一作目は作品集144
二作目は作品集148 にあります。
【 登場人物 】
犬走椛:白狼天狗。下っ端なのだがどこかふてぶてしい。妖怪の山の初期からいて、白狼天狗の中でもかなりの先輩。
スペルカードが二枚しかないことを実は気にしている。文にはあまり良い印象を持っていない。
射命丸文:鴉天狗。新聞記者。人付き合いが上手く、豊富な人脈を誇る。いい意味で強かな性格、悪い意味でずる賢い性格。
弁が立ち、口論で彼女を負かせる者は妖怪の山には殆どいない。椛に好意を抱いている。
姫海棠はたて:鴉天狗。最近まで引き篭もっていた。低血圧平熱低い系女子。現在、新聞作りを椛に手伝ってもらっている。
超重力化の環境に素早く適応したり、麻雀が異常に強かったりとおかしな方面でポテンシャルが高い。
河城にとり:河童。メカに強い。色々作れる。椛の友人。
大天狗:椛の上司。椛とは長い付き合い。独身であることを指摘するとキレる。椛のことを『モミちゃん』と呼ぶ。
天魔:見た目は幼女だが、天狗の中で最も年配。天狗組織の統括者。天狗の中で一番強い。
【 episode.1 INDY JONES 】
書類を届けに大天狗が常勤する部屋までやって来た犬走椛。
「失礼します。回覧を返却しに来まし…って、なんですかこのニオイ」
襖を開けると、濃いアルコールの香りが鼻腔を突いた。
見れば妙齢の女性が、一升瓶をあおっている最中だった。
「真昼間からお酒ですか大天狗様」
「飲まなきゃぁね。こっちはやってられないのよ」
大天狗と呼ばれたこの女性こそが、椛の上司であり、天狗社会を統括する権力者の一人であった。
武力、知力ともに天狗の中でずば抜けており、部下からの信頼も厚いのだが、
自身が独身であることを気にしており、その節で暴走することが珠にキズだった。
今の飲酒行為もそれに関係あることだろうと椛は長年の付き合いで察しがついていた。
「なんで私にだけ良い出会いがないのかしら? この山には豊穣や厄の神はいるのに、ロマンスの神様はいないわけ?」
「多分、八百万の中に含まれていないかと」
「じゃあ誰かリストラして、代わりに入れましょう」
「そんな無茶苦茶な」
大天狗の背後には沢山の空き瓶が転がっていた。
すでに相当な量を飲んでいる。
それでも呂律が回るのは流石だと椛は感服する。
「今日もまた一段と荒れてますね。何があったんです?」
「さっき、白狼天狗の子が結婚するって報告に来たのよ」
たった今空になった一升瓶を後ろに捨てて新しい瓶を掴む。
蓋を開けるのではなく、そのまま瓶の首を親指で捻じ切ってイッキを始めた。
中身が半分に減ってから、ようやく大天狗は口を離し、タンッと勢い良く瓶の底を畳にぶつけた。
「いつまでも結婚できない私に対する当てつけかしらッ!?」
「なんですかその被害妄想。あなたは大天狗様というとても偉い方なんですから、報告するのは当然じゃないですか」
「そう、ソレよ! それが原因!」
アルコールの息を撒き散らしながら椛を指差す。
「はい?」
「この年になっても未だに独身の原因は、私が『大天狗』だからよ!」
「えーと、つまり?」
言葉の意味がわからず尋ね返す。
「私が大天狗という地位にいるから、世の男が遠慮して寄ってこないのよ。間違いないわ」
(果たしてそれだけなのだろうか)
そう思いつつも相槌を打っておく。
「ん、ちょっと待って。じゃあ私が大天狗だと相手が知らなければ恋愛に発展できる可能性あり?」
大天狗は急に考え込み始めた。
「大天狗様の顔を知らぬ天狗がこの山にいるんですか?」
「なるほど、つまり顔を見られなければいいわけね。流石はモミちゃん、良い事言う」
「そういう意味の申し上げたのではなく…」
大天狗は寝転んで、部屋に隅に積まれた新聞紙を手繰り寄せる。
「最近、鴉天狗の新聞でこんな枠を見つけたのよ」
「文通相手の募集、ですか」
文通相手を見つけるサービスだった。
どうやら、顔を見せないで異性との接触を試みるつもりらしい。
「よし、早速プロフィールを書いて応募を…おうっ!」
必須事項と書かれている項目を見て、大天狗はのけぞった。
「年齢もちゃんと書かないといけないみたいですね」
「私の年齢はこの山においてS級機密事項。おいそれと書けないわ。というか書いたら一発でバレる」
「桁が一つ違いますもんね」
完全に頓挫した。
「あ、そだ」
何か妙案でも浮かんでいるのか、椛の顔をジっと見る。
「モミちゃんのお友達に河童の子がいたわね?」
「河城にとりですか?」
「彼女がね、遠くにいる相手と会話できる通信機を持ってるそうなのよ」
かつて、間欠泉の異変の折、河城にとりが人間にそれを持たせて解決に向かわせたという話を小耳に挟んでいた。
「その通信機とやらを使って何をするんです?」
「まず通信機をわざと落としてイケメンな天狗に拾わせ、通信機を介して、色々な話をして仲を深めます」
「文通に似てますね」
文通より優れている点として、相手が拾った通信機を届けに来てくれるため、確実に出会うことが出来る。
「届けてくれた時、はじめて私が大天狗だということを打ち明けます。そしてお礼がしたいと食事に招待します」
「それだと、ただ食事してさよならって可能性もありません?」
「大丈夫、良く効く睡眠薬持ってるから」
「何する気ですか」
酔っているからそんな発言をしている。そう信じたい気持ちで一杯になる。
「だからにとりちゃんから、その通信機を借りてきて欲しいのよ」
「今からですか?」
「うん、お願い」
今の大天狗を見ていると、すごく居た堪れない気持ちになるので、引き受けることにした。
椛がにとりの家を目指して出発したのとほぼ同時刻。
妖怪の山でも人気がほとんど無い場所で、射命丸文と姫海棠はたては対峙していた。
「あなたとは、いずれこうなる運命だと思っていました」
腕を組みし、はたてを見据える。
「逃げ出さなかったことだけは評価してあげましょう」
「ちょっと待って。話が見えない、こんな所に呼び出して何なの? この手紙は何?」
今日の朝、家のポストに『果たし状』と書かれた手紙が投函されており、ここに呼び出されたはたて。
「姫海棠はたて! あなたには二つの罪があります!」
「二つ?」
「まずひとつッッ!!」
文が声を張り上げたのではたては身をビクリと震わせた。
「先週の河童の水泳大会の取材の折! 椛さんと何をしていた!!」
「何って。一緒に大会の取材をしてたけど」
河童同士で泳ぎの速さを競う大会があり、はたては椛と共にその取材を行っていた。
文も取材のため、その場にいた。
「回し飲み!!」
「へ?」
「椛さんの水筒の水、飲んでましたね!!」
「うん、私の水筒の水が無くなったら、椛が『よろしければどうぞ』って、それで」
「川の水でも啜ってろ!!」
間接キスしたことが相当許せないらしかった。
「そしてふたつッッ!!」
テンションが上がってきて軽やかなフットワークでシャドーボクシングをはじめる。
「椛さんを家に泊めましたね!?」
「手伝ってくれないと入稿に間に合わなかったから」
新聞の印刷所締切日がさし迫っており、椛が徹夜して手伝ってくれた日があった。
「椛さんを寝かせず、熱い夜を過ごしたんですね!?」
「なにその言い回し」
「椛さんと嬉し恥ずかし朝帰りするのが、私のドリームカムトゥルーだった!!」
「いったん落ち着こう。ね?」
「弁解があるなら。死後、閻魔様の前でしてもらいましょうか!」
文の姿が消える
「ッ!」
背筋に冷たいモノを感じたはたては体を大きくひねり、背後から迫っていた文の抜き手を紙一重でかわす。
「ふむ、今のをかわしますか」
かすってもいないのに、はたての袖が裂けていた。
「あなたを過小評価していたようです。どうやらハンデは不要」
文は足を振って下駄を脱いだ。地面に落ちた下駄は鈍い音を出してめり込んだ。
「普段からこんなのを?」
「驚くにはまだ早いですよ、重いのは下駄だけではありません」
頭襟、服の飾りと次々外していく。ずべてが地面に鈍い音を立てる。
「まだまだ、もっと軽くなりますよ」
カメラを投げ捨てた、ガシャンと音がしてフレームが外れた
「ああっ!!!」
その音で、調子に乗って大事な商売道具まで放ってしまったことに気づく。
「うぅ。なんたる失態」
壊れたカメラを拾う。自力では修理できそうになかった。
「大丈夫?」
「弱りました。明日は大事な取材があるのに」
「にとりの所に行く?」
「そうですね」
カメラが壊れたショックで、文は普段の冷静さを取り戻した。
河城にとり宅の前に到着した椛。
「にとりー、居ますかー?」
ドアをノックするが返事はなく、工房側にも回ってみたが居る気配は無い。
「あら椛ちゃん」
買い物カゴを肘から掛けた、長い髪の女性が声をかける。
「あ、ご無沙汰してます村長」
偶然通りかかった河童の長に会釈をすると、彼女も朗らかな笑みを返す。
「にとりちゃんに何かご用?」
「はい、貸して欲しい道具がありまして」
「まーそうなんですか」
村長は困った顔を浮かべ、手を頬に当てた。
「にとりちゃんなんだけど、昨日『良いアイデアが浮かんだ、しばらく一人で没頭したい』と言って“あの場所”に」
「なんと!」
“あの場所”という意味を知っている椛は青ざめた。
「何時ごろ戻ってくるか伺ってますか?」
「ごめんなさい、そこまでは」
過去、半年以上そこにいたことがあった。今回も何時までかかるかわかったものではない。
「わかりました」
「もしかして“あの場所”に行くつもり? 危険だから止めたほうが」
「上からの命令ですので。色々とありがとうございました」
「うん、気をつけてね。無理しちゃだめよ」
村長にお辞儀をして、椛はその場所に向かった。
にとりの家の裏手。
押入れ程度の大きさの物置の前で鴉天狗二人と出会った。
「お二人もにとりに用が?」
「ちょっとカメラの修理をお願いしに、それにしても」
文は物置を忌々しそうに見る。
「まさか彼女はこの中に?」
「はい。昨日からだそうです」
「それはまたタイミングが悪いですね」
嫌な汗が流れる額を天狗団扇であおいだ。
「ただの倉庫みたいだけど?」
二人が何故そんな様子なのかわからず、はたては首をかしげた。
「はたてさん、ここに来るのは初めてなんですか?」
「うん。文の付き添い」
「でしたら、ここでお別れです」
「え? そ、その、なんで?」
突然の拒絶の言葉に、はたては狼狽する。
「ここは地獄の入り口です」
戸を開けると、地下に続く階段が現れた。
「最下層の部屋ににとりはいます。その道中が大変危険なのです」
「それでも行ってみたい」
はたて自身、ここで仲間はずれにされるのは嫌だった。
「駄目です。私や文さんと違い、あなたには無理を押してまでにとりに会う理由がありません」
悲しそうな表情のはたてには悪い気がしたが、彼女のためを思い、引き返すように言い聞かせる。
「まあまあ、良いじゃないですか。連れて行ってあげましょうよ」
文が椛の肩に手を乗せ、はたての味方をした。
「はたてさんの身に何かあったらどうするつもりですか?」
肩を振って、文の手を乱暴に払い落とす。
「だからといって仲間外れは可愛そうじゃないですか。大丈夫、彼女は立派な戦力です。自分の身ぐらい自分で守れますよ。私が保証します」
「……」
「それに人数が多いほうが、その分攻略が容易くなるじゃないですか」
そっと耳打ちする。
「はぁ、わかりました」
口の上手い文に自分が敵うわけないと椛は観念し、折れた。
「ですが少しでも危ないと判断したら、すぐに帰ってもらいますからね」
「流石は椛さん。話がわかる」
「ありがとう椛!」
通路が狭いため椛・文・はたての順に一列になって階段を下りる。
「にとりはただ純粋に、集中して開発が行える場所が欲しかったんです」
道中、椛がはたてに迷宮の経緯を説明しはじめた。
「だから雑音の入らないこの地下に工房を作りました、しかし、それだけでは彼女の願いは叶いませんでした」
彼女を頼って山の仲間が地下にやってくるため、求めていた静寂を得ることは出来なかった。
「だから訪問者を驚かせて帰ってもらおうと、ちょっとしたイタズラ程度の罠を仕掛けたんです」
それがすべての始まりだった。
「当然、それでも強引に中に押し入ってくる者がいます。今の私達のように」
攻略される度、罠を改良・強化していった。
「ご存知の通り、にとりは一度凝りだすと夢中になって歯止めが利かなくなる性分」
今では殺傷能力の高い罠ばかりが採用される難攻不落の要塞と化していた。
「本人には悪気も殺意も一切ないのですが…」
ちょうどそこで階段が終り、一枚の扉が三人を出迎える。
「にとりの居る部屋までは一本の道です。仕掛けられた罠を掻い潜って進むんです」
扉には『1面』とが書かれていた。
「去年は6面までありました。今年はそれよりも長くなっているかもしれません」
「ねえねえ」
ある物を発見したはたてが椛の袖を引いた。
「ここにボタンがあるけど?」
そう言って扉に付属している丸いスイッチを指差した。
「『御用のお方は押してください』って書いてあるよ? インターホンじゃない? 押してみ…」
「駄目です!!」
「 ッ!? 」
ボタンを押そうとしたはたての手を文が慌てて掴んだ。
「ど、どうしたの文?」
文も椛同様数少ないの攻略者の一人であった。故に地下の内情は詳しい。
「トラップです、見ててください」
破ったメモ帳の切れ端をボタンに触れさせると、火花が発生して一瞬で燃えカスになった。
「高圧電流が流れています。最高の初見殺しです」
この施設がどんな場所かを垣間見た瞬間であった。
「では、行きますよ」
椛は二人がうなずくのを確認してから扉を開けた。
《 1面 》
「何も無いね?」
電球で照らされた長い廊下だった。三人がなんとか並んで歩ける程度の横幅しかなかった。
天井も低く、言い知れぬ圧迫感を彼女らに与えていた。
「奥に扉があります」
椛の眼がずっと先にある出口を捉える。
「慎重に進みますよ。窪みや色が違う床は絶対に触れたら駄目です」
椛は足元を、文は左右の壁を、はたては天井を、それぞれが重点的に見つつ前に進んでいく。
ドアから10メートルほど離れた時だった。三人の背後でズドンと大きな音がした。
三人同時に振り返る。
「鉄球!?」
音の正体は、通路を塞げるほど大きな鉄の玉だった。
それが三人の方に傾き、徐々にスピードを上げながら近づいてくる。
「「「うわあああああああああ!!」」」
全力で出口に向かい走り出した。飛ぼうにも狭い通路に三人では不可能だった。
「文さん、風! 自慢のスペルカードでなんとか!」
「無理ですよこんな狭い所で!! それよりも椛さんの剣でズバっと!」
「出来るわけないでしょうあんな鉄塊相手に!」
走りつつ一度だけ振り返ったはたてはある事に気づいた。
「ねえ、あの鉄球。『尻子玉』ってマジックで書いてるよ!! 斬れる! 斬れるよ椛!!」
「あんなデカイ尻子玉があるわけないじゃないですか!! にとりがふざけて書いたんですよ!」
「試してみましょうよ椛さん! あなたなら出来ます!! 桃みたいにサクッと!」
「ああ、もう! これで違ってたら承知しませんよ!」
その言葉を信じ、椛は身を翻し抜刀する。
「オリャ!」
槍投げの要領で、鉄球めがけて剣を投擲した。
甲高い音を立てて剣は弾き飛ばされた。
「やっぱり鉄じゃないですかぁ!!」
慌てて反転し、先を走る文たちの後を追う。二人はもう結構先まで進んでいた。
去り際に、相棒を失った鞘を床に突き立てて足止め目的で設置するが、鉄球はそれを簡単に破砕した。
一番最初に扉に着いたのは文だった。
「なんですかこのドア!?」
扉はバルブ式で、大きなハンドルを回転させないと開かない設計になっていた。
「文、急いで!」
「そう言われましても」
ハンドルを何周も回すがまだ開きそうにない。
「なんでここで止ってるんですか!?」
ここで椛も二人に追いつく。
鉄球は三人の背後まで迫っていた。
今、扉を開けても、三人が逃げ込める時間は無さそうだった。
「「「せーー」」」
生命の危機を感じたとき、三人は無意識の内に軸足を中心にして体を回していた。
「「「のッ!!」」」
引き締まったしなやかで美しい三本の足が鉄球を蹴った。
なんの目配せも合図もしなかったのにタイミングは完璧だった。
「止まった?」
はたては恐る恐る足を離す。
鉄球は完全に押しとめられていた。
「天狗の三人分の蹴りですよ。止められて当然です」
そう言って文はハンドルの最後の一周を回し終えた。
「これが1面とは、先が思いやられますね」
鉄球の部屋をようやく三人は脱出した。
「ここの道は大丈夫なの?」
1面と呼ばれる部屋を出てから、椛と文は警戒せず通路を進んでいた。
「ここはドロップアウト希望者を外に送るための場所なんです。だから罠が無いのです」
文が壁を指さすと、そこに『お帰りはコチラ』と書かれた扉があった。
「ステージとステージの間は、すべて地上に続く通路があります。ここはいわば休憩スペースです」
「そうなんだ」
そしてすぐ『2面』の扉が現れた。
椛は開ける前にはたてを見た。
「先程みたいなのがこれから続きます。引き返すなら今ですよ?」
その問いにはたては首を振った。
「わかりました」
それ以上は何も言わず、椛は扉を開けた。
《 2面 》
「おや?」
茶室程度しかない狭い部屋だった。
たった数歩で出口の扉に到達できる距離であったが、三人は部屋の入り口で立ち止まり、そこから一歩踏み出すことを躊躇していた。
「なにコレ?」
原因は部屋の中央に置かれた二頭身の像だった。
頭に皿を乗せ口が尖っている、いかにも河童という井出達の像だった。『ニトえもん』と書かれた名札が胸についている。
『ニトえもん』は口をあんぐりと開けており、その喉にはボタンがあった。
手には『進みたくばボタンを押し、勇気を示せ』と書かれたプラカードを持っている。
「喉のスイッチを押せば、出口の扉が開くのでしょうか? ん?」
文がそう推察した時、像の右目に変化が起こった。右目には『残り120秒』と表示されていた。
それが『残り119秒』『残り118秒』とカウントを始める。
「え? どういうこと? まさかこの置物が爆発するとかないよね?」
「にとりなら爆発物くらい簡単に作れますからね。その可能性もあります」
椛は像の口を覗き込む。
「文さんが仰ったように、このボタンを押せば止まるのでしょうね。しかし…」
プラカードに書かれた『勇気を示せ』という言葉が気になった。
「押した者にどんな災難が降りかかるか」
最初の高圧電流の流れるインターホンを思い出す。押した者はタダでは済まない気がしてならない。
「棒か何かで押せない? ペンなら持ってるよ?」
「無理です、ボタンが結構奥にあるので、結局は手を入れることになるかと」
そうこうしている間に、時間は残り90秒を過ぎていた。
緊迫した空気が場を支配する。
「ここは私が押します」
切迫する事態の中、椛が手を上げて志願した。
「新聞記者であるお二人の手に万が一のことがあっては一大事です」
「そんなの駄目!」
その決断にはたてが待ったをかけた。
「剣が握れなくなったらどうするの!」
「私の代わりなど掃いて捨てるほどいます。気遣いは無用です」
「馬鹿なこと言わないで!! それなら私がやる! 利き手さえ無事ならなんとでもなるし!!」
はたても手を高らかに挙げて立候補した。
「いけません! 他の天狗の盾となるのが白狼天狗の務め!」
お互いに手を挙げて譲ろうとしない二人。
「はぁ…まったく」
このやりとりを見て、文は呆れたと言わんばかりに溜息を吐いた。
「こういう危険な仕事はですね、幻想郷最速の私に任せればいいのですよ」
文も手を掲げた。
「どうぞどうぞ」
「どうぞどうぞ」
はたてと椛は同時に手を下ろした。
「え?」
「文さん、急いでください残り30秒ですよ」
部屋の隅で丸盾を構えながら椛は言う。
「さっき見せたあの決意表明はなんだったんですか!? おもいっきり盾で自分自身を守ってますし!」」
「文さんがやりたいって言うから仕方なく、ああ全く残念です」
「ぐぬぬ」
「残り15秒、文、早く早く」
椛の背後に隠れるはたてが急かす。
「えーい、ままよっ!」
腕を口に押し込んでボタンを押す。
その瞬間カウントが止まり、扉が開いた
「文さん?」
「文?」
像に手を入れたまま微動だにしない。
「あのー、大丈夫ですか?」
椛が肩にそっと手を置く。
「指が! 私の指が!! 指がぁぁぁ!!!」
文は高速で手を引く抜くと、椛の目の前でぶんぶんと振り回した。
「うわわわ!!」
「ひいいい!!」
驚いた椛は顔を引き攣らせ、はたては腰を抜かす。
「なんともありませんでした♪」
無事な手を見せてにっこり笑った。
2面を出てからの通路。
「心臓が止るかと思ったじゃないですか。無事なら無事って言ってくださいよ」
椛の抗議に、はたてもコクコクと頷く。
「自分達だけ助かろうとした報いです」
二人の慌てふためく顔を見られたので、文はそれで満足していた。
「文さんがノリノリで立候補したんじゃないですか『幻想郷最速の私に任せればいいのですよ』って格好までつけて」
「それはそれ、これはこれです!」
軽口を言い合いながら、三人は『3面』の扉を開いた。
《 3面 》
1面と同様、低い天井に細長い廊下が彼女らを出迎えた。
「寒い」
最初に部屋に入ってまず感じたのがそれだった。吐く息は白く、気を抜けば口がガタガタと震えてしまう寒さ。
「ここ絶対にマイナスいってますよ」
数分も居たらどうなるかわかったものではない。
「早く出ましょう。幸い、出口も近いですし」
25m先に扉があった。
「ねえ、あれ」
はたては二人の袖を引き、たった今潜った入り口を指差した。
扉を含めた壁一面に鋭く長い氷柱のようなトゲがびっしりと生えていた。
「これってどういう…うわっ!」
突然床がトゲだらけの入り口に向かって動き出した。
(ベルトコンベア!?)
河童の工場に設置されている機械にこんなのがあったことを思い出す。
「文さん、はたてさん、走って!!」
止っていたら入り口のトゲに串刺しにされる。
「言われなくても!」
「また走るの!!」
再び三人は駆け足を開始する。
ベルトコンベアの速度は速く、なかなか出口までの距離を詰めることが出来ない。
「こんなの飛べばいいじゃないですか」
痺れを切らした文がそう思い、飛び上がった瞬間、彼女は集中砲火を受けた。
「痛たたたた」
天井からにとりが使うのと同じ、緑の弾幕が襲って来た。
文の足が床につくと弾は止んだ。
「飛んだら駄目ってことでしょうね」
ここの設計者はどうしてもベルトコンベアの上を走らせたいようだった。
何があっても対応できるよう全力疾走はせず、一定のペース配分で走る。
「全然進んでる気がしない。空気薄い」
「頑張りましょうはたて、この方法が一番安全ですから」
「走ってばっかりで、お腹が空い…あっ!」
正面から何かが流れてきた。
「河童巻きだ」
キュウリを使った寿司が皿に乗って三人に向かってくる。
「文さん、これって」
「ええ、百パーセント罠です」
「おいしそう」
「「へ?」」
寒さと酸欠で判断力が鈍ったのか、そんなことを言うはたて。
「ちょっと! 何食べようとしてるんですか!」
「でも恵方巻きサイズだよ! お得だよ!」
「食べたら駄目です! 罠って今文さんが言ったじゃないですか!」
はたてのすぐ足元までやって近づいてきた。
「わかった、食べるのやめる。お醤油ないし」
「そういう問題ですか?」
ピョンと皿を飛び越えた。
そして背後にある壁にぶつかった瞬間、寿司が破裂した。
「ひぃ、爆発、爆発した!」
「にとりさん何考えてるんですか!」
「またなんか来ましたよ!」
流れてきた黄色い物体を椛は指差す。
「バナナ?」
中身である果肉が無い、バナナの皮だった。
「なんて古典的な罠。あんなのに引っかか…はたて?」
バナナの皮を見るはたての目がウズいていた。
「踏まないと、私は引き篭もりを止めて空気の読める女になったんだ、踏まないと。みんなの期待に答えないと」
「あの、はたて?」
「逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ、逃げちゃ駄目だ」
「逃げて良いですから! 誰もそんなあなたにそんな要素求めてないですから!」
「目標をセンターに入れてスリップ、目標をセンターに入れて…」
「でりゃあ!!」
はたてが踏むよりも先に、椛が皮を蹴飛ばした。
「はたてさん、気をしっかり持って!」
「ハッ! 一体私は何を?」
「良かった、戻ってくれた」
このとき、椛は気づかなかった。蹴った皮が壁から生えているレバーに引っかかったことに。
ゴリゴリという、ベルトコンベア以外の奇妙な機械音がしだして、三人は上を見た。
「降りてきてません、天井?」
「「ぎゃあああああああああああああああああああ!!!」」
生命の危機を感じて、三人は温存していた体力を開放する。
最初に出口にたどり着いたのはまた文だった。
今回は引きドアだったため、簡単に開いた。
「二人とも早く!」
「そんなこといったって……ぐはっ」
はたてがバランスを崩し前のめりに転んだ
「はたてさん!」
椛が彼女の腕をなんとか掴んだ。
そのお陰で流されず済んだが、ベルトコンベアが容赦なく彼女の表面を擦った。
「いだだだだだだだだ! 擦れる! 擦れる! 摩り下ろされる!」
「もう少しの辛抱です!」
「椛さん、この手に!」
出口から文は限界まで手を伸ばす、それがギリギリのところで椛に届いた。
「引きますよ!」
二人の体を文は受け止める。
その直後、通路は天井に潰された。
「絶対に20キロ以上走りましたよ」
完走した椛は壁に背中を預けて息を整える。
「はたて大丈夫ですか?」
文は壁と向かい合ったまま倒れるはたてを見る。
先ほど転んだ時に鼻を強打して鼻血が出てしまい、今鼻にティッシュを詰めている状態のため、その顔を二人に見られたくなかったから、この姿勢だった。
「生きてます?」
その声に答えるようにはたての手が動き、壁をなぞる。指先には血が付着していた。
―――大丈夫
「鼻から出た血でそんなこと書かれても、というかダイイングメッセージにしか見えません」
―――あと少ししたら動けそう
「しかし、無駄に器用ですね」
―――薔薇 憂鬱 麒麟 髑髏 顰蹙
「どうして毎回おかしな方向にばかり才能を発揮させるんですかあなたは」
そこから先も、様々な試練が三人を襲った。
『床が抜けたぁぁ!!』
『赤と青、どっちのコードを切ればいいんですか!?』
『石像の目からレーザーがッ!』
『ひっ、着地地点にワイヤーが張ってあった!』
『土管から見たことの無い植物が!!』
『気をつけて! 敵は光学迷彩を着て、私達を狙っています!』
『せっかくなので私はこの赤い扉を選びます!』
『何この部屋、声に反応して針が床から飛び出してくる!?』
『ヒグマが溜めパンチの姿勢で扉の前にッ!!』
『この臭い? まさかガソリン!?』
数々の難所を突破してついに『6面』までクリアした。
「やはり増築されてましたか」
三人の前に『EXTRA』と書かれた扉が出現した。
「さっさと終わらせましょう」
臆することなく入っていった。
《 EXTRA 》
「ピピーンピピーン。カッパロボダヨ! ドンナテキデモヤッツケチャウスゴイヤツダヨ! ピピーンピピーン。カッパロボダヨ! ドンナ…」
謎の機械人形であったが動揺など一切無なかった。
はたてが足を払い、椛が腰を穿ち、文が頭を砕き一瞬で鉄クズに変えた。
「いきましょう」
「うん」
「ええ」
これまでも困難が、三人の連帯感を極限まで高めていた。
「えーと、ここを動かすのに2.2KW必要だから……あちゃー、これじゃあ動力盤が予定より大きくなっちゃう。軽くしたかったのになぁ」
設計図を見ながら、河城にとりは発明品の構想を練っていた。
「にとり」
「うわっ! 皆、どうしてここへ!?」
満身創痍の彼女らを見て持っていたドライバーを落とす。
「コイツを倒せば次のステージに…」
「待ってくださいはたてさん、ここが終点です! もう終わったんです!!」
にとりを襲うとするはたてを羽交い絞めにする二人。
「にとりさん逃げて!」
「う、うん」
状況はイマイチ飲み込めないが、真剣に身の危険を感じたので、脱出用の隠し通路に向かう。
「あ、その前に通信機を貸してください」
「そこの棚にあるから持てって」
「ありがとうございます」
「私のカメラを修理してください。出来れば今日中に」
「予備のカメラが何台かあるから好きなの選んで。今度直したげる」
「助かります。さあ、心置きなく逃げてください」
(次はもっと強力な罠にしないと駄目かなぁ)
にとりの願いが叶う日は、まだ当分先のようだった。
翌日
「失礼します。大天狗様、例の…」
「ごめんモミちゃん、もっと声小さくして、頭に響く。あと襖もゆっくり閉めて」
昨日の自棄酒が祟ったのか、大天狗は二日酔いで半死の状態だった。
「こちら、頼まれていたものです」
通信機を大天狗の前に静かに置く。
「何これ?」
「昨日、にとりから借りてきて欲しいと依頼された品です」
「あーごめん。酔っ払いすぎて完全に記憶が飛んでるわ。せっかくだけど、返してきて」
この時、大天狗は部屋の温度が下がるのを肌で確かに体感した。
「酔ってた時に何か失礼なことしたなら謝るからさ、刀を納めよう? ここ殿中だから、ね?」
壊れた剣の代わりににとりから貰った野太刀を握りしめて肩を震わせる椛は、大天狗の目に夜叉の如く映ったという。
【 episode.2 discrimination 】
「これ来月の哨戒のシフト、詰め所の壁に貼っておいてね」
「はい」
受け取り、自分の勤務時間をチラリと覗く。
「ん?」
椛はもの問いたげな表情で大天狗を見た。
「私の日数がいつもよりも少ないのですが?」
今月よりも非番の日が増えていた。
「モミちゃん、有休ぜんっぜん消化してないでしょ?」
「それが何か?」
「困るのよねぇ。私はどうでも良いんだけど、天魔ちゃんが最近そういうコトにうるさいから」
数年前から天魔は天狗の勤怠管理に注意を払うことになっていた。
「昔から白狼天狗の職場って結構ブラックな所があったから、そのあたりを改善したいんだって」
「いまさらってカンジですけどね」
当時、馬車馬のごとく不眠不休で走り回ることなど日常茶飯事だったが、
今は山の治安も良くなり哨戒が激務になることは無い。
「怪我をしていないのに休みを貰うというのは、なんだか気が引けますね」
歯切れが悪くなる椛。
「出たよアマゾネス発言。別にいいじゃない、わりと暇でしょ? 最近の白狼天狗の仕事は」
「暇ですけど、やるべき仕事はちゃんとあるんです。私が休むと他に負担が回るわけですし」
「若い子にもっと苦労させてあげなさい。最近の子は口を開けばすぐ『ダルイ』だの『帰りたい』だの『ウゼえ』だの『大天狗様可愛い』だの」
「良く聞きますね、最後のフレーズ以外は」
受け取った紙を丸めて筒に納める。
「それでは、哨戒の任に戻ります」
「あ、そだモミちゃん」
立とうとしたところを止められる。
「ここ最近、鴉天狗の子たちと仲が良さそうね」
「それが何か?」
「気をつけなさいね」
普段のダラけた口調ではなく、トーンの低い威圧感のある声色だった。
「ご心配なく、私は下っ端の白狼天狗。彼女たちは我らを使役する権限を持った鴉天狗様。それくらい心得てますよ」
同属の天狗が白狼天狗と対等の立場で接しているのを快く思わない者達がこの山に大勢いることくらいわかっている。
「なら良いのよ。そこんトコ忘れないで頂戴」
「ご忠告、痛み入ります」
その言葉を聞き、大天狗はいつもの様子に戻った。
「しっかし、良い時代になったわね。昔は上下関係や古臭い精神論の五月蝿いジジイとババアばっかりだったし」
妖怪の山史上、最も最悪だと呼ばれていた頃をふと思い出す。
「そういう話するから、お年寄り扱いされるんですよ」
明らかに不機嫌だとわかる声でそう言って、立ち上がる。
「そうかもね」
あまり触れたくない過去を持つもの同士、それ以上この会話を続けるつもりは無かった。
「では、失礼します」
「モミちゃん」
「まだ何か?」
「ごめんね」
「……」
何も見ず、何も聞かなかった風を装い、ゆっくりを襖をしめた。
滝にある詰め所に戻る途中。適当な大きさの岩を見つけて腰掛け、そこで昼食を取ることにした。
「良かった人違いじゃなった」
丁度食べ終えた頃に真上から声がかかる、はたてだった。
「お疲れ様」
「はたてさんもお疲れ様です。取材のネタ探しですか?」
「ううん、これから皆と懇親会に」
遠くを見ると数名の鴉天狗がいた。その中には文の姿もあった。
「そういえば、今日でしたっけ」
この日、鴉天狗の間で新聞のコンクールがあった。はたても応募していた。
「花果子念報がね87位だったんだよ、87位!」
「やったじゃないですか!」
椛は思わず飛び上がる。
百位以内に入るのが二人の目標だった。
「うん、だからすぐに伝えたくて」
懇親会会場に向かう途中、椛を見つけ居ても立ってもいられず、仲間を待たせてここまで報告にやってきたのだ。
「おめでどうございます! いや本当にすごい!」
我が事のように喜び、祝福する。
「椛が手伝ってくれたお陰だよ」
「何を仰います。私はただついて回っただけで、ほとんどはたてさんお一人でやってらしたじゃないですか」
今回の新聞品評会は順位を決める大会である。
はたての今の実力を知るために、椛はできるだけ助言・助力をしないということをお互いに決めて製作に取り組んでいた。
「これで花果子念報も人気新聞の仲間入りですね」
「まだまだこれからだよ。でもね、すごく自信が付いた…だからね、椛」
少しだけ、はたての表情が曇る。その意味をすぐに椛は理解した。彼女がこれから言う内容も予想できた。
「新聞作りにも慣れてきたし、これからは私一人で頑張って行こうと思うの。椛もお仕事があるのにずっと付き合わせるのも悪いから」
はたてが一人で新聞を作れるようになるまでのサポート。それが椛が手伝うと約束した期間だった。
今回の品評会は、椛から手離れできるかどうかを測る良い機会でもあった。
結果、はたてはもう立派な新聞記者の一人であることがわかった。
「そう、ですか」
それは嬉しくもあり、どこか寂しくもあった。
もともとは文の命令でしょうがなく始めた手伝いだったが、実際に手伝ってみると楽しいことばかりだった。
「今までありがとう。でも、これからもよろしくね」
「はい! こちらこそ!」
これからは読者という立場で彼女を応援していきたいと椛は思った。
「それでね、次回私が作る新聞で、椛の取材をしたいの」
「私の、ですか?」
「白狼天狗ってあまり記事にされたことないから、みんなに白狼天狗のことをもっと知って貰おうと思ったの」
「えーと、その…」
椛は困った顔をして、頬を掻いた。
「他のテーマにしてみては? ほら、もうすぐ守矢神社でお祭があります。そっちを先に取上げてはいかがです?」
辞退を申し出る。
「どうしても白狼天狗を記事にしたいの」
「いいです、本当にいいですから! 白狼天狗なんて記事にしたって、面白いコトなんてありませんし!」
手を胸の前に突き出してパタパタと振った。
「面白くなるように頑張って作るから」
「私口下手で、上手く話せる自信ないです」
「それでも全然かまわないから」
彼女の性格を知るはたては、新聞に載るのが恥ずかしいから取材を遠慮しているのだと思った。
「どうしても駄目?」
「駄目です。こればっかりは協力できません」
「そんなこといわずに。お願い」
「あ! 大天狗様の話で一つ面白いのがあるんですよ! それを話しますから! きっと皆が腹を抱えて笑いますよ!」
「私は椛を取材したいの、今までお世話になった恩返しがしたいの」
「では尚更。記事だけは堪忍してください」
「大丈夫、文みたいに盗撮とか歪曲した解釈とか誤解を招くようなことは絶対に…」
「嫌だと何回言わせればわかるんですか!!」
強い剣幕で怒鳴った。
一瞬遅れて、周りにいた鳥たちが一斉に飛び上がった。
「…ァ……ェ、ぅ……そ、そ、そそ、の」
はたては何とか言葉を紡ごうとするが、口をパクパクと開閉させるだけで声がまともに出ない。
瞳孔は限界まで開き焦点が合わず、額には脂汗がべっとりと滲んでいた。
引き篭もっていた時期が長く、ようやく対人慣れしはじめたはたてにとって、
親しい椛からぶつけられた恫喝まがいの声は、彼女の精神に大きなダメージを与えた。
「あ、す、すみません、はたてさん!」
椛は自分がやってしまったことの非道さに気づき、はたての両手を握り謝る。
「え? あ、うん!」
いつもの椛を見て、はたてもすぐ正気を取り戻す。気が動転していたのはほんの僅かな時間だった。
「本当にごめんなさい。驚かせてしまい」
手を握ったまま椛は深々と頭を下げた。
「違う、椛は悪くない、無理やり取材しようとした私がいけなかった」
その人にとって触れて欲しくないことをしつこく取材することが、恥ずべき行為だということをはたては知っている。
だから自分に非があることを十分に自覚していた。
「私こそごめんね」
「そんな、はたてさんが謝る必要なんて」
こうして二人は無事仲直り、と本来ならそれで終わるはずだった。しかし今回ばかりはそうはいかなかった。
冷たい視線が椛に集中していた。
文をはじめ、数名の鴉天狗が二人のもとに集まっていた。
下っ端の白狼天狗が、同胞を恫喝した。それが彼女らにとっての事実だった。
「皆、さっきのは…」
「はたて、コイツから離れなさい」
文は事情を説明しようとしたはたての胸倉を掴んで、仲間の鴉天狗がいる方向に突き飛ばした。
「文、今なんて」
強く押されたことよりも、文が椛を『コイツ』呼ばわりしたことのほうがショックだった。
文と椛が相対する。見知った間柄でありながら、お互い、まるで初対面といった顔だった。
「白狼天狗の分際で、わが同胞を威喝するとは何事ですか」
「申し訳ありません」
「言い分があるなら聞きます」
「ございません。すべての非は私に」
もし、この場にいたのが文とはたてだけだったら何事もなく終わるはずだった。きっと文は上手に二人の間を取り持ったはずだ。
しかし今は他の鴉天狗と一緒にいる。全員、椛のことなど知らない。椛など取るに足らない白狼天狗の一匹に過ぎない。
そんな仲間がいる手前、椛には組織で生きる者としてのケジメを取らせないといけない。
縦社会に身を置く以上、彼女だけ特別扱いなど許されない。
「図が高い」
冷淡に文がそう言うと、椛は跪く。
直後、鈍い音がした。
文の爪先が腹に深々とめり込む。
「ぐぅ」
そのまま体をくの字に曲げて、椛は蹲った。
「身の程を弁えなさい」
吐き捨てるようにそう言った。
「大丈夫ですかはたて?」
はたての手を引き、その場を去ろうとする。
「文、あんた」
文を睨みつける。しかし文がそれ以上に鋭い目でにらみ返してきたので、はたての方が萎縮してしまった。
周りの仲間を見る、文の制裁を当然と感じている者もいれば、ちょっとやり過ぎなのではという表情の鴉天狗もいた。
前者は長く生きている鴉天狗たち、後者は若い鴉天狗たちの反応だった。
「行きましょう。とんだ道草でした」
振り返るものは一人もいなかった。
「う、ぐ、ぉ」
鴉天狗たちが去ってからも椛は悶絶していた。
「エ゛ェ」
胃からせり上がる内容物を喉で必死に押し留めていたが、もう限界だった。
すえたニオイが胸元に広がる。
「はぁ、はぁ、はぁ……ウグッ」
えずきは一回で終わらず、中身が完全に空っぽになるまで何度も続いた。
「良かった」
文たちの前で嘔吐するという醜態を晒さずにすんで、安堵する。
その場で大の字になって倒れこんだ。
(文さんには申し訳ないことをしたな)
心の底からそう思っていた。彼女に対しての恨みなど一切沸いてこなかった。
文が機転を利かせてくれなかったら、この程度では済まなかった。
最悪、あの人数から袋叩きにされていた可能性だってあった。
「腹なんか狙わずに、いっそ頭か心臓でも蹴飛ばしてくれれば良かったのに」
文が蹴った位置はヘソよりも少し上の位置、腹筋に守られた丈夫な部位だった
「なんでだろう、またココが痛い」
蹴られていないはずの胸に椛は手を当てた。
品評会を終えた天魔は、今日中に片付けなければならない仕事が残っていたため
懇親会には参加せず、自身の仕事場である書斎に戻ってきていた。
「さてと」
小さい天魔の背丈に合った特注の卓に向かい、子供用の筆を手に黙々と書を進める。
「……」
しばらく書に没頭していたが、気になって顔を上げ、書斎から見える庭の植木に向かい話しかけた。
「いるのはわかっておる、出てきたどうじゃ?」
「わ、わ、ご、ごめんなさい! 勝手に入ったりして!」
植木の陰からはたてが顔を出した。
「うおおっ! 本当にいよった!」
はたて以上に天魔は驚いていた。
「勘で言ったんですか?」
「いるかどうか半信半疑だったからのう、一応言っておこうと思ったのじゃが。それにしても天晴れな隠密性じゃな」
「引き篭もり歴、長いですから」
懇親会に参加したのは最初だけで、途中で抜けてここまでやって来た。
「もし良かったら隠密連隊へ推薦状を書くが?」
「遠慮します」
「冗談じゃ。ちとからかわせてもらった。まあ上がれ」
手招きしてはたてを招き入れる。
はたてが何か思い詰めていることは一目でわかったので、話しを聞いてやることにした。
「なるほどのう。犬走椛に白狼天狗について取材を申し込んだら、怒鳴られたと」
ことの顛末を打ち明けた。
話を聞き終えた天魔がうんうんと頷くと、頭の大きさに不釣りあいな頭襟がずり落ちそうになったので、はたては慌てて支えてやった。
「確かにアヤツにとって、山の過去というのは、一番思い出したくないことじゃろうな」
椛が古くからいる白狼天狗の一人であることを、天魔は知ってた。
「じゃあやっぱり私が…」
「されど怒鳴った椛にも非がある」
「でもそれは…」
何も知らなかった自分が招いたことだと思った。
「今この場で、無知が罪かどうかを議論するつもりは無い」
「あの、そんなに昔の白狼天狗差別って酷かったんですか?」
古い世代が意図的に隠していることもあり、多くの若い天狗が過去に白狼天狗がどんな扱いを受けていたのかを知らない。
「例えば今日の帰り道、儂が突然何者かに刺されたとしよう。それで息を引き取る間際に見えた犯人の顔が椛だったなら
『ならば仕方ないか』と納得しながら逝くじゃろうな。それくらいのことを儂らはしておる」
穏やかな表情でそう話す天魔を見ていると、むしろ、そうなる未来を望んでいるようにさえ見えた。
「思い出したくない過去だから、椛は取材を拒絶したんですね」
「今から言う話は儂の勝手な憶測じゃ、妄想と一蹴してくれて構わん」
そう前置きして話し始めた。
「差別というのは、菌に似ておる。どれだけ清めても決して消滅することはない」
完全に消えたように見えてその実、僅かに残っており。それがまた徐々に数を増やして周囲を汚染していく。
身分差別もそれと同じで、一度はなくなっても住む者の心に少しでも差別意識が残っていれば、時間をかけてまた復活する。
「『なぜ差別するのか?』という若者に対して『こういう理由で差別していた』と説明して、もしその若者が『なるほど』と納得してしまったらどうする?」
「それは…」
その者もいつか、同じ理由で白狼天狗を差別するようになるかもしれない。
「完全に差別を消したいのなら、白狼天狗が差別されていたという事実そのものを消してしまう他あるまい」
それはつまり、白狼天狗差別の詳細が書かれた文献を後世に残さないということ。
「お主ら若い世代が差別を知らないまま育ち、儂らのような年寄りが全員死に、白狼天狗を重度に差別していた連中が消えれば、一緒にこの悪しき風習も消えるじゃろうて」
そうなることを椛はそう望んでいる、というのが天魔の推論だった。
「でも椛はそれで良いんですか?」
確かに差別はなくなる。しかし虐げられていた歴史を消されて白狼天狗は納得するのだろうか。そんな疑問を抱く。
「最初に言うたであろう。これは儂の妄言だと。直接本人に会って話せば済む話じゃ」
「直接会って話す、椛と、あれ?」
椛のことを考えると、足がすくんでしまうことに今気づいた。
怒鳴られた事と今聞いた話が気後れを生み、彼女の足を震えさせていた。
「そうそう、白狼天狗差別を無くす方法がもう一つあるが、知りたいか?」
「もう一つ?」
「なに簡単じゃ。今まで虐げられていた貴奴らが叛乱を起こして、儂らを皆殺しにしてしまえば良い。この首が取れれば山は容易くひっくり返るぞ?」
意地悪い顔をしながら、自らの首に扇子を当てる。
「椛は絶対そんなことしないと思います」
「腹の底では何を思っているかわからんぞ? 所詮、お主らとは上辺だけの付き合いかもしれん」
普段なら和みを感じる幼げな声が、今はひどく不気味に感じられる。
「それでも、椛はそんなことしません」
これまで彼女と過ごした日々がそう断言させた。
山の大重鎮である天魔を一介の若造天狗が睨みつける。その場で粛清されても文句の言えない行為だった。
今この場に第三者の目があれば、間違いなく椛と同じ、否それ以上の目に会っていた。
もちろんそんなことは、はたてだって分かっている。それでも、友を侮辱した天魔への怒りが彼女をそうさせた。
しかし
「ふむ。そこまで信じられているなら、すぐに仲直りもできようぞ」
天魔は見た目相応の無邪気な笑顔を向けた。
「ほれ、さっさと行ってこい」
はたての足は震えていなかった。
椛は自宅に戻ってきていた。
吐瀉物で汚れた体を清め、新しい衣服を着て、ささくれだらけの縁側に腰掛ける。
(大天狗様から預かった勤務時間表、明日詰め所に持っていけば良いか)
気力がまったく湧いこず、動く気にもなれなくて、流れる雲をぼんやりと眺める。
「椛」
「・・・」
「ねえ椛」
「・・・」
「ねえってば」
「え、あ?」
いつの間にかはたてがすぐ目の前にいた。
「すみません、ぼーとしてました」
いつの間にか夕日が沈みかけていた。ずいぶんと長い時間呆けていたようだった。
「狭いところですが、あがってください」
あばら家と呼んで差し支えない家屋が椛の住居であった。
玄関を上がると囲炉裏があって、奥に調理をするための台所があるだけの、やや窮屈さを感じる内装となっている。
古い家ではあるが椛が小まめに掃除をしているため、中は清潔感に満ちていた。
「お茶、用意しますね」
慣れた手つきで木を擦り合わせて火種を作り、囲炉裏の中央に組まれた木っ端に火を移し、その上にヤカンを置く。
(良かった。まだある)
自分ひとりの時は決して飲むことのない来客用の茶葉が入った缶を開け、中身が残っていることに安堵する。
(そういえば)
お茶請けの菓子を切らしていることを思い出し、ガマ口のサイフを開ける。近所に菓子を売っている店があり、そこまで買いに行く必要があった。
(酒代をもう少しケチっておけば良かった)
残金は非常に心もとない額であったが、菓子程度なら問題なく買えそうだった。
「すみません、ちょっとだけ出掛けて…」
「ごめんなさい」
「え?」
突然の謝罪に椛は驚かされた。
囲炉裏の火に照らされているためなのか、はたての目が潤んで見えた。
「私が無神経だったばっかりに椛に嫌な思いさせて、本当にごめんなさい」
正座し、両手を床について頭を下げた。まごうことなき土下座だった。
「顔をあげてください!」
はたての両肩に手を添えて身を起こさせる。
「いけません、いくら他の目がないからとはいえ、鴉天狗様が白狼天狗などに頭を下げては」
「身分なんて関係ない。私が悪いと思ったから謝りたいの」
天魔はああ言ったが、全面的に自分に非があるような気がしてならなかった。
「どうか気に病まないでください」
「でも、それじゃあ」
「そうやってはたてさんが心を痛めるのが、私にとって何よりも辛いですから。それに、悪いのは私のほうですし」
「違う、椛は悪くない、悪いのは全部私」
「では、こうしましょうか? 喧嘩両成敗。どっちも悪くて、どっちも悪くない。万事解決、万歳三唱。はい拍手」
「「っ!?」」
縁側の方を見ると、風呂敷包みを持った文が立っていた。
「文さん、いつからそこに?」
「えーーと『最近、生理がこないの』のあたりから」
「一言も言ってませんよそんなこと」
どっこいしょと、文は縁側に腰を降ろす。
「すみません、私にもお茶をいただけますか?」
「すぐ用意します」
「あと甘いお菓子あります? 私、お茶だけだとクドくて飲めないんですよ」
「生憎と今切らしてまして、買って来るんでちょっと待っててください」
「ああ、ごめんなさい。白狼天狗さんの家にそんな嗜好品あるわけないですよね。いや~気が付かなくてすみません」
「ちょっと文!」
その振る舞いに怒り立ち上がったはたての胸に、文は自分のサイフを押し付けた。
「すみませんが、ひとっ走りして買ってきてくれます? 白狼天狗さんは鈍足なのであなたが代わりに」
「……」
このとき、はたては文の意思を汲み取った。
「何を買ってくればいいの?」
「そうですね、河童さんが川の清流で作った水まんじゅうが食べたいですね」
この場所から結構な距離がある店だった
「わかった」
「何個買うかはおまかせします」
下駄を履き、玄関を開けると全速力で飛んだ。二人が見えない位置まで来ると、速度を落としてゆっくりと向かった。
「すみませんね、色々と気を回していただいて」
「勘違いしないでください。私は純粋に水まんじゅうが食べたかっただけですから」
文は縁側から家に上がり、さっきまではたてが居た位置にドカリと座った。
囲炉裏を挟んでお互いに向かいあう。
「はたてから事情は概ね聞きました」
「そうですか」
懇親会の最初、運良く二人きりになれる時があり、ことの真相を知ることができた。
「私は謝りませんよ」
椛に視線は一切向けず、囲炉裏の火を見つめながら言った。
「それで結構です。あなたのしたことは最善だった、感謝こそすれ、恨む気など毛頭ありません」
その言葉に嘘偽りは無い。
「はたては悪くありません」
「わかってます」
「椛さんも悪くありません」
「文さんだって悪くありませんよ」
「・・・・・」
そこで会話が終わってしまい、沈黙が場を支配する。
熱かったお茶が飲みやすい温度に変わったころ、文の方がこの静寂を破った。
「そういえば『借り』まだ精算してなかったですね」
「なんのことです?」
「はたてに新聞作りを再開させるよう説得した時のこと、まだ覚えてます?」
「ああ、そのことですか」
新聞作りのサポートを引き受ける代わりに文に貸しを作ったのだ。
今の今まで忘れていた。
「その借りを、今払ってくれるんですか?」
「そうです」
「どうやって」
「おや、お忘れですか?」
文は立ち上がり、開かれていた縁側の戸を閉めた。
「最初に言いましたよね『お望みなら体で払う』って」
文は胸のボタンを外し始めた。
「はたてが戻ってくるまで、私の体を好きにして構いません。殴る蹴る斬る噛む犯す煮る焼く、なんだって構いません、どうぞご自由に」
シャツを脱ぎ捨てて、スカートを下ろす。
欲情して相手を誘う蟲惑的で艶かしい手つきではなく、作業のような淡々とした脱衣だった。
下着だけの姿になって椛の前で正座する。
「それが、あなたなりのケジメですか?」
「私は、私自身が納得するやり方を行使しているまでです」
「わかりました」
一歩、また一歩と焦らす様に文に近づく。手を伸ばせば顔に、足を上げれば腹に触れる距離までやってくる。
「本当に、後悔してないですか?」
「欠片も」
だからこそ、ここに来たときに椛を煽った。彼女に少しでも手心を加えさせないために。
「そうですか」
手を開閉し指をパキパキと鳴らしてから爪を立て、ゆっくりと近づけた。
爪の先端が頬に触れた瞬間、彼女の体が強張るのがわかった。
そこで椛は溜息を吐いた。
「服、直してください」
脱いだ服を放り渡す。
「何故ですか?」
「今ので借りは返してもらいました。そのお気持ちだけで十分です」
プライドの高い文がこんな屈辱的な姿を晒すのに、どれだけの覚悟が必要なのか椛には想像すらできない。
「それで私が納得するわけないでしょう」
「だからあえて何もしないんです。その方が文さんにとって堪えるでしょう?」
椛の言う通りだった。現に今、文の胸中を行き場の無い感情が渦巻き暴れまわっている。
「これでチャラです。もう今まで通り行きましょう。別に喧嘩してるわけじゃないんですから」
椛は笑う。いつか見せてくれた柔らかな優しい笑みだった。
「椛さん」
文の胸の内はその笑顔で鎮められていた。
「そうですね。私としたことがお恥ずかしい」
どれだけ弁が立とうと、彼女のこの笑顔には勝てないと観念する文だった。
「それじゃあ、改めて。ここからは両者合意の上ということで」
下着に手をかける文。
「いや、だからもう服を来てくださいよ」
「なっ!? 私にこんな格好をさせて何もしないとはどういう了見ですか!! 据え膳ですよ据え膳!」
「ああもうっ! 何で毎回こうも面倒くさいんですかあなたは!」
「ただいまー、水まんじゅう買ってきたよ」
「お、早かったですね」
「ありがとうございます」
声は奥の台所からだった。二人で何か料理をしているようだった。
「はたて、夕飯は椛さんの家で食べていきませんか?」
「いいの?」
「どうぞどうぞ。文さんが色々と持ってきてくれてますから」
文が持参していた風呂敷が開かれており、そこの中に食材や酒が詰め込まれていた。
「何手伝えばいい?」
「まだちょっとお酒が足りないみたいなんで、買ってきてくれますか? 私のサイフから出していいので」
「うん、一番良いの買ってくるね」
「あ、ちょっと待ってはたて! お得なやつ! お得なやつでお願いします!!」
先ほどよりも軽い足取りで、はたては下駄をはいた。
【 epilogue - half moon - 】
虫の音が止んだ深夜に、文は目を覚ました。
隣に酔い潰れて眠っているはたてがいる。自分にも彼女にも毛布がかけられていた。
(そっか、ここは椛さんの家)
三人で小さな宴会をしたのだ、それで酔いが回って寝てしまったらしい。
視線を回す。どうやら椛は家の中にいないようだった。
隣で眠るはたてを起こさぬよう細心の注意を払い、体を起こす。
(これは千載一遇のチャンス)
「何してるの?」
「ッ!!」
ふいに声を掛けられ、文の心臓が跳ね上がった。
はたてが目を擦っていた。
「どっか行くの?」
「ええ、ちょっとお手洗いに」
「そっち外だよ?」
縁側でするのか、という視線を向けられる。厠は玄関の隣にあった。
「おっとそうでした、寝ぼけてました」
「椛のトコに行く気だったんじゃない?」
図星だった。
「まさか夜這…」
はたての口を押さえつけた。
「ん゛ーん゛ー!」
「人聞きの悪いこと言わないでください。いいですか、今回の件で私と椛さんの仲は深まりました。そして月の綺麗な夜」
半分でありながら爛々と輝く月を見て、フッと文は笑う。
「こんなフラグ立ちまくりな状況で口説いたら、もう子作りイベント発生以外に考えられないでしょう? 断じて夜這いなどという無粋なことはしません」
「ん゛ーん゛ー!」
声にならない声で抗議する。
「邪魔をするのなら簀巻きにするまで。えーと何か紐みたいなものは」
「縄なら押入れにありますよ」
「ありがとうございま…す?」
二人は声がした方を見た、椛は屋根の上に座り月を眺めていた。
「どうも眠れなく、少し前からこうしてるんです」
文とはたては縁側に腰掛けて、椛は屋根の上で胡坐をかく。
お互い目は合わせず、半分欠けた月を見上げていた。
満月のように明るすぎず、新月のように暗すぎず。ただただ優しい光が三人を照らす。
千里先を見ることの出来る椛の瞳に、半分の月は如何様に映ったのか。
彼女はポツリポツリと幼い頃の思い出を語りだした。
「物心がついたばかりの頃でした。家の前で鞠をついて一人で遊んでいると、突然目の前に現れた天狗様に頬を打たれたんです」
なぜ叩かれたのかわからなかった。
「だから理由を問いました、すると『通行の邪魔である、白狼天狗ごときが道をふさぐとは何ごとか』と射殺すような目で言われました」
幼子はその言葉にますますワケがわからなくなる。
「すぐに私の両親がやってきました。私を助けに来てくれたのだと嬉しくなりました」
しかし、その期待は裏切られた。
「両親はひたすらその天狗様に頭を下げ続け、必死に許しを乞いはじめました。あげく私の髪をひっつかみ、地面に何度も額を打ち付けだしたのです」
椛は自分の胸の位置に手を当てた。
「その時、ここがすごく痛かったんです。打たれたのは頬と額のはずなのに、ここのほうがずっと」
文に蹴られた時も、腹ではなくこちらの方が痛んだ。これは古傷だった。
「怪我をしてしまった、大きな穴が空いてしまった、そう幼心に理解しました」
満月のようにまん丸な穴。
この穴が埋まることは、きっと一生無いのだろうと思った。
「顔を何度もぶつけられてボロボロになった私に両親は『運が良かった』と言ってくれました。無礼討ちされても文句がいえなかったことを私はしたのだそうです」
自分達はお上の気紛れで、簡単に摘み取られてしまう存在なのだとその歳ですでに知ってしまった。
「私は白狼天狗、あなた達は鴉天狗。忘れていたわけではありません、ただ、あなた方と一緒の時間を過ごすようになって、毎日が本当に楽しくて、
あなた達をとても身近に感じてしまい、それであんな失態を犯してしまったのだと思います」
「あれが失態?」
なぜあの程度のことで椛はあんな理不尽な目に遭わなければならないのか、はたてには理解できなかった。
「わからないで居てくれたほうが嬉しいです。これから先、はたてさんがずっと偉い地位に就いた時も、どうか理解できないままでいてください」
天魔の言っていたことが頭の片隅をよぎった。
「うん。約束する」
力強く頷いた。
「ありがとうございます」
「……」
文は必死に言葉を探していた。
普段、その気になれば何時間でも一人でしゃべり続けられるはずなのに、今ココで言うべき言葉が浮かばない。
多少の柔軟性は持っているものの、文は天狗社会の風習に凝り固まった、椛にとって忌避される天狗だと自覚している。
吐く言葉が彼女を不快にし、傷つけるかもしれないという思いが先行し思考は堂々巡りさせていた。
建前でも、おべっかでも、ご機嫌取りでもない。自分が真に伝えるべき言葉を考えに考え、ひたすらに考え抜いた。
時計を見たら数分、しかし文にとって那由他の彼方に思えるような時間。
それだけの労力を費やし、ようやく言葉を搾り出した。
「もう少しだけ、待っててくれませんか」
たったそれだけ、主語の無い簡素なもの。それだけを伝えるのが精一杯だった。
「わかりました」
椛もそれだけを返す。
長く組織に関わっている白狼天狗と鴉天狗。
二人にの間にしかわからない、暗号に近い会話だった。
椛は半月を仰ぐ。
「ああ、悔しいな」
かつて雲の上の存在だと思っていた鴉天狗が二人も、自分のために心を砕いてくれている。
「今夜が満月なら、狼らしく鳴くこともできたのに」
恨めしそうに、鈍い金色の光を放つ衛星を見つめる。
「こんな月じゃあ、遠吠えなんてできやしない」
俯き目を閉じて、そっと胸に手を当てる。
いつの間にか、さっきまで感じていた痛みが半分になっていた。
二人のお陰で心にあった穴が半分だけ埋まったような気がした。
「欠けたもう半分は、どこに行ってしまったのでしょうか?」
誰に言うわけでもなくそう漏らした。
残りの半分も、いつか埋まる日がくるのだろうか。
もしかしたら、ここから先は修復不可能な部分なのかもしれない。そんな焦燥感があった。
「光が当たってないだけです。無くなったように見えて、ちゃんとありますよ」
「しばらくしたらまた満月に戻るよ」
月のことを言っているのだと思い、二人はそう返答した。
「どうかしました?」
「鳩が豆鉄砲くらった顔してる」
目を丸くしている椛を見て二人は怪訝な顔をする。
「ああ、いや。その…」
恥ずかしそうに頭を掻いた。
「お二人の言うとおりだな、と思って」
歩くような速さで構わない。残りも少しずつ埋めていけたら。そう願う椛だった。
面白かった、というのはちょっとアレな種族差別のお話ですが、文字通り歩くような速さでも解決に向かうという事で希望が持てました。
続きが待ち遠しいですね。これからも楽しみにしてます!
ツッコミ所もあり楽しく読めました
椛とその理解者達の前途に幸あらんことを祈りながら次回シリーズもお待ちしています
なによりしっかり者の椛が頼りになりそうで安心感があって良い!
前半は突っ込みどころ満載だけども、後半は一転してシリアスに。
彼女らの行く道は険しくとも、ゆっくりと解決に向かっていくのでしょうなぁ…
みとり、デスクリムゾン、ドラえもん、3ゲットロボ、後わからん
相変わらずの読みやすさ、面白さ。はたたんもどんどん社会復帰していて大満足です!
ヒグマ「ドア見て溜めパン余裕でした」
ギャグも相変わらずのクオリティで面白かったです。
相変わらずの素敵な天狗ワールド。今回も楽しかったです。
後半を読みながら前半の仲のいい3人が脳裏に浮かんで非常に辛い気持ちになってきてこの正反対の話は別にするべきだったんじゃないかと何度も思いましたが、最後まで読んだところで逆にそれぞれの話の面白さ悲しさが引き立つんだなと思いました。
いよいよ本題に入ってきたこの話のラストでタイトルに込められた意味を気づかされ、上手く言えないけど感動しました。
この先のみんなの幸せを願って。
文とはたてが山のトップを取って、椛が2人を娶ればいいんだよ。
え? そう言う問題じゃないって? こりゃ失礼。
ダチョウ倶楽部の下りは『あ、この状況。やるかな? やるよね? やるか……やったー!』と何となくこちらが嬉しくなるようなお約束っぷりでした。古典的なギャグっていいですね。
でも、古いものが全部いいわけじゃなくて、天狗達はまだそれに悩まされているんですね。
でも、真に滅ぼすべきは思想ではなく、その思想から利益を汲み出している奴だと思います。
白狼天狗の差別が無くなるとデカい顔ができない、回想の中の天狗のような奴。
まあ、それが一番難しいんですけど……。
……青臭い事書いちゃったな。
あやはたもみチュッチュッ。
麻雀が異常に強い
血文字で薔薇って書ける←NEW
はたてマジ器用
口論で文に勝てない椛と、椛の笑顔に勝てない文。いい関係ですね。
プロローグの月を絡めた描写が美し過ぎです。
この三人なら、過去を乗り越える強さを持つことがきっと出来るんじゃないかなと思います。
大天狗様も好きです。
いや、結婚したいという意味じゃないけど。
流石ですなあなたは、コメディもギャグもシリアスも生臭い部分もなんでもできる。
楽しませていただきました
ギャグもシリアスも大満足です。
そして大天狗様結婚してください!
いやはやこれは次回も期待せざるを得ない
今回は比較的シリアス寄りですかね。椛が格好良すぎる! いつか憚り無く三人で肩を並べられる日が来てほしい。
はたてが白狼のことを取材しようとしたのは、ダブルスポイラーのコメが元ネタだったりして?
>>嬉し恥ずか朝帰りするのが
嬉し恥ずかし?
良いなぁ。
上手やわぁ…
酒瓶の首ネジ切ってらっぱ飲み大天狗姐さんマジかっけぇ
ギャグもそうだけど、こいつらならいい天狗社会に向かっていける気がする。
もちろんにとりも含めて好きな組み合わせです。
ヒグマレギュラー化まだですか?
やはりギャグとシリアスの混ぜ方が絶妙ですね。
続編を楽しみにしています!
嬉しい限りです。
そして、やっぱりいつ見ても素晴らしい文章ですね!
自分も貴方の様な作家になりたいです。
あやちゃんの言葉、迷った挙句の言葉がとても良かった
理解は服従や信仰や洗脳なのかも知れませんね