「人生は平凡で陳腐だ。新聞は空疎だし、犯罪社会には豪胆な熱も夢も、永遠にあとを断ったのかねえ」
――「ウィステリア荘」より
「どうぞ、パチュリー様。御昼食です」
そう言って咲夜がテーブルの上に昼食を並べる。その中で特に目立っていたのはザワークラウトだった。
ザワークラウト、ドイツの料理であるキャベツの甘酢漬け、それが山盛りと来たものである。
飲み物はライムジュース……ライムジュースとザワークラウトとはこれは何かの隠喩であろうか。
普通にパンはあるし、ザワークラウトとライムジュースを除けば昼食として不審な点はない。
いや、その二点を持って十分に不信と断じることはできるのだが、とろとろのチーズの乗ったパンで、私は十分に許せてしまう。
隣では小悪魔が『では、いただきまーす』と無邪気にパンに手を伸ばしている。
紅魔館の地下に広がる大図書館、その隅に置かれた小さなテーブルの上で私、パチュリー・ノーレッジはとろとろのチーズが乗ったパンを齧った。
しかし、大した量のザワークラウトである。
かつてドイツ人は、クラウト(キャベツ野郎)という蔑称で呼ばれたらしいが、それはこのザワークラウトに由来するらしい。
そして、ザワークラウトの隣に置かれたライムジュース。
「すっぱ……」
それしか飲み物が無いので飲むしかないわけだが、このライムジュースえらく酸味がきつい。
ドイツ人がクラウトと呼ばれれば、英国海軍はライミー(ライム野郎)と呼ばれた。
それは英国海軍では伝統的に壊血病の予防のためライムジュースを飲まされたからだ。
ちなみにザワークラウトも解決病予防のため、これらはビタミンCを多く含むのだ。
「しかし、独英で連合されてもねぇ……」
苦笑いを浮かべながら私は、ライムジュースでザワークラウトを流しこんだ。
「はい?」
キョトンとした顔で咲夜は私を見る。
「いや、何でもないわ……ところで咲夜、今日は何でこのメニューに?」
少々、いやだいぶ気になっているので聞いてみた。
「ええ、ビタミンCをたくさん摂っていただこうと思いまして」
なかなか幻想郷では聞かない単語を咲夜は口にした。
「なるほど、メガビタミン理論ってわけね」
「はぁ、そう言うのですか? 詳しいことは分かりませんがビタミンCは風邪の予防に効果があると聞きまして……」
メガビタミン理論。
外の世界の学者が提唱したらしいその理論は、一言で言えば「ビタミンC万能理論」だ。
ビタミンCをたくさん摂れば、風邪など引かないし健康も維持できるというビタミンC健康法。
ちなみに風邪の予防には効果はないが、風邪を引いたときの気道の炎症にはやや効果がある程度、らしい。
個人的な意見を言えば、ショウガでも食べていた方が、よほど効果的だと思う。
そのあたりの事を解説すると咲夜は『じゃあ、今度はジンジャーブレットを用意しますね』と言った。
まあ、寒いから私が風邪をひかないようにという配慮なのだろう。
毎年々々懲りずに引いてるからなぁ……せいぜい今年は三度の風邪を二度くらいに抑えたい。
「ごちそうさまでしたー」
隣で小悪魔が食事を終えている。
テーブルの上を見れば、山盛りのザワークラウトは無くなっていた。
よくぞあれだけのキャベツを平らげたと、少し戦慄しつつも、私は残ったパンを片付け始めた。
「パチェー、生きてる?」
昼過ぎになってようやく起き出したレミィが図書館を訪ねて来た。
「なんとかね」
本から顔を上げずに私は答える。
多少、礼を失した私の態度だが、レミィはいつもの事と気にせず、そこらに放置されてる椅子の上から本を除けるとそこに座った。
「なんか今日の朝食さ、ショウガ尽くしだったんだけど……私、なんかしたっけ?」
少し考え込むようにしてレミィは私に聞いてきた。
なるほど、既に風邪対策は導入されてるわけだ。
「ニンニクと違うけど、同じ生薬だしさ……遠まわしな私への抗議なのか、別に他意はないのか」
そう言ってレミィは腕組みをすると、
「その辺のこと、パチェはどう思う?」
と、聞いてきた。
そのままレミィに考えさせていても面白いが、ここはきっちりと説明した方が良いだろう。
私は、レミィに今朝の一件を教える。
「風邪対策って、私は風邪なんか引かないわよ」
レミィが、さも丈夫さをアピールするかのように答える。
本当に羨ましい話だ。
つい、馬鹿は風邪を引かないという言説を思い出す。
そして、レミィの普段の言動を思い出すと、それはある意味正しいのかもしれない。
彼女は、頭は悪くないのだが、いい意味で馬鹿と思う。
勿論、褒め言葉の意味での馬鹿で悪意はない。
「まあ、パチェは身体が弱いからね。ショウガを摂るのは悪いことじゃないわ」
レミィが私の顔色を見る。
きっと不健康な顔だと思っているのだろう。
「あんまり私は好きじゃないけどね」
食べられないわけじゃないが、そんなにショウガは好きでは無い。
「私は嫌いではないけどね。ジンジャーブレッドとかショウガの蜂蜜漬けとか美味しいし……まあ、とりあえずは咲夜が変な意図を持ってたわけじゃない事が分かったからいいわ」
そもそも、レミィに絶対忠誠を誓っている咲夜が、レミィに妙な意図を持つこと自体があり得るとは思えないのだけど。まあ、私もいきなりザワークラトを山盛りにされて、咲夜の意図が読めなかったわけだから、その辺は仕方がないところだろう。
「……しかし、暇ねぇ」
疑問が解けてすっきりしたのか、レミィは適当にだらけ始めた。
まあ、暇であるという事には同意できる。
このところ、ロクに事件らしい事件も、異変らしい異変も、イベントも祭も起きていないのだ。
「暇なら、適当に本でも読んだら?」
そう言って私は、周囲の本棚を示す。
幻想郷で最も本の集まる場所である我が大図書館、ここには魔導書以外の本も少なからず存在する。
その魔導書以外の本というコンテンツの中でも、特に人気のコンテンツである外の世界の本、それらは意外と娯楽性に富んでいるものが多くて見ていて楽しい。
「んー、なんか本を読むって気分じゃないのよね」
しかし、私の提案はあっさりと却下された。
「なら、散歩にでも行ってきたら? 神社とかどうかしら」
定番と言えば定番だが、霊夢の神社ならレミィも文句はないだろう。
「さっき、適当に散歩したからね。それに今日は遠出する気分じゃないわ」
それは困ったものだ。
果たしてどうなればこのお嬢様は満足してくれるのだろうか。
紅魔館の厄介事の八割はレミィの暇つぶしから端を発し、それを解決するのは六割が咲夜、三割は私か美鈴、最後の一割はレミィ本人となっている。
こちらとしては、平穏に日々読書をして過ごしていたいとこだけど、まあ、変化のない日常に紆余曲折をもたらしてくれるのだから、この厄介事はそんなに嫌いじゃない。
「しょうがないなぁ……」
読んでいた本を閉じると私はため息をつきながらレミィに向きなおった。
適当な椅子に座り、座った椅子が大きかった所為で、可愛らしく足をぶらぶらとさせている。
そうして足をぶらつかせる姿は子供っぽくて、なかなか可愛いらしい。
そんな事を思いながら、適当に観察してたところ、私はある事に気が付いた。
「……なるほど、そんな訳で今日のところは裏の温室をぶらついていたわけね」
紅魔館の裏には温室がある。
より正確に言えば、魔法使いの住む場所には大抵の場合、温室が存在するのだ。
育てるのは観葉植物の類ではなく、各種薬草や香草に香辛料や果物、魔法の植物など、魔法の触媒などに使うためだ。
「そーそー、適当な果物が何か実を付けていないかと思ってね……って、私、そのこと話したっけ?」
きょとんと、レミィが狐につままれたような顔をしている。
「いいえ、貴方は喋っていないわ」
その顔がおかしくて、私は澄まし顔で答えた。
「んー じゃあ、何でパチェは私が温室に寄ってから、パチェのところに来たことを知ってるのよ」
腑に落ちない、そんな顔でレミィは私をじっと見る。
すぐに教えても良いのだが、それではつまらないし、何より『退屈が紛れているレミィ』に悪い。
「さあ、何でかしらね」
だから、私は少しだけ挑発的にレミィを見た。
「咲夜が教えた」
「答えは、ノー。朝以降、私は咲夜に会っていないわ」
「小悪魔が……」
「違う違う、誰かに聞いた訳じゃないわ」
「えーっと。じゃあ占い?」
「魔法は使ってないわよ。というかもっと単純なことよ、聞けば『なんだ、そんな事か』って呆れるような話」
「えーと……」
そう言うとレミィは目を閉じて、うんうんと唸り始める。
なかなか苦戦しているようだ。
「当てずっぽう」
「違う」
「あ、たまたま見てたとか」
「今日は、地下から出てないわよ」
「何気にパターンになってる」
「うん? パターンって」
「いや、私の行動パターンを読んだとか……何日か周期的に温室に行ってるとか?」
「うーん、方向性は少し近づいてきたけど違うわね」
レミィの行動は、見ていて規則性が無い。
しかし、レミィの行動がパターン化できたら色々と楽ができるかもしれない。
「あー、ヒント頂戴」
少しだけいらついたようにレミィは言った。
短気なことだ。
「……ただ見るだけじゃない、観察するんだ、ってね。世界で一番有名な探偵の言葉よ」
あの伝説の名探偵の遺した金言を聞き、レミィは自分の身体をマジマジと観察し始めた。
背中の羽根を見ようとしてクルクルと回転する様は、自分の尻尾を追い回す猫のようだ。また、自分の頭上を観察しようとして鏡を見たが、吸血鬼は鏡に映らないので困る姿は見ていて吹き出しそうになって、思わず顔をそむけてしまう。
「……ん、もしかして」
自分の足を掴み、その靴裏を眺めていたレミィが声を上げる。
どうやら、ようやく気が付いたようだ。
「はい、正解。レミィの靴には僅かに土が付いている。その土は外の庭園のものではない、ついでにちょっとついている砂利は温室に敷いるものと思われる。この事からレミィが温室に立ち寄ったことが分かったわけ」
まあ外に出かけていたら、その靴に付いていた砂利が温室のものか断定はできないわけだけど『この辺を散歩』となれば、それは紅魔館、及びその近辺に限られるわけだ。
そして、紅魔館で砂利のある場所は温室の中の一部に限られている。この事実からレミィが温室に行ったと断定できるわけだ。
「なんだ、そんな簡単なことで」
自分の足の裏を眺めながらレミィは、拍子抜けしたように呟いた。
「そうね、パッと見は簡単なことね。でも、そうした何でもない事を観察することで、何が起きているのかを理解するのが推理というものよ」
微妙に格好を付けて私は言った。
そんな私を見て、レミィは『へー』と感心したように息を漏らす。
「それって、私にもできる?」
「え?」
目をキラキラと輝かせたレミィが身を乗り出し、私は思わず声を上げてしまった。
そう言えば、以前彼女は探偵の真似事をしたことがあった。
あの時、レミィは安楽椅子探偵を気取り、単なる勘と当てずっぽうで、なんとなく事件を推理していたけど……もしかしてレミィは探偵に憧れているのだろうか?
……なんとなく、私は厄介事が起こりそうな予感がした。
それは長年の経験から、こうした時のレミィは大抵暴走して厄介事を引き起こすことを知っているからと、純然たる虫の知らせからだった。
「ねぇ、できるかな?」
しかし、目を輝かせて私に問いかけるレミィに私は、
「ええ、推理ってのは、やり方を学べば誰にでもできるわ」
と、答えた。
厄介事なんて、いつもの事だしね。
「探偵術の基礎は徹底した状況観察、そして得た手がかりで『そこで何が起きたのか』を推理すること……たとえば落ちているタバコの灰から吸っていたタバコを特定し、そうすればそのタバコを嗜好する誰かがそこに居たという事が分かる。足跡からはおおよその体重や身長、それに性別だって分かるかも知れない。食べ残しからは? 少なくとも食生活は分かるし、たとえば肉が残されていれば、残した人間は肉を食べることができなかった可能性が出てくる。それは宗教信条のためか、消化器系が弱いためかは分からないけど、少なくとも僅かだけど情報の蓄積にはなる……こうした情報をひたすら溜めこんで推理の材料にするわけね」
「めんどくさそうね」
それがレミィの第一声だった。
私の推理が面白そうとレミィは探偵術のイロハの教授を願ったので、とりあえずいろはのイを教えてみたら、ごらんの有様だ。
「まあ、推理というものは、そういうものよ」
「そんな事、ちまちま考えていて楽しいの?」
随分と根本的なことを言う。
「た、楽しいとかそういう事じゃないのよ。探偵はそう言うのがお仕事なんだから……」
まあ、名探偵と呼ばれる類の人らは、楽しんでやってそうだけどね。
「なんていうか、一発で犯人はお前だ! って、終わらせる方法ないの?」
だめだこいつ。
私は頭を抱えそうになった。
「無茶言わないでよ……」
たとえば、推理小説の最初の数ページで『犯人』が問答無用で明かされてはそもそも推理小説にならない。
一つ一つ、推論を積み上げるから面白いのではないか。
「あー、霊夢に『あんた午前中は炬燵に籠っていて、午後は境内の掃除をしていたわね!』とか言って、霊夢の行動を的中させて驚かせようと思ったのにー」
それはだいたい五割ぐらいの割合で的中しそうな気はする。
「まあ、適当に見るんじゃなくてきちんと『観察』するように心がける。それだけで随分違うはずだから、まずそれから始めれば良いと思うわ」
そう言って私は休憩にとお茶の準備を始めた。
しかし、やる気はあるかと教えてみればこの有様とは……まあ、これなら特に難儀な事も起こらないから、その点においては良いのかもしれない。
私は、こっそりとため息を吐き、紅茶の準備をする。
咲夜を呼んで淹れて貰うのも良いが、たまには自分で淹れるのも悪くない。
「ん、パチェ。カップ変えた?」
「え、ああ。割っちゃってね」
私が答えても、レミィはじっとティーセットを眺め……いや観察し続けている。
そして、
「……魔理沙の怪我、大丈夫だった?」
と、言った。
「え、えええ!」
私は思わず声を上げる。
なぜなら昨日の事だ。
『はい、ロイヤルミルクティー。熱いから気を付けてね』
『サンキュー って、あちぃ!』
『ま、魔理沙さん大丈夫ですか!?』
『あー、私の魔法書が……』
『って、やばッ! って、アウチ!!』
『もうなに滅茶苦茶にしてるのよ!!』
『本当に大丈夫ですか、魔理沙さん!』
『あー指切ったー』
『まったく……小悪魔、薬を持ってきて』
『は、はーい。ただいま!』
『痛ってー、まったく酷い目にあったぜ……』
と、魔理沙がカップを割ってしまい、その時に破片で手を怪我してしまったという、ちょっとした事件があった。
だけどレミィは昨日、紅魔館を留守にしていて、魔理沙が来たことすら知らないハズだ。
いや、咲夜あたりから聞いてる可能性はあるけど……って、咲夜はレミィと一緒に出かけていたから美鈴か? でも、片付けは小悪魔と魔理沙の三人でやったし、逆に言えば三人しか、その出来事は知らない。
小悪魔が教えた線は……いや、違う。
わざわざ、この状況でレミィが私に『魔理沙が怪我した?』と聞いているという事は、彼女が観察の結果、その事に気が付いたという事だ。
と、なればこの場に魔理沙が怪我をした痕跡が残っているという事。
つまるところこれは、レミィから私への挑戦!
「……なるほど、受けて立とうじゃない」
私は、ティーセットを観察する。
「カップが変わっている以外、特に何もないわね……」
穴が開くほどの観察を、見るのではない、集中をして確固たる観察をした。
「ヒントあげようか?」
そんな事を言ってくるレミィを見ると、なんか得意げに私を見ている。
……ちょっとウザい。
いや、凄い得意げな表情がまことにウザい。
「まあ、くれるなら貰っとこうかしら」
全然分からないのは事実だしね。
「トレイよ、ト・レ・イ」
レミィは私に諭すように優しくヒントをくれた。
トレイを見る。
ごく普通のトレイだった。
……吹き残しでもあっただろうか?
血の跡は残りやすい、その辺で魔理沙が怪我をしたことを?
でも、それが魔理沙のものだと、どうして分かるのだろうか?
「………………降参よ」
私は小さな声で敗北宣言を出す。
「あら、降参? 分からないの? 紅魔館の頭脳ともあろう貴方が? しょうがないわね~」
そんな私をレミィはえらく楽しそうに話しかける。
こうした事で一本取ったのがよほど嬉しいのだろう、私は冷静に『ええ、負けたわ。流石ねレミィ』と彼女を讃える。
ええ、私は大人ですから。
この程度で、ついカッとなったり、頭に血が上ることなんてありませんよ?
「降参だから、どうして分かったのか教えてくれない?」
だから、微妙に声が硬いのは気のせいです。
「知りたいの?」
「知りたいわね」
どうやって『魔理沙が怪我をした』のか、その推論の過程は実に興味がある。
レミィの口ぶりだと、ほぼ間違いなくここにある材料だけで『魔理沙の怪我』という事実を見出した。
この、特に変哲無いお盆、これからどのように推理を展開するのか、実に興味深い話だ。
これが、実は小悪魔から聞いたとかだったら、白木の杭を持って襲いかかってやる。
「簡単な話よ。トレイには魔理沙の血が付いているわ」
そうしてレミィは胸を張った。
それで証明終了だと言わんばかりのその態度。
「ど、どこよ?」
流石に慌てた私は尋ねた。
いくらトレイを眺めてもそれらしいシミは存在しない。
「もー、パチェってちゃんと観察してるの? ここよここ!」
レミィが指差したと所をじっくり眺める。
しかし、やはりそこになんら異常は見当たらない。
「な、何もないわよ」
何もない。
それは普通のトレイであり、なんら血だとか汚れは付いていない。
「えー、ここに魔理沙の血がしっかりと付いてるじゃない」
そんなこと言われても何もありません。
トレイは、とても綺麗であり、全くシミの一つも無かった。
コレを持って証拠と言われても何がなんだか分からない。
完全に話が平行線をたどり始めた時、私はある事に気が付いた。
「ち、ちょっと良いかしら」
トレイを取り上げると私は駆けだした。
「え、パ、パチェ?」
レミィが戸惑うが今は無視。
ひょっとするとこれは面白いことになるかも知れない。
「咲夜ー! ここに何か見える?」
目的の場所に向かおうとしていた途中でたまたま見かけた咲夜に私はトレイを見せた。
「は、はい。えっと、申し訳ありません。普通のトレイのように見えますが……何か粗々でもありましたか?」
「いいえ、何でもないわ。ありがとう!」
私の推論が補強されるのを確認すると私は、目的の場所に向けて走り出す。
「フラン、居る?」
来たのはフランが普段閉じこもってる地下室、そして目的は当然、
「居るよー」
レミィの妹であるフランドール・スカーレットだ。
しかし、久しぶりに走ると足が痛いなぁ。
「ねぇ、フラン。ここに何か見える?」
私はお盆をフランに突き出した。
「んー、なんか付いてる……ええと魔理沙の?」
「……やっぱり」
その一言で私は確信する。
「ちょっとパチェ! いきなりどうしたのよ!」
「あ、お姉様」
少し遅れてレミィがやってくる。
「謎はすべて解けたわ!」
そんな現れたレミィに私は指を突き付けた。
「え、何が?」
レミィはキョトンとしているが私は気にしないで続ける。
フランに至っては、本当に何が起きてるか分かっていないようだが、それも気にしない。
謎は解けたのだ、すなわち現在の私は証明終了という固有結界を顕現化している。
すなわち、この解かれた謎の証明を終えるまでいかなる人物であろうと、私の推論を妨げることはできない!
「ここに付いているとレミィが言う魔理沙の血、けどそれは私には見えなかった……最初、私は見落としていたと思ったけど、そうじゃなかったのよ」
「ど、どういう事?」
意外と食い付きが良いのは、話が噛み合っていなかった事はレミィも気になっていたのだろうか。
「簡単に言えば、レミィと私では見えてるものが違うのよ……正確に言えば吸血鬼とそれ以外ではと言ったところかしら」
「見えてるもの?」
フランも声を上げる。
こんな状況下でも話に付いてくるのは、その生まれ持った先入観の無さからか。
「吸血鬼は血を吸う生き物、それゆえに血に対しては強烈な知覚を示すのよ……私たちでは全く見えない血の痕跡でもあなたたちでは明確にそれが分かるのね。犬が人間では嗅ぎ取れない匂いを嗅ぎ取るように、吸血鬼はかすかな血の痕跡すら見出すことができる、しかも状況次第では血を流した本人を特定することができるのよ!」
私は、そう締めくくりレミィに指をビシっと突きつけた。
「へー、そうだったの」
そんなレミィ感心したようの私の主張を受け入れる。
本人からすれば、ごく当たり前のことだが……いや、だからこそレミィにはそれが特別なことだと分からなかった。きっと、彼女的にはちょっとしたクイズを出した程度だったのだろう。
しかし、それは吸血鬼特有の知覚によってのみ分かることで、普通の知覚を持った者には分からない問題……それでレミィと私の会話は噛み合わなかったのだ。
「まあ、そんなとこね」
私はようやく息を吐く。
全力疾走からの証明終了まで、休憩は一切なし……肺に無茶を強要してしまったかも知れない。
「けど……じゃあ、アレって事?」
私の話を聞いていて、少し考え事をしていたレミィが声を上げる
「え、何?」
「私は、灰色の脳細胞を持ちながら、更に特別な感覚を持ったもの凄い探偵になれるってことね」
少しだけ口の端を持ち上げてレミィは言った。
「じゃあ、私もー」
釣られるようにフランも手を挙げる。
「なるほど……面白そうね」
血からあらゆる情報を引き出す探偵、確かにそれは相当有能な探偵となるだろう。
いかな血生臭い事件であっても、いや血生臭い事件であればある程真価を発揮する探偵……これは非常に有能な探偵と言えるのではないだろうか。
「ふふ、決めたわよパチェ」
「何を?」
決意を秘めたレミィの目を見て、私は何を決めたのかを聞く。
「これより、紅魔館にレミリア・スカーレット探偵事務所を開設する。幻想郷の事件は私に任せろ!」
……なかなか大きく出たものだ。
しかし、その力をもってすれば探偵事務所を開く資格は十分にあると言えるかもしれない……まあ、純粋な推理力に不安はあるが、その辺はいくらでもサポートできるだろう。
ただ一個気になる事と言えば、
「レミリア・パチュリー探偵事務所よ」
私の名が無いことだけだった。
「だったら私もー、レミリア・フランドール・パチュリー探偵事務所でー」
「あら、楽しそうですね。でしたらレミリア・フランドール・パチュリー・咲夜探偵事務所の方がよろしいかと」
「ええー、レミリア・フランドール・パチュリー・咲夜、小悪魔探偵事務所でしょう」
「私の事を忘れていませんか! レミリア・フランドール・パチュリー・咲夜・小悪魔・紅美鈴探偵事務所でしょう!」
「ちょっと待ってよ。何であんただけフルネームなの?」
どっから沸いてきたんだ、あんたらは。
結局、妖精メイドたちまで現れたせいで、「レミリア・フランドールのスカーレット姉妹、及び友人の魔法使いパチュリー・ノーレッジ、メイド長十六夜咲夜、門番紅美鈴、大図書館の司書小悪魔、妖精メイド’s探偵事務所」、略して『紅魔館探偵事務所』に落ち着きました。
レミィは『じゃあ略して不夜城レッド探偵事務所でいいじゃない』と言ってましたが、なんとか阻止することができたのは僥倖と言えた。
※
シュンシュンと音を立てる薬缶が音を立てている。
「沸いてるわよ、パチェ」
だるそうにレミィが私に薬缶を取らせようと促すが、私は聞こえないふりをして『幻想郷に探偵事務所開設! 不夜城レッド探偵事務所に突撃!』と我らの探偵事務所が一面を飾った記念すべき文々。新聞を読み続けた。
ちなみに新聞で事務所の名前が変わってるのは、インタビューに答えたレミィが、事務所の名前を聞かれた時に勝手に答えてしまったからだ。そんな訳で既成事実にされた所為で我らの事務所の名前は、不本意ながら不夜城レッド探偵事務所に落ち着いてしまった。
そんな私の態度にレミィは舌打ちをひとつし、諦めたように薬缶を手に取ると、事務所の戸棚から金属製のカップを二個取って、そこに粉末コーヒーを適当にぶち込み、薬缶から熱湯を注いだ。
「私はいらないわよ」
探偵はコーヒーを飲むものと、レミィは事務所に居る時に限ってコーヒー党に変わっている。しかし、探偵の飲み物に限って言えばレミィと私の考えは異なっていた。
そもそも、コーヒーと探偵の関係は所謂『ハードボイルド』と呼ばれる都会派の探偵、より正確に言えばコーヒーばかり飲んでいる亜米利加の探偵から付いたイメージだ。
その証拠に英吉利系の伝統的な探偵はあまりコーヒーを嗜んでいない…………と、思う。まあ、英吉利は紅茶、亜米利加はコーヒーと相場が決まっているものだ。
そんな訳で、私は事務所に居る時でもスタイルを崩さない。
別にコーヒーが苦いから飲まないわけではないのだよ。
「分かってるわ、これはフランの分よ」
そっけなくレミィが私に告げる。
となれば、飲まないと分かってるのに人にコーヒーを淹れさせようとしていたという事か。
なんたる悪逆非道だろう、紅い悪魔の二つ名は伊達では無い。
「フランー コーヒー飲むー?」
レミィはソファでだらだらしていたフランに声をかけると、
「ちょーだいー」
と、フランは寝ながら手を伸ばした。
探偵事務所を開いてから、妹君は地下室にこもっているよりも、ここにこもることが多くなった。
どっちも、引きこもりには違いないけど、こちらの方が多少は健康的なのかもしれない。
「砂糖もミルクもないブラックよ、しかも適当に濃くしたから『人生の如く苦い』と思うわ」
スプーンを使わずに瓶を適当に傾けて粉末コーヒーカップに注ぎこんで淹れたブラックコーヒー、レミィの入れたコーヒーは見た目からして危険な感じに仕上がっていた。
一言で表せば『まさにドロやヘドロ』としか言いようがない。
よく探偵は泥水みたいなコーヒーを飲んでいるが、泥のようなコーヒーはあまり飲んで無いと思う。たぶん、これを飲めばどんな睡魔であろうと一撃で退散されるに違いない。
「わーい」
しかし、そこは怖いものなしのフランの事、何も考えずにコーヒーを飲んでいる。
「まったく、風情が無いわね……こういった泥のようなコーヒーってのはね、少しづつ啜ってこそ真価が……ぶへぇらぁ!!」
一口飲んでレミィが噴いた。
「何やってるんだか……」
自分で淹れて、自分で噴いては世話が無い。
私は、テーブルに置かれた呼び鈴を鳴らす。
「御用ですか?」
すると、鳴らして数秒もたたないうちに、咲夜が事務所に入ってきた。
「ち、ちょっとゴホッ! 咲夜、勝手に事務所に入ってきちゃだめでしょ……ゴホゴホ」
「良いのよ、私が呼んだんだから……咲夜、レミィの世話と零れたコーヒーの掃除をお願い、あと紅茶三人分お願いね」
「はい、かしこまりました」
私の指図に咲夜は優雅に礼をすると、即座にレミィの世話へと向かう。
「大丈夫ですか、お嬢様?」
「あー、もう。今の私はお嬢様じゃなくて探偵長でしょ!」
文句を言いつつも、レミィはされるがままに咲夜に顔をタオルで拭かれていた。
レミィは『不夜城レッド探偵事務所』を発足するにあたって一つのルールを課した。
紅魔館の使われてない角部屋を改装して作った『不夜城レッド探偵事務所』ここは紅魔館であって紅魔館では無い。
そこに居る間は、レミィは探偵長であり、私たちは平の探偵、使用人も友人もなく、ただ探偵事務所の探偵となる。
つまり、使用人として振舞う事はまかりならん『だいたいメイド付きの探偵なんてかっこ悪いでしょ』という事らしい。
どうも、レミィの考える探偵というものは、硬派なハードボイルド探偵のようである。たぶんだけど英吉利あたりの探偵なら普通にメイド付きの探偵くらい居るんじゃないだろうか。
まあ、そんな訳で、探偵十六夜咲夜は入ることができるけど、メイド長の咲夜は『不夜城レッド探偵事務所』に入ることは原則許されない。
最も、頃ルールはそこまで厳密に決められたものでは無く、つまりはメイドとしての咲夜自身は招かれなくては入れないって程度の事でしかない、って、なんかそれって吸血鬼みたいね(吸血鬼の伝統的な弱点の一つに招かれなければ家に入ることができないというものがある))。
「だいじょーぶ、お姉様?」
そう言ってフランは泥の如きコーヒーの最後の一滴を飲み干した。
姉が吐き出したものを顔色一つ変えずに飲み干すとは、味覚が姉より発達しているのか、それとも味覚がイカレているのか、その辺の判断はつかない。
「へ、平気よ! ちょっとむせただけなんだからね!」
顔を赤くして叫ぶレミィ、それを興味深げに見ているフラン、楽しそうに世話する咲夜、そしてそれを見ている私、平和だ。
実に平和だった。
今日も探偵事務所は平和だった。
紅魔館に事務所を開き、今日でもう10日になる。
その間、解決した依頼はメイド長からの『銀食器が見つからないんです殺人事件』や小悪魔からの『分類用の文化人類学の仕切りが見当たらないんです殺人事件』などの落し物探しを二件だけ。
あ、ちなみに事件の末尾が『~殺人事件』となってるのはレミィの趣味だ、ただの落し物探しなどしたくないという気持ちと何でもいいから仕事をしたいという気持ちの二律背反の結果が、つまらない事件を大げさにして解決するという意味不明な行動に駆り立てたのである。
そんな訳で大々的に広告を打ったり、天狗に取材させたにもかかわらず依頼は実質ゼロだった。
おかげでやる事と言ったらこうして事務所で『事件が無く日干しになった探偵』を演じるのみ。
「やっぱり、黒いスーツに赤いシャツ、それに黒のソフト帽やネクタイも必要かしら?」
どうやらレミィにとっての探偵とは、かの都会派探偵のようだ……なるほど、それならさっきのコーヒーを噴き出したのは仕込みだったのだろうか。
少し気になるところである。
「まあ、妙な恰好をするのは屋敷の中だけにしてよね」
「良いじゃない、探偵たるものこだわりは必要でしょ」
釘を刺してみたが、レミィは平然と私が刺した釘を一蹴する。
だったら、私はディアストーカー(鹿撃ち帽)と外套に身を包んで、パイプとステッキでも持ち歩いてやろうか。
そんな自分の姿を想像すると、普段とあまり大差がなかった…………あまり面白くない。
「でも、探偵云々と言うなら事件の一つでも解決しなきゃね」
「む、そうね……」
耳が痛いことを言われた所為で、レミィは少しだけテンションを落とす。
「そうですね……このままでは我が探偵事務所は干上がってしまいます」
レミィの世話を終え、紅茶の支度をしていた咲夜が楽しげに言った。
所詮は道楽でやってるのだから干上がりはしないが、この探偵事務所を紅魔館から切り離した時、割と洒落にならない赤字なのは確かだ。
なにしろ、一切収入が無く、妙な設備費ばかりかかっているのだから。
「そのうち一発当てなきゃねぇ」
フランがそう言いながらバットを振る真似をする。
「なんか違う気もするけど、フランの言う通りね。結局のところ『出来たばかりの探偵事務所』なんて危なっかしくて誰も頼りにしない……この探偵事務所に必要なのは、まず『実績』よ。誰もが知るような大事件を解決した名探偵レミリア・スカーレットの居る探偵事務所、このイメージを広く幻想郷に知らしめなくては、この『全世界ナイトメア探偵事務所』に未来はないわ!」
レミィの言ってる事は正論なんだけど、略称が変わってることが激しく気になる。
なにかあるたびに、事務所の名前を変えないでいただきたい。
「さらに、幻想郷に広く名探偵レミリアの名声が広まった暁には、人々はきっとこう噂するわ……『名探偵レミリアって、いったいどれほど聡明な方なのかしら? 八意永琳や八雲紫、稗田阿求や上白沢慧音、彼女たちよりも賢いのかしら?』『当然よ! なんと言っても全世界ナイトメアな頭脳を持った不夜城レッドな名探偵、きっと人知を超えた英知の持ち主に違いないわ』ってね。そう考えるとゾクゾクしない?」
そう言ってレミィは演説を終える。
私は、否定するにも肯定するにも難しく、どうとでもとれる曖昧な笑みで答えた。
まあ、無いな。
そう思った。
その後、何事もなく紅茶の時間となり、私とレミィとフランでテーブルを囲んでいる。
囲むテーブルは微妙にギシギシいってる木製のテーブル。
貧乏探偵事務所が応接用なので精一杯の背伸びをして買ったテーブル、という感じのそこそこ高価そうなんだけど耐用年数が過ぎている所為でボロい、でもそれなりに上品なテーブルだ。
この辺の探偵事務所の備品の妙な力の入れ方はたいしたものである。
レミリアが座ってる探偵長のテーブルも、事務所に放置してある椅子も、事務所の入口のコートハンガーも、古ぼけたロッカーも含め、いい感じに流行ってない探偵事務所風でなかなかセンスが良い。
いや、私のセンスとは離れているのだがその辺のセンスも分からない訳じゃない……しかし、これがイギリスの下宿風でまとめてくれれば最高だったのに。
「しかし、暇ね」
レミィが紅茶を啜りながらぼやく。
「そりゃ、依頼人が来ないからね」
騒いだところで依頼人は来たりしない
「お姉様、スコーン食べないの? だったら貰っちゃうよ」
「別に食べないわけじゃなくて、後でちゃんと食べるわよ……って、欲しいの?」
レミィのお皿のスコーンをもの欲しげに見つめているフラン、そんな妹にレミィは優しく尋ねた。
珍しく姉らしいことでもしようというのだろうか。
「うん」
そんな姉にフランは素直に頷いた。
「そう……じゃあ、パチェのスコーンをあげるわ」
素直なフランにレミィも心を開いたのだろうか。
彼女は優しく微笑むと、私のスコーンが乗った皿をフランに差し出した……って、
「ちょっと、まてーい!」
思わず、いい話だと流しそうになったが、私は我にかえってレミィの手をつかんだ。
「わーい」
しかし、遅かった。
私のスコーンは既にフランの手に掴まれ、その欲望でぎらついた口の中へと放り込まれていく。
「ああ、私のスコーンが!」
私は、いとしいスコーンの名を叫ぶ、しかし無慈悲にもその声はスコーンには届かない。
なぜなら、
「御馳走様でした」
一口で、ただの一口でスコーンはフランに食べられ、挙句の果てに御馳走様といわれてるのだから。
スコーンは、失われてしまったのだ、永遠に……
「美味しかった?」
「うん!」
悪魔の姉妹が顔を合わせて笑う。
「……この、ひとでなし!」
スコーンを『喰らった』妹と、喰らわせた姉に私は呪いの言葉を投げかける。
しかし、二人はきょとんとして居た。
「ていうか、人じゃないでしょ。パチェもそうだし」
そうでした。
『人』で『無い』のは三人ともですね。
「それにパチェ、最近太ったとか言ってなかったけ? だから私が食べてあげたんだよ」
姉に続き妹の方が私に、乙女のタブーを投げかける。
「言ってないわよ。そんな事!」
せいぜい、最近食べすぎたとか、ちょっと運動した方が良いかなとか、正月だからってお餅ばっかじゃダメよねとか、その程度のことしか言ってない。
誰だ。そこで『それを指して太ったと言う』とか言った奴。
……ここで、怒っては太ったと肯定するようなものだ。
私は『良いわ、別にお腹すいてないしね』と流すんだ。
そう、ムキになってはいけない。
冷静になれ、パチュリー・ノーレッジ。
「あー、ごめんなさいねパチェ。いま咲夜に言って、もうちょっと焼かせるから」
レミィは『てっきり太るからといらないだろうと思っていたのよ』と、言いたげな表情で私に謝る。
だが、私は、
「良いわよ、別にお腹は空いていないしね」
そう言って断る。
そうだ。
単に食べようと思ったスコーンが、突然失われた為にちょっと動揺しただけだ。
良いじゃない、スコーンの一つや二つ。
どこかの幽霊の姫君ではないのだ、食にそこまで執着してどうする。
そもそも魔法使いは『食べる』必要のない種族ではないか。
執着を捨てて、冷静に物事に対応するのだ。
「……パチェ、怒ってる?」
見ればフランが怯えている。
何をやってるのだか、その顔を見て私は平常心を完全に取り戻した。
「大丈夫よ」
そう言って私は笑った。
もう、大丈夫だ。
平常心、平常心。
「……太ってたって言って、ごめんなさい」
「だから、太ってないって言ってるでしょ!」
私の平常心は吹っ飛んだ。
「暇よねぇ……」
まるでそれは無限ループのよう。
薬缶はシュンシュンと音を立て、それをぼんやりと眺めながらレミィは呟いた。
探偵事務所を開設して既にひと月が過ぎそうになっていた。
事件は……言うだけ野暮というものだ。
こうも暇だと、地下室の方がマシなのかフランは最近、事務所に顔を出さない。
他の連中も同じようなもの、ここに居るのは私とレミィと、それに掃除に来る咲夜ぐらいのものだった。
現在の探偵事務所は、回り回って『ミゼラブルフェイト探偵事務所』どうにも不吉な名前の探偵事務所、私ならこんな探偵事務所の戸を叩いたりしない。
「まあ、依頼人も来ないしねぇ」
私は読んでいる本から顔を上げずに答える。
読んでいる本は『ストランド・マガジン 1891年8月号』ホームズの解決した事件の中で私が一番好きな『赤毛組合』が掲載されている雑誌である。
残念ながら、名探偵シャーロック・ホームズは幻想入りしていない。
しかし、それが掲載されていた雑誌ストランド・マガジンは1950年を最後に廃刊され幻想入りしたため、こうして私は幻想郷でもホームズ譚を楽しめるのだ。
「まったく、幻想郷の連中も見る目が無い。こんなところに世紀の名探偵が居ると言うのに……」
「幻想郷は平和と言う事よ」
見る目が無いから暇なのかもしれないけどね。
「平和ね、おかげで商売あがったりだわ」
忌々しそうにレミィは呟く。
「……まるで『モリアーティが居なくなってから、ロンドンもつまらない町になってしまった』ってところね、まさか駆けだし以前の私たちが名探偵と同じ事で悩むとは思わなかったわ」
「誰それ?」
有り余るほど暇な為、少し小難しい事にも関わらずレミィが興味を示す。
「モリアーティってのはね、名探偵シャーロック・ホームズの宿敵よ」
シャーロック・ホームズの唯一にして絶対の宿敵、それが教授こと、モリアーティ教授である。
本名は、ジェームズ・モリアーティ。
大学で数学を教える教授でありながら、犯罪組織の首魁であるという怪人物で、幾つかの異名を持ち『犯罪界のナポレオン』『悪の天才』などと呼ばれた。
彼は、多くの犯罪にかかわりながら決して直接関与せず、警察の嫌疑を逃れ続け……いや、疑われる事すら無く大学教授として生活を続け、ロンドンの闇に君臨し続けた悪の帝王なのだ。
しかし、悪の天才は同様の知性を持つホームズの出現によって破滅を迎える。彼は、正体を見破ったホームズによって追い詰められ、最後はライヘンバッハの滝から落とされて、その波乱万丈な生を終えた。
こうしてロンドンは平和になったのだが、そんな犯罪のナポレオンの死を最も悼んだのは他でもないホームズ自身だった。
それはホームズという人物が『退屈と停滞』を嫌う人物だからである。
モリアーティが居た頃のロンドンはホームズにとって天国と言っても良かった。
悪の天才はロンドンに繊細にして大規模な犯罪ネットワークを展開しており、世間を揺るがす殺人事件から、ケチな万引き事件まで様々な要素が不可思議に絡み合った犯罪計画を立て続けていた。
それは、ロンドンを常に陰謀が横行する危険な町に変えたという事であり、それはロンドンがホームズにとって『退屈と停滞』とは無縁に、同等の知性ある『指し手』と思う存分に知恵比べを出来るという至福の環境であったという事だ。
モリアーティの死後、ホームズは事あるごとに『モリアーティの居た頃が懐かしい』『モリアーティが居なくなってから、ロンドンもつまらない町になってしまった』『モリアーティが居なくなって僕は失業者になってしまった』と嘆く。
犯罪者がいなければ探偵に仕事が無い、それは一つの真理だ。
最も、ホームズの場合は犯罪者を撲滅して仕事が無いと言っていたが、我々は、そもそも幻想郷が平和な所為で仕事が無いので、事情は少々違うわけだが。
「へー、誰からも疑われなかった悪の首魁ねぇ……」
興味深そうにレミィはモリアーティ教授の話を聞いていた。
まあ、幻想郷にこういうタイプは少ないので物珍しいのだろう。
「このモリアーティは、色々と面白い話があってね、小惑星の力学って……」
興が乗ってきたので私はモリアーティ教授に関する小話に入ろうとする。
しかし、じっと考え込んでいたレミィはいきなり、
「謎はすべて解けた!」
と、私に指を突き付けた。
「はい?」
「ふふふ、分かったわ。パチェ……すべての謎は名探偵レミリア・スカーレットが解決した」
「い、いや、謎が解けたって、そもそも謎は?」
そう、謎を解くためには解くための謎が必要なのだ。
いや、なんか観念的な話みたいだが、当たり前な話、箱を開けるためには箱が、扉を開くためには扉が、謎を開くためには謎が必要だ。
無い謎は解くことができない……レミィはいったい何を解いたというのだ?
「ふ、ふふふふふっふふふふふ……これがただの探偵と名探偵の差と言うものね」
そういうとレミィは私になんかむかつく目線を送ってきた。
いわゆる見下した目と言う奴だ。
「ほほぉ、なるほど、それじゃ名探偵様はどんな謎を解いたというのかしら?」
挑発的に私は言った。
「ふふふ、まー、焦りなさんな。博麗神社に行けばすべては分かるわ」
「は? 何でいきなり神社に行くの?」
いきなりの提案に私が白黒していると……って、これって典型的な探偵助手の受け答えである事に気が付いた。
よく『なんだってそんな事を言うんだい●●』みたいな事を言う驚き役の助手、いわゆるワトソン役の事ね。
それがなんか嫌だったので、私は、
「……わかったわ。じゃあ神社に行きましょう」
と、もの分かりよく頷いた。
しかし、これはこれで助手っぽい気がした。
※
「あー、塩饅頭が無くなってる」
博麗神社の巫女である博麗霊夢は、台所の戸棚を開けて声を上げた。
戸棚にしまっていた塩饅頭が見当たらないのだ。
食べた記憶は無い。
なのに無い。
普通だったら首を傾げるところだが、霊夢の反応は少し違った。
「また、紫の仕業ね!」
紫……それは幻想郷のスキマ妖怪、八雲紫の事である。
あらゆる境界を操る程度の能力を持つ八雲紫はスキマを使う事で幻想郷のどこにでも姿を現す。
そして、あらゆる場所にスキマを出現させて、閉まってあるものを取っていってしまう。
たとえば、台所の戸棚に入れて置いた塩饅頭をこっそりと食べることくらいは朝飯前どころか、朝のおめざである。
そうして霊夢が台所で紫に対して愚痴っていると、
「はーい、霊夢」
と、レミリア・スカーレットとパチュリー・ノーレッジが姿を現した。
「ああん? 何の用?」
塩饅頭を取られて機嫌の悪い霊夢は、がら悪くレミリアに返事を返す。
「いやね、ちょっと探し物とQ.E.D.しに来たのよ」
人を食ったようにレミリアは霊夢に笑いかける。
「はぁ? QED? あんた何言ってるの?」
「Q.E.D. ラテン語のQuod Erat Demonstrandumの頭文字を並べた単語であり、意味は『かく示された』ね。数学などで証明や論証の最後に置かれ、これ以上の論議が不要であることを示すのに使われるものよ……フランのスペルカードでも使われたから知らないわけじゃないでしょ?」
「いや、そう言う事じゃなくて、何を証明しに来たのかって聞いてるのよ」
何とも話がかみ合わない、霊夢はそんな顔でレミリアに聞いた。
「そう、私はある事を証明に来た……そのためには謎を引きずり出さなくてはいけない」
そう言ってレミリアは吸血鬼特有の爪を出す。
「な、なにする気よ」
「レミィ?」
不審な空気を感じ取った霊夢とパチュリーが声を上げる。
しかし、レミリアは答えずに台所の中へと侵入し、霊夢との距離を詰める。
「ごめんなさいね、霊夢。その為には、証明のためには………………あなたの命が必要なのよ」
「え?」
その瞬間、紅の閃光が霊夢を襲った。
あまりに唐突だった。
一切の躊躇なしの鋭い爪による喉笛への攻撃、幻想郷でも指折りの敏捷性を誇る吸血鬼ならではの超高速攻撃。
同行した私、パチュリー・ノーレッジには、どうにかその攻撃の軌跡を追う事は出来たが、実際に動いて対応することはできそうにない。
そしてそれは、レミィの攻撃を受けている博麗霊夢も同様だろう。
吸血鬼……それは超高速で動き、超怪力で蹂躙し、血を啜り、眷属を増殖させる最悪の鬼だ。
十分な対策ができれば対応もできるかもしれない。あるいは障害物だったり、適当な距離だったり、あるいは心の準備でも良い。そう言ったものがあれば多少の対応ができただろう。
しかし、このレミィの攻撃は完全なる不意打ち、同行者である私ですら予測していなかった攻撃だ。
避けることも……いや、回避行動を試みることすら困難な紅の閃光、それは幻想郷の結界を守護する博麗の巫女の喉笛へと吸い込まれていく。
私は、これから起こるであろう血生臭い光景を想像し、思わず目を閉じる。
ごめんなさい、そしてさようなら霊夢。
私は心の中で霊夢に別れを告げた。
なんかふよふよしてる癖に妙に強気で身の程知らずな感じだったけど、その無遠慮さは結構嫌いじゃなかったわ。
死んでも化けて出ないでよね。仮に化けた時はレミィに憑いて。
あと、神社の宝物殿にあった古文書は私が責任もって管理するから心配しないように。
それから、適当に拝殿に奉納してあった算額は、その価値が分かる私が責任もって管理するわ。
えーと、他には……って、
「あら?」
聞こえてくるはずの霊夢の断末魔が聞こえてこない。
不審に思った私は、怖々と閉じていた目を見開いた。
そこに繰り広げられるのは夢幻の光景。
あるのは日傘に鋭い爪を受け止められたレミィと、空中に空いたスキマから姿を現し、日傘によって爪を受け止めた八雲紫、そして命拾いをした霊夢の姿だった。
「まったく……何をしてるのかしら?」
八雲紫が珍しく余裕のない表情で呟いた。
八雲紫、幻想郷の妖怪たちの中でも特に特異な『一人一種族』の妖怪、境界を操るという神に等しき力を持つ存在だ。
「妖怪が人間を襲った……それだけじゃない」
そんな紫とは異なり、レミィは瓢々と答えた。
「レミィ!」
そこで我に帰った私はレミィに向かい叫ぶ。
「なぁに、パチェ?」
「何じゃないわよ、いったい何のつもり!?」
「だからさっき紫に言った通りよ、妖怪が人間を……」
つまらなそうにレミィは私に向かい手をひらひらさせる。
その仕草に私はついカッとなって声を荒げ、レミィの弁解を遮った。
「妖怪がじゃないわよ、このおバカ! あんた霊夢を本気で殺す気だったでしょ! 何考えてるのよ、巫女が幻想郷にとってどれほど大切なのか分かってるの!?」
さんざん神社に入り浸った挙句にこれって、クレバーに定評ある私でも容易に納得できるものでは無い。
……まあ、古文書よりも霊夢の命だよね、うん。
「良いじゃない、死ななかったんだから」
「そういう問題か!」
今度は背後の霊夢から怒号が飛んだ。
流石に殺されかけただけあって、その顔には相当な怒気が浮かんでいる。
「返答次第では、相応の目にあってもらうわよ……」
お仕置きの時間だ、そんな事を言い出しそうな紫が出てきたスキマに座って言った。
三方から非難され、流石のレミィも堪えたかと思ったが、
「だったら訂正するわ。ああしても霊夢が死なないと確信しているから、やったのよ」
そう言ってレミィはニヤリと笑う。
「死なないと分かるから……って、だったら何? 紫が来ると確信してたって事? でも、それで紫が来なかったらどうしたのよ!」 レミィの良く分からない答弁を聞いて、霊夢が話にならないと詰め寄ろうとする。
「歴史にIFは無い……まあ、来ないという事は無いのよ、八雲紫はどこにでも現れるのだから」
そう言ってレミィはニィ、と笑う。
その笑みはあまり気持ちの良いものでは無かったので、霊夢は思わず一歩引いてしまったようだ。
……しかし、あの笑い、どこかで見たことがある気がするんだけど。
「私の事を信頼してくれるのは結構ですけどね」
霊夢とレミィの間に割り込むように紫はスキマから降りてきた。
「私も忙しい身、いつも巫女の身の安全を守っているわけじゃないのよ。今回はたまたま近くに居たから惨劇を防げただけ、一つ間違えば貴方は取り返しのつかないことをしていたところよ」
「それは嘘」
しかし、レミィはそんな紫を嘲る。
「確かに、八雲紫本人は博麗霊夢を年がら年中守ることはできないでしょうね……でも、式は? 常に姿の見えない護法に守らせるというやり方もあるわよね、本当に命の危険があるときだけ身代りになるような式って呪術ではありきたりじゃない? 幻想郷の結界を守ることを至上とする貴方が、その程度の保険をかけていない理由は無い。少なくとも博麗霊夢がつまらない事で命を落とさない工夫ぐらいはしてるんじゃないの。陰謀家であるあなたならその程度の事はしてるんじゃない……ねぇ、八雲紫?」
そうしてまたレミィは気持ちの悪い笑みを浮かべた。
ああ、分かった。
アレは紫だ。
何かを隠している、企んでいる、巡らせているものの笑い。
底の知れない八雲紫の笑いそのものだ。
だとすれば、レミィは何を企んでるのだろう。
「でも、それに確証はないでしょ」
「あるわよ、私が確信してると言う事。そして実際に霊夢が死ななかった事、それで十分でしょ」
……確かに霊夢は死ななかった。
でも、それは紫が言うように『たまたま近くに居たから助けられただけ』かもしれない。
レミィの言う事は相当な暴論だ。
でも、それを否定するためには『紫が霊夢を守っていないこと』を証明しなければならないし、何よりも確かに八雲紫ならやってるだろうというレミィの説は説得力がある。
「そんな事はどうでもいいわよ」
守ってる守ってないのというレミィと紫の議論に、イラついた霊夢が口を挟んだ。
「で! 結局のところあんたは何がしたかったの? まさか私が紫に守られてるってのを証明しに来たわけじゃないんでしょ?」
その霊夢の言葉を聞いて、レミィはますます笑みを強くした。
「ふふふ、さすが霊夢、良く分かってるじゃない……そうね、守った守らないなんてどうでもいいこと、でもね」
そう言って指を一本立てるとレミィは、
「霊夢を攻撃したのには重要な意味があるの……そう、霊夢を攻撃した時に八雲紫が出現すると言う事は、幻想郷の全ての悲劇の主犯である八雲紫が確実に引きずり出させると言う事なのよ」
と言った。
「ちょっとまて」
流石に紫が声を上げる。
確かに相当人聞きの悪いことを言ってる気がする。
「……すべての悲劇?」
しかし、そんな悲劇なんて何かあったっけ、素で分からない。
もしかして異変とかのことを言ってるのだろうか。
「たとえば霊夢!」
しかし、暴走するレミィは私や紫の言葉には耳をかさず、霊夢を指差した。
「な、何よ!」
「貴方、さっき戸棚に隠していた塩饅頭が無くなっていたとか言ってたわね」
「あ、まあ無かったわね」
「その時なんて言った?」
「あ、ええと『また紫の仕業ね』だったかな……」
レミィの気迫に押されて、霊夢はしどろもどろになって答える。
その様子を見て紫は『あー、あれはカビが生えそうだったから、食べたあげた方が饅頭のためと……』と小さな声で言い訳をしている。
「それよ!」
大声でレミィは霊夢に向かって指をさす。
「な、何が?」
「幻想郷で何か悪いことが起こったとき、失せものがあったとき、困ったことが起きた時、それは八雲紫の仕業なのよ!!」
そうだったのか、それは知らなかった。
あ、紫がなんか頭を抱えてる。
指を差された霊夢は完全に付いていけなくなっているようだった。
しかし、そんな私たちを放置して、レミィの独壇場はまだ続く。
「たとえば、あす山にハイキングに行こうとしていた時、突然雨が降ってきたら……それは八雲紫の仕業よ」
「ちょっと待て」
紫が突っ込むがレミィは気にせず続けた。
「あるいは、晩御飯のおかずに嫌いなニンジンが入ってる、それも八雲紫の仕業なの」
「いや、関係ないでしょ」
霊夢が突っ込むがレミィは気にせず続ける。
「それとも、なにも変わったことのない平和な日常、でもその背後では八雲紫が陰謀を巡らせてるのよ!」
「そこまでいくと何でもありね」
流石に呆れ気味に私は呟いた。
「そう、何でもありね……恐ろしい。八雲紫はどんな些細なことでも関与し、巨大な陰謀を巡らせているの」
そう言うとレミィは拳を握り、続ける。
「幻想郷で探偵をしてわたしは気が付いたの。この幻想郷はあまりに事件が無さすぎると、でも、それは『事件が無い』わけじゃなかった』。究極の完全犯罪は『それが犯罪であることすら理解されぬこと』つまり、幻想郷が平和なのは見かけだけで、その背後では八雲紫が暗躍し、犯罪行為に手を染めているのよ! そう、かの犯罪のナポレオン、モリアーティ教授のようにね!」
「も、森ってだれ?」
霊夢が良く分からないのか声を上げる。
しかし、それも仕方がない私だってレミィの言ってる事はいまいち分からない。
それでも最初から話を聞いている私なら、幾らかはレミィの思考の推移は推測できる。
探偵を志したレミィは幻想郷が平和で事件が起こらず探偵が不要であることを、この暇な日々で思い知ったが受け入れたくなかった。
そして、悶々としている中でレミリア・スカーレットはチャールズ・モリアーティの逸話を聞かされた……いや、聞かせたのは私だけどさ。
決して誰にも悟られずに密やかに君臨していた犯罪のナポレオン、彼という存在を知ったとき、レミリア・スカーレットは恐らくこう考えたのだろう。
『そうか、幻想郷にモリアーティ教授に等しい存在が居るならば、平和な幻想郷でも探偵たる私が活躍することはできる』
この時点で、レミリア・スカーレットにとってモリアーティ的人物は『幻想郷に居るかもしれない』から『幻想郷に居なくてはならない……いや、存在する』へと変わっていたのだろう。
そして、幻想郷の面々を思い返してみて浮かんだ顔が、幻想郷きっての謀略家である八雲紫だった。
その瞬間レミリアの中で八雲紫は完全に幻想郷のモリアーティへと変化した。
「結論で言えば、犯人はお前だ! 八雲紫!」
これで証明は終了したとばかりにレミィは紫をビシっと指差した。
「……なにをバカなことを言ってるの貴方は。だいたいそんな事を誰が信じると言うの?」
紫は心底呆れきったようにレミィを見ると、深く、果てしなく深く溜息を吐く。
――だが、
「……なんてこと、紫がまさか犯人だったなんて」
「……え? れ、霊夢、ちょっと、どうしたの?」
それまで、ちょっと口を挟む程度だった霊夢がレミィに同調し、紫は動揺した声を上げる。
「まさかね、雨が降るのも、日照りになるのも、子供が転ぶのも、作ったカレーが焦げるのも全部紫の仕業だったなんて……見損なったわよ、紫。あんたは妖怪だけど、この幻想郷を愛する、その一点で信頼しあえると思っていたのに、それをこんな形で裏切られるなんてね」
そう紫に呟く霊夢の顔には深い失望の色が滲んでいた。
「な、何言ってるの霊夢?」
紫は、普段のポーカーフェイスなど見る影もないほど動揺し、
「貴方、そんな吸血鬼の与太話を信じるなんて……あ、もしかして塩饅頭を食べられたから、私を懲らしめようとそんな事を……」
と、思いだしたように手を叩き、霊夢に笑いかける。
「生憎ね。すべてが明らかになった現在、あんたとそんな軽口を叩く理由はないわ」
しかし、そう紫に告げた霊夢の表情は真剣そのものだった。
無理もない。
まさか、紫が全ての主犯だったなんて、私だって気がつかなかった。
今の私の心には『裏切られた』という感情で一杯だ。
さほど紫と親交の無かった私でさえこうなのだから、人間と妖怪の垣根を超えて紫と親しくしていた霊夢の心は、激しく傷つけられたのは疑いようがない。
しかし、レミィの洞察力には感服するしかない。
こんなことを完全に証明するなんて……
…………………………あれ?
なんで、私はレミィの話を信じ込んでいるんだ?
さっき私はレミィの考察を理解不能と切って捨てたじゃないか。
「なんで……」
疑問に思う自分、しかし、その一方で私は八雲紫が『犯人』と信じきっている。
それは、太陽が空に浮かぶのと同じように、夜が来るのと同じように、四季が巡るのが必然のように、当たり前のように『八雲紫が犯人』と思い込んでいる。
「なんなの……これは」
頭を押さえて膝をつく。
「……私が悪かった。妖怪と慣れ合っていた私が悪かったのよ。でも……ッ!」
「霊夢、私の話を聞きなさい!」
紫と霊夢が激しく言葉を交わす。
それらの言葉は私の耳に入っているけど、ぜんぜん頭には入らない。
本能と理性、それらが私という存在を全力で引き裂こうとしている。
視線を巡らせば、霊夢は紫に対し戦闘態勢をとり、レミィはじりじりと間合いを詰めていた。
そして紫は、
「まさか。レミリア、貴方……ッ」
まるで猟犬に追い詰められた獲物のような顔をしている。
ああ、それはわるいことをしていたのがばれたのだからとうぜんなのだなぁ。
と、私が八雲紫が『犯人』である事を受け入れ始めた時、紫は血相を変えて叫んだ。
「私の運命を操ったな!」
……そうだったのか。
その紫の叫びを聞いた時、私はこの異常な状況をすべて理解した。
穴だらけ……いや、推理にすらなっていないレミィのこじつけ、それを霊夢が信じ、私も『それが当然であるかのように受け入れ始めている』のは、つまりそう言う事だ。
――八雲紫は幻想郷のすべての悪を司るという運命を背負わされた。
「はん、何言ってるの? そもそもお前が黒幕だっただけで、私の能力は関係ないでしょ?」
普段から、レミィは自分の能力については公言しないし、行使もしていない。
「往生際が悪いわよ、紫」
だから、その力の詳細については私も詳しい事は知らない。
「……戻しなさい、私の運命を今すぐに!」
しかし、この『突然、何かが書き変わってしまったような』感じは、多分そういう事なんだろう。
この自分の認識のあまりの変わり様は、そうでなくては説明がつかない。
「レミィ……貴方は運命を操ったの?」
私はレミィに尋ねた。
「まさか、やってないわよ」
私にも聞かれ、レミィはキョトンとした顔で返した。
レミィはやっていないと言う。
しかし、この状況は異常すぎる……となればこれは、
「無意識で、紫の運命を書き換えたと言う事か……」
おそらく、レミィの推理が引き金となり、その推理の証明終了が条件で能力が発動したのだろう。
本人も意図しない能力の発動、意識的に能力を使えば紫もまだ対応できるかもしれない……いや、レミィの『運命を操作する程度の能力』は、『運命』というある種、どうのしようもない神の領域に踏み込む力だ。
それは『境界を操る程度の能力』を持つ紫にとっても、いかんともしがたいのではないだろうか。
そもそも『運命』の『境界』など何処にあると言うのだ?
「さあさあ『幻想郷のすべての悲劇の主犯』八雲紫。大人しくお縄につきなさい」
レミィは紫を狩り立てる為、さらに間合いを詰める。
「なんて恐ろしいの……」
八雲紫を追い詰めようとするレミィを見て、私は戦慄する。
運命を操る探偵レミリア・スカーレットの存在に恐怖する。
たとえば、レミィが殺人事件に遭遇した場合、彼女は彼女なりに事件を捜査し、推理し、結論を出すだろう。
しかし、その結果は、真実となるのだろうか?
レミィが見当違いの推理を行い無実のモノを犯人とし、その無実のモノの運命を書き換え犯人としてしまったのか、それとも正当な推理のもと犯人を割り出したのか、それを確かめる事は不可能だ。
運命を操る探偵にとって、真実など何の意味もない。
なぜなら探偵の語る推理が真実となり、本来あった真実は無残に塗り替えられるからである。
それは究極にして最悪の探偵。
必ず事件を解決しながら、絶対に真実に到達することのできない栄光と悲劇に彩られた真紅の探偵レミリア・スカーレット。それが彼女の到達した探偵の形だった。
「レミィ……貴方に探偵術を教えてはいけなかった」
膝を折り、私は激しい後悔に苛まれた。
「探偵の道を示してはいけなかった……」
惨過ぎる。
あまりにこれは惨過ぎた。
誰にとっても、これはあまりに惨い。
八雲紫は、幻想郷の主犯という汚名を着せられた。
博麗霊夢は、種の垣根を超えた友人に裏切られるという形になった。
レミリア・スカーレットは?
運命を操る能力が暴走し、誰も彼もを巻き込んで、運命を改変してしまっている。
そして、彼女はそれに気がつかない、気がつくこともできない。
人は失敗をして、はじめて過ちに気が付くことができる。
でも、レミィは探偵として絶対に推理が外れることはないのだ。
これで、どうやって過ちに気が付けると言うのだ?
それらの引き金を最初に引いたのは私だ。
こんな事になるとは思わなかったと言い訳する?
いや、私には分かっていた。
厄介事になりそうだと分かっていた。
その上で、レミィに探偵術を、探偵の道を教えたのだ。
……これは、私の罪だ。
「……お縄ね。で、罪状は? それに捕らえて私をどうするのかしら?」
じりじりと追い詰められている紫が、追い詰めるレミィに聞く。
「罪状は幻想郷で起こった悲劇すべて、捕まえてどうするかは捕まえてから考えるわ」
その時、レミィの足が止まった。
互いの制空権が限界まで接近している。
「レミィ! やめなさい!」
八雲紫が主犯。
その考えに必死で抵抗しながら、私は立ち上がりレミィに一歩近づく。
「何のつもり、パチェ?」
レミィは振り向きもせず、私を問いただした。
「貴方は間違ってるわ……それは決して正しいことでは無い」
言葉を紡ぐたびに、レミィの推理を否定するたびに、凄まじい違和感が私を襲う。己の認識が私の言っている事は間違いであり、レミィの言葉が正しいと私に訴えかけてくる。
「私は正しい、八雲紫はすべての主犯なのよ……ねぇ、霊夢?」
「そうね。今回はレミリアの言ってることが正しいわ」
違う……レミィが主張しても、霊夢が肯定しても、私の全ての感覚が訴えかけても、私の理性が否定する。
理論的に、絶対に間違っている以上は、その塗り替えられた真実は絶対に肯定できないのだ。
「もしかして、パチェ。裏切るの?」
レミィが振り向く。
「裏切るわけじゃないわ。ただ私は納得できないだけ」
「そっか」
私が答えると、レミィが笑った。
明らかな身の危険を私は感じた。
こういう時のレミィは、果てしなく危険だ。
強烈に身の危険を感じてると、
「下がってなさい……」
紫が私に声をかけた。
「……へぇ、パチェを庇うのね」
「別に庇うわけじゃないけど、私のとばっちりで『正しいことをするもの』が危険に晒されるのも悪いでしょ」
そう言って紫はスキマからいつもの日傘を取り出した。
「正しいことをするもの、ねぇ。それって私の言う事が間違ってるって事?」
レミィが紫に向きなおった。
浮かぶ表情は笑み、その笑みの成分は混じり気のない攻撃性、間違いなくそれは本気のレミリア・スカーレットそのものだった。
「手を貸しましょうか?」
霊夢がレミィに声をかけるが、それをレミィは手を振って拒絶する。
「良い? 一度しか言わないから良く聞いておくことね」
七歩、ゆっくりと彼女は歩き、立ち止まると指を立てて天を指した。
「私の言う事は正しい。私の成す事は正しい。たとえどんな事であろうとも私の言う事に背くことは許さない」
それはあまりに傲慢であり、実にレミィらしい言葉だった。
自負、自尊、自分への絶対的信頼、それらは多くの場合強力な力となり、長所となる。
しかし、このような間違った状況に進んでいる場合、それは頑固、あるいは頑迷となって、正しい方向への修正を困難、あるいは不可能にする。
「……説得は、無理か」
分かっていたが、こうも完全に否定されるとくじけそうになる。
「恐ろしい子ね……つくづくそう思うわ」
日傘を構え、紫は深いため息を吐いた。
そこには普段浮かんでいる余裕は一切ない。
「まさか、このような形で追い詰められるとは思わなかった……最も、これはある種の自業自得なんでしょうけどね。私は『幻想郷の為』という大義名分を持って、許容できるあらゆる手段を影から行使し、ずっと矢面に立とうとしなかった……これは、恐らくその代償。今まで黒幕を気取っていたしっぺ返しと言うところかしら…………その代償、今日のところは享受しましょう」
「それって、自白?」
「そう受け取っても構わないわ……ただ、レミリア。貴方にも相応の代償は払ってもらう、罪なき者に罪を着せ、自覚無しとはいえ貴方は運命を弄ぼうとしてしまった、この罪は重い」
「……だから、私は運命を操ってないってば。単に推理が正しいだけ、逆恨みも良いところね」
レミィは抗議するが、紫は話を聞かずに続ける。
「だから、ここで貴方の未来を奪わせてもらう。どうやら現在の貴方は『推理』という過程を通じて『運命を操る程度の能力』を暴走させている……故に貴方の探偵としての未来はここで終わりにさせてもらう」
その言葉と共に紫は日傘を開いた。
「どうするつもりよ」
「ただ、叩きのめす。完膚なきまでに、完全に、容赦なく、二度と探偵ごっこなんて出来ないように教育してあげるわ」
「なるほどね……だったら、私も二度と悪さができないように這いつくばらせてあげるわ!」
運命を操る真紅の探偵は駆け、幻想郷の全ての悪を司る事となった妖怪は構える。
博麗神社の台所で運命をかけた死闘が今始まった。
※
吸血鬼と言うのは、妖怪の中でも特別なモノである。
有り余るほどの強力な能力と溢れるほどの弱点を兼ね備える夜の王、怪力を誇り、高速で飛びまわり、血を啜り、血を啜る事で下僕を生みだし、日の光で気化し、蝙蝠に変化し、生まれ故郷の土の上で再生し、時に魔術に精通し、鏡に映らず、鏡から鏡へと移動し、高速で再生し、流れる水を渡れず、夜の生き物を従え、十字架やニンニクに弱く、闇を支配し、細かいものが落ちているとそれを数えずにはいられない。
レミィが、これらの幾つかを弱点とし、いくつの能力を備えているか、私は正確なところは把握していない。
ただ少なくとも、とても速くてとても力が強い事は確実であり、それが意味するところは……
レミリア・スカーレットは近接戦闘に無類の強さを誇り、この博麗神社の台所という閉鎖空間での戦闘では圧倒的に分があると言う事だ。
狭いということは互いに選択肢が限られると言う事で、選択肢が限られた状態で頼れるのは、繊細な技術ではなく根本的な攻撃力や防御力がモノを言う。
そして、レミィはその根本的な能力が幻想郷でも突出して強い。
恐らく彼女と正面から殴り合えるのは、同じ鬼である伊吹萃香ぐらいのものだろう。
八雲紫という妖怪も、極めて強力な妖怪であるが、その強さはレミィのように直線的なものではなく絡め手を交えた迂遠な強さだ。様々なリソースを使う紫の戦術は、この狭い台所では有効に使えないし、殴り合いで紫がレミィより強いとは全く思えない。
一発でダウンと言う事はないだろうが、勝算は薄いだろう。
「さあ、這いつくばれ!」
レミィが紅の閃光となり、紫に向かい駆ける。
私には紅い残像しか見えないが、その鋭い爪を紫に向かい振るっているのだろう。
回りはテーブルとか籠とかで狭い台所は、レミィの攻撃を避ける隙間が無い。
「残念だけど、這いつくばるのは貴方よ」
その瞬間、紫の身体は沈んだ。
スキマだ。
足元にスキマを開くと、そこに半身を沈めてレミィの双爪を回避し、そのままスルスルと背後へと回り込んだ。
「お返しよ」
半身を沈ませたまま紫はレミィに向ってクナイ状の弾幕をばらまく。
「……舐めてるの?」
背後を取られたにもかかわらず、レミィに動揺は見られない。
クナイに向かい加速。
縫うように回避。
そして、天に向かい高速飛翔し、半身を出している紫に向か……急降下!
狭い台所に迸る真紅の衝撃、揺れるおたまやしゃもじ、そして、
「ちょ、ちょっとうちの台所を壊さないでよ!」
台所を心配して怒る巫女。
それに関しては私も、ご愁傷様としか言いようがない。
「良い攻撃ね」
そんな巫女の抗議などどこ吹く風に、レミィの急降下をスキマに沈み込んで回避した紫が、余裕シャクシャクという風情で呟く。
「でしょ? でも、もっといいの行くわよ」
現れるのは使い魔の蝙蝠、そしてレミィは蝙蝠を置いて紫に向かい飛んだ。
使い魔達は弾幕を張り、それを纏いながらレミィは爪で攻撃を繰り出す。典型的な使い魔とのコンビネーションだが、それもレミィが行った場合は、純粋な速度が違う為、相当な脅威となる。
「ふむ」
それに対し紫は再びスキマに沈み込んで回避するが、少しさっきとは状況が違う。
紫のスキマは紫色で目が幾つも浮かぶ不可思議なスキマだ。しかし、いま紫が消えた場所にあるスキマは、漆黒の、中に目も何も見えないスキマ、それは紫が姿を消した後も残り、レミィの使い魔が放った弾幕を飲み込んだ。
「今度は本当にお返しよ」
その言葉と共にスキマから姿を現した紫は真っ白なスキマを開く。
そこから打ち出される弾幕は、レミィの使い魔の弾幕そのものだった。
「は、それがどうした!?」
しかし、その攻撃で僅かにレミィの動きが鈍る。
再び、彼女は紫に向かい弾幕をくぐり抜けながら向かうが、
「はい、追加」
レミィの足元にスキマが開き、『とまれ』とか『進め』とか書かれた円形の看板が飛び出した。
「くっ!」
さらに上から墓石に前からは卒塔婆、また普通のクナイ状の弾幕に謎の光弾と、レミィがほんの少し動きを止めただけで恐ろしい量の漂流物による攻撃を紫は繰り出してきた。
「抜いた!」
通常の妖怪なら、間違いなく漂流物に埋もれてしまっていただろう。
しかし、八雲紫が相手としているのは、恐るべき吸血鬼レミリア・スカーレットだ。
多少のかすりはあったが、一切の直撃なくレミィは再び紫の眼前に現れた。
「はい、御苦労さま」
紫は笑っていた。
日傘を構え身体の半身をスキマに沈ませている。
「ちっ」
レミィは舌打ちする。
レミィの心に浮かんでいたのは『逃がすまい』という思考。
故に、紫の攻撃も回避のための消極的攻撃と決めつけていた。
だから、この状況下での『全力攻撃』は考慮に入れていなかった。
「さ、分解してあげる」
日傘が回る。
それはクルクルと高速で回転を始め、鋭く、恐ろしいほど凶悪な凶器へと変貌する。
「しゃーない、右腕ぐらいあげるわ」
そんな凶器を前にして、レミィは呑気に呟くと、右の爪を振りかぶり、全力で凶器と化した八雲紫に叩きつけた。
切断されて、千切れ飛ぶレミィの右腕、しかし、斬り飛ばした紫も衝撃でスキマから叩きだされる。
「無茶をするわね」
「切り飛ばした本人に言われたくないわ」
スキマから叩きだしたレミィは、再び紫に向って飛んだ。
その右腕の切断面から流れる大量の血、それらは即座にレミィの右腕の形となり、次の瞬間に完全な形で右腕は再生された。
さすが吸血鬼、尋常でない再生力である。
ダメージが無いわけではないだろうけど、はたから見ていると無尽蔵の生命力としか思えない。
今までのところ全ての攻撃を回避され続けているレミィだが、気にせず再び紅の残像となって紫に向かう。
紫はレミィに対して幾何学的な軌道を取る光弾で攻撃するが、レミィはまたも加速しながら紫の攻撃を回避してみせる。
そのままレミィは攻撃に移行するかと思われたが、何を思ったか紫の前で何もせずに立ち止まった。
まったくの無防備、防御も攻撃もしようがない棒立ちだった。
「さ、どうする?」
そこでレミィは紫に聞いた。
これから、どう行動するのかを。
紫の動きは僅かに淀み、攻撃のためか、あるいは距離を取るためかのスキマが開こうとし、
……その刹那、紫は真紅によって貫かれる。
「……まさか、貴方に心理戦を仕掛けられるとはね」
苦しげに紫が呻いた。
「心理戦なんて大層なことじゃないわ。紫が私の攻撃をうまくかわすから、どうやったら這いつくばらせるかって考えただけよ」
「なるほど、ね」
真紅に貫かれたまま、紫はレミィの言葉に頷く。
「私が攻撃ばっかしてるからあんたは避ける事に専念して、私の攻撃はぜんぜん当たらない。だったら、紫に攻撃の余地を作ってあげれば……攻撃しようかどうしようかと迷う、迷いなく避けてる時は私の攻撃を確実に避けれるけど、迷えば……こうやって当たる」
そう言ってレミィは真紅のそれを捻じった。
「くぅっ……」
それは鎖だった。
レミィの生み出した真紅の鎖、それが八雲紫の胸部に深々と刺さっている。
「スキマに逃げようとしても、これで引きずり出してあげる。間合いをはかろうとしても、これで引きよせてあげる。これで捕らえて縛り上げ、這いつくばらせてズタズタにしてあげる……」
痛々しい見た目とは裏腹に、真紅の鎖のダメージ自体はさほどないようだ。
だが、
「まるでチェーンデスマッチ! 最も、死に至るのは確実に貴方だけどね!」
勝負は完全に決したと言って良い。
鎖に引きずられた紫はレミィの射程圏内に入り、その爪の一撃で襲われた。
彼女も歴戦の妖怪、簡易結界で爪を防御するも、一度や二度防いだからと言ってどうなるものでは無い。
超強力な連続攻撃を受け、紫の傷はみるみる増えていく。
「……しぶとい!」
だが、紫はいまのところ致命傷だけは防いでいる。
故にレミィは、真紅の鎖を操作して紫の足をすくった。
「ッ!」
防戦一方の紫は避ける術はなく、無残に倒れてしまった。
その倒れた紫の上にレミィは飛び乗って馬乗りとなる。
「そろそろ抵抗をやめて五体投置でもして命乞いしたら? そうすれば私も慈悲を持って許してあげても良いわよ?」
吸血鬼という化け物にマウントを取られると言うことは、死と同義だ。
しかも、その身体は逃げられないように鎖で繋ぎとめられている。
勝負はついた、私は紫の敗北を確信した。
それは運命を操る探偵が幻想郷に野放しにされると言う事であり、それは幻想郷にとっても、そしてレミィにとっても不幸な事だ。
絶望の中、私は膝を折る。
「……生憎と私は諦めが悪いのよ」
え?
私は顔を上げる。
八雲紫はレミリア・スカーレットに屈しなかった。
傍で見ている私が諦めたのに紫はまだ諦めていない。
傷つき、倒され、勝ち目など一厘さえない状況で彼女は諦めていなかった。
「そう、じゃあ私は紫が諦めるまで……殴るのを止めないッ」
鈍い音がした。
「やめなさいレミィ!」
見ていることができなくなった私は思わず声を上げた。
「……パチェ、さっき私は宣言したわ。紫が諦めるまで私は殴るのを止めないと。だからこれを止めることができるのはわたしじゃない、紫だけよ。紫が諦め、頭を垂れれば私は喜んで攻撃を止める。でも、紫は諦めてくれない、命乞いを拒絶するから私は攻撃を止められない……だからこれは仕方のないこと、そうよね、紫?」
レミィが仕方無いとため息を付きながら、さらに爪を落とす。
博麗神社の台所には……血だまりさえできていた。
「……可哀そうにね」
突然、紫が呟いた。
紅く染まりながら、ぼうっと視線の定まらない目で、彼女は虚空を見上げながらレミィに向かい呟いた。
「なに、負け惜しみ?」
レミィは紫の言葉に手を止める。
「貴方は可哀そうよ、レミリア」
「可哀そう? 可哀そうなのはあんたでしょ。そんな傷だらけになってさ、そんなあんたが何で私を憐れむわけ?」
紫の言葉にいらつき、レミィは紫の血で赤く染まった左手を振り上げる。
「なんだったら、手心を加えずとどめを刺してやろうか?」
「本当に可哀そうよ」
紫の憐れみにレミィは激しい不快感を表すが、彼女はレミィの問いかけに答えず、ただ、ただ憐れんだ。
「いい加減にしろ」
そう言ってレミィは振り上げた爪を振りおろそうとするが、
「本当に可哀そうよ、レミリア・スカーレット。貴方はこうやって私に鎖を打ち込み、馬乗りになって私から容易に離れることができなくなってしまっている。爪を振り上げ、鎖を握り、両腕が塞がってしまっている。私の上に座り込み、両足も容易に動かせなくなってしまっている。狭い家屋に閉じ込められて飛び去って逃げれなくなってしまっている……何より、私に身体を掴まれて、私から離れることができなくなっている。今の貴方には一切の自由がない……Do you understand?」
その紫の言葉を聞いて、レミリア・スカーレットの動きは停止する。
真紅の鎖を解除し、レミィは即座に紫から離れようとする、だが紫は最後に宣言した通り、レミィの身体を掴み逃がさない。
「放しなさい!」
必死にレミィは紫を攻撃し、離れようとするが紫は離さない……いや、逃がさない。
「聞こえるでしょ。駆動機関の懐かしい音が、見えてくるでしょう銀の車体に赤いラインが……ちなみに終点までは五百二十円だけど、今日は私のおごりでいいわ」
その時、私たちを飲み込むほど大きなスキマが開いた。
警笛の音がする。
スキマの奥に見えるのは銀色の電車……紫が言ったようにその車体には赤いラインが走っている。
その電車はスキマの奥から、私達の方に向って来る。
「な、なんてことしてくれんのよ!」
霊夢が叫ぶ。
それは当然だ。
屋内でこんなものを呼べば、建物は確実に倒壊する。
「に、逃げるわよ!」
私は声を上げる。
それを聞き、霊夢も出口に走った。
だが、
「は、離せ! 離しなさい!」
逃げられないものと、
「見えるでしょ? 長野電鉄3500系の大きな姿が……」
逃げようとしないものは残っている。
「いいから放しなさい! あんたも死にたいの!?」
逃げる私達の後ろから、レミィ達の声が聞こえてくる。
「……レミリア、貴方をスペルカードルールの枠内、更に閉鎖空間という私に不利な環境下で葬り去るのは少々骨が折れる。だから、こうしたのよ。あの電車が私もあなたも、すべて挽き肉にしてくれるわ」
その言葉の底知れなさに私は後ろを振り返った。
「挽き肉なんて冗談じゃない!」
レミィは焦った顔で叫ぶ。
「ふふふ、貴方は私をモリアーティ教授に例えた。ならば貴方はホームズ? でもね、貴方は知ってる? シャーロック・ホームズはチャールズ・モリアーティと一緒にライヘンバッハの滝から落ちて死んだ。それでホームズは終わりなのよ! その後、ファン達がホームズが死んだ事を作者に抗議してホームズは強制的に『生還』させられた。でも、レミリア・スカーレット、貴方は『生還』出来るかしら!?」
八雲紫は、笑っていた。
その笑顔は、電車のヘッドライトの逆光で見えなくなり……
「なにをぼーっと突っ立ってんの!? 逃げるわよ!!」
「むきゅー」
霊夢に首根っこを引っ掴まれた私は、そのまま引きずられて台所から脱出する。
凄まじい破砕音と共に銀の電車が私の眼前に迫ってくる。
何もかもを破壊するそれは、私たちを挽き肉にしようと迫ってくる。
レミィや紫はどうなったのか、台所の入口を粉砕して現れた電車には、血のシミといった変化は無い。
バキバキという建物が壊れる破砕音が、どうにも不快だ。
「ああ、もうなんでこんな事に!」
霊夢が私の首根っこを掴んで逃げながら叫んだ。
考えてみれば、彼女は平和に台所でおやつでも食べようと思っていただけだ。それがこんな命の危険にさらされているのだから、何でと言いたくなるのも理解できる。
しかし、私を助けてくれるのはありがたいが……
「きゅう……」
持つ場所を変えて欲しい、そう思った。
首が閉まって意識が遠のく……
霊夢は右に飛んで、電車から逃げようとしているようだ。
霊夢は十分にかわせるだろうけど、霊夢に引きずられている私が無傷でかわせるかは、五分五分と言ったところだろう。
ああ、そろそろ意識が……
私は、自身の無事を祈りつつ意識を失った。
※
幻想郷は今日も平穏な日々を送っている。
それは、レミィが八雲紫を打倒したから平和なのか、それとも元々平和だからなのかは分からないし、検証のしようもない。
例えば、犯罪を行っている事を証明するのは容易い。
単に犯罪を行っている証拠……たとえば窃盗犯なら盗んだものでも現行犯で逮捕するでも、証明のしようは幾らでもあるからだ。
だが、今回の騒動で、八雲紫が要求されたのは『犯罪を行っていない事の証明』だった。
起きたことを証明するのは容易い。
しかし、起きていない事を証明するのは不可能に近い。
鴉の話をしよう。
鴉は黒い。
これは、そこらを飛んでいる鴉の一羽を捕まえてくれば証明は簡単だ。
だが、すべての鴉は黒いと証明することは非常に困難だ。
そのためにはすべての鴉を捕まえて、調べ上げなければならない。
あるいは黒くない鴉だっているかもしれない、白い鴉が居ないとは限らないのだ。
八雲紫は『幻想郷の悪の権化』であることを否定することが出来なかった。
それは鴉の話と同じで、『八雲紫が悪の権化で無い』というのを証明をするためには、八雲紫の全行動を監視して彼女が無実であることを証明しなければならない
それは、すべての鴉を調べ上げることが不可能なように、紫の全てを調べる事など実質的に不可能である。
だから、結局は分からない。
レミィの言ったことが正しい可能性は残ったまま、それを打ち消すことはできないのだ。
だいたい、元々怪しいことばかりしているしね。
「あー、タイクツねー」
隣でレミィがだるそうに呟いた。
あの時、紫の廃線「ぶらり廃駅下車の旅」は、博麗神社の居住区部分を吹き飛ばし、レミィと紫を挽き肉にしようとした。
だが、レミィは直撃の刹那、不夜城レッドによって紫をひるませ、その隙に電車の下へと潜り込んでどうにかやり過ごしたらしい。『本当に死ぬかと思ったわ』とは、瓦礫に埋まりってしまい、夜半過ぎになってようやく救出された時のレミィの弁だ(日が沈むまで太陽の光が邪魔で救出活動が出来なかったのだ)。
紫の生死は不明だ。
見つかったのは滅茶苦茶になった愛用の日傘だけ、他には一切の痕跡を残さず紫は姿を消した。
まあ、あの八雲紫が死ぬわけはないので、雲隠れしているのだろうけど。
「八雲紫が居なくなってから、幻想郷はすっかりつまらなくなった……か」
実際、つまらない。
なにかと姿を現しては人に無茶振りをするスキマ妖怪、なんだかんだと偏屈で退屈が嫌いなくせに不精な連中が多い幻想郷の中でも、彼女はかなり活発に行動し、幻想郷を大いに盛り上げていた。
平和とは、逆説で言えば停滞と言う事。
たとえ、八雲紫が幻想郷の絶対悪でもいてくれた方が良かったのだろう。
だが、それが許される事は無い。
レミィによって八雲紫は幻想郷の絶対悪となった。
この汚名がそそがれない限り、紫が今まで通りに幻想郷を闊歩することは難しいし、騒動を起こそうにも彼女に協力するものなどいないだろう。
それが八雲紫に課せられた『絶対悪』の運命だ。
「うー、なんか面白いこと無いー?」
レミィは、博麗神社半壊事件のあと、探偵業の看板を降ろした。
彼女曰く『平和な幻想郷に探偵はいらないわ』との事だったが、本当は如何な意図をもって探偵業を辞めたのかはレミィ本人にしか分からない。
なんとなくだが、紫が居なくなった事に責任を感じている。
そんな気がした。
もちろんこれは私の勝手な推測だけど、恐らくそんなに外れていないだろう。
だから、私は『助け舟』を出すことにした。
「面白いことねぇ……こんなものはどうかしら?」
私は、そう言うと『朝起きたら枕元に置いてあった携帯ゲーム機』をレミィに渡した。
「なにこれ?」
受け取ったレミィは不思議そうにそれを手に取って呟く。
「外の世界のゲーム機、結構面白いわよ」
「へー」
私はゲーム機の起動方法を簡単に教える。
ゲーム機にセットしてあるソフトは、弁護士が主人公のゲーム。内容は、無実の罪で起訴されている人物の弁護をし、法廷闘争で無罪を勝ち取るというもので外から流れてきた漂流物だ。
さて、うまくいくかしら?
私は、興味津々にゲームをプレイするレミィを見る。
『大丈夫、この子は単純だからね』
どこからか声がしたような気がした。
「そうね、レミリア弁護人の手腕に期待しましょう」
私は、空耳に返事をした。
探偵が容疑者を逮捕する。
探偵小説では、それで話は終わるけど、現実はそれで終わるわけでは無い。
容疑者が捕まったとしても、それだけで刑が確定するわけじゃない。
容疑者は、まだ『容疑者』に過ぎず、その容疑が確定されるまでは『犯人』にはならない。
たとえ、容疑者として捕まったとしても、裁判の結果次第では……つまり、弁護士の腕次第では逆転無罪になり、容疑が晴れることだってあるのだ。
最も、八雲紫の場合は少々事情が異なる。
彼女に容疑をかけたのは運命を操る探偵レミリア・スカーレットだ。
運命を操る探偵のかけた容疑は『運命』そのものに干渉する。そのため容疑は『運命』によって確定し、ただの弁護人にはその容疑を晴らすことはできない。
運命を操る探偵の容疑は、同じ能力を持つ弁護士……つまりは運命を操る弁護士でなくば解くことはできない。
そしてレミィと同じ能力を持つ者は他になく、紫の容疑を晴らす為にはレミィ本人が弁護をしなければならないのだ。
「……しかし、自分で容疑をかけて、それを晴らさせるってずいぶんなマッチポンプね」
あるいは滑稽と表現すべきか。
私は深いため息を吐く。
だが、それも罪を晴らす為。
レミィを探偵に仕立て上げた私の罪を晴らす。
ついでに紫もレミィも全員救われみんなニコニコ、そんなグットプランの成否はすべて、これから私がレミィをその気にできるかにかかっている。
有能な弁護士ほど、雇うのが難しいものね。
「異議あり!」
レミィが景気良くゲーム機に向かって叫ぶ。
没入度は上々、そろそろ良いだろう。
「さてと……レミリア弁護士、話があります」
では、幻想郷の平和を乱す為に運命を操る弁護士を焚きつけに参りますか。
……なんとなく私の顔にタチの悪い笑みが浮かぶ。
私はお尻をつねってそれを押し殺すと、幻想郷の行く末を波乱万丈かつ不安定にする為に八雲紫の欠席裁判の幕を強引にこじ開けるべく口を開いた。
出来は悪くないと思うけれども、なんとも言えず読後感が悪い。
ジャンルがブレている感も否めず、高得点はつけがたし。
懲りずに風邪を引いてショウガ湯啜ってるパチュリー見たかったなあ。
運命を操る程度の能力の解釈がいい感じ。
真面目なバトルにパロディを挟むのはどうだろう
境界を操る能力がはっきりしないのであれだがコメ9番へ
レミリアの能力の有無の境界を操るのは既に運命が書き換えられた後では手遅れでは?
不夜城レッドとか全世界ナイトメアとかネーミングカッコイイよね!
この物語の別の解決方法としては、八雲紫が幻想郷の黒幕などではなく、その裏に別の真犯人が居た。という結論を新たにレミィに出させれば解決できますね
その真犯人を存在しない架空の人物があたかも存在するかのように作り出せば万々歳です
もしくは幻想郷の住人一人一人を一度犯人にして否定させ、最終的にレミリアを残して黒幕が存在しないという状態にすれば解決できますが、こちらは時間がかかりすぎますね
バトルシーンがなんだか気合入った感じで描かれてるんですがこのお話には不必要かなあと思わなくもなく。ここの前後だけ不自然にガチなので。
ただ、個人的な話ですがね。文章から感想を引用させていただくなら。
>スプーンを使わずに瓶を適当に傾けて粉末コーヒーカップに注ぎこんで淹れたブラックコーヒー
…なんというか、後味が残りすぎてしまってるというか。
霊夢は紫に裏切られたと感じているままだし、レミリアはもうちょっと周りの空気も読める子で、紫の事は嫌いじゃないような(個人的な願望かコレ!?)…ノリでやったとしても自分で後始末の出来る子だったと思ってた部分が在ったので…なんか最後まで悪びれた様子も無いのがどうも。
…なんか、うん。まぁ、紫はさほどには思って無いみたな終わり方してますが。なんか私の方がさほどに思ってしまう…。
スイマセン、お話自体は凄く良かったんですがこの点数で。
戦闘シーンも話の流れに馴染んでないですし。
チクハグな印象だけが残りました。
あとレミリアがかなり不愉快なキャラになってますね。
紫にも違和感。