理沙は幸せな子供だ。
人里の中でも比較的裕福な商人の家の一人娘として生まれ、時に厳しくも、愛情をもって接してくれる父と、いつも優しく理沙を受け止めてくれる母に囲まれ、特に不自由もなく生きてきた。
「ねえ、お母さん」
「なあに、理沙」
母の膝の上に座って本を読みながら、理沙は口を開いた。
「お父さんのお仕事、もうすぐ終わる?」
「そうね、もう少しで終わるはずだから、もうちょっとだけ、待ってね」
そう言いながら理沙の頭を撫でる母に、理沙は気持ちよさそうに目を閉じて身を委ねる。
幻想郷の人間には珍しい、全く他の色の混ざらない、綺麗な金色の髪と目は、母親譲りのものだ。大好きな優しい母と、同じ色の髪と目をしていることは、昔から理沙の喜びだった。
「お父さんのお仕事が終わったら、すぐに魔法を見てもらわなきゃ!お父さん、褒めてくれるかな……?」
理沙の母は、少し魔術をかじっていた。部屋に置いてあった魔導書に、理沙が興味を示したので、軽く教えてみたところ、想像以上に理沙は魔法にのめりこんでしまったのだ。
今では、人里の貸本屋にある魔導書を、殆ど全て借りているような状態だ。
「きっと褒めてくれるわ。でも、魔法ばっかりじゃなくてお勉強もしないと、って言われちゃうかもしれないわね」
そう言われて、理沙は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「だって、お勉強はあんまり楽しくないもん……」
そう言う理沙に、母は仕方ないと言ったように微笑む。
「面倒でも、しないとダメよ?理沙もいつか、お父さんみたいに働くんだから」
そんな話をしていると、部屋の外の方から、雨戸が閉まる音が聞こえてきた。どうやら、今日はもう店じまいのようだ。
理沙は、母の膝の上から飛び降り、音のした方へと駆けていく。
「おお、理沙。どうかしたのか?」
そう言いながら、父は理沙を抱き上げる。
「今日のお仕事、もう終わり?」
「ああ、もう終わったぞ」
「あのね、お父さん。ちょっと見て欲しいものがあるの!」
床に下ろされた理沙は、そう言って暖炉に向かって規則的に腕を振る。
ポフンと音がしたかと思うと、暖炉には火がついていた。
「ほら!私、魔法ができるようになったの!」
父は、暖炉の方を見ながら、驚いたように少し目を見開くと、理沙に向き直って言う。
「すごいぞ、理沙!さすがは母さんの子だ!でも、まだ夏だから、暖炉は消さないとな」
笑う父に、理沙も心の底から嬉しそうに笑う。それを見た母も、優しく微笑んでいた。そこには、一つの家族の幸せが、確かにあった。
「でもな、理沙。魔法もいいけど、勉強もちゃんとしないとダメだぞ?」
その言葉に、理沙の笑顔はふくれっ面に変わり、母の微笑みにも、苦笑が混ざったことは、言うまでもないだろう。
「ご馳走様でした!」
「はい、お粗末様でした」
夕飯を食べ終え、理沙は元気よく食後の挨拶をした。
いつもの様に食器を片付け、自分の部屋へと戻って本を読もうとする理沙に、父から声が掛かった。
「そうだ、理沙。今晩は、大事なお客様が来るから、理沙は部屋に居てくれ。もし厠に行く途中で会ったりしても、失礼の無いようにな」
「うん、わかった!」
そう頷いて、理沙は自分の部屋へと戻っていった。
「じゃあ、今晩はよろしくな。今日のお客様は、お前にも頑張ってもらわないとな」
「ええ、分かってるわ。かなり大きい案件だものね。霧雨商店の副店長として、しっかりやるわ」
二人は、食後の茶をすすりながら、そう言葉を交わした。
「ん……ふわぁ……」
目が覚める。目線を横にやると、布団の横に置いてある時計は、夕食を食べ終えてから、三時間ほど経った事を示していた。
「……寝ちゃったみたい?」
寝ぼけ眼を擦りながら、理沙は呟く。
どうやら、布団に寝転がりながら魔導書を読んでいるうちに、寝てしまったらしい。
歯も磨かずに寝てしまった事に、軽く罪悪感を覚える。
「……おしっこ」
厠に行く事も無く寝てしまったためか、尿意に襲われる。布団から起き上がり、部屋を出て厠を目指す。
歩いていると、客間の明かりがついている事に気が付いた。そういえば、今日は大事なお客様が来ると父が言っていたはずだ。
眠気の残る頭で思い出した理沙は、足音を立てない様に、ゆっくりと客間の近くを通る。
「それでは、この件は受けてくださるという事でよろしいでしょうか」
「そうですね……多少、今から交渉させて頂きたい部分もありますが、概ね問題ありません」
障子の向こうから、漏れてきた会話を少しだけ聞いただけで、なにやら難しい話をしているのだな、と分かった。
どうやら、客間には三人の人がいるらしい。おそらく、父と母、そして、父の言っていたお客様だろう。
「難しい話は分からない……」
障子の向こうに見える、三人の人影に聞こえないよう、小声でつぶやきながら、理沙は客間のそばを通り抜けていった。
寺子屋では、夜に一人で厠に行けない事でからかわれている男子が何人かいたが、理沙は夜中の厠を怖がるような性格ではなかった。
普段通りに淡々と用を足すと、拭いた紙をぼっとん便所の中に捨てる。
人里に、人間に敵対的な妖怪が出るはずもない。もしこの底から何か出てくるとしたら、それはおそらく魔の類のものだろう。そうならば、むしろ見てみたいくらいだと理沙は思う。
ふわぁと、大きなあくびを一つ。用を足し終えた理沙は、洗った手を、行儀悪く寝巻の裾で拭きながら、来た道を戻っていた。厠のついでに、していなかった歯磨きも終わらせて、また寝なおす準備は万端だ。
どこかから、何かを打ち付けるような音がしている。
おそらくは、消防隊のおじさん達が、見回りをしているのだろう。火の用心と言いながら、二本の木の棒でカンカンと良く鳴らしている。少し音が違う気もするが、静かな夜で、その音しか聞こえてこないから、違和感がするのだろう。
特に気にする事も無く、理沙は歩みを進める。
歩いているうちに、客間が近づいたので、また足音をひそめる。
「この音……」
客間に近づいていくほど、例の音が大きくなっている事に気が付いた。もしかしたら、客間で何かしているのだろうか。
ゆっくりと客間に近づいていくうちに、理沙は障子の向こうの異変に気がつく。
座っている影が、一つだけになっている。お客様は、もう帰ったのだろうか?そう考えてみたが、聞こえてくる声には、お客様のものも含まれている。どうやら、そういう事ではないらしい。
「何をしてるんだろう……?」
小声で呟きながら、さらに近づいていくと、また人影を一つ見つけた。どうやら、蹲っているようだ。
「誰か具合でも悪いのかな?」
そう考えながら、ゆっくりと歩く。さらに客間が近づくにつれ、話し声も鮮明に聞こえてくる。
「どうですか、うちのは」
「そうですね……なかなかいいものをお持ちで」
何か、収集品の自慢でもしているのだろうか?
父は、珍しいものを集める事を趣味としている。その種類は、外の世界のものから、ちょっとしたマジックアイテム、古い壺など、様々だ。
しかし、そう考えるには、蹲っているような人影が不自然だし、時折聞こえてくる、母の漏れ出てくるような声が不可解だった。
「それじゃあ、次は上になってもらってもいいですか?」
「はい、もちろんですわ」
お客様と母が、そんな会話を交わしたのが聞こえたかと思うと、蹲っていた人影は起き上がり、今度は寝転がった。
蹲っていた人影の下から、もう一つの人影が出てくると、その人影は寝転がった方の上に跨った。あれはどう見ても、母の人影だろう。という事は、寝転がった方はお客様か。
「んん……んっ……」
母の声だ。聞きなれたはずの、しかし、今までに聞いたことないような声だ。耳をすませば、衣擦れの音や、湿ったような音も聞こえてくる。
障子の向こうで、何が起こっているのか。何が行われているのか。理解できないままに、理沙は客間の障子の目の前に立った。
少し観察していると、今度は、お客様と思しき人影が、上半身を起こした。すると、母と思しき人影も、その身を寄せ合い、顔を近づけ……キスをした様に、理沙には見えた。
そこで、理沙は理解した。いや、理解出来ていなかったフリが出来なくなった。
元々、理沙は本を好んで読む子供だった。それに加えて、魔導書にはそう言った事に関する魔法も乗っていたりする。同年代の人里の子供達に比べれば、理沙はそう言った事の知識は、圧倒的に豊富だろう。
ショックからか、立ちくらみがする。
母が、父以外の男の人と体を重ね。あろうことか、父はそれを間近で見ているどころか、平然と許容している。
なぜ。どうして。そんなの、絶対におかしい。お母さんは、お父さんを愛してるんじゃなかったの?お父さんは、お母さんを愛してるんじゃなかったの?二人とも、嘘をついていたの?
理沙の思考が、疑問と嫌悪感に染まる。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
立ちくらみから頭痛を起こし、完全に機能しなくなった理沙の思考回路に、しかし、理沙を納得させうる、父とお客様の会話が入ってくる。
「では、これで最初の条件での契約を結んでいただけますでしょうか?」
「ええ、もちろん!いや、しかし、霧雨さんの奥様は、本当に床上手でいらっしゃる。これで一体いくつのうまい商談を成立させてきたんですか」
「はっはっは!そう大したものではありませんよ」
――そっか。
理沙は理解する。
――お母さんは、お父さんにとって、ただのお仕事の道具なんだ。
それと同時に、障子の向こうへと向けられていた嫌悪感が、さらに広がる。
私が今着ている服。さっき食べた晩御飯。私を抱きかかえたお父さんの手。その前に自分が火をつけた暖炉。お父さんが仕事を終える前に読んでいた本。その時座っていた、母の膝の上。私の頭を、優しく撫でてくれていた、母の手。その手が触れていた、私の、母譲りの金髪。毎日鏡で見る、母譲りの金目。私の身の回りにあるもの全て。いや、私自身をも含めた、私の知る世界全て。その全てが、こんなに汚い。汚い体で作られ、汚いお金で買われ、汚い両親に、育てられ……
途端に、抗いがたい吐き気に襲われる。障子の向こうの三人に気が付かれるかもしれない。そんな懸念をする暇もなく、理沙は厠へ走って戻る。
「うっ……うぇ……うぇっ……うううぉぉ…………」
原形を失った夕食が、胃液と共に喉から溢れ出る。
たった今吐いた吐瀉物とボットン便所に落ちた排泄物とがたてる、ビチャビチャと言う音に気持ち悪くなり、再度吐く。
胃の中身を全て出し切った理沙は、口の中に残る酸っぱさを認識する。
気持ち悪い。とにかく気持ち悪い。
吐きながら思わず閉じていた目を開くと、自分の金色の髪が――母譲りの金色の髪が見えて、また吐き気を覚える。しかし、吐くものの無くなった胃は、残った胃液を口の中に戻すだけだった。
「はぁ……はぁ……っ。一旦、落ち着こう……」
まだ続いてはいるが、抗える程度になった吐き気を抑えつつ、理沙はそう口にする。口に出すことで、無意識に自分に言い聞かせていた。
「……そうだ、これはきっと夢だ」
そして理沙は、最も容易な逃げ道へと走る。
これは現実ではない。今見ているのはただの悪い夢で、目が覚めればいつも通りの日常があるはずだ。
そう自分に言い聞かせて、厠を出て自分の部屋へと向かう。
治まっていく吐き気と共に、自室への距離は短くなっていく。あと少しで客間の横に差し掛かるというところで、ガラリと襖が開いた。
まずい。まずいまずいまずい!!!
理沙の脳が、そんな思考だけで埋め尽くされる。もしここで見つかったら、夢であると言う幻想を信じ込む事の難度が、一気に跳ね上がってしまう!逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!!
しかし、叫ぶ思考とは裏腹に、理沙の体は言う事を聞いてくれなかった。
「あら、理沙。どうしたの?」
固まっていた理沙に、最初に気が付いたのは、母だった。
「いや、その、か、厠に行きたくなって……」
嘘はついていない。元々は、厠に行きたくて部屋から出たのだ。
努めて自分を落ち着かせようとする理沙を、お客様は花を愛でるような目で見ていた。
「娘さんですか?これはまた可愛らしい」
「ええ、理沙と言いまして……ほら、理沙。お客様にご挨拶なさい」
ここは父の言うとおりにして、さっさとこの場を去るのが得策だろう。うまく回らない尾頭で、そう判断した理沙は、素直にぺこりと頭を下げる。
「こんばんは、霧雨理沙です。お父さんがいつもお世話になってます」
なんとか普段通りに言葉を紡げただろうか。そう思案する理沙の頭に、手が触れる。顔を上げると、にこやかに笑うお客様の顔があった。
「これはこれは!行儀のいいお嬢ちゃんだ」
そう言いながら、お客様は理沙の頭を優しく撫で続ける。
やめろ。そんな汚い手で触るな。今すぐその手を退けろ。
そんな感情と共に、吐き気が戻って来る。
顔を落とし、血の気を悪くする理沙に、お客様の手が止まり、しゃがんで理沙の顔を覗き込んでくる。
「顔色が悪いようだけど、大丈夫かい?もし勝手に触ったことで気分を悪くしたのなら、申し訳ない」
その通りです、と言いたくなる感情を抑え、理沙は何とか言葉を紡ぐ。
「いえ……そんなわけじゃ……ないです……厠に行く前から、ちょっと調子が悪くて……」
「あら、理沙!どこが悪いの!?なんでお母さんかお父さんに早く行ってくれなかったの!?」
心配そうにそばに寄ってくる母に、一瞬罪悪感を覚える。しかし、先ほどの出来事が頭によぎり、母の手が届く前に、理沙は声で制する。
「ううん、心配しなくても大丈夫。きっと寝ればすぐよくなるから」
そう言って、心配してくる母を振り切り、理沙はまた自分の部屋へ向かって歩き出した。
「いやあ、本当に可愛らしい娘さんだ。数年後が楽しみですね」
背後から、そんな会話が聞こえてくる。どうやら、三人は玄関へと向かうようだ。幸い、ここから理沙の部屋と玄関は反対にあるため、ここで別れることが出来る。
「いやいや、そんなに大した娘ではありません」
父の嬉しそうな声も聞こえてくる。
なんとなく理沙が振り返ってみると、同様に振り返っていたお客様と目が合った。お客様は、理沙が振り向いたことに、少し驚いたような様子を見せたかと思うと、にこりと微笑んだ。
人当たりよく笑い細められたその眼は、隠しきれない下卑た感情で理沙を見ていた。
その目に恐ろしさすら覚えた理沙は、会釈だけを返し、小走りで部屋に戻っていった。
部屋に入り、布団に潜りこむ。
さっき見たすべて、聞いたすべて、感じたすべては、夢だったのだ。夢だと思いこめ。
障子に移った影を見た視覚を否定し、漏れてくる声を聞いた聴覚を否定し、頭に手を置かれた触覚を否定し、父と母とお客様の臭いを嗅いだ嗅覚を否定し、吐瀉物を味わった味覚を否定し、鮮明に焼き付いた記憶を否定し、全てを汚いと思った感情を否定し、夢なわけがないと断じる理性を否定し、全てを夢と思い込め。
さもなければ、明日からどうやって、こんなに汚いこの家で生きていけばいいというのだ。どうやって、こんなに汚いこの自分で生きていけばいいというのだ。
理沙は、目を強く瞑り、眠りに落ちようとする。
しかし、喉の奥に残った胃液の酸っぱさと、最後に見たあの下卑た目に感じた恐怖だけは、どうしても消えてくれなかった。
目を開けると、日が昇っていた。
時計を確認すると、いつも起きる時間だ。起き上がり、居間に向かう。
結局、一睡も出来なかった。鏡を覗けば、くまのできた顔を見ることが出来るだろう。
両親の顔を見たくなかった。いや、両親の顔だけではない。この家で自分の周りにある全てを、認識したくなかった。
しかし、そんな器用なことが出来るはずもない。理沙は嫌悪感だけを募らせながら、淡々と昨日までの動きをエミュレートする。
「おはよう」
「おはよう、理沙。昨日は調子が悪いって言っていたけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
居間に着くと、台所に母が立っていた。父は、店のほうで作業をしているらしい。
しばらくぼうっとしていると、朝食の準備が終わり、父が店の方から戻ってきた。おはよう、と言われたので、おはよう、とだけ返した。
「それじゃあ、いただきます」
父の声に続けて、理沙と母も、いただきますと声を出す。
いつも通りの食事を出されたものの、寝不足で食欲などあるわけがない。
いや、それ以前に。こんな、汚いお金で買った材料で、汚い体の母が作った食事など、食べる気が起きるわけもない。
「どうした、理沙。食べないのか?」
水を飲むだけで、全く食事に手を付けない理沙を不審に思ったか、父が声をかけてくる。
「理沙、やっぱりどこか悪いの?後で、お医者さんに行く?」
もう、耐えきれない。このまま、知らないふりなんて出来ない。
心配そうに理沙を見てくる両親に答えず、理沙は呟く。
「昨日の夜……お客様と何してたの」
その質問の意図が分からず、両親は首をかしげながらも答える。
「何って……お仕事のお話だよ?」
「ええ、これだけ商品を渡すから、これだけお金をくださいってお話をしていたのよ」
白々しい。理沙は、決定的な言葉を突きつける。
「お母さんとお客様。二人で裸になって、何してたの」
両親がハッと息を飲んだのが分かる。
二人が本当に裸だったのかは分からない。しかし、おそらくそうだっただろうと容易に想像できた。障子に移る影が、どう見ても裸だったから。
「い、いや、理沙……それはだな……」
言い淀む父と、黙り込む母。そんな二人の対応に、理沙の中で何かが爆発する。
「なんで!!お父さんとお母さんは、愛し合って結婚したんじゃないの!?二人とも好きだったから、一緒に暮らしてるんじゃないの!?お母さんはなんであんな事したの!?お父さんはなんで止めずに見てたの!?」
机を両手で、一発バンと叩き、かぶりを振りながら叫ぶ。
「理沙、わけがあるんだ。一旦落ち着いて、お父さんの話を聞いてくれ」
そんな父の言葉も、火に油を注ぐだけだ。
「わかんないわかんないわかんない!!なんでなんでなんで!!なんでそんなに汚いことが出来るの!?私わかんないよ!!そんな汚いお金なんていらない!!そんな汚い家なんていらない!!そんな汚いご飯なんていらない!!そんな汚い家族なんて……汚い私なんて……いら」
「理沙」
父の声に、理沙の号哭が止まる。それは、今まで理沙が聞いたことのない、静かだが、抗いがたいほどの、絶対的とも思えるほどの圧を持った声だった。
「いらないというのなら、もう求めなければいい。好きにしなさい」
父は淡々と言葉を続ける。
「お前は、社会というものを分かっていなさ過ぎる。どうしてこの店が、数ある人里の商店の中でも、高い地位にあるか分かるか?それは、霧雨の一族が、代々そうして店を大きくしてきたからだ。それを納得できないと言うのなら、お前はもう霧雨には要らない」
「え……あ……」
理沙は、今まで一度も見た事の無い父の様子に、しどろもどろになる。母の方を見てみても、救いの手を差し伸べてくれるような様子は無かった。
母も『霧雨』という事だろうか。
「このことを知るのは、お前がもう少し、物事が分かるようになってからにするつもりんだが……その反応なら、おそらくは、どちらにせよ無理だったんだろう。大体、お前は魔法なんて遊びにかまけて、勉強をおろそかにし過ぎている。遊びが無駄だなんてことは言わないけれど、限度があるだろう」
そして、理沙の中でまた何かが爆発した。
「……分かった」
そうとだけ呟くと、自分の部屋へと戻る。
部屋に戻ってきた理沙は、使い慣れた大きいカバンを手に取り、部屋にある魔導書や筆記用具、着替えに毛布やらを詰める。
一通り詰め終え、部屋の外に出る。水は川や湖のものを飲めばいいとは言え、さすがに数日分は食事が無いとまずいだろう。汚いご飯など食べたくはないが、仕方なしに、倉庫に置いてある缶詰やらの非常食をカバンに放り込む。
どうやら、父は居間から動いていないらしい。理沙が動きやすい服に着替え、カバンを背負って玄関まで行く頃には、母だけが心配そうに理沙に近づいてきた。
「ねえ、理沙。どこに行くの……?」
「触らないで」
縋るように腕をつかんでくる母の手を、心底嫌そうな顔で払うと、理沙は靴を履いて、あてもなく外へと出ていった。
幻想郷は、隔離された空間である。
その中にある人里も、身を守る力と度胸の無い者は、実質的に出る事を許されていないと言う意味では、隔離空間と言えるかもしれない。
隔離された世界の中の、隔離されたユートピア。
その外に広がる世界に比べて、あまりにも小さいそれは、しかし、ただの幼い少女にすぎない理沙には、十分すぎるほどに大きいものだった。
「あれ?霧雨さんの所の嬢ちゃんじゃないか。こんな朝早くにどうしたんだ?」
背後から自分を呼ぶ声に振り返ると、見覚えのある中年の男がいた。
よく家に来る『お客様』の一人だ。
この人も、商売道具として使われた母と、関係を持ったのだろうか
想像するだけで、吐き気で中身の無い胃が絞られる。
「おはようございます。今日は、香霖堂にお使いがあるんです。魔法の森まで行って、日が暮れる前には帰ってこれるように、早めに出発しようかなと思って」
何とか表情を取り繕い、出まかせの嘘で対応する。
「そうだったのか!さすがは霧雨さんの子、まだ小さいのに偉いなぁ!」
がっはっはと元気よく笑いながら、そのお客様は理沙の頭を撫でる。
「じゃあ、気を付けて行くんだぞ。今は明るいし、香霖堂で森近の奴が待ってるんだろうけど、道中が安全とは言い切れないからな!」
そう言った後、そのお客様は、里の出口まで理沙についてきた。どうやら、見送りのつもりらしい。
「それじゃ、頑張ってな!」
ギギギと音を立てながら、理沙が出た木製の門が閉まる。
どうやら、うまくやり過ごせたらしい。
全くあての無い、そもそもどうやって里の外に出ようかも考えていなかった家出だ。
こんなに簡単に出ることが出来たし、あの人に会ったのは運がよかったかな。理沙はそう考えることにした。
そうでもしなければ、あのお客様と両親への嫌悪感で、おかしくなりそうだったから。
理沙は幸せな子供だった。――そう。だった。
人里の中でも比較的裕福な商人の家の一人娘として生まれ、時に厳しくも、愛情をもって接してくれる父と、いつも優しく理沙を受け止めてくれる母に囲まれ、特に不自由もなく生きてきた。
しかし、その家は、代々汚い行為で店を発展させてきた。当代の店主夫婦である理沙の両親も、それは例外では無かった。
何不自由ないと持っていた生活は、しかし、その実、全てが汚いものだった。
「疲れた……」
日も沈み、辺りを夜の闇が支配した頃、理沙はそう呟いて地面にどかっと座り込んだ。
当てもなく家を出てから数日。理沙は、家から持ってきた食料と、山肌を流れる川の水で、命を繋いでいた。
初日と二日目こそ、人里近くの森の中をただウロウロとしていただけだったが、今では、目的地も決まっていた。
博麗神社。幻想郷のバランスを守る、博麗の巫女の住まう場所。
そこまで行けば、ひとまず保護してもらえ、死と隣り合わせの日々を送ることも無いと考えた。
加えて、博麗神社には、祭りでもない限り、殆ど人は来ない。ならば、両親と会う確率も低いだろう。普通に考えれば、子供が一人で昇り切れるような場所にないというのも、好条件だ。
「お腹空いたな……」
そう一人ごちりながら、カバンを漁って最後の食料を取り出す。
あの汚い家から持ちだしてきた食べ物など、食べたくは無かったが、今ここで野垂れ死にするよりは、幾分かましだろう。
ナイフで開けた缶詰の中身を手づかみで食べながら、理沙は家で母が作ってくれたご飯を思い出す。
「家に帰れば、お母さんがご飯作って待っててくれてるのかな……」
思わずそんなことを呟き、すぐさまぶんぶんと頭を振って、そんな考えをかき消す。
あんな汚い家に戻るくらいならば、飢えて死に、妖怪に屍を献上した方がマシだ。
そう考えながら、理沙は少ない食事を終え、先ほど川で組んできた水でのどを潤す。
いつの間にかカバンに入っていた水筒が、役に立っている。
おそらく水筒は、母が入れたものだろう。家出した当日にカバンを漁っていたら、『辛くなったら、いつでも戻っておいで。お母さんも、一緒にお父さんに謝ってあげるからね』と書いてある紙が張り付けられた状態で見つけた物だ。
しかし、その伝言と優しさは、逆に理沙の意思を固めるだけだった。
とはいえ、食料は底をついてしまった。これからどう食い繋いでいけばいいものか。
考えようとしたが、少しだけ腹の膨れた理沙に、容赦なく眠気が襲ってくる。
「今日は、もう……寝よう……明日……起き、たら、考えよう……」
諦めて目を閉じる。
少しすると、すうすうと寝息を立てながら、理沙は眠りについた。
山の中腹ではあるが、理沙もそんなところで無防備で寝るほど馬鹿ではない。ちょっとした、妖怪避けの術式をカバンかけていた。
父が遊びと言い切った魔法は、実際に生死に関わっている。この術式で初日の夜を乗り切った時、理沙は父にこの事実を知らしめてやりたかった。
父が遊びと馬鹿にした魔法で、彼の目にもの見せてやる。理沙はそう心に誓った。
最も、術式はそこまで強いものでもなく、力のある妖怪ならば易々と突破するだろう。しかし、もしそうなれば、そもそも理沙に、それ程の妖怪から自分を守る方法は無い。運が悪かった。そう諦めて、死ぬを受け入れるより他無い。
しかしそれも、あの家で生きるのに比べたら、ありだろうと理沙は思っていた。
目が覚めると、朝日が昇っていた。
やはり慣れない野宿で眠りが薄くなっているらしく、ここ数日、理沙はぐっすり眠れていなかった。
「ふわぁ……あぁ……」
大きくあくびをし、水を飲んで目を覚ます。腹の虫がぐぎゅぅとなり、食料を探してカバンを漁るも、見つからない。
そして、昨日、食料を食べ切った事を思い出した。
「……どうしよう?」
周りを見回してみても、食べられそうなものは無い。
そこらに生えている雑草を食べるという手もなくはないが、それで毒のある草でも食べれば、餓死する前に毒で死ぬだろう。同じ理由で、ところどころ生えているキノコも却下した。
どうやら、とにかく歩くしかないらしい。幸い、水は確保できるので、多少は延命できる。後は時間との勝負だ。
餓死するのが先か、博麗神社につくのが先か。
「頑張ろう!」
両の頬をパチンと軽く叩き、理沙は気合を入れなおす。カバンを背負いなおすと、山の上の神社目指して、歩き始める。
1日が過ぎた。
時間を追うごとに体力を削られ、初日から減速していた理沙の歩みは、いよいよ亀の歩みと言っていいほどになっていた。
ただでさえ少しの休憩だけで一日中歩き通し。その上、腹が減り、数日まともな食事を取っておらず、さらに昨日から水しか口にしていない。本人に自覚は無いが、おそらく夏の気候で脱水症状にもなりかけているだろう。
まだ年端も行かぬ少女なのだ、足を止めていないだけでも、称賛に値するだろう。
死ぬかもしれないというのに、こんなに歩き続けて、私は、狂ってしまったんじゃないか。理沙は、この数日で何度もそう思った。
しかし、そのたびに、あの夜に障子越しに見た光景を思い出し、自らの行動が正常なものだと、自分に言い聞かせた。
重くなっていく体を引きずる様に歩いていると、山の中に小道を見つけた。どうやら、獣道らしい。
「これ……近道?」
木々の隙間を覗いてみると、そこからは博麗神社と思わしき建物が見えた。
近道かどうかの確証はない。しかし、今まで通り、参道として整備された道を通っていては、辿り着く前に力尽きてしまうことは、自明だった。
理沙はしばし悩むと、意を決したように頷いて、舗装された道から足を外して、草むらへと踏み入った。
どうやら、獣道が近道だという予想はあっていたらしい。歩きにくいが、神社へ近づくスピードが明らかに早い。
「これ、なら……なんとか……」
希望が見えてきた、と理沙は頬を綻ばせた。しかし、その瞬間に事は起こった。
ほとんど上がらず、擦るように動かしていた足が、コケを踏みつけ、つるりと滑る。危ないと思ったが、腕が動かない。
理沙は、頭を地面に思い切り打ち付け、意識を失った。
目が覚めると、一面の花畑にいた。夏と言う季節にふさわしく、たくさんのヒマワリが咲いていた。
「ここは……?」
体を動かそうとすると、全身に痛みが走る。
どうやら、滑って転んだあと、転がりながら落ちたらしい。全身をほとんどくまなく打撲したようだ。
幸い、カバンとその中身は殆ど失っていないようだ。
「私、ここで死んじゃうのかな……」
あの家で過ごすのに比べたら、そのほうがよっぽどマシだと思っていたはずだが、いざ死を目の前にしてみると、死にたくないという感情が溢れて止まらない。
押し寄せてきた涙を止めようともせず、全身の痛みに耐えながら動くと、なんとか立ち上がる事は出来た。
「でも、これからどうしよう……」
どうやら、かなりの高さを転がり落ちたようで、もうすぐの場所にあったはずの神社は、どこにも見えない。
今から山を登りなおす体力など到底ない。ならば、この状況でやれることと言えば、死に場所を選ぶくらいだろう。
重たく鈍く痛む体に鞭を打ち、カバンを背負って歩く。
どうせなら、この花畑の真ん中で死のう。
そう思って歩いているうちに、理沙はあるものを見つけた。
「人の……死体……?」
そこにあったのは、血まみれで倒れている、男性の死体だった。流れだした血が乾いていないのを見るに、どうやら、死んでからそう時間がたっていないらしい。
理沙は、その死体をしばらく見つめていた。
――本能が叫ぶ。ソレは食料だ。死にたくないのなら、ソレを食え。人の死体など、その実ただの肉の塊でしかない。ならば、それを食らったところで、何の問題があるというのか、と。
――理性が語る。ソレを食べてはいけない。ソレはただの肉の塊なんかじゃない。死体なんだ。人の、死体なんだよ、と。
――理性が叫ぶ。ソレは人の死体だ。ソレは腐っているかもしれないし、蛆が湧いているかもしれない。ソレを食って、腹を壊したりでもしたらどうする。下痢にでもなったら、残った水分まで出してしまって、今度こそ死ぬぞ、と。
――本能が語る。大丈夫だよ。ソレは死んでからまだ時間がたっていないみたいじゃないか。腐ってなんかいないし、蛆も沸いていない。血まみれで倒れているのを見るに、病気で死んだんじゃなくて、傷か失血で死んだはず。それなら、食べてもお腹を壊したりなんてこと、無いはずだよ、と
――ああ、そう言う事か。
理沙は口元に薄く笑みを浮かべる。
――どうやら、とうの昔に自分は狂っていたらしい。
いつ狂ったのかはわからない。あの夜かもしれないし、歩き続けたここ数日のどこかかもしれないし、もしかしたら、もっともっと前だったのかもしれない。
――それも、今はどうでもいい。
理沙は、男の死体の右腕に、躊躇いなく歯を立てて、思い切り嚙み千切った。思ったより、簡単だった。理沙のような幼い少女が噛み千切れる程度には、柔らかかった。くちゃくちゃと咀嚼し、飲み込む。ぽっちゃりしていて脂身が多く、決してうまいとは言えないが、食べられないほどではない。
――駄目だよ!そんなことしちゃ駄目!
誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。
二日間も食べ物を与えられていなかった胃袋が、もっとよこせと叫ぶ。
その衝動に逆らうことなく、理沙は一口、また一口と肉を噛み千切り、咀嚼し、飲み込む。気が付けば、男の右腕は、殆ど骨だけになっていた。
しかし、それでもまだ足りない。
――お願い、早くやめて!こんな事、普通の人間がやる事じゃない!
また、煩わしい声が聞こえる。
煩い。こっちは飢え死にするかどうかの瀬戸際で、ちょうどいい食べ物を見つけたんだ。
――でも、だからって、こんなの絶対におかしい!お願い、早くやめて、私!!
そして、理沙は気が付く。
この声は、私の中から聞こえているのだ。
こんな狂ったナニカの中に、ひとかけらだけ残った何か。
きっとそれは、幸せな、幸せだと思い込んでいた世界に包まれて育った、温室育ちの『理沙』の残滓のようなものだろう。
それが訴えかけているのだ。こんなことはやめて、まともな人間に戻れ、と。
理沙は、口の端を歪めて笑う。
――ああ、それならもう、手遅れだ。
――だって、そうだろう?
――馬鹿な私は、自分のことを、汚い存在だとは思っていなかった。
――でも、今の状況を考えれば、馬鹿でもわかる。
――私は、綺麗な人間なんかじゃない。汚い、とても汚い、頭のおかしい人間なんだって。
自分の中に少しだけ残った、失ってはいけないであろう『理沙』の最後のひとかけらを、躊躇無く人肉と共に噛み潰す。
右腕の次に嚙みついた左腕の肉が殆ど無くなるころには、もう声は聞こえなくなっていた。
今度は右足を掴み、噛み付く。足が胴体に繋がっていると、食べにくい。カバンからナイフを取り出し、腿のところで切断しようと試みる。しかし、想像以上に難しく、断念してまた齧り付く。
どう考えても、自分の胃の大きさに対して、おかしい量の肉を詰め込んでいる。
そんな疑問がふと浮かんだが、今は些末な問題だ。後回しにして、肉をさらに詰め込む。
一心不乱に、男の死体を食べている理沙に、人影が近づいてくる。
「ねえ、そこの貴方」
その声で、理沙はやっと、誰かが近づいてきていることに気が付く。理沙がそちらを向くと、そこには、日傘をさし、緑色の髪に深紅の瞳を持った女性がいた。
「それは、私の花の肥料よ。勝手に食べないでくれるかしら?」
その女性の発したわずかな敵意に、理沙は恐怖のあまり、思わず身震いする。そんな理沙をみた女性は、敵意を薄め、興味深そうな目をする。
「へえ、驚いた。妖怪じゃなくて人間だったのね。人間の死体を食べるものだから、妖怪だとばかり思っていたわ。貴方、名前は?」
「理沙……」
ぼそりと呟く。
「何?聞こえなかったわ。もう一回言ってちょうだい」
もう一度、今度ははっきりと理沙と言おうとして、やめる。
私は、もう理沙ではないのだ。
恵まれた家に生まれ、幸せに生きてきた少女、理沙ではない。汚い家に生まれ、汚い人生を生きて来た、これからも生きていく、狂った人間だ。
ならば、それにふさわしい名前が必要だろう。
「魔、理沙……魔理沙……」
「ふぅん?魔理沙って言うのね」
「うん。それが私の名前」
魔に落ちた理沙。魔をもって、いつの日か、汚い父を見返してやる理沙。ならば、この名が相応しいだろう。
女性は、しばし理沙――否、魔理沙の目を見つめると、その目から何を読み取ったか、少し笑った。
「まあ、それでいいわ」
言いながら、女性は魔理沙を小脇に抱えて歩きだす。
「下ろして……!下ろしてってば!」
「何故下ろす必要があるのかしら?気が向いたから、貴方を拾ってあげる。どうせ、帰る場所も無いんでしょう?」
魔理沙は、図星を付かれて黙り込む。女性は、日傘を持った方の手を口元にやって笑う。
「ああ、そういえば、私のほうがまだ名乗って無かったわね」
そう言って、女性は名乗る。
「私は、風見幽香。貴方、面白そうだから、しばらくうちにおいてあげるわ」
人里の中でも比較的裕福な商人の家の一人娘として生まれ、時に厳しくも、愛情をもって接してくれる父と、いつも優しく理沙を受け止めてくれる母に囲まれ、特に不自由もなく生きてきた。
「ねえ、お母さん」
「なあに、理沙」
母の膝の上に座って本を読みながら、理沙は口を開いた。
「お父さんのお仕事、もうすぐ終わる?」
「そうね、もう少しで終わるはずだから、もうちょっとだけ、待ってね」
そう言いながら理沙の頭を撫でる母に、理沙は気持ちよさそうに目を閉じて身を委ねる。
幻想郷の人間には珍しい、全く他の色の混ざらない、綺麗な金色の髪と目は、母親譲りのものだ。大好きな優しい母と、同じ色の髪と目をしていることは、昔から理沙の喜びだった。
「お父さんのお仕事が終わったら、すぐに魔法を見てもらわなきゃ!お父さん、褒めてくれるかな……?」
理沙の母は、少し魔術をかじっていた。部屋に置いてあった魔導書に、理沙が興味を示したので、軽く教えてみたところ、想像以上に理沙は魔法にのめりこんでしまったのだ。
今では、人里の貸本屋にある魔導書を、殆ど全て借りているような状態だ。
「きっと褒めてくれるわ。でも、魔法ばっかりじゃなくてお勉強もしないと、って言われちゃうかもしれないわね」
そう言われて、理沙は不機嫌そうに頬を膨らませる。
「だって、お勉強はあんまり楽しくないもん……」
そう言う理沙に、母は仕方ないと言ったように微笑む。
「面倒でも、しないとダメよ?理沙もいつか、お父さんみたいに働くんだから」
そんな話をしていると、部屋の外の方から、雨戸が閉まる音が聞こえてきた。どうやら、今日はもう店じまいのようだ。
理沙は、母の膝の上から飛び降り、音のした方へと駆けていく。
「おお、理沙。どうかしたのか?」
そう言いながら、父は理沙を抱き上げる。
「今日のお仕事、もう終わり?」
「ああ、もう終わったぞ」
「あのね、お父さん。ちょっと見て欲しいものがあるの!」
床に下ろされた理沙は、そう言って暖炉に向かって規則的に腕を振る。
ポフンと音がしたかと思うと、暖炉には火がついていた。
「ほら!私、魔法ができるようになったの!」
父は、暖炉の方を見ながら、驚いたように少し目を見開くと、理沙に向き直って言う。
「すごいぞ、理沙!さすがは母さんの子だ!でも、まだ夏だから、暖炉は消さないとな」
笑う父に、理沙も心の底から嬉しそうに笑う。それを見た母も、優しく微笑んでいた。そこには、一つの家族の幸せが、確かにあった。
「でもな、理沙。魔法もいいけど、勉強もちゃんとしないとダメだぞ?」
その言葉に、理沙の笑顔はふくれっ面に変わり、母の微笑みにも、苦笑が混ざったことは、言うまでもないだろう。
「ご馳走様でした!」
「はい、お粗末様でした」
夕飯を食べ終え、理沙は元気よく食後の挨拶をした。
いつもの様に食器を片付け、自分の部屋へと戻って本を読もうとする理沙に、父から声が掛かった。
「そうだ、理沙。今晩は、大事なお客様が来るから、理沙は部屋に居てくれ。もし厠に行く途中で会ったりしても、失礼の無いようにな」
「うん、わかった!」
そう頷いて、理沙は自分の部屋へと戻っていった。
「じゃあ、今晩はよろしくな。今日のお客様は、お前にも頑張ってもらわないとな」
「ええ、分かってるわ。かなり大きい案件だものね。霧雨商店の副店長として、しっかりやるわ」
二人は、食後の茶をすすりながら、そう言葉を交わした。
「ん……ふわぁ……」
目が覚める。目線を横にやると、布団の横に置いてある時計は、夕食を食べ終えてから、三時間ほど経った事を示していた。
「……寝ちゃったみたい?」
寝ぼけ眼を擦りながら、理沙は呟く。
どうやら、布団に寝転がりながら魔導書を読んでいるうちに、寝てしまったらしい。
歯も磨かずに寝てしまった事に、軽く罪悪感を覚える。
「……おしっこ」
厠に行く事も無く寝てしまったためか、尿意に襲われる。布団から起き上がり、部屋を出て厠を目指す。
歩いていると、客間の明かりがついている事に気が付いた。そういえば、今日は大事なお客様が来ると父が言っていたはずだ。
眠気の残る頭で思い出した理沙は、足音を立てない様に、ゆっくりと客間の近くを通る。
「それでは、この件は受けてくださるという事でよろしいでしょうか」
「そうですね……多少、今から交渉させて頂きたい部分もありますが、概ね問題ありません」
障子の向こうから、漏れてきた会話を少しだけ聞いただけで、なにやら難しい話をしているのだな、と分かった。
どうやら、客間には三人の人がいるらしい。おそらく、父と母、そして、父の言っていたお客様だろう。
「難しい話は分からない……」
障子の向こうに見える、三人の人影に聞こえないよう、小声でつぶやきながら、理沙は客間のそばを通り抜けていった。
寺子屋では、夜に一人で厠に行けない事でからかわれている男子が何人かいたが、理沙は夜中の厠を怖がるような性格ではなかった。
普段通りに淡々と用を足すと、拭いた紙をぼっとん便所の中に捨てる。
人里に、人間に敵対的な妖怪が出るはずもない。もしこの底から何か出てくるとしたら、それはおそらく魔の類のものだろう。そうならば、むしろ見てみたいくらいだと理沙は思う。
ふわぁと、大きなあくびを一つ。用を足し終えた理沙は、洗った手を、行儀悪く寝巻の裾で拭きながら、来た道を戻っていた。厠のついでに、していなかった歯磨きも終わらせて、また寝なおす準備は万端だ。
どこかから、何かを打ち付けるような音がしている。
おそらくは、消防隊のおじさん達が、見回りをしているのだろう。火の用心と言いながら、二本の木の棒でカンカンと良く鳴らしている。少し音が違う気もするが、静かな夜で、その音しか聞こえてこないから、違和感がするのだろう。
特に気にする事も無く、理沙は歩みを進める。
歩いているうちに、客間が近づいたので、また足音をひそめる。
「この音……」
客間に近づいていくほど、例の音が大きくなっている事に気が付いた。もしかしたら、客間で何かしているのだろうか。
ゆっくりと客間に近づいていくうちに、理沙は障子の向こうの異変に気がつく。
座っている影が、一つだけになっている。お客様は、もう帰ったのだろうか?そう考えてみたが、聞こえてくる声には、お客様のものも含まれている。どうやら、そういう事ではないらしい。
「何をしてるんだろう……?」
小声で呟きながら、さらに近づいていくと、また人影を一つ見つけた。どうやら、蹲っているようだ。
「誰か具合でも悪いのかな?」
そう考えながら、ゆっくりと歩く。さらに客間が近づくにつれ、話し声も鮮明に聞こえてくる。
「どうですか、うちのは」
「そうですね……なかなかいいものをお持ちで」
何か、収集品の自慢でもしているのだろうか?
父は、珍しいものを集める事を趣味としている。その種類は、外の世界のものから、ちょっとしたマジックアイテム、古い壺など、様々だ。
しかし、そう考えるには、蹲っているような人影が不自然だし、時折聞こえてくる、母の漏れ出てくるような声が不可解だった。
「それじゃあ、次は上になってもらってもいいですか?」
「はい、もちろんですわ」
お客様と母が、そんな会話を交わしたのが聞こえたかと思うと、蹲っていた人影は起き上がり、今度は寝転がった。
蹲っていた人影の下から、もう一つの人影が出てくると、その人影は寝転がった方の上に跨った。あれはどう見ても、母の人影だろう。という事は、寝転がった方はお客様か。
「んん……んっ……」
母の声だ。聞きなれたはずの、しかし、今までに聞いたことないような声だ。耳をすませば、衣擦れの音や、湿ったような音も聞こえてくる。
障子の向こうで、何が起こっているのか。何が行われているのか。理解できないままに、理沙は客間の障子の目の前に立った。
少し観察していると、今度は、お客様と思しき人影が、上半身を起こした。すると、母と思しき人影も、その身を寄せ合い、顔を近づけ……キスをした様に、理沙には見えた。
そこで、理沙は理解した。いや、理解出来ていなかったフリが出来なくなった。
元々、理沙は本を好んで読む子供だった。それに加えて、魔導書にはそう言った事に関する魔法も乗っていたりする。同年代の人里の子供達に比べれば、理沙はそう言った事の知識は、圧倒的に豊富だろう。
ショックからか、立ちくらみがする。
母が、父以外の男の人と体を重ね。あろうことか、父はそれを間近で見ているどころか、平然と許容している。
なぜ。どうして。そんなの、絶対におかしい。お母さんは、お父さんを愛してるんじゃなかったの?お父さんは、お母さんを愛してるんじゃなかったの?二人とも、嘘をついていたの?
理沙の思考が、疑問と嫌悪感に染まる。
どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い汚い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪いどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして
立ちくらみから頭痛を起こし、完全に機能しなくなった理沙の思考回路に、しかし、理沙を納得させうる、父とお客様の会話が入ってくる。
「では、これで最初の条件での契約を結んでいただけますでしょうか?」
「ええ、もちろん!いや、しかし、霧雨さんの奥様は、本当に床上手でいらっしゃる。これで一体いくつのうまい商談を成立させてきたんですか」
「はっはっは!そう大したものではありませんよ」
――そっか。
理沙は理解する。
――お母さんは、お父さんにとって、ただのお仕事の道具なんだ。
それと同時に、障子の向こうへと向けられていた嫌悪感が、さらに広がる。
私が今着ている服。さっき食べた晩御飯。私を抱きかかえたお父さんの手。その前に自分が火をつけた暖炉。お父さんが仕事を終える前に読んでいた本。その時座っていた、母の膝の上。私の頭を、優しく撫でてくれていた、母の手。その手が触れていた、私の、母譲りの金髪。毎日鏡で見る、母譲りの金目。私の身の回りにあるもの全て。いや、私自身をも含めた、私の知る世界全て。その全てが、こんなに汚い。汚い体で作られ、汚いお金で買われ、汚い両親に、育てられ……
途端に、抗いがたい吐き気に襲われる。障子の向こうの三人に気が付かれるかもしれない。そんな懸念をする暇もなく、理沙は厠へ走って戻る。
「うっ……うぇ……うぇっ……うううぉぉ…………」
原形を失った夕食が、胃液と共に喉から溢れ出る。
たった今吐いた吐瀉物とボットン便所に落ちた排泄物とがたてる、ビチャビチャと言う音に気持ち悪くなり、再度吐く。
胃の中身を全て出し切った理沙は、口の中に残る酸っぱさを認識する。
気持ち悪い。とにかく気持ち悪い。
吐きながら思わず閉じていた目を開くと、自分の金色の髪が――母譲りの金色の髪が見えて、また吐き気を覚える。しかし、吐くものの無くなった胃は、残った胃液を口の中に戻すだけだった。
「はぁ……はぁ……っ。一旦、落ち着こう……」
まだ続いてはいるが、抗える程度になった吐き気を抑えつつ、理沙はそう口にする。口に出すことで、無意識に自分に言い聞かせていた。
「……そうだ、これはきっと夢だ」
そして理沙は、最も容易な逃げ道へと走る。
これは現実ではない。今見ているのはただの悪い夢で、目が覚めればいつも通りの日常があるはずだ。
そう自分に言い聞かせて、厠を出て自分の部屋へと向かう。
治まっていく吐き気と共に、自室への距離は短くなっていく。あと少しで客間の横に差し掛かるというところで、ガラリと襖が開いた。
まずい。まずいまずいまずい!!!
理沙の脳が、そんな思考だけで埋め尽くされる。もしここで見つかったら、夢であると言う幻想を信じ込む事の難度が、一気に跳ね上がってしまう!逃げろ逃げろ逃げろ逃げろ!!
しかし、叫ぶ思考とは裏腹に、理沙の体は言う事を聞いてくれなかった。
「あら、理沙。どうしたの?」
固まっていた理沙に、最初に気が付いたのは、母だった。
「いや、その、か、厠に行きたくなって……」
嘘はついていない。元々は、厠に行きたくて部屋から出たのだ。
努めて自分を落ち着かせようとする理沙を、お客様は花を愛でるような目で見ていた。
「娘さんですか?これはまた可愛らしい」
「ええ、理沙と言いまして……ほら、理沙。お客様にご挨拶なさい」
ここは父の言うとおりにして、さっさとこの場を去るのが得策だろう。うまく回らない尾頭で、そう判断した理沙は、素直にぺこりと頭を下げる。
「こんばんは、霧雨理沙です。お父さんがいつもお世話になってます」
なんとか普段通りに言葉を紡げただろうか。そう思案する理沙の頭に、手が触れる。顔を上げると、にこやかに笑うお客様の顔があった。
「これはこれは!行儀のいいお嬢ちゃんだ」
そう言いながら、お客様は理沙の頭を優しく撫で続ける。
やめろ。そんな汚い手で触るな。今すぐその手を退けろ。
そんな感情と共に、吐き気が戻って来る。
顔を落とし、血の気を悪くする理沙に、お客様の手が止まり、しゃがんで理沙の顔を覗き込んでくる。
「顔色が悪いようだけど、大丈夫かい?もし勝手に触ったことで気分を悪くしたのなら、申し訳ない」
その通りです、と言いたくなる感情を抑え、理沙は何とか言葉を紡ぐ。
「いえ……そんなわけじゃ……ないです……厠に行く前から、ちょっと調子が悪くて……」
「あら、理沙!どこが悪いの!?なんでお母さんかお父さんに早く行ってくれなかったの!?」
心配そうにそばに寄ってくる母に、一瞬罪悪感を覚える。しかし、先ほどの出来事が頭によぎり、母の手が届く前に、理沙は声で制する。
「ううん、心配しなくても大丈夫。きっと寝ればすぐよくなるから」
そう言って、心配してくる母を振り切り、理沙はまた自分の部屋へ向かって歩き出した。
「いやあ、本当に可愛らしい娘さんだ。数年後が楽しみですね」
背後から、そんな会話が聞こえてくる。どうやら、三人は玄関へと向かうようだ。幸い、ここから理沙の部屋と玄関は反対にあるため、ここで別れることが出来る。
「いやいや、そんなに大した娘ではありません」
父の嬉しそうな声も聞こえてくる。
なんとなく理沙が振り返ってみると、同様に振り返っていたお客様と目が合った。お客様は、理沙が振り向いたことに、少し驚いたような様子を見せたかと思うと、にこりと微笑んだ。
人当たりよく笑い細められたその眼は、隠しきれない下卑た感情で理沙を見ていた。
その目に恐ろしさすら覚えた理沙は、会釈だけを返し、小走りで部屋に戻っていった。
部屋に入り、布団に潜りこむ。
さっき見たすべて、聞いたすべて、感じたすべては、夢だったのだ。夢だと思いこめ。
障子に移った影を見た視覚を否定し、漏れてくる声を聞いた聴覚を否定し、頭に手を置かれた触覚を否定し、父と母とお客様の臭いを嗅いだ嗅覚を否定し、吐瀉物を味わった味覚を否定し、鮮明に焼き付いた記憶を否定し、全てを汚いと思った感情を否定し、夢なわけがないと断じる理性を否定し、全てを夢と思い込め。
さもなければ、明日からどうやって、こんなに汚いこの家で生きていけばいいというのだ。どうやって、こんなに汚いこの自分で生きていけばいいというのだ。
理沙は、目を強く瞑り、眠りに落ちようとする。
しかし、喉の奥に残った胃液の酸っぱさと、最後に見たあの下卑た目に感じた恐怖だけは、どうしても消えてくれなかった。
目を開けると、日が昇っていた。
時計を確認すると、いつも起きる時間だ。起き上がり、居間に向かう。
結局、一睡も出来なかった。鏡を覗けば、くまのできた顔を見ることが出来るだろう。
両親の顔を見たくなかった。いや、両親の顔だけではない。この家で自分の周りにある全てを、認識したくなかった。
しかし、そんな器用なことが出来るはずもない。理沙は嫌悪感だけを募らせながら、淡々と昨日までの動きをエミュレートする。
「おはよう」
「おはよう、理沙。昨日は調子が悪いって言っていたけど、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
居間に着くと、台所に母が立っていた。父は、店のほうで作業をしているらしい。
しばらくぼうっとしていると、朝食の準備が終わり、父が店の方から戻ってきた。おはよう、と言われたので、おはよう、とだけ返した。
「それじゃあ、いただきます」
父の声に続けて、理沙と母も、いただきますと声を出す。
いつも通りの食事を出されたものの、寝不足で食欲などあるわけがない。
いや、それ以前に。こんな、汚いお金で買った材料で、汚い体の母が作った食事など、食べる気が起きるわけもない。
「どうした、理沙。食べないのか?」
水を飲むだけで、全く食事に手を付けない理沙を不審に思ったか、父が声をかけてくる。
「理沙、やっぱりどこか悪いの?後で、お医者さんに行く?」
もう、耐えきれない。このまま、知らないふりなんて出来ない。
心配そうに理沙を見てくる両親に答えず、理沙は呟く。
「昨日の夜……お客様と何してたの」
その質問の意図が分からず、両親は首をかしげながらも答える。
「何って……お仕事のお話だよ?」
「ええ、これだけ商品を渡すから、これだけお金をくださいってお話をしていたのよ」
白々しい。理沙は、決定的な言葉を突きつける。
「お母さんとお客様。二人で裸になって、何してたの」
両親がハッと息を飲んだのが分かる。
二人が本当に裸だったのかは分からない。しかし、おそらくそうだっただろうと容易に想像できた。障子に移る影が、どう見ても裸だったから。
「い、いや、理沙……それはだな……」
言い淀む父と、黙り込む母。そんな二人の対応に、理沙の中で何かが爆発する。
「なんで!!お父さんとお母さんは、愛し合って結婚したんじゃないの!?二人とも好きだったから、一緒に暮らしてるんじゃないの!?お母さんはなんであんな事したの!?お父さんはなんで止めずに見てたの!?」
机を両手で、一発バンと叩き、かぶりを振りながら叫ぶ。
「理沙、わけがあるんだ。一旦落ち着いて、お父さんの話を聞いてくれ」
そんな父の言葉も、火に油を注ぐだけだ。
「わかんないわかんないわかんない!!なんでなんでなんで!!なんでそんなに汚いことが出来るの!?私わかんないよ!!そんな汚いお金なんていらない!!そんな汚い家なんていらない!!そんな汚いご飯なんていらない!!そんな汚い家族なんて……汚い私なんて……いら」
「理沙」
父の声に、理沙の号哭が止まる。それは、今まで理沙が聞いたことのない、静かだが、抗いがたいほどの、絶対的とも思えるほどの圧を持った声だった。
「いらないというのなら、もう求めなければいい。好きにしなさい」
父は淡々と言葉を続ける。
「お前は、社会というものを分かっていなさ過ぎる。どうしてこの店が、数ある人里の商店の中でも、高い地位にあるか分かるか?それは、霧雨の一族が、代々そうして店を大きくしてきたからだ。それを納得できないと言うのなら、お前はもう霧雨には要らない」
「え……あ……」
理沙は、今まで一度も見た事の無い父の様子に、しどろもどろになる。母の方を見てみても、救いの手を差し伸べてくれるような様子は無かった。
母も『霧雨』という事だろうか。
「このことを知るのは、お前がもう少し、物事が分かるようになってからにするつもりんだが……その反応なら、おそらくは、どちらにせよ無理だったんだろう。大体、お前は魔法なんて遊びにかまけて、勉強をおろそかにし過ぎている。遊びが無駄だなんてことは言わないけれど、限度があるだろう」
そして、理沙の中でまた何かが爆発した。
「……分かった」
そうとだけ呟くと、自分の部屋へと戻る。
部屋に戻ってきた理沙は、使い慣れた大きいカバンを手に取り、部屋にある魔導書や筆記用具、着替えに毛布やらを詰める。
一通り詰め終え、部屋の外に出る。水は川や湖のものを飲めばいいとは言え、さすがに数日分は食事が無いとまずいだろう。汚いご飯など食べたくはないが、仕方なしに、倉庫に置いてある缶詰やらの非常食をカバンに放り込む。
どうやら、父は居間から動いていないらしい。理沙が動きやすい服に着替え、カバンを背負って玄関まで行く頃には、母だけが心配そうに理沙に近づいてきた。
「ねえ、理沙。どこに行くの……?」
「触らないで」
縋るように腕をつかんでくる母の手を、心底嫌そうな顔で払うと、理沙は靴を履いて、あてもなく外へと出ていった。
幻想郷は、隔離された空間である。
その中にある人里も、身を守る力と度胸の無い者は、実質的に出る事を許されていないと言う意味では、隔離空間と言えるかもしれない。
隔離された世界の中の、隔離されたユートピア。
その外に広がる世界に比べて、あまりにも小さいそれは、しかし、ただの幼い少女にすぎない理沙には、十分すぎるほどに大きいものだった。
「あれ?霧雨さんの所の嬢ちゃんじゃないか。こんな朝早くにどうしたんだ?」
背後から自分を呼ぶ声に振り返ると、見覚えのある中年の男がいた。
よく家に来る『お客様』の一人だ。
この人も、商売道具として使われた母と、関係を持ったのだろうか
想像するだけで、吐き気で中身の無い胃が絞られる。
「おはようございます。今日は、香霖堂にお使いがあるんです。魔法の森まで行って、日が暮れる前には帰ってこれるように、早めに出発しようかなと思って」
何とか表情を取り繕い、出まかせの嘘で対応する。
「そうだったのか!さすがは霧雨さんの子、まだ小さいのに偉いなぁ!」
がっはっはと元気よく笑いながら、そのお客様は理沙の頭を撫でる。
「じゃあ、気を付けて行くんだぞ。今は明るいし、香霖堂で森近の奴が待ってるんだろうけど、道中が安全とは言い切れないからな!」
そう言った後、そのお客様は、里の出口まで理沙についてきた。どうやら、見送りのつもりらしい。
「それじゃ、頑張ってな!」
ギギギと音を立てながら、理沙が出た木製の門が閉まる。
どうやら、うまくやり過ごせたらしい。
全くあての無い、そもそもどうやって里の外に出ようかも考えていなかった家出だ。
こんなに簡単に出ることが出来たし、あの人に会ったのは運がよかったかな。理沙はそう考えることにした。
そうでもしなければ、あのお客様と両親への嫌悪感で、おかしくなりそうだったから。
理沙は幸せな子供だった。――そう。だった。
人里の中でも比較的裕福な商人の家の一人娘として生まれ、時に厳しくも、愛情をもって接してくれる父と、いつも優しく理沙を受け止めてくれる母に囲まれ、特に不自由もなく生きてきた。
しかし、その家は、代々汚い行為で店を発展させてきた。当代の店主夫婦である理沙の両親も、それは例外では無かった。
何不自由ないと持っていた生活は、しかし、その実、全てが汚いものだった。
「疲れた……」
日も沈み、辺りを夜の闇が支配した頃、理沙はそう呟いて地面にどかっと座り込んだ。
当てもなく家を出てから数日。理沙は、家から持ってきた食料と、山肌を流れる川の水で、命を繋いでいた。
初日と二日目こそ、人里近くの森の中をただウロウロとしていただけだったが、今では、目的地も決まっていた。
博麗神社。幻想郷のバランスを守る、博麗の巫女の住まう場所。
そこまで行けば、ひとまず保護してもらえ、死と隣り合わせの日々を送ることも無いと考えた。
加えて、博麗神社には、祭りでもない限り、殆ど人は来ない。ならば、両親と会う確率も低いだろう。普通に考えれば、子供が一人で昇り切れるような場所にないというのも、好条件だ。
「お腹空いたな……」
そう一人ごちりながら、カバンを漁って最後の食料を取り出す。
あの汚い家から持ちだしてきた食べ物など、食べたくは無かったが、今ここで野垂れ死にするよりは、幾分かましだろう。
ナイフで開けた缶詰の中身を手づかみで食べながら、理沙は家で母が作ってくれたご飯を思い出す。
「家に帰れば、お母さんがご飯作って待っててくれてるのかな……」
思わずそんなことを呟き、すぐさまぶんぶんと頭を振って、そんな考えをかき消す。
あんな汚い家に戻るくらいならば、飢えて死に、妖怪に屍を献上した方がマシだ。
そう考えながら、理沙は少ない食事を終え、先ほど川で組んできた水でのどを潤す。
いつの間にかカバンに入っていた水筒が、役に立っている。
おそらく水筒は、母が入れたものだろう。家出した当日にカバンを漁っていたら、『辛くなったら、いつでも戻っておいで。お母さんも、一緒にお父さんに謝ってあげるからね』と書いてある紙が張り付けられた状態で見つけた物だ。
しかし、その伝言と優しさは、逆に理沙の意思を固めるだけだった。
とはいえ、食料は底をついてしまった。これからどう食い繋いでいけばいいものか。
考えようとしたが、少しだけ腹の膨れた理沙に、容赦なく眠気が襲ってくる。
「今日は、もう……寝よう……明日……起き、たら、考えよう……」
諦めて目を閉じる。
少しすると、すうすうと寝息を立てながら、理沙は眠りについた。
山の中腹ではあるが、理沙もそんなところで無防備で寝るほど馬鹿ではない。ちょっとした、妖怪避けの術式をカバンかけていた。
父が遊びと言い切った魔法は、実際に生死に関わっている。この術式で初日の夜を乗り切った時、理沙は父にこの事実を知らしめてやりたかった。
父が遊びと馬鹿にした魔法で、彼の目にもの見せてやる。理沙はそう心に誓った。
最も、術式はそこまで強いものでもなく、力のある妖怪ならば易々と突破するだろう。しかし、もしそうなれば、そもそも理沙に、それ程の妖怪から自分を守る方法は無い。運が悪かった。そう諦めて、死ぬを受け入れるより他無い。
しかしそれも、あの家で生きるのに比べたら、ありだろうと理沙は思っていた。
目が覚めると、朝日が昇っていた。
やはり慣れない野宿で眠りが薄くなっているらしく、ここ数日、理沙はぐっすり眠れていなかった。
「ふわぁ……あぁ……」
大きくあくびをし、水を飲んで目を覚ます。腹の虫がぐぎゅぅとなり、食料を探してカバンを漁るも、見つからない。
そして、昨日、食料を食べ切った事を思い出した。
「……どうしよう?」
周りを見回してみても、食べられそうなものは無い。
そこらに生えている雑草を食べるという手もなくはないが、それで毒のある草でも食べれば、餓死する前に毒で死ぬだろう。同じ理由で、ところどころ生えているキノコも却下した。
どうやら、とにかく歩くしかないらしい。幸い、水は確保できるので、多少は延命できる。後は時間との勝負だ。
餓死するのが先か、博麗神社につくのが先か。
「頑張ろう!」
両の頬をパチンと軽く叩き、理沙は気合を入れなおす。カバンを背負いなおすと、山の上の神社目指して、歩き始める。
1日が過ぎた。
時間を追うごとに体力を削られ、初日から減速していた理沙の歩みは、いよいよ亀の歩みと言っていいほどになっていた。
ただでさえ少しの休憩だけで一日中歩き通し。その上、腹が減り、数日まともな食事を取っておらず、さらに昨日から水しか口にしていない。本人に自覚は無いが、おそらく夏の気候で脱水症状にもなりかけているだろう。
まだ年端も行かぬ少女なのだ、足を止めていないだけでも、称賛に値するだろう。
死ぬかもしれないというのに、こんなに歩き続けて、私は、狂ってしまったんじゃないか。理沙は、この数日で何度もそう思った。
しかし、そのたびに、あの夜に障子越しに見た光景を思い出し、自らの行動が正常なものだと、自分に言い聞かせた。
重くなっていく体を引きずる様に歩いていると、山の中に小道を見つけた。どうやら、獣道らしい。
「これ……近道?」
木々の隙間を覗いてみると、そこからは博麗神社と思わしき建物が見えた。
近道かどうかの確証はない。しかし、今まで通り、参道として整備された道を通っていては、辿り着く前に力尽きてしまうことは、自明だった。
理沙はしばし悩むと、意を決したように頷いて、舗装された道から足を外して、草むらへと踏み入った。
どうやら、獣道が近道だという予想はあっていたらしい。歩きにくいが、神社へ近づくスピードが明らかに早い。
「これ、なら……なんとか……」
希望が見えてきた、と理沙は頬を綻ばせた。しかし、その瞬間に事は起こった。
ほとんど上がらず、擦るように動かしていた足が、コケを踏みつけ、つるりと滑る。危ないと思ったが、腕が動かない。
理沙は、頭を地面に思い切り打ち付け、意識を失った。
目が覚めると、一面の花畑にいた。夏と言う季節にふさわしく、たくさんのヒマワリが咲いていた。
「ここは……?」
体を動かそうとすると、全身に痛みが走る。
どうやら、滑って転んだあと、転がりながら落ちたらしい。全身をほとんどくまなく打撲したようだ。
幸い、カバンとその中身は殆ど失っていないようだ。
「私、ここで死んじゃうのかな……」
あの家で過ごすのに比べたら、そのほうがよっぽどマシだと思っていたはずだが、いざ死を目の前にしてみると、死にたくないという感情が溢れて止まらない。
押し寄せてきた涙を止めようともせず、全身の痛みに耐えながら動くと、なんとか立ち上がる事は出来た。
「でも、これからどうしよう……」
どうやら、かなりの高さを転がり落ちたようで、もうすぐの場所にあったはずの神社は、どこにも見えない。
今から山を登りなおす体力など到底ない。ならば、この状況でやれることと言えば、死に場所を選ぶくらいだろう。
重たく鈍く痛む体に鞭を打ち、カバンを背負って歩く。
どうせなら、この花畑の真ん中で死のう。
そう思って歩いているうちに、理沙はあるものを見つけた。
「人の……死体……?」
そこにあったのは、血まみれで倒れている、男性の死体だった。流れだした血が乾いていないのを見るに、どうやら、死んでからそう時間がたっていないらしい。
理沙は、その死体をしばらく見つめていた。
――本能が叫ぶ。ソレは食料だ。死にたくないのなら、ソレを食え。人の死体など、その実ただの肉の塊でしかない。ならば、それを食らったところで、何の問題があるというのか、と。
――理性が語る。ソレを食べてはいけない。ソレはただの肉の塊なんかじゃない。死体なんだ。人の、死体なんだよ、と。
――理性が叫ぶ。ソレは人の死体だ。ソレは腐っているかもしれないし、蛆が湧いているかもしれない。ソレを食って、腹を壊したりでもしたらどうする。下痢にでもなったら、残った水分まで出してしまって、今度こそ死ぬぞ、と。
――本能が語る。大丈夫だよ。ソレは死んでからまだ時間がたっていないみたいじゃないか。腐ってなんかいないし、蛆も沸いていない。血まみれで倒れているのを見るに、病気で死んだんじゃなくて、傷か失血で死んだはず。それなら、食べてもお腹を壊したりなんてこと、無いはずだよ、と
――ああ、そう言う事か。
理沙は口元に薄く笑みを浮かべる。
――どうやら、とうの昔に自分は狂っていたらしい。
いつ狂ったのかはわからない。あの夜かもしれないし、歩き続けたここ数日のどこかかもしれないし、もしかしたら、もっともっと前だったのかもしれない。
――それも、今はどうでもいい。
理沙は、男の死体の右腕に、躊躇いなく歯を立てて、思い切り嚙み千切った。思ったより、簡単だった。理沙のような幼い少女が噛み千切れる程度には、柔らかかった。くちゃくちゃと咀嚼し、飲み込む。ぽっちゃりしていて脂身が多く、決してうまいとは言えないが、食べられないほどではない。
――駄目だよ!そんなことしちゃ駄目!
誰かがそう叫ぶ声が聞こえた。
二日間も食べ物を与えられていなかった胃袋が、もっとよこせと叫ぶ。
その衝動に逆らうことなく、理沙は一口、また一口と肉を噛み千切り、咀嚼し、飲み込む。気が付けば、男の右腕は、殆ど骨だけになっていた。
しかし、それでもまだ足りない。
――お願い、早くやめて!こんな事、普通の人間がやる事じゃない!
また、煩わしい声が聞こえる。
煩い。こっちは飢え死にするかどうかの瀬戸際で、ちょうどいい食べ物を見つけたんだ。
――でも、だからって、こんなの絶対におかしい!お願い、早くやめて、私!!
そして、理沙は気が付く。
この声は、私の中から聞こえているのだ。
こんな狂ったナニカの中に、ひとかけらだけ残った何か。
きっとそれは、幸せな、幸せだと思い込んでいた世界に包まれて育った、温室育ちの『理沙』の残滓のようなものだろう。
それが訴えかけているのだ。こんなことはやめて、まともな人間に戻れ、と。
理沙は、口の端を歪めて笑う。
――ああ、それならもう、手遅れだ。
――だって、そうだろう?
――馬鹿な私は、自分のことを、汚い存在だとは思っていなかった。
――でも、今の状況を考えれば、馬鹿でもわかる。
――私は、綺麗な人間なんかじゃない。汚い、とても汚い、頭のおかしい人間なんだって。
自分の中に少しだけ残った、失ってはいけないであろう『理沙』の最後のひとかけらを、躊躇無く人肉と共に噛み潰す。
右腕の次に嚙みついた左腕の肉が殆ど無くなるころには、もう声は聞こえなくなっていた。
今度は右足を掴み、噛み付く。足が胴体に繋がっていると、食べにくい。カバンからナイフを取り出し、腿のところで切断しようと試みる。しかし、想像以上に難しく、断念してまた齧り付く。
どう考えても、自分の胃の大きさに対して、おかしい量の肉を詰め込んでいる。
そんな疑問がふと浮かんだが、今は些末な問題だ。後回しにして、肉をさらに詰め込む。
一心不乱に、男の死体を食べている理沙に、人影が近づいてくる。
「ねえ、そこの貴方」
その声で、理沙はやっと、誰かが近づいてきていることに気が付く。理沙がそちらを向くと、そこには、日傘をさし、緑色の髪に深紅の瞳を持った女性がいた。
「それは、私の花の肥料よ。勝手に食べないでくれるかしら?」
その女性の発したわずかな敵意に、理沙は恐怖のあまり、思わず身震いする。そんな理沙をみた女性は、敵意を薄め、興味深そうな目をする。
「へえ、驚いた。妖怪じゃなくて人間だったのね。人間の死体を食べるものだから、妖怪だとばかり思っていたわ。貴方、名前は?」
「理沙……」
ぼそりと呟く。
「何?聞こえなかったわ。もう一回言ってちょうだい」
もう一度、今度ははっきりと理沙と言おうとして、やめる。
私は、もう理沙ではないのだ。
恵まれた家に生まれ、幸せに生きてきた少女、理沙ではない。汚い家に生まれ、汚い人生を生きて来た、これからも生きていく、狂った人間だ。
ならば、それにふさわしい名前が必要だろう。
「魔、理沙……魔理沙……」
「ふぅん?魔理沙って言うのね」
「うん。それが私の名前」
魔に落ちた理沙。魔をもって、いつの日か、汚い父を見返してやる理沙。ならば、この名が相応しいだろう。
女性は、しばし理沙――否、魔理沙の目を見つめると、その目から何を読み取ったか、少し笑った。
「まあ、それでいいわ」
言いながら、女性は魔理沙を小脇に抱えて歩きだす。
「下ろして……!下ろしてってば!」
「何故下ろす必要があるのかしら?気が向いたから、貴方を拾ってあげる。どうせ、帰る場所も無いんでしょう?」
魔理沙は、図星を付かれて黙り込む。女性は、日傘を持った方の手を口元にやって笑う。
「ああ、そういえば、私のほうがまだ名乗って無かったわね」
そう言って、女性は名乗る。
「私は、風見幽香。貴方、面白そうだから、しばらくうちにおいてあげるわ」
これからも頑張ってください。
人を食い、魔の力に目覚めていく魔理沙の今後が楽しみです。
まぁ、普通。自分の子供の名前に『魔』なんて付けないよな。と思って上手いなぁと感じました。
実は母親は妖怪でした。とかだったりして。
続きを頑張ってください。
こういうのはもっと婉曲的に、読者を煙に巻くように描写したほうが良いと思います
でも物語の発想は面白かったです
全然続き来ませんね どうゆう形であれ原動力になってればいいと
思ってたんですが 作品は結構面白かったです