Coolier - 新生・東方創想話

Good Morning Kit

2010/04/09 13:27:19
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 私が生まれたのは、真ん丸い月がほんのり暗闇を照らす夜だった。
 初めて開いたこの目は以前の物と違いあまり闇に強くないようで辺りが良く見えない。

「おはよう子猫さん。気分はどうだい? この世界に足を踏み入れた気分は」

 背後から声がした。驚いてそちらを振り返ってみると人影が二つ。
 闇に不慣れなこの目では顔も服装も確認できないけど、そのシルエットには見覚えがあった。

「あ、えっと、おはようございます。気分は……そうですね、まだちょっと変な感じです」

そう返事をすると、二人からおぉ、という驚きの声が上がった。

「どうやら言語野を補助する式は問題ないようね」
「ええ、あくまで人語を話せるようにするだけの簡単な式でしたが、やはり初めての実践なので成功するか不安でした」
「ふふ。何にせよ成功したようでよかったわ。これ以上の式を付けるのは貴女やこの子の成長に合わせておいおいね」
「はい」

 二人が何かを話している。目と違って声は以前どおり良く聞こえるなと思い頭に手をやると、耳は前と変わらぬ場所に着いていた。
 フニフニと耳を触っていると、左耳に何か金属のようなものがついているのが分かった。

「ああ、それかい? それは私たちからのプレゼントだ。ちょっとしたお守りのようなものでね、付けているとご利益があるから、なるべく付けておいて欲しい」
「はい、ありがとう御座います! えっと……?」

 二人にお礼を言おうと思って、この人たちの名前を知らない事に気付く。
 多分前の姿のときに聞いた事はあるのだろうけれど、あいにくとその時はそれを理解する脳も記憶する脳も無かった。

「む。そういえば自己紹介なんてした事無かったね。私は八雲藍、君の主という事になる」
「私の、ご主人……八雲藍さま。 えっと、藍さまって呼んでも良いですか?」
「ああ、構わないよ。そしてこちらがその私の主、八雲紫様だ」
「ご主人さまのご主人さま! えっと、紫さまさまって呼んでも良いですか?」
「うーん、それはちょっと遠慮願いたいわねぇ」

 苦笑いで返されてしまった。その後藍さまの方を睨みつけて言う。

「藍、後で言語野の式の組みなおしね。精度がなってないわ」
「あうう、分かりました。申し訳御座いません」

 がっかりした様子で言う藍さま。あれ? もしかして私のせいかな?

「え、えっと、それでは私はなんとお呼びすれば……?」
「ああ、そうね。んー……まあ藍と同じで良いわ」
「は、はい! よろしくお願いします紫さま!」
「ええ、よろしくね。えっと……」

 自分の頭を指先でとんとんと叩き始める紫さま。どうしたんだろう?

「ねえ藍。この子、名前って付けてあったかしら?」
「……そういえば、拾って以来猫ちゃんとかそんな感じでしか呼んでませんでしたね」
「そうよねぇ。で? まさかこの期に及んで何も考えていません、なんてことは無いわよね?」

 紫さまの言葉に固まる藍さま。私でも分かる。これは何も考えていなかったんだろうな、と。
 私の名前かぁ、どんなのになるんだろう。
 自分ならどんな名前がいいかな、なんて考えていると、二人のご主人さまの後ろから光が漏れてきた。

「わぁ……綺麗」

 遠くに見える緑に溢れた山と山の間から日の光が漏れ、空を流れる雲をオレンジ色に染めていた。

「……そうね、決めたわ」
「え? 紫様が決めてしまわれたのですか? 私の式なのですから出来れば私に決めさせて頂きたいのですが……」

 そう言う藍さまをギロリと鋭い目で睨みつけて紫さまが言う。

「そういう口は、最初からある程度名前を考えてきてから叩きなさい」
「うう、それはそうですけども……」

 それでも名残惜しそうに言う藍さま。

「まあ、いいから聞きなさいな。きっと貴女も気に入ると思うから」
「そうですか? ならいいのですが……では、どんな名前になさるおつもりで?」
「ちょっと耳を貸しなさい」

 そう言って藍さまの耳に口を近づける紫さま。
 気になって聞き耳を立ててみる。……ダメだ。全然聞こえないや。
 猫の聴覚を持ってしても聞こえないなんてどうなっているんだろうと一瞬思ったが、目の前の二人を考えればその程度なんて事無いんだろうな、と思い直す。

「! 素敵です! 素晴らしいです紫様!」
「ふふふ、でしょう? だから言ったじゃない、きっと気に入るって」

 どうやら紫さまの考えた名前は藍さまにも好評らしい。
 いったいどんな素敵な名前を頂けるんだろう、私もドキドキしてきた。

「それじゃ、あの子に名前をあげてきなさい」
「え? よろしいのですか? この名前は紫様がお考えに……」
「馬鹿ねぇ。あの子の主人は貴女よ。今まで一番あの子の面倒を見てきたのもね。貴女につけてもらった方があの子も喜ぶに決まっているでしょう」
「あ、ありがとうございます!」

 紫さまに頭を下げる藍さま。その藍さまがこちらに歩いてきて言う。

「うん、君の名前が決まったよ。気に入ってもらえると良いんだけれど」
「は、はい!」

 ついに名前が頂ける。そう思って返した返事はうわずったものになっていた。

「君の名前はね――」


      ――――――――――――――――――――――――――――――


ニャーニャー。ニャーニャー。

「……んぅ?」

 耳元から聞こえる鳴き声に目を覚まされてしまった。せっかく懐かしい夢が見れてたのに……。
 続き、見たかったなぁと未練がましく思いながらも目を開けると、猫達が私の顔の周りに集会場を作っていた。

「え、えっと……え、何これ?」

 眠たい目をこすりながら、上半身を起こすと猫達は少し興奮気味にこちらに鳴きたててくる。

「あ、ご飯? え、嘘! もうそんな時間なの!?」

 体と首を90度捻り背後に立てかけてある大きな柱時計を見ると、時間は既に正午になっていた。
 背中を嫌な汗が流れる。

「ね、寝坊したーっ!」

 私の叫び声が、お昼のマヨヒガに響き渡った。


 「もー、なんでもっと早く起こしてくれないの!」

 エサをねだりに歩く私についてくる猫達に言う。
 
ニャーニャー。ニャーニャー。

「え? いつもの時間に起こしたけど起きないからお昼までまってあげたんだって? う、それは、ごめん」

 ニャーニャー。ニャーニャー。

「そんなに慌てるなんて今日は何かあるのか? ううん、何も無いけど、もう今日の特訓の時間過ぎちゃったんだもん」

 猫達と話している間に台所につく。
 とりあえず猫達にエサを、っと。
 台所の小さな貯蔵庫から魚の干物を取り出し、猫達の前に持っていってやる。
 カプ。
 
「いったー! そっちじゃないそっちじゃない! それは私の指! 指!」

 噛み付かれて干物を手から離すと、猫達がいっせいにその干物に群がる。
 うー、絶対にわざとだ……。
 猫達に馬鹿にされるのも慣れてきたといえば慣れてきたのだが、そもそもそんな事に慣れてしまった自分が悲しくなる。
 はあ。こんなじゃ藍さまや紫さまに認めてもらえる日は遠いなぁ。
 そんな事を思いつつ、自分のご飯用の魚を取り出し、口に運ぶ。ん、おいしい。
 起きぬけのためあまり食欲が無かったので、食べるのは一匹でやめておいた。
 食事が終わった私は寝屋へと戻る。
 出しっぱなしにしてあった布団を畳んで持ち上げ、押入れの中に放り込む。
 次は洋服棚の前。着ていた寝巻きを脱いで、少し中華風のいつもの服へ着替える。
 あとは……忘れ物は無いよね、うん。
 し忘れた事が無いか確認してから玄関へ。急がないと修行できる時間がさらに減ってしまう。

「それじゃ、行ってくるねー! いつも言ってるけど、あんまりマヨヒガから離れないようにー!」

 家や庭のあちこちで自由に遊ぶ猫達にそう告げて、私は家を後にした。


 妖怪の山の二合目辺り、まだ山に入ったとも言えないその場所に私の秘密の特訓場所はあった。
 と言っても特別な何かがあるわけじゃない。近くに川が流れていて、木々が生い茂って人に見つかりにくい場所であったのでそこでいつも修行をしているだけの事だ。

「さて、と」

 その場所に着いた私はあたりを見渡して、手ごろそうな木を探す。妖術の的にするための木だ。
 傷のついた木や、折れた木は私が昨日までの修行で的にしてきた木だ。このままというのも木に悪いので、一部は薪にしてマヨヒガの暖房や家事に使っている。
 今日も何本か持って帰ろうかな、なんて考えながら木を見て廻っていると、丁度良い太さの木を見つけた。

「うん、これでいいかな」

 的も決まったことだし、さあ修行だ。
 目を閉じて、呼吸を整え意識を集中させる。
 右手には鬼符「青鬼赤鬼」の御札。その御札に自分の妖力と、自分につけられた式の一部を流し込んでいく。
 御札の内部で鬼の力を封じた式が展開されていくのを知覚する。そこへ自らの妖力が流れる事で式が意味を持ち、解を求めて札の外へと走る。
 札を中心に、数式が球状に展開されていく。式の球が完成し、その細部にまで妖力が満ちたのを確認。完成した術式を標的とした木に向かって投げる。

 ――鬼符「青鬼赤鬼」――

 札に込められた式は、果たしてその解を導き出した。それは即ち鬼の具現化だ。
 実体化した二匹の鬼が、眼前にある木に一撃ずつ拳を叩き込む!
 雷が落ちたかのような轟音が生まれ、大地や周囲の木々を振動させる。
 二匹の鬼の力にさらされた木は小気味良い音を立てながら横に折れていった。
 折れた木が地に着き盛大な音と砂埃を上げた時、そこには既に鬼の姿は無かった。
 私はふう、と息を吐き自らの力の成果を見据える。

「うーん、やっぱり藍さまのそばでないと、まだ長い事出したままにしておけないなぁ」

 自分の力の無さにため息をつきながら、次の的を探す。

「あやや、これはこれは。精が出ますね」

 突然上から声が聞こえた。
 見上げてみると、そこにはいつか見た事のある鴉天狗の姿があった。
 名前は確か……射命丸 文さん、だったかな?

「あれ? 新聞記者さん。お久しぶりー」
「ええ。お久しぶりです。前回の取材以来でしょうか」

 私の目の前に下りてきて、手帳と筆を取り出す文さん。

「今日も何かの取材?」
「いえいえ、たまたまこのあたりを通りかかったら、物凄い音が聞こえてきたので何があったのかと」

 そう言って折れた木をちらりと見る。

「しかし中々の力ですねぇ。これはやはりあなた個人の力ではなく?」
「うん、藍さまにつけて貰った式の力だよ」
「ふむふむ」

 文さんは手帳に筆を走らせる。
 取材じゃないって言ってるけど、口調がもう取材用になってるよね……。

「これだけの力を一介の化け猫に与えられるなんて、いやはや式の力とは恐ろしいものですね」

 む。ちょっと嫌な言い方だ。

「で、でも式を使うのにも少しは実力がいるんだからっ」

 少し怒りを込めて言う。

「あやや、これは失礼を。言葉を誤りました。そういえば、確か式は主人の近くにいると力が強くなるのですよね?」
「え、あ、うん。そうだけど、それが?」

 いえ、と言いつつ筆を指の上で一回転させた文さんが、鋭い目でこちらを見て言う。

「ならば何故、あなたの主人はあなたと共に暮らしていないのかと思いまして」
「それ、は……」

 突然尋ねられた内容は、私がいつも心のどこかで思っていた事だった。

「それとあなた、あの妖怪の式の式でもありますよね? あなたの主人は八雲の名を持っているというのに、あなたはそうではない。ここには何か理由があるのですか?」
「それは! それは……私が、まだその名前をもらえるだけの実力が、ないから……」

 思いっきり言い返したかった。でも出来なかった。私は、自分の無力さを噛み締めた。

「ふむふむ……。あなたから八雲の匂いが全くしないのも、そういった理由からなのでしょうか」

 再び筆を走らせる文さん。しかし突然手帳を閉め、筆と一緒に服にしまった。

「いや、ありがとう御座いました。これで謎である八雲の妖についてまた一歩近づけた気がします。それでは、またご縁がありましたら」

 そう言って、文さんは飛び立っていった。
 後に残ったのは私と、投げかけられた疑問だけだった。
 どうして、私は一緒に暮らしてないんだろう。
 本当に、いつか私は八雲の名を頂けるんだろうか。
 いつも、いつも心の隅に眠っていたそれらの疑問。
 あの二人と一緒にいて、気付かないように、問いかけないようにしてきた疑問。
 あの人の言葉で壊された心の堤防は、その疑問をいつまでも私の中に吐き出し続けた。


 その後、私はすぐに家に帰った。とても修行を続けられる心境じゃなかったのだ。
 家に帰ってからもその事ばかり考えていて、自分が何を食べていつ着替えていつ寝たのかも覚えていなかった。
 その夜、昨日の夢の続きが見られる事はなかった。

 あくる日、目が覚めても、胸の中はあの疑問でいっぱいだった。
 寝て、起きたら忘れてたらいいな、なんて少しは期待したのだけれど、そうもいってくれないらしい。
 今日も昨日と同じように、いつもの習慣だけでご飯を取り、布団を片付け、服を着替えた。ご飯の味なんて全く分からなかった。
 着替えた後も昨日の事が思い出され修行に行く気にもならず、炬燵で横になってうんうん唸っていた。
 しかしこんな事をいつまでも続けていても、この疑問が晴れることは無いだろう。ならば私はどうするべきなのか。

「うー、よし、決めた!」

 炬燵から這い出し、玄関へ行き靴を履く。
 扉を開けて、外に出て家を振り返る。

「……ん!」

 一人と数匹で長く暮らした家を見上げ、拳を固く握り締める。
 心を決めた私は、家を後にした。
 

 マヨヒガをさらに奥に進んだ先。決められた道順で進まなければマヨヒガの入り口に戻されてしまう特別な場所。そこに向けて私は歩いていた。
 向かう先にあるのは紫さまが作ったスキマ。私が八雲の巣に行く時のために作って下さったものだ。
 あの人の言葉が忘れられない私は、実際に二人の主人にあって聞いてみようと思ったのだ。
 今までは聞くのが怖くて聞けなかった。聞いて、家族だなんて思っているのはお前だけだという返答が来るのが怖かった。
 でも、もう我慢できない。聞かずにいても聞いても悩み苦しむのなら、いっそ聞いて楽になってしまいたい。今の私は、そう思っていた。

「大丈夫ですよね、藍さま、紫さま……」

 それでも、心の底では優しい返事が返ってくるのを期待していた。
 一緒に暮らそうか、と言ってくれなくてもいい。
 八雲の名をあげよう、なんて言ってくれなくてもいい。
 ただ一言。馬鹿だなぁ、そんな事で悩むなんて。そう言って欲しかった。
 ふと見上げた空模様は、私の心のように曇っていた。

 スキマを通り抜けた先は、八雲の家の玄関前だった。
 引き戸を開けると、藍さまのものでも紫さまの物でもない靴が二足。
 幽々子さまと、妖夢さんの……かな?
 二人の来客があると知った私は、開いた引き戸を静かに閉め、音を立てぬよう廊下を歩いて行った。
 母屋を離れ、渡り廊下を進み客室の前まで来て、さていつ入ろうかと聞き耳を立ててタイミングをうかがう。
 部屋の中ではやはり幽々子さまや紫さまが話しているようだった。

「それでね、紫。妖夢ったらこの間もお化けが怖い、って言ってね……」
「わー! わー! ななな何を仰るんですか幽々子様!」
「あらあら。まだまだ子供ねぇ」
「違います! あれはその……違います!」
「ああもう可愛いわねぇ妖夢は」
「親馬鹿ねぇ」
「あら、そういう紫のところはどうなのよ? 橙ちゃん、だったかしら。そろそろ八雲の名を継がせようとかはないの?」

 その言葉に私の心臓は大きく跳ねた。
 早くなっていく胸の鼓動を抑えつつ、耳に神経を集中させる。

「あら、言ってなかったかしら。あの子に八雲の名を継がせるつもりは、微塵も無いわ」

 頭が、真っ白になった。
 分からない。紫さまが何を言っているのか分からない。分かってはいけない。
 言葉の意味を脳が理解しようとするのを、理性で拒む。拒もうとする。
 ダメだった。どうして私の脳は動いてしまうのか。その意味を私に伝えようとしてしまうのか。意地悪だ。意地悪すぎる。
 意味を理解してしまった私は、靴を履いていないことも構わず渡り廊下から庭に飛び出し、マヨヒガへと走った。
 行き先はどこでも良かった。ただただ、ここにいたくなかった。


 スキマを抜け、今さっき通ったばかりのマヨヒガの森の中を走る。頭が何も考えられなくなるよう、とにかく体を動かしていたかった。
 そうして走っていると、何かが頬を流れた。自分の涙だった。
 頬を液体が伝う。流れ落ちる。止まらない。
 自分でもどこにいるか分からなくなるほど走り、足が悲鳴を上げ始める頃には全身がずぶ濡れになっていた。頬を伝う液体は、いつの間にか涙ではなく雨粒になっていた。
 疲労の限界に達した足がもつれる。体が宙に浮いた。

「うわっ」

 倒れた先は水溜りだった。手をつきはしたが、水溜りに映った顔は泥水に濡れて、とても惨めに見えた。藍さまに作ってもらった帽子が、水面に落ちた。

「うあ、ああぁぁぁ……!」

 そこで初めて声を上げて泣いた。
 いつもは大嫌いな雨も、今はありがたかった。
 頬を流れる涙も、この惨めさも、私の想いも。全てこの雨に流して欲しかった。


      ――――――――――――――――――――――――――――――


 私が台所で客人のための菓子を用意していると、突然橙の式が外れた。
 慌てて窓から外を見てみると、先ほどまでの曇り空がいつの間にか大粒の雨を降らせていた。
 この時間、橙はまだ風呂に入る時間ではないはず。
 突然の大雨、式の突然の剥離。何か嫌な予感がした。盆に茶菓子と急須を載せ、早足で台所を後にする。
 母屋の玄関まで来た時、橙の匂いがした。匂いの元を辿ってみると、土間に橙の靴があった。
 ……? うちにいるのか?
 しかし嫌な予感は止まらなかった。動物の感とでも言うのだろうか。残念な事にこういう時の私の感は、当たってしまうのだ。
 一度その場に盆を置き、風呂やお手洗いといった、家の中の考えられる限りの水場を探す。橙の姿は、どこにも無かった。
 玄関まで戻った私は盆を拾い、再び早足で客室に向かった。話の切れ間を見計らい戸を引く。

「失礼します」
「あら藍、遅かったわね」
「はい。申し訳御座いません」

 謝りつつ、茶菓子と茶を三人の前に出していく。

「ところで紫様、橙を見かけませんでしたか?」
「橙? いえ、見ていないけれど?」

 悪い予感はどんどん大きくなっていく。嫌な汗が、額を流れた。

「紫様、橙は、今日スキマを通りましたか?」
「スキマ? ああ、ちょっと待ちなさい」

 そう言って目の前に空間の裂け目、つまりスキマを作り出す。
 作られたスキマの向こうには、もう一つ別のスキマが見えた。マヨヒガとここ八雲の巣を繋ぐものだった。

「……通って、いるわね。それが?」
「橙の式が剥げました。玄関には橙の靴が。家の中に橙の姿はありませんでした」
「……ああ、そう。そういう事。道理で」

 紫様が何かに納得したかのようにうなずき、幽々子様を見る。
 私には主人が何を考えているのか、何が「道理で」なのか全く分からなかった。

「そんなわけだから幽々子、ちょっと急用ができたわ。折角尋ねてきてくれたのに、ごめんなさいね」
「ふふ。気にしなくていいわよ紫。行ってらっしゃいな」
「ええ、そうさせてもらうわ」

 言って紫様が席を立つ。

「行くわよ、藍」
「はい!」

 紫様と共に早足で廊下を進んでいく。歩く中、紫様が状況の確認を求めてくる。

「家の中にはいないのね?」
「はい、恐らくは。橙の匂いは客室の前で途切れ、そこから庭に続いていましたので」
「客室の前で……ね」

 紫様が指を口に当て、下を向いて黙り込む。何かを考えているようだ。
 何かお考えに? と聞きたいが、出来ない。主人の思考の邪魔をするべきではない。
 ふう、とため息をついて紫様が前を向く。

「とりあえず、マヨヒガへ向かうわよ」
「え、何故です?」
「スキマが二度通られていたからよ。貴女の鼻の通り、きっともうここにはいないわ」

なるほど、と納得した私はさらに歩を早める。

「いいわよ、先に行っていても。私はスキマですぐ行けるから」
「分かりました」

 主人の言葉に渡り廊下から飛び出す。靴も傘も、用意する時間がもどかしかった。


 雨の降りしきる森の中を、私は走っていた。
 着ている法衣が雨を吸って重い。傘を持ってくるべきだったかと自分の感情に任せた行動を悔やむが、よくよく考えれば走って探すなら傘があったところでさほど意味はないと気付く。
 疾走を続ける私の前に家が見える。マヨヒガにある橙の家だ。
 ここにいて欲しいと思った。ただ帰る途中で雨に降られただけだと思いたかった。
 玄関の前まで来て、扉を開ける。中に入り荒れた息を整えて集中して匂いをかぐ。
 橙の匂いはする。当然だ。ここで暮らしているのだから。大事なのはその匂いの濃さがどの程度の物であるかという事。

「……いない、な」

 半ば分かっていた事ではあった。何せ私達の家に靴を置いたままいなくなり、式が剥がれたのだ。事がそんな単純であるはずが無い。
 一瞬そこになって誘拐という単語が脳裏を掠めたが、それもないかと思い直し頭を振る。
 客室の前で途切れた橙の匂い以外に怪しい匂いは無かった。そもそも、八雲の巣に曲者が入り込めるはずが無い。
 そんな当たり前のことすらすぐさま理解できない自分の焦りように苛立つ。落ち着け、落ち着け。考えろ。
 深呼吸をして肺に心臓に酸素を送り込む。心臓から脳へ酸素が運ばれ、わずかばかりの冷静さを取り戻す。
 そうだ、式の召還!
 冷えた頭でその存在を思い出す。すぐさま法衣から式神「橙」の御札を取り出す。
 御札を眼前に構え念じる。それだけで札の周囲に式が展開される。今まで何度と繰り返した動作だ、そこによどみも遅れも無い。
 完成した術式をふわりと宙に浮かせる。

 ――式神「橙」――

 式が働き、解がその姿を現す。しかし、そこに橙の姿は無かった。
 当然だ。橙から式が剥がれているのだから。そんな事は承知している。
 私は求められた解に手を伸ばす。それはつまり橙に取り付かせていた鬼の式だ。
 橙から剥がれた式から、逆算して式の剥がれた位置を探る。それが私のとった方法だった。

「……! やはり、森の中か!」

 すぐさま玄関から森の中へと舞い戻る。
 今この瞬間もあの子が雨に打たれているのかと思うと気が気ではなかった。


「はあっ、はあっ、はあっ」

 走る事数分、私は式の剥がれた場所にやって来た。
 この程度で息が上がってしまうとは、最近空を飛んでばかりいすぎたかなと思いつつあたりを見渡す。
 見渡せど目に入るのは木、木、木。当然だった。橙の家や八雲の巣にたどり着けぬよう術がかけてあるうえに、そもそもこの土地自体が自然の迷宮なのだから。
 春先には巫女の能力で術は消され、感で自然の迷宮も突破されてしまったが。
 式から演算した場所に膝を着き、鼻先に意識を集中させる。
 雨で絶望的かとも思っていたが、幸いな事にも、わずかながら匂いは残っていた。
 橙……!
 匂いを辿り、駆けていく。緑の景色が後ろに流れ、また前から現れ、また後ろに流れていく。目に入ってくる雨粒が邪魔だった。
 大きな水溜りが見えて、私は足を止める。橙の匂いはその水溜りの中で途切れていた。
 ここで長い事立ち止まったのか、またはこの水溜りに落ちたのか。匂いはこの場で水に流されてしまったようだった。
 ここからは地道に探すしかないか……。
 そう思っていると、どこからか声が聞こえてきた。
 すすり泣くような声だった。
 急いで周囲を見渡す。見えない。分からない。
 待て。落ち着け。耳を澄ませろ。
 水を吸って重くなった帽子を外し、剥き出しとなった耳に手を当てて集中する。
 かすかに聞こえたその声に私の耳が小刻みに震える。近い。
 声の聞こえた方向に視線を向ける。見えるのは木ばかりではあったが、その中に一本だけ特別大きい木があった。声はそこから聞こえてきていた。

「……橙?」

 その木の裏にまわってみると、その子はいた。
 大きな木の根元にあるくぼみに入り、泥にまみれた帽子を抱えて泣いていた。
 
「藍……さま?」

 泣きすぎて赤くなった目がこちらを見る。
 瞳には怯えと猜疑の色が浮かんでいた。

「どうしたんだい? 雨の中、こんな所に靴も履かないで」

 言ってから自分も靴を履いていない事を思い出す。
 しかし橙の返事は来ない。

「何かあったの? どこか痛いの?」

 心配になって近寄りながら尋ねる。だが答えはない。

「えっと、とりあえずここだと濡れてしまうから、マヨヒガへ帰ろうか?」

 言葉は返らない。ただ私の言葉が雨に流されていくだけだった。

 いなくなった理由を聞きたい、何が橙をそこまで悲しませたのか知りたい。
 しかし一向に返ってこない橙の返事に、私は小さな苛立ちを覚えてしまった。

「いい加減にしないと怒るぞ、橙!」

 つい語気が荒くなる。しまったと思い違うんだという言葉を紡ごうとすると、

「いいじゃないですか! 放っておいて下さい! どうせ、どうせ私なんてただの便利な道具しきがみでしかないんでしょ!」

 空気が破裂するような音が、響いた。
 濡れて冷えた右手に熱が生まれる。
 痛い。痛い。軋む。軋む。
 胸が、軋む。

「二度と……そんな事を言わないでくれ」

 橙がぽかんとした表情で頬に手を当てる。次の瞬間、目じりに大粒の涙が溜まっていく。橙の表情が崩れる。

「う、うあああぁぁぁ……」

 泣き叫ぶ橙を、私はしゃがんで抱きしめた。
 はたくべきではなかっただろうか。でも、私にはその言葉をどうしても許す事が出来なかったのだ。

「ごめん。ごめんな……」

 私には、ただ謝る事しか出来なかった。

「ごめ、んなさい。ごめんなさい……」

 橙もまた、ただただ謝っていた。
 雨の中の謝罪は、互いが泣き止むまで続いた。


「少しは落ち着いたかい?」

 橙の顔を法衣の袖で拭く。こちらも濡れてしまってはいるが、泥は落とせる。

「はい……」

 小さな声で頷き、こちらにされるがままになる橙。
 泣き疲れて落ち着いたのか、こちらの想いが届いたのか。話してくれる気になったようだ。

「それじゃあ、聞かせてくれないか? なんでこんな雨の中、こんな所で泣いていたのか。なんで、あんな事を言ったのか」
「……はい」

 そう言って橙はポツリポツリと語りだした。
 新聞記者に偶然会って、何故一緒に暮らしておらず八雲の名も持たぬのか聞かれた事
 その疑問を、橙もまた常に持っていたという事。
 不安になり八雲の巣に来た事。
 そこで、紫様の言葉を聞いてしまった事。

「八雲の名を継がせる気は無い、って聞いてしまって、家族だって思ってたのは私だけなのかな、って。結局私は、ただの道具しきがみでしかなかったのかな、って。もう、何が何だか分からなくなっちゃって……」

 自嘲気味に笑う橙。不安でいる時に、最も聞きたくない言葉を聞いてしまったのだ。

「今まで、藍さまや紫さまに認めてもらうんだ、って。いつか八雲の名を頂いて一緒に暮らすんだ、って。そう思って修行とかお勉強を頑張ってきた自分が、凄い惨めに思えてきちゃったんです」

 話しているうちにまた悲しさがこみ上げてきたのだろう。目じりに溜まった涙を自分の袖で拭きながら言う。

「ねえ藍さま。私は、ダメな子ですか? 私に才能が無いからですか? だから八雲の名を頂けないんですか?」

 真摯な叫びだった。橙のまっすぐな瞳が私を見つめる。
 もう、黙っている事は出来なかった。

「そうじゃない。そうじゃないんだ」
「じゃあ、どうして!」

 きっとこれを話したら私は、私達は、この子に軽蔑されるだろう。
 だがそれでも話してやりたかった。この子の想いに、応えてやりたかった。

「なあ橙、私達が最初にあったときのことを覚えているかい?」
「あの、私が名前を頂いた夜の事ですか?」
「いいや。それよりももっと昔の話だよ」

 そう言って私は、私たちの過去を語り始めた。


      ――――――――――――――――――――――――――――――


 それは、博麗大結界ができて、間もない頃の話。
 外の世界と自由に行き来できなくなってからの話だ。
 紫様は、妖怪が生き延びるために幻想郷を外の世界と隔離させた。
 そして妖怪が生き延びるため、幻想郷の人間を食べるのを禁じた。人間がいなければ、人間が恐れてくれなければ、妖怪は存在できないから。
 だから紫様は人を食べなければ生きていけない妖怪たちには食用の人肉を提供するという約束をした。代わりに里の人間を襲うな、と。しかし、それに食人妖怪が素直に従うはずが無い。
 いままで自由に食べられていたものが、突然数を制限されるというのだ。あちらにしてみれば当然受け入れがたいものだっただろう。
 だから紫様と私はそれらの食人妖怪との交渉を幾度となく続けた。その日も紫様は交渉に出かけられ、私は紫様の代わりに結界の様子を見に行っていた。


「ふう。ここも異常なし、っと。今日の見回りはここまでかな」

 太陽の位置を確認すると、そろそろ紫様がお戻りになられる時間だった。早く戻って夕食の支度をしなければ。
 そう思い飛び立とうとすると、近くの茂みから音がした。
 ここは食人妖怪の住処の近くでもある。もしかしたら勝手に人間を襲って食べているのではないかと思い、私は音を発する茂みに声をかける。

「おい、そこに誰かいるのか?」

 言うと、草陰から影が立ち上がった。かなり大きな妖怪だった。
 頭は牛、体は人間。牛頭鬼という食人妖怪の一種だった。
 
「なんだ、なんか用なのか?」

 そういう口元では肉片が動いていたが、よくよく見て、匂いもかいでみればどうやら人間の肉ではないらしい。
 勘違いだったか、と安堵し、その妖怪に謝罪の言葉を入れる。

「いや、すまない。こちらの勘違いだ。忘れてくれ」

 そう言ってきびすを返そうとすると、牛頭鬼の鼻がひくひくと動いた。

「……その妖気の臭い、八雲の者だな?」
「……!」

 言われ、体中に緊張が走る。嫌な予感がする。
 
「お前の、お前らのせいで俺らは自由に人間が食えなくなった……。そのせいでこんなまずい肉を食わなきゃならねぇ!」

 やはり、こうなるか……。
 心の内で嘆息しながら、目の前の敵を睨みつける。

「お前らがいなくなれば、また自由に人が喰える!」

 そう言ってこちらに向かい突進してくる。
 手には斧。危ないか。
 突進を回避すべく横っ飛びを入れ、空中で袖から札を数枚取り出す。右の五指の間に8枚の御札。
 一回転して着地すると既に鬼は眼前に迫っていた。振り上げ、下ろされる斧。開いている左腕で斧を側面から押しその軌道を変化、地面にめり込ませる。
 斧を抜こうと私への注意がそれる一瞬で私は後方へ飛び退く。着地前に右手の札に式と妖力を込め、式を展開。
 着地と同時に完成した術式を、斧を抜き再びこちらに迫る牛頭鬼に投げつける。

 ――式輝「狐狸妖怪レーザー」――

 放たれた8つの術式から解として生まれるのは赤と青のまばゆい光線。

「お前が、お前らがいなければ……」

 8本の光の筋に貫かれ、牛頭鬼は苦悶の表情を浮かべ、絶命した。

「……ふう」

 こういった手合いに狙われるのももはや何度目か分からない。
 食料を奪った八雲の名が憎く、また八雲の者さえ殺せば自由に人間を襲って良かったあの時代が戻ってくると思っているのだろう。そんな事をすれば、自分の存在が危うくなるというのに。
 時間を食ってしまったな。急いで戻らなければ夕食の支度が間に合わない。
 そう思い帰路に着こうとすると、鳴き声が聞こえてきた。消え入りそうな、とてもとても小さな声だ。
 どこから聞こえてくるのかと探してみると、先ほど牛頭鬼が何かを食べていた茂みの中からだった。
 草木を掻き分け覗いてみると、そこには散乱した死肉の山があった。鳴き声はその山の中から聞こえていた。
 死体に両手を合わせた後、その死体をどけていく。いた。
 鳴き声の主は、小さな小さな子猫だった。ともすれば、周囲の死肉はこの子の親兄弟か。
 私は酷い罪悪感に襲われていた。
 私達が人間を食べる事を規則で罰したばかりに、この子は親も、兄弟も失った。このまま捨て置けばこの子も他の動物に食われるか、そうでなくともまだ赤子だ、食料が手に入れられず餓死してしまうだろう。
 子猫がこちらを見て鳴いてくる。私を母だとでも思っているのだろうか。

 しばらく目を瞑り考えた後、私はその子を育てる事を決めた。
 罪悪感だけでなく、打算もあった。偽善がしたかったのだ。
 幻想郷の、妖怪ためとはいえ、食人妖怪に人間を自由に食べるなと言い、今のように襲ってきたものは排除する。
 食人妖怪の中には供給される人肉では数が足らず、餓死する者も出てきていると聞く。他者を蹴落として何かを得ようとしている自分が、私は分からなくなっていた。
 私のしている事は正しい事なのか。それが分からなかった。
 だから偽善を欲した。偽であろうとも、自分の心がそれを求めていたから。自分は正しいと、そう思い込ませてくれる何かが欲しかった。
 そうして私はその子猫を、家に連れ帰った。


「ただいま戻りました」

 玄関の扉を開きそういった私は家の中に入る。
 靴を見ると、既に紫様はお帰りになられているようだった。
 紫様に許可を頂くために一旦子猫を土間に置き、紫様がいらっしゃるであろう居間へと向かう。
 居間に入ると、やはり紫様が座っていた。

「先に戻られていたのですね。そういえば、ひとつお話が――」

 そこまで言って、気付く。主の左には大きな包帯が巻かれていた。
 見たところ血は既に止まっているようだったが、元は白かったであろうその包帯は、おぞましいほどの赤を主張していた。

「ど、どうなされたのですか!?」

 慌てて主人に聞く。

「ああ、向こうの交渉役が、ちょっとね」
「また……ですか」
「と言っても、その交渉役とその側近の独断であって、向こうの大半はむしろ賛同してくれているらしいんだけどね」

 紫様も私も少しの間黙り、苦い顔をする。
 こんな事も別に珍しくは無かった。昨日まで手を繋いで笑っていた相手が突然手のひらを返し襲ってくるなんて、「幻想郷」という世界を作る日々の中では日常茶飯事だった。
 しかし自分達も相手を犠牲にして理想の世界を作ろうとしている。先ほど牛頭鬼を殺した自らの手を見る。自分も相手も、この世界全てが汚らしいものに思えて仕方なかった。

「まあ、今に始まった事じゃないわ。そんなに気にしなくてもいいわよ。私なら、二日もあれば治る程度の傷よ」

 そう言って腕を回してみせる紫様。

「で? 何か私に話があるんじゃないの?」

 言われ、思い出す。そうだ。あの子猫の事を伝えなくては。

「えっと、ですね……」

 そして私は自分の身に起こったこと、そして子猫を見つけ、どうにかうちで育てられないかという事を話した。

「……そう。そっちも色々あったのね」

 言って、目を瞑る。子猫をどうするかを考えているのだろう。
 目が、開かれた。

「いいわ。その猫を飼う事を許しましょう。ただし、面倒は貴女が見る事。いいわね?」
「! はいっ!」

 きっと、紫様も私と同じ事を考えていたのだろう。
 罪悪感と打算の偽善。そんなものから、その子猫はうちで飼われるようになった。
 
 しかし、時が経つにつれて私達はその子猫に情が移ってきた。
 八雲の名というだけで襲われ、騙され、裏切られ、貶められ。傷つき帰ってきた私達を、その猫はいつも迎えてくれた。
 汚れきった世界、汚れきった生活の中で、その子猫の存在はありがたかった。

 そして幾年もの月日が流れ、子猫は私達家族の一員となっていた。
 ある日、私は子猫の様子がおかしい事に気がつく。子猫がわずかながら妖力を持っているのだ。
 恐らく、猫又になろうとしているのだろう。確かに猫は時が経てば妖怪となるが、本来ならこれほど早くはない。私と紫様の妖気に当てられたのだ。
 そこで私達は悩んだ。果たして、この子はこのまま妖怪になり私達と共にいて、それで幸せになれるのだろうか、と。
 思い出されるのは、自分達を襲ってきた妖怪達。奴らは八雲の名と、その妖気を持つ者に並々ならぬ憎悪を抱いている。
 この子が私達と暮らし、「八雲」の臭いが染み付いた時、この子はきっと私達と同じ世界に身を置くこととなる。この、汚さに塗れた世界に。
 それだけは耐えられなかった。
 だから私達はその子と離れて暮らす事を決めた。家族と共に暮らせないのは心苦しいが、それでも会えなくなるわけではないし、何よりもこの子に自分達と同じ思いをさせるよりは数倍ましだと、二人とも思った。
 そこでまずはこの子に既にある程度染み付いてしまった八雲の臭いをどうするかを考えた。しかし意外にもそれは河童の協力であっさりと実現できた。
 私達は山の河童の迷彩技術と私達の妖術を用い、小さな妖気の臭いなら抑え込める金属の輪を作り上げたのだ。
 そしてその輪を、子猫が猫又となる前日につけた。これで私達がこの子とい続けない限り、この子から八雲の臭いはしないだろう。
 翌日、化け猫「橙」が生まれる日がやって来た。

 橙色の朝日を拝んだ、あの日が。

      ――――――――――――――――――――――――――――――


 語り終えた時、既に雨は上がっていた。
 私は木のくぼみから外に出て、続いて出てきた橙に振り返って言う。

「これが、私と橙の最初の出会い。そして後はおまえが知っている通りだ」
「そう、だったんですか……」

 橙は下を向いてうつむいていた。
 話した。話してしまった。
 私達の汚れた過去を。橙の親兄弟が死んだ理由が私達にあることを。
 だが、これで橙も諦めがつくだろう。私達は軽蔑されるだろうが、それでも構わない。
 私達のようになって欲しくない。傷ついて欲しくない。
 出来ることならこの世界が汚いものだなんて気付かないで欲しい。悲しまないで欲しい。
 それが私達の願いだから。
 想いを内に留め、橙をまっすぐ見据えて言う。

「さ、これで分かったろう? 私達はおまえと暮らすことも、八雲の名を与える事も出来ない、したくない。それ以前に、私達にはおまえに想われる資格すらないんだよ」

 自分の言葉が、自分に突き刺さる。
 子猫の橙と過ごした日々が、妖怪となった橙と過ごした日々が、私の胸を貫いていた。
 覚悟はしていたけれども、やっぱり……やっぱり、痛いなぁ。

「……です」
「え?」

 橙が何かを呟くが、小さくて聞き取れない。

「そんな事、ないです!」

 小さな体を震わせながらも、うつむいていた顔は上げられ、目はしっかりと私を見ていた。

「確かに、紫さまや藍さまが規律を作ったために私のお父さんお母さん、兄弟は死んでしまったのかもしれません。でも、それは自然界じゃ当たり前のことなんです。弱いものが死んでいくのは、仕方ない事なんです。私が食べる魚に罪はありません、家族もきっといます。それでも私はその魚を殺します。食べます。きっと、そういう事なんです」

 それに、と続けて言う。

「こう言ってはいけないのでしょうけど、私は両親の温かみも兄弟のぬくもりも殆ど知りません。私が知っている温かさは、ぬくもりは、紫さまと藍さまのそれだけなんです」

 たとえそれが、汚れた手であっても。そう言って、こちらに微笑みかけてくる。
 ……どうしてだろう。どうしてこの子は、こんな笑顔ができるんだろう。
 いつの間にこの子は、こんなにも大きくなっていたんだろう。
 橙の言葉に安堵したのか、子の成長が嬉しいのか。いつの間にか私の頬には一筋の涙が流れていた。
 ふふ、これじゃさっきと立場が逆だな。
 そう思い、涙を指ですくい微笑を浮かべると、橙が言う。

「だから藍さま、私に八雲の名を下さい!」
「!? さっきの話を聞いていなかったのか!?」
「聞いていました! だけど……だけど! どうしても八雲の名が欲しいんです! 今でなくてもいい、私にふさわしいだけの実力がついてからでいいですから! いっぱいいっぱいお勉強も特訓もします! だから、だから!」

 先ほどと変わらぬ真摯な眼差しで、精一杯の言葉を紡いでくる。

「どうして? どうしてそこまで八雲の名を欲しがる?」

 自分が危険な目にあうと言っているのに。私達の想いも届いているだろうに。

「……不安、なんです」
「不安?」
「はい……。藍さまにも紫さまにも、とっても良くしてもらっているし、自惚れかもしれませんが、お二人に愛されているんだろうな、って思います。でも、でもやっぱり不安なんです。離れた家で一人で寝る時、私に黙って永夜の異変を解決しに行かれた時、残るものがないと、不安なんです。お二人と私の間に、やっぱり違うものがあるんじゃないかって、そう思っちゃうんです」

 そう言って、下を向いてしまう。
 先ほどまでの元気な顔も、今はしぼんだものとなってしまっている。
 ふう、と一息吐き、言葉を紡ぐ。恐らく今、橙が望んでいるであろう言葉を。

「なあ橙、おまえの名前の由来を知っているかい?」
「え、たしか……私の生まれたのが丁度朝日の出る時で、空が橙色に染まっているのを紫様が見て……?」

 私が予想していた通りの答えが返ってくる。
 だから私は、それを首を振って否定する。

「違うんだよ。それもあるけど、それだけじゃない。紫様はそんな単純な事だけでおまえの名前を決めたわけじゃないんだ」

 紡いでいく。橙という名の意味を。私達の願いを、想いを。

「私の藍色は寒色、紫様の紫は中間色。そして橙、お前の色は暖色だ。紫様の時代で変化を迎え、私の時代で冷たい時期を超え、おまえの時代は暖かなものであって欲しいと、おまえが作る時代は暖かなものであって欲しいと、そう願ってつけたというのが一つ」

 続ける。

「さらに、橙にはいつまでも、暖かみを持たぬ私達の暖かみであってほしい。その願いがもう一つ」

 最後の理由。欲しがっているものは、そこにある。

「最後に。藍色と小さな橙色を混ぜると紫色になる。それは、私達の繋がりを表すものだと、その証にと、紫様が考えた名前に他ならないんだよ」

 説明を終えて一息つく。

「八雲の名前がないと、駄目かい? この名前じゃ、駄目かい?」

 その眼を、しっかりと見て言う。

「なぁ、橙」

 その名を呼ぶと同時に、腹部に衝撃。橙がこちらに抱きついていた。
 見ると、その肩は震えていた。

「ごめんなさい、ごめんなさい……。疑ったりして、ごめんなさい……。私は、私は、世界一の幸せ者で、世界一の親不孝者です……」

 涙や嗚咽混じりの言葉。私は、黙って橙を抱き返した。


「で、そろそろ出てきたらどうですか紫様」

 背後に言葉を投げかける。

「あら、ばれてたのね」

 後で空間が歪む気配。
 歪みがそのまま移動して、スキマから上半身だけを出した紫様が私の隣に来る。

「当然です。紫様は情に弱いですから」
「あら、いつも貴女を叩いている私が?」
「ええ。あれも私を守るためでしょう? 橙とは違って私は貴女のそばにいます。それだけ八雲の名を嫌うものに狙われる事も増えるという事です」

 橙を抱いたまま、隣の紫様を横目に見ながら答える。

「橙とは違って私には既に九尾の実力があった。だから私には式を着け、自分と同じ程度の実力も出せるようにする事で、それらから守った。ですよね? だから式から外れた行動をしてはいけないと、叩かれるのですよね」
「さて、どうかしら?」
「ふふ。そう思わせておいて下さいよ」
「ふう。貴女もなかなか生意気な口を聞くようになったわね」
「貴女の式ですから」
「ああ、なら仕方ないわね」
「否定しましょうよ……」

 呆れ顔で紫様を見る。
 ぷっ、という三人の内の誰かの声と共に、私達は笑いあった。

「それじゃ、そろそろ戻りましょうか」

 そう言って歩き出す紫様。

「そうですね、服を乾かさないと」

 私も歩き出そうとして、止まる。後ろを振り返ると、橙が何かを迷っているようだった。
 だから私は手を伸ばす。私達の温かみに。

「さあ。行くよ、橙」
「はい!」

 満面の笑みで、私の手をとった。


 願わくばこの笑顔が、これから先も穢れることなく続きますように。


      ――――――――――――――――――――――――――――――


「妖夢ー、準備出来たー?」
「はいー、今お鍋持って行きますねー。敷物は大丈夫ですかー?」
「ええ、ちゃんと用意してあるわー」
「分かりましたー」

 妖夢の返事を確認して、家から持ってきた敷物を炬燵の上に敷く。
 すると丁度いいタイミングで妖夢が鍋を持ってきた。

「あれ? これ、わざわざ家から持ってきたんですか?」
「ええ、どうせ処分してしまう物だもの」

 そろそろ紫達が帰ってくる頃だ。
 雨に濡れ冷えて帰ってくるだろうと思い、妖夢に鍋を用意させておいたのだ。
 ガラガラと玄関の引き戸を開く音がする。

「あれ? 幽々子様、まだいらっしゃるみたいですね」
「あー、でしょうねぇ」
「?」

 あの三人が帰ってきたようだ。
 足音がこちらに向かってきて、止まる。ふすまが開かれる。
 
「ただいまー。 ……って、何よそれ」
「あら、見て分からないかしら? お鍋よ。体、冷えたでしょう?」
「いや、まあいいんだけど、また人の家で勝手に――」

 そこで紫の言葉が止まる。
 視線はお鍋のある炬燵に注がれていた。

「はあ……。やっぱりそういう事ね。道理で突然変な話を始めるわけだわ」
「ふふ。紫も藍ちゃんも、不器用すぎるのよ。言葉にしないと十分に伝わらない事もあるっていうのに」
「まあいいわ、折角作ってもらったんだし、頂くわ」
「ええ、どうぞどうぞ」

 言って紫、藍ちゃん、橙ちゃんが炬燵に入っていく。
 炬燵には4つしか入り口が無いため、私、妖夢、藍ちゃん橙ちゃん、紫という席になる。

「それでは、いただきます」

 そう言って食事を始める。

「いい、妖夢? こういうのを雨降って地固まる、って言うのよ」
「そのくらい知ってます。ですが幽々子様、確かにうまくいったからいいものの、もしかしたら紫様方の関係が壊れてしまう事もあったのでは?」
「ふふふ。まだまだ半人前ねえ、妖夢は」
「え? どういうことですか?」

 ほら、と鍋をつつく三人を指差す。

「ほら橙、熱いから気をつけて食べるんだぞ」
「はい藍さま!」
「ちょっと藍、その肉は私のよ!」
「何言ってるんですか紫様。だったらちゃんとご自分で肉を入れてご自分でとってご自分で食べてください」
「うわむかつく式ね。今度寝ている間にろくでもない式でも打ってあげようかしら」

 奇妙な事を言い合っているが、その顔には等しく笑顔が浮かんでいた。
 八雲一家。いつしか誰かが言ったその言葉。その姿がそこにはあった。

「あの三人が、相手を嫌いになるなんて、許せないなんて。そんな事があると思う?」
「……、ですね」

 妖夢も納得した事だし、と鍋に手を伸ばす。お肉を掴む。自分のお皿に……入れる前に敷物に落としてしまった。
 
「まあ、三秒ルールって言うものね」

 そう言ってお肉を拾い上げる。口へ。うん、おいしい。


 肉の落ちた敷物。鍋の汁が染みて敷物が透け、下の文字が浮かび上がる。
 文々○新聞。そこにはそう書かれていた。
「ねえ幽々子、もしかしてこの新聞、あちこちにばら撒かれていたりするのかしら? だとしたらちょっと都合が悪いのだけれど……」
「安心しなさい紫。新聞記者が来た時に、そこはちゃんと処理しておいたわ」
「流石は幽々子ね。素敵だわ。それで、処理って具体的にはどうしたのかしら? あの記者を懲らしめて回収させたの?」
「まあ、そんなところね」
「まったく、あの記者は……。いつかこのお礼をしてあげないといけないわね」
「ねえ紫、そのお肉、おいしい?」
「え? ああ、まあ、それはおいしいけれど」
「そう、それは良かったわ。じっくり味わってね」
「……え?」


 こんにちは。C-kitという若輩者です。
 まずはここまで読んで下さった方、本当にありがとう御座いました。
 お気づきの方もいらっしゃるかも知れませんが、このお話はとある曲を聴きながら思いついたものです。細美さん大好き。
 タイトルのkitですが、子猫以外にも子狐の意味もあるようです。どうにか作中でそれを使いたかったのですが、力及ばず。技量も努力も足りません。
 さらに余談として私のPNにもkitがありますが、こちらは子猫という意味ではなかったりします。可愛すぎて生きるのが辛いの略です。Cはもちろん今作のあの子。
 前回頂いた指摘を元に改行をしてみたのですが、如何でしたでしょうか。今回も至らぬ部分が多かったとは思いますが、少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。
C-kit
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コメント



0.520簡易評価
3.100名前が無い程度の能力削除
橙はチャーミングすぎるな
6.100煉獄削除
紫様も藍も、橙のことを大切に想っていることや、笑いあったりする姿とか良かったです。
あと、そのお肉は何肉でしょうか……?
9.100名前が無い程度の能力削除
八雲家の愛情溢れる素晴らしい話でした
藍様とゆかりんの母性の強さに心が優しくなりました
次回作も期待しております

藍様ー!俺だー!式神にしてくれー!!
10.100名前が無い程度の能力削除
八雲家の講釈になるほどなぁと頷けました。
良い話をありがとうございました。
細美さん復帰してくんないかなぁ……

ちなみに文中の「足がほつれて」は「足がもつれて」では?
ちょっとそこだけ気になりました。

これからの作品も期待させてもらいます。
11.80名前が無い程度の能力削除
「八雲一家」か。八雲の姓はなくとも、家族なんだなぁ。
とてもあたたかいお話でした。
14.無評価C-kit削除
>3
ご評価ありがとう御座います。ですよねですよね!

>6
ご評価とありがたいお言葉、ありがとう御座います。
とってもヘルシーなお肉に御座います。

>9
あうあう、ご評価頂いたばかりか素晴らしい、とか、次回に期待、とか……あわわ、どう喜んでいいのか分かりません。
ありがとう御座います、次回も頑張らせて頂きます! でも藍さまの式は橙だよ!よ!

>10
こちらこそお読み下さり、しかも身に余るコメントとご評価、ありがとう御座います。
八雲家や、橙の意味はこうだったらいいなぁ、と思って書かせて頂きました。頷いていただけましたら恐悦至極。
誤用のご指摘もありがとう御座います、修正させて頂きました。いやはや勉強不足でお恥ずかしい限りです。
細美さん自身はthe HIATUSでご活動なされてはいるのですが……やっぱりELLEの復帰を望まずにはいられませんよね。かむばっく。

>11
ご評価とコメントありがとう御座います。
八雲の姓が無くとも家族。まさしくそれが言いたいがために書いたようなSSですので、そう言って頂けると本当にありがたいです。
15.100ずわいがに削除
久しぶりに本当の“マヨヒガ”が出てくる作品を読んだ気がします。まぁ、橙が主体の話では、はっきりさせておきたいところですからね。

橙の為を思って八雲と深く関わらせたくない、という二人は本当に優しいですね。ただ、それは他ならぬ橙自身の気持ちを無視することになる。
しかし“八雲”の姓なんて無くても、“橙”というこの一文字に二人の想いと、三人の繋がりが載せられているんですね。良いお話でした。


あとがきwwwひどくさっぱりしてるwwww
16.90コチドリ削除
葛藤はあるけれどこの程度では揺らがない。私の幻想する八雲とは少し違いますが、
でも、こんなに応援したくなる橙は久しぶりです。
次の作品も楽しみにしています。
18.100名前が無い程度の能力削除
八雲一家の絆を見ました。
橙への想いも、本人に伝わらなければ残酷になり得る。誤解が解消されて良かったです。
橙と藍の、それぞれの視点での心理描写がよかったです。
あと地味に後書きが気になるw
20.90とーなす削除
あ、文あぁぁぁ!
じょ、冗談だよね!? んもう、ゆゆ様ったらお茶目なんだから!

それはさておき、いい八雲一家でした。
ちょっと展開が王道過ぎるような気がしましたが、藍と橙の内面が
しっかりと描かれていてよかったと思います。
それと、藍が橙の頬を撃つシーンの描写が印象的。

誤字?
変えてくるだろうと思い、 → 帰って来るだろうと思い、
でしょうかね?
21.無評価C-kit削除
>15
ご評価とありがたいお言葉、ありがとうございます。
三人の名前のつながりに頷いていただけましたら光栄の極みに御座います。
さっぱり……お肉の味的な意味でしょうか?

>16
ご評価とありがたいお言葉、ありがとう御座います。
次の作品も、とか、あわわ。拙く勉強も足りない輩ですが、長い目で見ていただけますとありがたいです。

>18
ご評価とありがたいお言葉、ありがとう御座います。
心理描写を褒められたのは初めての経験ですのでモニターの前で小躍りしてしまいました。
お遊びのつもりで入れた後書きでしたが、気になって頂けましたらありがたく。

>20
ご評価とありがたいお言葉、ありがとう御座います。
真実はゆゆ様のみぞ知る……。
王道が大好きなものでして。奇をてらったような作品も、いつの日か作ってみたいものです。
シーンを印象的だなどと言っていただいたのも初めてなものでモニターの前でにやにやしてしまいました。
誤字報告もありがとう御座います。遅くなってしまいましたが、訂正させていただきました。