Coolier - 新生・東方創想話

にとりキメラ

2010/04/09 23:58:07
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『生きる意味や価値を考え始めると、我々は気がおかしくなってしまう。生きる意味など存在しないのだから。』

                                                    ――ジークムント・フロイト



   ◆[2/29]◆



河童の川流れ、という言葉がある。
親しみやすさを求めれば猿も木から落ちるとも言うし、すこし博識ぶれば弘法も筆の誤りとも言う。珍しいところでは天狗の飛び損ないとも言うらしい。知らないでもない妖怪仲間が諺に登場するのは、諺の示す情景と併せてどことなく滑稽ではあった。が、当事者として被害に遭遇してみると認識は一変する。

(やっば)

余りにも色濃い諦観の念が、むしろ思考を冷静にさせていた。撃ちつける怒涛の水量には土砂が混じり流木が混じり、口内には泥独特の苦い味わいとともにほのかな鉄分を感じた。どうやら、先程の顔面殴打で口の中を切ったらしく、泥と血とで混濁した唾液は屈辱的な味だった。油断という二字熟語で済ませるにはあまりにも重い、河童に生まれついた者であるがゆえの一生の不覚。

(ホント、我が生涯で一生の不覚かも知れないね)

突然の濁流に逃げる暇も許されなかった。その原因は幾らでも考察できた。しかしそのどれもが決定的な根拠に欠けてしまい、結局は無理にでもこう納得するしかない……《自然を侮ることなかれ》……と。いくら河童が技術力に長け妖怪としての頑丈さを持つとしても、大自然の猛威を敵に回せば風車に挑むようなものだった。

(…………)

とうとう、思考が止む。
河童とはいえ見た目はいたいけな少女。華奢な体躯が濁流にもみくちゃにされ渦に巻かれる木の葉のようにきりもむ視界は、もはやこの世界とは思えなかった。ああこれが激流三途河かと無意識下の自己が嘆息する。そしていまや、その無意識すらも狩られつつあった。……意識を失い無意識の枯れた生物、その末路は生命活動の放棄だ。そうなれば逃げ場はない。その先で大口をぽっかりと開き悠々と待ち受けているであろう終焉の存在とは、近い未来のうちに必ずどこかで遭遇するだろう。

「……」

誰でもない。
河城にとりが川に溺れたのは、きっとこの日が最初で最後だった。


同刻。


渓流に垂らしていた釣竿が異常にしなった。

「……?」

危うく重心を崩しかけるも、踏み止まる。
おかしいなと率直に訝る。
イワナやヤマメが主な生息魚の渓流にニンゲンを引きずり込めるほどの巨魚が泳いでいるわけがないだろう……という議論ではなかった。濁流と形容しても差し支えないくらい轟々と唸る渓谷をかけくだる《何か》に釣糸が引っ掛かったのだ。普通なら《重心を崩しかける》のではなく《濁流に引きずり込まれる》だろう。
しかし――踏み止まった、事実。
更に言えば。
ナニカシラが釣り針に喰いついたという事実。

「あの人の仰る通りって奴ですか」

二つの事実にどことない作為を感じつつも、釣竿を、釣糸を、強引に引く。かかったのは果たして、魚か流木か土砂の塊か……はたまたニンゲンか。歓迎できる可能性は限りなく小さいだろうなと思いつつ――結果を述べれば、そのどれでもなかった。
結果論で述べれば、奇跡的だったのは間違いない。

「河童?」

こうして河城にとりは、名も知らぬニンゲンに命を救われた。
河城にとりの物語。その事の発端はこの出来事に起因するが、この物語の発端はその出来事に起因しない。矛盾と言われても申し開き用が無く……だからこそ、どこか抜けた笑顔の絶えぬニンゲン――『人間』と名乗った彼の第一声は、矛盾への言及だったのだ。



   ◆[6/29]◆



魔法の森はいつだって鬱蒼と茂っている。
樹海のように入り組んだ森を迷わず目的の家まで辿り着くのは、河童の技術力を総動員しても苦労が絶えなかった。だいたいなんでこんなところで霧雨魔法店なんて胡散臭い店舗を営業しているんだろうか。一般客層は辿り着く前に白骨化するに違いない。そんな物騒なことを考えながら玄関先をくぐると。

「お?」
「や」
「珍しい顔だな。ま、上がれよ」
「おじゃまー」

河城にとりの突然の来訪に霧雨魔理沙の極めて平静な対応があってから、にとりは霧雨魔法店の応接間へと招き入れられていた。一言で雰囲気を表せば《怪しい》である。魔理沙がマジックアイテムと呼ぶガラクタ全般がにとりにとっては本当にガラクタ以外の何でもなく、しかしてそれらが魔法的な要素を宿していると言うのだから、どことなくにとりの背筋を撫ぜるモノがあった。有体に言えば《不気味》なのだが、ここはオブラートに包んで《不思議》なのだと思っておこう。にとりは心に誓った。

「ほい」

魔理沙が厚意で渡してくれたマグカップ。
しげしげと中身を観察してから、にとりは聞いた。

「これ、大丈夫だよね?」
「疑ってるのか?」

まさかと笑って誤魔化した。

「で、今日はどうしたってこんな辺鄙なトコまで来たんだ?」

自分で辺鄙と言っていれば世話は無いよ――そんなツッコミが脳内に浮かばないでもないにとりだったが、辺鄙なここを尋ねた理由を考えるとお流れになる。つまり、人の事を笑えないのだ。昨日までの出来事の顛末をかくかくしかじか説明するのは、流石に骨だった。

「……溺れたァ!? 河童の!? にとりが!?」
「いやーお恥ずかしい」

素っ頓狂に転げた魔理沙に構わず、にとりは帽子を目深にかぶりなおす。

「何かの間違いじゃないのか? 四月馬鹿とか勘弁してくれよ」
「油断したんだよ、まさか鉄砲水に襲われるとはねぇ」

迫り来る濁流を想起したのか、にとりは身を震わせる。

「鉄砲水……?」
「なんだ、知らないの? 地形の険しい山間部の水源地付近で集中豪雨があると、地面に吸い込まれ切れなかった大量の水が土砂や瓦礫を呑み込んで、とんでもない破壊力になる洪水の一形態だよ」
「確かにそんなに詳しくは知らなかったけども!」

ノリの良いツッコミのあと、魔理沙は佇まいを真面目に正した。

「いやな……私が気になったのは、ここ数日が底抜けて澄み渡った晴天だったってこと」
「え?」
「鉄砲水なんて起きっこないだろ。まして最近、土砂崩れが大量の水を堰き止めてたワケでもない。と、なれば、その鉄砲水……どこから来たんだ?」

それはにとりにも判らない。
時に自然の猛威とは人智の外なのだ。
妖怪だけど、河童だけど。

「まぁ、それ以前に」

話の矛先を転換する魔理沙。

「なんで生きてるんだ、お前」
「うわ! ヒドッ! 非道い言い草! 泣いちゃうよ!?」
「だってさあ。洪水に巻き込まれて生還だーなんてネタ、どこぞの新聞記者に限らず感動モノの奇跡としては見世物に最適過ぎて困る。……ああ、ニンゲンじゃないから頑丈って理由はナシでな」
「うぅ……それらを言っちゃお終いだよう」

確かに、妖怪は頑丈かもしれない。
それでも今、にとりが健常で魔理沙の前にいる理由。

「助けられたんだよ」
「誰に?」
「ニンゲンに」
「どうやってさ?」
「釣られた」
「……マジか」

ていうか、鉄砲水に釣糸を垂らしてるって、どんなニンゲンだ。太公望でもそんな愚かしい行為には及ばないと思うが……。その奇行のせいで、逆に興味が湧いたらしい。

「参考までに聞くけど、そのニンゲンってどんなんだ?」
「えとね。外が出自。最近まで住所不定無職だったけど知り合いの斡旋で無職になったんだって。ニンゲンなのに人里には行ったことがないっぽい、確かに遠いけどさ。弩の付く近眼らしいけどメガネをかけてないから眉唾。コンタクトレンズって何? 怖いから使わないって言うんだけど……なら人の区別は色なのかなぁ、においなのかなぁ。私に言わせれば料理が得意っぽいんだけど、ソイツいわく《生物に詳しいから加工するのが得意》なだけ。基本的にマキシマムな善人だけど好きな言葉は矛盾て言ってた。口癖は「ウボァ」で、山菜とか魚とかの生態については河童の私よりもよっぽど博識。あと昔ペット飼ってたって」
「……へー」

想像以上! これは如何ともしがたい。何に突っ込むべきか、それとも全てを洗い浚いに流すべきか。一番最後のペットのくだりだけが救いだぞ……。悩みに悩んだ末、魔理沙は結局、無難に話題を選択した。

「ペット飼ってたんだ」

そういえば、博麗神社でも黒猫の餌づけが始まったとかなんとか、霊夢が言っていたのを思い出す。黒猫といえば魔女が飼っているもんだと、魔理沙の勝手な固定観念は紅白巫女と黒猫だなんてちぐはぐな組み合わせに若干の含み笑いを禁じえなかった。しかし、不吉の象徴を神社で飼っていいのだろうか。しかも猫又、しかも死体運搬屋。八雲紫は傾城の妖獣を飼っているし、その九尾にしたって凶兆の黒猫を飼っているが……。と、ここまで考えて、ふと魔理沙はさらなる興味本位で一言。

「そいつ、何を飼ってたんだ?」
「ニトリ」

コーヒー吹いた。
いや、常套句ではない。
マジで吹き出した。

「っていう名前のニワトリ?」
「わざとだろう! ってか、なんで疑問形?」
「だってアイツ、ニワトリの言い回しがニワノトリなんだよ。それと似た名前でペットにできそうな動物なんて、ニワトリしか思い浮かばなかったんだ。方言なんじゃないのかな」
「ふーん。ニトリって名前のニワトリね……」

一致は偶然として。
ワを抜いただけ。
伏線にもならないな。
そして愛玩動物にニワトリ?
家畜の間違いだろ。

「あ。もしかしてそいつ《二羽の鳥を飼ってます》を《ニワトリを飼っています》ってにとりに勘違いさせようとしてるんじゃないか?」
「それは無いと思う。だって私、じゃあ沢山飼ってるんだねって言ったもん」
「…………お前も家畜扱いか」
「へ?」
「いや、なんでもない。それで?」
「うん。そしたらアイツ、いいえ二羽だけですよって」
「あれ? いや、ちょっと待とうか」

食い違い発見。

「ニトリって名前のニワトリを一羽、だと私は思ってたんだが」

だって、そうだろう。名前は固有名詞だ。同姓同名という偶然こそあれ、一人のニンゲンが飼う二匹のペットの両方が同じ名前になるだなんて、そんな馬鹿げた《偶然》があってたまるものか。人はそれを《故意の悪戯》と言う。それでもにとりの説明は変わらなかった。

「ううん、二羽なんだってさ」
「で、名前は?」
「ニトリ」
「もう一匹も?」
「ニトリ」
「………………」
「正直、私も翻弄されっぱなしだったよ。一羽の前提で話を膨らませてたと思ったら突然、ニトリちゃんは二羽になってるの。で、今度は二羽の仲はいいの?って聞いてみたら、喧嘩できないよ、だって同じニトリだからねって。ああ、なるほど、同じ名前にするくらい二羽の仲は抜群なんだなと私は思ったんだけど、アイツはやっぱり、喧嘩するほど仲がいいって言うじゃありませんか、って」

意味がわからない。
だから魔理沙の抱いた印象は極当然だっただろう。

「そいつ、頭ワいてんじゃねーか?」

途端に、ビックリするくらい、にとりが豹変した。

「アイツを悪く言うな!」
「うぇ!?」

魔理沙は驚愕したが、どうやらにとりも同じらしい。
気まずい沈黙が、二人の言語機能が回復するまで続く。

「ごめん」

ようやく、いくらかしょげて、にとりが謝意に口を開いた。

「いや、別ににとりが謝ることじゃないよ、な? 元はと言えば私がそいつを悪く言ったのが悪いんだし……確かに適切な表現じゃなかったよ。すまん」
「ううん。実は私もちょっと思ってたから……」
「て、ヲイ」
「でもでもアイツ、本当にいいヤツなんだって!」

にとりは両手をわたわたとさせつつ、頼んでもいないのに熱心に語り始めた。

「溺れてた私を助けてくれたし、妖怪だーって怖がらないで普通に接してくれたし! 生傷ばかりだったのを介抱してくれたのもアイツだし、薬草だってスッゴかったし! 泥水でビショビショなうえ汚くなっちゃった服を洗ってくれたし、破れちゃったトコロの修繕までしてくれたし! ついにはキュウリだよ!? 私が河童ってことを見抜いてキュウリを使った料理まで振舞ってくれたんだっ!!」

河童だからキュウリて。
浅はか過ぎないか?
馬鹿にしてるんだろ。

「そんなことないもん!」

根拠もなければ分別もなかった。
妙に必死なにとりの剣幕に、魔理沙は思う。
ひょっとしなくても……ひょっとするよなぁ。

「それでねそれでね」
「あーあーあー、わかったわかった」

これ以上、妙な惚気話を聞かされるのはたまったもんじゃない。魔理沙が会話を遮ると、にとりもいくらか大人しくなる。大人しくなっても頬が上気したままだったので……魔理沙の悪戯心に火がついた。

「で、そんだけ?」
「そんだけってなにさ……遮っといて」

ワキワキと卑猥に蠢く魔理沙の指。

「そりゃにとりィ~。穢れと怖れを知らない純真な乙女がホの字の男んトコロに転がり込んだとあっちゃ、お盛んにならない理由はなかっただろう?」
「な・な・な――――――ッッ!?」
「おほお、赤くなるってことは図星ってこっかい?」
「―――ッッざっけんな!!」

雷が落ちるような音は、にとりの両平手が机に炸裂した音だった。妖怪の腕力で思い切り叩かれた机が不憫だったし、しなった机の反動で若干センチメートルも宙に浮いたマグカップも可哀想である。下手をすればどちらも割れておかしくないくらいにとりの逆上はすさまじく。

「ちょ、ごめんごめん、座興の冗談じゃないか!?」
「うっさい! 知り合ったばかりで超展開過ぎるわ! 尻小玉抜いちゃるから覚悟ぉ!!」

比べてしまえば、魔理沙の悲鳴なんて粗末なものだったに違いない。
……。
ところで、尻小玉なんて器官はニンゲンにはないらしく、その点は安心して貰っても構わないだろう。だが、デリカシーとか品格という一切合切を欠如した魔理沙の下品な冗句に対しにとりがどのような制裁を下したかは、彼女の作る物語になんの関連も及ぼさないのでこの場では割愛する。
……。
しばらく経って。

「うう……もうお嫁にいけない……」

床にぺたりとへたりこみ、よよと嘆く魔理沙の姿がそこにあった。

「またくだらない口をきく!」
「うわ、ゴメン!」

徹底して変わり身の早い泥棒だった。
ていうか、徹底できてもいない。
尻まで隠して帽子が邪魔ってヤツ。
心底呆れた様子で、にとりは大きな溜息を吐いた。

「疲れちったい」
「あんだけ激しけりゃ当然な?」
「……ホントに反省してんの?」
「もちろん」

即答だった。信用できない……ッ!
こんなニンゲンに宴会の幹事を任せていいのか、幻想郷。

「でも、マジなんだろう?」

乱れた衣服を整えながらの質問が、自分宛てだと気付くまでに時間がかかる。

「は? え、なに?」
「だから。そのニンゲンへの、お前の気持ち」
「ななな! だからそういう冗談は……ッ」
「じゃあなんで私んトコに来たんだ?」

図星だった。
黙らざるをえない。

「ニンゲン全般は好きだけどニンゲン個体との接し方が判然としない。いや、判然としてくれないの方が正しいか。自称ニンゲン大好き妖怪のにとりが? そりゃあにとりィ、誰がどう見たってただの友達に抱く不透明感じゃねぇよ」

ただの、を特に強調する。

「んで?」
「うぅ……それを私に言わすの?」
「私ゃー、そんなにウブなキャラだとは思ってなかったがね。認識を改めにゃ」
「はいはいはい! 好きですっ好きなんです!!」

どうやらマジだったらしい。
これで満足かとばかりに逆上気味のにとりだった。
が、すぐにしゅんとしょぼくれる。

「……忙しいやっちゃな」
「あいつ、年上が好みっぽいんだ……」
「あー……望み薄じゃんか」

なんで知ってるんだ、という疑問を挟む余地もあればこそ。
魔理沙の中では相反する二つの事象が鬩いでいた。

「あれ? いや、もしかして脈有りなのか?」

河童だし、普通のニンゲンが熟れるよりも長い時間を生きているハズ。
見た目的には逆のベクトルが過ぎるので危ないことになると思うけど。

「でもさ」

魔理沙には一つ、懸念があった。

「口癖とか性癖は抜きとしても、その《にとりの友人》とやら……」

怪しいぜ。
にとりの激昂の前例を省みて、押し殺すにとどまる。それでも、解決しておきたい疑問点については、遠慮が無かった。

「だいたいなんで、にとりが溺れるほど増水で膨れ上がった渓流に釣針なんざ垂らしてやがるのさ。魚はおろかサワガニだって獲れやしないだろうに」
「里の漁師にでも《こういう時が一番いい獲物がかかる》って聞いたんじゃないの? 渓流魚って天気のいい日ほど釣られてくれないもんだから、悪天候は釣りに勤しまない理由にはならないよ」
「うーん……」

それでもどこか腑に落ちなそうな魔理沙だったが、にとりがいまのいままでまるで手をつけようとしなかったマグカップの中身を一気に呷る様子を見て、今日の来訪はお開きなのだと悟った。挨拶もそこそこに応接間を後にするにとりだったが、いつになく世話しない彼女の行き先は多分――……。

「騙されてなきゃ、いいけど」

少しばかりの嫉妬を籠めて。
にとりの後ろ姿を見送る魔理沙だったが。
結局、愚痴を聞かされただけじゃないか。
漠然とした憤慨に近いものも感じるのだった。

「あ、しまった」

しかしながらそれらの感情はにとりには察知しずらい微々たるもので。
夕暮れに草庵が染め上げられる光景を前にして、にとりは呑気に思い出す。

「美味しい金平糖の作り方、聞くの忘れちったい」



   ◆[13/29]◆



妖怪の山は秋めいていた。
哨戒役の監視の目にも色鮮やかな紅葉がちらちらと映るようになった。こうなると黙っていない神様もいて、これから冬を迎えようというのに、妖怪の山はどこか賑やかな雰囲気に染まりつつある。もちろん無害なので仕事行使の対象ではないが、頻繁に動き回るそれらをつい追ってしまう視線だけはどうしようもなかった。職業病だろうか。

「ふぅ」

と、一息をついたところで……犬走椛の目は、またもや動く者を捕まえた。

「おや?」

どうせまた秋に浮かれた妖精の類だろう、との怠惰心が判断を一瞬のみ遅らせるも、椛はすぐさまそれが誰なのかの特定に至る。知らない仲でもない。将棋の勝ち負け貸し借りを抜きにしても、注意くらいはするべきだろうな……。

「にとりさーん!」
「おおー!? 椛ちゃんじゃないか、久しぶりー!」

すたり、とにとりの隣へ着地した椛は、矢継ぎ早に息巻いた。

「最近つれないですよね、もう何日放ってます?」
「ふぇ?」
「……なんですか。鼻行類が鼻提燈をぶら下げたような顔をして」
「そんな酷い顔だったの私!?」
「まあいいです。今度の対局は必ず勝ちますよ」
「えっと。とっても言いにくいんだけど……何の話?」
「大将棋ですよ大・将・棋!」

悪気はないのだろうが、どうやらにとりは本気で忘れていたらしい。

「しっかりしてくださいよ」
「ごめん……」
「もしかして盤面も覚えてないとか?」
「そっそんなことないよ! 確か王手がかかってるんだよね!」
「私がかけています」
「あぅう……」

どこかへふらふらと出かけるようになってからというもの、今日に限らずにとりはいつでも上の空だ。その様子を不審がる連中は多く、にとりの行き先に興味を抱く者も少なくはない。かくいう椛も純粋な心配心から千里眼で行き先をつきとめこそしたが……友人の秘め事は心の底にしまっておこうと心得ている。他人の秘密を肴にして愉快がれるほど椛は人情味に浅くは無かった。しかし世の中とは世知辛いもので、なにがなんでも《秘密》を《悪事》あるいは《スキャンダル》へと直結させたい安直な愚衆が群がりつつあるのも事実である。

「で、今日も件の草庵ですか」
「なっなななっなぁんのことかなっ!?」
「嘘が下手です、にとりさん。そんなでは三流ゴシップ記者の喜ぶ生ゴミですよ」
「ひょっとしなくても貶してるよね……?」
「いいえ。餌にされますよという遠回りな忠告です」
「相変わらずキッツいなぁ……」
「職務中ですので」

だったら立ち話なんてするなというのは身も蓋もない話。

「なんで知ってるの……?」

にとりとしては秘密が漏れている現実こそ酷だった。

「それは、なんといいますか。ここ最近、にとりさんの様子が目に見えて異常でしたので、千里眼でつい追跡してしまった次第です。将棋仲間の老婆心が招いた不慮の事故だと思って頂ければ幸いです。勘違いされるのは悲しいですから」
「と、言うと?」
「にとりさんがどこへゆこうと、私は興味がありませんので一切の関知をしません。当然ながら千里眼での追跡はやめますしませんさせません。……面倒事は面倒臭いですものね」

ぴしっと伸びた背筋で椛が宣言すると、にとりの表情が明るくなった。

「あはは。私にしてみりゃ、大天狗サマにこきつかわれる方が面倒だけどねぇ」
「それはそれ、あれはあれなら、仕事は仕事でしょう」
「うーん。じゃ、なんで、大切な仕事中に私なんかと無駄話をしてるのさ?」
「ああ、そうでした」

忠告しようとしていたことを忘れかけていた。

「最近にとりさんの様子がおかしいのは妖精が見たって明白です。それにしたって連中は好奇の目で悪戯を仕掛けてくるだけですから害はありませんが、世の中には害意は無くとも結果的に誰かの不利益となる行為を憚らない連中がいることをお忘れなく」
「へ? えーっと……妖精が私を狙ってるってこと?」
「……」

これもいわゆる副作用というやつなのだろうか。どうやら、オブラートに包んだ言葉で相手に真意を悟ってもらう会話法――いわゆる暗示は通じないらしい。地獄耳な連中ばかりだし、できれば口に出すのは避けたかったが、仕方あるまい。

「つまりですね」
「うん」
「にとりさんがどこへ行くのか非常に興味を持つ新聞記者連中が、あわよくば新聞の一面を飾るエグい捏造記事に仕立て上げようとにとりさんのお尻を追っかけまわしています、というキモ……いや、気持ち悪いお話です」
「言い直す必要あったそこ!?」
「丁寧語の方が蔑んでいる感が抜群じゃありませんか」
「でも、普通、上司には丁寧語だよね……」
「いいんですよ。目上と認めた者に対して扱う敬語は字面そのままの意味なんですから」

どうやら敬語のくだりに関しては椛なりのこだわりがあるらしい。ともあれ椛は、伝えるべきはにとりに伝えた。だが相手は恋慕に浮かれた河童である……まともな対抗策を見いだせるかどうか怪しいトコロだ。

「それで、どうします?」
「あ、うん、投了安定かなっ」
「大将棋の話じゃありませんて」
「大丈夫! 妖精撃退用のマル秘粘着シートが……!」
「隠匿できてすらいませんが」
「うにゅう………………」
「キャラクターから違いますね」

もう本当に駄目だこの河童。変われば変わるなんてもんじゃない、もはや呪われている。いい加減に業を煮やしつつある椛は、面倒臭いので単刀直入に刺し込むことにした。

「にとりさんの行き先をつきとめて写真に撮ろうと躍起になっている連中がいます。しかしにとりさんは誰にも見つからずにそこへ行きたいです。そんなときに河童の技術力はにとりさんをどう助けてくれますかっ?」

しばし首を傾げていたにとりだったが、頭上に電球がひらめくまではそうかからなかった。

「えーっと、ハイドロハリケーン!」
「ハイドロカモフラージュを使え!」
「魔光騎聖の展開は万全だよっ!」
「なんて攻撃的かつ盤石な布陣!」

いや、そうじゃなくて。
自戒の念が脳裏をよぎる椛。
つられてしまった……。

「河童印の光学迷彩スーツがあるでしょう」
「あ。そーだった。椛ちゃんは頭脳明晰だねぇ」
「いや、にとりさんの偏差値がダダ漏れているだけかと」
「全員の息の根を狩るだなんて思い浮かばなかったよ……!」
「違うー! それはプレデターの役目です!」

子育期の母猫じゃあるまいし、なんでこの河童はこんなに攻撃的なんだ!

「普通に! インビジブルになって! 行けばいいでしょう!!」
「な、なるほどー! 無駄な殺生は要らなかったんだね!!」
「……妖怪の山を恐怖のどんぞこに陥れるつもりでしたか、逆立ちした河童め」
「さ、逆立ち?」
「ぱっか。半濁音を濁音にして促音を取り除きます」
「判りづらくない!?」
「そんなことはありません。にとりさんの斜め上を往く思考回路と比べてしまえばバカが逆立ちをするようです」
「それじゃただのカバじゃん!」
「だからにとりさん、件の草庵へ赴くつもりならステルス仕様をお忘れなく」
「〆た! カバのくだりから!? 強引にもほどがあるよっ!!」

非難するにとりだったが、椛の強引な会話終息術の裏にある原因はにとりである。すなわち相手をするのに疲れられてしまったのだった。とはいえ話しかけた発端は椛なので自分勝手と言えないでもなかったが。

「では仕事に戻るので、失礼します」
「うい。なにはともあれあんがとね!」

颯爽と飛び去った椛の視界の片隅には、水面へ溶け入るように消える中途のにとりが映っている。どうやら忠告に従いちゃんと光学迷彩を起動したらしかった。その一部始終を見届けてから、溜息とともに愚痴がこぼれる。

「はぁ。恋に惚けた河童の相手なぞ、次が有れば遠慮願いたいものです」



   ◆[23/29]◆



霧雨魔法店。
その応接間には、この日も河城にとりの姿があった。

「ニンゲンの男を喜ばせる方法だァ~?」

今日はどんな悩みを抱えてきたのかと魔理沙は戦々恐々としていた……無理もない。なにせこの河童ときたら毎日のように、魔理沙の元へ恋の悩みを打ち明けると称し惚気話を聞かせにやってくるのだ。いや、本人は頑なにその感情を否定する。が、魔理沙に限らず他の誰にしてみても、指摘された途端に頬を赤らめながらブンブンと首を横に振るにとりの奇行具合に、その結論以外のどんな結論が導けるというのか。さて、そこで今日の河童の悩みである。

「だ・か・らぁ! どういうことをすれば男の人は喜んでくれるのかな~、なんて」

視線を逸らしながら両の人差し指をくるくるとする仕草。
……もう乙女以外のなんでもないじゃないか、この河童。

「んなもん、玄関先で三つ指ついて《ご飯? お風呂? それともわ・た・し?(はぁと》でいいだろ、このエロ河童め」
「エロ河童!?」
「お気に召さないかな」
「んな不名誉な称号を喜ぶのはエロ学派くらいだよ!」
「んー、慎ましすぎるってか。それなら霧雨印の惚れ薬を授けよう」
「もうッ! 私はまじめなんだよ!?」

言葉とは裏腹に、頬を真っ赤に染めるにとりである。
そんな様子に魔理沙は悪戯っ気を抜かれたようだ。

「むぅ。妙案が無いでも無いが……お前じゃ、なぁ?」
「な、なんだよう」

機械いじりには慣れていそうでも。

「例えば、料理を振舞ってやったりとかさ」
「……ナルホド」

その発想は新しかった。なぜならにとりはいつも御馳走になるばかりで、せいぜい手土産のキュウリを提供するくらいが関の山だったからだ。

「料理を手作り、か……」
「我ながら的を射たと思うぜ」
「喜んでもらえる根拠は?」
「こないだ知り合いに振舞ってやったんだ。そしたら泣いて喜んでやがったぞ」
「ふーん。男? 女?」
「……それは開示すべき情報なのか?」
「うん」
「………………男」
「へー」
「なんだよニヤニヤしやがって!」

それは多分、ギャップ萌えというヤツだろう。にとりにはとても魔理沙が料理達者とは思えなかった。そして……にとりの興味はまるで見当違いの方向に独り歩きしだす。

「どこの誰に? 後々の参考にするからさ」
「私が料理を振舞った野郎が後々どう参考になるんだ!」
「だって、その人とアイツとで好みに差があったらどうしようもないじゃん」
「そりゃそうだが、浅くない仲の女に料理をしてもらって喜ばない男がこの世にいるかよ」
「まぁまぁ、出口調査ってヤツだよ」
「意味判って言ってないだろう……」
「うん。語感だけ」
「壊滅的な言語機能だな。マイマイカブリをキャンプファイヤーで踊る音楽の一種だとでも思ってるんじゃないのか?」
「やだな、馬鹿にしないでよね。それはパントマイムでしょ」
「そんなことすんのはダンスパートナーの見つからなかったヤツだけだ!」

これはもう欲しがり屋の欲しがる情報を適当に明け渡して退散してもらおう、と腹に決めた魔理沙だった。

「そいつ、厳密にはニンゲンの男じゃなくて、半人半妖の男なんだ」
「ふぇ。だからお相手が寄りつかなかったんだね……可哀想」
「キャンプファイヤーじゃねぇよ! 仮にそうだとしても私が一緒に踊ってるわ!」

地味に墓穴を掘った魔理沙。
だがにとりがそこに言及する前に声を張り上げる。

「料理! 料理を振舞った相手な! だからにとりの友人とはちと好みが違うかもって話だ!」
「ちなみに、半人半妖の彼氏は偏屈さん?」
「余計なお世話だ!」
「ならだいじょーぶだね」

何が大丈夫なものか。
どうやら偏屈同士で好みは似ると考えたらしい。
その発想はいかがなものか……いや、それより。

「私にゃ、にとりが料理できるかどうかの方が心配だよ」
「ふふふ。その点は私、閃いちゃったんだ!」

不敵に笑うにとり。

「ほう?」
「確かに私は料理できません!」

いきなりの作戦挫折宣言か、と思いきや。

「だけどアイツは料理ができる!」

ならどうする、と魔理沙に解答を求めるにとり。

「……わからねぇよ、エロ河童の考えてることなんて」
「だからね、一緒に料理をするってのはどうだろう!?」
「おお……んん? まぁ、いいんじゃないの」

ハゲた頭にしては知恵を搾ったほうだよ、と褒めていない褒め言葉にすらえへへと照れるにとりだった。どうやら相当なお熱らしい。うつされそうで怖いな、と半歩引く魔理沙だった。

「あ。だけどさ」

が、逆接を導入したのは、にとりである。

「なんだよ。まだなんかあるのか……」
「いや、これはただの興味。魔理沙はどんな料理をつくったの?」
「キノコのグラタンだ」
「グラ……えぇ?」

野菜炒めとかならインスピレーションでなんとかなるし、ゆで卵なんて名前だけで作り方がわかる素晴らしい料理だというに、グラタンなどと言われても完成に至るまでのプロセスがまったく思い浮かばないのが、にとりの正直なところである。ただにとりが知っているのは、かなり本格的な火力の竈が必要だということくらいだが……そこでふと、嫌な予感が鎌首をもたげた。魔理沙は相手が《泣いて喜んでいた》と言ったけれど。

「グラタンだよ。ちっとばかし火力が強すぎたかも知んないけど、初めてにしてはウマくやったほうだと思ってる」

実はそれ、遠回しに《失敗しました》と白状しているんじゃあるまいか。にとりの心を一抹の不安がよぎったのも致し方ないと言えよう。なぜなら、もしも仮に、魔理沙が料理を振舞った半人半妖の人物とやらが、魔理沙に対して何かしら特別な感情を抱いているのだとしたら……例えグラタンという名の消し炭だとしても、それを食べざるを得ない状況になるだろう。性格にもよるところがあろうが、グラタンを口に運ぶ過程で涙腺が虐められたとしてもなんら不思議ではない。

「そう……泣くほど美味しくできたんだ」
「多分な」
「多分て」
「味見してないもん、仕方ないじゃんか」

ご愁傷様。
名も知らぬ誰かの安否を気遣うにとりだった。

「私にできる料理と言えばキュウリの酢の物とかキュウリのゴマあえとかキュウリのお新香とかキュウリの糠漬けとかキュウリとかだけだから安心だけどね……」
「最後のは料理ですらねぇよ!」

魔理沙の突っ込みどころがそれてくれたので、これ幸いとばかりににとりは霧雨邸を後にした。妖怪の山のねぐらへまっすぐに帰ることはない――この日の行き先も決まっている。ただいつもと違ったのは、にとりが一つの決心を抱いていたことだった。

「料理か……料理ね!」

結局この日も厚意に甘えるカタチとなってしまったけれど。
いつかきっと振舞おうと、そんな意気込みをそっと心に仕舞い込んだ。



   ◆[29/29]◆



にとりの足取りは軽やかだった。
渓流を飛び跳ねるように下る様はまさに河童だとはちきれんばかりで、つい数週間前に同じ場所で溺れかけたのが嘘のようだ。……実際、魔理沙が訝ったように、何かの間違いだったのかもしれない。
河童の川流れとは言うが。
ニンゲンが泳ぎを極めたところで、それでも溺れかねないという事実はどこかに残る。しかし河童は、種族として、生まれながらに泳ぎが達者なのだ。本能に近しいレベルで修められていた技能なのである。それはもちろん、にとりとて例外ではなく。
結論。
にとりは溺れたのではない。
溺れさせられたのだ。
……でも、誰に?
にとりは少し哲学してみた。

「////」

それはとても甘美な空想に違いない。
らしくもない。
奉る神あらば祟る神あり、と言うではないか。
自分のくだらない妄想に幻想郷の奉る神を巻き込んでは――祟られる。
そうは思いつつも。
にとりの頬は、やっぱりにやけてしまうのだった。

「><」

人間との出逢いが物語的な作為性を孕む、だなんて。
二人が運命的に出逢う。
その偶然が、無性に嬉しい。
嬉しくて仕方がない。
嬉しすぎて思考回路がオーバーフローでもしてるんじゃないか。
河童のくせに、茹でダコのように真っ赤だ。

「♪」

駆けると、体躯が、風が切る。
全身を撫ぜる冷たい風が、熱に浮かれたにとりを冷ます。
それでも機嫌は上々のまま。
……草庵に、辿り着く。
引き戸に手をかける前に、にとりは自分の胸元を抑えた。
今日はどんなお話をしようか。振舞ってくれる料理はなんだろう。お土産のきゅうりに喜んでくれるかな。心の中でくだらない空想が泡沫のように浮かんでは弾け、弾けるたびに砂糖よりも甘い感情がさらさらと拡がってゆく。本当に、もう。魔理沙の祝福は色々な意味で正解だったらしい。癪ではあったが、にとりは認めざるをえなかった。戸を開くまで四半刻かかったのは乙女の秘密。

「おじゃましまーす!」

そして――……



   ◆[-X/29]◆



(閑話休題)

【細胞の段階で生物Aの脳を抽出し、生物Bの受精卵へと移植した。成長の結果、外見上は生物Bそのものではあったが、その頸部周辺には生物Aの羽毛が認められ、又、発声法も生物Aのものであった。ただし、器官は生物Bのものを使用している。個体の行動様式を決定するものが《脳》であると限定するならば、この生物はまさしく生物Aという事に他ならないが、生物B本体内の免疫系は生物Aの細胞群、すなわち《脳》を外敵(非自己)と認識、排除する働きにより破壊した。いわゆる《免疫的自己》である。――(】

                最終論文『KIMERAⅡ』―実験報告― より抜粋



   ◆[29'/29]◆



――……先客が、いた。

「いらっしゃい」

聞き慣れた人間のそれとは違う声色。
硬直する。
過去数週間にとりが足繁く通ったこの草庵に、人間以外の何某かがいたことはない。だから驚いたというのもあながち間違いではないが、それよりも何より驚かされたのは、その先客がにとりの知る人物だったからだった。……人物というよりは……妖怪。上座を優雅に占拠する佇まいからは只ならぬ妖気が立ち昇っている、などとおどろおどろしく表現しても決して過言ではあるまい。

「お客様みたいよ、人間さん」

口元を開いた扇子で隠し、うふふと上品に笑う大妖怪。

「な、なんで、……ここにっ?」

八雲紫がそこにいた。
さも当然のように。

「嫌ねぇ、そんなに警戒される覚えはないわ」

にとりの硬直を察してか、ほぐすような猫撫で声。
神経を逆撫でするような、とにかく甘ったるい声。
からかわれたのだと気付いた時にはもう、八雲紫は立ち上がっていた。

「それでは、私は席を外しますわね」

たまの逢瀬を邪魔するほど無粋ではありませんの、と。
夜に日傘を広げた紫は、静かにスキマへと潜っていく。
硬く張り詰めた雰囲気の中に、にとりと人間を残して。
……。
何をしに来てたんだ?
にとりには皆目見当がつかなかい。

「……すみませんね。もう夕餉を振舞えそうにありません」

空っぽになった膳部を片付けながら謝る人間。どうやら紫はこの草庵に貯蔵されていた食料をあらかた平らげてしまったらしい。米はもちろんのこと、人間が几帳面に保存していた渓流魚や野野菜、果ては山菜から茸から香辛料に至るまで影も形も無くなっているのだから恐ろしい。囲炉裏の上に吊るされた鍋も空っぽらしかった。もはや水が残っているかどうかも疑問だ。それが目的ってワケじゃないだろうけど……。

「酷いね」

ぼそりと呟く。
にとりは、八雲紫がいかなる妖怪か充分に心得ていたつもりだ。神出鬼没の自分勝手、質量をもった理不尽、生ける次元連結システム。異変あるところに怪異あり、巫女をけしかけたかと思いきや自分が犯人。まるで現実味を帯びずかといって幻の虚像でもない、類稀なる正真正銘の大妖怪。逆らっちゃいけない相手だとはよく理解しているが……。勝手にニンゲンのお宅にお邪魔したあげく食料を根こそぎイタダキマスしていくな!
にとり、心の罵声だった。

「しかし困りました」

いつもならお茶の一杯でもてなしてくれる人間も、どうやらお手上げらしい。

「せっかく足を運んで頂いたのに碌なもてなしもできません」

すっかり綺麗に片付いてしまった草庵の内観にはどこか淋しいものがある。引っ越し前のダンボールの山を目の前に感じる寂寥のような。とにかく、ひしひしと感じる冷気が嫌で、にとりは火の入った囲炉裏のそばへ寄る。片付けをあらかた済ませた人間が隣に腰を下ろすのを待ってから、にとりは控えめに切り出した。

「えっと。きゅうりなら……ある、けど。食べる?」

味噌もなければ醤油もない、ということで。
大した工夫も見当たらないので、にとりと人間は囲炉裏を囲い、生のままきゅうりを齧ることにした。ぽりぽりと瑞々しい炸裂音がいかにも『新鮮な野菜を食していますよ』と主張しているのは結構だが、いかんせん今夜を人間の手料理で舌鼓を打つつもりだったにとりには憤慨ものの大誤算だった。今更ながら紫への怒りが込み上げてくる。

「だいたいさー、ありえないよね。冬眠を控えた熊でもあるまいし。いくら大妖怪ったって胃袋の容量くらい人間並みでいいじゃないのよー! うがー!!」

愚痴っぽくなるのも大目にみてほしい。
それにしても、被害的に当事者のはずの人間が思いのほか和やかな表情で、本来は第三者のにとりの方が腹に据えかねているというのも、おかしな話だった。腹の虫が腹の水で煮えそうなにとりに反して、人間はというといっそ清々しいとばかりに穏やかな佇まいを構えている。八雲紫の所業に対して怒という感情はまるでないらしい。それは果たして、単純な人格の問題なのだろうか。

「沸点の違いかなぁ……」
「?」
「うんにゃ、なんでもないよ。ただ寛大だなあって感心しただけ」
「さいですか」

それきりで、魚座のように転々と飛躍することもなく、会話は停止した。
黙々ときゅうりを齧るだけの音が草庵を支配する。一本、二本とにとりの持参したきゅうりは消費されていく……といっても、遠慮がちな人間はあまり食指を動かさず、殆どはにとりのセルフ消費だったが。やがて、きゅうりのストックが底をついた頃。

「……にとりさん」
「ひゅい!?」

人間から呼ばれたのは、多分、これが初めてだった。
思わずにも返事が奇妙にうわずってしまう。
……が、人間は気にする様子もなく。

「一つ。お尋ねしたいことがありました」
「な、なんだい? 急にあらたまっちゃったりして」

ふと脳裏をよぎった予感を振り払い、精一杯にとりは笑ってみせた。
何を考えていたのだろう。しばしの逡巡のあと、人間は問いかけた。

「ニンゲンとはなんなのでしょうか」

あまりに唐突な質問だったけれど。
……にとりの答えは決まりきっていた。
《素晴らしき盟友》。
それだけのことを、ただ人間に伝えたいばかりの熱意が、空回りして。
迷子になってしまった言葉を探す、その作業に手間取ったとは言えない。
現に言葉は見つかった。しかし……言葉は聞くも無残に変遷していた。
疑問への回答としては、恐らく最低最悪のその場しのぎとして。

「なんなんだろうね」

なぜ、口に出してしまったのか。
きっと失望したことだろう。
にとりに初めて見せる、人間の悲しげな表情は。
どうしてだか、笑っているように見えた。

「そうですか」

それだのに、物憂げな響きの応答が草庵に残り。
にとりが気付いた時、人間はもう隣にいなかった。

「あ、あれ……っ?」

呆然とする。
いや、呆然としていた――の方が、正しいか。

「人間? どっ、どこいったんだよ!?」

慌てて草庵を飛び出す。
満月なので、視界は明るい。
人影の認識も容易だ。
そこには――

「あら。こんばんは」

人間はいなかった。

「綺麗な夜天ね」

……八雲、紫。
虚空に腰掛け脚を組み、優雅に月見を嗜んでいる――。
直感が、閃いた。

「……人間をどこにやった?」

声が震える。

「いないわよ」

素っ気なく、あまりに素っ気なく。

「どこにもね」

紫の背後で、スキマが閉じるのが見えた。
神隠しの主犯、八雲紫の固有するスキマが《何》であるのか。
判然としなくとも、にとりは瞬間、別のことを確信した。

「人間をどこにやった!?」

いよいよ抑えきれない怒気がにとりを震わせる。
それでも……紫にとっては、そよ風のようだった。

「どこでもないところへ」
「――~~~~~ッ!」

言葉を失う。
自我も失いかけた。
それでも紫に飛びかからず済んだのは、暴力に訴えることに対する自制心が働いたというよりも、むしろ自己防衛機構が本能として作動したに過ぎない。短絡に表せば足が竦んだとでも言うべきだろう。紫はただ、そこはかとなく愉快そうに微笑んだかと思うと、ふわりと地面へ降り立った。

「せっかくだし。少し、お話しましょうか」

にとりには恨めしかった。
激昂に任せて人間に報いることすら躊躇わせる、紫との差が。
無謀を冒せないほどに厳然たる溝は、きっと地獄まで拓いていた。
大妖怪。
その陽炎は、にとりの視神経をちくちくと刺す。

「貴女、彼を何だと思う?」

言葉にもそこはかとない棘が内包されていた。
なぜかはあずかり知らない。
にとりにはこう答えるより他なかった。

「何って……ニンゲンじゃ」

鼻で笑われる。
間違ったことは、言っていないはずなのに。
にとりの心が怪しく漣む。

「ニンゲン。まぁ、一つの観点からは、ニンゲンでしょうね。読み変えれば『ニンゲン』だったもの。……でも、彼は決定的な部分でニンゲンではなかった。なぜだと思う?」

《どこ》ではなく《なぜ》。
にとりは首をふった。無論、横に。

「死 に た が り ――だったからよ」

紫の一言一句が、ざわざわと。

「最も簡潔に形容するなら、ね」

空虚な響きの台詞だった。
淡々と抑揚なく囀る妖鳥のように。
紫の唇は次の句を紡ぐ。

「でもそれは、外の世界で特別に珍しい心象だとは言い難いわ。特に近代を迎えてからというもの、享受した寿命の残り全てをみずから放棄する愚か者は右肩あがり。物資的な水準は幻想郷をはるかに上回るのに、どうしてかしらねぇ。……まぁ、原因を究明できたところで、なにがどうなるわけでもないけれど。そんな連中のおかげさまで地獄は春夏秋冬満員御礼で仕方がない、と嘆いていたわ」

外担当の閻魔が嘆いている、という話らしい。
幻想郷担当は別の理由で嘆きっぱなしだと聞くが。
この際、まるで関係がない。

「彼もそう。開いただけで割れてしまいそうな硝子の心」

自殺――願望。
彼も……また。

「そんなの……悲しすぎるよ…………」

口をついて、ポロポロと。
嗚咽とも台詞とも判らない音が、にとりからこぼれた。

「生きてるから……生きてるから、楽しいんだよ? 嬉しいんだよ? 死んじゃったら……なんにもならないんだよ? 違う、違うよ、そんなの。人間はそんな、死のう――だなんてこと、思ってなかったもん…………」

にとりの視界はいつのまにか潤み歪んでいた。
人間は、ニンゲンは、にんげんは、にとりの盟友は、――自ら死ぬだなんて選択肢を選ぶほど矮弱な存在ではないと、にとりはなおも頑なに信じていたかった。

「本当?」

ずいと凄む紫に気圧され、涙腺が縊られる。

「それって実は、貴女が勝手に思い込んでるだけの理想像なんじゃなぁい?」

挑発的にイントネーションが吊り上がる語尾。
心なしか、紫の唇の端も吊り上がるようだ。

「……なに? どういう意味……?」
「へぇ? そう。随分とマトモだったのね、彼」

ひとりごちてから、そのままの意味よ、とにとりの理解力を嗤う紫。

「私ほど神出鬼没な妖怪はいないと自覚はあるわ。だからこそ私は知っている。ニンゲンの心ほど不可侵の領域は無いの。どんな結界よりもどんな境界よりも頑なな拒絶を線引く世界、それがすなわち人の心」

いかに八雲紫といえども、心という世界にまでは侵入できない。
そんな不可侵の領域を、種族から違う二人が判り合えていたのだろうか。
にとりの心に一抹の不安が芽吹いた。芽吹かされて、しまった。

「彼を招いた私だから知っているのだけど……彼が幻想郷にやってきた理由なんてものは、最初から唯一なの。気付いてた?」

死にたがり。
その、花道の、模索。

「結局、方法が欲しかっただけなのよ、彼は」

経緯は知らない。
が。
幻想郷で暮した日々の中で。
人間の中で全てが完結した。
あとは、終束するのみ。

「とは言え、彼の深層を真に形容するのは難しいわ。視えない未来? 抉られるような過去? 残酷な瞬間? 希望の消失? 蔓延る絶望? 這いよる混沌? 目前の終末? 驀進する堕落? 停滞した進化? 魔がさした? 魔界を見た? 自己嫌悪? 同属嫌悪? 世界が不信? 自分に背信? 虚無への憧憬? 深淵への羨望? 生粋の自殺願望? 後天的な生存障害? 社会の藻屑? 唯々諾々? 曖昧身心? 疑心暗鬼? 汚濁した精神? 汚染された魂? 恐怖からの逃避? 夢への続き? ……どんな言葉でもアヤがあると言わざるをえないけれど、これだけは確かね」

ロスト・ソウル。
突きつけられる結論。

「彼には生きる理由がなかったの」

……なんだ、それは。
それじゃあ人間は。

「生きる理由がないのなら――逆説、死んだって構わないわよね?」

理由の喪失が理由になる、あまりに突飛なパラドックス。
それが果たして、ニンゲンの思考回路が辿りつける終着なのか。
生存と生命、心臓の拍動にまるで執着できていない。
欠陥している、失敗している、ニンゲンを失格している!

「そんなの…………………………信じられるか」

あの、人間が。
それはどの人間だったのだろう。頭の片隅をよぎった疑問を無理やり振り払う。……それでも確固たる否定の言葉が出ない。なぜならにとりは、彼の来歴を微塵も知らないのだ。どのように幻想郷に流れ入り、どのようにして外の世界を歩み、どのような生い立ちを経験し、どのような終焉を望んでいたのか。彼は自身の前身について饒舌ではなく、むしろそういう話題になるとあからさまな話題の変換を試みた。なにか理由があるのだろうとにとりは深い詮索を避けたが……。
間違いは、どこにあった?

「間違いなんてとんでもない」

……心を読むのは、別の妖怪の特権だろう。

「あったのはすれ違いだけよ」

にとりの沈黙を、紫は意に介すふうでもない。
一方通行に淀まない会話はだくだくと流れる血流のようだ。
目が眩むほど……鮮烈に、紅い。

「外の世界で彼を訪ねたの」

興味があったからね、と笑う。

「仕事柄、外の世界にはよく行くのだけど。彼の名前を知らないニンゲンなんて、外には一人もいないかも知れないわねぇ。なにせ比較物理学と超繊維学の天下だった外の学界において《探究され終わった学問分野》だなんて揶揄されていたはずの生物学を、たった一ページの論文で時代の最先端へと返り咲かせた希代の生物学者でしたもの」

ところで、あるニンゲンが一般大衆に色濃く記憶される術としては、二つの手段がある。
一つは英雄になること。
一つは悪夢になること。
そういう趣旨の話をもっと回りくどく説いてから、紫は言葉の矛先を人間に戻す。

「そういう意味なら、彼はどうしようもなく英雄だったわ」

どうしようもなく。
不整合な文脈に違和を感じる。

「でも、論文はあくまで手段の一つが結実したに過ぎなかった。手段をとるということはつまり、目的があるということ。皮肉よねぇ。目的が知れ渡るよりも前に手段を評価されてしまったがために、彼は望みもしない名声を手中に収めてしまった。往々にして正義の味方が悪の組織の裏切り者であるように」

紫の底意地悪い表現にもめげず、にとりは言い返した。

「……まるでアイツが悪の枢軸みたいな言い方だよ」
「そう聞こえないのなら大層オメデタイわね」
「人間は悪い奴じゃなかった……!」
「アレは貴女が思い込んでいるほどマトモな出来のニンゲンじゃないわ」

八雲紫をしてマトモではないと言わしめる人間。
それはいったい、何を意味するのだろう――?

「自らを《不具合だらけの正規品》と蔑んでいたニンゲンとの会話……ニンゲンを盟友と呼んで憚らない貴女なら、聞いてみたいと、思うわよね?」

手管は無限。
手札は――零。
紫の瞳に、妖しい色彩が宿る。
魅威られた。



   ◆[-Y(?)/29]◆



気がつくと。
にとりの意識は立っていた。
幻想郷のそれとは違う、冷めた大地。
幻想郷のそれとは違う、無機質な喧騒。
幻想郷のそれとは違う、淀んだ大気。
幻想郷のそれとは違う、くすんだ青空。
幻想郷のそれとは違う、人の往来。
外の――世界。
そこには八雲紫が立っている。
まるで紫だけが切り抜かれた幻想郷のようだ。恐ろしいことに、紫以外の目に映るモノ全てが、病的なまでに毒々しい。理解の外を構築する世界に踏み込んでしまった焦燥感。無機物の闊歩する惑星に狂気以外の何が宿っているのだろう。……見たこともない、無機質な建物群だった。重感ものものしい鈍色の門扉とその両脇の灰色の門柱が、生半可な心意気の侵入者を高圧的に威嚇している。よくよくみれば門柱は石質で、六文字の漢字が彫られていた。どうやらこの施設の名称らしい。
《国都下澄大学》
こくとしたずみ? こくとかせい? くにとかせい? くっにとかすみ?
読み方すら不可解だ。
学の字から、かろうじて寺子屋の類だろうと推測する。
ワーハクタクの所と比べるとかなり大袈裟だが……。
八雲紫が歩きだした。
追随させられる。門扉をくぐり中庭らしき広場を通り抜けると、ひときわ不気味な建物が見えてきた。他の同様な建造物と比べても、明らかに歳月を消費している。ツタが蔓延りコケの群した外壁にかろうじて覗く、透明には程遠く白濁した窓。ご丁寧にも入口は崩れていた。
廃墟と説明されたら信じてしまうだろう。
裏手に回ると、日当たりの悪さが倍増した。
ありふれた植物が気味の悪い具合に繁茂する様は、魔法の森の鬱蒼とは違い、敢えて似た言葉を探すならば鬱屈こそ正鵠を射る。その狭間に蠢く薔薇や平行植物の存在を認めたと法螺を吹いても、たちまち眉唾ではなくなってしまうだろう。まるで異界に迷い込んでしまった気分になる植物たちの様相。その片隅で、なんとか機能しているらしい裏口を見つけた。
裏口を利用し、廃墟へ侵入する。
廃墟の中は、思いのほか整然としていた。
しかしそれは整理されていることによる印象ではなく、整頓されるべき物々の欠如が招く空虚さの裏返しだと気付く。ならばなおさら、この建物は廃墟で正しい。長く薄暗いばかりの廊下には一定間隔でドアが並んでいたが、そのどれもが施錠された開かずの間で、そのうち血と錆に塗れた裏世界へ突入するんじゃあるまいかとデロい不安に襲われる。
一階、二階と下から順に階下をしらみ潰し……やがて、一つのドアに辿り着いた。
ドアには表札が掲げられていた。
《違田》とは部屋主の苗字らしい。
ドアノブに手をかけ――緊張に動悸する心臓を鎮め――ひねる。
鍵は、かかっていなかった。
研究室……だろうか。
部屋の中央に設えられた大きな机の上では、十や二十ではすまない数多の試験管が、それらを繋ぐガラスとゴムの管で迷路のように錯綜したあげく、まるで前衛的なモニュメントのように始点と終点が交錯している。一方の壁際の棚には、奇妙な色の液体に漬けられたビン詰めの……なんであろう、生々しくも艶やかな肉塊たち。中には薄気味悪く胎動しているモノまで見受けられ、思わず視線を反対側の壁際へ反らす。今度は本棚だった。『コアセルベート創造』『三重螺旋』『自殺する細胞』『平行植物』『進化学概論』『連続クローニングに付随する劣化現象』『妖虫の秘密』『起源』諸々等々――著者の記されていない背表紙だけで眩暈のするような蔵書の数々が、本棚に犇めいている。そしてどうやら、そのどれもが幻想郷の書物のように、手書き手製のオリジナル原本だ。珍しい、と紫が呟いた――《外の世界にしては》という上の句を、にとりは想像できなかったが。
そして。
紫がそのうちの一冊『キメラ』と題された蔵書を本棚から引き抜いた時。

「それは駄目です」

不意の注意。
ビクリとにとりの背筋を電流が奔る。声のした方を向くのは、紫の方が早かった。声の主は、つい今しがたこの研究室へ戻ってきたらしい。白衣で包んだ痩身の小脇に膨大な書類を抱えている。一見して研究職だと判断できるいでたちは、残念ながらにとりには奇々抜々を衒う新手のファッション程度にしか映らない。そのせいで、一瞬、見誤った。しかし即座に思い至る。
人間だ――間違いない!
草庵の頃と比べていくらか不健康げでこそあれ、見誤りようがない。……見誤ったんだけど。

(人間!)

叫ぶ、も、音にならない。
もどかしい歯痒さが募る。

(一体全体……っ! 何と何の境界を操ったらこんな状況を造れるんだよ!?)

それは八雲紫のみぞ知る。
にとりには状況だけなのだから。
どうしようもなかった。

「あ」

にとりの干渉できる限界の外側で、人間は何かに気付いたようだ。

「もしかしなくても、あなたが八雲さんでしたか」

……なぜ知っているのか。
にとりの疑問を氷解させぬまま、紫は肯定の意味を込めてにっこりと微笑んだ。胡散臭い、と思うのはこの場でにとりだけだろう。人間は紫が《何》なのか、これっぽっちも知らないのだから。
……と、諦めた矢先。

「驚きましたよ。私宛の面会要請だって大概ですが……まさか、ニンゲン以外の方だとは」

これには、さしもの紫も驚いたようだ。
にとりには嫌な予感しかない。
ここにきて初めて紫が口を開く。

「……どうしてそうお思いに?」

人間の答えはあっけらかんとしていた。

「伊達に生物学を究めていません」

紫の言葉を思い出す。
幻想郷に流入する以前、彼は生物学者だった、と。
ニンゲンも妖怪も広義に解釈すれば一様に生物なのだから、どちらも彼の得手となる分野だということになる。それならば彼がニンゲンと妖怪との区別をできたとしても、なんら不思議ではない。しかし外の世界では……妖怪の存在は周知されていないはずだ。ましてや、外との繋がりの濃い八雲紫が、そう簡単に地金を曝すだろうか。……おかしい。何かが矛盾している――。
しかし、にとりの煩悶は伝わらない。
応接スペースのソファを紫に勧めた人間は、抱えていた書類の類を全て放り出して、紫と相対する配置の椅子に腰を下ろした。丁度、本棚を背にするカタチだ。それはつまり、真正面に紫がいて、その背後には件のビン詰めがあるということなのだが……この際、気にしまい。慣れとは恐ろしいものである。
それよりもなによりも。
にとりは、人間の表情に悩まされていた。

(……まるで無表情じゃないか)

少なくとも、幻想郷で知り合った頃のように、活きていない。まるで搾り尽くされた果実が首の上に乗っかっているようだ。……ふと、思う。むしろ人間は無表情で正解なのかもしれない。泣いたり、笑ったり、怒ったり、とにかく感情の起伏が表情を象った途端に、その果物は見るもおぞましく破裂するに違いなかった。

(………………っっ??)

心の片隅で芽吹いた小さくも不可解な感情が果たしてなんなのか、にとりには知る由もなかったが……もしこの場で紫がにとりの存在を具体的に認めたなら、紫はその感情の正体を、名探偵の頭脳と愉快犯の頭脳とに依って明快に解き明かしてみせたことだろう。
同情心? 嫌悪感? それとも……恋慕なのだろうか。しかし、感情の詮議はいまや意味をなさなかった。耳をそばだてる必要もないのに、にとりは息を潜める。

「どうしてコレは駄目なのかしら?」

会話の口火は紫が切った。
コレとは紫が本棚から引き抜いた蔵書『キメラ』である。
あー、と恥ずかしげに後頭部を掻く人間。

「徹頭徹尾、駄文なんですよ」
「なるほど。他人に読ませる価値がないと」
「そんなところです」

差し伸べられる人間の手。

「なので返してください」

紫は素直にも『キメラ』を返却した。
してから、訊く。

「それとも、自分専用過ぎて他人には理解できない、のかしら?」

人間が部屋の隅へ押しやった書類の一枚がはらりと宙を舞う。
空を掴む要領でひょいとそれを捕まえてから、紫は続けた。

「余りに超絶しているせいで、ね」

無言の人間に、少し間を置いてから、ごめんなさいと謝る紫。

「下衆の勘繰りですわ」
「……いや。なかなかどうして、究極ですよ」

笑顔が交わされる。

「この論文はね。だから誰にも読めません」

異形――同士。
なにか通ずるモノがある、らしい。
にとりをゾッとさせるナニカが。

「それで、翻訳の末がこれかしら?」

紫の捕まえた一枚の書類に記された文章。
人間が頷くと、紫は書類に視線を落とした。
一ページの、論文。
にとりにはそれ以上でも以下でもない一枚の紙にしか見えなかったが、しかし紫はその本質を見誤ってはいなかった……読破に五分とかからない文量だと侮ることなかれ。三十五行四十字の紙幅に詰め込まれたこの論文こそ、外の世界に山積するありとあらゆる問題を解決に導く途方もない可能性を提起しかねない代物なのだから。
それを踏まえた上で、紫は評す。

「薄情な人」
「そう思いますか」
「貴方は《可能性》を放り棄てただけだもの」
「人任せなだけですよ」
「なら、希望を抱いて溺死しろと?」
「あー、いいですね、それ。機会があれば決め台詞にしたいくらい、芝居がかってます」

紫が苦笑した。
印象の悪い笑い方ではなかった。
性格の悪い幼馴染に呆れるような。
そんな、柔らかい微笑み。

「行く先々で色々な噂を聞きましたわ」

不毛ともとれる人間との閑談。
紫の抱く感情とは、果たして……。
にとりは喉に妙な灼熱感を覚えていた。

「新進気鋭の天才だの、ダーウィンの再来だの、空前絶後の鬼才だの」
「へぇ。そう呼ばれてるんですか」
「挙句の果てには今世紀が輩出した最大の傑物だなんてほざくのもちらほらと」
「今世紀はまだ四半分も経っちゃいないのに。性急な連中です」
「だからこそ、じゃありませんこと?」
「だって、分野が分野でしょう? 半世紀近く研究に没頭してきた学界連中、今日まで物理と繊維の方程式に浸って久しいものだから」
「既に絶滅危惧種ですものね」
「増える見込みも無いでしょう。生物学を修めたところで宇宙旅行はできませんから」
「技術分野的にも、……御給金的にも?」
「その通りです」
「ところで」

脈絡を遮る紫。

「私がここへ来た理由は解りまして?」

と、言うか。
脈絡なんてなかった。
酷い話だった。

「実は私、こんなモノやそんなモノに興味ありませんの」

《こんなモノ》とは《1ページの論文》のこと。
《そんなモノ》とは《本棚に犇く蔵書》のこと。
どちらのモノも紫にとっては瑣末に過ぎない。
だがしかし、その興味の矛先をにとりは知っていた。

(だから……だから、だったのか――!)

にとりの胸中を、人間と紫の邂逅の瞬間から、炙り続けていた胸騒ぎ。
その正体がいよいよ詳細に浮き彫られてゆくにつれて、大きく、喧しく。

「でも、貴方には興味があった」

紫の端整な顔立ちにフッと影が差す。
ブラインド越しの陽光がかげっただとか、蛍光灯のランプがひとつきれただとか、理屈ずくで丸めこもうと思えば丸められる程度の現象だったかも知れない。それでも、にとりの不安を煽る材料としては充分過ぎた。

「生物学を究めたからと貴方は言う。それが例えば、たかだか二十年と端数しか生きていないニンゲンの自惚れだったなら、これっぽっちも見向きはしなかったでしょう。でもね。貴方の論文は常軌を逸脱して斉しい……これではまるでオーパーツだわ。理論は破綻していない。けれど、時間軸が破綻している。貴方の存在は現代に在るべきではない」

端的なのに、にとりは理解にてこずった。
八雲紫、その唇は、今。
人間の存在を否定したのだ、と。

「……ああ、勘違いしないでくださいます? 貴方をどうこうしようとはこれっぽちも思っていませんもの」

じゃあ、何のために。
にとりと人間の心境が重なったのは、偶然か否か。
うふふと紫は艶やかに笑った。

「言ったでしょう。貴方に興味があったからって」

その矛先は執拗な牢獄のよう。

「五年、それとも十年? 貴方の研究従事期間はいくら長く見積もっても十年を超えられませんわ。私たちにしてみれば須臾にも満たない、小さな小さな時間の挟間で到達した貴方の極地はニンゲンらしからぬ行跡…………いいえ。ニンゲンには不可能だと断じてもいい」

真骨頂は手札を枯らしてから。
紫が饒舌な理由はそこにある。

「だから興味が湧いた」

英知と――追撃。

「人間さん」

会話は殆ど一方通行。
それでも会話は成立する。

「貴方の脳で構築される理論にタイムパラドックスを施したのは、一体ナニ?」

それはひとえに、人間が喋る必要性にかられなかったからに尽きる。もともと紫の一方的なカタリだけで事足りていた語り部なのだ。必要のない台詞は必然的に排斥される。……それはもちろん、キャラクターだって例外ではない。
それゆえに。
にとりが《いる》ことは必要か。
にとりが《いる》理由はなんだ。
現状、全ては紫と人間とで完結している。
ここはにとりの《いる》を正当化できない。
そんな、息苦しさ。

「ニンゲンを……」

訥訥と。にとりの狂いかけた思索を切り払い。
静謐に納まりつつあった会話を、人間はか細く繋いだ。

「ニンゲンを?」
「ニンゲンを、ね」
「ええ」
「やめたかったんです」
「……」
「そのためだけに生物学を究めたようなもんですよ」

深い、深い溜息。
そのあと、箍が外れた。

「ニンゲンではないあなたにこそ訊ねたかった。……八雲さん。ニンゲンとはなんなのでしょうか。植物でもない、動物でもない、自ら万物の霊長を称して憚らないこのイキモノは一体全体なんなのでしょうか。お恥ずかしい話、私が識り得たのは観察結果に因る事実のみです。ニンゲンは……東を向けばニンゲンを騙し、西を向けばニンゲンを裏切り、南を向いてもニンゲンを省みず、北を向いたらニンゲンを開き直り、いよいよどこかを向いたと思えばニンゲンを殺していました。まるで他に類をみない六十兆の細胞軍隊はまるで利己心の塊です。醜い、醜い、醜い、醜い。私の理解は……そこで止まっています」

紫は意味深に頷いた。
その実、意味など浅いのかも知れないけど。
関係無く人間の吐露は続く。

「私の研究が人類を救う……それは構いません。それよりも先に私の目的は何不全なく達成されているハズだからです。それに、私は知っています。直面する問題の解決は、新たな問題への糸口に過ぎません。それは決して出口の光明ではない。更なる迷宮への誘蛾灯なのだ、と」

危機感が警鐘を鳴らしていた。
だからなんだと誰もが哂う。

「私の論文は使い方次第で世界を救う可能性を持ちます。使い方次第で。使い方次第で、ということは、つまり。使い方次第では《世界を滅ぼす最終兵器》としての運用も可能だということではないでしょうか。むしろその公算の方が高いでしょう。なぜなら――……」

ニンゲンですら昆虫の共食いに嫌悪を抱くのに。
ニンゲンは共食いよりも醜い行為を憚らない。
だから人間の心奥はいつもいつでも淀んでいた。
ニンゲンをやめたいと願う理由は切実なモノ。

「……――ニンゲンは醜いから、です」

人間がニンゲンたる劣等感。

「もうお判りでしょう?」

喋り疲れたらしい。
人間の口が閉じると、紫の口が開いた。

「ええ。とてもよく」

理解が追いつく方が異常だ。
だからきっと、この感情も嘘に違いなくて。
そう信じたかった河城にとりの人間印象。
それを瓦解させたのは、八雲紫の結論だった。

「貴方にとって最も致命的なのは、自分がニンゲンだということなのね」

肯……――く。
それだけの動作が、長く、永く。
にとりには永遠のようだった。

「だから貴方は《ニンゲンをやめる研究》に没頭したと」
「はい」
「その為の敲き台には物理学も繊維学も不適当だったのね」
「はい」
「それで?」
「は?」
「結論を拝聴したいですわ」
「ああ」

もうやめてくれと理性が叫ぶ。
もう、充分、わかったから……!

「結論的にね、ニンゲンはニンゲンをやめられないんですよ。ニンゲンをニンゲンと決定する条件が魂に求められる限り、体を別の生物で代用しようが、脳を別の生物に移植しようが、人魚の生き胆を喰らおうが、石仮面を被ろうが、結局的なトコロでニンゲンはニンゲンでしかありませんでした」
「つまり貴方の研究は不本意にも破綻したと」
「注釈すれば目的もです」
「あら。さきほど《目的は何不全なく達成される》と仰いませんでしたこと?」
「妥協したんですよ。やめることからとまることへ。幸い、漢字は同じですしね」
「……どうするつもりで?」
「さあ? 今時、方法なんて氾濫していますから、傑作的なのを選ぶつもりです」
「原子に還るのもいいものよ、誰かさん」
「えーっと、エスメラルダ?」
「エメラルダスですわ」
「理想ですよね」
「理想?」
「真理ですよ。ニンゲンはどこまで分割されればニンゲンでなくなるのか、だなんて」
「萃めたり疎めたり、ね。得意な知り合いを紹介しましょうか?」
「他人の手が汚れるのは心地の良いものじゃないです」
「それでしたら」

クツクツと独り愉快そうに含み笑う紫が何を思いついたのか。

「捨て鉢にする予定の人生、一ヶ月ほど私に預けてみませんこと?」

それは恐らく、興味の変遷による。この狭い研究室の片隅で交わされた人間との会話は、紫の興味の矛先を確実に別の方向へとそむけつつあった。だがにとりには想像もつかないだろう……まさか、その矛先が自分の喉元を抉ろうとしているだなんて。

「とびきりの住居を提供しますわ」

いかが? と人間を伺う紫。
もちろん下手な態度ではない。

「折角ですが――」

断りかけて、口を開いたまま、人間の言葉が停止した。
人智の外との遭遇……八雲紫がスキマを開いたからだった。

「あなたは、…………?」

想定していた想定外の更に枠外に、人間は言葉を失っていた。
それは、きっと。
手の届かない、彼にとっての『理想』との遭遇だったのだから。
次の句を失うほどの歓喜に応えるように、紫もとびきりの笑顔で答えた。

「八雲紫。幻想種に甘んじた境界の妖怪」

妖怪。その言葉が意味するところを、人間がどのように理解したのかは、にとりにはわからなかった。けれど。物語の歯車はこの瞬間に組みたてられたのだと、にとりは直感していた。

「人間さん。貴方を幻想郷へご招待しますわ!」



   ◆[29''/29]◆



ぼやけていた視界が、やがて。
八雲紫に焦点が合わさってくる。

「おかえりなさい。いい夢だったかしら?」

最悪だった、と断言してもいい。
人間と紫の交論は、にとりの心を暗く陰らせた。

「ね? 大概なニンゲンだったでしょう、彼」

反論する余裕もなく、にとりは思索に沈んでいた。
ネガティヴな方向にしか帰結しないと解っていても……。

「ニンゲン嫌いなニンゲンのフリをすれば騙せる妖怪はいるけど、まさか、そんな妖怪よりもニンゲンが嫌いなニンゲンがいるだなんて、ねぇ?」

そう。人間の思考パターンはニンゲンのそれではなく、むしろニンゲンに敵愾心を持つ妖怪のそれに酷く似ていた。にとりも河童がら色々な妖怪との交流があり、中にはそのタイプの妖怪が散見されるため、知っていたのだ。そんな連中は決まってにとりを変人扱いするものだったが、にとりが気まぐれにこんなことを訊くこともあった。

――じゃ、来世でニンゲンに生まれたらどうすんのさ――

解答は半ばテンプレートと化している。
すなわち。
《手前を殺してニンゲンをやめる》
単純にして明瞭。
彼らはニンゲンになることを拒絶する。そして、それは恐らく、前世の記憶が残っていなくとも実行される憎悪だろう。旧態依然とした意識の鎖に縛られた精神に基づき、彼らは酷くニンゲンを嫌うと同時にニンゲンと迎合する妖怪すら厭うのだ。それはもう、頑なに。
……しかし、人間は。

「ニンゲンだったんだよ……?」

何一つ、違わず。
しかし紫の答えは違った。

「キメラ、ってご存知?」

……知るわけがない。

「そうねぇ……説明が面倒臭いけれど。Aという生物の脳がBという生物の肉体におさめられていたら、その生物はAなのかしらBなのかしら」

知らないのだから、答えようがなかった。
紫の口からはなおも耳慣れない単語が続く。

「脳が個体の行動様式を支配するのだと定義すれば、その生物は紛れもなくA。でもね、免疫的自己から定義するとその生物はBなのだそうよ。不思議でしょ?」

不思議もなにも。
不気味、だった。

「AでもありBでもある矛盾を宿したイキモノをキメラと呼ぶわ」

鵺とは違うわよ、と釘を刺される。
人間は《生物学》と言った。
AとBのイキモノの境界を弄る。
人間の世界ではそれが可能なのか。
それは紫の領域に近しい。
……おぞましい。
率直に、思う。

「もちろん、それは脳と体に限らないわ。Aの翼がBの胴体についていてもキメラ、Aの羽毛がBの頭皮から生えていてもキメラ、極端にいえばAの体内に一片でもBの細胞が確認されたならば、それはキメラと呼べる。そしてキメラは、ごく稀にではあるけど、ニンゲンにも確認されるの。以上を前提にしたもしもの話……Aの精神がBの体躯に宿っていたとしても、そのイキモノはキメラと呼べるのではなくて?」

精神。心というモノ。
細胞的、質量的ではないにせよ。
《彼》がそうだった――……!?

「そんな、……まさか」
「体を構成する六十兆の細胞は余さずニンゲン、しかし内包された魂は根底から妖怪。半人半妖とは一線を隔す、言うなれば全人全妖。それはもうオゾマシイくらいの矛盾ですわ」

A=ニンゲンとB=妖怪とのキメラ。
ニンゲンでもあり妖怪でもある。
しかしその境界は曖昧だ。ある条件下でどちらかに固定されない。なぜなら彼は、精神=妖怪から《思索的自己》を獲得し、肉体=ニンゲンから《免疫的自己》を獲得していたのだから。本来なら一致して然るべき自己の不一致に蝕まれていたのは、妖怪か、ニンゲンか。

「そ、それじゃあ……っ!」

個体の行動様式を支配するのは、脳に近しい前者。
紫の言に則れば、彼は……。

「妖怪だったってこと…………?」

想像を遥かに絶する暴論に、にとりは唖然とするしかなかった。

「無意識下でニンゲンへの嫌悪が働いてしまったのが、彼の最大の不幸ね。その感情を理解するための仮説《自分は人外である》を推論に噛ませられずに、彼の内側に巣喰う矛盾は確実に宿主を蝕んでゆく。ニンゲン社会に揉まれる居心地の悪い不快感を、彼にはただ嚥下する以外に方策はなく、かと言ってココロとカラダの奏でる不協和音は最低最悪に耳障り。四六時中の嘔吐感を禁じえない状況の下で、彼のどんな感情が生物学を志させる起爆剤となったのか……想像は、必要無いわよね?」

ニンゲンは醜い、と人間は言った。
全てはその嫌悪感に集約される。
ニンゲンをやめるため。ニンゲンが嫌いだから。
ニンゲンを止めるため。ニンゲンが嫌いだから。
ニンゲンを辞めるため。ニンゲンが嫌いだから。
ニンゲンを已めるため。ニンゲンが嫌いだから。
ニンゲンに病めるほど、ニンゲンが、大ッ嫌いだったから――!

「じゃあ……人間が優しかったのは」
「貴女がニンゲンじゃないからね」
「……人間が友達になってくれたのは」
「貴女がニンゲンじゃないからね」
「人間が私を……私と…………ッ!」
「貴女がニンゲンじゃないからよ」

紫の扇がパチンと閉じられ、にとりの額をスッと差す。

「それが、貴女の幸運」

完全な勘違い。
独善的なニンゲン像による一方的な人間像。
そこには彼とのすれ違いしかなかったのか。
目頭が熱いのはなぜだろう。
気付いて、しまった。
気付かされてしまった。

「ニンゲンに生まれつかなかった貴女が、彼にはどれだけ羨ましくも妬ましかったか……想像できて? ……でも、よかったじゃない。彼は末後を理想の傍らで過ごせたワケだし、貴女も貴女で貴重な経験値を貰えたことでしょうし。与えられたものは多々あれど奪われたものは独つずつ、なんて酷いレートなのかしらねぇ」

紫は両手を広げ、さぁ、と言葉を繋いだ。
にとりの中の何かを終わらせるために。
満面の笑みで問いかける。

「河城にとり。ニンゲンを盟友と呼んで疑わない貴女は、ニンゲンながらにニンゲンを忌避するニンゲンの存在と懊悩を知ってもなお、ニンゲンを盟友と呼べるのかしら!?」

ああ。
全ての得心がゆく。
きっとこのためだけに、にとりは川を、人間は幻想郷へ。
流されたのだ。
紫に指向性を与えられた予定調和。
紫の疑問に答えるためだけの物語。
邂逅から別離まで徹頭徹尾が被操。
濁流を召喚したのが紫ならば。
濁流に釣糸を垂らさせたのも紫。
八雲紫の手のひらの内。


「     」


その言葉は誰だったか。
急かす紫かも知れず。
にとりの嗚咽かも知れず。
あるいは……――人間。
自虐気味に頬の端が歪んだ。
人間はもう、いないのだ。
繋がっていたなにか。
プツンと切れる音がした――……

「お前なんかと一緒にするな! 群れるのは弱い証? そんなことを強者気取りの奴に言われるまでもなくニンゲンは知ってるんだ、自分たちがいかに弱くて儚いかを! ところがどうだ、ニンゲンの文明には私たち妖怪の入り込める隙なんてありゃしない! 強いと自負するお前ですらだ!! 強さだけが生物の能じゃない! ニンゲンに強さはなかったかもしれないけど、へこたれることも決してなかった! 不屈の本能で進歩を諦めなかった! だから、だからこそ私は! ニンゲンを盟友と呼んだんだ! お前みたいにニンゲンを見下した妖怪には絶対にわかりっこない!!」

……――。
耳鳴りがする。

「ふぅん」

それはきっと、八雲紫に抗ってしまったという後悔。
そういう類の圧殺的な絶望を感じる。

「口の悪い河童を叩くのも、ま、偶には吝かではないかしら」

反射的に身構える、も。
無意味に近い。
なぜなら、相手が八雲紫だから――である。
ゆえに弾幕の甲斐も意味もなく、光学迷彩などもっての外で。
勝敗は火を見るよりも明らかに決した。

「………………」

ドサリと、決着の狼煙。
土の味を噛み締めているのは、地面に突っ伏しているから。
瞳に映るのは、紫の足元と、色濃い敗北。

「圧倒的な力の差は時として慢心になる、とは言うけどね」

紫にしてみれば《勝負》ですらなかっただろう。
ただ一方的に敗北のみを押しつける機会でしかない。

「ご都合主義の少年漫画じゃあるまいし。誤魔化せるほどならまだしも、絶望を感じちゃえるくらいの力量の差は、誰がどう逆立ちをしても引っ繰り返せないの」

ざりざりと。
落ち葉を踏む紫の歩調は、どこまでも整っていた。
まるで乱れない。
その足音は遠ざからず、むしろ近づいている。

「さて」

――途端に。
にとりの全身を、怖気が襲う。
なぜか。

「それじゃ、感動的な口上も飛び出したところで、幕引きとしましょう」

それは、八雲紫の日傘がひたりと、にとりの首筋にあてがわれたからだ。
そう、それはまるで、処刑刀のように無機質な鋭さだった。

「ちょ、な、なにを」
「理由こそなんであれ」

凍てつく一言が波動する。

「うら若い河童ごときに刃向われただなんて、大妖怪の估券に障ると思わなくって?」
「――~~~~……っ!!」

……悪夢だ。とびっきりタチの悪い夢だ!
でも。夢だったら、どんなによかったのだろう。
諦念の片隅に見つけた期待が、にとりに口を開かせた。

「また、人間と――逢えるかなぁ」

紫以外だったら、聞き逃していたかも知れないほどの、吐露。

「逢える筈ないじゃない。地獄は無間よ?」

紫が冷たく言い放つ。しかし、それでもにとりは抗った。
天文学的な確率を信じる、それだって悪くない。なぜなら。

「零の先に一がある。盟友はそれを希望と言うんだよ――……」
「……そう。ならそれこそ、希望を抱いてなんとやら、ね」

にとりは瞼を閉じた。
その、突如。
夜空に明星が煌めいた。
目も眩まんばかりの明るさに何事かと紫が天を仰ぐのを待たずして、明星は地に伏すにとりと飛びずさった紫とのあいだに轟音を伴い落ちていた。もうもうと立ち昇る土煙。その中で立ち上がる人影。ほどなく視界が鮮明になり、人影は明瞭な人の形となる。紫と相対しにとりに背を向ける、ニンゲン。紫からにとりを遠ざけるように仁王立つその背中を、にとりは知っていた。

「……魔理沙!」

それでも確信が持てなかった。
したり顔でハンと鼻を鳴らす、もはや魔理沙以外の何者とも疑いようのないニンゲン、霧雨魔理沙がそこにいるのは、にとりにとっても紫にとっても大きな誤算だったのだ。もちろん、この計算違いがもたらす影響は計り知れない。

「なんで……ここに?」

狙い澄ましたかのような登場のタイミング。
にとりが訝しがるのも無理はない。
それに対して、魔理沙はいつもどおり、快活な調子で答えた。

「悪友のピンチに駆けつけられないようじゃ、友達甲斐がないだろう?」

理由になっていない。言い訳のつもりだろうか。
だがどうやら、それ以上の説明をするつもりは魔理沙にはないらしい。
紫に相対したまま数歩あとずさり、にとりの隣に腰をかがめる。
肩を抱き寄せる行為も、今ばかりは抵抗できなかった。

「あとは任しとけ。場数は踏んでんだ」
「うぐ……」

不覚にも安堵してしまった。
霧雨魔理沙。
普通の魔法使いを自称している彼女こそ、妖怪退治に関しては博麗・風祝の両巫女に勝るとも劣らない実力の持ち主。それも、単純にして純然たる破壊能に至っては、その両者を凌駕する魔法の遣い手なのだから驚かされる。そういう意味では彼女もまた、ニンゲンの枠に囚われないニンゲンなのだろう。しかし……さすがに、相手が悪すぎる。遊ばない八雲紫の実力が冥府よりも深いのは想像に難くなかった。

「そんなこと、私だって分かってるさ」

それはどんな理屈だろうか。
にとりに訊ねられる隙もない。
それでも魔理沙はキッと紫をねめつけ……世間話を始めた。

「こんばんわ、紫」

無難な挨拶。

「こないだの間欠泉の件、ありがたかったぜ」

こないだの間欠泉の件。
地底から湧きだす怨霊たち。
にとりもよく覚えている。

「地底見学で珍しい連中を見れたし便利な戦利品も頂戴できたし。陰陽玉っつったっけか?」

本当にくだらない、世間話だった。

「アレ、便利だよな。なんてったって遠く離れたところにいるってのにお互い会話できるんだぜ? しかも有線じゃないときた。もー霊夢ンとこで夕餉を御馳走になるのにひもじい思いをしなくて済むのさ、事前に知らせときゃ待たされる心配もない。まぁ振舞ってくれない心配はあるが、それだってあちらさんからすれば事前に断れるってことだし。世の中ってあっというまに進むよなー」

魔理沙はどこからか陰陽玉を持ちだしていた。
しまったと渋い顔になる紫。
不確定要素と警戒する魔理沙に行動を許していたこと。
それは誰もが思う以上に、大きなミスだ。
勝敗を選ばれかねない。

「ま、んなくだらねー用途はともかく、私が本当に便利だと思うんはこっちの方だよな」

ポンと軽い音がして陰陽玉が割れたかと思うと、中から紙吹雪のような色とりどりのなにかが舞いでた。魔理沙謹製の弾幕かと身構える紫をよそに、陰陽玉の中身はひらひらと地面に舞い落ちる。正真正銘の紙吹雪だった。

「ほんと、いじくり甲斐があるよな」

愉快そうに笑う魔理沙は、紫に睨まれてもまるで動じない。
……その余裕は何を根拠にしているんだ?
にとりはもちろん、紫にすら見当がついていないらしい。
霧雨魔理沙、威風堂々というよりは飄々と人を喰らう態度だった。

「炸裂式の弾幕を仕込むもよし、光線式の弾幕を仕込むもよし。霊夢なら弾幕結界の起点にするだろうし、早苗なら五芒星に見立てた奇跡の種にするだろうな。咲夜なら銀の弾丸を装填した万能弾幕ツールにするに違いない。妖夢は……半霊で事足りね? まぁ刀を搭載されてウニみてーになるよかマシだろう。私の場合? 聞いてくれるなよ。ところでコレ、青色発光性の魔法塗料でコーティングしたのを私の周りで旋回運動させたらクローみたいだよな。フリーレンジ最強!」
「……何を言ってるの」

ついに紫が口答えた。
それは乗せられたも同じこと。
滞っていた局面が――動く。

「紫さんよぉ、アンタにしちゃ鈍いな」
「……なんですって」

薄く、薄くではあるが――紫の鉄面皮の下からドス黒いナニカが滲む。
キュッと日傘を絞る音からすらも恐怖が伝播してきた。

「仏の怒りはなんとやら、というわよ」
「まぁ聞けよ。考えてみりゃ単純な話だ」

もちろん聞く耳など無いだろう。

「残念ね、あの子の友人を潰」

が、遮り、

「ニンゲンの私がアンタみたいな大妖怪に挑むのに、なんの策略も施さない無謀な馬鹿だとでも思ってんのかって話さ!」
「す……――――――~~~~~~!」

紫の思索は瞬く間に一つの結論を手繰り寄せた。

《八卦炉を仕込んだ陰陽玉》!!
多角的なマスタースパーク!!
黄道十二兵器か、お前は!!

紫の頭脳はなおも高速で回転する。仮に……仮に、ではあるが、その出力が本体からの照射と同程度を誇るのだとすれば、いくら八雲紫が大妖怪と言えど耐えられたものではない。ましてや意識の外から放たれる不意の一撃を耐えられる確証は、果たして確証として機能できるのだろうか。……否、だろう。そんな結論に至った所以は、八雲紫が大妖怪たる自らの強さを自負こそすれど、その強さに自惚れてはいなかったからである。
ゆえに。
紫の注意が魔理沙単体から周囲全般へと拡散した。
決して散漫になったワケではない。
迂闊だったのは、本体から目を離したこと。
それはほんの一瞬だったかも知れない。
その、刹那。
本当にそれだけで、魔理沙には充分過ぎる隙だった。

「紫は知ってるのさ」

にとりの耳元で囁き、ニィと笑う魔理沙。
その手に握られているのは正真正銘の八卦炉。

「あはは…………っ」

にとりは苦笑するしかなかった。
ぜーんぶ、口先三寸の嘘八百。
本命は懐に隠していやがった!

「私の必殺技がいかに一撃必殺かをな」

まったくもって悪びれず。
知り過ぎてるってのも損だぜ、と。
魔理沙は厳かに宣言した。

恋符「マスタースパーク」。

束ねられた極光が、大妖怪・八雲紫に風穴を穿つ。



   ◆[0/29]◆



ニンゲンが死ぬのは当たり前です。
ですが、私には不思議でなりません。
ニンゲンが生きるのは当たり前なのですか?

           ――『間違えた人』の述懐



   ◆[30/29]◆



目覚めは最悪だった。
軋むような疼痛が頭を絞めつける。
記憶中枢との接続も悪いらしい。
頭蓋骨絞めだったら書庫から二枚ひっぱってこれるのにね。
代償は墓場への強制収容だけど。

「……ドコだよ、ココ」

カーテン越しの柔らかい陽光に照らされる、やけに埃っぽい洋室。内装のデザインは中世の洋館に近いか。シャンデリアと表現するほどではないが電灯と表現するには大袈裟な、中途半端な大きさの照明器具が天井から吊るされている。アンティークな机の上には調度品が乱雑に散らばっており、家主の生活感が伺い知れた。机と並ぶ椅子は魔導書らしき分厚い本の複数にすっかり占拠されている。そんな部屋の片隅のベッドで、にとりは上体を起こした。

「うぅ…………」

この感覚は、悪酔いした翌日の二日酔いに近い。
記憶の残滓を辿るのも容易ではなかった。
……。

「きゃっほー。にッとりィ~、グッモーニン!」

結局。
魔理沙が妙なテンションでやってくるまで、記憶は碌に蘇らなかった。

「!?」

くるくると星を撒き散らしながら接近してくる白黒に、脊髄的な部分で恐怖したにとりはベッドの上で毛布を胸元へ引き寄せながら身を壁際まで引いた。なんかおかしいぞ……特に目。ギラギラしてるならまだしも、なんていうか――グルグルしてる。

「ど、どうしたんだよ、魔理沙」
「いやいやいや別にどーもしてねーよぉ?」
「明らかにどうかして、って!」

ナメクジのごとき滑らかさでにとりと同じ毛布に潜る魔理沙。

「や、やめ、なにをするー!」
「はもはも」
「そして何を咥えてる!?」
「あ・さ・ご・は・ん(はーと」
「どう見ても剥き身のキノコじゃん!!」
「ふへほへ(つべこべ)ひはふひ(言わずに)ふへー(食えー)!」
「もがッ!?」

なぜ口移し、ていうか朝ご飯にナマキノコ?
疑問を挟む余地もあればこそ、なにより切実に呼吸がツラい。
しかもキノコは肉厚で噛み応え抜群、碌に噛み千切れない始末。
傘の大きく広がらない種類らしいのは幸いだったが……。
無駄に太い!
冗談抜きで窒息する、なんの拷問だこれわっ。

「や・め・ろー!!」

ブヅンと顎力でキノコを噛み千切ってから絶叫。弾き飛ばした魔理沙がいつも通りに戻るまでには、似たようなやり取りを結構な回数必要としたので、ようやくといった頃には二人ともグロッキーだった。

「……」
「……」

この部屋の惨状を第三者によって発見されたなれば、確実に何かしらの犯罪直後を連想されるに違いなかった。もっとも、物語的に都合の良いんだか悪いんだかな闖入者は現れず、二人の体力が口をきける程度にやっとのことで戻りかけたころ。

「いったい何がしたかったのさ……」

先に訊ねたのはにとりだった。
しばらくの無言を経てから、魔理沙は答える。

「にとりを慰めようと思って、とびきり愉快になる幻覚キノコを食ってみた。デフォルメされた赤いイカみてーなツラのやつ。案の定、気持ち悪いぜ……うぇっぷ」

ああ、だから目が石川賢的な画風だったのね……。
ていうか、意外と涙ぐましい理由だった。
なんていうか、その……申し訳ない。

「参考までに聞くけど、どんな世界が視えてたワケ?」
「まず全天が太陽でギラギラしてる。ぎゅんぎゅん飛び回るコウモリみてーなのの飛蹟がチカチカしてて、ときどき三つに分裂してたけどすぐ一つになってた。そしたらびっくりするくらい明るく光りやがる、と思ったら海の底にいてなんかでっかいクラゲの中でゆらゆら。ドロドロになった頃に破裂して今度は竜巻。キリキリしてるうちに赤い月みてーなのに近づいて、赤い大地に突撃したかと思ったら虚無ってた」
「……」

絶句する程のカオスだ……っ!
聞いたことが愚かだった。
スルースキルを発動せざるをえない。

「ていうかさ。なんで私は魔理沙の家で朝の目覚めを迎えたわけ?」
「ん? おお……」

以下、魔理沙による説明を要約する。
マスタースパークが八雲紫を炙ったあと、果たして紫を倒し切ったのか確信に欠け緊張の糸を切らさなかった魔理沙に対して、にとりは糸の切れた操り人形のように眠りこけてしまったのだという。紫は消滅したのか逃げたのか――前者はありえないと魔理沙は読むが――幸いにも追撃が加えられる気配はなく、かといって寒空の下に放っておくには不憫すぎるにとりを抱えて帰宅したのだそうだ。

「なるほど。ビックリするくらい想像通りだよ」
「人の行為を浅く見下しやがって。これでも結構な苦労したんだぜ」
「そっか。ありがとう」
「んー、ま、わりかし元気そうでよかったよ。ちょっと待っとけ」

フラフラと部屋を出ていく魔理沙こそ休息がいるんじゃあるまいかとの心配をしている暇に、戻ってきた魔理沙が運んできたのは深めの一枚皿に並々と盛られたスープだった。ゆらゆらと立ち昇る湯気と微かに香る甘い匂いに、いやがおうにも食欲が湧き立つ。

「ほい」
「…………」
「どうぞ、召し上がれ」
「…………」
「んだよ。犬が《待て》くらったような目で見んなって」
「……イタダキマス」

スプーンを手に取ってからは流れるようだった、いやさ流し込むようだった。胃腑はおろか五臓六腑に沁みわたるような甘さと温もりに、にとりの頬がゆるゆるとほころんでゆく幸せそうな様子を見て、魔理沙もいくらか安堵したようだった。なんだかんだで、腹の底から温まると至福を感じるのは、ニンゲンだろうと妖怪だろうと同じらしい。

「……」
「今度はなんだぁ?」
「……ごちそうさま」
「よし」

なにが嬉しいのか、満足気に頷く魔理沙は、食休みを堪能するにとりの手を引いた。

「朝飯も済んだし、そいじゃー出かけるとしようか」
「へ!?」
「食休みがいるほど食べちゃないだろ」
「いや、そうだけど……どこに?」
「件の場所さ」

人間の……――草庵。言葉でこそ言い表さなかったものの、魔理沙の言わんとする目的地を察するのはあまりに容易だった。それはもう残酷なくらい。

「………………やだよ」

俯き小さく首を振る。

「なんでさ?」
「それは………………」
「にとりの友人とやらがいないから、か?」

蚊が泣くよりもか細く頷いたにとりを、魔理沙は強引に立ち上がらせた。

「確かにいないかも知らん。それでもにとりにゃ大切なんだ」
「……?」
「そうさなぁ。健気にも自分に好意を抱いてくれた少女になんら残すモノなくこの世を辞するほど薄情なヤツじゃないんだろ、ソイツ。少なくともにとりん中じゃきっと、そんな奴じゃないハズなんだ。つまり《信ずるならば救われる》ってヤツを探しに行くのさ」

抽象的過ぎて理解しづらい探し物ではあったが、その言葉の響きには理想的な結末が映っていた。それは、例えば。おじゃましますと元気良く開け放った引き戸の内側からこんにちはと物腰しなやかに迎え入れてくれる人間が、囲炉裏の隣に敷いてくれた座布団にちょこんと行儀良く座っているにとりと、いつの間にか用意されたキュウリのお新香なんかをちょいちょいとついばみながら、くだらなくも素晴らしい閑談に花を咲かせたり。水面に垂れ下がった釣糸を見つめる人間の隣で裸足をパシャパシャと水飛沫に絡ませ、実のトコロで釣りをするつもりなど毛頭なくただ秋に染まりつつある幻想郷の豊かな自然に身を任せつつ、やがて日が暮れてきた頃にようやくその日の夕餉に上がる予定の釣果がゼロだと気付くと、河童だてらの水遁を披露したにとりが人間までグショ濡れにしてしまったり。夕飯を御馳走になったあとの満腹感に浸りながら、明日に備えて今日を終えようと働く人間を何気なく視線で追いつつ、布団を敷く邪魔をしたり手伝いをしたりと忙しく過ごして。妖怪の山に帰る前、にとりはいつだってこう聞いた。

――また明日も来ていい?――

最後の日を、除いて。
だから。
乖離した理想と現実を認識しなければいけないのは嫌だった。
それに……紫が、言ったじゃないか。

「アイツはもう死んじゃったんだよ…………」

だが、魔理沙も強情だった。

「ふん。誰に吹聴されたかは予想できるからな。だからこそ、私たちはあそこへ行くんだ」

綺麗に幕を下ろすためにな、と言う魔理沙の行動は速い。大渦に巻き込まれたように、あれよあれよの内の早業だった。にとりはいつの間にか着替えを済ませ霧雨魔法店の玄関にいる……その横で箒を携えた魔理沙の一言は、いくらかにとりの心を明るくさせた。

「あんな胡散臭い奴の言葉を信じたって毒なだけだぜ」

霧雨魔法店の玄関から二人が飛び立つ。



   ◆[30'/29]◆



人間の草庵へ辿り着くのに、空路は呆気ないものだった。

「ここか」
「ここだよ」

にとりが足繁く通った期間は、一ヶ月にも満たない。
それでも草庵の外観は瞼の裏と脳裏に濃く焼きついていた。

「そいじゃま、おじゃましようか」

ガラリと戸を開く。
当然のように誰もいない。

「予想通りだけどね……」

複雑だった。

「さてと」

袖をまくる魔理沙。
いつの間にやら、帽子ではなく三角巾。

「ちょっと、大掃除でもする気なの?」
「探し物をするのは決まって大掃除の時だ」
「何を探すってのさ……抽象的で分かりにくいよ」
「見つけりゃ判る。にとりも手伝え」

いつにない魔理沙の命令口調にしぶしぶにとりも探し物とやらを探し始めるが、探し物の正体を尋ねても魔理沙ははぐらかすばかりで一向に教えてくれそうもない。そんなちぐはぐの行為が実る理屈などあろうはずもなく、時間ばかりが無駄に過ぎてゆく。

「……ねぇ。魔理沙」

どれほどの時間が経っただろうか。
家探しの騒々しさを払ったのは、にとりの一言だった。

「もう帰っても、いいかな」

魔理沙が振り向くと、にとりが笑っていた。
傍目に見ても無理をしているのが、痛々しかった。

「もういいじゃん。私なら、大丈夫だよ。だってほら、私は河童だけど人間はニンゲンだったんだから、そもそも寿命が違うんだよ? いつかはこうなってたんだって、それがたまたま昨日だっただけで、さ。……魔理沙、ありがと! 私を元気づけるためにこんなことしてくれたんだよねっ、いやーほんといい友達をもって幸せだなー私!」

びっくりするほど空々しい台詞がよくもまぁ並ばったものだと、にとりは独り心の内で自嘲した。それでも、半分は本音だったのだ。種の違いは時として越えられぬ壁となる。幻想郷に住むモノなら多かれ少なかれ心得ているはずなのに。

「……違ぇよ」

ふと気付くと、魔理沙が静かに拳を握りしめていた。

「ぅ……な、なにがだよう……?」

その姿勢に並々ならぬ威圧感を覚えて、にとりはうろたえた。
堅く握ったせいか、鬱血した手のひらをゆっくりとほどき、魔理沙は問うた。

「……。ニンゲンが、さ。死にたくない理由を知ってるか?」

判らない。……判らなかったことに、愕然とした。
だけど、にとりがそう答えるのを待たず、魔理沙は続けた。

「後悔したく無いからだよ」
「後悔……?」

そう、と魔理沙は天井を仰いだ。

「健常なニンゲンが長生きしたところで七十年ってのが関の山だ。ましてや、誰も彼もがそれだけの時間を生きられるワケじゃない。不慮の事故に遭わないとも限らないし不治の難病に罹らない保証もない。それでも結局、あたりまえだけど、死は誰にだって平等なのさ。ただ――……。早くに夭逝すれば、人はその先に拓けていたであろう可能性を惜しむ。大往生だったとしても、人はそれまでの人生で培った知識の喪失を惜しむ。ニンゲンの死にはいつだって後悔が憑き纏うもんだ」

未来に秘められた可能性を。
過去から培ってきた知識を。
失うことにどれだけの悔恨を抱くのだろう。
考えたことも無かった。
なぜならにとりは妖怪だから。

「だからさ、にとりの友人もそうだったんじゃないのか?」

人間をニンゲンとして観察すれば。将来有望で博識な研究者。培った知識と、秘められた可能性。あの瞬間の幕引きが彼にとって後悔に値しなかったなどと、誰が断言できるのだろう。

「それに、思い出してみろよ。八雲紫はにとりの友人が消えた原因を《死んだ》とか《殺した》とか……物騒なことを言ったのか?」

昨晩の出来事がスナッフフィルムのように脳裏をよぎる。
それでも、魔理沙の言う場面に該当する記憶は……無かった。

「なら、簡単な話だよな」
「……」
「にとりの友人とやらは、元の世界に帰っただけ……なんだよ」

それは、きっと。
《信ずるならば救われる》というヤツ。
残酷だけど、どこか優しい、解釈。

「うん……そだね」

“人”はそれを、嘘と言うかも知れないけれど――……。
少なくとも、いまこの瞬間のにとりにとって、それは真実となった。個々人々によって解釈の異なる物語なら、バッドエンドよりもグッドエンドの方が心に優しいに決まっていた。

「ふさいでた反動かな、お腹すいちゃったよ!」

努めて明るく、にとりは破顔した。
魔理沙は少し肩を竦めたが、それでも調子を合わせてくれた。

「はは、それでこそにとりだ」

気がつけば、正午を一刻も廻っている。

「それにしても本当に腹が減ったな。この草庵、なんか無いのか?」
「あー……えっとね、魔理沙!」

かくかくしかじかで何もないんだよ、と紫の所業を白日の下に曝そうとした時。囲炉裏の上に吊り下げられた鍋の蓋をコトリと開けた魔理沙が、呆けた声を漏らした。

「あ」

つられて、にとりも。

「え」

にとりと魔理沙は、思わず目を見合わせた。
鍋の中に二人が見つけたもの、それは封書だった。
『河城にとりさんへ』
達筆で記された文字が、白紙に黒々と存在を誇示していた。
手書きで論文を綴じていたから――そう考えると達筆にも納得できる。

「……」

神妙な面持ちで……魔理沙は封書を取り上げて、にとりに渡す。
私が読めるもんじゃない。魔理沙は無言でも表情は語っていた。

「……」

封書を受け取ったにとりの心情は察するに余りあったのだろう。
封を開け、収められていた手紙を読み、天井を仰ぐにとり。
涙を堪えようとしているのか、それとも感慨に耽っているのか。
迂闊に内容を尋ねることができない魔理沙だったが……やがて。

「ありがとうだって」

意外にも、魔理沙を見据えるにとりの瞳に、潤んだ痕跡は無い。

「そっか」

他にも書いてあることはあっただろう。
しかし、それ以上は全てがにとりの物だ。
喜びも、悲しみも、哀しみも、歓びも。
全て呑み込めたような、儚い表情だった。

「んじゃあ、帰ろうか」

どちらからともなく、がらんとした草庵を退く。
その去り際、振り向きざまに魔理沙が訊いた。

「……探すんだろ?」

なにを、とは返さない。
にとりはただ、微笑んで。

「うんっ」

草庵の外には、赤く色づいた夕暮れが広がっていた。戸を閉める役割はにとりに任せ、魔理沙は箒に跨り、軽く手を振った。それに応えて手を振り返していると、やがて、にとりと静寂だけが草庵の前に取り残された。

「なんて言うか、さ」

開きっぱなしの戸を前に、主を失った草庵は何を思うのだろうか。

「……いいや。なんでもない、よ」

決心すると戸に手をかける。
ギィ、と軋む木音。

「……っっ」

思い出の舞台が狭まってゆくにつれて、堪えきれたハズの涙が、ぼろぼろとにとりの瞳から零れていた。それでも、躊躇うことはない。なぜって。この感情は……この想い出は……あの幸せな時間は、途切れることなくにとりの中に宿り続けるに違いないのだから。
だから――戸が、思い出が、完全に閉じる直前。

「……またね。…………………………………ひとま」

ばいばい。



   ◆[-X'/29]◆



(追記)

【以下、同論文では、このA=Bを『二鳥』と記述する)――AでもありBでもある矛盾を宿したこの混合生命体キメラ『二鳥』は、孵化から十時間のち眠るように死亡した。以上の実験結果より、混合生命体はその構造の単純さ複雑さにかかわらず、総じて短命種であると予想される。】

                最終論文『KIMERAⅡ』―実験報告― より抜粋
にとりはニンゲンが好きだと言うけれど、ニンゲンはにとりに好いて貰えるほど上出来なのでしょうか。
もしもにとりのように『ニンゲンを好きだ』と言ってくれる人外と接触する機会が得られたなら。
幻滅させないようなニンゲンに・社会に・世界になりたいですし、なって欲しいものです。

ではでは、【にとりキメラ】を最後まで読んでくださった皆様に感謝をこめて、またいつか。


追記(2011/7/7)
蛇足だと思っていた部分の大幅な加筆修正をしました。
コメントをくださった方、申し訳ありませんm(_ _)m
ヶ原
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コメント



0.650簡易評価
5.80名前が無い程度の能力削除
理知的な雰囲気が素晴らしいSSでした
紫が幻想郷に固執する理由付けについては賛否あると思いますが設定としては面白かったです
後魔理沙がカッコ可愛い
8.100名前が無い程度の能力削除
これ、凄く好みなSSです。
salomeさんとか、レグルスさんのSSに共通する雰囲気というか。
これからもどんどん書いてほしいです!!
10.60名前が無い程度の能力削除
言葉使いが匂って、命への執着の件で確信させられたせいで、魔理沙の戯言は始まった時点で結末が予測できてしまった。
コピーは楽しいかもしれないけど自身の個性の欠落はもったいないかと思う。
たぶん、電灯とシャンデリアの位置が入れ替わってる。面白かった。

だらだら書いちゃったけど俺の勘違いだったらごめん。
14.100名前が無い程度の能力削除
これは…

いや、すごい。 上手く説明出来ないけどすごい。

にとり が完璧に にとり である気がしました。

にとり、人間、そして幻想郷。 ……考えさせられます。
16.100名前が無い程度の能力削除
コレは…
とても悲しくもあり暖かくもある話でした…
本当に何なんでしょうねニンゲンて…
17.100パレット削除
 恋をした河童にきっつい問いかけをする……。
 面白かったです!
19.100名前が無い程度の能力削除
いいわこれいいわ