N~N+2周目
N+3~N+4周目
の続きです。
N+5周目
絶望に満ちた塑性のプロローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
目の前に紫が立っていた。紫は私が起きた事に気がつくと、時間が止まっている筈なのに、薄っすらと笑って手を伸ばしてきた。紫は微笑んだまま押し黙っている。けれどどうしてかごめんなさいと言っている様に聞こえた。失敗は許されないのと言っている様な気がした。紫は私の頬に触れると、ゆっくりと溶けていく。
それを掴まえようと身を起こした瞬間、凄まじい吐き気を覚えて吐瀉した。ベッドの上に撒き散った吐瀉物を見つめながら荒く息を吐いている内に、ありありと前回の時間の記憶が蘇る。気違いじみた幻想郷、自殺した紫、滅茶苦茶になった紅魔館、そしてこの繰り返しを抜ける為の方法。耳の中で凄まじい量の雨が降り注ぎ、幾重もの悲鳴が散乱している。突然今見ている視界に別の視界が重なった。入り口を入り、エントランスの階段を上る。そんな幻視。踊り場まで上ると足元に血に濡れたメイドが転がって、見上げるとそこにはお嬢様の着ぐるみが立っていて私を殺しに来る。
変な夢だ。気味悪くて怖かった。自分が狂い始めている気がした。何か心の内から衝動が溢れている。抱き枕のお嬢様をもう一度抱き締めてからベッドの上を降りる。壁際に寄りかかったお嬢様の気ぐるみを見る。たった今、夢で見た気ぐるみだ。いつもの通りそこにある。勿論勝手に動いたりはしない。気になって中を確かめてみたが誰も入っていない。安堵して息を吐き、立ち上がって部屋の中を見渡した。部屋の中には私とお嬢様の人形達だけ。何も恐れる事は無い。鏡の前に座って髪を梳かす。鏡の中に描かれたお嬢様の絵が鏡に写った私にキスをしてくれる。幸福を味わいながら、お嬢様の人形とその隣の置き時計を見ると、秒針が動き出そうとしていた。そろそろ時を止めているのも限界だ。私は先程の悪夢が気になりつつも、お嬢様が居るであろうダイニングへ向かった。
お嬢様は紅茶を飲もうとする格好で固まっていた。その愛らしい姿を見つめているとふと以前もその光景を見た気がした。
幻想郷は同じ時間を繰り返している。
不意にそんな確信を得た。その着想が何処から来たのかは分からないけれど、根拠も無くそれが正しい事の様に思えた。
時が動き出す。
紅茶を注ぐ。
「あら、ありがとう咲夜」
お嬢様が紅茶を飲んで、微笑みながらそう言った。それを見ていると胸が痛んだ。理由がまるで分からない。自分で自分の感情が理解出来なかった。何故か急に頭の中に何かが入り込んだ気がした。
「咲夜、どうしたの?」
「え?」
「涙なんか流して。何処か痛む?」
「いえ」
何か良く分からない衝動がこみ上げてくる。目の前に居るお嬢様をどうにかしようとする衝動がこみ上げてくる。一方で理性が叫んでいる。目の前に居るお嬢様を殺せと叫んでいる。
殺せ殺せと世界が苛んでくる。
「あああ!」
耐え切れなくなって部屋を飛び出した。そのままお嬢様の傍に居たら狂ってしまう気がした。走り続けて角を曲がってぶつかった。廊下にフラン様が倒れていた。
「いったい! 何すんの、咲夜!」
「あ、すみません」
「殺せ殺せ殺せ殺せ」
「は?」
「は? じゃないよ! 痛いじゃない! 何してんの!」
「いえ、あの」
何だ、今の。
何だ、今の。
あり得ない声が聞こえた。
幻聴?
その割には妙にはっきりと。
「咲夜? 大丈夫?」
フラン様が心配そうに覗きこんできた。心配されている事に気が付き、慌てて笑顔を浮かべる。
「はい、大丈夫です」
フラン様と目があった。
フラン様の目が私の事を見つめていた。
見開いた目が私の事を見つめていた。
目が私の事を見つめながら私を苛んでくる。
目が屋敷の者を皆殺しにしろと苛んでくる。
目が私の事を見つめている。目が館のあちこちに張り付いている。沢山沢山の目が私の事をじっとじっと見つめている。監視している。お嬢様を殺すまで見つめ続けている。
見ている内に気が狂いそうになった。本当に殺さなければいけない様な気分になってくる。
駄目だ。
逃げないと。
目から逃げないと。
恐ろしくなって駆けだした。階段を駆け下りて、玄関の扉を開け放つ。
私は外の光景を見て足が止まった。
外は目で一杯だった。
辺りには目が咲き誇り、満天を目が覆い尽くしていて、世界中の全てが私の事を見つめて、殺せ殺せと言ってくる。あまりの気味の悪さに吐き気が込み上げてきて思いっきりえづいてうずくまった。さっき吐いたからか何も出てこない。けれど吐きたくて仕方がない。胸の奥に沢山の目が詰まっている気がした。また吐き気を催して、地面に額を擦り付ける。
「咲夜さん!」
呼びかけられて顔を上げると、美鈴が立っていた。
「どうしたんですか?」
美鈴が私の事を見つめていた。しばらく私の事を黙ってじっと見ていたかと思うと、唐突に慌てた様子で髪を撫でだした。その皮膚中に目が生えていて気持ち悪い。
「咲夜さん、どうしたんですか? 二日酔いですか? お部屋までお連れしましょうか?」
気持ち悪い。気持ち悪い。世界中の全てに目が生えている。全てが私の事を見つめてくる。全てが私の事を責めてくる。殺せ殺せと、何故殺さないんだと責めてくる。
「もう止めて!」
外は駄目だ。全てに目が生えている。これならまだ館の中の方がマシだ。
館の中に入ると、数こそすくないが、やはり色んな物に目が生えている。駄目だ。屋敷の中も駄目だ。何処か安寧を得られる場所は。
屋敷中を駆けまわって、最後には自分の部屋に辿り着いた。
強迫性の妄想による第一章
入ると、饐えた臭いが鼻についた。けれど目はほとんど見当たらない。クローゼットやラックが少しばかり私の事を見つめていた。ただ部屋中のお嬢様の人形がそれを上書きしてくれる。
良かった。
ここなら安心出来る。
入り口近くの人形を抱きかかえて、ベッドの上に寝転んだ。布団に沈み込むと、ぶちゅりと嫌な感触がした。何か布団の下から恐ろしく気味の悪い感触がした。慌てて立ち上がり、布団の下を確認してみる。
悲鳴が漏れそうになった。
そこにびっしりと目が詰まっていた。
あまりの不気味さに固まっていると、沢山の目がぎょろりとこちらを向いた。
悲鳴を上げて後ずさる。すると足元の絨毯からも同じ感触を感じた。見なくても分かった。目が詰まっている。足元全てに。全身に鳥肌が立った。
安心出来る場所を探して部屋中を眺め回す。
クローゼットを開けると中から大量の目がこぼれだしてきた。飛び退いた拍子に机にぶつかって、机の上のお嬢様の人形が床に落ちる。すると今までお嬢様で隠れていた部分にも沢山の目が蠢いていた。
もう駄目だ。何処にも安心出来る場所がない。
死んでしまいたくなる程のおぞましさが頭の中を満たしている。足を滑らし、床に倒れ、這いつくばりながら、縋る思いで、お嬢様の着ぐるみに抱きついた。
お嬢様の着ぐるみが倒れる。頭が零れる。中は空っぽで冷えた闇を湛えていた。気ぐるみの中には目が入っていなかった。着ぐるみの中の闇は冷たく気持よさそうだった。中に入れば気持ち悪さを洗い流せる気がした。かぶってみると思った通りひんやりとして気持ち良かった。さっきまで感じていた気味の悪さが一変に吹き飛んだ。でもまだ足りない。体にはまだ気味の悪さが残っている。急いで着ぐるみの胴体に足を入れる。澄んだ湖に足を浸した様な清涼な感覚で満ちた。そのまま体を全てすっぽりと入れると、もう目の感触に苛まれる事は無くなった。
けれど着ぐるみの頭から見る狭い視界には沢山の目が見える。こちらを見つめている。目が、沢山の目が私の事を見つめている。何とかしないと。
ナイフをしまった引き出しを開けると、そこにも目。目に覆われる様にして収まったナイフを取り出して、きょろきょろと辺りを見回す目にナイフを突き下ろす。すると目が消えた。
目が消えた。
嬉しくなって、辺りの目を切り払った。私がナイフを払う毎に、面白い様に目が消えていく。それが楽しくて、時間を忘れて部屋中を切り裂いていると、やがて目が無くなってしまった。折角興に乗っていたのに打ち止めになってしまった事を残念に思いつつ外へ出ると、目はまだまだ沢山居た。また嬉しさが沸き立って、辺りの目を切り裂いていると、思わず鼻歌が漏れてきた。頭上を見上げると、真ん丸の月が照っていた。真っ赤で綺麗な月だった。楽しい思いで目を切り裂いていると、やがて私はお嬢様の部屋に辿り着いた。
「お嬢様?」
扉越しに声を掛けると、扉の向こうからお嬢様の驚いた様な声が聞こえてきた。
「あ! 咲夜! さっきはどうしたの? 大丈夫?」
扉に目が浮かんだ。ナイフを突き刺すと消えた。
「ええ、ええ。勿論ですとも。入っても?」
「どうぞ」
中に入ると、お嬢様がベッドから起き上がろうとしていて、私の姿を認めた瞬間、立ち上がろうとした姿勢のまま固まった。
「咲夜? それ、どうしたの?」
「え? 何かおかしいですか?」
自分の体を見下ろしたが何らおかしな所は無い。てっきり目でも生えているのかと思ったが、そんな物全くついていなかった。
安堵して顔を上げる。
お嬢様を見て、息が止まった。
お嬢様の体中に皮膚が見えない位、びっしりと目が生えていた。
「お嬢様!」
慌てて駆け寄り、体中に生えた目を取ろうとするが幾ら擦っても目は取れそうにない。触れる度に涙腺も無い筈なのに涙ばかりが溢れてびちゃびちゃになった。何だか触れている手が腐りそうな感触だった。
だがその程度で怯んでは居られない。何とかお嬢様を助けようと頭を巡らせる。さっきまでの様にナイフを突き立てれば消えるのだろうが、盛り上がる程に生えた目を潰せばお嬢様の全身が傷ついてしまう。
幾ら考えても良い方法は浮かばない。
どうすれば良いのだろうと泣きそうな思いでお嬢様の体を抱いていると、突然目の一つが言った。
殺せ。
何だか泡が弾けた気がした。
殺せ。
また泡が弾ける。
殺せ。殺せ。殺せ。
次々と泡が弾けていく。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
泡が弾けて弾けて、私の頭の中に泡の弾ける音が満ちていく。殺せ殺せと泡が弾けて私の頭の中はその音で一杯になった。
見ると、お嬢様から生えていた目はほとんど消えて、後は胸に生える大きな目が一つだけになった。これを消せば。
慎重にナイフを取り出した。
殺せ殺せと辺りが弾けている。
出来る限り傷つけてはならない。
あくまでお嬢様の体から目を追い払う為なのだ。それで醜く傷つけては本末転倒だた。
だから狙いを済ます。
一突きで、目も声も消せる様に。
お嬢様の胸をじっと見つめて、ナイフを強く握り締めると、思いっきり振り上げた。
途端に目も声も全てが消え去って、私の腕の中に涙を流しながら呆けた顔をしているお嬢様が現れた。お嬢様の愛らしい姿を見て振り上げた手を止めようと思った時には既に、お嬢様の胸に妖剣が突き立っていた。
お嬢様は四肢をつっぱらせたかと思うと背を仰け反らせ、しばらくして体の力を抜いて、それ以後動かなくなった。
しばらく動かなくなったお嬢様を腕の中で抱えている内に、段段と現実がはっきりとしだした。
「お嬢様?」
胸に突き立った妖剣がはっきりとお嬢様の死を告げている。
「お嬢様?」
お嬢様は動かない。
私は、お嬢様を殺してしまった。
ただそれまでの過程が曖昧だった。お嬢様が死んでしまった事は分かる。それを自分がした事も分かる。けれどその前に、自分がどうしてそんな事をしでかしてしまったのかまるで分からなかった。
「どうして」
私は、お嬢様を殺してしまった。
お嬢様の体から震える手を引き抜くと、お嬢様が音を立てて床に転がった。力なく倒れたお嬢様の姿が、酷く無残に思えて、震える手を何度か握りしめて震えを抑えながら、お嬢様の姿勢を整えた。
床で手を組み天井を向いて眠っているお嬢様の胸から妖剣を引き抜く。血は出なかった。きっと妖剣が吸ってしまったのだろうと思った。
立ち上がり、少し離れてお嬢様を見る。紅色の絨毯の上に眠るお嬢様の姿は絵画でも見ている様だったが、何か足りない気がした。あまりにも殺風景すぎる。お嬢様の死はもっともっと彩られていなければならない。
そんな気がしたので、私は外に出てそこかしこの廊下で転がるメイド達を集めてお嬢様の部屋へと持ち帰った。お嬢様を囲む様に小高い丘を作ると、何かそれは神秘的な祭壇の様に思えた。お嬢様という存在が、屋敷のメイド達によって守られている様で、何だかとてもしっくりとして見えた。
唐突に世界が晴れ渡った気がした。今まで見ていた目の悪夢が消えた。
途端に現実が襲ってきた。部屋の中でお嬢様が死んでいる。その周りを沢山のメイドの死体が囲んでいる。お嬢様は病的なまでに真っ白でぴくりとも動かない。周りのメイド達は真っ赤な姿でぐちゃぐちゃに積み上がっている。綺麗な真っ白い姿を保つお嬢様と赤い絵の具を塗りたくった醜いメイド達の対比があまりにも冒涜的で、吐き気が込み上げてきた。
恐ろしい光景に眩暈がして、よろめきながら部屋を飛び出すと、屋敷のそこら中に見えた目は消えていた。その代わりに廊下の辺り一面が赤い液体で浸されていた。
思わず自分の手を見る。
焦点が定まらない程震えていた。
顔を上げると赤い廊下。それを全て自分がやったのだと思うと、全身が震えて仕方が無い。
だがまだ残っている。
その瞬間、再び屋敷に目が現れた。
恐らく目は紅魔館の全員を皆殺しにさせようとしているのだ。まだ生き残りが居る。それらを殺さなければ終わらない。視線が私を苛み続ける。
沢山の目が私の事を睨んでくる。
気持ち悪い光景で、喉奥から何かがせり上がってくる。
だが嫌だ。もう誰も殺したくなかった。既にお嬢様をこの手に掛けてしまったのだ。
既に私は狂っている。お嬢様を殺すだなんて。完全に私は狂ってしまっている。けれどだからと言って、これ以上殺すのは嫌だった。これ以上狂いたくはなかった。
ただこのままで居ても目は消えない。沢山の目に囲まれて過ごせば、いずれ気が狂って、自分の今の感情なんか吹き飛んで、残りの生き残り達を惨殺してしまう確信があった。どうすれば良いのか考えても分からない。
廊下には切り刻まれたメイドがあちらこちらに転がっている。全てを自分がやったのだ。そう思うと、涙が溢れてきて、誰かに助けてもらいたかった。誰か、誰か。救いを求めて、彷徨っていると、倒れたメイドを見つけた。
何処かで見た救い様の無い第二章
そのメイドは他のメイドと違って、刃物によって死んでいるのではなく、何かに体を潰されて死んでいた。私が殺したのではない。では誰が殺したのか。
不意に思い出す。
この屋敷では惨劇が起こる事に。
夕暮れ時になると、惨劇が起こる。フラン様が殺され、美鈴が殺され、屋敷の者が殺され、そうしてお嬢様が殺される。その犯人がまた現れたのかもしれない。
行き先は分かっていた。図書館の上にある空き部屋群の一室に、フラン様と美鈴が居る。そこに何かがある気がした。
気がつくと、目の数が激減していた。歩み過ぎる私を視線が追う。視線に曝されながら私は妖剣を固く握った。屋敷のメイド、フラン様、そして美鈴を殺したのであれば、犯人は尋常でない強さを持っている。自分に勝てるかどうか。
気弱になる自分を叱咤しながら、空き部屋群へと辿り着いた。部屋の前にはメイドが倒れている。そのメイドを跨ぎ越えて、部屋の中に入ると美鈴が居た。
私に気がついた美鈴が驚いた様な表情を浮かべて、扉の開いた棚から飛び退った。開いた扉からは血が流れ出ている。私はその棚の中に押し込まれているものを知っていた。恐る恐る近付こうとすると、美鈴が震える声で叫んでくる。
「誰だ、お前は!」
それを無視して棚に近付き、中を覗きこむと案の定、中には二つになったフラン様が収まっていた。
息を呑み、慌ててそれを引き出すと、まだ温かみのあるフラン様の虚ろな目と視線があった。既に事切れている。
どうして?
疑問に思う。どうしてフラン様が死んでいる。誰が殺した? 美鈴はこの部屋で何をしているのだろう。二つになったフラン様。傷口を見ると、引きちぎられた様。そうして潰されたメイド達。よっぽど怪力の妖怪がそれを為したに違いない。でもそんな怪力の妖怪が何処に居る? 鬼? でもどうして鬼が、態態紅魔館にまでやって来てこんな惨劇を? 力が強いと言えば、お嬢様やフラン様もそうだ。けれどお嬢様もフラン様も自分自身が殺されているのだし、メイド達を殺す理由だって無い。もしも無礼討ちにでもしようとするなら、きっと私に頼むだろう。美鈴だって力が強い。特に最近では河童印のトレーニングマシンでその強さは天井知らずだ。美鈴だったらお嬢様やフラン様を引きちぎり、メイド達を押し潰す事も可能だろう。けれどそんな理由が無い。屋敷に忠誠を誓い、いつも笑顔を振りまく美鈴がそんな事をする訳が無い。それに美鈴自身だって殺されていたのだ。惨劇の時に。切り刺された美鈴は私の目の前で死んでしまったのだ。そう言えば殺され方がみんなばらばらだ。フラン様は引きちぎられ、美鈴は切り刺され、メイド達は潰されたり切り刺されたり、お嬢様は、お嬢様はそう言えばどうやって殺されたのだろう。
そんな考えが次々と浮かんできて、それらが段々に線を結び、頭の隅に漠然とした答えが浮かび上がる。だが感情も理性もそれを否定していた。あり得ない。起こりえない。
まさか、美鈴がフラン様を殺すはずが無い。
混乱したまま、とにかく美鈴にこの屋敷の状況を伝えようと思って振り返ると、自分に向けて飛びかかる美鈴が視界に移り、次の瞬間棚に押し付けられて激痛が走った。
「何者だ、お前! お嬢様の着ぐるみなんか来て」
そこで自分がお嬢様の着ぐるみを着ている事に気がついた。だから美鈴は、私が私と分かっていないのだ。
だから物凄い形相で睨んでくる。
「でもどっちにしても見られたのなら」
美鈴が底冷えする様な目付きで、拳を振りかぶった。本気で私の事を殺そうとしている。いつもの優しげな美鈴とのあまりの落差に上手く声が出なかった。辛うじて掠れた声が美鈴を呼び止める。
「美鈴」
その瞬間、目を見開いた美鈴の手が止まった。
「え? 咲夜さん?」
美鈴は一気に力を抜いて、瞳に理性的な光が灯した。
良かった。気づいてくれた。
いつもの美鈴になってくれた事を嬉しく思い、安堵の息を吐いた瞬間、再び世界が歪んだ。
美鈴の体にびっしりと目が生え出した。人の形をした目の集まりになる。目同士がくっつき合って出来た奇形じみた目達がびちゃびちゃと水気のある音を立てながら一斉に私を見つめた。
全身総毛立った。
「あああ!」
気がつくと口から声が漏れていた。
気持ち悪い。気持ち悪い。
気がつくと妖剣を振るって、目を切り裂いていた。切り裂く毎に目が減っていく。やがて美鈴の胸にある最後の一つに思いっきり妖剣を突き立てると、目は消えた。後には切り刻まれた美鈴が残った。
一拍の間を置いて、自分のしでかしてしまった事に気がついた。
血塗れの美鈴がよろめいて後ろに倒れこむ。
「美鈴」
思わず呼びかけると、倒れた美鈴が荒い息を吐きながら、口をぱくつかせる。そうして震える手を持ち上げようとした。
その動きが私を責めている様で、耐え切れなくなって部屋を飛び出した。
部屋の外に倒れていたメイドに躓いて地面に倒れる。着ぐるみの頭が抜けて、向こうへ転がった。何だか泣きたい様な気持ちで気ぐるみから出て地面を這っていると、傍から声を掛けられた。
「咲夜! 大丈夫か?」
顔を上げると、魔理沙が箒に乗ってこちらへ向かっていた。
「無事か? 良かったぜ!」
その心配そうに掛けられる言葉を聞いて、私の心が落ち着き出した。何とか身を起こして、首を横に振る。
「私は無事だけど、他の者達が」
「ああ、知ってる。そこら中にメイドが、それに地下の図書館も全滅だ」
「そうなの。じゃあ恐らくもう生き残りは居ないでしょう」
気がつくと紅魔館に浮き出ていた目は完全に消えていた。役目を果たしたという事なのだろうと思った。
「でももしかしたらまだ誰か。フランやレミリアは?」
「二人共もう。美鈴も」
「そうか。そうか……くそ!」
悔しげに歯を噛みあわせた魔理沙は、箒に拳を落として深呼吸をする。何だか見ていて胸が詰まった。
「魔理沙、お願いがあるの」
すると魔理沙が目を吊り上げた。
「敵討を手伝えっていうんだろう? 悪いが聞けないぜ。気持ちは分かるが、紅魔館の奴等がみんなやられたんだぜ。今は逃げるべきだ」
「そうじゃないの。私を香霖堂へ連れて行って」
「は? どうして? まさか、犯人が香霖だって言うのか?」
「いいえ。ただ、お願い。とにかく連れて行って。どちらにしてもここには居られないでしょう?」
魔理沙が不承不承と言った様子で頷いた。納得は出来てない様だ。
「まあ、ここから離れるのは賛成だけど、どうして香霖堂に」
「良いから。お願い」
魔理沙が箒の高度を落として私にも乗れる様にした。またがると浮き上がり、凄まじい勢いで紅魔館の廊下を駆け、玄関を飛び出して、香霖堂へ向かった。
文明による記録的な第三章
魔理沙は香霖堂の扉をぶち破って侵入し、店の中央で急停止した。カウンターに座っていた霖之助が驚いた様に立ち上がって身を引いている。
魔理沙と私が箒から降りると、我に返った霖之助がカウンターに手を突いて怒鳴り声を上げた。
「魔理沙! 幾ら何でもその入店の仕方は無い!」
魔理沙はそれを無視してカウンターの傍に寄る。
「香霖! 大変なんだ! 紅魔館の奴等が殺された!」
「は?」
霖之助が驚いた様に口を半開きにしてこちらに視線を寄越した。本当かどうか問われている様なので頷きを返す。
「何故? 誰が」
「分からないんだよ! けど、とにかくみんな殺されたんだ! それでとにかく逃げてきて」
「そんな、でも、そんな事があったのなら、僕の所じゃなくて、もっと別の」
「私もそう思うんだけど、咲夜がここへって」
二人の視線がこちらを向いた。ほとんど同じ表情で兄妹の様に思った。
私はその視線を無視して、カウンターの上に乗ったあいぱっどを指さした。
「霖之助さん、それ」
「え? これ?」
「それの使い方はもう分かっていますか?」
「あいぱっど? 咲夜さんはこれの事を」
「知っています。けれど使い方を知らない。霖之助さんはもう知っていますか?」
「多少だけど。でも今はそれどころじゃ」
「メモを使わせて下さい」
私はカウンターに歩み寄り、あいぱっどを取り上げる。
「どうやって使うんですか?」
「咲夜さん?」
「どうやって使うんですか?」
この時間で気がついた事を次の時間に持ち越さなければならない。紫は強い印象を与えればよりはっきりと記憶は引き継げると言っていたけれど、全てを覚えていられるのかどうかは分からない。
だから何らかの形で残しておかなければ。そう考えた時に思いついたのが、このあいぱっどだった。どうしてなのかは分からないけれど。
私がじっと霖之助を見つめていると、霖之助は困った様に魔理沙へ目配せした。魔理沙は首を横に振ってから、一つ頷きを返す。それで何やら意思の疎通をした様で、霖之助が歩み寄ってきて手を差し出してきた。あいぱっどを渡すと、尋ねてくる。
「メモを使いたいんだね?」
「はい」
霖之助が頷いてあいぱっどを指先で押した。そうして画面をこちらに見せてくる。
「これがメモ帳機能。画面のキーボードの絵を押すと、キーボードと同じ様に文字が入力出来るんだけど。キーボードの使い方は分かるんだっけ?」
「馬鹿にしないでください。屋敷にパソコン位あります」
画面を見て、息を飲む。
そこには既に文字が書かれていた。
『ご明察。ゆかりん』
驚きが段々と苛立ちに変わっていった。
きっとここまでずっと操られてきたのだ。朝、目の悪夢を見てから、ここでメモを残す事までずっと。ずっと。
けれどここで怒り散らしたところで意味は無い。怒りに任せてメモを残さなければ、もしかしたら今日の事が全て無駄になってしまうかもしれない。それは嫌だった。
あいぱっどを受け取って、試しに画面のキーボードを押してみると、本当に文字が打ち込まれた。
何となく緊張して目をとじる。
多くは書かなくて良い。一から十まで書く必要は無い。むしろ今の悲しみと混乱と怒りに満ちた視点を通して書かれた文章はきっと酷く歪んでしまうだろう。今だってまだこれから書こうとしている事を信じきれていないのだから。
簡潔に今日起こった出来事を一つ一つ書くだけで良い。
私は目を開いて、文字を入力し始めた。
これで惨劇が止まる様にと。
平穏に満ちた締めくくりの第四章
あいぱっどを香霖堂に預けて、私は紅魔館へと戻ってきた。長々と書いた為に、大分時が過ぎて、辺りはもう真っ暗だった。
霖之助と魔理沙は他の力ある者と相談して対策を練らないといけないと言って引き止めてきたが、もう私にはどうでも良かった。どうせこれ以上の惨劇は起きない。誰に相談してもそれは変わらない。もう今日の事件は終わったのだ。これ以上、何をしようも無い。
とにかく今はただただ疲れて辛かった。お嬢様の部屋へと向かう。後はもう全てを忘れて、お嬢様の傍で眠っていたかった。
お嬢様の部屋に行くと扉は開いていて、中を覗きこむと、私がお嬢様の死体に縋って泣いていた。邪魔だったので、それを斬り殺して、死体を退ける。お嬢様の傍で横になると、一気に安らぎがやって来た。
何だか今日という一日が夢だった様に思う。もう何もかも思い出したくない。
見れば、お嬢様の胸には微かに紅い染みがついている。お揃いになろうと思って、自分の胸を突くと、痛みが走り、段段辺りが寒くなっていった。次第に記憶が溶けていった。
セーブしますか?
はい。
N+6周目
希望に満ちた反復性のプロローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
何か忘れている様なそんな気分がした。確か多くの者が不幸な目にあって、その糸口が何処かの店に。夢だろうか。ぼやけていく。思い出そうとすると怖気が走った。悪夢でも見たのだろうか思いながら、私は外へ出てお嬢様が居るであろうダイニングへ向かった。
お嬢様は紅茶を飲もうとする格好で固まっていた。その愛らしい姿を見つめているとふと以前もその光景を見た気がした。
幻想郷は同じ時間を繰り返している。
不意にそんな確信を得た。その着想が何処から来たのかは分からないけれど、根拠も無くそれが正しい事の様に思えた。
時が動き出す。
紅茶を注ぐ。
「あら、ありがとう咲夜」
お嬢様が紅茶を飲んで、微笑みながらそう言った。今は悩む必要は無い。お嬢様を前にしている間は、ただお嬢様の笑顔を絶やさない事だけを考えていれば良い。
「咲夜、そろそろ寝るわ」
「畏まりました」
「咲夜は今日何か予定でもあるの? 私が寝ている間」
「今日は……特には」
「なら香霖堂へ行って何か新しくて面白い物でも無いか探してきてくれない? 最近妙に暇なのよ。何をやってもすぐに飽きちゃう」
「畏まりました」
「お願いね」
お嬢様が欠伸をしながら外へ出て行った。それを見送っていると、何故か拳に力が入った。
穏やかで有名無実な第一章
屋敷を出る時に、美鈴に声を掛けられた。
「あ、咲夜さん。お出かけですか?」
「ええ。ちょっと香霖堂へ」
「今日は良いお天気ですからね」
「良いお天気だけど居眠りしちゃ駄目よ」
「嫌だな、咲夜さん。この私が居眠りなんかする訳ないじゃないですか」
信用ならない。昨日は眠っていた。一昨日も。
「あれ、咲夜さん」
急に美鈴が驚いた様に声を上げた。
どうしたのだろうと思っていると、美鈴が何だか気恥ずかしげな表情になる。
「今日はいつもより綺麗ですね」
こいつ絶対眠るつもりだ。何て浅はかなおもねりだろう。
顔を赤くしてもじもじと体をくねらせている美鈴に呆れたが、叱る事は止しておいた。空は快晴、実にのんびりとした陽気で、嫌な気分になりたくない。それに綺麗と言われて悪い気はしない。
「くだらない事言ってないで、仕事に励みなさい」
「今日は良い天気ですし、一緒にお話しませんか?」
のんびりと美鈴が言った。実に脳天気な笑顔を浮かべている。
「お誘いのところ悪いけど、お嬢様の頼み事なの」
「ええー」
不満な顔をしている美鈴を置いて、香霖堂へ向かった。
香霖堂に着いて中に入ると、店主の霖之助が私の顔を見るなり不思議そうな顔をした。
「何か悩み事ですか、咲夜さん」
「どういう事ですか、霖之助さん?」
「いえ、ただ何か眉をしかめて悩んでいる様子だったから」
「いえ、特には」
そんな怖い顔をしていただろうかと思いながら顔の筋肉をほぐしてみた。和らいだ心地はしなかった。
ふとカウンターの上に置いてある物が気になった。何やら黒い板状のそれはプラスチックで出来ている。何だろうと思って、尋ねてみた。
「それは、何ですか?」
「お! お目が高いですね。実は今日の朝、仕入れたばかりの物なんですよ。何やらパソコンの様なんですが、随分と小さいでしょう? まだはっきりとどういった物なのかは分かっていなんですが、今から調べるのが楽しみなんです」
ほら、これが画面で、と言いながら、あいぱっどを持ち上げて、見せてきた。画面が光りを放ち、何やら抽象的な模様が現れた。
「こうして指で触れると、操作が出来るみたいですね」
そう言って、画面に触れると、別の模様が現れ、かと思うと画面が真っ白になった。その真っ白な画面には文字が書かれていた。良く見えずに近付いて、その文章を読んだ瞬間、全身から冷や汗が流れだした。
『、つまり惨劇は美鈴が起こす。』
そう書いてあった。
それを呼んだ瞬間、頭の中に今日の記憶とそれを象徴する様な陰惨な光景が現れた。
血で溢れた廊下を私は歩いている。辺りには動かないメイド達が沢山転がっていて、私はそこを歩いている。後ろではフラン様と美鈴が死んでいて、前にはお嬢様の死体がある。私はそれに縋って泣いていて、その手足を時計から伸びる鎖で縛られている。
突然に記憶を揺さぶられて気分が悪くなった。よろめいて、傍の棚にぶつかり、大きな音がした。
「咲夜さん! 大丈夫ですか?」
こんな事をしている場合じゃない。惨劇を止めないと。
「ええ、大丈夫です。これ、お返しします」
あいぱっどを返すと、霖之助はそこに書かれた文章を見て、慌てて首を横に振った。
「何だこれ。いえ、違いますよ。この文章を書いたのは僕じゃ」
「分かっています。それは私です」
惨劇を止めなくちゃいけない。
よろめきながら香霖堂を出て、紅魔館へと向かった。
連綿と続いた最終的な第二章
気分が優れない中、無理してやってきたものの、途中何度も吐き気が込み上げてきて、随分と帰ってくるのに時間が掛かった。記憶が氾濫している。今までに過ごしてきた沢山の今日が頭の中を駆け巡っている。許容量を越えた記憶達がそれでも詰め込み詰め込み暴れまわるので頭が破裂しそうだった。
もう日も落ちかけた頃にようやっと紅魔館に辿り着くと、紅魔館の門に美鈴の姿が無かった。いつもであればこの時間は大抵門前に居る筈なのに。
理由は考えるまでもない。もうそろそろ惨劇が起きようとしているのだ。
ともすれば気持ち悪さの所為で立ち止まりそうな自分の体に鞭を入れつつ、屋敷の中へと足を急がせた。
屋敷に入ると、中はまだ平穏だった。メイド達が楽しそうに、あるいは面倒そうに立ち働いている。玄関近くのメイドに美鈴の居所を聞くと、あっちへ行ったと言って指を差した。図書館の方角を指していた。
嫌な予感を覚えつつ、図書館の上にある空き部屋群へ向かう。陰惨な光景は何処にも無い。立ち働いているメイド達に美鈴の行方を尋ねながら歩いて行くと、やがてあの部屋に行き着いた。いつもであれば中でフラン様が真っ二つになっている。
お願いだから間に合っていてくれと祈りつつ、扉を開く。
開いた瞬間、フラン様の悲鳴が響いた。
「きゃあ! 捕まっちゃった!」
美鈴がフラン様の体を捕まえて抱きしめていた。
「フラン様!」
二人の顔がこちらに向いた。
「美鈴! フラン様を放しなさい!」
美鈴が大人しくフラン様を放す。
「フラン様、早く逃げて下さい」
「え? どうしたの、咲夜」
フラン様が不思議そうに首を傾げてきた。何か様子がおかしい。何だか自信が無くなった。
「あの、今、フラン様は美鈴に襲われていたのでは?」
「っていうか、鬼ごっこで掴まっただけだけど」
まさか、遊んでいただけ?
いや、でもそんな筈は。
美鈴に顔を向ける。
「美鈴、あなたは」
美鈴を見た瞬間、体中に悪寒が走った。
美鈴が笑っていた。それはただの笑いである筈なのに、どうしてかどす黒く濁った歪な何かを感じた。
美鈴が笑顔で両手を広げる。
「咲夜さん! 会いたかったです!」
「美鈴?」
「もう帰ってきたんですね? 今日はもうお仕事はよして、私とお喋りしませんか? そうですよ、それが良いです。折角今日はとても良い天気なんですから。ね? 二人っきりで何処かでお話をしましょうよ」
笑いながらそうまくし立てる美鈴に対して、恐れが溢れ出てくる。明らかに好意を向けてきている筈なのに、何故だか酷く恐ろしかった。
美鈴の足元に、フラン様が抱きつく。
「駄目! 美鈴は私と遊んでたんだから、咲夜はあっち行っててよ!」
そう言って、フラン様はけらけらと笑った。
そんな無邪気なフラン様を美鈴が笑顔のまま見下ろした。その一瞬、目がにっと歪んで、禍々しい位に深い笑顔がその顔に刻まれた。
「フラン様、私、今咲夜さんと話しているんです」
「えー! でも」
「邪魔なんですよ」
その呟きと同時に、美鈴が拳を振り上げた。明らかに、本気で殴ろうとしている様子を見て、時を止める。
止まった時間の中、粘液の中を進む様にフラン様へと駆け、フラン様の体を思いっきり引っ張った。ゴムで繋がれた様に元へ戻ろうとするフラン様の体を美鈴の傍から引き離すと、時が再び動き出す。
凄まじい音がして、部屋の中に粉塵の混じった風が起こった。
思わず目を閉じて、粉塵が落ち着いた頃に目を開けると、美鈴が拳を振り下ろした場所に大穴が開いていた。
「美鈴、あなた、フラン様を」
美鈴が笑顔を浮かべてこちらを見る。
「あれ? 道理で手応えが無いと。もう、咲夜さん。邪魔者はぽいしちゃって下さいよ」
「美鈴、どうして?」
「何がですか?」
「どうして、フラン様を殺そうとしたの?」
腕の中のフラン様が体を震わせた。
「咲夜? 何言ってるの?」
フラン様が私を見上げてくる。その目には涙が浮かんでいる。私が黙っていると、フラン様は美鈴に顔を向けた。
「美鈴、嘘だよね?」
美鈴は何も答えない。
「嘘だよね?」
ただ黙って笑顔を浮かべている。
その足元には抉れた床。
フラン様を害そうとしていた事は明らかだ。
フラン様からきゅうと息の抜ける音がした。
「私、何かしちゃった? ごめんなさい。もうしないから。謝るから。だから嫌わないで」
涙を流し始めたフラン様に向かって美鈴はぽつりと呟く。
「邪魔なんですよ」
その瞬間、美鈴の姿が消えた。
嫌な予感がしてフラン様を脇へ放ると、私の左腕に美鈴の蹴りがぶち当たってふっ飛ばされ、窓を突き破って庭に投げ出され、何度か跳ねて芝生の上に転がった。草を噛みながら顔を上げると、真っ赤になった視界にフラン様の泣きじゃくる顔が映った。揺り動かされて全身に痛みが走る。音が戻ってくる。フラン様の泣き声が耳に響く。
フラン様の背の向こうに歩み寄ってくる美鈴が見える。
「フラン様、お下がり下さい」
立ち上がってフラン様を後ろへ押しのけ、美鈴を睨みつける。
すると美鈴は立ち止まって、驚いた様な顔をした。
「咲夜さん、どうして庇うんですか? どうして邪魔しようとするんですか?」
「どうしてフラン様を」
「フラン様だけじゃないですよ。屋敷中のみんなが邪魔なんです。それは咲夜さんだって分かるでしょう? それなのにどうして邪魔しようとするんですか?」
「当たり前でしょう。私はこの屋敷を任されているんだから。屋敷を、お嬢様達を守らなくてはならないんだから。絶対に壊させはしない」
美鈴が悩む様に目を閉じて唸りながら、頭を掻いた。
「そうですか。じゃあ、良いです。咲夜さんを動けなくしてからにしましょう」
そう言って、構えを取った。明らかに私と戦おうとしている。表情は笑顔だが目に殺意が篭っている。
「美鈴、本気?」
「むしろ咲夜さんが本気なんですか? 河童印のトレーニングマシンで私本当に強くなりましたよ? 咲夜さんよりもずっと。だから諦めて寝ていて下さいよ」
「もしも私が諦めてあなたと戦わなければ、あなたはどうするの?」
「勿論、屋敷のみんなを殺しますけど」
真っ直ぐな目でそう言った。嘘を言っている様には見えない。本気の言葉だ。
本気で美鈴は屋敷を皆殺しにしようとしている。
不思議と涙が溢れてきた。どうして涙が溢れるのか分からない。
「そうは行かないわ」
「でも咲夜さん、実力の差が」
「例えあなたが幾ら強くなっていても絶対に退けない。退ける訳が無い。あなたにこの屋敷を滅茶苦茶にさせはしない。あなたを止める!」
私が美鈴を睨みつけると、美鈴が笑い声を上げた。
「そう睨まないで下さいよ。怖いです。でも私、死なない限り止まりませんよ。咲夜さん、私の事を殺しちゃうんですか? そんな酷い。ずっと一緒に過ごしてきたのに」
「殺すわ」
ナイフを構える。
「わお。酷い。そんな簡単に殺すだなんて」
おどけた様に肩を竦めた。
また涙が溢れてきた。
簡単な訳が無い。
本当は殺したくなんか無い。
でも今の美鈴は明らかにおかしくなっていて、本当に殺しでもしない限り止まりそうになくて。
簡単な訳が無い。
誰かを殺すだなんてしたくない。
でももうみんな殺してしまったんだ。
お嬢様やみんなを殺した時の感触が襲ってきて、胃の奥から物がせり上がってくる。
もう私だっておかしくなっていて。
既にお嬢様達を殺めてしまっていて。
時の繰り返しを止める方法がそれしかないというのなら。
例え誰であろうと、私は殺す。
殺してみせる。
「美鈴、もう一度言うわよ。馬鹿な真似はよして、謝って。そうしたら許してあげるから」
「勿論、嫌ですよ。咲夜さん、ならこちらからも言いますよ。諦めて下さい。そして黙って見ていて下さい」
美鈴は聞く耳を持たない。どうして。
「どうしてこんな事を。今日になって急に」
美鈴が笑う。
「私の事を殺せたら、答えてあげますよ」
「そう」
それしか方法が無いのなら。
「なら殺す」
時を止める。
粘液の中を美鈴の下まで歩み寄る。美鈴は腕を上げた姿勢で固まっている。その背後に回ってナイフを項へ突き刺した。ゴムに物を当てた様な感触が返ってくる。時を止めた世界では結合を破壊する事は出来ない。例え人を突き刺そうとしたって刃は皮膚を貫けず、押し当てても硬い弾力が返ってくるだけ。けれど刃を押し当てたまま時を動かせば、押し当てた刃は皮膚を突き破る。
時を動かす。
その瞬間、何故か横っ面に衝撃を覚えて、意識が暗転した。
朦朧とする意識の中跳ね起きると、遠くに美鈴が立って項を抑えている。自分の頬に触れると、凄まじい痛みが走った。
美鈴が私に視線を向ける、
「いや、やっぱり時間を操るって厄介ですね」
痛たと言って、美鈴は項から手を剥がし、掌を見つめた。
「ああ、血が出てる」
「今、何を」
「何を? ってそのままですよ。項に痛みを感じたから、咲夜さんかなって思って裏拳で殴り飛ばしただけです」
痛みを感じたから殴った?
ナイフを項に突き入れた状態から、それが刺さる前に反応して殴り返してきた?
何て反応をしているんだろう。
「お分かりですか? 勝てないって。ただのナイフ一本じゃ」
美鈴が笑う。その笑顔が固まる。
止まった時の中で私は大量のナイフを取り出して美鈴へと投げた。ナイフは空中で静止する。美鈴の周囲を駆け回って、すっかりナイフで美鈴を囲み上げると、時間を動かした。
大量のナイフが美鈴に向かう。が、美鈴が体を捻ると凄まじい風が起こってナイフが全て吹き飛んだ。
再び時を止める。
美鈴が足を振り上げて回し蹴りの体勢で止まっている。
足を振り上げて不安定な体勢であれば反撃される事は無い筈。
懐から妖剣を取り出す。紫すらも殺した妖剣。これを刺し込めば幾ら美鈴でもきっと殺せる。
美鈴の前に立ち、美鈴の体を抱きしめて、全体重を掛けて美鈴の鳩尾に妖剣の刃を当てた。
時を動かす。
妖剣を刺し込もうと力を込めるが、あまりにも固くて動かない。
「残念でしたね。咲夜さん程度の力じゃ私の筋肉は貫けませんよ」
思わず顔を上げると美鈴が笑顔を浮かべて、自分の眼球を指さした。
「ほら、こっちは柔らかいからきっと刺せますよ」
目。
大量の目。
それを突き刺し切り裂き、殺し回った記憶が読み上げる。
「あああ!」
悲鳴が漏れた瞬間、美鈴が拳を振りかぶり、気がつくとフラン様の傍に転がっていた。
「咲夜! 大丈夫!」
「フラン様」
何が起こったのか分からず立ち上がろうとすると、お腹の辺りに熱がこもっていた。お腹が見ると不自然な程にへこんでいた。
「もうやめて、美鈴!」
顔を上げると、フラン様が私の前に立ちふさがっていた。
「フラン様、いけません! お逃げ下さい!」
急に腹の奥から物が込み上げてきて口から流れ出た。どす黒い血が辺りに散らばる。
「咲夜!」
フラン様の悲痛な叫びが聞こえる。
泣いている。
安心させなければいけないと思うと、いつの間にか立ち上がっていた。ただ足腰が上手く働かず、辛うじて立っているだけ。感覚が消え失せていた。
「フラン様、お下がり下さい。ここは私が」
「でも、咲夜はもうぼろぼろで」
「それでもやらねばなりません」
顔を上げると、美鈴が手持ち無沙汰な様子で立っている。私の視線に気がつくと、ぱっと笑顔を浮かべた。
「あ、もう話は終わりました?」
「美鈴」
「もう咲夜さん、ほとんど動けないですよね? もうお終いです」
「美鈴!」
叫ぶと、また口から物が溢れてきた。
「もう、咲夜さん、危ないですから安静にしていて下さいよ」
あくまで余裕ぶっている美鈴を睨みつけるが、足を前に出そうとしても動かない。本当にもうどうしようも無い位に体がぼろぼろになっていた。
勝てそうにない。力が足りない。美鈴を倒すだけの力が。
「フラン様」
ならばせめて、みんなを逃さないと。
「お逃げ下さい」
「嫌!」
「お逃げ下さい」
何だか意識が朦朧とし始めた。
みんなを逃さないと。
屋敷を見上げる。お嬢様のお部屋のある辺りを見る。まだ中にはお嬢様が居る。どうにかして助ける事は出来ないだろうか。
だが足はもう動かない。立っているだけで辛かった。
どうしようも無い。
もう出来るとすれば、命乞いだけ。
「美鈴、お願いがあるの」
「はい! 何でしょう!」
「みんなを見逃して。お願いだから」
「え?」
「私の事は幾ら殺してくれたって良い! どうしたって構わない! でもお願いだから、お嬢様やフラン様には手を出さないで! お願いだから!」
「嫌ですよ」
美鈴が笑顔で言った。
「そんな」
「お聞きできません。みんな殺します」
比喩でなく目の前が暗くなりだした。焦点が定まらなくなっている。もう限界が近い。
限界を迎えた行き詰まりからの第三章
その時、屋敷の玄関が開け放たれた。
「咲夜! 美鈴! 何してるの!」
思わず顔を上げると、美鈴の背中の向こうに、メイド達に連れられたお嬢様とパチュリー様が息を切らせて玄関に立っていた。
お嬢様が悲鳴を上げる。
「咲夜! そんな!」
それに反応して美鈴が後ろを向いた。
その口元に笑みが浮かんだ。昏い喜びに満ちた笑顔だった。
込められているのは殺意だ。
殺すべき対象を見つけた昏い笑顔。
お嬢様を殺そうとしている。
それだけは。
それだけは駄目だ。
気がつくと、体が動いていた。弱弱しい力でナイフを投擲する。けれどあっさりと美鈴に止められて、美鈴は不思議そうな顔をした。
「驚いた。まだ動けるんですか?」
「美鈴! お願い! 止めて! お嬢様を殺すなんて! お願いだから!」
見たくない。もう死ぬところを見たくない。
美鈴はやはり笑顔を崩さない。
「やだなぁ。そんなの聞ける訳無いじゃないですか」
嫌だ。
嫌だ。もう見たくない。
もうお嬢様が死ぬところなんか見たくない。みんなが死ぬところなんか見たくない。
もう辛い思いをしたくない。もう陰惨な光景を見たくない。
こんな異常な時間、嫌だ。みんながおかしくなっているこの時間が嫌だ。
繰り返し繰り返し、こんなにも嫌な思いをしなくちゃいけないなんてもう嫌だ。
美鈴を止めたいのに体が動かない、
動いて。お願いだから、美鈴を止めなくちゃいけないから、お願いだから動いて。
お嬢様やフラン様を助けなくちゃいけないから。だからお願いだから、美鈴を倒せるだけの力を。
お願いだから。
もう、嫌なの。
お嬢様が、みんなが死んでしまうなんて、もう嫌なの!
「お願いだから、この時間を打ち破らせて!」
叫んだのと同時に、辺りが光り輝いた。
凄まじい光に呻き声が漏れて、思わず目を瞑る。次第に光は収まって、目を開けると、それが浮かんでいた。
「マジカル★さくやちゃんスター」
呟きに反応する様に、二つのマジカル★さくやちゃんスターが私の周りを浮遊する。
パチュリー様の驚く声が傍から聞こえてきた。
「マジカル★さくやちゃんスター! あまりにも危険だから封印していたのに、どうして!」
いつの間にかパチュリー様もお嬢様も私の傍にやって来ていた。
マジカル★さくやちゃんスターが私の周りを浮遊している。まるで私を励ます様に。何となく分かる。きっと私を助けに来てくれたんだ。
力が溢れてくる。
気力が戻ってくる。
「そんなのがあったって、どうせ咲夜さんはもうほとんど動けないでしょう」
美鈴が初めこそ驚いた様に目を見張っていたが、やがて微笑んでそう言った。
その通りだ。もう私は歩く事が出来ない。ナイフ一本投げるのが関の山。
「ねえ、美鈴」
私が呟くと美鈴が黙って私を見つめ返してくる。その傍へマジカル★さくやちゃんスターが浮遊して、美鈴の足元に落ちている妖剣を吸い上げると、もう片方のマジカル★さくやちゃんスターから吐き出され私の手に手渡された。
「これが最後の一投。避けずに受け止めてくれる?」
妖剣を美鈴へ向けると、美鈴はしばらく黙って見つめていたが、やがて頷いた。
「良いでしょう。それを受け止めきったら諦めてくれますか?」
「どうせ、もう動けないわ」
マジカル★さくやちゃんスターが戻ってきて、私の周りに二つのマジカル★さくやちゃんスターが衛星の様に回り出す。
私が妖剣を振り上げる。
美鈴が構えを取る。
そうして、妖剣を投げる直前、マジカル★さくやちゃんスターから大量のナイフが射出された。
「ええ! それ使っちゃうんですか?」
驚きの声を上げた美鈴を見て、そのあまりにもいつも通りの姿を見て、何故だか私の口の端は持ち上がった。
「大丈夫。あなたに届くのはこの一本だけだから」
そう言って、空間をナイフごと圧縮する。その圧縮された空間へ向かって妖剣を投げ放った。
時を止める。
マジカル★さくやちゃんスターから力が流れ込んでくる。それを使って、圧縮された空間を更に強く圧縮していく。圧縮されきった空間は曲率が膨れ上がり、重力加速度が極大になる。中心に向かう物体へ甚大な加速を提供する。
時を動かす。
すぐにまた止める。
時間の動静を繰り返す。
加速する妖剣が圧縮された空間へ向かって突き進む。
時を動かす。
すぐにまた止める。
加速した妖剣は既に手で投擲する十数倍の速度を持ち、その先端に空気の壁が生まれている。既に目にも留まらぬ速さになっている。
時を動かす。
すぐにまた止まる。
妖剣が圧縮された空間ぎりぎりのところまで迫っている。
既に速度は私の思考を凌駕し、時の動静はマジカル★さくやちゃんスターに委ねられている。
マジカル★さくやちゃんスターが時を止める。
すぐにまた止める。
マジカル★さくやちゃんスターが私の目の前に浮き上がり、くるりとその模様を回転させた。
それは刃物の加速が最大になった事の合図。
その合図を受けた私は空間の圧縮を解く。
時が動き出す。
けれどまだ正常な動きじゃない。
結果をこの目で見る為に時間の流れを遅くしてある。
それでもナイフは手で投げるよりも余程の速さで飛んでいる。
遅々として進む時間の中、妖剣は凄まじい速度で衝撃波を巻き起こしながら自壊しつつ美鈴へと向かっていく。
不意に私の視界が揺れた。時を操るのにも限界が来て、時が普段の速度で流れだす。
その瞬間、衝撃波の嵐が突き進み、美鈴を越えて、紅魔館に大きな風穴を開けた。
辺りに砂埃が舞い上がって何も見えなくなる。
やがて砂埃が風で取り払われると、大穴の開いた紅魔館を背に、美鈴が立っていた。
美鈴はずたぼろになりながらも掠れた声で笑っている。
まさかここまでやって駄目だったの。
絶望しかけたその時、美鈴が突然胸を押さえたかと思うと、地面に崩れ落ちた。
悲しみに満ちた次へ繋がる第四章
「美鈴!」
駆け寄ろうとするが、足が動かずに体勢を崩した。それを両脇からメイドに掴まれて、美鈴の下へ歩んでいく。
地面に倒れた美鈴は虫の息ながらもまだ意識があった。
私を認めると、美鈴は弱々しく微笑む。
「いやあ、結構強くなった自信があったんですけど、やられちゃいましたね。完敗、完敗」
美鈴の傍に座らせてもらって、美鈴の顔を覗き込む。
「美鈴、どうしてフラン様を」
すると美鈴がくすくすと笑った。
「まだ答えられません。言ったでしょう? 殺されたら答えるって」
「美鈴。何が嫌だったの? どうしてこんな」
「答えませんって。でもそうだなぁ」
美鈴が咳き込んでどす黒い血を吐いた。
「今はもう殺そうなんて思っていません。憑物が落ちたみたいに」
「どうして?」
「きっと満足したからですよ。さっきの戦いの間、咲夜さんがずっと私の事を見ていてくれたから」
「どういう事?」
「鈍いなぁ」
美鈴がまたくすくすと笑ったかと思うと、咳き込んでさっきよりも大量の血を吐いた。
「咲夜さん」
手を掴まれる。
美鈴と目が合った。
さっきまで張り付いていた微笑みは消え去って、かわりに悲しみで歪んでいた。まるで人が違った様に、美鈴の両目から涙があふれていた。
「どうして、私、こんな。咲夜さん、皆さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
そう謝ったかと思うと、涙の溢れる両目を見開いたまま、美鈴が動かなくなった。
頭の中が片付かなかったが、美鈴が後悔して悲しみながら死んでいった事は痛い程わかった。
辺りに重苦しい空気が立ちこめる。
「お嬢様、少し美鈴と二人っきりにさせてくれませんか?」
「咲夜、でも美鈴はもう」
「けじめをつけなければいけないのです」
不思議そうにするお嬢様を押しのけて、パチュリーが私を見下ろしてくる。
「どうして? これはあなたの所為じゃない」
「私は誰にも死んでほしくなかったんです。誰も殺しちゃいけなかったんです」
「でも」
「お願いです。これ以上、耐えきれそうにない」
しばらくパチュリー様と見つめ合っていたが、やがてパチュリー様は目を伏せた。
「そう、それが人間なのかもね」
そう言って、パチュリー様はお嬢様とフラン様の手を引いて屋敷へ向かって歩き出した。
「ちょっと、パチェ、何だって言うの?」
「良いから」
メイド達や小悪魔達も手伝ってお嬢様とフラン様が屋敷に連れて行かれる。
最後に振り返ったフラン様の悲しげな顔が妙に印象的だった。
「咲夜、すぐに戻ってきてね」
「ええ、勿論です」
時計を見る。
大丈夫です。後三時間したらまた会えますから。
そう呟きながら、美鈴の顔に手を当ててその両目を閉ざす。
そのままナイフを取り出して、自分の胸に突き刺した。
セーブしますか?
はい。
N+7周目
完全で瀟洒なエピローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
はっきりと前の時間の事を覚えていた。体が痛む様な気がして自分の体を見回すが、何処も傷ついていない。夢だった。と思いたいが、きっとそうでは無いだろう。
私は急いで身を起こすと、美鈴の居る紅魔館の門へと走った。
門へ行くと、美鈴が壁に寄りかかって立ったまま眠っていた。
「美鈴!」
声を掛けると、美鈴が慌てて壁から離れる。
「はひ! 眠ってません!」
「美鈴!」
「すみません。ごめんなさい」
美鈴の襟を掴みあげると、うろたえた様子で謝りだした。それを無視して、さらい襟を揺さぶる。
「どうしてフラン様を殺そうとしたの?」
「え? ええ?」
「どうして? 教えなさい! 殺したら教えるんでしょ? 殺したんだから教えなさい!」
美鈴が目を瞬かせて首を傾げた。
「えっと何の話ですか?」
「あなたの話よ。あなたはこれからフラン様を殺すんでしょう? どうして!」
「いや、どうしてって言われても、全然身に覚えが無いんですけど。寝ぼけてます?」
美鈴はいつも通りの呑気な顔していて、とてもこれからフラン様を殺す様には見えない。けれど確かにその未来はやってくるのだ。美鈴の心の中が覗けない事が悔しくて、悲しかった。目から涙が溢れてきた。
「お願い! 悩みがあるのなら聞くから。私に出来る事があるのならするから。だからお願いだから、理由を教えて!」
「あの、全然全く意味が分からないです。冗談にしても笑えないというか」
「あなたは今日フラン様を殺すの! その理由を教えて欲しいの! お願い! こっちは真剣なの!」
「真剣なんですか?」
「そう!」
美鈴が目を瞑って上を向いた。
「フラン様を……うーん、フラン様に、じゃなくてですよね?」
「そうよ。あなたは明らかに自分の意志でフラン様を殺そうとする。フラン様だけじゃない。屋敷中のみんなを。止めようとした私もぼろぼろにされて」
「ええ、何ですか、それ。うーん、って事は、咲夜さんの事は初め殺そうとしなかったんですか?」
「え? どうかしら」
「それなら」
「それなら」
美鈴は続きを言いかけたまま口を開いていたが、やがて思い直した様ににっと笑った。
「正直それをするとは思えませんけど、何となく止める方法は分かりますよ」
「本当? どうすれば良いの?」
「簡単ですよ。今日一日咲夜さんが私の事を捕まえておけば良いんです。そうすれば私は何も出来ないでしょう? 私も警戒されていたらそんな事する気が失せますよ、きっと。ね?」
何だか美鈴は妙ににやにやとしていて罠の様な気がした。
「本当?」
「ええ、本当です」
とはいえ、それ以外に止める方法も思いつかない。一つ前の時間の様な事にはしたくない。
「分かったわ」
「じゃあ、決まりですね! はい!」
そう言って、美鈴が両手を広げて私の前に仁王立ちした。
何をしているんだろう。
「咲夜さん! はい!」
「え? 何が?」
「ほら、捕まえて下さいよ。ぎゅっと!」
「抱きしめろって事?」
「そうです! そうじゃなくちゃ捕まえている事にならないでしょう?」
そういうものか?
分からないが、当人の言っている事なので従う事にした。
抱きしめると美鈴の体は暖かくて、やはりあんな酷い事をする様には思えない。一体何処で間違えたのか。
抱きしめてじっとしていると、美鈴もじっとしているから何の動きもない。ここからどうすれば良いのか分からない。
「ねえ、美鈴。もしかして私ずっとこうしてなくちゃいけないの?」
「ええ、そうですよ!」
「あの、私にも仕事が」
「じゃあ、私を捕まえたまま仕事して下さい」
正気かと思って見上げると、美鈴はにこにこと笑っていた。正気かどうかは分からなかったが、本気の目をしていた。
「美鈴、ずるい!」
私が美鈴を抱いたまま、ソファに座って休憩していると、フラン様がやって来てそんな事を言った。
「私も咲夜の上に座りたい!」
そう言って駄々をこねだすので困っていると、美鈴が自分の膝を叩いてフラン様を誘った。
「じゃあ、フラン様は私の上に座って下さい」
するとフラン様は嬉しそうな声を上げて、美鈴の上に乗っかった。美鈴の下に居る私にも衝撃がやって来て、呻きが漏れる。
「大丈夫ですか、咲夜さん?」
「ええ、大丈夫」
ただ全く休憩にならない。
しばらく三人固まって座っていると、パチュリー様と魔理沙がやって来た。
「あら、三人ともやけに仲良しね。何してるの?」
するとフラン様が声を上げた。
「美鈴の上に座ってる!」
更に美鈴も声を上げる。
「咲夜さんの上に座ってます!」
最後に私も答える。
「休憩してます」
パチュリー様は訝しげに「そう」と相槌する。隣の魔理沙が笑いながら言った。
「私もフランの上に座っていいか?」
「良いよ!」
フラン様が元気に答えてしまう。
このままでは重みで圧殺される。
「止めて下さい」
私が拒絶すると、魔理沙がけたけたと笑った。
その日一日の労働は本当にきつかった。
美鈴を抱きしめながら歩くだけでも大変なのに、加えて掃除や洗濯等、何をやるにしても動きづらくてやりにくい。疲労困憊で美鈴を抱きしめながら屋敷を歩いていると、お嬢様に出会った。
起き抜けたばかりなのか眠そうに目を擦っていたが、私と美鈴を見ると途端に驚きで目を見開いた。
「何してるの?」
すると美鈴が元気に答える。
「咲夜さんに捕まっちゃいました!」
「何で?」
「さあ?」
美鈴とお嬢様の視線が私に向く。
私は首を横に振って説明を拒絶した。幾ら何でもお嬢様に、フラン様が死んでしまう事なんて告げられない。
お嬢様はしばらく納得の行かない顔をしていたが、やがて諦めたのか私に問尋ねてきた。
「それで、今日の夕飯は?」
「あ」
炊事をすっかり忘れていた。
何の準備もしていない。
「もしかして作ってない?」
「すみません」
「そう、じゃあ、他のメイドに軽く作らせるか」
お嬢様をがっかりさせてしまった。
残念そうに去っていこうとするお嬢様を慌てて呼び止める。
「待って下さい! なら宴に行きましょう!」
「宴?」
「妖怪の山で宴が開かれるんですよ! それに参加しましょう!」
「そうなの? 何で知ってるの?」
「そう聞いたので。お酒を沢山持っていけば入れてもらえますよ」
「そう? じゃあそうしましょうか」
お嬢様の承諾を貰い、屋敷中に外出の準備をさせる。
屋敷が一気に慌ただしくなった。
皆で妖怪の山へ向かう途中、香霖堂へ寄った。新しいカラオケがあった筈だ。あれを持っていけば、まず間違いなく宴に参加させてもらえるだろう。
香霖堂はそこまで広くない。皆を外に待たせて、私と美鈴だけで店内に入ると、霖之助が驚いた顔で出迎えた。
「おや、こんにちは。一体どうしたんですか?」
「こんにちは。咲夜さんに捕まっちゃいました!」
「はあ、何だかイメージと違いますね」
気恥ずかしくなって顔を逸らし、カラオケがあるかどうか聞くと、霖之助が急いで奥から持ってきた。最新のそのカラオケを眺め回し傷がない事を確認すると、お金を払う。
「あれ、ぴったりです。良く値段が分かりましたね。まだ言ってないのに」
「何となく」
美鈴にカラオケを持たせて出ようとすると、霖之助が何か思いつめた様な顔をして傍に寄ってきた。
「あの、こんな事を言いたくは無いのですが」
「どうしました?」
「実はですね、今日の朝、あいぱっどというパソコンの様な物を拾ったのですが、そこに気になる事が」
「ああ、それなら今解決中です」
「え?」
呆けた顔で私と美鈴を交互に見つめる霖之助を無視して、私達は香霖堂を後にし、そのまま妖怪の山へ向かった。
妖怪の山に行くと既に宴会は始まっていたが、私達がやってくるのを見ると、途端に辺りが不穏にざわめきだして、妖怪達が集まってきた。その先頭には萃香が居て不敵な笑みを浮かべている。
「これはこれは紅魔館の吸血鬼殿。本日、妖怪の山は貸し切りとなっておりますが」
萃香の言葉にお嬢様は一礼する。
「お楽しみのところ、ご無礼を致しました。紅魔館一同、本日の宴席に加えていただきたくささやかながら酒肴を持参致しました」
メイド達が酒樽に掛けた布を取り払うと、萃香の後ろにいる妖怪達が歓声を上げた。
萃香の眼の色にも変化がある。
「ほう、これはこれは」
私も美鈴にカラオケを差し出させた。
「加えて、このカラオケをお貸しいたしますわ」
すると萃香がお嬢様の前に杯を差し出した。
「歓迎する! 飲め!」
「頂戴いたします」
お嬢様が盃になみなみと注がれた酒を飲み干すと、再び妖怪達が歓声を上げる。
萃香が手を振り上げて妖怪を煽った。
「良し! お前等、吸血鬼を丁重にもてなしてやれ!」
するとお嬢様も私達へ振り返って声を張った。
「良い? 粗相はしちゃ駄目だからね! 常識の範囲で羽目を外しなさい!」
その場に居る全員が大歓声を上げて、宴会が始まった。
私は美鈴を抱きかかえながら、木にもたれて水を飲んでいた。
既に宴会はたけなわで、最後の締めとばかりに、萃香と紫が飲み比べをしていたが、途中で紫の不正疑惑が持ち上がって喧嘩している。周りの妖怪達は実に楽しそうにそれを囃している。お嬢様も赤白巫女と黒白魔法使いと一緒にそれを囃していた。無邪気な笑顔で声を張り上げている。フラン様は最近出来た友達のこいしとこころと一緒にそこ等をはしゃぎ回っている。周囲の妖怪にぶつかったりしていて危ない。怒られたりしているが、どの妖怪もその三人の正体に気がつくと、一様にへこへことその場を離れていく。多分背後の存在を恐れてだろう。観戦する輪から少し離れると、酔い潰れて倒れた妖怪達や従者達が屍を作っている。小悪魔達の群がっている一角ではパチュリー様がぶっ倒れていて、その隣では早苗が二柱に介抱されている。二人とも最初の乾杯を飲み干した瞬間に倒れた、今日の宴会の中でもとびっきりの下戸の二人だ。
そんな様子を眺めているとふっと意識が飛びそうになる。
大分飲んだ。あまり飲むつもりは無かったが、一緒にいる美鈴が馬鹿みたいに飲むので、それに付き合っている内に、どんどんと酔いが進んでしまった。少し気持ち悪い。
宴会は実に楽しそうで平和だ。
懐中時計を取り出してみてみると、もう日の変わるまで五分を切った。
「今日ももう終わりね」
思わず呟くと美鈴が笑う。
「でもこの宴は夜通し続きますよ」
「ええ、きっとそうでしょうね」
でもそれも結局は平穏の内に終わる。
もう何も起こらない。そんな確信があった。
今日という日は平穏無事に終わる。
間違いなく。
もうこのまま今日という日が平穏に終わるのであれば、後残されているのは、時の繰り返しを止めるだけだ。
この月時計を壊すだけだ。
懐中時計を握りしめる。
壊さなくちゃいけない。
そう思うのだけれど、何故か心が忌避していた。
時計を壊せないのは惨劇が起こるからだと紫が言っていたのに。
もう今日はこのまま平穏の筈なのに。
どうしてかまだ時計を壊したくないと思っている。
どうして?
「咲夜さん? どうしたんですか? 苦しそうに唸って。気持ち悪いんですか?」
「いいえ」
美鈴に見つめられて、何だか心臓の鼓動が早くなった。
今日は一日ずっと美鈴を抱きしめていた。それが何だかいつに無い位に特別な事の様に思えた。
美鈴だったら、月時計を壊せるかもしれない。
ふとそう思った。
「ねえ、美鈴」
「はい! 何でしょう! お水ですか? 吐きに藪へ行きますか?」
「この時計を壊してくれない?」
美鈴の前に時計を差し出すと、美鈴は受け取って不思議そうな顔をした。
「え? でもこれは咲夜さんの大事な」
「お願い。訳は聞かないで壊して。あなたに壊してもらいたいの」
「後悔しませんか?」
「しない。むしろ壊さない方が後悔する」
「そう、ですか。そこまで思いつめた顔をするのであれば、相応の理由があるのでしょう」
「理由は聞かないで」
「分かっています。それじゃあ」
美鈴は緊張した様に月時計を見つめてから、「えい」と言って握りつぶした。
呆気無く月時計は壊れる。
遠くから鐘の音が鳴った様な気がした。
「咲夜さん、今のは」
何でも無いの。
そう言おうとしたが、口から言葉が出てこなかった。
意識が朦朧としている。酔いが回りすぎて眠気がやって来ている。
まどろみが私を溶かしていく。
「咲夜さん!」
大きな声で呼ばれて眠りから引き戻された。
「咲夜さん、寝ちゃうんですか?」
「ええ、大分眠くて」
「じゃあ、位置を変わりましょう」
「え? きゃっ」
美鈴が私の上からのいて隣に座ると、私を抱き上げて膝の上に載せた。
「はい、良いですよ。眠っても。お開きになったらそのまま連れて帰りますから、寝ちゃって下さい」
「でも」
「今日一日、ご迷惑をお掛けしてしまったお詫びです」
まどろみが世界を溶かしていく。美鈴の声も段段とぼやけていく。
「そう、じゃあ」
目を瞑ると、美鈴の温もりが私を包み込んで、意識を更にとろかしていった。
ああ、眠りに落ちる。
「じゃあ、美鈴」
「何ですか?」
「また明日」
そのまま美鈴に体を預けて私は眠りに落ちた。
目を覚ますとそこは自室。ベッドで眠っていた。時計を見ると七時。外から漏れる光を見るに朝だろう。
時の繰り返しは。
思い至った瞬間、跳ね起きた。どうなった? まだ時は繰り返しているのか。あるいは次の日へ進めたのか。
ダイニングに行くとお嬢様の姿が無い。というより、屋敷の中にメイド達の姿がまるで見えなかった。
どういう事だ?
まさかまた何か?
美鈴が惨劇を?
急いで門へと駈けると、美鈴が太極拳をやっていた。
「美鈴!」
「あ、咲夜さん! お早うございます! 良く眠れました?」
「みんなは?」
「え? 屋敷の中じゃないんですか?」
「誰も居ないのよ。廊下にも台所にも」
すると美鈴がくすくすと笑った。
「きっとみんな酔いつぶれているんですよ。大分飲んだから」
そうして美鈴は湖へ続く道を指さした。
「つい先程、フラン様がお友達の家に遊びに行きましたよ。昨日の宴会で最後までまともで居られたのは、私とフラン様位でしたから」
そう言って笑い声を上げる。
そこへお嬢様の声が聞こえた。
「ちょっと二人共」
振り返ると、お嬢様が頭を抑えながらやってくる。
「随分と元気そうね」
「お嬢様、日光が」
「平気よ。それより屋敷の奴等が全滅しててご飯一つ出てこないんだけど」
「え? あ、只今」
「軽めでお願い。二日酔いが酷いから」
「はい!」
慌てて朝食を作りに行こうとすると、背中に美鈴の声が投げられた。
「咲夜さん! 昨日は大丈夫だったでしょ?」
振り返ると美鈴がおかしそうに笑っていた。少し小馬鹿にした顔をしている。
多分フラン様が殺されると訴えた事を笑っているのだ。
「ええ、お陰様で」
現に何も起きなかったのだし、事情を知らない美鈴からすれば、私が冗談を言っていたとしか思えないだろう。
何となく釈然としないまま、屋敷へ向かおうして、ふと気がついた。
本当にフラン様は大丈夫なのだろうか?
今、美鈴は外へ遊びに行ったと言っていたけれど、本当に?
何だか嫌な予感がして、立ち止まる。背中に凄まじい衝撃が走った。
背中にぶつかった物体と一緒に庭の芝生の上を転がる。
起き上がると、私の腰にフラン様が抱きついていた。
「咲夜! 大変なの!」
そう真剣な顔で訴えてくる。
まさかまた何か起こったのか。
「どうしました?」
「今日、三人でピクニックに行こうって言ってたのに、お弁当用意してなかったの! お願い今から作るの手伝って!」
ああ、そうですか。
拍子抜けして、それから何だかその平穏な悩みが嬉しくなった。
「はい、畏まりました」
笑顔を向けて、二人で玄関へ向かおうとすると、門に居る二人から声が掛けられる。
「ちょっと! こっちも早くしてよ!」
「咲夜さん! 二人の分が終わったら、私にもご飯を!」
好き勝手言ってくる二人に「分かりました」と返して、私は紅魔館の日常へと戻っていった。
ある日、香霖堂へ行くと紫とばったり会った。店主の霖之助の姿はない。紫はやって来た私に笑顔を向けて店の奥を指さした。
「店主さんなら、今家探し中よ。随分前に頼んだものが、物の奥に埋もれているみたいなの。ちょっと時間がかかりそうかもね」
「そうですか」
なら帰ろうか。どうせドライヤーを買うだけで、緊急性はまるで無い。
そう考えていると、紫がじっと見つめてくる事に気がついた。
「結局ループは抜けられたのよね?」
「覚えているんですか?」
「ほんの少しだけね。どんどん忘れている」
あの陰惨な繰り返しの記憶は数日経った今、私の中からも段段と薄れていって、今ではほとんど覚えていない。
「そうですか。でも忘れていった方が幸せです。あんな時の繰り返しなんていう悲惨な」
紫がくつくつと笑った。馬鹿にする様な笑いだった。
「悲惨、ね」
「違うと言うのですか?」
「ループ自体は悲惨でも何でも無いでしょう? 日常を繰り返すだけだもの。なら悲惨たらしめたのはそこに登場した役者達の所為よ。とりわけ自覚して行動していたあなたの所為」
「あの惨劇を私が起こしたと?」
「どんな事が起こったのかは覚えてないけど、でもね、きっとあなたの選択肢次第ではもっと明るく楽しいループになったんじゃないかと思うのよ」
紫はもう一度くつくつと笑った。
「さしずめ、あなたは真面目すぎる。というより悲観的すぎる。主役がペシミストなら、物語は往往にして悲劇へ向かおうとするものよ。あなた、考え過ぎなのよ」
訳が分からない。
ただ何か責められている気がして、言い返そうと口を開いた時、香霖堂の入り口が開いた。
霊夢と魔理沙と早苗だった。
魔理沙が手を上げて寄ってくる。
「よう、咲夜。外で会うのは珍しいな」
「ええ、そうね。いつもあなたが泥棒に来る時位しか会わないから」
「いやいや、濡れ衣だぜ、それ」
「本当に?」
「多分」
紫が手をたたく。
「あなた達に一つ質問があるんだけど良い?」
「どうしたのよ、急に。どんな質問?」
「例えばね、霊夢、幻想郷の時間が繰り返していると知ったらあなたならどうする?」
「どういう事?」
「つまりね、朝起きて夜の二十四時になるとまた最初の朝に戻るっていう生活を繰り返すの。そうしたらあなたはどうする?」
「異変? ならその原因をぶっ飛ばすけど」
「例えばその原因があなたが大事にしている物で、それを壊さなくちゃいけないのなら?」
「なんであろうとぶっ壊す。壊れたら直せば良いじゃない」
霊夢が冷徹にそう言い切った。それを聞いた魔理沙が声を張る。
「おいおい、勿体無いぜ、霊夢! 折角そんな面白そうな状況ならもっと楽しまないと! 私ならいたずらの限りを尽くすね、飽きるまで!」
すると早苗がおかしそうに笑った。
「二人共乙女力が足りてないですよ。そんなんじゃ女の子失格です」
「ならお前はどうするんだろう」
「私なら奇跡で地球を逆回しにして、時を巻き戻しますね。ループの始まる前まで」
「それの何処が乙女なんだよ!」
三人が馬鹿騒ぎをしているのを見つめていると、紫が楽しそうに言った。
「ね? 三人共何も考えていないでしょ? あれで良いのよ。思い悩んだって良い事なんかないもの」
紫の言葉を耳聡く聞いた三人が抗議する。紫はそれを笑顔で受け流した。
「ねえ、三人共、ここへ何をしにきたの?」
「いや、特に用は無いぜ。なんか面白いものでも無いかなと」
「ならこの子も加えて上げてくれない?」
突然紫に背中を押された。
「ちょっと、私はまだやる事が沢山」
「まあまあ、偶には義務をほっぽり出して、子供は子供らしく気ままに遊んでみなさいな」
するといきなり魔理沙に手を引かれた。
「オッケー、じゃあ遊びに行こうぜ!」
「あ、ちょっと」
引っ張られ、抵抗する間もなく連れて行かれる。
屋敷の事が頭に思い浮かぶ。
やる事は沢山あるけれど。
まあ、メイドもホフゴブリンも美鈴も居るし、今日位良いか。
そう思うと、何だか心が軽くなった。
出て行った四人を見送って紫が笑顔になっていると、その背後から霖之助が現れた。
「あれ? もう何人か居ませんでした?」
「ええ、あそこに」
紫が指をさした先に、四人の楽しげな後ろ姿が見える。
「ああ、魔理沙達か」
紫はじっと笑顔で四人の後ろ姿を眺め続けている。
「魔理沙達が何か?」
「いえ。ただね」
「ただ?」
「自分から悪い方悪い方へ選んでいくなんて、随分と捻くれている。Zランクってところかしら」
「は?」
「次はもう少し明るい選択肢を選ぶ事ね。まあ、もうここまで来たあなたは他のエンディングを全部見ているのかもしれないけれど」
「え? すみません、紫さん、何を言っているのか」
「ところで見つかったの?」
「え、はい、これ。『サウンドトラック』」
「ありがとう。コンフィグで聞ける様にしておくわ」
でれってってってちぇれっちぇちぇーん。でれってってってちぇれっちぇっちぇちぇーん。だだっとととだだっとととだだぅとととだだっととでーんだだだでれってってってちぇれっちぇちぇーん。でれってってちぇれっちぇっちぇちぇーんでれれーどぅーんどぅーでれれーどぅーんどぅー。
優しさに満ちた反復性のエンディング
疲れた。
朝からお嬢様やフラン様の相手で大忙しで夜が更けた未だに家事が全く手についていない。少し休もうと思って、自分の部屋に戻ろうとした時、美鈴に出会った。
「あ、咲夜さん!」
「美鈴。どうしたの?」
「実はですね、この前、咲夜さんの時計を壊しちゃったじゃないですか」
「ええ」
そんな事もあった。気がする。何だかもう記憶が薄れてほとんど覚えていない。
「それがどうしたの?」
「それで河童に頼んで直してもらったんですよ」
「河童に?」
「はい、これ」
月時計が私の手元に戻ってきた。
顔を上げると美鈴が恥ずかしそうに笑っている。
「私からの気持ちです」
「え?」
「なんちゃって!」
そう言って美鈴が背を向けて、駆けて行った。
「あ、美鈴」
お礼を言えない事を心残りに思いつつ、部屋へ戻る。
態態直してくれたなんて。
何だか嬉しかった。
良い気分のまま部屋に戻って、ベッドの上に倒れこみ、時を止める。
少しだけ仮眠を取ろう。
そうしたらまた頑張ろう。
そう思って目を閉じた。
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
END
セーブしますか?
はい。
N+3~N+4周目
の続きです。
N+5周目
絶望に満ちた塑性のプロローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
目の前に紫が立っていた。紫は私が起きた事に気がつくと、時間が止まっている筈なのに、薄っすらと笑って手を伸ばしてきた。紫は微笑んだまま押し黙っている。けれどどうしてかごめんなさいと言っている様に聞こえた。失敗は許されないのと言っている様な気がした。紫は私の頬に触れると、ゆっくりと溶けていく。
それを掴まえようと身を起こした瞬間、凄まじい吐き気を覚えて吐瀉した。ベッドの上に撒き散った吐瀉物を見つめながら荒く息を吐いている内に、ありありと前回の時間の記憶が蘇る。気違いじみた幻想郷、自殺した紫、滅茶苦茶になった紅魔館、そしてこの繰り返しを抜ける為の方法。耳の中で凄まじい量の雨が降り注ぎ、幾重もの悲鳴が散乱している。突然今見ている視界に別の視界が重なった。入り口を入り、エントランスの階段を上る。そんな幻視。踊り場まで上ると足元に血に濡れたメイドが転がって、見上げるとそこにはお嬢様の着ぐるみが立っていて私を殺しに来る。
変な夢だ。気味悪くて怖かった。自分が狂い始めている気がした。何か心の内から衝動が溢れている。抱き枕のお嬢様をもう一度抱き締めてからベッドの上を降りる。壁際に寄りかかったお嬢様の気ぐるみを見る。たった今、夢で見た気ぐるみだ。いつもの通りそこにある。勿論勝手に動いたりはしない。気になって中を確かめてみたが誰も入っていない。安堵して息を吐き、立ち上がって部屋の中を見渡した。部屋の中には私とお嬢様の人形達だけ。何も恐れる事は無い。鏡の前に座って髪を梳かす。鏡の中に描かれたお嬢様の絵が鏡に写った私にキスをしてくれる。幸福を味わいながら、お嬢様の人形とその隣の置き時計を見ると、秒針が動き出そうとしていた。そろそろ時を止めているのも限界だ。私は先程の悪夢が気になりつつも、お嬢様が居るであろうダイニングへ向かった。
お嬢様は紅茶を飲もうとする格好で固まっていた。その愛らしい姿を見つめているとふと以前もその光景を見た気がした。
幻想郷は同じ時間を繰り返している。
不意にそんな確信を得た。その着想が何処から来たのかは分からないけれど、根拠も無くそれが正しい事の様に思えた。
時が動き出す。
紅茶を注ぐ。
「あら、ありがとう咲夜」
お嬢様が紅茶を飲んで、微笑みながらそう言った。それを見ていると胸が痛んだ。理由がまるで分からない。自分で自分の感情が理解出来なかった。何故か急に頭の中に何かが入り込んだ気がした。
「咲夜、どうしたの?」
「え?」
「涙なんか流して。何処か痛む?」
「いえ」
何か良く分からない衝動がこみ上げてくる。目の前に居るお嬢様をどうにかしようとする衝動がこみ上げてくる。一方で理性が叫んでいる。目の前に居るお嬢様を殺せと叫んでいる。
殺せ殺せと世界が苛んでくる。
「あああ!」
耐え切れなくなって部屋を飛び出した。そのままお嬢様の傍に居たら狂ってしまう気がした。走り続けて角を曲がってぶつかった。廊下にフラン様が倒れていた。
「いったい! 何すんの、咲夜!」
「あ、すみません」
「殺せ殺せ殺せ殺せ」
「は?」
「は? じゃないよ! 痛いじゃない! 何してんの!」
「いえ、あの」
何だ、今の。
何だ、今の。
あり得ない声が聞こえた。
幻聴?
その割には妙にはっきりと。
「咲夜? 大丈夫?」
フラン様が心配そうに覗きこんできた。心配されている事に気が付き、慌てて笑顔を浮かべる。
「はい、大丈夫です」
フラン様と目があった。
フラン様の目が私の事を見つめていた。
見開いた目が私の事を見つめていた。
目が私の事を見つめながら私を苛んでくる。
目が屋敷の者を皆殺しにしろと苛んでくる。
目が私の事を見つめている。目が館のあちこちに張り付いている。沢山沢山の目が私の事をじっとじっと見つめている。監視している。お嬢様を殺すまで見つめ続けている。
見ている内に気が狂いそうになった。本当に殺さなければいけない様な気分になってくる。
駄目だ。
逃げないと。
目から逃げないと。
恐ろしくなって駆けだした。階段を駆け下りて、玄関の扉を開け放つ。
私は外の光景を見て足が止まった。
外は目で一杯だった。
辺りには目が咲き誇り、満天を目が覆い尽くしていて、世界中の全てが私の事を見つめて、殺せ殺せと言ってくる。あまりの気味の悪さに吐き気が込み上げてきて思いっきりえづいてうずくまった。さっき吐いたからか何も出てこない。けれど吐きたくて仕方がない。胸の奥に沢山の目が詰まっている気がした。また吐き気を催して、地面に額を擦り付ける。
「咲夜さん!」
呼びかけられて顔を上げると、美鈴が立っていた。
「どうしたんですか?」
美鈴が私の事を見つめていた。しばらく私の事を黙ってじっと見ていたかと思うと、唐突に慌てた様子で髪を撫でだした。その皮膚中に目が生えていて気持ち悪い。
「咲夜さん、どうしたんですか? 二日酔いですか? お部屋までお連れしましょうか?」
気持ち悪い。気持ち悪い。世界中の全てに目が生えている。全てが私の事を見つめてくる。全てが私の事を責めてくる。殺せ殺せと、何故殺さないんだと責めてくる。
「もう止めて!」
外は駄目だ。全てに目が生えている。これならまだ館の中の方がマシだ。
館の中に入ると、数こそすくないが、やはり色んな物に目が生えている。駄目だ。屋敷の中も駄目だ。何処か安寧を得られる場所は。
屋敷中を駆けまわって、最後には自分の部屋に辿り着いた。
強迫性の妄想による第一章
入ると、饐えた臭いが鼻についた。けれど目はほとんど見当たらない。クローゼットやラックが少しばかり私の事を見つめていた。ただ部屋中のお嬢様の人形がそれを上書きしてくれる。
良かった。
ここなら安心出来る。
入り口近くの人形を抱きかかえて、ベッドの上に寝転んだ。布団に沈み込むと、ぶちゅりと嫌な感触がした。何か布団の下から恐ろしく気味の悪い感触がした。慌てて立ち上がり、布団の下を確認してみる。
悲鳴が漏れそうになった。
そこにびっしりと目が詰まっていた。
あまりの不気味さに固まっていると、沢山の目がぎょろりとこちらを向いた。
悲鳴を上げて後ずさる。すると足元の絨毯からも同じ感触を感じた。見なくても分かった。目が詰まっている。足元全てに。全身に鳥肌が立った。
安心出来る場所を探して部屋中を眺め回す。
クローゼットを開けると中から大量の目がこぼれだしてきた。飛び退いた拍子に机にぶつかって、机の上のお嬢様の人形が床に落ちる。すると今までお嬢様で隠れていた部分にも沢山の目が蠢いていた。
もう駄目だ。何処にも安心出来る場所がない。
死んでしまいたくなる程のおぞましさが頭の中を満たしている。足を滑らし、床に倒れ、這いつくばりながら、縋る思いで、お嬢様の着ぐるみに抱きついた。
お嬢様の着ぐるみが倒れる。頭が零れる。中は空っぽで冷えた闇を湛えていた。気ぐるみの中には目が入っていなかった。着ぐるみの中の闇は冷たく気持よさそうだった。中に入れば気持ち悪さを洗い流せる気がした。かぶってみると思った通りひんやりとして気持ち良かった。さっきまで感じていた気味の悪さが一変に吹き飛んだ。でもまだ足りない。体にはまだ気味の悪さが残っている。急いで着ぐるみの胴体に足を入れる。澄んだ湖に足を浸した様な清涼な感覚で満ちた。そのまま体を全てすっぽりと入れると、もう目の感触に苛まれる事は無くなった。
けれど着ぐるみの頭から見る狭い視界には沢山の目が見える。こちらを見つめている。目が、沢山の目が私の事を見つめている。何とかしないと。
ナイフをしまった引き出しを開けると、そこにも目。目に覆われる様にして収まったナイフを取り出して、きょろきょろと辺りを見回す目にナイフを突き下ろす。すると目が消えた。
目が消えた。
嬉しくなって、辺りの目を切り払った。私がナイフを払う毎に、面白い様に目が消えていく。それが楽しくて、時間を忘れて部屋中を切り裂いていると、やがて目が無くなってしまった。折角興に乗っていたのに打ち止めになってしまった事を残念に思いつつ外へ出ると、目はまだまだ沢山居た。また嬉しさが沸き立って、辺りの目を切り裂いていると、思わず鼻歌が漏れてきた。頭上を見上げると、真ん丸の月が照っていた。真っ赤で綺麗な月だった。楽しい思いで目を切り裂いていると、やがて私はお嬢様の部屋に辿り着いた。
「お嬢様?」
扉越しに声を掛けると、扉の向こうからお嬢様の驚いた様な声が聞こえてきた。
「あ! 咲夜! さっきはどうしたの? 大丈夫?」
扉に目が浮かんだ。ナイフを突き刺すと消えた。
「ええ、ええ。勿論ですとも。入っても?」
「どうぞ」
中に入ると、お嬢様がベッドから起き上がろうとしていて、私の姿を認めた瞬間、立ち上がろうとした姿勢のまま固まった。
「咲夜? それ、どうしたの?」
「え? 何かおかしいですか?」
自分の体を見下ろしたが何らおかしな所は無い。てっきり目でも生えているのかと思ったが、そんな物全くついていなかった。
安堵して顔を上げる。
お嬢様を見て、息が止まった。
お嬢様の体中に皮膚が見えない位、びっしりと目が生えていた。
「お嬢様!」
慌てて駆け寄り、体中に生えた目を取ろうとするが幾ら擦っても目は取れそうにない。触れる度に涙腺も無い筈なのに涙ばかりが溢れてびちゃびちゃになった。何だか触れている手が腐りそうな感触だった。
だがその程度で怯んでは居られない。何とかお嬢様を助けようと頭を巡らせる。さっきまでの様にナイフを突き立てれば消えるのだろうが、盛り上がる程に生えた目を潰せばお嬢様の全身が傷ついてしまう。
幾ら考えても良い方法は浮かばない。
どうすれば良いのだろうと泣きそうな思いでお嬢様の体を抱いていると、突然目の一つが言った。
殺せ。
何だか泡が弾けた気がした。
殺せ。
また泡が弾ける。
殺せ。殺せ。殺せ。
次々と泡が弾けていく。
殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。殺せ。
泡が弾けて弾けて、私の頭の中に泡の弾ける音が満ちていく。殺せ殺せと泡が弾けて私の頭の中はその音で一杯になった。
見ると、お嬢様から生えていた目はほとんど消えて、後は胸に生える大きな目が一つだけになった。これを消せば。
慎重にナイフを取り出した。
殺せ殺せと辺りが弾けている。
出来る限り傷つけてはならない。
あくまでお嬢様の体から目を追い払う為なのだ。それで醜く傷つけては本末転倒だた。
だから狙いを済ます。
一突きで、目も声も消せる様に。
お嬢様の胸をじっと見つめて、ナイフを強く握り締めると、思いっきり振り上げた。
途端に目も声も全てが消え去って、私の腕の中に涙を流しながら呆けた顔をしているお嬢様が現れた。お嬢様の愛らしい姿を見て振り上げた手を止めようと思った時には既に、お嬢様の胸に妖剣が突き立っていた。
お嬢様は四肢をつっぱらせたかと思うと背を仰け反らせ、しばらくして体の力を抜いて、それ以後動かなくなった。
しばらく動かなくなったお嬢様を腕の中で抱えている内に、段段と現実がはっきりとしだした。
「お嬢様?」
胸に突き立った妖剣がはっきりとお嬢様の死を告げている。
「お嬢様?」
お嬢様は動かない。
私は、お嬢様を殺してしまった。
ただそれまでの過程が曖昧だった。お嬢様が死んでしまった事は分かる。それを自分がした事も分かる。けれどその前に、自分がどうしてそんな事をしでかしてしまったのかまるで分からなかった。
「どうして」
私は、お嬢様を殺してしまった。
お嬢様の体から震える手を引き抜くと、お嬢様が音を立てて床に転がった。力なく倒れたお嬢様の姿が、酷く無残に思えて、震える手を何度か握りしめて震えを抑えながら、お嬢様の姿勢を整えた。
床で手を組み天井を向いて眠っているお嬢様の胸から妖剣を引き抜く。血は出なかった。きっと妖剣が吸ってしまったのだろうと思った。
立ち上がり、少し離れてお嬢様を見る。紅色の絨毯の上に眠るお嬢様の姿は絵画でも見ている様だったが、何か足りない気がした。あまりにも殺風景すぎる。お嬢様の死はもっともっと彩られていなければならない。
そんな気がしたので、私は外に出てそこかしこの廊下で転がるメイド達を集めてお嬢様の部屋へと持ち帰った。お嬢様を囲む様に小高い丘を作ると、何かそれは神秘的な祭壇の様に思えた。お嬢様という存在が、屋敷のメイド達によって守られている様で、何だかとてもしっくりとして見えた。
唐突に世界が晴れ渡った気がした。今まで見ていた目の悪夢が消えた。
途端に現実が襲ってきた。部屋の中でお嬢様が死んでいる。その周りを沢山のメイドの死体が囲んでいる。お嬢様は病的なまでに真っ白でぴくりとも動かない。周りのメイド達は真っ赤な姿でぐちゃぐちゃに積み上がっている。綺麗な真っ白い姿を保つお嬢様と赤い絵の具を塗りたくった醜いメイド達の対比があまりにも冒涜的で、吐き気が込み上げてきた。
恐ろしい光景に眩暈がして、よろめきながら部屋を飛び出すと、屋敷のそこら中に見えた目は消えていた。その代わりに廊下の辺り一面が赤い液体で浸されていた。
思わず自分の手を見る。
焦点が定まらない程震えていた。
顔を上げると赤い廊下。それを全て自分がやったのだと思うと、全身が震えて仕方が無い。
だがまだ残っている。
その瞬間、再び屋敷に目が現れた。
恐らく目は紅魔館の全員を皆殺しにさせようとしているのだ。まだ生き残りが居る。それらを殺さなければ終わらない。視線が私を苛み続ける。
沢山の目が私の事を睨んでくる。
気持ち悪い光景で、喉奥から何かがせり上がってくる。
だが嫌だ。もう誰も殺したくなかった。既にお嬢様をこの手に掛けてしまったのだ。
既に私は狂っている。お嬢様を殺すだなんて。完全に私は狂ってしまっている。けれどだからと言って、これ以上殺すのは嫌だった。これ以上狂いたくはなかった。
ただこのままで居ても目は消えない。沢山の目に囲まれて過ごせば、いずれ気が狂って、自分の今の感情なんか吹き飛んで、残りの生き残り達を惨殺してしまう確信があった。どうすれば良いのか考えても分からない。
廊下には切り刻まれたメイドがあちらこちらに転がっている。全てを自分がやったのだ。そう思うと、涙が溢れてきて、誰かに助けてもらいたかった。誰か、誰か。救いを求めて、彷徨っていると、倒れたメイドを見つけた。
何処かで見た救い様の無い第二章
そのメイドは他のメイドと違って、刃物によって死んでいるのではなく、何かに体を潰されて死んでいた。私が殺したのではない。では誰が殺したのか。
不意に思い出す。
この屋敷では惨劇が起こる事に。
夕暮れ時になると、惨劇が起こる。フラン様が殺され、美鈴が殺され、屋敷の者が殺され、そうしてお嬢様が殺される。その犯人がまた現れたのかもしれない。
行き先は分かっていた。図書館の上にある空き部屋群の一室に、フラン様と美鈴が居る。そこに何かがある気がした。
気がつくと、目の数が激減していた。歩み過ぎる私を視線が追う。視線に曝されながら私は妖剣を固く握った。屋敷のメイド、フラン様、そして美鈴を殺したのであれば、犯人は尋常でない強さを持っている。自分に勝てるかどうか。
気弱になる自分を叱咤しながら、空き部屋群へと辿り着いた。部屋の前にはメイドが倒れている。そのメイドを跨ぎ越えて、部屋の中に入ると美鈴が居た。
私に気がついた美鈴が驚いた様な表情を浮かべて、扉の開いた棚から飛び退った。開いた扉からは血が流れ出ている。私はその棚の中に押し込まれているものを知っていた。恐る恐る近付こうとすると、美鈴が震える声で叫んでくる。
「誰だ、お前は!」
それを無視して棚に近付き、中を覗きこむと案の定、中には二つになったフラン様が収まっていた。
息を呑み、慌ててそれを引き出すと、まだ温かみのあるフラン様の虚ろな目と視線があった。既に事切れている。
どうして?
疑問に思う。どうしてフラン様が死んでいる。誰が殺した? 美鈴はこの部屋で何をしているのだろう。二つになったフラン様。傷口を見ると、引きちぎられた様。そうして潰されたメイド達。よっぽど怪力の妖怪がそれを為したに違いない。でもそんな怪力の妖怪が何処に居る? 鬼? でもどうして鬼が、態態紅魔館にまでやって来てこんな惨劇を? 力が強いと言えば、お嬢様やフラン様もそうだ。けれどお嬢様もフラン様も自分自身が殺されているのだし、メイド達を殺す理由だって無い。もしも無礼討ちにでもしようとするなら、きっと私に頼むだろう。美鈴だって力が強い。特に最近では河童印のトレーニングマシンでその強さは天井知らずだ。美鈴だったらお嬢様やフラン様を引きちぎり、メイド達を押し潰す事も可能だろう。けれどそんな理由が無い。屋敷に忠誠を誓い、いつも笑顔を振りまく美鈴がそんな事をする訳が無い。それに美鈴自身だって殺されていたのだ。惨劇の時に。切り刺された美鈴は私の目の前で死んでしまったのだ。そう言えば殺され方がみんなばらばらだ。フラン様は引きちぎられ、美鈴は切り刺され、メイド達は潰されたり切り刺されたり、お嬢様は、お嬢様はそう言えばどうやって殺されたのだろう。
そんな考えが次々と浮かんできて、それらが段々に線を結び、頭の隅に漠然とした答えが浮かび上がる。だが感情も理性もそれを否定していた。あり得ない。起こりえない。
まさか、美鈴がフラン様を殺すはずが無い。
混乱したまま、とにかく美鈴にこの屋敷の状況を伝えようと思って振り返ると、自分に向けて飛びかかる美鈴が視界に移り、次の瞬間棚に押し付けられて激痛が走った。
「何者だ、お前! お嬢様の着ぐるみなんか来て」
そこで自分がお嬢様の着ぐるみを着ている事に気がついた。だから美鈴は、私が私と分かっていないのだ。
だから物凄い形相で睨んでくる。
「でもどっちにしても見られたのなら」
美鈴が底冷えする様な目付きで、拳を振りかぶった。本気で私の事を殺そうとしている。いつもの優しげな美鈴とのあまりの落差に上手く声が出なかった。辛うじて掠れた声が美鈴を呼び止める。
「美鈴」
その瞬間、目を見開いた美鈴の手が止まった。
「え? 咲夜さん?」
美鈴は一気に力を抜いて、瞳に理性的な光が灯した。
良かった。気づいてくれた。
いつもの美鈴になってくれた事を嬉しく思い、安堵の息を吐いた瞬間、再び世界が歪んだ。
美鈴の体にびっしりと目が生え出した。人の形をした目の集まりになる。目同士がくっつき合って出来た奇形じみた目達がびちゃびちゃと水気のある音を立てながら一斉に私を見つめた。
全身総毛立った。
「あああ!」
気がつくと口から声が漏れていた。
気持ち悪い。気持ち悪い。
気がつくと妖剣を振るって、目を切り裂いていた。切り裂く毎に目が減っていく。やがて美鈴の胸にある最後の一つに思いっきり妖剣を突き立てると、目は消えた。後には切り刻まれた美鈴が残った。
一拍の間を置いて、自分のしでかしてしまった事に気がついた。
血塗れの美鈴がよろめいて後ろに倒れこむ。
「美鈴」
思わず呼びかけると、倒れた美鈴が荒い息を吐きながら、口をぱくつかせる。そうして震える手を持ち上げようとした。
その動きが私を責めている様で、耐え切れなくなって部屋を飛び出した。
部屋の外に倒れていたメイドに躓いて地面に倒れる。着ぐるみの頭が抜けて、向こうへ転がった。何だか泣きたい様な気持ちで気ぐるみから出て地面を這っていると、傍から声を掛けられた。
「咲夜! 大丈夫か?」
顔を上げると、魔理沙が箒に乗ってこちらへ向かっていた。
「無事か? 良かったぜ!」
その心配そうに掛けられる言葉を聞いて、私の心が落ち着き出した。何とか身を起こして、首を横に振る。
「私は無事だけど、他の者達が」
「ああ、知ってる。そこら中にメイドが、それに地下の図書館も全滅だ」
「そうなの。じゃあ恐らくもう生き残りは居ないでしょう」
気がつくと紅魔館に浮き出ていた目は完全に消えていた。役目を果たしたという事なのだろうと思った。
「でももしかしたらまだ誰か。フランやレミリアは?」
「二人共もう。美鈴も」
「そうか。そうか……くそ!」
悔しげに歯を噛みあわせた魔理沙は、箒に拳を落として深呼吸をする。何だか見ていて胸が詰まった。
「魔理沙、お願いがあるの」
すると魔理沙が目を吊り上げた。
「敵討を手伝えっていうんだろう? 悪いが聞けないぜ。気持ちは分かるが、紅魔館の奴等がみんなやられたんだぜ。今は逃げるべきだ」
「そうじゃないの。私を香霖堂へ連れて行って」
「は? どうして? まさか、犯人が香霖だって言うのか?」
「いいえ。ただ、お願い。とにかく連れて行って。どちらにしてもここには居られないでしょう?」
魔理沙が不承不承と言った様子で頷いた。納得は出来てない様だ。
「まあ、ここから離れるのは賛成だけど、どうして香霖堂に」
「良いから。お願い」
魔理沙が箒の高度を落として私にも乗れる様にした。またがると浮き上がり、凄まじい勢いで紅魔館の廊下を駆け、玄関を飛び出して、香霖堂へ向かった。
文明による記録的な第三章
魔理沙は香霖堂の扉をぶち破って侵入し、店の中央で急停止した。カウンターに座っていた霖之助が驚いた様に立ち上がって身を引いている。
魔理沙と私が箒から降りると、我に返った霖之助がカウンターに手を突いて怒鳴り声を上げた。
「魔理沙! 幾ら何でもその入店の仕方は無い!」
魔理沙はそれを無視してカウンターの傍に寄る。
「香霖! 大変なんだ! 紅魔館の奴等が殺された!」
「は?」
霖之助が驚いた様に口を半開きにしてこちらに視線を寄越した。本当かどうか問われている様なので頷きを返す。
「何故? 誰が」
「分からないんだよ! けど、とにかくみんな殺されたんだ! それでとにかく逃げてきて」
「そんな、でも、そんな事があったのなら、僕の所じゃなくて、もっと別の」
「私もそう思うんだけど、咲夜がここへって」
二人の視線がこちらを向いた。ほとんど同じ表情で兄妹の様に思った。
私はその視線を無視して、カウンターの上に乗ったあいぱっどを指さした。
「霖之助さん、それ」
「え? これ?」
「それの使い方はもう分かっていますか?」
「あいぱっど? 咲夜さんはこれの事を」
「知っています。けれど使い方を知らない。霖之助さんはもう知っていますか?」
「多少だけど。でも今はそれどころじゃ」
「メモを使わせて下さい」
私はカウンターに歩み寄り、あいぱっどを取り上げる。
「どうやって使うんですか?」
「咲夜さん?」
「どうやって使うんですか?」
この時間で気がついた事を次の時間に持ち越さなければならない。紫は強い印象を与えればよりはっきりと記憶は引き継げると言っていたけれど、全てを覚えていられるのかどうかは分からない。
だから何らかの形で残しておかなければ。そう考えた時に思いついたのが、このあいぱっどだった。どうしてなのかは分からないけれど。
私がじっと霖之助を見つめていると、霖之助は困った様に魔理沙へ目配せした。魔理沙は首を横に振ってから、一つ頷きを返す。それで何やら意思の疎通をした様で、霖之助が歩み寄ってきて手を差し出してきた。あいぱっどを渡すと、尋ねてくる。
「メモを使いたいんだね?」
「はい」
霖之助が頷いてあいぱっどを指先で押した。そうして画面をこちらに見せてくる。
「これがメモ帳機能。画面のキーボードの絵を押すと、キーボードと同じ様に文字が入力出来るんだけど。キーボードの使い方は分かるんだっけ?」
「馬鹿にしないでください。屋敷にパソコン位あります」
画面を見て、息を飲む。
そこには既に文字が書かれていた。
『ご明察。ゆかりん』
驚きが段々と苛立ちに変わっていった。
きっとここまでずっと操られてきたのだ。朝、目の悪夢を見てから、ここでメモを残す事までずっと。ずっと。
けれどここで怒り散らしたところで意味は無い。怒りに任せてメモを残さなければ、もしかしたら今日の事が全て無駄になってしまうかもしれない。それは嫌だった。
あいぱっどを受け取って、試しに画面のキーボードを押してみると、本当に文字が打ち込まれた。
何となく緊張して目をとじる。
多くは書かなくて良い。一から十まで書く必要は無い。むしろ今の悲しみと混乱と怒りに満ちた視点を通して書かれた文章はきっと酷く歪んでしまうだろう。今だってまだこれから書こうとしている事を信じきれていないのだから。
簡潔に今日起こった出来事を一つ一つ書くだけで良い。
私は目を開いて、文字を入力し始めた。
これで惨劇が止まる様にと。
平穏に満ちた締めくくりの第四章
あいぱっどを香霖堂に預けて、私は紅魔館へと戻ってきた。長々と書いた為に、大分時が過ぎて、辺りはもう真っ暗だった。
霖之助と魔理沙は他の力ある者と相談して対策を練らないといけないと言って引き止めてきたが、もう私にはどうでも良かった。どうせこれ以上の惨劇は起きない。誰に相談してもそれは変わらない。もう今日の事件は終わったのだ。これ以上、何をしようも無い。
とにかく今はただただ疲れて辛かった。お嬢様の部屋へと向かう。後はもう全てを忘れて、お嬢様の傍で眠っていたかった。
お嬢様の部屋に行くと扉は開いていて、中を覗きこむと、私がお嬢様の死体に縋って泣いていた。邪魔だったので、それを斬り殺して、死体を退ける。お嬢様の傍で横になると、一気に安らぎがやって来た。
何だか今日という一日が夢だった様に思う。もう何もかも思い出したくない。
見れば、お嬢様の胸には微かに紅い染みがついている。お揃いになろうと思って、自分の胸を突くと、痛みが走り、段段辺りが寒くなっていった。次第に記憶が溶けていった。
セーブしますか?
はい。
N+6周目
希望に満ちた反復性のプロローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
何か忘れている様なそんな気分がした。確か多くの者が不幸な目にあって、その糸口が何処かの店に。夢だろうか。ぼやけていく。思い出そうとすると怖気が走った。悪夢でも見たのだろうか思いながら、私は外へ出てお嬢様が居るであろうダイニングへ向かった。
お嬢様は紅茶を飲もうとする格好で固まっていた。その愛らしい姿を見つめているとふと以前もその光景を見た気がした。
幻想郷は同じ時間を繰り返している。
不意にそんな確信を得た。その着想が何処から来たのかは分からないけれど、根拠も無くそれが正しい事の様に思えた。
時が動き出す。
紅茶を注ぐ。
「あら、ありがとう咲夜」
お嬢様が紅茶を飲んで、微笑みながらそう言った。今は悩む必要は無い。お嬢様を前にしている間は、ただお嬢様の笑顔を絶やさない事だけを考えていれば良い。
「咲夜、そろそろ寝るわ」
「畏まりました」
「咲夜は今日何か予定でもあるの? 私が寝ている間」
「今日は……特には」
「なら香霖堂へ行って何か新しくて面白い物でも無いか探してきてくれない? 最近妙に暇なのよ。何をやってもすぐに飽きちゃう」
「畏まりました」
「お願いね」
お嬢様が欠伸をしながら外へ出て行った。それを見送っていると、何故か拳に力が入った。
穏やかで有名無実な第一章
屋敷を出る時に、美鈴に声を掛けられた。
「あ、咲夜さん。お出かけですか?」
「ええ。ちょっと香霖堂へ」
「今日は良いお天気ですからね」
「良いお天気だけど居眠りしちゃ駄目よ」
「嫌だな、咲夜さん。この私が居眠りなんかする訳ないじゃないですか」
信用ならない。昨日は眠っていた。一昨日も。
「あれ、咲夜さん」
急に美鈴が驚いた様に声を上げた。
どうしたのだろうと思っていると、美鈴が何だか気恥ずかしげな表情になる。
「今日はいつもより綺麗ですね」
こいつ絶対眠るつもりだ。何て浅はかなおもねりだろう。
顔を赤くしてもじもじと体をくねらせている美鈴に呆れたが、叱る事は止しておいた。空は快晴、実にのんびりとした陽気で、嫌な気分になりたくない。それに綺麗と言われて悪い気はしない。
「くだらない事言ってないで、仕事に励みなさい」
「今日は良い天気ですし、一緒にお話しませんか?」
のんびりと美鈴が言った。実に脳天気な笑顔を浮かべている。
「お誘いのところ悪いけど、お嬢様の頼み事なの」
「ええー」
不満な顔をしている美鈴を置いて、香霖堂へ向かった。
香霖堂に着いて中に入ると、店主の霖之助が私の顔を見るなり不思議そうな顔をした。
「何か悩み事ですか、咲夜さん」
「どういう事ですか、霖之助さん?」
「いえ、ただ何か眉をしかめて悩んでいる様子だったから」
「いえ、特には」
そんな怖い顔をしていただろうかと思いながら顔の筋肉をほぐしてみた。和らいだ心地はしなかった。
ふとカウンターの上に置いてある物が気になった。何やら黒い板状のそれはプラスチックで出来ている。何だろうと思って、尋ねてみた。
「それは、何ですか?」
「お! お目が高いですね。実は今日の朝、仕入れたばかりの物なんですよ。何やらパソコンの様なんですが、随分と小さいでしょう? まだはっきりとどういった物なのかは分かっていなんですが、今から調べるのが楽しみなんです」
ほら、これが画面で、と言いながら、あいぱっどを持ち上げて、見せてきた。画面が光りを放ち、何やら抽象的な模様が現れた。
「こうして指で触れると、操作が出来るみたいですね」
そう言って、画面に触れると、別の模様が現れ、かと思うと画面が真っ白になった。その真っ白な画面には文字が書かれていた。良く見えずに近付いて、その文章を読んだ瞬間、全身から冷や汗が流れだした。
『、つまり惨劇は美鈴が起こす。』
そう書いてあった。
それを呼んだ瞬間、頭の中に今日の記憶とそれを象徴する様な陰惨な光景が現れた。
血で溢れた廊下を私は歩いている。辺りには動かないメイド達が沢山転がっていて、私はそこを歩いている。後ろではフラン様と美鈴が死んでいて、前にはお嬢様の死体がある。私はそれに縋って泣いていて、その手足を時計から伸びる鎖で縛られている。
突然に記憶を揺さぶられて気分が悪くなった。よろめいて、傍の棚にぶつかり、大きな音がした。
「咲夜さん! 大丈夫ですか?」
こんな事をしている場合じゃない。惨劇を止めないと。
「ええ、大丈夫です。これ、お返しします」
あいぱっどを返すと、霖之助はそこに書かれた文章を見て、慌てて首を横に振った。
「何だこれ。いえ、違いますよ。この文章を書いたのは僕じゃ」
「分かっています。それは私です」
惨劇を止めなくちゃいけない。
よろめきながら香霖堂を出て、紅魔館へと向かった。
連綿と続いた最終的な第二章
気分が優れない中、無理してやってきたものの、途中何度も吐き気が込み上げてきて、随分と帰ってくるのに時間が掛かった。記憶が氾濫している。今までに過ごしてきた沢山の今日が頭の中を駆け巡っている。許容量を越えた記憶達がそれでも詰め込み詰め込み暴れまわるので頭が破裂しそうだった。
もう日も落ちかけた頃にようやっと紅魔館に辿り着くと、紅魔館の門に美鈴の姿が無かった。いつもであればこの時間は大抵門前に居る筈なのに。
理由は考えるまでもない。もうそろそろ惨劇が起きようとしているのだ。
ともすれば気持ち悪さの所為で立ち止まりそうな自分の体に鞭を入れつつ、屋敷の中へと足を急がせた。
屋敷に入ると、中はまだ平穏だった。メイド達が楽しそうに、あるいは面倒そうに立ち働いている。玄関近くのメイドに美鈴の居所を聞くと、あっちへ行ったと言って指を差した。図書館の方角を指していた。
嫌な予感を覚えつつ、図書館の上にある空き部屋群へ向かう。陰惨な光景は何処にも無い。立ち働いているメイド達に美鈴の行方を尋ねながら歩いて行くと、やがてあの部屋に行き着いた。いつもであれば中でフラン様が真っ二つになっている。
お願いだから間に合っていてくれと祈りつつ、扉を開く。
開いた瞬間、フラン様の悲鳴が響いた。
「きゃあ! 捕まっちゃった!」
美鈴がフラン様の体を捕まえて抱きしめていた。
「フラン様!」
二人の顔がこちらに向いた。
「美鈴! フラン様を放しなさい!」
美鈴が大人しくフラン様を放す。
「フラン様、早く逃げて下さい」
「え? どうしたの、咲夜」
フラン様が不思議そうに首を傾げてきた。何か様子がおかしい。何だか自信が無くなった。
「あの、今、フラン様は美鈴に襲われていたのでは?」
「っていうか、鬼ごっこで掴まっただけだけど」
まさか、遊んでいただけ?
いや、でもそんな筈は。
美鈴に顔を向ける。
「美鈴、あなたは」
美鈴を見た瞬間、体中に悪寒が走った。
美鈴が笑っていた。それはただの笑いである筈なのに、どうしてかどす黒く濁った歪な何かを感じた。
美鈴が笑顔で両手を広げる。
「咲夜さん! 会いたかったです!」
「美鈴?」
「もう帰ってきたんですね? 今日はもうお仕事はよして、私とお喋りしませんか? そうですよ、それが良いです。折角今日はとても良い天気なんですから。ね? 二人っきりで何処かでお話をしましょうよ」
笑いながらそうまくし立てる美鈴に対して、恐れが溢れ出てくる。明らかに好意を向けてきている筈なのに、何故だか酷く恐ろしかった。
美鈴の足元に、フラン様が抱きつく。
「駄目! 美鈴は私と遊んでたんだから、咲夜はあっち行っててよ!」
そう言って、フラン様はけらけらと笑った。
そんな無邪気なフラン様を美鈴が笑顔のまま見下ろした。その一瞬、目がにっと歪んで、禍々しい位に深い笑顔がその顔に刻まれた。
「フラン様、私、今咲夜さんと話しているんです」
「えー! でも」
「邪魔なんですよ」
その呟きと同時に、美鈴が拳を振り上げた。明らかに、本気で殴ろうとしている様子を見て、時を止める。
止まった時間の中、粘液の中を進む様にフラン様へと駆け、フラン様の体を思いっきり引っ張った。ゴムで繋がれた様に元へ戻ろうとするフラン様の体を美鈴の傍から引き離すと、時が再び動き出す。
凄まじい音がして、部屋の中に粉塵の混じった風が起こった。
思わず目を閉じて、粉塵が落ち着いた頃に目を開けると、美鈴が拳を振り下ろした場所に大穴が開いていた。
「美鈴、あなた、フラン様を」
美鈴が笑顔を浮かべてこちらを見る。
「あれ? 道理で手応えが無いと。もう、咲夜さん。邪魔者はぽいしちゃって下さいよ」
「美鈴、どうして?」
「何がですか?」
「どうして、フラン様を殺そうとしたの?」
腕の中のフラン様が体を震わせた。
「咲夜? 何言ってるの?」
フラン様が私を見上げてくる。その目には涙が浮かんでいる。私が黙っていると、フラン様は美鈴に顔を向けた。
「美鈴、嘘だよね?」
美鈴は何も答えない。
「嘘だよね?」
ただ黙って笑顔を浮かべている。
その足元には抉れた床。
フラン様を害そうとしていた事は明らかだ。
フラン様からきゅうと息の抜ける音がした。
「私、何かしちゃった? ごめんなさい。もうしないから。謝るから。だから嫌わないで」
涙を流し始めたフラン様に向かって美鈴はぽつりと呟く。
「邪魔なんですよ」
その瞬間、美鈴の姿が消えた。
嫌な予感がしてフラン様を脇へ放ると、私の左腕に美鈴の蹴りがぶち当たってふっ飛ばされ、窓を突き破って庭に投げ出され、何度か跳ねて芝生の上に転がった。草を噛みながら顔を上げると、真っ赤になった視界にフラン様の泣きじゃくる顔が映った。揺り動かされて全身に痛みが走る。音が戻ってくる。フラン様の泣き声が耳に響く。
フラン様の背の向こうに歩み寄ってくる美鈴が見える。
「フラン様、お下がり下さい」
立ち上がってフラン様を後ろへ押しのけ、美鈴を睨みつける。
すると美鈴は立ち止まって、驚いた様な顔をした。
「咲夜さん、どうして庇うんですか? どうして邪魔しようとするんですか?」
「どうしてフラン様を」
「フラン様だけじゃないですよ。屋敷中のみんなが邪魔なんです。それは咲夜さんだって分かるでしょう? それなのにどうして邪魔しようとするんですか?」
「当たり前でしょう。私はこの屋敷を任されているんだから。屋敷を、お嬢様達を守らなくてはならないんだから。絶対に壊させはしない」
美鈴が悩む様に目を閉じて唸りながら、頭を掻いた。
「そうですか。じゃあ、良いです。咲夜さんを動けなくしてからにしましょう」
そう言って、構えを取った。明らかに私と戦おうとしている。表情は笑顔だが目に殺意が篭っている。
「美鈴、本気?」
「むしろ咲夜さんが本気なんですか? 河童印のトレーニングマシンで私本当に強くなりましたよ? 咲夜さんよりもずっと。だから諦めて寝ていて下さいよ」
「もしも私が諦めてあなたと戦わなければ、あなたはどうするの?」
「勿論、屋敷のみんなを殺しますけど」
真っ直ぐな目でそう言った。嘘を言っている様には見えない。本気の言葉だ。
本気で美鈴は屋敷を皆殺しにしようとしている。
不思議と涙が溢れてきた。どうして涙が溢れるのか分からない。
「そうは行かないわ」
「でも咲夜さん、実力の差が」
「例えあなたが幾ら強くなっていても絶対に退けない。退ける訳が無い。あなたにこの屋敷を滅茶苦茶にさせはしない。あなたを止める!」
私が美鈴を睨みつけると、美鈴が笑い声を上げた。
「そう睨まないで下さいよ。怖いです。でも私、死なない限り止まりませんよ。咲夜さん、私の事を殺しちゃうんですか? そんな酷い。ずっと一緒に過ごしてきたのに」
「殺すわ」
ナイフを構える。
「わお。酷い。そんな簡単に殺すだなんて」
おどけた様に肩を竦めた。
また涙が溢れてきた。
簡単な訳が無い。
本当は殺したくなんか無い。
でも今の美鈴は明らかにおかしくなっていて、本当に殺しでもしない限り止まりそうになくて。
簡単な訳が無い。
誰かを殺すだなんてしたくない。
でももうみんな殺してしまったんだ。
お嬢様やみんなを殺した時の感触が襲ってきて、胃の奥から物がせり上がってくる。
もう私だっておかしくなっていて。
既にお嬢様達を殺めてしまっていて。
時の繰り返しを止める方法がそれしかないというのなら。
例え誰であろうと、私は殺す。
殺してみせる。
「美鈴、もう一度言うわよ。馬鹿な真似はよして、謝って。そうしたら許してあげるから」
「勿論、嫌ですよ。咲夜さん、ならこちらからも言いますよ。諦めて下さい。そして黙って見ていて下さい」
美鈴は聞く耳を持たない。どうして。
「どうしてこんな事を。今日になって急に」
美鈴が笑う。
「私の事を殺せたら、答えてあげますよ」
「そう」
それしか方法が無いのなら。
「なら殺す」
時を止める。
粘液の中を美鈴の下まで歩み寄る。美鈴は腕を上げた姿勢で固まっている。その背後に回ってナイフを項へ突き刺した。ゴムに物を当てた様な感触が返ってくる。時を止めた世界では結合を破壊する事は出来ない。例え人を突き刺そうとしたって刃は皮膚を貫けず、押し当てても硬い弾力が返ってくるだけ。けれど刃を押し当てたまま時を動かせば、押し当てた刃は皮膚を突き破る。
時を動かす。
その瞬間、何故か横っ面に衝撃を覚えて、意識が暗転した。
朦朧とする意識の中跳ね起きると、遠くに美鈴が立って項を抑えている。自分の頬に触れると、凄まじい痛みが走った。
美鈴が私に視線を向ける、
「いや、やっぱり時間を操るって厄介ですね」
痛たと言って、美鈴は項から手を剥がし、掌を見つめた。
「ああ、血が出てる」
「今、何を」
「何を? ってそのままですよ。項に痛みを感じたから、咲夜さんかなって思って裏拳で殴り飛ばしただけです」
痛みを感じたから殴った?
ナイフを項に突き入れた状態から、それが刺さる前に反応して殴り返してきた?
何て反応をしているんだろう。
「お分かりですか? 勝てないって。ただのナイフ一本じゃ」
美鈴が笑う。その笑顔が固まる。
止まった時の中で私は大量のナイフを取り出して美鈴へと投げた。ナイフは空中で静止する。美鈴の周囲を駆け回って、すっかりナイフで美鈴を囲み上げると、時間を動かした。
大量のナイフが美鈴に向かう。が、美鈴が体を捻ると凄まじい風が起こってナイフが全て吹き飛んだ。
再び時を止める。
美鈴が足を振り上げて回し蹴りの体勢で止まっている。
足を振り上げて不安定な体勢であれば反撃される事は無い筈。
懐から妖剣を取り出す。紫すらも殺した妖剣。これを刺し込めば幾ら美鈴でもきっと殺せる。
美鈴の前に立ち、美鈴の体を抱きしめて、全体重を掛けて美鈴の鳩尾に妖剣の刃を当てた。
時を動かす。
妖剣を刺し込もうと力を込めるが、あまりにも固くて動かない。
「残念でしたね。咲夜さん程度の力じゃ私の筋肉は貫けませんよ」
思わず顔を上げると美鈴が笑顔を浮かべて、自分の眼球を指さした。
「ほら、こっちは柔らかいからきっと刺せますよ」
目。
大量の目。
それを突き刺し切り裂き、殺し回った記憶が読み上げる。
「あああ!」
悲鳴が漏れた瞬間、美鈴が拳を振りかぶり、気がつくとフラン様の傍に転がっていた。
「咲夜! 大丈夫!」
「フラン様」
何が起こったのか分からず立ち上がろうとすると、お腹の辺りに熱がこもっていた。お腹が見ると不自然な程にへこんでいた。
「もうやめて、美鈴!」
顔を上げると、フラン様が私の前に立ちふさがっていた。
「フラン様、いけません! お逃げ下さい!」
急に腹の奥から物が込み上げてきて口から流れ出た。どす黒い血が辺りに散らばる。
「咲夜!」
フラン様の悲痛な叫びが聞こえる。
泣いている。
安心させなければいけないと思うと、いつの間にか立ち上がっていた。ただ足腰が上手く働かず、辛うじて立っているだけ。感覚が消え失せていた。
「フラン様、お下がり下さい。ここは私が」
「でも、咲夜はもうぼろぼろで」
「それでもやらねばなりません」
顔を上げると、美鈴が手持ち無沙汰な様子で立っている。私の視線に気がつくと、ぱっと笑顔を浮かべた。
「あ、もう話は終わりました?」
「美鈴」
「もう咲夜さん、ほとんど動けないですよね? もうお終いです」
「美鈴!」
叫ぶと、また口から物が溢れてきた。
「もう、咲夜さん、危ないですから安静にしていて下さいよ」
あくまで余裕ぶっている美鈴を睨みつけるが、足を前に出そうとしても動かない。本当にもうどうしようも無い位に体がぼろぼろになっていた。
勝てそうにない。力が足りない。美鈴を倒すだけの力が。
「フラン様」
ならばせめて、みんなを逃さないと。
「お逃げ下さい」
「嫌!」
「お逃げ下さい」
何だか意識が朦朧とし始めた。
みんなを逃さないと。
屋敷を見上げる。お嬢様のお部屋のある辺りを見る。まだ中にはお嬢様が居る。どうにかして助ける事は出来ないだろうか。
だが足はもう動かない。立っているだけで辛かった。
どうしようも無い。
もう出来るとすれば、命乞いだけ。
「美鈴、お願いがあるの」
「はい! 何でしょう!」
「みんなを見逃して。お願いだから」
「え?」
「私の事は幾ら殺してくれたって良い! どうしたって構わない! でもお願いだから、お嬢様やフラン様には手を出さないで! お願いだから!」
「嫌ですよ」
美鈴が笑顔で言った。
「そんな」
「お聞きできません。みんな殺します」
比喩でなく目の前が暗くなりだした。焦点が定まらなくなっている。もう限界が近い。
限界を迎えた行き詰まりからの第三章
その時、屋敷の玄関が開け放たれた。
「咲夜! 美鈴! 何してるの!」
思わず顔を上げると、美鈴の背中の向こうに、メイド達に連れられたお嬢様とパチュリー様が息を切らせて玄関に立っていた。
お嬢様が悲鳴を上げる。
「咲夜! そんな!」
それに反応して美鈴が後ろを向いた。
その口元に笑みが浮かんだ。昏い喜びに満ちた笑顔だった。
込められているのは殺意だ。
殺すべき対象を見つけた昏い笑顔。
お嬢様を殺そうとしている。
それだけは。
それだけは駄目だ。
気がつくと、体が動いていた。弱弱しい力でナイフを投擲する。けれどあっさりと美鈴に止められて、美鈴は不思議そうな顔をした。
「驚いた。まだ動けるんですか?」
「美鈴! お願い! 止めて! お嬢様を殺すなんて! お願いだから!」
見たくない。もう死ぬところを見たくない。
美鈴はやはり笑顔を崩さない。
「やだなぁ。そんなの聞ける訳無いじゃないですか」
嫌だ。
嫌だ。もう見たくない。
もうお嬢様が死ぬところなんか見たくない。みんなが死ぬところなんか見たくない。
もう辛い思いをしたくない。もう陰惨な光景を見たくない。
こんな異常な時間、嫌だ。みんながおかしくなっているこの時間が嫌だ。
繰り返し繰り返し、こんなにも嫌な思いをしなくちゃいけないなんてもう嫌だ。
美鈴を止めたいのに体が動かない、
動いて。お願いだから、美鈴を止めなくちゃいけないから、お願いだから動いて。
お嬢様やフラン様を助けなくちゃいけないから。だからお願いだから、美鈴を倒せるだけの力を。
お願いだから。
もう、嫌なの。
お嬢様が、みんなが死んでしまうなんて、もう嫌なの!
「お願いだから、この時間を打ち破らせて!」
叫んだのと同時に、辺りが光り輝いた。
凄まじい光に呻き声が漏れて、思わず目を瞑る。次第に光は収まって、目を開けると、それが浮かんでいた。
「マジカル★さくやちゃんスター」
呟きに反応する様に、二つのマジカル★さくやちゃんスターが私の周りを浮遊する。
パチュリー様の驚く声が傍から聞こえてきた。
「マジカル★さくやちゃんスター! あまりにも危険だから封印していたのに、どうして!」
いつの間にかパチュリー様もお嬢様も私の傍にやって来ていた。
マジカル★さくやちゃんスターが私の周りを浮遊している。まるで私を励ます様に。何となく分かる。きっと私を助けに来てくれたんだ。
力が溢れてくる。
気力が戻ってくる。
「そんなのがあったって、どうせ咲夜さんはもうほとんど動けないでしょう」
美鈴が初めこそ驚いた様に目を見張っていたが、やがて微笑んでそう言った。
その通りだ。もう私は歩く事が出来ない。ナイフ一本投げるのが関の山。
「ねえ、美鈴」
私が呟くと美鈴が黙って私を見つめ返してくる。その傍へマジカル★さくやちゃんスターが浮遊して、美鈴の足元に落ちている妖剣を吸い上げると、もう片方のマジカル★さくやちゃんスターから吐き出され私の手に手渡された。
「これが最後の一投。避けずに受け止めてくれる?」
妖剣を美鈴へ向けると、美鈴はしばらく黙って見つめていたが、やがて頷いた。
「良いでしょう。それを受け止めきったら諦めてくれますか?」
「どうせ、もう動けないわ」
マジカル★さくやちゃんスターが戻ってきて、私の周りに二つのマジカル★さくやちゃんスターが衛星の様に回り出す。
私が妖剣を振り上げる。
美鈴が構えを取る。
そうして、妖剣を投げる直前、マジカル★さくやちゃんスターから大量のナイフが射出された。
「ええ! それ使っちゃうんですか?」
驚きの声を上げた美鈴を見て、そのあまりにもいつも通りの姿を見て、何故だか私の口の端は持ち上がった。
「大丈夫。あなたに届くのはこの一本だけだから」
そう言って、空間をナイフごと圧縮する。その圧縮された空間へ向かって妖剣を投げ放った。
時を止める。
マジカル★さくやちゃんスターから力が流れ込んでくる。それを使って、圧縮された空間を更に強く圧縮していく。圧縮されきった空間は曲率が膨れ上がり、重力加速度が極大になる。中心に向かう物体へ甚大な加速を提供する。
時を動かす。
すぐにまた止める。
時間の動静を繰り返す。
加速する妖剣が圧縮された空間へ向かって突き進む。
時を動かす。
すぐにまた止める。
加速した妖剣は既に手で投擲する十数倍の速度を持ち、その先端に空気の壁が生まれている。既に目にも留まらぬ速さになっている。
時を動かす。
すぐにまた止まる。
妖剣が圧縮された空間ぎりぎりのところまで迫っている。
既に速度は私の思考を凌駕し、時の動静はマジカル★さくやちゃんスターに委ねられている。
マジカル★さくやちゃんスターが時を止める。
すぐにまた止める。
マジカル★さくやちゃんスターが私の目の前に浮き上がり、くるりとその模様を回転させた。
それは刃物の加速が最大になった事の合図。
その合図を受けた私は空間の圧縮を解く。
時が動き出す。
けれどまだ正常な動きじゃない。
結果をこの目で見る為に時間の流れを遅くしてある。
それでもナイフは手で投げるよりも余程の速さで飛んでいる。
遅々として進む時間の中、妖剣は凄まじい速度で衝撃波を巻き起こしながら自壊しつつ美鈴へと向かっていく。
不意に私の視界が揺れた。時を操るのにも限界が来て、時が普段の速度で流れだす。
その瞬間、衝撃波の嵐が突き進み、美鈴を越えて、紅魔館に大きな風穴を開けた。
辺りに砂埃が舞い上がって何も見えなくなる。
やがて砂埃が風で取り払われると、大穴の開いた紅魔館を背に、美鈴が立っていた。
美鈴はずたぼろになりながらも掠れた声で笑っている。
まさかここまでやって駄目だったの。
絶望しかけたその時、美鈴が突然胸を押さえたかと思うと、地面に崩れ落ちた。
悲しみに満ちた次へ繋がる第四章
「美鈴!」
駆け寄ろうとするが、足が動かずに体勢を崩した。それを両脇からメイドに掴まれて、美鈴の下へ歩んでいく。
地面に倒れた美鈴は虫の息ながらもまだ意識があった。
私を認めると、美鈴は弱々しく微笑む。
「いやあ、結構強くなった自信があったんですけど、やられちゃいましたね。完敗、完敗」
美鈴の傍に座らせてもらって、美鈴の顔を覗き込む。
「美鈴、どうしてフラン様を」
すると美鈴がくすくすと笑った。
「まだ答えられません。言ったでしょう? 殺されたら答えるって」
「美鈴。何が嫌だったの? どうしてこんな」
「答えませんって。でもそうだなぁ」
美鈴が咳き込んでどす黒い血を吐いた。
「今はもう殺そうなんて思っていません。憑物が落ちたみたいに」
「どうして?」
「きっと満足したからですよ。さっきの戦いの間、咲夜さんがずっと私の事を見ていてくれたから」
「どういう事?」
「鈍いなぁ」
美鈴がまたくすくすと笑ったかと思うと、咳き込んでさっきよりも大量の血を吐いた。
「咲夜さん」
手を掴まれる。
美鈴と目が合った。
さっきまで張り付いていた微笑みは消え去って、かわりに悲しみで歪んでいた。まるで人が違った様に、美鈴の両目から涙があふれていた。
「どうして、私、こんな。咲夜さん、皆さん、ごめんなさい。ごめんなさい」
そう謝ったかと思うと、涙の溢れる両目を見開いたまま、美鈴が動かなくなった。
頭の中が片付かなかったが、美鈴が後悔して悲しみながら死んでいった事は痛い程わかった。
辺りに重苦しい空気が立ちこめる。
「お嬢様、少し美鈴と二人っきりにさせてくれませんか?」
「咲夜、でも美鈴はもう」
「けじめをつけなければいけないのです」
不思議そうにするお嬢様を押しのけて、パチュリーが私を見下ろしてくる。
「どうして? これはあなたの所為じゃない」
「私は誰にも死んでほしくなかったんです。誰も殺しちゃいけなかったんです」
「でも」
「お願いです。これ以上、耐えきれそうにない」
しばらくパチュリー様と見つめ合っていたが、やがてパチュリー様は目を伏せた。
「そう、それが人間なのかもね」
そう言って、パチュリー様はお嬢様とフラン様の手を引いて屋敷へ向かって歩き出した。
「ちょっと、パチェ、何だって言うの?」
「良いから」
メイド達や小悪魔達も手伝ってお嬢様とフラン様が屋敷に連れて行かれる。
最後に振り返ったフラン様の悲しげな顔が妙に印象的だった。
「咲夜、すぐに戻ってきてね」
「ええ、勿論です」
時計を見る。
大丈夫です。後三時間したらまた会えますから。
そう呟きながら、美鈴の顔に手を当ててその両目を閉ざす。
そのままナイフを取り出して、自分の胸に突き刺した。
セーブしますか?
はい。
N+7周目
完全で瀟洒なエピローグ
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
はっきりと前の時間の事を覚えていた。体が痛む様な気がして自分の体を見回すが、何処も傷ついていない。夢だった。と思いたいが、きっとそうでは無いだろう。
私は急いで身を起こすと、美鈴の居る紅魔館の門へと走った。
門へ行くと、美鈴が壁に寄りかかって立ったまま眠っていた。
「美鈴!」
声を掛けると、美鈴が慌てて壁から離れる。
「はひ! 眠ってません!」
「美鈴!」
「すみません。ごめんなさい」
美鈴の襟を掴みあげると、うろたえた様子で謝りだした。それを無視して、さらい襟を揺さぶる。
「どうしてフラン様を殺そうとしたの?」
「え? ええ?」
「どうして? 教えなさい! 殺したら教えるんでしょ? 殺したんだから教えなさい!」
美鈴が目を瞬かせて首を傾げた。
「えっと何の話ですか?」
「あなたの話よ。あなたはこれからフラン様を殺すんでしょう? どうして!」
「いや、どうしてって言われても、全然身に覚えが無いんですけど。寝ぼけてます?」
美鈴はいつも通りの呑気な顔していて、とてもこれからフラン様を殺す様には見えない。けれど確かにその未来はやってくるのだ。美鈴の心の中が覗けない事が悔しくて、悲しかった。目から涙が溢れてきた。
「お願い! 悩みがあるのなら聞くから。私に出来る事があるのならするから。だからお願いだから、理由を教えて!」
「あの、全然全く意味が分からないです。冗談にしても笑えないというか」
「あなたは今日フラン様を殺すの! その理由を教えて欲しいの! お願い! こっちは真剣なの!」
「真剣なんですか?」
「そう!」
美鈴が目を瞑って上を向いた。
「フラン様を……うーん、フラン様に、じゃなくてですよね?」
「そうよ。あなたは明らかに自分の意志でフラン様を殺そうとする。フラン様だけじゃない。屋敷中のみんなを。止めようとした私もぼろぼろにされて」
「ええ、何ですか、それ。うーん、って事は、咲夜さんの事は初め殺そうとしなかったんですか?」
「え? どうかしら」
「それなら」
「それなら」
美鈴は続きを言いかけたまま口を開いていたが、やがて思い直した様ににっと笑った。
「正直それをするとは思えませんけど、何となく止める方法は分かりますよ」
「本当? どうすれば良いの?」
「簡単ですよ。今日一日咲夜さんが私の事を捕まえておけば良いんです。そうすれば私は何も出来ないでしょう? 私も警戒されていたらそんな事する気が失せますよ、きっと。ね?」
何だか美鈴は妙ににやにやとしていて罠の様な気がした。
「本当?」
「ええ、本当です」
とはいえ、それ以外に止める方法も思いつかない。一つ前の時間の様な事にはしたくない。
「分かったわ」
「じゃあ、決まりですね! はい!」
そう言って、美鈴が両手を広げて私の前に仁王立ちした。
何をしているんだろう。
「咲夜さん! はい!」
「え? 何が?」
「ほら、捕まえて下さいよ。ぎゅっと!」
「抱きしめろって事?」
「そうです! そうじゃなくちゃ捕まえている事にならないでしょう?」
そういうものか?
分からないが、当人の言っている事なので従う事にした。
抱きしめると美鈴の体は暖かくて、やはりあんな酷い事をする様には思えない。一体何処で間違えたのか。
抱きしめてじっとしていると、美鈴もじっとしているから何の動きもない。ここからどうすれば良いのか分からない。
「ねえ、美鈴。もしかして私ずっとこうしてなくちゃいけないの?」
「ええ、そうですよ!」
「あの、私にも仕事が」
「じゃあ、私を捕まえたまま仕事して下さい」
正気かと思って見上げると、美鈴はにこにこと笑っていた。正気かどうかは分からなかったが、本気の目をしていた。
「美鈴、ずるい!」
私が美鈴を抱いたまま、ソファに座って休憩していると、フラン様がやって来てそんな事を言った。
「私も咲夜の上に座りたい!」
そう言って駄々をこねだすので困っていると、美鈴が自分の膝を叩いてフラン様を誘った。
「じゃあ、フラン様は私の上に座って下さい」
するとフラン様は嬉しそうな声を上げて、美鈴の上に乗っかった。美鈴の下に居る私にも衝撃がやって来て、呻きが漏れる。
「大丈夫ですか、咲夜さん?」
「ええ、大丈夫」
ただ全く休憩にならない。
しばらく三人固まって座っていると、パチュリー様と魔理沙がやって来た。
「あら、三人ともやけに仲良しね。何してるの?」
するとフラン様が声を上げた。
「美鈴の上に座ってる!」
更に美鈴も声を上げる。
「咲夜さんの上に座ってます!」
最後に私も答える。
「休憩してます」
パチュリー様は訝しげに「そう」と相槌する。隣の魔理沙が笑いながら言った。
「私もフランの上に座っていいか?」
「良いよ!」
フラン様が元気に答えてしまう。
このままでは重みで圧殺される。
「止めて下さい」
私が拒絶すると、魔理沙がけたけたと笑った。
その日一日の労働は本当にきつかった。
美鈴を抱きしめながら歩くだけでも大変なのに、加えて掃除や洗濯等、何をやるにしても動きづらくてやりにくい。疲労困憊で美鈴を抱きしめながら屋敷を歩いていると、お嬢様に出会った。
起き抜けたばかりなのか眠そうに目を擦っていたが、私と美鈴を見ると途端に驚きで目を見開いた。
「何してるの?」
すると美鈴が元気に答える。
「咲夜さんに捕まっちゃいました!」
「何で?」
「さあ?」
美鈴とお嬢様の視線が私に向く。
私は首を横に振って説明を拒絶した。幾ら何でもお嬢様に、フラン様が死んでしまう事なんて告げられない。
お嬢様はしばらく納得の行かない顔をしていたが、やがて諦めたのか私に問尋ねてきた。
「それで、今日の夕飯は?」
「あ」
炊事をすっかり忘れていた。
何の準備もしていない。
「もしかして作ってない?」
「すみません」
「そう、じゃあ、他のメイドに軽く作らせるか」
お嬢様をがっかりさせてしまった。
残念そうに去っていこうとするお嬢様を慌てて呼び止める。
「待って下さい! なら宴に行きましょう!」
「宴?」
「妖怪の山で宴が開かれるんですよ! それに参加しましょう!」
「そうなの? 何で知ってるの?」
「そう聞いたので。お酒を沢山持っていけば入れてもらえますよ」
「そう? じゃあそうしましょうか」
お嬢様の承諾を貰い、屋敷中に外出の準備をさせる。
屋敷が一気に慌ただしくなった。
皆で妖怪の山へ向かう途中、香霖堂へ寄った。新しいカラオケがあった筈だ。あれを持っていけば、まず間違いなく宴に参加させてもらえるだろう。
香霖堂はそこまで広くない。皆を外に待たせて、私と美鈴だけで店内に入ると、霖之助が驚いた顔で出迎えた。
「おや、こんにちは。一体どうしたんですか?」
「こんにちは。咲夜さんに捕まっちゃいました!」
「はあ、何だかイメージと違いますね」
気恥ずかしくなって顔を逸らし、カラオケがあるかどうか聞くと、霖之助が急いで奥から持ってきた。最新のそのカラオケを眺め回し傷がない事を確認すると、お金を払う。
「あれ、ぴったりです。良く値段が分かりましたね。まだ言ってないのに」
「何となく」
美鈴にカラオケを持たせて出ようとすると、霖之助が何か思いつめた様な顔をして傍に寄ってきた。
「あの、こんな事を言いたくは無いのですが」
「どうしました?」
「実はですね、今日の朝、あいぱっどというパソコンの様な物を拾ったのですが、そこに気になる事が」
「ああ、それなら今解決中です」
「え?」
呆けた顔で私と美鈴を交互に見つめる霖之助を無視して、私達は香霖堂を後にし、そのまま妖怪の山へ向かった。
妖怪の山に行くと既に宴会は始まっていたが、私達がやってくるのを見ると、途端に辺りが不穏にざわめきだして、妖怪達が集まってきた。その先頭には萃香が居て不敵な笑みを浮かべている。
「これはこれは紅魔館の吸血鬼殿。本日、妖怪の山は貸し切りとなっておりますが」
萃香の言葉にお嬢様は一礼する。
「お楽しみのところ、ご無礼を致しました。紅魔館一同、本日の宴席に加えていただきたくささやかながら酒肴を持参致しました」
メイド達が酒樽に掛けた布を取り払うと、萃香の後ろにいる妖怪達が歓声を上げた。
萃香の眼の色にも変化がある。
「ほう、これはこれは」
私も美鈴にカラオケを差し出させた。
「加えて、このカラオケをお貸しいたしますわ」
すると萃香がお嬢様の前に杯を差し出した。
「歓迎する! 飲め!」
「頂戴いたします」
お嬢様が盃になみなみと注がれた酒を飲み干すと、再び妖怪達が歓声を上げる。
萃香が手を振り上げて妖怪を煽った。
「良し! お前等、吸血鬼を丁重にもてなしてやれ!」
するとお嬢様も私達へ振り返って声を張った。
「良い? 粗相はしちゃ駄目だからね! 常識の範囲で羽目を外しなさい!」
その場に居る全員が大歓声を上げて、宴会が始まった。
私は美鈴を抱きかかえながら、木にもたれて水を飲んでいた。
既に宴会はたけなわで、最後の締めとばかりに、萃香と紫が飲み比べをしていたが、途中で紫の不正疑惑が持ち上がって喧嘩している。周りの妖怪達は実に楽しそうにそれを囃している。お嬢様も赤白巫女と黒白魔法使いと一緒にそれを囃していた。無邪気な笑顔で声を張り上げている。フラン様は最近出来た友達のこいしとこころと一緒にそこ等をはしゃぎ回っている。周囲の妖怪にぶつかったりしていて危ない。怒られたりしているが、どの妖怪もその三人の正体に気がつくと、一様にへこへことその場を離れていく。多分背後の存在を恐れてだろう。観戦する輪から少し離れると、酔い潰れて倒れた妖怪達や従者達が屍を作っている。小悪魔達の群がっている一角ではパチュリー様がぶっ倒れていて、その隣では早苗が二柱に介抱されている。二人とも最初の乾杯を飲み干した瞬間に倒れた、今日の宴会の中でもとびっきりの下戸の二人だ。
そんな様子を眺めているとふっと意識が飛びそうになる。
大分飲んだ。あまり飲むつもりは無かったが、一緒にいる美鈴が馬鹿みたいに飲むので、それに付き合っている内に、どんどんと酔いが進んでしまった。少し気持ち悪い。
宴会は実に楽しそうで平和だ。
懐中時計を取り出してみてみると、もう日の変わるまで五分を切った。
「今日ももう終わりね」
思わず呟くと美鈴が笑う。
「でもこの宴は夜通し続きますよ」
「ええ、きっとそうでしょうね」
でもそれも結局は平穏の内に終わる。
もう何も起こらない。そんな確信があった。
今日という日は平穏無事に終わる。
間違いなく。
もうこのまま今日という日が平穏に終わるのであれば、後残されているのは、時の繰り返しを止めるだけだ。
この月時計を壊すだけだ。
懐中時計を握りしめる。
壊さなくちゃいけない。
そう思うのだけれど、何故か心が忌避していた。
時計を壊せないのは惨劇が起こるからだと紫が言っていたのに。
もう今日はこのまま平穏の筈なのに。
どうしてかまだ時計を壊したくないと思っている。
どうして?
「咲夜さん? どうしたんですか? 苦しそうに唸って。気持ち悪いんですか?」
「いいえ」
美鈴に見つめられて、何だか心臓の鼓動が早くなった。
今日は一日ずっと美鈴を抱きしめていた。それが何だかいつに無い位に特別な事の様に思えた。
美鈴だったら、月時計を壊せるかもしれない。
ふとそう思った。
「ねえ、美鈴」
「はい! 何でしょう! お水ですか? 吐きに藪へ行きますか?」
「この時計を壊してくれない?」
美鈴の前に時計を差し出すと、美鈴は受け取って不思議そうな顔をした。
「え? でもこれは咲夜さんの大事な」
「お願い。訳は聞かないで壊して。あなたに壊してもらいたいの」
「後悔しませんか?」
「しない。むしろ壊さない方が後悔する」
「そう、ですか。そこまで思いつめた顔をするのであれば、相応の理由があるのでしょう」
「理由は聞かないで」
「分かっています。それじゃあ」
美鈴は緊張した様に月時計を見つめてから、「えい」と言って握りつぶした。
呆気無く月時計は壊れる。
遠くから鐘の音が鳴った様な気がした。
「咲夜さん、今のは」
何でも無いの。
そう言おうとしたが、口から言葉が出てこなかった。
意識が朦朧としている。酔いが回りすぎて眠気がやって来ている。
まどろみが私を溶かしていく。
「咲夜さん!」
大きな声で呼ばれて眠りから引き戻された。
「咲夜さん、寝ちゃうんですか?」
「ええ、大分眠くて」
「じゃあ、位置を変わりましょう」
「え? きゃっ」
美鈴が私の上からのいて隣に座ると、私を抱き上げて膝の上に載せた。
「はい、良いですよ。眠っても。お開きになったらそのまま連れて帰りますから、寝ちゃって下さい」
「でも」
「今日一日、ご迷惑をお掛けしてしまったお詫びです」
まどろみが世界を溶かしていく。美鈴の声も段段とぼやけていく。
「そう、じゃあ」
目を瞑ると、美鈴の温もりが私を包み込んで、意識を更にとろかしていった。
ああ、眠りに落ちる。
「じゃあ、美鈴」
「何ですか?」
「また明日」
そのまま美鈴に体を預けて私は眠りに落ちた。
目を覚ますとそこは自室。ベッドで眠っていた。時計を見ると七時。外から漏れる光を見るに朝だろう。
時の繰り返しは。
思い至った瞬間、跳ね起きた。どうなった? まだ時は繰り返しているのか。あるいは次の日へ進めたのか。
ダイニングに行くとお嬢様の姿が無い。というより、屋敷の中にメイド達の姿がまるで見えなかった。
どういう事だ?
まさかまた何か?
美鈴が惨劇を?
急いで門へと駈けると、美鈴が太極拳をやっていた。
「美鈴!」
「あ、咲夜さん! お早うございます! 良く眠れました?」
「みんなは?」
「え? 屋敷の中じゃないんですか?」
「誰も居ないのよ。廊下にも台所にも」
すると美鈴がくすくすと笑った。
「きっとみんな酔いつぶれているんですよ。大分飲んだから」
そうして美鈴は湖へ続く道を指さした。
「つい先程、フラン様がお友達の家に遊びに行きましたよ。昨日の宴会で最後までまともで居られたのは、私とフラン様位でしたから」
そう言って笑い声を上げる。
そこへお嬢様の声が聞こえた。
「ちょっと二人共」
振り返ると、お嬢様が頭を抑えながらやってくる。
「随分と元気そうね」
「お嬢様、日光が」
「平気よ。それより屋敷の奴等が全滅しててご飯一つ出てこないんだけど」
「え? あ、只今」
「軽めでお願い。二日酔いが酷いから」
「はい!」
慌てて朝食を作りに行こうとすると、背中に美鈴の声が投げられた。
「咲夜さん! 昨日は大丈夫だったでしょ?」
振り返ると美鈴がおかしそうに笑っていた。少し小馬鹿にした顔をしている。
多分フラン様が殺されると訴えた事を笑っているのだ。
「ええ、お陰様で」
現に何も起きなかったのだし、事情を知らない美鈴からすれば、私が冗談を言っていたとしか思えないだろう。
何となく釈然としないまま、屋敷へ向かおうして、ふと気がついた。
本当にフラン様は大丈夫なのだろうか?
今、美鈴は外へ遊びに行ったと言っていたけれど、本当に?
何だか嫌な予感がして、立ち止まる。背中に凄まじい衝撃が走った。
背中にぶつかった物体と一緒に庭の芝生の上を転がる。
起き上がると、私の腰にフラン様が抱きついていた。
「咲夜! 大変なの!」
そう真剣な顔で訴えてくる。
まさかまた何か起こったのか。
「どうしました?」
「今日、三人でピクニックに行こうって言ってたのに、お弁当用意してなかったの! お願い今から作るの手伝って!」
ああ、そうですか。
拍子抜けして、それから何だかその平穏な悩みが嬉しくなった。
「はい、畏まりました」
笑顔を向けて、二人で玄関へ向かおうとすると、門に居る二人から声が掛けられる。
「ちょっと! こっちも早くしてよ!」
「咲夜さん! 二人の分が終わったら、私にもご飯を!」
好き勝手言ってくる二人に「分かりました」と返して、私は紅魔館の日常へと戻っていった。
ある日、香霖堂へ行くと紫とばったり会った。店主の霖之助の姿はない。紫はやって来た私に笑顔を向けて店の奥を指さした。
「店主さんなら、今家探し中よ。随分前に頼んだものが、物の奥に埋もれているみたいなの。ちょっと時間がかかりそうかもね」
「そうですか」
なら帰ろうか。どうせドライヤーを買うだけで、緊急性はまるで無い。
そう考えていると、紫がじっと見つめてくる事に気がついた。
「結局ループは抜けられたのよね?」
「覚えているんですか?」
「ほんの少しだけね。どんどん忘れている」
あの陰惨な繰り返しの記憶は数日経った今、私の中からも段段と薄れていって、今ではほとんど覚えていない。
「そうですか。でも忘れていった方が幸せです。あんな時の繰り返しなんていう悲惨な」
紫がくつくつと笑った。馬鹿にする様な笑いだった。
「悲惨、ね」
「違うと言うのですか?」
「ループ自体は悲惨でも何でも無いでしょう? 日常を繰り返すだけだもの。なら悲惨たらしめたのはそこに登場した役者達の所為よ。とりわけ自覚して行動していたあなたの所為」
「あの惨劇を私が起こしたと?」
「どんな事が起こったのかは覚えてないけど、でもね、きっとあなたの選択肢次第ではもっと明るく楽しいループになったんじゃないかと思うのよ」
紫はもう一度くつくつと笑った。
「さしずめ、あなたは真面目すぎる。というより悲観的すぎる。主役がペシミストなら、物語は往往にして悲劇へ向かおうとするものよ。あなた、考え過ぎなのよ」
訳が分からない。
ただ何か責められている気がして、言い返そうと口を開いた時、香霖堂の入り口が開いた。
霊夢と魔理沙と早苗だった。
魔理沙が手を上げて寄ってくる。
「よう、咲夜。外で会うのは珍しいな」
「ええ、そうね。いつもあなたが泥棒に来る時位しか会わないから」
「いやいや、濡れ衣だぜ、それ」
「本当に?」
「多分」
紫が手をたたく。
「あなた達に一つ質問があるんだけど良い?」
「どうしたのよ、急に。どんな質問?」
「例えばね、霊夢、幻想郷の時間が繰り返していると知ったらあなたならどうする?」
「どういう事?」
「つまりね、朝起きて夜の二十四時になるとまた最初の朝に戻るっていう生活を繰り返すの。そうしたらあなたはどうする?」
「異変? ならその原因をぶっ飛ばすけど」
「例えばその原因があなたが大事にしている物で、それを壊さなくちゃいけないのなら?」
「なんであろうとぶっ壊す。壊れたら直せば良いじゃない」
霊夢が冷徹にそう言い切った。それを聞いた魔理沙が声を張る。
「おいおい、勿体無いぜ、霊夢! 折角そんな面白そうな状況ならもっと楽しまないと! 私ならいたずらの限りを尽くすね、飽きるまで!」
すると早苗がおかしそうに笑った。
「二人共乙女力が足りてないですよ。そんなんじゃ女の子失格です」
「ならお前はどうするんだろう」
「私なら奇跡で地球を逆回しにして、時を巻き戻しますね。ループの始まる前まで」
「それの何処が乙女なんだよ!」
三人が馬鹿騒ぎをしているのを見つめていると、紫が楽しそうに言った。
「ね? 三人共何も考えていないでしょ? あれで良いのよ。思い悩んだって良い事なんかないもの」
紫の言葉を耳聡く聞いた三人が抗議する。紫はそれを笑顔で受け流した。
「ねえ、三人共、ここへ何をしにきたの?」
「いや、特に用は無いぜ。なんか面白いものでも無いかなと」
「ならこの子も加えて上げてくれない?」
突然紫に背中を押された。
「ちょっと、私はまだやる事が沢山」
「まあまあ、偶には義務をほっぽり出して、子供は子供らしく気ままに遊んでみなさいな」
するといきなり魔理沙に手を引かれた。
「オッケー、じゃあ遊びに行こうぜ!」
「あ、ちょっと」
引っ張られ、抵抗する間もなく連れて行かれる。
屋敷の事が頭に思い浮かぶ。
やる事は沢山あるけれど。
まあ、メイドもホフゴブリンも美鈴も居るし、今日位良いか。
そう思うと、何だか心が軽くなった。
出て行った四人を見送って紫が笑顔になっていると、その背後から霖之助が現れた。
「あれ? もう何人か居ませんでした?」
「ええ、あそこに」
紫が指をさした先に、四人の楽しげな後ろ姿が見える。
「ああ、魔理沙達か」
紫はじっと笑顔で四人の後ろ姿を眺め続けている。
「魔理沙達が何か?」
「いえ。ただね」
「ただ?」
「自分から悪い方悪い方へ選んでいくなんて、随分と捻くれている。Zランクってところかしら」
「は?」
「次はもう少し明るい選択肢を選ぶ事ね。まあ、もうここまで来たあなたは他のエンディングを全部見ているのかもしれないけれど」
「え? すみません、紫さん、何を言っているのか」
「ところで見つかったの?」
「え、はい、これ。『サウンドトラック』」
「ありがとう。コンフィグで聞ける様にしておくわ」
でれってってってちぇれっちぇちぇーん。でれってってってちぇれっちぇっちぇちぇーん。だだっとととだだっとととだだぅとととだだっととでーんだだだでれってってってちぇれっちぇちぇーん。でれってってちぇれっちぇっちぇちぇーんでれれーどぅーんどぅーでれれーどぅーんどぅー。
優しさに満ちた反復性のエンディング
疲れた。
朝からお嬢様やフラン様の相手で大忙しで夜が更けた未だに家事が全く手についていない。少し休もうと思って、自分の部屋に戻ろうとした時、美鈴に出会った。
「あ、咲夜さん!」
「美鈴。どうしたの?」
「実はですね、この前、咲夜さんの時計を壊しちゃったじゃないですか」
「ええ」
そんな事もあった。気がする。何だかもう記憶が薄れてほとんど覚えていない。
「それがどうしたの?」
「それで河童に頼んで直してもらったんですよ」
「河童に?」
「はい、これ」
月時計が私の手元に戻ってきた。
顔を上げると美鈴が恥ずかしそうに笑っている。
「私からの気持ちです」
「え?」
「なんちゃって!」
そう言って美鈴が背を向けて、駆けて行った。
「あ、美鈴」
お礼を言えない事を心残りに思いつつ、部屋へ戻る。
態態直してくれたなんて。
何だか嬉しかった。
良い気分のまま部屋に戻って、ベッドの上に倒れこみ、時を止める。
少しだけ仮眠を取ろう。
そうしたらまた頑張ろう。
そう思って目を閉じた。
目を覚ますとそこは自室。ベッドの上で倒れていた。どうやら疲れて眠ってしまっていたらしい。時計を見ると秒針が止まっていた。私の能力で時が止まっている様だ。
END
セーブしますか?
はい。
やっぱり物語の主人公は勝利しないと しかし、普通にしてたら惨劇にならなかったのにみたいなことをZランク隠しルートや紫のセリフで匂わせてましたが烏口さんのことですから、咲夜さんも最初からどこか狂っていたんですかね?
しかし、惨劇なのにカッパ印の~とかマジカル☆さくやちゃんスターとか妙?なギャグ入れる手法はこの手の話には何故か良くありますね 和らげるとともに読者を惨劇というグロテスクな世界に引き込むというかああいうのは味があって好きです なんかグロテスク酔い?しちゃいそうですけど
そしてそんなグロテスクな何かから咲夜さんが打ち勝ち無事抜け出せて良かったです 長編ありがとうございました 面白かったです
しかしながら作者の道程を追うのも楽しみの一つだったり・・・。