最も早く気づいたのは、一緒に遊んでいた二人の妖精ではなく……。
紅魔館。迷いこんでしまえば一寸先さえ白く濁る、深い深い霧に覆われた湖を彷徨っていると、不意に見える緑色の光。太陽に誘われて天高く登っていく羽虫のように、ゆらゆら、その姿を追っていくと見えてくる――その荘厳な門構え。
真っ白な世界に浮かび上がる巨大で、圧倒的な赤。赫。紅。思わず目を覆いたくなるほどの赤。
恐ろしい吸血鬼が深奥に潜むと言われているその館には、たった一人の人間が住んでいる。
彼女の名前は十六夜咲夜。しかし彼女は、その可怪しさに気づいた『だけ』だった。
それも、何かを目にしたわけでもない。変な臭いが鼻をついたわけでも、物音がしたわけでもない。砂糖の甘さはいつもと変わらなかったし、一切の光が入ってこない館の中は、今日も少し肌寒かった。
だからシックス・センス――第六感。彼女の中にある『自分だけの世界』に、全く誰だか分からない闖入者が現れたのだと、ふと、そう思った。
そう、思ったけれど。
それはきっと、大切なお嬢様に害を成すわけでもなさそうだし、それにまだ差し当たり、何かが迫っているわけでもない。
だから彼女はいつもの通り、美味しい紅茶を淹れることにしたのだった。
それと、もう一人……気づいてもよさそうな人が居たのだが。彼女は瑞々しい生命力に満ち溢れた緑の中で、永遠の退屈を持て余して、深い眠りの中に居た。
◆
霧の湖に霧が濃く浮かぶ理由は、その周辺地理にある。
辺りは鬱蒼とした森に覆われていて、森はいつだってある一定の湿度を保っている。更に湖は水の流れた先に出来るもので、つまり比較的、標高が低い。
川が流れて湖に溜まるのと同じように、木々の呼吸によって吐き出された湿気だって、湖に流れ込んでしまう。そうして霧が出来るのだ。
大きな森。
古今東西津々浦々、いつだって大きなものは子どもの興味を引きつける。そこにあるのは魅力的な怪談、冒険譚、伝説の数々……。
小さな彼女たちもそういう話に引かれて、こうしていつも三人一組で、森を散歩しているのだ。
いや失敬。今はどうやら、『散走』していた。
散り散りなのはつまり行き先、目的地の話で……三人はもちろん、固まって走っていた。
「もー! ルナがいけないんだからね! くしゃみなんてするから!」
「ち、ちが……違わないけどぉ! 仕方ないじゃない! 出るものは出るの! そういうサニーもおもらししたでしょ!」
「してない!」
「ものを見えなくする力があるからって隠せないわ! 洗濯係が誰だか分かってんの!?」
「本当にしてないから!」
「大体臭いで分かるに決まってるでしょ!」
「してないつってんだろそのクリみたいな口ぶっ潰すぞ!」
「っていうかあんなのが居たなら分かるでしょ、スター!」
「…………」
「聞いてんの!? スターサファイア!」
女三人で、確かに姦しい――正確に言えば騒がしいのは二人だけだったが、ともかく三人は疾走していた。
よく分からない怪物に追いかけられていた。
顔は猿、身体は狸、四肢は虎。背には翼が生えており、尾は蛇になっている……何だか聞き覚えがありそうな、しかしよく分からない怪物だった。
三人は森を冒険していた。
サニーミルクが、光の屈折を操って、三人の姿を見えなくさせる。
ルナチャイルドが、音を消失させて、三人の存在を更に消す。
そしてスターサファイアが、動くものの気配を察知して……事前に危険から遠ざかる。
ほぼ確実な安全が保障されている、いつもの楽しい冒険だった。
そのはずだった……不意に、耐え難い生理現象に負けて、くしゃみをしてしまったルナチャイルド。その拍子に能力が途切れて、三人の音が辺りに漏れた。
それだけなら救いもあったが、怪物の気配を察知して逃れる『スターサファイア』の能力が何故か発動しておらず。
そこまでなら救いもあったが、ここは様々な不思議を内包する魔法の森。一歩踏み込めば魑魅魍魎が跋扈する世界。そんな森の奥の、そのまた奥に居てしまっては……。
サニーミルクが目にしたのは、突然聞こえた「くちゅんっ」の音に、首を傾げるくだんの怪物であった。
それを見て、サニーミルクは実際にちょっと漏らした。
ゆっくりと生ぬるい不愉快が広がる一方で――あっさりと、光を屈折させる能力は掻き消えた。
そして見覚えのある怪物は、ゲーゲーとおぞましい鳴き声と共に、三人を追いかけ始めたのだった。
追いかけっこが、始まったのだった。
「無理よォー! もう走れない! し、心臓が、心臓が飛び出る! 肺も!」
叫ぶのはサニーミルクだった。それもそうだろう。長時間走るにはペースメイクが何よりも大切。呼吸と心拍数を整えながら走らなければならない。けれどサニーミルクはやむを得ない事情もあって、残り二人に比べると明らかに、呼吸も乱れていたし心拍数も多かった。
「頑張ってサニー! 湖に……湖に飛び込めば逃げ切れるはずよ! おもらしも誤魔化せる!」
「してなっ……げほっ! げっ、おえええっ!」
空気が読めていないルナチャイルドの応援を聞いて、派手にえづくサニーミルク。幸運にも胃の中身は出てきていない。
「スターは……大丈夫!? さっきから返事がないけど! もう食べられちゃった!?」
ルナチャイルドに、後ろを振り返る余裕はない。きんきん響く声で叫んでも、やはりスターサファイアからの返事はなかった。
――ゲェエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエエッ!
サニーミルクのゲロではない。見覚えのある造形をした怪物が、きっと勝利を確信したのだろう。柔らかくて甘そうな餌にありつけると、喜びの咆哮を上げたのだ。快哉を、上げたのだ。
「もうすぐ……湖はもうすぐのはずなのに!」
ルナチャイルドの悲鳴は正しかった。
正しくて、無意味だった。事実は残酷だった。
きっと、あと数十秒走り抜ければ、湖に飛び込める。森の終わりが既に見えており、僅かながら、白い光が木々の隙間から差し込んでいた。
そして、ルナチャイルドに後ろを振り返る余裕はなかったが、もしそんな余裕を見せていたならば、数秒前に――後ろを振り返ってしまった直後に、怪物の『尾』が、彼女を咥えていただろう。
怪物の走りは壮絶だった。
長い尾が、鎌首をもたげている。ひゅんと伸びれば、顔がある位置よりも前に伸びるだろう。怪物の体長を六メートル程度と見るなれば、その内の四メートルは尾だった。
脇目もふらずに、前へ前へと走っていたルナチャイルドの行動は正しかった。
正しくても、間違っていなくてもなお――無理なものは無理だ。
救済のゴールまでがあと数十秒だと言うのならば。
絶望のゴール――怪物の尾が、彼女たちを絡めとるまでの時間は。
あと、数秒だった。
――オゲェエエエエエエエエエエエッ!
ルナチャイルドの隣ではサニーミルクがゲロを吐いていた。
そして、
気づいたのは、十六夜咲夜ただ一人だった。
◆
二人は、中空で手足をもがいていた。
「……えっ!?」
突然の浮遊感と、落下。
二人が上げた困惑の叫びは、見事にシンクロした。
着地――いや、着水も。
一つの大きな塊が、水面を叩いたように聞こえるくらい、ぴったり同時だった。
静寂が支配していた、霧の湖の湖畔が、にわかに揺れた。
◆
足を止めた、怪物は困惑していた。
森に生きる魔物たちは、決して頭の悪い猛獣ではない。むしろ酷く狡猾で、悪魔的に賢いからこそ、この森で繰り広げられる弱肉強食の食物連鎖に勝ち残ってきた。
その、猿頭の中に重く搭載された大きな脳みそを幾ら回転させても――。
「……二秒」
“あと一瞬で捕まえることが出来たはずの、三人の小さな少女が消えて”
「二秒だけ、『時を止め』た」
“眼前に、筋骨隆々で長身のそれが突然現れた”意味が。
理解出来なかった。
――ゲェッ……?
筋骨隆々で長身のそれは、さっきまで追いかけていた三人の少女の内、一人が着ている服にそっくりの服を着ていた。
肩幅は異常に広く。
二の腕は激流に耐える大岩のようであり。
胸元はもはやバストなのかチェストなのか説明出来ず。
足には丸太が二本刺さっているような。
可愛いフリルがついた青いワンピース姿で。
透明な羽が生えていた。
もしこれをティンカーベルと称しようものなら。
夢の国で公開処刑されるのは間違いなかった。
「その二秒の間に、妖精の足で数十秒かかる湖までの距離を往復する速さと!」
彼女はきっと……。
「その動きの中で、か弱い妖精には少しも傷を負わせない精密動作性を持っているこの私が!」
スターサファイアだった。
「もう一度、二秒だけ時を止める」
『動くものを拳で黙らせる程度の能力』に目覚めた、スターサファイアの姿だった。
「二秒後にお前が見る景色は――」
「“この世界の青い空〈〈the world〉〉”だッ!」
怪物は、一瞬たりとも動けない。
「オラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラオラッ!!!!」
気づいた時にはもう、“無数の拳が自らの全身に打ち付けられていた”。
「オラァ!!!!」
最後の拳が振り抜かれる。
木々の葉っぱが強烈に貫かれて、バサバサッ! と激しく揺れた。鳥たちが迷惑そうに飛び立った。
顔を上げたスターサファイアの前には、もう、一切の危険は迫っていなかった。
◆
状況を把握出来ないまま、ルナチャイルドとサニーミルクは岸に上がる。二人はただただびしょ濡れだった。
何が起こったのかは理解出来ていなかった。そもそも二人にとって理解出来る現象のほうがこの世には少ないのだが。
それでも自分たちは何とかあの怪物から逃げ切ることが出来て。
でも、隣にスターサファイアの姿がないということだけは。
理解出来ていた。
不安と焦りに背中を押されるがまま、岸に上がり、水を吸って鋼鉄の鎧のようになった服の重みを、震える両足に負担させて。激しく上下する肩は、肺が大量の酸素交換を求めている証拠だった。一刻も早く横になりたい――そんな気持ちを抑えて二人は。
「スター!」
同時に叫んだ。
「はぁーい。呼んだ?」
そして、返事があった。
その声を聞いた直後にはもう、二人の意識はなくなっていた。
ただ、大地に崩れ込むその顔には、今際の際に釈迦の顔を見たような、安堵の笑顔が浮かんでいた……。