですか。いつも嫌がられているんじゃないかと心配でしたが。それならこれからも、ナズーリンと一緒に眠る時はぎゅっと抱きしめる事にします」
「私が主の事を嫌う訳無いじゃないか」
「こちらも同じです。ナズーリンの事を私が嫌う訳無いでしょう?」
ずっと主に嫌われているんじゃないかと疑っていたのが恥ずかしくて申し訳無くなった。
そして主が嫌わないと言ってくれた事が本当に嬉しかった。
でも何処かで、本当だろうかと疑っている自分が居る。
そんな自分が嫌だ。
そしてこれを隠してまた悩む事も嫌だった。
「ごめん、主。信じ切れない。嬉しいけど、もしかしたらそう言いつつも、本当は嫌われているんじゃないかって」
「同じですよ。ナズーリン。私も、もしかしたらと怖いです。でもそれはきっとまだ仕方が無い。今までずっと喧嘩すらしなかったんですから、お互いを曝け出して理解し合うのには時間が掛かるでしょう。でもそれで良いじゃないですか。これから理解しあっていけば」
「うん」
悩みが消えていく。
素直な気持ちを伝えるというのがどんなに素晴らしいかをようやく知る事が出来た。
しばらくして、首筋に冷たい感触があった。
涙かと思ったが違う。
主と体を離して空を見上げる。
暗闇で良く見えないが、雨が降ってきているらしい。
するとその時、主が嬉しそうな声を上げた。
「ナズーリン、雪ですよ! 雪!」
そんな馬鹿な。
降ってくる冷たい感触を手に受けてみたが、良く分からない。
雪?
そんな急に。
だがそうすると私は主との勝負に負けた事に。
「ナズーリン、昨日約束しましたよね」
いや、ちょっと待って。まだ雪だと確認出来た訳では。
もう一度手を翳してみたが、やはりどうやってもそれが雪なのか雨なのか分からない。
「往生際が悪いですよ、ナズーリン。私の勝ちです。賭けに勝ったのですから一つ言う事を聞いて下さいね」
いやまだ何を賭けるかも決めていなかっただろうという私の正論を無視して、主は下げたバッグから取り出した何かを差し出してきた。
包装されたそれは、私の見る限り。
「チョコレートに見えるけど」
「はい。負けたナズーリンはこれを食べて下さい」
そんな事で良いのなら構わない。が、チョコレートを食べるだけの事を賭けたって罰にならない。
開けてみると星の形をしたチョコレートが三つ入っていた。本当にただのチョコレートだ。
月の光に照らしてみるが、何らおかしな所は無い。匂いを嗅いだが、変な物が入っている可能性も低そうだ。
「疑わなくてもそれは単にチョコレートですよ」
「しかし」
「折角のバレンタインなのに、ナズーリンはあまり楽しみにしていないみたいでしたから、チョコレートを食べたら考えを変えてくれるかなと」
「その為に昨日賭け事を提案してきたのかい? 今日雪が降る事を見越して?」
「いいえ。提案したのはあなたからですし、思いついたのは今日の朝ですし、それに雪が降るなんて分かりませんでした」
「それにしては随分都合よく」
「ええ、思い立った後、妖精達に雪を降らせてくれる様に頼んだんです」
随分と強引な。それじゃ反則じゃないか。
「ふふん、毘沙門天様の代理ですから、勝つ事に躊躇したりはしませんよ。目的もありましたしね」
さあ食べて下さい、と言われ、私は仕方無くチョコレートをつまみ上げた。本当は戻ってゆっくり食べたかったが、早く早くとせがまれてしまっては拒めない。
口の中に放り込むと、抗い難い甘さが私の口に広がり、鼻腔や胃を侵食して、お腹を鳴らした。考えてみれば朝から何も食べていないし、お腹が空いていた。我慢出来なくて、次のを口に入れる。やがて、味わう間もなく、三つのチョコレートは私の口の中で溶けてしまった。
「どうですか? 美味しかったですか?」
「うん、美味しかったよ。まあ元元の材料が結構高い奴だったしね」
と言ってしまってから、思わず口を押さえた。まただ、素直になると決めたばかりなのに。
「いや、本当に美味しかったよ。主が作ってくれたチョコレートだから尚更美味しくて」
「ありがとうございます」
主の声のトーンが、さっきの「美味しかったですか」と聞いてくれた時よりも一段低くなっているのは気のせいなのかどうなのか。
「まあ良いですよ。本当の事ですしね。村紗達が買ってきたチョコレートを溶かして固めただけですから」
刺刺しい言葉だ。
何とか弁解の言葉を捻り出そうとしていると、主が笑い声を上げた。
「でも美味しいと言ってくれて嬉しいです。本当にありがとうございます」
そうして私の手を引いた。
「さ、お寺に戻りましょう」
とにかく主は満足してくれたのか。
良く分からないが、鼻歌を唄っているのは機嫌が良い証拠の筈。
「主」
「何ですか?」
何となく呼んでみただけで、深い意味は無かった。
「そう言えば、結局あの集まっていた参拝客がどうしたんだい?」
「あの後、私が落ち込んでしまって、逃げてしまったので、恐らく帰ってしまったんじゃないかと思います」
「それはすまない」
「ええ、本当に」
刺刺しい。
やっぱりまだ怒っていそうだ。いや当然か。あの言葉で主を傷つけたのだし。今までの自分がしてきた事や思い込んできた事も考えれば、そう簡単に許して貰える筈が無い。
本当に愚かな奴だよ私は、と改めて自分の惨めさを実感していると、主が言った。
「でも、何というか、途中で辛くなっていたので、逃げられたのは助かりました」
「辛かった?」
にこにこと楽しそうにしていたと思うが。
「途中でぬえと村紗に聞いたのですが、バレンタインデーとは元元、チョコレートを渡して愛を告白する日だそうですよ?」
「いや、元元は違うよ」
「え? そうなのですか?」
「でも今はそうなっているね。それで、それがどうしたんだい?」
「それで、村紗が、そういうイベントなのだから、ちゃんと愛のある笑顔をした方が良いと言ってきたんです。愛のある笑顔というのが良く分かりませんでしたから、とにかくにこにこしていましたが、段段相手を騙している気がして、そしてそれが毘沙門天の代理と偽っている事と同じだと気が付いてしまって」
とりあえず後で村紗にはお仕置きをしておかないと。
「愛を告白する日ね」
「ええ、そうみたいです」
「ならさっき、主が私にチョコレートをくれたのもそういう意味かな?」
意地悪くそう尋ねると、主がああそう言えばそうですねと言った。もっと動じてくれるかと思ったのに期待外れた。代わりに、何故か私の手を握る力が強くなった。痛い。冗談を言ったから怒ったらしい。
「本当は渡す時に言うのだと聞きましたが」
「そうだね」
素直になろうと決めた。だから私は素直に、自分の願いを口にしてみる。きっと主には冗談に聞こえるだろうけれど。
「今でも良いよ。主は私に愛を伝えてくれないのかい?」
私が痛みを堪えながら笑みを浮かべて主にそう言うと、主もまた微笑みを浮かべた。その笑みに見惚れた瞬間、主が言った。
「愛していますよ、ナズーリン」
私の顔が一気に熱くなる。それと同時に、主の握力が更に力を増した。
あまりの痛みに呻き声が漏れる。
「あ、すみません。ナズーリン」
主が手を離して慌てて退いた。
痛い。
だが助かった。
お陰で、だらしのない顔を見られなくて済んだ。
反則だ。あんなの。
あんな笑顔と一緒に、愛しているなんて言われたら、やられてしまうに決まっている。私の意地悪に応えた冗談だと分かっていても、無理だ。嬉しすぎる。
本当はそれに同じ言葉で答えたいけれど、幾ら素直になると言ったって、まだまだ言えない事はある。それは少しずつ解消出来たら良い。
今は素直に、主とまた話せた事を喜ぼう。あんな事を言ったから、もう二度と話しなんて出来ないと覚悟していた。
勿論、私が言った事は許される事じゃない。これからも主に対して私は償っていかなくちゃいけない。そうでないと自分が許せない。未だにさっきの夕暮れ時を思い出すと胸が痛む。
でも何よりもまず、主との関係が壊れないで良かった。
少なくとも嫌われていないみたいで。
たった今、主があんな事を。
主の言葉を思い出した瞬間、暴れ出したくなって、私は気を逸らす為に空を仰ぎ、そして気がついた。
「なあ、主、やっぱりこれ、雪じゃないよ」
「え?」
「ほら、さっきは暗かったから分からなかったけど、こうして月が出ているから良く分かる。これは雨だよ」
月が出ているという事は、きっと狐の嫁入りだろう。いずれ止むに違いない。止む前に気がつけて良かった。危うく負けるところだった。
「え? そんな」
「さて、それで賭けの話だけど」
「待って下さい。まだ三日経っていません」
「まあね。でも降らなかったらその時は」
私が勿体振って言うと、主が弱弱しく呻いた。
「どうすれば良いでしょう?」
「そうだな。じゃあ、主の部屋に泊めてもらう権利を貰おうかな」
「泊めてもらう権利?」
「命蓮寺に来た時、泊まる所が無いと不便だからね。今は空き部屋もあるみたいだけどいつ一杯になるか分からないだろう? だからいつでも私が命蓮寺に赴いた時は主の部屋に泊まれる権利を有するというのはどうだい?」
というのは口実で、ただ主の部屋に通いたいだけだ。
ああ、やっぱり素直になれないなぁと、自分の変わらなさを嘆く。
もしかして迷惑かなと主の反応を窺うと、満面の笑みを浮かべていた。
「それは大歓迎です! むしろ毎日だって良い位。ええ、いっその事、私の部屋に住んだらどうですか?」
「いや、それは」
まだ心の準備が出来ていない。
今の無防備な状態で同棲なんてしたら、二三日後に嬉しさと恥ずかしさで死んでしまう。
やがて雨も止み、私の心も落ち着いてきた頃に、命蓮寺へ着いた。何だかどんちゃんと騒がしい。ただ寺の中からこんなに沢山の笛や太鼓や人の笑い声なんて聞こえてくる筈が無いのだから、周りの音だろう。近くで妖怪達が宴でもやっているのか。
私は寺の門を見上げる。何となくこの門を潜ればまた日常に埋もれてしまう気がする。自分の決意を確かなものとする為に、私は少し素直を意識して言った。
「夕飯の時間に遅れてしまったね」
「そうですね。でも大丈夫でしょう。何とか掛けあってみます」
「ご飯を食べた後は、修行の時間だと思うけど」
「ええ」
「その、今日は、お休みにしないか?」
主が驚いて私を見た。その視線が恥ずかしい。が、ここで怯んでは駄目だ。
「ちょっとお喋りをしたくてさ。ほら、お互い、色色と誤解している部分があって、その認識の差を埋める為にも。それに、そうだ、偶には息抜きが必要だろう? な?」
ああ、誤魔化しにもなっていない。
恥ずかしくて苦しくなる。水面で喘ぐ鯉の様な気分になる。
だがそれも、主が向けてくれた笑顔で救われる。
「ええ、そうですね。今日はたっぷり話しあいましょう」
嬉しくて、楽しみで、私は主の手を握り返し、暴れ出したくなるのを抑えながら、勇んで寺に足を踏み入れた。
そして、さっきからどんちゃんと聞こえていた騒ぎの正体を見た。
大きく開けた場所に、人人が集まり熱狂していた。そしてその前方にはステージがあって、強烈な光源でライトアップされた、白蓮とこころ、そして道場の三人組が居た。
「何だこれは」
訳が分からず隣の主を見上げるが、主も理解していない様子だった。
「おう、お二人さん、何処に行ってたんだ?」
りんご飴を舐めながら村紗がやって来た。
「村紗、これは?」
主の問いに、村紗が笑う。
「寅丸が居なくなった後、暴動が起きそうだったんだけど、それを聖が止める為に、説法を初めた結果があれ」
意味が分からない。
少なくともあれは説法では無い。
「最初は割りと真面目にやってたんだけど、普通の人にしたら退屈でしょ? だから中中収拾がつかなくて、そこに偶偶来ていたこころが助け舟を出そうと踊りだして、段段白蓮も抑揚を付けて歌い出して、何か一輪と雲山がちゃんとした舞台を作らないとって張り切ってライトとか付けだして、そうしたら聖もこころも興に乗ったみたいで、段段曲調が激しくなって、そこに聖徳太子様ご一行が対バンだって乱入してきて、今ここ」
経緯を聞いてもさっぱり想像が湧かない。
だがとにかく、皆が楽しくやった結果だというのは分かる。
それならそれで良い。
とにかく今はお腹空いた。
「で、悪いんだけど、二人も参加してきてよ」
何故?
「相手が結構な人気でさ、こころはどっちの味方もしていて、聖だけじゃ分が悪いんだよね。こっちも人気者を投入して対抗しようかなって」
「村紗、すみませんが、私達はお腹が空いていて」
「そうなの?」
「ええ。ですから残念ですが」
じゃあこれと言って差し出されたのが、たこ焼きだった。
くうとお腹が鳴った。
「何処から聞きつけてきたのか屋台が出てて。そのたこ焼きは紅魔館とこのメイドが作った奴。美味しいよ」
食べ物で釣るとは卑怯な。
拒絶したいが、私も主もお腹がくうくう鳴いている。
「仕方無い。頂くとしよう」
「ですが、ナズーリン」
「こんな物を見せられたらもう抗い様が無い。例え地獄に通ずる道だと分かっていても」
「そうですか。ならばナズーリン、私もお供致します」
「いや、そんな悲惨な話じゃ無いと思うんですけど」
さっさと四つずつ食べ終えて、私達はステージへ向かって歩き出した。
「良いんですか? ナズーリン」
「仕方無いよ。たこ焼き食べちゃったしね」
「本当に嫌なら私が断りますが」
「良いんだ。言っただろう。息抜きが必要なんだ」
実の所、私は浮かれていた。
「そもさーん!」と白蓮が声を張ると、観客達が「せっぱ!」と答えてイントロが流れだす。
そんな人人の異常な熱気に当てられていたら、自分も同じ様に熱狂しそうになった。
主と一緒に、みんなの前でバンドをするという特異なシチュエーションを思い浮かべると愉快になった。
だから参加してみたくなった。
それもこれもみんな、主が愛しているなんて言ったからだ。
そんな言葉を聞いた所為で、さっきからずっと浮かれっぱなしだ。落ち着けようと努力して、落ち着いてきたかなと思っても、主の顔を見たらまた暴れ出したくなる。さっきは一緒に話でもなんて約束をしたけれど、こんな状態で大人しくお喋りなんて出来そうにない。きっと心臓が張り裂けてしまう。
それなら暴れたいままに暴れた方が良い。
主から愛の告白を貰った今の私は無敵だ。
周りからの視線も気にならない。いつもなら人前で主と一緒に居ると恥ずかしいのだが、今日は全く恥ずかしくない。むしろその恥ずかしさが、主と一緒にステージまで歩く為の原動力になっている。いつもなら考える色色な雑念が消えて、ただ主と一緒に歩く喜びばかりが溢れてくる。
「ナズーリン、ちょっと速いです」
「ああ、ごめん」
私は歩を緩める。だがなおも強く主の手を引っ張る。今、楽しくて仕方が無い。
「いつもと逆ですね」
「何がだい?」
振り返らずに尋ねると、主が笑った。
「私の方が歩幅が大きいからか、いつもは私が手を引っ張っていますけど、今はナズーリンが引っ張ってくれているじゃないですか」
「確かにそうだね」
主と一緒になれた事が嬉しくて楽しくて、奇妙な鳥肌が立った。
私はしっかりと主の手を握りしめる。
今更、掌から主の温もりが伝わってくる事に気がついた。
「主、準備は良い?」
「実はあまり歌は得意じゃなくて」
私は笑う。
「大丈夫だよ、主! 私が居れば」
「得意なんですか?」
「弁財天様に琵琶は習っていたよ。でもそれだけじゃない」
私には今主が傍に居る。
私は今無敵なんだ。
走りだす。
もうすぐステージだ。
振り返ると主が居て、私の事を見てくれている。
主が傍に居てくれれば私は何だって出来る。
主と一緒に歩んでいく事だって。
主に好かれる事だって。
「行こう、主!」
臆病な自分を脱ぎ捨てて。
私は主と一緒に、皆の注目を集める明るいステージへと踊り出た。
「何だい、主」
「いや、何だかぼうっとしていたから。私の話、聞いていました?」
聞いていなかった。
何だったか。また何か無くしたか。あるいは寺の運営の話? それとも天部の話だったろうか。もしかしたら天気の話かもしれない。
「いえ、ですから今日は寒くなりそうでしょう? お寺に泊まったらどうですか?」
天気の話だった。
「でも、最近は弟子も増えてきて、空き部屋が無いだろう」
「そんな事ありませんよ。この前も改築しましたし、女性宿舎はまだまだ。それに私の部屋に泊まれば良いじゃないですか。いつもみたいに。毎度毎度遠慮する事はありませんよ」
お泊りに誘われてしまった。
「どうしました? ナズーリン?」
頭が火照る。ぼうっとする。ふやけた顔を見せたくなくて、私は俯いた。身の回りが落ち着いてきた最近、外界との交流であったり、お宝探しであったり、色色な事に目が向く様になって、その色色な内の一つに主の事がある。主に誘われる度に、ぼうっとしてしまう。一緒の部屋に泊まったからと言って何がある訳でもない。今までだって何度も泊まってきた。けれど今まで何もなかったそこに、特別な意味を見出そうとする私が、私自身を駄目にしている。
主と仲良くなりたい。
そういう感情に最近気が付いた。
「じゃあ、そうする」
では決まりですと主は手を叩き歩き出した。私はその後を追う。主は歩く時、あまり私の方を見ない。いつも前を向いて、私は主の背中に向かって話す事になる。それは単に、主は常に前を向いて歩いているというだけの事だけれど、最近は何だかもやもやとしてしまう。そんな自分が嫌だ。
主にはいつも私の事を見てもらいたい。
「雪が降りそうですね、ナズーリン」
「どうだろう。湿度が高いから、降るとしても雨じゃないかな」
言ってから、可愛気の無い答えだと思った。何が湿度だ。何故そこで主に同意しない。私から出てくる言葉はいつだって私のもので、決して相手に歩み寄ろうとしない。今まではそれで良かった。顕界する上で己を確立する事は何にも勝る。
だが今は違う。
歩み寄りたい相手が居る。自分を押し殺してでも好かれたい相手が居る。だが私の気質がそれを許そうとしない。私の心が幾ら柔らかく温かい言葉を吐こうとしても、私の口は鋭利で冷たい言葉ばかり吐く。まるで心と体が分かれたみたいに。こんな事じゃ毘沙門天様に顔向け出来無い。
「そうですか? ナズーリンには悪いですけど、私は雪が降ると思います。そんな気がするんです」
「そうかもしれないね。私は私の思った事を言ったまでで未来を言い当てた訳じゃない」
ほら可愛くない。
こんな言葉ばかり吐いていたらいずれは嫌われてしまう。主の顔色を窺おうと顔を上げたが、主は前を向いて歩いている為、今の私の言葉をどう受け取ったのか分からない。思わず溜息が出る。
「あ、馬鹿にしています?」
「いいや。私が主を馬鹿にする訳無いだろう」
「やっぱり馬鹿にしていますね? ならば賭けましょうか。雪が降るのかどうか」
「それは今夜の事かい?」
空を見上げる。雲一つ無い晴れ渡った空だ。雪どころか雨も降りそうにない。主もそれに気が付いた様で、一瞬立ち止まったかと思うと乾いた声で笑った。
「三日間にしましょう。三日以内に雪が降ったら私の勝ち、降らなかったらあなたの勝ち。どうですか?」
「良いけど。私が戦いの神と神格付けされた毘沙門天様の部下と知っての挑戦かい?」
「何をそれを言うなら、私は毘沙門天様の代理です。勝負勝負」
それは自称だろうと言う言葉を、すんでの所で飲み込んだ。駄目だ駄目だ。幾ら私の口が愚かでも、それだけは言っちゃいけない。それは主が一番気にしている事だから。それを言えば主は決定的に傷付いてしまう。
主は毘沙門天様の本物の代理ではない。あくまで教えを広める為に有用であるからそう名乗る事をお目こぼししてもらっているだけで、毘沙門天様の代理というのは所詮自称でしかないのだ。私の様な目付けがついているのがその証拠。天部に認められた代理に監視をつける等、天の力と神格を疑う行為であり、何者にも許されざる禁忌である。勿論、主の様に名乗る事を黙認され、監視を付けられる事自体、稀な事であり、主と白蓮の活動が天部に高く評価されている証左であるが、主自身はその事を気にしている。それは触れてはならない腫れ物の部分だ。
私が命蓮寺から離れた場所に住んでいるのだって、上下の順序が食い違ってしまうからという事よりも、監視役の私が纏わり付いていると鬱陶しく思われるんじゃないかと怖くなったからに他ならない。
私は主に嫌われたくない。
「良いだろう。毘沙門天様の部下と、毘沙門天様の代理。良い勝負になりそうだ。それで何を賭けるんだい?」
「賭ける?」
「勝負なら何かを賭けるものだろう」
「そういうものですか」
主はうーんと唸って考えだした。これは寺につくまでずっと考えていそうだ。一つの事に熱中すると周りが見えなくなる。そんな主が嫌いじゃない。それに周りが見えなくてよく物を失くせば、私にはそれを見つけ出すという形で主の役に立てる。いや、それ位しか私が主の役に立てる事が無いから。
「なあ、主。私は主の使い魔だ」
「ええ、その様になっていますね」
「なら私は使い魔として主の役に立っているかい?」
「はい! それはもう! 宝塔を無くした時もそうですし、あなたには助けて貰いっぱなしです」
「主は私を特別に思ってくれているという訳か?」
唐突な質問に驚いた様子で、主の言葉は一瞬歩みを止めたが、すぐに私の望む言葉をくれた。
「ええ、勿論です」
主はそう言ってくれる。
それを私は嬉しく思う。
だが喜んでいる私の心とは裏腹に、私の口は要らぬ事を言う。
「主がそう言うのは、私が毘沙門天様の部下だからだろう? 私がなんでもないただの鼠なら」
「それでも私にとってあなたは掛け替えの無い存在ですよ」
そう言って主は振り返り、笑顔をくれた。
私はその晴れやかな笑顔を見ていられなくて、目を逸らした。
何でこんな意味の無い質問をしてしまったんだ。
仲間であり、使い魔であり、毘沙門天様の下で働く同僚であり、そして何より毘沙門天様から遣わされた監視役である私に対して、大切じゃないなんて言える訳が無い。もしも主が私を嫌っていたって、好きだと言わざるを得ない。だから主は必ず大切だと言ってくれると分かっていた。
分かっているのに。主にとっての特別な存在だと、主に慕われている存在だと信じたくて、主の口からそれを聞きたくて、殆ど無理矢理言わせただけなのに、それでも主の言った掛け替えの無い存在という言葉を嬉しく思う私が居る。
「ですから、二人にとって嬉しい事にしませんか? 一方ばかりが喜ぶ様なのは」
気鬱を払って顔を上げると、主はまた私に背を向けて、空を見上げていた。
「何の話だい?」
「賭け事の話です。どちらが勝っても、二人が幸せになれる様な賭けにしましょうよ」
そうだね。
私は素直になれず、口も悪く、監視役なんていう立場で、主にとって良い存在ではないけれど、主を幸せに出来たらと思う。主を幸せにしてあげられる存在になれたらと思う。それから私の願いが叶って、二人で幸せになれたらと思う。
私の心はいつだって主と私の幸せを願っている。
今日は久久のお泊りだし、この機会にもっと仲良くなりたいと思っている。
こんな風に、私はあれこれと主の事を考えて、少しでも良い印象を抱かれたいと思っている。
それなのに私の口はこう言うのだ。
「あのね、主、それじゃあ賭けにならないだろう。真面目に考えてくれよ」
本当に何て可愛くない奴だろう。
「寅丸様だ」
「今日も格好良い」
境内を歩いていると黄色い声が微かに聞こえた。振り返るとお堂の扉の陰に隠れて弟子達が覗いているのが見える。
あれはまだ可愛い方だ。
「星様!」
続いて、甲高い声が聞こえて、主の下に門弟達がわらわらと寄ってきた。
私はその内の一人にぶつかり地面に転んだ。
痛い。
私を押し飛ばしたそいつは謝罪もそこそこに、主を囲う輪に加わった。
苛立ちを覚えたが、怒りを露わにするのは小人のする事である。毘沙門天様の部下としてその様なはしたない事は出来無い。それに、この程度の事で怒ればきっと周りの連中から白い目で見られるだろうし、何より主を幻滅させてしまう。
やれやれと溜息を吐いて、主を囲む門弟達を見ると、白蓮の書いた文物を手にして騒いでいる。
「すみません、経典で分からない事があるんですけど」
「ここが難しくて」
主の中性的で整った容姿は人を惹きつけるらしくファンが多い。
さっきの様に隠れてきゃーきゃー言っているのも居れば、こうやって近付いてくる奴等も居る。当然男も居る。私の後方で掃き掃除の振りをしているのが三人。さっきから主の胸の大きさばかり話している。人間なら聞こえない位の小声だが、主も私も耳が良いから聞こえているぞ。その証拠に主の顔は少し赤くなっている。
別にこういった弟子達の行為は悪い事じゃない。
憧れるのは結構だし、恋愛だって自由だ。
天部は恋愛を禁止していない。教えの最終目的は解脱であり、恋愛という感情がその妨げになるのは知れているが、だからといって恋愛を禁止したから悟れる様になるかというとそんな訳が無い。悟りを一代で成し遂げるのは至難なのだ。人間の一生等長くとも百二十年。三百年生きれば頑張った方だろう。そんな時間、梵天様の瞬きにすら遥かに及ばない。天部だって悟っていないのにそんな短かな時間の中で悟るというのは、お題目としては結構だが、現実の問題として不可能に近い。
だから如来部だって悟りを強要したりはしない。教えは畢竟皆を苦しみから救う為にあり、無理に悟ろうとして苦しむのでは本末転倒である。繰り返す輪廻の中で少しずつ徳を積み理解を深め、そしていずれ解脱出来れば良いのだ。だから教えに従う事を強要はしないし、ましてどっかの教えの様に、この世界は苦界だから子供を産んで苦しみを増やすな、なんて事は言わない。増やしたいなら増やせば良い。むしろ悟る為の器として、増えた方が良い位だし、例えそれが結果的に過ちであったとしても、須臾の極みでしかないそれに、一一目くじら立てる必要はないのである。
だから天部は恋愛を禁じない。自らの徳と智を高める為に禁欲に耽るのも良いが、未来の為に生物として営む事だって認められてしかるべきだ。如来部からも恋愛禁止のお達しが来た事なんてない。教えは皆を救う事が出来る。そしてそれは時間を掛ければいずれ必ず成し遂げられる。だから教えを広め、悟りの為の土壌を用意するだけで十分なのだ。どうせいずれは悟る筈だから、個人個人に何かの戒律を強制する必要は無い。
だから主や白蓮に憧れて帰依してきたり、寺が一部出会いの場になっていたり、こうやって主を取り囲むのだって、教えを知るきっかけなのだから、良い事なのだ。
良い事なのだ。
なのだが。
「星様、もう一度教えてくれません。良く分からなかったので」
「私も教えて頂きたい事が」
「ちょっと。皆さん、待って下さい。勉強熱心なのは嬉しいのですが、そんな一辺に。ここは一人ずつ」
まず主も含めて全員でれでれするのを止めろ。
そして集まっている女共、この寒いのに服をはだけるな。ちゃんと着ろ。
それから陰できゃーきゃ言っている奴等もいつまで作業を止めているつもりだ。
後、男共好い加減乳の話から離れろ。
そしてそれから。
「主」
私が先約だったのに。私と歩いていたのに。
そんな恨みを込めて主を呼んでみる。
そんな奴等良いから、早く行こうと言いたいのを飲み込んで、主の言葉を待つ。主を囲う者達の邪魔者を見るみたいな目付きが怖いから、主の事だけを見つめて立っていると、やがて主は振り返って笑顔を見せてくれた。
その笑みを見て、私は安堵した。主は私の事を忘れていなかった。
だが主の笑みが申し訳無さそうなものだと気が付いて、絶望する。
「すみません、ナズーリン。ちょっと時間がかかりそうです」
「そうか」
嫌だ。
一緒に居たい。
そんな奴等放っておいて、私と一緒に来てくれ。
そう叫びたかった。
でも臆病な私は自分の心に気が付かれない様、あくまで平静を装う。震えそうな声を抑え、必死で呆れた表情を作り、主に手を振る。
「じゃあ、外も寒いし、私は先に行っているよ」
「あ、ナズーリン、それじゃあまた後で、私の部屋で」
私は振り返らずに手を振ってその場を離れた。背後から主の取り巻き共に睨まれている気もするが、気にしてもしょうがない。
ああ、嫌だ嫌だと心の中で呟いた。
何だか今日はやけに自分の心がどす黒い。へどろの様に腐っている。
きっと、主に群がる人数がいつも以上に多く、そして群がった門弟達の様子がいつも以上に熱心だったからだ。
そんな程度の事で腐る自分が嫌で仕方無い。
「ナズーリン様」
「ん?」
横から声を掛けられたので見ると、数人の男女が私の横を並んで歩いていた。主の取り巻きが私を恨んで文句を言いに来たのかと警戒したが、何やら嬉しそうな顔をしている。
「なんだい?」
「お久しぶりですね」
「ああ、そうだね。元気にしていたかい?」
話し掛けてきたのは来る度にちょっと挨拶している顔見知り程度の者達だ。一体何の用だろう。話し掛けられる様な用事は無い筈だが。
「はい! それはもう!」
全員が何度も頷いた。元気なのは結構な事だ。肉体の健康は精神の健全に関わる。精神が健全でなければ、悟りなんて夢のまた夢だ。そう考えてから、私が言うなと思わず心の中で突っ込んだ。さっきまで心が乱れに乱れていたのは一体誰だ。
「それで何か用かな?」
「あの、つまり、私達に毘沙門天様の教えを。つまり教授して頂きたいと」
その言葉に合わせて後ろの者達が頷いた。勉強熱心なのは結構な事だ。しかし、私よりももっと適任が居るだろう。
「それなら毘沙門天様の代理である寅丸星様に聞きなさい」
「ですが、ナズーリン様も毘沙門天様のお弟子様ですし」
いつの間にこの話が広まったのか。稗田阿求という者のインタヴュに答えてから、主が毘沙門天様の代理であり、私がその監視役であるという話が広まってしまった。別に隠さなければならない事でも無ければ、弟子が減った訳でも無いから広まった事自体は構わない。幸い毘沙門天様の代理というのが主の自称である事はばれていないから問題無い。と思っていたが、こうして主を差し置いて私の下に教えを乞いに来る者が居るのは問題だ。私が毘沙門天様の弟子だとはいえ、使い魔である私に聞くのでは順序が違う。やはり主か白蓮に聞くべきだ。
「そうは言え、毘沙門天様の教えを乞うのであれば、その代理である寅丸星様にお願いをしなさい。主をおいて私がおいそれと答えるのは、分別を逸脱している」
私が優しく告げると納得した様で、引き下がってくれた。聞き分けがあるのは良い事である。主を取り巻く有象無象もあれ位素直なら、もう少し可愛げもあるのだが。
手を振りながら去って行った弟子達を見送り、さてと呟いて主の部屋を目指す。
だがすぐに阻まれた。
「よっす、ナズーリン」
突然背後から抱きつかれて、足のもつれた私は傍の柱に頭をぶつけた。痛みを堪えながら、抱きついてきた奴の顔を拝むと満面の笑みを浮かべていた。私の頭に瘤をこさえたというのに、そいつの顔からは罪悪感の欠片も見いだせない。
「村紗か。どうした? 今日は一層うかれとんちきだな」
「そりゃそうよ。明日が何の日か知っている?」
「明日?」
何かあっただろうかと考えてみるが分からない。村紗の誕生日はもっと先だった気がする。
悩んでいると、村紗の更に後ろからまた別のうかれた声がやって来た。
「明日はバレンタインデーだろ? 乙女なら浮かれるっきゃないだろ」
ああ、そういえばそんなのあったな。自分とあまりに縁がないから忘れていた。
二人が自分の事を乙女と称する事に敢えて異論を挟もうとは思わないが、あまり他者へ吹聴しない方が良いだろうとは思った。お笑いである。
「君達に、チョコレートを渡す相手が居るとは知らなんだ」
「居るわけないっつーの!」
大声で言って、ぬえと村紗が私の頭を軽く叩き、二人してけたけたと笑いだした。それは笑い所なのか?
「まあ、そうは言ってもさ、チョコ作るだけでも楽しいでしょ?」
「ナズーリンだってやってみたいだろ?」
何だか妙にぐいぐいと迫ってくる。
「手伝ってよ」
「一緒に作ろ!」
面倒である。
どうせ板チョコ溶かして飾り付けるだけだろ?
一体何が楽しいのだか分からない。
そういうのは渡す相手が居るから楽しいんだ。
「別に本命しか渡しちゃいけない訳じゃないしね」
「聖とか寅丸とかさ、ナズーリンが日頃お世話になっている人に渡すとか」
私は二人にお世話をされているという訳ではない。
まあ、他者との繋がりを大事にするのは決して悪い事ではないが。
何にせよ、感謝の気持ちを伝えるのに、チョコレートを作る意味はないだろう。口で言えば良い。
「丁度バレンタインデーっていうイベントがあるんだし」
「そう普段とはちょっと違う事してさ。二人も喜ぶと思うよ? 他の人達も喜ぶ! ナズーリン人気あるし」
私が人気者とは思えないし、まして私が主に贈り物をすれば、周囲から凄まじい怨嗟が襲ってきそうだ。しかし主が喜ぶ事は良い事だ。
けれどバレンタインデーともなれば、どうせ色んな者が主にチョコレートを渡すだろう。考えてみればあの取り巻き達のいつにないはしゃぎ様はそういう事だったのだ。そうするとわざわざ私が渡す必要は。
「やっぱナズーリンっていうさ、二人が絶対の信頼を置いている方から渡されるチョコレートって特別でしょ」
「そうそう。ナズーリンが居ないとバレンタインデーって始まらないんじゃない?」
意味が分からない。
呆れる他無い。あまりにも杜撰な考えだ。私が主にチョコレートを渡すなんて。
「本当に私が渡したら、白蓮や、それから、ついでに主も喜ぶと思うのか?」
喜ばなかったらどうするつもりだ。
「そりゃね! 喜ぶよ!」
「うん! 喜び過ぎて卒倒するよ!」
卒倒されても困る。
それに、バレンタインデーという世俗の行事に乗る事も癪だ。
わざわざ私が白蓮や、それから主の為にチョコレートを作る必要は無い。あの様子だとどうせ沢山貰う。
だが、有象無象の門徒達から渡されるチョコレートの中には美味しくないのが混じっているから口直しが必要かもしれないし、皆があげているのに主人と使い魔という深い関係にある私だけがあげないというのも変な話だし、別にチョコレートを作るなんて溶かして固めるだけだから大した手間にはならないし、皆が楽しみにしている行事を詰まらないと切って捨てるのは衆生を導く者としてどうかと思うし。別に私が主にチョコレートを渡したって全然変じゃないし。
まあ、作ってやっても良いかなと思った。
「仕方無い。私も作るとするか」
「さっすが話が分かる」
「よ、ナズーリン!」
二人の浮かれ具合が伝染しそうなので、私は少し距離を取った。
「材料はあるんだろうね?」
「勿論! もう山の様だよ」
「だからちょっと摘み食いしても大丈夫」
「山の様?」
そんなに用意してどうするつもりだ?
「寺に関わる全員分だからね」
「いやあ経費で落ちたとはいえ、金額見た時は目が飛び出るかと思ったわ、まあ結構良いチョコを選んじゃった所為でもあるんだけど」
「全員?」
「そ、全員。人間も妖怪もその他にも」
それは話が違うのでは無いか?
「白蓮と主のだけじゃなくて?」
「勿論みんなにだよ。面倒だけどね。不公平でしょ?」
まあ能く能く思い出してみれば、二人にだけあげるとは言っていなかった様な気もする。私が勘違いしていただけで。
それにしてもそれだけ大量の材料を用意したという事は。
「全員? 数百人居る弟子全員?」
「そう」
一個一分で作っても、八時間程度掛かるのだが。
「正気か君達?」
「それは企画した白蓮に言ってよ」
そういう事か。
二人はその面倒な仕事を、私に手伝わせたくてあれだけおだてていたのだ。上手く嵌ってしまった。自分から嵌っただけの様な気もするが、ここは二人の話術の巧みさを褒めるべきだろう。上手く主を引き合いに出しやがって、と。まあ、主を引き合いにだしたのは意図しての事じゃないだろうが。
という事で、私はチョコレートを溶かしている。数百人分作るのだ。手間なんて掛けていられないから、本当に溶かして型に流して固めるだけだ。
村紗が砕き、私が溶かし、ぬえが型に入れる。型はハート型である。最初、ぬえと村紗は男性器の形をした型にしようと計画していたが、様子を見に来た白蓮がぐっと拳を握ったら、ハート型にするという方向で決定した。
三人でやると意外に早く終るもので、途中から来た一輪と雲山がラッピングを担い、夕方になる前には十分な量のチョコレートが包装された状態で山積みになった。後は明日配るだけである。
その山の中に、白蓮と主へのチョコレートも含まれているが、あくまでそれは命蓮寺という集団からのもので、それとは別に私個人として、余った生クリームで、主に渡すトリュフを作った。箱の中に収めたトリュフ達はちょこなんと小さくて、可愛らしいけれど、何か頼りない。いやいやきっと喜んでくれる。包装をして、リボンで結ぶ。心を込めて、主を思って、丁寧に作った。可愛らしく作れた筈だ。だからきっと、喜んでくれる筈だ。
他の者達も余った材料を使って各各自分達の為にチョコレートを作り、それが一段落すると今度は食べ物で遊び始めて、板チョコの早食いをしたり、生クリームで攻撃しあったり、バターで一発芸を演じたりと収拾の付かない程荒れだしたが、様子を見に来た白蓮がぐっと拳を握ったら収まった。白蓮と一緒に主もやって来ていたので、私は慌ててトリュフを背中に隠す。見られてまずい物でもないが、明日渡そうと思っている物を今日見せてしまうのはルール違反の様な気がした。
「ナズーリンも手伝ってくれたんですね。ありがとうございます」
「別に。チョコレートを溶かしただけだよ」
「それも大事な役割です。良い匂いですね。明日が楽しみ」
「主はチョコレートを食べても大丈夫なのかい?」
「勿論です。そんじょそこらのネコ科と一緒にされちゃ困ります」
そう言って主は胸を張った。
良かったと安堵する。
折角作ったのに食べてもらえないのではあまりに悲しい。
「そんな事で偉ぶられても困るよ。私だってチョコレートを食べられる。主は、そうだな、猫じゃらしに引っ掛からなくなってから言ってくれ」
「そこまで子供じゃありませんよ!」
「疑わしいな」
むきになった主をからかいながら、チョコレートを隠しつつ、私は台所から出て、主の部屋に向かった。明日主に渡すまで、チョコレートを隠して置かなければならない。ただ命蓮寺は何処にも人の出入りがあって、上手い隠し場所といえば、主の部屋しか思いつかなかった。今日は主の部屋に止まるから目の届く場所だし、灯台下暗しとも言う、悪い隠し場所ではない筈だ。
部屋の隅に積まれた本の山の中に隠して安心した私は、明日喜んでくれたら良いなと改めて思った。
夜は久しぶりに賑やかな夕食だった。やはり皆で囲う食事は良い。村紗やぬえ達の馬鹿話は面白いし、白蓮や一輪、そして門弟達の語る日常も一興、そして主と同じ空間を過ごすというのは、嬉しく気恥ずかしい。
夕飯と団欒、そして修行を終えると、眠る時間だ。主の部屋で、日課となっている天部への報告文書を書いていると、布団に潜った主が私に声を掛けてきた。
「明日は楽しみですね」
「あまりはしゃぎ過ぎない様に」
「さっきの様な失敗はしませんよ」
ちなみに主はお風呂に入る時に、明日のイベントに思いを馳せすぎて足を滑らせ、頭から湯桶に突っ込んでいた。
「ナズーリンは楽しみじゃないんですか?」
とても楽しみだ。
「皆が楽しみにしている事は快く思うよ」
「そうではなく、あなた自身は楽しみじゃないんですか?」
そうはっきりと聞かれると正直に答えるしかない。
「楽しみにしているよ」
だがきっぱりと言い切る事が恥ずかしくて、声から抑揚が失われていた。
案の定、主は私が嘘を吐いたと判断した様子で、溜息を吐いた。
「残念です。ナズーリンと一緒に楽しみたかったのですが。でも私は、あなたが作ったチョコを食べられると、楽しみにしていますよ」
一瞬、私の作ったチョコレートを見つけられたのかと思って、どきりとした。
主が続けて、皆さんもきっと楽しみでしょうね、と言ったので、あの山の様に作ったチョコレートの事だと分かる。
「主」
不意に、隠してあるチョコレートを持ちだして、主に渡してしまいたい衝動に駆られた。今すぐに主の喜ぶ顔を見たかった。私だって本当は楽しみにしている事を知ってもらいたかった。
すんでの所で口を閉じる。それでは意味が無い。明日渡すから意味があるのに、それを我慢が出来無いからと今日渡すなんて、あまりにも情けない。
「良いんです、ナズーリン。すみませんでした。何だか強要する様な事を言って。本来私も、チョコレート等に現を抜かさず、一心不乱に修行するべき身であるのに」
「楽しむべき事を楽しむのは悪でないさ。私達は苦行を推奨していない」
「そう、ですね。私は修行する事を苦行だと考えていた様です。これは、精進が足りませんでした」
何だか主が落ち込んでしまった。そういう意味で言ったのではなかったのだが。
このままこの話をしていると泥沼に入りそうなので、話を逸らす事にする。
「主、明日は楽しみにしているイベントだろう。あまり夜更かしをしてはいけないよ」
まだそこまで遅い時間でもないが、寺内の規則では寝る時間だ。何より主には早起きをしてもらって、早く私のチョコレートを受け取って貰いたい。偶にあるのだが、主に寝坊をされてもらっては困る。
「ええ、そうですね。そうします。ナズーリンはまだ?」
「ああ、これを書いてから」
「何を書いているのですか、ナズーリン」
主の振る舞いを上に報告している、とはっきり言うのも憚られたので、ぼかして答える事にした。
「日誌だよ。この幻想郷にはお仕事で来ているんだからね」
「私の素行について書いているんですね」
あっさりとばれた。
「まあ、そういう事も書いてある。私は君の監視役だからね」
主従の衣を脱ぎ着捨ててはっきりとそう言って振り返ると、主はいつの間にか正座をして私の事をじっと見つめていた。
「ナズーリン、はっきりと伺いたい。いや、これをあなたに聞くのは筋違いかもしれませんが」
「何かな?」
「私は正式な代理になれるでしょうか」
どうやらさっきの会話がまだ尾を引いているらしい。
なれるさ、勿論。落ち込んでいる主にそうと言ってあげたい。だがそんな気休めの言葉を主が求めていない事は分かる。
「私が代理となってから、もう随分と時間が経ちました。しかしあなたが遣わされて以来、その後は一向に。私は何か間違っているのでしょうか」
「少なくとも私が上げている報告に、君が間違った事をしている等と書いた事はない。もしも君が何か重大な過ちを犯していれば、自称とはいえ、代理等名乗れぬさ」
「ならば何故」
「分からないね。それは私の管轄から外れている。ただ一つ、私にも分かる間違いがある。それは正しい行いをしていれば天部の代理になれるという考えだ」
ああ、嫌な事を言ったな、私。
これじゃあ益益主を落ち込ませるだけだ。
「詰まり、時間感覚が異なっているのだよ。私達の今住む宇宙の起源から消滅までが、梵天様の瞬き一度だという喩えは君だって知っているだろう? どれだけ悩み苦しみ抜いたとしても、それ等は全て些事なんだ。苦しみから逃れるには悟るしか無いんだよ」
「詰まり、私は正式な代理にはなれないという事でしょうか」
「そうは言っていない。私が言いたいのは、こうすれば代理になれるなんて私や君が考えたってしょうがないって事さ。少なくとも私は、天部の代理になった者を知らない。恐らく数える程しかいなかっただろう。それどころか君の様に、天部から監視役がついた者だって私は数える程しか知らない。いつ正式な代理になれるのかは知らないが、それだけ君は天部から目を掛けられているって事ははっきり分かる。君は特別なんだ」
私は主を睨む様にして見つめた。別に睨みたい訳ではない。感情が昂って涙が溢れてきそうだったので、それを堪えただけだ。主に無様な泣き顔なんて見せられない。
主は私の事を無表情で見つめている。感情の表れていない主の顔なんて初めて見たから、何だか怖い。もしかしたら偉そうな事を言ったから嫌われたのかもしれない。もしそうだったら、どうしよう。
不安で一杯になっているとそれを吹き飛ばす様に、主がふっと笑った。
「ありがとうございます、ナズーリン」
いつもの主に戻ってくれた。
安堵して私も息を吐く。
「そうなんです。白蓮に見出され、皆慕ってくれて、天にはナズーリンを遣わして頂いて。私は大変恵まれている。それは分かっている事の筈なんですが、ふと不安に思ってしまうんです。皆を騙し続けている私は、本当に正しい事をしているのかと」
主の表情にまた陰りが見える。
「騙しているのとは違うだろう」
「いいえ、騙している事に変わりはありません。けど私は、今のナズーリンの言葉で気が付きました。私は騙している事が嫌なのではなく、騙している事が知られて、皆に責められるのが嫌なのですね。思い出してみれば白蓮の誘いを受けた時もそうだった。私はただ皆に認められたいが為に、正式な代理になりたいと思っている。浅ましい。これでは毘沙門天様が認めてくださる訳がありません」
「それは違うよ、主。主は皆を助け、救い、導いているじゃないか。皆に慕われて教えを広める。天部が望んでいるままの事だよ。そして、皆が主を慕うのは、主が毘沙門天様の代理を名乗っているからだけじゃない。主が今まで行ってきた事に感謝しているから、そして主のその優しい性格が好きだから、皆が主の傍に寄ってくるんだ」
まあ一部はそのおっぱいに惹かれているみたいだけどね、と肩を竦めると、主が笑ってくれた。
「ありがとう。本当に。私はナズーリンにいつも救われています。さっき特別だと言ってくれた事、本当に嬉しかった」
私は慌てて主から目を逸し、机に向かった。
「主が喜んでくれたのなら私も嬉しいよ」
背中を向けたままそう言って、また日誌に目を落とす。
駄目だ。
主の顔をまともに見られない。
主に喜んでもらえたのが嬉しい。
嬉しすぎて、感情がぐちゃぐちゃになっている。
泣きたくなる位、満たされている。
主が私と同じ様な悩みを持っている事を知る事が出来たから。
主が嬉しいと言ってくれた特別という言葉は、私にとっても大切な言葉だったから。
衝動的な喜びを堪えていると、背後で布団に潜り込む音が聞こえた。
「すみません、ナズーリン。お仕事中なのに、こんな愚痴を。面倒だったでしょ」
「そんな事は無いさ。主が悩みを言ってくれる事なんてあまりないからね。物を失くして泣きついてくる事は良くあるけれど。主は、信仰に対して真面目過ぎる。肩肘張らなくても、世の理は整然と動くものだよ」
「そうですね。あの宗教家同士が争っていた一件から、この所、少し気を張り続けていたかもしれません」
「明日思いっきり楽しめば良い。息抜きになるだろう」
「そうですね」
そう言って、静かになった。眠りに入ったのか。それなら日誌に集中しよう。
私が一つ気合を入れて、袖まくり、日誌に目を落とす。まあ書く事なんて大してない。ただ下手な事を書けば、主に迷惑が掛かる。いつもであれば出来る限り無難に、当たり障り無く、主を褒める文章を書いている。今日もそうしようと考えていたが、正式な代理になりたいと切望している主の為にも、ここは何か情感に訴える様な文章を書いた方がいいかもしれない。
いや、でも別に読んだ者が感動しようと、それで主が代理になれる訳でも無いしなぁ。読むのは下っ端だし。日誌にちょっと良い事を書いたからと言って代理になれるのなら、初めから私が直接上に訴えている。恐れ多くて、というより、主に対する心証が悪くなるだけなので、そんな事出来無いが。いや、でも天部の方方がそんな些細な事に拘る訳も無いし、ここは自分が出来る精一杯という事で、やっぱり訴えかける様な文章を。
「ナズーリン、さっきから何を悩んでいるんですか? もしかしてさっきの事を日誌に書こうと?」
まだ起きていた事に驚いて振り返ると主が布団の中で不安そうな顔をしていた。
「安心してくれ。さっきのは主の個人的な悩みだろ。書く訳が無いよ」
「悩みがあると、代理になるのに不利になるとか」
「悩みが無いのは、悟った者だけだよ。天部の方方だって私達の理解は及ばぬ高みだが、悩みがあるそうだ。だからそれが不利に働くなんて事はない」
「そうですか。安心しました」
「そりゃ結構。単に、今日は何も無かったから何を書こうかなと悩んでいただけだよ」
「なら何も無かったで良いじゃないですか」
「うん、まあね。本当にそれでも良いんだけど。何か少しでも書いた方が見栄えがするだろう?」
すると主がくすくすと笑った。
「ナズーリンは日誌に対して真面目すぎです。肩肘を張らなくても大丈夫ですよ」
「あっそう」
意趣返しをされた。
「今日はもう良いでしょう? 疲れたのならもう睡眠を取るべきです」
そう言って、主が微笑んでいる。卑怯である。そんな風に布団に包まってぬくぬくとしている様を見ていると、私も布団の中に入りたくなった。
「じゃあ、そうしようかな」
日誌を虚空に消して、油の明かりも消す。
月明かりの中で、布団に入り、欠伸をしていると、主がもぞもぞと近寄ってきた。
「ささ、こちらの布団の方が温かいですよ。折角なんですから一緒の布団で眠りましょう」
気恥ずかしくて逃げようとしたがあっさりと捕まり、主の布団に引き摺り込まれた。主に抱き締められて体が緊張する。
「やっぱり二人だと温かさが違いますね。どうです、ナズーリン。冬の間、ずっと私の部屋に居ませんか? 今のお家じゃ冬は寒いでしょう」
気を遣ってくれているらしい。
ありがたい事であり、願ってもない事である。
「考えておく」
だがあまりにも私の願望に合致していて、何だかあっさり承諾するのが怖かった。自分の欲望があけすけになって、主にばれてしまう様な気がした。
「考えておいて下さい。それから、明日のバレンタインデー、ナズーリンも楽しみましょうよ。良い息抜きになりますよ」
主の浮かれた声からして、多分あまり考えて喋っていない。とにかく気を張っている私が息抜きできたらと思いつつ、具体的な事は考えずに思いついた言葉を口にしている。
「楽しみにすると言っても、私は作る側で、もう作ってしまったしね」
バレンタインデーで楽しみなのは、誰にあげるとか誰がくれるとか、後はチョコレートを作るのだったり、食べて美味しかったりという部分だろう。だけど私がやったのは、顔も知らない者も含めた全員に対してのチョコレートを作っただけであり、作るのだってお湯でチョコレートを溶かし続けるばかりだった。完全に作業である。
「まだ渡すというのが残っています。それを楽しみにするんです」
「考えておく」
本当は考えるまでもない。
主に言われるまでもなく、明日の朝が来る事を楽しみにしている。
私には大量に作ったチョコレートとは別に、主の為に作ったトリュフがあるのだから。
明日の朝一番に、主へ渡す。
その時の反応を想像するのは怖いけれど、抱きしめてくれている主の温もりに身を委ねていると、どうしても楽観視してしまう。
早く明日が来てくれないかと願ってやまないまま主の温かさに包まれつつ意識がまどろんでいった。
目を覚ますと、妙に寒寒しい思いがして、身動ぎをすると主が居ない事に気が付いた。慌てて辺りを見回し、飛び起きると、主の姿が無い。どうしたんだと慌てて着替え、部屋の外に飛び出すと、辺りは真っ赤で日が落ちかけていた。
「おはよう、ナズーリン。お寝坊さんね」
「ああ、一輪。おはよう。主は?」
「本堂の方に居るわ」
「そうか。ありがとう。起こしてくれれば良かったのに」
「起こしたらしいわよ。ただあんたがもう少しもう少し言って起きなかったって」
全く覚えがない。
その時、くうとお腹が鳴った。
一輪が笑う。
「残念だけど、もうお昼も過ぎちゃったし、夕飯まで待っててね。ああ、後は、チョコが余っているから、我慢できないならそれを食べると良いわ。太るけど」
折角勧めてくれたのはありがたいが、語尾に太るけど、と付けられては食べる気も起きない。そもそもご飯を食べる事よりも重要な事が私を待っている。
早く主にチョコレートを渡さねば。
「じゃ、あんたも起きた様だし、私は戻るわよ」
「起こしに来てくれたのか、すまない」
こんな夕方にという事は、今までも何度か様子を見に来てくれていたのだろう。
「別に。今日はもうどうしようもないからね」
「どういう意味だ?」
「行ってみれば分かるわ」
意味が分からず、首を傾げている内に一輪は行ってしまった。
私は大きく伸びをして気怠い気を払い、隠してあったチョコレートを取り出し、気合を入れる。何だか緊張して体が強張るのを、思いっきり息を吐きだして鎮め、私は主の居る本堂へ向かった。
空を見上げると赤焼けた空が晴れ渡っている。そう言えば、主と賭け事をしていたなと思い出す。三日目までに雪が降るかという賭けだった。まだ賭けるものは決まっていないが、二日目の夕方でこれだけ晴れているのなら、あっても驟雨や細雨が降るだけで、もう雪が降る事は無いだろう。私の勝ちだ。これは賭けるものを考えておいた方が良いだろう。
勝負に勝つというのはどんな時でも楽しいもので、何だか陽気な気持ちになって角を曲がり、境内を覗いた瞬間、感情が一転して呆れた声が出た。
「うわ」
凄い人集りが出来ていた。かつて見た成田山の混雑もかくやと言う程だ。命蓮寺で学んでいる僧だけでなく、山や人里からやって来た様なのも居て、人も妖も入り混じった凄まじい坩堝になっている。
そしてその向こう側に、主が居た。
どうやらこの集まりは、主に押しかけている様だ。
主は笑顔で、一人ずつプレゼントを受け取り、それをプレゼントが山の様に積まれた荷車の上へ丁寧に載せては、次の者からまたプレゼントを受け取っている。プレゼントの積まれた荷車は既に四つあり、丁度今、馬鹿笑いしているぬえが五台目を牽いてきた。
「いやあ、凄いね、寅丸の人気」
「あれは何だい?」
近づいて来た村紗は人混みを手を指し示して、くつくつと笑った。
「いや、最初は何人かが、バレンタインデーだからって寅丸にチョコを渡していたんだけど、それを見た奴等が私も私もと、私達が配ったチョコを渡しだして、それを見た奴等が何だ何だご利益でもあるのかとチョコを渡しだして、それがいつの間にか寺の外にまで知れ渡ったみたいで、参拝客がやって来ているって話。試しに賽銭箱を入り口近くにも置いてみたら、これがたんまりで笑いが止まらないんだけど」
「煩悩渦巻いているな」
村紗がげらげらと笑う。
「幸運てものは貰える時に飛びつかないと。私達は聖人君子じゃないからね。聖も急に来た参拝客に喜んで、向こうでせっせと説法しているよ」
事情は分かった。
だがそうすると、私のチョコレートを渡すという計画はどうなる。
「これは夜まで収まりそうにないね。一日忙しくなりそう」
村紗が笑いながら去って行った。
残された私は手の内のチョコレートに目を落として考える。
夜まで待つ?
とんでもない。
昨日の夜だって渡したくて我慢していたのに、もうこれ以上我慢するのは嫌だ。だがここに集まっている者達の様に列に並び一人一人に渡していくなんてのも嫌だ。そんなんじゃ折角のトリュフが埋もれてしまう。
どうにかして主を連れ出し、二人っきりで渡せないかと思案して、主を連れだそうと思い立った。
大きく人混みを迂回して、主の下まで行くと、荷車の中身が良く見えて、何だか仏像やら数珠やら大根やら葱やらチョコレートとは関係の無いものまで入っている。
呆れながら主に近付くと、振り返った主と目が合った。
「あ、ナズーリン。起きたんですね」
「うん、おはよう」
「もう夕方ですよ」
主は笑い、かと思うと参拝客に呼び掛けられて、プレゼントを受け取る作業に戻った。列は蛇行しながら延延続いている。この分じゃ、本当に夜まで終わりそうにない。
「なあ、主、話があるんだが良いかな?」
「え? すみません、ナズーリン。今はこの通りでして。待っていて貰えませんか」
「いつまで掛かるか分からないだろう。少しの間で良いから、ちょっと来てくれないか」
「いえ、ですが」
また参拝客に呼ばれて、プレゼントを受け取りだした。
見れば参拝客達が私の事を睨んでいる。向こうからすれば私は主を連れ去ろうとする敵なのだろう。怖い。怖くてこの場を離れたかったが、ここで逃げては主が。
「ナズーリン、すみませんが」
だがその主も気がそぞろで、こちらの事に構っていられないという様子だ。
何だかそれが我慢出来なくて、思わず感情が昂った。
周囲の突き刺さる様な視線を恐れる心も相まって、思わず声を荒らげてしまう。
「主!」
「すみません。夜まで待って下さい」
はっきりと言われてしまった。
自分の中の何かがすとんと落ち込んでしまった気がした。
昨日あれだけ大切だと言ってくれたのに、所詮はこの程度の扱いなのか。
「主にとっては、そっちの方が特別みたいだね」
聞こえているのかいないのか、主はもうこちらを見もしない。
それが悲しくて悔しかった。
プレゼントを受け取る主の笑顔がこちらに向いていないというのが我慢出来なくて、見ているのが辛かった。
喪失感を覚えたが、どうしようもない。
主がそういう態度なら良いさ、と帰ろうと背を向けた時、背後から凄まじい嬌声があがった。何だと思って振り返ろうとした時、背後からぶつかられて、地面に投げ出された。
「あ、すみません」
振り仰ぐと、耳まで真っ赤になった女性が居た。尼僧じゃない。外部の妖怪だ。様子を見ると、どうやら主の過剰なファンらしい。主を前にすると正気を失う手合が中には居る。そういうのは最終的に一悶着合って寺を追い出されるが、もしかしたらこいつも追い出された一人なのかもしれない。そいつは謝罪もそこそこに、顔を覆って走り去ってしまった。
「大丈夫ですか、ナズーリン」
背後からの主の声に、ああと答えて立ち上がろうとして、少し先の地面に落ちたそれを見て、一瞬思考を失った。
私が作って包装したチョコレートが地面に落ちていて、大きくひしゃげて地面にへばりついていた。さっきの奴が逃げ去る時に踏んでいったに違いない。
私は慌てて這い寄り、どうにか出来ないかと、拾い上げてみた。だが包み紙は崩れ、中から覗くトリュフも潰れてしまっていた。
「ナズーリン、何処か怪我を?」
主が近付てきたのを感じて、私は慌てて起き上がる。
「いや、大丈夫だよ」
振り返って主を安心させたかったが、駄目だ。今の泣きそうな顔を主に見せられない。
とにかくこの場から去ろうと歩き出すと、後ろから主に腕を掴まれた。
「待って下さい。本当に大丈夫ですか?」
振り向かされそうになって、私は慌てて腕を払った。
「大丈夫だって言っているんだから、放っておいてくれ」
喋っている内にも涙が出てきそうになる。
折角作ったチョコレート。
手の中でぐちゃぐちゃになったそれが涙で滲み出す。
「ナズーリン、それは?」
私の視線に気が付いたのだろう、主が覗きこんでくる。
何でもないと答えようとしたが、涙で詰まった声を聞かれなくて、私は黙って主を突き飛ばした。
そうして逃げ去ろうとしたが、また主に腕を掴まれる。
「待って下さい!」
しつこい。
放っておいてくれと言っているんだから放っておけば良いのに。
私なんかよりも、向こうで並んでいる参拝客の方が大事なんだろ。
再び腕を振って引き剥がそうとしたが、今度は放してくれなかった。
「ナズーリン、黙っていては分かりません。何処か痛いんでしょう? 向こうにぬえが居ますから、手当を頼んで」
ぬえに手当を頼めという言葉で、どうしてか分からないけど耐え切れなくなった。
頭に血がのぼるのが自分で分かった。
気が付くと叫んでいた。
「うるさいな! 大丈夫だと言っているだろ!」
「ですが……泣いているんですか?」
思わず声を出してしまった。
泣いている事がばれてしまった。
恥ずかしくて、私は袖で顔を覆い、何とか逃げ出そうとしたが、前に回り込んだ主に止められた。
「ナズーリン、どうしたというんですか?」
その心配そうな顔を見ると何だか急に心が萎み、主の口から私の名が漏れたのを聞くとその胸に飛び込みたくなる衝動に駆られた。私の気持ちを正直に伝えて、自分の事をずっと見てもらいたいという欲望が強烈に湧いてきた。
だが私の口からは、その思いとは別の言葉が吐き出される。
「何だ? 今更私の心配か? 気にするなって言っているんだから、気にするな! 主には向こうにもっと大切な方方が居るんだろう? そちらに行ってやれば良い! 私の事なんかどうだって良いんだろ!」
「そんな事はありません。ナズーリン、気が動転しているのは分かりますが、一旦落ち着いて下さい」
「分かる? 何が分かるんだよ! 良いからあっちへ行っていろ。そこで色呆けていろ! 欲に溺れてへらへら笑っていれば良い」
そして最悪の言葉が飛び出した。
「そんな俗っぽいから、主はいつまで経っても認められていないんだ!」
それを言った次の瞬間、一気に冷や汗が吹き出した。何かが切り替わったかの様に、私の中で燃えていた嫉妬が消えて、代わりに取り返しのつかない事を行ってしまった後悔と罪悪感が心の底に淀んだ。
最悪の言葉だ。
主が気にしているもっとも言われたくない言葉だろう。
昨日の夜もそんな主の悩みを聞いたばかりだというのに。
「主」
謝ろうと思って顔を上げる。
そして息が止まった。
主の絶望した顔がそこにあった。
今にも泣き出しそうで、それを必死に堪えながら、けれど明らかに傷付き、苦しそうな表情をしていた。
私の心から溢れた罪悪感が私の胸と喉を締め付ける。
言葉が出てこず、主の顔を見ていられない。
目を逸らしてこちらが黙っていると、主も何も言ってくれなかった。
その沈黙が耐えられない。
だが私にはどうする事も出来無い。
主の絶望した表情を思い返すと、後悔が湧いて出るばかりで、主に掛ける言葉が思いつかない。
結局私にはその場から逃げる事しか出来なかった。
主ももう、私を引き止めてはくれなかった。
何処をどう走ったのか分からないが、気が付くと私は山の中に流れる小川を覗きこんでいた。以前、白蓮達とピクニックに来た場所だ。あの時は夏で実に涼やかだったが、冬の今は身を切る様な寒さしかない。川の中に沈んだぐちゃぐちゃの包装紙に気がつくと、寒寒しさがいや増した。
最悪だ。
勝手な嫉妬に駆られて主を傷つけてしまった。
本当ならチョコレートを渡して、主に喜んでもらいたかったのに、結果はその逆になってしまった。
もう主と顔を合わす事は出来そうに無い。
あれだけ酷い事を言ったのだ。主だって私に会いたくはないだろう。
次第に夕暮れが退いて、夜が来ようとしている。
小川の中のチョコレートが闇に隠れて段段と見えなくなる。
私も同じ様に、闇に紛れて消えられたらと自虐的な事を考えた。
小川の流れが耳の中に入り込んで、私の思考を奪っていく。
寒くて体が震えた。
気がつくと夜になっていた。
もう辺りは闇夜で真っ暗になり、月の光で辛うじて先が見えるものの、森の奥なんて夜目を効かせてもすっかり何も見えなくなっていた。
駄目だ。思考が片付かない。
家に帰ろう。
ここでこうして居ても仕方無い。寺に戻る事も出来ないし。
立ち上がって、振り返り、歩き出そうとした。
その瞬間、何かにぶつかって弾き飛ばされた。
驚いて目を見張り、思わず声が漏れた。
「主。いつの間に」
「実はさっきからずっと」
いつからだ。全然気が付かなかった。
「すみません。声を掛けようとは思っていたのですが、何て声を掛ければ良いのか分からなくて」
私は息を飲む。
何て言っていいのか分からないなんて当たり前だ。あんな酷い事を言ってしまったんだから。
もしも私だったら口を利こうとも思わない。
一体主は何をしに来たんだろう。
一瞬希望を思い浮かべてしまい、そんな自分を責める。
もしかしたら主は私を許しにきてくれたのではないかと思ってしまった。あんな言葉気にしていませんよと言ってくれるんじゃないかと。あんな事を言っておきながら。
そう期待している。
だが当然そんな訳がない。
「私は、ナズーリン、あなたに恨み言を言いに来ました」
「だろうね」
分かっていた事なのに失望している自分が憎らしい。
あれだけ酷い事を言っておいて、主に許しを求めるなんて、あまりにも度し難い。
「ナズーリン、私は酷く傷付きました」
気が付くと足が震えている。今にもこの場から逃げ出したい。
だがそれをじっと耐える。ここで逃げ、主に恨み事一つ言わせないのなら、私はきっと今まで生きてきた事すら後悔する。
「ナズーリン、あなたの目に私はさぞや愚かに映っていたのでしょう。使命を忘れ、俗習に現を抜かしていた私は。昨日慰めてくれた時も、私の悩みなんて、あなたが言っていた通り、さぞや下らないものだと思っていたのでしょう」
「そんな事は無い」
「あなたはバレンタインデーに参加しなかったではありませんか。下らないと思っていたからでしょう? 昨日誘っても、はっきり答えてくれなかった」
参加したかった。チョコレートだって作っていたんだ。主にあげたくて、喜んでもらいたくて。でもそれを証明する物は水の中に沈んでいる。
「参加しなかったのは、寝坊しただけさ」
私が俯いてそう言うと、主に肩を掴まれた。顔を上げると、主の怒った様な顔がそこにある。私は、もう駄目だ、と思った。もう二度と主が私に笑顔を向けてくれる事は無い。
「俗習にかまけるなと何故言ってくれなかったんですか? 悩みが下らないのならどうしてそれをそう言ってくれないんですか? 昨日誘った時だって考えておくなんて曖昧な事を言わないではっきり言ってくれればよかったのに。昨日の夜だってはっきりそんな悩みを持ってはいけないと言ってくれればよかったのに。下手な慰めなんて」
そう絞りだす様に言われた。私は何も答えられない。
全ては私の主に対する思いが原因にある。私がはっきりした態度を取れないのは、そして言動に食い違いが出ているのは、主に対する思いを隠しているからだ。でもそれを今この状況で説明したって拒絶されるに決まっている。
そう考え、私はまだ自分の身が可愛いのかと呆れ果てた。
私が主からどう思われたって良いじゃないか。嫌われたって、離れていかれたって、それは仕方の無い事じゃないか。主に酷い事を言って悲しませてしまったんだから。いや、そもそも、もう完全に嫌われている。主が離れていくのは決定している。
ならもう良いじゃないか。
本当の事を言ったって。
「主、私は」
「ええ、あなたは監視役。私の間違いを正すのは役目違いかもしれない。でも」
違う。そうじゃない。私が言いたかったのは。
主の顔が私の鼻先まで迫ってきた。
月の光が照って、その瞳から涙が溢れるのが見えた。
「でも私は言って欲しいんです。我儘ですけど、私に間違っているところがあるなら言って欲しい」
だってと、主の言葉が途切れた。
月光の中で涙を零す主があまりにも静謐で、私が身動ぎをしただけで壊れてしまいそうで。
私が何も言えずに居ると、主が涙を拭った。
それでその静謐さは壊れ、代わりに主の声が聞こえた。
「私はナズーリンに嫌われたくない」
その言葉の意味が一瞬理解出来なかった。やがて理解した瞬間、私の中に衝撃が走る。
主が私に嫌われたくない?
私が主に嫌われたくないじゃなくて?
信じられない。
主が私の事を嫌う事はあれ、私が主を嫌うなんてあり得る筈が無い。
だから嘘だと思った。
だがどうしてそんな嘘を言うのか分からない。
やがて一瞬の衝撃が去り、じっと見つめてくる主の瞳を見ていると内に、ようやく理解した。
私の所為だ。
私は主に嫌われたくなかった。拒絶されたくなかった。だから自分の心を隠して、主と過ごしてきた。そして主は私が心を隠していると気が付いていたのだ。心を隠しているという事は、どんな理由があれ、相手への歩み寄りを拒絶している事に他ならない。私の嫌われたくないという臆病さは、確かに主との関係を決定的に壊す事は無かったが、冷淡な印象を与え主を悩ませて続けていたのだ。その事にようやく気が付いた。
何て、何て愚かなんだろう。
「ごめん」
私は怖がるばかりで、本当にどうしようもない。
さっきまで私は自分の罪を洗い流したくて仕方が無かった。主に酷い事を言ってしまったという罪悪感に押し潰されそうで、早くそれから逃れる事ばかりを考えていた。主に嫌われても良いと、自暴自棄になって。
そうじゃないだろう。
その前に言うべき事があるだろう。
「ごめん、主」
どうしてこんな当たり前の事を言う事にすら気が付かなかったのか。
自分の保身ばかり考える臆病な自分が本当に嫌になる。
頭を下げる。
涙が溢れてくる。
「本当にごめんなさい。酷い事を言って」
「いいえ、ナズーリン、あの言葉は」
「あんなの本当の事じゃない。私はあんな事を言いたかった訳じゃないんだ。本当はもっと別の事を言おうとしていたのに、かっとなって、ただ主を傷付けようとしてあんな事を言ったんだ。主は悪くないのに」
涙が次から次へと溢れてくる。
ずっと隠し続けていた言葉も一緒に溢れてくる。
そしてそれを止めようとは思わない。
はっきりと言わなくちゃいけない。
「私は主と一緒に居たいんだ。さっきだって、他の奴等とじゃなくて、私と居て欲しかったんだ。それを言いたくて、言わなくちゃいけなかったのに、私は素直になれなくて、あんな事を言って。ごめん、主。あれは本心じゃない。だって」
川を指さす。指さすが、もうそこには闇があるだけで何も見えない。
「川の中に捨てちゃって、今はもう見えないけど、本当はチョコレートだって作っていたんだ。主に渡そうと思って、でも恥ずかしくて、言えなくて。渡そうと思って持っていったのに、踏まれてぐちゃぐちゃになったから渡せなくて。私だってみんなと同じ様にバレンタインを楽しみにしていたんだ」
言葉が次から次へと溢れてくる。
それと一緒に力が抜けて、立っていられなくなった。
座り込み、それでも言葉は流れ出る。
「本当は主と一緒にもっと楽しくおしゃべりとかしたいんだ。それなのに、私はいつも素っ気無い態度ばかりとって、主に嫌われているんじゃないかっていつだって怖くて怖くて仕方無かった」
それからと続けようとした時に、主の手が私の頭に置かれた。溢れていた言葉が止まる。涙を拭って顔を上げると、主に抱き締められた。
「すみません、ナズーリン。一度に沢山の事を言われて、ちゃんと処理しきれていませんが」
そう言いながら主の手が私の頭を撫でる。
「ナズーリンが苦しんでいたという事は分かりました。ずっと気が付いてあげられなくてすみません」
主が謝る事じゃない。
そう言いたかったが言葉が出てこない。代わりに主の中で私は首を横に振る。
「私ばかりが悩んでいると思い込んでいました。ナズーリンは、傍から見るとしっかり者でいつも私を助けてくれて、強そうでしたから、私の様に思い悩む事は無いと思い込んでいました。ずっと一緒に居たのに。これでは主人失格ですね」
また私は首を横に振る。
主が更に強く抱きしめてくれた。
「きっと私達の間には誤解があったんです。それだけ。何て事はありません。そうでしょう?」
そうであって欲しい。
だがあんな事を言って主を傷つけてしまったのだから、単なる誤解じゃ済まない。
「喧嘩なんて誰だってするものです。思えば、私とナズーリンは喧嘩らしい喧嘩をしませんでした。それはきっと仲が良いからというより、お互い悩みや不満をぶつけなかったからなんです。だから今日ようやくその第一歩を踏み出せた。これはきっと喜ばしい事なんですよ。初めての喧嘩記念! ね?」
喜ばしい事だなんてあるものか。私は主を傷付けてしまった自分が嫌で嫌で仕方が無い。
「喧嘩なんてものじゃないだろう。私がさっき言った事は、主を傷つけてしまったのは、もっとずっと酷い事だ」
「そんな事はありません。確かに傷付きましたけど、そんな、大袈裟ですよ。ナズーリン。あなたも私の事を誤解しているんです」
主が笑みを浮かべる。
「思えば、私はナズーリンに助けられてばっかりで、ナズーリンからすれば私は随分情けない主かもしれない」
「そんな事無い! 私は主の事を立派だと思っている」
「だったらもう少し信じて下さい。あまり過保護にならなくても大丈夫。そんな、代理がどうだと言われただけで、そこまで落ち込んだりしませんよ」
その言葉で初めて私が主を侮っている事に気が付いた。
ずっと代理というのが主にとって何よりも優先される事で、それを気にし続けていると思っていた。それは腫れ物の様なもので、あまり触れてはいけない部分だと思っていた。そこを刺激すれば主が深い悲しみに襲われると思っていた。
けれどそれは勘違いだったらしい。
いや勘違いだったんじゃない、進んでそう思い込もうとしていたんだ。
主と私の関係は、その代理と自称している部分に起因しているから、それが何よりも大切であって欲しいと思い込んでいたんだ。
そのあまりの厚顔無恥な思い込みに気が付いて呆然としていると、また主が私の頭を撫でながら抱きしめてくれた。それだけで一瞬前の悩みが何処かへ行った。
「むしろ私にはこうやってナズーリンを悲しませてしまった事の方がずっと辛い事です。ナズーリンがこうやって泣くのなんて今日が初めてで、しかも二回。さっきも今もどうやってナズーリンを慰めれば良いのか分かりません。まして私が泣かせてしまったなんて」
主に包まれていると、さっきまでの苦しさがお湯で溶かした様に溶けていく。
口から勝手に言葉が漏れる。
けれどそれはいつもと違い、素直な言葉だった。
「私はこうしているだけで慰められている。いつも一緒に寝ている時、安心出来る。私は素直じゃないけど、単純だから」
そう言うと、主がくすくす笑った。
「そうですか。いつも嫌がられているんじゃないかと心配でしたが。それならこれからも、ナズーリンと一緒に眠る時はぎゅっと抱きしめる事にします」
「私が主の事を嫌う訳無いじゃないか」
「こちらも同じです。ナズーリンの事を私が嫌う訳無いでしょう?」
ずっと主に嫌われているんじゃないかと疑っていたのが恥ずかしくて申し訳無くなった。
そして主が嫌わないと言ってくれた事が本当に嬉しかった。
でも何処かで、本当だろうかと疑っている自分が居る。
そんな自分が嫌だ。
そしてこれを隠してまた悩む事も嫌だった。
「ごめん、主。信じ切れない。嬉しいけど、もしかしたらそう言いつつも、本当は嫌われているんじゃないかって」
「同じですよ。ナズーリン。私も、もしかしたらと怖いです。でもそれはきっとまだ仕方が無い。今までずっと喧嘩すらしなかったんですから、お互いを曝け出して理解し合うのには時間が掛かるでしょう。でもそれで良いじゃないですか。これから理解しあっていけば」
「うん」
悩みが消えていく。
素直な気持ちを伝えるというのがどんなに素晴らしいかをようやく知る事が出来た。
しばらくして、首筋に冷たい感触があった。
涙かと思ったが違う。
主と体を離して空を見上げる。
暗闇で良く見えないが、雨が降ってきているらしい。
するとその時、主が嬉しそうな声を上げた。
「ナズーリン、雪ですよ! 雪!」
そんな馬鹿な。
降ってくる冷たい感触を手に受けてみたが、良く分からない。
雪?
そんな急に。
だがそうすると私は主との勝負に負けた事に。
「ナズーリン、昨日約束しましたよね」
いや、ちょっと待って。まだ雪だと確認出来た訳では。
もう一度手を翳してみたが、やはりどうやってもそれが雪なのか雨なのか分からない。
「往生際が悪いですよ、ナズーリン。私の勝ちです。賭けに勝ったのですから一つ言う事を聞いて下さいね」
いやまだ何を賭けるかも決めていなかっただろうという私の正論を無視して、主は下げたバッグから取り出した何かを差し出してきた。
包装されたそれは、私の見る限り。
「チョコレートに見えるけど」
「はい。負けたナズーリンはこれを食べて下さい」
そんな事で良いのなら構わない。が、チョコレートを食べるだけの事を賭けたって罰にならない。
開けてみると星の形をしたチョコレートが三つ入っていた。本当にただのチョコレートだ。
月の光に照らしてみるが、何らおかしな所は無い。匂いを嗅いだが、変な物が入っている可能性も低そうだ。
「疑わなくてもそれは単にチョコレートですよ」
「しかし」
「折角のバレンタインなのに、ナズーリンはあまり楽しみにしていないみたいでしたから、チョコレートを食べたら考えを変えてくれるかなと」
「その為に昨日賭け事を提案してきたのかい? 今日雪が降る事を見越して?」
「いいえ。提案したのはあなたからですし、思いついたのは今日の朝ですし、それに雪が降るなんて分かりませんでした」
「それにしては随分都合よく」
「ええ、思い立った後、妖精達に雪を降らせてくれる様に頼んだんです」
随分と強引な。それじゃ反則じゃないか。
「ふふん、毘沙門天様の代理ですから、勝つ事に躊躇したりはしませんよ。目的もありましたしね」
さあ食べて下さい、と言われ、私は仕方無くチョコレートをつまみ上げた。本当は戻ってゆっくり食べたかったが、早く早くとせがまれてしまっては拒めない。
口の中に放り込むと、抗い難い甘さが私の口に広がり、鼻腔や胃を侵食して、お腹を鳴らした。考えてみれば朝から何も食べていないし、お腹が空いていた。我慢出来なくて、次のを口に入れる。やがて、味わう間もなく、三つのチョコレートは私の口の中で溶けてしまった。
「どうですか? 美味しかったですか?」
「うん、美味しかったよ。まあ元元の材料が結構高い奴だったしね」
と言ってしまってから、思わず口を押さえた。まただ、素直になると決めたばかりなのに。
「いや、本当に美味しかったよ。主が作ってくれたチョコレートだから尚更美味しくて」
「ありがとうございます」
主の声のトーンが、さっきの「美味しかったですか」と聞いてくれた時よりも一段低くなっているのは気のせいなのかどうなのか。
「まあ良いですよ。本当の事ですしね。村紗達が買ってきたチョコレートを溶かして固めただけですから」
刺刺しい言葉だ。
何とか弁解の言葉を捻り出そうとしていると、主が笑い声を上げた。
「でも美味しいと言ってくれて嬉しいです。本当にありがとうございます」
そうして私の手を引いた。
「さ、お寺に戻りましょう」
とにかく主は満足してくれたのか。
良く分からないが、鼻歌を唄っているのは機嫌が良い証拠の筈。
「主」
「何ですか?」
何となく呼んでみただけで、深い意味は無かった。
「そう言えば、結局あの集まっていた参拝客がどうしたんだい?」
「あの後、私が落ち込んでしまって、逃げてしまったので、恐らく帰ってしまったんじゃないかと思います」
「それはすまない」
「ええ、本当に」
刺刺しい。
やっぱりまだ怒っていそうだ。いや当然か。あの言葉で主を傷つけたのだし。今までの自分がしてきた事や思い込んできた事も考えれば、そう簡単に許して貰える筈が無い。
本当に愚かな奴だよ私は、と改めて自分の惨めさを実感していると、主が言った。
「でも、何というか、途中で辛くなっていたので、逃げられたのは助かりました」
「辛かった?」
にこにこと楽しそうにしていたと思うが。
「途中でぬえと村紗に聞いたのですが、バレンタインデーとは元元、チョコレートを渡して愛を告白する日だそうですよ?」
「いや、元元は違うよ」
「え? そうなのですか?」
「でも今はそうなっているね。それで、それがどうしたんだい?」
「それで、村紗が、そういうイベントなのだから、ちゃんと愛のある笑顔をした方が良いと言ってきたんです。愛のある笑顔というのが良く分かりませんでしたから、とにかくにこにこしていましたが、段段相手を騙している気がして、そしてそれが毘沙門天の代理と偽っている事と同じだと気が付いてしまって」
とりあえず後で村紗にはお仕置きをしておかないと。
「愛を告白する日ね」
「ええ、そうみたいです」
「ならさっき、主が私にチョコレートをくれたのもそういう意味かな?」
意地悪くそう尋ねると、主がああそう言えばそうですねと言った。もっと動じてくれるかと思ったのに期待外れた。代わりに、何故か私の手を握る力が強くなった。痛い。冗談を言ったから怒ったらしい。
「本当は渡す時に言うのだと聞きましたが」
「そうだね」
素直になろうと決めた。だから私は素直に、自分の願いを口にしてみる。きっと主には冗談に聞こえるだろうけれど。
「今でも良いよ。主は私に愛を伝えてくれないのかい?」
私が痛みを堪えながら笑みを浮かべて主にそう言うと、主もまた微笑みを浮かべた。その笑みに見惚れた瞬間、主が言った。
「愛していますよ、ナズーリン」
私の顔が一気に熱くなる。それと同時に、主の握力が更に力を増した。
あまりの痛みに呻き声が漏れる。
「あ、すみません。ナズーリン」
主が手を離して慌てて退いた。
痛い。
だが助かった。
お陰で、だらしのない顔を見られなくて済んだ。
反則だ。あんなの。
あんな笑顔と一緒に、愛しているなんて言われたら、やられてしまうに決まっている。私の意地悪に応えた冗談だと分かっていても、無理だ。嬉しすぎる。
本当はそれに同じ言葉で答えたいけれど、幾ら素直になると言ったって、まだまだ言えない事はある。それは少しずつ解消出来たら良い。
今は素直に、主とまた話せた事を喜ぼう。あんな事を言ったから、もう二度と話しなんて出来ないと覚悟していた。
勿論、私が言った事は許される事じゃない。これからも主に対して私は償っていかなくちゃいけない。そうでないと自分が許せない。未だにさっきの夕暮れ時を思い出すと胸が痛む。
でも何よりもまず、主との関係が壊れないで良かった。
少なくとも嫌われていないみたいで。
たった今、主があんな事を。
主の言葉を思い出した瞬間、暴れ出したくなって、私は気を逸らす為に空を仰ぎ、そして気がついた。
「なあ、主、やっぱりこれ、雪じゃないよ」
「え?」
「ほら、さっきは暗かったから分からなかったけど、こうして月が出ているから良く分かる。これは雨だよ」
月が出ているという事は、きっと狐の嫁入りだろう。いずれ止むに違いない。止む前に気がつけて良かった。危うく負けるところだった。
「え? そんな」
「さて、それで賭けの話だけど」
「待って下さい。まだ三日経っていません」
「まあね。でも降らなかったらその時は」
私が勿体振って言うと、主が弱弱しく呻いた。
「どうすれば良いでしょう?」
「そうだな。じゃあ、主の部屋に泊めてもらう権利を貰おうかな」
「泊めてもらう権利?」
「命蓮寺に来た時、泊まる所が無いと不便だからね。今は空き部屋もあるみたいだけどいつ一杯になるか分からないだろう? だからいつでも私が命蓮寺に赴いた時は主の部屋に泊まれる権利を有するというのはどうだい?」
というのは口実で、ただ主の部屋に通いたいだけだ。
ああ、やっぱり素直になれないなぁと、自分の変わらなさを嘆く。
もしかして迷惑かなと主の反応を窺うと、満面の笑みを浮かべていた。
「それは大歓迎です! むしろ毎日だって良い位。ええ、いっその事、私の部屋に住んだらどうですか?」
「いや、それは」
まだ心の準備が出来ていない。
今の無防備な状態で同棲なんてしたら、二三日後に嬉しさと恥ずかしさで死んでしまう。
やがて雨も止み、私の心も落ち着いてきた頃に、命蓮寺へ着いた。何だかどんちゃんと騒がしい。ただ寺の中からこんなに沢山の笛や太鼓や人の笑い声なんて聞こえてくる筈が無いのだから、周りの音だろう。近くで妖怪達が宴でもやっているのか。
私は寺の門を見上げる。何となくこの門を潜ればまた日常に埋もれてしまう気がする。自分の決意を確かなものとする為に、私は少し素直を意識して言った。
「夕飯の時間に遅れてしまったね」
「そうですね。でも大丈夫でしょう。何とか掛けあってみます」
「ご飯を食べた後は、修行の時間だと思うけど」
「ええ」
「その、今日は、お休みにしないか?」
主が驚いて私を見た。その視線が恥ずかしい。が、ここで怯んでは駄目だ。
「ちょっとお喋りをしたくてさ。ほら、お互い、色色と誤解している部分があって、その認識の差を埋める為にも。それに、そうだ、偶には息抜きが必要だろう? な?」
ああ、誤魔化しにもなっていない。
恥ずかしくて苦しくなる。水面で喘ぐ鯉の様な気分になる。
だがそれも、主が向けてくれた笑顔で救われる。
「ええ、そうですね。今日はたっぷり話しあいましょう」
嬉しくて、楽しみで、私は主の手を握り返し、暴れ出したくなるのを抑えながら、勇んで寺に足を踏み入れた。
そして、さっきからどんちゃんと聞こえていた騒ぎの正体を見た。
大きく開けた場所に、人人が集まり熱狂していた。そしてその前方にはステージがあって、強烈な光源でライトアップされた、白蓮とこころ、そして道場の三人組が居た。
「何だこれは」
訳が分からず隣の主を見上げるが、主も理解していない様子だった。
「おう、お二人さん、何処に行ってたんだ?」
りんご飴を舐めながら村紗がやって来た。
「村紗、これは?」
主の問いに、村紗が笑う。
「寅丸が居なくなった後、暴動が起きそうだったんだけど、それを聖が止める為に、説法を初めた結果があれ」
意味が分からない。
少なくともあれは説法では無い。
「最初は割りと真面目にやってたんだけど、普通の人にしたら退屈でしょ? だから中中収拾がつかなくて、そこに偶偶来ていたこころが助け舟を出そうと踊りだして、段段白蓮も抑揚を付けて歌い出して、何か一輪と雲山がちゃんとした舞台を作らないとって張り切ってライトとか付けだして、そうしたら聖もこころも興に乗ったみたいで、段段曲調が激しくなって、そこに聖徳太子様ご一行が対バンだって乱入してきて、今ここ」
経緯を聞いてもさっぱり想像が湧かない。
だがとにかく、皆が楽しくやった結果だというのは分かる。
それならそれで良い。
とにかく今はお腹空いた。
「で、悪いんだけど、二人も参加してきてよ」
何故?
「相手が結構な人気でさ、こころはどっちの味方もしていて、聖だけじゃ分が悪いんだよね。こっちも人気者を投入して対抗しようかなって」
「村紗、すみませんが、私達はお腹が空いていて」
「そうなの?」
「ええ。ですから残念ですが」
じゃあこれと言って差し出されたのが、たこ焼きだった。
くうとお腹が鳴った。
「何処から聞きつけてきたのか屋台が出てて。そのたこ焼きは紅魔館とこのメイドが作った奴。美味しいよ」
食べ物で釣るとは卑怯な。
拒絶したいが、私も主もお腹がくうくう鳴いている。
「仕方無い。頂くとしよう」
「ですが、ナズーリン」
「こんな物を見せられたらもう抗い様が無い。例え地獄に通ずる道だと分かっていても」
「そうですか。ならばナズーリン、私もお供致します」
「いや、そんな悲惨な話じゃ無いと思うんですけど」
さっさと四つずつ食べ終えて、私達はステージへ向かって歩き出した。
「良いんですか? ナズーリン」
「仕方無いよ。たこ焼き食べちゃったしね」
「本当に嫌なら私が断りますが」
「良いんだ。言っただろう。息抜きが必要なんだ」
実の所、私は浮かれていた。
「そもさーん!」と白蓮が声を張ると、観客達が「せっぱ!」と答えてイントロが流れだす。
そんな人人の異常な熱気に当てられていたら、自分も同じ様に熱狂しそうになった。
主と一緒に、みんなの前でバンドをするという特異なシチュエーションを思い浮かべると愉快になった。
だから参加してみたくなった。
それもこれもみんな、主が愛しているなんて言ったからだ。
そんな言葉を聞いた所為で、さっきからずっと浮かれっぱなしだ。落ち着けようと努力して、落ち着いてきたかなと思っても、主の顔を見たらまた暴れ出したくなる。さっきは一緒に話でもなんて約束をしたけれど、こんな状態で大人しくお喋りなんて出来そうにない。きっと心臓が張り裂けてしまう。
それなら暴れたいままに暴れた方が良い。
主から愛の告白を貰った今の私は無敵だ。
周りからの視線も気にならない。いつもなら人前で主と一緒に居ると恥ずかしいのだが、今日は全く恥ずかしくない。むしろその恥ずかしさが、主と一緒にステージまで歩く為の原動力になっている。いつもなら考える色色な雑念が消えて、ただ主と一緒に歩く喜びばかりが溢れてくる。
「ナズーリン、ちょっと速いです」
「ああ、ごめん」
私は歩を緩める。だがなおも強く主の手を引っ張る。今、楽しくて仕方が無い。
「いつもと逆ですね」
「何がだい?」
振り返らずに尋ねると、主が笑った。
「私の方が歩幅が大きいからか、いつもは私が手を引っ張っていますけど、今はナズーリンが引っ張ってくれているじゃないですか」
「確かにそうだね」
主と一緒になれた事が嬉しくて楽しくて、奇妙な鳥肌が立った。
私はしっかりと主の手を握りしめる。
今更、掌から主の温もりが伝わってくる事に気がついた。
「主、準備は良い?」
「実はあまり歌は得意じゃなくて」
私は笑う。
「大丈夫だよ、主! 私が居れば」
「得意なんですか?」
「弁財天様に琵琶は習っていたよ。でもそれだけじゃない」
私には今主が傍に居る。
私は今無敵なんだ。
走りだす。
もうすぐステージだ。
振り返ると主が居て、私の事を見てくれている。
主が傍に居てくれれば私は何だって出来る。
主と一緒に歩んでいく事だって。
主に好かれる事だって。
「行こう、主!」
臆病な自分を脱ぎ捨てて。
私は主と一緒に、皆の注目を集める明るいステージへと踊り出た。
すばらしい星ナズでした!